[鏡の向こう側の彼女たち]

「――何故、人を殺してはいけないのですか?」
 ある哲学者は若者からそう訊かれて、激昂してこう答えたそうだ。「そのような質問をする人間と、私は口もききたくない」
 その哲学者の答えが適切なものだったかどうかは、よくわからない。質問に対する答えになっていなかったとも言えるし、それはそれで正しかったと言えるかもしれない。そのような質問はされるべきではなかったのだ、と。
 とはいえ自分だったらどう答えたか、ということになると別問題である。もしもそんな質問をされたら、オレはどう答えただろうか?
「それがルールだから」
「自分も殺されたくはないから」
「リスクが高すぎるから」
「命は再生不可能だから」
 どれももっともな気はするし、いまいちピンとこない気もする。
 じゃあ、質問を変えてみることにしよう。
 もしも自分の大切な人が殺されたり、大切なものが壊されたとき、あなたならどうするだろう。
 警察や司直の手に委ねる?
 もちろん、それが一番まっとうな手段だろう。司法機関というのはそのためにあるのだし、税金だってそのために払われている。そもそも、近代社会というのは私闘を全面的に禁止しているのだ。
 けれど――
 もしも、そういう機関が何もしてくれないとしたら? そういうものに何も頼れないし、任せられないとしたら? あるいは、その処罰に納得がいかなかったとしたら?
 あなたなら、どうするだろうか。
 自分の大切なものや、かけがえのないものを奪った人間に対して。
 オレは……しかし、オレにはそんな時にどうしていいのかなんて、わからないのだ。
 あんなことがあった今でもやはり、それは変わっていない。

 その日、時刻は月が出たばかりの宵の口。
 あたりは薄紫色の闇に覆われて、空の端のほうだけが残光で明るい。初夏で、昼は大学構内のベンチで昼寝ができるくらいだが、陽が落ちると冷えびえとしてくる。太陽がなければ、地球なんてこんなものだ。
 講義はどれも終わって、学生は帰宅するか、部活に行くか、仲間内で騒ぐか、そんなところだった。入学式から一ヶ月ほどだが、新歓コンパみたいなものはまだ開かれていた。大体はどこかに飯を食いに行くか、構内のボックス街で酒を飲むか、そのどちらか。今も、どこかで飲み会をやっているらしく、外は賑やかだった。
 オレはボックスの中で本を読んでいた。うちのサークルでは、とりあえず飲み会の予定はない。ボックスにいるのはオレ一人だった。誰かが来る予定もない。テーブルの上には、さっき自販機で買った飲み物が置いてあった。
 六畳ほどの広さのボックスは、雑然としている。広さの1/4くらいの三和戸があって、あとは床高三十センチほどの畳敷きになっていた。窓をのぞいて壁はすべて本棚が並べられて、本やマンガが満員電車みたいに寿司詰めにされている。少なくともオレが本だとしたら、そんなふうに扱われたくはないだろう。
 畳の上にも本が山積みにされて、人間の作ったものは所詮いつかは崩れるのさ、と無言のまま嘯いていた。そんなピサの斜塔は、エントロピー増大の法則にしたがっていくつも打ち建てられている。部屋の中にはほかにも、テレビやらゲーム機、オーディオ、正体不明の私物が置かれていた。
 オレは山積みの本から取り出した一冊を、ぼんやりと読みふけっていた。三和戸のところにあるパイプイスに座って、カバンは畳の上に放りだしてある。特に長居をするつもりはないので畳の上にはあがらなかった。
 外からは相変わらず、賑やかな声が聞こえた。時折、奇声や嬌声があがる。飲み会なのだ。
 そうしてオレが一人で静かにページをくっていると、不意にボックスの扉が開いた。見ると、知った顔が一人、そこに立っていた。酔っている。
「明かりがついているから誰かと思ったら、やっぱり府奥(ふおう)さんじゃないですかぁ」そいつは少し赤くなった顔で、にへらにへら笑いながら言った。
 しゃべり方からはわからないと思うが、一応、女だ。散藤阜冬(ちりふじなふゆ)という。
「どうしたんですか、こんなところに一人で」酔った人間特有の遠慮のなさで――といっても、こいつは普段からこんなふうだが――阜冬は言った。
「ちょっと休憩してるだけだ。お前こそ、映研の飲み会だろ。何でこんなところにいる?」
「だって、つまんないんですもん」言いながら、阜冬は断りもせずにもう一つのパイプイスに座った。「何か場が和んでないというか、ぎすぎすしてる感じで。わたし、みんなとまだあんまり親しくないですし」
「外の様子を聞くかぎりは、そうでもなさそうだけどな」
「あんなの、お酒と見かけだけですよ」けたけたと笑って、阜冬は言う。わざわざ韻を踏んでいるところを見ると、見た目ほど酔っているわけではないのかもしれない。
 散藤阜冬はオレと同じ一回生だが、オレに対しては何故か丁寧語を使う。一浪しているせいでオレのほうが一つ歳が上だから、というのが本人の言だが、たぶんただの嫌がらせだ。
 うさぎの耳がたれたようなボブカットで、髪は収穫前の小麦みたいなライトブラウンに染められている。目はくりっとして、猫に似ていた。チェックのスカートにカーディガンという女の子らしい格好をしていたが、目の光がやや鋭いせいか、どことなく油断ならない感じがした。
 オレのまわりの人間は大抵、彼女のことを「可愛い」と形容するが、オレ個人としてはそんな意見には肩をすくめるしかなかった。こいつはそんなタマじゃない、というのがオレのひそかな見解である。
「で、いったいここに何のようなんだ?」オレはまだ本を手に持ったまま訊いた。
「ひどいじゃないですか、わたしだって同じサークルのメンバーですよ」阜冬はフグのように頬をふくらませた。
「今は映画研究会の飲み会中だろう」
「うちでも何かやらないんですか?」オレの発言を頭から無視して、阜冬は言った。
 オレと阜冬が所属しているのは、読書サークルというクラブだった。名前のとおりの、曖昧模糊とした団体だ。それでもボックスを一つ割りあてられているのは、発起人の活躍によるところらしい。八面六臂、人外魔境の所業だったらしいが、その辺のことはまだ詳しく知らない。
 ついでに言うと、阜冬のやつは読書サークル以外に、今言った映研、ソフトテニス部、ジャズ同好会、古遺物クラブ、アーチェリー、その他十ほどの団体に所属している。きっと体がいくつもあるのだろう。オレは一つで十分だった。
「うちでも来週、脇谷の誕生会みたいのをやるよ」オレは言った。
「へえ、わたしもそれ参加します。ところで、脇谷って誰でしたっけ?」
「いい加減サークルメンバーの名前くらい覚えろよ」
「だってまだ一ヶ月くらいじゃないですか。そんなすぐには覚えられませんよ」
「お前の場合は覚えようとしてないだけだろう」
 オレは無力感のあまり、ため息をついた。そりゃ、あれだけいろんなところに顔を出してりゃ、人の名前を覚える暇なんてないだろうよ。
「脇谷はあれだよ、ちょっと細くて環境学部にいる」
「ああ、あのオタクっぽい人ですね」
 ひどい言い方だ。
「あの人、誕生日なんですね。あんな人でもちゃんと誕生日があるんですね」
 ――いたたまれないセリフだ。オレは話題を変えた。
「ところでお前、本当に戻らなくていいのか?」
「大丈夫ですよ。一人くらいいなくなったって気づきゃしませんから」
 その時、外から声が聞こえた。「あれ、散藤さんはどこに行ったんだ?」「さあ、さっきふらっとどこかに行ったみたいですけど」
「……おい」
「いいんですよ、別に。それより、府奥さんも飲みませんか?」
 阜冬は持っていた缶チューハイをオレのほうに突き出した。プルトップは開いているので、さっきまで飲んでいたのだろう。
「……いいよ」
「何ですか、もう。遠慮なんかしなくていいですよ。もしかして、間接キスとか考えてるんですか?」
「そういうのは自分から言うな」
「やましい心があるから、気になるんですよ。ほら、紙コップに注ぎましたよ。これで気にしなくていいでしょう」
 阜冬はテーブルの上の、さっきまでオレが飲んでいた飲み物の中にチューハイを注ぎたした。
「さあ、飲んでください」
 オレは仕方なく本を置いて、紙コップの中身を飲みほす。やんごとない事情で結婚したカップルみたいな、少なくともロマンチックとは言いがたい味がした。ホットココアと梅サワーなんか混ぜて、うまくなるわけがない。
「ところで府奥さん、これ知ってますか?」
「知らん」
 オレは超能力者ではないので、阜冬の言う「これ」が何なのかはわからなかった。
「あのね、さっき映研でやってたんですけどね、これをやると超能力が身につくらしいんですよ」
 それこそ、オレが今必要としているものだ。
「何とかって映画――題名は忘れちゃいましたけど、その映画の中でこれをやってたそうです。主人公はこれをやって超能力を身につけて、ばったばったと悪人をやっつけるわけです」
「映画の話か」
「最後は悪人に殺されるんですけどね」
「ひどい映画だ」
「ともかく、その映画通りにやってみようってわけです。超能力が身につくかもしれません」
「……なわけないだろ」
「やってみなくちゃわかりませんよ。拳銃をスナップしながら発射して弾道を曲げるっていう映画、実際に試した人たちもいるんですから」阜冬は畳の上にあがってごそごそと準備しながら言った。「まあ、それは失敗しましたけどね」
 準備はすぐに終わった。阜冬は小さな鏡台とメトロノームをオレの前のテーブルに置いた。何故、メトロノームがあったのかはわからない。どこかで拾ってきたのだろう。どこからかはわからないが。
「いいですか? まずは鏡をのぞきこんでください」阜冬は言った。
 逆らうのも面倒なので、オレは言われたとおりに鏡をのぞきこんだ。
 当たり前だが、そこにはオレが映っている。お世辞にも気がきいているとはいえない顔に、ボタンダウンシャツを重ね着しただけのぱっとしない服装。自分でもそれほど造形が悪いとは思わないが、かといって放っておいても異性が近よってくる、というほど魅力的でもない。顔の真ん中には黒いフレームの眼鏡がかかっている。
「悲観することないですよ。世の人の多くが、男は顔じゃないって言ってますから」
「……それは心強いな」
 その前に、人の心を読まないで欲しい。
「さて、と」阜冬は言った。「それじゃあじっと鏡の中の、自分の目を見つめてくださいね。……ところで、どうして鏡って左右が逆転するんですかね?」
「あれは左右じゃなくて、前後が逆転するんだよ」オレは教えてやった。
「前後がってどういうことですか? だって、入れ替わるのは左右ですよ」
「その話はいいから、早いとこやってくれないかな?」
「はいはい。でもあんまりせっかちだと、女の子に嫌われますよ」
「どういう意味だ?」
 阜冬はオレの質問には答えずにメトロノームを動かした。正確に六十テンポを刻みながら、メトロノームはカチカチと音を立てる。メトロノームというのは元々は耳の聞こえないベートーヴェンのために作られたんだっけ、という豆知識を何の脈絡もなく思い出した。
「いいですか、鏡の中の目だけを見つめてくださいね。それから、メトロノームの音にだけ集中してください。で、まずは森をイメージしてください」
 森をイメージした。酸性雨やキクイムシにやられていない、ごく普通の森だ。
「次に、動物が現れます」
 リスだ。森といえば、これしかいない。
「その動物は宝物を持っています」
 胡桃。
「宝物はある場所に隠されています」
 地面の下だな。リスは埋めた木の実のことを忘れて、それで種が芽吹いたりもするらしい。
「あなたはその宝物を探しあてます。探しあてましたか? ……これで終わりです。さあ、何か未知の力を感じたりはしませんか?」
「もしも感じるとしたら」オレは言った。「そいつはきっと超能力者だな」
「映画では、これでライオンのハートを授かるんですけどね」
 まあリスの胡桃じゃ無理だろう。
「そうだ」阜冬はぽんと手を叩いた。「今度は府奥さんがやってくれませんか。府奥さんが私の能力を引き出すんです」
 本当にこいつといると退屈しないな、と思う。
「いいですか? さあさあ、さっきわたしがやったのと同じようにやってくださいね」
 鏡を自分のほうに向けると、阜冬は勝手に話を進めた。どうやら、断られる気は毛頭もないらしい。
 まあ、いいけどな。
「……じゃあ、まずは鏡の中の自分をしっかり見つめて」オレは言った。
「はい」阜冬は真剣な顔で鏡を見つめる。
「See more glass.」
「え?」
「気にするな」
 どうせなので、オレは少しアレンジすることにした。
「鏡の中のあなたは、ある秘密を抱えています」
 阜冬はじっと鏡を見つめたまま、オレのアレンジについて文句は言わなかった。オレは続けた。
「どんな秘密か想像しましたか? 鏡の中のあなたは、その秘密を伝えたがっています。けれど言葉をしゃべれないので、彼女はそれを伝えられません」
「…………」
「でも、目が何か言いたがっています。じっと彼女の目を見つめてください。さあ、何か見えてきませんか? 深海の光のような、森の奥の幻影のような」
「あっ――」いきなり、阜冬は短く叫んだ。
「どうかしたのか?」
 オレは少し驚いた。メトロノームだけが、正確に一秒を刻み続けていた。
 パイプイスから勢いよく立ち上がって、阜冬は言った。ぼんやりした、どこか遠くを見るような声だった。「府奥さん、わたし帰ります」
「うん?」
「すみません、お先に失礼します」
 言うなり、阜冬は扉を開けてボックスから出て行った。よほど慌てていたのか、扉を閉めようともしない。空っぽの暗闇だけがその向こう側に残されていた。
 オレは残ったチューハイを空になった紙コップに入れて飲んでしまうと、本を元の場所に戻してカバンを肩にかけた。電気を消してボックスの扉を閉めると、やや終了モードで静かになった映画研究会に向かう。
 酒を飲んでる連中から同学科の知りあいを探し出すと、オレはそいつに阜冬が一人で帰ったことを告げた。だから見つからなくても心配はするな、と。軽い文句のようなものを言われたが、気にしないことにする。
 それだけのことをすませてしまうと、オレは駐輪場から自分の原付を運び出した。酔いが抜けるまでは、押して歩くしかない。空にはきれいな満月がかかっていて、大学裏の塀を白く照らしていた。
 オレはうろ覚えの曲を口笛で吹きながら、夜の道を一人で帰宅した。

