[剣師と悪魔]

[エピローグ]

 それから、三日ほどたった。
 ユティスはバルステッドから大体の事情を教えられた。ユティスたちがちょうど地下室に踏みこんだ頃、市内では各所でいっせいに悪魔の召喚が行われたという。住民のあいだには死者も含めて相当の被害が出たが、蜂起そのものはすばやく鎮圧された。召喚されたのはほとんどが下位悪魔で、散開した上級剣師たちによってあっけなく斬り倒された。何体かいた中位悪魔も、メルリライトが手早く片づけてしまったらしい。
「トリアーノは教団でもかなり重要な地位にあったようだな」バルステッドは言った。
 今回の武装蜂起は、悪魔教団と旧七王家関係者による陰謀として処理されるようだった。ただし教団のそれは、あくまで一支部による暴走という処置がとられる。本部のほうがそう言うのだから、仕方がない。
「結局、何も変わらないってことですか?」ユティスは訊いた。
「表面上はな」バルステッドは曖昧な表現をした。「皇帝側にしても、今回の件だけでどうこうしようとは考えていないようだ」
 それから、ハユナの処置についてだった。ロキノスとハユナのことについては、すでにバルステッドはすべてを聞いている。当然、このままというわけにはいかなかった。
「彼女についての情報は、機密扱いということになる。身柄を拘束されることはないが、放置するわけにも行かない。保護観察処分、というところだ。それが彼女のためでもある。事情を考えれば、温情といってもいいくらいのものだ」
 ユティスは簡単にうなずいておいた。
 身体的なこともあって、ハユナの身柄は帝国首都へと移送される。そこにある研究機関なら、彼女に必要な薬も何とか調合できるだろう、ということだった。何にせよ、彼女は剣師院から出ていくことになる。
 ――それだけの話を聞いた、次の日。
 ユティスが学院にある病室のベッドに座って窓の外を眺めていると、衝立の陰からキアが顔をのぞかせた。目で、入っていいか了承を求めてきたので、ユティスはうなずく。午前中の、あまり人のいない時間帯だった。
 見舞い品らしい焼き菓子の入った籠を持って、キアはベッドの横にあるイスに座った。籠を机の上において、言う。「調子は、どう?」
「悪くないよ」ユティスは答える。
「左眼のほうは?」
「まだ、何とも言えない。痛みはひいてきたけど」ユティスは言って、眼帯をした左眼に手をやった。
 おそらく竜眼≠フ影響だろう。ユティスの左眼はいくつかの変調をきたしていた。光に対する過敏な反応、視力の低下、ぼんやりと霞がかった視界。今は眼帯を当てているので、それがどうなっているのかはわからない。
「そのくらい、さっさと治しなさいよ」キアは無茶なことを不機嫌そうに言った。「ま、そのおかげで私たちは助かったんだけど」
「――うん」ユティスはうなずいてから、訊いた。「セリエスは?」
「今頃よく眠ってるわよ」キアは小さく肩をすくめた。「……お墓の下で、ね」
「そう」ユティスはかすかにうつむく。
 あのあと、結局セリエスは助からなかった。
 最初の一撃で、すでに息は絶えていたのだ。悪魔の剣で革鎧は紙のように裂かれ、心臓近くを激しく損傷していた。おそらく、即死だったろう。
「まったく、冗談じゃないわよ」キアは馬鹿ばかしい、とでも言いたげな口調で言った。
「誰に断りもなく勝手に死んでさ。いい迷惑よね。おまけに実家で葬儀があったけど、あいつにお似あいのちっちゃな村だったわよ。何もなくて、きれいな水と空気だけが自慢、みたいな――。それであいつの兄弟が、棺桶を見てわらわら駆けよってくるのよ。村の知りあいとかもね。ちっちゃい弟なんか、遺体を見てぼろぼろ泣いちゃったりしてさ。体を揺り動かして、起こそうとするのよ。無理なのに」キアはかすかにため息をついた。「……おかげで、私が泣けなくなっちゃったじゃない」
 キアの表情は、ほとんどいつもと同じだった。いつもと同じ、何か不満そうな、不機嫌そうな顔。
 たぶん、それは――
 そうしていないと、自分が保てなくなってしまうからだろう。
「……もし、どうしようもなかったら、ぼくを殴ればいいよ」ユティスは言った。
 キアは思いきり顔をしかめた。「何で、あんたを殴らなくちゃいけないのよ?」
「そうすれば、すっきりするかもしれないから」
 少しだけ考えて、キアは首を振った。
「馬鹿らしい。あんたなんか殴ったって、何にもなりゃしないわよ」
「そうかな?」
「当たり前でしょ」キアは言った。「それとも、あんたは私に殴られたいわけ?」
