[剣師と悪魔]

[悪魔に願いを]

 昼食はいつも通りに食堂でとった。ユティスは量を少なめにしてもらった。普段からあまり食べるほうではないし、食べすぎると動きが鈍くなる。
 時間が少し遅いので、食堂は全体的にすいていた。旅行に行くときに、部屋に忘れられた荷物のような気分。食事をしているのは、試合で少し遅くなった生徒が多いようだった。ただ、ロキノスの姿は見えなかった。
「それだけしか食わないのか? 午後までもたないぞ」セリエスはユティスの昼食をのぞき込みながら言った。
「あんまり食べると、お腹が痛くなるから」
「あんたが食べ好きなんじゃないの?」キアが顔をしかめる。セリエスの昼食は、いつもより量が多いくらいだった。
「腹が減ってるからな」
「案外、体力だけはあるからね、セリエスは」ルルアが茶化した。
 食事をしながら、午後からの試合について話しあった。対戦相手のこと、とるべき戦略のこと、細かい対応についてなど。
 特に、セリエスはロキノスと同じブロック組にいたので、その時のことについて話した。
「まだ力の八割も出してないって感じだったな」セリエスは腕を組んで言う。食器は空になっていた。食べ終わるのが、大体ユティスと同じくらいだった。
「ほとんどストレートの一本勝ち。一番早く試合が終わったかも」同じ会場にいたキアが言う。「何か、迫力が違うもの。オーラが。まともにやっても勝てないんじゃないの」
「勝つためのまともじゃない方法って?」ルルアが訊いた。
 キアは天を仰ぐようにしばし考えて、言う。「……みんなで闇討ち、とか」
「確かにまともじゃないな」セリエスは深くうなずいた。
 しかし、あながちそれも間違いではなかった。五人とも、しばらくは何も言わない。
「ロキノスの初戦の相手は?」ユティスは訊いてみた。目の前でロキノスの動きを見る機会があるのは、それと、おそらくセリエスとの一戦だけだった。
「同じ三年で、天法流。なかなか強そうだった。ただ、あの人に勝てるとは思えない」キアが答える。
「何とも難しいところだね」ルルアが短くため息をついた。
「大丈夫です、ユティスならきっと勝てます」ミルテは元気づけるように笑顔を浮かべた。
「うん」ユティスはうなずく。
「……俺は?」その横で、セリエスは空しくつぶやいた。
 二人とも、午後からの試合に緊張はしていなかった。一人だけで戦っているわけでないことが、うまく作用しているのだろう。
「あれ、彼女じゃないのか?」セリエスがふと、ユティスに注意をうながした。
 ユティスが見ると、向こうから少女が一人、こちらに歩いてきている。ハユナだった。彼女はまっすぐユティスの前まで来ると、そこでとまった。
「ユティスさん、勝ち上がったんですね」何故か冷静そうな笑顔で彼女は言った。
「うん、何とか」
「ロキノスも、やっぱり勝ち残ってます」少しだけ残念そうな口調。
「仕方ないよ」
「勝てますか、兄に?」ハユナは真剣な目をした。
「わからない。やってみないと」
「きっと、勝ってください。でないと、兄は」
 その時――
 ハユナの表情は、とても複雑だった。
 まるで、粉々に砕けた色ガラスをのぞきこむみたいに。
 もしかしたら、彼女にはすべてがわかっていたのかもしれない。ユティスがそう思ったのは、だいぶあとのことだった。
「がんばってみる」ユティスには今のところ、それしか言えなかった。
 ハユナは微笑んで、それから他の四人にも深々とお辞儀をした。頭を上げたときには、いつもの明るい表情の彼女がいた。風をそっとつかまえるような仕草で手を振ると、ハユナは行ってしまう。
「お兄さんに負けて欲しいっていうのも、複雑な心境かもしれないね」ルルアがぽつりと言った。
「でもそうしないと、たぶん、そのお兄さんは殺されてしまいます……」ミルテはうつむいたまま言った。
 暗殺に成功しても、失敗しても、それを免れるのは難しい話だった。
「何だか健気なものよね。いい娘みたいだし」キアは普段に似ず、そんな言葉を口にする。
 だけど、彼女はたぶん――
 ユティスはふとそのことを思ったが、決して口に出してしゃべったりはしなかった。

「――どんな具合だ?」
 メルリライトは顔を上げ、目の前に座った男の様子をうかがった。
 男は窓枠に片肘をのせ、頬杖をついて外を眺めている。今、本当にしゃべったのかどうかもわからない。わざとそうしているのか、そういう癖があるのか。
 馬車の中には、男とメルトの二人しかいなかった。対面式の座席で、通常よりスペースがある。特別製の車体だった。高価な白磁のティーセットが置かれ、たった今天国の花畑からとってきたばかりのような馥郁とした香りが漂っていた。二人の手元には、それだけでバルステッドの給料の何ヶ月分かにはなるカップと受け皿が乗せられている。
 男の質問が、紅茶についての感想でないことは明らかだった。そんな儀礼的な質問をするような男ではない。この男に仕えてまだ一年にもならなかったが、メルトはそのことを十分に理解していた。
「概ね、計画通りに進行しているようです」メルトは姿勢を正すと、澄ました顔で受け答えた。
「計画通り、か」男はメルトのほうを見ようともせず、からかうように言った。「それはどっちのだ?」
 七剣を相手にこれだけの口をきける人物は、現在のところ帝国に一人しかいなかった。
 レオネル・レアンティール・セレ・ノエストリア。
 第十四代帝国皇帝、その人だった。
 弱冠三十一歳という若さで帝位についたこの男は、見た目通りの攻撃的な男だった。そもそも、その点を買われての皇帝推戴なのだ。
 すらりとした鼻筋に、どちらかというと金属的に流麗な顎のライン。浅黒い肌。全体的に鋭角な顔の作りは、美男子といってよかった。それも、初夏の薫風より、冬の木枯しを連想させるタイプの。その中心には、冷却された炎のような光を宿した、二つの瞳。
 レオネルは今、皇帝の証である深紅のマントを身にまとい、儀礼用の軽甲冑を着用していた。銀の象嵌が施された、優美なデザインの鎧だった。服は、光沢のある柔らかな絹製。その生地の一片だけで、いくらするかわからない。その姿は、この男によく似あっていた。きっと、生まれたときから似あっていたのだろう。
「双方ともに、というところでしょう」メルトはレオネルの言葉を軽く受け流した。このくらいで目くじらを立てていては、この男の相手は務まらない。
「それはそうだ」レオネルはようやくメルトのほうへ顔を向けた。馬鹿にしたような表情だが、それがこの男の基本形。「だが、俺の聞きたいのはそんなことじゃない。わかっているんだろう?」
「さあ」メルトは紅茶に口をつけた。
「ならお前は愚か者だな」レオネルはにやにやして言った。とても皇帝のものとは思えない態度と、口調だった。
 メルトは心の奥でため息をついて、答えた。「敵の計画は全容を把握するにはいたっていませんが、十分に対応可能な範囲のものと考えられます。少なくとも、皇帝陛下に危害の及ぶことはありません」
「シャトレンの森への派兵も含めてか?」
「……それも問題のない範囲のことです」
「間があったな」レオネルは猫がネズミをいたぶるような表情。
 これだからこの皇帝は、とメルトは心の中で舌打ちした。優秀な上司というのは、えてして下の者にとっては窮屈なものだった。自分で何でも把握しておかなければ気がすまないし、またそれが基本的には正しいのだから厄介だ。こちらとしては手が抜けないし、遺漏があればすぐに気づかれてしまう。
「ふん、まあいいだろう」レオネルは急に興味をなくしたように、窓の外を向いた。「今回のことは、お前たちを信頼しよう。何しろ、帝国から悪魔どもを一掃する計画のはじまりだからな。俺も少々、神経質になっている」
「お察しします」
「例の子供のほうは、どうだ?」
 この男の前ではどんな嘘も、ごまかしも不可能なのだろう。メルトはもはや、肩をすくめる気にもならなかった。
「問題はないようです。今のところ正しく制御されています」
「お前が直接、確かめてきたんだったな」
「はい」
「――ジノアが犠牲になっただけのことはある、というとことか」レオネルは珍しく長嘆した。端から見れば、それはほとんど冷笑しているようにしか見えなかったけれど。
 室内に、水彩画みたいな軽い沈黙が流れる。
 馬車の扉がノックされた。「そろそろ、お時間です」
「では、行くとするか」レオネルは、この世界に自分の敵など存在しないかのような笑顔を浮かべた。「餌が上等でないと、大物は釣れないからな」

