[剣師と悪魔]

[お化けと森で踊る]

 荷物は多くなかった。手拭い、食器類、スプーンとフォーク、水筒、包帯に針と糸、そんなところ。あとは、昼食用として支給されたパンとチーズ、干し肉。それらを背嚢につめてしまうと、準備は完了だった。
 着ていくのはいつもと同じ制服だったが、その上に革鎧とマントを着用する。剣師の戦闘では鈍重な鎧は役に立たなかった。必要な動作が著しく制限されてしまう。
 それから、今回は実刀の携行を指示されている。これは、目的を考えれば当然のことだった。
 ただし、院生のほとんどは自前の刀を持っていない。完全オーダーメイドの魔法刀はかなり高価な代物だからだ。学院での訓練時に使用されるのは、数打ちと呼ばれる大量生産された粗悪品。今回、携行されるのも、大体は院の備品であるこの粗刀になる。例外は、すでに自分の魔法刀を所持している人間。
 ユティスの場合も、これにあたった。
 元は、父親が使っていたものだった。だいぶ前に死んでしまったので、父親自身のことをユティスはあまり覚えていない。刀を持っていたということは、剣師だったのだろう。どうして死んだのかもわからなかった。
 ベッドの下にある引き出しから、刀箱を取り出す。中身を外に出して、一通り点検した。懐かしい感覚だった。ここに来てから、たまに手入れをするほかは刀に触れることもなかった。
 刀銘は星燕=B二ディル二シティング三フィス(約六十七センチ)の、やや小振りな刀型。反りは浅く、直刃、名前のとおり燕が蒼穹に線を描くような風韻があった。
「それ、ユティスの?」ルルアが興味を示す。
「うん」うなずいてから、ユティスは言った。「父親のだったけど」
「俺たちの班で本物の魔法刀を持ってるのは、お前だけだな」セリエスが背嚢の紐を直しながら言った。
「ルルアは?」ユティスはルルアのほうを見た。
 貴族の子弟ではなく、ルルアは男爵号を持つ本物の貴族だった。魔法刀の一本や二本、持っていてもおかしくない。
「そんな身分じゃないからね、僕は」ルルアは肩をすくめて苦笑した。名と実は必ずしもともなうわけではない、ということだろう。
「二人とも、準備はできたか?」顔を上げて、セリエスは言った。
 全員、すでに革鎧を身につけて、マントを羽織っている。腰から剣帯に差した刀がのぞいていた。朝食はすでにすませている。
「いつでも、いけるよ」ルルアが澄ました顔で答えた。
 けれど――
 それから、ルルアは少しだけ真剣な目をした。
「でも気が重いな、ちょっと」
 その言葉を聞いて、ユティスは昨日行われたミーティングのことを思い出した。

 講義室を使ったその作戦会議は、学院師長であるヴォーノ・ロルサニアが壇上に立った。集められたのは、一年の生徒全員。教壇の横には他に、四人の教官が並んていた。
 ヴォーノは士爵(ユテ)号を持つ、貴族剣師だった。学院長よりも爵位は下だが、実質的な剣師院のトップは、この人物になる。上二級の資格を持つ上級剣師で、六十をいくつか越えたくらいの年齢。悪魔戦役当時の実戦経験もあり、古豪といった風格があった。左眉のところに白い傷跡が残っている。ユティスがはじめてこの院にやって来たときに、院長室にいた人物でもあった。
 燠き火を宿したような目で講堂を睥睨しながら、ヴォーノは口を開いた。風貌とはうらはらに、意外にも柔らかな、春先の若葉を思わせるような声だった。
「これから諸君に、今年の剣師院遠征について説明を行いたいと思う」ヴォーノは淡々と、時候の挨拶でもするように話を進めた。
 剣師院では毎年三回、学外への遠征を行う。目的は、悪魔の討伐。院生に、演習ではなく実戦を経験させるためだった。二年以上の各学年が、時期を分けて一度ずつ遠征に参加する。二年は、本物の悪魔退治に向かうのは初めてだった。
「場所は去年と同じくシャトレンの森付近」
 ユティスがあとで教えられたところによると、シャトレンの森はロゼの北東、二十五ミル(約四十キロ)ほどのところに位置している、という。クラニア山脈の裾野から広がる大森林で、そこから東方諸州(シエル・テナン)の境界近くまである。
 ヴォーノの話は行軍計画や、遠征中の装備品、集団編成のことについてなど進められていって、いくつかの注意点にも触れられた。今年は悪魔の出現数が例年よりも多く、特に留意あるべし、というようなこと。そう言われても、普段のことを知らないユティスにはどうしようもない。
 ただ、悪魔のことを聞かされると、心臓がとくんと疼いたのは事実。
 胸のところを押さえて、ユティスは一人で不思議そうな顔をした。いったい何が、自分の心臓を叩いたのだろう。悪魔に対して抱く、濁った水みたいに不透明なこの感情は、いったい何なのだろう――
 この悪魔遠征では、いつも決まって何人かの犠牲者が出る、とヴォーノは言った。
 講義室の中では、最後まで無駄口一つ聞こえてこなかった。

 六月ともなると日中は夏の陽射しで、コップから透明な液体を注がれたみたいに熱の圧力を感じた。遠くまで広がる草原は、どこまでも鮮やかな青緑に染まっている。まるで、誰かが丁寧に絵の具で塗ったみたいに。
 隊伍を組む生徒のほとんどは、すでにマントを外し、制服の上着も脱いでいた。汗がじわじわとにじむ。草に水でも注ぐみたいに、生徒たちは歩きながら、あちこちで水筒の水を飲んでいた。重さのない風が、目的のある振りをして北のほうへ流れていった。
 ユティスはちょうど、馬車隊の横を歩いていた。班のほかの四人も同行。名目上は荷駄の警護のため、ということになっていたが、実際は疲れて歩けなくなったときに、荷台に乗せてもらうためだった。そういうつもりで、セリエスが教官の一人に頼んだ。
 幸い、今のところ体調に問題はなかった。移動は大体、一時間毎に十分の休憩を入れて行われる。小休止のたびに、セリエスは「大丈夫か?」と声をかけてきた。本当に面倒見のいい人間だな、とユティスは感心した。いつものとおり、無表情ではあったけれど。
 やがて昼の時間になると、食事のために全体の足が止まった。近くには小さな農村があって、小川が流れていた。生徒たちはそれぞれ川のほとりや木陰のそばで荷を降ろした。ユティスたちも、流れのそばにある柳の下に腰を落ち着ける。
 食事のあと、じゃんけんに負けたキアが、ミルテを連れて水汲みに向かい、セリエスは知りあいのところへ遊びに出かけた。その場に残ったのは、ユティスとルルアの二人。
 ユティスは柳に背中をあずけ、ぼんやり水の流れを見つめていた。ルルアは寝転がったまま、あくびをする。
 時間は、ぺしゃんこになって寝転んだ猫みたいに長閑だった。
 声をかけられたのは、そんな時のこと。
「ちょっと、いいかな?」
 音の一つ一つがくっきりした、張りのある声だった。ユティスは人形が動いたとしか思えない動作で、そちらのほうを見る。
 声の主は、女性だった。草原の真ん中に一本だけ樹が立っているとしたら、こんなふうかもしれない。姿勢がよく、堂々として、育ちのよさを連想させる。切れ長の、一重の目が涼やかな印象だった。
「君が、ユティス・シスハ君か」再び、舞台上で男役を演じる女優のような声。
「うん」ユティスは少しだけ迷ってから、座ったままの姿勢でいることにした。「そうだけど」
