[革命収容所]

 ――クーデターが起きた。

 俺はその様子を、六畳一間、風呂・トイレなしのアパートで、昼飯のカップヌードルをすすりながら、古ぼけたテレビで眺めていた。
 画面の向こう側では、国会を占拠して演説を行う、革命勢力最高指導者の姿が映しだされていた。時々映像が切り替わって、興奮した面持ちのアナウンサーたちが、騒然とした各地の状況をリポートする。
 革命政権によって周到に準備されたクーデター計画は、ほぼ遅延なく成功を収めたらしい。自衛隊の掌握、国会の制圧、財界の協力、各種団体勢力の賛同。政府は一日で転覆、消滅し、革命政権が誕生した。
 映像はまた指導者の演説へと切り替わった。三十代くらいだろうか、髪をきっちりした七三にわけたその男は、演壇で熱弁をふるっていた。「この日本を根本から修正し――」「未来永劫の安寧のための礎を――」「持てる力の最大限の有効活用を――」。俺はテレビのスイッチを切った。
 カーテンを閉め切って電球もつけていないアパートは、途端に薄暗い平穏に満たされる。革命の荒波は、まだここまでは届いていないらしい。俺はのんびりとカップラーメンをすすった。
 テレビの向こうで世間がどれほど騒然としていても、俺はどこ吹く風で平気だった。革命? クーデター? だからどうした。そんなもので変わるほど、この世界は脆くないのだ。うんざりするほど磐石の、千歳の固い巌で支えられているのだ。
 どうせ何も変わりゃしない――
 俺はそう思っていた。
 ところが、それは幻想だったらしい。
 クーデターによる新政府樹立から一ヶ月ほど過ぎた頃、俺の部屋に黒い服を着た強面のおっさん二人組が訪ねてきた。さすがにサングラスはしていない。
「何か用ですか?」
 俺は玄関先で、宅配人や新聞販売員とは雀と猛禽類ほどに明らかな一線を画したその二人に向かって訊ねてみた。
「野瀬浩平(のぜこうへい)くんだね?」
 年配のほうが、俺の質問なんて最初からなかったみたいに訊いた。物腰は丁寧なのに、目が笑っていない。よほど特殊な眼球の持ち主なんだろう。
「そうですけど」
「我々は革命政府の真理委員会から派遣された執行部の人間だ」
「はぁ」
 審理委員会?
「君には委員会より、召集指示が出ている。ついては、これから我々が収容所まで君を護送する」
「収容所?」
 俺の疑問は、けれどあっさり無視された。
 その二人は俺の肩と腕を押さえると、有無を言わせずアパートから連れ出した。着替えだとか、荷物をまとめるとか、そんな親切な質問はない。召集指示とか護送とか言ってるけど、これは要するに強制連行以外の何ものでもないんじゃなかろうか。
 しかし連中には名前も、住所も、すでに割れてしまっているのだ。おそらく、抵抗するだけ無駄なんだろう。秘めた力を隠し持っている覚えはなかったので、大人しく従う。
 階段を降りたアパートの前には、黒塗りのセダンが停まっていて、俺はその後部座席に一人で座らされた。黒服は無言のまま座席に着くと、そのまま車を発進させる。
 どう考えても質問を受けつけてもらえるような雰囲気ではなかった。どこかからドッキリ成功の看板が現れそうな気配もない。
「…………」
 窓から見えるいつもと変わらない風景を眺めながら、世界って案外脆いんだな、と俺はそんなことを考えていた。

 ――大学卒業後、しばらくのアルバイト生活ののち、以降は特に働きもせず六畳一間のアパートに引きこもっていた。
 家賃と最低限生活していけるだけの金は送ってもらっていたので、それでも何とか生きていくことはできた。人間が本当に必要としているものは、案外少ないらしい。
 七年、それが続いた。
 その間、特にめぼしいことをしていたわけじゃない。夢の永久機関の完成や、世界を転換させるような哲学的発明を目論んでいたわけでも。畳に映る、カーテンの隙間からもれる光の線を見つめていたら一日が過ぎていた、なんてこともある。徹頭徹尾、無価値な、非生産的な、不毛という言葉を具現化したような毎日だった。
 何故、そうなったのか。
 それは俺にもよくわからない。気づいたらそうなっていた、という感じだった。天に唾を吐いた覚えもない。
 しかし、少なくともその七年間、俺の六畳一間不毛世界ライフを乱すものは何一つ存在しなかったし、宇宙の終焉を迎えるまでその状況が変化することはないようにさえ思えた。賽の河原の石が積みあげられ、タルタロスで転がり落ちる岩が頂上までたどりつくことがないかぎりは。
 ところが、意外にも変化はやってきた。
 七年という月日ののち、日本にはクーデターが起こり、こうして一人の無職者が拉致られて、謎の車に乗せられている。
 道はいつのまにか、高速に変わっていた。
「あのー、いいですか?」
 俺は礼儀正しく手を挙げて、発言を求めてみた。
「――――」
 返答はない。目だけじゃなく、耳のほうも相当特殊な構造になっているのだろう。もしくは、ただのしかばねなのかもしれない。
 映画なんかによくある手として、ここで「トイレに行きたいんですけど」と言ってみたらどうなるんだろうか、と俺は考えてみた。たぶん、却下されるだろう。予知能力はないがそれくらいのことはわかるので、俺は黙っていた。
 しばらくすると、車はサービスエリアらしいところに入った。いいかげん、本当にトイレに行きたくなっていたので助かる。
 適当なところに停車すると、比較的若いほうのおっさんがドアを開けて、「出ろ」とうながした。何らかの障害で二文字以上の言葉はしゃべれないのだろう。
 トイレに行ってもいいか、と訊くと、さすがに許可してくれた。ただし、若いほうが見張りについてくる。建物のほうに行って、小便器のずらっと並んだ広いトイレに入ると、似たようなのが何人もいた。連行されているのは俺だけじゃないらしい。
 ハンカチがないのでシャツで手を拭くと、俺はそのままおっさんについて歩いていった。だだっぴろい駐車場には、同じような車が何台もとまって、同じようにおっさんに従う連中がたくさんいる。どうやら、全員が中央付近にとめられたバスに向かっているらしい。
 バスは全部で、十台ほど並んでいた。高校の部活で使われそうなマイクロバスで、無節操なくらいに実用的な外観をしている。少なくとも、豪華観光用には見えない。窓から中をうかがうと、正体不明のそのバスには俺と同じような連中が何人も乗せられていた。
 当然、俺もそのうちの一台に乗ることになる。おっさんのほうを見ると、その目が無言で「乗れ」と語っていた。それ以上の表現を求めると鉄拳が飛んできそうだったので、俺は大人しくバスのステップを上がる。
 バスの中には、すでに数人の姿があった。俺は空いている席を見つけて、窓際に座る。座席は二人がけのシートで、二列になって並んでいた。
 時間がたつにつれて、バスの中の人数は増えていった。俺の隣にも、一人座る。野暮ったい眼鏡をかけた、おどおどした感じの男だった。歳は同じか、少し下くらいだろう。
 席がいっぱいになると、バスは何の説明もなく出発した。誰一人今の状況を理解している者はないはずだったが、口を開こうとするやつはいない。とはいえ、少なくともこれが楽しい修学旅行でないことだけは確かだった。
 バスは高速を走り続けている。
「――あの」
 と、不意に声がした。
 見ると、隣の男が俺に話しかけている。相手が幻覚を見ているか、俺が幻聴を聞いているのでないかぎりは、そのはずだ。
「何?」
「このバスって、どこに向かってるんだろう?」
「収容所って言ってたな」
 確か、年配のほうのあのおっさんはそう言っていたはずだ。
「何なのかな、収容所って?」
「さあな」
 わかるわけがない。
 俺たちは小声で、そのまま会話を続けた。まわりからも所々で、ひそひそ声が聞こえる。特に注意されたわけでもないのに何故、わざわざ小声で話すのかは謎だった。空気を読んだのかもしれない。
「僕、秋岡(あきおか)っていうんだ。下宿にいたら、いきなり連れてこられて」
 そいつはそう言って、不安そうな表情を浮かべた。その様子は、下手な外野手がボールが飛んでこないよう祈るのに似ている。
 秋岡はがりがりの半歩手前程度までやせていて、病的な青白い肌をしていた。神経質そうな落ち着きのない目と、ゆるんだゴムみたいな口元をしている。サバンナにいたら、真っ先にライオンに狙われるタイプの草食動物、というところだ。
「それは大体、俺も同じだな」
 俺はうなずいてみせた。もしかしたら、ここにいる全員がそうなのかもしれないが。
「僕、思うんだけどね」
 と秋岡は勢いこんでしゃべった。
「これはきっと、宇宙人の陰謀だよ」
「…………」
 いやいや、革命政府から派遣されたって言ってたし。
「うん、でもそれはきっと擬装だよ」
「擬装?」
「それが彼らのやり口なんだ。決して表には出てこないんだよ。クーデターだって、彼らが裏で糸を操ってるんだ。今までだって、ずっとそうだったんだよ」
 それから秋岡は、はては邪馬台国から第二次世界大戦までの歴史をひもときながら、彼ら≠フ陰謀についてとうとうと解説してくれた。
 俺はとことんどうでもよさそうに、その話を聞いてやる。秋岡は話の邪魔さえされなければ相手が誰でもかまわないらしく、とめどなく熱弁を振るった。「秘密の組織を使って――」「裏から世界を操る――」「今も全人類が管理されている――」。はいはい。
 どうやら秋岡には、危ない病気のけがあるようだった。もしかしたら、その手の人間が集められたのかもしれない。もしくは、その手の傾向がある人間たち。俺のこれまでの生活を考えると、そんなふうに判断されたとしても文句をつける気にはなれなかった。
 ただ、はっきり言っておかなくてならないのは、俺はいたって正常だということだ。異常すぎるくらいに正常だということだ。そのことは、俺自身がおおいなる確信をもって断言する。
 隣で秋岡の宇宙人陰謀説を聞きながら、俺はぼんやりとそんなことを考えていた。
「つまりさ、フリーメーソンもナチスも大政翼賛会も、結局は傀儡でしかないんだよ。すべての組織はそうなんだ。エホバの会も、ニューエイジも、有象無象の新興宗教も、共産主義も、労働組合も、教育委員会も、そうなんだ。みんなそうなんだよ」
 秋岡の高説が続くあいだにも、バスは滞りなく走り続けていた。反革命勢力や、ロケット砲を持った美少女が助けにくる様子はない。バスは高速を降り、どこかの一般道を走りはじめる。何となく、目的地が近い予感がした。
 ある建物が見えたあたりで、バスはゆっくりと減速しはじめた。どうも、そこが俺たちの向かう先らしい。
「……学校だな」
 と、俺はつぶやいた。
「学校みたいだね」
 秋岡も同意する。
 雰囲気からして、どうやらそれはどこかの小学校らしかった。古きよき少年時代の思い出をくすぐられる、白い鉄筋コンクリート製の校舎が見える。正面には、懐かしのチャイムを告げる時計がはまっていた。針は現在、午後一時三分を指している。
 ただ違うのは、敷地を囲む塀が二倍くらいの高さになっていて、その上に鉄条網が設置されていることだった。ついでに、銃を構えた警備員らしき姿も見える。門柱のところには、「○○収容所」と書かれた金属プレートがはまっていた。
 どうやら、俺たちは小学校に再入学させられるわけじゃないらしい。