 午後からの試合は本会場で行われる。ここからは観客がついた。院生のほとんど全員と、学院関係者、それに何より、皇帝がそこにいる。
 皇帝の席は会場の入り口から正面向こうにあって、特別に豪華なイスが設えられていた。学院長のものか、皇帝側で用意したものだろう。左右には護衛隊である上級剣師が威圧するように並んでいた。皇帝のすぐ隣には、メルリライトの姿。
「壮観だな」セリエスは感に堪えない、といった様子でつぶやいた。さすがに少し緊張しているようで、ユティスには何となくおかしかった。
 四回戦に進出した十六人は、まず列を組んで会場の中央に並んだ。そこで、皇帝に対して摸擬刀での刀礼を行い、頭を垂れて跪く。皇帝は立席して軽く手を挙げると、片肘をついてイスに座った。ひどく横柄な態度だった。
 試合前の儀式は、それで終了。
 四回戦は二試合を同時に行う。準々決勝からは、一試合ずつ。三本勝負は同じだが、試合時間は十分に延長された。細かいルールは基本的に同じ。審判は主審が一人と副審が二人。
 出場者は、試合場の脇で待機する。皇帝の席の正面だったが、試合場をはさんでいるので遠すぎてよくわからない。左右と後ろに客席があって、ばらばらに分解された音が軽いざわめきを作っていた。
「ちょっと、食いすぎたかもな」腹に手をあてながら、セリエスは今さら言った。
「だから言ったのに」ユティスは短く囁き返す。
 太鼓が鳴らされ、四人の出場者が試合場に向かった。ユティスとセリエスの試合は後半なので、まだ出番はない。呼吸や魔力を落ち着かせながら、会場の様子を観察した。
 四回戦の進出者はほとんどが四年生だった。二年は、ユティスとセリエスの二人だけ。試合は今までよりずっと激しかった。
 二試合目までが終わり、ユティスの出番がまわってきた。面をかぶって、ユティスは立ちあがった。少しだけ大きく息を吐く。あとは、いつもと同じ。
「おい」セリエスは座ったまま、ユティスの腕を軽く叩いた。「俺はきっと負けるから、あとは頼んだぞ」
 たぶん、冗談のつもりだろう。もしかしたら、本気かもしれない。よくわからなかったので、ユティスはうん、とうなずいておいた。それでセリエスが軽く笑ったところを見ると、やはり冗談だったらしい。
 試合場まで歩いていって、刀礼。ユティスは落ち着いていた。大体が、緊張とは無縁の性格だった。事前に聞いたところでは、相手は天現流。ルルアのアドバイスをいくつか思いだす。客席に三人の姿を見つけた。セリエスが真剣な目でこちらをうかがっている。ユティスは試合の流れを大まかにイメージした。
 結局、二本を先取して勝負を終える。危なげない勝ち方だった。体力も温存できている。まずは上々の立ち上がりだった。
 四回戦最後の第四試合が、セリエスの出番。その隣では、ロキノスと天法流の生徒との試合だった。
 案の定というか、セリエスは緊張していた。腕の振りにいつもの冴えが見られない。剣速が信条の天理流としては、致命的な事態だった。
 それでも最初の一本を辛くもものにする。それで動きがよくなるかと思ったら、次の一本をあっけなくとられた。延長まで持ちこんだのは、何とか踏みこたえた、というところ。
 体力の差が出たのか、延長開始からしばらくして、まぐれっぽいあたりでセリエスが一本とった。旗が上がった瞬間、セリエスがほっと息をつくのがわかった。ユティスも座ったまま、何となく力を抜く。
 その隣での一戦は、ロキノスの圧勝だった。開始直後に、相手の出籠手を電光石火の切り落とし。瞬きするのが惜しまれるくらいの鮮やかさだった。次は相手の引き際での面への追い打ち。速度も、天業流らしい強度もあった。相手は手も足も出なかった。
 すごいな、とユティスは素直に感心した。もしかしたら、強さだけならレテノと比べても遜色がないかもしれない。
 五回戦の第一試合が始まったところで、ユティスは手洗いへ行くために立ちあがった。
 厠は会場から外に出て、少し離れたところにある。試合中のせいか、人の姿はない。用を足して戻ろうとしたところで、建物の影に見覚えのある人物がいた。ロキノスだった。様子からすると、ユティスを待っていたようだ。
「妹からいろいろ聞いているらしいな」ロキノスの第一声は、それだった。無造作に間合いをつめて一撃を放った、というところ。ユティスは迷った。受けるべきだろうか、それとも避けるべきだろうか。
「全部を聞いたわけじゃありません」ユティスは応じて、軽く切り返してみた。
「つまり、俺が皇帝暗殺を目的にしていることは知らないと?」
 すぐには言葉が出てこなかった。
 ロキノスは平然としていた。平然というより、興味がないといった感じ。よほどそのことに自信があるのか、それとも気が乗らないだけなのか。あるいはその両方、だろうか。
「お前たちの予想は、大体あっているよ」不意に、ロキノスは言った。
 会場から、水面に反射したような歓声が聞こえた。
「……優勝して、表彰されるときに皇帝を殺すということ?」ユティスは訊く。
「ああ」ロキノスはうなずく。
「それは、ハユナのため?」
 今度はロキノスが、一瞬黙った。「……何で、そう思う?」
「ただ、何となく」
 時計の秒針が、いつもとは違う速さで動いていた。
「ハユナはあなたに、そんなことをして欲しくないみたいだったけど」
「知っているさ」ロキノスはそっけなく言った。
「なら、どうして?」
「俺たちに選択肢はない」
「本当に?」言おうとして、ユティスはやっぱりやめた。たぶん本当に、そうなのだろう。
 代わりに、訊いた。「皇帝を殺して、どうするつもりですか?」
「さあな、そんなのは俺の知ったことじゃない」ロキノスは自嘲するように笑った。「俺はただの駒でしかない。駒は言うとおりに動きさえすればいい、連中はそう考えているんだろうな」
「でもハユナを駒にされるわけにはいかない?」ただの勘だった。何の意味もない発言。
「……ああ、そうだ」しかしロキノスは、軽く微笑した。何か大切なものを手の上に乗せたときの表情。
「皇帝暗殺なんて事件を起こしたら、彼女だってただじゃすまないはず」ユティスは言った。
「暗殺に成功さえすれば、俺たちは自由になることができる」ロキノスの口調はひどく乾燥していた。「そのほうが、俺たちにとっては分のいい賭けだ」
「このままの時間が続くより?」
「俺たちに対して、このままの時間が続く何ていうことはない」
 ユティスはぼんやりと、風の色でも見るような目をした。
 たぶんそれは、本当のことなのだろう。
 世界はいつも優しくなくて――
 何かを、奪っていく。
「妥協の余地はないということですか?」ユティスは訊いた。
「ああ、ゼロだ。完全に」
 会場のほうから、また歓声が聞こえた。そろそろ時間かもしれない。
「どっちにしろ、お前たちじゃ俺には勝てんよ。例えどんなことをしたとしても、な」ロキノスは虚勢ではなさそうに言った。
「――そうでもないかもしれません」
 ユティスは言って、会場のほうに歩きはじめた。後ろでロキノスが自分を見ているのかどうかはわからない。それはどっちだっていいことだった。
 ロキノスが見ていたとしても、それはユティス一人だけのことだろう。
 でもぼくは一人で戦っているわけじゃない、ユティスはそう思った。

 面の中で、ユティスは荒い息を吐いた。心臓が誰かに握りつぶされているみたいだった。そのくせ、汗は出てこない。四回戦、第三試合。時間はすでに、延長戦に入っていた。ユティスの相手は、天想流の四年生。ミルテと同流。
 試合開始直後、運の悪い出会い頭の事故みたいにして一本をとられた。旗が上がったときは何とも思わなかったが、結局はそれが命とりになった。相手はその一本で逃げ切ろうと決めたのだ。
 天想流は、機会や気配の察知に優れている。おまけに相手は、摸擬刀での防御能力に自信があるようだった。自分からは仕掛けず、防ぎに徹した。誘いには応じてこないし、激しく攻めても冷静さを失わない。攻撃の機は事前にすばやく潰してくる。
 手の施しようがなかった。そのくせ、ユティスは攻め続けなくてはならない。一本が取れなければ、時間切れでどちらにしろ負けだった。
 終了間際、鍔迫り合いからの引き面を辛うじてものにすることができた。攻め続けたかいはあったが、同時に失ったものも大きい。
 そして、延長。
 事態はユティスに不利なままだった。気を抜いて体を休めれば、すぐに相手に打たれてしまう。しかも、対戦相手は完全にそのことを理解していた。無理な仕かけはせず、隙ができるのをじっと待つ。獲物が逃げ疲れるまで追い続ける、狼か何かみたいだった。
 ユティスは魔力を小出しにして斬撃をくりだす。相手の体さばきに崩れはない。蹴り足が鈍くなりはじめていた。ゼンマイがもうほどけはじめている。
 延長開始から、かなりの時間が経過した。間合いをとった一瞬、ユティスの体が崩れた。足がもつれる。相手は機を逃さず、無防備な面へと一撃を見舞った。
 打撃音が聞こえたのは、しかし相手のほうだった。ユティスは体が崩れたまま、その崩れに従って相手の右足を一撃した。ほとんど、倒れこむような姿勢。審判の旗が上がった。
 延長は一本先取したほうが勝つ。
 刀礼をして、試合場の外に下がるまでが限界だった。ユティスは控え場所に戻るまでに、ふらふらと左右に揺れた。心臓はとっくに限界を超えていて、もう動いているのかどうかもわからないくらい。無理やり空気でも入れられたみたいに頭が痛んだ。
 ふらっと倒れそうになったところで、誰かが抱きとめてくれた。抵抗する気も起きない。それに、誰なのかはわかっていた。
「お疲れさん」セリエスは言った。冗談ぽい口調だった。
「うん、だいぶ疲れた」ユティスは顔をあげようともせずに言った。呼吸はまるで整わない。「できれば、このまま一時間くらい休ませて欲しいんだけど」
「よく倒れるやつだな」
「そういう体質だから」ユティスは少し笑った。それくらいの余裕が精いっぱいだった。
「次の試合は?」
「残念だけど、ぼくには無理」
「どうしてもか?」
「試合場まで、歩いていけそうにないよ」
 セリエスはしばらく黙っていた。次はセリエスとロキノスの第四試合だった。あまり時間はない。
「よし、わかった」セリエスはユティスの肩に手をまわして、控え場所のイスに座らせてやった。
「何が?」ユティスはようやく顔を上げて、セリエスを見た。面を外す元気もない。
「あとは俺に任せておけってこと」
 ユティスは首を振った。悪いけれど、セリエスがロキノスに勝つのは難しかった。それくらい、実力差がある。練習時に、セリエスはユティスに一勝もできていない。
「わかってるよ、そんなことは。俺が勝ってやると言いたいところだけど、それは無理だ。だから、俺は俺にできることをする」
「できることって?」
「時間がないから手短に言うぞ」セリエスは指をつきだした。「あそこの入り口のところにミルテが待ってる。ルルアがそこまで運んでくれるから、お前はそこで休んでろ」
「ちょっと休憩したくらいじゃ、どうにもならないと思うけど」
「一時間あればいいのか?」
 ユティスはちょっと考えてから、うなずいた。「――たぶん」
「よし、なら俺がその一時間をお前にくれてやる」
 どうやって、とは訊けなかった。時間が来て、セリエスは試合場に向かってしまったから。動くだけの気力もないままじっとしていると、誰かが紐をほどいて面を外してくれた。見ると、ルルアだった。ユティスはセリエスの言っていたことを思い出す。
「さて、我らが王子さまには特等席へとおいで願いましょうか」こんな時でも、ルルアは冗談をやめなかった。「そこで頼もしい班長さんの働きを見物するために、ね」

