[剣師と悪魔]

[天使みたいな少年]

 昔々、長い戦争があった。
 悪魔との戦争だ。
 それは二百年ほど前にはじまり、四半世紀ほど前に終わった。けれど「終わった」という言いかたは不正確で、「一応の終息を見た」というほうが事実に近い。〈門〉がまだ残されたままだからだ。
 自然状態でも悪魔は発生するものだが、それはあまり力のない下位悪魔で、数だって知れたものだった。現れたときと同じように、自然と消えてしまう。夜の落し物みたいなものだった。昼になれば、そのほとんどは消えてしまう。
 でも二百年ほど前、一人の王が一匹の悪魔を呼び出し、そいつは〈門〉を創った。その門は地獄か、もしくはそれに似たところにつながっていたのだろう。つまり、夜があふれた。悪魔たちが。
 戦争がはじまった。
 悪魔は強力な武器になった。門のおかげで誰もが簡単に悪魔を召喚することができた。何のとりえもない王国が、近隣を支配し、君臨した。その王国を侵略するために、別の王国が別の悪魔を呼びよせた。その王国を倒すために、また別の王国が――
 それでどうなるかなんていうのは、もう子供にでもわかる話だった。連鎖が続き、戦争は悪化の一途をたどり、悪魔と死者だけが増加し続けた。中には悪魔の扱いを誤り(呪文を間違えたとかそんなことで)、大量の悪魔だけを残して自滅する国もいくつか存在した。悪い種をまき散らす、嫌な植物みたいに。
 人はようやくそれを、まずいこととして認識した。悪魔は召喚することよりも、元の場所に戻してしまうことのほうが難しい。つまり、長いつきあいをしなくてはならない。
 そんなもののそばにいて平気なのは、よほどの傑物か、狂人くらいのものだ。戦争中、割合でいえば後者のほうが圧倒的に多かった。
 これも、悪魔戦役が長期化した理由の一つ。
 人々は(比較的まともな人々は)、悪魔に守られることも、悪魔と戦うことにも疲弊しはじめた。それは戦争のごく初期の段階ではあったが、物事は多く、望んだようには展開しない。相手が悪魔なら、なおさらのことだ。
 そもそもの話、いったい誰が悪魔をこの世界から追い返せるのか?
 宗教は役に立たなかった。純粋な戦闘力として、という意味では。神様はいつだって他の用事で忙しい。
 だからそれは、剣師の役目だった。
 ――対悪魔用戦闘術、天流。
 それを修めた人間が、剣師だった。彼ら、あるいは彼女たちだけが、悪魔と対抗することができた。
 悪魔戦役は、とりもなおさず悪魔と剣師との戦いだった。そこでは多くの血が流れ、肉が裂け、骨が砕けた。悪魔は無慈悲な機械のように剣師たちの命を奪った。それは本当に機械とよく似ていた。
 剣師対悪魔の構図は、同時に次のことを成立させる。つまり、質のよい剣師を多く保有する国ほど、戦争で優位に立つことができる。悪魔戦役では、一つの国がその立場を担った。のちの帝国、ノエストリアが。
 もちろん単に戦闘力に優れていることだけが、ノエストリア発展の主因ではなかった。帝国には合理化されたシステムがあり、蓄積された技術力があった。物事の正しいマニュアル化は、すべてを迅速に行わせる。
 村落や都市の復興計画、その統治方式、輸送路の確保と街道の敷設、手馴れた植民計画、大量の技術者の投入、基幹産業の保護育成、商業活動の活性化、新資源の研究開発、そして何より剣師の育成――
 ノエストリアが拡大した理由はいくつでもあげることができる。けれどその帝国にしたところで、最終目標を達成することはできなかった。
 悪魔戦役の原因となった〈門〉通称、〈地獄門〉は、まだ破壊されていない。それは、閉じられてはいないのだ。
 どんな剣師も、どんな手段も、その目的を達することはできなかった。つまりそれが、戦争が「終わった」のではなくて、「一応の終息を見た」ということの意味。閉門以前に比べれば状況は改善されたが、悪魔の出現率は問題視される基準を保っていた。
 そして戦争の爪跡は、各地に残され続けている。悪魔戦役は結果として、西大陸全体の人口の、三分の一を奪った。悪魔によるものにせよ、人間によるものにせよ、という意味で。
 荒蕪地や廃墟が、亡霊のように手つかずのままで、寡婦や孤児や廃疾者が、食べ残しの冷めた料理みたいに町にあふれた。一部の悪魔は退治不可能なまま放置されている。
 四半世紀という時間経過は、そのすべてを癒すには短すぎる条件だった。西大陸にはいまだに悪魔が跋扈し、剣師は依然として必要とされている。
 それが概ね、悪魔戦役後の帝国における、現在の状況だった。

「ユティス・シスハ君?」その人物は、どっしりした机の向こうに座ったまま目を細めた。書類の字が読みにくかったのかもしれないし、そういう癖か、たまたま顔面痙攣症にかかっていたのかもしれない。
 初老の男だった。真っ白になった髪と口髭で、そのことがわかる。福々とした外見は健康そのもので、頬が桃色に染まっていた。機動性に富んだ体躯とはいいがたかったが、置物としては最適かもしれない。
 剣師院の院長の名前は、チェレン・ウル・リザリアといった。伯爵(ウル)号をもった、れっきとした貴族だった。どう見ても剣師らしい外観ではなく、おそらくは元老院議員の一人だろう。慣習として、剣師院の院長には剣師以外の貴族が就くことになっている。軍事色が濃くなりすぎるのを警戒しているからだろう。
 チェレン・リザリアの質問に、ユティスは黙ってうなずいた。机の向こうで、チェレンはユティスから提出された書類を眺めていた。事前に伝達された情報と照合しているのだろう。
 院長室は簡素なもので、最低限の調度品だけが置かれていた。院長のための執務用デスクの他には、書類の整理されたキャビネットくらいしか目につかない。あとは、壁にかけられた何枚もの肖像画。どうやら歴代院長を写したものらしい。一番右端に、目の前の男と同じ顔があって、ユティスにはそれがわかった。
 部屋の中には、ユティスを除いて三人の人間がいた。院長であるチェレンの横に、同じくらいの歳だが院長とは明らかに違った人種の人物。それから、二人よりは一回りほど若い男が一人。院長以外は、生粋の剣師だった。帯刀しているし、雰囲気でわかる。そのまわりだけ空気の形が違うような、ぴりぴりした感じがした。
「ようこそ、ロゼの第八帝国剣師院へ」
 不意に声がして、ユティスは院長のほうに注意を戻した。チェレンは老人が孫に向けるような笑顔を浮かべていた。ポケットから砂糖菓子でも取り出して進めてきそうだった。
「これから君には、当院で三年間の授業を受けてもらう。授業というのは、学科と実技のことだよ。帝国では、兵士には強さだけを求めるわけではない。そこには相応の知性も要求される。何故だかわかるかね?」
 ユティスはただ首を振った。
「それは我らが野蛮な国家とは違うからだ。蛮族に欠けているのは、知恵と知識だ。彼奴らにあるのはただ、奪い、消費することだけ。だが我々は違う。我らには豊かな知性と、輝かしい誇りがある。それは暗黒の地を照らす日輪のごときものだ。帝国における剣師の一員として、そのことを忘れないでもらいたい」
 ユティスはとりあえず、うなずいておいた。たぶん、そうすることが求められているのだろう。
 その反応にいくらか満足したように、チェレンは笑顔を作った。善い人なのだろう。悪魔と戦うにはいささか好人物すぎるようではあるけれど。
