[不完全世界と魔法使いたちE 〜物語と終焉の魔法使い〜(下)]

[二つめの終わり]

 自室にいたハルは、クラクションの音に気づいて顔をあげた。
 窓の外には、見覚えのある車が停まっている。住宅地には不似あいな、無駄に無骨で無駄に頑丈そうな車だった。室寺蔵之丞の車である。
 緊急事態だということで室寺からの連絡があったのは、今朝のことだった。一応、学校にはいつも通りに出席し、放課後にはまっすぐ家に帰っている。その時間に、室寺が迎えにくるという話だったからだ。
 来理の誘拐や公園での件については、ハルは父親である宮藤恭介に説明をしていた。魔法のことに関しては知っているので問題はなかったが、恭介はさすがに渋い顔をした。どう考えても、子供が首を突っこむような案件ではない。
 けれどそれが、魔法に関係したものだというのも事実だった。
 だとすれば、魔法使いでない人間が口を挟める余地はあまり存在していない。そのことを、宮藤恭介は誰よりもよく知っていた。
 どこかの岩に閉じこめられた猿みたいに不承不承ではあったが、恭介はハルが自由にすることを許可した。危険を承知で公園まで来理の救出に向かうことも。
 ほかの三人がどうやって家族を説得したのかは、ハルは知らなかった。フユの母親はもういろいろなことを知っているし、ナツの両親にしても一度だけそのことに深く関わっている。三人の中ではアキが一番説明が大変そうだったが、ハルには何故か、彼女がそのことで苦労したという想像がつかないでいる。
 何にせよ、ハルは車がやって来るとすぐに玄関まで向かった。父親は仕事中で、まだ帰ってはいない。どんな事態が起こるにせよ、そのことについてきちんと説明することだけは約束していた。
 靴を履いて外に出ると、車のドアはもう開いていた。舞踏会に向かうにしては、いささか優雅さに欠ける馬車ではあったけれど。
 ハルが乗車すると、後部座席にはアキたち三人と、それから助手席には先日助けられたばかりの来理の姿があった。
「いったい、どこに行くんですか?」
 ハルは音を立ててドアを閉めながら、室寺に訊いた。
「さるやんごとなきお方の、お屋敷さ」
 と魔法使いの老婆にしてはやや筋骨隆々とした様子で、室寺は言った。

「――その鴻城希槻っていうのは、結局どういう人なんですか?」
 とアキは身を乗りだして訊いた。彼女は後部座席の、室寺のすぐ後ろに座っている。
「俺たちにも確かなことはわかっていない」
 室寺は前方に注意したまま、落ちついた声で答えた。
「例の結社のボスらしいこと、委員会に匹敵するくらいの魔法の知識があること……それくらいだ」
「あの人はおそらく、今生きている魔法使いの中では、一番古くから完全世界を求めている人物でしょうね」
 助手席から、来理が言った。とても静かな、夜中に降る雪のような声で。
「そんなに年寄りってことですか?」
 後ろから、ナツが確認するように訊く。「――ちょっと失礼な質問かもしれないですけど」
「いいえ、彼は老人というほどの歳ではないわ」来理は軽く笑いながら答えた。「少なくとも見ためには、壮年の男性と変わらない」
「歳をとらない?」
 フユが端的に質問する。
「どういう仕組みなのかは、私にもちょっとわからないわね。でも私が若い頃(もちろん私にもそういう頃があったのよ、と来理はナツのほうに向かって微笑む)彼に会ったのと、ついこのあいだ会った彼の姿は、少しも変わらなかったわ」
 おそらくはその中身も、と来理は心の中でだけつけ加えておく。
「自分の複製を作って転生みたいなことを繰り返している、とかっていうのは?」
 ナツは言って、けれど自分でもその意見にあまりぞっとしない顔をしている。
「さあ、どうかしら……」
 来理は難しそうに首を傾げた。あるいは、そんな魔法や魔術具も存在しているのかもしれなかったが。
 車は商店街の信号で停まった。その車は普通の犬の群れに一匹だけ大型犬が混じっているようで、多少目立っているようでもある。
「――でも、その人はもういなくなっちゃったんですよね?」
 と、アキが再び質問した。
「来理さんにかかってた魔法が解けちゃったんだから」
 それは運動公園からニニとサクヤの二人が去っていったあとにも言われたことだった。あの不可解な撤退からほどなくして、来理はそのことに気づいたのである。
「何かが起きたのは、間違いないでしょうね。ちょうど、額かどこかについていた印が消えたような感じがしたから……」
 来理はその時のことを思い出すようにして言った。
「うちの母親も、同じようなことを言っていたわね。鴻城希槻に何かあったんだろう、って」
 フユも同意する。彼女の母親である志条夕葵にも、〈悪魔試験〉はかけられていた。
「てことは、やっぱり死んじゃったんじゃ……」
 とアキはあまり穏当ではないと思いつつも、その単語を口にした。
「少なくともこれから向かう屋敷に、やつはいなかった」
 室寺はハンドルを握りながら、声だけで答える。
「そのことも含めて、これからいろいろと調べなきゃならん――」
 信号が変わって、車は発進した。室寺の車は躾のいい犬みたいに、まわりと速度をあわせている。どうやら、以前のアキの忠告に感じるところがあったらしい。
 しばらくして、道は閑静な住宅地に入っていた。道路を走るほかの車もいなくなって、海の少し深いところにでも入ったみたいに、急に時間の流れが変わっている。
「そういえば、体のほうは大丈夫なんですか?」
 と、ハルはふと気になっていたことを訊いた。室寺は感情をうかがわせない口調で答える。
「体のほうにそれほど問題はない。筋肉痛なんぞはあるが、そのうち回復するだろう。だがな――」
「だが?」ハルは首を傾げた。
「魔法の揺らぎが、うまく作れん」
 室寺は指の動かしかたでも確認するみたいに、何度か手を握ったり開いたりした。
「……それはやっぱり、公園でのことが?」
 当然、あの時のことが何らかの影響を及ぼしていると見るのが自然だろう。
「わからん」
 室寺は短く答えて、手を元に戻した。
「――ただ、魔法を限界以上に使いすぎたのは事実だ。ただでさえ不完全な、その魔法をな。あるいはそのせいで、俺の中の魔法的な何かが壊れたのかもしれんし、魔法の力そのものが失われてしまったのかもしれん」
「…………」
「それが元に戻るかどうかは、今のところ不明だ」
 室寺は明日の天気についてでも口にするみたいに、そう言った。

