[機関車]

 どこか遠くのほうから、ボォーという、巨大な動物のうなり声のようなものが聞こえてきました。かすかな地響きがゆっくりと近づいてきて、暗闇と白い霧の向うから明るい光がさします。やがて闇の中から滲み出すようにして、黒々とした鉄の塊がその姿を現しはじめました。
 黒い塊は先頭に丸いライトをつけて、蛇のように長い体をしています。その後ろのほうでは内側から漏れた光が、両側に弱々しくさしていました。頭の上の煙突からは濃い、白い煙を吐き出し、レールの上で車輪を忙しげに回しています。
 古い機関車はゆっくりと減速をはじめ、小さなホームの前に止まりました。遠くから時計塔のゴーン、ゴーンという鐘の音が、いくつか聞こえてきます。その音は時間そのものが軋んでいるようで、すべての時間がゆっくりと、遅くなっているような感じでした。
 機関車はプシューという白い蒸気をため息のように吐くと、完全にその動きを停止しました。煙突の煙が少なくなり、機関車はひどく疲れた様子でじっとしています。放っておけば、そのまま固まって動かなくなってしまいそうにさえ見えました。
 機関車が停止したホームは小さく、改札口さえない無人駅でした。十メートルもあるかないかというホームには、二本の支柱で屋根がつけられ、三つだけの電灯が燈されています。白い霧が明かりを避けるように漂い、暗い闇がその向うからじっと様子をうかがっていました。
 操縦士の男はレバーにロックをかけると、ホームへと降り立ちました。この駅が使われることは滅多にありませんでしたし、降りる人がいるはずもありませんでしたが、それでも機関車を止めることになっています。時間にして四、五分というところでした。
 男がホームを見渡してみると、そこには珍しく一人の老人が立っていました。スポットライトのように不自然に強い明かりの中に立つ老人は、静かに機関車のほうを眺めているようでした。老人はまるで彫像のように、ずっと昔からそうしていたように見えます。
 老人がそうして機関車を眺めるうち、出発の時間がやって来ました。乗る者もなければ、降りる者もありません。操縦士の男は機関車に戻ると、ロックを外し、レバーを動かしました。
 機関車はもう一度、ため息のように蒸気を長く吐くと、老いた犬のように億劫な様子で緩慢に動きはじめました。引きのばされた時間の中を走るように、ゆっくりと加速していくと、やがてホームの明かりが遠ざかっていきます。それはまるで、暗い海の向うの港の明かりのようにも見えました。
 その間も、ホームに立つ老人の姿が小さく見えていましたが、機関車がトンネルに入るとともに、その姿は見えなくなりました。まるで暗い闇の中に、すべて呑みこまれてしまったかのようでした。

 次に機関車がそのホームにやってきた時も、老人はそこに立っていました。辺りには相変わらず暗闇と、白い霧がひっそりと漂い、不吉な時の軋みのような鐘の音が聞こえていました。
 機関車がゆっくりとその動きを止めると、老人はやはり、同じほうを眺めていました。その様子は失われた時の欠片を探しているようにも見えるし、ただ何かを懐かしんでいるだけのようにも見えます。
 操縦士の男はホームへ降りると、少ししてから老人のほうへと近づきました。それから、
「こんにちは」
 と、声をかけてみます。
 老人はようやく男のことに気づいたように振り向いて、しばらくその様子を眺めていました。男は紺色の制服に身を包み、害意のないことを示すように小さな笑顔を浮かべています。
「こんにちは」
 老人はごく丁寧に、同じような微笑を浮かべて返事をしました。
「お尋ねしてもよろしいですか?」
 と、操縦士の男は少し遠慮するように言いました。
「ええ、どうぞ」
 老人は穏やかに頷いてみせます。
「この列車には、誰も乗ることもなければ、降りることもありません。でもあなたはどうやら、この列車に用事があるようですね。あなたは一体、何を待っているんですか?」
 一瞬、沈黙が訪れて、辺りの暗闇がいっそう近く、濃くなったように思えました。白い霧は無関心なふりをして、じっと聞き耳を立てているようです。
「――」
 老人はしばらく言葉に迷うようでしたが、
「探しもの、のようなものですかな」
 と、ほんの少し微笑しました。
「探しもの?」
「とても大切な探しものですよ。私にとって、とても大切な」
「……」
 操縦士の男には老人が何を探しているのか、それだけではさっぱり分かりませんでした。けれど老人の微笑は、決してそれ以上訊いてはならないように、静かに語っているようにも思えます。
「そろそろ、時間ではありませんか?」
 老人に言われて、男は腕時計に目をやりました。確かに、もう機関車を出発させる時刻が近づいています。
「探しものが見つかると良いですね」
 男がそういうと、老人は軽く頭を下げてみせました。男は機関車に戻り、おもむろにそれを出発させます。機関車は退屈を紛らわすように一声、汽笛を上げると、ゆっくりと動きはじめました。
 操縦士の男がホームのほうを見ると、そこはやはり暗い海に浮かぶ港のように頼りない光を発し、老人が時に捕らえられてしまったように立っていました。
 けれど機関車がトンネルの中に入ってしまうと、すべては見えなくなってしまいます。

