[彼はいかにして生まれ、そして死んだか]

 その頃、私は人間のいう「意識」というものを持っていませんでした。私はあまたある同じ形をしたもの達の一つに過ぎず、陽の光の暖かさにも、小鳥の声の美しさにも心を動かされることはありませんでした。
 けれど私はのちに、人間によって永遠に生くべき命を与えられ、この世に在ることの意味を理解できる心が生まれました。それはすべてのものが奥底に必ず持っているものであり、常に深い眠りの中から浮かび上がろうとしているものです。
 私は川の傍らに転がる石でした。元は岩山の一部であったものが、好奇心の余り地をすべり、川を流されてそこまでやってきたのです。私は私が何者であるかも知らぬまま、ただ私の奥底に眠るものの揺らぎによって、広く旅に出てみたいと思いました。
 川を流される間、私は多くの魚や、川底の苔や、その他目に見えないほどの小さなもの達の話を聞きました。
 あるものは私のことを、「ふんぞり返って自分から動こうともしない傲慢な頑固者たちの仲間」と呼んだり、「雨や風にただ削られていくだけの憐れな存在」と呼んだりしました。
 そのように言われ、まだ思想というものを持たなかった私は、ただ己の存在の卑しさに打ちのめされるばかりだったのです。
 こうして傷ついた私は、ある嵐によって荒々しく動かされ、転がり、流されて、気がつくとその川の近くに転がっていました。
 私はもはや動くこともせず、永遠にも近い時間をただじっと過ぎていくままにしようと思ったのです。
 そうして何事も聞かず、何事も思わずにしているうち、見たこともない者たちがこの辺りに集まってきました。
 それは私の見慣れているもの達とは違い、奇妙に不恰好な姿勢で動いていました。そして今まで聞いた事もないほど複雑な言葉をしゃべることができました。
 私は人間というものを、その時はじめて目にしたのです。
 人間たちは動物が自分の毛皮を持っているのとは違い、外のものの皮をかぶって寒さをしのいでいました。また鈍重な身動きのかわりに、手先が器用でたちまち見たことのないものを作り出しました。
 のちに知ったところでは、それは「道」であり、「家」であり、「町」でした。
 グルニスという町の起源はここにあるのです。
 人間たちはあっという間に増え、見当もつかないような奇妙なもの達が行きかい、常にあの複雑な言葉を騒々しく響かせました。私は川の傍らでじっとその様子を眺め、人間たちの話すのを聞きました。人間は魚や木々のように私に話しかけるようなことはしませんでしたが、私がいることなど気にせずに様々なことをしゃべりました。
 それらは私には想像もつかない、また理解できないようなことばかりでしたが、私は私の奥底に眠るものが、彼らの話を聞くたびに鈍く揺り動くのを感じました。
 私には、まるで彼らが私の奥底に眠っている、そのものであるかのように思えました。
 グルニスの町ができて何年もするうち、町は大きくなり、川を挟んで向こう側へも建物が作られていきました。
 はじめの頃、人間たちは舟を作り、それによって川を行き来しました。私の近くに小屋が作られ、渡し守と呼ばれる人間がそこに住み着きました。
 けれどこれはなかなか不便なようでした。舟に乗れる人数は限られていますし、川が荒れた日には向こう岸へ渡ることもできないのです。
 そのため、今度は橋が作られることになりました。今日、天使の橋、エネステアリッジと呼ばれているものが、それです。
 橋はまず、土台というものが作られるところから始まります。川に杭を打ち、石を積み、その上に人間が橋と呼ぶものを乗せるのです。
 そのための石は、遠くから舟や荷車で運ばれたり、川のすぐ傍らから取られたりしました。私もその時に土台として石の名誉たるべき位置に収まるはずだったのですが、奇妙なことに私にはもっと別の運命が待っていました。
 私は縄をかけて荷車に載せられ、どこかへと運ばれていきました。通りを行く人間たちは皆、私のほうを見、ひそひそと話し合いました。それはまるで、私が非常に重い罪を背負った石であるかのように感じられました。
 ある建物の中に運び込まれ、私は一人の人間に渡されました。そこにはまるで、何かを考えすぎるあまりついに動くことを忘れてしまった様な人間たちが大勢いました。
 私の前の人間は、私の罪の重さでも量ろうとするかのように厳しく私を見つめ、何かのマークを私につけていきました。
 そうしてついに判決を下すための鋭く尖った槌を手に持ち、私の体へとそれを打ち込み始めたのです。
 私は恐れ、震えながら私の体が削られていくのを感じました。恐怖のあまり私は故里を思い出し、激しい後悔に襲われました。思えばあそここそが私たちにとって最も自然な場所であり、幸福の存在するところでした。私は旅に出るべきではなかったのです。「若いというのは無知であるということだ」と、年老いた石が言っていたのを、私は強く思い出していました。
