[烏呪]

 ぼくが公園のブランコに座ってぼんやりしていると、向こうで夜花(よるはな)がカラスの死体を見つけた。
 季節はちょうど春と夏の中間という感じで、空気は陽気でぽかぽかとしている。放課後の遅い時間だけど太陽はまだまだ明るくて、公園全体を照らしていた。
 黒宮夜花はぼくと同じクラスの女子で、ちょっと変わっている。この前、社会の授業でシベリアにはずっと氷ったままの永久凍土というのがある、と習ったけど、それに似ている。誰も夜花の笑ったところを見たことがない。
 でもぼくはそんな夜花のことが密かに好きで、暇さえあればちらちらと盗み見している。
 彼女は右目が悪いらしくて、いつも白い眼帯をしていた。髪は短くて、じっとしていると人形にしか見えない。というより、本当は人形なんだけど、たまたま動いている、という感じだった。今はシャツにデニムのワンピース姿で、あまり女の子らしい格好とはいえない。
 公園の何もないところに、夜花は屈んでいた。じっとしている彼女は、太陽のちょうど真下にでもいるみたいに見える。
 ぼくはブランコから降りて、彼女のほうへ向かった。
 そうしてぼくが近づいていくと、他の三人も集まってくる。他の三人というのは、同じ公園にいたオオカミ、カワホリ、ヤギくんのことだ。ぼくたちは五人で公園にいた。
 屈みこんだ夜花を囲むような形で、ぼくたちは集合した。夜花とカラスの姿が影に飲みこまれて暗くなる。
 死んだカラスは仰向けになって、羽を広げていた。黒い体からのびるには不自然なくらい黄色い足を、乱雑に投げ出している。大きなガラス球みたいな眼球はすっかり濁っていて、もう何も映していない。カラスの死体はどちらかというと、ただの汚れた黒い塊にしか見えなかった。
「これ、死んでるね」
 と、ヤギくんが口を開いて、わかりきったことを言った。小太りのヤギくんは病気のせいで動きも鈍いけど、頭の回転も同じくらい鈍い。
「ハシボソガラスじゃないかな」
 カワホリは言って、眼鏡の位置を直した。理屈っぽくって、自分の知っていることはしゃべらずにはいられないのだ。
「何でくたばってるんだ、こいつ?」
 オオカミは足で乱雑にカラスの頭を小突いた。ぼくは意味もなくそのカラスに同情してしまう。
「きっと猫か何かにやられたんだ」
 ぼくは穏当な発言をしておいた。
「カラスのくせに間抜けだな」
 と、オオカミはせせら笑う。
「ハシブトと違って、ハシボソは普通、街中にいないから、それでやられたのかも」
 カワホリがまた、眼鏡の位置を直した。
「じゃあその猫は何でこいつを食わなかったんだ?」
「猫は遊びで狩りをする動物だよ」
「きっとおいしくなかったんだ」
 ヤギくんが薄気味悪そうに死体をのぞきながら言った。
「僕だったら、こんなの食べないな」
「心配するな。おめえに捕まるような間抜けなカラスは、世界中探したっていねえからよ」
 けっ、という具合にオオカミは吐き捨てた。
 ぼくたちはカラスの死体なんて見るのは初めてだったけど、無駄にテンションをあげたり、取り乱したりはしなかった。ただ囲んで、もの珍しく眺めていただけ。
 カラスの死体はただのものなのか、生き物なのかよくわからなくて、確かにそういう気持ち悪さはあった。触ったら何だか嫌なものがつきそうだし、近くにいても目に見えないものがうつってきそうに思える。
 でもその感じはぼくらには――少なくともぼくには、馴じみのない感じじゃなくて、それで何だか平気でいられるのだ。
 ぼくは影になった夜花の横顔を、気づかれないようにうかがう。
「このカラス、どうするの?」
 ヤギくんは自分でそう言ったくせに、その自分の言ったことが嫌で仕方ないというふうだった。
「市の清掃局員が片づけるんだよ」
 カワホリが知ったような口をきく。
「その前に野良犬の餌さ」
 オオカミはシニカルに笑った。
「――ねえ」
 その時、不意に夜花が口を開いた。彼女はまるで身動きしなくて、それはまるでぼくらの影がしゃべったみたいだった。
「このカラス、〈生贄〉にしよう」

 ぼくら五人は森の中を歩いていた。
 森といっても、たいしたものじゃない。ぼくらの住んでいるのは田舎の市(まち)で、ちょっと歩けばすぐ田んぼにぶつかる。
 その田んぼの中に、海から取り残された島みたいに森が残っていた。こういうのを鎮守の森と呼ぶんだって聞いたことがある。社があって、その土地の神様を祀っている。
 ぼくらは遊んでいた公園をあとにすると、その森にやってきた。赤い鳥居と、短い参道と、小さなお社があって、まわりは森に囲まれている。
 外から見るとたいしたことはないのに、中に入ってみると森は手品みたいに鬱蒼と感じられた。風が吹くと梢がざわざわ鳴る以外は、ほとんど物音もしない。まるで森に食べられて、閉じこめられてしまったみたいだった。
 夜花はお社の前を通りすぎると、無造作に森の中へと進んでいった。手には黒い塊をつかんでいる。それはもちろん、例の死んだカラスだった。
 ずんずん歩いていってしまう夜花とは違って、ぼくらはお社の前で躊躇した。理由は簡単で、怖かったからだ。
「おい、どうするんだよ」
 いつも威勢のいいオオカミさえ、その言葉には心なしか力がなかった。
「罰とか当たらないかな?」
 ヤギくんがおどおどと、見えないものを探すようにあたりを見まわす。
「大人に見つかれば怒られるかもね」
 みんなと違って怖がっていないことを示すためか、カワホリはそう言った。その目はどう見ても怯えていたけど。
「もう夜花は行っちゃったんだ」
 ぼくも確かに怖くはあったけど、それ以上に夜花を放ってはおけなかった。こうしているあいだにも、夜花は森の奥に向かっていて、その姿を見失ってしまうかもしれない。
「ぼく一人でも行くよ」
 そう言って、ぼくは本当に夜花のあとを追って森の中に足を踏み入れた。
 残る三人も結局は、ぼくのあとに続く。ここで一人だけ逃げるのなんてプライドが許さないだろうし、四人もいれば祟りなんかも怖くない気がしたんだと思う。
 森の中は深閑として、密生した木々の葉が日光を遮っている。地面には去年の落ち葉が堆積して、ひどく歩きにくかった。神域、というのだろうか。そこでは普通の森と違って、空気が重苦しく感じられる。ぼくらは自然と口を閉ざしていた。言葉をしゃべったら、何かに見つかってしまうような気がして。幸い、木立の向こうには夜花の姿が見えて、何とかあとを追うことができた。
「…………」
 かなりの時間がたって、どう考えても森を突き抜けて田んぼに出てもいいくらい歩いたはずなのに、田んぼどころか外の景色さえ見えない。知らないうちに道を曲がっているのだろうか。それともやっぱり、ここには足を踏み入れてはいけなかったのかもしれない――
 そんなことをぼくらが思っていると、夜花は不意に立ちどまった。近くに行くと、そこは少しだけ開けた場所になっていて、上を見あげると井戸の底みたいに青い空があった。陽の光が射して、他よりは少し明るい。
「ここでいいかな……」
 つぶやくように言って、夜花は落ち葉を払い、剥き出しになった地面に死んだカラスを置いた。羽を広げ、首をのばす。ぼくらは無言のまま遠まきにそれを眺めていた。
 枝を拾ってくると、夜花それをカラスの四方を囲むように突き立てる。そうすると急に、カラスは地面に磔にされているように見えた。夜花はそんな作業をしながら口を開いた。
「カラスってね、いろんな神話に登場するんだよ。ギリシャ神話とか、北欧神話。きっと昔から、人間の近くにいる鳥だったからだろうね。神様の肩に乗って、世界中の出来事を囁いたりもしたんだって」
 夜花の作業に淀みはない。今度は棒を使って、何かの図形を描きこんでいる。
「でもね、中国ではカラスのことを太陽の化身だって考えたんだって。それで昔、太陽が九つも余計に現れて大変だったんだけど、ある人がその中に棲むカラスを一羽ずつ射殺していったんだよ」
 気のせいかもしれないけど、夜花の声は楽しそうだった。これから何がはじまるのかは知らないけど、あまりいい予感はしない。
 作業を終えてしまったらしい夜花は立ちあがって、ぼくらのほうを向いた。
「みんな、これから私の言うとおりにしてね」
 嫌だといえるような雰囲気ではなく、ぼくら四人はロボットみたいにうなずいた。
 それを確認して、夜花はポケットからナイフを取り出した。いつも彼女が持ち歩いているものだ。前に一度、持たせてもらったことがある。ずっしりと重量感のある、かなり本格的なものだった。
「――――」
 彼女はナイフの刃を開くと、カラスの首筋を押さえて、その腹を縦一文字に切り裂いた。
 途端に、

