[剣師と悪魔]

[地を這う虫たち]

 バルステッドはいつものようにエールを飲んだ。同僚たちとは別に、一人で飲みたいときにはこの店に来る。知りあいがいないし、ゆっくり飲める。店内は賑わっていたが、騒々しいほどではない。ごくごく注意すれば、会話を聞きわけることができる、という程度。だがそれはひどく面倒だったし、ここではそんなことをする人間はいない。それが老店主の好みなのだろう。
 時刻は深夜を過ぎていた。教会の最後の鐘が鳴ってから、もうずいぶんたっている。店内の暗闇を、ランプの光が気の弱い人間みたいに照らしていた。まっとうな市民なら家に帰って寝る時間だったが、店内にいる客たちにそんな様子は見られなかった。
 ほんの四半世紀前には、考えられないことだった。あの頃は、誰もが暗闇に怯えていた。それがいつ形をとって襲ってくるのかわからなかった。大抵の人間は少しでも早く朝が来るのを願って眠りについた。剣師たちの血は流れ続けた。
 それからまだ、ほんのわずかな時間しかたっていない。
 バルステッドは木製のマグを傾けて、中の液体を半分ほど流しこんだ。地下倉で冷やされていたらしいエールは、心地よくのどを潤した。年老いた店主と同じで、寡黙な味わいだった。
 しばらくして、バルステッドの前に人影が立った。音がなく、影みたいに存在が薄い。おそらく、店内でその人影に気づいた人間はいないだろう。それくらい、見事に気配を消していた。
 短く切りそろえた前髪に、後ろでアップにまとめた髪。注意してみると整った顔立ちをしていることがわかるが、そのことに気づく人間は少ない。夜空の目立たない星みたいに。地味な眼鏡をしているせいもある。
 バルステッドはその相手を見て、にやりと笑った。
「実戦なら、今頃俺は死んでるだろうな?」
「どうでしょうね」相手は軽口に応じるでもなく、真面目な顔で言った。「あまりそうとは思えませんけど。私が扉を開けたときから、先輩は気づいていたんじゃないですか?」
「買いかぶりだな。俺はもう現役じゃない。来ることを知ってなきゃ、気づかなかっただろう」
「現役でない人間が、そんな場所に座りますか?」
 相手は静かにイスを引いて、バルステッドの前に座った。
 二人のいるテーブルの位置は、店の一番奥だった。背後をとられない用心のためだ。おまけにバルステッドの座所からは、店の入り口を監視することができた。
「剣師院の教官というのは、もっと安全な職業と思っていましたけど」相手は軽く首を傾げてみせる。
「そのとおりさ」バルステッドは口元を吊り上げた。「こいつはただの癖だ。昔の習慣が抜けきらなくてな。今でも寝るときは、すぐ横に刀がないと落ち着かん。何せ、あれからまだ三年しかたってないからな」
 店主が近づいてきて、二人は貝のように口を閉ざした。注文を聞かれ、相手は蜜水を頼んだ。アルコールを飲まないのは、酩酊することへの用心だろう。
「やはり現役は違うな」店主が行ったあとで、バルステッドは言った。
「先輩は当時もお酒を飲んでいましたけど」
「緊張をほぐすためさ」バルステッドは嘯く。
「初耳ですね、それは」
「聞いてくれる人間がいなかったからな、あの頃は」
 店主が注文品を持ってきて、テーブルの上に置いた。客が幽霊みたいに突然現れたとしても、その驚きを顔に出すような老人ではないようだった。あるいは、相手が幽霊でも構わないのかもしれない。
 主人が行ってしまってから、二人はまた話しはじめた。
「それで、今さら何の用だっていうんだ、レテノ?」バルステッドはコップを傾けながら、のぞきこむように相手をうかがった。剣先から距離を測る目つきだった。「もしかして、あいつのことか?」
「それもあります」剣を持っていれば軽くいなす格好で、レテノは蜜水に口をつけた。「でも、急用は別のことです」
「俺に関係している?」
「まだはっきりしませんが、間接的には」
 ふん、とバルステッドは鼻を鳴らした。「それは元情報部の人間としてか、それとも剣師院の一教官としてか」
「教官としてですね」
「なら、聞かせてもらおうか」
 レテノは少し黙った。話し方を整理している。レテノとしてはこの先輩の助けを借りたいので、迂闊なしゃべり方はできなかった。
「シャトレンの森を知っていますね?」
「そりゃ、そうだ。ここの北東に広がってるでかい森だ」
「剣師院で、実戦訓練用に遠征に向かう」
 バルステッドはうなずいた。こういった森や、洞窟、山岳地帯といった場所は、悪魔が自然発生しやすかった。院では訓練の一環として、定期的にその退治へ向かう。
「それが、どうした?」
「悪魔の数が増えているという報告があります」
 そういう情報は、バルステッドも聞いている。初耳というわけではない。だが、それが帝国情報部員の話となると、重要度は自ずと違ってくる。
「確かな話なのか?」バルステッドは眉をひそめた。
「ほぼ確実です」
「原因は、何だ?」
「まだ、わかっていません」
「だが見当はついている、そうだろ?」
 そうでなければ、わざわざ退役者のところになぞ来るはずがない。案の定、レテノはうなずいた。
「――先日、ロンディスの王立図書館から一冊の書物を紛失したという知らせが届きました」
「北方四国の一つか。ずいぶん、きな臭い話だな」
「ええ、盗まれたという話ですが、本当かどうかは怪しいものですね。あの国は悪魔教との結びつきが疑われていますから。ですが、知らせが来ただけでもましというものです」
「書物の内容は?」
「禁書≠ナす」
 今度こそ、バルステッドは本当にうめいた。ようやく悪魔戦役が終わったというのに、人間というのは過去から何も学ばないものらしい。思わず笑みがこぼれそうになる。
「書物の行方は?」
「今、追っています」
「この町にあるのか?」
 その可能性に、バルステッドは内心で思い切り顔をしかめた。
「まだ確定しませんが、おそらく」
「何故、こんな町に――」
 ロゼは剣師院があることをのぞけば、特にこれといったところのない町だ。帝国軍の駐屯基地があるわけでも、過激派分子の巣窟というわけでもない。軍事的にも政治的にも中立の町だ。
「……それも調査中です。先輩のほうで何か気づかれたことはないでか?」
「ないな。第一、俺はもう現役じゃない」言ってから、バルステッドはふとあることに気づいた。「あの小僧をここによこしたのは、まさかそのためなのか?」
 レテノは無言だった。手で叩くと音のしそうな、硬質な沈黙だった。
「囮のつもりか? あいつを使って、敵の動きを誘う。しかし、そいつはいささか危険すぎる」
「あの子のことについては、ごく一部の人間しか知らないはずです。危険はないと判断しました。それに何かあっても、あの子なら十分に対処できます」
「そのために、お前が今まで連れまわした」
 レテノは簡単にうなずいてみせた。
「うまくすれば、そこから禁書の行方もわかるかもしれない、というわけだ」バルステッドは親指で顎の下を掻いた。
「あの子をここに連れてきたのは、総合的な判断による結果です」
「……何故、そこまであの子供にこだわる?」バルステッドはやや唐突に言った。声に含まれているのは、かすかな苛立ちだった。「確かに、あれはお前の姉の子供だ。そういう意味では、お前の行動もわからんでもない。だがな、お前はあいつの母親じゃないんだぞ。三年前に、何があったか忘れたわけじゃあるまい。あいつのせいで、ジノアは――」
「忘れるわけなんてありません」とても静かな声で、レテノは遮った。静かすぎて、永遠にそこにとどまっていそうな声だった。「忘れるわけなんてない。でもそれは、あの子のせいじゃない。そうですよね、先輩? それにあれは、もう三年も前の話です」
「…………」
 悪かった、とバルステッドは口の中で言った。イスに座りなおす。そう、あれからまだ三年しかたっていない。その十倍の時間が流れたところで、すべてを癒すことなど不可能ではあったけれど。
 二人とも黙ったまま、時が流れた。向こうのテーブルから、調子外れの歌が聞こえた。どこかで聴いたメロディーだ、とバルステッドが思い出そうとしていると、レテノがイスから立ち上がった。銅貨を何枚か置いて、言う。「私はそろそろ帰ります。何かわかれば、こちらから連絡します。ユティスのことは、できるだけ注意してやってください」
「……ああ」バルステッドは生返事をして、彼女を見送る。
 それからしばらくして、バルステッドもその店をあとにした。酒場にはまだ何人かの客が残っていた。元気な連中だ、とバルステッドは苦笑する。
 帰る途中、バルステッドは尾行に気をつけてみたが、それらしい気配はどこにもなかった。

