[ここは、小さな神様がいるところ]

 ――時々、小さな箱の中に入りたいと思うことがある。
 膝を丸めて横になったとき、ちょうど体がぴったり収まるくらいの、小さな箱。自分だけがそこに入れて、それ以外の何も入れないくらいの、小さな箱。
 そこでは何の物音もしなくて、何の光もなくて、じっとしていると世界がもう終わってしまったのかどうかさえわからなくなる(でも、ちゃんと呼吸はできる)。
 わたしはその小さな箱の中に、ただ静かに横たわっている。目をつむっているのか、開けているのか、自分でもわからない――
 でも、そんな都合のいいものは、現実にはどこにも存在しない。そんなものを持っているのは、手品師の人くらいかもしれない。この世界では、需要のないものが生産されることはないのだ。
 だからわたしは、自分の部屋にあるクローゼットで我慢することにする。あるいは、妥協することに。
 中の荷物を適当に片づけて、膝を抱えて座れるだけのスペースを確保する。そしてちょっと苦労して扉を閉めると(何しろ、クローゼットというのは中から開け閉めすることを想定していないのだ)、ぺたんと床におしりをつける。
 クローゼットの中は暗くて、とても静かだ。わたしが要求するほど完璧にじゃないとしても。
 そうやって床に座ってじっとしていると、心の中にあるいくつものでこぼこが消えていくのがわかる。ちょうど、柔らかな砂場を平らに整地していくみたいに。
 ――わたしはそこで、とても平和で、平静で、平穏でいられる。
 念のために言っておくと、別にわたしは変わった人間というわけじゃない。短めの髪に、特徴に欠けた低い鼻。性格も、外見も、頭の出来だって、いたって普通の人間だ(ある意味では、残念ながら≠ニ言うべきなのかもしれないけど)。
 少なくとも、誰かから変わってる≠ニかちょっと変≠ニか、そんなふうに言われたことはない。自分でそうなりたい、と思ったことも。
 ちょっと、孤独癖みたいなものはあるかもしれない。わたしは特に、誰かといっしょにいたいとか、みんなで楽しくやりたいとかいうふうに思ったことはない。それを毛嫌いするとか、否定するとかいうほどじゃないにしても、自分から積極的に参加していこう、みたいなことは。
 一人のほうが気は楽だし、ことさらにそれを寂しいとか、気に病むとか、問題視したりしたことはない。
 でもだからといって、ずっと一人きりでいるというのは現実的に難しい。この世界は、そういうシステムには出来ていないのだ。
 そのことは子供の頃からわかっていたし、だからどうだというわけじゃない。まともに考えれば、それはまともなことで、わたしとしては文句や、不満や、反感なんかはない。世界はみんなの力で維持されているし、そのためにはお互いの協力が必要不可欠だ。利便性や必然性について考えれば、それが最適なんだということはわかる。
 ――最善ではないとしても。
 そんなわけで、わたしは別に変人でも変わり者でもなく、いたって普通の人間として生きている。クラスメートと普通におしゃべりもするし、普通に友達もいるし、普通に遊びに行ったりもする。
 少なくともはたから見れば、わたしはごく普通の女の子だろう。どこかがおかしなわけでも、変てこなわけでもない。大抵の人が、そうであるのと同じで。
 それでも時々、わたしはこうやって自分の部屋のクローゼットに閉じこもったりする。理由は、自分でもよくわからない。特に何かがあったとか、そのことを習慣にしているとかいうわけじゃない。
 でも、時々そうするのだ。
 静寂と暗闇と自分だけが存在する場所で、わたしは一人でじっとしている。
 ――そして、思うのだ。
 誰も、この扉を開けないでくれればいい。このままずっと、わたしを放っておいてくれればいい。そうすれば、わたしはわたしでいられるから。そのことに疑問も、不満も、不自由も感じずにいられるから。
 そして、どれくらいたったかわからないころ、わたしは自分で扉を開けて外に出ていく(宿題をするため、用事があるから、お腹がすいたせい、理由はいろいろ)。
 クローゼットの外には、いつもと同じ自分の部屋が広がっている。明るくて、騒々しくて、不確かで、どこにも境目なんてなくつながっている世界が。
 わたしは一度大きく息をすって、ゆっくりとそれを吐きだしていく。時計のネジを巻いて、世界と自分のスピードをあわせるために――

「――いや、わからん」
 と、まひろは前の席で、ストローで牛乳をちゅうちゅうやりながら言った。
 うん、まあそうだろうな、わからないだろうな。
 わたしはクラスの友人であるところの阿瀬(あぜ)まひろの返事を聞いて、まったく全面的にそれに同意する。
 朝の時間、HRまではまだ間があって、教室の中は子供が散らかしたおもちゃ箱みたいな状態だった。みんな、思いおもいの場所でしゃべったりふざけたり、あるいは自分の机で何かしていたりする。
 六月初め、中間試験も終わって、教室の空気はどこかゆるんでいた。高校生活に慣れはじめたせいもあるかもしれない。衣替えの時期だし、暑い日もあるしで、大抵の生徒は半袖姿だった。
 そんな中、わたしとまひろは廊下側に近い前後の席で、いつも通りの会話をかわしていた。
 バスケ部で朝練を終えたばかりのまひろは、パン屋さんで買ってきたコロッケパンを消化中だった。むしゃむしゃとパンにかぶりつくその姿は、どっちかというと男の子っぽい。昔からそうなのだけど、女の子らしいつつしみなんかは薬にしたくもないほうだった。
 まひろとわたしのつきあいは、中学一年の頃まで遡る。入学式後のクラスで偶然、席が隣で、それから自然と仲よくなった。以来、高校一年になる今でもそのつきあいは続いている。
 女の子としては背の高いほうで、まひろの身長はわたしより頭一つぶんくらいは大きい。すらっとした手足は、使いこまれた道具みたいな確かさでその体にくっついていた。伊達に三年間もバスケをやっているわけじゃない。
 まひろは見ため通りのさばさばした性格で、陽なたぼっこ中のオットセイくらい細かいことにこだわったりしなかった。そばかすのある、どちらかというとシャープな顔立ちをしていて、笑うときは人目を気にしたりしない。そして、ぼさぼさの髪をぼさぼさのままでまとめているという、実に乙女失格の女の子でもあった。
「……今、何かあたしを貶めるようなこと考えてなかった?」
 コロッケパンを咀嚼しながら、まひろは疑りぶかそうな目でわたしのことを見る。まひろには野生動物的に勘の鋭いところがあるのだった。
「ある意味では」
 と、わたしは正直に答えておく。王様が裸でいたら、口にはしなくても変だと思うのが人情というものだ。
「――ま、いいけどね」
 そんなわたしに、まひろは肩をすくめてみせるだけだった。もしも、まひろを怒らせたり慌てさせたりしたかったら、まあまあの天変地異が必要なのだ。
「んで、話を戻すけどさ」
 と、まひろはコロッケパンを食べ終えてから言った。
「そんなに気になるわけ、その子のこと?」
 その子≠ニいうのは、わたしが学校の図書室で見かけた子のことだ。記憶の最初までは思い出せないけど、何度も見かけるうちに気になりはじめた。
「うん、まあ――」
 わたしはちょっと、曖昧にうなずいておく。まひろは口元についたソースを親指でふきとって、それを舐めながら(なかなか無作法だ)わりとどうでもよさそうな口調で訊く。
「けど、名前も知らないんでしょ?」
 そう――そうなのだ。
 同じ場所で何度も見かけているとはいえ、それだけのことでしかなかった。話しかけたり、こっそり手紙を渡したりなんてことはしていない。たぶん向こうは、わたしのことになんて気づいてもいないだろう。
 現在、唯一わかっているのは、その子がわたしたちと同じ一年生だということだけだ。
「あとは、女の子だってことだけだよね」
 ストローで牛乳を吸いながら、まひろは澄ました顔で言う。
「希咲(きさき)にそんな趣味があるとは知らなかったけど」
「――趣味じゃないよ?」
 ちなみに、希咲というのはわたしの名前だ。吉村希咲(よしむらきさき)。
「いやいや、乙女チックでいいんじゃないの?」
 まひろはにやにやしながら言った。
「あたしは応援するよ。お姉さま、あたしずっと前からあなたのことが……とかさ」
 やっぱり、まひろの勘はなかなか鋭い。彼女を貶めるようなことは、迂闊に考えられない。
「そうじゃないけどさ――」
 友人のからかいをやんわりといなしつつ、わたしは続ける。
「ただ、何となく目につくっていうか。ほら、あるでしょ。誰も気づかないし、気にしないんだけど、自分だけ妙に気になったり」
「ま、別に何でもいいけどね」
 そう言って、まひろはパンの入っていた紙袋をくしゃくしゃに丸める。
「あんたにそういう趣味があっても、なくても。あんたがパンの代わりにケーキを食べても、ため息をつきながらかわいそうな花びらを一枚一枚ちぎっていっても、ね」
 何故か、なかなかに貶められている気がするのは、気のせいだろうか?
 ちなみに、本当はケーキじゃなくてブリオッシュらしいけど。
「何でも」
 まひろは軽く肩をすくめてみせる。
「それはともかく、本当にその子のこと、そんなに気になるわけ?」
 訊かれて、わたしはちょっとだけ目をつむる。記憶の中にある写真を何枚も、あらためて確認するみたいに。
 それから、
「――うん」
 と、ただこくんとうなずいてみせた。
 するとまひろは、風船の空気が少しだけ抜けるみたいな、そんなため息をついている。
「ま、あんたがそう言うなら、そうなんでしょうね。あたしにはわかんないけど……あとは、その子が幽霊だったとか、そんな話じゃないことを祈るよ」
 まひろはそれから、くしゃくしゃになった紙袋を教室のごみ箱に向かって放りなげる。
 バスケ部らしい、きれいなシュートフォームで投擲された紙袋は、見事にごみ箱の枠をとらえている。それはやっぱり、乙女らしい行為とはいえなかったけれど。