「学院に関する細かなことは、またあとで聞いてもらうとして、当院のことについて、ざっと説明しておこう」院長は顔の前で指を組みながら言う。「院には現在、三八五名の学生が在籍している。学年は全部で四つ。原則として院生は寮で暮らしてもらう。訓練施設その他は院内に完備されているが、院外での訓練も行われる。怪我や病気には十分な看護を用意しているから安心して欲しい。食事や制服は無償で提供される。何か質問はあるかね?」
 ユティスはまた、首を振った。
「よろしい。それではあとのことはバルステッド教官に任せよう」
 チェレンの向けた視線の先を、ユティスは追った。部屋の隅にいた男が軽くうなずく。もちろん、その男がバルステッドだろう。教官、といわれるからにはやはり剣師に違いない。
「これで君も当剣師院の一員だ。よろしく、ユティス君。ノエストリアは君を歓迎する」
 立ちあがって、握手を求められた。ユティスはその手を握る。柔らかなゆで卵みたいな手だった。簡単に握りつぶしてしまえそうに思える。
 そんなユティスの思考とは関係なく、チェレンは微笑んでいた。どこにも陰というもののない顔だった。たぶんこの人は、悪魔を直接見たことはないんだろうな、とユティスは思う。何となく、ではあったけれど。
 手を離すと、ユティスはバルステッドに案内されて部屋を出た。院長の隣にいた男は、最後まで口をきかなかった。けれどその男がたぶん、ここの本当のボスだった。何となく、それはわかった。
 部屋の扉が音を立ててしまると、まとわりつくようだった柔らかな手の感触も消えた。長い廊下には片側に部屋が続いて、反対側は窓になっていた。何かでろ過されたような光が満たされ、とても静かだった。時刻は昼をだいぶまわったくらい。人影はどこにも見当たらなかった。
 何も言わずにバルステッドが歩きはじめたので、ユティスもその後に続く。さっき感じたような、皮膚が粟立つ感覚はなかった。もしかしたらあれは、こちらを試すつもりだったのかもしれない。
 少し歩いてから、バルステッドは首だけ回してユティスのほうを見た。「どうしてさっき、一言も口をきかなかった?」
 ユティスはぼんやりとバルステッドを見返した。口調自体に、咎めているような響きはなかった。「レテノに、そう言われてたから」
「黙ってろ、と?」バルステッドは訊いた。
「うん」
「賢明だな」かすかに笑うような気配。けれど位置的には、その表情を正確にうかがうことはできない。
 レテノから、この男のことについては聞いていた。バルステッド・レンツ、という名前。剣師院の教官をしていて、レテノとは古い知りあいという話だった。上級剣師。鋼鉄を鍛えたような肉体はいかにも力がありそうで、たぶん天業流を修めているのだろう。無精髭に、やや癖のかかった短髪をしていた。
「レテノは元気にしているのか?」バルステッドは無造作に尋ねた。つまり、知りあいのような気軽さで、ということ。
「元気だよ」ユティスは感情のない声で答える。
「今、あいつはどこにいるんだ。この町に滞在しているのか?」
「秘密だって言ってた」
「じゃあ、お前も知らんのか」
「うん」ユティスがうなずくと、バルステッドは顔をしかめる。少なくとも、そういう気配がした。あるいは笑ったのかもしれなかったけれど。「そういう時は、『はい』と言え」
「はい」機械のように、ユティスは答える。
「しかし、そうか」バルステッドは顎に手をやった。「あいつがお前のそばを離れるとはな。まあ何かの任務に就いてるんだろうが」
 この人はどれくらいレテノのことを知っているんだろう、とユティスは思った。そういう情報については、何も教えられていない。レテノが伝えてきたのは、困ったときにはこの男の世話になれ、ということだけだった。
 しばらく廊下を歩いていくと、下に降りる階段があった。そこを一階まで降りると、建物に穴を開けたような中庭があって、廻廊がそのまわりを囲んでいた。小さな彫刻がいくつかと、中央に泉盤が置かれていた。空の上とは違う場所から落ちてきたような光が、その場所を照らしていた。
 列柱の並んだ廻廊の途中で、バルステッドはふと足を止めた。あたりに不審な人影はない。バルステッドはユティスのほうに体を向けた。
「お前は、俺のことを覚えているか?」
 予想外の質問だったので、ユティスは首を傾げる。この男はレテノの古い知人、そう認識していた。自分とは何の接点もないのだ、と。それは違うのだろうか。
「ううん、覚えていない」
 ユティスが答えると、バルステッドは「そうか」と口の中で言うだけだった。その先の言葉は、深い密林の向こうに隠れてしまっていた。
 再び無言で歩きだすバルステッドに、ユティスは従った。特に、その言葉の続きを聞きたいとは思わなかった。受光器官の退化した魚が、光に何の反応も示さないみたいに。
 二人は廻廊をあとにして、建物の東側から外に出た。広い中庭があって、遠くに大きな建物が二つ見えた。バルステッドはその建物の、左手側のほうへ向かう。焼成煉瓦のくすんだ赤色をした、細長い建物だった。
 中央にある玄関から中に入ると、広いロビーがあって、ソファやテーブルが配置されていた。生徒らしい人影が、何人かくつろいでいる。教官が姿を見せたことに対する、目立った反応はなかった。
「この建物の東側が男子寮だ」バルステッドは実際に右手側を指さして言った。「お前はこれからここで生活することになる。なに、快適なものだ。三食昼寝つき、ちょっとした訓練をこなしていれば、誰も文句は言わん。三年たって卒業すれば、立派な七級剣師として認められる。まじめにやっていれば、落第するようなこともあるまい」
 ぽん、とバルステッドはユティスの肩を叩いた。激励のつもりのようだった。
「そういうわけで、あとのことは同室の人間に聞くといい。俺はこれで失敬する。部屋の番号はわかっているな?」
 うなずくと、バルステッドはにっと笑って去っていった。風のように素早い。
 あとにはユティスが一人で残された。たらい回し、という言葉がふと頭に浮かぶ。どうでもいいことではあったけれど。

 教えられた部屋番号は、三〇八号だった。階段を二つのぼって、番号の並びを確認しながら探す。すぐに見つかった。これ以上簡素にはできないと音をあげたようなドアに、数字が直接彫りこまれていた。
 その隣の壁には、居住者の名前を書いたプレートがかかっていた。「セリエス・レニシオ」と「ルルア・エルスト」。名前以外に情報はない。
 ドアの前で、ユティスはちょっと考えた。気おくれしたのではなくて、こういう場合にどうすればいいかを思い出していたのだ。やがて、「ノック」という言葉が頭に浮かぶ。
 こぶしで軽く音を立てると、中から返事があった。ユティスはドアを開ける。
 部屋には二人の人間がいた。たぶん、「セリエス・レニシオ」と「ルルア・エルスト」の二人だろう。中はかなり手狭で、机が二つ、二段組になったベッドが二つ、その間に窓が一つあって、他に目につくようなものはなかった。人が三人もいれば、息をするのも苦しく感じられるような部屋だった。
「お前が、ユティス・シスハか?」
 二人のうち、窓際に立っていたほうが訊いた。もう一人はベッドに腰掛けている。両方とも、ユティスと同じくらいの年恰好だった。教官たちに似た、黒い制服を着ている。