 ――ギャアアアア!

 という悲鳴が森中に響き渡る。
 カラスは生きていたのだ。
 強烈な痛みから逃れようとして、それは夜花の手の下で暴れまわる。黒い羽が飛び散り、開腹部から内臓がはみ出す。血が数滴、夜花の顔にかかった。
 数分もたたずに、今度こそカラスの生命は失われた。嘴から血が流れ落ち、時折あった痙攣もなくなる。
「…………」
 夜花はその内臓に手を突っ込むと、何をするわけでもなく外側に引き抜いた。
 その手は異常なくらいの鮮やかさで赤く染まっている。
 彼女はその指で、自分の唇をなぞった。真っ赤なルージュを引いた夜花の姿は、ぼくには何故だか、ひどく淫靡なものに見えた。

 谷崎小学校四年一組で、ぼくら五班の人間は余りものだった。
 クラスで最初の班替えのときに、どこにも混ぜてもらえずに余った五人がいる。その五人で作られたのが、五班だった。
 五人というのは当然、ぼく、夜花、オオカミ、カワホリ、ヤギくんのこと。
 そのせいか、ぼくら五班はどちらかというとクラスの中で浮いていた。目の仇にされる、という言いかたが時々正しくなるくらいに。
 だからというわけではないけれど、ぼくらは学校の中でも外でも、大抵いっしょに固まっていることが多かった。羊の群れが何も言わなくても一塊になるみたいに。
 今日もやっぱりそれは同じで、ぼくらは教室の隅の机に固まっている。
「あれから、何かあった?」
 ヤギくんがおどおどしながら訊いた。まわりのことを気にしているんだろう。
「別段、変わったことはなかったけど」
 例によって、カワホリは眼鏡の位置を直しながら言う。
「ねえな。自販機の当たりさえひっかからなかった」
 オオカミはイスに浅く腰かけて、足を大きく投げ出している。
「ぼくも特に何もなかった」
 ――ぼくらがこんなことを話しているのは、もちろん昨日のことがあるからだった。
 夜花の話によれば、あれは幸運のお呪いなのだという。だから、こうして何かなかったか話しあっているわけだけど、誰も変わったことはないみたいだった。
 話を夜花自身に向けると、彼女も結局は首を振っている。
 まあお呪いなんて、こんなものかもしれないけれど。
 そのうち一日が何事もなく過ぎて、六限目の理科の時間になった。教室にいづらいので、ぼくらはさっさと理科室に移動してしまう。
 すると担任の中上先生が教壇のところにいて、ちょうどいいから準備を手伝ってくれ、と言われた。ぼくらはしぶしぶ準備室から器具を運んだ。重い顕微鏡やら、ガラス板やら。お呪いの効果はあまり認められないようだ。
 その日の実験は、微生物の観察だった。顕微鏡をのぞきこむと、ただの水の中にはたくさんの奇妙な生き物がいた。ゾウリムシ、ミドリムシ、ツリガネムシ、と観察記録をつけていく。
 昨日流れた血をこんなふうに顕微鏡で眺めたら、やっぱりいろんなものが見えるんだろうか、とぼくはふと考えた。
 授業が終わると、ぼくらの班はついでだからといって片づけもさせられた。文句を言う前に先生は行ってしまう。
「お呪いのやりかたが間違ってたんだよ、きっと」
 ヤギくんが盛大にため息をつく。
 ようやく片づけが終わって、ぼくらは教室に戻った。帰りの会がはじまるはずの教室は、けれど何故だかしんと静まりかえっている。
 よく見ると、校庭側の窓が一枚、大きく割れていた。怪我人もいなかったらしく、ガラスの破片もすでに掃除されていたけど、亀裂が入って穴の開いた窓ガラスだけはそのままになっている。
 そうしてクラスの全員が机に座って、中上先生が教卓からそれをにらんでいた。
「いいか、犯人がきちんと名のり出るまでは、先生は絶対にお前たちを帰さないぞ」
 先生はそんなことを言った。
 どうやら、誰かが誤って窓を割ってしまい、そのことで揉めているらしい。
 先生はぼくら五班のことに気づくと、
「お前たちは帰っていいぞ。無関係なことははっきりしてるからな」
 と言った。
 ぼくらは顔を見あわせて、さっそく帰る用意をはじめた。こんな犯人探しにつきあって時間を無駄にしたくない。
 帰り際、先生がこんなことを言うのが聞こえた。
「どうせ言い訳するなら、もっとましな嘘をつけ。カラスがぶつかって窓が割れたなんて、先生は信じないからな」

