[魔女と青空]

「藤本くん、空はやっぱり青いんだね――」

 それは、泣き出したくなるような青空だった。
 僕は大きく息をすってその衝動をやり過ごし、しばらくの間そんな空を眺めていた。
 巡ってきたばかりの春はまだ少し居心地悪そうで、冬の足跡のような冷たさが空気には残っていた。そのせいか、空は変に濃く青く、雲は変に白く冷たく、くっきり浮かんでいるように見えた。
 それでも、少し前には桜が散り、陽射しは確かな温かさを手に入れようとしている。季節が巡ろうとしているのだ。
 僕はやってきた風の気配に手をのばし、大気の流れを感じた。風はやはりまだ少し冷たく、僕の手から熱を奪っていった。
 季節はやはり巡るのだし――
 空はやはり、青く広がっている。
 そしてその青さは、ふと心をしめつけるような、自分でも忘れている古い記憶をふと引っぱり出すような、そんな色あいをしていた。
 あの魔女≠ェいたら、きっと音もなく、自分自身だって気づかないうちに泣いているのだろう。
 彼女はいつだって、そうだった。大切なことを知っているくせに、そのことに自分では気づいていない。
 ――もちろんそれは、彼女が今もいれば、の話ではあるのだけれど。


 僕の名前は、藤本望(ふじもとのぞむ)という。変わりばえのしない、どこにでもありそうな名前だ。父親と母親は姓名判断を使って、天画だとか地画だとかでその名前を決めたらしいが、今のところ僕にはその恩恵にあずかったという記憶はない。第一、この世界のどこに名前で得をすることがあるというのだろう?
 もっとも、どこにでもありそうな名前のおかげで、僕は名前で何かからかわれたという記憶もない。すっとんきょうな名前をつけられたおかげで先生にいつも間違われることも、妙なコンプレックスを持つということもなかった。
 僕自身としては、僕の名前のことをとやかく言うつもりは少しもない。藤本望、十分じゃないか。名前というのは生まれて一番はじめにつけられる所属名であり、それが明確に記されていれば問題はない。別に僕は、ゲド戦記みたいに名前が重要な意味を持つ世界に生きているわけではないのだ。
 そんなわけで、僕は自分のごく普通の名前と、ごく普通の家庭環境に特に不満を持ったことはなかった。
 見渡せば、周りにいるのも同じような具合(ディテール)の人間ばかりなのだ。
 けれど――
 彼女は、違っていたらしい。


 僕が彼女、香月美夜乃(こうづきみやの)とはじめて出会ったのは、中学三年になったときのことである。
 それは特に感動的なものでも、物語性にあふれたものでもなかった。僕はクラスのはじめの自己紹介のときに、はじめて彼女の名前を聞いたのだ。
 とはいえその時、僕は香月美夜乃という少女についてはほとんど何も知らなかった。自己紹介も、通りいっぺんとうの、よくあるものでしかなかった。僕は彼女に興味も持たず、注意も払わなかったし――それは彼女も、同じだったろう。


 実際に僕と彼女が出会うのは、もう少しあとのことである。
 それは新しいクラスになってから、一週間ほどあとのことだった。僕はその頃、古い友達関係の調整やら、新しい友達関係の構築やらで忙しかった。新しいクラスメートに対しては初見でその印象を決め、二、三回突っついてみて性格やら相性やらを判断する。
 僕はわりとそういうことが得意だった。こいつとはうまくやれそうだな、と思う相手とはまず間違いなく仲良くなった。逆にこいつとは死んでも友達になれないな、という相手とは、お互いに距離をとった。たぶん相手にもそういう感情が伝わるのだろう。
 そんなわけで、僕は僕の新しい生活環境を作るのに忙しく、もちろん彼女のことなんて知りもしなかった。女子のグループというのは複雑で、僕には想像もつかない場所ではあったし、そもそも興味がない。
 僕は子犬のようにじゃれあう男子生徒の間で、空中でわけの分からないあやとりをしているような女子のかけひきには見向きもしなかった。
 だから僕は、その時が来るまで香月美夜乃のことを知らなかった。顔を覚えていたかどうかも怪しかったんじゃないかと思う。


