[四つめの関係]
1
少年は伯父に引きとられた。家庭の事情というやつだった。 実の父親は数年前に多額の借金を残して蒸発し、母親のほうはそれから何年かして精神のバランスを崩した。 母親は一日中とりとめのない妄想を口にしていたが、しばらくして病院に隔離されることになった。それと同時に、少年は伯父である彼の家に預けられた。ほかに引きとり手が現れなかったからである。 独身で子供とは無縁だった彼の伯父は、当然ながら少年の扱いに戸惑った。 そして少年のほうは少年のほうで、母親との離別や自宅を追われたことで、強いショックを受けていた。少年は頑なに口を固く閉ざし、その表情は植物と同じ程度にしか変化しなかった。 普通ならそれは、ただの荷厄介を抱えただけのことでしかない。 けれど彼は、そんな少年を無理に変えようとはしなかった。少年の態度に辟易するわけでも、家族めいた関係を強要するわけでもない。季節が変わるのをじっと待ち続けるみたいに、彼はただ少年のそばによりそっていた。 彼はそんな時間も必要なことを、知っていたのである。 何かが壊れたときには、まず故障箇所を知る必要があることを―― 欠けた部分やなくなった部品は、また新しく作り直してやる必要があることを―― 何もかもを自分の都合のいいように扱うことはできない。ある場合に人にできるのは、ただ待つことだけなのだ。 そして少しずつ、少しずつ、少年は彼との生活に慣れていった。 がらんとした部屋に家具を運びいれ、壁を飾るように、言葉が増え、表情が変化した。春の陽射しに雪が融けていくように、ゆっくり、でも確かに。 ずぼらな彼の代わりに家事を手伝ったり、二人で宿題を考えたり、学校の発表会に見学に来てもらったり、知人の住む田舎をいっしょに訪ねたり、重い荷物を背負って高い山に登ったり―― 彼はよく、笑う人だった。 おかしいことでも、おかしくないことでも笑った。悲しいことや、腹の立つことでも。そうすればまるで、世界をいつまでも守っていられるみたいに。少年はそれが、不思議だった。 「お前は楽しいのは嫌いか?」 と、彼は一度そんなことを言った。少年が首を振ると、彼は続けた。 「なら、笑っていることだ」 そう言う彼の顔は、やっぱり笑っている。 「ちょっとくらい辛いことや、苦しいことがあっても、それでどうにかなるわけじゃない。少しくらい欠けたり、壊れたりしたって平気だ。そこからは何も失われることなんてない。それはただ少し、形を変えるだけなんだ」 どうやらそれが、彼の人生哲学だったらしい。 少年は次第に、笑うようになった。彼はそのことを何より誇らしく、嬉しく思った―― それから数年続いた伯父との暮らしは、彼にとって何よりかけがえのないものだった。 必要なもののすべては、彼からもらった。喜ぶこと、怒ること、悲しむこと、楽しむこと、そして、笑うこと。この世界に必要な、すべてのものは――
そしてそのすべては、ある日失われてしまった。
2
休み明けの学校で、フユは休み時間に沢谷ゆずきのクラスを訪ねた。 教室にいた生徒に訊いてみると、ゆずきは休みだという。その生徒はついでだからと、彼女のことをよく知っているというクラスメートを紹介してくれる。親切な生徒だった。 「あんたなの、ゆずきに用があるっていうのは?」 現れたのは目の細い、顔にそばかすのある女子生徒だった。飛んできた小石が偶然あたったような、不機嫌そうな顔をしている。 「ええ、そうです。沢谷先輩のことで聞きたいことがあって」 「あんたは何、ゆずきの知りあい?」 妙に居丈高な態度だった。それがこの女子生徒本来の性格なのか、ゆずきに関係することのせいなのかはわからなかった。 「音楽部の後輩です。今日は先輩と約束がありました」 フユはしらっと、そんなことを言った。演奏も歌も一度もしたことはないが、嘘ではない。 「ふうん」 と、女子生徒はひっくり返ったハエでも眺めるようなうさんくさげな表情だったが、 「で、何のようなの、沢谷に?」 「どうして休んでるのか、知りたいんですが」 訊かれて、女子生徒は言うべきかどうか迷うような顔をしている。が、結局はそれをしゃべった。 「……あの子、ここんとこ友達の家を泊まり歩いててさ。私のとこにも来たことあるんだよね。いい迷惑だったけどさ。でも友達ってことになってるし、断わるのも何か気が引けるじゃん? だってそうしたら、私が薄情なやつってことになっちゃうでしょ」 「それで、沢谷先輩は?」 少し話がずれてしまいそうだったので、フユは口を挟んで訊いた。 「その時は別の子の家に泊まってたらしいんだけど、昨日の夜になって急に家に帰ったって。訳わかんないよね。それまで、もう家族なんていないとか言ってたのに。あの子、受験勉強だってろくにしてないのよ。音楽だけでやってくって。夢見るのは勝手だけど、うちらまで巻きこまないで欲しいよね」 女子生徒の放言はまだ続いていたが、フユはもうそれを聞いてはいなかった。 昨夜の出来事を考えれば、沢谷ゆずきの行動は妙だった。居所を一定しないのは追跡を逃れるためだろうし、今になって家族の元に戻るというのもおかしい。彼女がわざわざそんな危険を冒すとは思えなかった。 「――だからさ、子供ってことなんだよね。いい加減、高校生になるんだからさ」 「どうもありがとうございました。もう十分です」 「え、ああ、そう?」 なおもしゃべり足りないような女子生徒を置いて、フユはその場をあとにした。頭の中では、沢谷ゆずきのことを反芻しながら。彼女に何があったのだろうか。 結局そのまま、下校時間がやって来ている。ともかくフユが帰ろうとすると、真花が声をかけてきた。 「今日、いっしょに帰ってもいいかな、フユ?」 フユが座席から顔をあげると、そこには真花の姿がある。最後に部活で会ってから休みの日も挟んだおかげで、体調は多少よくなっているようだった。 「いいわよ、別に」 フユが立ちあがりながら答えると、真花はにっこりした。 二人は並んで、玄関へ向かう。二日後には終業式だった。何かがそっと終わろうとするような、そんな雰囲気が廊下にはあった。手を触れただけで壊れてしまうほど、繊細なガラス細工に似た―― 自分から誘っておきながら、真花はただ黙って歩いていた。何か用事があったのだろうが、それをフユに言おうとはしない。フユも無理にそれを訊いたりせず、ただ同じ速さで隣を歩いていく。 廊下の角を曲がったところで、向こうに見知った二人の姿があった。小嶋渚と芦川陽奈子である。 「あれ、二人とも帰り?」 フユと真花に気づいて、渚が駆けよってきた。 「うん、そうだよ」と、真花が答える。 「部活やんないの、今日は?」 「今日は、ちょっとね……」 やんわりと微苦笑のようなものを浮かべる真花。渚は首を傾げたが、不審に思うほどのことではない。 「それより、二人は何してるの?」 真花が訊くと、 「委員会よ、委員会」 後ろから来た陽奈子が、実にうんざりした表情で言った。 「どうでもいいような集会があってね、それに出席しなきゃいけないの。それも渚とよ」 「それは誉めてる?」 「ほらね、言ったとおりでしょ」 そう言う二人を見て、真花は笑った。 「じゃあ、私たちは先に帰るから」 「――ねえ、真花」 と、急に真剣な顔つきをして、渚が言った。 「もし何か厄介事とか、困ったことがあったら、私たちに言いなよ。頼りにならないかもしれない、たいした力になれないかもしれない。でも私たち、友達でしょ?」 真花は水滴が紙にしみこむのをじっと待つような、そんな顔をした。 「ありがとう」そして、笑う。「でも大丈夫、私のことは心配いらないから」 二人はそんな真花に向かって、もう何も言えなかった。 フユと真花はそのまま玄関に向かい、靴を履きかえて外に出た。冷たい風が吹いて、空は重い鉛色の雲に覆われている。今晩あたり、また大雪になるという話だった。 「そういえば、この前はごめんね」 校門を抜けたあたりで、真花は不意に言った。 「……何のこと?」 「音楽室で、ゆずき先輩がいたとき」 ああ、とフユは思い出した。いろいろなことがあって、ほとんど忘れかけていたが。 「フユがああいうの、好きじゃないっていうのはわかってたんだけど」 真花は申し訳なさそうに言う。心配りの細かい少女だった。 「いいわよ、そんなの。結局あれは、私のせいなんだから」 「ううん、違うよ――」 真花は首を振って、穏やかな口調で言った。 「あれはフユのせいなんかじゃない。ただ、フユにはちょっとあわなかっただけ。北風が吹いて、旅人が服をよせるみたいに。あれはただ、それだけのことだよ」 「…………」 道を歩いていると、いつかの信号のところに来た。フユと真花が、最初に契約を交わした場所―― 「それで」 と、フユは言った。太陽の前では、やはり旅人は無力らしい。 「何の用なの、私に」 「これからいっしょに、行って欲しいところがあるんだ」 真花はいつもの、天使そっくりの微笑みを浮かべた。 「どこに?」 フユの問いに、真花はあの時と同じように短く答える。 「――病院」
