シルテ村、というのはエルデナでも西のほうに位置している。トリニアとの国境に近い、ごく平凡でのどかな村だ。 春だった。 少年たちは久しぶりの陽光の下で駆けまわったり石投げをし、少女たちは近くの草原へ花摘みに出かける。 草原では暖かな風が草花を揺らし、早咲きの花々が優しい香を匂わせていた。 少女たちは仲の良いもの同士、何組にもわかれて花摘みを楽しんでいる。 と、たった一人、花をつもうともせずに木にのぼっている女の子がいた。 十四、五歳といったところで、短めの黒髪と澄んだ青い瞳をしている。木の枝に座ってどこかをにらんでいるような表情は、ひどく不機嫌そうだった。 「アトリーテ、こっちに来て一緒に遊ぼうよ」 と、声がする。 少女が声のほうを向くと、大人しそうな少女が少し気弱な微笑を浮かべてこちらを見ていた。 アトリーテ・クローデルはその娘――チェルシーにこう言った。 「ほっといてよ、のろまのくせに。他に遊んでくれる子がいないからって、私に声かけないでよね」 チェルシーは泣きそうになっている。 「憐れんだら、それで誰かが喜ぶとでも思っているの? あなたのくだらない自己満足なんてまっぴらごめんだわ、この偽善者」 「私、そんなつもりで言ったんじゃないのに。アトリーテのばか」 チェルシーは泣きながら行ってしまう。 アトリーテは少しうつむいて、 「私の気持ちなんて誰にもわかんないわよ」 少し寂しそうに、つぶやいた。 その日、夕暮れ時になってアトリーテはようやく家に帰った。他の子供たちはとっくに家に帰って暖かい食事を食べている頃である。 (帰りたくない) アトリーテはとぼとぼと歩いていく。 (あんな家……、帰りたくない) 父親も母親も、毎日ひどい夫婦喧嘩をしているのだ。アトリーテはその中で、一体どこにいていいかも分からずにいた。 しばらくすると、家に着いてしまっていた。ごく普通の、農家の一軒家である。 アトリーテがそっと扉を開くと、中には漂白されたような夕陽の色があるだけだった。二人とも別々の部屋に引っ込んでいるのか、そこには誰もいない。 パンと、もうすっかり冷めてしまったスープを食べると、アトリーテは自分の部屋に向かった。 扉を開けて中に入ると、すぐに膝を抱え込んで座ってしまう。 アトリーテはどうしていいか分からなかった。
次の日も同じだった。 父親も母親も相手の顔を見ると不機嫌そうになり、何か気に食わないことがあると、物を投げたり殴りあったりする。 その日の夜、アトリーテは窓からそっと部屋を抜け出した。嫌なことがあると、彼女はそうするのだ。 星のきれいな夜だった。 アトリーテは村はずれの少し小高い丘に登る。そこからは村を一望にすることができた。 「――」 すうっと息を吸い込む。そして、 「みんなだいっ嫌い」 と大声で叫んだ。 すると、その声に驚いたみたいにして星が一つ流れ落ちた。アトリーテは何だかおかしくなってしまう。 (星もびっくりすることがあるのかな) 笑って、笑い出して、それから勝手に涙が流れ出す。 アトリーテは目一杯に泣いてから、 (レイテ婆のところに行こう) と立ち上がった。レイテ・トリニチェは森にひとりで住んでいる変わった老婆だったが、アトリーテはこの人が大好きだった。 だから時々、不意に訪ねたりする。 森に入って少ししたところにレイテの家はあった。つつましいほどの小さな一軒家である。 アトリーテが扉をノックすると、乾いた音が響いた。 「誰だい?」 「私。アトリーテ」 「おやおや、どうしたのかしら?」 と言いながら扉が開く。 出てきたのは年老いた、皺だらけの老婆だった。瞳の美しい人で、眼を患っているのかほんの少しだけ白くにごっている。 「さあさあお入り」 と、レイテは微笑んでアトリーテを招き入れた。理由を聞こうともしない。 アトリーテが中に入ると、暖炉の火が優しく燃え、猫がその前で気持ち良さそうに眠っていた。 「トレトも元気そうね」 と、アトリーテはその猫をなでながら言った。 