[キヨコさん家の本屋]

「暇ですね」
 と、高村康平(たかむらこうへい)はイスに座ったまま、ぽつりとつぶやいた。
 本屋の中に人影はなくて、確認するまでもなく客はいない。正確には、康平自身は客の範疇に属するが、より正確には、客とはいえない。ほかには店長が一人。それが、店内にいる人間のすべてだった。
 こういうのを俗に、「閑古鳥が鳴いている」という。
 閑古鳥とは、かっこうのことだ。
「そういえば、鳴き声が聞こえてきそうな――」
 と康平はつぶやいてみる。
「何、ぶつぶつ言ってるの?」
 店長であるキヨコさんこと、禾原熹世子(のぎはらきよこ)が怪訝そうな顔をした。
 キヨコさんはまだ若い。歳は二十四。少々野暮ったい感じの眼鏡をかけている。ふわりとした髪をボブカットにまとめ、小柄な体つきをしていた。髪はライトブラウン。そのせいか、どことなく柴犬を連想させる。人懐っこく舌を出しているような。
 ただし愛嬌に満ちたそんな連想にもかかわらず、彼女の口元は鍛えられた黒鉄のような気配を感じさせた。研磨された漆のようなその瞳は、いつも変わらずに同じものを映しているように見える。それは、自分の世界を何より優先させる人間の顔だった。
 彼女は、この月釦(げっこう)書肆の経営責任者でもある。
「……静かな湖畔の話です」
 康平は肩をすくめて、そう言ってみた。
「シュトルムの『みずうみ』なら、その棚にあるよ」
 とキヨコさんはカウンターの向こうから、書店にある棚の一つを指さした。もちろん、彼女に閑古鳥の鳴き声なんて聞こえるはずはない。
「相応に古くはあるけど、なかなかいいよね。古雅というか、まあ作者の都合を感じられないこともないけど、でもなかなかだよ」
「いや、そうじゃなくて」
 康平にはどうすることもできない。結局、キヨコさんはいつだってキヨコさんなのだ。それでも、一応は言ってみた。
「ここのところ、全然お客さんが来てないじゃないですか」
「うん、そうだね」
 こともなげな口調だった。
「いいんですか? たかが大学一年の俺が言うのもなんですけど」
 キヨコさんは柴犬的愛らしさで小首を傾げてみせる。
「いいんじゃないかな?」
 いや、まともな経営者なら頑丈なロープの購入を考えるところですよ、と思って康平はため息をついた。
 もちろん、キヨコさんがまともでないことはとっくの昔にわかっていることだった。何しろ彼女は、何の意味もなく角材に大量の釘を打ちつけたり、新聞紙をただひたすら破ってみたり、時計の針を延々と回し続けたりするような人なのだ。
 ――そもそもの話、高村康平と禾原熹世子が知りあうことになったのは、三ヶ月ほど前に時間を遡る。

 大学受験に一浪で合格した高村康平は、母親の伝手を頼って下宿することにした。
 下宿先は大学から電車で二駅ほどの、商店街の裏通り。母親が旅先で知りあったというだけのその人に会うのは、実のところ初めてだった。軽い荷物と菓子折りだけを持って、聞いたこともない駅で電車を降り、母親手描きのわかりづらい地図と住所の数字を頼りに、その人の家を探す。
 駅前にあるアーケードの商店街は、昨今の事情を忠実に反映した、うらぶれたものだった。店の多くはシャッターを閉めて、人通りは少ない。歩いていると、そんな商店の数々といっしょに影に飲み込まれてしまいそうで、かなり怖い。
 近所の魚屋で道を訊いて、それらしい場所にたどり着く。心の中でいくつかの言葉を用意してから、康平は玄関のチャイムを鳴らした。
 商店街の裏通りだけあって、路地はかなり狭く、車一台がようやく通れるくらいの道幅しかない。見上げると、空が変に窮屈だった。物音の気配に視線を巡らすと、猫が平然とした顔で道を横切って歩いている。
「…………」
 にしても、遅い――
 チャイムを鳴らしてから、すでに五分は経過しているはずだった。康平はもう一度、今度は強めにボタンを押してみる。
 途端に、がらがらと音を立てて扉が開いた。
 康平が驚くひまもなく、怒鳴り声がそれと同時に降ってきた。扉が開くのとほぼ同時か、それよりも少し早いくらいに。
「わかってるっつうの! ピンポンピンポン、何度も押さなくていいわよ。今、忙しいんだっつうの!」
 固まる康平の前で、その人は「ん?」というふうに康平の顔をのぞきこんだ。
「もしかして、君……」
 銀色、というしかない奇怪(きっかい)な色に染めあげられた髪。ホロフェルネスの首を斬るユディトのような勇ましい形相。歳は聞いていたとおり、母親と同じくらい。
「高村康平くん?」
 彼女は両手で康平の頬を挟みこんで、よく見ようというふうにじっくり観察した。そんなことをされなくとも、顔を動かす気にもなれなかっただろうけれど。
「……はひ、ふぁのたまひさんですか?」
 康平は押し潰された口で、ようやくそれだけを言った。佐野(さの)たまきというのが、その人の名前だった。
「そうそう、たまひさんだよ。たまひさん。あんたのお母さんの知りあいのね」
 にっこりしてそう言うと、彼女はようやく両手から解放してくれた。康平は歯を噛みしめて、頬をさする。入念に準備してきたはずの言葉は跡形もなく飛散し、もう何を言おうとしていたかも思い出せない。
 それから、彼女はぎょっとするほど顔を近づけると、採集した昆虫でも観察するような露骨さで康平のことを眺めまわした。
「写真で見たとおりの男前じゃない。この前髪、格好いいね。自分で切ったりしてる? あ、寝癖ついてるわよ、ここ」
「あの、えと、母から話は聞いてますよね?」
 濁流に逆らうような気持ちで、康平はようやくそれだけを口にする。
「もちろん聞いてますよ。今年からうちに、かわいい男の子が下宿するってことはね」
 あまり嬉しい形容ではなかった。
「このたびは無理を聞いてもらって本当にすいません。ご厚意に感謝して、迷惑をかけないように……」
「あら、いいわよ、そんな堅苦しくしないでも」
 ようやく思い出した言葉は、あっさりと却下された。
「それより、さっそく家の中を案内するわね。ちょっと今、立てこんでて」
「はぁ」
 家の中に案内されると、「ここがあなたの部屋」と言って、二階の一室に通された。畳を敷かれた、電球以外には何もない部屋だった。それから台所や厠、風呂場などを一通り案内される。昭和初期といった感じの建物で、所々にべっとりと時間のしみのようなものがこびりついていた。
 各部屋の検分が終わると、居間に戻ってきた。絶滅の危惧されそうな古きよき卓袱台と、使用の危ぶまれるレトロな風あいの電波受像機、それに何故か大量のスーツケースが置かれている。
「さて、これで大体のことはわかったわよね?」
「高校生がアボガドロ定数を理解する程度には」
 康平の発言は、細部ごと完全に無視されたらしい。
「実は、一つ言っておかなくちゃならないことがあるんだよね」
 と彼女は何故か、少し言いにくそうな口ぶりだった。
「何ですか?」
「私、これから一年間ほどこの家を留守にするから」
「……は?」
 何を言われたのか、一瞬わからない。
「今がちょうどいい機会なんだわ、円相場的に。十年に一度、あるかないかだよ。だから悪いけど、あとのことはよろしくね」
 手を合わせて合掌する彼女の前で、康平はきょとんとした。
 けれどそんな康平とは関わりなく、家の前には車の停まる音がしている。外に出ると、タクシーが停車していた。急かされるままにタクシーの運転手といっしょになってスーツケースを運びだすと、康平一人を置いて、彼女はあっさりと行ってしまった。後部座席から、元気よく手が振られている。
 玄関でチャイムを鳴らしてからこの間、十分にも満たない。来て早々、何かがすっかり持ち去られてしまったような気分だった。
「…………」
 居間に戻ってみると、持ってきた菓子折りがピンク色の紙に包装されたまま残っていた。その四角い箱が、事態を理解しているようには見えない。あとで自分で食べるしかないだろうな、と康平はため息をついた。
 これからの生活を世話してくれるはずの人間は、会って十分もしないうちにいなくなってしまった。誰の家だかもよくわからないこの場所で、たった一人残されたわけである。ロビンソン・クルーソーのようにとまでは言わないが、何とかやっていくしかないんだろう、と康平はやる気のない覚悟を決める。
 去り際に、空にしていいからね、と言われた冷蔵庫には、壮麗な書体で名前の書かれた純米大吟醸と、しなびた人参が一本だけ残されていた。