 ユティスがうなずくと、少年はつかつかとそばまで寄ってきた。そのまま通りすぎてしまいそうなほどの勢いだったが、きちんと目の前でとまった。まだ幼いとはいえ、精悍そうな顔つきで、眼鏡の奥から二つの瞳が鋭くのぞいていた。ユティスよりほんの少し背が高い。
「俺はセリエス」きびきびしていたが、底のほうに自然な温かさのある声だった。聞いている相手を安心させる音声だった。「こっちはルルアだ。まあ本当の名前は違うんだが、それはどうでもいいな」
 ベッドに腰かけていたほうが軽く目礼する。にこにこと笑顔を浮かべていたが、それは人が好いというよりは、いたずらっ子のような感じがした。油断がならない。猫みたいに細い目をしていた。
「ようこそ、ロゼの剣師院と、それから俺たちの第十一班に。これで俺たちも五人になる。ようやく正式な形ってわけだ。歓迎するよ。新しいやつがいつ来るかって、俺もこいつもずいぶん待ってたからな」
 セリエスは右手を差し出す。握手を求められているのだと気づいて、ユティスは一瞬遅れてその手を握った。度量の広そうなセリエスの笑顔をじっと見ながら、ユティスは言った。「班って、何?」
 空気の流れがぎこちなくなる感じがして、セリエスとルルアが互いを見あった。それからセリエスが、やれやれという風に肩をすくめる。「何も教えてないんだな、あのおっさん」
 おっさんというのは、もちろんバルステッドのことだろう。教官に対する呼称としては、いささか敬意に欠けてはいたけれど。
「班てのは、俺たちが組むチームのことだ。五人で一組。つまり、俺とこいつ、それからお前、あとの二人は女子で、ここにはいない。キアとミルテっていうんだが、訓練のときにでも紹介してやるよ」
 ユティスはとりあえず、うなずいておいた。他の事はまださっぱりわかっていなかったけれど。
「ま、詳しいことは、おいおい説明していくとしよう。授業の受けかたとか、訓練の種類とかな。それより、今は学院の案内をしてやるよ。どうせおっさんには何も聞いてないんだろう?」
 ユティスはうなずいた。「聞いてない」
「じゃあ決まりだ。少し散歩といこう。それとも、ちょっと休んでいくか?」
「疲れてはないよ」
「そいつは上々だ」にやっと笑って、セリエスは扉のほうに向かった。
 その後ろから、ルルアがついてきたのに気づいて、セリエスは手を広げてとめた。
「なに?」ルルアは首を傾げて言う。「僕とは握手の必要はないと思うけど」
「どこが握手だ、お前は来なくていい」
「そりゃひどいや」ルルアは芝居がかった調子で、信じられないという顔をした。あまり本気で抗議しているようには見えない。
「お前が来ると、いちいちうるさそうだからな」
「差別だよ、それは」
「気づいてくれてよかった」セリエスの返事はにべもない。
 ルルアは不満そうな顔をしながら、セリエスの言葉に従うようだった。そういう信頼関係みたいなものがあるのだろう。ユティスにはよくわからなかったけれど。
 結局、二人で外に出て、ルルアは部屋に残った。寮の廊下を歩きながら、ユティスは質問する。「よかったの?」
「何が」セリエスは振り向きもしなかった。
「あの人のこと」
「あいつのペースにあわせてたら、日が暮れるまでベッドの中にいることになるよ」
 仕事にならない、ということらしい。
 一階に降りると、セリエスは寮のことをざっと説明した。男女で寮の行き来が禁じられているため、班での話しあいにはここのロビーを使うのが多いこと。女子寮のほうには絶対に足を入れるな、ということ。
「入れると、どうなるの?」ユティスは訊いてみた。
「面倒なことになる」セリエスの答えはそれっきりだった。ただし風呂場はロビーの奥に位置していて、そこまでは共同になっている、ということ。
 寮をあとにすると、セリエスは学院棟のほうへ向かった。さっきまでユティスがいたところだった。ここは廻廊を中心に各教室が配置されていて、一番外側に食堂や図書室、病室、聖堂が付属している。西側は教員の控え室、および事務室になっていた。院長室があるのもここだった。
 人気のない廊下を歩きながら、ユティスは気になっていたことを訊いた。「どこにも人がいないね」
「今日は休みだからな」
 なるほど、とユティスはうなずいた。
 そのまま玄関から外に出ると、門番小屋と正門があった。ここの正門が使われることは滅多にない、とセリエスは言った。
「どうして?」
「外に出る必要があまりないからな。町のほうに行くにしても、使うのは寮の近くにある裏口のほうが多い」
「滅多に使うのは、いつのこと?」
「はじめてここに来るときと、もう二度と戻ってこないとき」
 中に入って、もう一度中庭のほうへ向かった。そこから右手のほうにある施設へ歩いていく。剣術用の訓練施設。つまり、剣師院での中心にあたる場所、というわけだった。
 修練場と呼ばれるその場所は、真ん中に一際大きなものがあって、そのまわりに四つ、ちょうどその四分の一くらいの大きさの施設が並んでいた。真ん中が第一修練場、それから時計回りに第二から第五まで続く。
 小修練場の横を歩いていると、中から音が聞こえた。休日とはいえ、誰かが自主練習を行っているのだろう。当然のことだった。ここでは剣師を養成しているのだ。
「ちょっとのぞいてみるか?」
 ユティスはうなずいた。開け放たれた入り口から、中をのぞく。場内では五、六人の人影が体を動かしていた。床板を踏む音が響いて、時々摸擬刀で撃たれる音がそれに混じる。
 レテノに連れられて、ユティスは町の剣術道場で稽古をしたことがある。それに比べると帝国で運営しているだけあって、ここのほうが防具や摸擬刀といった装備の質はよさそうだった。動きの練度も、その時に見た道場生よりはずっとよかった。
「感想はあるか?」横で、セリエスが訊いた。
「立派だね」ユティスは答える。
「それだけ?」
「うん」
 セリエスは、いつもとは違う形の食器でも眺めるような目つきで、ユティスのことを見た。
「少し、自己紹介しておくか」その場をあとにしながら、セリエスは言った。
「紹介なら、さっきしてもらったけど」ユティスは不思議そうに言う。
「名前だけだろ?」
「うん」
「今度はもう少し詳しいやつだ」
 修練場をあとにして、また中庭に出た。
「まずは俺のことだ。セリエス・レニシオ、まあ名前はもういいな。天理流の系統だ」
 天流には五つの系統流派がある。天業、天理、天現、天法、天想――天流五家と呼ばれるもので、それぞれ性質が異なる。天理流は、斬撃速度を尊ぶ系統だった。
 もっとも、五つの流派に本質的な違いはない。ただ術者の性格によってその得意とするところが異なる、というだけだった。技能の専門化は、対悪魔戦による結果に起こったこと。悪魔には必ず一対多をもって臨むからだった。
「もともと俺は農村の出でな、ご他聞にもれずあんまり豊かとはいえない。そういうのが出世しようと思ったら、軍隊関係に入るのが伝統的な方法ってわけだ」
 広い中庭のちょうど真ん中あたりに噴水があって、二人はそこで足をとめた。
「そういうものなの?」
「ああ。……ところで」セリエスは最初からそれが目的だったらしく、話題を変えた。「お前、ずっと旅をしてたんだって?」
