[魔王のいる世界]

 ちょっと前のことなんだけど、もうずっと昔みたいに思えることがある。
 授業中にかつかつと黒板をたたく白いチョークの音、カーテンに吸いこまれた太陽の光、ふと窓の外に見えたプールに反射する太陽のきらめき、廊下の靴音、夏の陽にさらされた白く埃っぽいグラウンド、休み時間になった途端、どこに隠れていたんだろうと思えるくらい騒々しくあふれかえる人の声、雨で湿っぽく冷えた教室の壁、空から降ってくる糸のように細くなった雨粒、見下ろした先にある校門を通っていく色とりどりの傘、誰かの呼び声、放課後に現われる世界中の時間が停まってしまったような静寂、空を見上げた時に確かに感じた、何かに吸いこまれるようなあの感覚――
 ああいうのって、何なんだろうと思う。あの時は確かにあったはずのものなのに、今となっては夢の中みたいにはっきりしない。手をのばした先の、その向こう側に消えてしまったみたいで、もう永遠に触れられない。
 まあ人間なんて、そんなものなのかもしれない。どんなに大切なことだって忘れてしまうし、どんなに強い決意だって崩れてしまう。それは人間の性みたいなもので、非難されるべきものじゃないのかもしれない。
 ――いや、でもそれは、本当は逆のことなのかもしれない。
 つまり大切なことだから忘れて、強すぎる決意だったから崩れた。ちょっと前のことだから、もうずっと昔みたいに思える。
 しかし実際のところ、そんなのはどうでもいいことだ。幸いなことに、人間の本性に関する議論なんて、この話には何の関係もない。そんなのは偉い哲学者にでも任せておけばいい。ぼくがここで話しておきたいのは、高校生になった今、もうずっと昔に思える中学校時代についての一つのこと。ある女の子についてのことだ。
 そう、ある魔王についての――

「――この世界には魔王が必要なんです」彼女は言った。
 彼女というのは、ぼくの幼馴染の奥村千絵(おくむらちえ)のこと。千絵は天からの啓示を受けて十戒を授かったばかりのモーセのように、力強く宣言した。
「……なんで?」
 それは何かの用事で、体育館に二人でいるときのことだった。何の用事かは覚えていない。いずれにせよ、ろくでもない用事だったことだけは確かだ。確か、自転車の空気入れを使って、大量の風船を苦労して膨らませていたような気がする。
「何故なら」言って、千絵は続けた。「正義というのは、悪があってはじめて存在するものだからです」
「ほう」
「魔王がいてこそ、勇者がはじめて存在できるんです」
 千絵は自分は今、すごくいいことを言った%Iな、実に得意げな顔をした。
「ちょっと前までは、その辺に魔王がいたはずなんです。それで悪の軍団とかを作って、みんなを困らせていたんです」
「で、それを正義の味方がやっつけるわけだ」
「そのとおり」
 千絵はぼくに向かって嬉しそうに指を突きつけた。あまり人に指をささないでほしい。
「でも今、この世界には魔王がいないんです。悪の権化はもうずっと昔からいなくなっちゃいました。そのせいで、正義の味方までどこかに行っちゃったんです」
「だから魔王が必要ってわけだ」
「そうです」千絵はにこにことうなずいた。
 ……まあ、それも一理あるかもしれない。
 ぼくは魔王のいる世界を想像してみた。空を覆う黒い煙、焼け落ちる街々、魔物に蹂躙される人々、悲鳴と殺戮、血の流れる川、混乱と飢餓による不和はやがて人々を覆い――
「…………」
 あまりよさそうではなかった。
 が、千絵はそんなふうには考えていない。そのことを、ぼくは昔から知っている。
「それで、どうするんだ? 魔王のいない世界で」
 ぼくは一応の礼儀として、こっちから先をうながしてみた。そう、千絵の話には続きがある。
「そう、それで――」千絵は実に嬉しそうに、力強くぐっと握りこぶしを作って言った。「わたしは魔王になりたいと思います!」
 ぱちぱちと、ぼくは気のない拍手を送ってやる。千絵は得意そうな笑顔だ。
 とはいえ、この話には問題が一つあった。とても重要な問題だ。
「……で、正義の味方はどこにいるんだ?」

 ぼくと千絵のつきあいは長い。小学二年のとき、ぼくがこの町に引っ越してきて以来、ぼくらは何かといっしょにいることが多かった。幼なじみ、というのは少し違うかもしれないけれど、大概そんな感じだ。二アリイコール。近くにいるのが普通、という感じ。家もすぐ隣だった。
 当然、ぼくらは同じ小学校に通っていたわけだけど、千絵はその頃から自分のことを魔王だと名のっていた。恥ずかしがりもせず、むしろ誇りを持って。ある種の宗教で特異な格好をするのと同じく。
 ではその魔王は、いったいどんな悪逆非道を重ねてきたのか?
 ――一例をあげると、こうだ。
 ある日、いつものように一人の善良な男子生徒が学校に登校してくる。彼は当然、靴を履き替えようとするだろう。何も知らずに下駄箱に向かった彼は、目の前の光景に愕然とする。
「僕の上履きが反対になってる!」
 普通、こちらを向いているはずのかかとが逆になって、つま先のほうが外側を向いている。しかも事態はそれだけではない。よく見れば見渡すかぎりの上履きが同じ状況に陥っていた。被害を免れたのは、その日偶然上履きを持って帰っていた数人の生徒だけ。
 このことは上履き逆さ事件≠ニして校内では知らない人間のいないほどのものになった(そりゃそうだ。ほぼ全校生徒が被害者なんだから)。その後は当然ながら、犯人は誰かという話になる。しかし名探偵の登場を待つ必要はなかった。犯人が自分の靴だけをそのままにしていたから……ではなくて、自分から名のり出たからだ。
 もちろん、千絵だった。
 職員室に呼ばれ、先生から理由を訊かれた彼女は、こう答えたという。「魔王はひどいことをするものだからです」。胸を張ってそう答える女子児童に、ベテランの小学校教諭といえども困りはてたのだろう。事態はうやむやのうちに流され、咎めだてといえるほどのものはなかった。
 一方、生徒たちのほうでもこの事件は困惑と称賛を持って受けいれられ、魔王の存在は一挙に認知されることとなった。全校生徒の上履きを延々とひっくり返すというその労力と意志の固さと、何よりも無意味さに、誰もが脱帽したせいだろう。魔王、奥村千絵の名は、一躍学校中に轟くこととなった。
 ……ところで、大都会のマンモス校といえるほどでなくとも、五百人近い生徒のいる小学校の、その上履きを全部ひっくり返すのには、どれくらいの労力と時間が必要なのだろう? さらには教員や用務員のチェックの入らないであろう児童の登校前に、その全部を行うには。彼女はそれを、一人で行ったのか?
 そう、一人じゃなかった。ぼくも手伝った。何故かといわれると、ぼくにもうまくは答えられない。よく分からないうちにそうなっていた、としか。最初のうちは、面白そうだから手伝ってやるか、くらいだったのかもしれない。
 その他にも、魔王による暴虐行為は数知れない。
 例えば、中庭にあった花壇の土を荒らしたり、クラス中にどんぐりをまきちらしたり、女子の着替え中に教室の扉を全開にしたり。――花壇は実質的には耕しただけ、どんぐりは居残りの掃除、最後のやつは一部男子に受けが良かった。
 千絵の魔王活動というのは、大体そんなものだった。大抵の場合は、彼女が何か思いついて、ぼくがその実現のための計画を練った。
 だから端から見れば、ぼくは魔王の一味だったわけだけど、クラスの友達からはそういうふうに見られたことはない。みんなはぼくが千絵の手伝いをしていることを知っていたけど、あくまでそれらを行うのは魔王である千絵だけだった。舞台上の黒子みたいなものがぼくの役割で、みんなもそれにつきあっていたのかもしれない。
 いずれにせよ、千絵の魔王活動が誰かの苦情を招いたり、嫉妬深いユダヤの神様の怒りに触れたりしたことはなかった。真の恐ろしさというのは、決して人々を表面的に怖がらせるものではないのだろう。
 そんなわけで、千絵の魔王活動は中学になっても続いた。やんわりと注意することはあっても、正面切ってやめろという人間はいない。やめろというだけの理由を思いつけなかったのかもしれない。あるいは、それこそ魔王の力だったんだろうか?
 そして結局、それは中学三年のあの最後の事件まで続くことになる。

 ぼくと千絵が中学に入って最初に起したのは、紙ヒコーキ事件≠セった。
 その日、ぼくらは屋上にいた。麗らかな春の日で、今にもウグイスの鳴き声が聞こえてきそうだった。季節は冬の重くて厚い外套を脱いで、軽やかな薄衣をまとおうとしている。ようするに、春だ。
 手に持ったカバンに詰めこめられそうな陽気の中で、ぼくは何度目かのあくびをしていた。
「今日はいい天気ですね」千絵が言った。
「まあそうだな」ぼくは頭のちくちくする感じをできるだけ抑えようとしながら言った。「もしも昨日、急にあんな作業をするなんて言い出して、おまけに徹夜でそれを完成させなきゃならない、何てことがなけりゃな」
「でもわたしは眠くないですよ」
「そりゃ、十二時過ぎた頃には熟睡してた誰かさんならそうだろう」
「徹夜は健康に良くないです」
 それはぼくの健康はどうなってもかまわない、という意味だろうか?
 鉄柵に寄りかかって座ったままの姿勢で、ぼくは千絵の顔を見上げた。
 遥か海の彼方をうかがうエンリケ航海王子のような千絵は、確かに今すぐ暗黒大陸の探索に乗り出しそうなほど元気そうだった。まあ元気そうじゃないこいつの姿なんて、ほとんど記憶にはないけれど。
 世界を柔らかく組み替えてしまうような春の風が、千絵のスカートを軽く揺らした。
 千絵の身長は低い。小学校の頃はそれほどでもなかったけれど、どうやら神様は千絵の成長を早い段階で止めてしまったみたいだ。そう背の高いほうでもないぼくの、肩の辺りまでしかない。手品をするときには便利そうだけれど、本人がどう思っているかは知らない。
 髪は二つに分けて、編まずにくくっている。人形のような、びっくりするくらい小さな手と足。ビー玉のような、不思議にまじろがない瞳。およそ不満というものを知らなそうな、ゆるやかな弧を描く眉。時々、地蔵菩薩のような、と形容される誉められてるのかどうか分からない笑顔。
 一言で言うのは難しいが、とりあえず奥村千絵はどこをとっても魔王らしさの片鱗もない女の子だ、ということはできる。
「あ、来たみたいです」
 しばらくして千絵はぱたぱたと、ぼくのほうに手を振ってみせた。
「じゃあそろそろはじめるとするか」のっそりと立ち上がりながら、ぼくは言った。

 その次に起こったことを、生徒の側から描写してみよう。
 入学式から一週間後、中学という新しい環境にもようやく慣れはじめようとしている。クラスに友達もできた。授業ははじまったばかりでまだ新鮮だ。期待と不安のまじった毎日だけど、とにかく新しい生活がはじまった実感だけはある。
 今日もいい天気だ。新しい電池を入れたばかりみたいな陽光が空から降りそそいでいる。そういえば今日は午前中から体育だ。きっと気持ちよく運動できるに違いない。
 バス停から校門までの通学路。ちょうど最初のピークというところだろう。おしゃべりしたり、ふざけあったりする生徒たちがたくさん歩いている。通りをだいぶ外れたこの道には、車もあまり走ってはいない。
 校門近くにさしかかったとき、その生徒はふと気づく。空を何かが飛んでいる。
 それはごく小さな何かだ。ふわふわと、宙をすべっている。UFO? と思ったら、また一つ。いや、無数の同じような塊が空を飛んでいる。やがて生徒のそばに、その何かが音もなく着地する。飛行物はランダムに、登校中の生徒たちのあいだに落下しているようだった。みんな立ちどまったり、不安そうに落下物を見たりしている。
 かがんでそれを拾いあげた生徒は、不思議な顔をする。それは紙飛行機だった。色とりどりの折り紙が花びらみたいに宙を舞っている。誰かが校舎のほうから、紙飛行機を飛ばしているのだ。
 生徒はその紙飛行機に、何か文字が書かれているのを発見した。奇妙に思いながらも、紙を開いていく。桜色の折り紙には、こんな文字がプリントされていた。

『今日、誰かに向かって十回 ありがとう=@と言うこと。
――一年C組の魔王より』

 ぼくは屋上の縁から紙飛行機を投げながら、ぼやかざるをえなかった。
「何で、ありがとう≠ネんだよ」
「だって、不幸になれとか書かれたら嫌じゃないですか」
「わざわざうちのクラスだってばらしたのは?」
「誰のしわざか分からないと気持ち悪いですよ」
 ぼくは文句を言う気もなくして、紙飛行機を次々と飛ばした。
 大体の紙飛行機は玄関から校門を越えたあたりで墜落するけれど、中には風に乗ってどこか遠くまで飛んでいくものもあった。きっと冒険心にあふれた紙飛行機だったのだろう。
「すごい遠くまで飛んでますね」
 千絵はそれを見て無邪気に喜んだ。ぼくも手をとめて、しばしそのリンドバーグ的紙飛行機の行方をうかがう。無事にパリまで届くとは思えなかったけど。