「私はアデリーネ・ノイエス、よろしく」上機嫌の太陽みたいににっこり微笑んで、アデリーネは握手を求めた。
 少なくともその動作が何を要求しているのかははっきりしていたので、ユティスは手をのばして彼女の手を握った。
「ミルテなら水汲みに行ったよ、アデル」寝転がったまま、ルルアがおかしそうに言う。
 その口調からして、ルルアやミルテの知りあいのようだった。
「そのようだな。でも今日は、ユティス君に会いに来たんだ」
「もしかして、僕は邪魔かな?」ルルアは言った。
「邪魔でない君など想像できないよ、ルルア――」
 ユティスは座ったまま、ぼんやりと二人のやりとりを眺めている。
「それで、今日は君にお礼を言いに来たんだ、ユティス君」アデリーネはユティスのほうに向き直ると言った。
「くん、はいらないよ。でも、お礼って何のこと?」ユティスは首を傾げる。
「きっと、ドミオン金貨でも拾ったんじゃないかな」
「ミルテのことだよ」アデリーネはルルアのことを鮮やかに無視して言った。「この前、ろくでもない連中から助けてもらったようだから」
 言われて、ユティスは思い出す。いつぞや、校舎で迷って偶然ミルテに出会ったときのことだ。助けたつもりは今でもなかったけれど。
「あの子は、私と違って大人しい性格だからな」
「知りあい?」さっきから気になっていたので、ユティスは訊ねる。
「ああ」アデリーネはうなずいた。「同じ修道院付属の孤児院にいた」
 その言葉を口にしたとき、アデリーネには何の躊躇もなかった。表面がきれいに磨かれて、なんのひっかかりもない。確かに、ミルテとはまったく違う性格のようだった。
「二人は仲良しなんだ、ユティス」ルルアが茶化すように言う。
「否定はしないよ」アデリーネは上品に答えた。
 目の前の彼女と想像上のミルテを並べてみると、ユティスは何だかおかしかった。二人に共通点はなかったし、ほとんど似てもいない。唯一、同じ孤児院の出身というだけ。運命は時々、奇妙な気まぐれを起こす。
 そう思ってから――
 自分もそれは同じか、とユティスは思った。
「今日はお礼のついでに、もう一つお願いに来たんだ」アデリーネは言う。
「お願いって?」ユティスは訊いた。
「あの子のことを、守ってやって欲しい」
 もちろんそれは、ミルテのことだろう。
「悪魔遠征は院のプログラムの中で一番危険なものだ。死者が出たことだってある。戦場では、あの子みたいなのが真っ先に狙われるんだ。弱い人間ほど、不幸な目にあう」
「どうして、ぼくに?」純粋な疑問だった。
「君が一番強いから」
 ユティスは何か言い返そうとしたが、アデリーネの目を見てやめた。何を言っても信じそうにないし、嘘をついてもごまかせそうにない。
「努力はしてみるけど」ユティスは言った。
「ありがたい」アデリーネは頭を下げた。芝居がかってはいるが、それが不思議なほど自然な少女だった。
「――でも、その必要はないんじゃないかな」ユティスは首を傾げるように言う。
「どうして、そう思うんだい?」
「ミルテは強さの素質を持ってるよ」
 その言葉に、アデリーネは何も言わなかった。ただ、少し微笑んで、ユティスのことを見ただけ。まるで珍しい形の雲でも眺めるみたいに。
「それじゃあ、私はそろそろ自分の班に戻るとするよ。ミルテにはよろしく言っておいてくれ」
 手を振って、アデリーネは行ってしまう。空気の中に、しばらくその存在が残っているようだったが、それもやがて消えてしまう。
「アデルは十一班の班長やってるんだ」ルルアが言った。
 そうだろうな、とユティスも思う。何にでも率先して取りかかるタイプのようだったから。
 しばらくすると、ミルテとキアが戻ってきて、昼の休憩時間が終わる頃になってセリエスも姿をみせた。再度、全体行動になって隊列を組む。日が沈むのを待たずに、途中にある修道院で宿泊することになった。少なくとも今夜は、きちんとした屋根の下で眠れるわけだった。
 夕食は修道院で用意された。近くに養魚池でもあるのか、上等の魚料理が出される。院内で栽培しているらしいハーブや香辛料を使ったもので、なかなか美味だった。
 その日は巡礼用の大部屋を使って就寝。ベッドが足りないので、遠征隊で持ってきた寝具を使った。男女は別で、人数の少ない女子は個室や談話室といった場所に分散して休みをとった。
 修道僧の祈りがはじまる夜明け頃には、全員が起きだして朝の支度をした。ユティスが中庭で濡れ布巾を使って体を拭いていると、若い修道士に「あなたも剣師なのですか?」と声をかけられた。正確には、まだ級位を持っていないのでそうではないのだが、面倒なのでうなずいておいた。
「命を懸けての御勤め、ご苦労様です」十字を切って、簡易な祝福を授けられる。
 どうやら激励されているらしい、と覚って、ユティスは笑顔を浮かべた。その祝福がどれくらい役に立つのかは疑問だったけれど。
 出発前、修道院の好意で隊のためにミサが捧げられた。ユティスは聞こえてくる讃美歌を口の中でハミングしながら、内陣に描かれた天使のフレスコ画を見つめていた。どの天使も穏やかに微笑んでいた。きっと何か善いことでもあったのだろう。長椅子に座る他の生徒たちが何を思っていたのかはわからない。
 修道院を出て、野営予定地についたのは、その日の昼前のことだった。悪魔の潜む森までは、すでに目と鼻の先程度の距離しかなかった。

 テントの設営、防護柵の造築、物資の整理や、炊事、生活、塵芥用の穴掘り。そんなことが終了してから、遅い昼食をとった。野営地では、三つの班を合わせて一つの組を作る。昼食後に、組長を集めてのミーティングが開かれ、その間ユティスたちはテントの中で休憩していた。
 ウォール型のテントの中には、組分けされた班の男子だけで八名。女子のテントは別に用意されている。ユティスは丸めたマットを枕にして休んでいた。地面に杭を打ち込むのは、なかなかの重労働だった。
 ユティスのように休憩している人間のほかは、車座になって雑談をしていた。簡単な自己紹介や、野営地での生活、これからのことなんかを。いくつかの笑い話にどっと座がわくのを、ユティスは横になったままぼんやり聞いていた。
 ミーティングが終わって組長が戻ってくると、女子も呼んで会議になった。テントの中に十五人もいると、さすがに狭苦しい。組長を中心に扇形の広がりを作り、ミーティングでの報告を聞いた。
 野営地第三組の組長はイザナ・ヴォルカだった。南方出身らしく、陽に焼けた浅黒い肌。帝国共通語にもわずかな訛りがあった。鷹揚な人柄だが、頭の回転は速そうだった。
 ミーティングでの話をまとめると、大体次のようになる。
 まず、野営期間は予定通り一週間ほど。森での探索は、明日の早朝から行う。教官たちが物見をしたところ、森には悪鬼型の下位悪魔が確認できたということだった。そのうち一匹は、教官の手によってすでに屠られている。その他には、探索地の割り当てや、夜警の当番、負傷した際の手順などについて話があった。
 終わってから、いくつか質問が出る。
「確認できた悪魔は、一種類だけ?」
 ――今のところは。
「森にはどのくらいの悪魔がいるんだ?」
 ――近くの村人や村つきの剣師によると、いつもの年の倍以上という話だが、正確には不明。
「悪魔に遭遇したときの対処は?」