 その日のお昼休み、わたしは図書室のカウンターに座っていた。
 こう見えて、わたしは図書委員なのだ。ちなみに、文芸部員でもある。今日はカウンターの当番の日なので、こうやって業務にあたっている。業務といっても、貸出と返却の受付がほとんどで、そんなに忙しいわけでも難しいわけでもなかったけれど。
 うちの高校には専属の学校司書さんがいて、図書室の様子はけっこう賑やかだった。新着図書のコーナーをきれいに飾りつけたり、ポップを作っておすすめの本を紹介したりしている。図書委員でそれを手伝ったり、自分たちで何かの企画を考えたりすることもあった。
 中学校時代に比べるとずいぶん広々した図書室には、ぱっと見でも十人くらいの生徒がいて、本を読んだり、ノートを広げて何か調べものをしたりしている。閲覧用の机は六角形のちょっとしゃれた感じのもので、それを適当にくっつけて配置してあった。わたしたちはそのテーブルのことをひそかに、ミツバチテーブルと呼んでいる。
 室内は当たり前のように静かで、本棚の本といっしょに物音まで整理整頓されているみたいだった。でもその静かさは密度が濃くて、中にいろんなものが溶け込んでいそうでもある。
 わたしはペアになった二年生の先輩といっしょに、返却された本のチェックにあたっていた。本に問題がないか、一応見ておくのだ。あんまり酷いようなら直前の借り主に問いただすこともあるし、簡単な傷だったらその場で修理してしまう。
「これ、ちょっと破れてるね」
 と、二年生女子の先輩が言ったのは、単行本の小説だった。とりあえず、聞いたことのない題名だ。でも表紙が気になるから、今度読んでみようかな――
 わたしがそんな埒もないことを考えているあいだに、先輩は本の損傷具合をチェックしている。横からのぞいてみると、ページ下部に人さし指の先くらいの破れがあった。人によっては気にしないかもしれない。わたしなら、気にしない。
 先輩は一年の時から図書委員で、こういうことには慣れている。カウンターの引き出しから修理用のテープを取りだした。もちろんそれは、セロテープみたいな野蛮なやつじゃなくて、本に優しい専用のやつだ。
「私、これやっとくから、吉村さんはハイカのほうをお願いね」
 ハイカ――配架のことだ。要するに、返却された本を元の棚に戻すこと。
「合点です」
 わたしはそう、ちょっと戯けて言ってから立ちあがる。もう何度か組んだことのある先輩なので、そのくらいの軽口は許容範囲だ。
 台車に乗っけた本を、わたしはえっちらおっちら運んでいく。全部で十冊くらいだろうか。途中、迷子にされた本だとかもついでに回収しておく。
 本を元に戻すのは、けっこう面倒な作業でもあった。うちの図書は一般的な日本十進法分類と同じやりかたで分けてある。だから番号にしたがって返せばいいのだけど、慣れてないとこれが難しい。そしてわたしは、まだそれに慣れていない。
 でも先輩に配架を頼まれたのは、実は好都合だった。内心では、わたしはちょっと喜んでさえいた。
 何故なら――
 わたしは台車を押して、図書室のはしっこへ向かう。全集だとか、古典文学だとかが置かれた暗い谷間みたいな棚を抜けて、何かの建築資材みたいに、本が壁いっぱいに並べられたところまでやって来る。
 この辺は、図書室でもあまり人気(ひとけ)のないところだった。地震でも起きたら崩れてきた本で生き埋めになってしまうから、みんなそれを心配しているのかもしれない。あるいは、ぶ厚い本が殺人事件の凶器に利用されることを怖れているのかも。
 地震や撲殺の心配はともかくとして、わたしは台車をその辺に置いて、本の返却と整理をはじめることにする。
 ――本当は、そのふりをしているだけだったけど。
 わたしはそうやって、本の位置を直したり、意味もなく本を出し入れしながら、そっと背後の様子をうかがってみた。
 そこには、誰かが置き忘れていった傘みたいな格好で、閲覧用の机が一つ置かれている。窓際に近くて、本棚がすぐそばまで迫った、ごくごく限られた空間だった。
 何だか、小さな箱みたいに――
 奥まったところにあるし、狭いしで、いつも利用者はほとんどいない。窓からは学校の前庭がのぞけて、その席には意外なほどの明るさと温かさで光が注いでいる。
 大抵の時間は無人のその席に、でも今は一人の女の子が座っていた。
 その子は机に本を広げて、ごく落ち着いた様子でそこに目を落としている。それは音のない、とても静かなまなざしだった。まるで鏡でも使ったみたいに、その瞳にきれいに本の文字が写しとられていくのがわかる。
 風に流れるみたいに癖がかった、でも柔らかな金属線を思わせる長い髪。長袖とはいえ、影まで薄くなりそうな、ほっそりとした体つき。その横顔は、まだ形のはっきりしない朝の光を集めたみたいに繊細だった。
 そして彼女の瞳は、ほんの少しだけ灰色がかっている。
 何故だかその灰色は、わたしにピエタを連想させた。中学校の美術の教科書に載っていた、サン・ピエトロ大聖堂にあるミケランジェロのピエタ。あの大理石の、その色を――
 彼女は本に目を落としたまま、わたしのことに気づいた様子なんて少しもない。というより、そこにはまわりにあるものすべてが一時的に存在するのをやめたみたいな、そんな静けさがあった。
 もちろんそれは、わたしがまひろに言ったところの気になる子≠セった。
 初めて彼女を見かけたのは、偶然だった。お昼休みに本棚をうろうろしているとき、その場所に彼女が座っていたのだ。今と同じ位置、同じ格好で。
 以来、わたしはことあるごとに彼女の姿を観察している。お昼休みには、彼女は必ずそこに座っていた。そこに座って、いつも一人で本を読んでいる。とても静かに、とてもひっそりと、それこそ幽霊みたいに。
 ――今日も、それは同じだった。
 わたしはしばらく本の整理(のふり)をしてから、その場を離れた。それでもやっぱり、彼女の様子に変化はない。まるでこれからも、これまでも、永遠に近い時間ずっとそうだったみたいに。
 そしてやっぱり、わたしは彼女の名前さえわからないままなのだった。スカーフの色から、同じ一年生だということがわかるくらいで。
 まあ、まひろが呆れてしまうのも無理のない話ではある。
 わたしはできるだけ急いで、先輩に怪しまれないように本を片づけてしまう。そうして空の台車を押してカウンターまで戻ると、先輩は男子生徒を相手にして本のリクエスト票の書きかたを説明しているところだった。
 十二時前に舞踏会から帰ったシンデレラみたいに澄ました顔で、わたしはカウンターの席に着く。それから何食わぬ顔のまま、まわりにある細々したものの整理にとりかかった。
「――すみません、これお願いします」
 と声をかけられたのは、その時だった。
 顔を上げて、わたしは一瞬だけ心臓の鼓動がおかしくなってしまう。うっかり時計を落っことして、ゼンマイや歯車や文字盤なんかがばらばらになってしまったみたいに。
 何しろそこには、彼女≠ェ立っていたから。
 彼女はカウンターに、本を一冊置いていた。その本を借りたい、ということだろう。――うん、それで間違いない。わたしについて何か言いにきたわけでも、その本が面白いからわたしに推薦しているわけでもない。
 わたしは海の底で酸素ボンベを使うみたいにして、深呼吸する。心臓には電気ショックを当てて、壊れた時計は全部組みたてなおしてしまう。
「――貸出ですね」
 わたしは笑顔を浮かべて、あくまで愛想のいいただの図書委員として本を受けとる。熱湯に手をつっこんでも、炭火の上を歩かされても、それを顔に出したりはしない。
 図書カードと本のバーコードをスキャナーで読みとって、わたしは滞りなく貸出処理を完了した。それこそ、くまのプーさんみたいに無邪気な目つきをしたままで。
 彼女は儀礼的な会釈だけ残して、そのまま行ってしまう。やっぱり、わたしのことに気づいた様子はない。ほんの少しの関心みたいなものも。その歩きかたは本を読んでいたときと同じように、とても静かでひっそりとしていた。
 そうして彼女の気配と笑顔を残したままで、わたしはパソコンの画面を見つめる。
「…………」
 そこには、彼女の借りた本(ジュンパ・ラヒリの『停電の夜に』)と彼女の名前(1ーD、清島一花(きよしまいちか))が表示されていた。

