[不完全世界と魔法使いたちE 〜物語と終焉の魔法使い〜(下)]

「もしも誰かが、何百万もの星のたった1つの星に咲く花を愛していたら、その人は星空を見るだけで幸せになれる。自分に向かってこう言える――『ぼくの花がどこかにある……』」

サンテグジュペリ『星の王子さま』(池澤 夏樹・訳)

[もう一つのプロローグ]

 ――彼は暗い夜の書斎で本を読んでいた。
 書斎といっても、厳密には彼のものではない。それはここに二人が来てから一年ほどで亡くなってしまった、ある老人の使っていたものだった。平屋の小さな家と同様、簡素で質朴な造りになっている。
 その部屋を使っているのは、今では彼一人だった。けれど老人がいなくなってからも、その配置はほとんど変わっていない。座卓の上の筆記用具の位置さえ。まるで、老人が明日にでも帰ってくるとでもいうように――
 蛍光灯の明かりは消されて、卓上ライトの光だけが暗闇に浮かんでいた。水道の蛇口をしぼったみたいに、時間はゆっくりと流れている。ようやく目を覚ました暗闇たちが、洞窟に住む小人のように部屋の隅からひっそりと様子をうかがっていた。
 不意に、襖をそっと叩く音が聞こえる。砂で作った城を静かに壊すような、そんな音だった。彼はゆっくり、顔をあげる。
「――入っていいよ」
 声をかけると遠慮がちに襖が開いて、彼女が姿を見せた。かつて小さな女の子だった頃とは違って、彼女も今では成長している。そのまなざしや面影は、あの頃と変わってはいなかったけれど。
「おにいちゃん、まだおきてるの?」
 彼女の声は不自然なほど幼く、頼りない感じがした。
「ああ、起きてるよ」
 彼はそのことに気づきながら、いつも通りに返事をする。
「わたし、うまくねむれなくて」彼女はきちんと靴紐を結べない子供みたいに言った。「だから、ほんをよんでもらってもいい――?」
 まるで、子供の要求だった。お化けが怖いから手をつないで欲しい、というような。少なくともそれは、彼女くらいの年齢の人間が言うことではない。
「いいよ、もちろん」
 彼はけれど、特に気にした様子もなくうなずいてやる。
 その言葉を聞いた途端、彼女はぱっと顔を輝かせた。絵本を抱えたまま、いそいそと部屋の中に入ってくる。襖が閉められると、まるで模様替えでもしてみたいに部屋の様子はさっきまでと違っていた。
 彼女は敷いてあった布団の上に寝ころがると、持っていた絵本をそこに置いた。そうすると、まるで絵本のほうでも早く読まれるのを待っているかのように見える。
 本を閉じると、彼は卓上ライトを持って彼女の横に座った。枕をどけて、絵本が見えやすい位置に明かりを置く。暗闇は礼儀正しく脇へと退き、その尻尾みたいな影だけがわずかに残っていた。
 彼は絵本の表紙に手をあて、そっとページをめくる。それは彼女が例の施設から持ちだした、唯一の所持品だった。施設で暮らしていた当時から、お気に入りの一冊だったものである。
 積み木をそっと積んでいくみたいに、彼は本を読みすすめていった。かつて子供の頃、そうしていたのと同じように。
 絵本の内容は、ある小さな星に一人ぼっちで住んでいる子供が、自分の名前を探しに旅に出る、というものだった。星にあった古いロケットを修理して、その子供は出発する。旅先では、その子供はいろいろな物事や人物と遭遇する。でもその子供は、自分の名前を見つけることはできない。そしてある時、自分がとても大切なことを最初の星に忘れてきてしまっていることに気づく。それが何なのかはわからなかったけれど、もう燃料が尽きて戻ることはできない。どこにも行けなくなった宇宙船は、最後に太陽の何千倍も大きな恒星の中へと突入する。
 船も体も燃えつきてしまうと、その子供は神様の前に立っている。その子供はすべてを思い出す。そして神様に向かって、一つの願いを叶えてもらう。その願いとは――
 ――絵本はそこで終わる。結末が存在しないのではない。一番終わりのページが破り捨てられているからだった。彼女はその内容を覚えていない。その子供が何を思い出して、どんな選択をするのかを。
 だから彼は、彼女のためにこんな話を作ってやる。
 その子供は神様に船と体を元に戻してもらい、始まりの星へと帰る旅に出る。今までの旅で、何が一番大切なことかがわかったから。そしてその子供は自分がもう、名前のない子供などではないことに気づく――
 彼が絵本を読み終える頃には、彼女はもう眠ってしまっていた。とてもきれいなものを、海の底深くに沈めるみたいに。
 その寝顔を確認してから、彼は音を立てないようにそっと絵本を閉じた。それから襖を開けて、彼女の体を両手で抱える。書斎から漏れる明かりを頼りにして、彼女の部屋へと向かった。廊下をほんの数歩あるくだけのその距離が、変に遠く感じられる。
 年頃の少女としてはひどく飾りけのないその部屋で、彼は彼女を布団に寝かせてやった。彼女はまだ、何も書かれていない白紙のページみたいな安定した眠りの中にある。
「…………」
 あの絵本の本当の結末を、彼は知っていた。施設にいた頃、何度も彼女に読んでやったその話を。
 でもそのページは、すでに破り捨てられていた。あの日の夜、彼の手によって。それをさせたのは、世界のほうではあったけれど。
 薄闇の中で、彼はまだ夢を見ることのない彼女の顔を見つめる。彼女の本当の笑顔を最後に見たのはいつだったろう、と彼は考えてみた。緑でいっぱいの白詰草の上に寝転んで、世界中の幸福がみんな集まってきたように笑う彼女。
 ただ、自分がそこにいることが――
 ただ、世界がそこにあることが――
 どうしようもないほど美しく、いとおしく思えるような笑顔。
 やがて彼女の顔に、かすかな苦痛の兆しが現れはじめる。星の巡りが乱れ、月の光が不吉さを帯びはじめるみたいに。何かが、彼女の魂を浸潤していく。
 彼は大切なものを土に埋めるようにそっと、彼女の額に手を触れた。そして、その頭の中にある文字のいくつかを書き換えていく。それは彼女を含めてまだ誰にも知られていない、彼の魔法のもう一つの使いかただった。ほんのささやかな、記憶の一部分だけを忘れさせてしまう魔法――
 少しして、彼女の顔からは苦痛の歪みが消えていった。どこかの危ない崖の縁から、誰かがさっと捕まえてくれたみたいに。
「……本当は、何もかも忘れてしまったほうがいいんだ」
 と、彼は誰にともなくつぶやいた。夜さえそれを聞きとれないような、静かな声で。
 この世界で彼が優しくなれるのは、彼女に対してだけだった。
 だからそれ以外のものに対して、彼はどれだけでも残酷になることができた。例えそれが、この世界そのものを今すぐに消してしまうようなことだったとしても――

 次の日の朝、彼女は何事もなかったかのように、いつもと同じ挨拶をした。
「おはよう、お兄ちゃん。今日もいい日になりそうだね」
 彼女の心は、もうとっくに壊れてしまっている。あの時、あの場所で。時計の歯車がいくつか欠けてしまったみたいに。
「ああ、そうだね」
 それを知りながら、彼は同じようにいつもの笑顔を浮かべる。そうすれば少しでも、時計の狂いを修正できるとでもいうふうに。
 彼女の記憶は、時々混濁する。仮留めされただけの時間と場所が剥離し、別の時間や場所と混ざってしまう。違う種類のパズルがいっしょくたになってしまったみたいに、彼女の記憶は不揃いのピースによって構成されていた。
 彼女は段々、壊れていく。それは確かなことだ。流星が、その身を砕きながら光を放つのと同じで。誰にも、それをとめることはできない。
 だから、こんな世界はもう終わらせるべきなのだ。それも、できるだけ美しく。この無意味で無価値な世界を。

 ――誰かが、この不完全な世界を美しく死なせてやるべきだった。
 
[一つめの終わり]