 ――笛を使って発見を周囲に知らせ、基本的には班員で協力してあたること。訓練をよく思い出して欲しい。
「…………」
 しばらくの沈黙のあと、セリエスが手を挙げた。
「悪魔に殺された場合、どうなるんだ?」
 その質問に、テントの中はひやりとした。水中から手が現れ、足首をつかまれた感じ。けれどそれも、一瞬だった。
「その場合は戦死とみなされ、帝国のほうで葬儀を執り行ってくれる」イザナは何でもないことのように言った。「給付金なんかも規定に従って処理されるはずだ。もしくは、事前の希望に従って」
 再び、沈黙が訪れる。秤で量ると、前よりほんの少しだけ重そうだった。
 それ以上は質問がなかったため、解散。夕食までは自由行動になった。付近を散歩する者や、訓練のことを思い出そうと刀を振るう者、森の近くにまで様子見に出かける者――
 ユティスとセリエス、ルルアも、森のすぐそばまで行ってみることにした。
 日が暮れるまでにはまだ時間があって、あたりは昼の明るさだった。それでも、鬱蒼とした森林帯の近くにまで来ると、空気はひやりとしてよそよそしく、湿っぽかった。太陽の光は樹木がかたっぱしから吸収してしまうのか、変に力がなく、密度が薄い。木々の間にある闇はあっという間に濃くなって、その向こうには悪魔が棲んでいるはずだった。
 森の外縁にそって歩いていると、ルルアが良いいたずらとばかりに森の中へと入っていった。セリエスは苦笑して一声かけただけ。ユティスはいつものとおり、表情のないまま何も言わない。
 二人で並んで歩きながら、ユティスは珍しく質問した。
「さっき、どうしてあんなことを聞いたの?」
 セリエスは言葉の形を確かめるようにユティスのほうを見た。けれど、ユティスの表情はいつもと同じだった。セリエスは軽くため息をつく。
「あんなってのは、悪魔に殺されたらっていうやつのことか?」
「うん」
「そりゃあな」言いながら、セリエスは地面の枯れ枝を拾って、ぽきりと二つに折った。その気力もないのか、枯れ枝は何の文句も言わなかった。「自分の死んだあとのことを、知っておきたかったからだよ」
「死んだらそれまでだよ。あとのことなんて、自分には関係がない」
「まあ、そうだな」セリエスは逆らわなかった。ユティスらしい答えだと思ったから。「けど、それは今の俺には関係がある」
「わからない」ユティスは首を振った。
「つまり、自分が死んだあとのことを知っておくことで、今の俺の気持ちとか、心構えみたいなものが変わってくるってこと」
「変わらないよ、別に」
 ユティスが言うと、セリエスは何故か笑って、ユティスの頭をぐしゃぐしゃとかきまわした。
「それは、お前が不幸だからだよ」

 就寝時間になると、夜警の時間がはじまる。その日、セリエスの班は夜番にあたっていた。一人一時間おきの間隔で野営地の歩哨に立つ。ミルテからはじまって、キア、ユティス、ルルア、セリエスの順番。
 ちょうど真ん中の、夜が一番濃くなる時間に、キアがロウソクをもってユティスを起こしに来た。テントの濃い闇の中で、ロウソクの明かりに照らされたキアの顔が浮かぶ。寝起きのいいほうなので、ユティスの頭はすっきりしていた。むしろ、今まで見張りに立っていたはずのキアのほうが、ずっと眠そうな顔をしている。本当に目を開けているのかな、とユティスは思った。
「交代の時間よ」キアはまったく不機嫌そうな口調で言った。ロウソクを置いて、キアはあくびをしながら帰っていった。
 毛布をどけて、ユティスは上着とマントを身につけた。テントの外は相当冷えるはずだった。ロウソクたてに乗せられた明かりを手にして、深い水たまりから上がるみたいにして、そっとテントの外に出た。
 あたりは真っ暗だった。明かりらしいものはどこにもない。雲に覆われて、月も星も見えなかった。たぶん、近いうちに雨が降るのだろう。ロウソクの光は、まるで誰かに押さえつけられているみたいに弱々しかった。
 北門のほうに向かうと、野営地の出入り口近くに明かりが見えた。焚き火が燃えている。そのすぐそばに誰かいた。
「――やあ、こんばんは」
「こんばんは」答えてから、ユティスはそれが聞き覚えのある声だと気づく。
 焚き火のそばに座っているのは、思ったとおりアデリーネだった。彼女の赤味を帯びた髪が、炎の一部みたいに見えた。すでにユティスが来るのを知っていたのか、アデリーネは揺れる陰影の中で微笑んだ。少なくとも、そんなふうに見えた。
「アデリーネだったんだ、夜番」ユティスはロウソクを消して、焚き火の反対側あたりに座りながら言った。地面はすっかり夜に冷やされていた。
「迷惑だったかな?」からかうような、アデリーネの声。
「知っている人のほうが、気は楽だよ」ユティスはにこりともせずに言った。
 あたりはとても静かで、何の物音もしない。虫の声さえ聞こえなかった。それは悪魔が関係しているのかもしれないし、元からそうなのかもしれない。焚き火のはぜる音が、時々思い出したように響いた。暗闇の向こうに何かがいるような想像が働くのは、気のせいだろう。もちろん、森の中から悪魔が飛び出してくる可能性はあったけれど――
 何か聞かれたような気がして、ユティスは訊き返した。
「なに?」
「シャトレン、の意味を知っているかな?」アデリーネは気にしたふうもなくくり返した。
「ううん」ユティスは首を振る。「知らない」
「地元のお化けのことらしいよ」
「お化け?」
「うん」言いながら、アデリーネは枯れ枝を一本火にくべた。「幽霊、というのかな。時々、この森に入ったまま、自分が死んだことに気づかない人間がいるそうなんだ」
「それは、森の中で死んで?」
「だろうね。それで、シャトレンになった人間は自分の死を知らないまま家に帰ろうとする。でも、森の中から外には出られないんだ。そいつは訳もわからず嘆き悲しんだまま、森の中を彷徨い続ける、永遠に」
「素敵とはいえない話だね」
「しかし、私たちだって同じようなものかもしれない」アデリーネは特にどうという感情のない声で言った。「この世界からは出られない」
「出たら、何かがある?」
「わからない。もう少しましな世界かもしれないな」
「そんなの確かめようがないよ」
「うん、そうだな。どうしたって、ここで生きていくしかない」それから、アデリーネは言った。「君には、夢があるかな?」
 急に話題が変わったので、ユティスはすぐにはついていけなかった。
「時々は、見るけど」
 アデリーネは首を振って笑った。
「眠っているときのことじゃなく、将来の夢、というやつだよ」
「人生設計?」
「まあ、そのようなものだな」
「明日のことだって、ぼくにはよくわからないけど」ユティスが言うと、アデリーネはまた笑った。何だか機嫌がよさそうだった。夜と焚き火と、それから何かよくわからない力のせいだろう。
「私にはあるんだよ。その、将来の夢、というやつが」
 どんな、とは口にして訊かずに、ユティスは首を傾げた。
 アデリーネはほとんど独り言みたいに、むしろ焚き火に向かって話しかけるみたいにして口を開いた。
「君は笑うかもしれないけど、私の夢はね、ユティス、子供を生むことなんだよ。男の子が一人に、女の子が二人、そんなところかな。それでね、何だかんだぶつくさ言ったり、喧嘩したりしながら、みんなで仲良く暮らすんだ。それが私の夢なんだ――どうしてだかわかるかい?」
