[氷の女王]

 昔、北方のある国で春先だというのに空一杯の雹が降ったことがありました。人々はそれを、気まぐれな季節の乙女のいたずらだと思ったのですが、どういうわけか外はますます寒くなるばかりでした。
「どうしたわけだろう?」
 と人々はいぶかしがりましたが、理由は分かりませんでした。雪が地に積もり、池が凍り、蛙たちはまた土の中へと引っ込んでしまいました。
「困ったことになった」
 と言ったのは、この国の王様です。といって、春の種まきができないことや、いつまでも暖炉に薪が必要な事を嘆いたわけではありません。お城にはまだ蓄えがあって、国の人々を養っていくことだって出来たのですから。
 王様が困ったのは、もっと大変なことでした。
「春の陽を浴びた谷の清水がなければ、王妃はすぐにも死んでしまう」
 そうだったのです。王妃には半分だけ妖精の血が流れていて、春の陽光を溶かした水を飲まなければ、死んでしまうのです。
「困った」
 けれど、王様にはどうすることもできませんでした。
 ところで、王様と王妃には一人の息子がいて、ユリアーネといいました。ユリアーネはまだずいぶん子供でしたが、ある日父親のもとに進み出て、
「このまま冬が続くといずれは食糧がなくなり、飢えがやって来ることになります。それにお母様だって死んでしまいます。僕に旅に出る許しを下さい」
 と言いました。
 王様は一人息子を危険な旅になど出したくはなかったのですが、王子の言うことももっともなのでやむなく許しを出しました。
「しかし出発前に王妃のもとに行くように」
 と王様は言います。
 ユリアーネは旅の準備を整えると、さっそく王妃のもとへと向かいました。王妃はお城の一画で床に伏せっていましたが、ユリアーネがやってくると起き上がって、
「そう、行くのですね」
 と何もかも知っているように言いました。
「行く前に、忠告しておいてあげます。城を出たら、北へ北へと進みなさい。するとまずは深い森へとつきます。そこは正しい道の他はすべて人喰い鬼の住処に通じている恐ろしい森ですが、あなたは木に鹿の角で傷のつけられている道を選んで進みなさい。そうすれば迷うことなく森を抜けることができます。その次には、底も見通せないほどの崖にさしかかります。そこには一本のつり橋がかかっていますが、けっして振り返ったりしないように。振り返ればたちまちに橋は切れて、あなたは地獄の底へと落ちてしまいます。そして最後にあなたは大きな湖にたどり着くことになります」
 王妃はそれだけ言うと、どんな寒さでも防いでくれる魔法のマントをユリアーネに送りました。
「ありがとう、お母様。それじゃあ行ってきます」
 そうしてユリアーネは出発しました。
 お城の外へ出ると、ごうごうと吹きつける雪がまずやってきました。ユリアーネは流れる水に逆らって進むように、その中を一歩一歩進んでいきます。まだ十二歳の少年には、酷な旅となりました。
 ユリアーネがそれでも進んでいくと、王妃の言ったように深い森へとさしかかりました。
 中に入ると吹雪の音さえやみ、まるで海の底にいるように静かな森です。
(木についた傷を探さないと)
 ユリアーネは王妃に言われたとおり、鹿が目印のためにつけた傷を探しました。見ると、樹皮を削ったあとが、樫や楢の表面につけられています。ユリアーネはそれをたどって進みだしました。
 ところが途中、美しい蝶がいてユリアーネはつい道を外してしまいました。何しろ白銀のように美しい蝶でしたし、道からは少し外れるだけだったので大丈夫だろうと思ったのです。
 けれどユリアーネが道を外れていくたびもしないうちに、木立の向こうから大入道がやって来て、たちまちにユリアーネを捕まえてしまいました。
「これは久しぶりの人間だ。今夜はごちそうだわい」
 と大入道は言って、ユリアーネをつかんだままずんずん歩いていきます。