 学校からの帰り、ぼくら五人は川沿いにある土手上の道を歩いていた。狭い土手道の斜面には草が生い茂り、緑色になっている。川底を今にも途切れそうな細い水が流れていた。
「…………」
 歩きながら、ぼくら五人は誰も口を開こうとしない。ただ黙って、遠くから聞こえる車のエンジン音なんかに耳を済ませていた。
 クラスの他のみんなは、教室でまだ先生の前に座っているはずだ。
「なあ、あれって……」
 オオカミが何か言おうとして、けれどやっぱり口を噤んだ。他のみんなもその先の言葉はわかっているので、やっぱり何も言わない。
「先生はカラスって言ってたよね」
 代わりに、ぼくが口を開いた。
「それはないと思うな」
 カワホリがいつもより自信なさげに言う。
「カラスじゃ窓ガラスは割れないよ。それにあれは内側から割られてた」
「そうなんだ」
 ぼくは気づかなかったけれど。
 でもだとしたら、話はもっと奇怪だ。カラスはどうやって教室の中から窓を割って、どこに行ったんだろう。それとも先生の見立て通り、クラスの誰かがやったんだろうか?
 ぼくらはまた黙って歩き続けた。
 その時ふと気づいたけれど、さっきから聞こえていた車の音が大きくなっている。どうやらこっちに近づいているみたいだ。
 土手下の住宅地のほうに目をやると、一台の車がすごいスピードで走っているのが見えた。制限速度違反もいいところだ。タイヤのスリップ音が悲鳴みたいに聞こえた。
 暴走車は角を曲がって用水路のそばに停まると、車内から何かを投げ捨てる。それが済むと、再び爆音を轟かせて走り出した。子供が飛び出してきたら間違いなく轢き殺してしまうだろうな。
 それから少しして、今度はパトカーのサイレンが聞こえてきた。白と黒のセダンが、さっきの暴走車と同じ道を通って、やはり角を曲がる。パトカーはそのまま暴走車のあとを追って消えてしまった。
 ぼくらはその一部始終を、土手道の上で眺めていた。
「何かな?」とヤギくん。
「スピード違反だろ」面白くもなさそうにオオカミ。
「でも何か捨てて行ったよ」
 ぼくは確かに、運転席から黒い塊が投げ捨てられるのを見ていた。
「行ってみようよ」
 ぼくらは転ばないように土手の斜面を降りて、用水路の近くに行ってみた。
 まだ農閑期で水の流れていない水路の底には、黒い革のバッグのようなものが落っこちていた。さっきの車から投擲されたものに違いない。
「どうする?」と、ヤギくん。
 用水路はコンクリート製で、かなりの幅と深さがあった。おまけに壁や底はぬるぬるした苔や藻が生えて滑りやすそうだ。
「俺が行くよ」
 オオカミがそう言って、ランドセルを下ろした。この中で一番背の高いのがオオカミなので、自然とそういうことになる。
 水路の縁に手をかけて、オオカミはうまい具合に底に飛び降りた。バッグを拾いあげると、オオカミは重さを確かめてから道路の上に放り投げる。どたっ、と音がした。
 壁はちょうどオオカミが手をのばして少し届かない程度なので、ぼく、カワホリ、ヤギくんの順番で列を作って、手をのばした。ぼくとオオカミが手首を掴みあうと、大きなカブと同じ要領で、後ろからズボンをひっぱって引きあげる。たいして汚れることもなく、オオカミは道路に戻ってきた。
 問題の黒いバッグは、少し離れたところに転がっている。
「中に何か入ってるみたいだな」
 アスファルトに靴底をこすりつけながら、オオカミは言った。
 ぼくらはいつかみたいに、バッグを取り囲むように輪を作る。黒い影が重なって、バッグの存在が少し薄くなった。
 それから代表して、ぼくがバッグを開ける役にまわった。黄金色のファスナーに指をかけて、じじじ、と開いていく。
 黒い革バッグの中には、真っ赤な内臓ではなくて、見たこともないくらいたくさんの札束がつまっていた。

 とりあえずその場所から一番近いという理由で、みんなはぼくの家に集まった。
 家には誰もいないらしく、鍵を開けて中に入る。みんなで二階にあるぼくの部屋に向かった。ちなみに、同じ階には姉の部屋もある。
 部屋は片づいているというほどではないけれど、散らかっているわけでもない。玩具や雑誌を机の上に移動させて、床の上にスペースを作った。
 真ん中に黒バッグを置いて、車座になる。
「これ、いくらくらいあるのかな?」
 というカワホリの発言で、まずは合計金額を調べてみることにした。
 バッグをひっくり返して中身を吐き出し、床の上に山積みにする。どれも本物のお札みたいだったけど、大金が目の前にあるんだという実感は薄い。普段、こんなもの見かけないせいかもしれない。
 紙幣はどれも一万円札で、百枚ずつ帯留めされているみたいだった。束の数を数えてみると、全部で十個。つまり、バッグの中には一千万円が入っていたことになる。
「大金だな」
 オオカミが全員の気持ちを一言で代弁した。
「何なのかな、このお金?」
 ヤギくんがもっともな疑問を口にする。
「銀行強盗が奪ってきた金なんじゃねえの」とオオカミ。
「それにしちゃ額が少ないから、暴力団の下っ端が組の資金に手をつけたんじゃないかな?」
 カワホリがややこしい見解を示す。
「でもパトカーに追われてたよ」
 ヤギくんは首を傾げた。
「それは別の件なのかも」
 カワホリはあくまで自説にこだわった。何にせよ、よくわからない話だ。
「……でも、どうして捨てたりしたんだろう?」
 ぼくはとりあえず別の疑問に移った。
「捕まったあとで回収できるようにじゃないかな」とカワホリ。
「あんな住宅地の用水路じゃすぐ見つけられるだろう」
 オオカミは納得できないようだ。
「仲間に回収させるつもりだったとか?」
 ヤギくんがなかなか鋭いことを言った。
「それくらいのことなら、逃げてるあいだに指示できるかもな」
 オオカミが腕を組む。
「それより」
 ぼくはこの場合に一番重要なことを言った。
「このお金、どうするの?」
 途端に、全員が黙りこむ。
「交番に届けたほうがいいと思うけど」
 というヤギくんの至極まっとうな意見は、この場合は受け入れられるはずもなかった。
「俺たちがこの金を拾ったことは誰も知らないんだ」「誰かに知られる可能性もすごく低い」
 オオカミの意見に、カワホリが同調する。
「でも……」
「いいか」
 オオカミはとてもシリアスな顔で言った。
「よくわからないけど、これだけは言える。こんなこと二度と起こりっこない。このチャンスを逃したら次はないんだ。俺はいつまでたってもあの時、あの金を自分たちのものにしてれば、なんて後悔するのはごめんだ。今、この金を交番に届けでもしたら、絶対そうなるに決まってる」
「…………」
 ヤギくんは説得されたのか抵抗する気を失くしたのか、予想通りに口を閉ざした。わかってはいたけど。
「なんなら、多数決で決めようよ」
 カワホリが白々しいことを言う。
 決を採ってみると、お金を自分たちのものにするに賛成が三。オオカミとカワホリとヤギくん。ぼくと夜花だけが手を挙げなかった。予想通りに。
「決まりだな。これで俺たちはイチレンタクショウ≠セ」
 オオカミがにやっと笑う。狡猾そうな、油断のならない笑顔だった。
「多数決だし、とりあえずは協力するけど、これからどうするの? つまり、このお金の隠し場所についてだけど」
 ぼくは気の進まないまま訊いてみた。
「ウサくんの家でいいんじゃないの?」
 と、ヤギくんが遠慮がちに言う。その裏で何を考えているのかはかなり明白だったけれど。
 ぼくは首を振った。「ぼくは、あまり自信ないな。親に見つけられるかもしれないし、その時は言い訳できないよ」
「それだったら、うちもかもな。勝手に部屋の掃除とかされるし」
 カワホリが言って、ヤギくんも同じようなことを口にする。やっぱり、面倒なことは避けたいみたいだった。
「じゃあ、仕方ねえな」
 オオカミは前よりいっそうにやっとした。
「俺の家で預かるよ。オヤジは出稼ぎでずっと家にいないし。母親は部屋の掃除するような気のきいたやつじゃねえよ。帰ってくるのは朝方で、それからずっと寝てるしな。屋根裏にでも隠しとけば、絶対見つかりっこない。それにこのバッグを拾いあげたのは俺だしな」
 自信満々に自分の胸を叩く。
 バッグを見つけたときから、何となくこうなるんじゃないかな、という気はしていたのだ。ぼくはヤギくん同様、無駄に逆らうつもりはなかった。
 ぼくはランドセルから教科書や筆記用具を引っぱり出して、代わりに黒バッグを中につめた。これでオオカミの家に向かえば、怪しまれることはない。学校の帰りに遊びに寄るんだと言えばいいのだから。
 みんなが玄関を出ると、ぼくは元通りに鍵をかけた。そうして五人で、何食わぬ顔をしてオオカミの家に向かう。
 途中、ぼくは一応夜花のほうをうかがってみたけれど、彼女が今度のことをどう考えているのかはさっぱりわからなかった。いつもの永久凍土的な無表情で、何も思ってなんかいないように見える。
 それからふと、誰もカラスのお呪いのことについて一言も触れていないなと、ぼくはそんなことを思った。