「ええ、とってもね。暖かくなってきたから、あっちこっちふらついているみたい。家に誰もいなくなっちゃうと寂しいものよ」 アトリーテにイスをすすめながら、レイテは愛用の揺れるイスに座る。 「また嫌なこと?」 と、気にした様子もなくレイテは言った。 「うん」 「そう、大変ね」 それからアトリーテは雨でも降ったように散々しゃべって、レイテは時々相づちを打ったり、笑ったり、真剣な顔で聞いたりしている。 そしてアトリーテがしゃべりつかれた頃にその手をそっと握って、 「さあ、お休みなさい。夢を見れば嫌なことも忘れてしまう。明日になれば、また素敵な一日が始まるわよ」 と言って、ベッドに寝かしつけてやるのだ。 アトリーテはそうやって、この日、眠りについた。
翌朝、白い光の中でアトリーテは眼を覚ます。 (鳥の声が聞こえるな) そう思いながら大きな伸びをした。 昨日の部屋では、もうレイテが起きて朝食の支度をしていた。 「何つくってるの?」 のぞき込むようにしてアトリーテが訊く。 「パンにスープ、それにあなたの好きなオムレツよ」 「私も手伝う」 「ありがとう。じゃあ、ちょっと水を汲んできてちょうだい」 「分かった」 アトリーテは空の桶を持って近くの泉に向かった。 森の中の小さな泉で水を汲んだときのことだ。 「?」 ふと、妙な感じがした。時間がほんの一瞬ずれたような、奇妙な感じである。 (何だろう) 辺りを見回してみて、気がついた。 人が倒れている。 木の幹を背にして座り込んでいて、少しうなだれている。年恰好はアトリーテと同じくらいで、黒いくしゃくしゃの髪をして少年だった。 (死んでるんだろうか?) 恐るおそる近づいてみた。 すぐ近くで顔を見てみると、ひどく幼そうな顔立ちをしている。その表情は子供が眠っているように無邪気そうで、アトリーテは何となくどきどきした。 (とりあえず息はしてるみたい) アトリーテはこのままにしておくか起こすべきなのか、迷う。大体、これではせっかくの気持ちの良い朝がだいなしではないか。 といって、放っておくわけにもいかなかった。 肩をつかんで、そっと揺すってみる。 「――」 少年がゆっくりと眼を開いた。辺りを見回して、そしてきょとんとしている。 「僕は……?」 戸惑ったように口を開く。風の吹くような気持ちの良い、しっかりした声だった。 アトリーテは両手で水桶を抱えたまま、 「それはこちらが聞きたいわよ」 といささか不機嫌そうに言った。 「あなたはそこで眠っていた。春になったからって、よくこんな所で眠っていられたもんだわ」 「眠っていた?」 さっぱり分からない、というふうに少年が言う。 アトリーテはこの少年に関わったことを後悔していた。 「とにかくさっさと家に帰れば? 村はあっちよ。これから私、朝食なの、分かる? 急いでるのよ、私」 村のほうを指差して、アトリーテは行こうとする。 その時、少年のお腹がくぅ、と音を立てた。 「……」 アトリーテはため息をつきながら、うんざりした気持ちにならざるをえない。
「おいしいですね、これ」 と言いながら、少年は言葉どおりの表情で食事を口に運んでいる。 「あら、そう?」 レイテは嬉しそうだ。可愛い子犬でも見るような目で少年を見ている。 一方、アトリーテは不機嫌だった。数少ない自分の居場所に、いわば「不純物」が混じったのだ。おまけに彼女の好物のオムレツは、少年が食べてしまっている。 少年の食事が終わると、さっそくレイテが質問を始めた。 「まず、名前を教えてもらおうかしら? 私はレイテ、そっちのふくれっ面をしているのはアトリーテよ」 「(私、ふくれっ面なんてしてないわよ)」 とアトリーテが不満そうに言うが、レイテはおかしそうに笑うだけで取りあわない。 「名前……」 少年は戸惑っているような、困っているような表情を浮かべた。 