 屋敷を守護する魔法が消滅したことに、鴻城希槻は気づいた。信じられないことだったが、事実には違いない。
 鴻城は執務室をあとにして、すぐに出かける準備をした。この不意討ちがどの程度の致命傷になるかは、今のところわからなかった。
 だがそんな時にあっても、この男の心が動揺や焦燥、困惑や憤激に支配されるようなことはない。彼の心は完全に凍りついている。太陽の中心に放りこんだところで、決して融けることのないほどにまで。
 念のため、鴻城は秋原へ連絡を入れてみた。が、それさえ何故か通じない。真夜中だろうと早朝だろうと、一時間も前から電話がかかるのを待っていた、という声で答えるはずの男が。
 鴻城は車のエンジンを始動しながら、事態の重さをもう一度量りなおしている。それはよほど切迫し、緊急を要するようだった。百数十年という計画の根幹に関わるほどに。
 ニニとサクヤは現在、室寺蔵之丞と交戦中のはずだった。二人を呼び戻すわけにはいかない。将棋でいうなら、王の守りに金も銀もいない状態だった。
 そこまで考えてから、鴻城はふと現在起きている状況の首謀者が誰なのか、想像がつくような気がした。それはあの自分とよく似た、凍った心の男に違いない。
 屋敷をあとにすると、鴻城は法定速度をはるかに上回るスピードで車を走らせた。まわりの車は雀の子でも散らすように道を開ける。馬ならまだしも、竜巻や落石にわざわざ突っこんでいこうという人間はいない。
 鴻城は冷静以外の何ものでもない状態で走行を続けている。プロのドライバーですら、こうはいかないだろう。冷や汗どころか、心臓の鼓動一つ変えることはない。彼の心は完全に凍りついている。
 けれど――
 突然、何かが変わった。太陽が消滅してから、八分三十秒が経過したみたいに。世界のどこかで巨大な鐘が鳴らされ、耳には聞こえない、目には見えない震動が広がっていく。
 鴻城は危うく、カーブを曲がりそこねるところだった。ガードレールに銀色の傷跡を残し、走行車線に復帰する。踏みこんだ足をゆるめてアクセルを戻し、安全な速度まで減速した。
 心臓が乱雑に脈打ち、汗がじっとりと滲んでいる。
 危うく、死ぬところだった。
(……死ぬところだった、だと?)
 鴻城にとってそれは、久しく覚えたことのない感情だった。一度死んだ人間が、もう二度と死ぬことを心配しないのと同じで。
 けれど同時に、別の変化も確かに生じはじめていた。
 世界は急速に色づき、光を取り戻しつつある。強奪された花嫁が、半年だけ許されて地上へと戻るように。軽剽な老人が灰を振りまいて、季節外れの花を咲かせるように。
 誰かの見ていた幸せな夢の名残りを、鴻城は確かに感じていた。

 乱暴に車を停止させると、鴻城はすぐさま車内から飛びだした。屋敷に続く階段を、ほとんど一足飛びに駆けていく。
 この場所を隠すためにかけていた空間魔法=\―ミノスの迷宮≠ヘ完全に無効化されてしまっていた。世界の誤差範囲として隠されていた空間は、表側に現れている。外側に通じる壁が壊されてしまえば、そこはもう迷宮とは呼べない。
 鴻城は息を切らしながら、その部屋へと向かった。鼓動が、耳を中から塞ぐように圧し、自分の呼吸がひどく騒々しかった。まるで、生きているかのように。
 緑の庭を横目に、外廊下を走りぬけ、鴻城はその部屋へと向かった。
 そして心臓が一拍するだけの時間を待って、いつものとおりノックをしてからドアを開ける。
 ――そこには、彼女がいた。
 ずっと思い描いてきたのと、同じ表情を浮かべて。台座に腰かけ、鴻城櫻は時間通りにやって来た列車でも見つめるように落ちついていた。鴻城はあふれてくる感情を無理に押さえこみ、口元を強く噛みしめた。穴の空いた水道管を、布切れを使って塞いでしまうみたいに。
 部屋の中には、もう一人の人物が座っていた。それを見て、鴻城は皮肉っぽく笑う。その人物が想像通りの相手だったからだ。
「やはりお前だったか、清織――」
 イスに座っていた牧葉清織は、儀礼的に笑みを浮かべると、ゆっくり立ちあがった。
「この席にはあなたが座るべきでしょうね」
 と、清織は言った。その言葉通り、彼は二人のあいだから一歩距離を置く。
「――ふん」
 強がりではない笑みを、鴻城は浮かべた。
「お前に敗者を労わる心根があったとは驚きだな」
「敗者?」
 清織は同じ表情のまま首を傾げる。
「とぼけなくていい。お前がここにいるということが、すべてを表している。彼女の魔法を解いた、ということがな」
 そう言って、鴻城は勧められたとおりにイスに座った。
 目の前には、彼女の姿がある。凍りついた時間の中ではなく、温度を持った現実の時間の中に。その姿を見たからといって、彼女が冥界に連れ戻されるようなことはなかった。
 だが、鴻城にはいくつか聞いておくべきことがあった。
「――いったいお前はどんな魔法を使ったんだ、牧葉清織?」
 できるだけ皮肉っぽくなるように、鴻城は訊いた。「お前の魔法は、文字を書き換えるだけだと思っていたが……」
「書き換えたんですよ、文字を」
 そう言って、清織は手に持っていた本を示してみせる。
「世界が物語であるなら、それを書き換えてしまえばすべてのものを変えることができる――ごく単純な話です。それが魔法であるなら」
 二人は向かいあったまま話を続ける。
「だが、世界を物語化できるのはお前ではなく、牧葉澄花の魔法だったはずだ」
「そうです」
 清織はあっさり認めた。
「僕と澄花の魔法を別々に使っても、それは不可能でした。世界を変えることはできない。物語はあくまで、自分で書く必要がありました。そうでなくては、書き換えることに意味がなかったんです。人は原理的に、他人の物語を生きることはできない。書き換えられるのは、自分の物語だけです」
「お前のその話が本当だとして、だがいったいどうやって、物語の作者を自分に変更したというんだ?」
 質問に、清織はほんの少しだけ笑った。鏡の中の自分が、どうしても身動きできずにもがいているのを眺めるみたいに。
「そのための方法を教えてくれたのは、あなたなんですよ、鴻城さん」
「何だと?」
 鴻城はわずかに顔をしかめた。
「ウロボロスの輪≠完成させるために、あなたがあの憐れな新真幸雅(にいまゆきまさ)に何をしたか、覚えているでしょう?」
「…………」
「六年前、あなたは彼を捕獲するためにデパートの爆発事故を起こした。正確には、あなたがフロアを丸ごと爆破したんです。委員会の執行者である彼、新真幸雅の魔法〈虚構機関(エクリプス・タイム)〉を手に入れるために――」
 鴻城はやはり、黙って話を聞いている。
「そして結城季早のような魔法使いが現れるのを待つあいだ、彼を魔術具で生ける屍にして、ぼろぼろの肉体のまま魂だけが失われないようにした。彼の魔法を保存し続けるために」
「ほかにいい方法がなかったんでな」
 鴻城は軽く、肩をすくめてみせた。
「あの男を閉じこめておくのは不可能だった……だが、なるほど。お前はそれと同じことをしたというわけか」
 そう言って、鴻城はあらためて牧葉清織のことを見つめた。その魂が今、どんな形をしているのかを。目的はかなり違っていたが、それは鴻城自身のしたことと少しだけ似ていた。まったく、この青年は自分とよく似ている――
「俺の〈悪魔試験〉も、それで解いたというのか?」
 鴻城は訊いた。
「そうです。所詮あなたの魔法にしたところで、それは不完全なものでしかない。だから僕の魔法でも書き換えることができたんです」
「試しもしないうちに、そんな確証があったとでも?」
「もちろん、確証はありました。その前に実験してあったからです」
 清織は当然のことのように答える。
「実験、だと?」
 と、鴻城は疑わしげに訊いた。
「――ええ、そうです」
 清織はうなずいて、あとを続ける。
「奈義真太郎に関して僕が確かめたかったことは、二つありました。そのうちの一つは、あなたの〈悪魔試験〉を解除する方法です。何しろ完全世界を望まないようにする≠ニいうのは不可能でした。だから、あなたの魔法は別の魔法で解除可能なのか、を知ることが必須だった。そして彼の見つけた魔法によって、それが可能であることが確認できました」
「…………」
「もう一つ、それはあなたにかかっている魔法について知ることでした。銃で頭を撃ち抜かれても死なない理由について。つまり、鴻城櫻があなたにかけた魔法について――」
「そこまで調べていたとはな」
 鴻城は感心したように言う。
「あなたの過去に関するいくつかの記録が、そのことを示唆していました」清織は淡々とした口調のままで言う。「そして結局のところ、それがあなたにとっての一番の弱点であり――完全世界だったんです」
 鴻城は無言で、台座の上に座る彼女のことを見つめる。確かに、それは事実だった。牧葉清織の言うとおり、彼女が――鴻城櫻が彼にとってのすべてだった。百数十年も時間を停め続けてきたのは、そのためだったのだ。自分の心を凍りつかせてまで。
 けれど――
 それはもはや、はっきりと失敗に終わってしまっていたのだけれど。
「ああ、認めよう。確かにそのとおりだ」
 鴻城希槻は星の光を一つ、そっと吹き消しでもするように言った。
「彼女が俺にとっての完全世界だ。俺の魂は彼女とともにある。言葉通りにな。完全世界の樹を育ててきたのも、結社なんてものを作ったのも、元をただせば彼女のためだったと言っていい。だから、そうだ――俺は、俺の負けを認める」