 その言葉がどれくらいの情報量を含んでいるのかわからずに、ユティスはうん、とうなずいた。
「どういう理由で?」率直そのものの言いかたで、セリエスは訊いた。
 けれど、ユティスは首を傾げる。「さあ、どうしてかな……」
「わからないのか?」
「その時は、知る必要を感じなかったから」
 セリエスは頭の見えないところでも叩かれたみたいに、顔をしかめた。
「誰も教えてくれなかったのか?」
 ユティスはふと、レテノのことを思い浮かべる。訊けば、レテノは答えてくれただろうか。今は、どこにいるのだろう。
「――眼鏡」ユティスは不意に言った。
 セリエスはきょとんとして、自分のかけている眼鏡に手を触れた。「これが、どうかしたのか?」
「ぼくの知ってる人もかけてた」
 セリエスは、ついさっきその辺に転がっていたはずの落し物を見失ったような、そんな顔をした。見失うには、短い時間だ。けれどもう、どこにも見つからないだろう。たぶんそれは、次元の狭間にでも消えてしまったのだ。
 肩をすくめるような、笑うようなそぶりでセリエスは言った。「ちょっと変わってるよ、お前は」

 部屋に戻ると、どこかへ出かけたのかルルアの姿はなかった。気をきかせたのか、セリエスも退室する。夕食の時間になれば呼びにくる、という話だった。ユティスは一人で、事前に届けられていた荷物の整理をした。
 荷物といっても、たいしたものはなかった。服や下着類、防寒具、雨天用マント、いくつかの小物。それから、刀だった。刀箱に収められたそれは、父親の持ち物だった。ユティスは父親のことをよく覚えていない。剣師で、小さい頃に手ほどきしてもらったが、どこか知らない場所で亡くなったという話だった。川に流した葉っぱが、どこかに消えていくみたいに。
 ベッドの下にあるキャスターつきの収納箱を引き出して、それらのものを整理する。量が少ないので、半分ほどのスペースを残して収まってしまった。簡単なものだ。
 それから、あてがわれた下段のベッドで横になった。疲労というほどのものはなかった。知らない場所で過ごすことには慣れている。ただ、今度はどのくらいの時間ここにいるのかがわからなかった。いつも一緒だったレテノも、今はいない。
 ぼんやりしているうちに時間が過ぎて、セリエスが呼びにきた。ユティスは時間をゆっくり蘇生させる。
「そろそろ制服に着替えておいたほうがいい」言われて、壁にかけられていた上着とズボンを手にとった。いつか見たことのある、剣師用の軍服に似ていた。首まわりにカラーがあって、全体の色は黒。袖のところにラインがあって、その色で学年がわかるようになっていた。
 食堂に向かうと、夕食に集まった生徒たちでごったがえしている。四百人近い生徒がいっせいに集まるのだから、当然だろう。賑やかで、はっきり言えばうるさかった。ユティスはセリエスに先導されて、海の波を掻きわけるように移動した。テーブルにルルアの姿を見つけ、一緒に食事をとる。
 三人で部屋に戻り、時間制限つきの入浴をすますと、あとは寝るだけだった。気を使ったのか、セリエスもルルアもユティスのことをうるさく聞いてきたりはしない。
 ベッドで横になっていると、粘度の高い液体に沈みこむみたいに眠気がやってきた。
 まだ眠るつもりはなかったが、ユティスは液体に身を任せた。意識がどこか暗い場所に沈んでいくのを自覚する。その暗い場所で、ユティスはこれから自分がどうなるのか考えてみた。
 目が覚めたとき、夢を見なかった。それで少なくとも、次の日が雨でないことだけが、ユティスにはわかった。

 起床を告げる鐘の音とともに、一日がはじまる。朝の準備から朝食、午前中に行われる授業のための教室への移動を、ユティスはセリエスに教えられて何とかこなした。この少年は根源的に面倒見のいい性格らしい。一方で、ルルアはその横から余計な茶々を入れて、「邪魔だ」とセリエスに一蹴されていた。
「授業を受けたことはあるのか?」朝食が終わって教室へ向かう途中、セリエスはユティスに尋ねた。
「ううん、ない」ユティスは首を振った。旅の途中、レテノから読み書きや簡単な算術については学んだが、どれも本格的なものとはいえない。目下のところ、それは役立つ技能ではなかったから。
「わからないところは、あとで教えてやるよ。まあ慣れればどうってことない」
 セリエスが励ますようにユティスの肩を叩くと、ルルアが脇で笑った。「気のせいか、何だかセリエスはすっかり慣れっこになってるみたいに聞こえるね」
「うるせえ」
 はじめて受ける授業は、ユティスにはさっぱりわからなかった。広い講堂で、かなりの人数が集まっていた。すり鉢状の床に長机が並び、生徒たちがその前に座っている。内容は歴史学だった。ほとんど聞いたことのないような名前や地名が連呼され、辛うじてわかるのは、それが七王時代のことらしい、ということくらい。
 他の授業も似たりよったりで、ユティスは何とか流れだけつかむことだけに努力した。横でセリエスがいろいろと教えてくれるが、それを理解するような余裕もない。けれど講堂の中には、最初から最後まで机につっぷして動かない者もいた。生徒にもいろいろな人間がいるらしい。
 四つの教科を何とかやり過ごすと、昼の時間になった。相変わらず食堂は賑やかだった。
「どんな具合だ、授業は?」パンをちぎりながら、セリエスが訊いた。
「よくわからなかった」
「簡明、かつ的確な表現だな」セリエスはにやりとした。
 ルルアはその横で、意外なほど上品な手つきでスープをすすっている。
「はじめてなら、そんなもんだ。俺たちはこれでも、もう一年以上ここにいるからな」
「あんまり真面目じゃなさそうな人もいたけど」ユティスは首を傾げる。
「院には教育機関としての面もあるけど、それが本当に必要なのは上流階級だけなんだ」ルルアが落ち着いた口調で言った。「帝国の兵役に志願する人間には、学科授業はあまり必要じゃない。実力さえあればね」
 ルルアには子供じみたいたずらっぽさがあるかと思うと、こんな風に老成したところもあった。水は澄んでいるのに、底のほうが見通せない。不思議な感じだった。
「まあ、そういうことだな。一般入学の場合は、剣術試験がある。最初からそれなりの力量を示さなきゃいけないわけだ」セリエスは試すようにユティスのことを見た。「だからお前みたいに試験免除で登録されるのなんて珍しい。他の院から編入ってのならまだしもな」
 ユティスは特に感心することもなく話を聞いていた。レテノがどうやって自分をここに入れたのかはわからない。何か特別なコネか、事情でもあったのだろうか。基本的には、関心のないことではあったけれど。
「午後からは実地訓練だ」セリエスは最後の一口を飲み込みながら言った。「そっちの実力はどんなものかな?」

 午後からの訓練内容は、その日によって異なった。基礎的な剣術訓練が多いが、野外へ演習に出かけることもある。スケジュールは各班ごとに組まれていて、いくつかの班で共同して行われる。今回は五十人ほどで、走り込みからはじまる基礎訓練だった。
 部屋に戻って、身軽な運動服に着替えた。集合場所である修練場の前の広場に行くと、だんだんと人が集まってきた。体をほぐしていると、セリエスが誰かに向かって手を振った。見ると、女子二人の姿が離れたところにある。
「あれがうちの班の残る二人だ」