「こわっ、ストーカーかよ」
 と、まひろは隣で、牛乳をちゅうちゅうやりながら言った。
 ――デジャヴュ、だろうか?
 お昼休みの昼食時間、わたしたちは中庭のベンチに座ってごはんを食べていた。陽なたぼっこをするのは日に日に厳しくなっているとはいえ、気持ちのよい青空の下で食事をする誘惑には抗いがたい。
 中庭にはほかにも、ちらほら生徒たちの姿がある。サン・ピエトロ大聖堂ほどじゃないにせよ、人気の場所なのだ。園芸部が精魂込めて手入れした花壇だって眺めることができる。
 わたしとまひろはそんな中庭にある、ベンチの一つに座っていた。見あげた空は飛び込みたくなるくらいの青さで、あくまで健康的でエネルギッシュな太陽の光があたりを照らしている。たぶん、あと五十億年くらいは大丈夫そうだった。
 まひろは片足であぐらをかいて、牛乳を飲み、カレーパンにがつがつとかぶりついている。バスケ部でのまひろのポジションはCF(センターフォワード)。コートに立つまひろの姿は、率直にいってかっこいい。クールかつ闘志にあふれるその姿は、一部の女子のあいだでも人気だった。
 でもその凛々しい王子さまは今、けっこうだらしない格好で食事をしている。ファンの女の子が見たらがっかりするかもしれない。
「……誰が人気者だって?」
 まひろはいつかと同じような、疑り深そうな目でわたしのことを見る。なかなか都合のいい勘の鋭さではあったけれど。
「まあ、それはいいんだけど――」
 と、わたしは話を元に戻すことにする。
「わたしって、ストーカーなのかな?」
 もちろんそれは、清島さんのことについてだ。昨日、図書室でその名前がわかったことを、わたしはまひろに話していた。
「自覚ないわけ?」
 とまひろは呆れたような表情をする。みんなのボディランゲージが急に変わったのでないかぎりは、そのはずだ。
「少なくとも、乙女ってレベルの話じゃないね」
「でも、わざとってわけじゃないし。見たのはたまたま、不可抗力ってやつだよ」
 弱々しいながら、わたしは一応の反論を試みる。そんなわたしに、まひろは容赦しなかった。
「ストーカーはみんなそう言うんだよ」
 どうやら、わたしがストーカーであることは決定事項みたいだった。
「ちゃんと法律だってあるんだから。ただの乙女心でした、なんて言い訳にもならないよ」
「そうかな――」
 わたしは意味もなくごはんをつつきながら、渋い顔をする。お母さんが真心を込めて作ってくれたお弁当には悪いと思ったけれど。
「裁判になったら、一年以下の懲役か、百万円以下の罰金らしいよ」
 実に不穏な話だった。そんなふうに具体的に言われると、意味もなく不安になってしまう。
「……というか、友達なら協力してくれてもいいんじゃないかな?」
「友達だから、忠告してるんでしょ」
 言われて、わたしは渋い顔のまま玉子焼きを口に入れる。どんな顔をしてみたところで、お母さんの作ってくれたおいしい玉子焼きの味は変わらない。
 目の前にある花壇には、きれいな青空によく似た色の花が咲いている。細長い葉っぱの塊になったところから茎がのびて、その先に花火みたいにしていくつも花が咲いていた。根元の札には、アガパンサスと名前が書かれている。何となく、彼岸花っぽい感じの花ではあった。
 太陽をいっぱいに浴びた花たちは、どれも満足そうに見える。
「――何で、その子のことがそんなに気になるわけ?」
 と、不意にまひろは言った。
 もちろんそれは、清島さんのことについてだ。わたしは少し、考えるふりをする。その答えは、訊かれる前からとっくに出ていたのだけど。
 わたしは流れ星でも見つけたときみたいに、そっとつぶやくように言う。
「長袖を着てるから、かな」
「――あ?」
 怪訝そうな顔のまひろに、でもわたしはそれ以上何も言わなかった。
 そのことを説明するには中世の年代記ほどじゃないにせよ、それなりに古くて長い話が必要になるのだ。

 昔々、わたしはいじめられていたことがある。
 小学校時代、よくある感じのやつだった。靴を隠されたり、持ち物を盗られたり壊されたり、机の上に嫌な言葉を書かれたり。何かあるとわたしだけがのけ者にされて、ひそひそと陰口を囁かれたりもした。
 それは子供らしい率直さと残酷さだったけど、当時のわたしにはその現実に対応できるほどの知識も、経験も、能力なんてものも、ありはしなかった。
 みんなにとって、わたしはただの目新しいおもちゃで、それ以上でも以下でもなかった。自分たちはこんなにも楽しいんだから、それがわるいこと≠セなんていうふうには考えない。
 でももちろん、わたしにとってはそんな単純な話じゃなかった。よいとかわるいとかの問題じゃなく。
 わたしは自分の存在が憂鬱だった。消えてなくなってしまえれば楽なのに、と何度も思った。明日、学校といっしょに世界がなくなってしまえばいいのに、と自分の部屋で何度も考えた。
 そしてある日、わたしはとうとう学校に行かなかった。
 いつも通りに家を出たあと、わたしは学校とは反対方向にむかった。そこにはあまり人の来ない公園があって、わたしはその公園のブランコに一人で腰かけていた。
 公園はやっぱり無人で、何だか世界のはしっこから落っこちてしまったみたいだった。誰もいなくて、何の音もしない。時間まで、どこかに行ってしまっている。手をのばしても、そこにはすかすかの空白しかない。
 わたしは恐ろしくみじめで、恐ろしく寂しかった。わたしがいられるのは、こんな場所でしかない。割れてばらばらになったガラスみたいに、自分の存在そのものがどうにかなってしまいそうな感じだった。
 そんな場所にいて、わたしはブランコを揺らすような気分にさえなれずにいるのだった。
 ――隣にあるブランコに誰かが座る気配がしたのは、その時だった。
 わたしはけれど、顔を上げてそっちのほうを見ようともしなかった。正直、どうでもよかった。何もかもが、どうでもいい。世界が壊れたって、すぐ横で誰かが死んでしまったって、何もかもどうでもいい。
「――どうかしたの?」
 雨粒が一つ、落ちるくらいの時間がたってから、その人は訊いた。
 視界の隅で見るかぎり、その人は制服を着ていて、中学生くらいだった。細くて柔らかそうな、長い髪。絵筆を使って、優しく描いたみたいな顔の輪郭。洞窟の奥にある鉱石に似た、きれいな瞳をしていた。
 その人は手をのばせば届くくらいの、でものばさなければ届かない距離で、わたしの隣に座っていた。
 わたしはその時、何故だかすべてをしゃべってしまっていた。本当に、何もかもどうでもよかったのかもしれない。あるいは、世界からも見捨てられてしまったみたいな公園で、その人とブランコ一つぶんの距離を隔てていたせいかもしれない。
 実際のところは、よくわからない。
 でもとにかく、わたしは自分のことをしゃべってしまって、それはもうとりかえしのつかないことだった。自分のみじめさも、恥ずかしさも、情けなさも、みんなもう表に出してしまったのだから。
 何もかもしゃべってしまったあと、わたしは言った。
「わたしは、どうしたらいいの?」
 その人はちょっとだけ黙っていた。紙に塗った絵の具が乾くのを待つみたいな、そんな間だった。やがて、その人は言った。
「心の正しい置き場所を探すの」
 それはとても静かな、でもとてもはっきりした声だった。何ていうか、白くてくっきりした、月の光みたいに。
「自分が自分でいられる場所、自分の形が一番よくわかる場所。自分が何を考えていて、何を感じていて、何がしたいのか、それがよくわかる場所――そういう場所を探すの。それは見つけにくいかもしれないし、見つかっても難しい場所にあるかもしれない。でもそれは確かにあるし、どんな人にでもそれは必要なものなの」
「でも、わたしは――」
 わたしは何か言おうとした。そんな場所なんて見つけられそうにないし、どこかにあるとも思えない。
 けどその人は、本のページをめくるみたいに小さく首を振ってみせた。
「とにかく、今のあなたに必要なのは、学校に行くことじゃない。あなたに必要なのは、ちょっと休むこと。ちょっと休んで、心がまた自然に話しだすのを待つことなの」
 わたしはその人のことを、じっと見つめた。その人がどれくらい真剣なのか、どれくらい信頼できるのか、そんなことを確かめるために。
 でも――
 その人はただ、にっこり笑っただけだった。春の太陽が、冬をすっかり追いはらってしまうみたいに。
 ――それから起きたことは、まるで魔法みたいだった。
 わたしは一週間もたたないうちに学校に戻って、そしてそこはすっかり元通りに変わっていた。まるで、時計を巻き戻したみたいに。わたしがいじめられる以前の状態に。
 その人が、何もかもしてくれたのだ。わたしがいじめられていることを報告して、先生やスクールカウンセラーの人と相談したり、クラスのみんなやわたしのことをどうするか決定したり、そんな何もかもをすべて。
 結果として、いじめはすっかり消えてしまうことになった。壁のラクガキをきれいに消してしまうみたいに、痕跡さえ残らない。
 まるで神様がひょいと、深い穴の底からつまみあげてくれたみたいだった。
 ――本当に。
 時々、わたしは思うのだ。もしもあの時、ブランコの隣にその人がいなかったら。もしもその人が、わたしの話をきちんと聞いてくれなかったら。例えそこまではよかったとしても、学校でのことがうまくいかなかったとしたら。
 もしもそうだったとしたら、きっとわたしの世界は今よりずっと暗くて、厄介で、複雑なものになっていたに違いない。
 きっとその世界では、心の正しい置き場所なんて見つけられずにいたに違いない――
 だからわたしは今でも時々、その人のことを思い出すのだ。深くて、暗くて、底なしの穴から、神様みたいにわたしを救ってくれた、その人のことを。
 そうするといつでも心が軽くなって、生きているのが少しだけ簡単になるのだった。