 ユティスは首を振った。
「それはね、たぶん私がやり直したいからだと思うんだ」
「やり直す?」
「うん」アデリーネは相変わらず、揺れる炎に焦点をあてながらうなずいた。「私の親はね、ユティス、没落貴族というやつだったんだ。領地経営に失敗して、借金を作って地所も館も何もかも失った。爵位さえもね。そのくせ妙なプライドだけは失わず、現実を受け入れようとしなかった。私はそれを見ながら、本当にうんざりしたんだ。子供にだってわかることを、この人たちは理解しようとしない。そして、自分は絶対こうはなるまい、将来はごく平凡で普通の、幸せな家族を持ちたい、そう思ったんだ」
「……どうして、孤児院に?」
「両親に怪しげなところに売られそうになってね。そこから逃げてきたんだ」アデリーネはそう言って笑った。あまり、嘘を言っているようには見えなかった。
 それから二人ともほとんどしゃべらなかった。アデリーネがいくつかユティスのことについて質問したが、ユティスはどれも曖昧にしか答えなかった。そうするように、レテノから言われていたから。
 アデリーネは別に気にした様子もなく、ただそれをユティスらしい受け答えとして解釈した。ユティスとしても、せっかくの彼女の気持ちを壊したくなかったので、少しほっとした。
 やがて交代時間になって、アデリーネは地面から立ち上がった。服の汚れを払いながら、彼女は言う。「じゃあお休み、ユティス」
「うん、お休み――」
 火のついたロウソクを持ってテントに行こうとした彼女は、ふと振り向いて言った。
「私はね、ミルテに怒られてしまったよ」
「どうして?」ユティスは、暗闇の中で半分幻になったみたいな彼女に訊いた。
「私がお礼なんてしに来たことで、憤慨したらしい。しばらく口をきいてくれそうにもないんだ。できれば、君のほうで謝っておいてくれないかな?」
「できそうだったら、やってみるよ」
 その答えに、アデリーネは満足そうに笑ったようだった。軽く手を振って、今度こそ本当に行ってしまう。
 ユティスは彼女の持つロウソクの小さな光が消えてしまうまで、じっとその行方を暗闇に追った。そうしてそれが見えなくなると、次の見張り番が来るまでの時間を、口の中で小さく歌をハミングしながら待つことにした。

 いつもの夢を見たので、その日は雨だということがわかった。
 遠征、三日目の朝のことだ。
 テントの中でもすでに雨音に気づいていたが、着替えをすませて外に出てみると、鉛色の雲から、誰かの不機嫌な独り言みたいに雨が降っていた。空気が冷たくて、吐く息が白く濁るくらいだった。
 簡単な食事をすますと、さっそく森の探索へと向かう。雨のせいか、生徒たちの足どりは一様に重かった。これまでのところ、悪魔との遭遇戦は発生していない。つまり、今までに退治された悪魔の数は、一体だけ。それも初日に、教官の手によって倒されたものだけ、ということ。
 隊列を組んで森のそばまで来ると、そこからは班毎に散開しての行動になる。広大な森をいくつかの区画に分け、人海戦術によって悪魔を見つけ出す。発見した場合、できれば教官の到着を待ち、さもなければ班の五人全員で戦闘にあたる。
「それでは、各自探索を開始せよ!」
 遠征隊の指揮官である、ベルデア・ローチェス教官の声が響いた。
 同時に、生徒たちの影がもの憂げに散っていく。まるで巨大な生き物に飲み込まれるように、その姿は森の中へと消えていった。
 ユティスたちも決められたポイントまで移動すると、森の中へと足を入れる。
 セリエスを先頭に、その後ろに四人が二列縦隊を作るという格好。五人とも、マントを羽織っていた。森の中に入ったことで雨足は弱まっていたが、寒さは逆にひどくなったようだった。五人とも、いつでも刀を抜けるように精神を緊張させていた。
 昨日の探索範囲を通過しても、これといった収穫はなかった。どこにも悪魔のいる気配はない。五人は樹木の間で丸くなって集まった。
「さて、どうする――?」セリエスが意見をうながした。
「このままもっと奥に行くしかないんじゃないかな」ルルアが言う。
「しかし今のところ、悪魔のあの字も見えやしないな」
「範囲を広げたらどうなの?」キアが腰に手をあてて言う。「五人で別々の方向を調べれば、効率がよくなるわ」
「戦力の分散は望むところじゃないな」セリエスは難しい顔をした。
「じゃあ、このまま何の成果もなく院に帰れっていうの?」キアは声をとがらせた。
「そこまでは言ってない」セリエスは言ってから、三人のほうを見た。「みんなの意見は?」
「ぼくは、どうでもいい。広く探したほうが、見つける確率は高くなると思うけど」ユティスはぼんやり言った。
「私は少し不安だけど……みんなが、それでいいなら」ミルテが遠慮がちに言う。
「ルルアはどうだ?」
「ん、まあ問題ないんじゃないかな。危なくないくらいの範囲で広がってれば」
 セリエスは思考を吟味する短い時間を置いてから、みんなに向かって顔を上げた。
「全員、笛は持ってるな?」笛というのは、悪魔発見時か、緊急時に鳴らすよう生徒全員に渡されたものだった。「音の聞こえる範囲で、散開しよう。大体、百レーネ(約九十メートル)ってところか。そこまで行ったら、いったんここに戻ってくる。森の奥に進んで、同じことをくり返す」
 四人はうなずいた。
「じゃあ、間違っても先に悪魔に見つけられないように、気をつけてな」
 その言葉を最後に、五人刃それぞれ別の方向へと歩きだした。
 乱立する樹木の間に隠れて、互いの姿はすぐに確認できなくなる。自分の足音しか聞こえず、急に森が小さく縮んでしまったようだった。時折、木々の切れ目に灰色の空が見えた。空は恐ろしく限定された大きさしか持たなかった。
 気配に鋭くなる感≠フ術型を使いながら、慎重に足を進める。左手が自然と鞘をつかんでいたのは、歩きやすくするというよりは、刀の所在が心配だったからかもしれない。雨の日は湿気のせいで刀が抜きにくくなる、と聞いたことがある。あれは本当のことだろうか――
 そんなことを考えながら、キアは不意に足をとめた。
 目の前、ほんの四、五レーネもないところに、それはいた。
 相手の巨大さを考えれば、もっと早く気づかないのが不思議なくらいだった。体高は三レーネ(約二・七メートル)もあるだろうか。それと同じくらいの、横幅。下位悪魔にしては、大きい。悪鬼型、と教官は言っていたっけ、とキアは思い出す。体に比べて、やや小さめの頭。丸太のように太い腕には、棍棒のようなものを握っている。
 オズリ、という名前の下位悪魔だった。
 キアは頭の中で、悪魔学の講義を思い出す。大丈夫、私は冷静だ。オズリは悪鬼型――人間に近い体型の悪魔だ。見た目通りに力が強く、武器を使うこともある。つまり、棍棒のようなもの、を。性質は単純で、好戦的。あまり知能は高くない。
 悪魔は、まだこちらに気づいていなかった。
 キアの手にはじっとりと、汗がにじんでいた。頼んでもいないのに、心臓の鼓動が早くなる。叩いて、止めてやろうかと思ったが、悪魔が気づくかもしれない、と思ってやめる。私は冷静だ、とキアはもう一度、自分に言い聞かせた。
 こんなとき、どうするんだっけ?