 ユティスは前に聞いていたことを思い出す。確か、キアとミルテという名前だったはずだ。
 女子二人がセリエスに気づいて、こちらにやって来た。対照的な二人で、一人はじろじろとユティスのことをねめつけ、それより背の低い一人は遠慮するように距離をとった。二人ともいかにも華奢な体つきだったが、女性のほうが魔力の高い傾向があるので、剣師としては特に不利にはならなかった。
「こいつがうちの班に新しく加わることになった、ユティスだ」セリエスがごく簡単に紹介する。
「あんたが編入生?」二人のうち、三白眼のちょっときつい目つきのほうが言う。
 頭の両脇で短くくくった髪は、燃えるような赤色だった。敵意にあふれた表情のわりに、顔つきそのものは年齢よりも幼い感じがした。彼女の名前は、キア・ユフェンツ。ユティスがあとで聞いたところによると、商都ドゥーウェの出身ということだった。彼女の実家も商人。
「何だか、思ってたのと違う」キアは不満そうに言った。「大丈夫なの、これ? それにこの子、本当に男なの?」
「新人をおびえさせるようなことは言うなよ」セリエスが軽くキアをなだめた。慣れている、という感じ。ユティスは今の科白のどこに怯えるべきだったのかを考えていた。
「ふん」
 という感じで、キアは腕を組んで横を向く。何かに怒っているかのようだが、何に怒っているのかはわからなかった。いつも、そんな調子なのかもしれない。
 その横にいるもう一人は、大人しすぎるくらいの態度だった。ミルテ・アーチェ。町のほうにある、カンティーア女子修道院の附属孤児院出身ということだった。
「よろしくお願いします」彼女は頭を下げた。
 ぺこり、という音が聞こえそうなくらいのお辞儀。目にかかりそうなくらいの前髪と、おかっぱっぽい頭をしている。姿勢が悪く、そのせいか実際以上に体が小さく見えた。あるいは、本人としてもそれを望んでいるのかもしれなかったけれど。
 やがて教官が現れて、今日の教練内容を指示した。教官はバルステッドより若く、レテノと同じくらいの歳のようだった。トリアーノ・ウベル。眼鏡をかけて、秀麗な面持ちをしている。女子に人気のありそうな顔だった。
 走り出す前に、セリエスが二、三、ユティスに注意した。「院の外に出て、六ミル(約九・六キロ)くらいの距離を走る。班でユニットを組んで走行するんだ。お前は道とかペースがわかんないだろうから、俺たちの後ろからついてくればいい」
 個人ではなく班を一単位にして走るのは、それが実戦での形式だからだろう。つまり、何らかの理由で部隊ごとに一定距離を走破しなければならない、という想定なのだった。
「わかった」ユティスはうなずいた。走るときは一列縦隊を作って、その一番後ろにユティスがつく。
 笛が鳴らされると、各班でそれぞれ出発をはじめた。天気のよい初夏の日で、涼気を含んだ青空が広がっていた。風が心地よくて、体の中のいろんなものを、どこかに置いて行ってしまいたいくらいだった。
 先頭のセリエスが、あまり混雑しないようなタイミングで走りだす。しっぽの一番後ろで、ユティスも疾走した。心臓が迷惑そうに鼓動を早める。
 学院を出ると、池のそばの橋を渡り、森の中の道がしばらく続いた。やがて森は途切れ、平野部に出る。遠くに丘陵が広がっていた。見えはしないが、北のほうのずっと先には、北方四国と帝国を隔てるクラニア山脈がそびえているはずだった。
「平気か?」走りながら、前方でセリエスが振り返る。あくまで移動用なので、ペースはそれほど速くはない。ユティスはうなずいた。
 全体で四分の一ほど進んだところで、不意にセリエスの横に別の班が並び、声をかけてきた。「おい、セリエス。例の新入生が倒れてるぞ」
「倒れてる?」
 セリエスは訊き返したが、相手はそのまま行ってしまった。それ以上親切にする義理はないのだから、当然だろう。
 いったん全体の足をとめて、セリエスは後方を振り返る。確かに、ユティスの姿がなかった。そこからさらに視線を延長すると、ずっと向こうで地面につっぷしている人影があった。
「どうしたの?」すぐ後ろにいたキアが、不審そうに言う。
「トラブルだ」セリエスは短く言いながら、すでに戻りはじめていた。
 三人とも、その頃にはユティスのことに気づいて、セリエスのあとに続いた。近づくと、ユティスはばったり地面に倒れこんでいた。顔色が悪く、呼吸が浅い。
「どうしたんですか、ユティスさん?」ミルテが驚いて話しかけた。
「貧血みたいなものじゃないかな」ルルアが手早く脈と呼吸を確認しながら言った。「少し休めば、大丈夫だと思うけど」
「仕方ない。キアとミルテは先に行ってくれ。俺たちはユティスとあとから行く」状況を判断して、セリエスは即座に指示を出した。班全体を遅らせるよりもそのほうがいいし、いざというときにユティスを担いでいくには、女子二人では力不足だ。
 キアとミルテはうなずいて、躊躇なく出発した。そういう信頼関係があった。
 残った二人は道端にユティスを運んで、木陰のところに寝かせた。ほどなく意識を戻して、ユティスは仰臥したまま二人を見上げた。暗がりが眩しいみたいに、目を細める。
「ぼく、どうして寝てるの?」
「走ってて倒れたんだ。覚えてないのか?」
 セリエスが訊くと、ユティスはぼんやりとうなずいた。不確かな肯定の表現。
「どこか悪いのか?」もう一度、セリエスが訊く。
「少し疲れやすいんだ」ユティスは言った。「そういう体質だから」
 全部が本当のことではなかったけれど、必要がないのでユティスはそれ以上の説明はしなかった。
「少し、ね」セリエスはうろんな顔をしたが、とりあえず質問はしない。「何でそのことを話さなかった?」
 ユティスは当たり前の顔で言った。「聞かれなかったから」
 そこでセリエスはため息をついた。力なく首を振って。けれどそれだけで、嫌味の一つも言わない。そんなことをしても無駄なのだということは、もうとっくにわかっていた。二人のやりとりを見ながら、ルルアはくすくす笑っていた。
「念のため、もう少し休んだほうがいいよ。そのあと、ペースを落としてゆっくり走ればいいんじゃないかな」ルルアは言う。
「だな」セリエスもうなずく。
 ユティスはそれに答えるでもなく、上半身を木の幹にもたせて、色のついた風でも見えるみたいにあらぬ方向を見つめていた。
 もう一度ため息をついてから、セリエスはその場を離れた。ルルアもそのあとに従う。目の前の道を、最後尾らしい班が通りすぎていった。
「お前はどう思う、あいつのこと?」セリエスはユティスに聞こえないように訊いた。
「ちょっと変わってるね」
「ちょっと?」セリエスは顔をしかめた。「何だか、機械みたいなやつだ」
「そうかな……」ルルアはにこにこした表情のまま言った。「僕は天使みたいだな、って思ったけど」
 その言葉に、セリエスは無言で肩をすくめるだけだった。
 二人のいるところに、かすかな口笛の音が聞こえた。ユティスが吹いているらしい。機械であるにしては、途切れ途切れの拙い代物だった。きっと天使になったばかりで、まだ口笛の吹き方もわからないんだろうな、とセリエスは思った。

 結局、三人が院に戻る頃には、教練はすべて終了していた。ユティスにあわせて、早く走れなかったせいだった。担当教官のトリアーノは事情を聞いたが、減点対象には違いない。院での成績は、卒業後の進路にただちに影響した。