 テレビではその後、銀行強盗のことについても、暴力団のごたごたについても、暴走車に轢かれた子供のことについても、何の音沙汰もなかった。パトカーが追いかけていたのだから立派な事件のはずだけど、ニュースにはそれらしいものが取り上げられる気配さえない。
 学校に行くと、ぼくらは教室の隅でこっそり相談しあった。クラスの除け者みたいな位置にいるぼくらには、興味を示してちょっかいをかけてくるような生徒はいない。今はそれが好都合だった。
 教室の割れた窓ガラスは、もう新しいものに入れ替わっている。結局、何かのはずみでひびが入ったんだろうということになっているらしかった。カラスのことについてもよくわからない。
「あのお金、何だったのかな?」
 ヤギくんはその辺に盗聴器でも仕かけられているみたいに声を潜めて言った。
「テレビでは何も言ってないみたいだね」
 まわりに聞こえない程度の声で、カワホリも言う。
「好都合じゃないか」
 オオカミは相変わらず強気だった。
「誰も気にしてないなら、あの金を俺たちのものにしたってかまわないわけだ」
「そんなに簡単にいくかな……」
 ぼくは懐疑的にならざるをえない。
「いくさ」
 オオカミは自信たっぷりに言う。
「隠し場所だってばっちりだ。あのあと、もっといい場所に隠し直したんだ。あれなら誰にも見つかりっこない。安全さ」
 その自信の裏にはどことなく虚勢っぽいものがある気がして、もしかしたらオオカミはあのお金の一部を使ってしまったんじゃないかと、ぼくは想像をめぐらせてみた。
「絶対、大丈夫だ。ほとぼりが冷めたら俺たちで好きに使えばいい」
 オオカミはいつもの強気な笑顔を浮かべる。
 ……本当のことはわからない。
 そのうち先生が来て、ぼくらは話をやめて席に着いた。ぼくはすぐ前に見えるオオカミの背中をぼんやりと見つめていた。

 ――オオカミが行方不明になったのは、それからしばらくしてのことだった。

 数日、教室でオオカミの姿を見ないな、と思っていたら、ある日先生が、「大上は今、所在がわからなくなっているそうだ」と朝の会で伝えた。
「自宅には戻らず、連絡も取れないらしい。親御さんは非常に心配している。誰か大上の行きそうなところで心当たりのある者はいないか?」
 誰も返事をする者はいない。もちろん、ぼくたちも。
 ぼくはぼんやりと、ここ数日のことを考えてみた。姿を見なくなった最初の日から、オオカミは行方不明だったんだろうか。だとしたら、こうやって先生の耳に入ってぼくらに伝えられるまで、どうして数日もかかったのだろう。
 出稼ぎで家にいない父親と、夜に働いているという母親。いつも荒っぽいオオカミの言動。
 けれどその時ぼくが思っていたのは、オオカミには悪いと思うけど、「あのお金はどうなったのかな?」ということだった。絶対に見つかりっこないとオオカミが豪語していた一千万円。でも本人がいなくなっても、それは絶対だと言い切れるだろうか。
「八木、お前は知らんか、大上の居場所?」
 先生はヤギくんのほうを見て、そう訊く。オオカミにとってヤギくんなんてパシリにしかすぎなかったけど、先生の目にはそうは映らなかったらしい。
 ヤギくんはこの上にも迷惑をかけられるなんてごめんだとばかりに、ぶるぶると首を振った。いかにもヤギくんらしい反応だった。
 朝の会が終わると、ぼくらはさっそく寄りあいを開いた。議題は当然、オオカミとお金のこと。
「まず、オオカミは本当に行方不明なのかってことだよ」
 と、カワホリは急きこむように言った。
「どういうこと?」
 ぼくは訊き返す。
「つまりさ、オオカミの行方不明はあのお金がからんでるのかどうかってこと」
「一千万が?」
 こくりと、カワホリはうなずく。
「僕が考えてるのはこういうことだよ。もしかしたら例の犯人が戻ってきて、何かのきっかけでオオカミのことに気づいたのかもしれない」
「まさか」
 ぼくは信じられなかった。
「可能性の話さ」
 カワホリはあくまで真面目だった。
「もしそうだとしたら、オオカミはお金を奪われて、口封じのために殺された。もしくは金の在処を吐かせるためにどこかに連れ去られたのかもしれない」
 サスペンスドラマの見すぎだ、そんなの。
「犯人が戻ってくるのはともかく、オオカミのことに気づくなんてありえないよ。オオカミの家はあの用水路からずっと離れてるんだから」
「世の中何が起こるかなんてわからないさ」カワホリは嘯く。
 ぼくは首を振った。ふと、ヤギくんのほうを見る。
「ヤギくんはどう思う、今の話?」
「それって、もしもオオカミが僕たちのことを話したら」ヤギくんは顔を青くした。「僕たちも殺されるってこと?」
 ぼくらのあいだに、しばし沈黙が流れた。
「……可能性は、あるかな」
 カワホリが冷静を装って眼鏡の位置を直す。
「そんなの嫌だよ、僕。だからあの時言ったんだ、交番に届けようって」
 どうやらヤギくんは、結局は自分も賛成票を入れたことを忘れているらしい。
「オオカミが犯人に殺されたか捕まったかしたっていうのは、可能性としては低いと思う。だからそのことで、ぼくらに危険が及ぶことはないんじゃないかな」
 と、ぼくは言った。
「だったら他に何がある?」
 ぼくはあることを考えていたけど、そのことは言わずに、ただ首を振った。
「今はわからない。ただ、お金のこととは全然関係なく行方不明なのかもしれないし、少しは関係があるのかもしれない。世の中何が起こるかわからないんだから。このままじゃどっちとも言えないよ」
「じゃあ、どうすりゃいいのさ? こんなんじゃ僕、不安で死んじゃうよ」
 人の話を聞いているだけなのに、ヤギくんは泣きそうだった。
 ぼくはしばらく黙ってから、こう言ってみた。
「……それだったら、自分たちで調べてみるしかないんじゃないかな」