 天流の型の一つに、療≠ニいうのがある。被術者の魔力の流れを整え、その回復を助けるものだった。魔力の循環がよくなれば、自然と体力のほうも元へと戻る。
 ミルテはユティスの背中にそっと手をあて、その術型に集中した。途端に、ユティスは体が軽くなって、呼吸が楽になるのを感じる。山道で、誰かに重い荷物を肩代わりしてもらったときのことを連想した。それくらい、効果があった。
「どうですか?」後ろから、ミルテが訊ねる。
「うん」ユティスは楽な姿勢で地面に座りながら言った。「すごく楽になった」
 この一週間、ミルテはずっとこの型の訓練をしていた。それでも、ここまでのものにはなかなかならない。
「試合はどうなってるの?」ユティスは顔を上げて、ルルアに訊いてみた。
 ユティスとミルテ、それにルルアは会場の脇にある出入り口付近に待機していた。試合場では、セリエスとロキノスが戦っている。そのあいだに、ユティスの体力を回復させるのが作戦だった。
「五分五分、と言いたいところだけど、三部七部ってところからな」ルルアは珍しく舌打ちした。「やっぱり苦しいなあ」
 立ち合いの直後、セリエスは下段に構えた。普段は、あまりやらない構えだった。攻撃には向かない。特に、セリエスのような天理流の剣師にとっては、最大の利点である戦速を生かすことができない。下段というのは、どちらかというと防御の構えだった。視界を広げ、相手に間合いをとりにくくする。それに足元を狙った牽制があるので、自分の間合いへは簡単に踏み込ませない。
 ロキノスは用心したのか、最初は様子をうかがった。セリエスの意図は明白だったが、だからといってまったくの無警戒というわけにもいかない。
 それで二分ほど稼いだが、ロキノスは次第に踏み込みを深くしていった。戦域を制圧され、セリエスは徐々に下がっていく。場外近くまで追い込まれたところで、セリエスは構えを変えた。いつもの中段に戻す。最初からそのつもりだったのだろう。今度は一転して、すばやく攻め立てた。
 攻めているうちは、相手も簡単には踏み込んでこられない。
 天理流らしい剣さばきで、セリエスは果敢に相手を攻めた。一本をとることではなく、反撃を封じることを目的にした戦闘方法。
 ロキノスは慌てず、冷静に対処した。一本を狙ってこない相手なら、恐れる必要もない。うるさい打撃だけを払いながら、隙をうかがった。いつまでも攻め続けられるはずがない。必ずどこかで息が上がって、いつかは水面に顔を出す。
 だが、攻撃は意外に続いた。
 セリエスはすでにこの勝負は負けるつもりでいる。体力の温存を図る必要はない。その差だった。
 残り時間が一分を切ったところでも、セリエスは攻め続けた。とりあえず、延長に持ち込むこと。しかしそろそろ、息切れしかけている。
 一瞬、ふっと息をついた。掴んでいた岩から、指一本外したくらいの油断。
 だがロキノスは甘くなかった。鑿でも打ち込むように、その隙をついた。セリエスは防ぐのがやっと。どう見ても、長くはもたなかった。時間ぎりぎり、間にあわない。
 場外に追い込まれたところで、必死の一撃がやって来た。セリエスは躊躇なく下がった。自分から、線外へ逃げた。場外反則は二回で一本、つまり一回では何の失点にもならない。
「待て」声がかかって、中央に戻る。セリエスはわざとゆっくり歩いた。ぎりぎりで審判に注意されない程度のスピード。
 再開されたところで、終了時間を告げる鉦が鳴った。試合は延長戦に入る。
 セリエスはその前に、審判に話して水を持ってきてもらった。露骨だが、問題ない範囲での時間稼ぎである。
「うちの班長はなかなか頼りになるでしょ」ルルアは笑いながら、ほっと一息つくように言う。試合中、何度も危ない場面はあった。
「みたいだ」ユティスも、ちょっとだけ笑う。
「体調は?」
「まだもう少しかかると思う」力を入れて手を握ってみながら、ユティスは言った。
 試合場のほうから、セリエスがユティスのほうをうかがう。ルルアは小さく首を振った。セリエスは肩をすくめた。さすがにしんどいのだろう。
 やがて、延長戦の開始。
 セリエスは負けないことを主眼にして戦った。間合いを外し、逆に接近し、鍔迫り合いに持ち込む。場外への退避はもう不可能。体力に自信があるといっても、限度がある。汗で目がにじんだが、無視する。何かに気をとられれば、その時点で負けてしまいそうだった。次第に集中力が限定されて、相手の姿しか見えなくなってくる。あたりが暗く、静かになっていく不思議な感覚――
 しかし一瞬、相手に隙が生まれた。
 勝てる、と思ったのはすでに動いたあと。相手の面へと最速打を放つ。
 それが誘いだと気づいたのは、撃たれたあとのことだった。相手からも放たれた斬撃は、ほとんど同時だった。だが、ロキノスのほうがほんのわずかに速い。
 審判の旗が上がる。もっとも自信のある、斬速での負けだった。
 セリエスは面の中で息を吐いた。時間の流れが元に戻って、ようやく空気が役目を思い出したみたいに周囲の音が伝わってくる。セリエスは時間を確認する。延長戦がはじまって、二十数分の経過。
 会場の隅を見ると、ユティスは元気そうに立ち上がっていた。
 左手をつき出して親指を立てると、手の込んだ幻想かもしれないが、ユティスは同じ格好を返してきた。それだけで、セリエスは疲労が少しだけ軽くなる気がした。

 準決勝の第一試合は、三年生が時間内にすんなり二本をとって勝利した。会場はざわついていた。次の一戦に注目しているのだろう。
 ユティスは防具の着け具合を確かめてから、面をかぶった。摸擬刀をもって立ちあがろうとすると、セリエスが声をかけてくる。
「お前が負けたら、あとはキアの言う強硬手段だからな」
「責任重大ということ?」ユティスは訊いた。
「というより」セリエスはごまかすように頬を指でかいた。「俺たちみんなの責任ってこと」
 ユティスは面の奥で、少しだけ口元をほころばせた。不思議な気持ちだった。けれど、それが何という名前の感情だったかは思い出せない。ユティスは摸擬刀を持って、立ちあがった。
「――いってきます」
 セリエスが軽く拳を作る。
 正面の試合場へまっすぐ歩いていって、右手へ進む。ロキノスは少し遅れて、向こう側に現れた。審判が所定の位置につくのを待って、中央へと足を運ぶ。こうして対峙してみると、頭一つ分くらい背の高さが違った。軽く刀をあわせて、刀礼。
「お前じゃ俺には勝てない」ロキノスは不治の病を宣告するように言った。
「かもしれない」ユティスは無理に反駁しなかった。
 そう――
 もしも、自分一人だけだったとしたら。
 二人は十分な間合いをとって構える。審判が左右を見て手を掲げた。会場がしんと静まる。空気が徐々に入れ替わっていく気配。
 声がかかり、審判の手が振り下ろされた。
 試合開始。
 同時に、ロキノスが間合いをつめて初撃を見舞った。ユティスはそれを受ける。手がしびれるような斬撃。相手を威嚇するための強烈な一撃だった。挨拶代わり、というところ。
 受けた摸擬刀をくるりと捻転させ、ユティスはすばやく撃ち返す。摸擬刀がぶつかって、激しく音をたてた。返答、というところ。面の奥で、ロキノスがかすかに笑ったような気がした。
 二人の体格差からいって、リーチと上体部分での制圧力はロキノスに分があった。ただ、短い間合いでの勝負になればユティスに有利なわけで、単純な戦力差には直結しない。小兵が大柄な相手を圧倒すのも、よくある話だった。
 ユティスは危険な距離で立ちどまらないように、できるだけ足をとめずに間合いを調整した。ロキノスのほうは、不用意に踏み込まれないように牽制気味に摸擬刀をくりだす。
 お互いに、前の試合での疲労はほとんど残っていなかった。ユティスはミルテとセリエスの協力で、十分に復調していた。ロキノスはその体格と四年生ということもあって、この程度では動きに影響がないほど鍛えられている。
 会場からは、物音一つしない。二人の姿は重さのない影みたいに動いた。摸擬刀を撃ちあう音だけが、館内に鈍く響いている。
 ユティスとロキノスは同じ天業流。戦い方も似ていた。
 相似形。
 お互いの体が入れ替わったとしても、やはり同じような光景が展開していただろう。剣の技量、魔力の扱いともに、双方とも驚くほど練成されていた。
 返し技、払い、表の崩し、引き技、連続技、巻き上げ――
 ユティスは技をくりだしながら、不思議な気持ちがしていた。
 ひどく、懐かしい感じ。
 永遠にこの時間が続いていくような感覚。子供の頃の遊びみたいに、いつまでも終わりが来ないことを願うような気持ち。
 そんなふうに――
 心がどうしようもなく、悲しくなっていく。
 きっと、ロキノスも同じ気持ちなんだろう、とユティスは推測した。摸擬刀で撃ちあっていると、何故かそれがわかった。
 それから、ユティスはさっきの感情が何だったのかに気づいた。セリエスの言葉を聞いたときのことだ。あれはきっと、感謝の気持ちだった。
 ――ありがとう。
 そう言いたくなる、心の作用。
 今度のことで、みんなにお礼を言いたかった。手伝ってくれて、ありがとう。協力してくれて、ありがとう。
 いや、たぶん、今度のことだけじゃなくて――
 ユティスは試合の最中だというのに、くすっと笑ってしまった。自分にそんな感情が残っていたんだということがおかしかった。もしかしたら、嬉しかったのかもしれない。ずっと昔になくしたと思っていたものが、大切な箱の底にまだ残っていたのに気づいたような、そんな気持ち。
 ほんの少し、余分に息を吐く。
 終了時間が近かった。
 神様は理不尽で、ちっぽけな人間の気持ちになど斟酌しない。時間はいつも通りに過ぎていく。永遠はどこにもない。
 でも、少なくともその時間を与えてくれはした。
 延長戦になった場合、ユティスに不利だった。試合が長引くほど、疲労度に差が出る。できれば、終了間際に一本をとりたい。そんな思考を、ロキノスも読んだのだろうか。どこにそれだけの魔力を蓄えていたのだろう、というくらいの気迫。一気に勝負をつけるつもりのようだった。
 その魔力に反応するように、ユティスの左眼がうずいた。
 どこかで経験した感覚。そう、あのメルリライト・トルティアッソと対峙したときの状態に似ていた。体中の血液が、無理やりかきまわされるような――
 心臓が、知らない音を立てた。
 その瞬間、世界のすべてが静止した。
 観客席の人間たちの、表情の一つ一つがよく見える。
 審判が、目を凝らして斬撃を見極めようとしている。
 ロキノスの、足先から指先までの動き。
 それは、馴じみのない感覚ではなかった。むしろ、よく知っている状態。
 けれどここまで明確に意識されることはなかった。
 ユティスはすべてを見切ったうえで、動作した。本当に、空気の一粒一粒までを認識していた。
 ロキノスとの間合いをつめ、ほとんど密着するくらいの位置に体を置く。そこからの動きは、正統な天流にはないものだった。レテノが時折見せた、裏の天流。その型をトレースしたもの。
 何故か、ロキノスがわずかに驚くのがわかった。動きそのものより、もっと別の理由によって。
 けれど今は、それを気にしている暇はない。
 ユティスはロキノスの真横近くへと遷移した。ロキノスはついてこれない。その視界にユティスは映っていない。そういうふうに、ユティスは動いた。
 引き面の形で、ユティスは鋭く一撃を放った。
 高々と、音が鳴る。審判の旗が上がった。
「一本――」
 試合時間が終了したのは、そのすぐあとのことだった。