 けれどしばらくするうち、私は恐怖がやわらぎ、体の奥底で何かが揺れ動くのを感じました。
 それは、私でさえ知らなかった私自身が、私というものを叫びあげた瞬間でした。私はこの世界を理解し、私というものを理解しました。
 気がついた時、私はそこにいた無数の人間たちと同じように、永遠の止まった時間を与えられ、様々な事象について考える権限を授与されていました。
 私は深く物事を見つめる眼を、何かを差し出そうとしているかのような手を、どのようなことにも決して動じぬ体を、人には聞こえぬ言葉を発する口を、与えられたのです。
 私を生み出したその人間は、私のことを『時を告げる使者』と名づけました。
 そうして私は石として得がたい運命を歩き始めました。私はかっての私がいた橋の袂に置かれ、そこで多くの人々が行きかうのを見守りました。
 その橋では、朝にはまだ陽の昇らぬうちに付近の村から穀物や家畜を連れた農家の人々がやってきて、昼には荷車や人々が忙しげに行きかい、夜には川に隔たれた恋人たちが密かに落ち合ったりしました。
 そうした景色は何年も何十年も変わらずに見られました。馬が鉄道に変わり、歯車が時を告げ、鉄の船が海に浮かぶようになっても、それは変わりませんでした。
 けれどある時、人間たちは大きな争いを始めました。巨大な炎が建物を包み、重い鉄の玉が宙から降ってきました。
 戦争が始まったのです。
 それは恐ろしい光景でした。人がその尊い魂を自らの手で打ち砕き、すべての価値あるものは踏みにじられたのです。彼らは、まるで彼ら自身にも分からぬ熱病にかかったようでした。
 戦争はグルニスの町へもやってきました。国のどこへ行っても、それは免れえないことでした。人々は恐るべき混乱と、戦慄の中へと陥りました。
 銃弾が飛びかい、至るところで悲鳴が聞こえます。武器を手に戦おうとする人々、子供を抱え逃げ惑う母親、一体自分達が何のためにこんな状況の中にいるのか、その事を知る人も、その事について考えることのできる人もいません。
 そして戦争は、あの「天使の橋」と呼ばれた橋へもやって来ました。
 グルニスの町の人々は、これ以上敵を侵入させないために、橋を爆破することにしたのです。橋の根元には爆薬が仕掛けられ、点火された火は天を衝く轟音と共に美しい橋を粉々にしてしまいました。
 私はそのすぐ傍らにいましたが。幸いなことに爆発に巻き込まれることはありませんでした。けれど、もはや私は敵の手の中へと落ちてしまっていたのです。
 戦争はその日から膠着状態へと入りました。
 私は荒れ果てた町を悲しく見つめていました。もう人々が忙しそうに行きかう光景を見ることもなければ、楽しそうに笑いあうのを聞くこともありません。
 そうしたある日、私は敵の兵士の一人によって町の広場へと運ばれました。広場に設けられた壇に上げられた私を、人々が陰気に見つめ、ひそひそと話し合っています。
 一人の人間が私の隣に立ち、何事か大声で話し始めました。
 でも私には彼が何を言っているのか理解できません。もちろん、私は彼の言葉を聞くことはできました。その内容も分かります。
 けれど、彼の言葉は見知らぬ世界の言葉のように私には聞こえました。まるで月の裏側の世界からやって来たかのように、私には思えたのです。
 その人間が下がると、今度は手にハンマーを持った二人の人間が現れました。
 彼らはそれを振り上げ、私を打ったのです。
 ハンマーで一打ちするごとに、巨大な歓声が人々の中から起こりました。その度に私の体は壊れ、粉々になっていきます。
 そしてとうとう、私はばらばらにされ、唯一、頭だけが半分だけ元の形を留めていました。
 私は広場の片隅に捨てられ、誰からも忘れられてしまいました。
 長い時が立ちます。
 ある日、戦争は終わりました。平和が戻ってきたのです。町は再び元の人々の手に帰り、崩れ果てた町並みが修復されていきました。
 広場に転がったままだった私は、人々に見つけられ、そして悲しき戦争の記憶として博物館へと収められました。
 陳列ケースに収められた私は、私が生まれたときと同様の、体の奥底で揺れ動くものを感じました。
 それは、私の死でした。
 私はもはや過去のもの、過去に止まるべきものとして扱われていました。私はどんな些細な変化をも許されなくなってしまったのです。
 私は、私の誕生の時と同様、死の時を悟りました。
 こうして私は、私の脱殻たるべき体を捨て、本物の永遠たるべき魂の世界へと飛び立ったのです。

――Thanks for your reading.

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