 ――これが県立鈴森中学校の魔王、奥村千絵だった。

 その後、中学三年になるまでぼくらの学校生活はそんなものだった。千絵が何か思いつき、ぼくがそれをプランニングする。ちなみに、三年間ぼくと千絵は同じクラスだった。ようするに腐れ縁というやつだが、もしかしたら魔王の呪いかも知れない。
 小学校時代同様、千絵は何故か魔王として認知され、誰からも文句を言われることはなかった。もちろん伝説の勇者が登場することも、神に選ばれた光の戦士が挑戦してくることもない。
 そういう点では、ぼくらの学校生活は昼寝中の猫のように平穏だった。ファンタジーもSFもミステリも存在しない。あるのはただ日常と、その外延上にぶらさがった人畜無害の魔王がいるだけ。
 ぼくらは、「ちょっとした変わり者」くらいに思われていたのだろう。退屈な日常を盛り上げるささやかなイベンターとして。そのことを千絵のやつがどう思っていたのかは知らない。ただぼくとしては、それくらいで十分だった。のけ者にされるわけでもなく、むしろ少しは歓迎されている。
 クラスの中でも、大体そんな感じだった。というより、クラスのまとまりはむしろよかったような気がする。魔王というのが、ある種のシンボルというか、超自然的な結合力を演出していたのかもしれない。全身ぬれねずみになってしまったら、もう傘をさす気がなくなるみたいに。
 三年になった時も、状況はまったく同じだった。
 二学期半ばの、ある日のことだ。
 ぼくは図書室で、ぱらぱらと本をめくっていた。うちの中学は校舎を新しくしたばかりで、各種設備がかなり充実している。この図書室もそうで、広くて明るい室内に大量の本が並べられている。勉強するにしても暇つぶしをするにしても格好の場所だった。
 本棚に隠れるような、あまり人の来ない窓際にいると、いきなり声をかけられた。
 ぼくの後ろはすぐ窓で、本棚に隠れているとはいえ三方への視界は広い。にもかかわらず、ぼくは声をかけられるまでその存在に気づかなかった。
 顔を上げて、なるほどな、と思った。それは李美花(リ・メイファ)だった。
 李は中国からの留学生だった。ピアノの黒鍵のような黒髪で、どこかの画家が描いた美人画そのものみたいな風貌をしている。おまけに少林寺拳法の達人だった。クラスの自己紹介でそれを聞いたときには、世の中には実にいろんな人間がいるものだとしみじみ感じたものだ。
「奥村がお前のことを呼んでたぞ」李は流暢な日本語の、しかしぶっきらぼうないつもの口調で言う。
「なんで?」ぼくは李に訊いた。
「用は知らん。ただ、お前のことを探してた。ここに来たら見かけたから、声をかけただけだ」
 日本人の母親から習って彼女の日本語は完璧なのだけど、どういうわけかはきはきとしゃべりすぎる癖がある。図書室では静かに、ということは分かっているのだろうけど、これも中国人であることと何か関係があるんだろうか。
「分かった、戻ってみるよ」
 これ以上会話を続けるのもなんなので、ぼくは本を閉じた。するとその表紙を見て、李は書家の書いた草書体的に美しいその眉をひそめる。
「何なのだ、これは?」
 彼女が間違いなくそのタイトルを読めるのは分かっていたけど、ぼくは正確に発音してやった。
「スーパーヒーロー、カナデンジャーのすべて――これで君もスーパーヒーローの仲間だA――=v
「最近覚えた言葉がある」李はいつもの口調で言った。
「なに?」
「これはどこからつっこめばいいんだ?」
 確かに、その気持ちは分かる。
 本の表紙には爆煙と、悪の親玉フキョウワオーを背景に、五人のレンジャー戦士の姿があった。さらにその傍らには、音楽をテーマにした数々の秘密兵器の雄姿が――
 しかしそんなことはどうでもいい。
 うちの図書室のカバーはそんなところまで及んでいるようだった。げに恐るべきは司書なり。中学校の図書室にこんなものがあるのはどうかと思うけど、しかし現にこうしてあるのだから仕方がない。ちなみに本棚にはDまできちんとそろっていた。
 あと念のために言っておくと、これはぼくの趣味ではない。千絵の趣味だ。ぼくはただそのことを思い出して、本を手にとったにすぎない。念のために。
「奥村のやつが好きだから、教えてやろうかと思って」ぼくは李に向かってきっちりと、そのことだけは釈明した。
「そうか」どう判断したのか、李はそれ以上質問してはこない。あるいは、カナデンジャーレッドの持つバイオリンがいったいどんなふうに使われるのか考察していたのかもしれないけど。
 本を片づけて行ってしまおうとすると、李が声をかけてきた。
「お前たちは仲がいいんだな」
 ぼくは少しだけ考えるふりをした。
「ただの腐れ縁だよ。中学通してクラスがいっしょなんだから」
「そうか」
 その「そうか」が疑問なのか、納得なのか、反問なのか、それとももっと別の何かなのか、ぼくには分からなかった。そのまま李に別れを告げて図書室を出る。彼女はどうも、外国書籍のほうに向かっているようだった。
 クラスに戻ってくると、しかし千絵の姿はない。行き違いになったのかと思いながら、近くでエロ本を読んでいた藤野に声をかけてみた。
「誰がエロ本だ、誰が」
 心の声を読まれてしまった。そう、藤野はうちのクラスにいる三人のテレパスの一人だ。
「全部しゃべってるよ」
「せっかく超能力者にしてやろうと思ったのに」
「いらん。それになんだよ、三人て」
「藤野・Aと藤野・F」
「俺はドラえもんも喪黒福造も描けねえよ。つうか、じゃあ俺は何なんだ?」
「アシスタントの一人」
「もういいよ」
 ……確かにもういい。
 今風の髪型でかっこつけの藤野はノリがいい。今のは社交辞令みたいなものだった。
「ところで奥村見なかったか?」ぼくは話を元に戻した。
「どうかな、確か葛城といっしょにどこか行ったみたいだったけど」
「葛城?」
 うちの書記係だった。委員長とかだとまた話は違うが、書記に何の用があったんだろう。
「何だ、また魔王の悪だくみか?」
 嫌味というより軽くからかうような藤野の表情。
「どうだかな」ぼくは肩をすくめてみせる。実際、どうなのかは知らない。戻ってきてから直接本人に聞くしかないだろう。
「ところで、本当は何を読んでたんだ?」
 藤野はぼくにその本を見せてくれた。
「ゼータ関数における非自明なゼロ点はすべて一直線上を通るか?=v
 ぼくの日本語が間違っていなければ、そこにはそう書いてあったはずだ。

 結局、休み時間が終わるまで千絵が戻ってくることはなかった。
 ぼくは授業(国語)が終わってから、クラスメートのあいだをぬって千絵の机に向かった。
「何か用事か?」
 大抵、こういうことは千絵のほうから言い出してくるのだが、今回は違っていた。しかも、その様子からしてどうもここでは言いにくいことらしい。
「どこか二人で相談できる場所に行きませんか?」千絵は教科書を片づけながら言った。こいつが手に持つと教科書が妙に大きく見えるのが不思議だ。
「昼は弁当だよな?」
「うん、そうです」
「じゃあアトラスに行こう」
 アトラスというのは、某ゲーム会社のことでも、KOEIの作った某ゲームのことでもない。銅像のことだ。
 学校の敷地にあって、休憩所とも中庭ともいえないような空きスペースに立っている。アトラスはギリシャ神話に出てくる巨人のアトラス。例の天空をかついでいる神様のこと。ぼくらの世界を支えてくれるありがたい神様だが、生徒たちの人気は低い。
 見れば分かる。
 何せこの神様、ひどく苦しそうな顔をしているのだ。重い荷物を肩にのせて、今にも崩れ落ちそうな格好をしている。首の骨なんてとっくに変形してしまっているだろう。永遠に天空を支え続けるなんて、考えるだけでうんざりするような苦役だった。
 製作者の意図はともかく、こんなものを見せられて喜ぶ中学生がいるはずはない。
 ちなみに神話では、アトラスは最後に石になってしまう。例のゴルゴンの首をペルセウスに見せられたからだ。それが、アフリカ西北端のアトラス山脈の由来になっている。海洋民族であるギリシャ人の行動範囲が分かるというものだ。
 が、こんな余談はどうでもいい。
 ぼくと千絵は弁当を持って、この銅像の前までやって来た。
 予想通り、人はいない。そして銅像は、今日も苦しそうだった。青息吐息、という感じだ。例えるなら性悪なブラーバンドの金物屋に酷使されるパトラッシュ、というところだろう。フランダースの犬に幸あれ。
「相変わらず苦しそうです」千絵は心の底から同情するような声で言った。
「その荷物を肩代わりするのは、お前じゃ無理だぞ」
 ただの女の子、それも身長一三〇センチにも満たない魔王ならなおさらだった。大体がヘラクレスだってやっとだったんだから。
 銅像の前にはベンチが一つ置かれている。そこに座ると、今にも空から何か落ちてくるような気がした。昔の人は、それを杞憂と呼んだけれど。
 季節は秋の半ばを過ぎたくらいで、空気はそろそろ冷たくなりはじめている。昼のこの時間、それにこれだけ天気がよければ別だけど、これから外で食事をするのは難しくなるだろう。いい加減にうんざりして地球が公転するのをやめないかぎりは。
「それで?」ぼくは弁当箱を開きながら言った。一目見て、嫌いなナスが入っているのに気づく。
「ちょっと相談したいことがあるんですよ」
 隣で、千絵が弁当の包みを開く。中にはサンドイッチとサラダが入っていた。その量はごく少ない。ただ、それは千絵が自分で作ったものだということを、ぼくは知っていた。にしても、これだけ少ないと一口いただくというわけにもいかない。
「これ、やるよ」
 ぼくはナスの煮物を差しだす。決して、嫌いだから厄介払いしようとかいうのではない。
「ありがとうです」
 千絵はにこにことしてそれを受けとった。
「幸文(ゆきふみ)くんは相変わらずナスが嫌いなんですね」
 ばれてるし。
 まあどうでもいいんだけど。
「それで、相談て葛城のことか?」ぼくはから揚げをつまみながら言った。一口食べてみて、それが鶏肉ではなくレンコンのつみれだということに気づく。
「うん」
 千絵はサンドイッチを一口かじった。まるで小さなリスみたいに。
「藤野に聞いたらお前と葛城がいっしょにいたって言ってたけど、葛城が何の用事なんだ?」
「ん……」
 何故だか、千絵は言いよどんだ。自分のほうから持ちかけてきたくせに。
 葛城はくせっ毛、ショートカットの女の子だ。極度の運動音痴で、階段でよくつまずく。それ以外はいたって普通の性格だが、やや抜けている。
 彼女を知る友人は、葛城が書記になるのを聞いて、「世界中の天然パーマがストレートになる前兆か」と、噂しあったという。本当かどうかは知らないが。
「相談したいって言ってきたのはそっちのほうだろう?」ぼくはあらためて軽くうながしてみた。
「あのね」千絵はひどく重大なことを告げるように、それこそ世界中の秘密を打ちあけるように言った。「葛城さんは、委員長のことが好きなんだそうです」
「…………」
 もちろん、大抵の人間はそれを知っている。
 それは意外なことでもなんでもなかった。ちょっと気のきいた人間なら、そんなことはすぐにでも分かることだった。考えてみれば、葛城が柄にもないクラス書記なんてものに立候補したのも、そのためだったんだから。
 気づいてないのはたぶん、当の委員長と葛城本人くらいなものだ。いや、どうもこいつも気づいてはいなかったらしい。まるで重要な秘密を知ってしまったみたいな、高揚した顔をしている。ちょっと頬が赤くなっていた。
「……へえ、そうなんだ」
「そうなんです!」
 ぼくが驚くふりをすると、勢い込まれてしまった。
 しかし葛城が恋の相談をしたからといってどうなんだろう。それに正直、こいつを相談相手とするのは間違いなく、間違っていることは、間違いない。三重でも足りないくらい間違っている。そんなのは南極まで行って北極星を探すようなものだ。
 葛城が藁にもすがる思いでこいつに相談したのは分かったが、だからといってどうなんだろう。見事におぼれることだけは確実だが、それは藁の浮力を見誤った葛城の責任でしかない。悪いとは思うけど。
「…………」
 しばらく、沈黙が続いた。目には見えないけど、地球が少し動いた。千絵は何故か口を開かなかった。
 ぼくは仕方なく訊いた。「それで?」
「何とかならないですかね……」
 ぼくはため息をついて、箸を置いた。こうなるのは分かっていたことではあるが。
「葛城書記と委員長のことか?」
「……うん」
 これは、どう考えても魔王向きの仕事とはいえない。例の、金の矢と鉛の矢を持った子どもの神様に頼むべき筋合だろう。
「いったい、どうするつもりなんだ?」ぼくは無駄と知りつつも、一応訊いてみた。
「きっと大丈夫です、わたしは魔王ですから」千絵は何故だか笑顔を浮かべた。
「……その自信の根拠を知りたい」
「魔王に不可能はありません」
 ぼくはもう一度ため息をついた。もちろん世の中には、不可能のある魔王だってちゃんといるのだ。

 委員長の名前は、副島という。
 うちのクラスの最高責任者、兼野球部部長をやっている。
 野球部だけあって体格はいいが、筋骨隆々という感じではなく、しなやかといったほうがいい。責任感があって、裏表がなくて、かといって堅苦しいところはない。二塁手、背番号四、県大会で決勝まで行った。普段は眼鏡をしている。
「どうするんですか?」
 ぼくらはその日の帰り道で相談をした。……というか、お前には何の考えもないのか?
「副島に惚れ薬でも飲ますか」
「あるんですか?」
「ねえよ」
 魔王ならそれくらい用意しておいて欲しい。
 ぼくも千絵も通学は徒歩だった。家は歩いて二十分ほど。急ぎのときは自転車も使うが、その機会は滅多にない。
 商店街のアーケードを抜けながら、ぼくは話を続けた。本屋やら貴金属店の前を通りながら、時々走っている自転車をやり過ごす。人ごみが少ないのは、秋風が吹いているせいだけではないだろう。
「というか、副島のほうはどう思ってるんだ?」
 もしも副島が葛城のことを好きだというなら、話は実に簡単だった。
「どうなんですかね。幸文くんは知らないんですか?」
「うむ」
 ぼくはいつもの副島を思い出してみる。
 授業中、きいきい音がすると思ったら副島がハンドグリップを握っていたことがある。目があうと、見逃してくれといった感じで唇に指を当てた。
「体力馬鹿の一面があるからな、あれで」
「女の子に興味はないんですか?」
「いや、あるだろう」
 副島のために即答してやる。こいつが勘違いすると話がややこしくなりかねない。
「ただ、誰かとつきあってるとか、誰かのことを好きだとかは聞いたことがないな」
「じゃあ葛城さんにも可能性はありますね」
「女子のあいだではどんなふうに言われてるんだ、あの男?」情報を増やすために、そんなことを訊いてみた。
「確か、バットを持たせたらすごそうだって言ってました」
「……誰だ、その至極微妙な批評をものしたのは?」
「伊勢崎さんです」
 あの女、妙な言いかたをするのはよしてほしい。特に千絵の前では。
「とにかく、副島自身はフリーで、対抗馬もいないってことだな」
「やっぱり惚れ薬ですかね」
「あいにくうちの魔王軍にはキルケみたいな魔女はいない」
 魔女どころか、ガイコツ一匹いやしない。
 アーケードの終わりにさしかかったところで、ぼくはつぶやくように言った。「要するに、葛城が副島にアタックすればいいわけだろ」
 副島が葛城を好きになるよう仕向けることはできないけど、それこそクピドよろしく二人がつきあうきっかけを作るくらいのことはできるだろう。
「葛城さんはバレー部だから、アタックはお手のものですね」
 千絵がその小さな手を振り回してボールを打つまねをする。そこには猫パンチほどの迫力もなかったが。
「問題はうまくトスをあげられるかどうかだな」
 ぼくはその方法を考えてみた。信号が赤になって立ちどまる。車が音を立てて走りはじめた。車にも秋の終わりが分かるのか、その音はどことなくもの悲しかった。
「ちょっと古典的な手を使うか……」しばらくして信号が青に変わったとき、ぼくはそうつぶやいた。
 魔王軍に魔女はいないが、影の参謀役ならここにいる。