 決まっている、笛を吹くのだ。悪魔を見つけたことを、みんなに知らせる。この場を少し離れてからのほうがいいだろう。あいつに気づかれるかもしれない。そう思って、キアが笛に手をのばしたとき――
 何故か、笑い声が聞こえた。聞き覚えのある声だ。どこでだっけ、とキアは思う。そう、あれは実家でのことだった。声は、父親のもの。
 そう認識しただけで、キアは頭にきた。
 父親は、本当に嫌なやつだった。どうでもいいようなことで、自分のことを笑った。つまらないあげ足とり。いつも、もの笑いにするために自分を試した。まだ何も知らない子供に向かって、だ。女というやつが嫌いだったのだ、あの人は。母親は何も言わなかった。そういう相手を選んで、あの男は結婚したからだ。
 ある日、キアは家を飛び出し、偽造した書類を使って剣師院に入学した。
 そして今、目の前には悪魔がいる。
 キアは深呼吸した。大丈夫、私は冷静だ。そして刀の鞘をつかんで、鯉口を切った。
 笑い声が、すっと宙空に消える。
 剣師の戦闘では、まず心≠フ型によって魔力を活性させる。それから活≠ノよって筋力、持久力、瞬発力の強化。あとは速度か、精度か、強度のどれを重視するかによって颯∞的∞斬≠フ型を適当におり交ぜていく。それが、基本だった。
 キアも、その手順に従う。マントは脱ぎ捨てておく。思わぬところに引っかかってしまうかもしれないからだ。それで、準備は完了だった。
「ふう――」
 一呼吸後、抜刀。疾風のように対象に襲いかかった。
 初撃は、浅い。
 背中を薄く斬りつける程度だった。悪魔は動物の断末魔のような甲高い悲鳴をあげた。裂傷面から、黒い液体がこぼれ、すぐに気化して霧のように変化する。悪魔の血、と呼ばれるものだった。体外に流出すると、すぐに消失してしまう。
 キアは構えを直して、二撃目をみまった。だが、左の腕で防がれる。金属を切りつけたような手応え。悪魔はもう体勢を整えていた。棍棒が唸りをあげた。
 相手の左側にまわりこむ冷静な体さばきで、キアはそれをかわす。空気を引き剥がすような音と、風圧――
 まともにくらったら、キアの体など簡単にひしゃげてしまうだろう。だが、動きそのものは鈍かった。それに比べると、キアの動きは速かった。自分でも、速すぎると思うくらい。自然と、にやついてしまう。これなら楽勝だった。
 キアは斬撃を重ねる。相手の攻撃は、ほとんど問題にならない。傷が増えるたびに、黒い血が流れた。痛がっている様子はないが、自分が優勢なのは間違いない。
 ――勝てる、と思った。
 瞬間、足元がすべって転んだ。
 雨のせいだった。木の根元が濡れている。それで、踏ん張りが効かなかった。
 はっとして、危うく転げまわったところに棍棒が一撃された。地面が軽く揺れるほどの衝撃。泥が跳ねかかった。心臓のときと同じように、呼んでもいないのに恐怖がやって来た。足がすくむ。動けない。
 死を、覚悟――
 目はつむらなかった。
 だから、振り下ろされた悪魔の右腕が、断撃されてくるくると宙を舞うのが見えた。一瞬後、武器を握ったままの腕は、どさりと音を立てて地面に落ちた。
「大丈夫?」声がした。
 いつの間にか、そこにはユティスが立っている。手には、抜き身の刀。
 遅れて、三人が到着した。それぞれに刀を構える。ルルアが大きく笛を鳴らした。
 ユティスは訓練時とは別人のような動きで悪魔を襲った。右腕を両断した時点で、勝負はついていた。それでもユティスの剣は正確に、悪魔を切り刻んでいく。
 悪魔にとどめを刺したのは、セリエスだった。
 背後から、心臓への一撃。それでとうとう、地面に倒れた。黒い血がどっと流れ出すのとともに、体の表面も塵状になって崩れはじめる。死んだ悪魔は細かな粒子になって、あとには何も残さない。
 戦闘は終結した。
「おい、大丈夫か?」セリエスが、ぺたんと座り込んだままのキアをのぞき込んだ。「ミルテが悪魔の気配に気づいて、ここまで誘導してくれたんだ。もっとも、ユティスのやつが一番速かったんだけどな」
 その言葉を理解したのか、していないのか、キアの瞳にはかすかに光が戻った。その光がそのまま目の外にこぼれそうになったとき、キアはセリエスの胸に顔をうずめていた。
「――もしかして、夢かこれ?」
 セリエスがきょとんとして三人のほうを見上げたとき、ひどく鮮やかな音がして、その頬がひっぱたかれていた。
 どうやら、夢ではないらしかった。

 結局、一週間の遠征期間中に、二十一体の悪魔が塵に帰された。その数は例年に比べると二倍近くの数値にのぼる。
 生徒側の被害は、負傷が十三に、戦死が四。
 ――死んだ四人のうちの一人が、アデリーネ・ノイエスだった。

 院に戻ってくると、戦死者が出た場合の規定に従って三日間の喪に服することになった。その間、授業は行われない。ただし、道場を使うのは自由で、生徒たちは自主練習をしたり、町へ遊びに出かけたりした。
 葬儀が行われたのは、カンティーア女子修道院。身よりがないため、シスターが遺体を引きとった。実の両親がどこにいるのかはわからない。売られた、と言っていたけれど、やはり本当だったのかもしれない、とユティスは思う。もう、確認のしようもないことではあったけれど。
 参列者の数は意外と多く、院の生徒や修道女たち、それに孤児院の子供たちが大勢集まっていた。孤児たちは本物の姉を亡くしたみたいに泣いていた。案外、その通りだったのかもしれない。
 女子修道院のため、男性の列席者は墓地までしか入ることを許可されなかった。それさえ、特例に近い。教会での葬儀が終わり、鐘が三度鳴らされると、黒い布をかけられた棺がゆっくりと運び出された。先頭を、十字架と聖書、香炉を持った司祭が進んだ。その後ろには、棺と、それを担ぐ人々。キアとミルテの姿も、そのすぐそばに見つかった。
 墓所まで棺が運ばれると、まず司祭が小さな穴をうがち、聖別を行った。それから、本式の墓穴が掘られる。ユティスやセリエスも、それを手伝った。穴はあっけないくらい簡単に出来あがった。
 終油の秘蹟と最後の祈りが捧げられ、棺は穴の中へと下ろされる。讃美歌とともに、棺には土がかけられた。セリエスが他の何人かと一緒に土を入れて戻ってくると、ユティスに向かって言った。「俺たちがこうなってたかもしれないな……」
 土が埋められると、その上に平らな墓石が置かれた。二、三年もすると、その穴は掘り返され、遺骨は共同墓所に移される。限られた土地を利用し続けるためだった。