 機関車はその後、何度もその小さな無人のホームを訪れました。そしてその度に老人がそこに立っていて、じっと機関車を眺めています。
 操縦士の男は老人と様々な話しをするようになりました。といっても、出発までの四分か五分といったところですから、そう長い話をするわけではありません。
「帝国では近々、大規模な軍備の拡張を行うそうですね」
 とか、
「王立公園の桜が満開だそうですね」
 といった、そういう他愛のない世間話です。
 老人は特に迷惑そうな様子もなく、男と話しました。老人の話し方はいっぺんに何かをしゃべるというものではなく、相手の話をじっくり聞いて、分からないことには質問をし、そうして相手の考えをきちんと理解した上で自分の意見を述べる、というものでした。
 操縦士の男にとって、そうした老人との会話は飽きのこない楽しいものでした。彼はこの小さなホームに機関車を止め、老人と話をすることを楽しみにしました。
 親しくなるにつれて、四、五分という時間は、男にとってややもすれば短いものとなりました。長い話をしようとなると、どうしても出発の時間に間にあわず、会話は突然断線した電話のように途中でばっさりと途切れてしまうことになりました。次に会った時にはその続きからはじめるのですが、それは前よりも長い話になって、結局また途中で断線することになります。
 そうした会話のあり方というのは、男にとって不思議なものでした。はじめのうちこそはその会話の不完全さに奇妙な違和感も覚えたのですが、慣れるにしたがって、それは不思議に楽しいものとなりました。途切れた時間さえもが、老人と会話をしているような気分になるのです。
 けれど、いくら親しくなったところで、老人が何を探しているのか、操縦士の男には分かりませんでした。それに老人はいっこうに、そのことを話そうとはしません。
 しかし、生きた人間でこの機関車に用事のあるものなどは、あるはずもなかったのです。
 この機関車が運んでいるのは、乗客たちの乗る客車でも、荷物を載せる貨車でもありませんでした。
 魂です。
 機関車には商品化された魂が、載せられていました。それが小さなこの国の、主要産業でした。死んだ人間の魂を加工し、外国へと売りに出すのです。人間の魂は、高純度のエネルギーとして利用することができました。
 だから、生きている人間がこの機関車に用事など、あるはずもありませんでした。外国に輸出される人々の魂なぞ、誰が見たいと思うでしょうか。そしてその魂が誰かに見られたいなどと。
 機関車が暗い、夜と霧の時間に走るのはそのためでした。魂の輸出を歓迎するものなど、誰一人としてありません。けれど貧しいこの国が生きていくためには、そうするより他になかったのです。
(探している?)
 老人は一体、何を探しているというのでしょう。

 ある日のことです。
 その日も機関車はいつものように、小さなホームに止まりました。遠くから海獣のうめき声のような鐘の音が聞こえ、暗い闇と白い霧がひっそりと息を潜めています。機関車は疲れはてたようにゆっくりと減速し、ホームの決められた位置へと止まりました。
 操縦士の男はいつものようにレバーにロックをかけ、ホームへと降ります。ホームにはいつものように老人がいて、そして機関車のほうを見ていました。
 男は、ひとしきりたって、老人がいつも繰り返しているらしいその作業を終えてから話しかけるのが、習慣でした。ですからその時もホームに降り立ってからしばらくは、老人のほうを黙って眺めていたのです。
 けれどその時の老人の様子は、いつもとは違いました。老人は信じられないような顔で、機関車のほうへと近づいたのです。その足はかすかに震え、右手は、それを摑もうとしてなのか避けようとしてなのか、小さく前に伸ばされていました。
「?」
 男はわけも分からないまま、老人の邪魔にならないようにそっと移動し、その様子が良く見える場所に移りましました。老人はどうやら、客車の形をした連結車の一つに向かって、近づいているようです。
 その連結車の窓には、一人の女性の姿がありました。
 年をとった、老女といってよいくらいの人でした。おそらく、老人とそう歳は違わないでしょう。彼女は大方の魂がそうであるように、生前の姿のまま、白く、ほんの少しだけ透けて見えました。
 老人は彼女に近づいて、彼女はそんな老人に気づき、かすかに身を乗り出して彼を見つめているようでした。
 二人はお互いの間にある小さな空間と時間に対して、しばらく戸惑っているようでしたが、ゆっくりと近づくと、口を開いて何か話しはじめたようでした。
 機関車の煙を吐く音や、時計塔の鐘の音のせいで、操縦士の男には二人が何を話しているのか、まるで聞こえませんでした。二人はごく小さな声で話しているようにも見えて、その声は白い霧と闇の中に、あっという間に溶けていってしまっているようでもあります。
 二人がそうして話しているうちに、出発の時間がやってきていました。男は少し迷ってから、機関車に乗り込みます。その間も、二人は少しも離れようとはしないようでした。
 機関車は癇癪を起こしたような汽笛を鳴らすと、ゆっくりと動きはじめます。老人は走りはじめた機関車を追ってホームを歩きますが、小さなホームはすぐに途切れて、それ以上追い続けることはできませんでした。小さな窓から見える老女の顔は、どんどん暗い闇の中へと遠ざかっていきます。
 やがて機関車がトンネルの中へ入っていくと、老人からはすべて見えなくなってしまいました。辺りにはただ暗い闇と白い霧、鳴りおわった鐘の音に、そしてもう行ってしまった機関車の気配を残したきり、何もありはしませんでした。
 老人は小さな、無人のホームに一人で立ったまま、なくなってしまったものの大きさを測るようにじっとしていました。
 やがてホームの明かりは消され、すべては闇の中へと消えていってしまいます。

――Thanks for your reading.

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