 その時が来たのは、クラスの委員決めのときだった。
 HRの時間、会長、副会長、書記、といったクラス委員、それに整理とか保健なんかの各種委員を決めるのだ。
 僕はこういうとき、一貫して図書委員を選んでいた。他のろくでもない仕事を押しつけられてしまう前に、さっさと自分で選んでしまおう、というのだ。
 図書委員への立候補を尋ねられたとき、クラスの中で手を上げたのは僕と、あと女子が一人だけだった。委員は男女で各一名ずつ選ばれるから、これで僕は前期の図書委員に決定したわけである。
 それ以上手を上げるものがいないことが確認されると、黒板には僕と、その女子の名前が書かれた。

 藤本望
 香月美夜乃

 香月美夜乃の名前が書かれたとき、教室の一部が一瞬ひそひそとした空気に包まれたが、僕はそのことに気づかなかった。香月美夜乃のことについても僕は何も知らなかったが、別に気にはしていなかった。
 それはうかつといえば、うかつだったのかもしれない。
 彼女のことについては学校でいろいろな噂が飛びかっていたし、僕がそれを知らなかったのは、いささか世事に疎いといえるものだった。そういう意味でのうかつさは、あったのかもしれない。
 僕は手を上げたその女子生徒に目やってみたが、僕の席は彼女の場所からいくつか机をはさんだ後ろにあって、彼女の顔を見ることはできなかった。僕から見ることができたのは、彼女の後姿と、その長い黒髪だけである。


 その日の放課後、さっそく最初の委員集会があった。
 図書委員が集まるのは、もちろん図書室である。僕は香月美夜乃の姿を探した。どうせだから、一緒に行こうかと思ったのだ。
 けれど教室にはすでに香月美夜乃の姿はなかった。一人でさっさと行ってしまったらしい。
 僕はやれやれ、と思いながら、かばんを持って図書室に向かった。別に仲良くやる必要も、必要以上に協力しようとも思わないが、わざわざ剣呑になる必要もない。
 下校する生徒たちの間を通り抜けて、僕は学校の四階にある図書室にまでたどり着いた。扉を開けると、中には三々五々、生徒たちの姿がある。
 僕は室内を見渡して、窓際のところに香月美夜乃の姿を見つけた。彼女は一人で何かの本を読んでいた。
 歩いていって、僕は彼女の向かい側に座った。
「これからよろしく、香月さん」
 と、僕は声をかけた。
 その時、彼女は本から顔を上げようともせず、
「……よろしく」
 とぼそぼそ答えただけだった。
 そしてそのことに、彼女は何のおかさしも感じていないらしい。
 僕はだからといって、腹を立てたりはしなかった。心の中で、「何だこいつ」くらいに毒づいてもよかったと思うのだけれど、特に何も思わなかった。まあこういう子なんだろうな、と思っただけだ。
 どういうわけか、僕は彼女に対してそういうところがあった。怒るとか、不思議に思うとかいう前に、納得してしまうのだ。ああ、この子はこういう子なんだな、と。
 それがどうしてなのかは、今でも分からないのだけれど。


 ……あるいはそれは、単純に彼女の容姿によるものだったのかもしれない。
 彼女は簡単にいうと、整った顔立ちをしていた。どこかで不意に見かけたら、思わず振り返ってしまいそうな、そんな容貌である。
 もちろん、それは彼女が例の奇妙な発言を口にするまでだった。その言葉が彼女の口から発せられると、大抵の人間は目をそらし、関わりあいになるのを避けた。……まあ、それも無理はないと思う。
 とはいえ、ただ黙ったそこにいるぶんには、彼女はやはり可愛かった。黒い、まっすぐの髪をしていて、小さな鼻と形のよい唇をしている。目つきは性格のせいか、いくぶん冷ややかな感じをしていたが、その瞳は星空の瞬く夜空を映しているようにきれいだった。全体に、やや華奢な体つきをしている。
 僕は女の子のことについては特に詳しいわけではないけれど、彼女は化粧もしていなかったし、自分の容姿についてとりわけ注意をしている、というわけでもなかったと思う。たぶん自然の状態で、彼女はそんなふうだったのだ。
 それでも、彼女にはある種の化粧をしているような、奇妙な雰囲気があった。それは春の装いとか、秋の彩りとか、そういうものに近かったのかもしれない。彼女の中でもっとも人をひきつけたのは、そういう部分だったと思う。
 時々、僕は自分でも気づかないうちに彼女のことを眺めていることがあった。
 僕はそうすると、何故だかいつも、静かな月の光を眺めているような、そんな気持ちになった。