 遺体は損傷が激しかったために、最後まで棺の蓋が開けられることはなかった。
 それが、遠征から帰って二日目のこと。
 次の日の朝、食事の時間にユティスはキアに声をかけられた。いつもは賑やかな食堂が、今は溺れた魚みたいに静かだった。
「ミルテのこと」キアの言葉はそれだけだった。何のことだかわからない。
「どうかしたの?」ユティスは言った。
「来てない」
 確かに、食堂にミルテの姿はなかった。というより、ここのところ見かけた記憶がない。食事をとっていない。最後に見たのは、たぶん葬儀のときだった。
「だから?」ユティスは真顔で言った。
「わからないの?」キアは顔をしかめた。
 どうやら、何かを非難しているらしい、とは思ったが、それが何なのかユティスにはわからなかった。普段なら、キアはこんなまわりくどい言い方はしないはずだった。
「ミルテは大丈夫なのか?」代わりに、というわけでもないのだろうが、セリエスが隣から訊いた。
「あまり、元気はない」キアは仕方ないといったふうに、セリエスに向かって言う。「普段から、元気なほうじゃないけど」
「飯は食ってるのか?」
「食べてない。水だけ」
「一週間?」
「もうすぐね」
 二人が何の説明もなく会話をやりとりしているのが、ユティスには何だか不思議だった。
「まあ、あいつにはショックだったろうな」セリエスが、つぶやくように言った。水面に投げ込んだ石が、波紋も立てずに沈んでしまったくらいに静かな声だった。
「ずっと部屋にこもってるのよ。ベッドの隅に座ったままでね」
「何かしゃべったか?」
「ううん」キアは首を振った。「黙ったまま。葬儀のときから、ずっと」
「…………」
 まるで、ミルテの沈黙が伝わってきたような静かさだった。
「だから、あんたよ」しばらくしてから、不意にキアは言った。
 それが自分のことを言っているらしいと気づいて、ユティスは顔を上げる。あまり、自信はなかったけれど。
「何のこと?」ユティスは訊いた。
「ミルテのこと、心配でしょ」
「うん」それは、そうだった。そして、キアの最初のセリフが本当はそれだったらしい、ということに気づく。
「だから、あんたがなぐさめてきて」
「……ぼくが?」ユティスは首を傾げる。それは、純粋な疑問文だった。
「そうよ。他にいる?」
「わからない。何で、ぼくなの?」
「他にいないから」
 キアの説明は、それで十分らしかった。ユティスにはもちろん、何のことだかわからない。けれどキアからそれ以上の言葉は期待できそうもなかった。セリエスも、ルルアも、何も言わない。
「ミルテは部屋にいるから」キアはごく当然のことみたいに言った。「食事が終わったら、行ってきてあげて」

 女子寮には、ほとんど人影はなかった。みんな、出かけているのだろう。廊下を歩きながら、ここに来たのは二度目だな、とユティスは思う。見つかったら、どんな言い訳をしようか、と思ったが、すれ違った誰にも見咎められるようなことはなかった。もしかしたら、そういう理由でキアはこのことを頼んだんだろうか、と思う。
 ミルテのいる部屋の前まで来ると、何の変哲もないドアがあった。形は男子寮と同じ。できれば中の様子を教えてほしいところだったが、ドアは何も言わなかった。きっと親切心が不足しているのだろう。
 ユティスは少しだけため息をついて、ドアをノックした。予想通り、返事はない。
 だから予定通りに、黙ったまま扉を開けた。鍵はかかっていない。
 部屋の中は、男子寮と同じだった。二段ベッドが二つ、机が二つ。キアとミルテ、それから別の班の二人が共同で使っているはずだったが、今は誰もいない。香水でも使っているのか、少しだけ甘いにおいがした。
 誰もいない部屋で、ミルテはベッドの隅に座っていた。
 南向きの部屋で、光は十分に入るはずだったが、そこだけが変に薄暗かった。世界の密度が違う、というか。そこは、光の存在を許容するような空間として構成されていない。そんな感じだった。
「ミルテ?」
 そこに座っているのが誰なのか、ということは確認するまでもなくわかっていたが、ユティスは声をかけてみた。暗がりで、顔や表情はほとんどわからなかった。
 返事はないだろう、と思っていたが、意外にも答えはあった。
「彼女のこと、聞きましたか?」少なくとも、声はミルテだった。
「どんなこと?」
「顔がひしゃげてたそうです」
 沈黙。
「森で探索中、彼女の班は二体の悪魔に遭遇したそうです。彼女は撤退を決めましたが、敵に気づかれてしまいました。笛は吹きましたが、助けが来る様子はありません。班員より、悪魔のほうが少しだけ足が速い。このままだと、追いつかれてしまいます」
「…………」
「どうしたと思いますか?」
「彼女が囮になった」ユティスは迷うことなく答えた。
「そうです」ミルテはうなずく。その気配だけがする。「彼女はその場で立ちどまりました。班員を悪魔から逃がす間に、一体に致命傷を与えて、もう一体に殺されました」
 ユティスは黙ったまま、机のところからイスを引っぱり出して座った。
「どうして、彼女は死んだんでしょう?」ミルテは訊いた。
「その問いに、意味なんてないよ」ユティスは言った。「理由なんて、何もないんだから」
「でも、彼女は死ぬべき人じゃなかった」
「どこにも死ぬべき人なんていないし、死ぬべきでないような人もいない」
「彼女はみんなを助けようとした。強い人だった」
「強い人間が不幸にならないわけじゃない。弱い人間がそうなるわけじゃないみたいに」
「でも彼女は、彼女は――」
「彼女は死んだ、顔を潰されて。もう彼女はこの世界のどこにもいないし、生き返るようなこともない。ただ、それだけのことだよ」
「――――」
 ミルテの声がつまって、かわりに丸く光るものが瞳からこぼれた。その小さく透明な液体の中に何が含まれているのかを考えると、ユティスは不思議な気持ちになった。悲しみというのは、空気に触れると形になるのだろうか。
「……自分が死ぬべきだと思った?」ユティスは訊いた。
 黙ったまま、ミルテはうなずく。ユティスは言う。
「でもそれは無意味だよ。事実は変わらないし、彼女はそんなこと望まなかったと思う。彼女は死んだけど、ミルテはまだ生きてる」
 そうだ――
 彼女は言っていたっけ。やり直すのが、夢だって。
 でも彼女はもう、やり直すことができない。死んでしまったから。