3
病室には『面会謝絶』の札がかかっていた。 真花はその扉を、そっと音の立たないように開ける。壊れかけた積み木の城から、何とかそれ以上原型を崩さないようにブロックだけを取りのぞこうとするみたいに。 部屋の中では桐絵が横になっていた。酸素マスクをつけ、点滴をされ、生命をカウントダウンするみたいに心電計の音が小さく響いている。その姿は、水面上に危ういところで浮かんでいるように頼りなかった。 ベッドのそば、窓際のところに結城季早の姿があった。白衣を着ているが、診察時間は終わっているのだろう。もちろん季早は、これからのためにこの場所にいた。 フユと真花はベッドの傍らの、すでに用意してあったイスに座る。近くで見ると、桐絵の顔はすでに死人のように蒼ざめていた。蝋人形のほうが、まだ人間らしく見えそうだった。火をつければ、その体はあっというまに燃えつきてしまいそうに思える。 「――どういう状態なの?」 誰も何も言おうとしないせいで、フユは訊いた。病室は雪の下に埋もれたように静かである。 「感染症を併発している」 と、ベッドの向こうから季早が言った。医師らしい、時間を正確に読みあげるような淡々とした口調である。 「心疾患では、もっとも危惧すべき状態だ。すでに心臓も肺も、限界に来ている。これ以上の負荷には体が耐えられない。許容範囲を超える電圧をかけるようなものだ。そうなったら、いつヒューズが飛んでもおかしくない」 フユは桐絵を見た。心電計が弱々しい脈を伝えていた。彼女はどこか暗い場所――かつて本人が言っていたどこか暗い場所へ、消えていってしまいそうに見える。 けれど―― この不完全な世界では、それをどうすることもできない。 「……ねえ、フユ」 と、フユの隣で真花が言った。桐絵のことを、この神様から欠陥品の体を与えられた姉のことを、じっと見つめたままで。 「私ね、お姉ちゃんを助けてみようかと思うんだ」 「…………」 その言葉の意味を、フユは知っていた。だから、言った。 「もしかしてそれは、集めた幸福を使って願いを叶える≠謔、な方法で、ということかしら?」 「うん、そうだよ」 真花は驚きもせずに、フユのほうを見て笑った。 「もうわかってるみたいだけど、私は魔法使いなんだ」
「――私の魔法〈天使契約(クローバー・ポケット)〉は、フユの言ったように幸福を使って願いを叶える魔法。簡単に言うと、貯金箱みたいなものかな。ちょっとずつお金を貯めて、必要な額になったら欲しいものを買う」 真花はそう、自分の魔法について説明した。 「子供の頃から、私はこの魔法が使えた。もちろん最初は、魔法だなんて気づかなかった。どう使えばいいのかはわかっていたけど、それが特別なことだとは思わなかった。でもそれが魔法なんだって教えてくれたのが、結城先生だった」 真花が視線を向けると、季早はうなずいていくつかの言葉を引きとった。 「確かに、彼女にそのことを教えたのは僕だ。姉の症状を軽くするためにその魔法を使っているところを見たんだ。僕は魔法のことについて説明して、あまり不用意には使わないよう忠告した。けど彼女にとってそれは、当たり前のことにすぎなかった。この世界の不完全さを、まだ知らなかったから」 「とはいえ、私にできることはそんなに多くはなかった」 再び、真花が話しはじめる。 「お姉ちゃんのために幸福をたくさん集めても、せいぜい痛みを和らげる程度だった。それを治してあげるだけの幸福を集めるのは、とても無理だった。きっと塀が高すぎたし、王様の兵隊は少なすぎたんだと思う」 この世界ではそこらじゅうに幸福が転がっている、というわけにはいかなかったのだろう。 「私は穴の空いたボートから水を掻きだすみたいに、ちょっと幸福が貯まっては桐絵のために使ってた。それでもとりあえずは、桐絵の役に立っていたから」 「あなたが魔法使いだったってことは――」と、フユはだいぶ昔のことを思い出しながら言った。「はじめに取り引きをしたとき、あなたはもう魔法のことについて本当は知っていたってことよね」 言われて、真花はいたずらを見つけられた子供みたいにばつの悪そうな顔をした。 「あの時はああでも言わないと、フユは承知してくれそうになかったから」 確かに、それはそうだった。 「それに私も訊くけど、フユはどうして私が魔法使いだってわかったの?」 「渚と陽奈子の二人から、昔のことについて聞いたわ」 真花から逆に質問されて、フユは答える。 「だけじゃなくて、真花自身が言っていたいくつかの言葉にもヒントがあった。それに長いこと風邪を引いてるというのを聞いて、思いあたるところがあったから」 それは志条夕葵のために犠牲になった、姉の朝香を連想させる。 ――ひとしきりの話が終わったところで、会話の流れは本題に戻った。 「それで、桐絵を助けると言ったけど、いったいどうするつもり? 十分な幸福を集めることができたということなの」 「ううん、それはやっぱり無理だった――」 真花はそう言って、静かに首を振る。 「今までと同じで、私の魔法にはそこまでの力はない。でも少し前に、私の魔法にはちょっとした変化が現れたの」 「変化?」 「簡単に言うとね、前借り≠ェできるようになったんだ」 真花はごく何気ない調子でそのことを口にした。けれどフユはその言葉に、どこか不吉な予感を拭うことができない。 「どういうことなの、前借り≠チて?」 「つまりね、今までは持っていたお金のぶんでしか欲しいものが買えなかった。でも今は、欲しいものを手に入れて、あとからその代価を支払うことができるんだ」 つまり、それは―― 「本来なら高価すぎて手の届かなかったものでも、今なら自由に手に入れることができる、ということ?」 「――うん、そういうこと」 「じゃあ体調を崩していたのも……?」 「ちょっとした実験だった。それでも、お姉ちゃんの容態を万全にすることはできなかったし、長続きもしなかった。どうも叶えられる願いに比べると、代価のほうが割高になるみたい」 「…………」 フユは一瞬、開きかけた口を閉ざした。それを問うことは、嫉妬深い神様の名前を口にするみたいに、やってはいけないことのような気がした。 けれど―― フユは、真花のことを見た。 まるで月の裏側にでも置き去りにされたみたいに、彼女はそこにいた。天使も罰を受ける。必要以上のものを救おうとしてはいけないのだ。もしもそんな願いを抱いてしまえば―― 「どうして?」 と、フユは訊いた。あの日、ブランコに座ったまま、去っていく大切な人を見送ったときのように。 「どうしてあなたは、そんなことを願ったの?」 真花は何の迷いもなく、答えている。 「それが、私の完全世界だから」 フユは子供が嫌がりでもするように首を振った。 「……そんなもの、この世界にはどこにもないわ」 「ううん、それはあるんだよ、ちゃんと」 「桐絵を助けるために必要な代価は多すぎるし、どんなことをしたってそれを払えるとは思えない」 「確かに、そうだと思う。例えそれをしても、せいぜい桐絵の生命を長らえさせることができるだけ。病気そのものを完全に治療することはできない」 「――それなら、そんな代価に何の意味もないわ。だって、そうでしょ? 