 その間、ユリアーネは生きた心地もしなくなって、真っ青になったまま泣くこともできませんでした。激しい後悔が頭を覆って、何もできない自分が悲しくて仕方ありません。
 やがて大入道の家に着くと、ユリアーネは手足を縛られて床の隅に転がされてしまいました。
「お前は兄貴が帰ってくるまでは放っといてやろう。しかし兄貴が帰ってきたらすぐさま鍋に入れてスープにしてやる」
 と大入道は言います。
 ユリアーネはとっさに、「ああ、残念だな」と言いました。
「なにが、残念だって言うんだ?」
 大入道が不審に思って訊き返します。
「僕は体も小さいし、食べようとしたってそんなにかさだってあるわけじゃないでしょう。僕、もっと大きな人のいるところを知っているんだけどな」
「ふうん」
 大入道はユリアーネの言葉を疑っているようでしたが、縄で縛ってあるしどうせ逃げられやしない、と思ったのでしょう、
「そんならちょっと案内してみな」
 と、言いました。
 ユリアーネは歩くために足の縄だけほどいてもらって、途中で見かけておいた池へと、大入道を案内しました。
「そこをのぞいてみて」
 と、ユリアーネは水面をさして言います。
 大入道が疑わしそうに池の中をのぞきこむと、そこには大男の姿が映っていました。もちろん、それは大入道自身なのです。けれど大入道というのは力ばかりで知恵が足りないものですから、それを見て、「確かに大男がおる。あれは食いでがありそうだ」と言って、池に飛び込んでしまいました。
 ユリアーネは急いで木の上へとのぼりました。手は縛られたままでしたが、うまい具合に上のほうまで登ることができます。
 その間、大入道は池を出たり入ったりしてこの世のどこにもいないものを探していましたが、いい加減に疲れてしまって、これはどうも妙だぞ、ということに気づきました。
 そして辺りを見回してみると、捕まえておいた小僧がどこにもいません。
「さてはだましたな」
 と、大入道は怒り狂いました。山崩れのような叫び声を上げ、地鳴りがするほどの足踏みをしながら、手当たり次第に木を殴りつけ始めます。
 ユリアーネは怖くて目をつむりながら、この暴風が行き去るのを待ちました。そしてしばらくしてようやく、大入道はどこかに行ってしまいました。
(助かったんだ)
 ユリアーネはほっとして、木の幹に縄をこすりつけて切ってしまうと、慎重に地面へと降りました。
 そして再び鹿の角の傷跡を見つけると、急いでこの恐ろしい森をあとにします。

 何日かして、ユリアーネは今度は深い谷へとさしかかりました。底は真っ暗で何も見えず、強い風が四六時中吹き上げてきます。
 谷には、橋が一本かかっていました。
 木の杭を打ち、麻縄をはり、木の板をつなぎ合わせたものです。風に揺れ、それはまるで人の来ない退屈さのあまり、不満をもらしているようにも見えました。
「ここを渡らなくちゃいけないんだ」
 とユリアーネは自分に言い聞かせました。
 一歩、踏み出してみると、つり橋はぐらぐらと揺れましたが、落ちる心配はなさそうです。ユリアーネはもう一歩、踏み出しました。
 そして次の一歩を踏み出した瞬間、後ろから声が聞こえました。
「助けてくれ、誰か。殺される!」
 でもユリアーネは振り返りません。もう一歩。
「危ない、後ろから狼が狙っているぞ」
 振り返らない。一歩。
「あんた、何か落としたぜ」
 一歩。
「綱が切れそうだぞ、危ない」
 一歩。
「誰かあんたを追っかけてるぜ」
 一歩。
「待つんだ、ユリアーネ」
 止まる。
 それは父親である国王の声でした。そんなはずはないと思いながら、ユリアーネはどうしても足を動かすことができませんでした。
「ユリアーネよ、帰ってきておくれ。これ以上、お前を危険な目に合わせるわけにはいかん。現に、お前は殺されかけたのだよ。もうあんな目にはあいたくないだろう? さあ、こんなことはもう他の者に任せて、城へ帰っておいで」