 グラウンドでバスから降ろされると、その場で五列になって並ばされる。集まったのは七十人前後。とりあえず、全員が男だった。バスが校庭を出ていくと、移動式の門扉が閉まった。陸上用のハードルなんか目ではなく、全力で走り高跳びでもしないと越えられそうにないくらいの高さがある。
 並んで待っていると、演台の上に人が立った。何というか、旧日本帝国陸軍的な「制服」という感じの格好をしている。そういえば、あちこちに同じような姿の人間が立っていた。そのうちの何人かは、肩からアサルトライフルらしきものを提げている。
 誰もが現状についての説明を求めていたが、それは叶わなかった。演台に立った七福神の布袋様みたいなおっさんが、どうでもいい訓辞を垂れたから、というわけじゃない。
 ただたんに、風が強すぎて何も聞こえなかっただけの話だ。何しろこんな開けた場所で、肉声だけでどうにかしようなんていうのが無茶なのだ。前のほうにいた何人かくらいには、聞こえたかもしれない。
 話が終わると(演台を降りたんだから、そう考えるのが妥当だろう)、係官みたいな人間が現れて、俺たち一人一人に紙袋を配りはじめた。「これがお土産ですか、どうもわざわざご丁寧に」と帰らせてもらえるかというと、そんなわけはない。
 袋の中をのぞいてみると、どうやら衣服らしいものが入れられていた。それと、歯ブラシやタオルといった細々したもの。その服が温泉用の浴衣でないことだけは確かだ。
「それでは、袋に表示された番号に従って集合すること」
 という声が聞こえて、確認すると俺の袋には「0521218」と書かれていた。
 前にいた秋岡に訊くと、それとはだいぶ違う数字だ。集合するのも、どうやら別々の場所らしかった。
「じゃあ、また今度な」
「うん、宇宙人に洗脳されないように気をつけて」
 俺は苦笑いを浮かべて秋岡と別れた。
 グラウンドにはツアーコンダクターよろしく、数字のついた旗を持った係官が並んでいる。俺は「05」の旗に並んだ。人数は、俺も含めて四人。ツアコンは全部で二十人ほどいるようだった。
 ツアコンが全員の数字を確認すると、一列のまま銘々で勝手に移動をはじめる。俺の後ろにいたちょっと柄の悪そうな(ついでに頭も悪そうな)やつが、「……まるでお遊戯だな」とつぶやいた。気持ちはわかる。
 俺たちは校舎に入ると、土足のまま廊下を移動した。久方ぶりに見る小学校は、不思議の国のアリスなみに何もかも小さくなっているように感じられたが、そんなことはどうでもよく、たいした感慨も引き起こさない。
 二階に上がると、ツアコンは部屋の前でとまった。元は教室、だろう。何年何組だったかは知らないが、今は「05」と書かれたプレートがはまっている。
「今日からここが、諸君の家である」
 と、ツアコンは笑えない冗談を言った。
 ――もちろん、誰も笑わなかった。
 扉を開けると、ツアコンが中に入るよううながす。俺たちは大人しく従った。あたりにはすべった笑いのせいではない冷ややかさがあった。
 教室の中には、スチール製の簡易二段ベッドが並んでいる。ほとんど部屋いっぱいにベッドが置かれているせいで、ひどく狭かった。どう見ても、ここで授業をします、という雰囲気ではない。
「所長からのお話で大体のことはわかっていると思うが、君たちにはこれからここで生活をしてもらう」
 いや、風の音しか聞こえませんでしたけど。
「一日のスケジュール、注意事項、概要は紙袋に入った書類を参考にするように。それから、私がこの部屋の室長、藤谷(ふじたに)だ。質問があれば、何でも私に聞くように」
 みんな、ぽかんとしていた。それでも、一人が手を挙げる。ひどい寝癖頭の男だった。
「あの、僕らはここで何をするんですか?」
「それは君たちが知らなくていいことである」
 今、質問があれば何でも聞けって言ったじゃん。
 ツアコンが自分の腕時計に目をやった。そういえば、この部屋には時計がないらしい。
「十六時半には、部屋の収容者が帰ってくる。そのあとは、各班長の指示に従うように。ベッドは番号ごとに割りふられているから、間違いのないようにな」
 それだけ言うと、ツアコンはさっさと部屋を出ていってしまった。
 ――残された四人。
「何なんだよ、ったく」
 柄の悪い、チンピラ風の男が言った。
「おい、誰かわかるやつはいねえのか。何がどうなってるんだかよ」
 求めよ、さらば与えられん。しかし相手による。もちろん、俺たちにわかるはずはなかった。
 ベッドを見ると、横に番号札がかかっていた。「0521218」を探すと、窓際の一段目にある。ほかの三人も、それぞれのベッドを見つけた。ほとんどのベッドは埋まっているらしく、どれも生活感がにじんでいる。
 ふと気づいて窓を見ると、どれも三分の一程度までしか開かないようになっていた。自殺防止、というわけでもないだろう。俺は意味もなく窓を開けたり閉めたりした。
「さっきグラウンドに銃を持ってた人がいたよね」
 と、俺の近くにいた男がつぶやいた。どうも、俺に話しかけているらしい。そうでなければ、見えない友達につぶやいていることになる。俺は秋岡のことを思い出した。
「ああ、ちょっとやりすぎだな」
 俺はのん気に返事をしてみたが、高校か大学生くらいのその男は笑わなかった。
「知ってるから言うんだけど、あれってM4カービンだよ。アメリカ軍なんかで正式に採用されてる」
「へえ」
 ミリタリーオタクなのか、ずいぶん詳しい。
「で、偶然見たんだけどね」と男は何とも言いがたい目で俺のことを見た。「あれ、安全装置が外してあったんだ」