 よくわからないスタートを切った新生活でも、はじまったものは仕方がない。四十六億年かかろうと、一週間で済まそうと、世界は現にこうしてここにあるのだ。康平はさっさとこの一人下宿生活に慣れることにした。
 物置に自転車を見つけると、軽く修理をしてから近所を一周してみる。公園があって、小学校があって、駅前にはコンビニやパン屋があった。帰る途中でスーパーも見つける。
 商店街は相変わらず人出がなかったが、ほかの場所も似たりよったりである。幹線道路だけはひっきりなしに車が走っていたが、どれもこの街に用はないらしく、ただ素通りして別の場所に移動するだけのことだった。
 どうやらここは、埋もれた恐竜なみに静かな街らしい。そういえば、山沿いの開けた公園には、無駄に大きな恐竜の模型が置かれていた。
 そんなふうにこの街のアウトラインを決めていく一方で、近所の人間とは没交渉だった。
 どうやらこの家の主人は旅行で出ずっぱりらしく、ほとんどいないものとして認識されているらしい。康平が暮らすようになっても、にわかには存在を認知されないようだった。長年の習慣が、無意識に行動を決定してしまうみたいに。誰の目にとまることもなく、康平はまるで透明人間にでもなったかのようだった。
 そんな状況にも康平は肩をすくめるしかなく、どうすることもできはしない。康平の修得したスキルの中に、それほど立派な交渉術は存在しなかった。それに、現実的にたいして困るわけでもない。
 大学がはじまるまでの短い期間、大概は街の散策や日常生活の確立に時間を費やされた。トイレットペーパーを買い、掃除機を引っぱりだし、たまにフライパンや鍋を叩き起こしてまずい飯を作った。醤油だけで味つけされた煮魚は、どこか致死性の病に冒された人間を思わせる、ということに康平は気づく。
 入学式の前夜、まだ半分ほどしか整理されていないダンボールから、スーツその他の必要物を取りだした。ネクタイの結びかたにはまだ自信がなかったが、さっさと寝てしまうことにする。あれこれ心配しても仕方がない。脳みそのリソースは限られているのだ。
 そう思って就寝した次の日、妙な物音で目が覚めた。妙というのは何だか、板に釘でも打ちつけているような――
 すぐ近くの窓を開けると、いかにも下町的に密集した家々の屋根が見える。神様の失敗作、という取りとめのない連想が浮かんだ。音源を探るうち、それがすぐ近くの、隣の庭から聞こえてくることに気づく。
 腰の曲がった老人にはちょうどよくても、遊びざかりの子供には狭すぎるであろう、そんな庭だった。その庭で、誰かが十センチ径ほどの角材に釘を打ち込んでいた。
 もう一度、言う。
 誰かが十センチ径ほどの角材に釘を打ち込んでいた。
 康平はとりあえず、時計を確認した。七時少し過ぎ。三十分には、目覚ましが鳴るはずだった。眠れる森の美女も覚醒するほどの強力なやつだ。スイッチを切っておく。
 あらためて隣の庭に視線を戻すと、誰かは相変わらず一心不乱に釘を打っていた。金槌を使って、最初にとんとんとん、次にがんがんがん。
 見たところ、その人物が何故釘を打ちつけているのかはわからない。康平の狭く浅い見聞によれば、釘とは木材と木材をつなぎあわせるために存在するものだった。決して、角材に意味もなくめりこませるためのものではない。
 庭の誰かは一釘打ち終わると、すぐ次の釘にとりかかった。寡聞にしてまだ見たことはないけれど、それが伝説の釘バットを作るため、というなら康平にもまだわかる。それはそれで厄介な別の問題が生じるが、とにかくその行為はどこかへは向かっていることになる。
 けれどその誰かが専心しているのは、そんなことではない。
 十センチ径ほどの角材に釘を打ち込んでいる。
 ただ、それだけだ。
 あるいはそれは、何かのアート作品なのかもしれない。角材に打ち込まれた釘のコンポジションbS=\―この作品は象徴としての角材に、仮象を意味する釘を打ち込んだ、価値転換的作品である。
「……何のこっちゃ」
 思わずつぶやいてからもしばらくのあいだ、康平はその釘打ちパフォーマンスだか、アート作品だかを眺めていた。
 少し距離があってわかりづらいが、シルエットからして女性だろう。背中しか見えないが、髪形からもそうらしいとわかる。歳は若そうだ。釘はもう、何本打ち込まれているんだかわからないくらいである。
 康平は次第に、それがひどく重要な、何らかの儀式に思えてきた。世界を支える一本の柱を補強するための、非現実的な儀式。
 そう思うと、目に見える宙空に釘がささっているような、妙な気分になった。うっかりその釘に触れてしまうと、世界がばらばらに壊れてしまいそうに思える。
 それから腹が減っていることに気づいて、康平は朝食をとるために一階に降りた。
 ぼんやりするうちに時間が過ぎて、着替えを済ませて支度をする。ネクタイは何とか形だけ整えることができた。首が絞まる。縊死するには便利そうだ。
 戸締りをして家を出ると、狭いながらも青空が見えた。四月の空気はまだ少し冷たい。軽く腕をさする。
 駅まで向かう途中、隣の庭があったとおぼしき場所を確認してみた。コンクリート塀にそって歩いていくと、アーケードに出て看板がかかっていることに気づく。
「月釦書肆」
 読みかたはわからない。
 店構えからも、何の業種なのかは見当がつかなかった。ガラス扉には「準備中」の札がかけられ、カーテンが下ろされている。康平はあとで気づくのだが、書肆というのは書店のことだった。月釦は、つまるところ店名。
 かといって、それがわかったからといって、その店の印象が変わったとは思えない。まだ営業前とはいえ、少なくともその店は本屋には見えなかった。
 じゃあ何に見えるのかと言われると、少し困ってしまう。あえて言うと、せいぜいが小さな喫茶店というところだ。喫茶店にしても少し無理はあるが、それに近い何か、だ。実際、月釦書肆は康平にとって本屋に近い喫茶店だった。
 ――が、そうなるのはずっとあとのことだ。
 この時の康平はただ、首を傾げるだけでその前を素通りした。あの庭で、まだ角材に釘が打ち込まれているかどうかはわからない。何となく、そんな気配だけは伝わってきた。
 駅に到着すると、改札で切符を買い、人の少ない電車に揺られて大学に向かう。慣れないスーツ姿のせいで、ひどく落ち着かなかった。自分のことが自分らしく感じられない。
 入学式とそれが終わってからの時間、康平は何だかぼんやりしていた。例の角材と釘のことが、何故か頭から離れなかった。あの光景が、思考回路の一つか二つを取りはずしてしまったのかもしれない。
 構内をぶらぶらしていると、いつのまにか映画研究会のボックスにいて、昼飯を食いにいくことになっていた。おなじようなスーツ姿の学生が、ほかに二人ほど。勧誘の雨あられを避けるために、一番無難そうなところについていったのかもしれない。
 映画に興味があるわけではなかったが、先輩は誰もそんなことは気にせず、気前よく昼飯をおごってくれた。
「好きな映画は?」
 と訊かれ、「プレイス・イン・ザ・ハート」と答えると、煙草をすいながら先輩に、何だそりゃ、という顔をされる。マトリックス≠ニか羊たちの沈黙≠ニか、そいういう答えを期待されていたらしい。
 ただ、クラブの雰囲気はよさそうだし、映画を見て遊んでいるだけみたいだったので、そこに入ることにした。あるいはそれも、脳みその配線がおかしくなっていたせいかもしれない。
 ――そういえば、どこかで空中の釘に触れたような気が、康平はした。
 大学の初日が終わって家に戻ると、何もしていないのにぐったり疲れて横になった。
 念のために窓の外を見ると、隣の庭には誰の姿もなく、もちろん釘のささった角材が転がっていることもない。
 口笛でうろおぼえの曲を吹いてから、康平は少しだけ眠った。

 大学生活がはじまって、康平が単位計算やら受講届けやらを、びっこを引いた犬のような不器用さで何とかこなしていくと、いつのまにか講義がはじまっていた。
 板書をただ書き写すだけだった高校の授業と違って最初は戸惑ったが、じきに慣れてくる。掲示板の見方や、休講届けの確認も、すぐに要領を飲み込んだ。百人とは言わないが、友達も何人かできた。
 構内をふらふらしていると、ここでは時間の流れが少し違うことに気づく。スケジュールの違う人間が集まって、それが全体の流れを決定している。時間はあっちこっちに引っぱりまわされ、てんでばらばらな使われかたをする。
 休憩時間に中庭でぼんやりしていると、きれぎれになった時間の切れはしがそこここに浮かんでいるような気がした。それは小さくなった分、軽くなって、消えやすくなっている。
 なし崩し的に入った映画研究会の活動にも、わりと簡単に馴じんだ。
 入会の時に説明されたとおり、それはただ映画を見るだけの集まりだった。たまに、放射性元素の半減期なみの気まぐれさで映画撮影を計画することがあって、そんな時には康平も機材運びやらエキストラとして参加することがある。
 とはいえ実質は、部室であるボックスでのんべんだらりんとしているのが常だった。たまに飲み会を開くこともあって、康平は何度か酒を飲んだこともあった(まだ二十歳前だったが)。冷蔵庫の大吟醸のおかげか、今のところ飲みすぎで吐くようなことはない。べろべろに酔った友人の世話をしたことならある。
 そんなふうに、毎日ぼんやりと電車に乗って通う大学生活は、どうにか軌道に乗りはじめていた。いろいろ問題はあったが、何とか地球まで戻ってきたアポロ13号みたいに。
 ――ところが、それは幻想だったらしい。
 ある日、康平がいつも通りに電車に揺られているときのことだった。
 吊り革につかまって、半分眠るように窓の外を眺めていると、河川敷のあたりで見覚えのある人影に気づいた。
 その人影は一人で、どういうわけか河原のごみを拾い集めているらしい。ビニール袋を片手に持って、空き缶や汚れた菓子袋をひょいひょいとその中に放りこんでいる。
 ボランティア活動だろうか?
 平日の昼間に、たった一人で……?
 ピクニックにでも出かけるような気軽さで、その人影はごみ拾いをしているように見えた。今日は天気がいいから、ごみ拾いをしよう、と。
 しかしそんな理由で、人はごみ拾いをするだろうか?
 その人影は相変わらず康平からは背中しか見えなくて、どんな人物なのかはさっぱりわからなかった。顔があるのかどうかさえ、はっきりしない。
 電車が川の上を通りすぎてからも、康平は惰性的に窓の外を眺めていた。
 宙空のどこかに、釘がささっているような気がした。