 作戦にはまず、担任の教師を使う。
 次の日、ぼくはさっそく昼休みに職員室へ向かった。
 三年F組担当の理科教師、高田直樹は自分のシステムデスクに座って一人でコンビニ弁当をつまんでいた。机の上には今にも崩れ落ちそうな書類の山が、不遜にも神に挑戦するバベルの塔のごとく積みあげられている。
「別に寂しくはないぞ」
「まだ何も言ってません」
 高田直樹(三十五、独身)はぼくが何か言おうとする前に、自分からそう言った。
 無精髭を生やして、身なりにはほとんど気を使っていない。ジーパンとトレーナーの上に白衣を羽織っていた。白衣は先生と同じくらいよれよれになっている。白衣が実にかわいそうだった。
「昼食のときも白衣ですか?」ぼくは訊いてみた。
「汚れが服につかないからな」
 しかし薬品の染みや焦げあとならともかく、ドレッシングやウスターソースをかけられるのは白衣としても本意ではあるまい。
「それより、何か用なのか清川(きよかわ)? まさか俺に昼食を恵んでもらいに来たわけじゃあるまい」
「キリストは貧者の施しこそ本物だって言ってますけど」
「うちは浄土真宗だよ」もそもそとコンビニ飯をかっこみながら言った。独身の男がこうやって一人寂しく昼食をとっている光景は、どうしてこんなにも侘しいんだろう。
「テストの内容なら教えてやらんぞ」先生ははたと気づいた、というふうに言った。
「誰も聞いてませんて」
「貸金庫の番号もだ」
「絶対ないでしょ、それ?」
 先生は弁当を食べ終わると、湯のみに入っていた、どう見ても冷めきったお茶を口にした。
 昼の職員室は談笑する先生やら質問に来た生徒やらでそれなりに騒がしい。
「それで、いったい何の用なんだ、清川?」高田先生はようやく教師らしい格好に落ち着いてから訊いた。
「ちょっとお願いがあるんです」
「お前のお願いっていうとあれか、例の奥村の、魔王のことか」
 察しがいい。
 もっとも、こうして先生に頼みごとをするのは初めてではなかったけれど。
「平たく言うと、そうなります」
「また前回みたいに、学校中に目覚まし時計を仕掛けるわけじゃないだろうな」
「今回はもっと私的なやつです。うちのクラスのことですから」
「うちのクラス?」
 担任だけあって、さすがに気になるのだろう。
「平たく言うと、恋の話です」
「恋の話?」
 独身だけあって、さすがに気になるのだろう。
「プライバシー保護のために名前は伏せときますけど、一人の恋する乙女のためです。先生の協力をお願いします」
「恋する乙女、ねえ」
 高田先生はぽりぽりと頭をかいた。みるからに恋する乙女に縁のなさそうな顔をしている。この理科教師の頭の中でどんな化学反応が起こっているのかは、ぼくには分からなかった。
「まあいいだろう。それで、俺は何をすればいいんだ?」
 ぼくは持参した一枚の紙を手渡した。
「何だ、これは。生活調査アンケート?」
「それをクラスで実施して欲しいんです」
「まあ別にかまわんが、これと恋する乙女にどんな関係があるんだ?」高田先生は不思議そうな顔をした。
「ある古典的な演出のための小道具です」
 ぼくはそれだけ言っておく。高田先生はよく分からないながらも、とりあえず了解してくれたようだった。「近日中に実施しとく」と約束してくれた。
 これでぼくの用事は終わりだった。
「ああ、そうそう。言っておくことがあった」
 帰ろうとしたぼくに向かって、先生は声をかけてきた。
「お前らももう三年で、受験とかも近い。奥村の魔王だとか、変てこな活動はな、先生も好きだが、けど時期が時期ってこともある。学校に変な噂が立って推薦を取り消される、なんて心配するやつもいるかもしれん。何をするのかは知らんが、一応気をつけておけよ」
「……それだけですか?」
「ああ、それだけだ」
 ぼくはあらためて先生の前から辞去した。
「それにしてもこのアンケート票、よくできてるな」
 帰り際、高田先生のそんな声が聞こえた。

「アンケート自体には、特に意味はない」ぼくはもう一度、千絵に向かって説明してやった。「問題は集計作業だ」
「うん」
「回収されたアンケート用紙は、当然だけど集計されないと意味がない。用紙を一枚一枚調べて数をかぞえなくちゃいけないわけだが、これはすごく面倒だ」
 ぼくと千絵は、自分たちのクラスではなく、隣の教室にいた。何故なら、今クラスでは重大な場面に差しかかっているはずだから。放課後で、生徒の姿はない。遠くのグラウンドから運動部のかけ声が聞こえた。
「残念ながら、先生にはそんな作業を行っている暇はない。テストの作成とか、隠し口座の管理とかで忙しいわけだ」
「隠し口座?」
「たぶんタンス預金のことだ。そこで金銭面も含めて今後の生活に不安いっぱいの高田直樹先生はどうするか?」
「クラス役員に仕事を任せる、です」
「そう、要するに副島と葛城の二人なわけだ。飛行機大好きほんわか少女の小堀副委員長と、怪しいイラストばっかり描いてる鹿賀野書記は急な用事が入って手伝いができない」
「他のみんなも部活や勉強で忙しいわけですね」
「つまり偶然にも副島と葛城は誰もいない放課後の教室に二人っきりというわけだ」
 そう、これがぼくの考えた古典的演出だった。もちろん、誰にも副島と葛城のことは話していない。けど魔王のこんなお願いは珍しくないので、みんな快く了承してくれた。
「あとは葛城さん次第ですね」
 千絵は自分がその立場に立っているかのように興奮した顔をしていた。
「そう、舞台は整えてやった。アポロンがダフネを捕まえられるかどうかは本人次第なわけだ」
「でも――」千絵は急に不審そうな顔をした。「どうしてわたしたちがここにいるんですか?」
 いい質問だ。何故、ぼくらがF組の隣の教室にいるのか。
「これから、葛城は副島に告白するわけだ」
「たぶんそうだと思います」
「そのお膳立てを整えてやったのはぼくたちだ」
「一応、そうです」
「ということは、だ」ぼくは咳払いを一つした。「その様子を知る義務と権利が、ぼくたちにはある」
「…………」
 千絵は小さく首を傾げた。
「そうですかね?」
「見たくないなら無理にとは言わん」
「でもよくないですよ、そんなの。人として」
「お前は魔王だろうが」
 千絵はもう一度小さく首を傾げた。
「それもそうですね」
 納得したらしい。ぼくとしてはそれもどうかとは思うけど。
 二人の意見が合致したところで、ぼくは手順を説明した。各教室は、ベランダで一つにつながっている。だから隣のこの教室から、ベランダ伝いに移動してF組の様子をうかがうことができる。移動は窓から見えないようにかがんだまま、音を立てずに。
 もしも二人のうちどちらかに気づかれたら、それこそ目も当てられない。
「それじゃ、慎重に」
 まずぼくが先頭になって、中腰のままそろそろと進んだ。ゴム底の上履きはほとんど音を立てることはない。少しあとから千絵が続いた。
 空は晴れていて、雲は変に遠くに見えた。空の重さも変わるんだろうか、とぼくはふと思ってみる。何か硬質なものを金属バットで叩いているような音が、よく分からない場所から聞こえた。道路工事でもしているのだろう。
「――も急だよな」声が聞こえた。副島の声だ。
 ぼくはその声に一番近そうな場所を選んで、壁に背をもたせて座る。隣で千絵も同じようにして体育座りをした。どうでもいいが、わりと寒い。
 おそらく、二人は壁の向こうで机をつきあわせて座っているのだろう。その机には回収されたアンケート用紙がのっているはずだった。
 ――以下は、想像もまじえた二人の様子について。
「急ぎだから今日中に終わらせてくれだなんてさ」副島がやりきれないといったふうに言った。ただその口調はぼやくようなところはなくて、あくまで相手の気を使っているだけ、という感じがした。ラジカルに爽やかなやつなのだ、副島という男は。
「うん、ちょっと急だね」葛城が軽くうなずき返す。念のために言っておくと、葛城は今日のからくりはすべて承知している。
「おまけに副委員長も鹿賀野も用事だって」
「そうだね」
「葛城さんも運が悪かったね。二人だけで仕事なんて」
「――うん」
 ところが、不運どころかそれが狙いなのだ。……副島が一生気づくとは思えないけど。
「なんなら俺一人で終わらせるから、葛城さんも用事があるなら帰っていいよ」
「ううん、全然そんなことない」葛城は強い否定の意をこめて首を振った。「あたし、全然嫌じゃないよ、副島くんと二人で」
「そう?」
 言外にこめられた意味に、副島は特に気づく様子はなかった。さすが運動馬鹿。
 しばらく沈黙があった。時間の粒が音もなく降りつもっていくような沈黙だった。アンケート用紙を集計する鉛筆の音だけが聞こえる。
 口を開いたのは葛城のほうだった。「……もうすぐ、卒業だね」
「うん、そうだな」
「副島くん、野球部は?」
「もう大会もないし、実質的には引退してる。ちょくちょく顔出しして練習してるけどね」
「高校に行っても野球続けるつもりなんだ」
「推薦とれるほどうまくはないけどさ、やっぱり好きだから。親には勉強に支障が出ない程度にしとけって言われてるけど」
「あたし、野球してるときの副島くんて好きだよ。格好よくて」
「俺も野球は好きだからさ、それくらいはがんばりたくて。葛城はバレー部だろ?」
「あ、うん……」
「バレーって大変そうだよな、頭使って。俺いまだにルール分かってないよ」
「慣れたら簡単だよ。サーブ交代するたびにローテすればいいんだから」
「それがよく分かんなくて」
「えー、そんなことないよ」
「アンケート、あとどのくらい残ってる?」
「半分、かな」
「こっちは三分の一くらい」
 葛城は作業を続けながら言った。「――あたしね、副島くんのことが好きなんだ」
 ぼくの隣で、千絵はまるで自分がそう言ったみたいに顔を赤くする。一瞬、世界そのものが止まってしまったみたいだった。葛城の言葉は、自分でもたった今そのことに気づいた、という感じだった。
 副島はふと、手をとめる。
「迷惑と思うかもしれないけど、でもね、ずっと好きだったんだ」
 何かをそっと手放すような、葛城の言葉。
「一年の頃から、ずっと。あたし運動ダメだけど、副島くんが野球してるとこ見て、すごくいいなって思ったんだ。あたしもあんなふうになれたらなって。それで、友達といっしょにバレー部入って、ずっと補欠だったけど、がんばってきた。副島くんが野球を続けてるから、あたしもがんばろうって。つき指したり、膝をすりむいたりしても、へっちゃらだった。少しでも副島くんに近づけるように強くなりたかった」
「…………」
「あのね、もう一度言うよ。あたしは副島くんのことが好きなんだ」
 葛城は一等星よりも強い目の輝きで、副島のことを見つめる。
 ぼくは黙っていた。千絵も黙っていた。副島も黙っていた。工事現場の音は聞こえなくなっていた。
 やがて、副島は言った。
「……ごめん」
 葛城が上気した顔のまま、泣きだしそうにしているのが分かる。
「それは、つまり、他に好きな人がいるってこと?」
「違うんだ」
 どう説明したらいいのか分からない、というふうに首を振る副島。
「俺はたぶん、そういうのが分からないんだ。つまり、俺はまだ人を好きになったりしたことがないってこと。だから誰かを好きになるとか、恋をするとか、そういうのがよく分からない。葛城のことは嫌いじゃないよ。でも、やっぱりよく分からないんだ、俺」
 隣で、千絵が何故だかぼくの手首をかなりの強さでつかんだ。
「あたし、ふられたのかな?」
 葛城が泣こうとするような、笑おうとするような、そんな声で言った。
「……そういうわけじゃないと思う」
「あたしね、高校になったら東京の学校に通う予定なんだ。そうしたら、きっともう会えなくなるよね?」
「……うん」
「あたし、ふられたほうがよかった。きっと嫌いだって言われたほうが、副島くんのことを好きでいられた。ずっと、そのことを大切にしていけた」
 机に座ったまま顔をくしゃくしゃにした葛城の瞳から、涙がぽつりと落ちた――ような気がする。
「ごめん」
「いいよ、副島くんが悪いわけじゃないんだから」
「――ごめん」
 ぼくも千絵も、一言も口をきかなかった。
 やがてとんとんとアンケート用紙をまとめる音がして、先生のところに行くからといって副島が教室を出て行った、からっぽの教室に、葛城だけが残されている。
 ごそごそと、たぶん涙を拭う動作をしてから、葛城はカバンを持って教室から出て行った。ぱちんという電気を消す音が最後にすると、それっきり室内には誰もいなくなる。
 千絵はまだ、ぼくの手首を強く握っていた。どうしていいのか、ぼくには分からなかった。
 前にも言ったとおり、魔王にだってできないことはある。

 ……中学三年も三学期に入って、冬は本格的になろうとしていた。
 日を追うごとに気温は低くなって、吐く息が白い。マフラーを巻き、コートを着て、手袋をはめる。体を小さくして、寒さをやりすごす。
 雲は鉛色の重たさを増して、ある日の夜、堤が音もなく壊れたみたいに雪が降ってくる。決壊した空から溢れた白い塊は、天の重さで地上を覆う。アトラスがその肩に担う質量で。
 雪の日に目覚めた朝、世界は確かに変わっている。道も、信号も、何もかも元の位置にあるのだけれど、確かに違う。厚めのブーツを履いて、積もった雪に体重をのせる。幾千、幾万の微小なガラスの結晶を踏みくだいたような音が、白一色の世界に響く。
 空を見上げて、そっと息を吐く。そこから落ちてきたもののことを考えながら。
 季節は巡る。
 いつだって、そうだ。そして巡る季節の中で、ぼくらは変わっていく。同じところにはいられない。中学を卒業して、高校に進む。その高校だっていずれ終わる。さすがにその先のことはまだうまく想像できないけど、でもやはり何もかも変わっていく。
 変わらないのは、奥村千絵が魔王であることくらいだ。
 ぼくはそう思っていた。たいした根拠もなく、ただ無責任に。
 でも、それは違っていた。
 たぶん、ぼくはずっと前からそのことに気づいていた。少なくとも、気づいていてもおかしくなかった。それなのに、気づかないままでいたのだ。
 あるいはぼくは、気づかないふりをしていただけなのかもしれない――