 その日、俺たちは訳もわからないまま夕食を食い、決められたベッドで眠った。就寝時間はおそろしく早くて、俺はなかなか寝つけなかった。教室には四十人くらいの人間がいて、ベッドの軋み、誰かの鼾、シーツの擦れる音なんかが賑やかに聞こえる。ものものしいことに、サーチライトらしい光が時々部屋の中に飛び込んできた。
 朝になると、服を着替え、各自が班長の指示に従って行動する。紙袋に入れられて支給された服は上下のつなぎで、整備士か何かに似ていた。アメリカの受刑者が着るオレンジの服を青くした感じだ。意外と着心地はいい。
 ――それからの一日は、概略を追って話してみることにしよう。このスケジュールが、大体毎日続いていくことになるからだ。
 起床後、着替えをすますと、まずは校庭に集合する。点呼、および朝の体操を行うためだ。目算だが、全部で四百人くらいの人数はいるだろう。それが、収容所の全収容者数だった。
 体操終了後、味噌汁や漬物といった、いたって簡単な朝食。食堂は広くないので、三交代で使われる。当然、だらだらと味わっているような暇はない。味わうほどの朝食でもない。
 食事が終わると、一日の作業が待っている。
 体育館に集められると、俺たちは決められた席に座る。そこには、何とも懐かしい学校の机とイスが床いっぱいに並んでいる。当然、体育館といいつつ運動するようなスペースはない。
 いつも思うのだが、俺はこの光景から初期の電子計算機であるところの例のエニアックを連想した。倉庫いっぱいに作られた、ファミコン以下の処理能力を持った巨大な真空管の塊。俺たちはその真空管の代わりというわけだ。
 この連想は、実際のところそれほど間違ってはいない。俺たちはそこで、計算をさせられる。紙が配られ、そこにはびっしりと計算式がプリントされている。俺たちはその式を解いて、答えを導く。
 式は、ほとんどが基本的な四則演算で作られた、簡単なものだ。中学生だって楽に解けるだろう。ただ、量が多いので、ひたすら時間がかかる。その間私語は厳禁で、体育館にはバベルの塔を齧りたおそうとするネズミのような、かりかりという鉛筆の音だけが響く。はたから見れば、まるで試験を受けているように見えるだろう。
 ただ、見張り役の監守がモノホンの銃を持っていることだけは違っていたが。
 小休憩を一度挟んで、昼食と昼休み。昼休憩はグラウンドで運動したり、仮眠をとったり、人によって行動はまちまちだ。予鈴が鳴ると、再び体育館に集合。
 計算。
 午後も同じく小休憩を一度挟んで、作業は四時半に終了する。ずっと座って鉛筆を動かしているだけに、背中や首筋がどこかのブリキ製の樵のように痛む。この時ばかりは誰もがほっと息をついて、体育館の空気はゆるんだ。
 あとは、夕食と入浴以外は自由時間になる。ここでの時間の過ごしかたは千差万別だ。仲間とつるんでカードゲームをするやつ、食堂でテレビをぼんやり眺めるやつ、一人で静かに本を読むやつ。
 俺は日によって適当なローテーションを組んで行動するが、消灯前の時間になると必ず屋上に上がって一服することにしていた。暗がりの中で、星を眺めながら煙草をふかすのは、わりと気分がいい。この時間、屋上には大抵、誰もいない。
 そして、消灯、就寝。
 次の一日も、それとほとんど見わけがつかないうちに終わる。
 ――班のことについても、少し触れておこう。
 収容者は一つの教室に四十人ほどがいて、それが十人ずつ、四つの班に分けられている。この班が基本的な行動ユニットで、移動や作業時はダンゴムシ的にまとまって動くことになる。
 俺が所属するのは第五室二十一班で、班長は寺原(てらはら)さんという人。
 寺原さんは四十過ぎの落ち着いた物腰の人で、どこぞの研究所でポスドクとして働いていたそうだ。常識人だが行動力があって、頼りになる。
 他班のろくでもない班長を眺めるたびに、俺はつくづくこの人が班長でよかったな、と安堵する。そうでなければ、ここでの生活はもっと窮屈なものになっていただろう。
 ほかの九人の班員については、面倒だから三人だけ紹介することにしよう。
 まずは、須谷(すや)。こいつは俺といっしょに入った例のチンピラ風の男だ。髪を染めて、目つきが悪い。一応は寺原さんに従っているが、明らかに不満そうだった。バイクに乗ると無駄にエンジンを吹かすタイプに思える。
 それから、岸田(きしだ)。時々ぶつぶつ独り言をつぶやくほかは、特に問題はない。動作が鈍く、表情が鈍く、ついでに思考も鈍い。ここに来るまでは、どうやら俺と似たりよったりな状態だったらしい。
 持井(もちい)は二十六歳の壁に破れた、将棋の元奨励会員。三段リーグの最終戦に負けてまだ間がなく、茫然自失という感じだった。特別な能力や特殊な訓練がなくても、負のオーラをまとっているのが物理的に観察可能である。
 基本的に、俺たちに共通点らしきものはなかった。収容者の年齢は、大体二十代から四十代というところ。生育環境、社会履歴に一貫性のようなものは見られない。犯罪者や無職者や精神疾患者が集められたかというと、そういうわけでもない。ちなみに、全員が男だった。
 収容所生活がはじまってしばらくしても、俺はこの施設が一体何の目的で運営されているのかわからなかった。管理生活や監守の存在は、刑務所に似ている。外出も禁止されていた。実質は懲役刑を受けているのと変わらない。
 とはいえ、何のために俺たちみたいのが集められたのか、というのはわからなかった。毎日こなしている算数ドリルが、何の意味を持っているのかも。
 ただ、俺としてはそんなことはどうでもいい。
 正直なところ、俺はここがどこだろうと、何の目的があろうと、気にはしなかった。とりあえずはまともな生活ができて、まずくはない飯が食えていれば文句はない。
 ――どうせ、どこにいたって同じなのだ。