 全面降伏を宣言したあと、鴻城は言った。
「――少し話をしてもいいんだろうな?」
 清織と向きあいながら、鴻城はちらっと、壊れやすいものにでも触れるように櫻のほうを見た。
「もちろん、構いません」
 と清織は言った。そしてしばらくのあいだは外に出ていることを告げる。彼の魔法がある以上は、もはや鴻城が無駄な抵抗をすることはなかった。
 部屋の扉が閉まる音がすると、あたりには急に静寂が舞い戻っている。自分たちの本来いるべき場所を、ふと思い出したかのように。
「…………」
 そして鴻城希槻はあらためて、櫻と向かいあった。
 彼女はごく自然な、昨日の時間が今日とつながっているような確かさで、そこにいた。例え永遠が経過したとしても褪せることのない、そんな笑顔を浮かべて。まるでその時間が、これからも続いていくかのように。
「お話は終わりましたか――?」
 と、櫻は軽くからかうように訊いた。いつまでも澄んだ余韻の残る、そんな声だった。
「ああ、大体のところはな」
 どこかぎこちなく、鴻城は答える。錆びついたネジをゆるめようとするみたいに。百年以上の時間を埋めるのは、そう簡単なことではなかった。
 櫻はそれに気づいたように、ちょっと言葉を切る。彼女はもちろん、彼が誰のためにそれだけの時間をすごしてきたのかを知っていた。
 時計の針を静かにあわせるような時間が、しばらく流れていった。夜と朝の境界が、次第に溶けていくのを眺めるみたいに。そこには何の物音も、気配もありはしなかったけれど。
 やがて鴻城は、体の中に残っていた最後の時間の一欠片を吐きだすように、ふっと笑いながら言った。
「すまなかったな、こんな結果になってしまって」
「ええ、まったく――」
 と櫻はおかしそうに笑った。
「やつからどれくらいのことを聞いた?」
 鴻城は確認のために訊いた。やつというのはもちろん、牧葉清織のことを指している。
「大体のことは、すべて」
「そうか――」
 と鴻城は子供が拗ねて不服そうにするみたいに、ちょっと鼻を鳴らした。
「とんだお笑い種だ。これまで散々時間をかけて、どうでもいい苦労をして、それがこのざまなんだからな。俺はやつのために、せっせと蜂蜜を貯めこんでやっていたようなものだ。間抜けなクマに横取りされるためにな」
「あなたは昔からそうです。賢くて抜けめがないようでいて、肝心なところでは何か忘れている。人を驚かせておいて、自分でも結局驚いたりして」
 櫻は慰めようともせず、いたずらっぽく笑う。
「――起きたばかりだというのに、お前は変わらん」
 拾った石の意外な重さを持てあましでもするように、鴻城は苦笑した。
「それは、あなただってそうじゃありませんか?」
 櫻はにこっとして笑う。その名前のとおり、桜の花が開くみたいに。
 二人の時間は、もうすっかり同じになっていた。百数十年という時間を、わずか数分で飛びこえて。どんなに古い本でも、ページをめくりさえすればいつでも同じ物語が繰り返されるみたいに――
「お前にはずいぶん待たせてしまったな。悪かった」
 鴻城は心底から詫びるようにして、そう言った。
「ええ、まったく――」と櫻は笑って言う。「私の夢は、あなたの可愛い奥さんになることだったんですけどね」
「……すまんな、何もしてやれなくて」
 鴻城は反論もせずに、ほんの少しだけうなだれた。
 それを見て、櫻は引きだしにしまっておいた大切なものを取りだすみたいに、そっと笑った。
「でも、私は待たされてなんかはいませんよ。何しろ、私の魂はずっとあなたといっしょにいたんですから……」
 そう、それは事実だった。
 鴻城櫻の魔法〈楽園童話(オールド・エデン)〉――
 それは相手の魂を預かることで、対象者を不死状態にする≠ニいうものだった。彼女に魂を預けているあいだ、その人間は銃で頭を撃ち抜かれようが、刀で体を膾にされようが、決して死ぬことはない。だが、もしも彼女の身に何らかの危害が加えられれば、自動的に同じ運命を迎えることになる。
 その魔法が、鴻城希槻にはかけられていた。ただし本来なら、〈楽園童話〉に相手を不老にするような効果は存在しない。
 鴻城の状態は、停止魔法≠ノよる副産物だった。櫻を含めて自分の魂ごと凍りつかせてしまうことで、肉体の時間経過がストップしたのである。
 ――同時に、その心の動きも。
 鴻城希槻にとっての世界は、その時からほとんど無意味な出来事の山積でしかなくなっていた。水はその冷たさを失い、風はその柔らかさを失い、光はその輝きを失った。本の文字がすっかり薄れて、まるで読めなくなってしまうのと同じで。
 宇宙の暗闇で自分の座標を失ってしまえば、世界は容易にその方向を消滅させる。それと同じで、心という定点を失ってしまえば、記憶や人格といった精神は簡単に崩壊する。
 そんな状態を、彼は百年以上も続けてきた。
 地獄に落ちた古い王は、転がり落ちる岩を虚しく山の頂まで運び続けた。そこには少なくとも苦しみや絶望があったが、鴻城希槻にはそれさえない。凍りついた心には何も感じられない。
 それでも、彼にはそれを続けなくてはならない理由があった。
 鴻城櫻は現在でいうところの末期癌に冒されていた。癌は全身に転移して、すでに手の施しようがない。火事の勢いが強すぎて、建物が焼け落ちるのを待つしかないみたいに。停止魔法≠かけたのは、そのためだった。
 病気の治療法は当時も、そして現在にも存在しない。
 だから鴻城希槻には完全魔法(オリジン)≠フ魔術具が必要だった。百年以上も前のその時代、はるか彼方にある島国からやって来た男が、それを作るための方法を教えてくれた。完全魔法≠フ核となる種子と、その利用手段を記した断片的な書物を譲って。その男自身は、ほどなく亡くなってしまったが。
 以来、鴻城はそれを顕現させるためだけに存在し続けることになる。
 だから、彼女を人質に取られた時点で、すべては決まっていたのだ。それは本質的にも現実的にも彼の魂そのものであり、すべてだった。それこそが、彼にとっての完全世界だった。例え自分の魂の最後の一欠片までを犠牲にしたとしても、それを失うわけにはいかなかった。
 あるいは、世界そのものを犠牲にしたとしても。
「――体のほうは大丈夫なのか?」
 と、鴻城はできるだけさりげない調子で訊いた。こうして見るぶんにはわからなかったが、彼女の体は健康である部分のほうが少ない。
「たった一時間や二時間で死ぬというわけじゃありませんよ」
 そう言って櫻は笑った。例えどれだけの痛みや苦しみがあったとしても、彼女がそれを表面に現すことはないだろう。
「それより、何だか浦島太郎にでもなった気分です」
 櫻は言って、玉手箱がないのが不思議だとでもいうふうにあたりを見まわした。
「この部屋こそ何も変わっていませんけど、あなたの格好や、さっきの人だって……聞けば、ずいぶんいろいろなことがあったみたいですね?」
「ああ、何しろ月に人が立つくらいだからな」
「まるでお伽噺――」
 櫻はくすっと笑った。
「それで、お月さまにウサギはいたんですか?」
「いや、あれはただの冷たい石の塊だ」
「夢のない話ですね」櫻は不満そうな顔をする。
「何しろ、夢にも見たくないような戦争が何度もあったからな」鴻城はやや重い感じのため息をついて言った。「馬鹿どもに、この町に手を出さないよう交渉する必要もあった」
 そのため息の重さで、櫻には鴻城がどれくらいの苦労をしてこの場所を――自分を守ってきたのかを理解することができた。魔法をかけなおすためにも、鴻城は一日たりともこの場所を離れるわけにはいかなかったはずである。
「――いったい、あなたはどれだけの時間を私のために捧げてくれたんですか?」
 櫻はほんの少し、うつむくようにして言った。
 それがどれだけの時間なのかを、彼女は誰よりもよく知っていたから。
 凍りついたその心では、それは知りもしない文字を書き写すような毎日のはずだった。終わることのない物語の、その最後までを。
 彼はただ、約束を守るためだけにその行為を行っていた。例え、何百年という時間が経過しようとも動き続ける機械みたいに。その造り主が、機械の意味を忘れてしまったとしても。
「……さあな、そんなことは覚えちゃいない」
 と、鴻城はうそぶく。
 櫻は激しくかぶりを振って、唇をかみしめながら鴻城のことを見つめた。まっすぐ、もっとも短い距離を結んで。
「もう十分です、希槻――」
 彼女は今にも泣いてしまいそうな顔で、けれど声だけはしっかりとして言った。
「だが、俺は結局お前を救えなかった」
 鴻城は自分自身を今にも殴りつけんばかりに言った。
「そのことだけを望んでいたというのに。それだけが、俺の完全世界だったというのに――!」
「いいえ、ちゃんと救ってくれましたよ、あなたは」
 鴻城櫻はとてもとても静かに、星の光が水面に落ちるように言った。そして、続ける。まるで、その一言だけで何もかもが片づいてしまうみたいに。
「希槻。こんな私のために、ありがとう――」
 鴻城は――
 百数十年ものあいだ読めもしない本をただ眺めていたような男は――
 それだけで、すべてが救われるような気がした。もしかしたら、それこそが完全世界であったかのように。
 自分で気づきもしないうちに、鴻城は一滴(しずく)だけ涙を流していた。融けた氷に対して、それはあまりに少ない量ではあったが、少なくとも彼の心の状態を示してはいた。例えそれが、どんなにわずかな印だったとしても。
 櫻は黙って、その涙を拭ってやった。まるで、鏡に映った自分の顔に触れるみたいに。
「お前が泣かなくてよかった」
 と、鴻城は嬰児のようにされるがままになりながら言った。
「……お前には、涙は似あわんからな」
 言われて、櫻はにっこりと笑う。
「私は、嬉しいときには泣きませんよ」
 二人の魂は確かに、同じ場所に存在している――