 僕らが初仕事に向かったのは、はじめての委員集会からしばらくしてのことだった。
 図書委員の仕事というのは、昼休みと放課後に本の貸し出し、返却を受けつけることである。他に本棚の整理とか、返却の督促なんかがあった。
 僕は昼休みに、図書室に向かった。委員集会のときと同じく、香月美夜乃の姿はすでに教室にはない。
 図書室の扉を開けると、中にはまだほとんど人影はなく、彼女一人だけがぽつんとカウンターに座っていた。彼女はあの日と同じように、本のページに目を落としている。
「よろしく……」
 僕は一言挨拶してからその隣に座り、ノートを取り出したり、カードの点検をして準備を整えたりした。
 しばらくすると、図書室の人口密度はまばらながらも増えていった。前にも言ったとおり僕は図書委員を何度かやったことがあって、勝手はどれも分かっている。それほど忙しいものではないし、難しいことをするわけでもない。
 とはいえ、僕が返却された本を受けとったり、ノートに書き込みをしたりしている間、彼女は隣で本を眺めたまま、微動もしなかった。眉一つ動かさない。図書委員というより、たんに本を読みに来ただけみたいだった。
 しかもそれは、特に手伝うことがないから手伝わない、というのではなく、完全に手伝う気がない、という態度だった。彼女は周りの世界なんて存在しないかのように、本を読むことに集中していた。
 僕はやれやれ、とため息をついたが、特に何も言おうとはしなかった。そういう子なんだな、と思っただけだった。


 その日の放課後、僕はもう一度彼女と顔をあわせた。図書委員の仕事があったのである。
 放課後の図書室には、誰の姿もなかった。放課後にまで熱心に本を読む生徒はいないし、放課後にまでやって来るほど立派な図書室でもないのだ。
 僕は本棚の整理や、カードの確認をしていた。彼女は昼休みのときと同じように、カウンターに座ったままじっと本を読み進めていた。手伝う気はないらしい。
 大体やることを終えてしまうと、僕は少し手持ち無沙汰になった。本を読むような気分でもなかったし、彼女に話しかけようにも、適当な話題が見つからない。
 僕は窓際の席に腰かけて、ぼんやりと外の風景を眺めていたが、ふと、
「何を読んでるの?」
 と、尋ねてみた。
 別に何を思ったわけでもない。ちょっと聞いてみただけだ。自然と口をついて出た、という感じだった。
 それに対して、彼女はどういうわけか「信じられない」というような顔でこちらを見ていた。目でじっと、こちらの様子を探っている。警戒心をあらわにした表情だった。
 僕はその対応に、驚くというよりまごついてしまっていた。僕は何か、奇妙なことをしたんだろうか。ごくあたりさわりのないことを聞いただけのはずだけど――
 けれどその答えは、すぐ出ることになる。
「そんなこと聞いたの、あなたがはじめてよ」
 彼女はそう、珍しい動物でも眺めるみたいにして言った。
「へえ」
 僕はそう言われて、不得要領な感じでうなずいた。どうもよく分からないが、彼女は自分の読んでいる本について尋ねられたことがないらしい。それで驚いたのだ、と。
「……で、何を読んでるの?」
 そう解釈して、僕はだからといって別にどうとも思わなかった。まあそういうこともあるのだろう、と思っただけだ。
 僕がもう一度同じ質問をしたせいで、彼女はちょっと調子が狂ったような、そんな表情を浮かべていた。変わった子だ。
「――これは本じゃないわ」
 と、しばらくして彼女は言った。
「本じゃない?」
「そうよ、これは手引き書≠諱v
「手引き書?」
 けれどそう言ったきり、彼女はそれで十分というように口を閉ざしてしまっている。
「手引き書って、何の手引き書?」
 僕はもう一度、質問を繰り返した。
「魔法のよ」
 面倒くさそうに、彼女は言った。
「魔法……?」
 彼女は魔法≠ニいう言葉を、何のためらいもなく口にしていた。
 そして僕は、あのセリフを聞くことになる。大抵の人間が彼女から遠ざかっていく、あのセリフだ。

「だってわたしは、魔女≠セから――」


 そのセリフを口にしたとき、彼女は完全な真顔だった。そこには一欠片の冗談すら含まれてはいなかった。
 彼女はいわゆる不思議キャラというのではなかったし、自分のことを魔女と呼ぶタイプにも見えなかった。少なくとも、僕にとってはそうだった。
 だから魔女≠ニいう言葉を聞いたとき、僕は少なからず驚いていた。その言葉を咀嚼して飲み下すのに、ほんの少しだけ余計に時間がかかった。
 けれど魔女という言葉を理解してしまうと、僕はやはりそれ以上の疑問を持たなかった。ああそうか、この子は魔女なんだな――
 僕は魔法の手引き書にも、魔女といういささかネジのゆるんだ言葉にも、彼女の真剣すぎる表情にも、あまりひく≠アとはなかった。
 それより僕は、彼女の世界に対する無関心さを前面に押し出した態度や、常識から少々はずれた無口さや、フィルターを一枚通したような冷たい眼の理由が、何となく分かったような気がした。
 簡単に言うと、僕は納得したのだ。彼女がどうしてそんなふうなのか、ということを。魔女という言葉によって。
 ともあれ――
 これが僕藤本望≠ニ、魔女″′飼夜乃の、はじめての出会いだった。