「聞いてきてやったよ」
 午前中の休み時間、前の席にどさっと座ったまひろは言った。
 今日は、牛乳は飲んでない。
 聞いてきた≠ニいうのは、もちろん「清島一花」さんのこと。まひろと同じバスケ部の友達が1ーDにいたので、その子にいろいろと話してもらったのだ。なかなか頼れる友人なのである、阿瀬まひろというのは。
「とりあえず、いつも一人でいるタイプみたいだね」
 と、まひろは言う。
 話によると、清島さんは休み時間なんかは、決まって自分の席で本を読んだりなんかしているらしい。当人はそれでいたって平気みたいだし、まわりも特に気にしたりはしていない。太陽や月は、お互いがどんな動きをしていようと、気にかけたりしないものだ。
 たいして親しいわけじゃないのではっきりしたことはわからないけれど、悪い人ではないらしい。言動はいたって落ち着いているし、ふるまいは常識的――いつも、ただ静かにしているだけ。悪い人というより、むしろ親切なほうらしい。誰かが困っていたら、すぐ手を貸してあげたりする。
 ただし、趣味だとか家族構成だとか、そういう細かいところについてはわからない。血液型なんかについても。
「――お姫さまの情報に関しては、そんなものかな」
 と、まひろは何か言い残したことがないか、箱の底を探るような顔つきで言った。
「いや、お姫さまじゃなくて王子さま?」
「何でも」
 わたしはいつかまひろがやったみたいに、軽く肩をすくめてみせる。
 幸いなことに、清島さんが王族がどうかというのはたいした問題じゃない。とりあえず話を聞くかぎりでは、清島さんは見ため通りの静かな人で、とりたてておかしなところはないらしい。
「ま、友達百人作るってタイプじゃないのは確かだね」
 というのが、まひろの講評。まあ、それにはわたしも同意するけど。
「何にせよ、お近づきになるのは難しい相手かもね。ややこしいタイミングの、電車の乗り換えみたいに」
 とまひろはあくびを噛み殺しながら言った。さっきの数学の授業のせいだろう。まひろは見ため通り、あんまり頭を使うのが得意ってタイプじゃないのだ。
「……今、何かろくでもないこと考えなかった?」
 相変わらずの、勘の鋭さだった。それとも、わたしがわかりやすいんだろうか。
「ある意味では」
 とわたしはやっぱり正直に答えて、念のためにつけ加えておく。「――誉めてるのかもしれない」
 まひろは新しい実験装置を前にしたモルモットみたいに、胡乱げな目つきをした。悲しいことに、人は楽園で禁断の果実を食べて以来、相互不信と敵対関係に悩まされ続けている。
 そんな深遠なわたしの嘆きを頭から無視して、まひろは言った。
「で、あんたは結局、どうするつもりなわけ?」
 うん、問題はそこだった。
「――どうしようか」
 わたしは途方に暮れるというほどではないにせよ、ため息まじりにつぶやいておくしかない。
 鷲の羽をつかんで空を見あげる、一匹の年老いた猿みたいに。
「ちなみにこれ、高村光雲の『老猿』ね」
「知らんがな」

 昼休み、わたしは図書室に行ってみた。
 といって、どうするあてがあるわけじゃない。現状、わたしはただのストーカー(不本意ながら)で、彼女のことを一方的に知っているにすぎない(クラスと名前と、パズルのピースにもならない情報とはいえ)。彼女とわたしのあいだには、地球のまわりを回る人工衛星くらいに何の接点もないのだった。
 そもそも、わたしはどうしたいのか――
 わたしがつらつらとそんなことを慮りながら図書室のその場所をのぞいてみると、彼女はやっぱりそこに座って、一人で本を読んでいた。ピエタみたいなその瞳で、いつもと同じ姿勢で。
 気づかれないようにそれを確認してから、わたしは適当に本を一冊手にとって閲覧席に向かった。ミツバチテーブルのはしっこのほうに座って、さてどうしたものかと考える。
 今日は図書委員の当番じゃないので、とりあえず本を開いてそれを読むふりをした。別に図書室で眠ろうと、瞑想しようと、人類の行く末について思いをはせようと、それは勝手なのだけど、やっぱり本を読んでいる格好が一番自然で怪しまれない。
 何だか、本当にストーカーじみてきたみたいだ。
 一応、開いた手前があるので、本に目をとおしてみる。それはやたらに込みいった感じの本だった。Aの話がいつのまにかその中のBの話になって、それがまたその中のCの話になる。マトリョーシカみたいにきりがなくて、いつまでも終わりがない。そのうち、話を逆戻りするのか、このまままっすぐどこかへ行ってしまうのか、よくわからなくなってくる。
 わたしはけれど、あまり集中して本を読んでいることができなかった。
 清島さんのことが気になるとか、自分の行動が気になるとか、別にそんな理由というわけじゃない。
 それはもっと、物理的な理由によるものだ。
 閲覧席にはほかにも何人もの生徒が座っていたけど、そのうちの数人は一つのグループになってテーブルを占領していた。
 見たところ、あんまり図書室に用があるタイプには見えない。感じもよくない。イスの座りかたとか、態度とか、顔の造作とか。胸につけられた校章の色から察するに、たぶん二年生の、男子グループだった。
 最初はまじめに勉強でもしにきたのかもしれないけど、その決意はコーヒーに入れた角砂糖みたいにぼろぼろ崩れていったみたいだ。今となってはただ騒がしいだけの、無法集団になりさがっている。おまけにペットボトルのジュースを飲んだり、昼食の残りみたいなものを食べたりもしていた。
 すぐそばの壁にちゃんと、「飲食禁止」「図書室では静かに」と書いた貼り紙もしてあるのだけど。
 ほかの利用者も、そのグループには辟易してるみたいだった。けど、面と向かって公然と非難しようとする人間はいない。何しろ人数が多いし、柄も悪い。下手に手を出すとどうなるものか、わかったもんじゃない。いや、たぶん宝くじなんて目じゃないくらいの高確率で、ろくでもない目にあうのは間違いない。
 あいにく、司書の先生は不在みたいだし、カウンターの図書当番もだんまりを決めこんでいるみたいだった――まあ、無理もないけど。
 かくいうわたしにしても、そんな高度な対人スキルは持っていない。腕力も、ついでにいうと勇気も、たぶん。
 二年生グループは誰も文句を言ってこないのを幸いに、好き勝手に騒ぎまわっていた。その傍若無人ぶりは目にあまるし、許せないし、怒りは涌出量の多い温泉みたいにふつふつと湧いてくるけど、かといってどうしようもない。
 そうやってわたしが役にも立たない殺意を念波にして送っていると、不意に人影がすぐそばを通り抜けていった。
 その人影が二年生グループの横に立ってようやく、わたしはそれが誰なのかに気づいている。
 ――清島さんだった。
 彼女は白い月の光を思わせるような温度のない目線で二年生グループを一瞥すると、輪郭のはっきりした声で言った。
「静かにしてもらえますか?」
 それは怒鳴り声でも、嘲弄でも、冷ややかでもなかった。それは静かだけどよく徹る、澄んだピアノの一音みたいな声だった。
 二年生グループはその声を聞くと、ぴたっとしゃべるのをやめた。図書室にいるほかの生徒たちも、沈黙の段階をもう一つ下げた。世界が一瞬だけ、一時停止状態になったみたいだった。
 緊張が、段々高まっていくのがわかる。風船に空気を入れすぎたら、あとは破裂するしかない。問題は、そうなったときにどうなるか、なのだけど――
 二年生グループが、一瞬目配せした。それがどういう意味か、わたしにはわからない。生意気な一年生の女子を黙らせてやろう≠セったかもしれないし、興醒めだからもう行っちまおうぜ≠セったかもしれない。
 でも、その時――
 わたしは気づいたら立ちあがって、彼女のすぐ隣まで行っていた。そして、頭の中で言葉を用意する暇もなく、口を開いている。
「――すみませんが、図書委員の者です」
 まずそう言ってから、わたしは続けた。
「図書室はみんなで利用するものです。だから、大声で騒ぐのも、何かを食べたり飲んだりするのも禁止されてます。もしそれが守れないなら、別の場所に行ってもらわなくちゃいけません」
 わたしが言うと、二年生グループはまた口を閉ざした。それから簡単な目配せがあって、三々五々立ちあがる。挨拶もお詫びもなかったけど、全員そのまま図書室をあとにした。
 ドアが音を立てて閉まると、図書室には乱暴にひっかきまわされた引き出しの中みたいな、落ち着かない静けさが残っている。でもそれも、たいした時間はかからず元通りに戻っていった。
 みんながそれぞれの時間と場所に戻っていくなかで、わたしたちはまだ同じところに立ったままだった。今はもう誰もいなくなった、テーブルのすぐそばに。
 それから――
 不意に、清島さんがわたしのほうを見る。彼女はほんの少しだけ、微笑っているみたいだった。感謝と、称賛と、親愛を込めて。
 何だかそれは、きれいな雪がまっすぐ落ちてくる光景に似ているみたいだった。