 鴻城は部屋の外に出て、清織のところへ向かった。最後に、いくつかの質問と確認をするためである。牧葉清織は春の陽射しのもとで、ひどく平和そうに庭を眺めていた。
「――ここまでのことがわかっている以上、あの暗号についても解読はすんでいるんだろうな?」
 と、鴻城は声をかけた。まるで、試験でもするような口ぶりで。
「もちろんです」
 清織は振りむいて、うなずく。もうとっくに書き終わった解答用紙を提出するみたいに。
「あの暗号の鍵については、あなたには伏せておくよう細工をしましたから。透村老人から読みとった記憶、それから僕自身の記憶を操作して――」
「ふん」
 と鴻城はこざかしそうに笑う。
「お前のことだ、それくらいはするだろう。まったく、退屈しないですむやつだよ」
 少しだけ、二人のあいだで時間が流れた。最後の扉の鍵を清織が所持している以上、鴻城が質問することはあと一つしかなかった。
「いったい、お前はどんな完全世界を手に入れるつもりなんだ?」
 そう――
 牧葉清織はすでに、ある意味では完全世界に等しいものを自ら放棄してしまっていた。そのうえで、いったいどんな世界を望むというのか。
「僕が望んでいるものを、あなたや結社のほかの人間とはまるで違うものです」
「だろうな――」
 鴻城は軽く肩をすくめてみせる。
「それは例えば、あなたが美乃原咲夜の魔法を利用して行おうとしたこととは、ほとんど関係のないものです。何かを取り戻すことや、何かが失われないようにすることとは」
「なら、お前は何を望む?」
 訊かれて、清織は答えた。何の迷いも、逡巡もなく。光が常に絶対速度をたもっているのと同等の確かさで。
「――僕の望みは、この世界を美しく死なせてやることです」
 その発言を、鴻城はただ黙って受けとめる。完全世界というにはあまりに殺伐とした、救いのないその言葉を。手の平の上で、その重さを十分に量りながら。
「それが、お前にとっての完全世界だというのか?」
 言葉はなく、清織はただ小さくうなずくだけだった。
 鴻城は、この男には珍しくため息をつくように力なく首を振った。鉄やダイヤの固さをはるかに越えるほどの意志を持ったこの男にしても、牧葉清織の言動をどうすることもできない。
「――まあいい、お前は俺ではないし、俺もお前ではないんだからな」
 どこにもはまることのないパズルのピースを、鴻城はあっさりと投げ捨てた。
「だが一つだけ、お前も知らないことを教えておいてやろう」
「何です?」
「牧葉澄花のことだ」
「…………」
 一瞬よりも短い時間に、清織は口を閉じた。
「お前は、彼女にも俺の〈悪魔試験〉がかかっていると思っていたんだろうな?」
 言われて、清織はかすかに顔をしかめる。それを見て、鴻城はにやっと笑った。図星だとわかったからだ。
「しかし、そいつは違うのさ。彼女は俺の試験に落第しなかった。つまり、見事合格した。それがどういうことなのか、お前にはわかるな? 牧葉澄花は、完全世界を望んではいなかった。これでわかっただろう。俺が何故、お前を使い続けてきたのか。その本当の理由について――」
 そこまで言うと、鴻城は少し言葉を切って、皮肉っぽい調子をやや落として続けた。
「魔法が失敗したせいで、俺は彼女に逆らうことができなかった。つまるところ、お前に危害を加えることはできなかった。お前が俺に対してそうであったようにな」
「…………」
「一種の三すくみだ。お前は俺に、俺は彼女に逆らえない。そして彼女はそれをお前に秘密にしていた。俺は彼女の本当の望みをあてなくてはならなかったが、それはわからなかった。もちろん、今でもな。ある意味では、俺はお前にではなく、牧葉澄花に敗れたともいえる。完全世界を望まなかった、彼女に――」
 その話を聞いても、清織の表情に変化はなかった。確かに、それは清織の知らないことだった。彼女が決して完全世界を望まなかった、ということは。
 けれど――
 だからといって、彼の望みそのものが変わるわけではなかった。牧葉澄花が本当は何を願っていたとしても、彼の望みそのものは。
「……どうやら、お前の望みは変わらんらしいな」
 鴻城はやや疲れた声で言った。夕陽が夜に溶けていくのを憐れむような、そんな声で。
「だがどちらにせよ、俺たちには関係のないことだ。近似値にしかすぎないとはいえ、俺たちはもう十分に完全世界を手に入れた。百年以上の時間をかけてな」
 そう言ってから、鴻城は右手の人さし指にはめていた指輪を抜きとった。銀に似た鈍い輝きを放つ、奇妙な造形をした指輪である。
「こいつはお前にくれてやる」
 放り投げられたそれを、清織は無造作に受けとった。
「そのソロモンの指輪≠ノついても、もちろん知っているんだろうな?」
 清織は黙ったまま、うなずく。
「なら、これでお前が完全世界の王だ」鴻城はごく簡単に禅譲を宣言した。「そこでせいぜい、お前の望みをはたすがいい――」

 それだけの話が終わると、二人は鴻城櫻の待つ例の部屋へと戻っていった。
 ――もはや、すべてが終わる頃だったのである。
 鴻城はそっと彼女の手をとると、床に立たせてやった。
「俺たちの時間は、もうここで終わりだ」
 と、鴻城は静かに告げた。
「ええ、わかってます」
 櫻は軽く微笑んで言う。それは正確には、終わりではなく到着を意味していたから――
「……すまなかったな、本当に」
 最後に、鴻城はやはり彼女のことを慈しむように言った。その言葉を聞いて、櫻は泣きそうな顔で笑う。誕生日に、一番欲しいものをもらった少女みたいに。
「やっぱり、あなたは変わりませんね……」
 そう言って、櫻は鴻城にそっとよりそった。鴻城は彼女を、軽く抱きしめてやる。
 歳月というにはあまりに長い時間のはてにたどり着いた、それが二人の終着点だった。眠り姫の魔法が解けたようには、その運命が望まれる結末を迎えることはなかったけれど。
 二人はただ言葉もなく、二つの影を重ねるみたいにお互いの形を確かめあっていた。
 その、魂の形を――
 やがて二人を中心に、魔法の揺らぎが起こりはじめる。
 それが百年以上という魔術具の長期の使用による副作用だったのかどうかはわからない。ほかの何らかの原因だったのかも。何しろ、再現実験を行うにはあまりに時間のかかることだったから。
 ただ、それから何が起こったのかははっきりとしていた。
 今まで停まっていた時間が急に動きだすみたいにして、二人の存在は塵になりはじめていた。体の輪郭が徐々に薄くなって崩れ、着ている物も含めて何もない空間へと溶けていく。まるで、燃えつきた灰のように。
 あるいは――
 散りはじめた、桜のように。
 二人の体がすっかり消えてなくなるのに、たいした時間はかからなかった。その存在がすべて、何の痕跡も残すことなく失われてしまうのには。
「…………」
 清織はただじっと、最後までそれを見とどけている。
 もしかしたら、彼の魔法でならその現象をとめることができるのかもしれなかった。時計の針を少しいじるように、百年という時間をなかったことにするのは。あるいは、鴻城櫻の体からその病巣をすべて除去するようなことは。
 けれど――
 牧葉清織に、その資格はなかった。二人の完全世界に干渉する権利など、誰も持ってはいない。
 例えそれが、神様のような存在だったとしても。
 清織は鴻城から受けとった指輪を、同じように右手の人さし指にはめた。その指輪はもう、彼自身が放棄しなければ外れることはない。もし指輪を簒奪しようとするなら、その者は王殺しを行わなければならなかった。
「僕は、僕の望みを叶えることにしますよ、鴻城さん――」
 まるでそれがはなむけの言葉であるかのように、清織は二人のいた場所に向かってそっとつぶやいた。