「分からない」 「大変、もしかして記憶喪失ってやつかしら」 さすがのレイテも困ったようにアトリーテのほうを見た。 「何も思い出せないの?」 「ひかり、光があふれて……。それで気づいたらあそこに。何だか、大切な役目があった気がする」 「役目ってことは、あなたは誰かの奉公でもしているのかしら?」 少年は力なく首を振った。 「分かりません。何も思い出せなくって」 レイテは腕を組んで、 「困ったわね。これじゃあどうしていいか分からないわ」 (そんなこと、他の人に任せればいいじゃない) と口には出さずに、アトリーテはそんな表情をしている。 レイテはもちろん、そういうアトリーテの様子に気づいていた。が、 「こうしてあなたが来たのもなにかの縁ね。しばらくはここにいるといいわ」 と、少年に言ってしまっている。 「いいんですか?」 アトリーテは露骨に顔をしかめたが、その隣でレイテはにこにこしながら答えた。 「もちろんよ。ただまあ、いろいろと仕事の手伝いをしてもらうかもしれないけど。それくらい、構わないでしょう?」 少年がこくりとうなずく。 「そうなると何か名前がいるわねぇ。どうしようかしら?」 「トレト」 アトリーテがぽつりと言った。 「え?」 「トレトよ、そいつの名前。それでいいでしょ」 言いすてて、そのまま外に行ってしまう。 扉が音を立てて閉められると、少年は困ったようにレイテのほうを見た。 「ごめんなさいね」 レイテは少しため息をつきながら、 「本当は優しい子なんだけど、今はそれどころじゃないみたい。あなたとはきっと良い友達になれると思ったんだけど」 それを聞いた少年は首を振った。 「いい名前だと思います」 「?」 「トレト。僕は気に入りました。彼女がつけてくれた名前だから」 レイテはちょっと戸惑って言った。 「でも、それ猫の名前なのよ」
アトリーテはもう一度あの丘の上に来ていた。むしゃくしゃするとここに来て大声で叫ぶのだ。 が、今は叫ぶ気にもなれない。むかむかして、どう叫んでいいかも分からなかったのだ。 (タイミングが悪いのよ) と彼女は思うのだ。困っている人を助けるのはアトリーテにしても十分に分かっているし、本来、彼女はどちらかと言えば世話好きのほうなのだ。 (でも今はゆっくり落ち着きたいのに) 心が落ち着くまでは、レイテと二人でいたかったのだ。 アトリーテがそんな心の不満に思いをめぐらしていると、向こうからあの少年がやってくるのが見えた。 アトリーテは思いきり嫌な顔をして反対を向いてやる。 「ここにいたんですね」 と少年は言った。 「……」 「何となくこの辺にいるんじゃないかと思って。いい場所だね、ここ」 隣に並んで、ひどく無邪気な笑顔を見せる。まるで天から降ってわいたような笑顔だった。 「私に何かよう?」 そっけなく言う。 「見つけてもらったお礼がまだだったな、と思って」 少年はあくまで笑っている。 「別に見つけたくてみつけたわけじゃないわよ」 「でも、僕は君に見つけてもらってよかったと思ってるんだ。君に見つけてもらえなければ、僕はきっともっと違った運命の中にいたと思うんだ」 アトリーテは少年の言葉に、わけもなく赤くなってしまわざるをえない。 「そんなの知らないわよ」 「とにかく僕は感謝してるんだ」 この少年はどうしてこうも笑えるのか。 「私は迷惑してるのよ。だって、あんたは……」 「トレトだよ」 「?」 アトリーテは一瞬わけが分からない。 「トレト、君がつけてくれた僕の名前」 「だって、あれは」 とアトリーテは慌てた。 「知ってる。本当は猫の名前なんでしょう」 小さくうなずく。 「でもいいんだ。初めて出会った人に初めてつけてもらった名前だから。僕はすごく気に入っている」 アトリーテはやはりこの少年の言葉に、赤くならざるをえなかった。