 六人は鴻城希槻の屋敷に到着すると、その中庭へ向かった。屋敷のその場所はどういうわけかひどく損傷している。落城したトロイアほどではないにせよ、ちょっとした神様が暴れまわった、というふうでもあった。
 その中庭では、二人の人物が待っていた。一人は千ヶ崎朝美、そしてもう一人は――
「何で、神坂先生がここにいるんですか?」
 アキはすっとんきょうな声を出した。
 そこには、アキの通う衣織学園の数学教師である神坂柊一郎の姿があった。おそらく学校の時と同じスーツ姿だったが、その姿はこの屋敷にいるほうがしっくり来ている感じがした。
「……室寺さん、あんた説明してくれてないのか?」
 神坂はちょっと苦々しげな表情でそちらのほうを見た。が、室寺は急に耳の調子が悪くなったとでもいうふうに、それを聞き流している。
「先生も委員会の人だったんですか?」
 アキはそんな二人には構わず、人なつっこい鳥みたいな様子で訊いた。
 二年前の学園での出来事に関して、アキはこの教師に対していくつかの推測を行っていた。魔法使いであること、何らかの秘密組織に属しているかもしれないこと。あの時は最後まではぐらかされるだけだったが、図らずもその推測はあたっていたらしい。
「いや、違う」
 けれど神坂は、首を振った。
「違うんですか?」
 アキはひどくがっかりした顔をしている。屋台で金魚を取り逃した子供みたいに。
「そうではなくて……」神坂はいささか面倒くさそうに説明をした。「俺は結社の協力者として、委員会のスパイをやっていた」
「結社――ということは、委員会の敵ってことじゃないんですか?」
 アキはちょっと混乱した。
「ああ、だが俺は委員会に内通していた」
「?」
「いわゆる、二重スパイというやつだ。はじめは結社に属していたが、途中から委員会に鞍替えした」
「……何だか複雑ですね」
 と、アキは感心していいのか呆れていいのか、よくわからない口調で行った。確かに、スパイ小説じみた話ではあった。
 神坂はしかし、そんなアキには構わずに子供たちの一人に顔を向けた。古い写真でも引っぱりだすような、どこか懐かしそうな様子をして。
「君が、宮藤晴だな?」
 声をかけられて、ハルは不思議そうな顔をする。
「そうですけど、確か面識はありませんよね?」
「ところが、俺のほうではあるんだよ。間接的にだがな」
 そんなふうに言われても、もちろんハルにわかるはずなどない。
「……昔、君が小学生だった頃、劇の脚本を書いたことがある」神坂はあっさりとネタばらしをした。「例の、魔法使いが出てくるやつのをな」
 言われて、ハルはようやくどういうことなのかを理解する。同時に、ちょっと複雑な表情で神坂のほうを見た。
「あなたは、知っててあれを書いたんですか?」
 神坂は芝居がかった仕草で、申し訳なさそうに肩をすくめてみせる。「――悪いが、そのとおりだ」
 だが実のところ、神坂が結社を裏切ったのはそれをきっかけにしてのことだった。完全世界を求めるということが、どういうことなのかを理解して。それはある意味では、この不完全世界そのものを破壊することでもあった。少なくとも神坂には、この世界に対してまだ未練を持つだけの理由が存在していた。
「道理で、あの劇がハル君に不評だったわけですよ」
 とアキが横から、うんうんとうなずいている。神坂を非難するような視線を向けながら。
「しかしお前たちも勝手に劇の最後を変えてしまったんだから」神坂は反省の感じられない態度で言った。「おあいこというところだろうな」
 それに対してアキが何か言いかえそうとするのを、室寺が押さえた。今は、そんなことをしている場合ではない。
「――その話はまた今度にしてくれ。今はこっちに見て欲しいものがある。特に、佐乃世さんにはな」
 室寺はそう言うと、全員を連れて中庭にある東屋へと向かった。さっきまでいた場所と比べて、そこに損傷らしい跡は一つもない。東屋に入ったところで、
「……何か壊れてますね」
 と、身も蓋もない表現だったが、ナツが的確な一言をはなった。
 そこには、粉々になったガラス片とおぼしきものが床一面に広がっていた。その下には、それとは関係なさそうな奇妙な座標計じみた装置が埋めこまれている。床の両脇には何かを支えていたらしい鉄棒が、光が降ってくるのでも待っているかのように突き立っていた。何かが壊れている、という以外に表現のしようがない。
「こいつは元々、大きなわっかのような形をしていたらしい。そこの鉄棒で支えるくらいのな」
 と室寺は説明した。あくまでそれは、推測でしかなかったが。
 ガラス片をじっとのぞきこんでいたフユは、けれどその言葉を聞いて何かに気づいたような顔をしている。何でもない模様が、本当は見なれたものだと気づくみたいに。
「もしかしたらこれ、うちの母親が作ったものかもしれないわね……」
 とフユは慎重に発言した。「昔、これとよく似たものを見たことがある気がする」
 もっとも、粉々になったガラス片はほとんど原型をとどめてはいなかったので、確言することはできなかったが。
「何にせよ、こいつは一種の通路になっていたらしい」と室寺が補足した。「完全世界までつながっている、な」
「別世界に行くための穴を開ける魔術具、ということですか? 空間をワープするみたいに」
 ハルは首を傾げるようにして訊いた。だとしたら、相当特殊な魔法といっていいだろう。
「そうだ――」
 と答えてから、室寺は一瞬はっとするような顔をした。今のハルの言葉と、それからフユの発言を考えて、室寺の中で何かの回路がつながる気配があった。それは六年前の、例の出来事とも直結している。
 だが、そのことについては言わないことにした。現状と直接の関係はなかったし、あくまで推論の域を出ないことでもある。それより今は、早急にとりかかるべきことがあった。
「こいつが何であるにせよ、佐乃世さんにまずお願いしたいことがあります」
 と言って、室寺は来理のほうを見た。
「ええ――」来理はわかっている、というふうにうなずく。「私の〈福音再生(マイスター・ワーク)〉が必要なのね」
 佐乃世来理の魔法〈福音再生〉は、壊れたものを元の形に修復する≠烽フだった。それは魔術具のような特殊な物品にも作用する。魔法管理者としては非常に有用な魔法といってよかった。ただし、この魔法が効果を及ぼすのは、あくまで無機的な物質にすぎない。
「実のところ、私がこのお屋敷に連れてこられたのも、同じ理由だったのよ」
 と来理はちょっと苦笑するように言った。
「同じ理由、ですか?」朝美が訊きかえす。
「そう、鴻城希槻もそうだったの。彼の場合は、試験運転のようなことをしたときに、ほんの少し傷がついてしまったという程度だったけれど」
「直せますか、こいつを?」
 室寺はあまり期待はできそうにない、という顔で訊いた。ジグソーパズルにしても、いくらかピースが多すぎる。
「時間はかかるでしょうけど、おそらくは……」
 ガラスの欠片を一つ拾いながら、来理は言った。そう、時間をかけさえすれば、元に戻すことはできる。それが何であるにせよ、生きてはいないものなら――
「……そうね、ここまで壊れてしまっていると、急いでも一週間というところかしら?」
 空模様を見る航海士みたいに、来理は言った。
「では申し訳ないですが、そのことについては佐乃世さんにお願いします」
 室寺は言ってから、全員のほうに向きなおった。
「――とりあえず、話を整理するためにもまず今回の首謀者について説明しておこう」
「首謀者?」アキが首を傾げる。
「あるいは犯人か、容疑者といってもいい」
 そう言って、室寺はにやりと笑った。例え名探偵になって事件を解決できなくとも、その説明役くらいなら十分にこなすことができるのだ。