 次の日、講義の間の時間をボックスで潰していると、阜冬がやって来た。
 ボックスにはオレのほかに三人の学生がいて、オレはそのうちの一人と一週間ほど前に市内で起きた事件のことについて話していた。残る二人はマンガと小説を読んでいる。
 オレも含めて三人ともが、勢いよく扉を開けて入ってきた阜冬のほうを振り向いた。それから唖然とするように阜冬のことを見つめる。まるでついさっき殺人現場を見たばかりの家政婦みたいな、ただならない表情を阜冬はしていた。
「府奥さん」彼女は真剣そのものといった声で言った。誰かが死んだとしても、これほど緊迫した声は出せまい、という響きだった。「ちょっとつきあってくれますか?」
 半自動的に、オレはうなずいていた。オレと話していた黒木も、それが当然みたいに引きとめもしない。オレは荷物を持って彼女とボックスを出た。そのあいだ、ぽかんと口を開いたまま誰一人身動きもしない。
 ボックスを出ると、彼女はすたすたと歩きはじめた。どこに行くとも言わない。オレは仕方なく黙ってそのあとに続いた。
 阜冬はさっきの表情のままなのか、時折キャンパスを歩く学生が立ちどまって振り返ったりしている。何事かと思ったのだろう。気持ちはわかる。その想像にオレが含まれていないことを祈るばかりだ。オレはできるだけ知りあいに会わないよう願った。どんな噂を立てられるかわかったものじゃない。
 合同講義棟の地下にある食堂までやってくると、彼女は人のいない隅のほうに席をとった。昼もだいぶ過ぎているので、食堂にはほとんど人の姿はない。人ごみを嫌って遅い昼食をとっているか、時間つぶしにしゃべっている学生の姿があるくらいだった。
 阜冬は席に座ってからも、真剣な表情を崩さなかった。オレはさっぱり見当もつかないまま、向かいの席に座った。とりあえず昼食をとりに来たのでないことだけは確からしい。
 正体のよくわからない、重苦しい沈黙が続いた。オレは煙草を吸う人間ではないので、こういう時のうまい間のつなぎかたを思いつかなかった。
「実はあのあと、大変だったんです」阜冬はいきなり、下手な誤解を招きかねまじい言い方をした。
「あのあとって?」オレはごく穏当に訊ね返した。
「ほら、昨日二人でやったじゃないですか。ボックスでこっそりと、鏡まで使って」
「そんなマニアックそうなプレイはしていない」オレはこの場に知りあいがいないことを感謝した。
 阜冬は机を叩いて言った。「冗談じゃないですよ。あのあと、本当に大変だったんですから。わたし、家に帰ってからウ○コがとまらなかったんですよ」
「ほう」オレは辛うじてそう唸った。それ以外にどう言っていいのかわからない。
「もう本当に、体中のウ○コというウ○コが溢れ出したかと思いましたよ。トイレで下腹に力を入れながら、途中で何度も水を流さなくちゃならなかったんですよ。そんなの初めての経験でしたよ。でも、仕方ないですよね。だってそうしないと詰まっちゃいますもん、ウ○コが。ウ○コがトイレに詰まっちゃうなんて、乙女としてあるまじき行為だと思いませんか?」
「その前に、年頃の女の子がウ○コ、ウ○コ言うなよ。というか年頃でなくても言うなよ。女の子でなくても言うなよ」
「だって、ウ○コはウ○コじゃないですか」彼女は力強く言い切った。かなり大きな声だったが、まわりの耳には入らなかったようで、目立った反応はない。あるいは、聞こえなかったふりをしているのかもしれないが。
「すごかったんですよ、もう本当に。わたしの体の中に、どこにあんなにも大量のウ○コが詰まってたのか、不思議なくらいです。もう一生分のウ○コを済ませちゃった気分でした。あ、今朝は普通だったんですけどね」
「それはよかった」ほかにどう答えていいのかわからなかった。
「府奥さんはどうですか? あのあと、何か変わったことはありませんでしたか?」
「いや、特にない。……ないと思う」
「つまり、大量の排便には悩まされていない、と」
「……まあそうだな」
「ということは」彼女は再び胡乱な顔つきをした。「これは府奥さんのせいってことですね」
「俺の?」どうしてそうなる。
「だって、あれをやったのは府奥さんですよ。でもわたしがやったのは何の効き目もなかったじゃないですか。ということは、やっぱり府奥さんのせいですよ」
 どんな理屈だ、それは。「でも最初にやろうって言ったのは、そっちのほうだろう?」
「わたしは超能力を引き出そうと言ったんであって、何も快便できるように頼んだわけじゃありません」
「いっしょに超能力も引き出されたんじゃないのか?」
「んなもん、あるわけないでしょ」
 今さらながら、現実的に否定されてしまった。
 それからも彼女は微に入り細に渡ってオレのことをなじったが、いい加減に気がすんだのだろう。オレは何故か今度の昼食を彼女に奢ることになって、無事に解放された。
「ところで、府奥さんの次の講義って何ですか?」
「文学、一般教養の」
「じゃあいっしょですね」
 その口ぶりから察するに、何故かオレが彼女と一緒に行くことは決定しているようだったが、断る理由は思いつけなかった。しかし少なくとも、これ以上ウ○コ、ウ○コと連呼するのはやめて欲しい。
 合同講義棟をそのまま上にのぼると、目当ての教室にたどり着く。教室前にはすでにかなりの人数が集まって、前の講義が終わるのを待っていた。
 オレが何気なく視線を巡らすと、ロビーの隅にいかにもカップルといった感じの二人組が立っていた。人目もはばからずに腕や体をからませあっているのは、逆に感心してしまった。近くに鏡があるせいで、いちゃいちゃぶりが何割か強調されている。
 それっきりオレは二人に対する興味をなくしてしまったが、隣では阜冬が妙にそちらのほうをうかがっていた。黙っていればお嬢さんな彼女だが、それだけに関心があるのかもしれない。
 と思っていたら、彼女はいきなりその二人のほうに向かってつかつかと歩きはじめた。止める暇もない。
 二人の前に立った阜冬は、何を思ったのかいきなり男のほうに向かって言い放った。「――二股はよくないと思いますよ」
 ざわっとした空気があたりを覆って、カップル二人は凍りついたように動きをとめた。しかし阜冬の発言を非難する前に、女のほうが「やっぱり」という顔をして、男の弁解も待たずに甲高い音を立てて平手打ちを食らわせた。
 野次馬はその瞬間にわっと盛り上がって、二人の言い争いがはじまった。おかげで注目は阜冬のほうには集まらず、彼女はすんなりとこちらに戻ってきた。
 オレはわけがわからないまま訊いた。「何をしたんだ、お前?」
「その――」彼女はいくぶん青ざめた表情で言った。「秘密が見えたんです、あの鏡の中に」
 それが冗談なのかどうかは、残念ながら超能力者でないオレにはわからなかった。