生きられる年数を考えれば、そのほうがよほど選択としては正しい」 「違うよ、フユ」 真花は言った。風の音にそっと耳を澄ますみたいに。 「私の収支勘定では、それで十分お釣りが来るの。代価をすべて支払ってでも桐絵が生きていくのなら。私にとっては、それが正しい選択だから」 「……おかしいわよ、そんなの」 「ううん、おかしくない」 「だってどうして真花が」フユはまるで、怒っているかのように拳を握った。「どうして……」 真花はそっと、その拳を解きほぐすように言った。積もった雪を、柔らかく融かすみたいに。 「たぶん、愛しすぎたからだと思う」 「…………」 「そんなふうにしなければ、耐えられないくらい。私にとってはこの世界から桐絵を失ってしまうことより、私自身を犠牲にしてでも桐絵を生かすことのほうが、大切なんだと思う。どちらにせよ片方しか生きられないなら、私はそうすることを選ぶ」 フユは怒りの矛先を無理にぶつけるようにして、季早のほうを見た。 「医者のあなたなら、そんなこと認めるはずないわよね。どうして真花に何も言わないの?」 「……それが彼女の意志なら、僕にはどうすることもできない。それに誰より僕に、そのことを言う資格はないんだ」 もちろんフユには、季早の言うことの意味がわかった。かつて何を犠牲にしても、自分の娘を蘇らせようとしたのだから―― 「……何故、そんなことを私に話したの?」 もはや聞くべきことを失くしてしまって、フユは訊ねた。 「フユには知っておいてもらいたかったから」 真花は何の屈託もない顔で言った。一番仲のよい友達に、また会う約束をするみたいに。 「前にも言ったでしょ? フユは桐絵によく似てるって」 「…………」 「だから桐絵がもしも私のことを知りたがったら、今の話をみんな伝えて欲しい。迷惑かもしれないけど、世界中の誰よりも、私はフユにそれをして欲しいんだ」 わかった、とはフユは言えなかった。 けれどそれを拒絶することも、フユにはできないでいる。例えどんなに強くて固い、魔法の壁があったとしても―― 「じゃあそろそろ、時間もないから準備するね。これでも桐絵の容態は一刻を争うし、少しでも早いほうが、それだけ代価の効果も高くなるかもしれない」 真花はそう言うと、布団の下から桐絵の手を掴みだして、優しくそれを握った。死人のように蒼ざめた、桐絵の手。何かを手渡そうとするように、真花はその左手を両手で包んでいる。 「真花――」 フユは何か、言おうとした。けれど言葉が、出てこない。それはずっと昔に、どこかの暗い場所に置いてきてしまっていた。 「大丈夫」 真花はにこりとして、そんなフユに言う。 「言葉にしなくたって、フユの言いたいことはわかるよ。私たち、魔法使いなんだから――」 それが、彼女の最期の言葉だった。 世界を組み変える揺らぎが、真花の手から伝わる。 大きな、けれど穏やかな揺らぎ。雪が降るように、それは世界を変える。すべてを白く染め、すべてを埋めつくす。けれどそれは優しい。たくさんの天使が舞い降りてきたみたいに―― 〈天使契約〉の魔法は、行われた。 気づいたとき、真花は眠るように桐絵のそばに倒れている。 まだ温かな手で、死人はその手を握っていた。でもその温もりは、すぐに失われる。弓村桐絵がそれに気づくまもなく、あっというまに。ここは、不完全な世界だから。 季早が心電計をのぞきこみ、桐絵の状態を確認した。 でも、そんなことをする必要はないのだ。 魔法は確かに行われた。弓村真花の生命を代償にして。その姉を救う魔法は、確かに実行された。天使はその契約を、残酷なほど正確にはたした。 「弓村桐絵の容態は安定してきている」 と、季早は静かに告げた。 「検査をすれば、その辺のことはもっとはっきりわかるだろう。何にせよ、これで彼女の願ったとおりになった」 「……これが正しいことだというの?」 「少なくとも彼女にとっては、ね」 フユはもうじっとして、少しも動くことのない真花を見た。その顔は死んでいてさえ、孤独に侵されることはない。 「私に何かできることはないの――?」 「今はない。あとのことは僕が処理しておくから、君は家に帰るんだ。ご家族への説明も僕が行う」 フユはらしくない、木偶のような動作で立ちあがった。そんなフユに向かって、季早は言う。 「だが弓村桐絵にこのことを伝えるのは、君の役目だ。弓村真花は何よりそれを、望んでいた。君にはまだ、やるべきことがある」
4
終業式を明日に控えた学校では、その日の朝礼で弓村真花の死が伝えられた。 ショックと動揺を隠せないクラスメートの中で、フユだけは冷静だった。休み時間にも、もの言わぬ月のような態度で座席に座っている。通常通りの授業が行われたが、生徒のほとんどがそれに集中できずにいた。 放課後、教室を出たところでフユは足をとめた。渚と陽奈子の二人がそこに立っている。 「ちょっといいかな、フユ?」 と、渚が言う。その表情には、子供が夜の闇を怖がるような、かすかな怯えの翳があった。後ろにいる陽奈子の顔にも、同じものがある。 「ええ――」うなずきながら、フユは言った。「いいわよ」 「ここじゃなんだから、音楽室に行きましょう」 陽奈子がそう提案して、三人は無言のままその場から移動をはじめた。途中、フユは窓の外の重苦しく曇った空を見た。まるで泣きたいのを我慢しているような空模様だった。視線を元に戻して、けれどフユは自分がそんなふうに思ったことを不思議に感じている。 音楽室には誰の姿もなかった。薄い暗闇が、何かを隠しているような静かさでそこにある。扉を開けると、明かりをつけてまず渚が中に入った。 暖房の入っていない教室は冷たく、息が白くなるほどの寒さだったが、三人とも何も言わなかった。まるでこの場所に来ることは二度とないのだから、とでもいうように。 最初に口を開いたのは、渚だった。小さな体で敵陣に切りこむ、バスケットボールのポイント・ガード。 「真花が死んだ」 と、渚は短切にものを言った。 「昨日のことだ。うちの親に電話がかかってきた。陽奈子のところにも。何で死んだのかはよくわからない。でもとにかく死んだことだけは確かだ」 「…………」 「あんたは何か知っているんだろう?」 フユは答えず、逆に訊きかえした。 「どうしてそう思うのかしら?」 「私たち、つまらないやりとりをするつもりはないのよ、志条さん」 渚の横から、陽奈子が言った。厳格な教師みたいなしゃべりかたである。 「昨日、あなたが真花といっしょにいるところを、私たちは見ている。そのあとで、真花は死んだ。これ以上、何か言うことはある?」 フユは短いそぶりで、かぶりを振った。もちろん最初から、ごまかせるなどとは思っていない。 ただ、彼女たちがどこまで信じるのか―― 「そう、確かに私は真花といっしょだった。彼女が死んだときも、私はそばにいた」 「やっぱり――!」 渚がそう言って詰めよろうとするのを、陽奈子が手で制した。 「……続けて」 「私と真花は病院に行った。彼女の姉が入院している病院よ。弓村桐絵はすでに危篤状態だった」 二人ともおそらくそのことを知っているのだろう。何も言おうとはしなかった。 「その時、真花には二つの選択肢があった。選択はそのどちらか一つだけ。残念ながら、この不完全な世界では、その二つの選択肢しかなかった。一つは、このまま弓村桐絵の死を看とること。もう一つは、どんな方法でもそれを回避すること」 「姉さんが死ぬ前に、自分のほうが先に死のうってこと?」 自分の発言に顔をしかめながら、渚が訊いた。 「いいえ、もちろん違う。彼女にはたった一つだけ、姉を救う方法があった」 「――そのせいで、真花は死んだっていうの? お姉さんの代わりに」 とても信じられないというふうに陽奈子は言う。 「ええ、そういうことよ」 「いったいどうやったっていうんだ?」 渚が訊くと、フユは正直に答えた。 「魔法を使ったのよ。彼女はその代価を払った」 けれどもちろん、そんな言葉に二人が納得できるはずはなかった。魔法使いでない人間にとっては、魔法のことを本当に理解することなどできはしない。 「まじめに答えてよ、フユ」 「事実よ」 相手を突きはなすようなその言いかたに、渚は思わずかっとなった。 