 ――わたしたちが何となく話をするようになったのは、それからのことだ。

 ある日の放課後、わたしはカウンター係として図書室にいた。
 本当は、うちの高校では放課後に図書委員が受付をすることはない。司書の先生がやってくれるからだ。
 でも今日は、司書の先生(南佳代子(みなみかよこ)、二十八歳)に用事があって、代役を頼まれていた。
「ごめん、本の寄贈の申し込みがあって、どうしても外せないの」
 ふわふわした綿菓子的な声で、南先生は言った。
 南先生は、おっとりした外見と性格の、専門の学校司書である。いつもゆったりした女子っぽい服を着ていて、ズボンをはいているところなんて見たことがない。本の管理って、けっこう肉体労働なのだけど。
 もっとも、仕事は熱心だし、きちんとしている。前にも言ったとおり、ポップを作ったり、新着図書を紹介したり、図書室の中はけっこう賑やかだ。
 そんな南先生(かわいい系、でも独身)の代わりとして、わたしは図書室にいるのだった。
 日によってまちまちとはいえ、放課後の図書室はわりと空いていることが多い。みんな部活に行ったり、塾に行ったり、遊びに行ったり、さっさと帰ってしまったり、いろいろだ。放課後の選択肢に「図書室を利用すること」が含まれている人は少ない。
 それは今日も同じで、わたしは雨の日の校庭と同じくらいに人気のない閲覧席を眺めながら、こっそりとあくびを噛み殺していた。
 でもしばらくして、数少ない「図書室を利用すること」を目的にした人物がやって来る。
 その人物のことを、わたしは知っていた。
 郷土史研究会という、ごくごくマイナーなクラブに所属する一年生の女の子である。新奈眞(にいなまこと)という名前で、前髪をきれいに二つにわけて、おでこが広い。丸い眼鏡をかけていて、何となく学者然とした雰囲気がある。それから、白衣なんかを着たら裾があまりそうなくらい背が低かった。
 彼女は資料を探すためにちょくちょく図書室に出入りしていて、図書委員とは顔なじみだった。男の子っぽい、けっこう印象的なしゃべりかたをするので、わたしもよく覚えている。
 そんな新奈さんは、今日も資料を探しに来たらしい。
 なのだけど――
「あれ?」
 どうしてだか、彼女の後ろにこれも見覚えのある人物が立っていた。
「……何で、清島さんが?」
 そう、彼女の後ろにいたのは、まぎれもなく清島さんだった。二人の立ち位置からいって、偶然や無関係というわけじゃなく、連れだっていっしょに来たみたいだ。
「ああ、こんにちは吉村さん」
 と、清島さんはわたしのことに気づいて会釈をする。
 するとそれを見て新奈さんが、わたしたちのことを交互に見ながら、「何だ、二人は知りあいなのか」と訊いてきた。
「えっと、そうなんですけど――」
 わたしはちょっと首を傾げる。
「二人こそ、知りあいなんですか?」
 質問してみると、どうやらそうらしい。
 二人は子供の頃からの知りあいで、幼なじみというほどじゃないけれど、つきあいは長いということだった。といっても、それを友達≠ニいう一般概念でくくっていいかどうかは難しい。
 その関係は昔から、新奈さんが一方的に話すのを、清島さんがこれまた一方的に聞いている、というものだったそうだ。話そのものには全然興味はないけれど、耳だけなら貸してあげる、というわけで。何だかそれは、ラジオのDJとリスナーみたいな感じだったけど、二人はそれでまあまあうまくやってきたらしい。
 とりあえず、そこまでは理解した。
「――それで、今日はどうして二人で?」
 わたしはもう一度、首を傾げる。すると清島さんは、少しだけおかしそうに言った。
「猫の手ならぬ、幽霊の手でも借りたいってわけなのよ、この人は」
 聞くと、高校に入っても二人のつきあいは続いていて、その縁で清島さんは郷土史研究会に入っているらしい。ただしこれも耳だけ貸すのと同じで、貸しているのは名前だけ。つまり、幽霊部員(会員)というわけだった。
 今日は調べものがあるから、そんな幽霊部員の手でも借りたい、ということらしい。
 ――その話を聞いて、わたしはふとまひろのことを思い出していた。まだ名前も知らない清島さんのことを話したとき、「あとは、その子が幽霊だったとか、そんな話じゃないことを祈るよ」と、まひろは言ってたっけ。
 ある意味でそれは、一面の真実ではあったわけである。
 大体の事情がわかったところで、わたしは二人を書庫に案内した。といってもそれは、すぐそこにあるドアを開けただけのことだったけど。カウンターには、御用のあるかたは書庫まで≠ニ書いた紙を置いておく。
 学校の図書はほとんどがデータベース化されていたけど、中にはそうじゃないものもある。特別に古いものや、自費出版されたものがそうだった。そういうのはパソコンで検索してもヒットしないから、地道に実物を見て中身を確認していくしかない。
 書庫には当然だけど、本が大量に収蔵されている。ちょっとした前菜みたいな、申し訳程度の閲覧スペースがあるほかは、全部が本棚で埋まっていた。廃棄前の新聞や雑誌なんかも、みんなここにつっこんである。何となく、世界が滅びる前のノアの方舟を思わせるような光景ではあった。
「――それで、何を探してるんですか?」
 いっぱいに並んだ本棚の前であらためて訊くと、新奈さんは地元にある神社の名前を告げる。どこかで聞いたことのある名前だな、と思ったら家の近所にある神社だった。
「その神社だったら昔、中学のボランティアで清掃活動したことがありますよ」
 正確に言うとそれは、「やらされたことがある」だったけど。
「ほう、それは興味深いな」
 と、新奈さんは関心を示す。
 それでわたしは、その時のことについて話してみた。といっても、枯れ葉を集めたりごみを拾ったりと境内の掃除をしただけで、特に変わったことはしていない。
 ただ一つだけ、珍しいものを目撃していた。
「ふむ、一体何を見たんだ?」
「えっと、いわゆる御神体ってやつですね」
 普通、神社にはその祀ってある神様の依り代が納められている。それが御神体というやつで、要するに神様の代理だった。普段は本殿の奥にしまいこまれていて、誰も見ることはできない。
 どうしてわたしがその御神体をみることができたかというと、神主さんがたまたま掃除をしていたからだ。
「もっとも、わたしが見たのは本社のほうじゃなくて、裏にある摂社のほうですけど」
 わたしがそう言うと、新奈さんは思いのほか真剣な顔つきで考え込んでいる。
「――その御神体というのは、どんなだった?」
 と新奈さんは訊いてくる。
「えと、箱でしたね」
 嘘をついても仕方ないので、わたしは正直に答えた。それは箱に似たまったく別の何かだったという可能性もあるけど、少なくともわたしが見たものはそうだったとしか言いようがない。
「――――」
 すると新奈さんは、急に黙りこんでしまう。今のわたしの発言に、それほど気になるところなんてあっただろうか。
「あの?」
「実はあそこの神社は、奇筐彦命(くしかたみのひこのみこと)というちょっと珍しい神様を祀っているところなんだ。古事記には名前だけの神様なんて腐るほど出てくるんだが、これは箱の神様≠轤オいんだよ」
 新奈さんはとうとうとまくしたてた。
「そして本来は、この神様のほうが主神だったらしいんだが、江戸時代に神社が再建されたときに、摂社に格下げされたらしいんだ。だから吉村さんの見た御神体の箱というのは、その時いっしょに遷されたものかもしれない。もしもそうだとしたら、歴史的には貴重なものということになる。本来、御神体のほとんどは自然物だし、当時のものがそのまま残っている可能性もある」
「へえ――」
 あの神社に、そんな謂れがあったとは。
 そんなわたしたち二人のやりとりを、清島さんはすぐ隣で礼儀正しく、無関心に聞いていた。新奈さんの話をいつも一方的に聞いている、というのはどうやら本当らしい。それでも、二人にとってはそんな関係がちょうどいいみたいだった。
 わたしたちはそれから、新奈さんの指示にしたがって書庫の本をあさっていくことにする。多少の見当くらいつくとはいえ、けっこう大変な作業だった。藁の中から一本の針を見つけようとすると、こんな感じかもしれない。溺れる人が藁にすがるのも無理はない気がした。
 ――昔の人は、藁が好きだったんだろうか?
 結局、作業には図書室の利用時間いっぱいまでかかったとはいえ、収穫はいまいちだった。新奈さんはお礼を言って、清島さんは軽く手を振って、書庫をあとにする。
 そのあいだ、わたしがカウンターに呼ばれることはなかったし、図書室に戻ってみるともう誰の姿もなくなっていた。

 梅雨に入る前の試運転みたいな、雨の日だった。
 わたしは普段、自転車通学をしているのだけど、さすがにこの雨の中で自転車をこぐ気にはなれない。そこまで根性のある性格はしていない。
 それで、学校が終わった放課後の帰り。
 雨は憂鬱な独り言みたいに、一日中降り続いていた。ごくごく単調な、誰に聞いてもらえるあてもない繰り言。もちろん、空にだって嫌な気分の時くらいあるのだろう。
 わたしは傘をさしながら、もよりのバス停まで向かっていた。赤色の傘に、雨は飽きもせずぶつかってくる。歩くたびに、靴が小さく水を弾いた。
 そうやってバス停までやって来ると、先客が一人いる。
 青色の傘に隠れて顔は見えないけれど、同じ高校の制服を着ていた。ほかに人はいない。我慢強く雨に耐えているベンチの前を、何台も車が通りすぎていく。
 わたしは携帯で一度時間を確認してから、あとは黙って雨の下に立っていた。車のタイヤがあげる水しぶきが、くぐもった音を響かせては消えていく。
 しばらくそうしていたところで、わたしはふと隣の人影に見覚えがあるような気がする。念のためにそっと様子をうかがっていると、一瞬傘の下にある顔をのぞくことができた。
「――清島さん?」
 気づいたときには、声をかけてしまっている。何となく、意外な相手だった。
 清島さんはわたしのことに気づくと、「――ああ」と礼儀正しく笑みを浮かべる。雨の日でも、その様子に変わりはない。世界を終わらせる隕石が空から落ちてくるのを眺めているときでも、その様子に変わりはないような気がした。
「清島さんも、帰るところ?」
 ごく自然な流れとして、わたしは訊いてみる。幽霊部員を公言する清島さんなら、たぶんそうだろう。ちなみに、文芸部は休みの日だった。
「――ええ、そうよ」
 清島さんの返答は短かった。
「学校には、いつもバスで通ってるの?」
「基本的には」
「この路線てことは、帰りは同じ方向ってことになるね」
「そういうことになるわね」
 ――会話は続かなかった。
 でもまあ、それは想定の範囲内だった。わたしとしても、清島さんが急に饒舌になって、嬉々としてドストエフスキーについて語りだす、なんてことは期待していない。というか、それはそれで別のことをいろいろ心配しなくちゃいけなくなってしまう。
 幸いなことに、わたしたちの会話の続きは雨がやってくれた。特に居心地が悪いわけでも、危機的状況というわけでもなく、わたしたちは並んで立っている。雨の日にも、少なくともよいところが一つはあるわけだった。
 そうしてしばらくすると、バスがやって来る。
 念のために携帯で確認してみると、バスが到着したのはほぼ定刻通りだった。