 彼女のことについてはその後、いろいろなところから噂を聞くことができた。
 注意してみれば、彼女にまつわる話はいろいろな場所で囁かれていたのだ。
 それによると、彼女が魔女≠ニ呼ばれるようになったのはだいぶ前かららしかった。小学校中学年のときには、すでにその二つ名を冠していたらしい。
 どうしてそう呼ばれるようになったのか、というのにも話がある。
 彼女の周りで、自殺した人間がいたらしい。
 詳しいことは分からなかったが、それは彼女と同じクラスの女子だったということだ。しかも彼女はその女子を含む同級生数人から、ひどいいじめを受けていたらしい。
 それが事実だとすれば、おそらくその自殺した女子というのは、彼女をいじめていたグループのリーダー的な存在だったのだろう。
 とすれば、残ったグループの女子たちが、呪い≠セとか魔術≠セとか言いだすのも、無理はなさそうだった。なにしろ、その女子には自殺するような理由がないのだ。
 もちろん、呪い≠セとか魔術≠セとかが現実に存在するわけがない。彼女たちは自分たちのいじめ≠ニいう意識に対する反動として、そんなことを言いだしたのだろう。
 細かい経緯はともかく、その辺りから彼女は魔女≠ニ呼ばれるようになったらしい。まあそう呼ばれるのも無理はないかな、と思う。
 でも正直に言えば、この時の僕はそう思っただけで、それ以上のことについては特に考えようとしていなかった。彼女がどうして自分から魔女≠名乗っているのか、ということについても。
 僕が本当のことに気づいたのは、ずっとあとのことだった。


 ――今から考えると彼女は魔女≠ニいう呼び名について、自分から積極的に同化しようとしていたのだと思う。
 そうして彼女は、世界と距離をとったり、口を閉ざしたり、冷たい眼差しを覚えるようになった。
 彼女は魔女という押しつけられたキャラクターに、自らを進んで重ねあわせたのだ。魔法の手引き書を持っていたり、自分で自分のことを魔女だと言っていたのは、そのせいだろう。
 とはいえ、僕がそんなことを思いはじめたのは、もうすべてが終わってしまってからだった。その時の僕はやはり、ほとんどそのことを気にしてはいなかった。
 だからこそ、彼女は僕といろいろ話をしたのだろうし、僕は彼女とごく普通に接していたのだ。
 僕は本当に、何も考えてはいなかった。彼女がどうして、自分のことを魔女だと言っていたのか。
 けれどそれは、たぶん――
 そうでもしなければ、世界の重みに耐えられなかったからだと思う。