 つまり、それが死ぬということの意味。彼女の夢は、どこか暗いところに消えてしまった。
 ミルテはベッドの隅で、小さく嗚咽を漏らしていた。いろんなものを必死に押しつぶして。立派なものだ。そのちっぽけな体のどこに、それだけの力があるのだろう。
 それからふと、ユティスは彼女から最後に言われていたことを思い出した。野営地での見張りで、去り際に伝えられた言葉。
「彼女、言ってたよ。ミルテに謝っておいてほしいって」
「……?」
「ぼくに余計なことを言ったせいで、ミルテが口をきいてくれないからって」
 ミルテは何かを思い出すように、くすりと笑って――
 どこかの細いほそい糸が、もうすっかり切れてしまったみたいに泣きはじめた。大切なものを失くした幼児みたいに。ただただ、涙を流して。
 ユティスはそんなミルテを見ながら、考えていた。たぶん、彼女は泣いてやるべきだったのだろう。死んだ人のために。もちろん、そんなことは無意味だった。何の意味も、価値もない行為。
 けれど――
 そう考えてから、ユティスはふと、この前自分がきちんと泣いたのはいつだったろう、と思い返してみた。ミルテと同じような涙を流したのは。
 それはどれだけ手をのばしても届かないくらい――
 遠い、遠い昔の出来事だった。

 学院には鐘楼があって、主に授業の開始や終了、食事時間を告げるために使われる。鐘のある塔頂まで管理用の螺旋階段がつけられていたが、そこを登るものはほとんどいなかった。鐘を鳴らすには、地上まで垂れた紐を使えばいい。
 鐘楼の上には今、二つの人影があった。背格好がだいぶ違うため、教官と生徒のものらしい、ということがわかる。教官のほうは、秀麗な顔立ちながら、どこか軽俳な雰囲気があった。生徒のほうは対照的に、幼くはあるが剛毅なたたずまい。袖の色から、四年生だとわかる。
 学院全体を見渡すことのできるその場所には、強い風が吹いていた。快適とはいえない肌寒さ。しかしそのおかげで、話し声が誰かに聞かれる心配はない。
「私たちが遠征中、こちらでは変わりありませんでしたか?」妙に甘ったるい、舌に残る声で教官は言った。
「ええ、何も問題はありませんよ。トリアーノ先生」
「ハユナ君にも、発作は?」にやにやした顔で、トリアーノは言った。
「ありません」
「君のほうはどうです?」上目づかいの、のぞきこむような視線。「ロキノス・オルドール」
「最初に言ったとおり、何の問題もありません」ロキノスは言った。
「左腕の傷は、どんな具合ですか?」
「元々、かすり傷です」ロキノスはことさら無表情に言った。「心配はいりません」
「君に傷をつけるなんて、相手は相当の腕前だったんでしょうね?」
 ロキノスは答えなかった。わざわざ答える必要のないことだった。
「今回の遠征は散々だったみたいですね、トリアーノ先生」
「ああ、予定より悪魔の数が多かったものですからね」トリアーノはにこやかに言う。
「それは禁書と何か関係が?」
「禁書? 禁書っていったい何のことです?」
 どうせ訊いたところで、ろくな答えなど返ってこないことはわかっていた。
「あなたが担当区域を外している間に、生徒が一人やられたとか」ロキノスは言った。
「残念なことですが」トリアーノは痛ましげな顔をした。
「もしかしたら、あなたがいればその生徒は死なずにすんだんじゃないですか?」
「私には大事な用がありましたからね」トリアーノの声はまったくの平静だった。吐き気がするほどに。「死んだ生徒には悪いと思っていますが」
「……例の女子生徒のほうはどうなったんです。悪魔教の騒動の。学院には来ていないようですけど。彼女にも申し訳ないと?」
「彼女のことなら、有効に利用させてもらいましたよ」トリアーノはにやりと笑った。「少々、有効すぎたかもしれませんが」
「あなたのなぐさみものだったはずですが」
「なぐさみだなんて、とんでもない」トリアーノはわざとらしく首を振った。「私はただ、彼女の望むとおりにしてやっていただけですよ。それに、私は美しいものが大好きなんです」
「けっこうなことですね」ロキノスが皮肉っぽく言うと、トリアーノは蛙の皮膚のようなぬめっとした目つきでロキノスのほうを見た。
「時に、ハユナ君は最近どうですか?」
「……どう、とは? 言ったとおり、発作は起きていません」
「いえいえ、そういうことではなく」トリアーノは意味ありげな視線をロキノスに送る。「実に美しく成長しつつある」
 ロキノスは黙った。
「彼女は間違いなく、一級品の美女になります。気高い女王のような、誰もがため息をつく女性に、ね。私が保証しますよ。この刀を賭けたっていい。何なら、私が彼女の成長の手助けをしてあげましょうか」
「――妹に手を出したら、あんたを殺す」ロキノスの声は氷のように冷たかった。
「それは怖い」
 トリアーノはおどけてみせてから、小さな茶巾袋を取り出した。中には丸薬が詰まっている。発作を抑えるための薬だった。
「これは今月の分です。他人には見つからないように。それから、用法はきちんと守ってくださいね」
「……わかっていますよ、先生」
 ロキノスは半分ひったくるようにして、薬を受けとった。この薬がなければ、自分はともかくハユナは無事ではすまない。例えどんなことがあっても、この世界でそれだけは許すわけにはいかなかった。
「ああ、そうそう」トリアーノはもう用事はすんだと階段を下りようとしたところで、振り向いて言った。「新しい指示が来ました。君に伝えておきましょう」
 そして、その指令がロキノスに伝えられる。
 ロキノスの顔は、さすがにまともではいられなかった。
「詳しい話は、例の場所で。それではまた――」
 トリアーノはいつもの柔和な表情に戻っていた。とても今、ロキノスにそのことを言った人物とは思えなかった。
 階段の途中で、トリアーノは下からのぼってくるハユナとすれ違った。紳士らしく身をどけて、道を譲ってやる。ハユナは深くお辞儀をして、その横を通りすぎて行った。トリアーノの視線は淫靡な目つきで、しばらくそのあとを追った。
 鐘楼の上では、ロキノスが蒼白な顔をして立っている。
「どうしたの、お兄ちゃん……?」ハユナはロキノスをいたわるように言った。
「ああ――」しばらく呆然としてから、ロキノスは言った。「かなり厄介なことを頼まれた」
「どんな?」
 まるでその言葉が不吉な怪鳥か何かみたいに、ロキノスは言った。