 ユリアーネはできることなら振り向いてしまいたいと思いました。あんな怖い思いは、もう二度としたくはありませんでした。
 けれど、ユリアーネは振り返りませんでした。
「確かに怖いのは嫌だし、お城に帰りたいとも思います。けどそうしたら、みんなが困ったままだし、お母さんも死んでしまいます。僕は怖いのより、そっちのほうがもっとずっと嫌です」
 言いきると、ユリアーネは急いで橋を渡りました。一足ごとに橋はぐらぐらと揺れます。が、そんな事は気になりませんでした。こんな橋は、すぐにも渡りきってしまいたかったのです。
 橋を渡ったところで、ユリアーネは勢いあまって転んでしまいました。そうしてなぜか、ユリアーネは泣いていました。安心したせいかもしれません。
 ユリアーネが見ると、橋は最初とまるで変わらずに不満そうにゆれていました。それはどこか、獲物を取り逃がして不機嫌な獣のようにも見えます。
 ユリアーネは立ち上がると、先を急ぎました。

 さらに北へ北へと旅するうち、ユリアーネは大きな湖へとたどり着きました。対岸が見えないほど大きな、海のような湖です。波はなく、湖面は鏡のように静まっていました。
 北へ行くには、この湖を渡らなくてはなりません。
(どうしよう?)
 ユリアーネは困ってしまいました。辺りを見回しても、小船いっそうだって湖には浮かんではいません。こんな大きな湖を、一体どうやって渡ればいいのでしょう。
 途方に暮れたまま、ユリアーネは座り込んでしまいました。長く歩き続けていたので、疲れてもいました。
「――けて」
「?」
 何か、聞こえました。ユリアーネは辺りを見回してみますが、ひと一人、動物一匹だってここにはいません。
「助けて。凍えてしまうよ」
 今度は、はっきりと聞こえました。ユリアーネが注意深く見てみると、草やぶの中に白いバラの花が一本生えています。
「いましゃべったのは君なの?」
 と、ユリアーネはバラに訊ねました。
「そうだよ、王子様。僕は見ての通りバラの花なんだけど、慌ててたから間違えて咲いてしまったんだ。だから寒くて寒くて凍えて枯れてしまいそうなんだ」
 とバラは言います。
 ユリアーネは何だか、この白いバラが可哀そうに思えてきました。本当なら春の陽気の中で麗かに咲いているはずの花が、こうして寒さに震えているのです。
(そうだ)
 と、ユリアーネは気づきました。
「僕の着ているマントなら、どんな寒さでも大丈夫だよ。これをあげる」
 そう言って、自分の着ていたマントを白いバラに覆いかけてやります。
「ああ、なんて温かいんだろう」
 と、バラは言いました。
「王子様、私はお礼に蔓を湖の端まで伸ばしてあげますよ。あなたはその上を渡って行けばいいんです」
 言ったとおりに、白いバラは見る見るうちにいばらの蔓を伸ばし、湖の上に長い橋を作りました。
「さあどうぞ、行って下さい」
 ユリアーネはバラにお礼を言うと、さっそく緑の橋の上を歩き出しました。棘を手すりがわりにして、ユリアーネはどんどん歩いていきます。
 そうして北へ行くほどに、寒さは厳しさを増し、湖は凍りつき始めました。その中に、魚たちはまるで動くのを忘れてしまったかのように閉じ込めれています。
 ユリアーネは寒さに凍えてしまいそうでした。寒さを防いでくれる魔法のマントはもうないのです。それはあの憐れな白いバラにやってしまったのですから。
 けれど、ユリアーネが足を止めることはありません。雪の混じった強い風が吹きつけても、それは同じです。
 ユリアーネは、もう夜に怯える子供ではなくなっていました。
 強い風に立ち向かうようにしてつたの上を歩くうち、ついに対岸へとたどり着きました。そこには立派な御殿が立てられていました。御殿は澄んだガラスの水晶で作られ、銀の扉がつけられています。
(誰のお屋敷だろう?)