 そんなわけで、ぼくら四人はオオカミの家の居間に座っている。
 丸い卓袱台を前に、座布団が三つしかないのでぼくは直接、畳の上。ステンレスの台所やガスの給湯器があって、その向こうは外廊下になっている。アパートの家の中には他に部屋が二つあって、一つはオオカミ、もう一つは母親のものだった。
 卓袱台の向こうには、その母親が座っている。スウェットのシャツ姿で、ぽっちゃりしている。肌が荒っぽく、どうしてだか眉毛がなかった。
「わざわざ来てくれて、ありがとうね」
 と言いながら、おばさんはぼくらの前のコップにサイダーを注いだ。
「みんな登(のぼる)の友達なの?」
 登というのは、もちろんオオカミのことだ。
「そうです。行方不明って聞いたんですけど?」
 ぼくは友達云々のことで細かく突っ込まれてしまう前に、そう尋ねた。
「そうなのよ、あの子ずっと家に帰ってこなくてね」
 おばさんの口調は、言葉のわりにはずっと軽かった。
「まあ、私にも覚えがあるからわからないわけじゃないんだよ。窮屈な家にいるのなんてまっぴらごめんだってね。でも家出にしても少々長すぎるからね。どこかで野垂れ死んでないともかぎらないし」
 おばさんの口調は、やっぱり軽い。
「書き置きとかはないんでしょうか?」
 カワホリが慣れない正座の姿勢を窮屈そうにしながら訊く。
「いいや、それがさっぱりでね。あの子、学校のことは話さないから、てっきり友達の家にでもいるんだと思ってたんだけど……」
 そう言っておばさんは粘っこい視線でぼくらのほうを見るけれど、ぼくらだって何も知らないからここに来たのだ。
「でもねえ、こうやってあの子のことを心配してくれる友達がいるなんて、おばさんは嬉しいよ。あの子のことだから父親に似て――」
 あまり嬉しくない話題に移りそうなところで、嬉しいことにドアを叩く音がした。おばさんは仏頂面を浮かべて、玄関のところへ対応に出る。
 小さく開いたドアの向こうに、白いスーツに赤いシャツを着た、茶色い髪の男が見えた。手には指を鍛えるためだろう、大きくて趣味の悪そうな指輪がはまっていた。
 おばさんはその茶髪男と小声で話している。
「今は子供の友達が……」「それはまた今度……」「でもそれじゃ約束が……」といった言葉が切れぎれに聞こえる。
 やがて何かを断りきれなくなったらしく、おばさんはぼくらのほうを向いて言った。
「悪いんだけど、おばさん少し出かけなくちゃならないの。すぐ戻ってくると思うから、それまでは好きに寛いでてくれるかな?」
 ぼくらがうなずくと、おばさんは笑顔を浮かべて去っていった。玄関のドアが閉まる直前、茶髪男がぎらっとぼくらのほうを睨む。まさかこの人が黒バッグの持ち主だったってことはないよな、とぼくはぼんやり考えてみた。
 二人が階段を降りていく音が聞こえると、ぼくらはさっそく作戦会議をはじめた。
「今のうちにお金の在処を見つけておこう」
 もちろん、そういうことだ。オオカミの所在はともかく、お金の所在ならこれで確かめられる。
 すぐ戻ってくると言ったから、時間はそれほどないかもしれない。まずはヤギくんを見張りにして、おばさんが帰ってきたら知らせるようにした。それから居間をカワホリ、おばさんの部屋を夜花、オオカミの部屋をぼくが調べることにする。
 ぼくはさっそく、オオカミの部屋に入った。陽が当たらないせいで薄暗く、使い古したような影がたまっている。紐をひっぱって照明をつけた。
 布団を敷いたらすぐ端にくっついてしまいそうな、狭い部屋だった。いたるところに傷のついた古い学習机、本棚、玩具箱らしいダンボール、ごみ箱、壁にコルクボード。押入れはなく、部屋の面積は小さい。
 ぼくはまず、学習机から当たった。
 引きだしを全部開けて、中をあらためる。机と壁の隙間も調べる。教科書やノート類のあいだも一通りチェックした。
 引きだしに大きめのカッターと怪しげな雑誌があるほかは、特に変わったところはない。念のために引きだしも外してみるけど、やはり同じ。
 次は本棚。読まれた形跡のない世界名作文学全集が下段にある。重りのつもりだろう。あとは中途半端に巻のそろわないマンガで埋まっている。奥に何かないかと調べてみるけど、何もない。読まれていないせいか、文学全集は妙に軽かった。
 期待のダンボール箱には雑然と物が詰めこまれているだけで、そんなスペースはなかった。正体不明の傷がついたコルクボードをひっくり返してみるけど、おかしなところはない。ごみ箱には紙くずや、プリントか何かを燃やしたらしい灰があるけど、お金の気配はまるでなし。
 ここはやっぱり屋根裏だろうかと思うけど、とても天井には手が届かない。イスに乗っても無理だ。いくらオオカミの背が高くても、これは無理だろう。なら脚立を使った跡がないかと畳の上を探してみるけど、そんなものは見つけられない。はじめから、期待はしていなかったけど。
 壁に塗りこむ、畳の下に隠す、ばらばらにしてどこかに貼り付けてしまう――どれも現実的とはいえない。ここにはお金がないのか、それとも本当に持ち去られてしまったのか。
「戻ってきたよ!」
 その時、ヤギくんの声が聞こえた。ぼくらは慌てて居間に集合する。そうしてサイダーを急いで飲みほしてしまうと、ちょうど今帰ろうとしていたところ、という体で玄関のドアを開けた。
 おばさんがすでに階段をのぼりきったところで、ぼくらは顔をあわせた。
「あら、もう帰るの?」
 と、おばさんはいかにも残念そうな顔をする。
 用事がありますから、とか何とか言って、ぼくらはその場をあとにした。おばさんに怪しがる様子はない。
「そう、またね。あの子のことで何かわかったら教えてちょうだい」
 おばさんは手を振る。ぼくらも手を振る。
 階段を降りきったところで、ぼくはようやく息をついた。心臓が痛い。
「何かわかった?」
 道路に出ながら、ぼくは訊いた。コンクリート塀に囲まれたアパートを振り返ると、おばさんはまだこっちを見て、にこやかに手を振っている。
「何にも」
 カワホリが首を振った。
「古新聞とか、賞味期限の切れたケチャップとか、そんなものしかない」
 夜花のほうを見ると、彼女も簡単に首を振った。もっとも、そんなものを母親の部屋に隠すはずもないから、こっちははじめから望み薄でしかなかったけど。
 ぼくらは当てもなく歩きながら、一千万円の隠し場所についてああだこうだと言いあった。でもそれで何かわかるわけでもなかったし、はたしてオオカミの家に本当に一千万円があるのか、ないのかさえ判然としない。
 あの一千万円はどこに行ったのか。ついでにオオカミもどこに行ったのか。
 ――それからまたしばらくして、今度はカワホリが惨殺死体になって発見された。

