[剣師と悪魔]

[プロローグ]

 薄暗い雨の日には、いつも決まってその夢を見た。もう何年も使い古されているような灰色の雲が空に浮かぶ日には、必ずその夢を。一度の例外もなく。
 夢の中身はいつも同じなので、隅々まですっかり覚えてしまっている。決まりきった手紙と同じで、その内容が変わることはない。書かれてしまった物語は、もう誰にも変えられない。神様でも。たとえそれが、どんなに気に食わないものだったとしても。
 道の真ん中に、ユティスは一人で立っている。他には誰もいない。村の外観は、いつもと同じだった。空には青空が広がって、手でつかめそうなくらいくっきりした白い雲が浮かんでいる。
 見覚えのある家の中にも、遠くに広がる畑や平野にも、どこにも人の姿はない。人だけではなくて、羊や犬の姿だってなかった。まるで風景画の中から、丹念にそうしたものだけを消してしまったみたいに。
 それでもユティスは歩き続ける。自分の家に向かって。
 家には、母親と妹がいるはずだった。けれど扉を開けて中に入っても、やっぱり人の気配はしない。二人ともどこかに出かけたのだろうか。といよりも、村人全員がユティスだけを残してどこかに行ってしまったようだった――
 ユティスは部屋の先に、二つの人影があることに気づく。すぐに気づかないのが、不思議なくらいだった。二つの人影は少しも身を隠そうとしているわけではなかったから。でも近づいてみて、その理由に気づく。
 それは本当に、二つの人影にしかすぎなかった。
 つまり、もう生きてなんていないということ。
 母親と妹の二人は、ついさっきできあがったばかりの彫刻みたいにそこにいた。母親は手元で何か作業をして、妹がそれをのぞきこんでいる。今にも動き出しそうだが、永遠に待ったってそれは無理だろう。二人は完全に停止していたから。
 二人の体は黒いガラスの結晶みたいに硬化して、時間ごとすっかり凍りついていた。服だけがそのままで、なんだかそれは、今まで本当に生きていたのは服のほうだった、とでも言いたげだった。
 ユティスが近づいて、妹のほうに指で触れると、見た目の硬さとは裏腹に、それはあっけなく崩れ去ってしまう。もう一つ残った母親も、本当はそうだったことを思い出すみたいに塵になって消えていく。
 あとにはユティスだけが残された。
 気づくと、自分の指先も黒く変色しはじめていた。色は手のひらに広がって、徐々に手首のほうまで侵食していく。このまま放っておけば、きっと心臓にまで達して鼓動をとめてしまうだろう。だとしたら、たぶんそれは――
 目が覚めて、ユティスはそれを現実だと認識する。手のひらを見ても、黒くなってはいない。黒くなっていた痕跡もない。見慣れたいつもの自分の手だった。
 室内だが、空気の感じで雨が降っていることがわかる。確認するまでもなく、起きる前からそのことはわかっていた。夢の手続きの、これが最後というわけだった。
「ユティス?」
 同じ部屋の反対側から、声がする。まだ夜明け前で、小さな窓から入ってくる光は弱々しかったが、それがレテノのものであることは間違いがなかった。
「うん」ユティスは返事をする。つまり、起きている、ということの表示のために。
 二人は地方にある修道院の、来客用宿泊施設の一室にいた。本来なら巡礼者用の大部屋に泊めてもらうのが筋なのだが、剣師ということで特別扱いを受けることができた。教会と悪魔は基本的には敵対関係にあるのだから、これは半分くらい当然のことだといえる。
「また、あの夢を見たんだね?」
 レテノは灰色がかった暗がりの向こうで、ベッドに腰かけてユティスのほうを見ている。ユティスは頭の中に誰かが置き忘れたような軽い痛みを感じながら、体を起こした。「――うん、いつもと同じ」
「母親と妹の?」
 ユティスは黙ったまま、こくりとうなずく。
 もう二年近く旅をしているので、今日のようなことは何度もあった。つまり、雨の降る朝にはいつも、ということだ。そのたびに、大体こういうやりとりをくり返す。もしかしたらこれも夢の続きなのかもしれない、とユティスは思う。ただ、気づいていないだけで。
 レテノは素足で床に降りると、猫みたいに音のしない足どりでユティスのほうへ近づいた。そういう癖が身についている。それがどういうときに役立つかを、ユティスは知っていた。
 ベッドに座るユティスのすぐそばまで来ると、彼女は機械式の時計をのぞきこむような目つきでユティスのことを見つめた。もしかしたらどこか具合の悪いところが見つけられるかもしれない、という態度で。
 奇妙に奥行きを欠いた、底の浅い鏡に似た瞳。ユティスはその瞳で、じっと彼女を見返す。女の子に間違えられそうな、よくできた人形のような顔立ち。柔らかな太陽の光を思わせる髪は、いつもと同じでくしゃくしゃだった。
「どこもおかしなところはない? 大丈夫?」レテノは一応、ユティスの保護者役でもあるので、こうした質問でもうるさすぎるということはない。
「大丈夫だよ」母親に答えるみたいに、ユティスは言う。実際には、二人の歳はそれほど離れていなかったけれど。
「……そう、よかった。おかしなところがあれば、すぐに言うんだよ、いいね?」ちょっとだけ微笑んで、レテノはユティスをのぞきこむのをやめる。点検は終わった、ということだろう。
 ユティスはけれど、じっとレテノのことを見つめたままだった。
「レテノはぼくのこと、恨んでる?」瞳を少しも変化させることなく、ユティスは不意に訊いた。
「……どうして、そんなことを?」レテノは首を傾げる。
「なんとなく、そうじゃないかと思うんだ」
 ユティスの表情は、いつもと同じだった。無表情というよりは、表情を忘れたような顔。その二つは、洞窟の中にある、夜の暗闇と昼の暗闇くらい違う。
「そんなことはないよ、決してね」レテノは言葉だけでなく、軽く首を振ってみせる。
「――うん」ユティスの表情は変わらない。
「それより、昨日の戦闘の影響は?」
「ないよ」
「そう、よかった」
 けれどそれは、ただ話題を変えるためだけのものだったらしい。レテノはしばらく口を閉ざした。注意深く耳を澄ますと、雨の音に気づく。陰気な人物が、誰にも聞かれる見込みのない独り言をぶつぶつとつぶやくような音だった。
「今度から、君が剣師院に行くという話は覚えてるよね」口を開くと、レテノはそんなことを言った。
「うん」
「しばらく私とは会えなくなるから、体調には気をつけて」
「大丈夫、わかってる」
 このやりとりは、もう何度もくり返されていることだった。そのたびにレテノの言葉は少しずつ違ったが、つまりは心配しているということだった。ユティスにはどうしてそう何度も同じ事を聞くのか、わからなかったけれど。
「でも、どうしてぼくがそこに行かなくちゃいけないの?」
 たぶん雨のせいだろう。ユティスは珍しく質問した。普段なら、わかりきった人の話には絶対に口を挟まない少年だった。
「それが君のためだから」レテノの返答は、それっきりだった。つまり、それ以上は話すことができない、ということ。彼女にはそういうルールがある。ユティスももちろん、それを知っている。
 だからそれ以上の質問を、ユティスはしなかった。
 ただ、心の中で思っただけ。
 ――たぶん、どんなことだってぼくのためにはならないだろうな。
 施設のどこかで、修道士たちの聖務が行われているのだろう。雨のあいだをぬって、かすかな歌声が響いていた。どちらかというとそれは、雨音の一部ように聞こえはしたけれど。

――Thanks for your reading.

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