王様にはキエレという一人娘がいました。 お妃はいません。彼女はキエレが生まれたばかりの頃に、亡くなってしまったのです。元々、体が丈夫でなかった彼女は、無理をおして子供を産みました。でも結局、彼女が自分の娘と一緒にいられた時間は、わずかなものでしかなかったのです。 まだ言葉を話すことも出来ない小さな少女は、父親の腕に抱かれ、その死を理解することもなく母親を見つめていました。そのつぶらな瞳の中で、母親はもう動くことはありません。 王様は最愛の人を失くし、一人娘と共に、この世界に残されました。それは、とても悲しいことです。けれども二人はまだ、生きていました。 キエレという名前は、その母親が彼女に残した唯一のものです。それは小さな、花の名前でした。お妃が何よりも好きだった、白い花の名前。 王様はキエレを大切に、けれどしっかりと育てました。勉強や礼儀作法を教え、立派な人間に育てようとしたのです。 キエレは賢い、けれどそれ以上に元気の良い少女のようでした。彼女にとってそうした勉強は決して苦痛ではありませんでしたが、いささか退屈なものではあったようです。彼女はよく授業を抜け出しては、遊びに行ったり、お城の中でちょっとしたいたずらをしたりしました。 そんなキエレを、王様は必要以上に叱ったりはしません。それはいかにも子供らしいことでしたし、病弱だった母親のことを思えば、とても喜ばしいことに思えました。何より王様は、キエレに幸せであってほしかったのです。 キエレはだから、お城の中を好きに走り回ったり、時には街にまで行って子供達と遊んだりしました。彼女は明るく、活発な少女でした。 とはいえ、時にはそれがいきすぎることもあります。 キエレはある日、お城の壁に大きな落書きをしました。それはすぐに見つかって、彼女のしわざだと分かります。落書きはその日のうちに消され、キエレはこっぴどく叱られました。 けれどしばらくすると、今度はお城の城壁に落書きがありました。それも、キエレのしわざです。今度は街の子供達と一緒になってそれを書いたようでした。 落書きは消され、キエレはまた念入りに叱られます。 けれどいくら叱られても、キエレにはこたえないようでした。 キエレはそれからも、何度となく落書きを繰り返しました。その度に落書きは消され、彼女は叱られます。お城というのは権威の象徴ですから、落書きなど許すわけにもいきませんでした。 それでも、キエレは落書きをやめません。 でもある時から、落書きはさっぱりなくなってしまいました。 キエレが、死んでしまったのです。 流行り病に冒されると、彼女はあっという間に息を引きとりました。それは本当に、あっという間のことです。大して苦しむ様子もなく、キエレはまるで眠るように死んでしまいました。 王様はなかなか、その事実を受け入れられませんでした。 それはつまり、この世界にたった一人で残されてしまったということでした。この世界に、たった一人自分だけが生きているということでした。 そんなことを、簡単に信じられるわけがありません。 王様は何もすることが出来ず、ただ日々を過ごしていました。まるで世界の半分がそぎ落とされてしまったようです。 生きているのか、死んでいるのかも分からない日々―― けれどある時、王様はそれを見つけます。 それは、キエレの残した落書きでした。城壁の、見つけにくい場所に、それは描かれています。王様と、母親と、手をつないで並ぶキエレの姿が。 王様はそっと、その絵を手でなぞりました。 次の日から、お城の中と外は子供達の姿であふれます。王様がそれを許可したのでした。子供達はお城に好きなだけ絵を描いてもよい、と。 子供達はわいわいがやがや、喜んで絵を描きました。何しろ、こんな面白いことはありません。お城の壁という壁に、子供達は落書きをしました。時には王様も、それに混じって落書きを描いたりします。そんな時の王様は、本当に楽しそうでした。 子供達がいくら落書きをしても、お城の壁はまだまだ埋まりません。何年、何十年が過ぎても、やっぱり埋まりませんでした。 そのうちに王様は、亡くなってしまいます。王様が変われば、落書きなんてすっかり消されてしまうかもしれませんでした。何といってもそれは、お城の品位と権威に関わることだったからです。 けれど王様が変わっても、落書きが消されることはありませんでした。子供達をお城に入れなくなるようなこともありません。お城は相変わらず、元気な子供達の姿で一杯でした。 それは、前の王様がどうしてそんなことをしたかを、今の王様が知っているからです。それは決して、ないがしろにしてはいけない理由でした。 その後、王様が何度変わっても、お城の落書きが消されることはありませんでした。落書きは変わることなく増え続け、お城の中にはいつも子供達の声が騒々しく響いています。 そしてキエレの落書きからはじまって、百年目のある日、お城は子供達の絵で一杯になりました。それはどれも優しく、元気な子供達の絵です。 百年をかけて描かれたそのお城の絵は、今でもちゃんと残っています。 たった一人の少女のための想いを刻んだまま。
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