[剣師と悪魔]

[星へ至る道]

 学院の廊下を、見なれない人物が歩いていた。子供のように小さな体で、一番暗い夜の闇を切りとったような黒い髪。きれいなアーモンド型の瞳に、春の若葉を思わせる柔らかな輪郭の顔立ちをしていた。未成熟な、ふくよかとはいえない少女の体型。じっとしていると、完全な人形にしか見えなかった。
 彼女は、院の制服によく似た服を着ていた。機能性を重視した、ごくシンプルなデザイン。動きを制限しない最低限の服飾。正式な帝国軍の軍服だった。
 腰には、通常より短い刀を佩いている。
 彼女は歩きながら、群がる生徒たちを見渡していた。人形に似た容貌とはうらはらに、猫科の動物めいた鋭い視線だった。生徒たちは彼女を遠まきにしながら、誰も話しかける勇気のある者はいない。
 ふと、彼女は足をとめた。たった今、教科書を抱えて廊下の角から現れた女子生徒に目をつけたのだ。彼女は女子生徒に話しかけた。
「そこの彼女、ちょっと待ちなさい」
 周囲に何人もいる生徒たちのうち、彼女一人だけが向きを変えた。そういう強力な指向性のある音声だった。
「……あの、私ですか?」
「ええ、そうよ」澄んだ鈴音のような声だった。「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
 女子生徒は少しだけ距離をたもって、彼女に近づいた。それ以上間合いをつめることを躊躇させる何かが、目の前の彼女にはある。
「あの、何でしょうか?」
 自分から呼びとめておいて、彼女は質問には答えず、しばらくのあいだ満足そうに女子生徒のことを観察していた。
「あの……」
「あたしより小さいわね」彼女は自分と女子生徒の上で線を引くように手を動かした。
「……?」
「背丈と剣術には何の関係もないわ。精進しなさい」
 よくわからないが、女子生徒はうなずいた。
「バルステッド教官の部屋はどこかしら?」彼女は相手の戸惑いを完璧に無視して微笑んでみせた。
「二階の、職員棟のほうです」
 指さされたほうを見て、彼女はうんうんとうなずく。「教えてくれて、ありがとう」
「あの、あなたは――?」女子生徒はおずおずと質問した。
「あたしはメルリライト・トルティアッソ」彼女は呪文のように長い名前を口にした。「あなたの名前は?」
「ミルテ・アーチェです」
「そう。精々がんばるのよ、ミルテ」
「はい、がんば――」最後まで返事を聞こうともせず、メルリライトと名のった彼女は行ってしまった。猛獣が来るのを避けるように、彼女の先で生徒たちが道をあける。
「メルリライト?」
 ミルテはその名前を知っていた。とても高名な女性だった。もし本当にそうだとしたら、彼女は――

 バルステッドはノックもせずに教官室に入ってきた人物を、呆然と眺めていた。彼女は来客用のイスに座って、膝に乗せた青磁皿からチョコレートをつまんでいた。用意できる茶菓子の中では、もっとも高価なものだった。それだけで給料の何分の一かにはなるだろう。丸いボンボンが彼女の小さな手に収まると、ひどく大きく見えた。それを口の中に押しこむ姿は、熱帯で木の実を啄ばむ小鳥のようでもある。
「あんたにしては気がきいてるわね、チョコレートだなんて」
 もちろん、バルステッドは知っていてわざわざそれを出したのだ。
「……いきなり足払いを食らわされるんじゃ、わりにあいませんからね」
「ふん」彼女は歯牙にもかけない。
「それで――」バルステッドは軽く咳払いをした。「いったい何の用なんです。七剣≠フ一人ともあろう御方が」
 メルリライト・トルティアッソ――
 通称、メルトは、帝国が誇る最高峰の剣師、七剣の一人。天法流の極意者で、徒手格闘戦で彼女に敵う者はいない、といわれている。剣仙、と呼ばれていた。どう見ても童女にしか見えないが、実際には二十六だった。それでも、十分に若い。
 所持する魔法刀は宵蝶=A刀身は一ディル三シティング(約三十九センチ)。小太刀というより、むしろ大振りな短刀といったほうが正確なくらいの長さだった。
 七剣は上級剣師のさらに上、特級剣師として扱われている。
「レテノなら、まだ来ていませんよ」バルステッドは投げやりに言った。七剣ともなると、帝国での権力は絶大だった。それに級が上の剣師に対しては、あくまで敬意を示さねばならない。例えそれが初対面で、背が高いというだけの理由で強烈な足払いをかけてくるような相手だとしても。
「もちろん、そんなことは知ってるわよ」当然だというメルトの口調。
「だと思いました」バルステッドはため息をついた。
「ここには挨拶によっただけ。相変わらず鈍い男ね」
「それは失礼しました」バルステッドは適当に頭を下げる。「けどそれなら、ヴォーノ師長のところに行くべきなんじゃないですか?」
「あんな老いぼれのところに行って、どうなるっていうの」
「……ギルデッド翁が聞いたら、何て言いますかね」
 マクバ・ギルデッドは七剣の長で、剣聖。齢七十を越えた白髭の老翁だった。
「それとこれとは、話が別ね」一蹴される。「それに今は、誰が信用できるかわかったものじゃないのだから」
「まさか、師長を疑ってるんですか?」バルステッドが眉をひそめると、メルトは肩をすくめた。
「可能性の話としては、ね。内通者の疑いは、すべての人間に等しくかけておかなくてはならない」
 バルステッドは渋面を作った。情報部からは足を洗ったというのに、それを調べるのはお前の仕事だ、とメルトは暗に指示している。
「例の話のこと、どうなってるの?」
「そいつはレテノに聞いてください。俺の仕事じゃない」
「怒ったの? 図体のわりに器の小さい男ね」メルトは笑った。人形のような美しい微笑だった。もしも、しゃべりさえしなければ。
「小さくてけっこうですね、俺は。もう二度とあんなことになるのはごめんだ」
 メルトの微笑みは、わずかに形を変えた。影だけが、ほんの少しだけ移動するような変化だった。
「時に、例の子供のことはどうなってるの?」
「……無事ですよ、いたって。少々、後遺症のようなものはあるようですが」言ってから、バルステッドは顔をしかめた。「まさか、会うつもりですか?」
「当然でしょ。そのためもあって、わざわざここに来たのだから」
 メルトはにやりと笑った。人形らしくない、実に人間的な笑顔だった。
「ありがたく思うのね。何しろ、七剣の一人から、直々に手ほどきを受けられるのだから」