 収容所暮らしも一週間ほどたつと、収容者のあいだでは様々なヒエラルキーが成立していた。人間が集団生活をはじめて以来の、古きよき習慣だ。
 ヒエラルキーは、例えば食事のときの席順に現れる。
 食堂には合計二台のテレビが設置されている。食事は基本的には班単位でまとまってとられるので、テレビ正面の一等席に二つの班、その左右に四つの班が位置を占めることになる。この位置どりは、これまた古きよき習慣によって早い者勝ちだ。
 そのあとの各班十人前後の席順は、班への貢献度によって決定される。まず、班長がテレビ正面の上座に坐(ま)しまし、以下その横からテレビに背を向ける下座まで、班内ランキングに従って席に着く。ランキングの査定はいろいろだが、大体は計算作業を多くこなした順になる。
 このヒエラルキーを金科玉条のごとく徹底させる班もあるが、うちではそれが比較的ゆるい。寺原さんの人柄、というべきだろう。席順はやや流動的になる。
 俺は大抵、中ほどに席をとるが、実際はどこでもいいと思っていた。食事時間は短いので、のんびりテレビを視聴しているような暇はないのだ。中途半端にテレビを見るよりは、できるだけゆっくり飯を食いたい。そもそも、政府専門の固定チャンネルでたいして面白い番組をやっているわけでもない。
 昼食後の休憩は班行動がばらけるので、この食堂ヒエラルキーはその趣きを一変させる。
 どこぞの世紀末的世界ほどではないが、ここでもまた古きよき進化論的習慣によって、弱肉強食の原理が働く。エレガントな言葉を使えば、暴力、ということになる。
 もちろん所内での喧嘩は厳禁だ。まだ発砲された人間はいないが、銃を片手におっさんがやって来れば、誰だって反抗しようとはしない。
 それでも、監視の届かない裏では、頻繁に鉄拳のやりとりが行われる。
 結果として班組織とは別の世紀末的ヒエラルキーが成立し、それは昼休憩時の食堂において露骨に現れる。王様よろしくふんぞり返る男の横に、そのとりまきが息まいている。玉座はいつも、テレビの正面だ。裸の王様なみの、かなり貧相な玉座ではあるが。まあ鰯の頭も信心だ。
 ただし、勢力争いはテレビ周辺の位階にそって行われるので、そこから離れているぶんには食堂にいても問題はない。入口付近に座って、三国志的なやりとりを眺めているとそれなりに興味深い。その席順に従って個人の没落やら隆盛をあれこれ想像できるからだ。
 ある日、俺がそんなふうに人間観察をしていると、隣に寺原さんが座った。班長だけに寺原さんはヒエラルキーの位置はそれなり高いが、昼休みの世紀末的世界にはそれもあまり通用しない。
 この時間に食堂で寺原さんを見かけることは珍しかったので、
「どうかしたんですか?」
 と俺は訊いてみた。テレビ周辺では今、bPとbQがメンチを切って互いを牽制していた。
「いや、ちょっとテレビでも見ようかと思ってな」
 寺原さんはいつものマイペースな様子で言った。
 テレビでは午後のニュースが流れていた。今では革命政権のものになった国会議事堂で、議会討論が行われている。
 ちなみに、国会は長老会と名前を変え、衆参両院は廃止されて賢人院という一院制に変わっていた。総理大臣のことは、今では大賢人と呼ばれている。
 どこのファンタジー世界だよ、とは思うが。
「なんか、アホみたいな名前ですよね」
 俺はテレビを見ながら、ぼんやりと言った。
「まあな」
 寺原さんは同意して、けれど続けて言った。
「でもな、国を変えてしまうなんて、ちょっとすごいと思わないか。革命政権がこれからどうなるのかはわからんが、そのことには何か胸にくるものがあるよ。今の時代の日本で、そんなことをやってしまうなんてな」
 寺原さんの言うことは、俺にもわからないではなかった。あのうんざりするほど完成され、固定化されたシステムを、ここまで完膚なきまで引っくりかえしてしまったのだから。
 それは空から陸に戻ったペンギンや、陸から海に戻ったクジラのことを思い起こさせる。進化のプロセスを逆戻りしてしまうような図抜けた光景だった。
 しばらくすると、予鈴が鳴って俺と寺原さんは立ちあがった。メンチを切っていたbPとbQも、ひなたぼっこ中のオットセイみたいな緩慢さで動きはじめる。体育館に戻って、いつもの課業をこなさなければならない。
 移動途中、俺は顔見知りの監守を見かけて声をかけた。たまたま読んでいた本について話をして、親しくなった男だ。歳は俺と同じくらい。
「がんばれよ」
 と、その監守は手を振って俺を見送ってくれた。監守といっても制服を着て銃を持っている以外は大体こんなもので、偉そうにいばりくさっているわけじゃない。
 俺はあくびを噛みころしながら、体育館に向かった。

 この頃、俺は秋岡と再会してもいた。
 秋岡は相変わらずの電波っぷりを披露したが、生活そのものは何とかうまくいっているようだった。どうやらこいつもいい班長に恵まれたらしい。
 俺と秋岡は課業終わりの午後に屋上で待ちあわせをして、少し話をしたりした。時間的にうまくいくと、きれいな夕陽が見えて、体の中まで茜色に染まってしまいそうな景色を拝めることになる。
 話を聞くと、秋岡は何でも数学科の院生だったらしい。ただし休学中で、大学にはしばらく行っていなかったそうだ。
「何してたんだ、リーマン予想?」
 俺は煙草をすいながら、適当なことを訊ねてみた。
「まさか、僕なんかがやるような問題じゃないよ」
 秋岡はそれだけ言って、言葉を切った。
 煙草をふかしたまま、俺は続きを待った。数学のことなんてよくわからないが、秋岡の答えの残りがふわふわと空中を漂っていることくらいはわかる。
「……数学ってさ、若いうちに成果を残せないとダメだって言われてるんだ」
 やがてぽつりと、秋岡は言った。弱々しい夕陽の光でも壊されてしまいそうな、頼りない口調で。
「そうなのか?」
「うん、歳をとるほど頭の働きが鈍くなるからだってさ」
 時間は人間に優しくない、ということか。
「だから、年齢が高くなると、あいつはもうダメだ、なんて言われたりするんだ。僕のまわりの人間は、大抵見えない壁に怯えてた。その壁は、ゆっくり自分のほうに近づいて来るんだ。そして気づいたら四方を囲まれてて、身動きがとれなくなる」
 ふうん――
 秋岡は夕陽に目を細めた。ガラス細工的に繊細なその横顔は、見ため以上に脆そうだった。
「でもさ、僕はそれでも数学が好きなんだ。数学は人間みたいに壊れたりしない。それは永遠で絶対なんだ。ピタゴラスも、ユークリッドも、ガウスも、ポアンカレも、今でも生きているし、これからもずっと生きつづける。地球が壊れて人間がいなくなったって、数学がなくなることはない」
「…………」
「数学はいつだって美しい。僕は、できることならその一部になりたいんだ。その美しさに、いつでも心が触れられているようになりたい。数学が好きであることを証明したい。それができたら、僕はきっと死ぬまで平和でいられると思うんだ」
 何故だか知らないが、秋岡はそう言って笑った。
 俺は紫煙ごしにそんな秋岡の笑顔を見て、不思議な思いにとらわれていた。
 どうしてこんなやつが、宇宙人陰謀説なんて馬鹿らしい考えを頑なに信じているんだろう。頭の中のどういう働きが、こいつにそんな考えを信じさせているのだろう。人間に備わったどういうシステムが、こんな馬鹿げた結果を作りだしたのだろう。
 ――俺にはよくわからなかった。煙草を消した。それより前に太陽は消えて、あたりは暗くなっている。
 二人で連れだって校舎の中に戻ると、例の監守に出会った。監守は秋岡のほうを見ると、「その人は誰だい?」と訊いてくる。
「友達です」
 俺は答えた。
「なるほど……君はここでの暮らしで、何か不自由はあるかい?」
 訊かれて、秋岡は恐縮したように首を振る。「あ、いいえ、大丈夫です。みんなにはよくしてもらっています」
「そうか、ならよかった。何か困ったことがあったらすぐに言ってくれ。我々もできるだけのことはするから」
 監守は笑顔を浮かべてそう言うと、そのまま行ってしまった。
「……いい人だね」
 と、秋岡がそれを見送りながら言う。
「まあな」
 俺は気軽に同意した。