 決勝戦で、ユティスはあっけなく負けてしまった。体力、魔力ともに限界だったし、何より勝つ意味がなかった。相手の三年生もかなりの腕前で、何とか形だけ整えた、という感じ。棄権してもよかったくらいだった。
 表彰が行われるのは優勝者だけなので、ユティスは寮の部屋に戻って着替えをして、休んでいた。どういうわけか、左眼に鈍い痛みがある。
「でも、どうせなら優勝まで狙えばよかったのにね」ルルアは背もたれを前にしてイスに座りながら言った。「皇帝から何がもらえたか知ってる?」
 セリエスはベッドの縁に腰かけ、ユティスは壁に背をもたせてベッドの中で足をのばしていた。セリエスが首を振る。「――いや」
「魔法刀だってさ、惜しいことしたなあ」ルルアは無念そうに唇をとがらせた。
「どっちにしろ、優勝するのは無理だったと思う」ユティスは言った。「ロキノスに勝てたのだって、奇跡だよ」
「……だってよ、ユティスはお前と違って無欲なんだ」セリエスは日頃の憂さを晴らすような目で、ルルアのことを見た。
「そうだね」ルルアはにやっと笑う。「誰かさんみたいに、みっともなく時間稼ぎなんてしないものね」
「俺がどれだけ必死だったと思ってるんだ、お前は」セリエスは嫌な顔をした。
 いつも通りの時間が流れていて、ユティスは何だかおかしかった。さっきまで、いや、これまでだってずっと、みんな必死だったのに。思ったよりも緊張していたようだった。体のどこかから、糸がするするほどけていくような感じ。
「お前まで笑うことないんじゃないか」セリエスは、ユティスのほうを見て言った。
「ぼく、笑ってたかな」ユティスは自分の顔に触って、確かめようとする。
 その時、ノックもなしに、いきなり扉が開いた。ドアが蝶番から外れてしまいそうな、乱暴な開きかただった。
「おいおい、お前はノックって言葉も知らんのか」セリエスはそこに立っていたキアに向かって、軽く眉をひそめた。
「それどころじゃないわよ」キアはセリエスの抗議を完全に無視して言った。かなり切迫した様子だ。
「何があったの?」ルルアが首だけを扉のほうに向ける。
「ハユナが、話したいことがあるって……」ミルテは隣にいたハユナを励ますように、前へと押しだした。
 全員の注目が、彼女に集まる。
「あの、ロキノスがどこにもいないんです」ハユナは何故か、泣き出しそうな声で言った。
「どこにもって、どういうことだ?」セリエスが訊く。
「わかりません。でも、いないんです――」
 今にも手のひらの上から何かがこぼれてしまいそうな、ハユナの表情。
「それだけじゃない」キアが乱暴に口を挟んだ。「例のトリアーノもいないのよ」
「二人一緒に、ということ? それは、まずくないかな」ルルアが顔をしかめる。
「知りあいやロキノスの同室者に探してもらってるけど、望みは薄いわね」キアは爪を噛むような仕草で言った。
「ハユナは何も知らないの?」ユティスはベッドの端から身を乗りだした。
 無言で、ハユナは首を振る。
「たぶん、まだ何かあるんだ」ユティスはロキノスとの会話を思いだす。
 ロキノスは、自分のことを駒だと言っていた。それから、ハユナも。ハユナを駒にさせないために、ロキノスがいる。時間は、このまま続いてはいかない。
「二人がどこにいるか、何とかわからないのか?」セリエスはハユナに訊いた。
 ハユナはやはり、無言で否定。
「手詰まりだな」セリエスは手の平を拳で叩いた。
「……いや、そうじゃないかも」ルルアがふと、我に返るように言った。
「どういうこと?」キアが訊ねる。
「前に、トリアーノを見たんだ、星誕祭の日に。それも、例の場所でだよ。ほら、夜警中に院の誰かが姿を消したっていう、丘の上」
「ただの偶然かもしれん」セリエスは難しい顔をした。
「でも、今はそれ以上の情報はないんじゃないかな」
 全員が、沈黙した。
「――行こう」口を開いたのは、ユティスだった。「今、ぼくらにできるのはそれだけだよ。なら、それをしなくちゃ」
 セリエスはふっと笑って、床の上に立った。「じゃあ、決まりだな」
「みたいです」ミルテも何故か笑顔で言う。
「あの、わたしも」
 ハユナが何か言おうとするのを、ユティスは遮った。「ハユナには別のことをしてほしい」
「別のことって、何ですか?」
「バルステッド先生に、知っていることをみんな話してほしいんだ」
 ハユナは戸惑う顔をした。「でも――」
「お願い」ユティスは珍しいほど強い口調で言った。「たぶんもう、どうしようもないんだ。ロキノスを救うには、それしか方法がない」
 ハユナの口元はまだ何か言葉を探していて――
 けれど、結局はうなずいた。
「わたし、今からすぐ行ってきます」
 ハユナはみんなにお辞儀をすると、穴から飛び出した野うさぎみたいに走っていった。
「いいのか、あれで?」セリエスが訊いた。
「他に方法はないよ」ユティスはまるで、うなだれるようにして言った。「それに、彼女はこの先、ついてこないほうがいいと思う」
「確かに、そうかもな」セリエスはうなずく。
「遠征の時に使った刀、どこにあるかわかるかな?」顔を上げて、ユティスは訊いた。
「倉庫だと思うけど」ルルアは一瞬、不審な顔。「どうするの?」
「持っていったほうがいいと思う」
「そんなにやばいの?」キアが緊張した声で言う。
「……たぶん」
 五人はいったん倉庫に向かって、そこで装備を整えた。かかっていた鍵は、ユティスが切断した。緊急時だから、このくらいのことは仕方がない。優勝者への表彰式典が行われているらしく、院内に人影はなかった。
 剣帯と刀、それに革鎧も身につける。遠征時と同じ装備なので、手間はかからなかった。
「でもきっと危険だから、みんなは来ないほうがいいかもしれない」出発する前に、ユティスは四人のほうを見た。
 その頭を後ろから、セリエスがかなりの力ではたいた。ぱしん、という音。
「痛いよ」ユティスは目から涙がにじんだ。
「そういうのは、今さら≠チて言うんだよ、お前は」セリエスは詰問するような口調。「だからお前一人で行くっていうのか? させるわけないだろ、そんなこと」
 ユティスは頭を押さえながら、みんなを見た。
 四人とも、同じ表情だった。
「……ごめん」
 その額を、セリエスは軽く指で弾く。
「こういう時は、ありがとう≠チて言え」
「――ありがとう、みんな」
 セリエスはにやっと笑った。「じゃあ冗談はこのくらいにして、そろそろ行こうぜ。道案内のルルアが先頭だ。これで何もなかったら、俺たち馬鹿みたいだけどな」
「何もないほうがいいに決まってるでしょ」キアは馬鹿にするような顔で肩をすくめた。

 剣師院から旧市街までは、半ミル(約0・八キロ)強といった道のり。やや疲労の強いユティスの足にあわせて、五人は石畳の道を走った。
 市内に変わった様子は見られない。いつもの日常だった。逆に、五人の格好を見て驚く人のほうが多い。空は快晴で、地獄の炎が降ってくるにはいささか天気がよすぎた。
「本当にただじゃすまないかも」ルルアは走りながら、一度だけつぶやいた。
 地面が坂道に変わり、ユティスたちは丘の上へとのぼっていく。このあたりまで来ると人影は少なく、閑散としていた。ルルアは時々立ちどまりながら、それでもかなりのスピードで走り続ける。
「本当にあってるの、この道?」キアが後ろから訊いた。
「夜中で暗かったから何とも言えないけど、たぶん」
「頼もしい言葉だこと」
 それでも、ルルアの記憶は正確だった。通りから少し外れたところで、一軒の屋敷に行きあたる。鉄柵が巡らされ、宏壮な造りだったが、こうして外から見ているだけでも荒廃具合を隠すことはできない。人が住んでいるかどうかも怪しかった。
「ここ、ですか?」ミルテが顔をしかめる。五人とも、大体同じ気持ちだった。
「暗かったから、そこまでは」ルルアは鉄柵の間から透かし見た。人の気配はない。柵は風化して、ところどころに赤錆が浮いていた。
「何にしろ、行くしかないだろ」セリエスが言う。
 鉄柵についた門には、鍵がかかっていた。セリエスは何度か押してみてから、刀を抜いて切断する。見た目通りの軋んだ音を立てて、扉は内側に開いた。
 玄関には鍵がかかっていなかった。勝手に扉を開けても反応はない。入るとすぐホールになっていたが、少なくともここ何年かは掃除された形跡がなかった。外から見ているのよりひどい有様だった。
「誰かいないのか?」セリエスが大声で怒鳴ってみるが、小さなこだまが返ってくるだけだった。幽霊なら返事をしたかもしれないが、あいにくそれは聞こえなかった。
「手分けして中を探そう。何か見つけたら、大声で知らせるんだ。念のため、刀は抜いておけよ」セリエスはすばやく指示を出した。
 四人ともうなずいて、それぞれ屋敷の別方向へと散った。
 ユティスは二階に上がって、左回りに廊下を巡った。扉を見つけるたびに、乱暴に蹴り開けていく。どの部屋も使われている気配はなく、床面は埃をかぶっていた。部屋の向こうの窓からは、中庭らしい空間がのぞいている。
 五つ目の部屋を換気し終えたところで、声が聞こえた。近い。ユティスは刀を抜いたまま走った。角を曲がったところで、一つだけ扉が開いたままの部屋を見つける。
 急いで駆けよってみると、中にはキアと、見知らぬ男が一人いた。不健康にやせ細った、貧弱な男だった。よく見ると高価そうな服を着ているが、薄汚れているせいで、それはよく見ないとわからない。鼻腔を刺激する匂いが漂っていて、どうやらそれはワインによるものらしかった。床中に散乱する酒瓶を見れば、それはわかる。
 男はキアに胸ぐらをつかまれながら、にやにや笑っていた。人を小馬鹿にした顔だった。酔っているのかもしれない。少なくとも、そんなふうには見えた。
「誰なの?」ユティスはとりあえず、納刀した。
「この屋敷の主人。名前はティリオニア・ノーレ・エンシオン」キアは男の胸ぐらをつかんだまま言った。「少なくとも、本人はそう言ってる」
「エンシオン?」旧七王家の名前だ。
「どうせ、騙りでしょ」キアは言って、乱暴に情報を聞きだそうとするが、男は笑ったままろくな返事もしなかった。協力する気はない、ということだろう。ここにロキノスとトリアーノが来たかどうかさえ、わからなかった。
 そうするうち、他の三人も集まってきた。人数が増えたのを見ても、ティリオニアの態度は変わらなかった。むしろ、ますます笑いが下卑てきたようだ。
「おい、何とか言え」セリエスがつかみかかろうとするのを、ルルアが押さえた。
「ちょっと、僕に任せてみて」にっこりして、ルルアは男に近づく。
 ティリオニアはへらへら笑っていた。ルルアはその耳元にかがみこんで、何事かつぶやく。どちらかというと、愛人に睦言をささやくみたいに。
 効果は劇的だった。男の顔はさっと青くなって、表情が一瞬で凍りつく。唇がかすかに震えた。その横で、ルルアは慈愛に満ちた笑顔を浮かべている。
「ロキノスとトリアーノはどこに?」ルルアは優しく、といってもいい口調で訊いた。
 ティリオニアは堰が切れたようにしゃべりはじめた。急ぎすぎて、呂律がうまくまわらない。二人は地下室にいる。地下室は屋敷の中庭から降りられる。自分は何も知らない。あの二人とはいっさい関係がない。
「教えてくれて、ありがとう」ルルアはにっこりして、立ちあがった。
「中庭ってどれだ?」セリエスが言う。
「たぶん、あれのことじゃないですか?」窓から外をのぞいていたミルテが、指をさして言った。雑草がのび放題になった庭に、地下へ通じる階段らしいものがあった。
 五人はうなずきあって、すぐに部屋をあとにする。男はまだ床の上に座りこんでいた。もう二度と立ちあがれないんじゃないか、というふうにも見える。
「さっき、あの人に何て言ったの?」ユティスはルルアに訊いてみた。
「たいしたことじゃないよ。貴族って、大抵は金太郎飴みたいに同じなんだよね」貴族の少年は平然と言った。
 階段を駆け下りながら、セリエスはユティスにだけ聞こえるよう、ぽつりと言った。「時々、あいつのことが怖くなるんだよな、俺――」
 中庭には、良心的な庭師が見れば卒倒しかねないほどの光景が広がっていた。噴水は涸れて泥に埋まり、彫像は諦めたように倒れて床に転がっていた。石畳の上にまで雑草が茂り、足元さえおぼつかない。
 そんな、何もかもに見捨てられたような庭の先に、ぽっかりと一つだけ暗い穴が開いていた。
 まるで悪魔が嗤うみたいに。