「真花はあんたのこと、いつも心配してたんだぞ!」 「……別に私が頼んだわけじゃないわ」 瞬間、甲高い音が響いた。 フユは叩かれた頬を押さえようともしない。 「友達の言うことじゃないよ、それ」 そう言うと、渚は自分の怒りに耐えきれなくなったようにその場を去っていった。激しい平手打ちの気配だけが、いつまでもその場所に残っている。 「あの子、悪気があってやったわけじゃないから、許してやってね」 やがて陽奈子が、ぽつりとそんなことを言った。 「わかってるわ」 フユはいつもと同じ調子で答える。それから、陽奈子はフユのほうを向いて、 「……でも私も、同じような気持ちよ。志条さんのこと、疑うわけじゃない。あなただって、真花のことは私たちと同じくらい辛いと思っているはず。けど、今の話を信じることはできない。魔法だなんて言われても、そんな話は」 そう言って、陽奈子も渚のあとを追うように音楽室を出ていった。 あとにはただ、フユだけが残されている。まるでたった一人、無人島で救助船に乗りおくれたみたいに。音楽室は再び静けさを取りもどし、秘密の沈黙の中にまどろんでいた。 ようやく痛みはじめた頬を押さえながら、フユはふとあることに気づいていた。 今までずっと、そんなふうに思ったことはなかったけれど―― 弓村真花は彼女にとって、はじめての友達だったのだ。
5
「具合はどうかしら?」 と、フユは訊いた。 場所は弓村桐絵の病室である。室内にはほかに誰もいない。ドアの向こうからは、カートを押す音や、人の足音が聞こえた。面会謝絶の札は、もうなくなっている。 桐絵はまだ起きあがるほどの力はないものの、意識のほうははっきりとしていた。鼻にカニューラをつけ、点滴も外れていないが、生命に別状はない。じき元のように戻れるだろう、ということだった。心疾患そのものは、やはりどうにもならなかったが―― 「調子は悪くないな」 砂に書いた文字のような弱々しさで、桐絵は言った。ちょっと風が吹けばすぐに形を失ってしまいそうな、そんなふうに。 「……今は全力で休むことね。そうすれば、これからよくなっていくだろうから」 「全力で休む、ね」 桐絵は蜉蝣のような、儚い笑みを浮かべる。そのあいだにも時計の針が、知らないうちにいくらか動いていた。 「――ところで、真花のこと聞いたよ」 「ええ」とフユはうなずく。 「死んだって、言ってた」 「…………」 「本当に?」 ――ええ、本当に。 フユはそう言った。 ベッドに横たわったまま、桐絵は天井を見あげる。まるでそこから何かが降ってくるのを待つみたいに。 「……夢をさ」 と、桐絵は言った。 「夢を見てたんだ、たぶん。どこか暗いところに向かってる夢。そこがどこなのかは、すぐにわかった。何しろ毎晩毎夜、私はそこを見てたんだから。すぐ近くまで行って、手で触れたこともある。怖いくらいに冷たくて、空っぽな場所。だからすぐに、そのことはわかった――」 水泳をはじめたばかりの人間が必死に息継ぎでもするように、桐絵はしゃべり続けた。本来ならとめるべきだったが、フユはそれをしない。それをするわけにはいかなかった。 「ああ、とうとうあそこに行くのか、と思ったよ。いつもあんなに怖かったのに、自分でも驚くほど冷静だった。きっと怖いのは一瞬だって、わかってたんだ。そこを通りこしてしまえば、あとはただ落っこちていくだけ。もう自分ではどうしようもない――」 「…………」 「覚悟を決めて、私はただ待ってたんだ。掃除機か何かにでも吸いこまれる瞬間を待つみたいに。でも気づいたとき、そこには何か別のものが吸いこまれてた。それが何なのかはわからなかったけど、暗闇はそれでもう満足したみたいに、私を食べようとするのをやめてしまった。私はそこからどんどん遠ざかっていって、気づいたら左手に羽根みたいなものを握ってた――そして、目が覚めた」 いつのまにか、あたりは静まりかえっていた。ドアの向こうにあったはずのわずかな物音も聞こえない。病室全体が、見えない透明な壁にでも包まれているかのようだった。 「……たぶんそれが、真花だったのよ」 フユは言った。かすかにうつむいて、どこも見ようとしないまま。 「暗闇に吸いこまれたのが?」 「ええ、彼女は自分の生命を代価にして、あなたを救うという願いを叶えた。彼女の魔法〈天使契約〉は、そういうものだった」 桐絵は自分の左手をそっと掲げて、それを見つめた。天使の羽が、まだそこに残っているかのように。 「そっか、真花は私の代わりに死んだんだ」 ぼんやりと、桐絵はただそれが事実であることだけを確認するように言った。 フユはそんな桐絵に向かって告げる。 「愛しすぎたからだ、と真花は言ってた」 「――――」 「あなたを失うことに耐えられないからだ、と真花は言ってた」 「――――」 「私にとってはそれで十分にお釣りが来るんだ、と真花は言ってた」 桐絵は何の感情もない様子で、自分の左手を不思議そうに眺めていた。 その表情に、フユは見覚えがあった。 ずっと昔、一人ぼっちの少女がブランコの上で浮かべていた―― 「――昔々、こんな話があったそうよ」 気づいたとき、フユはそんなことをしゃべりだしていた。自分でも、そのことにうろたえながら。 「……どんな話?」 桐絵は先をうながす。フユは少しだけ逡巡して、けれど続けた。 「昔あるところに、二人の姉妹がいたの。一人は暗くて醜い、いじけた森のシダ植物のような妹、もう一人は――」 それは、志条夕葵と朝香の話だった。 フユは同じような運命をたどった二つの物語を、交差させる。妹のためにその手を捨てた姉、姉のためにその生命を捧げた妹。その二つの別々の物語が、フユを通して関係を結ぶ。 「――わかっていると思うけど」 と、フユはすべてを語り終えてから言った。 「これは志条夕葵と、その姉の話。あの人は言ってる。私は呪いをかけられたんだって。その手を見るたびに、あの人は自分の醜さを思い出す。それは決して、消えることはない」 桐絵は黙って、その話を聞いていた。彼女が心の中で何を思っているのか、フユにはわからなかった。敬愛する作家に対する幻滅だろうか。それとも、共感、憐憫、憎悪、絶望―― 「――私はね、フユ、これが呪いだなんて思ってないよ」 桐絵は静かな、ガラスにでも閉じこめられたような声で言った。 「そりゃ真花がいなくなって、それが自分のためだなんていうのは悲しい。怒りたくも、恨みたくもなる。しかも当の本人は勝手にいなくなって、もうどこにもいないんだから」 そこまで言って、桐絵は少し笑う。 「でもね、私はそのことを思い出すたびに自分のことを嫌ったり、憎んだり、蔑んだりなんてことはしない」 「けど、あなたは彼女を失ったんでしょ?」 ううん違う、と桐絵は首を振った。 「私は失ったんじゃなくて、もらったんだから――」
病室をあとにして階段に向かっていると、後ろから声をかけられた。独特な、金属を鍛造したような声である。振りむくと、宮良坂医師がそこに立っていた。 「少し話をしたいんだが、構わんかな?」 近づいてくると、宮良坂は言った。ここのところ桐絵のことで忙しかったのか、この医師はどこか憔悴した様子をしている。 「構いませんけど」 そう言うと、宮良坂は廊下の隅へと移動した。その先には事務室か医師の控え室があるらしく、人の通りはない。がらんとして、病棟の物音も分厚いカーテンで遮られたよかのようだった。 「弓村桐絵のところに行ってたんだな、君は?」 訊かれて、フユはうなずく。 「例の……魔法のことについて話したのかい?」 「ええ、話しました」 フユが無表情にうなずくと、宮良坂はひどく厄介なことに思い悩むような顔をした。成功率のわずかな難手術を前にしても、おそらくこの医師がこんな表情をすることはないだろう。 「結城先生から、大体のことは聞いている」 宮良坂は心情を吐露するような疲れた声で言った。 「私にはなんとも言いがたいことだ。信じにくいことだし、信じられんことだ。だが弓村桐絵は現実に回復しつつあるし、弓村真花は確かに亡くなった。とりあえず信じないわけにはいかないだろう」 「今回のこと、先生は事前に聞かされていたんですか?」 