 室寺以下、八人はそろって屋敷の一室に腰を落ちつけた。床が市松模様になったモダンな部屋で、客間らしい雰囲気をしている。膝丈の背の低いテーブルを囲んで、八人がそれぞれ席に着いた。室寺と朝美が両端に座り、三人ずつが向かいあった位置についている。
 もちろん八人の誰も、そこが本来の主人である鴻城たちのよく過ごしていた場所だとは知らない。住人を失った部屋は奥行きを欠いて、明るく射しこんでくる光さえ、どこかよそよそしい感じがした。
「お茶もお菓子もなくて悪いが、さっそくこいつを見てもらおう」
 室寺はそう言って、まずは朝美のほうに目配せした。朝美はうなずいて、机に置いたノートパソコンの画面をみなの見やすいほうへと動かす。
 そこには例の偵察機が最後に写した、牧葉清織の映像が示されていた。確認しやすいよう、顔だけを拡大した静止画にして表示してある。
「おそらくは、そいつが今回の事件の犯人と思われる、牧葉清織だ。神坂に確認したところ、本人に間違いないと言われた」
 室寺は淡々と、噛んで含めるように説明した。それから、画面が暗転するまでの過程が動画で再生される。
「――この屋敷はいくつかの魔法で保護されていたらしいが、それらはすべて解除されている。映像にも示されているとおり、やったのはもちろん牧葉清織だろう」
「魔法の解除は、どうやって?」
 フユはじっと画面を見つめながら訊いた。もちろんこの少女には、画面の男と奈義真太郎とのあいだにどんな関係があったのか、などということは知るよしもない。
「今のところ、方法は不明です」朝美が答えた。「魔法そのものを除去したのか、魔術具を破壊したかのどちらかと思われます。ちなみに牧葉清織の〈神聖筆記〉は、文字を書き換える魔法だそうです」
「文字を?」フユがもう一度訊く。
「魔法のワードプロセッサーというところですね。文字でさえあれば、肉筆でも印字でも、素材さえ問題にしないということです」
「……この人、こっちに気づいてませんか?」
 アキは難しい顔をして画面の人物をのぞきこんでいる。
「おそらく、そのとおりです」朝美は答えた。昨日の朝に、室寺ともその点については話しあっている。「ただ、どうやって撮影を察知したのかはわかっていません。偵察機にどんな処理を行ったのかも。何らかの魔法によるものだとは思われるのですが――」
「…………」
 ハルは説明を聞きながら、じっと画面をのぞきこんでいた。正確には、清織がその手に持っているらしい本のことを。そしてハルは、牧葉という名前のもう一人の女性のことについても思い出していた。
 それが何を意味しているのかは、まだわからなかったけれど――
「時間経過についても、整理しておこう」
 と、室寺は言った。
「この映像が撮影されたのは昼の遅く、まだ俺たちが公園で戦闘中の頃だ。ほどなく、車が一台通過するのが別の偵察機に捉えられている。屋敷の前に放置されていたのと同じものだから、鴻城の車と考えて間違いないだろう。それからしばらくして、ニニとサクヤの二人が俺たちの前から離脱した。おそらくその時に、鴻城に何らかの異変が起こったんだろう」
「屋敷にあった焼け跡のようなものは、そのことと関係があるのかしら?」
 来理はふと気になったように訊いた。少なくとも彼女がその日の最後に見たときには、屋敷におかしなところなどなかったのである。
「何とも言えんところですね」室寺は難しそうに言った。「何らかの戦闘があったと考えるのが妥当だが、それが誰と誰のものなのかはわからない。例の子供二人がここまで戻ってきたのなら、その二人と牧葉清織のあいだで何らかの衝突があったと考えるのは自然な流れだとは思えますが」
「というか、あの二人はここまで戻ってきたんですか?」
 アキが挙手をしてから質問する。
「残念ながら、偵察機には撮影されていません」朝美が返答した。「何しろ、地上しか映していませんでしたから。あの二人は上空を飛行していたでしょうし。ただ――」
「ただ?」ナツがうながす。
「これは鴻城希槻や牧葉清織にも言えることですが、あの二人が屋敷を出たことも確認できていません。周辺の偵察機には、何も映っていないからです」
「にもかかわらず、この屋敷には見てのとおり誰一人として残っていないわけだ」
 室寺は大げさに手を広げてみせた。カードを渡して、おかしなところがどこにもないことを確かめさせるみたいに。
「二人の人間がここにやって来たのは確実だ。それからもう二人も、おそらくは。ところが出てきた人間は一人もいない。一種の密室状態というわけだ。まあ、可能性としてはいろいろ考えられるが」
「それからもう一つ、気になることがあります」
 朝美はそう言って、パソコンをもう一度操作して全員のほうに向ける。
「時間的にはだいぶあとになりますが、別の車が一台この屋敷にやって来ているようです。この車だけは、出入りが確認できています。誰が、何をしに来たのかは不明ですが……」
 画面には、あまり特徴のない車が走り去っていくのが映しだされていた。車種くらいなら判別可能だが、ネームプレートなどは位置的に見える角度ではない。
「しかし何にしろ、状況的に見て牧葉清織が事の中心にいるのは間違いないだろう」
 室寺は、いったん話の流れをまとめるようにして言った。
「おそらく、やつは通路を使ってこの世界の外側に消えた。そして誰も追ってこられないよう、それを破壊した」
「――牧葉清織を向こう側に行かせないため、誰かがその前にあの魔術具を破壊した、というのはどうだ?」一応指摘はしておく、という感じで神坂は言った。「あるいは、佐乃世さんの修復後に何らかの理由で自然に壊れたということもありうる」
「今は最悪の事態を想定して行動するのが無難だろう。楽観的な可能性を排除する必要はないが、俺たちにはそんな暇は残っていないかもしれない」
 言われて、神坂は本の埃でも払うような仕草で肩をすくめる。そして、そのままページをめくるみたいにして続けた。
「では、その牧葉清織については一つ伝えておかなくちゃならんことがあるな」
「例の秋原尚典のことですか?」朝美がはっとしたように口を挟む。「ですが、あの話は、その――」
 何故か歯切れの悪い朝美に向かって、室寺は言った。
「牧葉清織のことについては、全員が知っておいたほうがいいだろう」
「ですがこれは、あまり中学生向けの話とは言えませんよ」
 朝美は抗議する。が、
「聞かせてください」
 と、ハルはそんな二人に向かって言った。
「その人のことについては、できるだけ多くのことを知っておいたほうがいいと思うんです」
 当人にそう言われて、朝美は口を噤むしかない。それでもまだ、札をめくるべきかどうかためらうようにではあったけれど。
「――秋原尚典という、鴻城に仕える執事のような老人がいた」
 神坂は朝美とは違って、ひどく淡々とした口調で話しはじめた。数学の簡単な証明を、生徒たちに説明していくみたいに。
「彼は魔法使いではなかったが、鴻城のもっとも信頼していた人物だった。多くの秘密も知っていたに違いない。その秋原尚典が死体で発見されたのが、例の日の昼頃の時間だ」
「……殺された、ということですか?」
 ナツは冷静に訊きつつも、少し緊張している。
「おそらくは、な」
 その曖昧な言いかたに、フユが顔をしかめた。「おそらく?」
「老人が発見されたのは、県庁の十九階にある展望ラウンジだ」神坂はあくまでも淡々としている。「その場所で彼は、内臓をそっくり抜き取られた状態で死んでいた。ただし、血は一滴も流れていない。消えた内臓がどこにいったのかも不明だ。体を切断されたような跡もなく、どうやって内臓だけを摘出したのかも――殺されたとすれば、かなり特殊な殺害方法ということになるだろう」
 一瞬、空気の隅々まで凍りつくような沈黙があった。部屋の外側まで、いくらか巻きこんで。
「目撃者によると、老人は直前まで誰かと話をしていたそうだ」神坂は加える。
「牧葉清織?」アキが短く質問した。
 うなずいて、神坂はやはり淡々と続ける。まるで、そうするのが正しいとでもいうように。
「牧葉清織と老人が話をしてしばらくした頃、牧葉清織のほうだけがその場を去っていった。老人はその前に、倒れるように座りこんだ。目撃者によると、二人は何か言い争いのようなことをしていたが、手を触れることもなかったそうだ。そのあと、老人の異変に気づいた目撃者が緊急通報した」
 前ほど温度の低くはない沈黙が、あたりを覆った。だが、話はこれで終わりではない。
「……その際、隊員の一人が置いてあったバッグに気づいたそうだ。おそらく、牧葉清織が持ってきたものだろう。そこに何が入っていたか、わかるか?」
 挑発するような神坂のもの言いに、朝美が判事みたいに注意をうながした。「神坂さん、できれば事実だけを簡潔にお願いします」
 了解した、というふうに神坂はうなずく。多少、皮肉っぽい感じではあったけれど。
「簡潔に言うと、バッグの中には秋原尚典の孫娘の首が入っていた。彼女の自宅では、その両親の死体も確認されている。彼女自身の胴体のほうも、な。頭部の切断面は、現実離れした鋭利さだったそうだ。鋏で紙を切るみたいに……それから、これは妙な話なんだが、首からは大量の出血があった。バッグから滲みだすほどの、な。ところが、その時まではどこにも血痕など見つかっていない。まるでそれまでは、首だけで生きていたとでもいうふうに――」
 沈黙の温度が、また下がったようでもある。
「その首というのは秋原さんを脅迫するために使われた、ということでいいんですか?」
 自分でもその発言にためらいながら、ハルは訊いた。
「状況的に考えて、そうだろうな」神坂は少し疲れたように息を吐いた。「俺の知っている範囲でいえば、牧葉清織はそういう人間だ。それが必要なことなら、彼はそれをやるだろう」
「わざわざ内臓を摘出したのは?」
 ナツはやや戸惑いながら、慎重に訊いた。その問いには、室寺が答えている。
「おそらくは、俺たちへの見せしめだろう。邪魔をするなら同じ目に遭う、そういう警告だ。何にせよ、相当やばい魔法の持ち主なのは間違いない。殺したのは、一種の慈悲のようなものだろう。言いたくはないが、これだけの目にあって秋原尚典がまともに生きていけたとは思えん」
 声にはならない深いため息のようなものが、部屋に満ちた。引力が変わって、海の水位が変化するみたいに。
「――最後にもう一つ、報告しておくことがある」
 と、室寺は言った。
「それって、いい知らせですか? それとも悪い知らせですか?」
 アキが警戒するように訊く。これまでの話にしても、相当なものはあったのだから。
「今のところ何とも言えん」と室寺は難しい顔をした。「ある意味ではいい知らせではあるし、ある意味では悪い知らせでもある」
「できれば簡潔にお願いします」
 ナツがちょっとため息をつくように言った。簡潔なのも考えものではあったけれど。
「つまり、だ」室寺は言った。「壁の拡大が停止した」
 一瞬、どう反応していいのかわからない沈黙があたりに降りてきた。月の軌道が一センチだけずれた、とでも言われたときのような。
「――それは、つまりどういうことなんですか?」
 代表して望遠鏡でものぞくように、ハルが訊いた。
「今、俺が言ったとおりだ」頼りない天文官は言う。「出現してから続いてきた魔法の壁の拡大が、一昨日から完全に停止した。ただし壁そのものは依然として健在だ」
「…………」
「原因は不明――だが、牧葉清織が向こうで何かしている、と考えて間違いはないだろうな」
 室寺は肩をすくめるようにして言った。
「そもそも、その牧葉清織っていうのは何をしようとしてるんです?」
 と、ナツが訊いた。
「…………」
 室寺は神坂のほうを見る。が、元二重スパイはあっけなく首を振った。
「そいつはわからん」
「じゃあ、あの壊れたわっかの向こう側ってどんな世界なんですか?」
 とアキが詰問でもするように訊いた。
「それも不明だ」神坂は弁解にしてはあっさりとした口調で言った。「そもそも、向こう側がどういう世界なのかを知っていたのは、鴻城希槻と一部の人間くらいだからな。完全世界を実現するための魔法、ということくらいしか俺にはわからん……」
 それじゃあ、とアキがなおも訊きかさねようとしたとき、不意に声がしている。