 午後からの訓練は、特別授業という話だった。
「特別授業って?」ユティスは部屋で着替えをしながら訊いた。
「また何か変なことでもやらせるつもりだろう。暗闇で打ちあうとか、舟の上で試合をするとか」セリエスが眠気ざましに軽く伸びをしながら言う。
「誰か、人が来るっていう話みたいだけど」イスに座ったまま、ルルアがのんびりと言った。
「誰かって、誰だ?」
「さあ――」ルルアはちょっとあくびをした。
 三人が修練場に行ってみると、ほとんどの生徒はすでに集まっていた。二年生の全員で、百人近くの数だった。特別授業に呼ばれたゲストというのは、まだ姿をみせていない。
「よう、どうなってるんだ?」
 先に来ていたキアを見つけて、セリエスは声をかけた。隣には、ミルテもいた。
「私にわかるわけないでしょ、馬鹿」
「馬鹿とはまた、えらく立派な褒め言葉だな」
「くず馬鹿」
「来たみたいです」ミルテが二人の注意をうながした。
 バルステッドに伴われて第一修練場に入ってきたのは、ひどく背の低い女の子だった。おかげで、ユティスは最初、その姿が見えなかった。生徒のあいだから、少し背のびをして確認する。何度見ても、彼女の背丈は小さいままだった。
「あれが……?」訝しげに、セリエスがつぶやく。もっともな反応だった。
「まだ誰か来るんじゃないの」キアが言う。
「あの人、院の廊下で会った人です」ミルテが思い出すように言った。
「知りあい?」キアが訊ねた。
「メルリライト・トルティアッソ……そう、名のってました」
 一瞬、沈黙。
「もしかしてそれ、七剣の一人の? 剣仙とかっていう」ルルアがちょっと信じられない、というふうに首を傾げた。
「少なくとも、本人はそう言ってました」
「だとしたら、光栄だな」セリエスが言った。「特別ゲストとしては、申し分ない。今度の剣術大会に皇帝が臨席するって話、本当かもしれないな」
「あのちびっこが?」
 キアの声が聞こえた、というわけでもないのだろうが、バルステッドの横でメルリライトは一瞬、鋭い光線のような視線を向けた。薄い紙なら破れそうなくらいの眼光だった。キアは開きかけた口を閉ざして、つばを飲み込んだ。どうやら、うかつなことは口にしないほうがいいらしい。
 試合場一つ分ほどの空間をとって、生徒たちはその周辺へと集まって座った。中央には、バルステッドとメルトの二人。彼女は軍服を着て、例の小太刀を佩用している。愛らしい外見だが、邪悪な、といっていいくらいの微笑みを浮かべていた。
「あー、こちらにおられるのはメルリライト・トルティアッソ」バルステッドは何故か、苦虫を噛みつぶしたような笑顔をしていた。「かの有名な、剣仙と称される帝国七剣の御一人だ。今日はありがたくも、当学院にお越しいただき、日頃の鍛錬を御照覧されることとなった。このような機会は、例え望んだにしても簡単に得られるものではないから、諸君も十二分に奮励するように」
 前口上が終わると、メルトはゆっくりと学院生を見渡した。というより、睥睨した。彼女の倍近い身長のある隣のバルステッドが、変に小さく感じられた。
「――この木偶の坊が言ったとおり」メルトはいきなり、傍らの大男を罵倒して言った。「あたしが七剣の一人、メルリライトよ。よく覚えておくといいわ」
 生徒たちは皆、あっけにとられたようにメルトのほうを見た。暴言、という言葉が誰の頭にも浮かぶ。
「今日はいろいろあるついでにここにやって来た。つまり、退屈だから、ということ。だからあんたたちは精々、あたしの暇つぶしになるように」
 暴言、という言葉さえ、生徒たちの口の奥でつっかえた。
 それから、バルステッドが何か取り繕うようなことを言って、ちょっとしたお遊びをすることになった。帝国最高位の剣師と、直に立ちあうことができる。
「ただし、普通にやっても面白くない」メルトは誰も何も言わないうちから、自分でそう言った。「実力差がありすぎるから。そうね、こういうのはどうかしら? あたしはこのままの格好で、素面素籠手。摸擬刀も持たない。対するあんたたちは、いつもどおりの装備。それから」メルトはにやりと笑った。「もしあたしに少しでも刀をかすらせられたら、今ここで中級剣師の級位を認めてあげてもいいわ」
 普通、剣師院を卒業した生徒に与えられるのが、最下位である下級剣師の資格だった。中級剣師の位を認められるということは、わざわざ院を卒業する必要がなくなる、ということだ。おまけに、その後何年かかかってあげなければならない分の実績と成果さえ、免除されることになる。
「――おい、どういうつもりだ」バルステッドはつい、ぞんざいな口調になった。
「何か問題でもあるかしら?」
「あるでしょうよ、問題は」
「特級剣師には、剣師の級位認定が許可されているのよ。それに、この条件でも厳しすぎるくらいね」メルトは涼しい顔だった。
「……あなたがそう言うなら、そうなんでしょうね」バルステッドは嘆息して肩を落とした。
 結局、試合はメルトの希望通りに行われることになった。メルトは防具を一切つけない。対戦者は摸擬刀を少しでもかすらせれば中級剣師として認められる。つまり、即卒業。
「さあ、誰からでもいいわよ」
 試合場の中央に一人残って、メルトは嬉々として言った。どう見ても、楽しんでいるようにしか見えない。公言通り、防具はつけなかった。
 生徒たちの中から元気のいいのが何人か立ち上がって、さっそく挑戦した。
 結果は見るまでもない。誰も、指一本触れられなかった。影を捕まえられないのと同じで。動きの質が違う。つまりは、それが七剣だった。それでも実力の一割も出しているかどうかは怪しかった。
「どうかしら、まだいけるわよ?」
 メルトは息一つ乱していない。天法流の達人なのだ。
「そこの彼女なんて、どうかしら?」メルトが手で示したのは、キアだった。たぶん、例の一言が聞こえていたのだろう。
 キアは立ちあがって、つかつかと試合場の中央に進んだ。キアは防具をつけていなかった。摸擬刀も持っていない。
「どうせだから、私も素面素籠手でお願いします」
「よろしい」メルトは破顔した。「どこからでもかかってきなさい」
 その言葉通り、キアは格闘戦の構えから右のストレートを放った。鋭い一撃。
 けれどそれより速く、メルトの動作が完了した。
 拳をのばしきる前の姿勢で、キアは宙を飛ぶ。派手な音を立てて、キアは床の上に転がった。メルトはそれを、当然のような目で見ている。
「なかなか筋がいいわね。根性も。――それから、そこの君」メルトはキアのすぐそばにいた一人に呼びかけた。「ちょっと、あたしの相手をしてくれないかしら?」
 君というのは、ユティスのことだった。
「お願いします」
 何となく断れそうになかったので、ユティスは立ちあがった。
 それに――
 どうしてだか、ユティスはその人の前に立ってみたい気がした。血が騒ぐ、というのだろうか。いや、反応している、という感じ。悪魔を相手にしたときと似ていた。
 たぶんそれは、彼女がとても強い魔力を持っているからだろう。悪魔と同じくらいに。
 ユティスはすでに防具を着ていて、試合場の中央に進む。
 真ん中で、作法通りに摸擬刀での一礼。
 メルトは無造作に立ったままだった。自然体というより、無理に力を抜いている、というふうに見えた。そうしないと、相手に余計なダメージを与えてしまうのだろう。ユティスにも、それくらいのことはわかった。
 対峙して、お互いに微動もしない。
 何もしていないのに、ユティスの額からは汗が流れはじめた。はじめは、それに気づかないくらいだった。どうして、汗なんてかくのだろう。
 ふっと、メルトの殺気が薄らいだ。殺気というより、空気がいくぶん軽くなったようだった。どちらかというと、物理的に。ユティスは息を吐いた。その時ようやく、今まで呼吸をとめていたことに気づいた。
「……このくらいでやめておきましょうか」
 メルトはそれから何かつぶやいて、にっこり笑った。
「さて、あんたたちの実力がどれくらいのものか、これでわかったかしら。精々、精進することね。そうすればあたしみたいになるのは不可能にしても、そこにつっ立ってる木偶の坊くらいにはなれるわよ」
 木偶の坊と呼ばれたバルステッドは、素直にそれを認めるように首をすくめた。
 ユティスが試合場から戻ってくると、セリエスが興味ありげにそばによった。
「おい、あの剣仙、お前に向かって最後に何て言ったんだ?」
 ユティスは言った。「――大体、わかったって」
「わかったって、何がだ?」
「さあ……」ユティスはいつもの無表情に、ほんの少しだけ困惑をまぜて首を振った。