 そんなふうに、収容所での生活は大概が平和だった。少なくとも、放牧中の羊の群れくらいには。
 それでも、問題が起こることはある。
 収容者には基本課業の計算のほかに、持ちまわりでの雑役も課せられていた。雑役といっても、たいしたものではなく、給食の調理補助とか、清掃、洗濯、備品の整理など。要するに自分たち自身の世話だ。
 雑役の中に、鉛筆削りがある。
 体育館での計算には、鉛筆と消しゴムを使う。当然だが、鉛筆の損耗は勤勉なビーバーの歯のように激しい。一人につき数十本の鉛筆が支給されているが、それでも終業時間にはその全部がすっかり磨耗している。芯が丸くなって短くなった鉛筆は、もう一度尖らせてやらなければならない。
 その日、俺たちがやっていたのはそんな雑役だった。
 一応、具体的に説明すると、俺たち第二十一班の十人は、特別教室の一つで丸いテーブルを囲んでいる。テーブルの真ん中には、奴隷の叛乱でできそこなったピラミッドのような、大量の鉛筆の山。円卓の騎士よろしくテーブルについた俺たちは、ハンドル式の手動鉛筆削り器を使って鉛筆を一本ずつ削っていく。出来あがった鉛筆はまとまった本数ずつ箱の中へ。
 ごりごりと鉛筆削りの音だけが響く中で、黙々と作業は続いていく。俺はぼんやりと、川の中で次々と信者に洗礼を施すヨルダン川のヨハネを連想していた。この想像に、特に意味はない。
 その時、俺の左隣には須谷と岸田が並んでいた。チンピラと、独り言の二人だ。須谷は露骨にこの作業を嫌がって、ほとんどおざなりにしか手を動かさない。いつものことだ。この男がまじめに作業をしているところなんて見たことがない。
 須谷は退屈したのだろう。でなければ、大量の鉛筆削りの音に人を苛立たせる効果があるのか、どちらかだ。須谷は隣の岸田に向かってしきりに雑言を垂れた。
「こんなのまじめにやってよ、馬鹿なんじゃねえの、お前ら?」
 私語は禁止されているので、須谷の声は小さい。時々、鉛筆削りの音で途切れたが、それでも大体のところは聞きとれた。
 岸田は臆病で無口な男だから、反論もしないし注意もしない。須谷はもちろん、そのことを熟知している。
「へいこらへいこら、言うこと聞いてよ」
 ごりごり。
「どうせ本当は、こうやって使われるのを喜んでるんだろ?」
 ごりごり。
「お前ら、その程度の勇気もねえんだよな。長いものには巻かれろってわけだ」
 ごりごり。
「俺は違うね。お前らみたいな馬鹿じゃねえし。こんなくそったれな待遇を嬉しがったりしないね」
 ごり――
 その時、俺の中で何かが弾けた。弾けたものの正体が何なのかはわからなかった。ただそれは、大学を卒業してから七年間、俺がずっと抱えこんでいた何かだった。見ないふりをして、存在しないかのようにふるまってきた何かだった。
 須谷の言葉や態度のどこに、そうさせるものが潜んでいたのかはわからない。ただ、気づいたときには俺は、ぼそりとつぶやいていた。
「うるせえんだよ、チンピラ」
 その声はごく小さなものだったが、予想外の大きさで全員に聞こえたらしい。
 ぴたり、と音がとまった。
「今なんつったよ、おっさん」
 須谷は慣れたふうにドスを利かせた声で、俺のほうを見た。
 その時点でなら、まだどうにでも言葉を濁すことはできた。が、何かが切れていたのだろう。俺は度胸もないし、腕っぷしもろくすっぽだが、腹の底からむかむかしてくる何かが、俺を前に押しだしてしまっていた。
「うるせえっつったんだよ」
「へえ」
 須谷、冷笑。やはりこういうことには慣れているらしい。
「あんたのこと、ただのチキン野郎だと思ってたけど、訂正するわ。お前、チキン野郎のうえに脳タリンだったんだな」
「わがまま言ってるだけで自分のこと偉いと思ってるやつよりはましだろ」
 須谷の笑いが片頬に移る。
「これだから日和見のおっさんは嫌なんだよ。強いやつにはすぐゲーゴーしやがる。ホシンを考えるので精一杯なんだろ」
「この程度のくだらない仕事をさぼるのに口実をつけなきゃいけないお前のほうが、よっぽど憐れだよ」
「どうせあんたなんて、暗い部屋に一人でしこしこやってたんだろ。わかるんだよ。ばれないとでも思ってた? 臭いから近よんなよ、おっさん」
「…………」
「現実じゃダメだから、想像の世界に逃げようとしてたんだろ。それも結局、無駄だったみたいだけどな」
 その時、俺の右拳がやつの顔面にヒット。
 あとから考えると、よく当たったものだと思う。しかし鉄拳どころかパチンコ玉ほども威力のない俺の右ストレートでは、須谷が怯むはずもない。痛いというよりは、ただ驚いたような顔で、俺のことを見る。その驚きが、あまりのダメージのなさのせいでないことを、俺はせつに祈る。
 そのあとどうなったのか、俺はよく覚えていない。俺にわかるのは、左頬と右脇腹がやけに痛むこと。口の中に鉄の味がしてひどく不快だ、ということくらいだ。
 おそらく、とっくみあいになった俺と須谷をみんなが引き離し、かつ騒ぎを聞きつけた監守がおっとり刀で駆けつけてきたのだろう。須谷に俺と同程度の被害があったかどうかは不明。
 そうして気づいたとき、ようやく横臥できる程度の狭いせまい個室に俺は入れられていた。
 いわゆる、懲罰房というやつだ。

 懲罰房は校舎裏の、目立たないところに設置されている。元小学校にこんな施設があったら教育委員会とPTAが黙っているはずはないので、新しく作られたものだろう。そう思いたい。
 房の中は二畳もないくらいの広さで、剥きだしのトイレと手洗いが一つ。手の届かない高さに電球がかけられている。床も壁も、コンクリート製の無愛想な面構え。
 ほかには、何もない。小さな窓一つさえも。
 俺は入ってしばらくは、ぼんやりと座っていた。痛む頬を押さえたり、体をほぐしたりする。別の房には同じように須谷が入れられているはずだったが、何をしているのかはわからない。
 少しすると、俺は腰を上げて、腕立て、腹筋、スクワットをやってみた。退屈で、ほかにすることを思いつかなかったからだ。が、元々筋力トレーニングなんて興味のない俺の体は、すぐに飽きてやめてしまう。あくびが出た。
 完全な無音、完全な空白。
 どうせだから眠ってしまおうと、俺は冷たい床の上で直接横になる。
 そうすると、ここがどこかに似ていることに気づいた。すごく身近などこかだ。
 ――どこだっけ、と考えていたら、何のことはない、ここは俺の部屋に似ているのだ。あの無為で不毛で非生産的な空間。あそこで作られていたのは唯一、孤独な想念くらいのものだった。浪費の名にすらあたらない、膨大な時間の費消。
 俺はじっと、部屋の片隅に目をこらす。
 そこから、暗闇がじわじわと俺のほうに這いよってきた――俺は身動きをしない――暗闇は菌類が繁殖するように、その範囲を広げる――俺は身動きをしない――つる植物がからんでくるように、暗闇が俺の体を捕らえる――俺は身動きをしない――皮膚を裂き、骨に食いこんで暗闇が成長を続ける――俺は身動きをしない――体の中がすっかり掻きだされて、代わりに暗闇が満盈する――俺は身動きをしない――暗闇は俺の代わりに口を開く――俺は――
 いつのまにか、夜になっていたようだ。眠っていたのかもしれない。扉の前にトレイがあって、みすぼらしい食事が置かれていた。食う気になれなかったので、そのまま外に出してしまう。
 もはや退屈にすら退屈していたので、何も感じない。七年間、ずっとやり過ごしてきた時間と同じだった。そこでは、俺はこの世界のどこにもいない。俺自身すら、俺のことを認識しない。
 消灯時間が来たのだろう、房の中の電気が消えた。完全な暗闇が光の一欠片まですべて溶かしてしまう。
 ――何時間、経っただろう。
 不意に、ノックの音が聞こえた。骨を叩くような、虚ろな響きだった。それからかちゃりと音がして、世界に亀裂が入ったみたいに、扉についた細いのぞき窓が開く。
 窓の向こうには、二つの丸い目玉がのぞいていた。文目も定かでない暗闇の中に、その二つの眼球だけがぼんやりと浮かびあがっている。
 眼球は何の発言もせず、ぴくりとも動かなかった。そのくせ、そこには「視る」というその行為だけが残されている。そこに人間はいないくせに、一つの視線だけが存在している。世界に穿たれた隙間から、こちら側がのぞきこまれている。
 その二つの目は、子供の頃に暗闇に潜んでいた怪物に似ていた。存在の薄い膜を裂傷して、白い骨のような手をのばしてくる、そこにはいないはずのもの。それに見つかってしまえば、あっというまに暗い場所に引きずりこまれてしまう。
 ――俺は身動きをしない。
 それに捕まったら最後だということを、俺は知りすぎるほど知っていた。そのための方法は、決して難しいことじゃない。ただ、それが本当はいないふりをすればいいだけなのだ。そこにいることを知っていても、知らないふりをする。それを見ていても、見えないふりをする。
 眼球はやがて、俺を捕まえることに失敗した。やつは諦めたようにゆっくりとのぞき窓を閉じ、世界の穴をふさいだ。俺はなおも警戒して、しばらくのあいだその態勢を崩さずにいた。
 やがて本当にそれが去ったことがわかると、俺は横になって眠った。黒く塗りつぶされて、夢さえ浮かんでこれないような重くて深い眠りだった。
 それから三日して朝になると、房の扉が開いて俺は外に出された。
 離れたところで、同じように外に出される須谷がいて、見るとその髪は雪のように真っ白に変色していた。
 その後、須谷は人が変わったように大人しくなり、まじめになったが、ほどなく病気になって収容所を離れた。療養後に復帰するという話だったが、結局のところ俺は、二度と須谷の姿を見ることはなかった。