 それからまたしばらくのあいだは、釘のない日々が続いた。
 いろいろなことを習慣的に、自動的に行えるようになってきたある日、康平が一般教養でとっていた文学でレポート課題が出された。指定された本を読んで、感想文を書いてこいというもの。
 読書感想文なんていつ以来だろう、と康平は思ったが、ともかくは指定図書を読まなくてはならない。
 さっそく、大学の図書館に行ってみると、その本はすでに借りられていた。
 仕方ないので購入しようかと思ったとき、ふと例の本屋のことが頭に浮かんだ。書肆というからには、本が置いてあるのだろう。本が置いてあるなら、そこで買えばいい。
 講義が終わって電車に乗ると、家のすぐ隣にあるその本屋に立ちよった。
 大きな木の看板に、古風な書体で「月釦書肆」と書かれている。ただ、康平はいまだにこの店に人が出入しているところを見たことがなかった。本当に本屋なのかどうかさえ、怪しいところである。
 それに、例の釘の女性がここで働いているのかどうかも。
 店の正面に窓はなく、中の様子をうかがうことはできなかった。康平は「営業中」のプレートがひどくおざなりに感じられるガラス扉を押すと、思いきって店内に足を入れる。
 まず目に入ったのは、当然とはいえ本棚だった。地獄でも異世界でもなく、とりあえずは本屋らしいことにほっとする。それに、内装は意外にきれいだった。古めかしい木の床に、真ん中に二列と、両方の壁に一つずつ本棚が設置されている。照明は明るく、床には塵一つなく、本棚の間隔は狭すぎない。
「――いらっしゃい」
 と、不意に声をかけられた。
 見ると、右手のほうにカウンターがあって、そこに店主らしい人物が立っている。ぐるっと見渡してみても、ほかに人影らしいものは見えない。康平はもう一度店内を確認してから、その店主らしい人物のところへ向かった。
 たぶん、彼女で間違いないだろう。一応、後ろ姿からの印象とは一致する。エプロンをつけて、それまではイスに座って本を読んでいたらしい。もちろん、そばには角材も釘も金槌もない。
 その時の康平の印象では、彼女は自分とそう歳が違わないように見えた。けれどあとで知ったところによると、実際には五つほど年上であるらしい。ある種の金属や宝石のように、彼女には時の流れが手を出しかねているようなところがあった。
 カウンターの彼女は、どうがんばっても人なつっこいとは言えないながら、失礼にならない程度の自然な笑顔で康平の言葉を待っている。その笑顔は、どこかの小さな箱の中にそっとしまっておきたくなるような種類のものだった。
「えっと、本を探してるんですけど」
 康平はできるだけ丁寧に、壊れやすい何かを大切に扱うみたいに訊ねた。どうしてそんな態度になったのかは、自分でもよくわからない。
「どんな本かな?」
 訊かれて、康平が本の題名を告げると、「それなら、そこの棚にあるよ」と指さしてくれた。案内するつもりはないらしい。彼女にはサービス業における基本的精神が欠けているようだった。
 指定された棚から、少し手間どって目的の本を見つける。ぱらぱらとめくってみた。たいしてページ数のあるものではない。ちなみに、ちゃんと新品だった。
 康平はその本を手に持って、カウンターに向かう。
 店主(のはず)である彼女に本を手渡すと、空から落ちてきた雨の一雫をそっと手のひらで受けとめるみたいに、彼女はそれを受けとった。
「これ、いい本だよ」
 彼女は何か、愛しいものでも眺めるような顔でそうつぶやく。
「新訳のほうだけど、すごくいい本だった」
 それから彼女は、その本がいかによい本であるかを滔々と語りだした。語り部である主人公が、いかにして少年と出会い、そして別れていったかを。そこにある悲しみや愛しさを、順序よく教えてくれる。懐中時計を分解して、その一つ一つの部品を説明するような具合に。
 彼女はそれだけのことを滞りなくしゃべってしまうと、何事もなかったかのようにレジを動かして言った。博物館にでも収めるか、粗大ごみとして回収してもらったほうがよさそうな、年代物のレジスターだった。
「ちょうど四百円だね」
 ちなみに、その本はサン=テグジュペリの『星の王子さま』である。
 康平はうなずくと、その本を買って帰った。カバーは断わって。
 課題のレポートは、彼女から言われたことを思い出しながら、それをベースにして書きすすめていった。いくつかのことを調べ、本を何度も読み返す。世界で一番、美しくて悲しい風景を眺めながら。
 しばらくして戻ってきたレポートには、「A」の評価がつけられていた。

 翌日、そのことを告げるために月釦書肆に足を運ぶと、相変わらず客の姿はなく、気配もなく、彼女一人がカウンターの向こうに座っていた。
 彼女は康平のことを覚えていた。客が少ないせいだろう。
 康平がことの経緯を説明すると、彼女は別に怒りもせず、「それはよかったね」というふうな笑顔を浮かべた。お役に立ててよかった、という程度の。
「実は俺、隣に住んでるんです」
 と、康平は言ってみた。
「隣?」
 怪訝そうな顔の彼女に、康平は大体の事情をかいつまんで説明する。それは部分的には、少々厄介ではあったが。
「ふうん、お隣さんだったんだ。ごめんね、知らなくて」
「俺、高村と言います」
「光太郎?」
「……いえ、康平ですけど」
「こう≠ワではあってたね。あ、『智恵子抄』なら、そこにあるよ。佐藤春夫とセットでどう?」
「いや、遠慮しときます……」
「死んだときは、やっぱりレモンを供えて欲しいよね」
「?」
 彼女はにっこり笑って言った。大体において、あまり人の話を聞くタイプではないらしい。
「わたしは禾原、禾原熹世子です。この月釦書肆の経営者。よろしくね、康平くん」
「よろしくです、キヨコさん」
 概ねそのようにして、康平とキヨコさんのつきあいは始まった。

 ――最後のついでに康平が、
「そういえば、いつか角材に釘を打ちつけてましたよね。あれって、何なんですか?」
 と訊くと、
「ストレス解消」
 というのがキヨコさんの答えだった。いつか河原でごみ拾いをしていたのも、同じ理由だという。
 どこかの王子さまなら、大人は確かに変わっていると言うんだろうかと、康平はふとそんなことを思ったりしてみた。

 月釦書肆は変わった本屋だ。
 まず、客が来ない。
 正確に言うと、ほとんど客は来ない。とはいえその差は、太陽と比較したときの地球と火星の大きさくらいの、ごく微量なものでしかない。
 店内にはカウンターの近くに、読書スペースとしてテーブルとイスが置いてあって、康平はよくそこに座っていたが、ごくたまに近所の人が来るほかは、客の姿を見たことがなかった。近所の人が来るのは、大抵は本とは関係のない別の用事である。そんなのは、客とは呼べない。
 要するに、ここには本を買う人間は来ないのだ。本屋であるにもかかわらず。
 それにもう一つ、ここが変わっているのは雑誌の類が置かれていないことだった。
 より正確には、雑誌だけでなく、キヨコさんの選んだ本以外は置かれていない。普通、書店というのは取次からパッケージングして配送されてきた書籍を並べるのだが、ここではそれをしていない。本の入荷は、キヨコさん個人が直接行っている。
 おかげで、この本屋には新刊書が並ぶことはなく、普通の書店で見かけるように人気の本が平積みにされることもなく、出版元から提供された宣伝用のポップが飾られることもない。
 あるのはただ、キヨコさんが実際に読んで、本棚に並べたいと思ったものだけだった。
 極端なことを言うと、ここではキヨコさんの書棚そのものが売られているのである。とはいえ、
「ここ、趣味が偏ってますよね……」
 と康平は言わざるをえない。本棚を眺めていると、見たことのない本から、見たことしかない本まで、どれもひどく無秩序に並んでいた。普通の本屋で見かける棚とは、だいぶ印象が違う。
「え、そう?」
 キヨコさんはカウンターで読んでいた本から顔を上げ、訊き返した。より正確には、入荷すべき本の選定作業から、というべきなのかもしれない。
「そりゃそうですよ」
 書棚の前に立って、背表紙を目で追いながら康平は答える。
「だって、マンガがないじゃないですか」
「ライトノベルならあるよ」
「書店で一番利益があがるのって、やっぱりマンガじゃないんですか?」
「うちは本屋だから」
 それで説明は十分だというような、キヨコさんの口調だった。
「けど、それじゃ経営が……」
 反論しようとすると、
「わたしはわたしの置きたいものを、ここに並べてる」
 異論を挟(さしはさ)ませないような、そんな口調だった。
「それ以外のものは、ここには必要ない」
 ……これで、客の来るはずがない。
 康平は何か言おうとしたが、結局やめておいた。この店は、彼女のものだ。そこで何をどうしようと、それは彼女の勝手だった。部外者が口出しすべきことじゃない。
 それに何を言ったところで、キヨコさんがそれを聞くとは思えなかった。流れ星の軌道を変えようとするくらい、それは無益な行為でしかない。