 その地下室には、二十人ほどの子供たちが暮らしていた。
 ――およそ、七年ほど前の話だ。
 明かりとりの窓がいくつか開けられただけの、薄暗い部屋だった。頑丈さだけが取柄だと自分から主張しているような、石造りの床と壁。履き物が与えられていなかったので、子供たちは氷のように冷たい床に素足で立たなくてはならなかった。
 粗末なベッドの上には、申し訳程度の寝具が用意された。ろくに洗濯もされなかったので、そこにかけられたシーツはいつも薄汚れていた。子供たちが着るものは、白い布に頭と腕を通す穴だけがあけられた、何の飾り気もない代物だった。みんなが同じ格好をしていた。
 子供たちは大抵が孤児で、獣みたいに捕まえられるか、食事につられてここにやって来た。親に売られた、という子供もいた。何にせよ、その生死を気にする人間はいなかった。ロキノスとハユナも、そういう子供たちの一人だった。
 地下室に連れてこられた最初の日、子供たちにはある処置が施された。
 ロキノスもその処置を受けた。腕に針のようなものを刺され、そこから黒い霧のような液体を注ぎこまれた。腐敗した金属か、溶解した魔女の死肉のようなものだった。その日、ロキノスは一晩中吐き続け、胃が空になると血を吐き、それも尽きると胃の腑が口からはみ出そうになった。体がばらばらにならないのが不思議なくらいだった。
 その処置で生き残ったのは、免疫というか耐性というか、その毒物に適性を示した子供たちだった。それ以外の子供は、死んだのだろう。実際にどのくらいの数の子供が犠牲になったのかはわからない。それは冷たい数字になって、どこかの紙の上で眠っているはずだった。
 抗体を持つ子供たちには、その後も実験が続けられた。何の実験なのかは、誰にもわからなかった。次には何が起こるのか、今度は何をされるのか、子供たちはそればかりを考えた。瞳の光はどこか暗い場所にひっこみ、用心深くあたりをうかがった。誰もが地下室にあるたった一つのドアが開くことを、現実的な幽霊がやって来るみたいに怯えた。
 それでも子供たちは互いに、ある種の小動物みたいに協力しあった。痛みや不安で泣いている子供がいれば、誰かがその手を握りしめてやった。年上の子供たちが、幼い子供に子守唄を歌ってやったこともある。
 ロキノスは忘れない。
 出て行ったきり二度と戻ってこなかった少年が、開いた扉の前で見せた笑顔を。シーツを頭からかぶって泣きじゃくりながら、お母さん助けてとつぶやいた子供のことを。ろくな分量などない食事を、翌日には死んでしまった、体の弱った友人に分けてやった少女のことを。
 子供たちはその場所で、誰もが一人の神様を信じていた。
 自分たちを救ってくれる、神様のことを。
 でも結局――
 その神様は、現れなかった。
 子供たちがみんな死んだとき、生き残ったのはロキノスとハユナだけだった。二人はその後、悪魔教団に拾いあげられた。教団の教えを聞いてわかったのは、その神様があの場所で子供たちが信じていたものとはまるで違う、ということだけだった。その神様は意地が悪く、けちくさかった。
 ロキノスとハユナはたった二人だけで、あの場所にいたはずの神様を信じ続けた。

「どうしたんですか?」
 トリアーノに声をかけられ、ロキノスははっと我に返った。地下室は以前に暮らしていた場所とは似つかないものだった。それでも、部屋の隅にある暗闇がどこかでつながっているのか、同じ空気を感じた。少し気分が悪い。
「いえ、大丈夫です」ロキノスは首を振った。
 あらためて、その地下室を見まわす。ワイン庫や、穀類の貯蔵庫といったものでないことは確かだった。何の目的か、壁に鎖をつなぐための鉄環がはめられている。床や壁面のところどころに、黒ずんだ染みのようなものがあった。部屋全体に、あとから無理につけたされたような歪みを感じた。四方から松明の明かりで照らされてはいたが、部屋が広いために大部分は暗闇の中に沈んでいる。
 そこに何が置かれ、何の目的で使われていたにせよ、今はただ何もない空間が広がっているだけだった。いや、正確には何もないわけではない。床一面に、直径十ミル(約九メートル)の魔法陣が描かれていた。それに附随するように、小魔方陣が六つ。どれも不可思議な文字や図形がびっしりと書きこまれている。暗闇にぼんやりと赤く発光して浮かび上がるその図像は、禍々しい邪気を放っていた。悪魔召喚用の魔法陣だった。
 トリアーノは図形や文字のいくつかを確認するように歩きまわってから、ロキノスを円の中央に移動させた。そこだけが孤島のように、何も書かれていない。空白の上に立ちながら、ロキノスは長いため息を吐いた。
「もう、やめにしませんか」
「え?」後ろから、トリアーノの声。しゃがんで、何か点検しているようだ。「何をですか?」
「計画が失敗したのは明らかです。これ以上は何をしても無駄です」
「まあ、できれば君にうまくやってもらいたくはありましたけどね」トリアーノの口調は変わらない。鼻唄でも歌っているようだった。「しかし計画はまだ終わっていませんよ。二段階目です」
「少しくらい悪魔を召喚したって、どうにもなりはしませんよ」
「悪魔の力はそんなものじゃありません」トリアーノは世間話でもしているようだった。
「まだわからないんですか?」ロキノスは言った。「あの七剣の前じゃ、悪魔なんてろくな戦力にはなりませんよ。いったい何を召喚するつもりか知りませんが、こんなのは無意味だ」
「何を勘違いしているのか知りませんが、私たちが呼び出そうとしているのは、そんなちんけなものじゃありませんよ――」トリアーノは不意に声をとがらせた。意外なほど、近い。ロキノスがはっとしたときには、もう遅かった。
 ロキノスの口から、気泡の混じった血があふれる。胸の先から、見慣れないものが突き出ていた。刀の切先だった。そこから赤い血が、滴り落ちる。肺を貫かれたため、血は目を射すような鮮紅色だった。
 意識に暗い影が走って、ロキノスは床の上に崩れた。そのことが、まるで他人事みたいに認識される。体の中から、生命の元になるものが急速に失われつつあった。
「君には私たちの実験の、大いなる礎になってもらいます。なりそこないの君にすれば、これは大変な名誉ですよ」トリアーノの哄笑が聞こえる。
 地下室の扉が勢いよく開いたのは、その時だった。