「そこからのことについては、我が説明しよう――」

 いきなり声がしたのは、ちょうど暖炉の手前からだった。見ると、そこには一人の少女が立っている。
 古典派絵画に登場するような、神秘的な雰囲気をした少女だった。額には朱印があって、雪にも似た白い髪をしている。古風なドレスを身にまとっていた。
 当然、八人は謎の少女の出現に慌てた。立ちあがって、すばやく距離をとる。何しろ、何の気配も予兆もなくそこに存在していたのである。白い手をした狼が侵入してきたどころの騒ぎではない。
「心配せずとも、我は敵ではない」
 けれど、少女はひどく落ちついた声で告げた。
「もっとも、味方というわけでもないがの」
 周囲の当惑をよそに、少女は当然のような顔でその場の全員を見渡している。
「――誰なんだ、あんたは?」
 室寺は最大限に警戒しながら訊いた。とりあえず、この少女がただの女の子でないことだけは確かである。
「我か、我はウティマじゃ」
 と少女は、いつぞや祖父江周作に対してしたのと同じ答えをした。
「ウティマ?」室寺はメモに書かれた読めない字でも眺めるように言った。「いったい、何者だ?」
「我は世界じゃ。お主らにもわかりやすく言うなら、世界≠ニいう魔法じゃな」
「……悪いが、もう少し噛み砕かずに説明してもらいたいんだがね」室寺は力なく首を振った。「どうも、わかりやすすぎたみたいだ」
「よかろう」
 と、ウティマは嫌がりもせず説明を続けた。
「お主らも知ってのとおり、つい先頃に完全世界が誕生した。正確には、つながったというべきじゃがの。だがこの不完全世界と完全世界が重なった以上、そこに巨大な揺らぎが発生するのは至極当然のことじゃ。その揺らぎは世界≠ニいう名の一つの巨大な魔術具によって、我を顕現させた。つまり、我は世界そのものなのじゃ」
 室寺はどんな表情を浮かべていいのかもわからないまま、首を振った。奇妙な化学実験でも見せられたときみたいに。目の前の少女が世界そのものだと言われても、簡単に信じられるわけがない。
「佐乃世さんは、何か知っていますか?」
 助け舟を求めるように、室寺は訊いた。
「私は百科事典ほど物知りじゃありませんからね」
 来理も困ったように首を振る。彼女だけは座ったままだった。が、それは単にすぐ動けなかったからにすぎない。
「立ち話もなんじゃから、お主らもイスにかけるがよかろう」
 と言いながら、ウティマは右手を持ちあげて指を鳴らした。
 一瞬、その場にいた全員が、動きと音に気をとられる。同時に、かすかな魔法の揺らぎが感じられた。
「――せっかくじゃから、お茶でも用意しての」
 ウティマがそう言ったとき、テーブルの上にはいつのまにか人数分のティーセットが用意されていた。各自にカップとソーサーが配られ、そこにはすでに紅茶が注がれている。白い湯気が立ち、もちろん香りも漂っていた。
 唖然とする八人を尻目に、ウティマはテーブルの中央に席をとった。そうして、白鳥が羽づくろいでもするみたいな優雅な仕草で紅茶に口をつける。
 まともに思考しても埒が明きそうになかったので、全員が大人しく席に着いた。「砂糖は銘々で好きなだけ入れるがよい」とウティマは言う。
「――あ、美味しい」
 アキはカップに口をつけて、素直に感想をもらした。実際には、それはかなり勇気のある行動だったが。
「こいつはいったい、どこから用意したんだ?」
 室寺は疑りぶかそうに手元の紅茶を眺めながら言った。今にも葉っぱか何かに変わってしまうんじゃないか、というふうに。
「世界というのは、お主たちの頭によって認識されるものじゃ」
 と、ウティマはのんびりとした様子で、ひどく迂遠な話をはじめた。
「物体を触知したとき、お主たちの手がその固さや形状、重さや温度といった情報を脳に送る。それらの統合が、物体の本質じゃ。じゃが、そこにはあくまで情報があるにすぎん。ならば、情報だけを頭に送ってやればどうなる? 当然じゃが、お主たちはそれを実在と信じる。というより、実在と情報、その二つを弁別することは原理的に不可能なのじゃ。そこに紅茶がある≠ニいう情報が完全に与えられれば、お主たちはそれが本物か幻か、区別することはできぬ」
「……つまり、このカップも紅茶も、まがいものだっていうのか?」
 室寺は憮然とした顔で言った。
「いや、これはこの屋敷にあったものを拝借しただけじゃ」
 とウティマは鈴でも鳴らすようにころころと笑った。
「じゃが、それを証明することは不可能だというだけの話じゃよ。さっき説明したとおりにの……このこと、何かに似ていると思わんか?」
 いたずらめいたその問いかけに、ハルが小さくつぶやいた。
「――魔法だ」
 その答えに、ウティマは目だけで微笑んでみせる。幼児がはじめて言葉を口にしたときみたいに。
「そうじゃ、魔法が組み変えておるのが現実か、情報か、その区別はできぬ。原理的にの……じゃが、これはただの戯言じゃ。そろそろ話を本題に戻すとしよう」
 余計なことを話しすぎた、とでもいうようにウティマは言った。
 八人はいったん腰を落ちつけなおし、互いの様子をうかがった。この中の誰一人として、事態を正確に把握できている人間はいない。濁った水の下でものぞきこむみたいに。
 だがともかく、室寺が代表して質問することになった。
「あんたはさっき、自分は敵でも味方でもないと言ったな?」
「うむ」
「あれは、どういう意味なんだ?」
「そのままの意味じゃよ」
 ウティマは何の衒いもなく答えた。
「我はただ、世界の行く末を見届けるために現れたにすぎん。その運命に干渉するつもりはない。ただし、それはできるだけ公平に決められなければならんがの」
「どういう意味だ、公平というのは?」
 訊かれて、ウティマはにやっと笑った。いたずらを見破られた子供のように。あるいは、それを仕かけようとする子供みたいに。
「神がサイコロを振るにしても、それはできるだけ偏りのないものであることが望ましいじゃろう? 世界がこのまま不完全であるにせよ、あの男の望む完全を実現するにせよ、どちらにしても。我はその調整に来たのじゃ」
 室寺は諦めるように首を振って、肩をすくめた。
「とんだ機械神(デウス・エクス・マキナ)だな」
「そう、我は決定するためでも、裁決するためでも、指示するために顕現したわけでもない」
 ウティマはまじめな顔で言った。
「我はただの傍観者なのじゃ。物語とその終焉を見届けるためだけの存在。だからすべては、お主たち次第じゃ。お主たちと、牧葉清織のあいだ次第でのこと――」