 ある日、康平が大学帰りによってみると、店内には珍しく人の姿があった。
 その誰かは壁際の読書スペースに座って、テーブルに置かれたコーヒーを飲んでいる。かなりの年配で、初老、というところだろう。テーブルの向かい側にはキヨコさんが座って、二人で何か話でもしているようだった。
 康平が入ってくると、初老の男はキヨコさんに軽く頭を下げて立ちあがる。すれ違うとき、康平にも軽く会釈をしていった。
 客かと思ったが、どうも違うらしい。取引先の相手か何かだろうか、と康平は思う。
「今の人、誰ですか?」
 テーブルのコーヒーを片づけるキヨコさんに向かって、康平は訊いてみた。
「わたしの叔父さん」
 と、彼女は短く答える。やはり、この店に普通の客が来ることはないらしい。
「何か用事だったんですか?」
「まあ、そんなとこ」
 キヨコさんは曖昧だった。
 コーヒーカップを運んでいく途中で、彼女は不意に言った。
「昔ね、地球の重さを量ろうとした人がいたんだって。正確には、その比重を」
「地球の、ですか?」
 康平は訊き返す。急に規模の大きな話になった。
「そう――」
 地球の大きさを推定した人間が古代ギリシャにいたことなら知っているが、地球の重さ? 第一、そんなものどうやって量るんだろう。
「十八世紀かな、キャヴェンディッシュって人がいてね。この人のことは、『銀の匙』の中勘助が詩に書いたりもしてるんだよ」
 彼女はいったんカウンターにコーヒーカップを置いた。カップの中身はほぼ空になっている。
「その人は何でもかんでも正確じゃないと気のすまない人だったの。そういうことに関しては妥協しない人だった。いろんな物理定数を正しい実験で求めたりしてね」
「へえ」
 康平としては、そんなものは覚えるだけで手一杯ではある。
「そんな人だけに、まわりの人とはあんまりうまくいかなかったみたい。決まった時間に散歩したり食事したりしないと、落ち着かない人だったらしくて。近所の村人は、それを時計代わりにしてたんだってさ」
「難儀な性格ですね」
 何となく、状況が想像できた。
「で、彼がどうやって地球の重さを量ったかというと、引力の強さを測定したの」
「引力っていうと、あれですか例のリンゴの」
「まあ、あれは妹の作り話らしいけど」
「そうなんですか?」
「引力の正しい数値がわかると、ニュートンの方程式から地球の重さを割りだせるらしいんだな。まあその辺はわたしもよくわかんないんだけど。要するに、重さのわかってるものの引力がわかれば、そこから地球の重さを逆算できる、ということかな」
 地球がリンゴを引っぱるように、リンゴも地球を引っぱっている。そしてニュートンに齧られるリンゴどうしも、やはり引っぱりあっている。
 ごくごく、弱い力ながら。
「そんなの、測れるんですか?」
「測れるらしいんだな、これが」
 何故か、してやったりというふうな笑顔を浮かべるキヨコさん。
「できるだけ外部の影響を減らして、正しく動く装置を作るの。それこそ気の遠くなるくらいうんざりする要因の一つ一つを考慮してね。風や熱は言うにおよばず、自分の引力の影響があるかもしれないって、遠くから実験装置を観察できるようにしたりして」
「几帳面にもほどがありますね……」
「でもそうやって、彼は結局地球の重さを量った。それも、ほぼ正しい数値でね」
 キヨコさんはあまり一般的とは言えないその科学者よりも、よほど得意そうな顔で嬉しそうに言った。
「ちょっとすごいと思わないかな、これ?」
「思いますね、かなり」
「ちなみに、その本はそこの棚にあるから」
 キヨコさんはそう言って、本棚の一つを指さす。
 ――どうやら今のは、長い宣伝文句だったらしい。
「買ったら、そこで読んでもいいからね」
 キヨコさんは澄ました笑顔でにこりとしてから、カップを片づけに店の奥へと消えていった。

 キヨコさんは時々、突拍子もないことをする。
 釘打ちやらごみ拾いもそうだが、ある時は庭で本を燃やしていたことがある。午前中に講義のない日、康平が部屋でのんびりしていると、庭で本を燃やす彼女の姿が見えた。
 一体、何をしていたんだろうと思って帰りに訊いてみると、
「読んでてあんまりむかむかした本だったから、燃やしてやった」
 ということだった。一種の焚書行為らしい。彼女に燃やされるとなると、相当ひどい本だったと思われる。ちなみに、最後のページまできちんと読んだとのことだった。
 そんなふうにストレス解消法にはバラエティに富んだ彼女だったが、ある日康平はその方法をいっしょに試す機会に恵まれた。
 大学であんまり頭にくることがあって、すっきりしない気分のときのことだ。あんまり頭にきたので、講義はあったがそのまま家に帰り、月釦書肆で本を読むことにした。
 店の少し前で偶然、前に見たキヨコさんの叔父だという人とすれ違う。向こうも気づいたらしく、軽く会釈をして行き違った。何か用事でもあったのだろう。
 康平は店に入ると、読書スペースに座ってキープしておいてもらった本を読みはじめた。が、それでも何だか気分が晴れない。あんまりくさくさしているので、このまま虎にでもなってしまわないか心配なくらいだった。
「……もしかして、何か嫌なことでもあった?」
 と、カウンターに座っていたキヨコさんが訊ねる。
「わかりますか?」
「そりゃあね。だって、入口のところで頭がコップの栓みたいに引っかかった山椒魚そっくりの顔してるよ」
 釣り好きの小説家が気に入りそうな、気の利いた例えではある。それで康平が大体の事情を打ちあけると、彼女もそれは康平の言うとおりだと同情してくれた。
「親譲りの無鉄砲じゃなくても、それはそうなるよね」
「やっぱり、そうですよね」
「寿司を腹一杯食べさせてやった小僧に、でたらめの番地を教えるくらいひどいことだよ」
「そうですか?」
「――うん、決めた」
 と言って、彼女は立ちあがった。
「何をです?」
 康平が訊くと、彼女は威勢よく肩をそびやかして言った。
「邪知暴虐の王は除かなければならぬ」