「ううん、痛いのは嫌だな。だから殴らないって言ってくれて、ほっとしてる」ユティスはそう言って、少しだけ笑った。
 それを見て、キアは何か言おうとしたが、やっぱりやめたようだった。軽く肩をすくめて、首を振る。「変わってるわよ、あんたって」
「セリエスにも同じことを言われた」
 ふっと目つきだけで笑って、キアは立ちあがった。用事はもうすんだらしい。
「ああ、そうそう忘れるところだった」立ち去り際、キアは振り返って言った。「ハユナが一緒に来てるんだけど、会ってもいいか聞いてくれって」
「ハユナが?」ユティスは首を傾げた。とっさに思い出したのは、何故だか彼女の太陽みたいな笑顔だった。「もちろん、いいよ」
「じゃあ、そう伝えておく」今度こそ、キアは行ってしまった。
 ユティスはまた、ぼんやりと窓の外を眺めた。二階にあるその窓からは、学院の敷地にある菜園を望むことができた。薬剤用のハーブや薬草を栽培しているらしい花壇が、いくつも並んでいる。他には、キャベツやにんじんといった作物が植えられていた。
 それから不意に、ユティスはレテノと会ったときのことを思い出した。
 バルステッドから話を聞いた、そのあとのことだ。
 久しぶりに見るレテノの顔は、何だか懐かしかった。学院で最後に会ってから、それほどの時間がたったわけでもないのに。もう何年も会っていないような気がした。
「皇帝の側は、何もかも知っていたんだね」ユティスはまず、レテノにそう訊いた。
 それは、いくつかの状況から簡単に推測できる事実だった。教団のテロ行為に対する迅速な対応、レテノによる事前の下調べ、そして何より、ユティス自身がこの町に連れてこられたこと。もしかしたら、皇帝の臨御だって計画のうちだったのかもしれない。
「その通りよ」レテノは簡潔に答えた。
「レテノはどうして、この町にぼくを?」ユティスが訊くと、レテノはため息をついた。あるいは、ため息に似た何かを。
「それにはいくつかの理由があるんだ」
「どんな?」レテノは少し黙ってから、答えた。
「まず、私がこの町に来なくてはならなかったということ」一つ一つ説明していくように、レテノは言った。「帝国からの正式な命令だから、それはどうしようもなかった。その際には、必ずしも君を連れてくる必要なかった。連れてきても、院に入れる必要はね。でも私がそれを頼んだ」
「どうして?」ユティスは不思議そうに訊いた。
「そうするしか、君を少しでも普通の人間らしく生活させる手段がなかったから」レテノは言った。「〈悪魔の子〉である、君を」
「……レテノはみんな、知っていたんだね」
「ええ」
 ユティスの記憶が悪魔の力ごと封印されたその場所に、レテノはいたのだ。
「どうしてそのことを、僕に話してくれなかったの?」
「記憶を取り戻すことで、君にどんな影響を与えるかわからなかったから。最悪、君がもう一度悪魔化することだってありえた。そうなったらたぶん、それを止めるには、もう君を殺すしかない。それはごめんだった」
「だから、待っていたの?」
「そう、君が成長して、その力を自分で制御できるようになるまで。あの人は、そのために君に力を託したんだ」
 ユティスはそっと、左眼を押さえた。たぶんこの力がなければ、あの時のユティスはロキノスと同じようなことになっていただろう。
「これから、ぼくはどうなるの?」ユティスは訊いた。
 いろいろな人間にとって、ユティスは稀少な存在のはずだった。
「君は、どうしたい?」レテノは逆に訊き返した。
「わからない」ユティスは少し考えて、首を振った。「でも、できるならもうしばらくここにいたい、と思う」
「ここが気に入った?」
「たぶん……それに、この町の守護聖人は目の病気にいいんだって」ユティスが言うと、レテノはくすっと眼鏡の奥で笑った。
「君がそう望むのなら、それでかまわないよ」
「いいの、本当に?」
「ええ。ここに来るときに、私がそういう条件をつけたから。もしもユティスが希望するなら、学院での生活は継続されるって。帝国としても、そのほうが都合のよいところはあるだろうから」
「レテノは、どうするの?」ユティスは急に、そのことが気になった。
「うん、私は――」レテノは時間の螺子でも回すように、少し黙ってから言った。「私は、私の仕事もあるからね。ずっとここにいるわけにはいかない」
「でも、時々は会いに来る?」
「もちろん」レテノは頬を緩めて笑った。そんなレテノの笑顔を、ユティスははじめて見る気がした。「それから、君は気づいてないかもしれないけど……」
「なに?」