 彼女が本当に人の秘密を見破れるようになったのかどうかは、実際のところは判然としない。何故なら、引きだした秘密について、本人に確認するわけにはいかないからだ。そんなことをすれば、いろいろと面倒なことになる。それに、確認したところで本当かどうかはわからない。
 とすると、全部が彼女の妄想という可能性も捨てきれないわけだった。
「そんなわけないじゃないですか。府奥さんも見たでしょ、あのカップルのこと」授業が終わったあとのざわついた講義室で、阜冬は言った。
「ただの偶然ということだってある」オレはごくまっとうな意見を口にした。
「でもわたしには見えたんです。あの人が隠している秘密が」
「鏡の中に?」
「です」
 オレにはあまり信じられなかった。それが正しく伝わったのだろう。阜冬は憤慨して抗議した。
「本当に、見えるものは見えるんですって。うまく言えないですけど、鏡の中の目が隠し事を映してるんです。わたしにはそれがわかるんです」
「ふうん」
「……府奥さん、信じてないですね」
 阜冬はじとっとした目でオレのことをにらんだ。見事な眼力だった。
「そんなことはない」オレは言う。
「嘘ですね」
「それも超能力≠ゥ?」
「これくらいは普通にわかりますよ。――だとしたら、仕方ないですね」阜冬はごほんと咳をして言った。「こうなったら、みんなの秘密をかたっぱしから暴いていくしかないですね」
「何故、そうなるんだ?」
 けれどオレのまっとうで穏当な意見は、路傍の石のごとく無視されてしまったらしい。阜冬はすでに、これからの段取りを考えているようだった。
 オレは無駄とは知りつつも、一応は言ってみた。
「お前、何だか楽しそうだな」
「楽しくなんてないですよ」

 しかし、それは嘘だった。
 彼女は知りあいのだれかれとなく秘密を訊きまくった。オレはそのことを知っている。何故なら、彼女といっしょにオレもその場に居あわせたから。
 一般市民への無差別絨毯爆撃よろしく、彼女は探りあてた秘密を嬉々としてオレに語った。いわく、ある男は臭いフェチで、脱ぎたての靴下の臭いをかがずにはいられないそうだった。またいわく、ある女性は寝るときもトイレに行くときも、家では常に全裸で過ごしているということだった。そのほか、「これは名誉のために口が裂けてもいえません」というものがいくつか。
 そのすべてがはたして真実なのか、阜冬の妄想に過ぎないのかはわからなかったが、オレは彼女の所業に慄然としたものを覚えずにはいられなかった。人の隠し事を無理やり暴きたてるなんて、悪魔的行為以外の何ものでもない。
「そんなことないですって」彼女は天使のような笑顔で言った。「わたし、誰にも話すつもりはないし、それでどうにかしようって気は少しもありませんから」
「俺に話してるじゃないか」
「ということは」阜冬は言った。「もしも秘密が広まったら、それは府奥さんのせいってことですね」
 いやいや、何でそうなる。
 オレと阜冬はボックスに戻って休憩中だった。ほかに人はいない。外には声や足音がして学生が行きかっていたが、オレたちの話し声が聞こえるとは思えなかった。
「にしても、この能力何かに利用できませんかね」阜冬は自販機で買ってきた炭酸ジュースを飲みながら言った。
「そりゃ、利用はできるだろう」できないはずはない。
「ですよね。うーん、こういうのはどうです。教授の弱みを握って単位を脅しとるっていうのは?」
 まさに悪魔的だった。
「いや、テストの内容を聞き出すとかでいいんじゃないか」オレは言った。
「なるほど、そのほうがリスクが少ないですからね。さすが府奥さん、考えることが悪いですねー」
 お前には言われたくない。
 しかしそれをやるにしても(彼女の言うことが真実だとしてだが)、いくつか問題があった。
 まず、阜冬のこの秘密開錠能力≠ヘ鏡がないと効果を発揮しない。鏡でなくても何か姿を映すものがあればいいが、そこに相手の目が映っていなければならない。彼女によれば、秘密はいつも目に浮かんでくるそうだ。
 それからこれも何度か実験してわかったことだが、相手が警戒していてはうまく能力が発動しない。阜冬の能力はこちらの質問に対して相手が隠していることを見破るものだが、相手がその質問に警戒して心を閉ざしてしまうと、阜冬にわかるのははい≠ゥいいえ≠ュらいになる。さらに心を閉ざされると、何もわからなくなる。
 つまり、教授にテスト内容を聞き出すにしても、まずは相手の目が鏡に映る場所をセッティングしなければならないし、さらに相手の警戒心が起こらない程度の範囲で質問をしなければならない。失敗すればいちいち具体的に訊いて真偽を判断するわけだが、いくらなんでもそれは怪しすぎるだろう。
「しかし、何で急にこんなことができるようになったんだ?」オレは根本的な問題部分に立ち返ってみた。
「やっぱりあれじゃないですか? 昨日の暗示と、それからウ○コですよ」
「しつけえよ。だったらどうして俺には何もないんだ?」
「うーん、ポテンシャルの違いじゃないですか?」
 オレにはそれがなくてお前にはあるのかよ、と突っこもうとしたところで、とんとん、と扉をノックする音が聞こえた。「入ってもいいかな?」という声がする。
 阜冬といったん顔を見あわせてから、「どうぞ」とオレは何気なく答えた。返事をしないわけにはいかないし、それに声は聞き覚えのあるものだった。
 軋む扉を開いて現れたのは、予想通りの人だった。オレは軽く頭を下げて挨拶する。同学科の先輩だった。
「話の途中みたいだったけど、邪魔して悪かったかな?」彼女は言った。
「いえ、たいしたことじゃないんで」答えてから、オレは気になって訊いた。「どの辺から聞いてました?」
「ポテンシャル云々、のあたりだね」
 ウ○コのあたりじゃなくてよかった。
「桜葉(おうば)先輩、いったい何しに来たんですか?」阜冬が横から質問した。何故か知らないが、こいつは桜葉先輩に対しては刺々しい態度をとる。
「いや、借りていた本を返そうと思ってね」桜葉先輩はそう言って、持ってきた五冊ほどの本を棚に戻していった。オレにはわからないが、それは正確に元の位置へと戻されているはずだった。
 彼女のフルネームは、桜葉美良(みよし)という。
 かむろというか、鋭角的なシルエットのおかっぱ頭をしている。昭和モダンというか、レトロな感じで、顔立ちもどこか古風できりっとしていた。たたずまいにも自然な気品がある。これ以上は白くならないだろうというくらい清潔そうなブラウスに、すらっとした細身のジーンズをはいている。
 桜葉先輩は読書サークルのメンバーではなかったが、頻繁に出入りしていた。主に置いてある本を借りていくためだが、時々飲み会に参加したりもする。歳はオレと同じだが、三回生。高校二年のときに飛び級したためだった。
「何を借りたんです?」オレは先輩(同い年ではあるが)に訊ねてみた。
「カーソン・マッカラーズとほかいろいろね。この文庫版は絶版になっていて、うちの図書館にも置いてないものだよ」
 確かに、読書サークルの本棚は混沌として底知れないものがあった。この前山積みの本を漁っていたら、明治時代の稀覯本が出てきたこともある。
「先輩って、普段はどんなものを読むんですか?」急に阜冬が猫なで声になって訊ねた。おかしいと思ってみたら、この女、さりげなく先輩のほうに鏡を向けている。
「普段といっても、私は文学部ではないからね。主に専門書を読むことが多いかな」先輩は警戒することなく答えた。
「もしかしたら、人に知られるとまずい本とか読んでないですよね?」阜冬はにこにこして、あくまでもただの世間話的に訊いた。やはり、怖い女だった。
「人に知られてまずい本か……」最後の一冊を棚に戻してから、桜葉先輩は考え込んだ。「危険な薬品や調合についての本も、人に知られるとまずいといえば言えるかもしれないね。しかし科学のためには、それくらいは仕方ないともいえるだろう」
 オレが阜冬のほうを見るかぎり、彼女は桜葉先輩の何らかの秘密を看破できたようには見えなかった。例え超能力相手でも、簡単に自分の胸のうちを覚らせるような人ではないのだ。
「そういえば先輩、この前の実験中に事故があったって聞きましたけど」不貞腐れた顔の阜冬を無視して、オレは話題を変えた。
「ああ――」先輩は苦笑するような顔で言う。「少し、というかかなりの量の薬剤をだめにしてしまってね。後始末がなかなか大変だったんだよ」
「意外ですね」
「どんなに優秀だろうと人は失敗するときは失敗するものさ。かの偉大な発明王を見習って、失敗ではなく一つの実験を行った、と考えたいところだけどね」
 それからオレと桜葉先輩は学科に関する少し専門的な話をした。阜冬は相当退屈していたらしく、その話が一段落したところを狙って無理に割りこんできた。
「前に噂で聞いたんですけど、この辺は幽霊が出るらしいですね」
「米多(よねた)神社のことかな?」先輩は言った。
 大学の近く、すぐ裏手といっていいような場所にある神社のことだ。
「わたしの友達が前に見たって言ってました」
「府奥君はどう思う?」先輩は何故かいたずらっぽく笑って、オレのほうを見た。
 オレと桜葉先輩は同じ地元出身で、米多神社の幽霊話は中学時代からの有名な話だった。笑ったのは、そういうニュアンスだろう。
「俺は幽霊とか信じない人間ですからね、何かの見間違いだとは思いますよ」
「なるほど」先輩はうなずく。
「でも俺は米多神社の噂は、誰かが作ったんじゃないかな、と思ってるんですよ」オレは特にどうということもなくつけ加えた。「ほら、あそこって子供の頃は何の噂もなかったんですよね。幽霊話を聞くようになったのは、数年前からってところじゃないかな。だから俺、当時からそんなふうに思っていて」
「慧眼だね」先輩は風に揺れる花みたいな、軽い笑顔を作った。
 それから、「実験の途中だから、そろそろ戻らないといけない」と言って、先輩はボックスをあとにした。
 オレは軽く手を振ってそれを見送ってから、阜冬がさっきから一言も口をきいていないことに気がついた。見ると、阜冬はいわく名状しがたい顔で、呆然としている。その周囲には、地の底から湧きあがってきたような、深い沈黙が漂っていた。
「どうかしたのか?」俺は少し驚いて、そう訊ねた。
 阜冬はちょっと困った顔でオレのことを見て、さらに困った顔をした。
「きっと、府奥さんは信じませんよ」
「何をだよ?」オレはわけがわからずに訊き返した。
「だからきっと信じませんて」
「だから、何をだよ?」
「あのですね」阜冬はためらうように一度、言葉を切ってから続けた。「桜葉先輩はどうやら、人を殺したみたいなんです」