「雰囲気重いです」千絵はいきなり言った。
 そりゃそうだろう。
 ぼくらは学習室にいた。前にも言ったとおり、うちの学校は数年前に建てかえられたばかりで、各施設は最新機器でしつらえられている。この学習室もそうで、防音用の間仕切りで区切られたブースにはたっぷりの広さがあり、内蔵ヘッドフォンからは好きな音楽を聞くこともできた。当然、冷暖房完備で、ポットからお茶やコーヒーを飲むこともできる。
 学習室なんだから雰囲気が重いのは当たり前だった。特に、そろそろ受験の頭が見えてきた今頃ならなおさらだ。逆にお祭り気分で浮かれ騒いでいたら、そっちのほうが驚く。
「そうじゃないですよ」千絵は不満そうな顔をした。
「じゃあ何なんだ?」ぼくは形容動詞の活用を再確認しながら訊いた。だろ・だつ・で・に・だ・な・なら。変な呪文だ。
「つまり、こう――」
 千絵は身振り手振りで何とか表現しようとしている。どうやら語彙の限界に達したみたいだ。といって、現代美術舞踏家でもないこいつに、そんな身体言語能力があるはずもない。
「――何だか、暗いんです」
 諦めて、日常語に戻ったらしい。
「受験も近くなってきたしな。当然だろう」
「でもこういうのは何か違います」
 防音間仕切りつきとはいえ、さすがにうるさかったのだろう。一つ空いた隣の女子生徒に「しっ!」と唇に指を当ててたしなめられた。「すいません」と小声で謝っておく。
「世の中、学校だけがすべてじゃありません」ぼくのブースにイスごと入ってきて、千絵は言った。さすがに二人分となると、ブースはひどく狭い。
「すべてじゃなくても世の中の一つだ」
「そんなの詭弁です」
「この場合詭弁なのは、あきらかにお前のほうだろう」
「世の中にはもっと大切なことがあります」
 千絵はひきさがろうとしない。
「例えば?」
「……愛、とか?」
「基本的生活が保障されてこその愛だ。そういうのは高校に行ってからにしとけ」
「わたしだって受験が大切なことくらい分かってます」千絵は唇をとがらせた。「でもだからって、重くなったり暗くなったりするのは違います」
「どう違うんだ?」
「こう、つまり――」
 やはり言語能力の壁を突破できなかったようだ。千絵の手はフレミングの法則よろしくねじまがった。
「これから断頭台に向かおうって人間が、のん気にとなりのトトロを歌ったりはしないだろ」
「わたしたちは死ぬために生きてるわけじゃありません」
「――――」
 時々、千絵の言葉は真実をつく。
「まあ悲壮感が漂いすぎてるのは認めるよ」
 ぼくは千歩譲った。
「ですよね、だからわたし考えたんです。みんなを元気にする方法」
 嬉々とした表情で、千絵はそのみんなを元気にする方法≠ニやらを語った。ぼくの譲った千歩は、小さな千絵の分だけ相当に歩数を間違えられたらしい。
「――それ、本気か?」ぼくはさすがに、聞き返さざるをえなかった。それが無駄なのは、分かっていたけれど。
「Exactly!」おそらく覚えたばかりの英単語で、千絵は答えた。
 まさしく、と。
 たぶんアメリカ人はこういうときに言うのだろう。「Oh, my god」とか。

 ――今回はやることがはっきりしているので、あとは細かい計画と実行手段を調えるだけだった。というか、基本的にはその場合のほうが多い。
 そんなわけで、ぼくと千絵は翌日の放課後、放送室にお邪魔していた。二人だけではなく、同じクラスの放送部員、千葉といっしょである。
 千葉は眼鏡をかけた才女ふうの女子。だが見た目と違ってアホそうな似非関西弁を話す。理由を訊いたら、「うちのポリシーやねん」と返された。笑顔で。
 その千葉が、鍵を使って放送室のドアを開けた。慣れた手つきで真っ暗な部屋の明かりをつける。二、三度明滅してから、電灯はしぶしぶといった感じで室内を照らした。
 二つに仕切られた部屋の、手前にはコンソールや操作用パネル、映像編集用の装置といった機材が置かれている。奥はスタジオになっているようで、たたみ五畳ほどの空間にはほとんど何も置かれていない。
「へえ、わたし放送室に入るのははじめてです」もの珍しそうにきょろきょろしながら、千絵が言った。見慣れない機械類を見て興奮しているのだろう。
「まあ普通の生徒やったら滅多に来んやろうな」
 靴を脱いで、千葉は床の上に上がった、土足厳禁らしい。
「なかなか放送人魂をくすぐられる光景やろ?」
「くすぐられる光景です」
 どんな魂だよ。
 ぼくと千絵も、靴を脱いであがる。後ろで音を立ててドアが閉まった。
「こんなにボタンがあると、放送するのも大変そうだな」うんざりするくらいたくさんあるスイッチやゲージ類を見ながら、ぼくは言った。
「何言うてんの。これでも少ないくらいやで。こんなんやったらろくなミキシングもできへんし、映像のほうもたいしたことできんわ。もっとも今日び、パソコンで大抵のことはできるけどな」
「いつもの放送も、ここから流してるんですか?」
 千絵の言ういつものとは、昼休みの自由放送と、下校時間を知らせる音楽のことだ。
「そう。どうやった、うちの『今日のにゃんこ』?」
「…………」
 それは昼休みに放送された、ただひたすら猫の鳴き声を流すだけという不気味な番組だった。実際に外で収録されてきたらしいその録音には、千葉本人によるナレーションがつけられている。
 結局、散々の不評のうちに番組はあえなく打ち切りとなったが。
「というか、あれ嘘だろ?」
「やっぱりばれとったか」
「ドラ猫がお魚くわえてるあたりでな」
「放送には多少のフィクションは必要やで」
 その前向きさだけは評価できる。
「……で、あれってどうやって流してたんだ。スイッチとか、そういうの」
「そんなの簡単やで。まずここの電源を入れる。次に入力端子につないでな、ほんで出力の調整や。音量とか、放送かける場所とか選んでな。全校放送する場合はそこのスイッチ入れてる」
「各クラスごとに放送できるんですね」
 よく飛行機のコックピットなんかに出てくるトグルスイッチを見ながら、千絵は感心している。スイッチにはそれぞれ、各クラスの名前が記されていた。
「いたずらするにはもってこいやろ」実際にやったことのあるような口ぶりだった。「せやけど、そんなん聞いてあんたらどうするつもりなん? 魔王さんのご宣託でも聞かせるつもりなんか」
「塀をなくすんだよ」
「へい?」千葉は怪訝な顔をした。
「その時になれば分かるよ。それまでは秘密だ」ぼくは言葉をにごしておいた。
「けど、いくらうちかて放送室の鍵までは貸してやれへんで。放送部員でもなんでもないあんたらじゃ、鍵は借りられへんやろ」
「そのことも問題ないよ」
「なあ、あんたら何しようしとしてるんや? うちだけにこっそり教えてーな」
「冗談。誰に教えたって、千葉にだけは教えられないでしょ」
「けち」千葉は頬をふくらませた。

 某日、四時限目。
 ぼくと千絵は隠れていた理科準備室を抜けだして、放送室に向かった。もちろん、とっくに授業ははじまっている。廊下に人の気配はなく、校舎はしんと静まりかえっていた。時々、先生の声や黒板を叩くチョークの音が、水の中みたいに反響する。
 クラスでは今頃、社会科担当の教師に、藤野のやつがぼくらのいない理由を説明しているはずだった。あの男のことだから適当にごまかしてくれているとは思うけど、一抹の不安を感じないでもない。
「藤野くん、大丈夫ですかね?」そっと階段を移動しながら、千絵が訊いた。
「大丈夫だろ。その手の演技力には期待できるやつだから」
「駆け落ちしました、なんて言ってないですよね?」
 やりかねない気がした。
「そんなばればれの嘘はつかないだろう」
 あらぬ噂はまきちらかされているかもしれないけど。
 四つある棟のうち、主として職員棟になっている北棟に向かう。先生に見つかるといろいろ厄介なので、ぼくが先行して様子をうかがい、千絵がそのあとに続いた。幸い、誰に見つかることもなく放送室にたどりつくことができた。
 千葉の言うとおり、鍵がなくては放送室に入ることはできない。職員室から鍵を借りてくるのは、平和裏にせよ強行手段にしろ不可能だろう。
 しかし問題はなかった。
 何故なら、ぼくは学校のマスターキーを持っていたから。これはあるやんごとない事情によってぼくが手に入れたものだった。滅多に使ったことはないし、悪用したこともない。信じないのは勝手だけれど。
 ともかくそのマスターキーを使って、ぼくは放送室のドアを開けた。魔法の扉は呪文の言葉も待たずにいともたやすく開錠してしまう。
「さてと――」
 中に入って電気をつけ、ドアに鍵をかけなおして一息つく。ミッションの第一段階は終了だった。
 計画は第二段階に移行する。
「奥村、CD貸してくれ」
「はい」
 千絵がずっと持っていたCDケースをぼくに渡す。
 中身は、レンタルショップで借りてきたCDを焼き増ししたものだった。ただし、中には一曲しか入っていない。たぶん、それで十分だから。
「CDプレイヤーありました」
 千絵がミニコンポを見つけるあいだに、ぼくは必要なピンプラグを探しだす。通常より高価なのか、端子部分になめらかな光沢があった。
 プレイヤーにCDをセットし、プラグを接続する。各種スイッチは先に必要位置に入れておいた。あとは電源を入れて、再生ボタンを押すだけでいい。
 ぼくは最後に確認した。
「ところで、本当にいいのか? 今ならまだ何もなかったことにできるけど」
「魔王に二言はありません」千絵は何故か笑顔だった。「わたしの力を見せつけてやります」
 ぼくはちょっと肩をすくめただけだった。こうなるのは十分に分かっていたことだ。
 一応、計画実施時間を事前に決定している。授業がほとんど終わって、残り五分になった頃だ。確実に授業妨害になるので、できるだけ被害を少なくするためだった。昼休み前の時間にしたのも同じ理由。
 ぼくは時間が迫ってくると、もう一度機械のセッティングを確認した。接続、スイッチ、ボリューム、どれも問題ない。
 電源を入れた。
 たぶん全校舎のスピーカーに、電気信号の流れる「ヴォン」という音が響いたはずだ。それはごく小さな音なので、誰も気づかなかったかもしれないけれど。
「いいぞ」ぼくは千絵に向かって、合図する。
「うん」
 うなずいて、千絵は再生ボタンを押した。
 その小さな指はたぶんその時、奇跡を起した。
 くだらない、まるで意味のない奇跡かもしれないけど、確かにそれを起した。たった五つのパンと二匹の魚で何千人もの飢えを満たすほどではなかったかもしれないけれど、少なくとも鈴森中学の千百二十二人の生徒の心に、確かに何かを伝えたと思う。
 千絵は核ボタンのスイッチを押す、狂気の独裁者だったんだろうか? それとも、約束を守らないことに怒って子供たちをさらっていった、ハーメルンの笛吹き男。この世界に混乱と災厄をもたらす存在――
 千絵の顔を見れば、それは分かる。
 何の変哲もないボタンを押す、その指。その時、千絵はすべての幸福を願っていた。
 たぶんそれは、愛としか呼べないものだったような気がする。
 今思えば、だけれど。
 千絵の起した奇跡はすぐに実現した。全校舎のスピーカーすべてから、音楽が流れはじめた。
 それは、歌だった。オペラのアリア。
 放送室にも、その音は響いていた。この世界のどこにそんな美しいものが隠されていたんだろうという、そんな歌声。見えない手で心をつかまれて、揺さぶられるような感覚。きっとこの瞬間、誰もが手をとめていただろう。歌が、学校の塀をなくしてしまう。
 でもこのアイディアは、実のところパクリだった。
 映画「ショーシャンクの空に」の、キングの原作にはないオリジナルのシーン。けれどぼくらが使ったのはモーツァルトの「フィガロの結婚」ではなく、プッチーニの「トゥーランドット」だった。第三幕のアリア、「誰も寝てはならぬ」。
 放送開始から少ししたところで、ドアが音を立てて叩かれた。見ると、数人の先生が扉の向こうに群がっている。
「やっぱりお前らか、清川、奥村」
 クラス担任である高田先生の声が聞こえた。のぞき窓のところからその顔も見える。
「今すぐ放送をやめろ。でないと懲罰房行きだぞ!」
 ぼくは笑った。さすが担任、よく分かっている。
「何ですか、懲罰房って」いっしょにいた女教師が眉間にしわを寄せる。
「いや、ここはそういうノリだったものですから」
「不謹慎ですよ、こんな時に」
「いや、しかしですね……」
 事態はややこしくなりつつある。おまけに鍵を取りに行った先生はなかなか戻ってこないみたいだった。
 結局、先生たちの手によって放送室の扉が開けられたのは、それからさらに数分がたってからだった。もちろん、その頃には歌劇の一場面はとっくに終わってしまっていた。

 反省しているか、と訊かれれば、「している」と答えただろう。
 もう二度としないか、と訊かれれば、「しない」と答えただろう。……少なくとも、同じことは。
 放課後、生徒指導室に呼びだされたぼくと千絵の二人は、担任である高田先生の前に座っていた。
 指導室は気に食わない店子にしぶしぶスペースを割いてやった、というような狭い部屋だった。中央にある大きな机と壁際のキャビネットで、入室者の動きはほとんど制限されている。その不自由さはふと独房を連想させた。
 ぼくも千絵もここには何回か来たことがあるけれど、来るたびごとに二度と来たくないなと思うことだけは確かだった。
「…………」
 神妙な面持ちでイスに座るぼくと千絵の前で、高田直樹(三十五、独身)はさっきからずっと黙りつづけていた。
 ぼくは千絵と一度顔をあわせてから訊いた。「あの、先生」
「何だ?」
「帰っていいですか」
「いきなり帰るはねえだろ、帰るは」高田先生は苦笑した。
「じゃあさっさとお説教するなり怒鳴るなりしてください。灰色のセールスマンがやってきそうなんで」
「その時はお前の隣にモモがいるだろう」
 ショーシャンクだけじゃなくてエンデも知っているらしい。
「立場上、俺だってお前たちを注意指導しなけりゃならないのは分かってるさ」
 先生はひどくなげやりに言った。
「でもな、お前たちは全部分かってやってるんだろう。自分たちがどの程度怒られるのかも、結局たいした騒ぎにならないだろうってことも、全部な。そんなやつに何言ったって無駄だよ。馬の耳に念仏もいいところだ」
「それが仕事ですよね?」
「給料に見合わん」
 教育者の理念はそんなものか。
「他の先生方は何て言ってるんですか?」ぼくは訊いてみた。
「温情派が七、処罰派が三てとこだな」
 悪くない配当だった。計算どおりというところだ。
「……お前、反省してないだろう、やっぱり」
「そんなことはないですよ」ぼくはしらっとした顔でうそぶいておく。
「――しかしまあ正直なことを言うと、なかなかいいものを聞けたよ」
 先生は指導者としては失格であろう発言をした。
「普通に生活してると、なかなか耳に出来ないものだった。特にこんな場所だとな。ああいうのを天上の調べとかいうんだろう」
「…………」
「発案者は、奥村のほうか?」
 千絵は一度ぼくの顔を見てから、うなずいた。「はい、そうです」
「だろうな、清川にできるようなことじゃないだろうとは思ったよ」
 まわりくどい侮蔑の意志を感じとったけど黙っておく。ぼくはそこまで子供じゃない。
「まあ何だ、今日みたいのはほどほどにしとけよ。短い時間とはいえ、授業妨害でもある。処罰対象になることだって考えられたんだからな」
 言われるまでもなく、ぼくとしては二度とこんなことをする気はなかった。その辺のかけ引きについては、十分承知しているつもりだ。
 最後にこんな言葉で、高田先生の説教、もしくは感想は終了だった。
「ま、窮屈な授業よりはよほどましだったかもしれないけどな」