 と思いながら、ユリアーネは戸を叩いてみました。なにしろ吹雪は強まるばかりでしたから、中で休ませてもらえれば、と思ったのです。
 けれど、いくら戸を叩いても返事はありません。ユリアーネは仕方なく、勝手に戸を開けて中に入らせてもらいました。
 御殿の中はどこからどこまでもピカピカと透き通っていて、まるで氷の中に閉じ込められているようです。物音一つ、人影一つさえなく、まるですべてのものが死に絶えてしまったかのようでした。
「誰かいませんか?」
 と、ユリアーネは大声で言いました。その声はまるですぐに凍りついてしまったかのように、どこかに届く気配さえありません。
(……)
 ユリアーネは御殿の主人を探してみました。数えきれないほど多くの部屋を通り抜けたすえに、大きな広間へとユリアーネはたどり着きました。
 雪で織られた絨毯が敷かれ、壁にはいくつもの氷の炎が燃えています。そして奥にある銀のイスには、女の子がたった一人で座っていました。
「君は、だれ?」
 と、ユリアーネは訊きます。それはユリアーネとそう年の違わない、幼い少女でした。
「あなたこそ、だれ? ここは私だけのためにある場所。ここは氷の御殿なのよ」
 と女の子は言いました。まるで凍ってしまったように、それは冷たい声です。
「僕はユリアーネ、この国の王子だよ。いつまでたっても春がやってこないわけを探して旅をしているんだ」
「冬は嫌い?」
「嫌いじゃないけど、でもいつまでも春が来ないとみんなが困るんだ」
「私は困らない」
「どうして?」
 ユリアーネは訊きます。
「私がここに閉じこもっていられるから。この中にいる限り、誰も私を傷つけることなんてできないのよ」
 と、少女は歌うように言いました。
 ユリアーネはどうしてだか、この少女がひどく可哀そうな気がしました。
「君はこんなところに一人で住んでいるの?」
「そう、ここには誰もいなくて、何もない。時だって、ここでは止まっている」
 ユリアーネは首を振って、言いました。
「違うよ。ここにいたって、君は不幸になるだけだ。一人でいれば傷つかないかもしれないけど、心がどんどん凍りついてしまうんだ。君は、ここにいちゃいけないよ……!」
 そう言って、ユリアーネは少女に近づきます。
「来ないで!」
「大丈夫、怖くなんてないよ」
 ユリアーネは少女の前まで来ると、その手をそっと握りました。
「だめ、私に触れたものはみんな凍りついてしまうのよ」
「ほら、温かいよね」
 と、ユリアーネは言います。
「ひとって、こんなにも温かいんだ。一人でいたら、寒くて震えるばかりだよ。さあ、ここから出よう……」
 それは温かい、世界で一番温かい握手でした。氷の女王の心さえ溶かしてしまうほどの。
 けれど、ユリアーネの手はするりとほどけ、床に倒れました。王子は凍りつき、死んでしまったのです。
 少女はそれを見て、涙を流しました。それは心の氷が溶け出したようでもあります。
 涙は頬をやさしく伝い、ユリアーネの顔の上に落ちました。
 するとたちまちユリアーネの顔に赤味が戻り、心臓は再び鼓動をはじめました。少女の涙が冷たい氷を溶かしてしまったのです。
 それと同時に氷の御殿は消え、花と緑にあふれた美しいお城へと姿を変えました。
 魔法が解けたのです。
 長い冬が終わり、春がやってきました。王妃は命を取り戻し、人々は明るい陽光に喜び、祝い、感謝しました。
 ユリアーネと少女は、どうなったのでしょう。
 なんでも、何年か後に二人は結婚して盛大な式をとり行ったそうです。私もその場に行ってお相伴に預かったのだから、間違いはありません。

――Thanks for your reading.

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