「ああ、聞かされていた」 宮良坂は冷静で断固とした口調で言った。そこにはごまかしも、後ろめたさもない。 「結城先生から一通りのことは、な。弓村真花のやろうとしていることと、その結果に起こるであろうことについて」 「反対しなかったんですか?」 別に非難しているというわけではなく、フユは訊いた。 「正直なところ、信じにくかったというのはある。何しろ、俺は魔法使いではないんでな」 宮良坂は軽くため息をつくように言った。 「だがそのうえで、もしも弓村桐絵が助かるなら、と思っていたところがないわけでもない。俺の中では魔法云々よりも、そちらのほうが厳然とした事実性を持っていたんだろうな。見えないものを秤に載せるのは難しい。そのために一人の人間が死ぬというのは、とても許容できる話ではないのだが……それでも、な」 「…………」 「賛成はしなかった。だが反対した、というわけでもない。俺には手の出せる話じゃない、と思っただけだ。俺にできるのはせいぜいが、弓村桐絵に万全の対応をしてやることだけだった」 「……桐絵は助かるんですか?」 「すでに小康状態に入っている。各種数値も正常範囲に戻りつつあるし、驚異的な回復を見せている。魔法、としか言いようがないな。このまま順調にいけば、じきに退院することができるだろう」 天使は約束を守ったらしい―― これでもう話は終わりかと思ったら、宮良坂は続けてこんなことを言っている。 「それで君に話があるというのは、別のことだ」 「……?」 フユは不思議そうに宮良坂のことを見る。宮良坂統と自分との関係は、弓村桐絵にしかないはずだった。 「本人が何と言うかはわからないが、君には伝えておくべきだと思ってな」 「何のことです?」 「奈義真太郎のことだ」 何故、宮良坂が奈義のことを知っているのか。 「彼のことを、私は知っているんだ。そしてその関係は、奈義真太郎、君、弓村姉妹、私、というふうにループさせることができる。まったく、妙な因縁だとしか思えんよ」 「どうして先生が、奈義のことを?」 訊くと、宮良坂は答えた。 「伊沢政志のことを覚えているかね?」 確かそれは、デパートでの爆発事故の際、子供をかばって亡くなった男性のことだった。 「彼の甥が、奈義真太郎なんだよ」 フユは顔をしかめる。 「まったく、妙なものだと思うだろう? 伊沢政志のことで、彼は時々私を訪ねてくるんだ。五年前、彼が中学生だった頃からのつきあいだよ。その彼と君が知りあいなんだから、人の縁(えにし)というのは不可思議なものだ――」 宮良坂はそれだけのことを話してしまうと、病棟へと戻っていった。 一人その場に残されたフユは、けれどどこにも歩きだすことができずにいる。蜘蛛の巣のように複雑にからみあった糸の中に、自分がひっかかっていた。奈義、真花、桐絵、宮良坂、季早、ゆずき―― その糸をたぐれば、誰にでも手をのばすことができる。 すべてのことは、関係しあっている。
6
フユは自分の部屋で、机の前に座っていた。目の前には二つのものが置かれている。一つは携帯端末、もう一つは例の追跡で奈義が見つけたという犬のストラップだった。かつては沢谷ゆずきの持ち物だったものだ。 窓の外には夕闇が迫りつつあった。冬の日没は早くて、暗い。まるで何かの実験でもするみたいに、気がつけば暗闇があたりを満たしている。夏の宵闇とはまるで違う、何かを拒むような輪郭のくっきりとした暗闇だった。 奈義に連絡をとろうとしたのだが、携帯は何故か通じなかった。それも電波の都合や電源が切られている、ということではない。まるで回線がつながらないのだ。そもそも、そんな相手は存在していない、というように。 フユはストラップに手をのばして、ぼんやりとそれを見つめる。 あの時、ゆずきの〈孤独証明〉でつながりを切られて、追跡不能にされた代物だった。そのあと、「これやるよ」と奈義が言ってフユに渡している。そんなものいらない、と言うと、「じゃあ預かってるってことでいい」と言われた。そのストラップを、フユは捨てずに保管していたのである。 以前に見たとおりの、つぎはぎだらけにされた犬をデザインしたものだった。自分でないものをくっつけられながら、そういう自分でしかいられない存在。体の一部になってしまった異物を、もう切り離すことはできない。 しばらくしてから、フユはストラップをポケットに入れて立ちあがった。外出の用意をしてから、部屋を出る。 リビングの横を通るとき、フユは中にいた夕葵に声をかけた。夕葵はスケッチブックに向かって、また何かのアイデア画を描きこんでいる。 「倉庫から、魔術具を一つ借りたいのだけど」 と、フユは言った。夕葵は興味というほどのものではないがちょっと意外だ、という顔でフユのほうを見る。 「あんたが自分で勝手にそんなことを言うなんて、珍しいわね」 いつもなら、魔術具の持ち出しは誰かに指示されたから、とフユは言うはずだった。 「何に使うつもりなの?」 「昔の自分に会いに行くのよ」 夕葵は首を傾げたが、結局はそのもの言いに笑った。立ちあがって鍵を取ってくると、二人は工房の奥にある倉庫へと向かう。 本来なら魔術具の持ち出しには結社への申し立てが必要なのだが、特に監査機関があるわけではない。結社の関係者でさえあれば、実質的には夕葵の一存で中の物を自由に貸しだすことができた。 いくつもの棚にガラクタのように積まれた魔術具の中から、フユは丸いわっかのようなものを選んだ。魔術具はどれも奇妙なデザインをしているので、夕葵にはそれがどんな用途のものかはわからない。 倉庫を出て、電気をつけていない工房に戻ってから、フユは夕葵に言った。 「二人のこと、ある人に話したわ」 「…………」 「その人も姉妹で、同じように魔法を受けた。一人が犠牲になり、一人を救った」 霞のような暗闇の中に、二人の姿は急速に薄れつつある。声だけが、その向こうから確かな存在を伝えていた。 「でもその人は、それを呪いだとは言わなかった。悲しいし、怒りたくも恨みたくもなるけど、でもそうじゃない。それは失ったんじゃなくて、大切なものをもらったからだって――」 「あたしは朝香からそれを奪ったのよ」 「ううん、違う」 フユは言った。 ずっと昔、雪の降るブランコにたった一人で座っていたとき、この世界の外側に弾きだされそうになったその時。たった一人だけ声をかけ、手を差しのべてくれた人―― だから、フユにはわかる。 「あなたは――母さんは、やっぱりそれをもらった。もらっても、いいんだと思う。例えそれに憎しみや後悔しか抱けないのだとしても。母さんはそうやって、世界とつながっている。それは決して、間違ったことじゃない」 「…………」 「少なくともあなたは、そうやって私を救ってくれた」 それだけのことを伝えると、フユは入口からその場所を出ていこうとした。夕葵がそれをどんなふうに受けとったのかはわからない。それでも、渡すべきものは渡したつもりだった。 夕葵はけれど、そんなフユに向かって声をかけている。 「――フユ、あんたは決してガラスじゃないけど、ガラスみたいにあたしの心を惹きつけた」 彼女はまるで、本当の子供にするみたいに優しく言った。 「あんたはやっぱり本当に、あたしによく似ている……だから、できるだけ遅くならないように家に帰ってきて」 フユは入口で後ろを向いたまま、ただ黙ってうなずいた。
7