 ……それで、ぼくはこの件については終わったものだと思っていた。何の処分もなしという僥倖的な結末によって。
 でも実際には違っていた。
 実際にはもっと悪い結末が、ちゃんと待っていた。

 ぼくは生徒会室の中央に座っていた。
 まわりには長机でもって十人ほどの人間が囲んでいる。その集まった人間が何者なのかは分からなかったけど、前方に座る四人についてだけは分かった。生徒会長、副会長、書記、会計だ。つまりは、生徒会役員の面々だった。机に置かれた卓上プレートにそう書いてある。
 その場にいた全員が、真剣なまなざしでぼくのことを注視していた。室温が調節されているにもかかわらず、裸のまま南極点にでも立っているような寒々しさだった。磔刑に処せられたキリストもこんなふうだったのかもしれない。「私は渇く」とでも言ってみようか。水くらいなら出してくれるかもしれない。もちろん、そんな冗談を言うような場合ではなったけれど。
「三年F組、出席番号六、清川幸文君」
 ぼくが着席してからしばらくして、前方の机から声があがった。生徒会長の乾一彦だった。「君はどうしてこの場所に呼ばれたのかを理解しているね?」
 重々しい口調だった。眼鏡の奥から鋭い眼光がのぞいている。
 乾一彦は髪をさっぱりと短く切った、涼やかな顔立ちの少年だった。まだ少し幼い感じが残るが、将来有能な人間になるのは間違いなさそうである。二年の時から続いている生徒会長の役も立派にこなしている。確か、フェンシング部の主将でもあったはずだ。
「大体の想像はできますけど」
 ぼくは机もない、むき出しのイスに座っていた。さすがに落ち着かない。肩をすくめるような余裕もなかった。
「なら、僕のほうからきちんと説明することにしよう」
 乾生徒会長はあくまで厳然とした態度で続ける。
「君はさる某日、四時限目の十二時三十五分頃――これは多数の生徒で一致する時間だ――校内放送にて大音量の音楽を無許可のまま流した。結果、各授業は中断を余儀なくされ、多数の生徒、先生方に大変な被害を与えることになった。このことは生徒の一般生活、及び学業を著しく阻害するものとして看過できない事態である。よって我々はここに臨時の生徒会を開いて、この件に関する可及的速やかな解決を図ることとなった」
 理路整然、重厚荘重な実に見事な冒頭陳述だった。言い澱みも言い間違いもない。ぼくはよほど拍手しようかと思ったけど、どう考えてもそんな雰囲気ではないのでやめておく。
「ぼくが呼びだされた理由についてはよく分かりました」しごくまじめが顔で、ぼくはうなずいてみせた。「それで、どうしようっていうんでしょうか? さまよえるユダヤ人よろしく、罪を償い続けろ、とでも」
「我々には生徒を処罰するような権限は与えられていない。誓詞に向かって血判署名しろというようなことも言わない」
 如才なく返されてしまった。
「この集会の目的は、今後二度とこのようなことが起きないように協議することだ。君も含めてみんなには、そのために集まってもらった」
「なるほど」それにしてはぼくの扱いだけがあんまりだという気はしたけど。
「共通認識が成りたったところで、いくつか質問したいと思う。正直に答えてほしい」
「その前に、いいですか?」ぼくは訊いた。
「なんだい?」
「これは裁判ですか?」
 その質問に、生徒会長は一瞬口を閉ざして困ったような顔をした。
 代わりにぼくの問いかけに答えたのは、隣に座った副会長の牧瀬紗矢香のほうだった。
「これは任意での話しあいで、決してそういうことではありません」
 副会長は柔和な声と表情でぼくにそう告げる。大和撫子然とした風貌は、目立たないながらも生徒会長の横で確かな存在感があった。柔らかそうな黒髪に、ぴんと糸を張ったような挙措動作。
「答えたくないことや、答えられないことは、無理に話す必要はありません。あくまで話しあいです」
「だったらどうしてぼくだけが被告人みたいな扱いなんですか?」
「あなたと奥村千絵さんの取った行動が問題なのは確かです。私たちとしては、その理由をはっきりさせておきたい、ということになります」牧瀬副会長は軽く笑った。「残念だけど、こういう扱いになった原因の一端はあなたたちのほうにもあります。今回の形式については大目に見てもらう、ということをお願いするしかありません」
「……分かりました」
 もちろん、そんなことは最初から分かっていた。正論では歯が立たない。
「――ではあらためて、質問に戻りたいと思う」
 一度咳払いしてから、生徒会長が言った。
「まず、今回の件にいたる動機を聞きたい。何故、君は授業中に音楽を流し、それにはどんな意味があったのか?」
 ――意味?
 ぼくは考えこんでしまった。
「どうしたんだい。答えられないのかな?」
「…………」
 たぶん、その質問に答えることはできる。
 できるけど、誰も理解することなんてできないだろう。そのことは、ぼくには分かっている。そして理解されないなら、その質問に答えるべきじゃなかった。
 何故なら――
 そうなったら、その大切な答えは世界の亀裂に吸いこまれてしまうだろうから。
「……意味は特にありません。学校中のぎすぎすした雰囲気に耐えられなかっただけです」
「もうすぐ受験を控えた三年生を含めて、全校生徒の授業を妨害した、それが理由?」
「はい」ぼくはやや無表情にうなずいた。
 結局のところ、この人には分かりはしないだろう。別に、悪い人じゃない。一方的にぼくを断罪するわけでも、苛立ちまぎれの理不尽な追及を行うわけでもない。でも結局のところ、この人には分からないのだ。世界に魔王が必要な理由なんて――
「動機については、一応それでよしとしよう」
 乾生徒会長は前言どおりに無理な弾劾は行わないようだった。
「しかし君たちは以前から魔王≠ニ称して様々な活動に従事しているね」
「ええ」
「今日のことも、その一環のようなものなのかな?」
「まあそうですね」
「とすると、今後も同じようなことを起こす可能性はあるんだろうか?」
 ぼくは少し考えるふりをした。「今回、ぼくたちが音楽を流したのは授業の終了間際で、音楽自体は先生にとめられる前にはもう終わっていました。一応自己弁護しておきますけど、できるだけ被害の少ないように配慮したつもりです。ぼくたちの目的は必ずしも授業の妨害ではありませんでしたから」
「しかしそれは君たちの行為が正当化されるような理由にはならない」
 乾会長はやんわりと話の方向を元に戻した。
「それに問題が一つ。君たちはどうやって放送室の鍵を開けたのかな?」
 なかなか痛いところをついてきた。先生方の時には、そのことはうやむやのうちに終わったけれど、さすがに気づいていたらしい。
 もちろんぼくは、「マスターキーを持っているからです」なんて答えるわけにはいかなかった。
「方法については秘密です」
「そこの放送委員長に確認したところ、鍵は間違いなくかかっていたはずだ、ということだ」
 ぼくが右手側の机を見ると、端に座っていた男子生徒が軽く頭を下げた。放送委員長は放送部部長が兼任するのが通例だから、その人は千葉から何か聞いているのかもしれない。
「事件当時、放送室の鍵は職員室で保管されていた。これは鍵を取りにいった荒谷先生が証言している。ということは、君たちは正規の鍵を使わずに放送室のドアを開けたことになる」
「黙秘します」
「もしも今度、同じような事態が生じた場合、君はまっさきに疑われることになる」
 軽い脅しだった。
「断言はできませんけど、そういうことが起こることは二度とないと思います。少なくともぼくには、もう一度同じことを行う意志はありません」
「ふむ」
 生徒会長は机に肘を置いて指を組んだ。ねめつける、というにはあまりに静かなその視線は、こちらの心底を見すかすようだった。嘘はつけそうにないな、とぼくは思った。
「疑問は残るけど、ここは本人の言を信じることにしよう。鍵のことはよしとする。ではあらためて聞くけど、今後同じようなことはしないと確約できるだろうか?」
 鍵の一件は、ぼくにこのことを了承させるための伏線だったらしい。念のいった上に周到なやりかただった。
 けれど――
「それはできません」
「……できないというのは?」乾会長は訊いた。
「ぼくには約束できない、ということです」
 というか、それはぼくの決めることではなかった。
「分からないな」生徒会長は小さく首を振った。「君は自分の罪を認めている。自分たちのしたことへの十分な認識もある。なのに、ここに至って約束をすることはできない、と?」
「そういうことになります」
 乾会長は困ったように大きく息をついた。「しかしそれでは筋が通らない。生徒会としてもそんな答えを認めるわけにはいかない」
「今日のようなことをしないことは約束できます。でも同じようなことをしないとは確言できないですね」
「それは通らないだろう。ここには関係者のほか、何人かの傍聴人にも来てもらっている。もしも話しあいがまとまらないようなら、生徒総会にかけるようなことだってしなくちゃならないかもしれない」
「乾会長」
 意外だったけど、助け舟は隣の牧瀬副会長から出された。
「私の印象だと、清川君の言うことは信頼してもいいと思います。その上で、彼がどうしても約束できないというなら、それにはそれなりの理由があるんでしょう。これは聴聞会のようなものではありません。今日のところはここまででいいんじゃないでしょうか?」
 乾会長はしばらく黙っていたが、諦めたように組んでいた指をほどいた。
「……多少不本意なところは残ったが、副会長のいうこともあるので今日はここまでにしたいと思う。ただ、今後の事態によっては生徒会から学校側に処分要求を提案することもありうる。清川君はそのことを忘れずに」
「分かりました」
「では、退出してよろしい」
 ぼくはイスから立ちあがって、後ろのドアから出て行った。他には誰も動こうとしない。
 生徒会室の外に出ると、脇の下に嫌な汗をかいているのが分かった。何度か深呼吸して、平衡感覚を取りもどそうとする。まわりのものに薄いノイズがかかっているようで、いつもと同じように見えるまでにはずいぶん時間がかかった。

 ぼくは教室で、千絵が戻ってくるのを待った。
 今日の生徒会からの召喚は、当然だけど千絵にもかけられている。わざわざ二人別々に行うところに念のいりようがあった。囚人のジレンマのようなものを感じる。
 教室には誰もいなくて、外は日が暮れかけていた。冬の日没は早い。もうすぐ夕陽が射して、暗くなるだろう。教室は電気をつけていないので薄暗かった。とても静かだ。寒いのでポケットに手を入れながら、ぼくは自分の席に座っていた。
 三十分から、一時間というところだろうか。
 がらがらと音がして、教室の扉が開いた。見ると、思ったとおりそこには千絵がいた。逆光の薄暗さの中に、千絵の体は半分くらい沈んでいる。
「終わったのか?」
「うん」訊くと、短く答える。
「どうだった?」
「怒られました」軽く笑った。
「ぼくもいろいろ言われたよ。まあ当然といえば当然だけど」
「そうですね」
 荷物をとるために自分の席に向かう千絵は、いつもと変わらないような気がした。
「何を言われた?」ぼくは訊いてみる。
「もうこんなことはやらないほうがいいって」
「そうか」
 短い沈黙。
「どうだ、いっしょに帰るか?」
 千絵は首を振った。
「こんなことのあったあとだし、今日は一人で帰ります。いっしょにいると、いろいろ疑われちゃうかもしれませんから」
「そうか」ぼくは曖昧な感じにうなずいた。
 やがて千絵はコートを着て荷物を手にとると、「さよならです」と言って手を振った。
 ぼくも、「またな」と言いつつ手を振った。千絵は少しだけ笑った。
 帰り際に見えた千絵の後姿は、勇者に敗れた時の魔王よりずっと寂しそうだった。