 僕は彼女が自分のことを魔女≠セとカミングアウトしてから、その証拠≠ノついていろいろと聞かされることになった。
 それは主に図書委員の仕事がある放課後で、誰もいない図書室でのことだった。そしてほとんどの場合、放課後の図書室には人の気配はまったくなかった。
「魔女には集会があるの」
 と、彼女は言った。
「サバトっていうのよ。月に一度、満月の日に開かれるの。そこには世界中からたくさんの魔女たちが集まってくるのよ」
「へえ」
 僕は感心したように頷いた。窓の外には今日も青空が広がっていて、世界は退屈なくらいに平和だった。
 僕は窓際に座って、彼女はカウンターのところに、例の本を広げて座っていた。仕事はもう一通り終わってしまっている。
「すごいな、国際集会だ。でもそうしたら、言葉とかはどうするの?」
 僕はごく普通の世間話のような感じで、訊いてみた。
「魔女言葉≠ェあるから大丈夫よ」
 と、彼女はこともなげに言った。
「何だいそれ?」
「魔女だけが使う言葉よ。世界のどの言語とも違うの。魔女だけが使えて、魔女にしか分からないの」
「すごいな」
 たぶん、超マイノリティーの言語なのだろう。きっと国連か何かのレッドリストに載るくらいの。
「その言葉だと、わたしは〈エミテス〉って名前なの。はしばみのことよ」
「へえ、じゃあもしその言葉でいったら、僕の名前はなんていうんだい?」
「魔女の名前は魔女にしかないのよ」
「そうなんだ」
 僕はなるほど、と一応納得した。
「魔女って、何人くらいいるの?」
「六百六十六人よ。これは〈獣の数字〉といわれる数で、魔女の数はいつも一定なの」
 僕はその数字が多いのか少ないのか考えてみたが、よく分からなかった。マイナーなスポーツの競技人口よりは多いのかもしれない。
「日本には、何人くらいの魔女が住んでるの?」
「わたしも含めて、十人てとこね」
「その集会――ええと、サバトっていうのには、やっぱり箒に乗っていくわけ?」
「うん、そう」
 僕は、箒に乗って、日本の夜空を人知れず飛んでいる十人の魔女を想像してみた。
 それは案外、詩的で幻想的な光景なのかもしれない。手をのばせば届きそうな場所に星空が広がっていて、地上にはそれよりなお明るい街の光が沈んでいる。
 もっとも、上空の空気は相当冷たいだろうし、今の時代は夜でも旅客機が飛びかっているから、快適な空旅とはいえないのかもしれない。
「魔女も大変だな……」
「え?」
 僕の呟きは、彼女にはよく聞こえなかったらしい。「何でもない」と、僕は言った。
「――さっき名前のことを言ったけど」
 と、彼女は少ししてから、ぽつりと呟くように言った。
「あれは通称で、本当の名前じゃないの」
「本当の名前?」
 僕は聞き返した。彼女は頷いて、
「そうよ、トゥルーネーム≠ニいうやつ。世界にあるものは、どんなものだってそれを持っているの。生きているものも、そうでないものも。隠された、本当の名前を」
「………」
「香月美夜乃っていうのも、わたしの本当の名前じゃないのよ」
「へえ」
 と、僕は感心したように言った。
「じゃあ、君の本当の名前は?」
「………」
 彼女は黙ったまま、それに対しては何も答えなかった。


 魔女ということで、彼女は当然ながら魔法≠フことについてもいろいろ聞かせてくれた。
「どんな魔法を使うことができるの?」
 僕が訊くと、彼女は少し考えてからおもむろに、
「魔法っていっても、あんまり難しいやつは使えないの。わたしはまだ見習いの身だし、それに魔法を使うために必要な材料は、手に入れにくいものが多いから……」
 ひとまずは、彼女は謙遜するようにそう言った。
「でも、使おうと思えば使える?」
「………」
 彼女は無言で頷いてから、
「そうね、例えば簡単なものなら、〈嫌な人を追い払う〉魔法があるわ」
「それ、どうするの?」
「嫌な人が来たら、その人に気づかれないように手の平に字を書くの。それを三度、相手に気づかれないようにやれば、その人を追い払うことができるのよ」
「へえ」
 僕はその魔法の使い道を考えてみた。授業中なんかに使えるかもしれない。
「他にも、〈水を苦くする〉魔法とか、〈人にしゃっくりさせる〉魔法とか」
「しゃっくり……?」
 あまり使い道はなさそうだった。
「上級者になれば〈雨を降らせる〉魔法や、〈好きな場所に影を作る〉魔法なんかが使えるわ。〈作物を枯らす〉魔法とか、〈ネズミを操る〉魔法とか」
「面白そうだな」
 ネズミを好きにダンスさせられれば、動物プロダクションでやっていけるかもしれない。
「わたしは今、〈落し物を見つける〉魔法に挑戦してるの」
「便利そうだね」
「そのためにはネズミのしっぽが必要なの」
「ネズミのしっぽ?」
 どこかのアイテムみたいだった。
「そうよ。だからわたし、学校に罠を仕掛けておいたの」
「学校に?」
「ええ。体育館裏の角のところに、毒入りチーズを置いといたの」
 彼女はにっこりと笑って、そう言った。
 僕はしばらく返答に困っていたが、
「うまく捕まるといいね」
 とだけ、言っておいた。


 その日、僕が体育館裏に行ってみると、そこには確かに黄色いチーズの塊が置かれていた。体育館裏の角の、たぶん誰も来ないし、そこにそんなものがあるなんて気づきもしないような場所にだ。
 見た目からは分からないが、たぶんその黄色いチーズには殺鼠剤だか何だかが入れられているのだろう。
 僕はしばらく、その小さな黄色い塊と、憐れなネズミのことについて考えていた。