 時刻は、払暁の少し前といったところ。起床の鐘はまだで、院全体がひっそりと静まり返っていた。厨房では今頃、四百人分の食事を作るのに大わらわだろうが、それも寮までは聞こえてこなかった。夜明け前のその静けさは、ちょっとした奇跡のようにも思える。
 ユティスは粒子の粗い暗闇の中を、そっとベッドから抜け出した。ベッドから床に足を下ろすと、木の寝台が不平らしく軋んだ。
「ユティス?」向かいのベッドから、ルルアが顔をのぞかせた。
 起こしてしまったようだが、寝惚けたところはない。この少年は、不思議といつでも折り目正しいようだった。
「ごめん」ユティスは小声で謝った。
「何が?」不思議そうなルルアの顔。
「起こしちゃったみたいだから」
 ルルアは軽く吹き出した。「いいよ、そんなこと。それより、どこか行くつもり?」
「ちょっと走ってくる」
「走る?」ルルアは首を傾げた。
「体力をつけないといけないから」
 ルルアはまじまじとユティスのことを見た。「それは、この前のことを気にして?」
「うん」
 ルルアはベッドの上に胡坐をかいて座った。ユティスは音を立てないように、そっと運動服に着替えた。
「偉いなあ」しみじみとした口調で、ルルアは言った。
 ユティスは言葉の意味を理解しかねるようにルルアを見た。ルルアは無邪気そうな笑顔をしている。
 やがてユティスの準備が整って、ルルアは「いってらっしゃい」と送り出した。扉の閉まる音がすると、ベッドの上から声がした。
「行ったのか、ユティスのやつ」
 セリエスだった。いつ頃からか、目を覚ましていたらしい。
「うん、立派だと思わない? この前のことを気にして、自主トレーニングしようだなんて」
「さあてな」
 セリエスは横になったまま両手を頭の後ろで組んだ。「変わったやつには違いない」