「君は今、わりと幸せそうな顔をしているんだよ」レテノは子供のいたずらを見つけたみたいに、にやっと笑って言った――
 窓の外を眺めながら、ユティスはそんなやりとりを思い出していた。外はよい天気だった。今日はあの夢を見ていないのだから、当然だった。けれどもしかしたら、あの夢を見ることはもうないのかもしれない。
 時間は何も告げずに、過ぎていく。
 衝立の陰に、人の立つ気配がした。
 彼女はユティスがそのことに気づいたことが分かると、無言で姿を現した。無理に笑おうとして、けれどやっぱりそれをあきらめてしまったような笑顔。体のサイズにぴったりあう小さな箱に入れられてしまったみたいに、彼女は元気がなかった。
 床の上に擬似的なガラスの破片が散らばっているらしく、彼女は足音をたてない歩きかたで、そっとベッドのそばに立った。
「その節は、お世話になりました」ハユナはぺこりと頭を下げた。自分でもどうしゃべっていいのか困っているような口調だった。
「うん」言ってから、ユティスはつけ加えた。「お互いに」
 しばらく、沈黙があった。
「ロキノスのこと、聞きました」ハユナは言った。極力、感情を込めないように自分で苦労しているしゃべりかただった。そうしないと、たぶん心のどこかが痛むからだろう。「刀は、形見としてわたしがもらえることになりました。雨酔≠チていうんですよ、あの刀」
「――うん」
 また、沈黙だった。
「助けられなかった」ユティスは、握った砂をさらさらとこぼすみたいにして言った。
「仕方ないですよ」ハユナは風が吹いただけで壊れそうな笑顔。「いつかは、こうなるってわかってましたから。むしろ、ユティスさんでよかったと思ってます」
「でも――」
 ユティスの言葉は、すぐに遮られた。
「わたしはだから、いつも好きって気持ちをなくそうとしてました」ハユナは下を向いて、独り言みたいに続けた。
「どうせいつか、いなくなっちゃうなら、そんな人を好きになっても仕方ないって、そう思ってました。そんなことしたって、苦しいだけだって。きっと苦しくて、辛くて、もう死んじゃいたくなるって」ハユナは笑う。「でもね、どうしてもその気持ちはなくならないんです。バカみたいだって、自分でも思うんですけど、どうしても。それで、やっぱり思うんです。ほらね、死にたくなっちゃった、って。こんな思いをするくらいなら、最初から何とかしておけばよかったのに、って。……でもバカだから、それがうまくできないんですね」
 彼女はぽたぽたと零れ落ちてくる涙を拭った。
 ただ邪魔だからそれをどけているんだ、というように。
 本当は涙なんて流したくはないんだ、というように。
「わたしとロキノスは、ずっと一緒でした。あの場所で。それがどういうことか、わかりますか?」ハユナは訊いた。
 ユティスは首を振った。
「つまりそれは、わたしが誰のことも許せないっていうことです……ごめんなさい……わかってる、わかってるんです。誰のせいでもない、これは仕方のないことだったんだって。わかってます。ユティスさんが悪いわけじゃない。恨んだり、憎んだりするような話じゃない。でも……でも、ロキノスを殺したのはやっぱりあなただから。わたしにはどうしても、ユティスさんを許せそうにないから」
 ああ、そうなんだ――
 と、ユティスは思った。
 この世界にあるのは、いつもこんなものなのだ。誰かが誰かを愛しても、幸せになれるわけじゃない。誰かが誰かを許そうとしても、簡単にそれができるわけじゃない。
 何故なら、神様はそれを望んでいないから。
 ハユナはすっかり涙を拭ってしまってから、あらためてユティスのほうに向きなおった。
「それじゃあ、わたし行きます。たぶんもう二度と、あなたに会うことはないと思います」
「――うん」ユティスはうなずく。
 けれど、彼女が永遠に自分の前から去ってしまおうとしたとき、ユティスはそれを呼び止めた。「……一つだけ、聞きたいことがあるんだ」
「何ですか?」不審そうに、ハユナは訊く。
「その場所で、君とロキノスはどんな神様を信じていたの?」
 ハユナは少し考えてから、こう答えた。「――そんなもののことは、もう忘れました」
 そして、彼女はいなくなる。
 ユティスはもう一度、窓の外を眺めた。
 そこにあるのは、いつもと同じ世界だった。
 けれど右眼だけで見るその世界は、いつもとは少しだけ違っていた。

――Thanks for your reading.

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