 特別授業のあとは、通常と同じ訓練に移った。メルトはこのあと、三年と四年生にも特別授業を受けさせるのだという。たぶん、同じような条件で、同じように投げ飛ばすつもりなのだろう。
 ユティスは授業が終わってから、井戸のところに行って荒っぽく顔を洗った。それから寮の部屋に戻ると、意外な人物が待っていた。
「久しぶりだね、ユティス」レテノは普段着の格好で、イスに座ったまま微笑んだ。
 刀は差していない。セリエスとルルアが、それぞれベッドに腰かけていた。三人で何か話をしていた、という感じだった。和やかな雰囲気が、迷いこんできた蝶みたいにあたりを漂っていた。
「どうして、レテノが?」ユティスは彼女を見ながら、扉を閉めた。
 場所のせいか、レテノの姿は夢みたいになかなか現実味を帯びなかった。最後に別れてから、一ヶ月近くがたっていた。そのあいだ、彼女がどこにいたのかをユティスは知らない。もしかしたら、ずっとこの町にいたのだろうか。
「君にちょっと話があって」レテノはユティスのことを観察するように言った。もしかしたら、彼女にもぼくのことが夢みたいに見えているんだろうか、とユティスは思った。
「話って?」
「悪いけど、二人は席を外してくれないかな」レテノはセリエスとルルアのほうを見る。
 セリエスが口を開こうとする前に、ルルアがすっと立ち上がった。「そうですね。せっかくの再会を僕らが邪魔しちゃ悪いから」
 ルルアはセリエスを半ば急きたてるようにして、部屋を出た。扉が閉まってから、セリエスは不満そうにルルアのほうを見る。
「何で俺たちが出ていかなくちゃならないんだ?」
 ルルは仕方ないよ、というふうにため息をついた。
「それだけ、僕らは信用されてないってこと――」

「どうして、二人を?」ユティスは自分のベッドに腰かけながら言った。すぐそばに、さっきまでセリエスが座っていた跡がそのまま残っていた。
「話が話だから、あまり他人には聞かれたくない」レテノは言った。
「二人なら、大丈夫だと思うけど」
 ユティスの言葉を、レテノは何かを測るような目つきで見つめた。実験室で、薬物の化合状態を見る研究者に似ていた。それが予想外のものなのか、期待通りのものなのか、端から見ていてもわからない。
「かもしれないけど」レテノはそっと、ノートに何か書きつけるように言った。「用心にこしたことはないから」
「――うん」ユティスはうなずく。
「ここでの生活は、どう?」レテノは訊いた。
「問題ないよ。特に困ったこともないし」ユティスは簡潔に答えた。
「楽しい?」
「嫌な感じじゃない」
 レテノはまた、秘密のノートに何か書きつけるようにうなずいた。そこに何が書かれているのかは、ユティスにはわからなかった。
「体調はどんな具合?」
「問題ないよ」
 それは嘘だった。実際にはユティスは、走っている途中に何度か倒れていた。その都度、セリエスかルルアに介抱してもらったり、治療室まで運んでもらったりしている。
「本当に?」
「うん」
 二人のあいだに、短い沈黙があった。どこかで何かが微調整されるような、そんな気配があった。
「……ねえ、レテノ」ユティスは訊いた。「今日は何の話があって来たの?」
「私が君のことを心配するのは変かな?」
「ううん、でも本当は、何かあったんでしょ」
 レテノは黙った。つまり、肯定。
「ぼくに何か関係すること?」
「……まだ、何とも言えないところ。それに君に全部を話すわけにはいかない」レテノはため息をついた。
「話せるところだけでいいよ」
「そうだね」レテノは考えをまとめるように、軽く唇に指をあてた。「まず、この町に禁書が持ちこまれた形跡がある」
「禁書?」
「悪魔召喚用の、それも上位悪魔のね」
「何のために?」
「それはまだ何とも言えない。悪魔教団や、旧七王家筋とも関係があるみたいだけど、ガードが固くてうまく探りだせないんだ。かなりの計画みたいだけど、尻尾がつかめない」
「上位悪魔の召喚はできないはずだけど」
 地獄門が閉鎖されてからは、それは不可能のはずだった。
「召喚方法がないわけじゃないんだ」レテノは何故か、ユティスから目をそらして言った。ひどく、しゃべりにくそうだった。まるで、砂漠で喉がからからに渇いた人みたいに。
「もしかして、それはぼくに関係があることなの?」
 また、沈黙だった。肯定、ということだろうか。
 レテノはあたりに漂う予感を追い払おうとするみたいに笑った。新米の母親が、子供に向かってぎこちなく微笑みかけるのに似ていた。
「何があっても、君は私が守るから」
 ユティスはレテノの目を、じっと見つめた。
 その目が必ずしも自分のことをまっすぐに見ているわけではないのだということを、ユティスはずいぶん前から知っていた。

 レテノと会ってから、何日かしたある日のこと。
 いつもどおりの訓練を終えてユティスが寮に戻ってみると、そこにはハユナ・クリシアがいた。様子からして、どうやらユティスのことを待っていたらしい。
 寮のロビーには生徒の姿が散見された。部屋に戻る前に休憩をしたり、友達と会話したりしている。ハユナは隅のほうの壁際に立っていた。
「こんにちは、ユティスさん」ハユナは出来たての太陽みたいな笑顔を浮かべていった。
「うん、こんにちは」
「今、ちょっといいですか?」
「かまわないけど」ユティスも、それからハユナも、まだ運動服のままだった。
「実はお願いがあるんです」
「お願い?」ユティスは首を傾げた。
 ハユナは何故か、あたりを気にする仕草をした。誰かに聞かれることを心配する仕草。
「星誕祭のこと、知っていますか?」ハユナは言った。
「一応、聞いているけど」
 星誕祭というのは、ロゼの町で夏至の日に行われる祭りのことだった。聖トリバスの誕生が予言された日の夜、漆黒の空いっぱいに星が流れた、という聖伝に基づく祝祭だった。
 ユティスはセリエスに聞かされて、大まかなところだけは覚えていた。祝祭日は、明日。その日は院での授業も休みになる。
「そのお祭りに、わたしと二人で行ってみませんか?」
「ぼくとハユナで?」
「はい……それとももう、他の誰かと出かける予定がありますか?」
 ユティスは考えてみた。特に予定はなかった。たぶん、セリエスやルルアと祭りの見物をすることになるんじゃないか、とは思っていたけれど。だからといって、約束があるわけではない。
「特には、ないけど」
「じゃあ、わたしとでもかまいませんよね?」ハユナはぱっと顔を明るくした。
 どうなんだろう、とユティスは思った。どうすべきなのか、ユティスには判断がつかなかった。ハユナとは何度か訓練を一緒にしたが、特別に親しいというわけでもない。
 けれど――
 この少女はどことなく、妹に似ていた。
 彼女がもう記憶の底に沈んで、取りだすことが出来ないにしても。
「うん、わかった。一緒に行こう」
「本当ですか?」ハユナはぐっと身を乗りだす。嘘をついたら承知しない、という顔だった。
「明日、だよね?」
「はい」ハユナは小犬みたいに嬉しそうだった。「ああ、わたし、楽しみにしてますから」
「うん」
「明日、絶対ですよ」そう言うと、ハユナは嬉しそうに手を振って行ってしまった。
 ユティスも軽く、手を振り返す。その顔は、いつもと同じように無表情ではあったけれど。
「――おいおい、本当かよ」
 急に声がしたので振り向いてみると、そこにはセリエスとルルアの姿があった。少し後方に、キアとミルテもいる。
「デートの誘いとはやるね、この色男。それもあんな可愛い子からのお誘いとはな」
 セリエスは何故か、上機嫌だった。ユティスの首に腕をまわして、それをぐっと絞った。「痛いよ」というユティスの抗議は、雨音にまじった独り言みたいに無視されてしまう。「詳しい話を聞かせろよ」と言いながら、セリエスは腕をまわしたまま部屋のほうへと向かった。
「……男同士で馬鹿みたい」キアがそれを見て肩をすくめてみせた。
「そうかな?」ルルアがおかしそうに笑う。
「そうでしょ、まるっきり子供みたいで」
「あの子みたいに、キアも素直になればいいのにね」
 言われて、キアは顔をしかめた。「何のことよ、それ」
「セリエスなら、明日は暇だよ」ルルアは、何食わぬ顔でうそぶいた。
「だからどうだっていうの」キアはぷいっと顔をそむける。「私には関係のないことでしょ?」
「やれやれ」本当に素直じゃないな、とルルアはため息をついた。
 その時、キアがどんな顔をしていたのかは、あらぬ方向を向いているせいで誰にもわからなかった。