「ヒーローショー」
 というものがある。
 デパートの屋上や地域のイベントなんかで開催している催し物のことだ。アニメや実写のキャラクターの格好をした俳優が舞台でアトラクションを行う。大きなものは劇場なんかを使って、役も本人がこなして、ついでにチケットの値段も高い。が、小さなものは何かのイベントやちょっとした広場で行われ、基本的に無料だ。
 千絵はこのヒーローショーというやつが無類に好きだった。
 テレビのヒーローもの全般が好きらしいのだが、特にこの手の催し物系のショーがお気に入りらしい。理由は分からない。波長みたいなものがあうのだろう。
 休日に近くのデパートでヒーローショーが開催されるという情報を手に入れたぼくと千絵は、そんなわけで件のデパートへと向かっている。今は昼食を終えてバスで移動しているところだった。
 暖房の効いたバスの中は暖かくて、体が少しずつ溶かされていくような気がした。乗客は少ない。ぼくと千絵は二人がけのシートに座っていた。
 誤解のないよう先に言っておくけど、ぼく自身にはヒーローものに対する趣味嗜好といったものはない。
 バトル系のアニメやマンガはそりゃ好きだ。でもヒーローものということになると話は違う。派手なアクションや戦闘シーンにはそれなりに心を動かされるけど、ヒーローという存在そのものには懐疑的にならざるをえない。
 あるいは、本当のヒーローというのはそれとは別の、もっと個人的な存在なんじゃないか、と思うこともある。もちろん、人それぞれだけど。
 千絵にとって、ヒーローというのが一体何なのかはよく分からない。いつか魔王である自分を倒してくれる正義の味方だろうか。ぼくとしてはこいつの関心はそんな形而上的なものではなくて、もっと単純な動機にもとづいているようにしか見えない。要するに、好きなのだ。
 とはいえ、さすがに中学生にもなって一人でヒーローショーを見にいくというのは恥ずかしいらしい。そこで思い出されるのがぼくの存在だった。
「幸文くん、今度○○でヒーローショーがあるんです」
 大抵は、そんなふうに言ってくる。家が隣なので、わざわざ玄関前までやって来て。
 もちろん、そんな頼みはつっぱねて断ることも可能だ。何といってもぼく自身はそんなものに興味なんてないのだから。そんなところに行くくらいなら一人で五目並べでもやっていたほうがましだった。
 でもそんなふうに思っていられるのも、千絵が泣きだしそうな顔をするまでだ。
 結局、ぼくはよく分からないまま千絵といっしょにヒーローショーに出かけることになる。そして現われては消えいくヒーローたちの名前を覚えることさえなく、観劇を終える。
 この日出かけたのも、やっぱり同じような経緯をたどったものだった。ただ、ぼくはこのときだけはいつものように断ろうとはせず、素直に千絵の言うことを聞いた。
 例の聴聞会からしばらくの時間がたっている。
 表面的には千絵の様子に変化はない。相変わらずむやみに元気で、今だって窓の外を見ながら上機嫌そうに鼻歌を歌っている。いつもの千絵だ。
 ぼくは手すりに頬杖をつきながら、少し前のことを思い出していた。
 うちのクラスには、宇佐美という女の子がいる。千絵より少し背が高いくらいの、地味で目立たない生徒だ。千絵とは仲がいいのか、時々話しているのを見かけることがあった。たぶん、同じような体格のせいだろう。
 千絵と違って見た目どおりに引っこみ思案の宇佐美は、時々そこにいることを忘れられてしまうくらい存在感が薄い。そしてそんな時には必ず、自分が悪いみたいに弱々しい笑顔を浮かべる。たぶん優しすぎる人間に特有の笑顔を。
 だから彼女が生徒会長に対して千絵のことで直訴したと聞いたときには、ぼくは本当に驚いてしまった。
 何でも、話によれば宇佐美は一人で生徒会室に乗りこんで、乾会長に向かって千絵の弁護を行ったらしい。
 普段の彼女からは想像もつかないことだったけれど、何人もの人間がそのことを証言した。そしてその人間たちは一人の例外もなく彼女の行動を称賛した。そりゃそうだろ。拾ったものを何気なく相手に渡すことさえためらうあの宇佐美が、そんな大胆な行動をとるだなんて空前絶後もいいところだ。
 宇佐美の弁護にはたしてぼくが含まれていたかどうかはともかくとして、ぼくは素直にそのことに感謝したし、いくぶん勇気づけられもした。
 ――千絵は、そのことをどう思っているのだろう?
 ぼくは千絵に何も聞かなかったし、千絵がそのことを知っているのかどうかさえ知らない。従って、千絵が宇佐美の行動にどんな感情を抱いたのかは分かりようがなかった。
 こうして千絵の姿を見るぶんには、その様子はいつもと同じに見える。楽しみにしていたヒーローショーを見にいけるので心底はしゃいでいるように。
 でも、千絵はあの日以来魔王のことについてほとんど何も言わなかった。いつものように突拍子もないことを言い出すことも。
 あるいは人は、それを成長と呼ぶのかもしれないけれど……
 バスが目的地で停まって、ぼくらは車から道路に降りた。
 繁華街に面した通りで、デパートまではもう少し歩く必要がある。冬の通りは人影も少なく、各店舗の照明もどことなく活気にかけていた。何だかすべてが寒々しくて、空は今にも雪が降ってきそうな重い鉛色だった。
 石畳の歩道を歩きながら、千絵はふと思い出したみたいに言った。
「今日はありがとうです、つきあってくれて」
「別にいいよ」ぼくはわざとぶっきらぼうに言った。「たいしたことじゃないから」
 でも千絵はにこにこして言った。「幸文くんにはいつも感謝してます」
 ぼくは渋い顔をした、と思う。自分でもそれが何故なのかはよく分からなかったけれど。
 それから、千絵は言った。笑顔で。
「幸文くんのことは、魔王補佐にしてあげますよ」
「ぼくの人生設計にそんな予定はない」
 魔王の就職勧誘を、ぼくは即座に断った。

 デパートの屋上は、閑散としていた。
 それはそうだ。
 今にも雪が降りだしそうな天気の上に、吹きさらしの屋上広場には太陽と北風もまっさおの冷たい風が流れていた。カバの形のカートや揺れるパンダの乗り物だって、こんな日に野外にいたくはないだろうと思う。
 設置された舞台の前に並べられたイスは、それでも三分の一ほどの観客で埋められていた。当然だけど、その大部分は親子連れで成りたっている。必然的に、狭い会場をどれだけ見まわしても中学生のペアというのはぼくら二人だけだった。ヒーローショーというのは、基本的に親子連れのためにあるものなのだ。
 さっきも言ったように吹きさらしの屋上は冷蔵庫のように寒かったけど、子供たちを見るかぎりそんなことは気にしていないようだった。ヒーローが現われるのを今か今かと待ち受けている。これがヒーローの力か。
 と思っていたらぼくの隣にも一人、子供でもないのにわくわくして落ち着かない人間がいた。
「どうしよう幸文くん、わたしすごくどきどきしてます」
 勝手にどうとでもしてくれ。
 ぼくは寒さに震えながら、今か今かとショーのはじまるのを待った。開演予定時刻は午後一時半。
 ありがたいことに、ショーは定刻通りに開始された。
 音楽がはじまり、まずは司会のお姉さんが前口上をナレーションする。ぼくは司会のお姉さんをプロだと思った。この寒いのにミニスカートをはいているんだから。
 お決まりのみんなへの呼びかけが終わると、怪人が舞台下に登場した。千絵に連れられて何度もこうした場面を見ているので、ぼくは図らずもそれなりの批評眼を養っている。それによると、この怪人の登場はあまりうまくいっていなかった。子供たちが怖がっていない。寒くてそれどころじゃないのかもしれないけど。
 暗黒怪人ジストニアンがマッチ売りの少女よろしくむなしく会場を温めたところで、ヒーロー戦隊カナデンジャーが舞台袖から現われた。録音テープにあわせて演技する、中の人たち。
 ここからの立ちまわりは、やや忙しい。やられ役の三下魔人たちとヒーローの擬斗シーンだけど、人数の都合上ヒーロー役と敵役を交互に行わなくてならないからだ。カナデンジャーのメンバーのうちここに集まっていたのは三人だけだったけど、それも人数の都合によるものだろう。
 ちなみにカナデンジャーレッドの武器であるバイオリンは、弓を剣のようにして使っていた。特殊な繊維素材で出来ているのだろう。
 三下役との消化試合が終わると、いよいよボスである怪人役との戦闘がはじまる。さすがにみんなプロだけあって、連携のとれた派手で見栄えのする演技だった。子供たちもぐっとひきつけられている。
 ここでお決まりの、やられそうになるヒーロー、お姉さんがみんなの応援を要請、逆転するヒーロー、という一連のやりとりが行われる。いつもの三分の一の声援だったけど、ヒーローのエネルギー事情に問題はないようだった。退散するジストニアン。会場から拍手。ぱちぱち。
 その後、握手会とグッズ販売が行われた。
 ぼくはさすがにその場にいる度胸はかなったので、屋上端のフェンスのところによりかかっていた。子供たちは嬉々として列をなして、ヒーローと握手している。その中には千絵の姿もあった。
 ぼくはぼんやりと、ずいぶん昔のことを思い出していた――
 それはぼくがこの町に引っ越してきて、まだ間のない頃のことだった。とても悲しいことがあって、ぼくは公園で泣いていた。今みたいに寒い時期で、公園には人っ子ひとりいなかった。ろくな上着も着ずに、ぼくはブランコに一人で座っていた。すごく寒かったはずだけど、不思議とそんな記憶はない。
 ブランコに座って、けれどぼくは自分がどうして泣いているのか分からないでいた。それが悲しいという感情に似ていることは分かる。でもドの♯とレの♭みたいに、それは似てはいるけどまるっきり違うものだった。それは凶暴で、暗く、ぼくの心を奈落の底まで引きずりこもうとしていた。それは悲しみという言葉を与えてやるにはあまりに悪辣で、冷酷で、無慈悲だった。ぼくは理由も分からないまま、ただ涙を強制されていた。
 ――どうしたんですか?
 声をかけられたのは、その時だった。見ると、目の前に女の子が一人立っている。ぼくとそんなに歳の違わない子供だ。いつもなら泣いているところを見られるなんて恥ずかしいことだけど、その時のぼくは何も思わなかった。たぶんそれは、本当は涙に似た別のものだったからだろう。
「どこかいたいんですか?」女の子の問いかけに、ぼくは首を振るのが精一杯だった。
 その後、ぼくとその子でどんなやりとりが交わされたのかは覚えていない。ただ気づいたときには、その子は笑顔でこう言っていた。
「そんなときは、ほしにおねがいするといいんですよ。ながれぼしにねがいごとをすると、それがかなうんです」
 そんなの嘘だ、とぼくは言ったのだろう。この頃から、ぼくは希望とか夢とかいうものに対して実に懐疑的だった。
「おとうさんとおかあさんがいってたんだから、まちがいありません」その子は自己の信念を欠けらも揺るがすことなく言った。よほど両親のことを信奉しているのだろう。「きょう、いっしょにながれぼしにおいのりしましょう。そうすればきっと、ねがいはかないます」
 気づいたとき、ぼくはその子に向かって手をのばしていた。
 それで結局どうなったかというと、その日の夜にぼくとその子はいっしょに夜空を眺めつづけ、夜明け前のぎりぎりの時間に見えた流れ星にお願いすることに成功した。翌日、ぼくらは二人して仲良く熱を出して寝こんだ。それが、ぼくと奥村千絵の最初の出会いだった。
 フェンスによりかかったまま、ぼくは子供たちの列に並ぶ千絵の姿を確認した。
 ぼくは、あんなに元気のない千絵の姿を見るのは初めてだった。
 最初のセリフにもかかわらず、ショーの間中、千絵は黙ったまま一言も口をきかなかった。いつもなら送る声援も、ヒーローがやられそうになるときの不安な様子もない。ただ黙って、じっと視線を舞台に送るだけ。
 千絵はそこに、何を見ていたんだろう?
 その横顔は透明で、糸がほどけていくみたいに解けて消えてしまいそうに見えた。その横顔に、ぼくは何故だか見覚えがあった。
 デパートの屋上からは、だいたい町の全景を見ることができる。
 小さな町だった。厚い雲の下で、今にも押しつぶされてしまいそうに見える。雪でも降りだせば、その重さにだって耐えられないだろう。手の平に乗せてしまえば、そのままぱたんと閉じてしまえそうな景色だった。
 そんな町に魔王が一人くらいいたところで、どうだっていうんだろう。たいした問題じゃない。何も変わりはしないのだ。魔王も勇者も、この世界を救うことも滅ぼすことも、どうせできはしないのだ。
 嬉しそうにカナデンジャーレッドと握手して戻ってくる千絵を見ながら、ぼくはふと、いったいいつから千絵のことを「奥村」と呼ぶようになったんだろうか、と考えていた。
「感無量です」千絵は笑顔でたいそうな言葉を使った。
「満足したか?」
「もちろんです」元気よく親指をつきたてる千絵。
「……じゃあ今度は、ぼくたちの番だな」
 よっこらせ、とぼくはフェンスにもたれていた体を起こした。
「何のことですか?」
 ぼくは芝居がかった仕草でおどけて見せた。
「――魔王の逆襲」

 理科室で開いた臨時のクラス会で、ぼくはその計画をみんなに打ち明けた。
「……というわけで、是非ともみんなの協力をお願いしたい」
 室内はしんと静まりかえっていた。
 それはそうだろう。ぼくの言ってることは滅茶苦茶なのだから。
「あー、たぶんみんなの思ってることを代表して訊くけどいいか?」藤野が遠慮がちに手を上げた。
「どうぞ」
「それ本気なのか?」
 ぼくは即答した。「もちろん」
「しかし事が事だからな、学校から厳重処分を受けかねないぞ」委員長の副島が言う。
「分かってる。だから無理に手伝ってくれとは言わない。参加不参加は自分で決めてほしい」
「一人も参加しなかったら?」動物博士の水江が言った。
「その時はぼくだけでもやる」
 もう一度、沈黙。
「やるかどうかはともかくとして、それってうまくいくの?」クラスでは一番のおしゃれ女子である伊勢崎が訊く。
「まだ大雑把にしか考えれてないけど、五分五分ってとこじゃないかな」
「微妙だな」李がぽつりとつぶやいた。相変わらず適確な日本語だった。
「しかし成功の見込みがないわけじゃない。ぼく自身はたぶんうまくいくと思ってる」
「うまくいって、それでどうなんだ?」後ろのほうから発言があった。法律家志望の秀才、笹本。「そのことにどんな意味がある?」
 ぼくは力強く答えた。
「意味なんてない」
 笹本はその非論理的な答えに反論する気をなくしてしまったらしい。軽く失笑した。
「ないけど、あえていうならこういうことになる。これはぼくらの信念を賭けた戦いである≠ニ」
「また大きく出たな」最前列で藤野が呆れた。
「動機はおのおのに任せる。でもこのことは、決して無意味なことじゃないと思う。ぼくらのことを、ぼくらが何をできるのかを、学校に、世界に、見せつけてやることができる。ぼくらには、世界を変える力が備わっている」
 大言壮語、としかいいようがない。
 けどここでは誰も、笑ったり茶化したりはしなかった。
「……いいんじゃないかな」歴史家で沈着冷静、秀でた額の萩島女史が言った。「面白そうだし、やってみるくらいの価値は認める」
「わ、私もやります」宇佐美さんが小さな体を震わせた。というか、こんなに前のほうにいて今まで彼女のことに気づいていなかった。「奥村さんのために、できるだけのことをしたいです」
 彼女の発言には相変わらず、ぼくのことが含まれている気配はなかった。
 その後は続々と参加の名のりがあがっていった。藤野、副島、小堀、葛城、笹本も。結局、一人だけ残して全員が参加の意志を表明してくれた。
「中井戸も手伝ってくれないか?」
 ぼくはその一人に声をかけた。
「聞くまでもなかろう」野武士のような、無口な頼れる男はこくりとうなずいた。「クラスメートを助けるのは当然のことだ」
 これでクラス全員が協力してくれることになった。
「てことで、先生も手伝ってくれますよね?」ぼくは向きを変えて、一人教室の隅に座っていた高田先生に呼びかけた。
「何故、俺が?」三十五歳の独身教師はもっともな疑問を口にした。
「担任だからですよ」
 高田先生は十二年分の教員生活がつまったような、重いため息をついた。
「民主主義が学校教育の基本だからな、仕方ない。俺もF組の意志に従うことにしよう」
 ただし、と先生は言い添えた。
「このことについては学校には内緒にしておけよ。俺はまだ首にはなりたくはないんだ」
 一連のやりとりが終わったところで、ぼくは千絵のほうを向いた。
「……ということで、いいな千絵?」
 奥村千絵は両手いっぱいに花束を抱えた少女みたいに笑った。
「やっぱり、幸文くんは魔王補佐にしてあげます」
 だからそんな人生設計はないっつーの。