「まあ気にするな」セリエスはユティスの肩を叩いた。
 ユティスは何を、と訊き返そうとして、セリエスの話を思い出す。確か、農村出身だという話だった。だからできるだけ出世しないといけない、とも。

 翌日は剣術訓練が行われた。前日と同じように午前中の授業を終えると、着替えて修練場の一つに向かう。班の数は基礎訓練の半分ほどだった。担当教官はバルステッド。
 軽いランニングのあと、素振りを行う。素振りには、鍛錬棒と呼ばれる太い樫材を使った。重量があって、握力をつけるために握りが太くなっている。
「正しい斬≠フ術型を行うには、十分な素振りを習得する必要がある」バルステッドは言った。
 天流では魔力の流れをコントロールして斬撃を行う。刀法、体法、陣法、どれもがそうで、特に斬≠ヘすべての基本型がそろった動きだった。これを完全に修めることが、まず剣師としての第一歩でもある。
 素振り稽古の間、バルステッドは生徒の間をまわって構えについて注意した。ユティスは体の加減を見ながら適度に腕を動かしていたが、バルステッドは何も言わなかった。三十分ほどの素振りが終わると、小休止を入れて、撃ちあい稽古に入る。防具をつけ、摸擬刀をもっての訓練だった。
「防具のつけ方はわかるか?」セリエスが訊くので、ユティスはうなずいた。
 剣術訓練で使う防具は、面兜、胴鎧、籠手、脚甲の四つ。薄い鋼鉄製で、一人でも着脱可能なように工夫されている。この手の防具は対悪魔戦ではほとんど役には立たないが、訓練用としては十分だった。
 摸擬刀は、芯に細く割った木の棒を入れて、それを牛皮のなめし革で覆っている。思い切り打たれればひどい打ち身くらいにはなるが、それでも緩衝材のおかげで重傷を受けるようなことはない。
 ユティスは要領よく防具を着込んで、摸擬刀を手にとった。刀に比べると不安になるくらいの軽さだったが、操法の基本は同じ。
 切り返しや打ち込みといった運動のあと、試合形式での稽古になった。修練場にある四つの試合場を使って、各班で試合を行う。
 ユティスが防具をつけたままぼんやりしていると、背中を小突かれた。振り返ると、目の前に摸擬刀の切っ先が突き出されている。実戦なら、死んでいたところだ。その相手は試合場のほうに首を振った。試合をしよう、ということだ。面頬の奥をのぞくと、それがキアだということがわかる。
「どうして?」
 ユティスが訊くと、キアは怒ったような声を出した。
「あんたの力量を見たいのよ」
 たぶん、昨日のことで疑っているのだろう。ユティスにもそのくらいのことはわかった。
 断るのは無理そうだったので、ユティスは大人しく従った。キアと一緒に試合場のほうに向かう。
 剣術の試合は、十レーネ(約九メートル)四方の正方形の中で行う。場外などの反則は二回で一本の計算。勝負は三本で、先に二本とったほうの勝ち。
 試合開始は中央の位置から。
 二人は向かいあって立ち、剣を軽く触れあわす刀礼を行った。
 興味があったのか、バルステッドが審判役についた。そのせいもあって、にわかに場内の注目を集める。誰もが新入生の技倆を知りたがっていた。
 そのことで、ユティスは少し困る。けれど、今さらやめるわけにもいかない。
「はじめ――」声がかかった。
 同時に、キアが突っ込んでくる。思い切りがいいのは性格だろう。ユティスは牽制しながら距離を保つ。
 キア・ユフェンツは天法流だと、ユティスは聞いていた。体術と徒手格闘を得意とする系統だ。その分、剣の扱いが不得手だが、比較的、という意味でしかない。体さばきと足さばきが剣闘で役に立たないはずはなかった。
 攻撃的な態度や性格とは裏腹に、キアの動きは流麗だった。強弱、緩急、間合いの出し入れ、魔力の流れも円滑。
 ちなみに、ユティスは天業流。斬撃力を重視する系統だった。
 ユティスはあっという間に二本ともとられた。
「あんた、本気でやってるの?」面頬の奥で、キアは眉間にしわを寄せた。無理もない。
 ユティスは黙っていた。本当のことを言ったら、きっと怒るだろうと思った。かといってどうすることもできないし、怒られるのは嫌だった。
 戻ろうとすると、バルステッドがとめた。
「もう一本だ」
 すでに勝負はついているのだが、もう少し試そうというのだろう。
 ユティスは中央で再び摸擬刀を構えたが、困っていた。レテノとの約束がある。
 けれど、キアのほうはいっそう激しく突っかかってきた。わざと負けられたのだと思って、腹を立てているようだった。このまま終わると面倒なことになりそうだな、とユティスは思った。それでも構わないのだけれど。
 呼吸のためにキアが攻撃の手をとめた一瞬、ユティスは豹変したように鋭く摸擬刀を振るった。キアはあわてて、不用意な力でその刀を払う。
 次の瞬間、くるくると回転しながら摸擬刀が宙を舞った。誰もがあっけに取られたようにその行方を目で追う。ユティスの手元は空だった。つまり、刀を弾き飛ばされたのは、ユティスのほう。
 摸擬刀は意外なほど高くまで上がった。それからようやく、自分の重さを思い出したみたいに落ちてくる。
 キアの頭の上に――
 その刀は実に正確に、彼女の頭部を一撃した。本物なら、もちろんただではすまないだろう。本物ならば、の話ではあるけれど。
 キアは頭を手で押さえて、狐にでもつままれたみたいに呆然としている。
 落ちてきた摸擬刀を拾いあげると、ユティスは黙礼してさっさと試合場から出て行ってしまった。その間、誰も口をきくものはいなかった。まるで、上空でまだ摸擬刀がくるくるとまわっているみたいに。

「ちょっと町まで出かけてみないか?」
 教練が終わって部屋で着替えをすますと、セリエスがユティスの背中をつついた。
「町って?」ユティスは制服の上着に袖を通しながら訊いた。
「ロゼのことだよ。ここは荒野のど真ん中にあるわけじゃないから」ルルアがおかしそうに言う。
 剣師院の周辺と、南側の川を越えた向こう側には、市街地が広がっている。それがロゼの町だった。市域は主に川向こうにあって、周囲を市壁で囲まれていた。ユティスは院に来るときにその壁を眺めただけで、中には入っていない。
 行ってもいいかな、とユティスは思った。だから、そう伝えた。
「それじゃあ今から出かけようぜ」セリエスがにやっと笑う。
 三人とも制服で、寮のそばにある裏口から外に出た。外出時の服装は自由だが、着るものに迷う必要がなかった。だから大抵の場合、出かけるときは制服のままでいることが多い。
 塀から外に出たところで、ユティスは不思議そうに訊いた。「あとの二人は?」
「二人?」セリエスが歩きながら訊き返す。
「キアとミルテ」
 それを聞いて、二人はふっと吹き出した。
「班だからって、いつも一緒に行動するわけじゃないよ」ルルアが答える。
「それに、今はキアのやつはお前に会いたくないだろうからな」セリエスはにやりとして、ユティスのほうを見た。
「どうして?」ユティスは心底わからない、という顔をした。暗い海みたいに無表情ではあったけれど。
「そりゃ、上から何が降ってくるかわからないんじゃな」
 試合のことを、セリエスは言っているようだった。ユティスはそう理解して、けれどますます首を傾げた。二人はやはり、おかしそうに笑った。