 ユティスは準備体操をすますと、院を囲む塀の内側にそって走りはじめた。一周、ざっと一と半ミル(約二・四キロ)といったところ。ランニングをするには手頃な距離だった。
 空にはまだ夜の一部が残って、灰色だった。その色はやがて紫になり、いつものように青色になる。少なくとも、その予定のはず。
 歩調と心臓の鼓動に注意しながら、ユティスは足を動かす。ちょっとでも油断すると、心臓は嫌な動悸を起こした。黒猫とカラスが大量に目の前を横切ったような不吉さ。
「君の体には、よくないものが含まれてる」
 確か、レテノはそんなことを言っていたはずだった。よくないものって何、と訊いたら、それは教えられない、と言われた。教えてもらえないなら、気にしても仕方がない。以来、ユティスはそのことをほとんど忘れていた。
 あれはどういう意味だったんだろう、とユティスは走りながら考えてみた。体のつくりが人とは違う、ということだろうか。でもそれだけなら「よくないものが含まれてる」なんて言い方はしないはずだった。どちからというとそれは、不必要なものが余計に組み込まれている、という感じだった。
 四分の三周ほどまわったところで、もう息が切れはじめた。心臓が徐々に裏返っていく感覚。
 後ろから、誰かが追い抜いていった。ユティスと同じように自主トレーニングをしているのだろう。体格がいいので、上級生かもしれない。
 その生徒は追い抜くとき、ちらっとユティスのことをうかがった。様子を気にしている、という感じだった。目が鋭く、強面だったが、見た目ほどとっつきにくい人間ではないのかもしれない。ユティスは大丈夫、という印ににこっと笑ってみせた。その生徒とは走るスピードが二倍くらい違っていたけれど。
 その生徒が行ってしまうと、ユティスは再び自分のペースに集中した。心臓の働きは、どこかに穴でもあいているみたいに効率が悪い。
 レテノと旅をしているときも、そうだった。体力が続かない。戦闘ではだから逆に、短時間で決着をつけられるようにした。長丁場には不向きだからだ。ユティスが天業流を修めているのは、そういう理由だった。すばやく勝負を決するには、一撃の威力を高めるしかない。
 もちろん、ユティスは魔力によって身体能力を高める、天法流の活≠フ型を習得していた。その第二型段階も、使えないことはない。けれど所詮それは体力の強化でしかなくて、元からほとんどゼロのものでは、少しましになる、という程度でしかなかった。特に、持久力という点では壊滅的だった。
 こうしてランニングをするのだって、結局は体力と魔力の適応化が目的だった。それがユティスの場合は、いくら魔力の流れを最適化しても、体力そのものがまったくついてこない。たぶん、体によくないものが含まれているせいだろう。
 ぼんやりと考えごとをしながら、ユティスは走り続ける。呼吸が浅く、心臓の鼓動が速くなっていくのを、他人事みたいに感じていた。明るくなっていくはずの空は、妙に暗くにごっている。
 変だな、と思っていたら、正体不明の衝撃があった。
 ――それから、かすかに歌が聞こえる。
 歌というより、ハミング。
 地面の草を揺らす風みたいに。
 どこかで聞いたことがあるな、とユティスは思った。ずっと昔、きっとまだ生まれる前のことだ。村を見下ろす樹のそばで、誰かがこんな風に歌っていた。神様が優しく微笑んでいるような一日――
 そして、ユティスは目を開いた。
 目を開いた、ということは、目を閉じていた、ということだった。どうして走っている途中で目をつむったりするんだろう、とユティスは思った。文章がいくつも欠けたページみたいに、記憶がひどくあいまいだった。
 体の感じから、どこかに寝かされているのだとわかる。ベッドの上のようだ。どうして屋外にベッドなんかがあるのだろう、と思う。いや、違う。ここは外じゃない。野外にベッドがあるはずがない。ユティスは何とか正常な思考をとり戻そうとする。
 走っている途中、倒れたのだとユティスは気づく。それを、誰かが運んでくれた。そこまで考えて、ようやく意識が鮮明になった。ガラスの曇りを拭きとったみたいに。
 じゃあこの歌は何だろう、とユティスは思う。ずっと昔に聞いた歌。どこか知らない場所に、消えてしまったはずの――
「……リリア?」
 船の上にいるみたいに揺れて、まだはっきりしない視界を巡らせた。その名前を口にしたのは、きっと頭の一部が接続不良を起こしていたからだろう。
「気がついた?」
 声がしたのは、すぐ近く。見ると、少女がそこに座っていた。ベッドの傍らから、ユティスの様子をうかがっている。
 ひどく、幼い容貌。そのくせ、表情には絃をぴんと張りつめたような真剣さがあった。星の光を何度もろ過して、一番きれいにしたような印象。さっぱりとした、短めの髪。天使に似た、二つの瞳。院の制服を着ていた。
 ユティスはその瞳に、見覚えがある気がした。
 どこで、見たのだろう。
 いつ、見たのだろう。
 世界の裏側で忘れてきてしまったみたいな――
「どこか痛いの?」少女が訊いた。
「――え?」
「泣いているから」
 気づかなかった。頬に手をやると、確かにそこは濡れていて、少しだけ指が湿った。
「大丈夫?」少女はユティスの目の奥をのぞく。
「うん」ユティスは涙を拭って、うなずいた。少し頭痛がした。
「リリアというのは?」少女が訊く。
「妹の名前。……ここは?」
 ユティスはあらためてまわりを見渡した。治療室かと思ったら、違うようだった。大部屋で、いくつもベッドが並んでいる。人はいない。がらんとして、怪物の胃袋の中みたいな静けさだった。現在は、ユティスと少女の二人しかいない。
「女子寮の大部屋。あなたは外で倒れていて、それをロキノスが運んできたの。えっと、ロキノスというのはわたしの兄のこと。治療室はまだ先生がいなかったから、仕方なくこっちに。本当は兄が女子寮に入っちゃいけないんだけど、他にどうしようもなかったから」
 ユティスは曖昧にうなずいた。ロキノスというのは、さっき走っていた上級生のことだろう。その人が、ユティスを妹のところまで運んできた。その妹が、目の前の彼女。
「君は?」ユティスは訊いてみた。
「わたしはハユナ。ハユナ・クリシア」少女はかわいらしく首を傾げた。「あなたの名前は?」
「ユティス。……どうして、君しかいないの。他の人は?」
「今は朝食の時間だから」ハユナは笑顔を浮かべた。相手に気を使わせないための表情。「みんな食堂。でも今から行っても、もう間にあわないと思う。だから残念だけど、今日は朝食を諦めるしかないよ」
 何だか迷惑をかけてばかりだな、とユティスは思った。
「ベッド、ありがとう。おかげでよくなったよ」ユティスは布団から足を出して、床に下ろした。
「体調が悪いなら、もう少し寝ててもいいんだよ」ハユナは慌てて言った。
「でも、ここにいるとまずいんじゃないかな」
「どうして?」
「男子は女子寮に入っちゃいけないんだよね」
 ハユナは一瞬、口を閉ざした。でもその口は閉じきらずに、少しだけ隙間が開いている。
「えと、その、うん……そうだね」彼女の顔は心もち赤かった。「あの、ごめんなさい。てっきり、わたし、その……。兄も普通に運んできたから。何も考えなくて。本当にわざとじゃなくて」
 荷物を落っことしてばらばらにしてしまったみたいに、彼女は慌てた。そのばらばらになった言葉を、急いで拾い集める。
 彼女の慌てようがおかしくて、ユティスは何故だか笑ってしまった。彼女はそれでますます顔を赤くしたが、結局は笑う。不思議な空気の柔らかさだった。
「今度は倒れたりしないようにする」ユティスはそう言って、彼女と別れた。
 寮の廊下を歩いていると、幸い誰にも出会わなかった。キアあたりとはちあわせると、話がだいぶややこしくなりそうだったから。
 歩きながら、あんなふうに笑ったのはいつ頃以来だったろう、とユティスは考えてみた。
 覚えていない。それはやっぱり、生まれる前のことなのだろう。
 玄関ホールまで戻ったところで、セリエスとルルアの二人に会った。セリエスは不思議そうな顔をしていた。
「今まで、どこに行ってたんだ? 心配してたんだぞ」
 ユティスはそれに対して、ただ曖昧に首を振るだけだった。

 授業のはじまる前、移動時間の際に、ハユナはロキノスと顔をあわせた。一回の廻廊部分。生徒たちは三々五々、教室へと向かっている。
「俺が運んだ生徒、どうなったんだ?」ロキノスが訊いた。
 兄妹というが、二人の顔や雰囲気はあまり似ていなかった。
「大丈夫だったみたい。すぐ起きて、出ていったから」
「そうか」何でもなさそうな顔をするロキノスに、ハユナはくすくす笑った。「何がおかしいんだ?」
「だって、お兄ちゃん勘違いしてるんだもん」ハユナはまだ笑っている。「あの人、女の子じゃなくて、男の子だったんだよ」
「…………」
「おぶったときに、わからなかったの?」
「いや、何も思わなかったな、あの時は。見た感じで女だと思い込んでいた」
「体つきでわかるはずだよ。胸だってなかったし」
「それは、どうだろうな?」
 何となく面白くないことを言われそうだったので、ハユナは黙った。十四歳の乙女心は、それなりに複雑な仕組みを保持している。
「でもあの人、ちょっとお兄ちゃんに似てたよ」代わりに、ハユナはそんなことを言った。
「俺に、いったいどこが?」
 ハユナは少しだけ真剣な顔をした。
「魂が、かな――」