 一月も、もう終わり頃近く。
 その日の天気は大荒れだった。遠くシベリアで発生した冬の寒気は、長旅の鬱憤を晴らすべく各地に雪を降らせた。前日の天気予報を見て喜んだのは、犬とスキー場くらいだろう。文字通り、町は白い雪の下に埋まった。
 雪のせいで一部交通機関に麻痺が見られたけど、F組の生徒で遅刻してくる者はいなかった。これも魔王の加護かな、と思っていたら、みんなかなりの苦労をして時間に間にあわせたのだという。ぼくは感謝した。
 その日、どうしてもクラスの全員がそろう必要があった。冗長性による安全設計なんてものはない。一人でも欠けてしまえばそれでおしまいだった。
 何故なら惑星交差なみのタイミングで、その日は全校集会が予定されていたから。
 ――簡単に言ってしまおう。
 ぼくらは全校集会ジャックをもくろんでいた。

 うちの中学には新美記念館というのがある。
 校舎が新設されたときに、いっしょに建てられたものだ。資金提供者の名前をとってつけられたらしいけど、そんなことはどうでもよい。
 この記念館、かなりの設備を誇っている。床にはコンサートホールのようなスロープがつけられ、生徒全員を収容してもまだ余裕のある座席シートはすべて固定。舞台設備についてはいわずもがなのことで、本格的な演劇場としての使用が可能になっている。
 全校集会が行われるのも、この記念館だった。
 昼休みの終了時刻から、生徒たちは三々五々、観客席に着きつつある。輪郭を失った音が、ざわざわとホールに響いていた。温度調節のされた館内に外の寒さはなく、幽閉された星の輝きみたいな光が床を照らしていた。
 幸いにして、そして高田先生にはおそらく不幸にして、ぼくらの四時限目は理科の授業だった。従って昼休みの分もあわせてそれなりの時間を、ぼくらは最後の準備に費やすことができた。もしも今度のことで一番の被害者がいるとしたら、それはたぶん高田先生ということになるだろう。
 必ずしも万端とまではいえないものの、準備を終えたぼくたちは全校生徒が集まるのを待っていた。
 時間の感覚がおかしくなって、ぼくは時計の針が遅くなったり、早くなったりしているような気がした。さすがに緊張しているらしい。
「大丈夫ですよ」
 舞台袖にいると、不意に声をかけられた。千絵だった。
「きっとうまくいきます。魔王が言うんだから間違いありません」
「そうだよな」笑うと、少し気が楽になった。
 何人かで走りまわって、全校生徒が着席したことを確認する。
 それからぼくは、はじまりの合図を送った。
 館内にベルが鳴り響いて、一瞬生徒たちのざわめきが大きくなる。けれど電鈴が終わって照明が落とされる頃には、あたりは潮の引いたあとの砂浜みたいにひっそりとしていた。
 壁のスピーカーから、館内アナウンスが流れる。
『本日は全校集会にお集まりいただき、大変ありがとうございます――』
 見事なウグイス嬢ぶりで小林さんの放送がかかると、生徒たちの声はいっそう小さくなった。
『ここで、残念なお知らせがあります。本日予定されておりました〈校長先生による受験生への訓示〉は諸般の都合により中止とさせていただきます。手元に入ってきた情報によりますと、職員室に爆発物が仕掛けられたため、身動きがとれないとのことです』
 生徒たちのあいだにさざ波のようなざわめきが広がった。
 けれど、実際のところこれは半分くらい嘘じゃない。今頃、藤野が職員室に電話をかけ、教師全員を足どめしているはずだった。爆発物のことも、本当だ。高田先生が理科教師としての誇りにかけて作ったのだから間違いない。減俸処分ですめばよいが。
 もちろん、ぼくらは今回のことで学校側の許可なんて一切とっていない。そもそも、とれるはずがないのだ。よって今回のことを実現するためには、多少強引な手段をとる必要があった。
 ちなみに足どめ役というもっともリスキーな役を藤野のやつにやらせたのは、それなりの理由がある。いつかぼくらが無許可放送事件≠起したとき、授業を抜ける言い訳をやつに頼んだことはすでに述べた。
 確かに、藤野は立派にその役を果たしてくれた。
 彼は言ったのだ。「清川は具合が悪いそうで、奥村がつきそって保健室に行ってます」そして一言。「どんな看護を受けてるかは知りませんけど」
 ぼくが危険で困難な足どめ役を頼んだとき、藤野は快く引き受けてくれた。藤野及び何人かのメンバーが無事に任務を果たして帰還することを、ぼくは心より願う。
 そんなことを考えているうちにも、アナウンスは続いていた。
『従いまして、本日急遽上演プログラムを変更いたしますことを、皆様方にはご了承願いたいと思います。代わって行いますのは、三年F組による演劇〈ベルフォレスト物語〉です。それでは、最後までゆっくりとご観覧下さい。なお、恐れ入りますが上演中、携帯電話の電源はお切りいただくか、マナーモードに変更するよう、お願いいたします』
 アナウンスが終了すると、開始のベルが打ち鳴らされた。条件反射的に静かになった館内に、音楽が響く。
 音楽は某有名ゲームのプレリュード。全般的にゲームやアニメ音楽が多くなったのは、音響担当の室重の個人的な趣味のせいだった。
 物語冒頭に聞こえる印象的な音楽とともに、二つのスポットライトが舞台を照らす。
 そこには、双子の少女(幸乃姉妹)の姿がある。精霊のごとき荘厳な衣装を身にまとった二人によって、プロロゴスが開始された。
「ああ、何ということだろう」「ああ、何ということだろう」
「国土は血に染まり、空さえも暗い」「国土は血に染まり、空さえも暗い」
「二つは一つ、一つは二つ」「二つは一つ、一つは二つ」
「この予言が成就されることのないかぎり、この地に平穏が訪れることはないのだ」「この予言が成就されることのないかぎり、この地に平穏が訪れることはないのだ」
 二人による交互の輪唱が物語全体の世界観を告げる。さすが双子だけあって見事な輪唱だった。
 スポットライトが消え、二人がいなくなると、舞台全体がフェードイン(照明担当は未来のDJを目指す芦田)。右袖から一人の少年と一人の男(実際はどっちも少年だが)が現われる。
 一人はこの国の王子、もう一人はその従者だ。王子は生まれて以来十五年間踏むことのなかった故国の地に足を下ろす。それはある予言のためだった。王子が生まれたときになされた、「彼が十五の歳を迎えるまでは決してこの国の大地を踏んではならない」という。
 ここまで、どうやら生徒達による妨害行動はなさそうだった。本当のところどう思っているのかは分からなかったけど、大人しく観劇することに決めてくれたらしい。ぼくはひとまず胸をなでおろした。
 ――十五年ぶりに故郷に戻ってきた王子は、けれど国内が戦争状態にあることを知る。しかもその戦争は奇怪なものだった。いったい誰と戦っているのか、誰も知らないという。
 二人は王の親愛厚く、また国の賢者と称えられえる公爵の元へ向かう。しかし公爵にも、やはり詳しいことは分からない。王の城は今、大変な混乱にあるという。「行くのはおよしなさい」と公爵は言う。「だがわたしは行かなければ」と王子。
 一刻も早く城へ向かおうとする二人の前に、薄汚れた姿の少女が道をふさぐ。公爵の館で見かけた婢女だった。彼女は何故か二人についていくという。
 一悶着の末、従者の反対にもかかわらず王子は娘の願いを許可する。射るような娘の強い瞳とその熱意に押し負けた格好だった。喜ぶ娘。しかし何故か少年が王子であることを知っていた娘に、従者の疑念はゆるまない。
 国が戦争による混乱状態にあるというのは本当のようだった。一行の前に追いはぎの群れが現われる。待て、わたしたちは城に向かい、正義を行おうとしているだけだ。そんなこと知るか。
 襲いかかる野党の群れ。多勢に無勢、危うく刃にかかろうとする一行。しかしその時、剣をとった娘が八面六臂の活躍をはじめる(この役は武芸百般の李によるものなので、下手なヒーローショーよりよっぽど迫力があった)。鬼神のごとき娘の剣さばきに恐れをなして逃走する悪人ども。
 と、一行はその中で一人だけ逃げもせずに隅で震えている少年に気づく。娘が剣を突きつけると、少年は慌てて言う。「殺さないで。僕、みんなに協力したいんだ」
 劇がはじまって三十分くらい経った頃だろうか.ぼくは時計を確認する。藤野たちはうまくやっているだろうか。高田先生もひそかに協力してくれているはずだから、何とかうまくいっていると信じたい。
 ――少年が言うには、自分は城を作っていた大工の子供で、秘密の抜け道を知っている。野党に加えられたのは、そのせいだ。城に向かうならきっと役にたってみせる。
 三人はその言葉を信じて、少年の案内に従う。城の正面を迂回する形で小高い丘の教会へと向かった。丘を登るにつれ、城の全景を見渡すことができる。
 そこには不可解な光景が広がっていた。城門の前で兵士たちが戦っている。だが敵の姿は見えない。兵士は剣で何もないところを斬り、槍で何もないところを突いた。時々、誤って味方を傷つけさえする。だがそれで一向に平気なようだった。千人あまりの兵士たちは、いったい何と戦っているのか。
 一行は疑問を抱きつつも、城の中へと向かう。教会の墓地から秘密の地下通路へ。
 その途中、四人は見たこともないような怪物と遭遇する。娘の奮闘と従者の機知によって辛くもその場を脱出する一行。どうやら城は魑魅魍魎の跋扈する怪しげな場所へと変貌しているようだった。
 城の内部へと侵入した四人は、一路玉座の間へと向かう。再び現われた魔物を、最初に少年と従者が、次に娘がひきつける。単身、玉座へ向かう王子。広間の扉を勢いよく開け放つ。
 そこにいたのは、本来王の座すべき場所に腰を下ろす、仮面姿の謎の人物だった。彼は言う。「生まれてからこの地を十五年踏まなかったものにしか、私を殺すことはできない」。王子は予言の成就されるべきときを知った。
 剣を構え、仮面の男を突き刺す王子。男の顔から仮面が落ちる。その時広間に駆けこんできた娘の叫びが響く。「お父様!」
 そう、男は王子の父親であるこの国の王。そして下女に見えた娘は王子の妹にしてこの国の王女。彼女は予言に従ってそのことを隠していたのだ。
 悲しみの対面。正気に戻った王は紋章の欠片を取りだす。割れたその欠片は、身の証として一方を王子に託されたものだった。ぴたりと一致する紋章。
 舞台、フェードアウト。
 次の瞬間、同時に照らされる三つのスポットライト。一つは王子を、そしてもう二つは最初に登場した双子の精霊を浮かびあがらせる。
「あなたがたは?」訝る王子。
「今こそ予言は成就された」
「二つは一つ、一つは二つ」
「二つの紋章は一つに。一つの紋章は二つに」
「すべての運命は元へと戻り、王の生命はこの世界にとどまるだろう」
「あなたがたはいったい?」戸惑う王子。
「私たちは世界を律するもの」
「私たちは運命を司るもの」
 舞台、再び暗転。次に光が戻ったとき、そこに双子の姿はない。倒れた王の心臓に手をあて驚く王子。死んだはずのものは生き返った。歓喜にわく四人。正気に戻った兵士たちもやってくる。舞台は大団円。鳴り響く生徒たちの拍手。

 ――ところが、話はこれで終わりじゃない。
 というより、ここからが本番なのだ。今までのは長い長い長い前ふりだ。
 ぼくはインターカムを使って指示を送る。「第二幕、魔王の逆襲を開演」と。

 大拍手に包まれた館内に、突如雷電の音が響く。ぎょっとして静まりかえる生徒たち。続いて流れる不吉な音楽。某ゲーム最終戦のテーマ曲だった。
 観客席は軽い混乱におちいっているようだった。舞台はこれで終わりではないのか?
 普通なら、そうだろう。
 でもこれは違う。ここからが本番なのだ。主役が登場するのはこれからだ。
 スポットライトが客席中央の通路を照らす。
 そこにはいつの間に現われたのか、漆黒のドレスを身にまとった少女の姿があった。背中からは鴉のような闇色の翼を生やし、羊に似た小さな角をつけている。衣装担当、倉持の会心作だった。
 魔王というにはやや背の低い千絵は、けれどいつもとはどこか違っていた。伊勢崎によって軽く化粧をほどこされた千絵は、あまり千絵らしく見えず、むしろ本物の魔王みたいに見えた。
 もちろん、そんなのは目の錯覚だ。光線と衣装と化粧のせいで、そんなふうに見えるだけにすぎない。
 けれど――
 その時の奥村千絵は、確かに本物の魔王になったような気が、ぼくにはしていた。
 サーチライトに照らされた千絵は、ゆっくりと客席中央を歩いていく。その姿は禍々しさにあふれていた。誰もが客席から見つめるだけなのは、あるいは劇の途中だからという理由だけではないのかもしれない。
 牛歩を進める魔王の口から、言葉がもれた。ピンマイクに拾われ、電気的に拡大された託宣は館内に響き渡った。
「虚しく闘い続けた名もなき千人の兵士たちよ、お前たちはこれで救われたと勘違いしているのではないか?」
 歩みをとめず、滔々と語り続ける魔王。
「だがそれは間違いだ。お前たちの闘いは終わってなどいない。いや、まだはじまってさえいないのだ。それはもっと辛く、苦しく、そして実り薄い。その道には悲嘆が横たわり、呵責が渦をまき、絶望が顎を光らすだろう。呪わしく憐れな運命よ。
 私は予言する。絶対の真理の名の下に。絶望の運命の輪の下に。汝等は未来永劫呪われるであろう、と。その口に飲み込まれるのは渇きの水、その手につかむのは偽の黄金、その耳に囁かれるのは虚ろな骨音。汝等は迷い、悩み、苦しみ、そして失うだろう。聞くがよい、憐れな土塊の末裔どもよ。私はこの地に泥の種をまき、北風の花を咲かせ、孤独の実を穫り入れよう。不和がはびこり、怒りが覆い、悲しみが結ぶ。王の指は腐るだろう。神の栄光は地に落ちるだろう。私の腕は強い。誰も逃れることなどかなわない」
 ぼくはずっと忘れていたことを、ふと思い出していた――
 いつだったろう、とにかくそれは、ぼくが空き地でヒーローごっこをしていたときのことだ。悪役をしぶる千絵に向かって、ぼくは詐略を弄してこんなことを言ったのだ。
「誰かが悪役をやらないと、悪い種が散らばっちゃうんだぞ」
「悪い種?」
「そうだよ。それが体に入っちゃうと、その人が悪くなくても悪いことをしちゃうんだ」
 千絵は何事かをその小さな頭で考えているようだった。「お父さんもお母さんも、近頃少しも口をきかなくて、それで言うんです。私たちはどっちが悪いっていうわけじゃないんだ。だからこれは仕方のないことなんだって」
「そう、それだよ。悪役がいないせいだ。悪い種を集める人がいないからなんだよ」
「さすが幸文くんです。何でも知ってます」千絵は笑顔でうなずいた。
 千絵がことあるごとに魔王を名のりはじめたのは、その頃からだった。
 何のことはない、彼女を魔王にしたのはぼくだったというわけだ。両親の離婚という現実を前にして世界のバランスを失っていた千絵を、ぼくは知らずに魔王という物語の中に導いた。
 そのことを、ぼくは心の片隅で覚えていたのだろう。ぼくが千絵のことを手伝ったのは、当然だった。
 いや――
 本当は、それだけじゃなかった。ぼくもやはり知っていたのだ。この世には悪役がいなければ耐えられないようなことが、現実に存在するんだということを。
 魔王はすでに、舞台のすぐ下までやって来ていた。ゆっくりと迫るギロチンの刃のようなその歩み。動こうとする舞台上の人間たち。
 だが魔王の手の一振りにより、彼らはみな石と化してしまう。
 壇上へと続く階段の途中に足をかけ、観客席へと振り向く魔王。
「城門にたむろす名もなき千人の兵士たちよ、魔王はここに帰ってきた。汝等に真実を告げるため。偽りの希望を砕くため。茶番は終わる、現実がはじまる。逃げ場などない。約束の地は侵された。私は――
 わたしは」
 千絵はそこで、言葉をとめた。