 ウティマの言葉を聞いて、八人は一様に押し黙った。世界は急にいくらか重くなったようでもある。それは、神様がどこかにサイコロを置いたぶんなのかも知れなかった。
「そんなわけじゃから、お主たちが知っておくべきことは我がここで教授しておいてやろう」
 と、ウティマは最初に告げたことを再び口にした。
「――ずいぶん気前のいい話だな」
 室寺はため息をつくように言った。実際、そんな気分でもある。ここで話を聞けば、サイコロの確率調整に利用されるのを了承するということでもあった。だが、手持ちの情報は十分とはいえない。
 敵でも味方でもなくとも、今はこの少女に頼らざるをえないのが実情だった。
「……まず、我のほうから少し話をしておこうかの」
 ウティマはちょっと考えながら言った。
「そこの庭で壊れているウロボロスの輪≠ノついて」
「ウロボロスの輪=H」室寺が首を傾げる。
「お主たちが希少系と呼んでおる魔術具の一種のことじゃ」
 ウティマは指先で、草についた朝露にでも触れるみたいにちょんと虚空を押した。するとテーブルの上に、手の平くらいの映像が浮かびあがっている。立体映像になったそれは、壊れる前の魔術具を示しているのだろう。今度は誰も驚いたりはしなかった。
「この魔術具は完全世界へ到るための通路になっておる。ただし、これが作られたのはごく最近の話じゃがの」
「魔術具って、作れるんですか?」
 アキが何気なく質問した。彼女の聞いたところでは、その制作方法は久しい以前に失われているはずだった。
「それを作るのは、それほど難しいことではない」言って、ウティマはナツのほうに視線を向ける。「例えば、そこの童(わらべ)の魔法を考えてみるとよい。何かに似ておるとは思わんか? そやつの魔法は既存の物品の再現に留まっておるが、その性質が少しでも異なっておればどうなる。魔術具を作れるじゃろう。つまり、魔術具を作るためにはその魔法があればよいのじゃ。ただしこれは、お主たちが普遍系と呼んでおるものに限られるがの」
「希少系は違うといういのか」
 室寺に訊かれ、ウティマはうむとうなずいた。彼女が立体映像に軽く手を触れると、映像は夜の星空めいた速さでゆっくりと回転をはじめる。
「こうしたものは、普遍系のものとは違って大量生産は不可能じゃ。何故なら――」ウティマは短く言葉を切ってから、言った。「希少系の魔術具には、魔法使いの魂が必要だからの」
 かたん、と音がして室寺は突然立ちあがっていた。今すぐにでもウティマに食ってかからんばかりの様子で。
「なら、なら――やはりそうなんだな?」
 室寺は自分を引き裂こうとでもするかのような声で言った。
「お主にとっては残念な話じゃがの」
 とウティマは気の毒そうに首肯する。
 室寺は呆然とするように魔術具の映像を見つめた。それはかつてよく知っていた人物の、変わりはてた姿でもあったのである。
「こいつは、新真幸雅の魂でできているということか――あの人の、空間に穴を開ける〈虚構機関〉で」
 最後につぶやくように言って、室寺は再び腰をおろした。その事実は、室寺がずっと抱えてきたものに終わりをもたらしていた。それが完成されたのか、破壊されたのかはわからなかったが。
「そう――」
 ウティマはあくまで淡々と、落ちついた声で続けた。
「これは、鴻城希槻が長年に渡って探しておった魔術具じゃ。床にあった完全世界への座標をあわせる部分と違って、そちらはもう失われてしまっておったからの。やつは古書を漁り、輪を復活させるための方法を調べあげた。そして、最近になってようやくそれは完成した……」
「そもそも、鴻城希槻は何のためにそんなものを必要としたんだ?」
 消沈した様子ながら、室寺は訊ねた。
「そのきっかけは、かれこれ百年以上前に遡るの」
 と言って、ウティマは鴻城と櫻のことを簡単に説明した。彼女が不治の病に冒されたこと、〈楽園童話〉による魔法、停止魔法≠ニその副作用、完全世界を求め、結社を作ったこと。
「あやつに完全世界のことを教示したのは、はるか海の彼方にある島国からやって来た男じゃ。完全世界にある完全魔法≠フことをの。その男はやつに種を渡した」
「種……?」
「言うなれば、それが完全魔法≠フ魔術具じゃ」
 ウティマはテーブルの上に浮かぶ映像を、ぴんと指で弾いた。途端に映像は粉々になって砕け、代わりに何か丸いものが出現する。奇妙な幾何学文様の刻まれたそれは、実際には球体ではなく正二十面体になっていた。
「じゃが、この魔術具はいささか特殊なものでの。植物と同じく土に埋められなければならん。ただしそれは、どこでもよいというわけではない。場所を選ぶのじゃ」
「それが、この天橋市だったと?」
「この町にほかの土地よりも比較的に大勢の魔法使いがおるのは、そのためじゃろうな。あるいは、完全魔法≠ノよる何らかの影響なのかもしれぬが……」
 ウティマは言って、続ける。
「完全魔法≠ヘ大地に埋められたあと、自ら完全世界を創りだし、そこに根を張る。そして植物と同じように、成長するのじゃ。完全世界と不完全世界の境界である壁が拡大するのは、そういう理由によっておる」
「だが今、それは停止している」
「うむ――」
 ウティマは少し難しい顔をして言った。
「牧葉清織が向こう側で何かをしておるようじゃが、いかんせんあちらのことは我にもよくわからなくての」
「――やはり、やつが鴻城希槻を?」
 室寺が慎重に訊くと、ウティマはいったん口を閉じて間を置いた。そしてカップを手に取って、これ以上は不可能なほど優雅に口をつける。すっかり冷めていたはずの紅茶からは、澄ました顔で白い湯気がのぼっていた。
「確かに、鴻城希槻を退けて向こう側へ渡ったのは、牧葉清織じゃ。あやつが鴻城を出しぬき、すべてを奪った。その際、あやつはソロモンの指輪≠熄渡されておる」
「何なんだ、そいつは?」
「完全世界の王たる証になる指輪じゃ」
 ウティマはすっ、と右手を示してみせた。その人さし指には本物と同形の指輪がはめられている。
「これがなければ完全魔法≠扱うことはできぬ。そしてこの魔術具は、自然を支配する圧倒的な攻撃力も秘めておる。ただしこの指輪は、本人の意志がなければ外すことができぬがの」
「鴻城がそんなものを持っていたなら、やつはどうやって勝つことができたんだ? そもそも、やつには〈悪魔試験〉がかかっていたはずだ」
 ウティマが音楽の指揮でもするみたいに軽く手を振ると、そこにはもう指輪も種もなくなっていた。
「牧葉清織は鴻城櫻を人質にとったのじゃ。それで鴻城の今までの苦労は泡と消えた。もっとも、それは十分すぎるくらいの泡ではあったがの――ただし、牧葉清織がどうやってそれを行ったかは、教えるわけにはいかんの。あやつが何をしようとしているのかも」
「何故だ?」
 室寺は顔をしかめた。
「それは公平さに欠けるというものだからじゃ。言ったとおり、我はお主らの敵でも味方でもないのだからの」
 ウティマはにべもなかった。
 小さな針穴から空気が少しだけもれるようにため息をついて、室寺はイスに深くもたれた。腕を組み、天を仰ぐように首を曲げる。
「――だが、一つだけ聞いておきたいことがある」
 と、室寺はやがて言った。釣り針にかかった雑魚でも見るような気のない顔で。
「その完全魔法≠ニやらは、いったいどんな魔術具なんだ?」
 質問に対して、ウティマは何の問題もなく返答した。
「完全魔法≠ヘ、すべての魔法を無限化する魔術具じゃ。この魔術具があれば、いかなる魔法の制限、制約も解除され、完全化する――世界そのものを自由にできるほどに、な」
 ウティマはそう、簡単に答えた。
 子供のために、絵本でも読みきかせてやるみたいに。

 一通りの話が終わってしまうと、世界は急速に静かになったようだった。今や、世界は魔法によって自由に組み変えが可能な状態なのだという。子供が積み木で遊ぶみたいに。そしてそれは、いつ起こってもおかしくない。
 そんな中で、ウティマだけが優雅に紅茶をすすっていた。
「――それで、俺たちはいったいどうするんです?」
 ナツはとりあえず蓋を開けて中身を確認するみたいにして訊いた。何にせよ、それを決めなければならない。
「追う……しか、ないだろうな」
 と、室寺は少し疲れた声で言った。どれほどの戦闘でも我を折らない男が、この話の展開にはいささか困惑しているようでもある。
「やつが世界をどうにかするのを、ただ黙って見ているわけにはいかない。例えそれで、世界が完全になるとしても、な」
「でも、その人がどんな魔法を使えて、何をしようとしてるのかもわからないんですよね?」
 アキがちょっと困ったように訊く。
「それに、室寺さんは現状では戦闘不可能なはずじゃ」
 とハルも戸惑うように言った。室寺が〈英雄礼讃〉を使えないとすれば、こちら側の戦力は存在しないも同じである。
「……何にせよ、俺たちは現在できることをやるしかない」
 室寺はちらっと、ウティマのほうを見た。が、もちろん世界そのものであり傍観者でもあるこの少女は、何の助言も口にすることはない。
「佐乃世さんがウロボロスの輪≠フ修復を完了次第、やつを追って完全世界へ向かう――!」
 どちらかといえば自分を鼓舞するように、室寺は言った。けれど、
「それはけっこうじゃがの――」
 とウティマが不意に口を挟んでいる。
「魔術具が復元できても、鍵がなければ向こう側には行けぬぞ」
「何だ、その鍵というのは?」
 出鼻をくじかれた形になって、室寺は不満そうな顔をした。
「我からはそれが何かは言えぬ。牧葉清織は独力でそれを見つけたのじゃからの。それでは公平を欠くというものじゃろう?」
 痛みいる、というふうに室寺は肩をすくめた。下手に天秤をあわせようとして、いつのまにか皿の上のものがなくなっていないことを祈るのみだった。
「これで問題が一つ増えたわけだ。天国の鍵なら、確かどこかの聖人に与えられたはずだが」
 室寺はうんざりした様子で言った。が、その時、不意に神坂が口を開いている。
「そのことについてなら、問題はない」
「何だと?」
「どうやらその鍵とかいうものは、もう持っているらしいんでね」
 神坂はそう言って、一枚の紙をテーブルの上に置いた。
「これは?」
 三つ折りになったそれを開きながら、室寺は訊いた。
「暗号だよ。そこの世界さんの言う、鍵についてのな」
「どこから、これを?」
 紙面に目を通しながら、室寺は言う。出自は信頼できるのか、という意味だ。
「牧葉澄花という少女からもらった。彼女は、牧葉清織の妹だ」
「何で、妹がそんなものを?」
 ナツがうさんくさそうに訊ねる。
「彼女の心は、俺には読めなくてな」
 神坂は苦笑気味に答えた。難解な数式の答えでも求められたみたいに。
「ただ、おそらくは本物だろう。俺も今まで、何のためのものなのかずっとわからずにいたが」
「ふむ――」
 と室寺はその紙をのぞきこんでいたが、やがて紙ひこうきでも放るように、それをテーブルの上に置いた。
 紙には、こんなふうに書かれている。