 翌日は晴天だった。誰かがきれいに掃除をしたような青空。神様が気をきかせたような、とてもよい天気だった。
 時刻は、昼すぎ。
 ユティスは部屋でベッドに腰かけて、教科書の復習をしていた。ルルアは机で、手紙を書いている。たぶん、母親へのものだろう。とても静かで、そこにだけ時間のカーテンが降ろされているみたいだった。
「出かけるのは、いつ?」一段落したらしく、ルルアは体をユティスのほうに向けた。
「もうすぐだと思う。ハユナが呼びに来てくれることになってるから」ユティスは教科書から顔を上げた。
「その格好で?」
 ユティスは制服のままだった。
「他に着ていくものもないし、ハユナもそうするって言ってたから」
「ふうん」
 ルルアは立ちあがって、ユティスに近づいた。それから、画布を前にした絵描きのような、少しだけ真剣な顔つきをする。どこか、おかしな、芝居がかった動きだった。本人もそのことを知っている。
「ちょっと襟がよれてるかな」
 ルルアは手をのばして、ユティスの服を直した。とても慣れた手つきだった。身だしなみのことなら何でも知っている、という感じの。
「それから、髪も」ところどころ跳ねたユティスの髪をなでつけながら、ルルアは言った。ユティスは聞きわけのいい犬みたいに大人しくしていた。
「――うん、こんなものかな」ルルアは絵の仕上がりを見る真似をして、眼をすがめた。満足そうな表情をしている。
「ルルアは親切なんだね」ユティスはちょっと髪に手を触れながら言った。
「親切に値する人間にはね」ルルアはにっこりと笑う。
「セリエスのことも、親切なの?」部屋にはユティスとルルアの二人だけで、セリエスはいなかった。
「本人のお節介がうつった、てところかな。何しろ面倒を見られるだけじゃ、面白くないからね。たまには面倒を見かえしてやらないと」
「そんなものなの?」
「そんなものだよ。今頃はお嬢さまに文句を言われながら、町をぶらぶらしてるところかな」
「お嬢さま?」
「麗しのキア・ユフェンツ嬢のこと」ルルアはくすくす笑いながら言う。「素直じゃないからなあ、とことん。あれじゃ誘ったのかどうかもわからない。僕がセリエスをせっつかなかったら、今頃は一人橋のたもとで、寂しい思いをしてたかもしれないね」
 そう言われると、たった一人で橋に立つ彼女の仏頂面が想像されて、ユティスはおかしかった。そんなことをおかしいと思う自分を、少し不思議に思いはしたけれど。
「……ルルアは、これからどうするの?」ユティスは訊いてみた。ちなみに、ミルテは孤児院へ出かけている。
「そうだね、今日は手紙に書かなきゃならないことがいっぱいありそうだし、僕もどこか出かけてみようかな」ルルアは窓の外を見ながら言った。
 ノックの音が聞こえてきたのは、それからしばらくしてのことだった。

 町の通りを、プロセッションが行進していった。色とりどりの衣装に身を包んだ兄妹団の一行が、列を作って歩いていく。中ほどには神輿に担がれた教会の聖像があった。楽隊の一団が派手に音楽を鳴らしている。
 歩道には、それを見物しようと大勢の人々が集まっていた。子供たちが盛んに何かしゃべっている。建物の窓から顔をのぞかせて、手を振っている者もいた。何もかも陽気で、騒がしい。ユティスとハユナは二、三の行列を見終わったあと、その場を離れることにした。人ごみで、ろくに身動きもとれない。二人は自然と手をつないでいた。そうしないと、離ればなれになってしまうから。
 大通りを離れて細い路地裏に入ると、途端に祭りの賑やかさは遠のいていった。まるで、誰かがピンセットで音をより分けているようだった。世界の裏側にでも迷いこんだような気分になる。
 市庁舎前広場まで来ると、再びあたりは賑やかになった。広場には祭り市が立って、屋台が並び、大道芸人たちが演技を披露していた。幸福の欠片が絶えず空から降ってきているみたいに、人々はみんな笑顔を浮かべていた。
 屋台の一つに、的当てがあった。手前に机があって、二レーネ(約一・八メートル)ほど離れた位置に、点数分けされた小さな丸い的がかかっていた。手投げようの矢が三本。一回、一リーデ。点数によってもらえる景品が変わるらしい。
「やってみますか?」ハユナは興味津々、といった様子で的当てをのぞきこんだ。どうも、やってみたくてしかたないようだった。
「うん――」ユティスはポケットから銅貨を一枚取りだして、ハユナに渡した。「やってみるといいよ」
 ハユナは一瞬首を傾げて、けれど神様の施しを受けたみたいなありがたそうな格好で、その銅貨を頂戴した。ユティスはちょっと笑った。それくらい、ハユナの仕草はおかしかったから。
 三回投げて、一本を外し、一本は最低点の十点、最後の一本は中心の百点に近い三十点だった。計四十点。景品をもらえるのは百点からなので、ハユナは空手ですごすごと引き下がった。
「一回は必ず真ん中にあてるなんて、難しすぎます」今さらになって、ハユナは悪態をついた。
「仕方ないよ、そういう条件だから」
「ユティスさんもやってみますか?」
「うん」うなずいたのは、半ばはつきあいのつもり。ユティスはポケットからもう一リーデ取りだすと、矢の置かれた机の前に立った。
 的までは、それなりの距離がある。一足一刀より、わずかに遠い程度。おまけに、的は小さく、中心は親指の先くらいしかなかった。
 ユティスはじっと、赤く塗られた小さな点を見つめる。ほんの少し、魔力を働かせた。
 一投――
 矢は見事に、的の中心を射抜いた。続いて、二投。最初の矢の隣に、これも中心をとらえる。
 屋台のまわりに、小さな人だかりが出来ていた。屋台の主人は素直に感心した目でユティスを眺めていた。
 最後の三投目は、中心をわずかに外れた三十点だった。その時になって、ユティスは矢が少し歪んでいたことに気づく。どちらにせよ、最高点を狙うのは難しかったようだ。それでも、まわりからは小さな拍手が聞こえた。
 景品は大きなぬいぐるみだったが、荷物になるので断り、かわりにあまり質のよくなさそうな水晶のついたペンダントをもらう。ユティスがそれをハユナに渡すと、彼女はとても嬉しそうな笑顔を浮かべた。
 そのあともいくつか屋台をまわり、大道芸人の演奏する音楽を聞き、ドーナツを買って食べた。二人が噴水のそばで休憩していると、知りあいと顔をあわせた。
「ユティスか……?」
 セリエスだった。二人のことを目ざとく見つけて、声をかけてきたのである。
 その隣には、キアの姿があった。
 ユティスはそれを見て、ちょっと驚いた。はじめ、それがキアだとわからなかった。いつもの格好とはまるで違っていたから。赤い、柔らかそうな生地の服を着て、裾や襟には繊細なレース飾りがあしらわれていた。スカートは、春風のようにふわりとしている。髪はいつものようにくくらずに櫛でとかして、トンボの形をした、銀とガラスで出来た髪飾りをつけていた。何だか、まるで別人だった。
「どうだ?」セリエスがユティスの驚きを見透かすように言った。「馬子にも衣装とはよく言ったもんだろう。いてて――」
 頬をいきなりつままれて、セリエスはうめいた。
「もうちょっと気のきいた科白はないわけ?」うろんげな笑顔を浮かべて、キアはセリエスの頬をひっぱった。どうやら、外見ほどに中身は変わっていないらしい。
「いや、褒めただろ」
「どこがよ」キアはさらに指の力を強くする。
 二人とも、仲がよさそうだった。少し話をしてから、ユティスはセリエスとその場で別れた。キアに連れていかれるセリエスの様子は、護送される囚人に似ていたが、本人は意外と楽しそうだった。たぶん、そういう性格だからだろう。
 ユティスとハユナは休憩しながら、いろいろな話をした。ほとんど、剣師院でのことだった。教官のこと、訓練、学科授業、型を覚えるためのこつなんかを。楽しそうにしゃべるハユナを見ていると、ユティスは何故か自然と口が動いた。そういう自分を、少し不思議に感じたりもしたけれど。
 きっと、昔の自分もこんなふうだったんだろう、とユティスは思う。まだ母親や妹が生きていた頃のことだ。
 それはもう、とっくに失われたものではあるのだけれど。
 やがて日が暮れて、あたりが暗くなりはじめた。広場のところどころに、気の早いランプが灯りはじめる。色の薄くなった青空の下で、その光は浅い眠りから無理に覚まされたみたいに刺々しく光っていた。もう少し暗くなれば、そんな光も落ち着いてくるのだろう。
 噴水のすぐそばで、小さな机を舞台にした人形劇がはじまっていた。ランプに照らされて、糸のついた人形と影が踊る。題は、『天使と悪魔』。古王国時代の伝説を基にした、古いお伽噺だった。