 ネズミに関していえば、彼女はそれを首尾よく捕まえることができたようだった。
 しばらくして僕が同じ場所に行ってみると、チーズを食べて、ネズミは死んでいたのだ。
 鼠色の(まあそうだ)、毛がぼろぼろになった、救いがたく不潔そうなネズミだった。いわゆる、ドブネズミというやつだろう。
「………」
 僕はそれを、排水溝の中に見ていた。餌が仕掛けられていた場所の、すぐ横にあった排水溝である。
 排水溝には水が少しだけたまって、ネズミはそこに体半分だけ浸かっていた。目は閉じ、口がわずかに開いて中の歯をのぞかせいてる。排水溝の中の水は汚く濁っていて、開いたままのネズミの目もそれ以上に濁っていた。
 死の間際に、ネズミが何を思っていたのかは分からない。
 おそらく、ネズミは自分が何故死ぬのかなんて分からなかっただろう。チーズにありつけて、幸福感を味わっていたのかもしれない。信心深いネズミなら、神に感謝していたかもしれない。
 しかしいずれにせよ、ネズミは死んだ。
「………」
 ネズミの死体は今、排水溝の中に転がっている。
 ちなみに、そのネズミにはちゃんとしっぽがついていた。体の二倍くらいはありそうな、ちょっと長すぎるくらいのしっぽである。
 たぶん彼女は、そのネズミを捕まえたものの、どうすることもできずに排水溝の中に蹴り落としたのだろう。
 確かにそのネズミは、ちょっとネズミでありすぎていた。


 彼女の家は、ごく普通の会社員の一家だったらしい。
 子供は彼女一人で、両親との三人暮らし。家は団地の分譲住宅で、二階建てで小さな庭がついている。住所を聞いてみると、それは意外と僕の家から近かった。
 ただし彼女に言わせるとその家は、
「魔女の協力者の家を間借りしているだけ」
 であり、
「二人はわたしの本当の親じゃないの」
 ということだった。
「本当の親はどこにいるの?」
 と、僕はその時訊いてみた。
「別の星。ここからはずっとずっと遠くに離れたところよ」
「何で君は地球にいるの?」
「魔女の掟だからよ。ある一定の年齢に達すると、魔女の子供は親元を離れなくてはならないの。とても厳しい掟なのよ」
「本当の親のことは、今でもよく覚えてる?」
「うん」
 と言ってから、彼女は何故だかひどく悲しそうな顔をした。
「とても優しい人たちよ。一緒にいる時間は短かったけど、そのことはよく覚えてる。今でも時々夢に見るくらいに」
「ふうん……」
 僕はその言葉に、ただ頷いておいた。人間の掟がそれほど厳しくなくてよかった、と僕は思った。別の星になんかやられたら、僕は三日で死んでしまうだろう。きっと毒入りのチーズかなんかを、そうとは知らずに神に感謝しながら食べたりして。


 ――ある日のことだった。
 その日も僕はいつもと同じように放課後、彼女と一緒に図書室にいた。図書室はやはりいつもと同じように、僕と彼女の二人しかいなかった。その日、彼女は階段から落ちたといって膝のところに包帯を巻いていた。
 僕は返却された本を元の場所に戻したり、でたらめなところにでたらめに突っこまれた本を、正しい位置に戻したりしていた。本は大人しい子供のように、元の場所に戻るとじっとしていた。
 本の整理をしているとき、僕はいつも不思議な気持ちになった。ある種の感情や、情報が、時間も空間も越えてこの場所に集まっているのだ。そしてそれを、その本を書いた人間とは無関係の僕が、こうして整理をしている。それはなんというか、奇妙なことだった。つまり自分たちについても、それと同じことが起きているんじゃないかという気にさせられるのだ。
 僕はそんなことを考えながら、いつもと同じように本の整理を続けていた。そして、やはり僕だけが仕事をして、彼女はカウンターのところにただ座っていた。
 そんなふうに、それはいつもと同じ一日だったが、いつもと違っていることが一つあった。
 僕が本棚の間から出てくると、彼女は顔を上げて、じっと窓の外を見つめていたのだ。いつもなら、彼女は手元の本に目を落としたまま、そこから顔を動かそうともしないのに――
 僕は彼女の目線を追って、窓の向こうを眺めてみた。
 そこには、きれいな五月の青空が広がっている。
「ねえ、藤本くん」
 と、彼女は目線を動かそうともせずに言った。
「ちょっと屋上に行ってみないかな――」