この時間、城址公園にはさすがに人影はなかった。 日増しに密度を増していく冬の濃く重い暗闇が、あたりを覆っている。空は雲に閉ざされ、月明かりもない。公園のあちこちに立てられた水銀灯だけが、冷たい光を放っていた。 フユの足元では玉砂利を踏む音が、まるで硬い雪の上でも歩くみたいにして響いていた。水銀灯のそばで足をとめて、フユは白い息を吐く。誰かに言いそこねた言葉みたいに、白い塊は暗闇の中へと消えていった。 歩きながら、フユは妙なものだと思った。奈義にはじまったつながりが、予想外の経路をたどってまた元に戻っている。それがいったい、何を意味するのか。 やがてフユは、遊具の置かれた小さな一画にやって来た。中央の明かりが全体を冷ややかな光で照らしている。まるでそこだけが、月の裏側とでも直接つながっているみたいに。 公園にあるブランコのところに、人影が一つあった。誰かを待っているような、誰かに助けを求めているような、そんな―― 「こんなところで何をしてるの、奈義真太郎?」 フユが声をかけると、その男は座ったまま顔をあげた。 「よくここがわかったな、フユ」 「あんたと同じ魔法を使ったのよ」 「俺と?」 フユはポケットから、あるものを取りだした。つぎはぎにされた犬のストラップである。 「それは、あの時の?」 「ええ、どこかの作家に飼われてた、フォックステリアみたいではないけれど」 そう言って、フユは少し笑った。 「……これを私に渡したときのこと、覚えてるかしら?」 「やるよって言ったら、いらないって言ったな」 「そう」フユはストラップをポケットにしまった。「その時、このストラップの関係がどうなったかわかる?」 「…………」 「あの時、沢谷ゆずきから関係を切られたこのストラップは、その所有権をあんたに移した。そしたあんたはそれを私にやろうとしたけど、私は断わった。つまり、このストラップの持ち主は奈義真太郎というわけ」 「追跡魔法≠ゥ」 「あんたの〈境界連鎖〉と同じ、ね。でも、本当は違う。あんたの本当の魔法はそれとは別のものだった」 「…………」 「思えば変なものよ。私がはじめて弓村桐絵を訪ねたとき、そこには宮良坂統のところにやって来たあんたがいた。その宮良坂統は、たまたま弓村桐絵の主治医だった。何もかもがつながっている。そしてその本当の中心は、私じゃなくてあんただった」 「面白そうだな」 と、奈義はブランコに腰かけたまま、いつものようなとぼけた顔をする。 「どういうことか、説明してもらおうか」 「――そもそも、これは話のはじめからおかしかった。いるかいないかもわからない魔法使いを探せ、なんていうところから」 「魔法使いの発見は、結社の任務としてはおかしなことじゃないはずだが」 「確かにそうよ」フユは逆らわなかった。「でもやはり、不自然なことには違いない……そう、まるで魔法使いのいることが最初からわかっていたみたいに」 「…………」 「その辺のことは、よくわからない。でも確かにわかっていることが一つある。それはあんたがある時点から、沢谷ゆずきが魔法使いだと気づいていたこと」 「俺が? 彼女を? いったいいつからだ」 「おそらくそれは、例の自販機の話あたりからでしょうね」 フユは奈義の前に立ったまま続ける。 「あの時、あんたは予感した。その自販機を使えなくしたのは、彼女が無意識に魔法を使ったせいじゃないのか、と。そして駅前で頻繁にライブを行っている彼女の行動範囲は、例の地図とも一致する」 「それはすべて、推測にすぎないな」 「――あの時、あんたが何て言ったか覚えてる?」 「何?」 「はじめて彼女のライブを聞いたあとでのことよ。あの時、あんたは質問するときにこう言ったわ。『どんなやつが関わってるんだと思う?』――このセリフ、おかしいわよね」 「…………」 「沢谷ゆずきは魔法も、魔法使いのことも知らないはずだった。それなのに一連の現象のことを訊かれて、それを誰かの仕業だと考えるのはおかしい。でも、沢谷ゆずきはその質問に疑問を持たなかった。彼女はすでに知っていたからよ。それらの原因が、自分なんだということを。そしてそれを確認するために、あんたはあんな質問をした」 「彼女は適当に答えただけかもしれない。ライブのあとで疲れていただろうしな」 「でも、あんたが彼女を疑っていたことは間違いない」 フユはさらに言葉を重ねた。 「それに、おかしなことはまだある」 「何のことだ?」 「ストラップのことよ。あんたが〈境界連鎖〉とやらの魔法で彼女の跡を追ったっていう、あの」 「別におかしくはないだろう。現にそいつは彼女の持ち物で、だからあの時も道の先で待ち伏せすることができた」 「おかしいのよ、それが」 フユは首を振った。まるで子供がいなやをするかのように。 「あんたはどうして、そのストラップが例の魔法使いのものだとわかったの?」 「…………」 「まさか、落とすところを目撃したわけではないでしょう? つまりあんたにはそれが魔法使いのものだとわかる、何か理由があった。そもそも、こんな小さなストラップを夜中にそう簡単に発見することができるかしら?」 「……何が言いたい?」 「あんたが見つけたのはストラップだけじゃなかったってことよ。それが沢谷ゆずきのものだとわかる、何か別のものといっしょだったはず。そして思いかえすとあの時、逃げる彼女は当然持っているべきはずのものを持っていなかった。それは、ギターよ」 「…………」 「おそらく酔っ払いから逃げるときに、邪魔にならないようにそれをどこかに置いていったんでしょうね。あとで回収するつもりだったはずのそれを、あんたが偶然見つけた。ギターを見つけたあんたにはすぐにわかった。そのギターの持ち主と、誰が魔法使いなのかが」 「なかなか面白いな」 「――でもあんたはそれを、私に隠してた。二度目の追跡のとき、彼女が私に警告したのはそのことだった。彼女はあんたに自分の正体がばれていることを、すでに知っていたのよ」 奈義はしばらく黙っていたが、やがて言った。 「何故、俺がそのことをお前に隠しておかなくちゃならない」 「あんたには別の目的があったからよ。本当の目的が」 フユは即座に返答する。 「本当の目的……?」奈義は愉快そうに言った。「何なんだ、それは」 「一言でいうなら、復讐ね」 「俺はそれほど情熱的な人間じゃないな」 「でも伊沢政志のことでは、そうではなかった」 「…………」 奈義は口を閉ざす。 「問題は、あんたが弓村真花と沢谷ゆずきの両方に接触のあったことだった」 フユは淡々とした口調で続けた。 「本屋のバイトをしてたっていう、そのことでよ。二人はそこであんたと出会い、一人は魔法使いになり、もう一人はその魔法に変化が生じた……大胆な想像をすると、こんなふうに考えられる。あんたはその二人に、魔法の核みたいなものを渡したんじゃないか、と。おそらくそれは、複数人に対して無作為に行われた。いざというとき見つけやすいように、同じ中学の生徒を対象にして」 「…………」 「魔法の核は、誰に与えても結晶化する、というものではなかったんでしょうね。だからあんたはそれを、できるだけたくさんの人間にばらまいた。結果として、沢谷ゆずきには魔法の素質が現れ、その副産物としては弓村真花の魔法に変化を起こした。けどあんた自身には、誰にどんな魔法が生まれるかはわからなかった」 フユはポケットから、携帯端末を取りだした。結社の人間にだけ使用可能な、見ためには何の変哲もない代物。 「これであんたに連絡をとろうとしたのに、電話はつながらなかった。でもそれはおかしい。結社の〈悪魔試験〉を受けた人間であれば、問題なく連絡はとれるはず。これはまるで、そうではない人間みたい――」 「〈悪魔試験〉を解くことはできない」 「普通なら、そうでしょうね」フユは静かに言った。「でも同じようなことを、私は知っている。私の〈断絶領域〉を解除したのと同じようなことを。例の〈孤独証明〉なら、それができるはず」 「…………」 「あんたは〈悪魔試験〉を解くための方法を探っていた。そして自分の魔法を使って、魔法を解く魔法を手に入れようとした。一つの中学に限定して、都合のいいようそこに通う私を仲間にして」 「結社に復讐するために、か」 「そうよ、五年前の爆発事故。たぶんそれは、結社が起こしたものだった。だから今回のことは、最初からあんたが仕組んだことだった。すべての関係は、みんなあんたをはじまりにしていた――!」