 近所の魚屋でバケツいっぱいに氷をもらうと、キヨコさんはどこかに向かって歩きだした。季節はそろそろ夏になりかけで、暑いといえば暑い。が、そんなに大量の氷をどうしようというのか。
「一体、何をする気なんですか?」
 道々、康平は訊ねてみた。が、
「ついてくればわかるよ」
 と、キヨコさんは取りあおうとしない。
「…………」
 平日の昼間で、あたりには当然のように人影はなかった。大きな道からも外れているので、車もほとんど通っていない。陽射しに関してはもう夏のそれで、ナイフみたいに鋭かった。じっとしていると、じりじり焦がされてしまいそうである。
 通いなれた道なのか、キヨコさんの足どりに迷いは見られない。まったく、近所の散歩にでも行くような風情だった。
「どこに行くんです?」
 康平は再び、訊いてみた。
「――公園」
 キヨコさんの答えは短い。
「何しにですか?」
 この質問には、やはり答えはなかった。その代わりに、
「ワニってさ、一年に二、三回の食事で生きていけるんだって」
 と、やや途方もない話をはじめる。
「ずいぶん燃費がいいんですね」
 康平は文句も言わずに先をうながした。
「うん、そう。さすが恐竜の時代から生きてるだけはあるよね。ワニって、完成された生き物なんだよ。きっと神様に愛されてるんだろうね」
 因幡の白兎の皮を剥いだのは――いや、あれはサメのほうか。
「変温動物っていうのは、基本的に燃費がいいんだって。というより、人間みたいな恒温動物のほうが特別に燃費が悪い、のかな。エネルギーのほとんどを体温維持に使うから、しょっちゅう物を食べてなくちゃならないんだな。だからせっせと生きる努力をしなくちゃならない」
「因果なものですね」
「そう、因果なものだよね。おかげで生きることは難しくなっちゃうんだから」
 そうこうするうちに、彼女の言う公園に着いたみたいだった。陸橋の下に作られたこぢんまりしたもので、公園と言うのがはばかられるほどの大きさである。おざなりに置かれた遊具も含めて、ごみ捨て場と言ったほうが表現としては適切そうだった。
「こっち」
 と、キヨコさんはその公園の奥へと歩いていく。公園内に人影はない。わざわざこんなところに来る人間がいるとも思えないし、公園のほうでもそれを期待しているようには見えなかった。
 やがて、彼女は足をとめる。
 そこはボールで壁当てをするのに都合のよさそうな、コンクリート製のごつい橋脚部分を前にした空間だった。剥きだしの土と、わずかな雑草のほかには何もない。彼女は、「よいしょ」とバケツを置いて、息をついた。
「あの、キヨコさん、何をするんですか?」
「投げるの」
 実に簡明に、彼女は言った。
「投げるって……何をです?」
「氷」
 聞くまでもなく、それ以外にない。
「こう、思いのたけを込めてね、あの壁に氷をぶつけちゃうわけ。勢いよく、力の限りを尽くして、ね」
 彼女はそう言って、バケツの日よけを除くと、氷片を一個手に取った。それから白い打ちっぱなしのコンクリート壁に狙いを定めると、
「うりゃあぁぁ!」
 と叫び声をあげて投球モーションに入る。腰を回し、肩を回し、振り切った指先から放たれた氷の塊は、大質量の前に無残にも美しく散華した。なかなか堂に入った投球フォームである。
「投げるときは、何か叫ぶのがコツかな」
「……なるほど」
 康平はよくわからないままうなずいて、とりあえず氷を手に取った。冷気というよりは、何か物理的な反応のようなものが指先に伝わる。暑さで溶けて、氷からは水滴がしたたり落ちていた。その表面は、薄暗がりの中でもきらきらした光を含んでいる。
 この行為に一体どんな意味があるのか、康平にはさっぱりだった。空気を手で摑まえようとするのと同じくらい、無意味なことにも思える。
 それでも、気づいたときには氷をつかんだ手を振りかぶっていた。
「……ふざんけんじゃねえぇ!」
 叫んで、左足の踏み込みからきれいに右肩を回し、氷塊を投擲する。氷は見事に一直線を描いて、粉々に砕け散った。
 ――何故だか、意外とすっきりした。
「じゃあ、どんどん行こうか」
 と言って、キヨコさんは次の氷を手に取る。
 それからは二人とも、思いつくかぎりの罵詈雑言を並べて礫を投げまくった。「こんちくしょう!」「バカにすんな!」「うつけもの!」「この、ろくでなしが!」「守銭奴め!」「お前のせいだろうが!」「アッチョンブリケ!」「アッチョンブリケ?」
 ほとんどの氷を投げ終わると、バケツの中は水だけになった。あたりには光の塊のような砕氷と、それが溶けた水の跡が広がっている。血なまぐさい戦闘と悲劇的な破壊の結末を連想させる、痛ましい痕跡だった。
 それらはすぐに土に染みこむか蒸発するかして、長くは残らないだろうけれど。
「何か、すっきりしたみたいです」
 と康平は不思議と満足して言った。
「それはよかった」
 キヨコさんはゆっくり減圧するみたいに息を吐いてから、額の汗をぬぐった。それから不意に、
「……新美南吉の童話にね、『おじいさんのランプ』っていうのがあるんだよね」
 と、言う。
「何ですか、急に?」
 首を傾げる康平を半分無視して、キヨコさんは続けた。
「おじいさんは貧しかったんだけど、若い時にランプを売る商売をはじめるの。新しい文明の利器は、こんなにも明るいって。それでなかなかうまくやってたんだけど、そのうち電気が通るようになって、ランプの商売はもうだめだって思っちゃうわけ。それで、おじいさんは自分の商売をだめにする電気を恨んじゃうんだな」
「まあ、わかります」
「恨むんだけど、ある時ぱっと思うわけ。新しいもっと良いものができれば、古いものはなくなってしまう。それが当然なんだって。で、ランプの在庫を夜中に持ちだして、全部に火を点けて池のそばの木に吊るすわけ。それから、わしの商売のやめかたはこれだ、って石を投げてランプを割っちゃうの」
「…………」
「で、その話を孫にして言うわけ、自分で言うのもなんだけど、わしはなかなか立派だった、って」
「確かに、そうですね」
「うん、わたしもそう思う――でもこの話、わたしが好きなところがもう一つあるんだ」
「何ですか?」
 康平が訊いてみると、キヨコさんは言った。
「ランプ売りをやめたおじいさんが、本屋になるところ」
「そりゃ、気に入るでしょうね」
 と、康平は笑った。

 テレビの中では今日も某公共放送による料理番組が流れていた。
 司会進行役のアナウンサーが、白い割烹着の男性といっしょになって、今日の料理の紹介をはじめる。
「それでは今夜もはりきってお料理していきましょう。今日のメニューは情念たっぷりのこってり系セオリーのオーブン焼き≠ナす」
「この料理は人によって非常に好き嫌いが別れますが、覚えておくといざというときに役立つ心強い一品になるでしょう」
 二人は調理台の向こうで、料理の前口上をはじめる。
「セオリーのオーブン焼きというと、ちょっと素人には難しい気もするんですが」
「いえいえ、決してそんなことはありません。コツさえ押さえておけば、こんなに簡単においしくなる料理もないんですよ」
「それでは、テレビの前のみなさんと御一緒に、料理のほうを進めていきたいと思います」
 にこやかな笑顔を浮かべる男性アナウンサー。
「まずは、材料ですね」
「ええ、情念たっぷりということで、ここでは裏切られた伯爵夫人≠使います」
「分量は以下の通りです。その辺の古城に住んでいて、暖炉で昔の恋人の手紙を火にくべている、一般的なものでかまいません」
「それから、恋人を寝とった娼婦の女≠ナすね。この二つが主な材料となります」
「こちらも分量は以下の通り。できれば新鮮な、水気のしたたるようなものが望ましいですが、入手が難しいようなら、乾燥された、市販のものでも大丈夫とのことです」
「さて、まずはこの二つをよく捏ねあわせます」
「捏ねるときの、コツか何かは?」
「非常に混ざりにくいものですから、根気が必要です。混ざり具合の見極めも重要で、あまり混ぜすぎると味が濁ってしまいますし、かといって少なすぎると深みが減ります。自分の好みで加減するといいでしょう」
「では、これに詰めこむソースにかかります」
 鍋を火にかける料理人。
「材料の捏ねあわせに比べれば、ソースはごく簡単なものです。火加減にさえ気をつけていれば、自然とよい味に仕上がっていくでしょう」
「ソースの材料は以下の通り。噂好きの召使≠小さじ一、優柔不断な男爵≠小さじ一つ半、濃厚なベッドシーン≠一カップ、悲劇的結末≠好みの分量で」
「特に最後の悲劇的結末≠ヘ、分量次第でまったく違った味になりますから注意が必要です」
「そうですね。私も一度やってみたことがあるんですが、どうもこれがうまくいかないみたいで。食べてみると何ともあと味の悪い思いになるんですよね」
「そういう場合は、精神的救済≠あとづけで加えるといいでしょう。これで何となくすっきりした気分にごまかすことができます」
「なるほど、一手間加えるだけで味がぐっとよくなるわけですね。と、話しているあいだに時間のようです。ソースの出来はどうでしょう」
「――いいですね。これを詰め物にして生地で包みます」
「さすがプロの手並みです。継ぎ目が見えませんね」
「ここをしっかりしておかないと、焼いたときに中身が飛びだすことがありますから慎重にいきましょう。ではこれを、オーブンで二〇〇℃、三十分ほど焼きます」
「できあがったものが、こちらです。いや、実にこってりしておいしそうですね」
「二、三日寝かしておくと、いっそう味がなじんで口あたりがよくなりますよ」
「では、おさらいです。今日の料理は情念たっぷりのこってり系セオリーのオーブン焼き≠ナした。ではまた、次回に」
「さようなら」

「……何、これ?」
 キヨコさんは至極当然な質問をした。
「例の文学の講義で出された課題です」
 康平は返されたレポート用紙を受けとって、とんとんと端のほうをそろえる。
 いつもの月釦書肆で、二人はカウンターを挟んで向かいあっていた。今ちょうど、キヨコさんが康平の言う課題を読み終わったところである。
「――斬新な料理番組を考える課題?」
「いや、何でもいいから小説を書いてきてください、って言われたんです」
 彼女は実に複雑な顔をした。例えるなら、しゃべるカエルを壁に叩きつけたら、王子さまにならずにそのままぺしゃんこに潰れてしまった、というような。
「もしもわたしの知らないうちに世界が壊れてしまったんじゃなかったら、これを小説とは言わないよ」
「どうせ下手なのを書くより、コントみたいなのにしたほうが面白いだろうとおもったんです」
 彼女は十字架上のキリストのごとく、力なく首を振った。
「まあ、そうかもしれないね」