 ニニとサクヤの二人は、上空を飛びながらはっきりと異変を感じとっていた。自分の知らない体の一部が死んでいくような、そんな感じである。
 それがただの勘のようなものなのか、ホムンクルスとしての魔法的なつながりによるものなのかはわからない。
 ただ――
 鴻城希槻に何かがあったことだけは、確かだった。
 空に近づいたぶんだけ、風は冷たく、容赦なく吹きつけてきた。気位の高い人々が、物事に対して冷笑的になるみたいに。
 けれどホムンクルスである二人には、それは何の問題もないことだった。肺が氷りつくことも、寒さで四肢が麻痺することもない。古代の迂闊な少年のように、翼の蝋が溶けだすこともなかった。
 やがて二人の眼下では、本来閉じられているはずの空間が露出しているのが確認された。何かの傷跡にも似た感じで、ミノスの迷宮≠ェ破れられているのが。
「屋敷を守っていた魔法がなくなってる――!」
 ニニは、感情の薄いこの少年には珍しく、狼狽した声をあげた。
 その手がつかんだ先で、サクヤも笛の音に似た甲高い鳴き声をあげる。巨大な翼を一打ちして、二人は屋敷のあるその場所へと急いだ。

 庭園にある西洋風の東屋で、清織はあるものを点検していた。
 列柱に囲まれた円形の東屋には、そのスペースのほとんどを使ってある魔術具が設置されていた。ウロボロスの輪≠ニ呼ばれるもので、正確には二つの装置から成っている。
 床面にはホロスコープにも似た感じで一種の座標を表示する器械が埋めこまれ、それは少し前からある地点を指し示していた。その器械の上には、人が一人楽に通れるくらいの円形の輪が置かれている。両脇から支えをあてて、床面からはわずかにだけ浮かせてあった。近づいてみると、虹色をしたその不思議な材質がガラスなのだということがわかる。
 この一組の魔術具を使えば、完全世界へと到達することができた。だが鴻城希槻はそのための最後の鍵を見つけることができなかったため、そこに行くことはできなかった。どんなに小さな一歩でも、月に降りなければ刻むことはできない。
 そして清織はすでに、そのための鍵を手にしていた。
 あとは、その鍵を使って扉を開き、完全世界へと向かうだけだった。そこで、清織は自分の望みを叶えることができる。
 ただ、この世界に残った最後の用事をすませるために、清織は少しだけ時間を待つ必要があった。
 そうして、装置に何の問題もないらしいことを確認しているときのことである――
 上空から巨大な鳥のはばたくような音が聞こえ、かすかにだが清織のいる東屋にも風が流れてきた。何かが、すぐそこまでやって来たのだ。
 清織がその空間をあとにすると、そこにはちょうど二人の子供が到着したところだった。象ほどもある怪鳥の足から手を離して、ニニがまず地面へと着地する。次いで、波紋のような揺らぎを残して変身を解くと、サクヤも地面に飛びおりた。
 二人のうち、ニニのほうはすぐに清織のことに気づいてそちらを向く。サクヤは水面から急いで顔を出すような勢いで、例の部屋の扉を開けて中へと入っていった。
「――いない、二人ともいないよ。ニニ!」
 部屋の中からは、叫ぶようなサクヤの声が聞こえる。
 そのあいだも、ニニは清織のほうから目をそらそうとはしない。
「…………」
 清織はかすかに微笑んで、持っていた本を開く。念のため、いくつかの記述を書き換えておく必要がありそうだった。
「希槻さまも櫻さまも、どこにもいない……確かに、ここにいるはずなのに!」
 ニニのところに戻ってくると、サクヤは迷子の女の子が助けを求めるみたいにして言った。
「牧葉清織――」
 と、ニニは清織のことを睨みつけるようにして言った。声こそ普段と変わりはなかったが、サクヤにはこの少年が恐いくらい怒っているのがよくわかった。
「どうしてお前がここにいる?」
 そう言われて、けれど清織は落ちついている。窓の向こうの雨でも眺めるみたいに。
「知ってのとおり、僕は完全世界を求めている」
 清織はただ、それだけで十分だろうというふうに答えた。
「お二人はどこに行った?」
「鴻城希槻と鴻城櫻なら、もうこの世に存在しない」
「お前が、希槻さまを……?」
 ニニは声を落として質問する。そう訊くことさえ堪えがたい、というふうに。けれど、
「正確には違うが、そう言っていいだろう」
 と清織はあくまで平然としていた。
 その時――
 ニニの中で、何かが壊れた。
 おそらくそれは、とても大切なもののはずだった。誰もがそれを知っている。普通なら誰かが、それをどう呼ぶのかを教えてくれる。この世界に存在するうえで、足場にも手がかりにもなりうるもの。
 でもそれが何なのかを知る前に、ニニの中からそれは失われてしまっていた。
 失って、もう二度と取り戻すことはできない――
「――ああ、ああぁ」
 この世界に存在してからはじめて、ニニはそれを知った。自分が失った、名前も知らないもののことを。
 だから、ニニは今ようやく――
 本当の感情が自分の中に起こるのを感じた。
「ボクはお前を許さないぞ、牧葉清織!」
 そう叫んで、ニニは正確無比に清織の頭部めがけて〈迷宮残響〉による一撃を放つ。
 直撃すれば、脳震盪か脳挫傷を引き起こす威力である。そしてニニの知るかぎり、牧葉清織にそれを防ぐような手段はない。
 けれど――
 放たれた振動による一撃は、清織の手前で何か別のものにぶつかりでもしたように四散してしまう。大部分の衝撃波は消滅して、わずかな残滓が風になって草花を揺らしたにすぎない。
「どうして――?」
 ニニはあっけにとられたように、固まってしまった。魔法は十分な威力をもって飛んだはずである。
「波の干渉、というやつだよ」
 清織は簡単な講義でもするような声で言った。
「二つの波を重ねあわせると、その状態は各波の変位の和によって表される。つまり、同形の地点では大きく、山と谷では小さくなる。そのため、ある波に対して逆の位相になるような波をぶつけてやれば、それを打ち消すことができる――僕がやったのは、それと同じことでしかない」
 説明されて、ニニは首を振った。問題なのは、そんなことではない。
「どうして、そんなことが起こるっていうんだ?」
「僕がこの辺の空間に対してそういう記述をしたからだよ」
 清織は簡単なメモでも読みあげるように言った。
「頭部を正確に狙ったのなら、たいしたものだ。けど、どこを狙っても同じでしかない。君の〈迷宮残響〉についてはすでにわかっている。もしも僕を殺したいなら、直接触れるしかない。だが――」清織は残念そうに微笑む。「それは、無理だけどね」
 そして彼は、その右手をニニのほうへと向けた。より正確には、その右手にはめられた指輪を。
 ソロモンの指輪
 それがどういう魔術具なのかを、ニニは知っていた。いや――本当の使いかたについては知らなかったが、それでどんなことができるのかは知っている。かつて鴻城希槻が実演して見せてくれたように。
 その魔術具がどれだけ強力な兵器なのか、ということは――
「――!」
 ニニはとっさに、前方の空間に振動を発生させる。
 同時に、強力な雷撃がその盾を襲った。
 鋭い爆音と稲光を伴った雷の一閃が、ニニの作った空間の振動と激しく干渉しあう。飛散した電撃は地面を打ち、建物の屋根瓦をいくつか吹きとばした。発生した高熱が気体をプラズマ化し、空気の焼ける尖った臭いが鼻をついた。
(くっ――)
 雷撃の一部はニニの振動壁を貫通し、頬にかすかな焦げ跡を作っていた。光の去ったあとの黒い煙と小さな残り火の向こうでは、清織が何事もなかったような涼しげな顔で佇んでいる。
「僕としては、できれば穏便にことを収めたかったんだけどね」
 と、清織は言った。その口ぶりからして、もはやニニたち二人を見逃すつもりはなくしてしまったらしい。
……サクヤ
 とニニは清織のほうを向いたまま、振動だけを発生させて声を伝えた。
サクヤは、ここから逃げるんだ
(……何言ってんの、あんた?)
 サクヤは囁き声を返しながら、顔をしかめる。でもそれは不可解だったからではなく――恐かったからだ。
ボクたちじゃあいつには勝てない。あいつは希槻さまの指輪を持っているんだ
 ニニはごく落ちついた様子で言った。
 たぶんそれは――
 すでに、自分の運命についての見通しが立っていたからだろう。
(けど――)
 サクヤは何か言おうとして、言葉につまってしまう。ニニの言うことは事実だった。あの魔術具は、二人の力でどうにかできる種類のものではない。
サクヤだけなら、きっと逃げきれる
(でも、あたしは――)
 二人が密かに会話しているあいだに、清織は一歩足を進めていた。
 そして右手を、同じように突きだす。
 先程と何の遜色もない雷撃が、そこから放たれた。ニニは全力で防御壁を作って、それを散逸させる。けれどそれは、まるで瀑布に向かって雨傘を差しているようなものだった。これでは長く持つはずがない。
「――いいから早く逃げるんだ、サクヤ!」
 ニニはほとんど怒鳴るみたいにして叫ぶ。
「けど、だって、そうしたら……」
 サクヤはニニの後ろで、ためらうようにつぶやく。目の前では、ガラスを粉々に砕くみたいにして、光の束が四方に飛散していた。
 その時、雷撃の一部がニニの壁をすり抜けて、サクヤのほうへと向かってきた。一瞬のことで、サクヤには対応できない。彼女は思わず、目をつむってしまっていた。
 電撃は肉を焦がし、神経を焼ききるだろう。
 ――だが、想像したような衝撃はやって来なかった。
「……?」
 とサクヤが目を開けると、そこには相変わらずの電光の奔流と、黒く焼け焦げたニニの左腕があった。
「ニニ――!」
 サクヤは悲鳴のような叫びをあげる。
 少年の腕は大部分が炭化し、わずかに原型をとどめているにすぎなかった。左腕を犠牲にして少女をかばった少年は、けれどただ彼女の無事を確認して安心したような顔をしただけだった。相手を責めることも、苦痛に顔を歪めることもない。
 彼はただ悪い夢から覚めたときに、世界が以前のまま残っていることに気づいてほっとしたような、そんな顔をしただけだった。
「ニニ、ニニ!」
 彼女は泣きながら、彼に駆けよろうとする。けれどそれを押さえて、ニニは言った。
「行くんだ、早く」
「そんなこと、できない――」
 サクヤは子供が苦い薬でも嫌がるみたいにして首を振った。涙がぽろぽろと、音もなく零れていく。
「このままだと、ボクたちは二人とも死ぬ」
 ニニの壁はすでに持ちこたえきれずに、いくつかの亀裂が生じていた。そこから漏れだした電流が、地面や彼の体をかすめていく。
「そうなったら、ボクは死んでも死にきれない。お願いだから、サクヤだけでも逃げて」
「あたしは、あたしは……」
 サクヤはもう、正常に思考することができなかった。ニニの言っていることが正しいのだとはわかる。でもそれは、ニニが死ぬということだった。自分が彼のいない世界で、生きのびるということだった。
 そんなのが、正しいこととは思えない――
 一方で、ニニは冷静だった。
 生まれてはじめて明確な形になった感情は、彼を混乱させたりはしなかった。渡り鳥がいつもその目的地を知っているように、自分がどうしたいのかがはっきりとわかっていたから。
「いいから、行けって言ってるんだ!」
 ニニはぼろぼろに崩れていく壁を支えながら、精一杯の声で怒鳴りつけた。
「このまま無駄死にしたいのか! そんなのが君の望みなのか? いつもの調子はどこ行ったんだよ。いつも言ってたろ、馬鹿らしいのは嫌いだって。だから、早く行けよ、行けったら――!」
「……ニニ、あたし……」
 サクヤは子供みたいにつぶやくことしかできない。
「――お願いだから、行ってよ」
 ニニは不意に、いつものこの少年の声で言った。
「だってボクには、どこにいたって君の声がよく聞こえるんだから」
「――――」
 サクヤは涙を拭いて、とうとう決心した。そうするほかに、この少年にしてやれることはなかったから。
 〈妖精装置〉で、サクヤは一匹の蜂に変身した。そうして一瞬だけためらうように円を描くと、ニニの望み通りにその場から姿を消す。かすかな羽音だけを残して――
 その頃には防御壁は完全に崩壊し、指輪による雷撃も停止していた。
「…………」
 歪んだ空気と煙の中を、清織は無言でニニのほうへと近づいていく。
 ニニは――このホムンクルスの少年は、両腕をつけ根まで炭化させて失い、全身のいたるところに裂傷や熱傷を受けながら、それでもまだ生きて立っていた。普通の人間ならとっくに死んでいるはずの損傷である。さすがに虫の息ではあったが、その瞳の光はまだ失われてはいない。
 おそらくは身動きもままならないだろうが、清織は念のためにそのことに関する記述を終えていた。
 清織が目の前に近づいても、ニニは微動もすることなくその場に立っている。
「すでに魔法の使用は禁止させてもらっている。体の動作についてもね」
 と、清織は左手に持った本を示しながら言った。
「最初からそうすればよかった、と君は思うかもしれない。けど記述範囲の狭いことが、この魔法の弱点でもあってね。所詮、僕はもう不完全な魔法の持ち主でしかない。だからこそ、僕には完全魔法≠ェ必要なんだ」
 その言葉をニニが理解しているのかどうかは、わからない。この少年はただ、かろうじて動かすことのできるその目で、清織のことをじっと見つめているだけだった。
「最初に言ったとおり、僕は君たちを殺すようなつもりはない。僕の邪魔をしないとさえ誓えば、君の体を元に戻して、見逃してやってもいいんだ。僕はもう、この世界にほとんど用は残っていないんだから」
 言われて、ニニはかすかにだけ口元を動かす。風にさえ、その痕跡を残そうとはしないかのように。
「――あの人のいない世界に、存在する意味なんてない」
 清織は教誨師のようにただ黙って、その言葉を聞いていた。
 この少年は決して、その意見を変えるつもりはないだろう。だとしたら、清織にできることはもう一つしかなかった。
「君は少しだけ、鴻城希槻に似ているようだ」
 そう言って、清織は持っていた本に手をあてた。この不完全世界に対して、少年の最後を記しておくために。
「だからせめて、君が彼と同じ場所に行けるように祈っているよ」
 その言葉のすべてが終わらないうちに、ニニの体は消えはじめていた。あの二人と同じように。桜の花片が光になって、散っていくように――
 世界に何の痕跡を残すこともなく。