あたりは沈黙に覆われていた。水銀灯の光が雪のように地面に積もる音が聞こえる。銀色をした見えない蝶が、すぐそばで羽ばたくような音だった。 奈義はそっと、一滴の水を零すようにして言った。 「確かに、俺の魔法が〈境界連鎖〉だなんていうのは嘘だ。あれはただの追跡魔法≠セよ」 「…………」 「〈幻想代理(クラウン・ギフト)〉――それが俺の魔法だ。お前の言うように、人に魔力を与える*v@だ。その結果、特殊魔法に目覚める人間もいる。そしてその場合にはもう一つ、与えた魔力を魔法といっしょに取りもどすことができる=v 「沢谷ゆずきの様子がおかしくなったのは、そのせいなの?」 フユは彼女の友人だという女子生徒に聞いた話を思い出している。 「ああ、そうだ。彼女の魔法は今は俺が持っている。それを使っていくつかの記憶を消した。彼女はもう何も覚えていないし、害もない。魔法がなくなれば、ただ少し孤独なだけの、ごく普通の女の子でしかないよ」 「弓村真花のことは?」 「あれは俺も予期せぬ事態だった。魔法使いがそうごろごろいるもんじゃないからな。もっとも、彼女自身はそれを拒みはしなかったが」 「……会ったことがあるのね、真花と?」 「魔法のことについて訊かれたよ。彼女は気づいていたんだな、俺が魔力を配っていたことに。それがどういうものなのか、その効果がいつまで続くのか、そんなことを質問されたよ」 そう―― 弓村真花がフユにこだわった理由の一つは、そのことだった。奈義の正体を知るために、彼女はフユとの関係を維持したほうが好都合だったのである。 (もっとも、それだけではないんでしょうけど……) もういなくなってしまった少女のことを考えながら、フユはふとそんなことを思う。 「あとのことは、大体お前の言うとおりだ」 奈義はそう、かすかに笑うようにして言った。 「俺は結社の魔法を解くために、魔法を解除する魔法を探してた。同じようなことは、すでに今までも何度か試したことがある。ほとんどは知りあい相手だ。だが今回は思いきって規模を大きくした。ただしお前の推察通り、同じ中学に範囲を限定してだったがな」 フユは黙ったまま、奈義の話を聞いた。 「魔法使いの噂が広まりはじめたとき、俺は目的の魔法に近いものができたんじゃないかと思った。関係を切る――結果的には、それは俺の期待したとおりの魔法だった。俺は魔法使いの特定を急ぐと同時に、それが完成するのを待った。最初に沢谷ゆずきを追跡したとき、お前の魔法を消したのを見て間違いないと思った。これが俺の望んでいた魔法だ」 「――そしてあんたは、彼女から魔法を取りかえした」 「彼女は結局、自分とギターとのつながりは断てなかった。それが彼女にとって、本当の完全世界だったからだ」 フユは一瞬うつむいてから、坂道でボールを手放すようにして言った。 「あんたは何故、そのことをずっと黙っていたの?」 「お前のことを信用していなかった……というのは、半分嘘だ」 奈義は言いながら、少しだけおかしそうに笑った。 「本当のことを言うと、誰かを巻きこみたくなかった。これは俺の個人的な、私怨だ。いや、それも本当じゃないな――俺は、お前を巻きこみたくなかった」 「…………」 「ここからは、お前の知らないことを少し話してやろう」 奈義はそう言って、芝居がかかった咳払いを一つした。 「――昔々のことだ。一人の少年がいた。とても不幸な少年だ。父親はどこの馬の骨とも知れないろくでなし。そのろくでなしがいなくなってしばらくすると、母親のほうは精神に変調をきたした。世界中がよってたかって自分を罠にかけようとしているんだと言いはじめた。実の息子を悪魔の子供だと罵った。そいつがいるから、自分は幸せになれないんだ、と。 やがて母親は病院に入れられ、少年は一人ぼっちになった。少年をひきとってくれたのは、その伯父さんだった。変てこな人だったが、その人は確かなやりかたで少年を愛してくれた。少年はようやく水の底から浮かびあがったみたいに息をすることができた。少年は幸福だった。そこが、少年の完全世界だった。 ところが、その伯父さんは死んでしまった。爆発事故に巻きこまれた。少年はひどく悲しんだ。失われた完全世界を、彼は求め続けた。そんなものは、もうどこにもないことを知りながら。だが何年かして、彼はある結社が例の爆発事故を起こした犯人だと知ることになる。そこで、彼は決めた――完全世界を取りもどすことを」 話は静かに終わった。まるで雪が融けていくみたいに、静かに。 「その伯父さんが、復讐なんて求めているとは思えないけど」 フユは言った。その問いかけが無意味なものだと、自分でも知りながら。 「――だろうな」 奈義は簡単にうなずく。 「だが、俺はそれを求めている。どうしようもないくらい、強く」 「そんなことをしても、完全世界は取りもどせない」 「いや、取りもどせるのさ」 奈義はそう言って、穏やかな笑みを見せた。 その顔に、フユは見覚えがあった。 つい最近にも、それを同じものを見たのだ。どう考えても損な取り引きをしながら、それを少しも後悔していない顔―― 「そんなことをしたら、きっとあなたは殺される」 「かもしれないな」 「伯父さんがそれを喜ぶとでも?」 「死んだ人間は何かを喜んだりはしない」 「――――」 フユは何かを言おうとして、けれど何の言葉も出てこないことに気づいた。そこには見えない壁があった。どんな魔法を使っても、その壁を消すことはできない。 「――やめて、そんなことをしても意味がない。何も手に入らない。何かをもっと、失ってしまうだけ」 奈義はブランコから腰をあげて、フユの前に立った。 「今のままで何が悪いの? 失ったものを求める必要なんてない。そんなことをしたら、もっと失われていくだけ。心を閉ざしてしまうほうがいい。月の裏側かどこかで、小さな箱の中にでも入っているほうが」 「――フユ」 言われて、フユは顔をあげる。今にも泣きだしてしまいそうな顔を。 「少しじっとしてろ」 奈義は何かを取りだすと、フユの前髪にそれをつけてやった。雪のひとひらが音もなく手の上に乗るように、そっと。 「何なの、これ?」 フユは訊く。 「髪留めだ。お前の母親、志条夕葵が作ってくれた」 ――それは雪の結晶を象った、ガラス製の髪留めだった。六角形のその透明な花は、そうあるのが自然な美しさで、フユの前髪を飾っている。 「共鳴魔法≠フ魔術具を借りに行ったときに、彼女から渡されたものだ。本当は彼女が直接渡すのが筋なんだろうが、俺にやって欲しいと言われた。ちょっと渡しそびれちまったけど、今お前にやるよ」 「…………」 「お前の母親はお前を愛してくれてるよ、フユ」 そう言って、奈義は満足そうにフユのことを見つめている。少しもまじりけのない、純粋な笑顔を浮かべながら。 フユはただ、そんな奈義を見ているしかない。 「それから、もう一つ」 と、奈義は言った。 「お前にかかっている魔法を解いてやろうと思う」 「何?」 フユは顔をしかめた。この男は何を言っているのか。 「〈悪魔試験〉を解く。これから、それがお前にとって必要になるかもしれない。わかるだろう? 完全世界は、もうお前には必要ない」 「…………」 「俺がこんなことを言うのもなんだが、完全世界はもういらないんだ。人は魔法を失った。そのほうがよかったからだ。俺たちはこの不完全世界に生きる魔法使いだ。完全世界は、もういらない」 フユはしばらく黙ってから、言った。 「あんたがそう、望むのなら」 「――ああ」 奈義は静かに手をのばして、フユの額にかざした。そして魔法の揺らぎが起きると、朝の光に月がそっと姿を消すみたいに、フユにかかった魔法は解けてしまう。 「これで、お前は結社から自由になる」 と、奈義はフユの頭から手をどけた。 「このあとは、魔法委員会に保護を求めたほうがいいだろう。少しくらいは役に立つ。結社にしても、ことに気づけばそれなりの動きはしてくるだろうからな。注意したほうがいい」 こくん、とフユはうなずく。そのほかに、どうすることもできない。 「それから最後に、こいつも渡しておく」 奈義は照れ隠しのように、急にそんな顔をして言った。 「俺がお前にしてやれる、これが最後のことだ」 「……何のこと?」 「お前に、俺の魔法を渡しておく」 奈義真太郎の〈幻想代理〉は、人に魔力を与える魔法だ。 「何かの役には立つかもしれない。純粋な魔力だけだが、どのみち俺にはもう必要のないものだ。全部お前にくれてやるよ」 「形見わけでもするつもり?」 魔法の形見というのも変な話ではあった。 