 講義室は広く、百人くらいは入れそうだった。階段状になった床には、聴講者用の長机が並び、一番底の部分に教壇が置かれている。その後ろには、黒板の張りつけられた壁面。
 席は九割がたが埋まっていて、生徒のたてる物音や話し声で騒がしかった。授業がはじまるまでは、まだ間がある。教授もまだ姿をみせていない。
 ユティスの近くにはセリエスとルルア、それにキアとミルテがいた。ユティスは、退屈そうに肩をほぐしているセリエスに訊いてみた。「ロキノスっていう人のこと、知ってる?」
 セリエスは言葉の正確な形状を探るように、しばらく無言だった。
「何で、そんなことを聞くんだ?」
「今朝、倒れたところを助けてもらったから」
「倒れた?」
 ユティスは簡単に事情を説明した。女子寮でのことでセリエスは何か言いたそうにしたが、結局は黙っていた。何を言えばいいのか、よくわからなかったのだろう。
「ロキノスっていうのは、四年生だな」セリエスはその名前を知っていた。「たぶん、この院の生徒なら誰でも知ってる名前だ。一年の頃からすごい実力だったって言われてる。毎年、全学年で剣術大会をやるんだが、二年からはずっと優勝してる。今度ので三連覇がかかってるって話だ。卒業前だけど、中級剣師並みの実力があるんじゃないかって言われてるな」
 つまり、この剣師院で一番の人間、ということだった。気を失っていたせいで、ユティスはその顔さえ覚えていなかったけれど。
「妹がいたなんて知らなかったな」セリエスがつぶやいたところで、後ろから「しっ!」と声が聞こえた。キアが、険しい顔で唇に人さし指をあてていた。
「先生が来たわよ」
 二人とも口を閉じて、前を向いた。講義室全体も、結んだ紐を解くような緩慢さで静まりつつある。
 やって来た歴史学の教授は、体から空気が抜けて縮んだような、小柄な初老の男だった。髪が雪と同じくらい白く、剣師ではないためローブを身にまとっている。帯刀もしていない
 教授はつかつかと教壇の前までやってくると、意外なほど鋭い眼光で教室を見渡した。眠っていた生徒の何人かが、近くの人間につつかれて目を覚ます。教授はわざとらしく咳払いした。
「これから教科書の第三章、第二節についての講義を行います」
 見かけとは違って朗々とした、金属的に硬質な声だった。
 歴史学の講義内容は、主に帝国史について行われる。これは、当然だった。自由都市同盟や北方四国をのぞいて、西大陸のほとんどは帝国の統治下にあったし、剣師の活動範囲はその領域に限定されている。
 今回の講義は、帝国が新都に首府を遷してからの、リセア暦でいう八十七年のことだった。南方でのカルナバイ王国との一戦について。今からおよそ、百年ほど前のことだ。悪魔戦役中に起こったこの戦いは「アクバタイの勝利」によって終結し、帝国はセスリとウェドレアの南方二州を獲得。カルナバイ王国はこの戦いが一因となって滅び、南大陸にはその後、サビニア帝国が誕生した。
「この南方戦争はクネオの属州民保護を名目として行われたものであります」老教授は黒板に地図を描きつつ言った。
 南大陸に、海を隔てた飛び地として形成された南方諸州(オルド・テナン)。その線描の横に、戦争での主な出来事を年代順に列記していく。メモの類を見ることはなく、もし間違っていたとしても、それは自分のほうではない、とさえ言いたげだった。
 南方戦争は帝国による実戦への悪魔投入が、はじめて実施されたことで知られる。
 同時に、以降の悪魔使役を全面禁止する戦いとしても。
「アクバタイの勝利、というが、これは一種の皮肉であって、実質は勝利とは程遠いものでありました」教授は過去の暗闇を呼び戻すような、粛々とした声で語った。「この戦闘でノエストリア側が召喚した悪魔は三体。三体の悪魔名は、バルミティオール、クゥルセト、ボルドボッグ。その威力は凄まじいものがありました。戦場の部隊はほぼ壊滅。――敵味方を問わずに、です。召喚方法に不備があったため、悪魔の制御不能へと陥ったのです。戒禁を解かれた三体の悪魔は、血を求めてただ暴威の限りを尽くしました。――最終的には一体を逆召喚、残る二体を百二十名の剣師を犠牲にして葬ることに成功しました。――それは戦闘とは名ばかりの、ただの虐殺現場でありました。帝国は以降、悪魔召喚を完全に停止し、召喚書を禁書≠ニして封印することに決定しました」
 教授は白墨を置き、布巾で指先を拭いながら話を終えた。講義室はしんとして、誰も口をきかなかった。
「――次回はヴォルセト同盟について。教科書の九十ページまでを読んでおくように」

 次の授業への移動時間のことだった。ユティスは一人で建物の中を迷っていた。トイレに行って、セリエスたちとは別々。適当に歩いているうちに、人気のないところにやって来た。おかしいな、と思って元の場所に戻ってみると、もうそこには誰もいなかった。散歩をしている間に救助船に乗り遅れ、一人だけ孤島に取り残された気分だった。
 仕方なく、勘を頼りに歩いてみる。こういうときの勘が当てにならないことを知っているので、ユティスはあまり期待しなかった。
 階段をのぼって、どちらかというと奥まったところにやって来る。事態が改善した様子はなかったが、幸い人影があったので、ユティスはそっちに向かってみた。同じ学年かどうかもわからなかったが、漂着物みたいにぼんやりしているよりはましだ。
 近づいてみると、声が聞こえた。
「――目障りなんだよね、お前」
「いつまでここにいるつもりなんだ? 捨てられた人間のくせに。もしかしてお前の存在が迷惑だって、わかってないの?」
 ユティスの位置からは、四人の背中が見えるだけだった。廊下の隅で、その向こう側にもう一人いるようだった。何のためにそんな場所にいるのかはわからなかった。
「何とか言えよ、え? 自分のこと可哀そうだとでも思ってんの? 口きけないのか? お前、あいつと同じ班なんだろう。ユティスとかっていう」
「……あの」
 ユティスが声をかけると、四人はぎょっと振り返った。その反応は、どう見ても心にやましいところのある人間のものだった。
 その向こうにいる人間の姿も見える。ミルテだった。
「な、何だよ、お前」一人がどもりながら、ユティスに言った。
 ユティスは四人のうち、二人ほどに見覚えがあることに気づく。あまり自信はないが、とにかくどこかで出会ったはずだ。その二人もどうやらユティスのことを覚えているらしい。どちらかといえば、鮮明に。二人のうちの一人が、明らかに虚勢とわかる声で言った。
「もう行くぞ、お前ら。つまねえからな、こんなやつ相手にしても」
「お、おい、アシレール」
 アシレールと呼ばれた少年が歩きだして、他の三人も慌てて続く。心なしか、足の動きが早かった。
 ミルテは廊下のつきあたりに取り残された格好でたたずんでいて、普段から小さな体が、いっそう小さくなって見えた。泣きだしたいのと、ほっとしたのが混じったような顔をしていたが、最終的には困った顔をしていた。
「……あ、あの、ありがとうございます」ミルテは卑屈なくらい丁寧に頭を下げた。
「何が?」ユティスはいつもと同じ無表情。本当に、何を言われているのかわからなかった。
「その、助けてもらいました」
「助けたって?」
「どうされるかわからなかったし……」
 ユティスの顔には、それでも理解は浮かばなかった。あの四人が何をしようとしていたのかも、ミルテが何を言っているのかも、ユティスには想像力の領域外。
「よくわからないけど、よかった。それに、ぼくも困ってるんだ」
「……?」
「次の授業、どこに行けばいいのかわからなくて」
 きょとんとして、ミルテは首を振るような、うなずくような、曖昧な仕草をした。「それなら大丈夫です。一緒に行きましょう」
「助かった」
 ユティスはほんの少し微笑んで、二人は歩きはじめた。しばらくして、ミルテが訊く。「……その、聞かないんですか?」
「何を?」ユティスは真顔で訊き返した。
「さっきのこと」
「さっきの、何を?」ユティスは不思議に思った。どうしてこんな、まわりくどいしゃべりかたをするのだろう。
「どうしていじめられてたのか、とか」
「いじめられてたの?」
「……たぶん」
「そう」
「……あの、それだけですか?」
「うん」
「気にならないんですか?」
「何が?」
 ユティスが訊き返すと、ミルテは何故か困った顔をした。
「……わかりません」
 そのまま、二人とも無言で歩いていく。けれど不意に、ミルテは立ち止まって言った。
「――私、孤児なんです」
 確か、最初に紹介されたときに聞いた話だった。ユティスはうなずいた。
「父親のことも、母親のことも知らなくて、剣術の才能があるからって人に言われて、ここに来ました。あそこではシスターによくしてもらったけど、ずっと孤児院の厄介になってるわけにはいかないんです」
 修道院で受けたいろいろな教育の中に、天流の訓練があったのだろう。
「ここに来れてよかったって私、思ってるんです。キアは時々怒るけど、優しいし、セリエスやルルアもいい人だから。剣術の稽古は大変だけど、耐えられるし、院での生活も気に入ってます。だから、ああいうことがあると、私……」ミルテは消え入りそうな声で言った。
 本当に、ちょっと指先で触れただけで、どうにかなってしまいそうな――
「どんな過去があったって、別に気にしなくてもいいと思う」ユティスが言うと、ミルテは顔を上げた。
 ユティスの表情は、やはりいつもと同じ。感情の一部が故障しているような。
「本当のことだからって、何でも大切ってわけじゃないし、本当のことだからって、そのことに従う必要もない。きっと大事なものは、別のところにある。その大事なもののことを、考えていればいいんだと思う」
 たぶん、レテノはだからぼくを――
 ユティスはそう思ったが、そんなことは言わなかった。それはレテノと自分との問題だった。
 そんなユティスのことを、ミルテは手のひらに落ちてきた見知らぬ冷たいものでも眺めるみたいに、じっと見つめていた。