 それから一週間ほどして、康平は久しぶりで月釦書肆によってみた。
 扉を開けると、キヨコさんは読書スペースに置かれたコーヒーを片づけているところだった。いつぞやの叔父さんが来ていたのかもしれない。コーヒーは半分ほど残っていた。
 康平はさっそく、彼女に向かって例の課題のことを報告した。
「再提出だそうです」
「……でしょうね」
 さもありなん、というキヨコさんの口調だった。いつも以上にクールではある。
「仲間内では評判よかったんですけどね」
「それもどうかとは思うけど。杜子春じゃあるまいし」
「仕方ないんで、今度はきちんとした小説を書くことにします」
「それがいいよ、うん」
「書きあがったら、また読んでもらっていいですか?」
「うん、いいよ」
「もし出来がよかったら、ここに置いてもらったりできますか?」
「うちに?」
 彼女はきょとんとした。
「そうです」
「いいよ、もし出来がよかったら、だけど」
「約束ですよ」
 康平の書いた小説は、教授には受領してもらえたが、キヨコさんにはもちろん却下された。
「オリジナリティが欠片もない」
 とのことだった。

 ある日のことだった。
 康平は飲み会の帰りで、少し時間が遅かった。映画研究会の撮影終了打ち上げで、十分ほどの自作ショートフィルムを見ながらボックスで酒を飲んでいた。
 作品はたいして面白くないはずなのだが、アルコールには批判能力を低下させる効能がある。「ひでーな」と言いながら、みんなでげらげら笑っていた。康平もつられるように笑っていた。ただ、そこまで酔ってはいない。冷蔵庫の二代目大吟醸のおかげかもしれない。
 適当に片づけが終わったあと、酔いつぶれた数人を残して電車に乗った。もう夜中でもずいぶん気温が上がって、放置されて風邪をひくほどではない。
 街を歩いていると、遠くでパトカーのサイレンが聞こえた。どこかで事件でもあったのかもしれない。商店街のアーケードは暗く、砂漠の夜を思わせるくらいにひっそりとしていた。
 ――家の前まで帰ってきて、康平はふと足をとめる。
 珍しく、月釦書肆に電気が灯っていた。
 実質的にはあってないような営業時間だが、こんな時間まで明かりがついているのは珍しい。キヨコさんは早寝早起きが信条の人である。
 ガラス扉の向こうから、照明の明かりが漏れていた。
 いつものように本棚があって、その明かりは人間のためというより、眠ったままの本たちのためにあるようにも思える。
 康平はそっと、ガラス扉を開けた。
 カウンターのところでは、キヨコさんが眠っていた。組んだ腕に頭を乗せて、積もった雪のようにそっと目を閉じている。何となくそこには、一人だけ旅行に置いていかれた子供みたいな寂しさがあった。
 気配に気づいたのか、キヨコさんは静かに顔をあげる。体に覆いかぶさっていた質量のない何かをそっと滑りおとすような、そんな動きだった。
「今ね、夢を見てたんだ」
 キヨコさんはつぶやくように、ぽつりと言う。今にも切れそうな糸を、そっと手繰りよせるような声で。
「……どんな夢ですか?」
 康平が訊くと、彼女はどこか重さというもののない、不思議な声で言った。「――お父さんの夢」
「お父さん、ですか?」
「そう――」
 言ったきり、ぼんやりと店内を見つめている。その瞳に何が映っているのか、康平にはわからなかった。
「これ、話してないよね?」
「何の話かわからないですけど、たぶんそうですね」
 同意すると、キヨコさんは「――うむ」とうなずいた。
「うちの本屋って、わたしのお父さんがはじめたんだよね」
「はじめたって、開業したってことですか?」
「うん――」
 相変わらず、キヨコさんの視点は定まらない。
「何でも、お父さんのお父さん――つまり、わたしのお祖父さんにお金を出してもらって、店を開いたらしいんだよね。お祖父さんはけっこうなお金持ちだったみたい」
「そのお祖父さん、今はどうしてるんです?」
「だいぶ前に亡くなってる。まだわたしが生まれる前」
「店は、どうだったんですか? 儲かってたとか?」
 彼女は力なく首を振った。
「全然、だめだったみたい」
「今と同じで?」
「そう、今と同じで」
 キヨコさんは軽く笑った。聞きようによっては、かなり失礼な発言ではあったけれど。
「お父さんもわたしと同じで、好きな本しか店に置かなかったんだよね。それでも、今よりは多少、儲かってたみたいだけど。たまに本が売れると、よくお菓子とか買ってくれたな」
「生活はどうしてたんです?」
 収入がなければ、人が生活していくことなんてできはしない。とはいえ、キヨコさんを見るかぎり、食うや食わずの極貧生活を送っていたようには見えなかった。今だって、売れない本屋を続けているのだから。
「大体は、お祖父さんに頼ってたみたい。その辺はよくわからないけど、この本屋は完全な道楽だって言ってた。それをお祖父さんが許した、というところかな。お父さんはお祖父さんに可愛がられてたのかもしれない」
「道楽、ですか」
 それが今のキヨコさんにも続いている、というわけだった。
「そう……子供のわたしから見ても、変な人だったな。よくいっしょに散歩しててね、言うんだよ、『世界は一冊の本』だって」
「一冊の本?」
「この世界に本でないものはない。太陽の光も、蜂の羽音も、花の開く一瞬も、あの女の子の笑い声も、みんな一冊の本だって」
「へえ」
「まあ、これは長田弘の詩のものまねなんだけど」
 彼女はそう言って、くすくす笑う。盗用に気づいたときの、驚きとか呆れた気持ちを思い出しているのかもしれない。
「とにかく、その手の引用がやたらに好きな人だったんだな。で、子供だったわたしは、素直にそれに感心してるの。手品師のタネに気づかずに、びっくりするみたいに」
「いいお父さんだったんですね」
「たぶん、そうだと思う。わたしはどうやっても、あの人を恨むような気持ちにはなれないだろうな」
 やはり、キヨコさんはくすくす笑う。
「今、お父さんはどうしてるんですか?」
「……死んじゃった」
 康平はちょっと言葉に詰まった。
「一昨年のことなんだけどね。脳卒中。気づいたら死んでたって感じだった。体はどこも悪くなかったんだけど。人間て、本当にわからないよね」
「…………」
「お母さんのほうは、もうずっと前に死んでる。わたしが五歳くらいの時、だったかな? 黒い服を着た人がいっぱい集まって、正座してたことしか覚えてないな。今は、お父さんが同じ墓に入ってるけど」
「そう、ですか」
 康平が言葉に困っていると、キヨコさんは言った。
「モーツァルトの悲しさは疾走するんだよ」
「……は?」
 いきなり、意味がわからない。
「涙は追いつけないの。小林秀雄が言ってた」
 康平はため息をついた。
「キヨコさんは、確かにお父さんの子供みたいですね」
「わたしもそう思うよ」
 彼女は満足げににっこりした。
「ところで、月釦書肆って名前をつけたのも、実はお父さんなんだよね」
「月の、ボタン、ですよね?」
「そう――」
 うなずいて、キヨコさんは言う。
「中原中也の詩に、こんなのがあるんだ。月夜の晩、波打ち際にボタンが一つ落ちていた。それを拾って、それをどうにかしようと思ったわけじゃないけど、でも捨てられない。月夜の晩に拾ったボタンは、どうして捨てられようか、ってそんな詩」
「だから、月釦書肆ですか」
「うん」
 そう言って、彼女は少し疲れたようにうつむく。康平は訊いてみた。
「……お父さんがいなくなって、やっぱり寂しいですか?」
「まあね」
 逆らうこともなく、キヨコさんはうなずいた。そして誰にとでもいうふうではなく、そっとつぶやく。
「でもね、わたしは大丈夫。この場所があるから、わたしは大丈夫なんだ――」
 明るい光に包まれた店の外には、宇宙にぽっかり空いた大きな穴みたいな、底のない暗闇がはりついていた。