 確かに、オレは信じなかった。信じられるわけがない。
 細かい話を阜冬から聞いてみると、それはどうやらこういうことらしかった。あの時、偶然鏡の中の桜葉先輩を見ると、その目に秘密が浮かび上がっていた。それはばらばらになった男の死体を、地面に埋めているところだった。
「本当に見たのか?」
「見ましたよ、しっかりと。わたしだってうまく信じられませんけど」
 オレは考え込んだ。
 問題がいくつかある。まず、阜冬の見たものが本当なのかどうか。彼女の超能力は本物なのか。本物だとしても何らかの見間違いや勘違いということはないのか。それは本当に先輩だったのか。別人ということはないのか。あるいは、先輩の象徴的な心象風景に過ぎないとしたら。
 わからなかった。形のない疑問だけがぐるぐると頭の中をまわった。あの桜葉先輩が殺人? そうでなくとも、死体損壊、および死体遺棄の疑い? 火星が緑地化されるのと同じ程度に、それはありえない話だった。例え黙示録の天使がラッパを吹き鳴らしたとしても。
 鏡の向こう側に映った、真実――
 確かめる方法は、一つしかなかった。
「…………」
 そんなわけで、オレと阜冬は夜の一時に米多神社の境内を散策している。より正確に言うなら、人影がないかを確認している。
 阜冬が桜葉先輩の秘密を見てから、二日がたっていた。一日は、夜の神社に誰もいないことを確認するために使った。普遍的にいって、どんな物事でも手間を一つ増やすと成功率がぐんとあがる。オレは夜の神域で罰当たりな行動をとっていた怪しい人物、なんて評判はつけられたくなかった。神様よりは、やはり人間のほうが怖い。
 オレはスコップと懐中電灯を手に、境内をぐるっとまわった。米多神社は長い石段の上にあって、周囲は深閑とした森に囲まれている。明かりは一つもなく、濃い闇がそこかしこにたまっていた。心なしか、暗闇が静かに呼吸している感じがした。
 境内には社務所のような建物もあるが、人はいないらしい。多少大きな物音を出しても、誰かに気づかれることはないだろう。
「ところで、府奥さん」玉砂利の上をざくざくと音を立てて歩きながら、阜冬は言った。「どうしてわたしも一緒なんですか?」
「お前がいないと、遺体が埋まってる正確な位置がわからないだろう」
「それくらいメモで教えますよ。本当は一人で死体を掘り出すのが怖いからじゃないんですか?」
「それもある」オレは正直に言った。こんな夜中に、こんな場所で死んだ人間を掘り返すなんて、想像しただけでもぞっとしなかった。
 神社に誰もいないことを確認してから、オレは阜冬の案内で遺体が埋められているという場所に向かった。社の裏手にある、ほとんど山の斜面になっているようなところだった。すぐそばに、もう使われなくなったらしい古い井戸がある。
「ここで間違いないのか?」スコップの先で地面を確かめながら、オレは訊いた。
「わたしが見たのは、ここです。ただ……」
「ただ?」
「あ、いえ、うーん」阜冬は首をひねった。「なんか変な気がして。ここで間違いないはずなんですけど、なんか違うというか、違和感があるというか」
「夜中だからだろう」
 オレは気にせず、地面に懐中電灯を置いた。そうして彼女の持っていたほうの明かりで足元を照らしてもらう。ぽっかりと、地面に丸い光の環が浮かび上がった。
 スコップを土に差し込んで、オレはざっくざっくと穴を掘りはじめた。
「でも府奥さん、これってもしも誰かに見つかったらどうするんですか? ちょっと言い訳の仕様がないですよ」
「大丈夫だ」オレはびしっと森の奥を指差した。「その時はあっちに逃げるんだ」
「……なるほど」感心しているのかあきれているのかよくわからないため息が聞こえた。
 しばらくして何か聞こえると思ったら、阜冬が小声で歌をうたっているようだった。スコップを動かしながら注意深く耳を澄ますと、「♪When the night has come……」と歌詞が聞こえる。よりによってベン・E・キングの『スタンド・バイ・ミー』かよ。何て野郎だ。
 穴が相当の深さになると、オレはスコップに入れる力を弱め、慎重に地面を削りはじめた。穴はオレの膝がすっぽり収まるくらいの深さになっていた。そろそろ何が出てきてもおかしくない。
 角度的に光が当たらなくなったので、阜冬が穴をのぞきこむような位置に進んでくる。虫の声もしない暗闇に、かしゃらかしゃらというスコップの乾いた音だけが響いた。オレは息苦しさを覚えた。
 どのくらい時間がたったのか、よくわからない。
 硬い土の下に、白いものが現れた。オレは手をとめ、一瞬迷ってからスコップを傍らに置く。それから素手で、土をどけはじめた。
 阜冬も歌うのをやめて、じっと息を凝らしていた。
 爪のあいだに土が入りこんでくるのを感じながら、オレは白い何かの周囲を掘り下げていく。土をどけ、小石をどけ、世界の遠近感が狂いはじめるのを感じながら、作業を続ける。
 やがて、人の手が現れた。
 表面の色素が腐ってしまったような、不自然な白色をしていた。まるで蝋細工のように見える。とりあえず、親指の位置から見て右手のようだった。性別はよくわからないが、ごつごつした感じから男のものだろうと推測できる。触れると、すでに弾力は失われ、その辺の土と同じ程度の温度しかなかった。表面をよく見ると、かすかに産毛のようなものが生えている。形は、どこにも損傷はなく、おそらく生前のそれをとどめていた。まだ新しいもののようだ。その手は今にもオレの手をつかんできそうにさえ見える。
 気がつくと、俺は額から大量の汗をかき、荒い呼吸をくり返していた。視界が変に狭い。確認はできないが、瞳孔が激しく収縮しているようだった。
 それ以上掘るのはやめて、オレは穴の外へ戻った。遺体が出たからには、これ以上掘っても意味がない。というのは建前で、本音はとてもじゃないが、もう掘り出す気になれないからだった。知らない人間の死体なんて、長々と見るべきものじゃない。
 オレは黙ったまま、掘り返した土を元に戻した。白い右手はあっという間に土の下へと隠れる。必要があれば、また掘り返せばいい。
 ざくざくと虚しい音が木霊す中で、阜冬はぽつりとつぶやいた。
「これ、誰の手なんですか?」
「……さあな」
 答えながら、オレは一週間ほど前に起きたある事件のことを思い出していた。