「――セレ・ノエストリアの暗殺」

「少し冷えるね」ルルアはマントの前を掻きあわせながら言った。
 月の下の夜道を、ユティスたちは歩いていた。夜中の町に、人影はほとんどない。時々、野良犬がうらぶれた格好で通りを横切っていった。ランタンの光の作る影が、建物の壁面で笑うように揺れていた。
 院では一ヶ月に一回程度の割合で、町の夜警の仕事が回ってくる。班単位で行われるので、実際には毎晩、どこかの班が警備に出ていた。些少とはいえ給金がもらえるのと、夜間の外出が許されるので、この仕事を喜ぶ生徒も多かった。
 夜警の仕事は、町の自警団に出向する、という形をとる。自警団自体は各ギルドの醵金によって成り立っており、構成員の大半はロゼの市民だった。普段は手仕事や帳簿の管理をしている人間で、もちろん戦闘要員ではない。だから、年少とはいえ剣師院の手が借りられるのは、彼らとしては心強い。院としても、市民との交流や生徒の実地訓練として、この仕事を利用できる。要するに、利害は一致していた。
 ユティスたちは自警団の一人を先頭に、セリエスが最後尾につく、という隊形で見回りをしていた。団員は鎖帷子と胸甲を身につけ、手には鉤槍を握っていた。ユティスたち院生は遠征時のような制服と革鎧、マント、それに帯刀が許可されている。
「ノルト叔父さん」セリエスが後方から声をかけた。「ルートは、いつもと?」
 先頭の団員が、歩きながら首だけを向けた。三十がらみの男で、どことなくセリエスに似ていた。「ああ、同じだ」
「町では、何か変わったことは?」
「ないな。平和なもんだ。この前、肉屋の親父が転んで怪我をしたくらいが事件だな」
「そりゃ大事件ですね」ルルアがにこにこしながら茶化した。
「ああ、奴さんにしてみればな。どうだい、街区を一巡りしてきたら、屯所でぶどう酒でも飲んでいくか?」
「私たち、未成年ですけど」キアがうろんげな目をした。
「心配はいらんよ。酒の奴はそんなこと気にしないからな」
 夜空には、半分だけの月が明るく輝いていた。雲もない。星がちらちらと、女王のまわりで噂話をする官女のように瞬いていた。空気が冷えるのは、よく晴れているからだろう。
 しばらくして、ユティスはふと足をとめた。
「どうした?」すぐ後ろにいたセリエスが、不審そうに声をかける。他の四人も、少し手前で待機していた。
「今、知ってる人が向こうにいたんだ」ユティスは言う。
「知ってる人?」セリエスがランタンを掲げて、ユティスの視線を追った。細い路地裏の先にあるのは濃い闇で、ろくにものも見えなかった。「本当に見たのか?」
「うん」
「どんなやつだ?」
「誰かまではわからなかった。確か、院で見た人」
「院生か?」セリエスは首をひねった。
 学院の生徒は、基本的に夜間の外出を禁止されている。例え院を抜け出したとしても、市門をくぐるのは難しいはずだった。それには教官の許可がいる。
「見間違いじゃないのか?」
「ううん、間違いじゃないよ」ユティスは自分の眼に自信があった。
「どうかしたの?」キアが訝しんで訊いた。
「怪しい人影を発見した」セリエスが言った。
「え?」
「これから、そいつのあとを追う」
 セリエスは持っていたランタンをミルテに渡した。光で気づかれてしまうので、追跡するには不要。十分とまではいえないが、町には月明かりがあった。
「俺とユティスの二人だけでだ。他は見回りを続けてくれ。あとのことはルルアに任す。時間になったら、屯所で落ちあおう」
「二人が戻ってこなかったら?」ルルアはわりと冗談でなく言った。
「その時はすぐ院に連絡だな。――こっちにはユティスがいるんだから、心配いらねえよ」軽く片目をつぶった。
 了解、というルルアの言葉を聞く前に、ユティスとセリエスは走り出していた。時間があくほど、相手を見失いやすくなる。
「どっちだ?」路地裏に入ってから、セリエスが訊く。
 ユティスはたいして迷いもせずに、右の角を曲がった。建物の影で道は相当に暗かったが、ユティスは昼間と変わらない速さで走った。セリエスも視≠フ型を使って追ったが、油断をすると離されてしまう。
 幸い、相手の姿はすぐに見つかった。こちらに気づいた様子はない。徒歩で、明かりを持っているのも追跡には都合がよかった。二人は足音と気配を消し、あとを追った。
 怪しい人影は、二つ。どちらもフードをかぶって顔を隠していた。ユティスが一瞬だけ見たのは、後ろの明かりを持っていないほう。二人ともゆったりしたローブを身にまとっていて、一見したところは貴族の使い番か何かみたいに見えた。
「手前のやつ、どこかで見覚えがあるな……」セリエスが小声で言った。
 時々、明かりに照らされてフードから顔がのぞいた。けれどそちらのほうには、ユティスは見覚えがない。元々、人の顔を丁寧に記憶するほうではなかった。それでも人影に反応したのは、よほど印象に残っていたからだろう。
 二つの人影は、丘のほうへと向かっているようだった。建物がだんだんと立て込んできて、道がわずかに傾斜した。旧市街は、いっそう閑散としていた。物音は暗闇の中で、無理に拡大されたような奇妙な響きかたをした。
 人の目を警戒しているのか、人影のとる道はどれも狭く、目立たなかった。それでも足どりに迷いが見られないのは、通いなれた道だからだろうか。
 曲がり角が多くなるにつれ、人影を見失う時間が長くなっていく。
「まずいな」セリエスがつぶやいたときには、もう手遅れだった。
 路地のどこかに、人影は完全に消えてしまっていた。深い水の中に隠れた魚みたいに、それはもうどこにも見当たらない。追跡は失敗だった。
 尾行に気づかれたわけではない、と思うが自信はなかった。セリエスはあたりを見まわしながら言う。
「この辺は、古い貴族の屋敷がたくさんあるところだな。ここが目的地付近だとしたら、いったいそいつには何の用があったんだ?」
 もちろん、本当の目的地はここではなかったかもしれないし、ユティスが見たのは知らない人間だったかもしれない。
「本当に、見間違いじゃないのか?」セリエスはもう一度訊いた。
「うん、知ってる人だった」ユティスはうなずいた。
 空の上では無関心な微笑みを浮かべた月が、いつもと同じ速さで西へと向かっていた。

――Thanks for your reading.

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