 ――昔々、一人の王がいました。
 王は若く、勇敢でした。一人の天使がそんな王に恋をしました。少しの抵抗も許さない、激しい恋でした。もちろん、地上の者を愛するなど、天使にはあるまじき行為でした。 それでも、天使にはその感情をどうすることも出来ませんでした。
 ところが、王は美しい顔(かんばせ)とはうらはらに、魂の底まで凍りついた、残酷な人間だったのです。

「わたしとロキノスは、本当は兄妹なんかじゃないんです」ハユナはぽつりと言った。まるで、空中に見えない線をそっと描くように。「実際には、わかりません。その頃の記憶はとても曖昧だから。でも血がつながっているようには感じない、そういう意味です」

 天使は王の命じることには何事であれ従いました。造反した大臣を処刑するとき、王は天使に言いつけました。
 その四肢をもぎり、生きたまま猟犬の餌とせよ。
 天使はそのとおりにしました。大臣はこと切れる最期の瞬間まで、呪詛と絶叫を吐き続けました。国中で、王に逆らう者はなくなりました。

「わたしたちは奴隷でした。悪魔戦役のあと、東方ではまだ政情が安定せずに、ごたごたが続いていました。今では禁止されているような行いや実験が、まだ横行していたんです。わたしとロキノスは、そんな実験の被験体でした」

 王は腐肉と、罪人の骨と、死んだ嬰児の心臓を使って、兵士を作らせました。王の兵隊はまたたく間に各地を占領しました。誰も王に逆らうことなど出来ませんでした。天使は王の傍らで、静かに微笑んでいるだけでした。

「大規模な帝国の介入があって、そうした行為は一掃されました。ううん、実際には、追い払われたり、地に潜ったりしただけです。たぶん今でも、それはどこかで行われています。時々、そんな夢を見るんです」

 ある王国を滅ぼしたとき、その国の姫が父親である王の助命を嘆願しました。王は一つの条件を出しました。針の刺さった床を指し、その上で踊るよう姫に要求したのです。音楽が終わるまで踊り続けることが出来れば、王の命は奪わずにおこう。
 姫は血を流しながら、美しく踊りました。けれど音楽はいつまでも終わりませんでした。王がそう命じたからです。姫はあるステップを踏み損ねました。約束通り父親は処刑されました。

「実験は中断され、わたしたちは悪魔教団に拾われました。他に、行くところはありませんでした。わたしとロキノスの体は、もう普通とは違っていたんです。他に、どうしようもなかった。選択肢なんて、最初から」

 王は神に等しい人間として君臨しました。しかしその頃には、天使の羽はもう弱りきっていました。あまりに多くの血と、穢れによって、その羽は黒く染まっていました。もうどんなことをしても、その汚れを落とすことは出来ません。
 そして天使には、罰が与えられました。

「わたしたちの血は、穢れています。永遠に。それはただの事実です。そこにあるのは、罪や、罰や、そんなものじゃありません。だから、贖うことも、清めることもできない。わたしたちは、帝国の敵になるしかありませんでした。そうするより、そうなるより他は、しようがなかったんです――」

 天使の体は塵一つ残すことなく、消え去りました。魂の一欠片さえ、残すことなく。それを見て、王の心は張り裂けんばかりでした。
 王はその時、気づいたのです。自分がいかに、天使を愛していたかを。

「……王のその後は、知られておりません。王は自分の行いを悔いたのでしょうか。それとも、いっそう激しく神を憎んだのでしょうか?」人形劇の最後に、若い語り手はそう結んだ。
 有名な昔話だった。その後、王は悪魔に魂を売った、という話もあるし、悔い改めて天使に転生した、という話もある。ユティスにはどちらでもいいことだった。どちらにせよ、王はその後も生き続けた。
 いつの間にか広場はすっかり暗くなって、黒い水の中にでもいるようだった。暗闇の中で、あちこちにろうそくの火が灯っている。明かりにしては、いくぶん数が多すぎるようだった。
「そうだ」ハユナはそれを見て、急に思いついた、というふうに言った。「今から、星を返しに行きませんか?」