「Βρείτε τα τρία μάτια του δέντρου.
 12・9・8・6
 1‐72|10 / 551|D.C.720
 Α’|ΣΝΔ’|Ξ’|ΜΒ’|ΣΓ ’| ΦΑ’|ΤΟΘ ’|……」

「最初のは、『三本目の樹を探せ』というギリシャ語らしい」神坂はみなに向かって説明した。「ただ、あとの数字や記号のことはさっぱりわからん。おそらく暗号だろう、ということ以外にはな」
 当然ながら、その意味がわかる人間はその場には誰もいない。
「だが、こいつを解かないかぎり俺たちはやつに会うことさえ叶わないわけだ」
 室寺は嘆息するように深くイスにもたれた。
 どこかの厄介な結び目なら剣で叩き切ればいいだけだが、もちろんこれはそんなわけにはいかなかった。世界の支配者になるのも、なかなか難しい話ではあるらしい。

 いくら紙を眺めていたところで結び目がほどけるわけでもないので、室寺はイスから立ちあがった。この男は、ほかにもやらなければならないことを抱えている。天空を支えるほど厄介ではないにせよ。
「とりあえず、俺は委員会への報告やら事後処理をしなけりゃならん。もしかしたら、向こうから助言をもらえるかもしれんしな」
 あまり期待はしない様子で、室寺は言った。実際、名ばかりの会長はウティマのことさえ報告してはいないのである。
「その暗号については、お前たちに任す。それと、佐乃世さんは――」
「魔術具の修復ね」
 心得ている、というふうに来理は言った。
「ええ、できるだけ急いでもらえると助かります」
「……とりあえず、努力はしてみるわ」
 室寺は連絡のために部屋をあとにし、来理も中庭のほうへと移動した。その場には、子供たち四人に、神坂と朝美、それに高みの見物を宣言しているウティマだけが残っている。
「――暗号といっても、これだけだとどう解いていいのかわからないけど」
 ハルは何とかとっかかりをつかもうと、その文面に目をやった。暗闇で手探りをして明かりのスイッチを探すみたいに。
「最初の一文が何かのヒントになってるのかもな」
 ナツも頬杖をつきながら、とりとめなさそうに言った。
「神坂先生は、何か知らないんですか?」
 とアキは訊いた。この暗号を直接渡されたのは、この男である。が、神坂は簡単に首を振った。
「さっきも言ったとおり、俺はこいつを渡されただけでな。もちろん意味はわからん」
「……もうちょっと頼りになってもいいんじゃないですか?」
「期待にそえなくて申し訳ない」
 あまりそう思っているふうでもなく、神坂は言った。
「何しろ、このことについて調べていたのは、牧葉清織と鴻城希槻本人、透村操老人くらいのものだったからな」
 ああそうですか、というふうにアキはそっぽを向いた。やはり、この問題は何のヒントもなく解かなければならないらしい。
 けれど――
「透村操……?」
 と、ナツはつぶやいている。
 それは、どう考えても心あたりのある名前だった。三年ほど前、ナツはその老人の魔法によってずいぶんな騒ぎに巻きこまれたのだ。そのせいで、結社や委員会と関わりを持ち、ある少女を家に住まわせることになった。
 あの時、あの少女は何と言っていただろう――
「……オルゴールだ」
 と、ナツは思い出した。
「何のこと?」
 ナツのつぶやきに、隣のフユが不審そうな顔をする。
「確か、あいつがそんなことを言ってたはずなんだ。秘密だって言ってな。もしかしたらあれは、完全世界への鍵だというこの暗号と何か関係があるのかもしれない」
 ナツは真剣な顔で、その時の記憶を引っぱりだしながら言った。
「あの老人の孫ということなら、ありえるな」神坂はうなずいてみせる。「……だが、オルゴールとは何のことだ?」
 言われて、ナツは肩をすくめるしかない。
「さあ、そこまでは。何しろ予言の有効期間はもう過ぎてるみたいなんで」
 けれどその話の最中、アキは何事かをぶつぶつとつぶやいていた。
「鴻城希槻、遠くの島国から来た男、百年以上前、オルゴール……」
 何かが、アキの中でひっかかっていた。というより、今までずっと胸にわだかまっていた何かが、さらに深くまで沈んだ、という感じだった。息をとめて海に潜って、もう少しで底の砂地に手が届くというくらいまで。
「――そうだよ、博物館だ」
 買い物に頼まれていた食材でも思い出したみたいに、アキは言った。
「ねえハル君、覚えてるでしょ? 博物館だよ。鴻城って人は、きっとあの柏崎のことなんだよ」
「何のこと……?」
 急に言われても、ハルには何のことかわからなかった。
「もう、忘れちゃったの?」アキはひどくもどかしそうな表情を浮かべる。「ほら、わたしたち博物館に行ったでしょ。その時、オルゴールを聴いたし、鴻城って人のことも見てるんだよ。魔法の種を持ってきたって人のことも――」
 説明しながら自分でもちょっと無理があると思ったのか、アキはいったん口を閉ざした。そして少し考えてから、朝美のほうに向かって言う。
「あの、鴻城希槻って人の写真はありますか?」
「……どうして、そんなことを?」
 朝美はちょっと戸惑うような感じで訊きかえした。
「もしかしたらわたし、その人のことを知ってるかもしれないんです」
 もちろん、水奈瀬陽が鴻城希槻のことを知っているはずはなかった。二人のあいだに接点が存在するとは思えない。それは地球が木星のまわりをまわっているくらい、ありえないことだった。
 それでも、朝美はともかくその頼みを聞いてやることにする。パソコンを操作して、鴻城の写真を表示した。手元にある唯一の写真である。
 その画面を、アキはじっと見つめた。
「やっぱりそうだよ、ハル君も見たことあるでしょ?」
 と、アキはハルに呼びかけた。ハルもその写真を見て、確かに見覚えがあることに気づく。
 そう、それはつい一週間ほど前のことだった。二人は歴史博物館を訪れたのだ。そこでは、百数十年前に題材をとった特別企画展が行われ、写真も飾られていた。その写真と、現在画面に映しだされている人物は、どう見ても同一人物なのである。新月の闇に包まれたようなその風貌は、簡単に見間違えるものではない。
「……何のことなの、それ?」
 話についていけずに、フユが戸惑うように言った。ほかの人間にしても、反応は同様である。
「朝美さん、歴史博物館のホームページを開いてもらっていいですか?」
 順序立てて説明するため、アキはまずそのことを頼んだ。
 うなずいて、朝美は言われたとおりの操作をする。表示された公式ページから、アキは今回の特別展に関するところに移ってもらった。そうしてその中から、柏崎とシャムロック・L・ヘルンを並べた写真を見つけだす。
 そこにさきほどの鴻城希槻の写真を表示させ、みなのほうへと示した。
 白黒とカラーの違いはあったが、確かにそれは同一人物だった。古代のシンボルめいた特徴のあるその顔は、他人の空似ということはありそうもない。
「柏崎希槻が婿入りして、鴻城希槻になったというわけか」
 神坂は冷静にそう分析した。「――だが、それがどうしたというんだ?」
「ええと、だからあれですよ」
 アキはページを操作して、それを見つけだす。
「……オルゴールです」
 画面には、あの日二人が実際に見て音楽も聞いた、古いオルゴールの写真が載せられていた。表面には二本の樹を図案化した装飾が施されている。
「わたし、部活で調べものをしてたからよく覚えてたんです。だからオルゴールって言われたとき、これを思い出して。それに年代も、外国の人からもらったっていうのも、話としてはぴったりだったし」
「だが、これが問題のオルゴールだと――オルゴールが問題だとして、だが――何故、そんなふうに言える?」
 数学教師らしく、神坂は証明に厳密さを求めた。
 が、アキにはそんなものは通用しない。
「ほかにいったい、何があるっていうんですか?」
 身も蓋もない反駁に、神坂は口を閉ざしてしまった。どうやらこの少女には、ややこしい結び目も謎めいた神託も、ほとんど意味がないらしい。
「オルゴールはきっとこれで間違いありません。あとは実際に手にとって、調べてみるだけです」
 アキはそう宣言して、ナツのほうを見た。何故か、にっこりとした笑顔を浮かべて。