 須谷の代わり、ということなのだろう。俺たちの班にはほどなく、新しい人員が補充されることになった。
 東(ひがし)という男で、二十代とまだ若く、小柄だがはきはきしたしゃべりかたをする。体の中の歯車をよく整備しているというか、一つ一つの動きが機敏だった。備考は、眼鏡着用。
 班員が入れ替わっても、やることは変わらない。起床、点呼、朝食、計算、昼食、計算、夕食、就寝、その間のいくつかの休憩。
 相変わらず、計算の意味は不明だった。何故こんなことを収容者にやらせるのかも不明。費用対効果を考えれば、発案者は首を切られてしかるべきだろう。
 そんなことを一度、秋岡と話したことがある。
「数学科にいたんだから、何かわかるんじゃないのか?」
「僕もずっと考えてるんだけど」と秋岡は思慮深げに述べたもうた。「これはきっと、宇宙人からの隠されたメッセージだよ。数字の配列に何か秘密があるんだ」
 以上が、秋岡の論考。
 数学科云々も妄想の一部なんだろうか、と俺はぼんやり考えてみた。
 収容所生活は進化の系統樹におけるシーラカンスのごとく変わりばえしなかったが、俺はふと新人の挙動不審に気づいた。
 東は敏捷、爽やかで、しかもそれが嫌味にならないような男だが、どうやら収容所のあちこちをうろつきまわっているらしい。
 俺は班員以外ではせいぜい秋岡と話すくらいだが、収容者に誰彼となく話しかける東の姿を見たことがある。よほどフレンドリーなのかと思ったが、どうもそんな感じでもなかった。
 班内での東の評価は、よく気がつく男、という程度でしかない。班長の寺原さんと何か真剣に話しているのを見かけたことがあるが、八方美人的で特別に誰かと親しいわけでもない。どうも、行動に二面性みたいなものが感じられた。
 俺がそんなふうに東に対して懐疑的な考えを抱いていると、向こうから話しかけてきた。昼の休憩時間で、ベッドに寝転んでソルジェニーツィンの『イワン・デニーソヴィチの一日』を読んでいるときだった。
「野瀬さん、ちょっといいですか?」
 と、東は慇懃な態度で俺のことをのぞきこむ。
 俺は顔を上げて、如才なさそうなその笑顔に目を向けた。
「何か用か?」
「お話したいことがあるんです」
 俺は肩をすくめて、うなずく。どうせ暇な身の上だ。「いいよ」
「ここでは話しにくいことなんです」
「――――」
 本をベッドに置いて、俺は鷹揚に立ちあがった。
 東についていくと、グラウンドの片隅に案内される。いくつか遊具が置いてあるが、人はいない。運動場では何故か、ペタンクが行われていた。
「何なんだ、話って?」
 訊くと、東は普段見せたこともないような鋭い目つきをした。その眼光は須谷よりよほど迫力がある。それこそ、木刀と真剣くらいの違いがあった。
「まず、これから話すことは他言無用に願えますか」
「無理だと言ったら?」
「この話は、あるいは命に関わるかもしれません」
「…………」
 遠まわしの脅しだった。断わると、その時点でかなり厄介な状況に陥る、という。とはいえ、我ながら特に大切でも重要でもない命ではある。
「いいよ、誰にも言わない。何の話なんだ?」
 俺は気軽に請けおった。東はあくまで真剣に告白する。
「――実は、僕は反革命の闘士なんです」

 東の話によればクーデター後、各地で反革命の地下組織が形成されたらしい。
 革命政府は基本的には軍事政権で、独裁政治。徹底した情報統制と巧みな政治戦略のおかげで今のところ大きな抵抗活動は起きていないが、それで人々の不安や不満が完全に抑えられるわけでもない。比較的順調な国家経営の裏で、何をやっているかもわかったものじゃない。
 雨後の筍のごとく形成された無数の地下組織は離合集散を繰り返し、今では反革命戦線というもっとも大きな勢力ができあがっていた。
 東はその反革命戦線のレジスタンスで、収容所には情報収集のための潜入調査にやって来たのだという。
「何しろ、内部のことはまるでわかりませんからね。ここのセキュリティはかなり厳重なんです。どれくらいの人間が集められて、何をしているのかもわかりません」
「煙草、あるかな?」
「どうぞ」
 東は一本すすめて、火をつけてくれた。
「……どうも。それで、何かわかったのか?」
 一服して、俺は訊いてみた。
「詳しいことは、何も」と、東は正直に首を振った。「何の目的でこの施設が運営されているのか、皆目見当もつきません」
「潜入しているレジスタンスは、君だけ?」
「そうかもしれませんが、僕には知らされていません。捕まったときの用心で、お互いのことは知らないようにされてるんです」
「ふうん」
 俺は煙草を捨てて、足で消した。
「話はわかったけど、俺にどうしろと? 自慢じゃないけど、たぶん何の役にも立たないぜ」
「いざというときには協力して欲しいんです。同じような約束は、何人もの人としています」
 いろんな人間と話していたのは、そのためらしかった。
「協力するのはかまわないけど、俺はここでの生活に特に不満は感じてない」俺は隠さずに言った。「だから、あまり積極的なことはできないと思う」
「そうですか」
 慎重な肉食動物のように、何を考えているのかわからない表情。
「――いえ、それならそれでかまいません。僕たちは無理強いするつもりはありませんから。ただ、秘密だけは守ってもらえますか」
「わかってるよ」
 答えてから、ふと気づいて訊いた。
「でも、何で俺にそんな話を持ちかけるんだ? そういうのなら例えば、寺原さんのほうが適任だと思うけど」
「寺原さんにはもう話してあります。野瀬さんは寺原さんの推薦なんです。決して口外はしないだろう、という」
 あ、そ。
「野瀬さんも誰か口の堅い人がいれば教えてもらえますか? できるだけ多くの仲間を集めておきたいんです」
 そう訊いてくる東に、俺は少し考えてから秋岡のことを紹介した。あいつなら他言はしないだろうし、例え秘密をもらしても信用されない気がする。まあ何にせよ、約束を破るようなやつじゃないことは確かだ。
「六班の秋岡さんですね。今度あたってみます」
 東がうなずいたところで、休憩終了のチャイムが聞こえた。俺も東もペタンクをやっていた連中も、あたふたと体育館に向かう。

 レジスタンスの存在を知ったところで、何か変わるわけでもない。収容所生活は相変わらずだった。
 東は見事な狸を決めこんでいて、八方美人体制を崩していない。抵抗運動のことについてはおくびにも出さなかった。きっと死んだら立派な皮を残すことだろう。
 テレビで見るかぎり、革命政権の存続については当面は何の問題もなさそうだった。各国からの承認をとりつけ、条約の批准を行い、貿易を正常にやりとりしている。むしろ、旧体制より評判がよいくらいだ。ちなみに、革命政府をまっさきに承認したのはアメリカだった。
 革命派の平穏が、東の言う情報統制や政治戦略のおかげなのかどうかは知らない。ただ、映像で見るかぎりや実感としては、日本は概ね平和だった。少なくとも俺にとっては、ここに来るまでと何も変わらない。本当に、何一つとして。
 体育館での計算作業にも変化はない。例えば、こんな問題が出る。

 52+38×121+21=a、321÷3−57×3=b、47+32+56×42=c、45÷5×9−70=d
 a+b−c+d=e、2a−b+c×d=f、a×5b+c−d=g、a+12b−3c×d=h
 e+f×2g−h=i、5e×2f−g+h=j、2e−f×2g+h=k、e−3f×g−5h=l

 以下、同じようなことが何度も繰り返される。完全な作業に過ぎないが、時々頭が痛くなる。自分のやっていることの意味が失われ、自分自身の意味さえなくす。
 この作業に一体何の意味があるのか、俺にはわからなかった。あるいはこの作業の本当の意味は、大量の無意味さを産みだすことにあるのかもしれない。