「トリアーノ、か?」真っ先に部屋の中に踏み込んだのは、セリエスだった。暗闇に目を細める。
「おやおや、これはこれは珍しいお客さんだ」トリアーノは扉から現れた人影を見て、大げさに肩をすくめた。特に、ユティスのことを見て。
 一見して、室内の光景は異様だった。床には悪魔召喚用とおぼしき魔法陣。その中心にはトリアーノと、おそらくはロキノス。ロキノスは体を背後から刺し貫かれ、地面に倒れている。
 トリアーノは倒れたロキノスの背中に足を置き、刀の柄に手をかけた。引き抜こうとしている。
「やめろ――」ユティスは思わず大声で怒鳴った。ロキノスはまだ死んでいないかもしれない。
 それを聞いて、トリアーノはにやっと笑ったようだった。そのまま手と足に力を入れ、一気に引き抜く。ロキノスの体は一度だけ痙攣し、その下に黒い染みが広がった。出血が激しい。
「何で、ロキノスを――」ユティスにしては珍しく、声が震えていた。
「実験ですよ、実験。彼はその材料」トリアーノは懐紙を使って血を拭いながら、午後の天気についてでも話すように言った。
「材料だと?」セリエスは表情を険しくした。隣で、今にも飛び出しそうなユティスを押さえている。
「ま、もっとも品質のほうは二級品になりますけどね」
「どういう意味よ」キアは眉をひそめた。
「そのままの意味ですよ、キア・ユフェンツ。彼はなりそこないなんです。〈十一人の悪魔の子〉、つまりそこにいる、ユティス・シスハ君のね」
 その場にいた全員の注目が、ユティスに集まった。
「悪魔戦役終了後、間もない頃のことです。ある男が、奇妙な実験をはじめました。もちろん、非合法にね。何でもその男は、人間を悪魔にする研究をしていたとか」
「人間、を……?」ミルテが信じられない、というふうにつぶやく。
「いったい何でそんなことを思いついたのかは知りませんが、彼はある方法を着想しました。それは、悪魔の血を人間に移植する、というものです。人間としてはともかく、研究者としては優秀だったのでしょうね。普通は気化してすぐに消えてしまう悪魔の血を、その男は長時間保存できるように工夫しました。そしてその血を、手当たり次第、人間に投与していったのです」
 トリアーノは続きを話すべきかどうか、様子をうかがった。もちろん、話の続きは要求されていた。トリアーノは口上師のような得意さで続けた。
「実験はあまりうまくいきませんでした。大抵の人間は、その血に耐えられないのです。ほとんどは血反吐を吐いて死ぬか、苦痛に耐えかねて自ら事切れました。ひどい話ですが、その実験は何の成果もあげられないにも関わらず、延々と続けられました。条件を変え、投与体を変え、様々な方法が試みられました。すると、実験結果にある傾向が見られはじめました。つまり、魔力が高いこと、子供であること、この二つが実験に有利に働くことがわかったのです」
 トリアーノはいったん話をきった。そのあとのことは、言わずとも予想のつくことだからだ。つけたしみたいに、トリアーノはその部分を簡単に済ませた。「長年の実験によって、最高傑作とも言うべき完成品が十一体出来あがりました。その後も実験そのものは各地で続けられましたが、ほとんどは成功せず、作られるのも粗悪品にすぎませんでした。つまり、このロキノス君のような、ね」
「何でユティスがその十一人の一人だとわかる?」セリエスが詰問した。
「実のところ、まだ確信はないのですよ」トリアーノは悪びれもせずに言った。「ただ、はじめて会った授業で彼が倒れたこと、隠してはいるが相当の実力らしいこと、それにシャトレンの森で見せた対悪魔戦での動き――そういうことを総合して考えると、どうもこれは怪しいのではないか、と思いましてね。しかしそれより――」トリアーノはちらっと、床のロキノスを確認した。
 ロキノスの体には、奇妙な変化が起きはじめていた。
 血管が黒く浮き上がりでもするように、その全身に黒い痣が生じている。刺青に似たその痣は、かすかに脈動していた。それにあわせているのか、魔法陣の光がぼんやりと明滅する。
「何だ?」セリエスは慌てて線の上から足をどけた。魔法陣は床を刻みこんだ上に染料を流したものらしく、簡単には消せない。
「忠告しますが、あなたがたは早く逃げたほうがよいですね」トリアーノはくっくっ、と笑っている。「私たちの目的はあくまで皇帝その人ですから。それに、ここでユティス君に死なれるのは困るんですよ。あなたのことは教団へのいい手土産になるんですから」
「何だか、まずい気がするけど」ルルアが笑いそこねたみたいに口元をひきつらせた。
 セリエスはとっさに刀を抜いて逆しまに立て、刻線に斬りこもうとした。だが、刀は金属音を立てて跳ね返された。魔法陣にはもちろん、傷一つついていない。
「ああ、無駄ですよ、そんなことをしたって」トリアーノは親切そうな口調だった。きっと、自分でもそう思っているのだろう。「契約が完了すれば、通常の手段での魔法陣破壊は不可能です。何故、地獄門がいまだに残っているのか、考えてみてください」
 ロキノスの体は、いまや全身の痣がすっかり定着したように鮮明になり、魔法陣の光は役目をまっとうしたのか、徐々に弱まりつつある。そこからは、何かのエネルギーがロキノスの中に注ぎ込まれているかのようだった。とても兇悪で、高密度な何かが。
 魔法陣の光が完全に途絶えたとき、ロキノスは立ちあがった。他には、誰も動けなかった。
 それは、少なくとも見た目にはロキノス・オルドールであることは間違いない。
 だが、その体には複雑な紋様のような黒い線が刻まれ、開いた目は瞳が赤く、眼球の部分は黒く変色している。何かが、ロキノスの体に起こったのだ。
「何だ、これは?」ロキノスは自分の手を見ながら言った。声には、金属をこすりあわせたような荒い摩擦音があった。
「気分はどうですか、ロキノス君」トリアーノは平然とした顔で言う。
 ロキノスは苦悶に満ちた目でトリアーノをにらんだ。それからふと気づいて、胸の傷を探る。刀で貫かれたはずの傷は、服の上以外どこにも残っていなかった。
「〈悪魔化〉です」見透かしたような、トリアーノの声。
「何だと?」ロキノスは不快そうに顔を歪めた。
「言ったでしょ、これは実験だと。粗悪品とはいえ、君には悪魔の血が流れています。それを使った実験です。この大きな甲種魔法陣、これは悪魔を呼び出すためのものです。それからまわりにある丙種魔法陣、これはそれを制御するための――といっても君にはどうせわからないでしょうね。簡単に説明すると、君の体に悪魔を憑依させる実験、とでも言っておきましょうか」
「俺の体に、だと……?」
「ええ、だから私としても気になっているわけですよ。今の気分はどうですか、とね」
 そのトリアーノの言葉に反応するように――
 ロキノスの中で、何かが弾けた。
「ぐぁああああ――」
 心臓を押さえて、ロキノスは身をくの字に折り曲げた。体内で何かが蠢動しているのか、皮膚が怪しく波打っている。
「やはり、拒絶反応ですかね」トリアーノはひどくつまらなそうに言った。
 次の瞬間、鉄粉のような黒い飛沫をあげてロキノスの顔の一部が吹き飛んだ。剥離した肉片の下から、漂白された骨を思わせる白い何かがのぞいている。
「いったい、どうなってるんだ――!」ロキノスが飛散した顔面の近くをかきむしると、それはぼろぼろと簡単に崩れていった。
「悪魔化は現時点では実験の一部にすぎません。失敗は想定内」トリアーノは言った。「ですが、本当の目的はその次、君の体を媒体にした上位悪魔〈メクトセトラ〉の召喚にあります」
「貴様……!」ロキノスはトリアーノにつかみかかろうとした。
 だが、その動きは途中でとまる。見えない糸に操られるように。
「ああ、私をどうにかしようとしても、無駄ですよ。契約条件には、召喚主への反抗は許可しない、とありますから」
 ロキノスは苦痛の言葉さえ失ったように、激しくトリアーノのことをにらんだ。そのあいだにも、ロキノスの体は内側から崩壊を続けている。黒い飛沫が散り、悪魔の特性に従ってそれはすぐに消えていく。
「心配はいりませんよ、君の妹のハユナ君も、いずれは同じ実験に利用されますから」トリアーノはどちらかといえば慈悲深い、とさえいえる笑顔。「元々、彼女は君が暗殺に失敗して死んだ場合の、召喚用媒体だったんですからね」
「――!」
 ロキノスの体に、わずかな変化があった。震えがとまり、一瞬だがその制御を取り戻す。
 それをロキノスは逃さなかった。
 刹那の時間に抜刀を終えると、トリアーノの反射すら許さず刀を斬閃させる。肩口から袈裟がけに斬られたトリアーノは、一言も発しないまま倒れた。その唇を、かすかに微笑させながら。
 ロキノスはすべての力を使い果たしたように、刀を床に落とした。
 その時になってようやく、五人の時間は動きはじめた。事態は再び混沌を呈している。
「どうなってるの、これ?」キアが困惑したように言った。
 トリアーノによる悪魔化の実験は失敗し、今度は悪魔化に失敗したロキノスがそのトリアーノを斬殺した。ロキノスを媒体とした悪魔召喚は、今も続いているのか。
「契約者がいなくなった以上、召喚は無効かな?」ルルアが自信なく言う。
「でもトリアーノをやっつけたのはロキノスで、履行条件が破棄されたわけじゃありません」ミルテも混乱しながら叫んだ。
「何にしろ、今はロキノスを斬るのが先だろう」セリエスは刀を構える。「召喚媒体がいなくなれば、召喚自体を止められるかもしれん」
「待って――」ユティスは首を振った。セリエスはすでに走り出す寸前。「まだ、ロキノスを助けられるかも」
「悪いけど、それは無理だ」セリエスは迷わなかった。「あれを見ろ」
 魔法陣の中央で、ロキノスの体はすでに半分ほど吹き飛んでいた。黒い血が、霧のようにあたりを漂っている。もはやロキノスに意識があるのかどうかさえわからなかった。
「もう、助からない。今のうちに死なせてやれ――せめて、人間のうちに」
「でも――」
 その時だった。
 ロキノスの体が、一瞬だけ止まった。
 血飛沫がやみ、体の崩れもなくなる。ロキノスは跪き、両手を胸の前で組みあわせた。
 彼が最後に、どんな神様に祈ったのかはわからない。
 次の瞬間、ロキノスの肉体は黒い闇に飲まれるように爆散した。おそらくは、魂と呼ばれるものと一緒に。広がった闇は急速に形を成し、濃縮してわずかに小さくなった。まるで世界を無理やり捩じ曲げるようにして、そいつは姿を現した。
 奇形の牛骨に似た、乳白色の頭部。暗い眼窩には、紅玉に似た赤い眼球がはまっていた。襤褸をつなぎあわせたマントを身にまとい、しかしその中は空洞。その穢れを大地のほうが忌むかのように、地面からわずかに浮遊し、低い天井のせいで窮屈に身を折り曲げている。まっすぐに体をのばせば、人の二倍はありそうな背丈。手甲に覆われた両手は肩口のあたりでそれだけが浮遊し、右手には破城槌を思わせる巨大な剣を握りしめていた。まわりの風景がにじむほどの、暴悪で圧倒的な魔力密度。
「あ、ああ――」
 声がした。
 悪魔のではない。
 ユティスだった。刀を握りしめ、ユティスは今にも泣き出しそうな目でその悪魔をにらんでいた。子供の癇癪と同じだった。悲しみと怒りが、頭の制御線を焼き切ってしまっている。普段、そんな感情からは隔離されているだけに、いったん囚われると見境などなかった。
 悪魔はそれを、じっと見つめている。
 ユティスは絶叫しながら抜刀して、走り出そうとした。何も考えられなかった。ただ、目の前の憎悪の元を叩き壊してやりたかった。自分の体の中にある激情を、一刻も早く放出したかった。
 悪魔は弓を引くように、剣を構えた。
 地面を蹴って、ユティスは悪魔のほうへ駆け出した。その刹那に、まさしく矢のような速度で悪魔の剣が飛来した。想像よりずっと速い。
 かわせない、と辛うじてユティスの冷静な部分が判断した。同時に、それさえどうでもよいほどの激昂が頭にある。
 直撃を受ける寸前、誰かが横から体あたりをしてきた。
 ――セリエスだった。
 体の位置がずれて、悪魔の打突はユティスの脇をかすめた。本来、ユティスのいたはずの場所に、セリエスの姿がある。
 その光景は、ユティスの目には変なスローモーションとして映った。セリエスの口元は、何かを叫ぶように形を作っていた。
 その次の瞬間、ユティスたちは知らない場所に立っていた。