 星誕祭ではその故事に従って夜中、人々がロウソクを持って丘の上へとのぼる。聖トリバスの誕生告知を祝福して地上に降った星々を、空の上に返してやる、というのがその目的だった。同時にそれは、鎮魂のためでもある。被害は少なかったとはいえ、この町も悪魔戦役時に何百人という死者を出しているのだ。それはほんの、四半世紀前のことだった。
 ロウソクを持った人々の群れが、ゆっくりと坂道をのぼっていく。ユティスとハユナも、その中にいた。誰もが自分の魂を手にしているみたいに、大事そうにロウソクの光を抱えていた。
 ずいぶん低い位置に明かりがあると思ったら、それは子供のものだった。母親らしい人物がすぐそばにいて、それを見ている。子供はそんなことには気づかないまま、その光を自分だけの小さな手で守ったつもりで歩いていく。
「どうかしましたか?」ハユナがそっと訊いた。
「ううん、何でも」ユティスは首を振った。「ところで、ぼくたちはどこまで行くの?」
「丘の上にある、聖レアン教会です」ハユナは言った。ロウソクの光でぼんやりと浮かび上がるその顔は、幻みたいに不確かだった。
「そこに、星を返すの?」
「はい。でもこうやってロウソクを持っていくのは、わたしも初めてです」ハユナの声は、何だか嬉しそうだった。
 ユティスはふと、後ろを振り返ってみた。たくさんのロウソクの明かりが、光る川みたいに続いていた。空には、銀の粒をまいたような星々。この温かな炎も、いつかは透明に冷やされてあんな光になるんだろうか、とユティスは思った。
 丘の上までやって来ると、教会の周囲にはたくさんのロウソクが立てられていた。円形の小さな建物だから、こういう時には都合がいい。
 二人は円弧状に並べられた燭台にロウソクを置くと、少し離れた位置でそれを眺めた。ユティスはあたりを見まわして、この中にセリエスやキア、ルルア、それにたぶん孤児院の仲間と一緒のミルテがいるんだろうか、と想像してみた。その想像は自分でも驚くくらい簡単で、鮮明だった。
「ユティスさん」
 すぐそばで声がした。もちろん、ハユナだった。
「実は、どうしてもユティスさんにお願いしたいことがあるんです」ハユナの声は、いつもに似つかわしくないほど真剣だった。「兄のしようとしていることを、止めて欲しいんです」
「ロキノスの?」ユティスが訊くと、ハユナはうなずいた。「ロキノスが、何をしようとしているの?」
 ハユナはそっと、星を手渡すように言った。
「帝国皇帝の、暗殺です」
 どこか遠い遠い場所で、何かがかちっと音を立てて動いたようだった。

 その部屋はアルコールの臭いでいっぱいだった。原因は明らかだ。床の上に大量に転がった酒瓶を見ればわかる。正しい方法で蒸留してやれば、部屋の空気から瓶一本分のワインくらいにはなるのではないか、と思われた。
 豪奢な部屋で、いたるところに高価な装飾品が飾られていた。照明はランプの明かり一つという貧弱なものだったが、それを確認するのに苦労はなかった。華国産のものらしい艶やかな陶磁器、新古典派による荘重な油絵、マステバ産の黒大理石に鮮やかな彩色を施されたマントルピース、最高級のオーク材で作られた重厚な執務机、南方で織られた異国的な絨毯……もっとも、その絨毯は度重なるワインの汚れに黒ずんで、元の価値をどれほど保っているのかは疑問だった。
「サキソ島の赤ワインですか、ずいぶんとよいご趣味をお持ちですね」
 トリアーノは机の上に腰かけると、比較的まともそうなワイングラスを手にとって、ワインを注いだ。太陽の光を醗酵させたような芳香があり、口に含むと海風に似た涼気が広がった。そして良いワインの特徴として、その匂いと味は刻々と変化していく。
「酒なんてどれも同じさ」執務机のイスに座っていた若い男が言った。青年、といってもいい風貌。
「さすが、旧王家の血筋を引くお方は違っていらっしゃる」トリアーノは憫笑めいた表情でお世辞を言った。けれど、男がそれに気づいた様子はない。当然だ、というふうに鼻を鳴らした。相当に酔っている。もっとも、素面だったとしても同じだったかもしれない。
 ティリオニア・ノーレ・エンシオン、それが男の名前だった。最高位の公爵号は、けれど名誉的なものでしかない。歴とした七王家の血を引く若者なのだ。帝国は前時代を支配した七王家を称え、実権は奪ったが名誉だけは残した。名目上は、彼らは統治権を帝国に譲ったにすぎない。それが返ってくる見込みは、永遠になかったけれど。
 青年は高貴な生まれの人間らしい整った顔立ちをしていたが、長年の飲酒癖でそれは見る影もなかった。目がくぼんで、頬がこけている。健康的な骸骨を思わせる面相。
「計画のほうはどうなってる?」ティリオニアは手近にあった瓶をラッパ飲みしながら訊いた。よく見ると、その服には食べものの滓や汚れがこびりついていた。
「いたって順調ですよ。九分通りは、もう完成した状態です」トリアーノは大げさに手を広げて、にこやかに言う。
「そうか」ティリオニアの態度は、まるで指揮官のそれだった。
 トリアーノは微笑んだその笑顔の裏側で、この青年を馬鹿にしきっていた。ただ、とっくに滅んでしまった王家の血を受け継ぐ、というだけの青年。酒を飲むことしか能がなく、自分からは何もしない。
 元々、悪魔戦役時代に東方のエンシオン王家に属する一家が、帝国に亡命してきたのがはじまりだった。彼らはロゼに屋敷を与えられ、それを持ってきた大量の家財道具で飾りたてた。亡命者がよくこれだけのものを運びこめたものだと感心されるほどの量だった。
 彼らが安全な場所にいる間に、王家は滅び、王国も解体した。彼らはそれに何の反応もしなかった。野心というほどのものもなく、まして愛国心など持っていない。与えられた屋敷で無為徒食を繰り返すうち、財産は徐々に目減りし、当主は死に、あとには一人息子のティリオニアだけが残された。彼は何もしなかった。きっと、そういう教育を受けてきたのだろう。屋敷は荒廃し、使用人もいなくなった。帝国からお情け程度の捨て扶持をもらって、露命をつないでいる。ただの飼い殺しだったが、この男はそのことさえ認めようとしない。
 だが彼自身に価値はなくとも、その身分と、屋敷そのものには価値がある。旧王族ということで、ティリオニアには通常の司法権が通用しない。これは、大きな利点だった。誰にも邪魔されずに計画の準備を行うことが出来る。
「例のものはどうなった?」ティリオニアは言いながら、口元からこぼれたワインを拭った。
「あとは最後の捧げものを行うだけです」トリアーノの態度は、あくまで慇懃無礼。
「そうか」ティリオニアは鷹揚に発言する。「あれが一番苦労したからな。わざわざこの僕の屋敷を貸してやっただけはある」
 だが、この青年が苦労した点など一つもないのだ。
「他にもいくつか悪魔の召喚場所は用意しましたが、ここがメインですから」トリアーノは微笑みを崩さない。
「そうだろう。何しろ僕の屋敷だからな」
「皇帝に附随してきた二剣のうち、一人は護衛剣師の多数を連れてシャトレンの森へと向かいました」
「馬鹿なやつらだ。陽動とも知らないで」ティリオニアはのどの奥で笑った。
「院での被害が大きかったですからね」澄ました顔で、トリアーノは言う。そのうちの何割かは、彼に責任があったのだけれど。
「まったく、計画は順調のようだな。それで、あの若造、何といったっけ?」ティリオニアは首をかしげて指をまわす。
「……ロキノス・オルドールのことですか?」トリアーノは言った。
「ああ、そんな名前だったな」ティリオニアはさして興味もなさそうな顔で言った。「そいつはどうなってる? そいつがうまくやりさえすれば、計画はより完璧になるんだろう」
「剣術の腕については保証つきですが、何しろ不確定要素が多すぎます。ですが、計画そのものは二段構えになっていますから、例えやつが失敗しても全体には支障ありません」
「万全だな」ティリオニアは泰然としてうなずいた。
「これも、ティリア様の協力のおかげです」トリアーノは床に降りて、わざとらしく一礼した。
「ふん、見えすいた世事など嬉しくもないな」そのくせ、ティリオニアはまんざらでもなさそうな顔をしている。
 トリアーノは下を向いた顔で、わずかに口元を吊り上げた。けれど元の姿勢に戻ったときには、その顔はいつもどおりの柔和なもの。
「それでは、ティリオニア様にはくれぐれも慎重にお願いします。何かあっては、計画が水の泡ですから」
「わかっているさ」ティリオニアは倨傲に笑った。「帝国に思い知らせてやるぞ」
 しかし何を思い知らせるつもりなのかは、トリアーノにはわからなかった。
 トリアーノは部屋を辞し、幽霊でも棲んでいそうな廊下を歩く。明かり一つない廊下だったが、問題はなかった。何度も来ているし、つまずくようなものは何一つ置かれていない。
 玄関を出て、前門をくぐった時点で、トリアーノはべっと唾を吐いた。わざわざ外に出てからそうしたのは、この屋敷に唾棄すべきほどの値打ちもないからだった。彼はティリオニアを見るたびに、血の煮えるような苛立ちを抑えきれなかった。
 トリアーノは娼婦の子だった。父親が誰かはわからない。母親はどうしようもない愚か者で、気づくのが遅れて仕方なくトリアーノを産んだ。あの頃のことを思い出すたびに、トリアーノはぞっとする。よくまともに生きていられたものだ。
 父親がどんな人間であったにせよ、かなりの美形であったことは間違いないだろう。その種はトリアーノにも受け継がれた。母親や娼館の連中は面白がって、彼にいろいろな手管を仕込んだ。トリアーノは言われるままにそれを学んだ。九歳のときには、はじめてそれで稼いだ。相手はでっぷりと太った体毛の濃い親父だった。女も相手にした。その技術は今でも生かされている。
 多少なりとも剣術の才能があったことが、この男に幸いした。悪魔教団が彼を拾いあげ、剣師院の生徒として院に潜り込ませることになった。少なくとも、子供好きの変態親爺や淫乱女の相手をしなくてすむようになったので、トリアーノはほっとした。表面を柔和で優秀な生徒として過ごした彼は、やがて教官に選ばれた。
「――帝国に思い知らせてやる、か」
 ティリオニアのような苦労知らずの坊ちゃん育ちに怒りを覚えるのは、だから当然といえば当然の話だった。恵まれた環境を、しかし当人は何の意識もしていない。そんな存在を許容するようには、彼の人生は出来ていなかった。
 しかし――
 ひるがえって、トリアーノは自分について考えてみる。
 いったいどれほどの動機が、自分にはあるというのか。
 帝国に対する恨みなどはない。悪魔教団への忠誠など、なおさらのことだった。強いて言えば、多少の借りがあるくらいで、そんなものは一レッテほどの価値もなかった。
 だが、トリアーノはかつてないほどの熱心さで今回の計画に参与していた。ほとんど中心にいるといってもいいくらいだった。皇帝暗殺そのものに、あまり興味はない。ただ、何にせよこの町には相当の被害が出るだろう。人も大勢死ぬに違いない。皇帝の死によって、帝国も混乱するだろう。そのことが、トリアーノに昏い高揚感をもたらすのだった。
 屋敷を離れると、すぐにロウソクの群れに巻き込まれた。確か、今日は星誕祭なのだ、とトリアーノは思う。院の生徒も、きっとこの中に何人もいるのだろう。
「くだらない……!」
 気づくと、吐き捨てるようにつぶやいていた。
「くだらない、くだらない、くだらない……!」
 そうだ、何もかもくだらない。あの無能のティリオニアも、帝国の転覆を目論む悪魔教団も、その標的にされる帝国の連中も、ロウソクを持って喜んでいるこの町の住人も、何百年も前に死んだ聖トリバスも、嘘くさい伝承に基づくつまらない祭りも、何もかもくだらない。
 そうしたものすべてを嗤い、唾を吐きかけてやる――
 トリアーノは光の群れを前にして、思いきり顔を歪めた。