 それから、一時間ほどあとのことである。
 屋敷には一人の人間がやって来ていた。階段の下に車を停め、ドアを開けて地面に足を降ろす。仕事ではないので、白衣は着ていない。
 階段の途中で待っていた清織は、軽く手を挙げて合図をした。その人物はちょっと目を細めるようにして相手を確認してから、そちらに向かって足を運ぶ。
「わざわざすいませんでした、季早さん」
 と、清織はその人物に向かって声をかけた。
 結城季早は清織の少し下で立ちどまり、かすかに笑ってみせる。朝日に消えかける月の光みたいに。
「いや、構わないよ」
「まだ勤務中だったんじゃないんですか?」
「まあ、そうなんだけどね」季早は苦笑気味に笑う。「無理を言って、早退させてもらった。今さら評判を気にするほどでもないしね」
 もちろんそれは、例の手術のことを言っているのだろう。
「……彼女は連れてきてくれましたか?」
 清織はそのことについては触れずに、代わりに肝心なことを訊いた。
「もちろん、そこにいるよ。助手席のところにね。確認しておくかい?」
「いえ、あとでいいでしょう」
 清織は大切な絵の具を使わずに、とっておくような言いかたをする。
「これから季早さんにやってもらいたいことを、全部説明しておきますから」
「――わかった」
 二人はそれから、階段を昇って屋敷の敷地へと入っていった。
 建物の中には入らず左に折れ、庭園のほうへと向かう。庭の造作はあちこちが壊れ、焼け焦げた跡が刻まれていた。さすがに煙まではあがっていなかったが、戦闘の名残りはしっかりと刻まれている。
「ずいぶん派手にやったみたいだね」
 季早はあまり感心しないという顔つきであたりの様子をうかがった。
「僕としても、ことを荒だてるつもりはなかったんですけどね」
 清織はもう何なのかもわからなくなった、黒焦げの花に手を触れた。それはせめてもの抗議でもするみたいに、何の抵抗もなく崩れていく。
「あの子たちにしてみれば、納得のいくことではないでしょうから」
「鴻城希槻のほうは?」
「彼女を確保した時点で、勝負はついていました」清織は淡々と言う。「それにあの二人は、完全世界に限りなく近いものを手に入れられたようです」
「そうか――」
 季早は背後にある屋敷のほうを向く。その場所がどれほどの時間、文字通りたった一人の人間のために守られてきたのかを思いながら。
「例の魔術具があるのは、こっちです」
 言われて、季早は清織のあとを追って東屋へと入っていく。
 庭園に埋もれるような格好のその東屋には、清織が確認したのと同じ姿で魔術具があった。戦闘での損傷はどこにも見られない。
「これが、例の転移魔法(トランスポート)≠ゥい?」
「ええ――」
 清織は無感動にうなずいた。使い古した玩具でも見る子供のように。
「やはり、向こう側へ行くのかい?」
 季早はやや、ため息を含むような声で言った。
「僕の望みは変わっていません」
「でも、彼女は――」
 と季早それを言うべきかどうか迷うように、一瞬言葉を切った。言う資格があるのかどうかを。けれどやはり、言っておくことにした。「――彼女はそれを、望んではいないんじゃないかな?」
 その言葉に対して、清織は怒るだろうか、と季早は思った。二人のことについて、他人がとやかく言う資格などなかった。例えそれがどんなに正しく、間違いのないことだったとしても――
 けれど清織は、雨降りの日に傘を差すくらいの当然さで答えている。
「そのことは、知っています」
「なら――」
 季早の言葉を遮って、清織は言った。
「それで澄花が救われるわけじゃないことは、わかっています。彼女が必ずしもそれを望んでいない、ということも。でも、例え僕が彼女のためにその望みを捨てたとしても、やはり僕はこの世界を許せないままでいるでしょう。そうでないことはありえないんです。だから結局は、遅かれ早かれこうなっていたんだろうと思います」
 季早はいくつかの言葉を箱の中に戻して、そのまましまっておくことにした。鏡の向こう側に絶対に手を触れられないのと同じで、彼に対して言うべき言葉など、あるはずがないのだ。少なくとも、季早自身には。
「とりあえず、僕はそのあとで、君に言われたとおりにやればいいんだね?」
 と、季早は確認のために訊いた。清織は無言でうなずいて、その不可思議な装置のほうを見つめる。
「方法はお任せします。とにかく、僕が戻ってくることはもうありませんから」
「遠慮はいらない、か」
「ええ――僕はそろそろ、彼女を連れてくることにします」
 言葉通り、清織は車のほうへと歩いていった。とても静かな、人が葬儀場でよくするような歩きかたで。
「さて――」
 その場に残された結城季早は、最後の約束をはたすための道具を探しにいくことにした。屋敷の中に入って、適当な道具を物色する。主人を喪った建物は、目に見えない何かが剥がれ、音もなく死にはじめているようだった。
 季早はマントルピースの脇に火かき棒のようなものを見つけて、それを使うことにした。強度的には十分だろう。清織の話によれば、あれはガラスでできているそうだから――
 実のところ、結城季早にはそこまで清織に協力するいわれはなかった。宮藤晴に関する一件でも、必ずしも清織の一存で事が運んだというわけではない。結社を紹介してきたのは彼だったが、それにしても特別に義理を感じる必要はなかった。
 けれど――
 季早には何故か、それを見とどける義務があるような気がしていた。世界を美しく死なせるという、彼のことを。世界がそれに対してどんな答えを出すのか、その結末を見とどける義務のようなものが。
(いや、違うな……)
 と、季早は思う。あるいはそれは、願望のようなものなのかもしれない。
 道具を持って季早が戻ってみると、そこにはちょうど清織がやって来るところだった。彼は彼女を――牧葉澄花を背負って、歩いてきた。まるで幼い兄が妹を抱えて家路に着くみたいに。彼女の瞳は閉じられ、眠っているように身動き一つしていない。
 その髪には、白詰草のようなもので作られた花冠が載せられている。
「まさか、このエウリュディケの花冠≠もう一度使うことになるとはね」
 季早は少しだけ、感慨深そうに言った。
「皮肉な巡りあわせだと思いますか?」
 と、清織は訊いた。
「いや――」季早はどこか遠い目をして言う。「少し、悲しい気持ちがするだけだよ」
 澄花を背負った清織は、東屋のほうへと向かった。後ろからついていく季早には、何だかそれがひどく古代的な情景のような気がしている。
 ウロボロスの輪≠フ前に立った清織は、季早のほうを振りむいて言った。
「あとのことは、よろしくお願いします」
「ああ、間違いなくやっておくよ」
 それから二人は、輪の向こう側へと消えた。
 さよならも、元気でも、そこにはない。そんな挨拶は、もちろん不要のことだった――これから世界は、完全になるのだ。
「……それじゃあ、僕の仕事を終わらせることにしよう」
 誰にともなくつぶやいて、季早はそのことにとりかかった。
 火かき棒を振りあげ、ウロボロスの輪≠ノ叩きつける。
 ガラスでできた魔術具は、あっけないくらい簡単に砕け散った。手を滑らせた花瓶を割るのと、何も違わない。そこにどれほどの価値や、秘密があったとしても、世界が気にしないのと同じで。
 季早は念のために、大きめの塊をさらに細かく砕いておいた。もはや、それはほとんど原型をとどめてはいない。
 そうすることで、輪の向こう側がどうなっているのかはわからなかった。ただこれで、もう誰も向こう側へ行けなくなったことは確かである。
 ――おそらく、彼の望む完全世界が実現するまでは。