 先生は簡単に、「川堀学(まなぶ)くんは警察の調べでは何者かに殺害された可能性が高いそうだ」とだけ言った。
 例によって朝の会のことで、教室ではさすがにざわざわと騒ぎが収まらなかった。
 けどそのことに関しては、学校だけじゃなく、すでにそこら中で噂になっていた。信頼性はともかくとして情報をまとめると、カワホリは家の近くで∞ナイフで刺されて∞何故か両目を潰されていた≠サうだ。犯人の目撃談もあるけど、そっちはまるであてにはならない。
 ぼくらはさっそく、教室でイスを寄せあった。
 かつては五人いた班も、今では三人になって、かなり寂しい。寂しいどころじゃなくて、まわりからは「呪われた班」とか「犬神家の子孫」なんて呼ばれたりもする。犬神家?
「今度は行方不明じゃなくて、殺されたんだよ」
 ヤギくんは口を開くと、さっそくパニくっていた。
「落ち着きなよ」
「きっと犯人に見つかったんだ。僕たちも殺されちゃうんだ」
 顔が青くなっている。
 でもぼくにはやっぱり、その可能性は信じられなかった。確かに、ありえないとはいえない。カワホリが殺されたのは事実だから、オオカミがそのことを教えたのかもしれない、とは考えられることだ。そうなれば、ぼくらの命も危ない、と。
「一千万円の祟り、かもね」
 ぼくはおどけてそう言ってみた。
 そう、幸運をもたらしたカラスのお呪いは、それにふさわしい代償を要求した。怪談にはよくあるパターンだ。
 ぼくが手を幽霊ふうにしておどかしてみると、ヤギくんは露骨に嫌そうな顔をした。
 でも実際には、ぼくはそれよりずっと性質の悪いことを考えていた。
 つまりそれは、こういうことだ。
 オオカミの行方不明は偽装で、一千万円は今もオオカミが所持している。オオカミがどこに潜伏しているのかはわからないけど、何しろ金額が金額だ。そしてオオカミはお金をより確実に自分のものにするために、カワホリ殺害を実行した。
 オオカミの部屋にお金がなかったのはそういうことだと、ぼくは考えている。
 でもこの仮説の結論は、ヤギくんのとたいして違わない。犯人か、オオカミか、どっちかがぼくらを殺しに来るはずだった。
「次は誰なんだろう……」
 ぼくはつい、真剣にそんなことをつぶやいてしまっていた。
「やめてよ!」
 ヤギくんが悲鳴をあげる。
「だから嫌だったんだ、こんなの。僕は一千万円なんて欲しくなかったんだ。殺されちゃうんじゃいっしょだよ。死にたくない、死にたくないよ――」
 今にも泣きだしてしまいそうだ。
 ヤギくんのメンタルの弱さは承知しているので、ぼくは気にしない。
 それより問題なのは、次に夜花が狙われるんじゃないか、ということだった。
 ぼくが狙われるのもかなりまずいけど、やっぱり夜花のほうが心配だ。今のところ犯人(=オオカミ)がどんな順序でぼくらを狙っているのかはわからない。ぼくも夜花も、襲われる可能性は三分の一だ。
 ぼくらはそれを撃退して、あわよくば一千万円を取り返さなくてはいけない。そのためには、どうすればいいのだろう……?
「死にたくない、僕は死にたくない」
 チャイムが鳴って休み時間が終わる直前まで、ヤギくんは怯えたまま頭を抱えていた。

 夜花の家から電話があったのは、同じ日の夜中のこと。
「君に、娘から伝言を頼まれている」
 夜花かと思ったら、それは低い男の声だった。夜花の父親だろう、たぶん。暗い口調でぼそぼそとしゃべる人だった。
「この時間までに家に帰らなかったら、君に伝えて欲しいと言われている。娘は今、カラスの鳴く場所≠ノいるそうだ。そこに来て欲しい、と」
 わかりました、と答えると、電話はぷつんと切れる。まるでCDの自動再生が終わったみたいな感じだった。
 ぼくは受話器を戻すと、少し考えてみる。夜花の言うのが、例の鎮守の森だとはわかる。でもどうして、彼女はぼくをそんな場所に呼び出したりするんだろう。それも自分ではなく、父親を使って。伝言の内容からして、夜花自身は家にはいないようだった。
 彼女に何かあったんだろうか?
「…………」
 何にせよ、行ってみないことには話しにならない。ぼくは懐中電灯を手に持って、家を出た。自転車に乗って森に向かう。
 時計は七時を回っていた。さすがに日はすっかり沈んでいる。街灯が霞のように暗闇を照らして、その親玉みたいな月が夜空に浮かんでいた。車は走っていない、人もいない。とても静かだ。
 森までやって来ると、ぼくは懐中電灯をつけて境内に入った。夜の神社はことのほか不気味だった。でも月明かりで意外と明るく、お社や木の端が白っぽく浮かびあがっている。
 参道の中ほどあたり、そこに誰かがいる。
 懐中電灯を向けると、それはヤギくんだった。
 ヤギくんは手と足を縛られて、口にはガムテープを貼られて地面に転がっている。ぼくのことに気づいたのか、ヤギくんはしきりに体を動かしてもごもご唸った。
「どうしたの、ヤギくん?」
 ぼくは途方にくれてしまった。いったい、ヤギくんは何をやっているんだろう。そういう趣味があったなんて聞いていない。
 でもヤギくんは口を塞がれているので、意味のある言葉はしゃべれなかった。後ろ手に拘束されているので、いも虫みたいに体を動かすことしかできない。
「ヤギくんが犯人だったんだよ」
 と、その時、不意に声が聞こえた。
 明かりを向けると、夜花だった。右眼の眼帯が妙に白々とまぶしい。白い穴でも空いているみたいだった。
「犯人?」
 ぼくはオウム返しに訊いてしまう。
「そう、ヤギくんがオオカミくんを行方不明にして、カワホリくんを惨殺した犯人」
「どうしてヤギくんが?」
 ぼくは驚いた。
「ヤギくんはね、たまたま犯人の相棒と知りあいだったの。それでね、無理矢理、協力させられちゃったんだよ。私たちを一人ずつ殺していく計画を」
 地面の上で、ヤギくんはばたばたと激しく身をよじった。「うー、うー」と唸って、鼻水が垂れる。
 腎臓の病気でいつもむくんだヤギくんの身体は、今や本当にいも虫そっくりだった。顔を真っ赤にして、その目が必死にぼくを見つめている。その目は見覚えのある何かに似ていた。
「だからね、私たちは先にヤギくんを殺さなくちゃいけないんだ。だって、そうしないと私たちのほうが殺されちゃうから。かわいそうだけど仕方ないよね。ウサくんなら、わかるでしょ?」
 ヤギくんの鼻息がいっそう荒くなって、ふごふごと口元が動いた。
「これ、貸してあげる」
 夜花はそう言って、ぼくの手にずっしりと重い何かを握らせる。何だか覚えのある重量感だと思ったら、それは夜花がいつも持ち歩いているナイフだった。
「それでヤギくんを刺して」
 母親が子供に囁くみたいな口調。
 ぼくはナイフの重みを確かめるように右手を見つめる。その時、ガムテープの粘着がゆるんだらしく、ヤギくんの声が聞こえた。
「違うんだ、僕じゃない。僕じゃないよ。僕はただ、彼女が取り引きするって言うからここに来たんだ。君が犯人だからいっしょに協力しようって、そう言われただけなんだ」
「聞いちゃだめだよ、ウサくん」
「僕じゃない、僕じゃないよ。ねえ、信じて」
「あの時、私に何したか覚えてるよね?」
 夜花の甘い声がぼくのすぐ耳元で聞こえた。
「私、いっぱい血が出たよね? 四人とも、私に同じことしたよね。みんな、気持ちよさそうだったよね」
「だって、それは彼女がそうしろって言ったんじゃないか」
 地面から悲鳴が聞こえる。
 夜花はいつかの時と同じような表情を浮かべて言った。
「あの時、一番最初にしたのがウサくんだったよね」