 学院で行われる特殊な訓練は、変わったものが多い。泥中や船上、屋内戦闘、雨や突風の中での野外演習、暗闇での闘争。自然状態や障害物の有無によって、戦闘環境は大きく変化するからだった。
 その日の午後に実施されたのは、そういう種類の訓練としては比較的、普通のものだった。小修練場を使い、班ごとに分かれて行う。担当教官はバルステッドだった。
「いわゆる、目付の訓練というやつだ」バルステッドは言った。
 修練場の床にはいくつかの円が描かれていた。大きさは試合時の半分程度といったところ。班内で三つの役に分かれ、訓練は行われる。一人は摸擬刀を持って円の中央に、二人は砂の入ったお手玉を持って外周に位置し、残る二人は遠間からそれを見守る。
「視界を点ではなく、面として考えろ。一ヶ所にとらわれず、全体を見るんだ。同時に、彼我の相対位置、相手の動作、弾筋を予想して体を遷移させろ」
 要するに、円の外側にいる二人が砂袋を投げるから、中央の一人はそれを避けろ、というわけだった。残る二人は飛んでいった砂袋の回収にあたる。
 回避者は外周上を自由に動く二人の狙撃者を相手にするため、弾だけでなく位置どりにも注意しなくてはならない。狙撃者としては、目標を前後で挟むのが理想。しかし動きまわる的を正確に投撃することは難しい。
「時間は三分で交替。その間、せいぜい動きまわれよ。班で一番のろまなやつには、罰ゲームがあるから、そのつもりで真剣にやれ」
 バルステッドが開始を合図すると同時に、各班で訓練を開始した。
 ユティスのところは、まずセリエス、ミルテと中央に入った。ミルテは意外と位置どりがよく、弾をうまくかわした。ミルテは、天想流。魔力の扱いに長け、陣法と呼ばれる結界のような術型を得意とする系統だった。感知技術にも優れているため、弾筋を精密に読みとれるのかもしれない。あるいはたんに、ものをぶつけられるのが人一倍耐えがたいだけかもしれなかった。
 逆に、この訓練を苦手にしたのはセリエスだった。剣速重視の天理流には、そういうところがある。スピードを制御しきれない。とはいえ、摸擬刀で無理に砂袋を撃墜しようとするセリエスのほうに問題があるのかもしれなかったけれど。
 三人目は、ユティスだった。摸擬刀を持って、円の中央に進む。防具はつけていないが、砂袋が本物の飛び道具なら、ただではすまないだろう。そういう想定の訓練だった。
「覚悟しときなさいよ」キアが軽く手首をほぐしながら、嬉々として言った。不敵な笑顔だった。
 もう一人は、ルルア。二人とも、すでにユティスの前後に位置していた。
 ――開始。
 同時に、キアが投擲した。少し早いくらいだったが、ユティスはそれを見越して回避行動をとる。すかさず二投目が来る。よほど直撃をくわせたいらしい。
 その間、ユティスは反対側のルルアのほうに、むしろ注意の重心を置いていた。ルルアは天現流、斬撃の命中率と的確性が信条の系統だった。獲物が飛び道具になっても、それは基本的には変わらない。
 キアの四投目をかわしたとき、ルルアのほうから腰のあたりを狙った一撃が飛んできた。体幹に近づくほど、すばやく動かすのは難しくなる。ユティスは砂袋を摸擬刀で防いだ。間違っても、叩き落そうとはしない。
「ちょっと、ルルア。さぼってるんじゃないわよ。もっとたくさん投げなさいよ」キアが不機嫌そうに言った。当たらないからだろう。
「数を打ったからって、当たらないと思うけど」ルルアは落ち着いて答えた。
 相手の動きを見る。相手の考えを読む。
 目線の方向、腕の振り、自分が動いたことでの相手への影響、それに対する相手の反応――
 時間が圧延機で引きのばされたように、ゆっくりと流れる。
 相手の動きが、細かなまではっきりと見えた。
 ユティスはキアが頭部を狙ったのをわずかな動きでかわして、ルルアのそれを一瞬先に後ろへ下がってやり過ごす。
 まわりの景色が、よく見えた。まるで停止しているみたいに。
 ユティスには、それは馴じみ深い感覚。
 時間切れ終了間際、ユティスはわざとタイミングをずらしてルルアの一撃をかわした。ちょうど、キアのほうから死角になるように。突然現れた砂袋に、キアは「ふぎゃ!」と変なこえをたてて打擲された。ルルアがそれを見て、苦笑いを浮かべる。
 円の真ん中で、ユティスは構えを解いた。かいた汗の量は、むしろキアやルルアのほうが多いくらいだった。ユティスの表情は、いつもどおり。
 結局、時間内でのユティスの被弾はゼロだった。