 それは敷行(しきぎょう)市内で起きたある行方不明事件だった。
 失踪したのは、会社員の穴座陽武(あなくらあきたけ)(41)。自宅から出かけたのを最後にふっつりと足どりが途絶えた。一緒に暮らしていた娘の手によって捜索願が出されたのは、家を出てから三日後のことだった。
 穴座さんの行方はようとして知れず、現場の状況からは神隠しだとも騒がれた。市内でも噂になり、オレも都市伝説的なその話のいくつかを聞いたし、一週間たった今でも話題にされる。ボックスでオレが黒木と話していたのもそのことだった。
 この事件は全国区でもワイドショーのネタとしてとりあげられた。例によって例のごとく、穴座さんには方々に借金があったとか、怪しい裏の顔があったとか、真偽不詳の報道が流れた。そして国会中継や飛行船事件にまぎれてすぐに忘れられた。
 しかし事件はまだ解決していないし、穴座陽武(41)は行方不明のままだ。
 この事件と、オレたちが掘り返した死体にどんな関連性があるかはわからない。しかし少なくともここ最近、オレの知っている中で死体の発見されていない事件といえば、それしかなかった。敷行市なんて、たいした都会とはいえない規模の町だ。犯罪だってそう多くはない。
 先輩は穴座陽武(41)を殺して神社の境内に埋めたのか?
 この遺体発見を警察に知らせるかどうか、オレは迷った。普通なら、当然そうすべきだろう。市民の義務というやつだ。警察の犯罪捜査には協力しなくてはならない。
 しかし、どう説明する?
 偶然掘りあてた、というのは難しい。オレだって怪しむ。かといって阜冬の超能力について正直に話しても、信じてはもらえないだろう。というより、怒るだろう。となると、匿名の電話をかける、という手しか残っていない。
 しかし――
 本当に、この死体は先輩が埋めたものなのか。だとしたら、どうして、どんな経緯でこんなことになったのか。少なくともオレは、先輩が何かの犯罪に巻き込まれたという噂は聞かない。この死体にしたところで、このまま放っておけばずっと発見されることもなく、先輩が罪に問われることもないだろう。
 先輩はいったい、何をしたのか? 先輩にいったい、何があったのか?
 オレは自分がこれからどうすべきなのか、はたと考え込んでしまった。

「――で、ストーカーですか?」
「失敬な」オレは前を行く人物に聞こえないよう物陰に隠れたまま、小声で言った。
 時刻は午後の三時を少し過ぎたところ。オレと阜冬は桜葉先輩のあとを追って、ごく普通の通りを歩いていた。平たく言うと、尾行していたのだ。決して、迷惑防止条例に違反するようなつきまとい行為をしていたわけではない。
 オレも阜冬も、かなり雑な変装をしていた。オレは眼鏡を外して帽子をかぶり、近視のせいではっきりしない視界に目を細めいている。阜冬のほうはコンタクトの代わりに眼鏡をかけ、髪形をアップにまとめていた。素人もいいところだが、今のところ先輩に気づかれた様子はない。普通の人間は、なかなか自分が尾行されているとは考えない。先輩が普通かどうかはまた別の問題だが。
 ちなみに今日は平日でオレも阜冬も講義そっちのけの追跡だった。死体を発見したのだからそれどころじゃないともいえるが、先の思いやられるところではある。
「まだ気づいてないみたいですね」電柱の陰からのぞきこみながら、阜冬は言った。正直、傍目にもかなり怪しい。
「たぶんな」
「でも府奥さん、こんなことしなくたって、直接訊いてみればいいじゃないですか」
「失礼ですけど先輩、あなたは人を殺しましたね≠チてか?」
「まあそんなところです」
「それで素直に答えると思うか?」
「鏡のセッティングさえあれば、わたしにわかるじゃないですか」
「甘いなあ」トレハロースのように甘い。「あの先輩が、そんな単純な質問で何もかも明かしてしまうわけがないだろう。こっちの意図がわかれば、すぐにでも心を閉ざして何もわからなくなるぞ」
「だからストーカーですか?」
「情報収集だ」
 オレは先輩との距離がだいぶ開いたことを確認して、再び追跡を開始した。阜冬も何気ない様子でオレの隣に並ぶ。
「けど、うまくいきますかね?」前を向いたまま、阜冬は言った。
「何もしないよりはましだ。それに実のところ、俺はお前のことも疑ってるんだぞ」
「わたしの何をですか?」阜冬は目を驚かせた。
「あの死体を埋めたのはお前かもしれない、ということだ。そうするといろいろ辻褄があう。お前の超能力は全部演技で、お前は先輩に罪をなすりつけようとしているのかもしれない。少なくとも超能力よりは、こっちのほうが説得力はある」
「本気ですか?」
「否定はできないだろう」
「そりゃ府奥さん、小説の読みすぎですよ。いわゆる探偵脳にかかってるんですよ」
 超能力ならいいのか。それにややマイナーなマンガのネタを挟むのもどうかと思う。
 そうこうするうち、桜葉先輩は大通りに出てタクシーを拾っていた。オレも慌てて手を挙げてタクシーを拾う。
「すみませんが、前の車を追っかけてもらえますか?」後部座席に座ると、オレはそう頼んだ。まさかこんなセリフを口にする日が来るとは。
「なんだい、わけありかい?」髪の薄くなりかけた年配のドライバーは、訝しげにオレたちのことをのぞきこんだ。
「ええ、そんなとこで」
「理由は詳しく言えないんだろ」
「……ええ」
「よっしゃ、任しときな」運転手は言った。何だか知らないが、ノリノリのようだ。
 先輩の乗った車は、十分ほど走ったところで不意に止まった。住宅地のようだ。オレが止めてください、と言うと、こういう時はやり過ごして離れたところで降りるもんだよ、と運転手のおっちゃんに諭される。なるほど、と思った。
 先輩から見えないように道の角を曲がったところで、オレたちは車から降りた。オレは運転手のおっちゃんに厚く礼を言った。タクシー代にもちょっと色をつけておく。
「府奥さん、あそこあそこ」角からのぞいていた阜冬が、オレのことを手招きした。
 そっとのぞいてみると、道の向こうに先輩の姿がある。
 どうやらそこは小さな公園のようで、時間帯のせいかほかに人影はなかった。建物のあいだに偶然とり残されたような頼りない公園で、ほとんど遊具も置かれていない。ただの休憩スペース、といったほうが無難そうなところだった。
 先輩はそこで、誰かを待っているらしい。時折、時間を気にするように腕時計を確かめた。オレの記憶が確かなら、先輩の住所はこの辺ではないはずだった。何の用があるのだろう。
「デートですかね?」
「――こんなところで待ちあわせはしないだろう」
「今のもしかして、動揺しました?」
「してねえよ」オレが答えたとき、向こうから人影が現れた。
 手を振るその様子から、それが先輩の待ちあわせ相手だとわかる。
 中学生のようだ。女子中学生。ポニーテールの、こぢんまりした女の子だった。制服のデザインから見て、簑碓(みのす)中学の生徒のようだった。学年まではわからないが。
「男じゃなくてよかったと思ってますか?」
「思ってねえよ」
 二人の会話は遠すぎて、内容はまったく聴きとることが出来なかった。その様子は親しげな雰囲気ではあるが、どことなく深刻そうな感じでもある。やがて話が終わったらしく、二人は手を振って別れた。女子生徒はその場に、先輩は通りのほうへと歩いてく。
 オレは迷ったすえに、思い切って角から飛び出して道路を渡った。そして先輩の姿が見えないことを確認すると、彼女に向かって声をかける。
「今の人と、知りあいなの?」できるだけ単刀直入に訊いた。下手な訊きかたをしたところで、逆に警戒されるだけだろう。
 彼女は相当に戸惑った顔でオレのことを見た。隣にやってきた阜冬のほうも見て、ますます懐疑的な目つきを強くする。大学生とはいえ、いきなり知らない人間から声をかけられたのだから、当然だろう。
「誰なんですか、あなたたち?」
「俺は桜葉先輩の知りあい。同じ大学の後輩なんだ」
 桜葉先輩の名前が出てきたことで、彼女は少しだけ警戒を解いたようだった。
「何か用なんですか?」
「いや、さっき先輩といっしょだったから、何の話をしてたのかと思って」オレは曖昧に笑った。オレの脳みそは気のきいたセリフを何一つ思いつかないようだった。
「ただの世間話です。桜葉さんとは時々会うんです」
「友達?」
「昔、家庭教師をしてもらってました」
「なるほど」
「それだけですか?」
「ええと……」オレは質問に困ったあげく、かなり直截的な訊きかたをした。「君の名前を、教えてもらってもいいかな?」
「……穴座葉(よう)です」
 当たりだ。
「それは、やっぱり、あの?」訊かないのも変なので、オレは正直に訊ねた。穴座なんて苗字は、そうありはしない。
「ええ」声は暗く沈んでいた。一週間が過ぎたとはいえ、事件のことではいろいろと嫌な思いもしたのだろう。それに行方不明になっているのは、なんと言っても彼女の父親なのだ。
「心配だろうね」月並みだが、オレは同情した。
「ええ、とても心配です」
「君はこの辺に住んでるの?」
「あそこの四階です」そう言って彼女が指さしたのは、すぐ近くのマンションだった。ごく普通のマンションだった。
「自宅を出てから、足どりがわからないとか」昨日ネットで調べたことを思い出しながら、オレは訊いた。
「そうです。みんな神隠し≠セって言ってます。うち、マンションの入口に防犯カメラがあるんですけど、それにも映ってないって。それにこの辺、コンビニとか二十四時間営業のレンタルビデオ屋さんとかもあって、夜中でもわりと人通りがあるんです。けど、誰も見たことがないって」
「お父さんは、どこかに行くとかは?」
「いいえ、何も」彼女はかぶりを振った。「……もしかしたら、父はもう死んでいるんでしょうか?」
 オレは昨日見た、白い死体のことを思い出していた。
「まだ何とも言えないと思うよ。でも遺体は発見されてないんだから、生きてる可能性はあるんじゃないかな」
「そうですよね」彼女はほっとしたような顔をした。
「桜葉先輩は、そのことについて何か言ってたかな?」
「いいえ、何も――私、そろそろ帰らなくちゃないけないので、失礼します。用事もありますから」
「ああ、長々と引きとめて悪かったね。ありがとう」
 彼女はぺこりと頭を下げて、マンションのほうに向かった。入口の自動ドアが閉まると、その姿はすぐに見えなくなる。
「――府奥さん」
 いきなり、横から阜冬が声をかけてきた。そういえば、こいつは今までどこにいたんだ。
「そこのカーブミラーを見てたんですよ」阜冬は言って、道の角にあるミラーを指さした。
「ああ、例の超能力か」
「ちょっと遠くて細かいことはわかりませんでしたけどね。でも、これだけははっきりしてますよ」マンションのほうを見て、阜冬は言った。「あの子は嘘をついてます」