 ――その時、ぼくの右手が動いてヤギくんの胸を刺した。

 懐中電灯が地面に落ちて消える。
 ヤギくんはきょとんとした顔をして、それから自分の胸に刺さった金属に目をやった。ナイフは柄のところまで深々と突きささって、それはまるでヤギくんの体から生えているみたいに見えた。まだ痛みがないせいか、ヤギくんは自分に何が起きたのか理解できていないらしい。
 ぼくはナイフの柄を摑みなおすと、ぐりぐりと動かしながら引き抜く。別に痛くしようとしたわけじゃなくて、肉に挟まれて抜きにくかったせいだ。ぼくはその感触にふと、調理実習で切断した鳥のもも肉のことを思いだしていた。
 傷口から栓が抜けてしまうと、穴からは勢いよく血が噴きだす。まるでバスタブから水が流れていくみたいだった。ヤギくんは、「あ、あ」とつぶやくことしかできずに、自分の体から何が流れだしているのかも正確にはわかっていないみたいだった。
 やがて声も聞こえなくなり、ヤギくんの体はひくひくと痙攣する。それも終わると、ヤギくんはすっかり動かなくなった。
 死んだ。
「ウサくん、私のほうを見て」
 言われて、ぼくは振り向く。
 するとそこには、夜花の顔がびっくりするほど近くにあった。唇が、何かの拍子に触れてしまいそうなくらい。残った左目に、ぼくが映っているのがわかる。夜花の息がかかる。心臓がどきどきして、下腹部が変に熱い。
「ねえ、ウサくん」
「うん」
「ごめんね」
 次の瞬間、ぼくの目に何か熱いものがかかった。思わず、目を押さえる。指のあいだから何かどろりとしたものが零れ落ちた。
「夜花?」
 目を開けようとしてみたけど、目蓋が開かない。
 いや、違う。
 目蓋は開いているのだ。
 暗くて何も見えないのは、単にぼくの目が見えなくなっただけのことだった。
 それでようやく、ぼくは目を押さえる直前のことを思いだす。あの時、視界の端にちらりと横切ったのは、夜花の持つナイフだった。ぼくの目は、そのナイフで潰されてしまったのだろう。
「どうして……?」
 ぼくは見えない夜花を求めて、手をのばした。
 けれどその手は、何も摑めない。
「これはお呪いの続きなんだよ」
 夜花の声が、聞こえる。ぼくがそっちに行こうとすると、(たぶん)ヤギくんの死体にけつまずいて石畳の上に転ぶ。顎を強かに打ちつけて、口の中に血の味が広がった。
「あの時の、カラスのお呪い。本当はあれで終わりじゃなかったの。あのあと、三匹の動物を殺さなくちゃいけなかったんだよ」
「三匹の動物?」
 オオカミ、カワホリ、ヤギ――
「カワホリは動物じゃないよ」
 ぼくは力なく言った。
「知らないの? カワホリってコウモリのことなんだよ、宇佐美くん」
 ……そんなこと、知るわけがない。
「そのためだけに、三人を?」
「もう一つあるよ」
 夜花の声は楽しそうだった。
「あのお呪いはね、幸福を授けてくれるけど、いっしょに不幸も持ってきちゃうんだ。だからね、私の代わりに不幸になってくれる人が必要だったんだよ」
「それも三人の役目だったっていうの?」
 見えないけれど、たぶん夜花はうなずいたんだろう。
「不幸を先どりしておく必要があったの。それに幸福の独り占めも。だからかわいそうだけど、お呪いの続きもふくめて三人には死んでもらおうと思ってたんだ」
「カラスを自分で用意したときから?」
 ぼくは訊いた。
「知ってたんだ」
「君のことをずっと見てたからね」
「うん、そうだね。最初から、ずっと。いや、もっとずっと前からかな」
 ぼくは這いつくばったまま、手探り状態で地面を進んだ。
「ずっと前って?」
「お母さんを殺したときからかな」
 夜花の声はいつもの永久凍土ふうだった。
「私は生まれてくるために、お母さんを殺さなくちゃいけなかったの。ちゃんとわかってたんだよ。そんなことしたらお母さんが死んじゃうって。でもね、私は自分の幸福のためにお母さんを犠牲にしたんだ。代わりに右目を失くして、お父さんもちょっと変になっちゃったけど。だからね、私は幸福にならなくちゃいけないんだ。お母さんを殺したぶんまで」
 そのセリフを聞いていると、ぼくは何だか夜花が人を殺すとそのぶん幸せになれる≠ニ言っているように聞こえた。
「ぼくも殺すの?」
 目を開けてるのに見えないなんて不思議だ。脳内麻薬だかなんだかのせいか、痛みはない。ぼくは手の下の固い石畳を頼りに進む。
「ううん、ウサくんは殺さないよ」
 声を目あてに、ぼくは体の向きを変えた。
「ウサくんはね、これから私の代わりに不幸になっていくの。その代わりに、私は幸福になれるんだよ。ウサくんは私の幸福のためのストックなの。ウサくんなら、やってくれるよね?」
 ぼくが手をのばすと、その手は何かをつかんだ。やわらかくて、少しひんやりとして、驚くほど小さい。夜花の手だ。
 途端に、あの時と同じ全身のしびれるような快感がぼくの下半身からあふれた。ぼくは横溢する多幸感の中で、とろんとした気持ちになっていた。