 小修練場にはユティスのほか、四人とも全員が集まっていた。授業はもう終わっている。道場には他に誰もいなかった。建物が少し古くて、位置が悪いので、あまり生徒に利用されることのない場所なのだ。
「本当なのか、それ?」セリエスがうなるように言った。昨日のことを、ユティスが説明したあとのことだった。つまり、ロキノスによる皇帝暗殺について。ハユナから聞いたことを、ユティスはすべて話した。
「うん」ユティスは無表情にうなずく。「少なくとも、聞いたところでは」
 四人とも、深い沈黙に包まれた。釣り糸を垂れても、底につかないくらいの。無理のない話だった。
「本当に、本当なの?」キアはもう一度確認した。
「うん」
「本当だとしても、いったいどうするつもりなのかな?」ルルアが慎重に発言する。一介の剣師院生による皇帝暗殺など、絵空事というしかない。
「具体的なことは、何も」ユティスは首を振った。
「――おそらく、今度の剣術大会だろうな」セリエスは苦虫を噛みつぶしたような顔をする。「皇帝が見学に来るっていう話だ。そのときを狙うんじゃないか?」
「皇帝には護衛に七剣の一人がついているのよ。まともな人間なら、指一本触れられないと思うけど」キアは顔をしかめた。たぶん、投げられたときのことを思いだしているのだろう。
 まともな人間なら、か、とユティスは思った。まともでない人間なら、どうだろう。あるいはいっそ、人間でなくてもいい。もしかしたら――
「表彰式じゃないですか?」ミルテが遠慮がちに言った。
「どういうことだ?」セリエスがうながす。
「わざわざ見に来るくらいなら、優勝者に一言くらいあるのかもしれません」
「ありうる、かな」ルルアが唇に指をあてる。
「ロキノスって、確か二年の頃から優勝してるのよね?」キアが言った。
「ああ」セリエスがうなずく。「今年もそうなるって言われてるな」
 再び、その場所は深い沈黙に覆われた。五人とも、頭の中で想像していた。優勝して、皇帝の前で跪くロキノス。皇帝がたった一人、労いの言葉をかけるべく近づく。正装して、帯刀もしているロキノスが、抜刀して皇帝を斬殺する。誰にもそれを止められない。
「このこと、教官か誰かに言ったほうがいいんじゃないの?」キアがさすがに不安そうな顔をした。
「どうかな、誰も信用してくれないかも」ルルアが難しそうに言う。
 ロキノスもハユナも、素行に問題があるわけではない。ロキノスにいたっては、抜群の成績優秀者だった。学科授業の点数もいい。本人が認めでもしないかぎり、こんな話は誰も信じないだろう。それに、ハユナからはトリアーノのことも聞いていた。誰が信用できるかはわからない。
「バルステッド先生なら、話を聞いてくれるかもしれないけど」ユティスは言った。
 レテノから、困ったときには相談するように言われていた。レテノ本人の居場所は、ユティスにはわからない。「――でも、それはしたくないな」
「どうしてですか?」ミルテが不思議そうに訊く。
「ハユナもロキノスも、きっとこのままがいいと思うから」
 そう言って――
 ユティスは自分でも、不思議だった。
 どうしてそんなふうに、考えたりしたのだろう。
「なるほど、そりゃそうだ」セリエスは何故か、納得していた。
「ユティスがそう言うなら、ね」ルルアも笑う。キアとミルテも、同意のためにうなずいていた。
「でも、どうしてみんな――?」ユティスは戸惑う、珍しいくらいに。
「そうと決まれば、方法は一つしかないな」セリエスがぽん、とユティスの肩を叩いた。
「え?」
「当たり前だろ、俺たちだけで皇帝暗殺を止めるには、するべきことは一つだ」
「――もしかして」キアは嫌な予感がしたみたいに、少しだけ眉をしかめる。
「そうだよ」セリエスはにやっと笑った。「俺たちが剣術大会で優勝すればいい」
「だね」ルルアもにこにこしてうなずく。
「幸い、俺たちの班からは俺とユティスの出場が決まってる。どっちかが優勝しちまえばいいわけだ」剣術大会には二年から四分の一、三年から二分の一、四年は全員参加ということになっている。
「ユティスはともかく、何であんたまで選ばれたの?」キアが冷たい視線でセリエスを見た。仲が良くなるかと思っていたら、この二人は相変わらずだった。
「班長だからじゃないかな」ルルアが首を傾げる。慣例として、二年生からは各班の班長が出場者に選ばれることになっていた。
「悪かったな、俺が班長で」セリエスはふてくされた。
「ユティスなら、きっと優勝できます」ミルテはたいした根拠もなさそうに請け負った。セリエスのことをどう思っているのかはわからない。
「とにかく、これでやることは決まったな」セリエスは咳払いを一つした。「大会に向けての特訓と、対ロキノス戦への対策」
 大会開催は、一週間後のことだった。