 桜葉先輩と穴座葉、ひいては穴座陽武の失踪には、何らかの関係があるのは間違いないだろう。その関係性は、米多神社に埋められた死体によってもつながっている。
 ――しかし、どういうことだろう。
 桜葉先輩が穴座陽武を殺害し、その遺体を神社の裏に隠したのだろうか。いったい、何のために? いや、今は理由はいいだろう。見当もつかないことだ。
 穴座陽武殺害が桜葉先輩の手によるものだとしても、そこにはいくつかの疑問点があった。
 まず、穴座陽武はマンションから出たところを目撃されていない。帰宅したところは目撃されているのに、だ。防犯カメラの記録もある。今までの捜査では、出入り口はおろか、周辺での目撃情報さえなかった。ということは、殺されたのはマンションの、おそらくは自室ということになる。
 では穴座葉はその共犯者なのか。阜冬によれば、彼女は嘘をついているという。父親のことを心配しているのも、桜葉先輩が何も言っていないというのも、嘘なのだと。
 桜葉先輩が彼女の協力で殺害を実行したとしても、遺体はどうしたのだろうか。阜冬が超能力で見たとおり、ばらばらにして運び出したのだろうか。しかしばらばらにしたところで、相当の重量があるし、かさばりもするだろう。そんな怪しいものを持った人間を、警察が見逃すだろうか。それとも捜索願が出されるまでの三日のあいだに、ちょっとずつ持ち去ったのだろうか。そんな行動を何度もくり返せば、これも周辺住民に怪しまれないわけにはいかないだろう。
 そもそも、マンションの住人でもない桜葉先輩が、あんなところをうろうろしていれば、警察が目をつけないはずがない。だが桜葉先輩が事情聴取を受けたという話は聞かない。桜葉先輩はマンションには行っていないのだろうか?
 オレはわけがわからなかった。
 ここまでの話ですらかなりの仮定を含んでいるのに、その仮定ですら結論を出せていない。
 ポイントとして確実なのは、桜葉先輩と神社の死体。そして、穴座陽武の失踪事件。ラインとしてわかっているのは、桜葉先輩と穴座葉のつながり。
 だが例え結論が出ないとしても、それを諦めるわけにはいかないだろう。科学の基本は、仮説の提出とその検証にある。オレは科学的方法を試してみることにした。

 時間的に、食堂にはほとんど人はいなかった。窓からはくたびれはじめた午後の光が差しこみ、カウンターの向こうからは食器の触れあうかちゃかちゃという音が小さく聞こえた。今日は朝から講義があったせいで、少し眠い。
 オレが眠気覚ましにコーヒーを飲んでいると、食堂の入口に目あての人物が現れた。オレはコーヒーを飲みきってしまうと、立ち上がって手を振る。その人物はすぐに気づいていこちらへとやって来た。
「待たせたかな?」彼女は言う。
「いえ、呼び出したのはこっちですから」
 オレは席に座りなおすと、桜葉先輩もあらかじめ引いておいたイスに座った。オレとは斜め向かいあわせの位置になる。
「それで、用事というのは何かな?」いつもと同じ、落ち着いた口調で先輩は言った。そこからは、どんな表情も読みとることはできない。
「たいしたことじゃありません。ただ、いくつか質問したいことがあったんです」
「わざわざ呼び出してかい?」
「もしかしたら、たいしたことになる可能性もあったので」
「それは興味深いな」先輩はにやっと、目だけで笑った。鉱物が光の具合でその表情を変えるような、魅力的な笑い方だった。
「まず、簡単な質問をさせてください」オレは内心ひどく緊張したまま、できるだけ何気ないふうに言った。「もう昼食はとりましたか?」
「ああ、学食でね。オムライスを食べたよ。私の好物なんだ。値段も手頃だしね」
 その時、オレの後ろで携帯の操作音に混じって「ポロン♪」という音が聞こえた。桜葉先輩がそれを気にした様子はない。
 音の発信源には、阜冬がいた。視認はできないが、オレとは背中を向けあった状態で、鏡の前に座っている。その鏡には先輩の姿が、もっと正確に言うなら、先輩の目が映っているはずだった。阜冬はそれで先輩の言葉が本当か嘘かを見極め、オレに合図するのだ。つまり、これが仮説を確かめるための実験装置というわけだった。
 実験装置が機能していることは、今ので十分に確かめられた。ちなみに「ポロン♪」は本当≠セ。
 オレは本格的な質問に移ることにした。
「先輩は、完全犯罪≠ノついてどう思いますか?」
「ずいぶんやぶからぼうだね」一応、先輩の目はまだ笑っていた。
「いえ先輩ならできるんじゃないかと思って、完全犯罪。証拠を一切残さずに、誰にも露見することがない」
「面白い質問だけど、それは無理というものだ。人間のやることに完全ということはない。ゲーデルじゃないが、数学でさえ神に比べれば完全というわけじゃない」
「けど数学と違って、犯罪を証明するのはあくまで人間です。人間相手になら、いくらか分があるというものじゃないですか?」
「どうだろうね。しかし私にはそんな自信はないけどね」
 後ろから「ニャーオ♪」という音が聞こえた。つまり、今の言葉は嘘≠ニいうことになる。百パーセント失敗する実験でも失敗はしないと言いはる、超絶的な自信家の先輩らしい反応だった。あるいは、もうやったことがある、ということだろうか。
「実はここのところ、先輩のことについて考えてました」
「ふむ、私に興味を持つのはいたしかたないことだな。まともな人間なら必ずそうだ」
 「ポロン♪」という音がした。
「それでわかったんですが、先輩は穴座葉という女の子と知りあいですね?」
「やっぱり君たちだったみたいだね」先輩はあくまでも余裕の笑顔を崩さなかった。「彼女から聞いたよ。私の後輩という人から話しかけられたってね。人のあとをこそこそかぎまわるのは、感心できる趣味とは言えないな」
「こそこそかぎまわられると、何か困ることがあるってことですか?」
 先輩の表情にはどんな変化もない。さすがだった。
「常識的に言って、ということだよ。君に逆ストーカー願望があるとは知らなかったけれどね」
 だから、ストーカーじゃないですって。
「それはともかく、先輩は当然、彼女の父親が行方不明だということを知っていますね?」
「知らない、とは言えないだろうね。有名な事件だから」
「彼女の父親、穴座陽武は今も行方不明です。しかし、彼がマンションを出たところは目撃されていない。常識的に考えれば、これは不自然です。まるで、彼そのものが消えてしまったとしか思えない」
「ふむ」
「ところで先輩、詳しく聞いてきたんですが実験中に事故を起こしましたよね。一週間ほど前のことです。その事故で、先輩はある薬剤を大量に廃棄することになった。薬剤の化学式はH2SO4――濃硫酸です」
「確かに、そうだね」
 しかしその答えは「ニャーオ♪」だった。オレは仮説の八割が正しいことを確信した。
「実のところ、俺はそのことについてこう考えてるんです。もしかしたら先輩は、わざと事故を起こしたのかもしれないって」
「ほう」
「先輩は失敗はしても、事故を起こしたことのない人です。だから俺は、心の中でずっとそのことが引っかかってました。そしてある仮定にたどり着きました。それは、先輩がだめにしたのは硫酸ではないのかもしれない。それは中身を入れ替えただけの、ただの水か何かかもしれない。けれど、何のためにそんなことをするのか? 決まってる、その薬品を手に入れるためだ。そしてそれは、穴座陽武が自宅で最後に目撃されたという日の、その次の日のことだった」
 先輩は相変わらず泰然として座っていた。けれどその瞳の奥には、かすかにだが鉱物の組成が変わったような、そんな気配が感じられた。
「硫酸をいったい何に使ったのか? 簡単です。先輩、あなたはそれを使って穴座陽武の死体を溶かした。おそらく、体の大きな部分だけを。硫酸には脱水化作用があって、人の皮膚や脂肪を溶かすことができます。死体が発見されなければ、殺人事件は成立しない。殺されたことさえ、証明できないのだから」
 背後で、阜冬の電子音は聞こえなかった。先輩は心を閉じてしまったようだった。だが、ここで引き下がるわけにはいかない。無理にでも、先輩の答えを聞く必要があった。
「桜葉先輩、俺はこれから先輩に重大な質問をします。答えられないものにはそう言ってもらってかまいません。ただし、質問を無視するのはなしです。あくまでも、回答をお願いします」
「――いいだろう」
 オレは軽く息を整えてから、まず最初の質問をした。
「先輩は、人を殺したことがありますか?」
「その質問には答えられない」
 「ポロン♪」と電子音が聞こえる。本当≠ツまり、ある、ということだ。
「先輩はその人を米多神社の裏に埋めましたか?」
「ノーコメント」
 「ポロン♪」
「彼を硫酸で溶かしましたか?」
「答えられない」
 「ポロン♪」
「それでは――」オレは最後の質問をした。「先輩は穴座陽武を殺害し、硫酸で溶かし、残った体の部分を神社の裏に遺棄しましたか?」
「黙秘するよ」
 携帯の電子音が鳴った。
 「ニャーオ♪」――答えは嘘≠セった。