 数日後、康平のところに珍しくキヨコさんが訪ねてきた。康平が店で本を買うか読むかするのが二人の主な接点だっただけに、康平は少し驚いている。
 部屋はどれくらい片づいていたかな、と埒もないことに思いを巡らしつつ、康平は玄関先で対応した。
「実は、ちょっとお願いがあるんだよね」
 という、キヨコさんの話だった。
 店と違って、彼女はエプロンはつけていない。プリントのついたチュニックにパンツ姿という、さっぱりした格好だった。軽く香水の匂いがする。
 お願いそのものは簡単で、車の運転を頼みたいということだった。彼女は免許を持っていない。ちなみに、車も持っていない。
「いいですよ」
 と、康平は軽くうけおった。自動車のことなら、あてがある。
 その場で電話をして、いくつかの貸し借りの確認と取り引きの末、快く自動車を借りられることになった。
「できるだけ早く」
 ということだったので、休日ながら大学まで出かけ、そこで車を借りてくることになった。できれば三日ほどのあいだ、車を使いたいという。
 康平は大学まで出かけ、そこで車だけ借りて帰ってきた。車の持ち主である友人は歯槽膿漏が痛むかのような苦々しい笑顔を浮かべ、キーを渡してくれる。
 車は持っていなくても、運転にはそれなりに慣れている。大学から無事に本屋の前まで来て車を停めると、ほどなく裏手からキヨコさんが現れて手を振った。
「ちょっと運びたいものがあるから、そこで待っててくれるかな」
 と、彼女は言った。
 言われたとおりに車の中で待機していると、彼女は大きめのバケツとスコップを重たそうに抱えて運んできた。康平が手伝おうとすると、
「大丈夫だから」
 と平気そうに言って、後部座席に積んでしまう。
「何ですか、それ?」
 康平がのぞいてみると、バケツの中には石がいっぱいに詰めこまれているようだった。河原で集めてきた石だろう。どれも角がとれて丸くなっている。これだと、けっこうな重量になるはずだった。
「ストレス解消」
 彼女は助手席に座って、シートベルトを締めながら言った。
「今度は一体、何を思いついたんです?」
「これをね、山に埋めるの」
「は?」
「例のあれね、古代ギリシャから連綿と続く、由緒正しいストレス解消法」
「……聞いたことありませんよ」
「王様の耳はロバの耳、というやつ。ミダス王の秘密は土に埋められ、床屋の精神は守られる」
「この石が、キヨコさんの秘密ですか?」
「――そういうこと。二十キロくらいはあるかな」
 康平は諦めたようにエンジンを回して、出発した。何を言ったって、どうせ無駄なのだ。キヨコさんはいつだって、キヨコさんなのだから。
 行き先は、彼女が昔行ったことのある山の中だった。康平は指示されたとおりに車を走らせて、そこへ向かう。街中を離れ、人家がまばらになり、やがて林道に入った。キヨコさんは窓の外ばかり見ている。さすがにストレス解消に行くだけあって、いつもより元気がなさそうだった。
 林道はずっと緑の影が続いて、時折谷底の渓流が見下ろせた。ほかに車は走っていない。天気も上々で、なかなかのピクニック日和ではあった。
 それでも時々、後部座席で石の転がる音が聞こえて、安穏とはいえないドライブの目的を思い出させる。
「康平くんは、『シッダールタ』って知ってるかな?」
 不意に、彼女が口を開いた。
「いや、何ですかそれ? 仏教の話ですか」
 アクセルを少しゆるめて、康平は訊き返す。
「ヘルマン・ヘッセの小説。例の、詩人になりたい、もしくは何にもなりたくない≠フ人」
「それは知りませんけど」
「『シッダールタ』はね、仏陀の悟りをテーマにした作品だけど、仏陀本人の話というわけじゃないの。というか、そんなことはどうでもよくて、わたしはこの小説でけっこう好きなところがあるんだな」
「どこですか?」
「主人公がバラモンたちから離れて、一人になるときがあるの。で、すっかり何者でもなくなった彼は、ある女性に会うわけ。彼は苦行者だったから何も持っていないんだけど、相手に向かってこう言うの。私には三つのことができる。それは考えることと、待つことと、断食することだ」
「ふむ」
「そういうのって、わりといいと思わないかな? そういうふうに言えたら、楽かもしれないなって――」
 しばらくすると、ちょっとした広場のようなところがあって、そこで車を停めた。広めの駐車場には、ほかに車はない。看板には「みんなの広場」と書かれていた。あまり個性的とはいえない、集客効果の期待できなさそうな名前だった。
「それじゃあ、伝統に則(のっと)ってわたしはこれを埋めてくるから」
「了解です」
 康平はうなずいた。つまり、見にくるな、ということだ。
 彼女を見送ると、康平は駐車場をぶらぶらと歩きだした。少し行くと、サッカーグラウンドほどの大きさで、青々とした芝生が広がっている。歩きながら、手をついて、くるりと側転してみた。ポケットから携帯が草の上に落ちる。
 芝生の真ん中で立ちどまって、太陽に手をかざしてみた。手の水かきのところに、真っ赤な血潮が流れているのが確認できる。そのままぼんやりと、キヨコさんの言うストレスについて考えてみた。
 木陰に寝転んで休んでいると、やがてキヨコさんが戻ってきた。さすがに汗をかいて、暑そうだった。バケツの中身は空になっている。
「今度はタオルも持ってこないとね」
 帰りの車でクーラーの冷気を浴びながら、彼女は言った。ぱたぱたと、胸元に空気を送っている。
 次の日と、その次の日も、彼女は同じことを繰り返した。おかげで、さすがに元気になったようである。ストレスを三日分も山に埋めれば、それは元気にもなるだろう。

 商店街を歩いていると、いきなり声をかけられた。
「――君、キヨコさんとこに出入りしてる子だね?」
 康平が振り向くと、知らないおじさんがそこに立っていた。いや、知らないわけでもない気はするが、どこで会ったかは思い出せない。
「僕、そこの店で金物屋をやってるものなんだけどね」
 その人はアーケードの入口付近にある店舗を指さした。そう言われると、何度か見かけたことがあるような気がする。月釦書肆でも一度、会わなかっただろうか。
「こんなご時世だからね、商店街ってのもなかなか難しくてね」
 金物屋のおやじさんは頭をかいて笑った。
「昔はもっと賑やかだったんだよ。人も今よりいっぱいいてね、活気があった」
 今じゃどの店も潰れちまったけどね、とおやじさんは寂しそうな顔をする。
「禾原さんとことは、うちも親しくさせてもらっててね。キヨコちゃんのことは小さい頃から知ってるんだよ。うちは子供がいなくてね、だからキヨちゃんのことは今でも家族みたいに思ってるんだ」
「はあ」
 と康平は曖昧にうなずいておく。何の話かはよくわからなかったけれど。
「最近ここいらも物騒でね、ついこのあいだも事件があったりしたんだよ。夜中にパトカーが出てさ」
「…………」
「キヨコちゃんも、あれで女の一人暮らしだから心配でね。近所のよしみもあるだろうから、君のほうでも気をつけてやってくれないかな」
「僕にできるだけのことなら……」
 まさか嫌とは言えないが、かといって腕っぷしに自信があるわけでもない。が、そんな頼りない宣言でもおやじさんには十分らしかった。
「それを聞いて安心したよ。何せキヨちゃんは、この商店街の子供みたいなもんだからね」
 心の重荷でも降りたみたいににっこり笑うと、おやじさんは店のほうへ戻っていった。「――今度うちで買い物するときは、サービスするよ」と言いながら。
 康平は遠慮がちに、手だけを小さく振っておく。
 キヨコさんはこの商店街で、ずいぶん愛されてるんだな――
 そんなことを、思いながら。