 学院の生徒全員を収容できる第一修練場には、観覧用の足場が組まれていた。この場所を使うのは試合の四回戦からで、それまでは小修練上が使用される。皇帝用のものらしい特別席も確認できたが、今は誰もいなかった。
 出場する生徒たちはいったんここに集められ、学院長の開会挨拶と、師長の訓辞を受ける。おそらくは、大会中でももっとも無駄な時間だった。ユティスは四年生の中にロキノスの姿を探してみたが、人が多すぎてわからなかった。
 開会式が終わると、トーナメント表が張りだされる。
 参加人数は百六十四名。七回勝てば優勝。試合はすべて、一日で行われる。
 ユティスはトーナメント表から、自分とロキノスの名前を探した。全体を見て、すぐに見つける。順当に勝ちあがったとして、対戦は六回戦だった。つまり、準決勝。セリエスのほうは一つ前の準々決勝でロキノスとあたる。幸い、それまでにユティスとセリエスが対戦することはなかった。
「俺の名前、どこにある?」トーナメント表からまだ自分の名前を見つけられないらしく、セリエスは眼鏡の奥で目を細めた。ユティスはその場所を指さしてやる。よく見つけられたな、とセリエスは感心した。
 それからは、各予選ブロックごとに別々の道場へと分散する。
「負けるなよ」別れ際、セリエスはにやっと笑った。
「そっちも」ユティスもちょっと口元をゆるめた。要は、二人のうちどちらか、もしくは誰かがロキノスに勝てばいいのだ。
 小修練場に移ってから、ユティスは用意されていた防具を身につけた。ルルアとミルテがそばに控えていた。キアを含めて、三人は出場する二人のサポートにまわる。班員の協力を得たからといって、ルール違反になるわけではない。
「一回戦の相手、誰だかわかる?」ルルアが隣から声をかけてきた。あまり緊張感のある声ではなかった。むしろ、少し笑っている。
「知らない」ユティスは首を振った。「アシレールとかっていう人だけど」
 しかしその名前には、どこかで聞き覚えがあるような気がした。
「顔を見れば思いだすかも。……ほら、ちょうどあそこから、こっちを見てるよ」
 ユティスは言われた方向に顔を向けてみる。
 なるほど、どこかで見たことのある相手だった。風刺画で見かけるような、人を馬鹿にした顔つきでこちらを眺めている。あまり愉快な気がしないのは何故だろう、と考えてから、ようやく思いあたる。確か、貴族の子供で、いつも偉そうに構えていた相手だった。
「何だか覚えがある」
「向こうにはもっとあるだろうね」ルルアは冗談ぽく笑った。「忘れても、特に問題はないけど」
 ユティスはちらっと、ミルテのほうをうかがった。ミルテはじっと、アシレールのほうを見ていた。でもそれは、何となく無理をしている感じがした。立てつけの悪いドアを、無理に閉めようとするみたいに。
 館内に試合場のスペースは四つとられていて、次々と試合が行われていった。一回戦だけに、わりと勝負のペースは早い。すぐにユティスの出番がまわってきた。
「行ってくる」面をかぶって、ユティスは言った。何となく、ミルテのほうを見ながら。
 試合場に、審判役は一人だけ。ユティスは所定の場所に立ち、刀礼。その時、相手が何か言葉を口にした。
「賤民が」
 どうやら、そう言ったらしい。言葉がわかりづらくて、理解するのに時間がかかる。どうしてそんな難しそうな言葉を使うんだろう、とユティスは不思議だった。
 勝負は三本。試合時間は五分で、延長は無制限――
 構える前から、ユティスには相手の力量がわかっていた。素手でやったって、負けはしないだろう。基本がまるで出来ていないのだ。魔力の働きは、衰弱しきった牛みたいに鈍かった。どうして出場しているのか疑問だった。班長なのかもしれない。
「はじめ!」声がかかった。
 ユティスは構えた。今までみたいに三味線をひくのは、もうおしまいだった。これからは、全力で行く。それも、出来るだけ手早く、魔力と体力の消耗を抑えるべきだった。
 けれど――
 この相手だけは。
 ユティスはしばらく打ちあってから、誘いの手を出した。相手はまったく油断していたのだろう。すぐにのってくる。そこまで相手を馬鹿にできるのは、一種の才能かもしれない、とユティスは思った。
 のびきった相手の腕の、左籠手を一撃した。真剣ならともかく、摸擬刀でさえ腕を断ち切れそうだった。それくらい痛烈で、それくらい隙だらけ。
「一本」審判が旗を揚げる。
 ユティスが左を撃ったのは、わざとだった。そのくらいなら、相手も試合を続行するだろう。少なくとも摸擬刀を握ることくらいはできる。
 予想通り、相手は構えた。たぶん、面子とか沽券とか、そういうものがあるのだろう。
 ユティスは残りの作業を完了させた。
 間合いをつめると、相手の摸擬刀をすばやく巻き上げる。それはくるりと宙を舞った。面の奥で、あっけにとられた相手の顔が見える。呑気なやつだな、とユティスは思った。ぼくなら、さっさと逃げるか防御態勢をとっている。
 ユティスは摸擬刀を高々と振り上げると、目いっぱいの力で相手の面を痛打した。
 面が砕けそうなほどの、衝撃音。酔ったような、相手の動き。
 次の瞬間には、相手はどっと地面に倒れていた。気絶したのだ。
 ユティスは一人だけで刀礼をして、試合場の外へ下がった。ミルテを見つけて、声をかける。「こんなものだよ、あんなやつなんて」
 ミルテはこくんとうなずく。彼女がちょっとだけ嬉しそうな顔をしたのは、ユティスの気のせいかもしれない。

 午前中で、三回戦までの試合が消化された。昼の休憩を挟んで、午後からは大修練場での本選が行われる。
 さすがに、ここまで勝ちあがるのは簡単にはいかなかった。ユティスは自分の体にどれくらいの重さがあるのかを思いだしていた。業火にコップで水をかけるみたいに、心臓が弱々しい鼓動を続けた。疲労がどんどん蓄積していく。上級生とは体格差があるので、それだけで楽には勝たせてもらえない。小柄なユティスなら、なおさらだった。体力の消耗だけが激しく、そのくせ効率は上がらない。じり貧だった。
 それでも、何とか予選ブロックを最後まで勝ちあがって、十六人の中に入った。ロキノスも、その中にいる。これからあと二回勝たなければ、ロキノスとは対戦できなかった。
「セリエスはどうなったの?」
 四回戦進出を決めたところで、ユティスはルルアに訊いてみた。時間的には、セリエスのほうが先に結果が出ているはずだった。
「うん、残念だけど……」ルルアは言いにくそうな顔をする。
「だめだったの?」
 そこに、当の本人であるセリエスが姿を見せた。
「誰がだめだって?」セリエスは嫌な顔をした。意外に元気そうだった。
「うん」ルルアはまったく平気な顔で言った。「残念ながら、勝ち残った」
 午後からは、ユティス、セリエスとも四回戦を迎える。

――Thanks for your reading.

戻る