 しばらくして、橋にさしかかった。ローネ川の上にかかる石橋だった。クラニア山脈から流れてきたこの川は、ずっと南に下ってエーベンス川と合流する。西に向かったエーベンス川は、帝国の首都であるノエストリアへ通じていた。そこには皇帝がいて、日々の政務や悪魔のことで頭を悩ませているはずだった。
 とても、遠い場所の話。
 ユティスは彫刻の施された欄干を見ながら、橋を渡った。左右に衛兵の控える門をくぐって、市内へと入る。
 ロゼの町は、人口三万人ほどの中規模都市だった。この町は北と東からの物資を帝都へ運ぶ交易都市として発展してきた。元は、市の北西にある丘の上の、聖レアン教会を核として建設されたものだったが、その中心は順次、南東の平地へと移っていった。誰も重い荷物を持って坂を上りたくはなかったからだろう。例えそれが、神様の近くへ行く道だとしても。町を出て西に向かうと、エンテ州の州都であるカトレアへと到る。
 交易地だけあって、市内の道路は混雑していた。車道を馬車が通り、歩道にも荷運び人や雑役夫、日雇い者らしい人々の姿がある。なかなかの活況だった。石造りの建物が、両側に並んでいる。
 セリエスは道々、町のことについてユティスに説明した。近くの村の出身だけあって、いろいろと詳しかった。父方の叔父が、市内で店を構えているという。今度連れて行ってやるよ、というので、ユティスは、「お金は持ってない」と答えた。何故か、笑われてしまったけれど。
 やがて、三人は市庁舎前広場にやって来た。建物の間を抜けると、空の上にでも出たみたいに視界が開ける。広場は人間のほか、荷物や馬、台車といったものでいっぱいだった。野菜や果物が、箱の上に並べられている。何かのやりとりをする甲高い声が聞こえた。市場だ。
 広場の反対側にある市庁舎の時計塔が、そんな光景を見下ろしていた。
「ちょっと、ひやかしていくか」セリエスは言って、軽い足どりで市場に向かった。この手の混雑は、自然と人をひきつけるところがある。
 近くの農村から運ばれたらしい食材のほかに、毛皮や染料、砂糖、木工細工、貴金属製品を扱う店もあった。それらの店の前には商人風の男がいて、何やら交渉をくり返している。取引の値段や段取りについての相談だろう。その場で今すぐ購入する、というのではない。並べられているのは見本品なのだ。支払いは手形でされ、品物は後日届けられる。
 果物の甘いにおいや、チーズ、干し魚、香辛料の、くすぐったり刺したりするような独特のにおい。品定めや値段交渉に余念のない主婦たち。犬や猫がもの欲しそうにうろうろしている。酒を飲んで酔っ払ったらしい男たち。怒鳴り声、ささやき、誰かが誰かを呼んでいる。
 ユティスは二人からはぐれないように注意して歩いた。もっと大きな町の市も、ユティスは知っていたし、そこはここよりもずっとうるさくて、ごみごみしていた。けれどそうした騒音や喧騒に対して、ユティスは何も感じない。心の浮きたつことも、うっとうしいと思うことも。
 宝飾品を扱う店もあって、ルルアがその前で足をとめた。意外なほど真剣な目つきで商品をにらんでいる。ルビーやトルコ石の光に目移りしている、というのではなく、宝石の瑕疵や細工の出来栄えを厳しく査定している、という感じだった。
 ルルアはやがて品のよいブローチを手にとって、適当なところまできちんと値を下げてから支払いをした。レディオール銀貨で十枚。ドミオン金貨ほどではないが、銀貨もあまり一般的な貨幣とはいえない。つまり、日常的ではなかった。普通の人間はリーデ銅貨やレッテ白銅貨を使って買い物をする。
 歩き出してから、ユティスはセリエスに訊いてみた。「ルルアは、どうしてあんなものを買ったの?」
「気になるのか?」セリエスはユティスにささやき返す。
「あれは、女性用のものだよ」
「へえ」セリエスは感心した。「意外に鋭いんだな」
「ルルアの趣味?」
「まさか。あれは何人かいる彼女の、一人にプレゼントするのさ」
 セリエスの口調からして、それは冗談のようだった。知りたければ、自分で直接聞け、ということなのだろう。
 店の間を抜けて、市庁舎の近くまでやって来た。その隣にはギルドホールや商人の邸宅があって、ファサードが広場の景観に彩りをそえていた。上のほうを見ると、空が四角く縁取られている。
 人ごみに気づいたのは、その時だった。
 広場の一角に、不自然な人だかりがあった。砂糖に群がる蟻みたいな。三人は顔を見あわせてから、蟻の群れに加わってみることにした。
 近づくと、声が聞こえた。不自然に抑制された、ゆったりした声だった。聞いていると、体の一部が解体されていくような、妙な感じがした。手品の箱を使って、体を切断されるみたいに。
「――神はすべてを超越するのです」声は言った。
 人垣の間をのぞくと、向こう側に三人の人影が立っていた。性別は不明。三人とも、まっ黒なローブをまとい、フードを目深に下ろしていた。人間かどうかも怪しい。しゃべっているのは、真ん中の一人だった。声からすると、男のようだった。
「悪魔さえ、神はお許しになります。神の前に、罪など存在しません。わたしたちはすべての不浄を捨て、神の栄えに身を任せるべきなのです。そこではすべての傷が癒され、すべての約束が果たされます。天国の門は常に開かれている。わたしたちはただ、それをくぐりさえすればよいのです」
「……悪魔教だな」背のびをして、人ごみの向こうをうかがっていたセリエスが言った。
 悪魔教というのは、通称。正式には帝国国教であるトリバス教の一派を名のっていて、清信派と呼ばれる。悪魔戦役の後半に現れ、瞬く間に信者の数を増やした。基本的な教えはトリバス教と同じだが、それはよりラディカルなものに改変されている。特に、悪魔についての解釈が違う。
 トリバス教にとって、悪魔は不倶戴天の敵だった。悪魔は神の御業を汚し、人の魂を堕落させる。唾棄すべき、許しがたい存在なのだ。その汚穢にまみれた身は、一片たりとて地上に残されてはならない。
 けれど、悪魔教ではその部分が違う。この派の人間にとって、悪魔は敵ではない。むしろそれは、神の威光を高める存在だった。来たるべき時、神の来臨によって悪魔はすべて天使へと生まれ変わる。地上に悪魔の数が増えるほど、その時が訪れるのは早くなる。
 この派の存在を正統派の教会は苦々しく思っていたが、直接手を出すようなことはなかった。帝国では信教の自由が保障されている。あるいは、現世的なもっと別の理由があるのかもしれない。
 悪魔教の男は淡々と教義についてしゃべり続けた。その様子を見ていると、どこかに違和感があった。下手をすると、同じ人間には見えない。見えているものや、聞こえているものが、まるで違うんじゃないだろうか――
 人だかりの中から、いくつか罵声が飛んだ。男に気にした様子はない。慣れているのだろう。そういうところを見ても、住んでいる世界が違うような気にさせられる。ユティスは市場の雑踏と同じで、彼らのことを理解できなかった。
「行こうぜ」セリエスは首を振って、その場から離れた。こんな場所にいると、厄介ごとの種になりかねない。
 三人は広場の隅に行って、そこにあった石のベンチに座った。子供たちが数人、目の前で遊んでいる。一人が独楽をまわして、残りがそれを囲んでいた。まるで神様がすぐそこにいるみたいな熱心さだった。