 雨の日ではあったけど、バスの中は案外空いていた。席は半分も埋まっていないだろう。車内には雨の気配と薄明かりが、靄みたいに漂っている。
 わたしと清島さんは整理券をとって、ステップをのぼる。傘からぽたぽたと雨の一部を落としながら、誰もいない一番後ろの席に向かった。
「ちょっと話がしたいから、いっしょの席に座ってもいいかな?」
 と、清島さんには事前に許可をとっている。何事も相手の承諾を得るのは大切なことだ。この世界は礼儀と約束で成りたっている。
 わたしたちは長々とした後ろの席の、真ん中あたりに座った。手をのばせば届くくらいの、でものばさなければ届かないくらいの距離で。
 小さなクラクションといっしょにバスが走りだすと、後ろの風景が遠ざかっていった。後続車が、お姫さまに仕える従者みたいな格好で走っている。雨だけが、ずっと同じ場所から動かなかった。
 前のほうを見ると、運転席のところまで車内全部をずっと見渡すことができる。そうやって広々した後ろの席に座っていると、ちょっと贅沢な感じがした。
「――一つ、聞いてもいいかな?」
 慣性の法則にしたがってバスが安定したところで、わたしは訊いた。
「何をかしら?」
「どうしていつも、長袖を着てるの?」
 その言葉を口にするのに、わたしは躊躇も、気負いも、淀みもしなかった。ごく当たり前のことみたいに――昨日の晩ごはんについて質問するみたいに、そのことを訊く。
 清島さんはちょっとだけ黙っていた。ものさしを使って、正確な距離を測ろうとするみたいに。それから、言う。
「どうして、そんなことを訊くのかしら?」
「――うん」
 当然な質問に、わたしはうなずく。そして心を正しい場所に置くために少しだけ目をつむってから、言った。
「清島さんがいつも長袖なのは、もしかしたらリストカットの痕を隠すためなんじゃないかな、と思ったんだ」
 ――そう、わたしはずっと、そのことを考えていたのだ。図書室で彼女の存在に気づいたときから、ずっと。
「…………」
 わたしがそう告げると、清島さんは口を閉ざした。それはいろいろなものが含まれている沈黙だった。警戒、疑問、推測、逡巡――それから、少しくらいなら興味もあったかもしれない。
 ほんのしばらくのあいだ、沈黙が続いた。でももちろん、それは仕方のない話だ。誰も彼もが心の中に閉じ込めている言葉を理由もなく口にしはじめたら、世界なんてすぐにパンクしてしまうだろう。
 だから、わたしは言った。空から降ってくる雨の音と、同じくらいの声で。
「わたし、子供の頃にいじめられてたことがあるんだ――」
 実のところそれは、わたしがほとんど人にはしゃべったことのない話だった。どれだけ仲のよい友達でも、どれだけ信頼できそうな相手でも、口にしたことのない話。まひろにだって、この話はしたことがない。
 でも、わたしはそれを今、清島さんに向かって話していた
 クラスメートからの仲間はずれや攻撃、味方のいない一人ぼっちの状況、不登校。それから、公園のブランコに座って、わたしを助けて救ってくれた人のこと――
 そんなことをぽつぽつと、わたしはバスの中で雨の音といっしょに話してしまう。
 わたしが話を終わると、もう一度沈黙がやって来た。それはやっぱりいろいろなものが含まれる沈黙だったけど、前とは少し違っている。
 やがて、清島さんは言った。
「何で、そんな話を私にするわけ?」
 訊かれて、わたしはちょっとだけ笑顔を浮かべる。箱の中にしまっておいた、大切で懐かしいおもちゃを見つけたときみたいに。
 それから、わたしは答えた。
「――わたしを助けてくれたその人も、いつも長袖を着ていたから」
 後ろの席でわたしたちがそんなやりとりをしているあいだにも、バスは雨の中を走り続けていた。窓から見える風景も、すぐあとについてくる車も、最初の時とは違っている。
 車内のアナウンスが次の停留所を告げたとき、不意に清島さんが立ちあがった。
「次のバス停で降りられるかな?」
 その「かな?」が、わたしを誘ってその許可を求めているのだと理解するのには、少しだけ余計に時間がかかる。
「えと、うん、大丈夫だけど」
 家はもう、すぐ近くなので(実際、バス停一つ分しか離れていない)特に問題はない。運賃も変わらなかった。
 でも、清島さんは?
「私は定期だから」
 ――なるほど、それはそうか。

 雨は少し、小降りになってきかたかもしれない。傘の先に手をのばすと、ようやく降っているのがわかるくらいだった。空も、泣き言を口にするのに疲れてきたのだろうか。
 わたしと清島さんは、住宅地を歩いていた。通りを走る車の音はすぐ聞こえなくなって、特徴のない迷路じみた道を進んでいく。日が落ちるまでは、まだだいぶ時間があるだろう。
 先に立って歩く清島さんがどこに向かっているのかがわかったのは、しばらくしてからのことだった。何しろ、ヒントもほのめかしもなかったから。
 ――例の神社に向かってるんだ。
 いつか図書室で資料を探した、あの神社だった。箱の神様を祀った神社。江戸時代に、本社から摂社に格下げされてしまった、例の。
 そのことを質問する前に、わたしたちはもうその場所についている。
 階段の前の赤い鳥居と、その横にある神社の名前を彫り込んだ石柱。木や薮が雨に濡れて、いっそう濃い緑色で群がっている。
「…………」
 清島さんはそんな様子をちらっと一瞥してから、やっぱり無言のままで階段をのぼりはじめた。説明もないし、確認もしない。まるで、わたしがついてこなくたってかまわないみたいに。
 やれやれ、と心の中でつぶやいてから(実際にこのセリフを口にする人は少ない)、わたしはそのあとを追う。何しろそれは、わたしに原因があるのだし、責任だってあるのだから。
 わりとしっかりしてるけど、わりと長い階段を、わたしたちはのぼっていく。途中、松尾芭蕉だか誰だかの句碑があったけど、残念ながら達筆すぎて解読は不可能だった。
 階段をのぼりきると、こぢんまりとした境内が広がっている。正面にけっこう立派な拝殿があって、すぐ右手に水屋、向こうのほうには社務所らしい建物がある。当然だけど、人影はどこにも見あたらない。平日だし、雨だって降ってる。神様はどうか知らないけど、人間にだって都合というものがあるのだ。
 建物の前にある立て札には、神社の縁起について記してあった。現在の主神は「誉田別命」(いわゆる八幡さま)。神社そのものは古く、平安時代頃に創建されたそうだ。戦国時代に焼失して江戸時代に再建、云々――とある。
「例の神様がいるのって、こっちのほうでいいのかしら?」
 不意に、清島さんが訊いてきた。くし何とかの神のことだ。「――あ、うん」とわたしは立て札から目を離して答える。
 それからわたしたちは、拝殿の横を通って裏手に向かった。土の地面があるだけで、特に道らしいものはない。木々が鬱蒼として、なかなか陰々滅々としている。
 本殿から少し離れたところに、小さな池があった。おもちゃをたくさん浮かべて遊ぶのにはちょうどよさそうな池だった。水は澄んでいて、魚はいない。よく見ると、平らな水面に雨粒がいくつも跡をつけている。
 池には飛び石があって、そのすぐ先にある浮き島にはミニチュアの神社みたいな建物がたてられていた。厳かというよりは、ちょっと可愛らしい感じがしないでもない。
 近くにある立て札には、池の由来について記されていた。いわく、大昔に長く続いた日照りの年にも、この池の水だけは涸れることがなかった……いたって凡庸な感じの伝承である。
 どういうわけか、神社そのものについての記述はない。
「――池の中に神社があるのも、珍しいわね」
 と、清島さんが感想を口にする。
「けど、それと箱の神様に何の関係があるのかしら?」
 確かに、それはわたしも疑問だった。たぶん、どこかで話の一部が欠落したり、付加されたり、曲解されたりして、そうなったんだろう。よくある話だった。
 わたしが中学の時に見たその神社の御神体は、何ということのないただの箱だった。すぐ手元で観察したわけじゃないけど、装飾も色彩も意匠もない、どっちかというと薄汚れた感じの。たぶんあれじゃ、お弁当箱にだってならないだろう。
 昔、福沢諭吉が子供だった頃、「見てはならぬ」と言われた社の扉を開いて、中にただの石ころが入っているのを発見したそうな。で、合理的精神の持ち主だった諭吉少年は、その石ころを内緒で交換しちゃったのだけど、みんな普通にお参りするし、祟りみたいなものも発生しなかった――ということらしい。
 何となく、その気持ちがよくわかる感じの箱ではあった。
 そんな埒もないことをつらつらと考えていると、不意に声がしている。
「吉村さんの言ったとおりよ」
「え――」
 余計なことを考えていたせいで、わたしはとっさに反応できなかった。百メートル走なら、致命的な遅れだった。
 でも――
 幸いなことに、これは競争なんかじゃない。
「……やっぱり、傷を隠すために?」
 わたしはオリンピックならとっくに一位が決まってるくらいの時間がたってから、訊いてみた。
「ええ」
 清島さんはそう言って、何かの部品でも検査するみたいに左腕に手をあてる。
 見えたりはしないけれど、そこには赤い線と、傷口が治った痕の白い線がいくつもつけられているはずだった。
 わたしは傘の下でそんな想像をしながら、訊いてみる。
「……痛くないかな?」
「ま、痛いわね。鈍(なまくら)なんかで切っちゃうと」
 鈍――
 日常会話では、なかなか聞くことのない単語だった。
「でも大丈夫よ、それ専用のナイフがあるから」
 専用――
 これまた、なかなか独創的な言葉だった。
「もっとも、どっちにしろお風呂に入ったりとかすると滲みるんだけどね」
「…………」
 清島さんはそんなことを、ごく何でもないことみたいにして語った。ごく当たり前に――昨日の晩ごはんについての質問に答えるみたいに。
 雨は相変わらず、池の水面に無数の円形を作っていた。
「どうして、リストカットを――?」
 その円形の一つみたいにして、わたしは訊いてみる。
「それでバランスがとれるからでしょうね」
 清島さんは少し考えてから言う。
「バランス?」
「心の傷に対して」
 わたしはよくわからなかった。わたしはよくわからなかったことを示すために、少し首を傾げる。
「つまりね――」
 清島さんは、困ったそぶりも嫌そうな顔も見せずに説明する。
「見える化≠キるの、心の傷を。そうすれば、ずっと対処しやすくなる。心の中の目に見えない、どこがどんなふうに傷ついているのかもわからないままの傷より――目に見える、手で触れられる、すぐそこに痛みのある傷のほうが、ずっと扱いが楽になる」
「心が傷ついてることより、体が傷ついてることのほうがまし?」
「まあ、そんなところかしら」
 清島さんは軽くうなずいてみせる。
「どうしてそうなのかは、正直なところ私にもわからないわね。でも少なくとも、それをすると楽になるのは確かよ。体がぱんぱんに膨れあがって、もうどうしようもないって時、腕を切るとそれがすっと消えてしまう。破裂しそうだった風船の空気を、あっというまに抜いてしまうみたいに」
 あくまで冷静に、客観的に、分析的に、清島さんは解説する。
「――ほかに、いい方法はないのかな?」
 わたしは一応、訊いてみた。自分で自分を傷つけるのは(他人にされるのよりましとはいえ)、あまりぞっとする方法じゃない。
 清島さんはけれど、あっさりうなずいてみせた。
「ある、んでしょうね」
 それから、少し考えて言う。
「でも私は、それでバランスをとっている。それで、バランスがとれている。だったら、そのほうがましよ。心がぐちゃぐちゃになって、体の中に余計なものがいっぱいつまってるのよりは。この世界のどこにも、心の置き場所をなくしてしまうよりは――」
 そんな清島さんの言葉を聞きながら、わたしはある作家さんの書いた文章を思い出していた。