 罰ゲームの居残りに選ばれたのは、セリエスだった。他にも数名が、教官直々の特訓を受けることになった。
「セリエスは大雑把で度量は広いけど、変なところで強情なところがあるから」ルルアは笑った。そうかもしれない、とユティスも思う。
 寮に戻ってロビーのところで、ルルアは知りあいと話をはじめた。ユティスには用事がないので、そのまま自室へと戻る。
 部屋の中に入ると、机の上の白い封筒が目についた。
『ルスティア・エレ・エルセスト』
 宛て名にはそう書かれていた。差出人の名前はなかった。
 ユティスはベッドのところに座って、ぱらぱらと教科書をめくった。明日の予習のつもりだったが、あまり集中していない。
 封筒の宛て名にあった、「エレ」は男爵号を表す。帝国元老院の議員になれる資格を持つ爵位だった。手紙の届け先が間違っていなければ、つまりこの部屋の誰かが貴族ということになる。
 誰かが、何てまわりくどい言い方をする必要はない。自分がそうでないことははっきりしている。セリエスは農村の出身だと言っていた。それに、封筒の名前にはどことなく見覚えがあった。
 ルルアが戻ってきた。扉を開けて、ユティスと同じように手紙に気づく。姿勢よく机の前に座って、ルルアは白い封筒の宛て名を眺めた。
「その手紙、ルルアに来たの?」ユティスはベッドに腰かけたまま、声をかけた。
 位置的にいって、その封筒がユティスの目につかなかったはずはないし、そうすれば宛て名も確認しただろう。ルルアにも当然、そのことはわかっているはだった。
「うん、そうだよ」ルルアは簡潔に答える。
「貴族なの、ルルアは?」
 その質問に、すぐに答えは返ってこなかった。少しだけ、時間が流れた。誰かがもぞもぞと身支度するのを待つような時間。やがてルルアはユティスのほうを向いて、笑顔を浮かべた。いつもと同じような、いたずらっぽい表情だった。
「ばれたか」
「隠すようなことでもないと思うけど」ユティスは言ったが、あまり自分の言葉に自信があるわけでもなかった。
「かもしれない」ルルアは少しだけ顔をうつむかせた。「実際、この院にだって貴族の子供は何人もいるしね」
 教育の一環として、あるいは何らかの古い伝統に従って、貴族階級が自分の子供を剣師院に預ける、というのはよくあることだった。
「でも、僕の場合はちょっと違う」ルルアは珍しく、韜晦するような苦笑を浮かべた。
「どう違うの?」
「庶子だった、ということが」
 非嫡出子、つまり妾の子。
 ルルアはゆっくり、話しはじめた。
「僕の場合、父親が立派な人だったから、母親も僕も不自由な目にあうことはなかった。館の一室に住まわせてもらって、いろいろな教育も受けさせてもらった。実子が他に四人いたけど、それと同じようにね。でも、その人は少し前に死んでしまった」
 ルルアは何かを受けとめそこねたような、そんな笑顔を作った。
「父親は、僕にもいくつかの領地と、爵位を残してくれた。遺言状によって、その領地は僕が成人するまで、後見人である母親が管理することになった。もちろん、実際のところそれをするのは、執事の仕事なんだけどね。でもまあ、実子のほうとしてはそれが面白くないわけで、いろいろと面倒なこともある。だから僕としては早く大きくなって、母を安心させてやりたいわけだ」
 いつものような笑顔だし、口調は乾いたものだったが、ルルアの言葉の裏側にはどろどろしたものが感じられた。ルルアがどんなものを見てきたのかは、ユティスにはわからなかったけれど。
「その手紙は、誰から?」
「母からだよ」ルルアは指先で封筒をひっくり返すという動作を、何度かしてみせた。「この前、ブローチを送ったから、たぶんその返事だと思う」
 ユティスは何日か前に、町の市場でルルアがそれを買っていたことを思いだした。
「セリエスは彼女に送るんだろうって言ってたけど」
「きっとそれは、セリエスの妄想だね」ルルアはくすりと笑った。
 それから、ルルアは封蝋をはがして中の手紙を読みはじめた。ユティスも教科書のほうに戻る。授業の内容には相変わらず、あまりついていけていない。
 下のほうから騒ぎが聞こえてきたのは、しばらくしてからのことだった。

 ユティスとルルアが一階のロビーまで降りてみると、すでに大勢の人間が集まっていた。夕食前の時間だったが、そのために集まった、というわけでもなさそうだった。
 どの生徒も同じように騒ぎを聞きつけてやってきたようだったが、詳しいことは誰も知らないらしい。各自で勝手な憶測を話しあっていた。訓練中に誰かが怪我をしたとか、どこかの集団が学院を襲撃に来たとか。中には、悪魔が出たんじゃないかと言う者もいた。真偽のほどはわからない。
 二人が状況をうかがっていると、訓練服姿のセリエスが現れた。今まで居残り中だったらしい。少なくともこれで、大怪我を追ったのがセリエスでないことだけは確かだった。
「いったい何の騒ぎなんだ?」セリエスは二人を見つけて、声をかけた。
「さあ」ルルアは肩をすくめた。「誰かが女子寮に侵入を図った、とか」
「無謀なやつだな」
「自分ならうまくやれる、ということ?」
 ルルアがまぜかえしたところで、キアとミルテの二人も姿を見せた。キアは何か怒ったような不機嫌な顔で、ミルテはたった今誰かの訃報を聞いたような深刻な表情だった。もっとも、それは普段と比べて大きな違いはなかったけれど。
「女子寮のほうで何かあったのか?」セリエスがキアに向かって訊く。
 キアは一瞬そっぽを向こうとして、やはりそれをやめた、という仕草をした。どうしてそんなことをしたのかはわからない。たんに機嫌が悪いときの癖なのかもしれなかった。
「何があったかって?」キアは口吻をとがらせた。「あったわよ、もちろん」
「どうしたんだ?」セリエスは、今度はミルテに訊く。
「悪魔教です」ミルテはうなだれて言った。「女子の中に、信者の人がいたんです」
「何でわかったんだ?」
「外典よ、外典」キアは不愉快そうに言った。「たまたま、別の子がそれを見つけたの。それで騒ぎになったわけ。持ち主の三年生は今、トリアーノ教官から尋問を受けてるわ」
 トリバス教では、聖書のほかの書物をいくつか、外典として正式なものとはみなしていない。悪魔協に関する書物は、もちろん外典だった。それを持っていたということは、自分が信者だと公言したようなものだった。
「信じられないわよ、まったく」キアは憤懣やるかたないといった口調。
「どうかな、ただ本を持っていただけかもしれない」セリエスは冷静に指摘した。
「そんなわけないでしょ。教典として認められてもいないのに」
「だとしても、それはそいつの自由だろう。何を信じるにしても」
「ああそうですか、ずいぶん心が広くできていらっしゃるのね。きっと聖人と馬の頭蓋骨だって、セリエスには区別がつかないんでしょうね」
「馬鹿言え、それくらい俺にだってわかる」
「ほら、やっぱりわかってない」
 ルルアが横から、「しっ」と口を指にあてて、二人をたしなめた。「教官が来た。きっと何があったか話をするんだ」
 ロビーに集まった人間は誰もが、トリアーノの現れたことに気づいて、声をひそめた。ユティスは人垣の背中ごしに教官のほうをうかがう。トリアーノ・ウベル。何度か担当の訓練にあたったことがあった。役者みたいな二枚目の男。
 咳払いを一つしてから、トリアーノは話しはじめた。
「みんな、もう大体の事情は聞いていると思います。うちの生徒の中に、よくない信仰を持つ者がいました。一般に悪魔教と呼ばれるものです。学院としては非常に遺憾なことであり、また残念に思います。悪魔と敵する者を育てる場所としては、あまり喜ばしいこととは言えません。個人の信仰に関しては口を挟まないのがこの学院の主義ですが、場合によっては、そういうわけにもいかなくなります。みなさんもよく覚えておいてください」
「それで、その生徒はどうなるんですか?」近くにいた女子生徒が、おずおずと手を上げて発言した。
 トリアーノはじっとその生徒を見つめる。女子生徒は怯えたようだった。トリアーノは一転して微笑を浮かべる。
「彼女の処分については、おって沙汰することになります。いずれにせよ、みんなが心配する必要のないことですよ。明日の授業もありますので、全員、解散して各自の部屋で休むように」トリアーノはそう言って、ロビーの外へ姿を消した。
 集まった生徒たちは、糸がばらばらにほどけるように姿を消して行った。ユティスたちも、部屋に戻ろうとする。その前に、ルルアがつぶやくように言った。
「どうなるのかな、彼女?」
「放校処分に決まってるでしょ、そんなの」
 キアは至極当然だというふうに、鼻を鳴らした。