10

 どういう種類の光なのか、部屋の中は明るかった。白い陶器のような材質が全面を覆い、黒い線で長さ二レーネ(約一・八メートル)ほどの升目が正確に書かれていた。部屋、とその空間を呼ぶべきかどうかは怪しい。何しろその場所には、入口も出口もなかったから。完全な密室。ただし、かなりの広さがある。学院の大修練場くらいはあるだろうか。
 中央には、例の襤褸をまとった悪魔がいる。トリアーノの言葉が正しければ〈メクトセトラ〉という名前のはず。
 ユティスたちはそこからかなり離れた、部屋の隅に近い位置に立っていた。
「どこなんですか、ここ?」ミルテは努めて冷静に言った。本当は、頭を抱えて叫び出したかったかもしれない。
「……たぶん、あの悪魔の能力」ユティスはつぶやくように言った。もう、その声は震えていない。いつも通りのユティスだった。
「どういうこと?」ルルアが遠くの悪魔をうかがいながら訊く。メクトセトラはその場にとどまったまま、動く気配を見せなかった。
「条件発動だよ」ユティスは言う。「上位悪魔が持つ能力だ。これが発動すると、その条件を満たさない限り悪魔を倒すことはできない。あのメクトセトラとかいうやつは、たぶん対象者をこの密室空間に引きずり込む力があるんだ」
「引きずり込んで、どうするんですか?」ミルテは気の進まない顔で訊いた。
「おそらく、ぼくたちがあいつを倒すか、ぼくたちが全員死ぬかするまでは、ここから出られない」
 空間には相当の広さがあった。仮に外部との空気循環がなかったとしても、簡単に酸欠状態になったりはしないだろう。しかも距離があるせいか、悪魔がこちらに向かってくる気配はない。つまり、このままじっとしていれば、ずっとそのままということだ。餓死するか、自死でもしないかぎりは。
「ここは棺桶ってわけだ。あいつは死神。すごく準備がいい、サービスがきいてる」ルルアは皮肉っぽく笑った。いつもの余裕のある笑顔ではない。
「……セリエスはどうしたの?」不意に、キアがぽつりと言った。キアは一人だけ、地面に座りこんでいた。
 この場所にいるのは、ユティス、ルルア、ミルテ、キアの四人だけ。セリエスの姿はない。
「大丈夫、心配ない」ユティスはキアのほうを見ずに言った。「たぶん負傷が激しくて、気を失ってるんだ。だから、ここには呼ばれなかった」
「意識がないから?」キアの言葉に、ユティスはうなずく。
 だが、トリアーノもここにはいない。それは、死んでいるからではないのか――
「とにかく、今は目の前の敵に集中したほうがいい。でないと、ぼくたちが死ぬことになる」
「死ぬ、死ぬって?」キアは半狂乱に叫んだ。「相手は上位悪魔なんでしょ? わかってるの? 大戦中、何人も何百人も剣師を殺してきたやつなんでしょ? ねえ、授業で習ったこと覚えてる? 敵いっこないでしょ、私たちなんか。だってまだ、正式な剣師ですらないんだよ。それなのにどうしようってわけ? あいつを倒せるとでも?」
「やってみないとわからないよ」ユティスは言う。
「やってみる?」キアは右手を、架空の心臓でもつかむみたいに閉じたり開いたりした。そして自分でも混乱して、首を振る。「――わかってるでしょ。もうやったじゃない、ついさっき。ユティスはあいつの攻撃をかわせなかった。あれだけの武器を、あんなスピードで振るうことができる。冗談じゃないよ。こんなの訓練でだってやってない。力の差がありすぎる。どうやってって勝てっこない。私たちはここで死ぬのよ。あいつに殺されるか、さもなきゃ自分で死ぬかして!」
 その時、空気の破裂する甲高い音が響いた。
 キアは叩かれた頬を押さえようともせず、呆然としている。ミルテは手を振りきったまま、キアのことをにらんでいた。たぶん、精いっぱいの力をこめて。
「しっかりして、キア。あなたはそんな弱い人間じゃないはずです」
 キアは海底に沈んでいく石みたいに、ふっと下を向いた。「――倒せるわけがない」
「私はもう、諦めるのはたくさんです。例えそれが人間でも、悪魔でも同じです。これ以上、何もしないまま大切なものを失くしたくありません」ミルテは思いがけないほど強い声で言った。
「…………」
「僕も同意見かな」ルルアはかすかに笑った。いつもほどではないにせよ、ルルアらしい笑顔だった。「それにまだ、今日のことを手紙に書いてないしね」
「……セリエスは、生きてるの?」キアはつぶやくように言った。
「きっと」ユティスは答える。
 それを聞いて、キアは立ちあがった。刀の柄を握り、ゆっくりと鞘走らせる。
「なら、早くあいつを倒してセリエスを起こしに行かなくちゃね」
 四人はそれぞれ刀を構えて、悪魔に向き直った。
「作戦は?」ルルアがユティスに訊く。この中で一番実戦経験が豊富なのは、ユティスだった。
「ぼくが正面、二人は後ろから」ユティスは即座に指示した。「ミルテは静≠ェ使える?」
 それは天流の型の一つで、術の効果範囲にいる味方の精神を鎮め、魔力を安定させるものだった。通常、上位悪魔と対峙する場合はこうした天想流による支援が不可欠になる。
「できます」ミルテは簡潔に答えた。
「じゃあ、お願い」
 本来なら、悪魔を三方から囲み、残る二人が支援、もしくは交代要員として控えるのがセオリーだった。けれど、セリエスはいない。閉じこめられたこの状態で、味方の増援は期待できない。今は、今できることをやるしかなかった。
「攻撃範囲に入ったら、たぶんあいつは動いてくる。ぼくが行くから、二人はそれから後ろにまわって」ユティスはそれから、言った。「二つ、忠告しておく。一つは、もし味方がやられても動揺しないこと。もう一つは――」
「その前に、味方がやられないよう気をつけること」ルルアは片目をつむった。
 ユティスは少し笑う。「そういうこと」

 作戦通り、まずはユティスが正面から斬りこんだ。悪魔はそれに気づいて、動きはじめる。機械のような反応。案外、本当に機械かもしれない、とユティスは思う。そうした思考を空白に解かし、雑念を除去する。目の前の敵に集中。
 まだ距離があるにも関わらず、強い魔力の圧力を感じた。皮膚が粟立ち、実際に手で押されるような圧迫感――それが、すっと軽くなる。ミルテの術型が発動したのだ。
 刀を構え、ユティスは間合いへと踏みこんだ。
 悪魔はその長大な剣を振り上げ、真っ向から斬り下ろしてきた。まるで、風車のような風切り音。その剣幅だけで、ユティスの体くらいはある。そのくせ、斬速は相当だった。
 だが、突き通しに比べると、予備動作がやや長い。動きは直線的で、変化に乏しかった。
 冷静になりさえすれば、対処は可能。
 ユティスは念のため、剣を大きくかわす。悪魔の剣は思いきり地面を叩きつけたが、派手な音がしただけでどちらにも傷一つつかなかった。よほど特殊な素材でできているのだろうか。
 正面でユティスがメクトセトラをひきつけるあいだに、ルルアとキアは後方へ。ミルテはやや離れた位置で待機した。これで、陣形は完成。
「落ち着いて、相手の動きをよく見れば大丈夫。危なくなったら、距離をとって逃げて」呼びかけて、ユティスは魔力と体力を活性化させた。どの道、目の前の悪魔を倒さなければ、この場所からは出られない。
 二人の動きを見ながら、ユティスは星燕で斬りかかった。この中で一番厄介なのが誰かわかるのか、メクトセトラはもっぱらユティスを戦闘対象として扱った。ユティスにとって、それは好都合だった。できるだけ囮になるように動きながら、二人に斬撃の機会を作ってやる。
 しかし悪魔の実体がどこにあるのかわからず、致命傷を与えるのは難しかった。襤褸の部分をいくら斬りつけても、ほとんど変化はない。その頭部は位置が悪すぎて、簡単には一撃できなかった。時間がたつにつれて、四人の疲労だけが蓄積していく。
 特に、ミルテのそれがひどかった。消耗の激しい術型を使っているのだから、当然だった。それに、ユティスの星燕はともかく二人の持つ刀は鈍らで、次第に損傷しはじめている。襤褸のようなマントが意外に硬いうえに、手甲をはめた一撃を受けるだけでも刃こぼれがした。
 手詰まりだった。四人とも、それを感じていた。
 本来、上位悪魔に対しては上級剣師がチームを組んで対策を練り、万全の装備を持って望むのが妥当なのだ。それを、ろくな装備もなく、実戦経験は浅く、チームは一人欠け、敵の悪魔の情報さえなく戦うというのが、そもそも間違いなのだ。しかし、この悪魔からは逃げることもできない――
 こうなれば、できることは一つ。
 リスクを冒すしかない。
 一瞬、隙ができたのを見て、ルルアは後ろから飛びかかった。跳躍で足りない分を補うため、襤褸をつかんでよじのぼり、頭部へ斬撃をくわえようとする。
 正面からそれを見ていたユティスは、ルルアに向かってすぐにマントを手放すよう叫んだ。
 メクトセトラは剣を逆手に持ち、それを自分の体に突きたてようとしていたのだ。
 中は、空洞。なら、その剣は問題なくルルアの体を貫くだろう。
 ユティスの指示は、けれど間にあわない。どちらにせよ、ルルアには死角だった。避けられない。とっさに、ユティスは一歩踏みこんだ。メクトセトラの剣を何とか止めようとする。
 けれど――
 あるいはそれも、誘導だったのかもしれない。
 不用意に踏みこんだユティスに、マントに隠れるようにして飛来した左拳を避けることはできなかった。
 頭部を直撃されたユティスは、二レーネほどの距離を吹き飛び、転がり、そこで停止した。その体は、ぴくりとも動かなかった。