 ウティマをのぞく六人が、室寺の車に乗って歴史博物館へと向かった。問題のオルゴールを直接調べるためである。当然ながら、職員である久良野桐子に対しては、事前にナツから連絡をいれてあった。
 電話で話をしていたナツは、「……いや、それはいいから。とにかく、詳しいことは会って話すから、よろしく」と言って、ドアを無理に閉めるみたいに通話を切った。何となく、話の内容が想像されるようでもある。
 六人は博物館に着くと、すぐに受付けへと向かった。ハルとアキにすればここに来るのはそう久しぶりのことではなかったが、ひどく印象の質感が違っている。知らないうちに、絵の題名が変わってしまったみたいに。
 玄関ではすでに桐子が待っていて、横にあるロビーで話をするということだった。彼女はさすがに戸惑った様子で、事態をどうとらえていいのか迷っているようだった。集まった六人のうちには、千ヶ崎朝美の姿もある。
「――オルゴールについて調べたいということでしたが、いささか困っています。私は魔法使いじゃありませんし、話の事情についても完全に理解したとは言いがたいところです。しかも問題の品は寄贈品でもありますし、博物館で自由に扱っていいものでもありません。いくら可愛い息子が懇願してきたからといっても、そう簡単には許可しかねますが」
 懇願などしていない、とナツは言いたいところだったが、そんなやりとりをしている場合ではない。
「お話はもっともですが、これは緊急を要することです」
 と朝美は言って、桐子に対して一枚の名刺を渡した。
「どうしてもというのでしたら、そこにご連絡ください。不都合やご不満があれば、そちらのほうで処理させてもらいます」
 桐子は黙って、差しだされた名刺に目を通した。主に、その所属所管について。そうしてちょっと眼鏡を直したあと、どこかの蔵で発見された珍しい史料でも眺めるみたいに朝美のほうに視線を移した。
「――わかりました、とりあえず上司と相談してみます。そのあいだに、みなさんは目的の場所に移動してください。場所は……ハルくんとアキちゃんなら、わかるわよね?」
 言われて、二人はうなずく。それを確認すると、桐子は事務室かどこかへ向かって去っていった。六人は指示されたとおり、先にオルゴールのある特別展示室へと向かう。
 二階にある展示室には、人の姿はどこにもなかった。オルゴールの演奏は終わっていたし、閉館時間もそろそろ近づきつつある。空間をつなぎとめていた糸がほどけ、ばらばらになっていくような雰囲気だった。
「これが、問題のオルゴールというわけか?」
 机に置かれたそれを見て、神坂は言った。確かに、画像で見たのと同じものが存在している。
「だが、これがいったいどうしたというんだ? 三本目の樹はどこにある?」
 訊かれても、「さあ……」としかアキには答えようがない。外から見ただけでは、特におかしなところは見つけられなかった。
 やがて桐子がやって来て、上司の許可がおりたと報告する。オルゴールについて自由に調べてよい、ということだった。
「うちの館長、あの名刺を見せたら引っくり返りそうなくらい驚いてたわね。それこそ、達磨も二度と起きあがれそうにないくらい」
 と桐子は愉快そうに笑う。
「――で、あなたたちは何を知りたいわけ?」
 訊かれて、六人は顔を見あわせた。ともかく、まずはこのオルゴールが暗号の鍵になっていることを確定する必要がある。
「とりあえず、蓋を開けて中身を見せてもらって構いませんか?」
 と、朝美が慎重に考えながら発言した。
 了解、と言って桐子はオルゴールの蓋を開ける。中はガラス板で仕切られていて、その向こうに、真鍮色をしたシリンダーや各種の装置が組みこまれていた。ちょっとした金属の臓物、といったこところである。そうして蓋の裏側には、曲名を列記したらしい簡単なキャプションが貼りつけられていた。
 題名の一番目には、「The tree」と表記されている。
 六人は、ほぼ同時に顔を見あわせた。
「やっぱり、そうじゃないですか」
 とアキは勝ち誇ったように神坂のほうを見た。
「らしいな」神坂はオセロにでも負けたみたいに肩をすくめる。「蓋の表面に二本あって、これが三本目というわけだ」
 けれどそれは、多少皮肉な話でもあった。もともと、鴻城希槻は櫻のためにそれらを寄贈していたのである。彼女が目覚めたときにも、すべてが同じ状態であるように。しかしそれは、彼が最後まで解けなかった暗号の鍵でもあったのだった。
「これが暗号の鍵だとしても――」
 フユは五月踊りでもするような二人に対して、雪山の厳しさで言った。
「どこに差しこめばいいのかしら?」
 キャプションにあるほかの曲名に、特におかしなところは見あたらない。内部機構や、箱の形状、無数のピンが生えたシリンダーや、ピアノの鍵盤にあたる櫛歯についても同様だった。結び目はまだからまったままらしい。
「このオルゴールに、何か変わったところはありませんでしたか?」
 と、朝美は桐子に向かって訊ねてみた。
「展示の前に技師のかたにも見てもらいましたけど、別に気がつくようなことはなかったですね。高価な物ではあるけれど、オルゴールとしては一般的なものです。部品も、構造も、特に変わったところはありません――」
 桐子は難しい顔をしながら言う。
 実際、ハルとアキの二人はそれが演奏されるところも聴いていた。けれどその時にも、何も変わったことは感じられずにいる。これが鍵であることは間違いなさそうだったが、それはよほど特殊な形をしているらしい。
 そうして六人とも、オルゴールを前に考えこんでしまった。難解な神託について、あれこれ思いを巡らすみたいに。けれど大抵の場合、そうしたお告げは実際に事が起こってみないと意味のわからないものだった。
「どうも、手詰まりって感じだな」
 ナツは降参するように、ため息をついた。これ以上の思考は、両手をばたつかせて空を飛ぼうとするのに似ていた。
「……仕方ない、ここは専門家に任せるとしますか」
 しばらくして、アキはふとつぶやくように言った。
「専門家?」
 ハルが怪訝な顔をする。
「そう――」
 と、アキは指を立てて、ひどくまじめな顔で言った。
「暗号好きの乙女に、ね」

 日が暮れる少し前、来理は室寺に送られて自宅へと戻っていた。やはり魔術具の修復には時間がかかりそうなので、いったん必要なものを取りに帰ってきたのである。明日からはしばらくのあいだ、鴻城の屋敷で寝泊りすることになりそうだった。
 春の夕暮れはひどくぼんやりとして、夜と昼の境界が曖昧だった。ゆっくりと何かが降り積もっていくように、世界は徐々にその容態を変えつつある。
「……?」
 来理が扉に手をかけると、それには鍵がかかっていなかった。出かけるとき、確かに戸締りはしておいたはずではあったけれど――
 扉を開けて中に入ると、居間に明かりが灯っているのがわかった。薄暗い廊下に、キャンバスから絵の具がはみだすみたいにして光がもれている。誰かが、そこにいるようだった。心あたりはない。物盗りということもないだろうが、来理は警戒しながらそっと中をのぞいてみた。
 いつもと変わりのない居間には、誰かが一人で座っている。背中を向けているので、顔を確認することはできない。
 けれど――
「未名……」
 佐乃世来理にはそれが誰なのか、すぐにわかっていた。
 呼び声に反応して、彼女は向きを変える。それは間違いなく、宮藤未名だった。日向ぼっこでもするような温かなまなざし、柔らかな口元、少し癖のある髪。来理にとっては実の娘であり、ハルにとっては母親にあたる。かつてハルを生き返らせるために蘇生魔法≠使い、自分の命を犠牲にした女性――
 彼女は確かに未名の顔で、微笑んでみせた。たった今、世界で一番きれいなものを見つけたみたいに。
 けれど、来理はただ小さく首を振って黙っているだけだった。彼女はこの再会に喜ぶことも、驚くこともない。
 何故なら――
 宮藤未名は、もう死んでしまっていたからだ。来理の中で、ずっと以前に。それは頑丈な棺桶に入れられ、地の底深くへ沈められ、立派な墓標まで立てられていた。その一連の作業を、来理はもう済ませてあったのだ。ある種の契約書にサインするみたいに。
「……あなたは、未名じゃないわ」
 来理は月も星もない夜のような穏やかさで言った。
 彼女は返事をすることもなく、正体を現す。水面に立つ波紋のような揺らぎが起きると、そこには小さな少女の姿があった。家に侵入した彼女は、飾ってあった写真から未名の姿に変身していたのである。
「――何で、わかったの?」
 サクヤの口調は、まるでそれを咎めているかのようだった。
 その言葉に対して、来理は軽く首を振って答えている。
「あの子はもう、この世界のどこにもいない。私はただ、それを知っているだけのことよ」
「…………」
 サクヤは目を伏せるようにして、ちょっと黙った。
 けれどしばらくして、口を開く。まるでその言葉が現実を変えてしまうことを、恐れるみたいに。
「……ニニは死んだわ」
 来理はただ、うなずく。
「……牧葉清織のやつに殺されて」
 そこまで言ってから、サクヤはまた口を閉ざした。海に深く潜ったダイバーが、減圧症にかからないよう半分ずつ浮上を繰り返していくみたいに――
 少ししてから、来理は訊いてみた。
「どうして、あなたは私のところに来たのかしら?」
「……あんたたちは、あの牧葉清織のいるところに行くつもりなんでしょ」
 訊かれて、来理は一瞬困ったように黙ってしまう。サクヤが何を言うつもりなのか、わかってしまったから。
「だったら、あたしも連れていって。あいつだけは、このままにしておけない」
「……復讐、ということかしら」
 どうやら彼女の傷口からは、まだ生々しく血が流れ続けているようだった。致死量にも等しいほどの血が。おそらくそれを縫合してやることは、誰にもできないだろう。
「希槻さまがいなくなった以上、どの道あたしはいつか死ぬ。あの人の血を補給できなければ、ホムンクルスは長くは生きられないから」
 サクヤはそして、世界の最後を見とどけるようなかすかな微笑を浮かべて言った。
「それならあたしはせめて、あたしの心が望むことをしたい。少しでも人間らしく――」