 公園での佐乃世来理の救出が成功した翌日、ホテルのロビーでは室寺と朝美が向かいあって座っていた。二人はそのホテルに宿泊している。
 時刻は十時を少し過ぎたところだが、ロビーの人影はまばらだった。カウンターでは、スタッフが黙々と業務をこなしている。どこかから、控えめなクラシック音楽が聞こえていた。時間の流れはひどくゆったりとしている。
 室寺は少し疲れた感じであくびをして、クッションの効いたイスに深々と身を沈めていた。
「体のほうは大丈夫なんですか?」
 と、朝美は訊いた。あれから今までずっと、室寺は眠り続けていたらしい。
「まあな」室寺は軽く手を開いたり閉じたりしながら言った。「絶不調というほどじゃない」
「絶好調でもない、と?」
「そうとも言える」
「……素直に、疲れてるって言ったらどうなんです?」
「代わりにお前が言ってくれりゃいい」
 まだ少し眠たそうに、室寺は言った。疲労のわりに、へこたれた様子は微塵も見られない。朝美は自分でもよくわからない種類のため息をついた。
 実際のところ、室寺の消耗は相当のものであるはずだった。あれだけ長時間、強力な魔法を使い続けて、何の影響も残らないはずはない。最後の戦闘のあとでは、まともに歩くことすらままならない状態だったのである。
「――それより、いったい何の用なんだ? 説教される覚えはないんだが」
「説教なんてしてませんよ」
 朝美はむっとした顔をした。
「なら、よかった」
 と室寺はからかうように笑う。この男の口はいつまでたっても減りそうにない。朝美は咳払いをしてから、気を取りなおすようにして言った。
「――例の偵察機についてのことです」
 朝美の言う偵察機というのは、いわゆるドローンのことだった。もちろんそれは、朝美の〈転移情報〉によって性能が強化されている。
 その偵察機を、二人は例の秘密屋敷の近くに散開させてあった。あの子供たち二人が留守にしている、そのあいだを狙って、である。罠を張るのは、猟師だけではない。
「そいつに何か映っていたのか?」
 室寺はようやく興味をそそられたように、身を乗りだした。
「ええ、そうなんですが。ちょっと私には、どう考えていいのかわからなくて――」
 朝美の言葉は、何故か歯切れが悪い。元々、この偵察任務にはそれほどの期待はしていなかった。ある意味では、通常手段での探索が不可能なことを確認するためのものだったのである。
「とにかく、何があったのか見せてもらおう」
 室寺が言うと、朝美はテーブルに置いてあったノートパソコンを操作して、画面が見えるように向きを変えた。
 液晶画面にはちょうど、偵察機からの映像らしいものが再生されている。上空、十数メートルといったところから、何の変哲もない住宅地が映しだされていた。
「問題は、その人物です」
 と、朝美は注意をうながす。
 なるほど、画面の端から一人の青年らしい人物が現れていた。彼は丹念に塀の具合を調べている。やがて彼が手で何かを引き剥がすような動作をすると、画面には一瞬ノイズが走り、それまで影も形もなかったはずの道がそこには現れていた。手品師が、帽子から鳩か兎でも取りだすみたいに。
「こいつは……」
 と室寺がつぶやくと、「見て欲しいのは、そのあとなんです」と朝美は言った。
 言われたとおりに室寺が映像の続きを見ていると、青年は不意に持っていた本を開いて立ちどまった。そうして、まるで何かに気づいたように背後の空を見あげる。
 画面越しに目があった瞬間――
 偵察機の映像は、時間切れだとでもいうように暗転した。おそらく、信号そのものが途絶したのだろう。
「やつは何をしたんだ、いったい?」
 映像を少し戻しながら、室寺は不可解そうに首をひねった。青年が偵察機に気づいたらしい、というのはわかる。だがそのあと、彼が特別に何かをしたようには見えなかった。
「そこのところが私にもよくわからないんです。それを撮影していたはずの偵察機は見つかっていません。残骸も発見できませんでした」
 室寺は無言で、画面に映った青年を見つめる。それほど画質はよくなかったが、何とかその顔を判別することは可能だった。
「こいつはもしかして、神坂の言う牧葉清織とかいうやつなのか?」
「おそらくは――」
「とすると、あれは本当のことだったってわけか」
 室寺は再び、どっかりとイスに体を投げだしながら言った。
「……こいつが鴻城希槻を倒すかもしれない、とかっていうのは」
「この映像だけでは何とも言えませんが、何らかの動きがあったことは間違いないでしょう。佐乃世さんが言うには、〈悪魔試験〉も解除されたそうですから」
「信じられんな」
 室寺は天を仰ぐように首を大きく曲げた。
 けれどその口ぶりにはどこか、鴻城希槻が誰かに倒されることを望んでいないかのような、そんな響きが含まれていた。少なくとも室寺の個人的な領域では、何か複雑な心情が存在しているらしい。
 朝美はちょっとためらうようにしてから、やはりそのことを訊いた。
「……前から気になっていたんですが、室寺さんは鴻城希槻と何か個人的なつながりでもあるんですか?」
 彼女自身は室寺とのつきあいはそれほど長くはないので、この男の過去についての詳しい情報は持っていなかった。乾重史なら、あるいはその辺の事情について何か知っているのかもしれなかったが、もちろん彼から話を聞くわけにはいかない。
 だから朝美としては、ここで直接訊いてみるしか手はなかった。
「――ある」
 と、室寺はどういう感情も見せないまま、簡単に言った。
「俺の使っている魔術具をよこしたのは、鴻城希槻だ」
「それは――」朝美は一瞬、どういう顔をしていいのかわからなかった。「どうして、また?」
「俺を利用するためさ」
 室寺は肩をすくめるように軽く手を動かした。が、そこには何となく、いつもの余裕が欠けているようでもある。
「敵対する委員会を、ですか?」
「その頃はまだ、結社の動きはおおっぴらじゃなかったし、委員会とも激しく対立していたわけじゃなかった。何より、結社そのもののことも、鴻城がそのリーダーだということもわかっちゃいなかったんだ。俺たちにはほかの仕事もあったからな」
「…………」
「何にせよその頃、結社と敵対する別の勢力がいたんだろう。俺はそいつらを潰すために、まんまと利用されたわけさ。そうとも知らずにな。実際、やつから受けとった魔術具の性能は優秀だった。俺自身の魔法との相性もよかったしな。俺は自分の力に得意になっていた」
「でも、そんな簡単な話じゃないとわかった?」
「ああ――六年前の話だ」
 と、室寺はうなずく。