トレトというのは、不思議な少年だった。ほとんど自分の事を覚えていないくせに、その事で不安がったり怯えたりすることがない。 「どこかの星からやってきた王子様みたいね」 とレイテは笑った。 アトリーテもこの少年の無警戒さのようなものにつられて、段々と文句や皮肉を言わなくなってきている。 そうして数週間がたったある日、アトリーテが昼にレイテの家に来て見ると、知らない女性が訪ねてきていた。 くせのかかった長い黒髪で、中性的な顔立ちをしている。目にどこか奥行きがなく、感情の薄そうな表情をしていた。 (誰だろう?) 初対面の人間には一様に警戒するくせが、アトリーテにはある。 部屋にはレイテもトレトもいたが、レイテはイスから立ち上がって、 「ちょうど良かったわ。私はこの人と大事な話があるから、二人はちょっと席を外してくれるかしら? 一時間くらいしたら戻ってきてちょうだい」 トレトはうなずいて、アトリーテもなぜか、「うん」と返事をするしかなかった。どうしてか、それ以上の返事のしようがなかった。 アトリーテとトレトは森の小道を歩いてく。 「あの人、誰?」 と、アトリーテが訊いた。 「僕もよくは知らない。コリっていう名前で、昔レイテさんの世話になったらしいんだ。占い師、みたい。今日は近くに寄ったからって」 「……」 しばらく無言が続く。春の森で、小鳥たちがやかましく鳴き声を上げていた。 「思うんだけどさ」 トレトが言った。 「覚悟しておいたほうがいいと思うんだ」 アトリーテが立ち止まる。 「何をよ?」 「分からないから、そう言ってるんだ。なにが起きても大丈夫なように」 振り返ってトレトが言う。 「何が起きても?」 アトリーテの表情が険しくなった。 「何が言いたいわけ? 一体、何が起きるっていうの。たかが知らない人がひとり訪ねてきただけでしょう。何も変わらない。何も起きたりしない」 「アトリーテがレイテさんのことを好きなのは知っているよ」 トレトは冷静だった。残酷なほどに。 「だから認めたくないのは分かる。でもきちんと事実を受けとめられなければ、君はもうどこにも行けなくなってしまうかもしれないんだ」 「何を認めたくないっていうのよ」 「レイテさんだって、もう年をとっている。体だって丈夫じゃない」 「……」 「だから覚悟――」 「分かってるわよ」 アトリーテは突然、叫びだした。 「いつまでもこのままじゃいられない。永遠に『今』が続いていくわけじゃない。でもだからどうしろっていうの? あの人がいなくなって、それで私はどうしろっていうの? どこにいればいいの、私は?」 トレトはそっとアトリーテを見つめる。 「僕がいる」 いつものような、微笑だった。 「僕が君のそばにいる。僕が君の居場所をつくる」 アトリーテはしばらくして、泣き出した。 「……でも、私はそんなに簡単に人を信じられない。そんなに簡単に人は愛せられないのよ」
二人が戻ってみると、ちょうど話の終わったところのようだった。レイテは前と同じように座っていて、その前にコリが立っている。 「悪かったわね、二人とも」 と、レイテは笑った。不思議な、ちょっと眼をはなした隙に消えてしまいそうな微笑である。 アトリーテが何か言おうとした。が、その前に、 「ちょっとアトリーテと話があるの。またで悪いけど、二人は外に行っていてくれるかしら?」 とレイテが言った。アトリーテが見ると、トレトはうなずいて外に行き、コリは何も言わずにそのあとに続いている。 中には、アトリーテとレイテの二人だけが残った。 「さてと、なにから話したものかしら」 トレイ手は困りながら切り出す。 「……」 アトリーテはなんと言っていいか分からなかった。 「あなたもうすうす気づいているとは思うけど、私は体がよくないわ。残念だけど、もうそんなに長くない。あなたを残していってしまうのは、とても心配だけど、けどどうしようも……」 「どうして、そんなこと言うの?」 と、アトリーテはさえぎらざるをえない。 「どうしてそんな簡単に、死ぬなんて言っちゃうの? 私にはまだレイテが必要なのよ。