「どう思う?」セリエスは言った。
「うまくまわってるね。僕らも混ぜてもらおうか?」ルルアがにこにこして言う。
「バカ、さっきの連中のことだ」
「それは失礼」
「まあ連中のことも、わからんではないけどな」セリエスは手を後ろでついて、のびをするような格好をした。「悪魔に祈りたくもなるだろうな。戦役中は、雑草でも刈るみたいに人間が死んでいったっていうからな。神様が信じられないなら、悪魔を信じるしかない。何しろ、やつらは天上の偉いお方とは違って、この地上で俺たちの隣にいるんだからな」
 セリエスが慨嘆すると、ユティスはぽつりと言った。「ぼくにはわからない」
 二人とも、ユティスのほうを見る。
「悪魔は敵だよ。それは倒さなくちゃいけない相手なんだ」
 珍しい自然現象にでもあったみたいに、二人は口を閉ざした。ユティスが感情らしいものをあらわにしていた。空を星が流れるよりは、注目に値した。
 かといって、その表情はいつもと同じ。
 妙な少年だった。
 不意に、三人のほうに向かって声がかけられた。
「おい、お前、新入生じゃないのか?」
 ぞろぞろと、そこには六人ほどの人間がいた。全員、剣師院の制服を着ている。袖のラインは赤色。つまり、同学年。新入生というのは、もちろんユティスのことだろう。
 六人が六人とも、にやにや笑っていた。人間としては、かなり低俗な部類に属する笑顔。少なくとも、一緒に仲よく独楽をまわそう、という顔つきではない。あるいは、それこそ人間らしい表情なのかもしれなかったけれど。
「ユティスとかいったっけ。お前、走ってるだけで派手にぶっ倒れたんだってな」
 ねちねちした、嫌なしゃべり方だった。触れるとそのまま手にくっついてきそうな粘度があった。
「そんなので本当に剣師になれるつもりなのかよ? さっさといなくなったほうがいいんじゃねえの。時間てのはよ、貴重なんだぜ。爺さんになるまでのろのろ走ってるつもりかよ?」これは、別の一人。
「何とか言えねえのかよ、こいつ。女みたいな顔してよ」別のもう一人。
 何がおかしいのか、六人は声を上げて笑った。
 セリエスは目配せして、さっさと立ち上がった。院生として、街中で面倒を起こすわけにはいかない。場合によっては院から放逐されることだってありうる。馬鹿の相手はしないほうが賢明だ。
 そのあとに、ユティスも従った。六人の雑言については、ユティスはあまり理解していなかった。何が言いたいのかわからない。
「おい、逃げる気かよ」
 生まれるときに品性というやつをどこかに忘れてきたらしい一人が、ユティスの肩に手をのばした。少し、豚に似ていた。
 その時、ユティスの体が動く。
 ほとんど、無造作といっていい一歩。散歩でもするみたいに。けれど、その動きに相手は反応できない。遅すぎるのだ。結果、気づいたときには致命的な間合いに入られていた。
 ユティスは相手の右手をつかんで、無理やりのばす。こうすると、左手を使うこともできなくなる。ユティスは右の掌底を、相手の下顎に打ちつけた。ふらついてところで、手を離す。幸い、そいつの体は仲間が受けとめてやった。そのくらいの友情はあるものらしい。
 そこまでが、一瞬のこと。
 五人はあっけにとられて、棒立ちしていた。今なら、ドミノみたいに倒せるかもしれない。まがりなりにも戦闘訓練を積んでいる人間が、一呼吸する間もなく倒されたのだ。
「その辺の病院か、院の治療室にでも行くんだな」セリエスが肩をすくめながら言った。
 三人がその場を立ち去るまで、六人の誰も動かなかった。
 市庁舎の時計は変わらず時を刻んでいる。子供たちはまだ独楽をまわしていた。

 聖レアン教会は旧市街を構成する丘の上にある。古い町らしく入り組んだ坂道をのぼっていくと、海の底から浮かび上がるみたいに展望がひらけた。教会の正面入り口から南のほうを望むと、ロゼの町を一望することができる。連なりあった屋根の中に、市庁舎や教会堂といった建物が、小さな孤島みたいに突き出ている。市壁の一部も視認できた。
 太陽は王国の支配を諦めて、西へと傾きつつあった。光の濃度が薄れて、より透明に近づきつつある。手を浸すと、血管や骨が透けてしまいそうだった。風が少し冷たい。しばらく町を眺めてから、三人は教会の中に入った。
 聖レアン教会は、バシリカ式ではなく、初期の教会建築に多く見られるような円堂式だった。長方形ではなく、周回式の平面。円形の外壁を持ち、その上に八角形のドームが乗せられている。煉瓦はどれも時間が削りとったくすんだ灰色をしていた。何かの条件がそろえば手のひらに乗せられそうなくらい、こぢんまりとした教会だった。
 中に入ると、堂内は薄暗かった。体にまとえそうな柔らかな暗闇が、あたりを覆っている。窓はなく、天井の採光用の穴から降ってくる光が唯一の光源だった。不思議にろ過された感じの光だ。
 聖具係らしい男が祭壇を整えるほかに、人はいなかった。神様ならどこかにいるのかもしれなかったけれど。
「この町の聖人は眼病によく効くそうだ」ひっそりとささやくような声で言いながら、セリエスは長いすの一つに腰かけた。「昔、貧しい盲の男がいて、聖者がそいつに手をかざすと目が見えるようになったんだと。話はそれだけ。どうせなら竜を退治したとか、洪水を鎮めたとかのほうがよかったよな」
 二人もその隣に座る。ユティスが中央だった。
 丸天井にはモザイク画が施されていた。画面は四つに区切られ、それぞれ別の場面が再現されている。そのうちのどれかは、聖レアンの物語なのかもしれない。注意してみれば、憐れな盲と聖者の姿が確認できるかもしれないが、ユティスにはそれほど興味はなかった。
「で、さっきのはどうやったんだ?」横から、セリエスがユティスに言った。
「さっきの、って?」ユティスは首を傾げる
「ザレボの野郎をのしちまったことだよ、アシレールの腰巾着のな。ずいぶん鮮やかだった」
「相手が油断してたから」ユティスの口調は平静そのものだった。「それだけだよ」
「でも、慣れた動きだった」ルルアは前を向いたまま、さりげなく言った。「それは相手の油断とは関係がない。……キアのときにやったのも、やっぱり狙ってのこと?」
 ユティスは沈黙した。
「言えないのか?」セリエスが訊く。
「あまり、目立たないほうがいいって、言われてるから」
「誰に?」ルルアが短く言う。
「レテノ」
 二人とも、もちろんそんな名前は知らなかった。セリエスは何かを思い出すように顔をしかめる。
「もしかしてそれ、眼鏡をかけてるって言ってたやつのことか?」
 肯定のしるしに、ユティスはこくんとうなずいた。
 二人は顔を見あわせて、すばやく情報の確認を行った。虚弱体質で、戦闘力は相当のものらしいが未知数。ここに来るまではずっと旅をしていて、レテノという眼鏡をかけた相手に何やら口止めされている。無口、無表情、機械のような――ルルアに言わせると、天使みたいな少年。
 セリエスは首を振って、ため息をついた。
「やっぱり変わってるよ、お前」
 天井からはモザイク画の天使が、何も言わずに地上を見下ろしていた。

――Thanks for your reading.

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