――傷ついて生きるのは難しい。けれど、傷つかずに生きるのはもっと難しい。

 なるほどな、とわたしはあらためてその文章に納得している。この世界の因果とか、罪業とか、そんなことを思いながら。
 清島さんはそれから、ちょっと自嘲するようにつけ加えている。
「まあ、あんまり強く切っちゃったりすると、血がなかなか止まらなくて困ったりはするけどね」
「――うん」
 と、わたしはうなずくしかない。それ以外に、できることなんてない。
 いつのまにか、雨はやんでしまっているみたいだった。池の水はもう、そんなことは忘れてしまったみたいな顔で静まりかえっている。どんなに耳を澄ませても、水滴が傘を打つ音は聞こえない。最後の雨粒が落ちたのは一体どこなんだろう、とわたしはそんなとりとめもないことを考えていた。
 清島さんも雨がやんだことに気づいたみたいで、傘をたたんで水滴を払っている。彼女はそれから、ふと気づいたみたいにして言った。
「――ところで、子供の頃にあなたを助けてくれたその人は、今はどうしてるの?」
 わたしは手に持った傘の角度を、ちょっとだけ直す。取り残された雨粒たちが、不服そうに地面へと落ちていった。
「だいぶ前に、事故で亡くなっちゃった」
 できるだけ何でもないことみたいに、わたしは言った。
「そう――」
 清島さんは困ったような、労わるような、難しい顔をする。それ以外に、どうしようもない。
「――それは、残念だったわね」
 そんな清島さんに向かって、わたしは笑顔を浮かべる。気にすることじゃないし、間違ったことでもない。それはただ、そうだというだけのことなのだから。
 わたしたちはやがて、神社をあとにした。雨の残る階段をおりて、まだ曇り空の町を歩いていく。バス停まで清島さんを見送ったあと、わたしは家まで帰ることにした。

 ――本当のところ、わたしは嘘をついた。

 清島さんに話したことについてだ。何故なら、その人が死んだのは「事故」じゃなくて「自殺」だったから。
 そしてもう一つ、嘘じゃないけれど本当のことは言わなかったことがある。それは、自殺したその人が――わたしの姉だったということ。
 公園のベンチで隣に座ってくれたのは、世界のはしっこでわたしの話を聞いてくれたのは、いじめられていたわたしを神様みたいに救ってくれたのは、わたしに心の正しい置き場所をくれたのは、いつも長袖を着ていたのは――
 わたしの大好きな、お姉ちゃんだったということ。
 誰よりも誰よりも、優しくて――
 誰よりも誰よりも、傷つきやすかったお姉ちゃん。
 どうして姉が自殺なんてしたりしたのか、確かなことは今でもわかっていない。姉は最期まで、決してそんなそぶりも、兆候も見せたりはしなかった。
 姉は誰かのために戦うことはできても、自分のために戦うことはできない人だった。そうやって、わたしのことを救ってくれたけれど――
 結局、自分のことは救えなかったのかもしれない。

 これは、少し前の話。まだ春がはじまったばかりで、桜がようやく散りはじめた頃のこと。
「――きっと、きれいすぎたんだと思う」
 と、哲(あきら)さんは言った。
 それは一面に墓地の並ぶ霊園のことで、わたしたちは姉の墓の前に立っていた。遠くのほうにはお墓参りに来たらしい家族連れの姿があって、明るくて無機質な光があたりを満たしている。
 町ヶ谷哲(まちがやあきら)さんは、姉の友人だった。たぶん、一番の。哲という名前はしているけど、女の人だ。でもその名前にふさわしく、男性的な、クールな人でもある。髪は短く切っていて、そこからはきれいな首筋がのぞいていた。
 飾りけのないシャツにジーンズというラフな格好の哲さんは、今年十八歳で大学生になる。それは、もしも姉が生きていたらそうなっていた年齢と、同じだった。
「――――」
 哲さんはいったん、深々と煙草をすった(ちょっと不良なところのある人なのだ)。それから煙をふうっと、ごみを屑かごにでも入れるみたいにして吐きだす。
「――この世界で生きていくには、望美(のぞみ)はきれいすぎたんだよ」
 その言葉は、わたしにはよくわかるものだった。姉はきれいすぎた――たぶん、不幸なくらい。
 市立霊園の中にたつ姉の墓は、これといった特徴のないただの四角い石の塊だった。そこに、遺灰が納められている。お姉ちゃんはきっと、自分がどこに葬られているかなんて気にしないだろう。
 けど――
「やっぱり、ここが姉にふさわしい場所には思えません」
 何かの都合で同じ場所に集められた、たくさんの死。硬くて冷たくて重い、磨かれた石の塊。
 それは、姉の死を表すのに適当なやりかたとは思えなかった。
 だからこそ、わたしは命日ではなく、姉の誕生日に――いつも桜の咲くその頃に――姉の墓にやって来たのだった。
「そうかもしれないね」
 と、哲さんは軽くうなずいてみせる。哲さんとわたしがここで出会ったのは、ただの偶然だった。
「でもま、死んだ人間にそれを確認するわけにもいかないからね」
「…………」
 それは確かにそうで、それ以上でもそれ以下でもないだけの話でしかなかった。
 少し冷たい風が吹いて、哲さんの持っていた煙草の煙が流れていく。遠くのほうでは、ただ散るためだけに咲いた桜の花びらが宙を舞っていた。
「……どうして、姉は自殺したりなんてしたんでしょう?」
 そう、わたしは訊いてみる。
 哲さんは煙草を風に流したまま、大きく息をすった。手のひらから零れ落ちていく水の塊を、それでも何とか留めておこうとするみたいに。
「たぶん、あの子にとってはそれが正しいことだったんでしょうね」
「死ぬことが……ですか?」
 わたしが訊くと、哲さんはまるで初めて目にするみたいに煙草の先を見つめながら言った。
「あの子は正しいことしかできなかったから」

 ――どうして姉が死ななくてはならなかったのか、本当のところはわからない。姉は遺書も、日記も、その他いかなる種類の記録媒体も残さなかったから。
 でも、その代わりに姉が残していったものがある。
 それは、たくさんの本だ。本棚や、ダンボールや、押入れいっぱいに残していった本。
 わたしは姉が高校一年生の時にいなくなってしまって以来、その本を一冊ずつ読み続けている。何だかまるで、遺骨でも拾い集めるみたいに。
 正直なところ、わたしは自分が本好きなのかどうか、よくわかっていない。
 それはただ、姉を少しでもこの世界に留めておきたいという、ただそれだけの行為なのかもしれなかったから。