人が死ぬかどうかなんて、神様にしか分からないことじゃない」 レイテは優しくアトリーテを見つめた。 「でも、これはもう決まっていることなの。人には生まれたときから守り星≠ェついていて、その人が死ぬとき、星も死ぬの。私の守り星≠ヘもうすぐ死のうとしている。それは、私が死ぬことも意味しているの」 「そんなの、迷信じゃない」 「いいえ、この世にはどうしても変えられないことがたくさんあるのよ。目で見えるものや、耳で聞こえるものすべてが真実とは限らないの。……アトリーテ、どうか受け止めて。でなければ、私は安心して土に帰ることもできないのよ」 「……」 「あなたは優しくて、そしてとても傷つきやすい心を持っているわ。できるなら、強くなってちょうだい。生きていくには、それも必要よ。トレトがきっと導いていくれるわ。あの子を信じてあげて」 そっと手を出す。 アトリーテはその小さな手を、両手でそっと握り締めた。 知らないうちに、涙がその上にこぼれていた。
「あなたは不思議な子ね」 と、コリははじめからそう思っていたらしく、すぐに言った。 二人はすぐ近くの森の中にいる。 「僕がですか?」 トレトは怪訝そうな顔をした。 「人には守り星≠ニいうものがある。私はその星の動きを読んで、人の運勢を占う。大抵の人は守り星≠ニの間に、そうね、線≠フようなものを感じることができる」 そう言って、コリは青い空を見上げた。 「けれど、あなたにはそれが感じられない。いえ、感じられないというよりは、ひどく妙な感じがする。普通の人とは、何かが、違う……」 「……」 「聞いてもいいかしら? あなたは一体誰なのか」 トレトは困ったような表情をした。 「それは僕にも分からないんです。僕はここに来るまでの事を覚えていなくて」 「そう――」 この女性の表情からは、どんな感情もうかがい知ることはできない。 「いずれにせよ、あなたは人とは少し違う運命を抱えているようね。それが幸せなことかどうかは分からないけれども」
レイテが死んだのは、それから三日後のことだった。 葬儀はひどくしめやかな様子だった。村の共同墓地に葬られ、参列者はアトリーテ、トレト、コリの他、数人の村人がつき従っているにすぎない。 棺が埋められて墓石がおかれると、もはや他の墓との区別もつかなかった。 アトリーテはその夜、悲しむこともできずに自分の部屋でぼんやりとしている。自分でもどうすればいいか分からなかった。 と、窓を叩く音がして、見るとトレトが顔をのぞかせて手を振っている。 「なに?」 アトリーテは窓を開けた。 「少し散歩でもどうかと思って」 トレトは少し寂しそうな、けれどいつものような微笑を浮かべた。 「どうして?」 「元気ないだろうと思ったから」 アトリーテはちょっと黙った。 「どうして私に元気がないと、あなたと散歩に行かなくちゃいけないの?」 「一人でいないほうがいい時があると思うんだ」 と、トレトは真剣だった。 「一人だと知らないところに迷っていってしまうような時が。そういう時は誰かがそばにいたほうがいいと思うんだ。でないと、戻ってくるのにすごく苦労するようなところまで行ってしまう。それはきっと、不幸なことなんだよ」 「……」 トレトはそっとアトリーテの手をつかむ。 温かい、手だった。 アトリーテは引かれるままに窓枠をこえ、外に出た。春の優しい風が、ささやくように夜の闇の中を吹きすぎている。 二人は黙ったまま、村を見下ろすことのできる、あの丘までやってきていた。 「コリはレイテさんの葬儀のあとでどこかに行ったよ。よろしくって言ってた」 「そう」 じっと村のほうを見つめている。まだ明かりのついている家が一、二軒だけあった。 「――忘れないでいいと思うと」 と、トレトは言った。アトリーテが不思議そうにトレトのほうを向く。 「大切な人をなくしてしまっても、その事を忘れたり、拒否してしまう必要はないと思う。それはきっと、その人のことを本当に好きだった証みたいなものだと思うから。