「つまり、どういうことなんですか?」
 桜葉先輩が帰ったあとの食堂で、オレは阜冬と向かいあっていた。しゃべっているときは気づかなかったが、オレの口の中はからからに渇いて、舌が口蓋に張りついていた。備えつけのお茶を汲んできて、喉を湿らせる。
「よく、わからない」オレはようやく、それだけを言った。
「府奥さんの見込み違いってことですか?」
「いや、そうじゃない」
 そうじゃないはずだ。あのやりとりの意味は、そういうことじゃない。
「でもあの結果は矛盾してますよ。神社の死体は新しいものでした。それとも、わたしの超能力がおかしいんですかね?」
 いや、違う。おそらくそれは正しい。矛盾しているのは事実ではなく、オレたちの思考のほうなのだ。本当は、ごくごく単純なことのはずなのだ。
「イカサマしていたのはジョセフのほうだとか?」
「ここでそんなジョジョネタはいらん」
「でも、鏡にはちゃんと映ってたんですけどねえ」
「……鏡」
 逆なのは、左右ではなく前後。人は目のついているほうを前だとみなす。しかし実際に鏡に映っているべきなのは後頭部なのだ。鏡の中の自分はこちらではなく、同じ鏡の向こう側を見ている。人はそれを、目の位置で錯覚しているだけなのだ。
 瞬間、オレははっとした。すべてがはっきりとした。オレはがたっと音をたてて立ち上がった。
「ちょっと、府奥さんどこに行くんですか?」阜冬が慌てる。
「野暮用だ」
「そんなこと言ったって、講義がありますよ」
「今はそれどころじゃない」オレは振り向きもしなかった。
 そう、それどころじゃない。オレは市の図書館へ急いだ。