 ――その樹は、完全世界の中心に聳えていた。
 巨大な幹を、天空の先端までのばしている。空を覆わんばかりのその威容は、地にあるものすべてを睥睨していた。無数の根を地上に生やしたその姿は、けれど宇宙樹というにはいささか優しすぎるようでもあった。淡い白色の花が枝いっぱいに咲き誇っているのは、どこか桜に似ている。
 その樹の根元に、牧葉清織は腰かけていた。複雑にからみあった根の一部に、具合よく平らになったところがあって、そこに座っている。傍らには、頭に白い花冠を戴せた牧葉澄花の姿があった。彼女は世界に耳を澄ましているような格好で、幹に背をもたれていた。まるで、夢が終わるのをじっと待っているかのように。
 清織はその場所で、ただ静かに本を読み続けていた。古い記憶の一つ一つを、丁寧に思い出すように。すべきことは、すでに終わっている。あとはただ、時間が経過するのを待っていればよかった。
 そうして牧葉清織が平和で静かで孤独なところにいるとき――

「なかなか、風流なものじゃの」

 と、いきなり声がしている。
 そこには、一人の少女が立っていた。少なくとも、外見はそうである。白い髪や古風なドレス、そもそもこの完全世界に何の前触れもなく出現している時点で、彼女が通常の存在でないことは明らかではあったけれど。
 清織は本のページをめくってみた。だがそこには、少女に関する記述が欠落している。彼を中心としたこの世界のすべてのことが、そこには書きこまれるはずだったというのに。
 本を閉じて、清織は草の地面へと足をおろした。少し離れたところに立っている少女のほうに向かって、数歩だけ近づく。澄花から離れすぎず、彼女を巻きこまずにすむ位置まで。
「――誰なんだ、君は?」
 小石を投げれば簡単にあてられるくらいの距離まで来ると、清織は訊いた。
「我か、我はウティマじゃ」
 少女はおなじみの自己紹介をする。敵意も、警戒も、含まれてはいない声で。
「……君のようなものの出現は、確かに予想されていたことだった。完全世界と不完全世界のあいだに生じた揺らぎ、それが世界≠ニいう魔法によって形象されたもの」
 と清織はつぶやくように言った。ウティマはほう、と感心した顔をする。
「ならば話が早いの。我がどういう存在か、お主にはわかっておるのだろうな?」
「そう――」
 清織はそっと、ピアノの鍵盤にでも触れるように手をのばした。
「君が世界そのものだというなら、僕の敵だ」
 そして、ソロモンの指輪≠ェ発動する。
 この世界で完全化されたその魔法は、以前とは比べものにならない力を発揮した。強大無比の揺らぎを作りだし、ウティマのいるあたり一帯を瞬時に氷づけにする。巨大な氷塊に閉じこめられた少女は、当然身動きすることなど叶わない。
 それを見て、清織はのばした右手を閉じた。何かを握りつぶすみたいに。
 途端に、氷塊は亀裂を生じ、轟音とともに崩れさった。白い冷気を断末魔のようにまき散らしつつ、粉々になった破片が地面に転がっていく。
 もちろんそれは、中の人間も同じことだ――
「乱暴なやつじゃの、お主は」
 けれどその声は、何事もなかったように聞こえていた。
 清織が振りむくと、少女は左手の位置に、さきほどまでと変わらぬ表情で立っていた。体には傷一つなく、服にさえ何の乱れもない。
「――まあ、それもわからんではないがの」
 ウティマは、砕け散った冷たい岩の塊を眺めながら言った。
「君は僕をとめにきたのか?」
 と、清織は特にどうという感情もない声で訊いた。相手は世界なのだ。この程度でどうにかなるとは思っていない。
「いや、そうではない」ウティマは静かに、清織のほうを向いた。「我はただ、お主に必要なことを教えにきたにすぎぬ」
「必要なこと?」
「それが、公平というものじゃろう」
 とウティマは何故か、愉快そうに笑ってみせた。
「何しろ我は世界なのじゃ。世界とは、誰にとっての敵でも、味方でもない」
 清織はじっと、ウティマのことを見つめる。その言葉の重さを正確に量ろうとするみたいに。だがこの少女の言うことは、おそらく真実なのだろう。
 世界とは、本質的にそういう場所なのだから――
「僕に教えることというのは何だ?」
 清織は訊いた。世界の書き換えは、まだ行われたわけではない。それまでには、どんな邪魔が入るかもわからなかった。
「わかっておるとは思うが、お主を追っている人間たちがおる」
 黙ったまま、清織はうなずいた。結社はすでに瓦解しただろうが、委員会は健在なのだ。
「その者たちは、遠からず輪を修復し、この世界へとやって来る。あの者たちにはまだ伝えてはおらんが、それは子供たちじゃ」
「子供たち……?」
「偏りなくサイコロを振るには、それが必要なのじゃよ」
 ウティマは何かの音にでも耳を澄ますみたいに、軽く目を閉じた。
「お主が完全世界を望むなら、天秤の向こう側には不完全世界を望む者たちを乗せねばならん。そしてそれができるのは、まだ完全な魔法を失ってはいない、子供たちしかおらんのじゃ」
「それで公平が保たれる、と?」
「少なくとも、天秤の釣りあいは取れるのじゃ」
 消えた音を探すように、ウティマは目を開いた。
「その結果がどうなるかは、我にもわからん。我の役目は決定でも、裁決でも、指示でもないからの。我は所詮、お主たちにとっての絶対でしかないのじゃ。ただの傍観者、観察しておるものにすぎんのじゃからな――」
 清織もウティマも、それからしばらく口を閉ざしている。氷塊は、もうほとんどが融けて形をなくしていた。冷気は風にまじり、ほとんど見わけがつかなくなっている。世界は常に、平均化されることを望んでいた。
「……君のことが、この本に書かれていないのは何故だ?」
 と、清織は一つ気になっていたことを訊いた。
「簡単なことじゃ」
 ウティマはケーキを切り分けでもするように気軽な声で言った。
「我は世界そのものじゃからの。いわば我はその本自身でもあるわけじゃ」
 そう言われて、けれど清織にはやはりわからなかった。右手を使って右手をつかむことはできない、ということだろうか。
「うむ、そうじゃの――」
 とウティマは少し考えてから、次のような説明を加えた。
「言うなれば、我は出版者なのじゃ。あるいは印刷機械、もっと下がって一本の鉛筆でもよい。つまり、物語という世界を存在せしめるのに必要不可欠の道具じゃ。それなくしてこの世界はありえぬ。その意味あいにおいて、我はお主の持つその本と同列の存在なのじゃ。作者であるお主が、そうであるようにの。だからお主の魔法では、我を捉えることはできぬ。平行線上に同じ一点が存在できぬようにの」
「…………」
「もちろん世界のすべてを書き換え、お主自身が世界となれば、話は別じゃ。そうなれば、もはや我は消えるじゃろう。お主と同列の存在は、どこにもいなくなる」
 氷も冷気も消え、世界は元の姿を取り戻していた。牧葉澄花は相変わらず、永遠に始まることのない夢の終わりを、じっと待ち続けていた。
「――その娘にかぶせておるのは、エウリュディケの花冠≠カゃの」
 と、不意にウティマが言った。
 牧葉澄花の頭に載せられているその花輪は、そういう名前で呼ばれる魔術具だった。この魔術具には、死者の腐敗を防ぎ、姿をとどめる効果がある。それは結城季早がかつて、事故で亡くした子供のために使っていた魔術具でもあった。
「お主はたった一人で、その娘と永遠にこの世界にあり続けるつもりなのかの? 死んだ世界の物語を読みながら」
 質問に、清織は返事もせずただ黙っているだけだった。
「もちろん、それは可能じゃろう。ソロモンの指輪≠ェあるかぎり、お主もまたこの世界では永遠の存在なのじゃから」
「…………」
 清織はしばらくして、かすかに表情をゆるめた。
 昼と夜が、移ろうように――
 季節が静かに、巡るように――
「――僕はほかのことを、何も望まなかった。ただ、それだけのことでしかないんだ。この不完全な世界を美しく死なせてやること。僕の望みは、それだけ。それは永遠に、変わることはない」
 完全世界の中心で、その王はそっとつぶやくように告げた。

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