 ある日の夜、俺は久しぶりに秋岡と会った。東のことについて訊くと、話したという。反革命活動についてはよくわからない、ということだった。
「すごく、しっかりした人だね」
 と、秋岡はやや見当違いの感想を述べた。東はかなりの年下だが、俺や秋岡よりよほどしっかりしているのは確かだ。
 ずいぶん前に夏も終わって、季節は秋の半ばを迎えようとしていた。ただし、正確な日付はわからない。収容所にカレンダーはなかった。時間の経過を感じるのは、せいぜい夜の空気が冷たくなりはじめていることくらいだ。
 あたりはすっかり暗く、星も出ているはずだったが、ひっきりなしに行きかうサーチライトのおかげでよくわからなかった。わざわざ危険を冒してまでここを出ていくやつがいるとは思えないから、無駄な電力の消費だと思うのだが。
「秋の四辺形はどこだ?」
 俺が秋の星座の目印を探していると、秋岡が話しかけてきた。
「ねえ、ここのことをどう思う?」
「どう思うって?」
 明るすぎて、やはりろくに光が見えない。人はいともたやすく星を殺してしまえる。
「何だか、おかしいんじゃないかな」
 俺は秋岡のほうを見た。秋岡はいつになく沈んだ表情をしている。
「東に何か聞いたのか?」
「そういうわけじゃないんだけど」
 秋岡の言葉は不鮮明だった。
「そりゃ、まともじゃないだろうな」俺はとりあえず、正論を吐く。「いきなり人間をかき集めて、塀の中に閉じ込めて、訳のわからない作業をさせてるんだから。基本的人権や倫理や常識はどこ行ったんだって話だよ。でもそんなの、たいした問題じゃないだろ? 正直、今までと何も変わらないと俺は思うね。外の世界でだって、誰も彼も、何もわからないまま、ただ生きてるだけなんだ。習慣とか、希望とか、恐怖とか、そんな訳のわからないものにすがってな。何かをわかっている人間なんて、一人もいやしないんだよ」
「本当にそう思うの?」
「ああ、思うね」
 俺は確言した。
「でもそれじゃ、どこにも正しさがないよ」
「正しいって何だよ?」
 俺は嘲笑した。
「そんなもの、お前は信じてるのか?」
「信じてない?」
「もしも目の前に持って来てくれたら、信じるけどな」
 俺は天使を描かないどこぞの画家のようなことを言った。
「正しさはあるし、正しいことをしてる人だっているよ」
 秋岡はなかなかしつこかった。
「だろうな、俺には知覚不可能なだけで」
「僕、思うんだけど、ここでやってる計算はね――」
「宇宙人の陰謀なんだろ?」
 俺は思わず、声を苛立たせた。
「お前のそのセリフは聞き飽きたよ。何だよ、宇宙人て? 俺たちも宇宙人だろうが。お前の言う宇宙人てやつを、今すぐここに連れてきてみろよ。そうすりゃ信じてやるよ。どうした? できないんだろう? できないくせに、自分のことは正しいと思ってるんだろう。うらやましいよ、自分のことを正しいと思えて」
「…………」
 俺は自分を抑えきれなくなって、言った。
「どいつもこいつも同じだよ。正しいなんてどこにもないのに、自分だけはそれを信じてるつもりでいる。自分だけは正しいつもりでいる。どこにいようが、どうしていようが、それはいっしょだよ。クーデターが起きようが、国がすっかり変わっちまおうが、それは変わらない。賭けてもいいね。奇跡が起ころうと、神が現出しようと、何も変わらないんだ。何も変わったりなんてしない。世界は相変わらず間違い続け、俺だけがバカみたいに同じところでじっとしてる。俺だけがどこにも行けずにいる。俺だけが自分のことを正しいと思えずにいる」
 秋岡は俺の言葉を、ただ黙って聞いていた。
 ――その言葉は俺にとっては、ひどく聞き覚えのあるものだった。
 暗く小さな、あの一人だけの部屋の中で、俺は散々その言葉を自分自身に言いきかせてきたのだ。うんざりして、嫌になるほど、赤い血の流れる傷口を繰り返し抉(えぐ)りながら。
「…………」
 俺は秋岡の顔をまともにみないまま、星空もない屋上をあとにした。
 歩きながら、ふと思っていた。
 俺はあの部屋の中にいたんじゃない。
 ――俺の中に、あの部屋があったんだ。

 その日の夜、俺は自分が社会反逆罪で銃殺される夢を見た。
 銃声の響きで目を覚ますと、びっしょりと寝汗をかいているのがわかった。動悸が激しく、めまいに似た感覚に襲われる。一瞬、自分がどこにいるのかがわからなくなって混乱する。
 汗がひくのを待って、夢の残響が心臓の鼓動から完全に消え去ってしまうと――俺はもう一度、目を閉じて眠った。

 翌朝、いつもと同じように朝の点呼が行われた。起きたばかりだと、さすがに空は薄暗く、空気は冷えびえとしていた。運動場には目の粗い暗闇があちこちに残っている。
 俺はアホらしいと思いつつ、四百六十三人の一人として整列する。あくびをしながら、カウントが終わるのを待った。
 一、二、三、と収容者が番号を叫びあげる。室長がそれをチェックする。
 ところが、収容者の一画で点呼が妙に滞った。連鎖的にカウントが遅れ、収容者のあいだでざわめきが広がっていく。
 その時点でも、俺はのん気に構えていた。無駄に危ない橋を渡ってここから出ていくやつなんていないと、心から信じていたから。
 やがて点呼が終了すると、室長代表から所長への報告が行われる。
「収容者人員四百六十二名、欠員なし、異常ありません」
 あ?
 と、俺は口の中でつぶやいた。四百六十二名? 一人足りない。
 収容者のあいだでは蜘蛛の子が散ったあとみたいなざわめきが、まだそこかしこに残っている。みんな気づいているのだ。何かがあった、と。
 その時、不意に俺の心臓が強く脈打った。
 何故だか俺は、秋岡のことを思い出していた。心臓の鼓動は、昨日の夜に目が醒めたときとよく似ていた。夢の中で銃声が響いた、あの時と。

 ほどなく、四百六十二名についての理由がわかった。
 収容者番号0206063。
 秋岡雅(まさし)と呼ばれていた。
 そいつは昨日の夜、収容所から脱走しようとして、監守の一人に発見された。何しろ白昼ではないにしろ、黒夜堂々ハシゴを持ちだして校門まで走り、そこを乗りこえようとしたのだから。
 見つからないほうがどうかしている。
 無謀そのものといっていい計画に、秋岡が何を考えていたのかはわからない。いざというときには宇宙人が助けてくれるとでも思っていたのか、何らかの数学的ひらめきで成功を確信していたのか。
 いずれにせよ、俺にわかっているのは次のことだけだ。
 用具室からハシゴを持ちだした時点で見回りに露見した秋岡は、その制止を振りきって校門までダッシュ。さして運動神経のよくなさそうな秋岡に追いつくのは難しくなかっただろう。監守は距離をつめると、おもむろに肩から銃を外して、構え、引き鉄をひいた。弾丸は秋岡の頭部に命中。
 ほぼ即死だったそうだ。
 秋岡の頭の中にあったはずの数学的美しさも、他人を辟易させる宇宙人的虚妄も、弾丸を防ぐことはできなかった。それらは重さ四グラム程度の金属の塊によって、見事に撃ち砕かれてしまった。
 死の瞬間、秋岡が何を思っていたかはわからない。ごく平凡に走馬灯でもよぎらせていたのか、数学上の大発見でも閃いて、あんなにも望んでいた永遠の美しさを確信しながら暗闇に落ちていったのか――
 聞いたところによると、秋岡を撃ったのは例の、俺の顔見知りの監守だったそうだ。その監守は明らかに素手で捕縛可能だった秋岡のことを、警告も、威嚇射撃もなしに、銃で狙いをつけて発砲した。
 監守は何の容赦も、躊躇も、戸惑いもなく秋岡を撃ち殺したのだ。
 あいつらにとって、収容所というのはそういうものだった。いくら気安く談笑しようと、親しげにつきあおうと、それは一種のレクリエーションに過ぎない。
 俺たちは野良犬や野良猫といっしょだった。好意を示すこともある、餌を与えることもある、それで一時の心の触れあいを得ることもある。
 けど、それだけだ。それだけで、造反者を撃ち殺すのをためらったりはしない。
 だから秋岡は死んだ。
 ――ただ、それだけの話だ。