 ぼくは病室で、オオカミの遺体が発見されたことを聞いた。
 発見場所は、例の神社の森。遺体は、目を切られていたそうだ。同じく境内で発見されたヤギくんの遺体にも、同じ傷痕が認められた。そしてカワホリにも、同じものがある。
 このことから、警察では一連の事件を同一犯による犯行と断定したようだった。小学生が被害者の、小さな町の類を見ない凶悪殺人とあって、世間ではかなりの騒ぎになった。
 そして、ぼく。
 ヤギくんが殺された現場に偶然居あわせたぼくは、同じように犯人の標的にされた。その際、黒宮夜花も同様に狙われる。
 夜花を助けるために勇敢にも殺人犯に立ちむかったぼくは、両目に傷を負うも一命はとりとめる。そしてそのあいだに夜花の叫び声を聞いた通行人が駆けつけて、犯人は逃走に移る。
 ――世間的には、一応そんなことになっているらしい。
 それだけの話を、ぼくは夜花から聞かされた。今、病室にいるのは、ぼくと夜花の二人だけだ。警察の事情聴取に答えたのはほとんどが彼女だったけど、いったいどうやって相手を丸めこんだのか、ぼくには想像もつかなかった。
 ぼくの両目には包帯が巻かれているけど、もちろんそれがなかったところであたりを見ることはできない。ぼくにわかるのは肌に当たるパジャマと、固いシーツの感触だけ。点滴もされているらしいけど、それが本当に点滴なのかどうかもわからない。
 夜花は学校からランドセルを担いで直接やって来た、という話だから、時刻は放課後のはずだ。
「どうかな、調子は?」
 至極明るい口調で、夜花は言った。
「おかげで両目以外は大丈夫だよ」
 ぼくは答える。
 わからないけど、たぶん彼女は笑ったみたいだった。そのかすかな名残を残しながら、夜花は言った。
「私たちの班、とうとう一人になっちゃったね」
 それをやったのは全部君だけどね、とは言わない。
「早くウサくんが戻ってくるといいな」
 言われて、ぼくは意味もなく赤くなってしまった。それをごまかすように訊く。
「ところで、一千万円は見つけたんだね?」
「うん、見つけたよ」
 手術や治療で寝ているあいだ、ぼくが考えていたのはそのことだった。オオカミが隠したという一千万円を、夜花はどうやって見つけだしたのか。
「思えばぼくがあの部屋を調べたとき、気づくべきだったんだ。本棚のおかしな様子と、引きだしにあった大型カッター。それにごみ箱にあった紙くずと黒い燃えかす」
 夜花は黙っているようなので、ぼくは続けた。
「本棚を中途半端に埋めてたマンガと、世界名作文学全集。一千万円は、あの文学全集の中をくりぬいて隠してあったんだ。カッターで切りとって、中身は燃やして捨てた。それを見つけた君は、抜き取った一千万円の代わりに本棚にあったマンガを詰めこんだ。巻がそろってないはずだよ。でもサイズがあわないせいで本は変に軽くなっちゃってたけどね」
「正解だよ」
 夜花の口調には何の屈託もない。
「今は、その一千万円はどこにあるの?」
「大丈夫。今度こそ絶対見つからないところに隠したから」
 彼女がそう言うのだから、ぼくはそれ探してみようという気にもなれなかった。
「でも万が一、本物の犯人がお金を取り戻しに来たらどうするの?」
 例えそうだとしても、夜花なら簡単に処理してしまえそうな気がしたけど。
「私にはウサくんがいるから平気だよ」
 夜花の言葉に、ぼくはやっぱり赤くなってしまう。でも、問題は本物の犯人だけというわけじゃない。
「一応言っておくけど、もうぼくを殺すことはできないよ。ぼくがいなくなったら、今までのことが全部わかるように仕掛けておいたから」
「大丈夫だよ」
 夜花はじつに朗らかだった。
「あの時も言ったけど、ウサくんを殺したりなんてしないから。ウサくんにはちょっとずつ不幸になってもらうんだ。次は、左手がいいかな? それとも、舌とか鼻のほうがいい? 何にせよ、ウサくんを殺したりなんてしないよ。君はゆっくりじっくり、少しずつ壊れていくんだ」
 彼女の声はじつに楽しそうだった。
 それから、夜花の立ちあがる気配がする。
「もう帰るね。早く良くなって、学校にくるんだよ」
 ぼくは彼女がいるとおぼしきほうに向かってうなずいた。
 数分後、ほとんど入れ違いにしてぼくの母親がやって来る。「具合はどう?」と、母親はお決まりのセリフを口にした。
 それから訊いてみると、思ったとおり母親は廊下で夜花とすれ違っていた。
「すごくいい子ね」
 と、母親は上機嫌で彼女のことを誉めた。
「丁寧に挨拶してくれて、早く良くなってくださいって。あれ、もしかして潤一郎(じゅんいちろう)の彼女?」
 いいえ、ぼくの目を潰して、一千万円を奪った連続殺人犯だよ、とぼくは笑顔を浮かべながら思っておく。
 母親は痛いところはないかとか、欲しいものはないかとか、そんなことを訊いた。ないよ、と答えると、ベッドの傍らでリンゴの皮を剝きはじめたみたいだった

 ガァー、ガァー……

 その時、カラスの鳴き声が聞こえた気がして、ぼくは窓のほうに顔を向ける。不審に思ったらしい母親が尋ねてきた。
「どうかしたの?」
「カラスが鳴いてる」
 けれど母親には、その声は聞こえなかったらしい。
「どこにもいないわよ、カラスなんて」
 いいや、いるんだ、とぼくは口の中でだけつぶやいておく。
 ――そう、カラスはすぐそばにいる。
 誰の目に見えなくても、誰の耳に聞こえなくても、確かにすぐそばに。
 太陽よりも強いそいつは、神様にぼくらのことを告げ口しに行く。その気まぐれな報告次第で、ぼくらの運命は決まってしまう。
 でも、ぼくは大丈夫だ。
 ぼくと夜花だけは、少なくとも。
 だってそのカラスは、ぼくに不幸という幸福を保証しているんだから。
 そのカラスがいるかぎり、ぼくらは大丈夫。
 ぼくらはきっと、いつまでも幸福でいられる。

――Thanks for your reading.

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