 気がつくと、ユティスは知らない男を刺していた。
 男は、覆いかぶさるような位置。身長の関係なのか、その顔はユティスよりだいぶ上のほうにあった。太陽を背にしているのか、その姿は逆光。影になって全体はよくわからなかった。
 不思議なことに、男の両手は刀を持ったユティスの手首を握りしめていた。男がユティスの手を使って自分を刺している、あるいは刀を動かせないよう固定している、という状態。どちらなのかは、わからなかった。
 刀の柄を握る自分の手は、ユティスが知っているのよりずっと小さかった。まるで、そういう手袋でもはめているみたいに。でもそれは、間違いなく自分の両手だった。つまり、これは昔のこと。自分がまだ小さかった頃の、記憶の再現なのだ。
「――おい、よく聞いておけよ」男が言った。
 その口端から、血が流れ落ちている。内臓を破損しているのだ。たぶん、致命傷だろう。手元の感覚で、ユティスはそれがわかった。
「お前の悪魔化を封印するために、記憶の一部に鍵をかける。だからお前は、自分に何があったのかを忘れるだろう。昔のことは覚えているが、それにも影響が出るかもしれん。感情とか、想念とか、そういうものにな。しかし今のところ、それ以外に有効な方法は思いつかん」
 男の横から、誰かが姿を見せた。レテノとバルステッドだった。二人とも負傷して、疲弊していた。もちろん、目の前の男ほどではなかったにしろ。
「それからもう一つ、俺の魔力の一部を渡しておく」男は二人にかまわず、しゃべり続けた。咳き込むと、どす黒い血がどっと地面を濡らした。「……まだお前には扱えんだろうが。それでもないよりはましだろう。うまく使えば、悪魔化を抑えこむ助けになるかもしれん。とにかく、今はこんなものしかお前にやるものがない」
 それから、男は口元を歪めた。笑おうとしている。だがそれは、笑顔というにはあまりに凄惨なものだった。「すまんな、ユティス。本当はお前ともうちょっと一緒にいて、いろいろ教えてやりたかったんだが、そいつは少々、難しいみたいだ」
 そう言って、男はそっとユティスの左眼に手をのばした。
 子供を眠らせるみたいに、その片方のまぶたを優しく閉じてやる。
 男はそれを見て、もう一度笑った。今度はずっと、人間らしい笑顔だった。それから、地面に倒れる。もう心臓さえ止まっていた。
「――――」
 ユティスは刀を握った格好のまま、泣いていた。その顔に表情はない。自分でもどうして泣いているのか、わからなかった。まるで体の機能の一部が故障したみたいに。
 でも、考えてみれば当然のことだった。
 たった今、自分の父親が死んだのだ。それも、自分の手によって。
 ジノア・シスハは、ユティスを救うためにその刀を我が身で受けとめ、ユティスの記憶を封印した。それが、三年前に起こったことだった。
 その光景を、ユティスはあらためて認識した。子供のユティスが、わけもわからずに泣いている。どこにも行きつかない涙だった。誰のためでもない涙。
 いつの間にか、あたりは暗くなって、ユティスはうつむいてその暗がりに身を任せた。
 結局、そうだったのだ。自分には誰も救えなかった。母親も、妹も、父親さえも。家族はみんな、自分の犠牲になった。そうして、自分だけが生き続けている――
 小さなハミングが聞こえた。
(……お母さん?)
 ユティスが顔を上げると、暗がりの向こう側に母親と妹が立っていた。夢の中と違って、二人は黒いガラスの結晶体ではなかった。きちんと、生きている。
「もう、しっかりしてよね、お兄ちゃん!」いきなり、リリアは言った。
(……しっかりって、何が?)ユティスはぼんやり訊き返す。
「お兄ちゃんにはまだ、やらなくちゃいけないことがあるでしょ」
(だって、ぼくは二人を守れなかった。それに、お父さんも……)
「――顔を上げて、ユティス」母親のロミナが、そっとユティスの肩に手を置いた。
 懐かしい感覚。陽だまりにきらきら光る、小さな水たまりになったような。
「あなたには、まだできることがある。思い出して、大切なことを」
「そうだよ、お兄ちゃん」リリアは元気よく言った。「お兄ちゃんには、これをあげるから」
 そう言って――
 二人は手のひらに何かを乗せて、ユティスのほうへと差し出した。
 とても温かくて、とても優しい何かを。
 ユティスはそれを、月から落ちてきた白い光の一雫みたいに受けとって――

 意識をとり戻すと、目の前にはミルテがいた。体の感じから、横になっていることがわかる。ミルテは膝をついたまま、顔をくしゃくしゃにして涙を流していた。朝露みたいな大粒の涙が、頬を伝って落ちる。
「……どうして、泣いてるの?」
「だって、もうだめかと思ってたから」ミルテはしゃくりあげながら、両手で目を押さえた。
 療≠フ感覚があった。たぶん気を失ってからずっと、ミルテがそばにいてくれたのだろう。
 ユティスは体を起こして、状況を確認した。ユティスとミルテの二人は悪魔からだいぶ離れたところにいた。ルルアとキアは、二人だけで悪魔と戦っていた。気絶してから、それほど時間がたっているとは思えなかった。たぶん、五分か十分、そんなものだろう。けれどミルテの支援もなく戦っている二人は、もう限界だった。ルルアは左腕を負傷したのか、右手だけで刀を操っている。キアは全身に傷を負って、動きが鈍くなりかけていた。
 それでも二人が戦っているのは、ユティスを守るためだろう。攻撃をやめてしまえば、悪魔はユティスのほうへ向かうかもしれない。
 ユティスは立ちあがって、傍らに置いてあった星燕をつかんだ。少し休んだのと、ミルテのおかげで、体は意外と軽かった。少なくとも、戦える程度には。
「どうするつもりなんですか?」ミルテが慌てて言った。
「あいつを倒して、元の場所に帰る」ユティスは重さと腕の具合を確かめるように、両手で刀を握る。
「無理です」ミルテは悲痛な顔をした。
「大丈夫」ユティスは笑顔を浮かべた。たぶん、今までで一番人間らしくて、優しい笑顔を。「必要なものは、もう、みんなもらったから」
 ミルテは唇をかむように下を向いた。膝の上でぎゅっと二つの拳を握る。「一つだけ、お願いがあります」
「なに?」
「絶対、負けたりしないでください」
 ユティスはその言葉が自分の体にしみこむのを待つように、少ししてから言った。「――了解」
 それから身を軽くするため、ユティスは革鎧を脱ぎ落とす。おそらく、これからの戦闘でこれが必要になることはないだろう。勝負はすぐに決まるはずだった。どちらが勝つにせよ、負けるにせよ。
 悪魔の左腕を斬りつけたルルアの刀が、強度限界を超えて真っ二つに折れた。キアが援護に入るあいだに、ルルアは間合いの外に離れる。折れた刀を、ルルアは呆然と見つめた。武器さえ、もうもたない。
 そこに、ユティスが現れた。試合場に進んでくるような、静かな登場だった。
「あとはぼくに任せて、二人とも下がっていて」ユティスは言った。
 二人とも、反論もせずにすばやく間合いの外へと逃れた。そういう雰囲気が、ユティスにはあった。どちらにせよ、もう限界でもある。あとはユティスに頼るしかなかった。それでだめなら、もう勝ち目はない。
 ユティスが出現したのを見て、メクトセトラは二人にかまわず向きを変えた。この悪魔は、相手が複数の場合はもっとも魔力の高い人間を攻撃対象に選ぶようだった。
 距離をとって、ユティスはメクトセトラと対峙。
 意識をごく狭い範囲に集中させ、ユティスは魔力を極活性させた。レテノから万が一のときにだけ使用を許可された、裏の天流による術型だった。通常の体法では得られない、限界を超えた動きを術者に強制する。
 それから、左眼に魔力を収斂させた。
 ずっと以前に、受けとっていたもの。
 今なら、その使い方がわかる。不完全な、ただ感覚が研ぎ澄まされるだけのようなものとは違う、本当のその力を。
 ユティスは一度、そっと目を瞑る。
 次にそれを開いたとき、その型は完全に発動していた。
 同時に、悪魔が大剣を振るう。ユティスはほとんど無警戒で踏みこんだ。悪魔の剣は当たらなかった。当たらないというより、むしろそれは、最初から当てるつもりがなかったようにさえ見える。
 竜眼
 ユティスの左眼は、黄金色に変じ、瞳孔は縦に長く裂けていた。
 天流の究極型と対を成す、秘奥型。個人差によるその特殊な型は、限られた魔力の持ち主だけが身につけることができる。適合者以外に、その型を身につけることはできない。特級剣師になるための、条件の一つでもあった。
 ユティスは剣を振り切った悪魔の右手に対して、無造作に刀を一閃させた。手甲のあいだにあるわずかな隙間を狙ったのだ。針の穴ほど小さなその間隙も、今のユティスには棒よりも大きく見えた。外しようがない。
 膨大な量の魔力を左眼に集めた結果、ユティスの視力は通常をはるかに超えた力を手にしていた。相手の動きの一つ一つ、空気の流れ、そうしたものを時間の痕跡さえ含めて把握することができる。その能力からは、どんなものも逃れられなかった。絶対視というほどの力を、ユティスは手にしている。
 手甲を一撃されたメクトセトラは、悲鳴に似たものをあげて剣を取り落とした。ユティスはその隙に、さらに間合いをつめる。階段をのぼるような何気ない動きで、その左手に足を乗せた。そこを足場に、跳躍。頭部の角をつかんで、肩口に足を着地させた。
 そこまで、一呼吸ほどの時間もない。
 ユティスは手の内でくるりと刀を回転させると、一気に悪魔の眼窩に突きたてた。
 空気の一粒一粒を破砕するような、悪魔の悲鳴。まともな人間なら、それを聞いただけで足がすくみそうな絶叫だった。
 だが、ユティスは容赦しない。さらに刀を深く差し込んだ。
 赤い瞳はガラスのように割れ、傷口からは悪魔の黒い血が吹き上がった。その血はユティスの体を墨のように染める。この空間が特殊なのか、悪魔の血は蒸発せず、いつまでもその場所に残り続けた。
 メクトセトラは左手を使って、ユティスを払い落とそうとする。だがその動きを、ユティスは完全に見切っていた。木の葉を軽く振り払うほどの仕草で、ユティスは飛来した左拳の軌道をわずかに逸らす。メクトセトラの左手は、轟音を上げて宙を切った。
 刀を両手で握ると、ユティスはそれを一気に引き抜いた。栓がなくなって、血が激しく吹きあがる。
 もほや、メクトセトラに力はなかった。
 浮遊する機能さえ失ったように、その体はゆっくりと地面へ下降する。ユティスはその前に肩から飛び降りて、地面に立った。
 竜眼≠ナ見るまでもなく、結果は明らかだった。
 悪魔はその生命力のほとんどを失っていた。両手は子供の投げ捨てた玩具みたいに地面に転がり、襤褸の上に乗った頭部は、その瞳から急速に光が失われつつあった。かすかに聞こえる断末魔さえ、消えかけたロウソクの炎のように弱々しい。
 やがて、メクトセトラの動きは完全に停止した。
 悪魔は死んだのだ。
 同時に、まわりの風景が歪み、白い壁や床が消えていく。気がつくと、ユティスたちは元の地下室に立っていた。四人とも、意外なほど近い場所にいる。以前の座標に戻った、ということなのだろう。
 完全に光を失った魔法陣の中心には、一本の刀だけが残されていた。
 ロキノスの姿は、どこにもない。
 ――天使の体は塵一つ残すことなく、消え去りました。魂の一欠片さえ、残すことなく。
 どこかで、そんな声が聞こえた。

――Thanks for your reading.

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