 昼休みの図書室にはそれなりに人がいて、みんな本を読んだり、友達といっしょに勉強したり、いろいろだった。そこには図書室的な平和と静かさがある。少なくとも、大勢で騒いだり迷惑行為におよんだりする不埒な輩はいない。
 わたしは閲覧席と本棚のあいだを抜けて、奥のほうに向かった。同じ部屋でたいした違いはないはずなのに、歩くたびにプールの底にでも沈んでいくみたいな、ちょっと不思議な感じがしている。
 図書室の奥には本棚に囲まれたテーブルが一つあって――
 そこでは今日も、清島さんが一人で本を読んでいた。
 とても静かに、とてもひっそりと。まるで、深い森の奥にでもいるみたいに。
 すぐ隣まで歩いていくと、わたしは思いきって言った。
「――この前は、余計なことを訊いたりしてごめん」
 清島さんは顔をあげて、わたしのことを見る。その瞳はやっぱり、ほんの少しだけ灰色がかっているように見えた。
「何のことかしら?」
 思いあたることがないらしく、清島さんは小首を傾げる。
「長袖のこととか、傷のこととか――勝手な詮索しちゃったみたいだったから」
 わたしがそう言うと、清島さんは「――ああ」という顔をした。ようやく思い出した、というふうに。
「別にかまわないわ。話して困るようなことじゃないし、気にすることでもないから」
「――うん」
 わたしはやっぱり、うなずくしかない。
 しばらく、間があった。太陽の角度がほんの少しだけ変わったのがわかるくらいの、そんな間だった。
「…………」
 清島さんは完全に本を閉じると、わたしに向かって隣の席をすすめる。
「どうぞ、座って――」
 お礼を言って、わたしはそのとおりにした。イスを引いて、そこに座る。音は立てずに。
「……実は、言っておきたいことがあって」
 と、わたしは自分でもちょっと困ったみたいな、半端な言いかたをした。
「何をかしら?」
 丁寧にうながす清島さんに、わたしは言った。
「感謝すべきなんじゃないか、って思ったから」
「――?」
 当然だけど、清島さんは不思議そうな顔をした。だから、わたしは言った。
「清島さんが自分を傷つけてるのは、誰かの代わりに傷ついてるせいのような気がして」
「――――」
 ほんの少しだけ、清島さんは呼吸の仕方を変えた。そして、飛んでいった蝶の行方でも追うみたいな、そんな口調で言う。
「――。私はそんなに、お人好しってわけじゃないわ」
「うん――」
 わたしはうなずいて、でも言葉を続けた。
「それは、わかってる。清島さんは別に、誰かのためにそうしたり、犠牲になったりしてるわけじゃない。それが必要だから、そうするほかにないから、ただそうしてるだけ――」
 わたしは自分でもちょっと混乱しながら、それでもすべてを言ってしまうことにする。
「けど清島さんの傷は、誰かの傷でもあるんだと思う。誰かの苦しみや、悩みや、悲しみと同じものなんだって。だからその傷は、世界そのものが傷ついたのと同じなんじゃないかって、そう思うんだ。この世界が傷ついてるから、清島さんも傷ついてる――そんなふうに」
 みんなしゃべり終えてしまうと、清島さんは黙っていた。その様子は呆れているようでも、唖然としているようでも、首を傾げているようでもある。
 わたしはやっぱり、余計なことを口にしたのかもしれない。馬鹿らしくて、図々しくて、ただ勘違いしているだけで――
 そんなふうにわたしが顔を赤くしていると、清島さんは言った。
「――心配してくれて、ありがとう」
「え……?」
 清島さんはいつも通りの、歪みのない鏡みたいな落ち着いた表情をしている。
「私のこと心配してくれて、ありがとう。普通の人は、あまりそういうことは言わない。私のしてることを知ると、眉をひそめたり、忠告したり、ただやめさせようとしたり――そのことにどんな意味があるかなんて、考えようとしない。私がそうやって、バランスをとっているんだってことを。だから、吉村さんみたいに気づかってくれる人は、とても貴重ね」
 わたしはどう答えていいかわからないまま、やっぱり顔を赤くしていた。どう考えても、さしでがましい口をきいたのは事実だ。それは、わたしなんかが口にしていい言葉じゃない。
「変なお節介みたいなことして、ごめん。本当は何も知らないのに、わかったみたいなことを言っちゃって――」
 そう、わたしが謝ろうとすると、清島さんは小さく首を振った。
「いいえ、あなたは私によいことをしてくれたわ」
 清島さんはそして、わたしのことを見つめた。その顔はほんの少し――微笑っていたかもしれない。
「この世界で、それはとてもよいことだった。とても稀少で、貴重なこと。世界に価値と意味を与えてくれること。この世界を、少しでも生きやすくしてくれること」
 だから、と清島さんは言う。

「――だから、ありがとう」

 わたしはちょっとだけ息をすって――
 それから、泣いているみたいな、笑っているみたいな、全然格好のつかない表情を浮かべる。それ以外に、どうしようもなかったから。
 清島さんはそんなわたしを見て、ささやかな笑顔を浮かべる。きっとそれは傷に貼る小さな絆創膏くらいにも役には立たなかっただろうけど、笑顔であることに間違いはない。
「私のことなら、心配しなくても大丈夫よ」
 と、清島さんは言った。
「――私の心は、ちゃんとした箱の中にしまってあるから」

 ――時々、小さな箱の中に入りたいと思うことがあった。
 膝を丸めて横になったとき、ちょうど体がぴったり収まるくらいの、小さな箱。自分だけがそこに入れて、それ以外の何も入れないくらいの、小さな箱。
 何の物音もしなくて、何の光もなくて、じっとしていると世界がもう終わってしまったのかどうかさえわからなくなる。
 わたしはその小さな箱の中に、ただ静かに横たわっている。目をつむっているのか、開けているのか、自分でもわからない――
 そこでは、自分が自分でいられて、自分以外の何者になることもできない。

「後悔しているのかね?」
 と、その猫は言った。
 ――猫、猫のはずだ。ちょっと太めの、不機嫌そうに眉間にしわがよった感じの猫。いわゆるブサカワというタイプのやつ。それは猫という以外に、どういう言いかたもできそうにない。
 そういえば、人間の心は猫に似ている、ってお姉ちゃんは言ってたっけ――と考えたところで、はたと首をひねる。
 ここは小さな箱――クローゼットの中で、わたし以外には誰もいないはずだった。実際、あたりは真っ暗だし(そのわりに猫の姿ははっきり見えるけど)、ほかには誰の、何の気配もしない。
 そこで、わたしは気づく。つまるところ、これは夢なのだ。だったら、ここに猫がいる理由も、しゃべれることも、暗闇で姿が見えることも、全部説明がつく。たぶん、わたしはいつのまにか眠ってしまったんだろう。
 ――にしても、ここはわたししかいないはずの場所なんだけど。
「私は神様じゃからな」
 ――神様?
「そうさな、クシカタミノヒコノミコトじゃよ」
 神社に祀られている、小さな箱の神様のことだ。
 とはいえ結局のところ、ここはわたしの夢の中でしかない。つまりこの神様にしても、わたしのイメージでしかないのだ。ちょっと偉そうなしゃべりかたをするのも、わたしのイメージする神様がそうだからでしかない。まあ、神様の口調があんまりファンキーだったりフレンドリーだったりするのもどうかとは思うけど。
 もっとも、太めでくしゃくしゃに丸めたティッシュみたいな顔をしたその猫の姿は、あまり神様らしくないし、威厳にも欠けている。ありていに言ってしまうと、ありがたみというものがない。
 わたしがそんなことを思っても、猫の神様は何も言わなかった。手をなめては、猫っぽく顔を洗っている。神様はまひろほど勘が鋭くないのかもしれない。
 それで、わたしは訊いてみた。
 ――さっき、後悔してるかって?
「そのとおり、君は後悔してるんじゃないのかね」
 ――何を?
「姉が死んだことについて、じゃよ」
 ――――
「後悔しているんじゃろ?」
 それは、確かにそうだ。わたしは姉の死を、いまだにちゃんと受けいれられていない。そのことを心のどの場所に置いていいのか、まだわかっていない。
 同時にそれは、わたし自身の心の置き場所がわかっていない、ということでもあった。
「ならば、それが正しいのじゃろうな」
 ――正しい?
「問題は解決することのほうが少ない。もしも今、それでバランスがとれているのなら、それで正しいのじゃろう。人はすべての傷を癒せるわけではない。時には、傷を傷のまま抱えていく必要もある」
 ――――
「何にせよ、それは君自身の問題じゃ。あるいは、その問題が君自身だとも言える。せいぜい、悩み、苦しみ、考え続けることじゃ。それこそが、この世界の意味であり、人間らしさなんじゃからな」

 目が覚めたとき、わたしはクローゼットの中にいた。
 どこにも猫の姿なんてないし、声も聞こえない。そこにあるのはいつもと同じ、静寂と暗闇と、それから自分だけ。
 やっぱりあれは、夢だったみたいだ。その夢の記憶もあっというまに曖昧になって、水に滲んだ文字が読めなくなってしまうみたいに、思い出せなくなる。
 わたしは少しだけ、息を整えた。
 こうやってわたしがクローゼットに閉じこもるようになったのは、姉が死んでからだった。姉の死は、わたしに深くて大きな傷を残していった。その傷はたぶん、永遠に残り続けるのだろう。
 清島さんは、自分には目に見える傷が必要なんだと言った。そうやって可視化してしまえば、対処するのがずっと楽になるから、と。
 でもたぶん、わたしに傷は必要ないだろうな、と思う。
 だってそれは、いつもそこに見えているから。そこにないことによって、いつもそこに見えているから。
 ――時々、姉と無性に話したくなることがある。
「お姉ちゃんにとって、この世界はどういう場所だった?」
「いろんな物事のバランスがとれなくなったとき、お姉ちゃんはどうしてた?」
「心の正しい置き場所を、お姉ちゃんは見つけられていた?」
 でも――
 もちろん、そんなのは無理だ。この世界のどこにも、もうお姉ちゃんはいなかったし、残っているのは何も教えてくれない、本だけでしかない。
「――あたしはね、ただ強くなりたかっただけ」
 そう言ったのは、まひろだった。中学の時、姉の死をまだ強くひきずっていたわたしは、ある日まひろにそう言われたのだ。
「あたしはね、世界をこれ以上ややこしい場所にしたくないんだよ。そうでなくても、もう十分ややこしいんだからさ。だからあたしは、ただ強くなりたいんだ。あんたたちみたいに、余計なことでごちゃごちゃ悩まずにすむように」
 うん、そうだね――
 それはいかにもまひろらしい言葉で、わたしは今でもつい笑ってしまう。確かに、世界をこれ以上ややこしくする必要なんてない。
 結局のところ、わたしたちなんて吹けば飛ぶような悩みを後生大事に抱えているだけの、そんな存在でしかないのかもしれない。世界にはそれよりもっと大事な、重要なことがいくらでもあるのだから。
 けれど――
 たぶん、姉の死はわたしの中で生き続けるのだろう。それを、捨てたり、忘れたり、なかったことになんてしてしまうのは不可能だ。
 わたしにとっては、それがバランスのとれている場所だった。それが、心の正しい置き場所だった。
 その場所で、わたしはわたしの形がよくわかっている。自分が何者で、何がしたくて、どこに行こうとしているのかが。

 ――そこは、小さな神様がいるところに似ている。

 だから、わたしは大丈夫だ。このややこしい世界を、ややこしいままで生きていくことができる。小さな箱の中で、わたしは自分自身の形がわかっているから。
 そう思いながら、わたしはクローゼットの扉を開けて外に出ていく。明るくて、騒々しくて、不確かで、どこにも境目なんてなくつながっている世界に。

――Thanks for your reading.

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