「――その頃、俺は新真幸雅という先輩の執行者と組んで仕事をしていた」
 室寺はごく静かな声で語りはじめた。
「確か、〈虚構機関〉とかいう魔法の持ち主だった人ですよね?」
 と朝美は委員会で聞かされた話を思い出しながら言った。
 新真幸雅の〈虚構機関〉は、空間に穴を開けて別の位相へと移動する≠ニいう魔法だった。別の世界へワープする魔法といってもいいが、正確には存在次元が微妙にずれるだけで、世界そのものが変わるわけではない。建物の上下を移動するのと同じように、階層が変化するといったほうが正しかった。
「そうだ――自信家で、頭のモーターが人と違うらしく、思考の回転速度がおそろしく速かった。発想もどこか常人離れしていた。あの人の前では、囚人のジレンマなんぞも存在しなかっただろうな」
 懐かしむというよりはどこか憎たらしそうに、室寺は言った。
「確か、六年前の爆発事故で行方不明になっているとか……」
 と朝美が言うと、室寺は複雑な表情でうなずいてみせた。
 ――室寺の話によれば、その時の事態の経過は次のようなものだったらしい。
 二人はその頃、魔法によるコピー品の製造についての捜査を行っていた。
 何しろ魔法による複製なので、ただの贋作とはものが違っている。立派に本物として通用するし、実質的な差異も存在しない。美術品や宝石類、あらゆる希少品がコピー対象となるのだから、その影響力は看過できないものがあった。
 調査を進めるうち、二人は取り引き現場を押さえ、複製魔法(デュプリケート)≠フ魔術具の回収にも成功した。が、主犯格と目される人物を逃がしたため、任務は継続した。
 やがて逃亡した犯人についての情報が入ってきて、二人はそのあとを追った。その情報によれば、犯人はさらに上部の人間と接触する予定だという。うまくすれば、組織のより中枢に近い人物を捕縛できる可能性があった。
 室寺は俄然やる気を出したが、新真は何故か浮かない顔をしていた。この男はすでに、ある程度のことには勘づいていたのだろう。それでも、尾行の任務には自分一人があたると宣言した。「何しろ、お前よりオレのほうが優秀なんでな」というのがその理由だった。
 そして当日、新真は一人で例のデパートへと向かった。
 だが結果として、この件で新真幸雅は行方不明になり、犯人も捕まえることはできなかった。デパートのフロア一つをまるまる吹きとばした爆発事故は、多数の死傷者と被害を出したにもかかわらず、原因不明の事故として処理された。様々な憶説が流れたが、真相は藪の中である。
 今では、室寺にもそれが敵の罠だったのだろうとは推測できている。
 新真幸雅はそれを知っていたからこそ、室寺を連れずに単独で乗りこんだのだった。一方で、この男はそのことに十分な自信も持っていたのだろう。
 だがそんな新真にも、ここまでの事態は想像できていなかった。彼の頭ではどこか無意識に、そんなことをするはずはない、という思考が働いていたのである。大勢の人間を無差別に巻きこみ、一つのフロアを丸ごと破壊してしまう、などというようなことは。まともな囚人なら、どうするのが一番の利益になるのかを知っているものだ。
 もちろんそれは、まともなら、の話ではあった。
 結局のところ、新真幸雅は頭が良すぎたのである。それが、彼にとっての命とりになった。
 ――もちろん室寺は、それが空間を自由に移動できる彼を捕まえるための鴻城の計画だった、ということまでは知らない。半死半生のところをゾンビ化され、その魂が抜きとられるまで彼が保存されていた、などということも。
 ただ、そこに何らかの裏があることだけは読みとっていた。行方不明になった新真が必要とされていたような、何らかの事情が。
「あの鴻城希槻が倒されるというなら」
 と、室寺は黙秘か自白かを迷うような難しい顔で言った。
「そいつは、世界の仕組みそのものをどうにかできるほどの魔法使いなのかもしれん」

 明かりも人気もない屋敷は薄暗く、しんとしていた。空気は温度計の数値よりも、ずっと冷たくなっているようでもある。洪水でも起こったみたいに死の気配が床下まで迫って、それが所々であふれている感じでもあった。
 サクヤはそんな屋敷の一室で、ベッドの上に膝を抱えて座っていた。窓から射す光は部屋全体を照らすには弱々しく、誰かが落としていった汚れみたいに、隅々に暗闇がこびりついていた。そのか細い光さえ、もうすぐ暮れようとしている。
 この屋敷は唯一、二人の私室のようなものがある場所だった。サクヤの座っている部屋にはベッドが二つ置かれ、いくつかの家具と二人の私物が置かれていた。いくつもある屋敷のうちで、鴻城が一番よく使用していたものでもある。
「…………」
 サクヤは膝を強く抱え、できるだけ体を小さくする。
 鴻城も秋原もいなくなった今、この屋敷はこれからひっそりと死んでいくはずだった。人を避ける結界魔法(リジェクター)≠ェいつまでもつかはわからなかったが、それが解けたとしても一般人が立ちいることはないだろう。ある種の鉱物がゆっくりと風化していくように、この場所はこれから時間をかけて壊れていくはずだった。
 二人の部屋は、それでもまだ崩れの少ない状態だった。注意して手をのばせば、わずかに温もりの残った場所を見つけることができる。まだ、死んではいない場所を。
 とはいえ、それも時間の問題ではあったのだけれど――
 サクヤはじっと、ニニの使っていたベッドを眺めてみた。
 そのベッドの横には、あの少年が集めたコレクションがいっぱいに並べてあった。例の、ひどく不気味で殺伐とした、お世辞にも趣味のよいとはいえない玩具の数々である。
 悪夢を見るのには都合のよさそうなそんな玩具の中で、ニニがとりわけ大切にしている品があった。山の中央に置かれた少し大きめの人形がそれで、ブリキの樵に生の内臓をくっつけたらこうなるだろう、という格好をしている。
 ニニはそれを、鴻城からもらったのだった。
 それはたぶん気まぐれか、少なくともそれ以上の行為ではなかっただろう。鴻城希槻にそれほどの悪趣味はなかったし、彼が直接二人に物をくれてやることは滅多にないことだった。多少の悪戯心のようなものはあったかもしれない。
 けれどニニは――この、心というものがよくわからないという少年は――たぶん、その時に決めたのだ。
 鴻城からもらったその人形と、よく似たものを好きになろう、と。
「…………」
 不意に、サクヤの目からは涙があふれてとまらなくなった。歯を強くかんで、嗚咽がもれてこないようにする。それでも膝の上に、ぽたぽたと熱い雫が落ちた。
「何で出てこないのよ、ニニ――」
 震える声を必死に絞りだすようにして、サクヤは言った。いっぱいになったカバンの蓋を、無理やり閉じようとするみたいに。
 でも――
 それはもう、無理なことだった。
 あの少年はこの世界のどこにもいなくなってしまったのだ。
 彼女がどれだけ泣いても、その声が彼に届くことは二度とないのだった。

――Thanks for your reading.

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