 不自然な間が発生したせいで、館内には不穏な空気が漂いはじめた。魔王に扮した千絵は階段上に停止したまま。
 魔王の口上は、もうほとんど残ってはいない。散々呪いの言葉を吐きちらかした魔王は、最後に言う。だがこの予言が成就されるかどうかは、すべて汝等次第である。悲嘆にくれたくなければ、楽しむがいい。憤怒にかられたくなければ、笑うがいい。死にたくなければ、生きるがいい。だが魔王の予言を忘れるな。汝等がそのことを忘れたときにこそ、予言は成就されるであろう。努々、忘れることなきように……。舞台、閉幕。
 だが千絵は、舞台でも客席でもない場所でじっとしている。
 台詞を忘れたんだろうか、とぼくはまず思った。出番はここだけとはいえ、魔王の台詞は長い。千絵がそれを忘れてしまう可能性はあった。
 その場合は、もはや適当にしゃべらせるしかない。基本的には、呪いの言葉を吐き続ければいいのだ。そして最後の流れで終わればいい。必ずしも無理じゃなかった。少なくともゴリアテを倒すよりも簡単なのは間違いない。
 舞台袖からではほとんどその後ろ姿しか見えなくて、ぼくにはそれ以上の判断はつかなかった。何とかして千絵に指示を与えなくては――
 千絵はじっと、何かを確かめるような、ずっと昔の忘れものを見つけたような、そんな様子をしていた。
 そして不意に、千絵はぼくのほうを見た。舞台でも客席でもなく、ぼくのほうを。
 何故だか、その時の千絵は笑っていた。
 いつもの千絵の笑顔とは違う。
 あの明るすぎて、元気すぎて、まるで痛いのを我慢しているような、辛いのを忘れようとしているような、そんな笑顔とは。
 それはただ透明で、純粋で、静かで、自然で、たった今笑うことを知ったみたいな、ただの氷の小さな塊が一日で世界を白く変えてしまうみたいな――
 そんな、笑顔だった。
 千絵は――魔王は階段をのぼり、壇上に立った。そしてみんなを、この世界を見つめた。
「わたしは、理由がありさえすれば人は不幸になることはないと思っていました。どんなに辛いことだって、理由があれば耐えられる。何とかのせいで、何とかだから……そんなことで、人のバランスは保たれるんだと思っていました。そしてバランスが保たれ続けるかぎり、人は本当の意味で不幸になることはないだろう、と。でも本当は、そんなことじゃないのかもしれません。不幸はやっぱり不幸でしかなくて、そんなのは理由があったってなくったって同じなのかもしれない。人は不幸をどうすることもできないし、その前では本当に無力です」
 客席は人がいなくなったみたいに、しんとしていた。
「本当のことは、分からない。でも、これだけははっきり言えることがあります。わたしがずっと魔王でいつづけたのは、わたしにとって魔王が必要だったから。世界を本当の不幸から守ってくれる、悪い存在が。そうでなければ、この世界はきっと耐えられないような場所だったから。でも――」
 でもそれは違う――
「でも、それも本当は違う。だって、わたしはもう不幸なんかじゃないから。わたしには仲間がいる。いつもそばにいてくれる、素敵な友達も。こんなんじゃ、不幸だなんて言ってられない。わたしは本当に幸福だ。胸をはって、この世界の隅々にまで叫ぶことができるくらい幸福だ。だから、わたしは感謝します。ここに来れたことを、ここにいることを、ここから去っていくことを。そして何より、魔王であったことを。できるなら、みんなにもそうであってほしい。わたしが本当にそう思ったことを、そう思えたことを、できれば忘れないでほしい。きっと試験で鉛筆を転がすくらいには、役に立つと思うから」
 そして、千絵はあの最後の言葉を口にしようとした。
「わたしにはもう、魔王は必要ない。だからわたしは――」

 春だった。
 沿道の桜は満開で、風に花片が散った。桜吹雪というくらいで雪に似ているけど、それは雪のように冷たくはない。まだ時折寒い日もあるけど、おなじみの西高東低の気圧配置は終わろうとしている。もう雪が降ることもないだろう。
 ぼくは晴れて入学試験に合格して、第一志望だった新しい高校に通おうとしていた。今日は入学式だ。昔の城址にある古い県立高校で、今ぼくは堀のほとりを歩いている。堀の水は澄んで、魚が泳いでいるのが見えた。
 天気がよくて、空は新品みたいな濃い青空だった。まわりを、たぶんぼくと同じ新入生たちが歩いている。
 あれからのことを、話さなくてはならないだろう。
 実際のところ、藤野はよくやったと思う。丁々発止のやりとりで、先生たちを職員室に足どめしたやつの功績は大きい。けれど結局のところ、それは敗北を約束された戦いにしかすぎなかった。最後には毒に倒れるヘラクレスみたいに、その時はやってきてしまう。教員たちは出発した。ドアにつっかえ棒がしてあったため、窓から外に出て。
 その後は物理的手段による足どめだった。粘着シートを並べたり、水の入ったビニールプールで廊下をふさいだり、胡椒入りの大量の風船を浮かべたり。だがそれもいつかは突破されてしまう。
 教師の最初の一人が記念館にやって来たのは、千絵が例の発言をしようとしているときのことだった。「だからわたしは――」。その時、鍵のかかったホールのドアが叩かれた。
 ぼくらの処置はすばやかった。あらかじめ決めておいたからだ。ホールの扉はすべて事前に鍵をかけてある。鍵のかかっていないのはただ一つ、裏口だけだ。
 その裏口から、ぼくらは脱出した。つまり、逃げた。そういう計画だったのだ。
 ただし、やはり何事も計画通りにはいかないもので、ぼくらの行動もだいぶ混乱していた。右往左往という言葉があるけれど、まさにそれだった。
 そんな中で、衣装担当の倉持を責めるのは酷というものだろう。何しろ日程の都合で、あの劇までは一週間という時間しかなかったのだ。その限られた時間の中ですべてを用意しなければならなかったのだから、多少縫製が甘かったとしても、それは仕方のないことだった。
 館内にドアの叩く音が響いた瞬間、ぼくらは昔懐かしい鬼ごっこよろしく、いっせいにその場から逃げ出そうとした。ぼくも千絵を連れてとんずらを決めてしまおうと、そばに駆けよろうとした。
 その瞬間、後ろにいた倉持の口から、「あ」という声がもれた。
 舞台上では慌てて走りだそうとした千絵が見事に足をもつれさせて転んでいた。さっきも言ったように、縫製が甘かったのだろう。まず、見るからに邪魔そうな背中の羽の一つがもげ落ちた。同時に、まるで神様が嘲うかのような不吉な音が腰まわりで響いた。
 その後に起こったことについては、ここでは書かずにおいてやるのが情けというものだろう。本人の名誉のために書いておいてやると、それは何ら公衆良俗に反する事象ではなかった。客席からは爆笑が起こったから。
 そんなこんなで記念館からの脱出に成功したぼくらは、着替えをすますと教室に戻って 事の成り行きを待った。かなりの時間が経過してから、高田先生と飯沼校長が教室に現われた。全校集会は中止したそうだ。とてもそれどころではないと。
 ぼくらの処分については、追って沙汰あることになった。二日後にくだった判決は、F組クラス全員による一週間の校内清掃活動だった。ぼくらのしでかしたことを考えると、ほとんど処罰なしの結果に等しい。
 この温情措置には、生徒会の工作が一枚かんでいた。生徒の署名を集めて、嘆願書を作成したのだ。発起人は当然、乾一彦生徒会長。
 一週間の居残り掃除のあいだ、ぼくはみんなにぶうぶう言われつづけた。そんなぼくへの対応とは裏腹に、千絵に対してはみんな何の文句も言わない。ぼくとしては、今でもそれは納得がいかない。男女差別だろうか。千絵はずっと笑っているだけだったけれど。
 高校入試が終わって、それから間もなく卒業式が行われた。生徒の何人かが泣いて、何人かが第二ボタンをなくした(ちなみにそれはぼくのことではない)。
 みんなのことについて、少し話しておくべきだろう。
 藤野は内申書の点数が響いたわけじゃないと思うけど、第二志望のすべりどめの高校に合格が決まった。数学で優秀な高校だからわざと落ちたんだよ、と本人はうそぶいていたけれど。
 副島委員長と葛城書記のその後について詳しいことは知らない。ただ、葛城の東京行きは親の都合で中止になったらしい。今度こそ立派にふられ――もとい、立派に恋を成就することを願っている。
 放送部員の千葉は、自主制作ビデオをどこかに送って雑誌に載ったそうだ。それが猫に関するものじゃないことだけは確実だろう。声が小さくて引っ込み思案だった宇佐美は、髪を切ってイメチェンをはかった。久しぶりに会った宇佐美は見違えるほどだったけど、中身のほうは必ずしもそれに追いついてはいないようだ。
 その他、おしゃれ好きの伊勢崎、法家的な笹本、双子の幸乃姉妹などなど、みんな元気にやっているという話だ。
 最後に、李美花について。
 彼女は卒業後、中国へと帰ってしまった。ささやかな送別会を開いたとき、李はぼくらのことを決して忘れない、と言った。ぼくは別れ際、彼女と最後の握手を交わした。武術家であるにしては、彼女の手は柔らかくて、何となくそれは中国の奥深さを感じさせた。
「花発多風雨、人生足別離」その時、李は言った。
「何それ?」
「ハナニアラシノタトエモアルゾ、『サヨナラ』ダケガ人生ダ」
「サヨナラだけが人生、ね」
「お前たちに会えてよかったよ」李は弦月のような口元でにっこりと笑った。
 さて、こんなところで友人たちのその後については語り終わろうと思う。
 ……ん、何か忘れてるって?
 そうそう、すっかり忘れていた。高田先生のことだ。
 緘口令のおかげで、先生は減給にも離職の憂き目にもあうことはなかった。今でも鈴森中学で理科を教えているはずだ。近頃恋人ができたと噂は聞くけれど、実際に見たことはない。結婚の予定はまだないそうだ。ぼくとしては、それが脳内彼女でないことを祈っている。
 以上で、近況報告は終わる。
 いや、冗談はそろそろやめにしよう。肝心のことを言っておかなくちゃならない。
 奥村千絵のことだ。
 でもそれは難しい。何しろ千絵は、今もぼくのすぐ隣にいるからだ。すぐ近くにいる人間のことをわざわざ思いだしたりするのは難しい。
 千絵はぼくと同じ高校に合格した。ぼくとしては納得のいかないところだけど、採点者が何かミスをしたのだろうと思っている。あるいは、散々いっしょにテスト勉強をしてきたせいかもしれない。
「幸文くん、どうかしたんですか?」そう言って話しかけてくる千絵は、やっぱりいつもの千絵だった。元気で、明るい。
 でも、そこに前のような無理は感じられなかった。
「――何でもない。そろそろだな、と思っただけだ」
「そうですね」千絵は少しだけ、何かをいたわるような表情をした。「六花ちゃんが亡くなってから、もう八年になるんですね」
 清川六花はぼくの妹だ。あるいは、妹だった。この町の病院に移ってからしばらくして、死んでしまったからだ。ぼくと千絵が熱を出してまで流れ星に願ったことは、結局のところ叶わなかった。この世にはどうしたって叶えられないことがある。
「……サヨナラだけが、人生だ」ぼくはそっと、口ずさんでみた。
「え?」
「いや、何でもない」ぼくは軽く手を振ってごまかす。
 桜が散る。季節が巡る。それでもぼくらはどこかへ進んでいく。ここではない、どこかへ。
 正門前のやけにきつい坂をのぼりながら、ぼくは訊いた。
「ところでさ、あの最後の時――」
「ん?」
「あの時、何を言おうとしてたんだ。ほら、『だからわたしは――』ってやつ」
「んー」
 千絵はもったいぶるように口を開こうとしなかった。
 坂をのぼって正門を抜けると、学校の校舎が見えてきた。古ぼけた、いかにも旧式の建造物だ。明日にはおじいさんといっしょに止まってしまうんじゃなかろうか。
「聞きたいですか?」グラウンドのフェンス沿いを校舎玄関に向かう途中、千絵はぼくのほうにくるりと体を向けながら訊いた。
「まあね」ぼくはうなずく。
「じゃあ、三回まわってわんと言ってください」
「――断わる」ぼくのプライドはそこまで安くはない。
「なら秘密です」笑いながら言って、千絵は春の陽気に誘われた五線譜上の音符みたいにそのへんを駆けはじめた。
 その姿を見ながら、魔王のいる世界も悪くないな、とぼくはふとそんなことを思ったりしていた。

――Thanks for your reading.

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