 屋上には、涼しい風が吹いていた。
 五月になって、すでに陽射しは強くなりはじめ、季節はいつものように夏に向かおうとしていた。僕が生まれてから十数年、季節は律儀に、我慢強く、いつも必ずやって来た。
 屋上には誰の姿もなく、灰色のざらざらした石と、くすんだ色のアルミの柵だけがその空間を占めていた。
 そしてその周りには、青い空が広がっている。
 僕と彼女は屋上の中央辺りにまで進んで、ただ黙って立ち尽くしていた。
「―――」
 それからしばらくした頃、僕は隣で彼女が泣いていることに気づいた。
 その涙には音もなく、気配さえなかった。
 僕は彼女がいつから泣いていたのか、分からなかった。
 彼女は自分が泣いていることになんて、気づいていないようだった。彼女は少し微笑って、こう言った。
「藤本くん、空はやっぱり青いんだね――」
 彼女は嬉しそうに、楽しそうに、そう言った。まるでそれだけで、世界の何もかも許してしまうように。
 僕はその時、何故だかすごく悲しい気持ちになった。
 それがどうしてなのかは分からない。
 ただ、胸が痛くて、壊れそうで――
 泣きだしてしまいそうで、でも泣きだせなくて――
 ただすごく、悲しかった。
 自分のことを、魔女≠セという少女
 空が青いと言って、無邪気に笑う少女
 その空を見て、音もなく涙を流す少女
 僕は何かがすごく悲しくて、でもそれが何故なのか分からなかった。
 分からないまま、ただ悲しかった。
 僕は彼女と同じように、空を見上げた。
 空は確かに、青かった。

 ――それは彼女がこの世界からいなくなる、一日前のことだった。


 その日の夜遅く、僕は偶然彼女を見かけた。
 僕は九時頃に本屋に出かけ、本を一冊だけ買って帰るところだった。暗闇はかすかに湿ったように重く、辺りは音もなくしんとしていた。
 駐車場の角を曲がり、公園にさしかかったときのことである。
 僕は道の向こうに、彼女の姿を見つけた。彼女は暗がりを、ひっそりと、影のように歩いていた。僕と彼女の間にはだいぶ距離があって、彼女のほうでは僕のことに気づいていないようだった。
 一瞬、街頭の明かりが彼女の姿を照らした。
 彼女はぼろぼろだった。
 服は所々が破れて下の肌がのぞいて、髪は嵐にでも遭ったみたいにめちゃくちゃだった。つっかけを履いている足は片方が裸足で、顔には青い痣と血を流した跡があった。足を痛めているのか、彼女は弱々しく足を引きずっている。
 僕は思わず立ちどまって、そんな彼女の姿を眺めていた。それは普段の彼女からは想像もつかないような姿だったが、僕は何故だか一目でそれが彼女だと分かった。
 街頭の明かりの下を抜け出すと、彼女はそのまま闇の中に消えて行った。まるで暗がりに溶けるように、音もなく。
 彼女はそこに、何の痕跡も残すことはなかった。


 次の日、彼女は学校を休んだ。
 担任によると、風邪を引いたとのことだった。もちろん、魔女が風邪を引くことだってあるのだろう。クラスでは誰も、そのことを気にせず、話題にもしなかった。
 僕はその日一日中、窓の外を眺めていた。昨日と同じように、それはとても青空のきれいな日のことだった。
 放課後になってから、僕は屋上にのぼってみた。屋上には昨日と同じように誰もいなくて、その真ん中に彼女が一人でぽつんと立っていた。どこかの無人島にとり残された、自由な漂流者のように。
 彼女は制服を着て、顔には所々に絆創膏をはったり、ガーゼを当てたりしていた。僕はいつだったか、彼女が階段から落ちたといって膝に包帯を巻いていたことを思い出していた。
「――どうして来たの?」
 彼女は僕のほうを向いて、けれどあまり不思議そうではなく、訊いた。
「……何となく」
 僕は簡単に、それだけを言った。
 しばらくして、僕は逆に訊いてみた。
「どうして待ってたの?」
「……何となく」
 彼女も簡単に、それだけを言った。
 屋上の周りには、相変わらずの青空が広がっていた。空はやっぱり、青いのだ――
「わたしね、帰ることにしたの」
 と、彼女はしばらくしてから言った。
「帰る?」
「そう、自分の本当の家に」
「………」
 僕はしばらく黙っていた。
「……厳しい魔女の掟があるんじゃなかったの?」
「うん――」
 彼女はほんの少しの間、考えていた。
「でもまあ、これ以上耐えられそうにないから、仕方ないよ」
「――そう」
 僕は特に、質問しようとはしなかった。
 それからしばらくの間、彼女は空を見上げたり、大きく息をすったり、のびをしたりした。そうすれば少しでも、体が軽くなる、とでもいうように。
「ねえ、本当の名前を教えてくれる?」
 と、僕は訊いてみた。
「だめ」
「どうして?」
「だって仕方ないじゃない」
 彼女は透明に笑って言った。それは何だか、ひどく明るい感じの笑顔だった。
「本当の名前≠ネんて、どこにもないんだからさ……」
「そっか……」
 そう言って、僕は少しだけ笑った。「そうだね」
 彼女は最後にもう一度大きく息をすうと、言った。
「じゃあ、わたしそろそろ行くから」
「――うん」
 彼女は屋上の端に行って、柵をよじのぼった。スカートをきれいに翻して柵から飛び降りると、彼女はその向こう側に立っていた。
 僕は止めなかった。
 柵の向こう、屋上のへりのところに、彼女は立っている。その先には何もない。ただ街の景色と空だけが広がっている。風が吹いて、彼女の髪とスカートを揺らした。彼女の前に広がる空は、どこまでも青かった。
 彼女は最後に一度だけ、こちらを向いた。