「……ここにいたんですね」オレは声をかけた。
 そこは大学構内にある運動場の、土手の部分だった。土手といっても、雑草がはびこり、無造作に桜の木が植えられているだけの、何の変哲もない空間だった。グラウンドでは、野球部がユニフォーム姿で守備練習をしていた。
 先輩は桜の木のあいだの、古びたベンチの上に座っていた。実験途中らしく、白衣を着たままで、退屈そうに煙草をくゆらせている。木製バットで硬球を打つ、乾いた音が響いた。
「よくここがわかったね」先輩はさして感心した様子もなく、そう言った。
「実験室で、北形さんに聞いてきました。たぶん、ここにいるだろうって」
「そう、私は時間が空くと散歩がてらよくここに来るんだ。野球というのは、ある種象徴的なスポーツだと思わないかい? 人はどうして、あんな小さな球を打ってやろうだなんて思いついたんだろうね」
 グローブを構える野球部員の喚声が聞こえた。
「今、時間いいですか?」
「北形に聞いてきたんだろう。しばらくは暇だよ。実験結果が出るまでは、一時間ほどかかる」
 先輩はベンチを横にずれて、スペースを作ってくれた。オレは隅のほうに、先輩と少し距離を置いて座る。
「彼女、今日はいないんだね。確か散藤さんといったっけ?」
「あいつは呼んでません。もう必要ないし、個人的な話になりそうだったんで」
「彼女と一緒にいたのは何か理由があるのかな? 昨日も食堂にいたね。何か合図しているようだったけど。ポリグラフみたいに人の音声で嘘を見分けられるとか、そんなところかな」
「気づいてたんですね」
「あとをつけられてたときもね。本当はバスでよかったんだけど、面白いからタクシーにしてみたんだ。一応、忠告しておくけど、あれで人を尾行するのはやめたほうがいい。気づかれない見込みがない」
「今度は気をつけます」
 フライが高く高く上がって、レフトのグローブに収まった。グラウンドは太陽の光の中にあったが、ベンチの下は薄暗い木の下闇に沈んでいる。
「――先輩が殺した相手の名前がわかりましたよ」オレは言った。「塙峰守(はなわみねもり)、当時大学院生だったそうです。それも、うちの大学の」
「ふむ」
 先輩は携帯用の灰皿に、とんとんと煙草の灰を落とした。
「よければ、何故そう思ったのかを説明してくれるかな。今後の参考にしたいのでね」
「先輩の言ったとおり、昨日の会話について俺はそれが本当≠ゥ嘘≠ゥ知ることができました。方法については、説明しないことにします。その話をすると脇道というか、道ですらないところにそれてしまいますから」
「気になるところだけど、ま、よいとしよう。君は私の言明について、真偽を判断することができた、というわけだ」
 オレはグラウンドのほうを見たままうなずいた。
「その結果、俺は先輩が人を殺したこと、その人を神社裏に埋めたことがわかりました。それ以前に、俺たちは死体を掘り返して確認してたんです。死体はまだ完全に形を保った、新しいものでした。俺はそれを穴座陽武のものだと思った。ところが、先輩は穴座陽武の殺害も遺棄もしていないという」
「背理だね」
「ええ、でも答えは簡単です。とてつもなく簡単なことでした。つまり、埋められていた死体は穴座陽武のものじゃなかった、ということです」
 先輩は新しい煙草に火をつけ、深々とそれをすった。
「でも妙だね。死体は新しかったんだろう? 私がここ最近、穴座陽武以外の事件にかかわっていたとでも?」
「死体のことはひとまず置いておきます。……俺は考えました。先輩は人を殺した。でもそれは穴座陽武ではない、別人だ。ここまでは間違いない。だが、それは誰なのか?」
「…………」
「思い出したのは、神社の噂です。俺、言いましたよね。あれは誰かが広めたのかもしれない。そして思いました。もしかしたらその誰かは、神社に人が近づいて欲しくなかったのかもしれない。何故か? それはそこに、死体を埋めたからです」
 だからその話が出たとき、先輩は神社に埋めた死体のことをイメージしたのだ。それにもう一つ、阜冬が見たという光景の違和感があった。あの時阜冬が感じた違和感の正体は、視点の位置にあるのではないか。体の大きさが違えば、見えるものはずいぶん変わってくるはずだ。
「俺は図書館で古い新聞にあたってみることにしました。俺が中学生の頃、市内で起きた行方不明事件で、未解決のもの。探してみると、一つだけありました。それが塙峰守です。おまけにこの男が消えたのは大学構内でした。言うまでもなく、米多神社はここの裏手にあります。あの死体は実際には、五年以上前のものだった。だから先輩が人を殺したというのは、五年以上も前で、それは穴座陽武ではなかった。穴座陽武を殺したのは、本当はその娘の穴座葉だったんです。事情はわかりませんが、彼女は父親を殺害した。そして知りあいだった桜葉先輩に相談した。先輩は事故に見せかけて濃硫酸を調達し、彼女に渡した。殺害も証拠隠滅も、実行したのは彼女だった。実の父親を骨も残さずに消してのは、彼女だった」
 先輩は短くなった煙草を灰皿の中でもみ消した。
「面白いね。ところで、証拠はあるのかな?」
「神社の死体と、それから硫酸については調べれば何かわかると思います。もっとも、それは警察の仕事になりますけど」
「君は通報する気かい?」
「本当はすべきなんだろうと思います。でもそうするといろいろ面倒なことになります。特に、どうやって死体を掘り当てたのかを説明することについては」
「つまり、すべては君の仮説に過ぎないというわけだ」
「人間相手になら、そういうことになります」
 先輩は三本目の煙草に火をつけた。セカンドが難しいバウンドを処理して、一塁に送球した。先輩は黙ったまま煙草をふかしていた。
「仮説ついでに言っておくなら」先輩は言った。「君が掘り出したのは、おそらく死蝋というやつだろう」
「死蝋?」
「脂肪分が鹸化して固まったものだ。柔らかいものから石膏状のものまである。通常、人体は土中では五から十年程度で白骨化するといわれているが、死蝋化した遺体は形を崩さずに安定して存在し続ける。君の言うとおりだとすれば、そう考えても間違いではないだろう。死蝋化は水分の多い、アルカリ性の土壌で起こりやすいといわれる。あの神社では赤い紫陽花が咲くから、アルカリ性の土地なのかもしれない」
「なるほど」
 いつの間にかグラウンドでは実戦形式の練習がはじまっていた。内角高めの球をバッターは空振りした。
「先輩に聞いてもかまわないですか?」
「何をだい」
「どうして塙峰守を殺したんです? そして穴座葉は、どうして穴座陽武を殺したんですか?」
「……個人的な動機を差し引いて簡単に説明するなら、殺されても文句を言えないような相手だったから、ということになる。彼女のほうも似たような理由だ。具体的に何をされたかを言うのはちょっと憚られるがね。それとも、聞きたいかな?」
「いいえ」オレは首を振った。
「彼女は私に似て頭のよい女の子だった。だから協力したんだ。私たちはいろいろ似かよった点を持っていた。不幸にして、というべきだが」
「…………」
「ところで、生物において同種の仲間を殺すというのは必ずしも珍しい現象じゃない」先輩は話しはじめた。「まあ進化論的に考えても、それほど大規模にというわけではないがね。人間にしても、人殺しというのは完全なタブーではない。戦争状態だけでなく、日常においても。インドネシアのアスマット族というのを知っているかな? 彼らは食人の習慣を持っていた。これはかなりややこしい手続きと儀式の下に人殺しを行うもので、文明国の死刑制度よりはよほど人間的、人道的に作られている。これが行われるのは、そうでなければ崩されたバランスが元に戻せない、というときだ。有名なマイケル・ロックフェラーの事件にしても、そのバランスを取り戻すために行われたものだった。余談に近くなるが、死刑というのは元々、殺すための刑罰ではなかったのだよ。つまり、死ななくてもかまわなかった。重要なのはその刑罰が行われ、バランスが回復されるということだった」
 先輩はまるで何かを確かめるみたいに、ゆっくりと煙草の灰を落として火を消した。グラウンドでは野球部の喚声が響いていた。陽が少し傾いたようだった。
「結局は、バランスを回復するということなんだろうね。贈与論的、といっていいかもしれない。いつの頃からか……そうだね、おそらく人が魂とかいうものを持つようになった頃から、人を殺すというのは自分を殺すということと同義になった。何しろお互い同じ種類の魂の持ち主だからね。このバランスが、殺人を罪だとするようになったんだろうけど、同時にもう一つのバランスも生まれていた。つまり、自分が殺されたとき、人もまた殺されなくてはならない、というバランスだよ。殺人を罪だとするその原理と同じ理由において、殺人は許される。つまるところ、私はこのバランスを回復するためにそれを行ったんだ。そうでなければ、この世界が壊れてしまうから」
 ――先輩は立ち上がった。
 白衣のポケットに手を突っ込んで、オレのほうを見た。
「それで……?」先輩は言った。鏡に映った像のように。存在しないはずの、その向こう側を見つめるみたいに。「君なら、どうするのかな」

 時刻は月が出たばかりの、宵の口というところだった。
 飲み会はすでに誕生会という目的を忘れ、ただの乱痴気騒ぎに変わっていた。真っ裸になって構内を駆けまわる奴や、屋根にのぼり月に向かって何か吠えている奴。そのほか、ボックスで横になって死んでいる奴、外でちびちびと飲んでいる奴。思いつくかぎりの方法で神聖なる夜を汚していた。
 オレはいつものようにボックスの、パイプイスに座っている。それなりに飲んでいるが、酔いつぶれるほどではない。人間には学習能力というものがある。食事というのは口から入れるものであって、決して出すものではない。
 騒ぎの中心は外に移っているので、ボックスの中は静かだった。オレは座ったまま、J・D・サリンジャーの短編『ナイン・ストーリーズ』を読んでいた。
 そうしてオレが静かにページをくっていると、不意にボックスの扉が開いた。デジャヴュだ。まるで一字一句違わない文章みたいに。
「府奥さん、こんなところで何してるんですか?」少し赤くなった顔で、阜冬は言った。しかし足どりは意外としっかりしている。
「休憩中」
「何ですか、もっと飲みましょうよ。ほら、わたしのをあげますから」
 あるからいいよ、と言おうとしたら返事も待たずに紙コップに継ぎ足されてしまった。レモンチューハイに混ざったビールは、はたしてどんな味がするものやら。
「そういえば、主賓の姿が見えませんね」紙コップの中身は気にすることなく、彼女は言った。
「脇谷ならそこに寝てるぞ」オレは目線だけで畳の上を示した。ひょろっとした線の細い男が、長い手足を折りたたんで横になっていた。阜冬はそれを見て言った。
「何だか死んだ蜘蛛みたいですね」
 相変わらず、いたたまれないセリフだった。
「府奥さんが休憩してるなら、わたしも少し休憩することにします」言って、阜冬はもう一つのパイプイスに座った。
 桜葉先輩とのことについては、阜冬には話していない。彼女も、そのことについては聞こうとしない。無理に聞くつもりはない、という態度だった。
「……そういえば、先輩に訊かれたよ」オレはふと思いついたみたいにして言った。
「何をですか?」
「君なら、人を殺すかって」
「何て答えました?」
 オレはつい数時間前の、その時のことを思い出しながら答えた。「――わかりません、って」
 ぐびっと、阜冬は缶ビールを傾けた。
「わたしも一つ訊いていいですか?」
「いいよ」
「嘘をつけないように鏡を使いますね」
 鬼畜な奴だな、この女。
 阜冬は鏡台をオレのほうへと向けた。鏡には当然のように、オレの顔が映っている。二つの目に、黒い眼鏡。相変わらずぱっとしない顔だった。
「府奥さん」阜冬は少し改まった調子で言った。「府奥さんはどうして、今回のことにそれほどこだわったんですか?」
「死体が出てきたし、それに先輩のことがかかわってたからな」
「どうやら嘘みたいですね。それだけじゃなくて、もっとほかにも理由があるみたいです」
 オレは口を噤んだ。頭の中に、ある記憶が浮かんでくる。古い記憶だ。高校の頃のオレ、それからあいつ。何かが壊れていく気配。小さな子供の手の中で砕けた玩具みたいに、もう元には戻らないもの。鈍い疼痛。
「……女の子が見えます。府奥さんと親しいみたいです。どこかで見たことがあるような」
「だろうな」
「可愛い女の子です。笑顔がよく似あうタイプの。でも、何だか、ってあれ?」
「どうかしたのか?」オレは首を傾げた。
「消えちゃいました」阜冬は呆然としていた。「さっきまで鏡にはっきり映ってたのに、テレビの電源を切るみたいに、ふっと。もう何も見えない? あれ? あれ?」
「能力そのものが消えたのかもな」
 オレは特に驚いたりはしなかった。たぶん、こうなるだろうとは思っていたのだ。例のカップルを別れさせたときから、ずっと。人の秘密なんて何度ものぞくものじゃない。
「Not see more glass.」
「え?」
「あんまり鏡の向こう側を見るのはよくないってことさ」
 オレはそんなことを嘯いてみた。
「――何故、人を殺してはいけないのですか?」
 そう、そんな問いは、鏡の向こう側にでも置いておけばいいのだ。

――Thanks for your reading.

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