 俺はベッドに横になりながら、ぼんやりと考えごとをしていた。
 同室者は全員、夕食をとりに行って部屋には誰もいない。やけに静かだった。四百六十三分の一が失われただけにしては、妙だった。この静寂は、二十一グラムだとかいう人間一人ぶんの魂の重さが、世界から永遠になくなってしまったことに起因しているのだろうか。
 俺は頭の後ろで両手を組みながら、考えてみる。
 何故、秋岡は死んだのか。
 いや、どうしてなのかははっきりしている。秋岡は無謀にもここを出ようとして、それで撃たれて死んだ。規則に違反して、支配者に逆らって、それで死んだ。――持ちだしたハシゴは、天国に昇るのに少しは役に立っただろうか?
 にしても、秋岡は何のためにここを出ようとしたのだろう。
「…………」
 しかしそれは、俺にはどうでもいいことだった。地球の裏側で人が無残に殺された。「へえ」と俺は思う。けど、それでおしまいだ。それ以上の同情や悔悟のしようは、俺にはない。そんなものは偽善だ。秋岡が死んだ。「へえ」と俺は思う。
 俺はそのままの姿勢で寝返りを打った。
 とても静かだ。人間が一人、世界からいなくなったとは思えないくらいの穏やかさだった。
 不意に、ベッドの軋みが聞こえた。見ると、隣のベッドに東が座っている。
「夕食は食べないんですか?」
 と、東は訊いてきた。
「世の中には、働かざるもの食うべからずっていう格言があるそうだ」
 東は俺の言葉に軽く笑っただけだった。
「秋岡さんのこと、残念でしたね」
「――ああ」
「ちょっと変わった人でしたね」
「少しな」
「でも、いい人でした」
 俺は肩をすくめてみせた。
「秋岡さんから、聞いてますか?」
「何を?」
「収容所から脱走しようとした理由についてです」
 いや、と言いながら俺は体を起こしてベッドの上であぐらをかいた。
「そうですか」と東は視線を落として、「これは僕が秋岡さんから聞いたことなんですが――」
 そこまで言ってから、東は何故かためらうように言いよどんだ。
「何だ?」
「この収容所の目的について、秋岡さんはわかったって言ったんです」
 言われて、俺は昨日のことを思い出す。
 あの時、秋岡は確かにそんなことを言っていた。「僕、思うんだけど、ここでやってる計算はね――」
「秋岡のやつ、何て言ってたんだ?」
「それが、僕にもうまく信じられないんですが」
 東は奥歯にものの挟まったような言いかたをした。
「……秋岡さんが言うには、ここでやっている計算は子供の選別のために行われているそうです。つまり、優生思想です。いろんな検査結果や試験結果を勘案して式を作り、それをここで計算する。その計算による数値で、生まれた子供の生き死にを決めるそうです」
「バカな」
 信じられるわけがない。
「僕にも正確なところはわかりかねます。ただ、秋岡さんはずっと式の意味を考えていて、ある時その結論にたどり着いたらしいんです。収容者による計算間違いも含めて、この式は成り立っているそうです。僕にその証明も見せてくれました。あいにく数学は苦手で、何もわかりませんでしたけど」
「…………」
「それに確報ではないんですが、秋岡さんの推論を強化する情報もあります。彼の証明について報告したところ、それを支持する人間が何人もいました。諜報員の中には、大規模な絶滅施設が稼動していると報告するものもいます。つまり、ホロコーストです」
 俺には訳がわからなかった。
 子供の選別?
 計画的な大量虐殺?
 俺たちが毎日やらされていたあの計算が、そのためのもの? 何だ、それ。訳がわからない。わかるわけがない。一体何のために、そんなことをするんだ。一体何のために、そんなことを考えつくんだ。
 ただ作業的に解いてきたあの計算によって、何人もの子供が殺されていたのだと想像すると、俺は急に自分の手が血で汚れていくような気がした。その血の滴りが、ぬめりをもって、生温かく体にまとわりついていく。
「秋岡さんの言っていたことが本当かどうかはわかりません」
 と、東はいつもの様子に戻って言った。
「何しろ、秋岡さんはその……ちょっとユニークなところがありましたからね。あの計算が本当は何に使われていたのか、今のところ確証はありません。それから、もう一つ」
「何だ、これ?」
 俺は東から一冊の本を手渡された。
「秋岡さんのベッドにあった、遺品の一つです。野瀬さんに渡して欲しいとメモがありました」
 表紙の上半分に塗られたウルトラマリンがやけにまぶしい、ソフトカバーの本だった。
「それと、野瀬さんに伝えておかなくてはならないことがあります」
「まだ何かあるのか?」
「実は、今夜の遅くに我々は決起するつもりなんです。外部から反革命戦線による襲撃が予定されています。その計画に、野瀬さんも参加して欲しいんです」
「戦闘に協力しろ、と?」
「平たく言えば、そういうことです。場合によっては、銃を手に取ってもらうことになるかもしれません」
「…………」
「参加の意志があれば、所定時間までに指定した場所に集まってください。強制はしません。あくまでそれは、野瀬さんの意志です」
 東はそれだけのことを言うと、どこかに去っていった。
 あとに残されたのは呆然とする俺と、一冊の本だけ。俺は意味もなく、ぱらぱらと本のページをめくった。

 就寝時間になっても、俺は横になったままぼんやりと目を開いていた。
 電気はとっくに消されて、あたりは暗い。人の気配が曖昧な物音になって漂っていた。サーチライトの光が窓から射しこんで、一瞬だけ怪物のように暗闇の一部を飲みこんでいく。
 どうやら寺原さんは決起に参加するつもりらしく、だいぶ前から姿が見えなかった。あまり数は多くないが、ほかにもいくつかのベッドが空になっている。
 俺は暗がりで手をのばして、秋岡の形見になった本に触れてみた。
 それは俺もよく知っている、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』だった。
 秋岡が一体何のつもりでこの本を俺によこしたのかはわからない。ほかに知りあいがいなかったからか、それとも俺に何かを伝えたかったからか。
 ――ライ麦畑の主人公は、世の中のことをどれもインチキだとくさして、そのくせ自分では何もしない、ある意味では口先だけの高校生だ。彼は学校を退学になって、家に戻るまでのあいだも、実にいろいろなことにケチをつける。その間、読み手の反論は棚上げされ、主人公の意見だけが一方的に展開される。場合によっては、慢性的なむかつきに襲われるかもしれない。
 それでも、この本は胸のよくわからないところにすっと入りこんでしまう。
 主人公は小学生の妹に、「兄さんのなりたいものを言って」と詰めよられて、困ってしまう。そりゃそうだ、何にもなりたくないんだから。しばらくして、主人公はこう答える。僕はライ麦畑のつかまえ役になりたい――
 あるところに広いライ麦畑があって、そこで子供たちが遊んでいる。近くには断崖絶壁があるが、子供たちはそのことに気づかない。そして走りまわるうちにそこから落ちてしまいそうになる。その時、ぱっと飛びだして子供たちをつかまえる。そういうものに、僕はなりたいんだ。そういう仕事だけを僕はしていたいんだ、と。
 俺は暗闇の中で、文字さえ見えないその本を、そっと顔の前に掲げてみる。
 ライ麦畑のつかまえ役、秋岡はそれになりたかったんだろうか? だからここから、出て行こうとしたんだろうか。例え殺されるとわかっていたとしても。
 毎日の無意味な計算。
 選別される子供たち。
 決起予定時間が、ゆっくりと迫っていた。
 サーチライトの一瞬の光の中に、俺はライ麦畑を想像する。そんなもの見たこともないし、見当もつかないけれど、とにかくライ麦畑だ。そこではたくさんの子供たちが遊んでいる。近くには危ない崖。やがて子供のうちの一人が、そこから落ちそうになる。
 そのことを知っているのは、俺だけだ。
 俺だけが、その子供を救うことができる。
 慣れない仕事に戸惑いながら、俺は不器用にその手をのばそうとしていた――

――Thanks for your reading.

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