「バイバイ、先に行ってるから」

 そう言って、彼女は屋上から姿を消した。
 一瞬後に、ぐしゃっという、何かの潰れるひどく詩的でない音が、下のほうで小さく聞こえた。


 彼女は飛び降りてから死ぬまでに、ひどく苦しんだらしい。
 四階建ての学校では、飛び降りをするには少し低かったのだ。彼女は体中のいたるところの骨を折って、けれど半日ほどの間生きていたそうだ。その間、彼女は痛みに苛まれ、苦しみに耐え続けなくてはならなかった。
 それは、罰なのだろうか?
 魔女の掟を破った罰。あるいは、彼女の行いそのものに対する罰。
 それからしばらくして、彼女の父親が捕まった。詳しいことは知らない。彼女が残した遺書から、彼女の父親は逮捕されたということだった。
 それによると、彼女は父親から虐待を受けていたらしい。下らない人間が喜びそうな、ひどい虐待だったということだ。そこには性的なものも含められていた。
 けれど同時に、彼女の父親は彼女のことを愛してもいたらしい。彼女が友達からいじめられていると知ったとき、彼はその友達を自殺に見せかけて殺した。彼女はそのことも知っていたらしい。
 そうしたことが書かれた遺書をつきつけられたとき、彼女の父親は全面的にそのことを認めた。否定もしなかったし、何の釈明もしない。
 彼女の家の近所では、しばらくの間その話題で持ちきりだった。誰もが信じられないと言い、誰もが眉をひそめ、その裏で誰もがひそひそと勝手な憶測を話しあっていた。
 僕としては、それはどうでもいいことだった。
 彼女の父親は彼女のことを本当に愛していたのかもしれないし、噂話をする主婦たちは本当に胸を痛めていたのかもしれない。
 でもそれらは、どうでもいいことなのだ。
 彼女はどこにもいなくなった。
 ――ただ、それだけだった。
 僕は時々、彼女が別の星の、自分の本当の家にいるところを想像してみる。
 彼女はそこで、幸せに暮らしているのだろうか?
 そうであればいいと、僕は思う。本当に、心から。


 今、僕は高校生になった。あれから一年がたったのだ。
 放っておいても、時間というのは勝手にすぎていく。僕が適当に学校に通って、適当に勉強をして、適当に試験なんかを受けている間も、時間は我慢強いランナーのように一定の速度で走り続けていた。
 そうして誰もが、否応なく同じ一年という時間をすごしたのだ。
 けれどその中で、彼女だけがあの時のままだった。
「魔女は歳をとらないのよ」
 彼女はそんなことを言っていた。
「そして永遠に生き続けるの――」
 正直なところ、僕は彼女がいなくなったことを、今でも正しく理解できていないような気がする。
 彼女がいなくなったことで、世界からは何が失われたのだろうか――
 彼女がいなくなったことで、世界は何が変わったのだろうか――
 空はやっぱり、青いままだ。
 これからも、僕は生きていくのだろうし――
 これからも、世界はこんなふうに続いてくのだろう。
「………」
 僕はそっと、空を見上げてみた。
 そこにはやっぱり、泣きだしたくなるような青空が広がっていた。

――Thanks for your reading.

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