 その日の、深夜。
 夜番以外はもう誰も寝静まった時間に、一人の生徒が教官室のドアをノックした。扉には、「トリアーノ・ウベル」と書かれたプレートがかかっている。ノックをしたのは、問題の女子生徒だった。月明かりがその顔を照らしている。
 彼女はドアが開くと、影のように身をすべりこませた。音のしないように後ろ手で扉を閉めてから、不安げな様子で室内を見まわす。
 トリアーノは机の前に座っていた。生徒と違って、教官の部屋は個室になっている。大きめの机に、ベッドが一つ。窓際の机に、花の活けられた首の細い花瓶が置かれていた。壁面にはタペストリーらしいものがかけられている。それらを机の上のロウソクが照らしていた。趣味のよさそうな部屋だった。
「あの、先生……」女子生徒は雪の中の猫みたいに震えていた。
 トリアーノは無言。その表情はほとんどが影に沈んでうかがえない。ロウソクの一番近くだというのに、その場所がもっとも暗闇が濃いようだった。
「私、先生のことは一言も……だから、安心してください。ごめんなさい、こんなことになってしまうなんて、私――」
「ああ、もちろん、そのことはわかっていますよ」トリアーノは秀麗な面持ちに笑顔を浮かべ、彼女のほうを向いた。眼鏡の奥の目を、優しくゆるませて。「君はとてもいい子だ。だから私は心配なんて一つもしていませんでしたよ」
 女子生徒はぽっと頬を赤らめた。体の熱りをごまかすために、両手の指先をもぞもぞと動かす。
「先生、それでその、私はこれからどうすれば……」
「おいで」トリアーノは両手を大きく広げて笑った。「君にはご褒美を上げましょう」
「でも、私――」
「嫌なんですか?」
「…………」
 女子生徒はするすると服を脱いでしまうと、トリアーノの腕に身を任せた。頭の芯にしびれるような快感があった。ごつごつした大きな手が、体の大事な部分をまさぐっている。知らないうちに声がもれた。
「大丈夫、何も心配することはありません」トリアーノは悪魔じみた笑顔を浮かべて言った。「君にはまだ、役に立てることがありますからね――」

「本当にそいつはここに来るのか?」暗闇の中で声がした。
「ああ、間違いない」もう一つの声が答えた。
「いったい、どうやって呼び出した?」最初の声が訊ねる。
「教団から抜けたい人間がいる、内部情報を渡すから、代わりに帝国で保護してくれ、と持ちかけた」
「それに食いついたのか?」
「完全に信じているわけじゃないだろうが、疑う理由もない」
「何故、そいつは教団のことを調べている?」
「いつものことだ。我々はまともな人間にほど歓迎されていない」
「……そいつは、一人で?」
「ああ、そういう約束だ。少なくとも我々に確認できたのは、そいつ一人だ。できれば生け捕りにして、知っていることを洗いざらい吐かせたい」
「相手も同じことを考えているだろうな」
「我々は君を信頼しているよ」
 かすかに、もう一人の口元が動く気配がした。笑ったのだ。だが、相手がそれに気づいた様子はない。
「もうそろそろ、約束の時間だ。準備をしておいてくれ」
「そいつの名前は?」
「レテノ。帝国の女剣師だ」
 月の光が射して、あたりを照らした。教会の廃墟だった。歯の抜けた老人のように、屋根のほとんどは崩れかけている。壁は何とか原形をとどめていたが、内心は渋々、ただ惰性的に立ち続けているだけ、という感じだった。内陣も荒れはて、ほうぼうに草が生い茂っていた。
 バシリカ式の身廊部分には、二人の男が立っていた。黒いローブを身にまとい、フードを目深にかぶっているため、顔はよく見えない。
 片方がその場を離れ、一人だけが残された。フードのためにはっきりとうかがうことはできなかったが、顎の線や体つきの具合から、その人物がまだ少年といってもいい年齢だということはわかる。腰に刀を差していて、静かに精神を集中させていた。
 月の光は、しばらく隠れる様子はない。
 やがて崩れかけた教会の入り口に、人影が一つ現れた。他に気配はない。話のとおり、一人でやって来たようだった。
 それだけの自信があるのか、それともただの間抜けなのか――
 少年は人影のほうに近づいた。人影も、それに気づいて足を進める。
 同時に、人影の後ろで扉が閉められた。
 人影は振り返って、けれど慌てるようなことはない。予想した範疇の出来事だったらしい。退路はふさがれて、目の前にはフードの人物が一人だけ。帯刀していることも確認する。
「どういうことなのかな、これは?」彼女は落ち着いた声で、そう訊ねた。彼女というのは、もちろんレテノ・エンチェアのことだ。
「説明がいるのか?」少年は質問を返した。本来なら、しゃべるべきではなかった。万が一とはいえ、あとで声を頼りに正体が露見する可能性もある。けれどそれ以上に、少年は相手の心理状態を確認したかった。この状況下で、どれくらい落ち着いているのか。
「説明がいらないような状況、ということ?」レテノは動揺などしていなかった。彼女には自分の腕に、それだけの自信があった。
「そういうことだ」少年も、それを感じる。
「はめられた、ということだね?」
「迂闊だったんだ、あんたが」
「ということは」レテノは相手の力量を見極めようとしながら言う。フードに隠れて顔つきはわからなかったが、感じられる魔力はなかなかのものだった。「禁書≠烽アこにはない、ということ?」
「何だと?」はじめて、少年の声にかすかな動揺があった。
「何も知らないみたいだね、君は」
 それは半分、レテノのかまかけだった。
 たった一人でこうして対峙しているということは、相当の腕か、もしくはただの捨て駒という可能性が高い。あるいは、その両方。いずれにせよ、たいした情報は与えられていないだろう、という予測が立つ。
 案の定、少年は一瞬言葉をつまらせた。「お前には関係のないことだ」という科白は、遅すぎたし気もきいていない。場馴れしているようだったが、そこはやはり子供だった。
「知らないなら、このまま私を見逃したほうがいい。どういう事情か知らないけど、教団と関わりあいになるのはこれ以上やめにして」
「――――」
 その言葉に、少年は無言で刀を抜いた。これ以上のやりとりは不要、ということ。
 レテノも黙って、抜刀する。二ディル三シティング(約六十九センチ)の魔法刀、雪踏=B魔鉄と呼ばれる特殊金属で造成された刀は、術者の魔力を増幅して、刀身に伝える。刀銘の入った魔法刀は、数打ちとは違った業物だった。
 少年の持つそれも、おそらくは魔法刀。刀身がぼんやりと霧のような光を帯びているので、それとわかる。
 互いに、間合いは数レーネというところ。空間はまだすかすかで、遠間という段階ですらない。殺気を放っても減衰して相手までは届かない。
 一瞬、月の光が雲に遮られた。
 それを知っていたかのように、レテノが間合いをつめる。右の下段に構えていたのは、相手の距離感を鈍らせるため。少年の反応がわずかに遅れた。初撃はしかし、左腕をかすめた程度。二撃目は大きく外れる。レテノは深追いをしなかった。
「正統な天流の動きじゃないな」布地が裂けて血のにじんだ左腕を見ながら、少年は言った。「純粋な対悪魔戦闘用とはいえない」
 少年の言葉は、正しかった。レテノが修めているのは「裏の天流」。正式な天流とは違い、それは対人用の暗闘用剣術だった。裏の天流では、間合いの取りかたや呼吸、拍子、体さばきが通常とは異なる。魔力の流れを制御する術型さえ違う。
 普通の剣師なら、こんな相手と対峙するのは嫌がる。道場での訓練が役に立たないからだ。けれど、少年は違った。躊躇することもない。
 少年は一歩、踏み込んだ。相手の仕掛けを誘い、なおかつ自分から斬りかかることのできる、独特のタイミングだった。そういう戦闘法に慣れている。レテノは刀の峰で防いだ。斬≠フ第二型くらいはありそうな威力。
 斬撃の応酬が続いた。教会には柱列も残っている。障害物を避けながらの攻防。互いの位置が、目まぐるしく交錯する。
 決定的な一撃は、どちらにもなかった。
 ただ、実力差は明確。レテノのほうが、一枚上だった。このまま続けても、勝負は見えている。少年にも、それがわかった。だから間合いが離れた一瞬、くるりと背を向けて後ろへ下がった。つまり、逃げた。迷いのない足どりだった。レテノは、追う。
 すると、空気が光った。レテノは避けながら、刀でそれを払う。乾いた音を立てて弓矢が地面に落ちた。二射目、空気の裂ける音。角度からいって、側廊の上から狙っているのだろう。レテノは物陰に姿を消す。気配を消す暗≠フ型も使った。
 追撃はそれ以上来なかった。最初から、その予定だったのだろう。相手を倒せない場合は、逃走。足止めのための補助として弓矢での援護。ずいぶん組織立った動きだった。
 もうあたりに人の気配ない。術型を使って調べてみるまでもなかった。月の光でいっぱいに満たされた教会は、波一つない海のように静かだった。
 レテノは刀を納め、つぶやいた。「これで一歩、前進というわけだ」