 神様の持っているダイヤルが狂ったような、涼しい日が続いていた。本格的な夏まではまだ一足ほどは早かったが、それでも世界が不治の病に冒されてしまったみたいでもある。もっとも、大抵の人はそれを歓迎してはいたが。
 その日、康平はいつものように月釦書肆の読書スペースで本を読んでいた。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』。相変わらず、客はいない。空白の質が高くて、本を読むには最適の静けさだった。テーブルにはサービスのコーヒーが乗っている。
 カウンターでは、キヨコさんが収支表に光熱費や水道代、食費、その他の雑費について書きこんでいた。ぱちぱちと電卓を叩く音が聞こえる。
 カンパネルラがいなくなって、ジョバンニが鉄砲玉のように立ちあがったところで、康平は本を閉じた。
「あの、一つ聞いてもいいですか?」
 と、康平は声だけでキヨコさんに質問した。
「いいよ」
「叔父さんを殺したのは、俺が課題の再提出を言いに来たときのことですか?」
 キヨコさんは電卓を叩く手をとめる。
「……何のこと?」
「だから、キヨコさんが叔父さんを殺したときのことです」
 キヨコさんは康平を見た。康平は軽くコーヒーに口をつけて、わざとなのかそちらを見ようとはしない。
「よくわからないけど、君、わりとめちゃくちゃなこと言ってるよ」
「俺もそう思います。でも、事実でしょ?」
 キヨコさんは首を振った。
「わからないな、何でいきなりそんな話になったのか」
「例のパトカー、ええと、キヨコさんが夢を見てて、俺にいろいろ話してくれたあの日の夜、街を走ってたパトカーのことです」
「そのパトカーが、どうかした?」
「最近、事件があったらしいですね。で、ちょっと調べてみました。この辺で、禾原信治(しんじ)さんという人が行方不明になってるそうです。警察は事件と事故の両方で捜査してるとか」
「その人がわたしの叔父さんだという根拠は?」
「残念ながら、名前しかありません。でも調べれば、それはすぐわかることですよね。ここでは、その人がキヨコさんの叔父さんという前提で話をすすめます」
 ご自由に、という顔をキヨコさんはする。ずいぶん、落ち着いていた。
「とりあえず、俺が禾原信治さんを見かけたのは二回。最初は、店内でコーヒーを飲んでたとき。二度目は、アーケードですれ違ったときのことです。どっちもコーヒーを飲んでましたね」
「そうだね。叔父さんはコーヒーが好きだから、いつも出すようにしてる」
「で、本来なら俺は、もう一度その人に会ってるはずでした。それが、課題の再提出を言いに来た日のことです。本当なら俺はもう一度、その人に会ってたはずなんです」
「…………」
「あの日、このテーブルにはやっぱりコーヒーが出てました。半分だけ残って、まだ熱いようでした。そのコーヒーを飲んでた人は、直前までここにいたんでしょうね。ところが、俺は店の中でも外でも、その人には会っていないんです」
 普通なら、それは気にしなくてもいいはずのことだった。それくらいの偶然なんて、いくらでもある。
 だがこの状況下では、それで片づけるわけにはいかないことだった。
「君の言っていることは、いくらかおかしいよ」
 キヨコさんは動揺した様子もなく、冷静に指摘した。
「まず、その時店に来ていたのがわたしの叔父さんだとはかぎらない点。それから、必ずしも君が顔をあわせるとはかぎらない点。そもそも、そのコーヒーを飲んでいたのはわたしだったかもしれない」
「この店にお客さんが来ないことは、確認するまでもないことですよね? 近所の人が時々来ますけど、コーヒーを出しているところを見たことはありません。従って、その時店にいたのはキヨコさんの叔父さんで間違いなかった、と俺は思います。少なくとも、そのほうが蓋然性は高い」
「二つめの点は?」
「コーヒーは明らかに飲みかけでした。急用ができたにしては、タイミング的に俺が見かけなかったというのはおかしい。現に、俺は一度すれ違っています。帰り道がいっしょなら、同じ状況が生まれてたはずです」
「別の道で帰ったのかも」
「可能性はありますけど、ここでは不問にしておきます。どっちにしろ、この辺のことはたいした問題じゃありません。三点目については、あえて反証するまでもないですよね?」
「まあ、そうかな」
 キヨコさん自身はコーヒーを飲まない。
「ここからの状況は、全部俺の想像になります」
 康平は手を組んで、コーヒーだけを見ながらしゃべり続けた。
「あの時、キヨコさんの叔父さんがこの店に来ていた。キヨコさんは何らかの方法でその人を気絶させるか、殺害した。現場に争ったあとがないのは、何か薬物を使ったのかも。コーヒーに入れて。だから半分しか減っていなかったのかもしれませんね」
 反論はなく、康平は話を進めた。
「キヨコさんはいったん、彼の死体を店の奥に隠した。俺が来たのは、この時点でしょうね。キヨコさんは、どうしようか考えていたときかもしれません。でも結局、俺は異変には気づかず、そのまま帰っていった。
 ――次にキヨコさんがやったのは、死体の隠蔽です。人に見つからないように、それを処理してしまうこと。まあ、当然ですよね。そしてキヨコさんが思いついたのは、ばらばらにして山に埋めてしまうことだった。そうですよね?」
「どうかな」
「俺がそう思うのは、もちろん例のストレス解消法のことです。バケツに詰めこまれた石の下に何があったのか、俺は確認してません。手伝おうとしたら、触らせてももらえなかった。それにあの時、キヨコさんは香水をつけてましたよね」
「…………」
「普段、キヨコさんは香水はしない人です。それがあの時だけは、していた。ばらばらにした死体はビニール袋か何かに入れてたんでしょうけど、臭いがするかもしれない。それをごまかすために、香水をつけた」
「ずいぶん細かいところまで覚えてるんだね」
 キヨコさんの口調に変化はない。
「……何故、殺したんですか?」
 康平はようやく、彼女のほうを向いた。
「埋めた大体の場所はわかってます。警察に言えば、調べてくれるでしょうね。それで謎なんて一つもなく、事実は明らかになります」
「…………」
「どうして、殺すなんて」
 ――まるで何かの蓋をそっと開けるみたいに、彼女は言った。
「うちの本屋って、借金があったんだ」
 淡々と、独り言でもつぶやくみたいな口調で言う。
「母親が病気をしたときに、いろいろ費用がかかったんだって。それが払えなくて、お父さんは叔父さんにお金を借りたの。そのお金の担保に当てられたのが、この本屋なんだよね」
 キヨコさんはまるで、他人事みたいに話を続ける。
「叔父さんは地元の政治家の後援会をやってて、選挙事務所か何かでこの店を使いたかったみたい。借金もなくなるうえに、十分なお金も払うからって。わたしにはお店をやめろって言うの。わたしは嫌だって断わったんだけど、権利書自体は叔父さんが持ってるから、最終的なところではどうしようもなかった」
「だから、ですか?」
 この店を守るために、殺した。
「……たぶん、そういうことになるんだと思う」
 キヨコさんは否定しなかった。康平はどんな顔をしていいいかわからないまま、それでも言う。
「でも、何も殺すだなんてしなくても、もっと別の方法があったんじゃ――」
「――違う、わたしにはそうするしかなかったの!」
 キヨコさんは激しく首を振った。子供がいなやをするみたいに。
「あの人はね、こんな店あってもなくてもいっしょだって言うの。お客さんは来ないし、本も売れないから。ただそこにあるだけで、何の意味もないって。――わからない≠チて言うんだ。この店が何のためにあるのか、わからないって。こんな店、後生大事に守っていく必要なんてないって」
「…………」
 叔父さんはおそらく、親切心から本心を口にしたのだろう。キヨコさんを、親の衣鉢を守ろうとする健気な娘か何かと想像して。
 確かに、普通に考えればこの本屋は特殊だった。特殊すぎて、そもそも本屋と呼べるかどうかすら怪しい。誰かのために存在しているとはいえないし、なくなっても誰も困らない。少なくとも、商売をしているとはいえない。
 けれど、そこには――
「わたしはだから、どうしようもないって思った。叔父さんには、本当にわからないんだって。ここがどれだけ大切で、大事な場所かわからないんだって。でもそれが、普通なんだと思う。そのほうが正しいし、まともなんだと思う。でもね――」
 キヨコさんは無理に笑おうとして、でもそれができない顔で康平のことを見た。
「ここは、わたしのすべてなんだ。わたしはここが好きで、世界でここくらいしか好きな場所がない。ここがなくなったら、わたしはどこに行けばいいの? どこにいればいいの? ――でも、それがわからないって言うんだよ。そんなの無意味だって言うんだよ。わたしは、どうしたらよかったのかな?」
 表情を歪ませて、彼女は言った。どこか知らない遠くの街で、迷子になった子供みたいに。
「ねえ、康平くん。わたし、どうしたらよかったのかな――?」

10

 それからしばらくした頃、月釦書肆のガラス扉には「準備中」の札がかかって、それが表に返されることはなかった。
 康平は大学から帰るたびに、それを確認してから家に戻った。家では最低限の用事を済ませると、あとは時計を眺め、決まった時間になると眠った。
 そのあいだに、ちょっとしたことがあって映画研究会をやめた。やめた理由は、自分でもよくわからない。何かが嫌になったのかもしれないし、最初からそのつもりだったのかもしれない。先輩は誰もとめず、惜しみもしなかった。退会届はあっさり受理された。
 しっぽのなくなった犬みたいに、何だか体が軽くなった気がする。油断すると、そのまま宇宙のはてまで飛んでいってしまいそうだった。朝、目を覚まし、電車に乗り、大学に行き、必要なことを済ませ、電車に乗り、家に戻り、夜になると決まった時間に電気を消し、眠りにつく。
 ……繰り返しだった。
 今日と、それ以外の日を区別する手段のない、完全な繰り返し。
 康平は世界の形をうまく把握できなくなっていた。それはあやふやで、曖昧で、とりとめがなかった。星のない夜の海を漂っているみたいに、自分がどこにいるのか時々、わからなくなってしまう――
 そんなある日、家のポストに手紙と、何かの鍵が入っていた。手紙の差出人は「禾原熹世子」だった。康平はその場で封を破いて中身を取りだした。
 手紙には大体、次のように書かれていた。

――叔父さんのことについては、警察に出頭するつもりです。ついては、しばらくお店のほうには戻れなくなると思うので、鍵を預けておきます。本は自由に読んでください。お代はあとでもらいます。康平くんといっしょにいると、楽しかったです。――かしこ

 三度ほど読み返してから、康平はその手紙をしまった。そして部屋に戻って、あらためて鍵のほうを眺めてみる。
 その鍵には、ボタンの形のキーホルダーがつけられていた。何の変哲もない、四つの穴がついた白いプラスチックのボタンである。

 ――月の釦、だ。

 そのことに気づいて、康平ははっとした。これは、キヨコさんが月夜の晩に拾った、たった一つのボタンだった。何にも役立てられず、どこにも捨てられない、ただ波打ち際に落ちていただけのボタン。
「…………」
 康平はそっと、ボタンといっしょにその鍵を握りしめてみる。それは指先に沁みて、心に沁みるようだった。誰かが、詩で詠っているとおりに。
 彼女はやっぱり、ああするしかなかったんだろうか、と康平は思う。大切なものを無造作に否定されて、大事なものを無理解に批判されて。世界を守るために、世界を壊すために。
 月の釦を、どこにも捨てることができなかったから――
 そう思うと、康平はたまらなく悲しい気持ちになった。何が悲しいのかは、自分でもわからなかったけれど。
 康平はもう一度、手のひらの鍵とボタンを眺めてみた。
 ――月夜の晩に、拾つたボタンは
 やっぱり、どこにも捨てられそうになかった。

――Thanks for your reading.

戻る