だからそっと受けとめてあげれば、それでいいんだと思う」 「けど、私はまだ生きてるのよ」 「その人が残してくれたものと一緒に、ね」 「……」 「アトリーテの中にはちゃんと残っているはずだよ。レイテさんがくれた温かいものが。だから、大丈夫だと思う。きっと、大丈夫だと思うから」 「……」 アトリーテはなんと言っていいかわからない。 ただ、いつの間にか涙があふれていた。 「わたし、私は――」 顔を覆って、声を上げて泣く。 トレトはアトリーテを優しく抱きしめてやった。星の光がそっと地上の人を見守るように。そっと、優しく。
何年かがすぎた。 レイテの家にはトレトが住んで、アトリーテはよくそこに通った。少しおとなしくなっているが、彼女本来の明るさもだいぶ取り戻している。 そういうある日のことだ。 「お別れしなくちゃならないんだ」 と、唐突にトレトが言った。レイテの家で、アトリーテがイチゴのジャムを作っていた時のことだった。 「?」 アトリーテは鍋のほうから何気なく振り返った。聞きまちがいかとも思ったのだ。 が、トレトはいつものような微笑を浮かべていた。そういう時、トレトは決して冗談を言わない。 「あの時から、ゆっくりと思い出していたんだ。レイテさんが亡くなった頃から。僕がどこからやって来て、どんな役目を持っていたのか。もっと一緒にいたいけど、時間なんだ。これ以上、ここにはいられない」 「なにを、言っているの……?」 「僕がいなくちゃいけないところ、僕が戻らなくちゃいけないところ。僕はそこで死ぬべき運命を共にする人を見守り、その人が迷わないように小さな光でそっと照らしてあげなくちゃいけない。それが僕の役目なんだ」 「……」 「ごめん、これ以上は君と一緒にいられないんだ」 アトリーテはうつむいて、そして顔を上げた。 「大丈夫だよ」 と、彼女は笑った。 「私はあなたから大切なものをもらった。それはちゃんと私の中に残っていて、あなたがいなくなっても、それはちゃんと私の中に残っている」 彼女は少し泣いた。 「だから大丈夫だよ、心配しなくても。安心して行っていいよ。安心して――」 涙で声が途切れた。 そうして次の瞬間、アトリーテが目を開いたときには、トレトはもうどこにもいなかった。 春。 ――アトリーテはレイテの家の猫を抱きながら、いつまでも喧嘩を続ける両親を引っぱり出していった。 「二人ともつまらない意地をはって、いつまで大人気ないことをしているつもりなの。二人が喧嘩をするのは二人の勝手かもしれないけど、私までそれに巻き込まれてるの。私はそれですごく傷ついてるから、今すぐこんなことはやめて。でないと私、この家を出てくから」 父親と母親は互いに顔を見あわせて、きょとんとしている。 そんな二人を残して、アトリーテは自分の部屋に引っ込んだ。 ――花畑で花を摘む少女たちから離れて、アトリーテは相変わらず木の上にのぼっていた。 そこにチェルシーがやって来て、 「ねえ、アトリーテ、降りてきて一緒に遊ぼうよ」 と、少しおずおずしながら言った。 アトリーテはそちらのほうを向いて、 「ありがとう、チェルシー。それから、ごめん。優しくしてくれるのに、いつも意地悪ばっかりして」 そう言って、不思議に透明感のある微笑を、アトリーテは浮かべた。
それから数十年がすぎた。 今、一人の老婆が死のうとしている。 ベッドに横たわり、まわりを悲しそうな顔をした大勢の子供や孫に囲まれている。部屋はランプの明かりで満たされ、窓からは星のきらめく夜空が見てとれた。 その夜空から、一つの星が流れた。 彼女はそれを見て、微かに笑った。懐かしい人に、いま会えたような気がしたのだ。 星にもそのことが分かっているのか、消えようとする瞬間、微笑むように一度、瞬いた。 ――守り星≠ヘ、その人と運命を共にしたのだ。
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