 剣師院の訓練の中に、指導訓練というのがある。上級の生徒が、下級の生徒に教練するものだった。教えるのは、教えられるのよりも難しい。だから自分の理解のほどや、修練度を自覚できる。
 二年生にもこの指導訓練はあって、その場合、下級にあたるのは一年生だけだった。一年生は寮の大部屋に寝起きし、入門組とも呼ばれる。
 ユティスは訓練前に、「覚悟しておけよ」とセリエスに脅された。
「何を?」ユティスはぼんやり訊き返す。
「入門組なんて、くそ生意気なだけのひよっこだからな。丁寧に教えてやっても、なめれられるだけだ」
 セリエスの口調には個人的な恨みのようなものがあった。きっと、そういう経験があるのだろう。隣でルルアが茶化した。「と言いつつ、厳しくなれないのがセリエスのいいところなんだけどね」
 指導は修練場を使い、一対一で行われる。教官が口を出すことはなく、あとのことは生徒同士の話しあいによって決められた。大抵は、基本型の訓練になることが多い。無難だからだ。
 その場の状況を見て、教官がさっと組を作っていく。ユティスの前にも、一人やって来た。どこかで見たような顔だな、と思った。けれどユティスが何か言う前に、相手のほうが口を開いている。
「ユティスさん?」短い髪に、澄んだ瞳。ハユナだった。確か、ハユナ・クリシア。
「ずいぶん偶然だね」驚いたしるしに、ユティスは表情を変えないまま人間らしいことを言った。
「はい……二年生だったんですね。あの時は、本当にすみません。体は、もう大丈夫ですか?」ハユナは何故だか、嬉しそうな顔をしている。
「できるだけ倒れないようにしてる」
「けど今でも、どちらかというと女の子に見えちゃうんですけどね」言って、ハユナは明るく笑った。
 二人は話しあって、訓練内容は基本型を行うことにした。無難な選択である。
 天流での基本型とは、斬∞颯∞的∞活∞心≠フ五つ。それぞれが五系統に対応する。天業、天理、天現、天法、天想。基本型はまた、第一型と呼ばれ、究極型とされる第四型まで、四つの段階が存在する。
 剣師院での卒業目標は、基本型の完全な習得と、自分の系統の第二型までをこなせるようになること。それで、下級剣師としての資格を認められる。
 ユティスはレテノから仕込まれて、それぞれの第二型までをなんとかこなすことができた。剣師としては、中級なみの力というところ。剣師院の学生としては、突出した実力だった。
 だからレテノは、できるだけ技量を見せないよう、ユティスに注意している。それがうまくいくとは、レテノ自身もあまり信じてはいなかったけれど。
「とりあえず、斬≠フ型を」ユティスは指示した。
 天業流の基本型はもっとも基礎的なもので、他の系統の型をマスターしておかないと、斬≠フ術型を行うことは難しい。攻撃の基礎であり、これを見れば術者の大体の実力がわかった。
「――はい」ハユナはうなずいて、摸擬刀を構える。
 ただ刀を振るだけでは、天流の型としては機能しない。型を発現させるためには、体の動きに魔力を乗せる必要があった。魔力とは、体内を流れる血≠フこと。そこから力を引き出し、術者は様々な効果を得る。
 ハユナの斬≠ヘ、繰り返し鍛錬されたことがわかるものだった。刃筋、手の内、足さばき、気息、それに魔力のあわせかた――どれも及第点、というところ。いくつか簡単な手直しをしてやって、ユティスは自分でも実演してみせた。気がつくと、訓練時間はもう終わりかけている。
「やっぱり、ユティスさんは似ていますね」終了間際、ハユナはそう言った。
「誰に?」ユティスは訊く。
「兄です、私の」もちろんそれは、ロキノスのことだろう。
「どんなところが?」
 一瞬だけ、間があった。それからハユナは口を開く。風が吹くみたいに。
「――魂が、です」
 意外なほど真剣な口調で、ハユナは言った。それが何を意味するのかを知っているのは、今はまだハユナ一人だけだった。

――Thanks for your reading.

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