「そんなようなものだな」 言われて、フユは子供みたいに首を振った。 「そんなものいらない。あんたが死んでもいいなんてつもりでそうするのなら、私はそんなものいらない。そんなもの、欲しくない――」 「なら、預かってくれるだけでもいい。お前がそう望むなら」 「…………」 「どっちにしろ、お前にはこれを拒むことはできない。壁を作ったって、俺はそれを消してしまう。お前がどんなに強くて固い壁を作ったって、俺にとってはそんなの何の意味もないことなんだ」 フユはぐっと、拳を握る。けれど、少しも動くことさえできない。 「やめて……」 「お前は誰かに愛されるべきだよ。誰かに愛される資格がある。お前は誰かを傷つけるような人間じゃないから」 「……やめて、心が痛い!」 フユは叫んだ。 けれど―― 奈義はそっと、フユの頭に手を乗せる。 それは、優しい手だった。 かつてフユをブランコの上に残して、さよならを言うために振られた手。すべてのつながりを残酷に断ち切ってしまった手―― それとは、まるで違う。 奈義の手が、フユの頭を優しくなでてやった。 「俺の最後の魔法だ。俺の全部をお前に渡しておく。何かのお守りくらいにはなると思うから」 何故だか、フユは泣いていた。 奈義の魔法がゆっくりと、自分の中に入ってくるのがわかる。その魔法は、フユの中にあった壁を壊してしまったみたいだった。そして、その場所で小さな箱に閉じこめられていたものを、広い場所へと解放していく。 おそらく、フユはようやく泣けたのだ。 あの時、雪の降るあの日に流すべきだった涙を。心の中に降りつもったまま、ずっと凍りついていたその涙を。 フユはようやく、流すことができていた。 ここはもう、月の裏側なんかではない―― 「悪いな、フユ」 奈義の言葉に、フユは子供みたいに泣きじゃくりながら言った。 「私はあんたのことが好きだった!」 「ああ……」 「とても、好きだったのに!」 フユは叫んだ。 強く。何かを願うように、強く。 「……そのうち雪が降って、みんなが寒さに震える」 奈義はそんなフユの頭をそっとなでてやりながら、言った。 「その雪もいつかは融けて、春になる。でも俺は冬が好きだよ。冬は素敵な季節だから。みんなに穏やかさと温もりを教えてくれる、素敵な季節だから」 「…………」 「大丈夫、つながりはなくなったりしない。それは少し、形を変えるだけなんだ」 そして、奈義は言った。 「フユ、お前は俺とよく似てるよ」 それが奈義真太郎が志条芙夕に与えた、最後の贈り物だった。
8
――フユはブランコに座って、じっとしている。 奈義がいなくなってしばらくすると、雪が降りはじめた。言葉にならないものを伝えようとするような、そんな雪だった。手をのばすと、雪はかすかな冷たさだけを残して音もなく融けていく。 結局、フユは一人だった。奈義は彼女を置いて行ってしまった。自分の完全世界を求めて。フユはまた、一人だけ残された。 いや―― それは、違う。 フユはふと、水銀灯の光に人影が差したのに気づいた。奈義ではない。それよりはひとまわりほど背が低い。それに、奈義真太郎が戻ってくることはありえない。 人影はフユの前に立つと、口を開いた。 「俺のこと覚えてるか?」 フユはその少年を見て、そして気づいた。中学校の階段で、フユに声をかけてきた例の少年である。 「どうして、あなたがここに……?」 「――俺は久良野奈津」 と、少年は名のった。 「早い話が、あんたの味方だな」 フユには知るよしなどなかったが、この少年は二年ほど前のある出来事をきっかけにして、委員会と結社の両方に接触を持っていた。 「ここに来たのは、奈義さんにそう言われてたからだ」 「奈義に?」 フユにはわからなかった。この少年と奈義に、どんな関係があったというのか。 「あなたはあの時、私に警告したはずよ。奈義の協力者だというなら、そんな必要はなかったはず」 「あの時は時間稼ぎをする必要があったんでね」 ナツは飄々とした、どこかとらえどころのない態度で言った。 「魔法が完成するまでは、あんたにあまり手を出されるわけにはいかなかった。そのためにあんたの注意を少しそらしておくよう、頼まれたってわけだ」 「路上ライブの時、近くにいたのは?」 「あれは偶然だ。何かまずいことがあったときに対応するため、こっちでも駅の周辺を警戒してた。魔法使いを探してたのは、あんたたちだけじゃなかったってことだ」 フユはけれど、まだわからないことがあった。 「どうして奈義は、あなたといっしょに? あなたは魔法委員会の人間ということ? 奈義は結社に入る前からあなたと?」 ナツはうるさがりもせず、質問の一つ一つに答えていく。 「まず、俺は魔法委員会とは直接の関わりはない。ただ、結社の連中とは対立関係にあるってところだな。昔、追いかけまわされたことがある」 「…………」 「奈義真太郎は、最初から復讐するつもりで結社に入った。ただ、そのつもりで結社に入っても、結社を裏切ることはできなかった。例の魔法にひっかかるからだ。ただ、裏切りをどう定義するかの問題がある。今回のことは、その間隙を突いたってところだな。例の魔法は例えば、魔法委員会との接触そのものは禁止していない。現に、雨賀秀平は過去に委員会と取り引きをしている。明確な敵対行為や禁止事項以外は、裏切りとはみなされないらしい」 「だから、奈義はあなたの協力を得ることができた?」 「俺が手伝ったことは、具体的には二つある。一つは魔法使い探し。もう一つは、魔法の偽装」 「〈境界連鎖〉のこと?」 ナツはうなずいた。 「あれはただの追跡魔法≠セ。けどいつも魔術具を持ち歩いてたんじゃ、すぐに偽装がばれてしまう。だから一手間入れた。俺と千ヶ崎朝美という人の魔法を使って」 「…………」 「詳しい説明は省くが、俺が奈義さんの服に魔術具の記号を描きこんで、千ヶ崎さんの魔法でそこに魔法をコピーした。魔法のことを偽っておけば、いざというときに役立つだろうと思ったからだ。そこまでの細工をしてから、あの人は結社に入った」 五年前の爆発事故、その事故を起こしたのが結社だと突きとめる、魔法委員会との協力、結社への潜入、魔法を解除した奈義は復讐をはたすためにどこかへ向かった―― 「そして魔法委員会は、奈義を捨て駒として利用した、というわけね」 「平たく言えば、そういうことになるだろうな」 にらみつけるようなフユの視線を、ナツは軽くいなしている。 「委員会では今回の見返りに、奈義さんからいくつかの情報を得た。ただ、委員会ではまだ結社と本格的に事を構えるつもりはないらしいから、奈義さんを援護することもないし、見殺しにしたと言われても反論はできない」 「だったら――!」 「なら、どうしてあんたはここにいる?」 ナツが静かに告げると、フユは口を閉ざした。 「それはあの人が、自分で決めたことだからだ。自分一人で行くと、決めたから。誰かにそれを翻させることはできない。干渉することも――」 わかっていた。 フユにもそれは、わかっていた。奈義は最初から、そのつもりだった。一人ですべてを終わらせるつもりだったのだ。 すべての関係は、彼からはじまっていたから。 「でも、私は――」 フユはブランコの鎖を強く握りながら言う。 「私はこれでまた、一人になってしまう」 「――いや、一人じゃない」 ナツは言って、何か合図のようなものを送った。 すると暗がりの向こうから、人影が二つ現れている。それは意外なことに、両方ともフユのよく知っている人物のものだった。 「どうして、あなたたちが……?」 二つの人影――宮藤晴と水奈瀬陽は、にっこりとフユに笑いかけている。 「あの人も言ってたよね」 と、ハルは言った。ずっと昔、小学生だった頃と同じ態度で。 「つながりはなくならない。それは少し、形を変えるだけだって――」
※
――四つの季節が巡る。 四人の子供たちと、いっしょに。すべての事柄がつながりながら。 空からは静かに、雪が降りはじめていた。すべてのものを柔らかく押しつぶしてしまおうとするように。透明な、名前もつけられることのない花々が、世界を覆う。 けれどそこに、フユは一人ではない。そこには仲間がいる。同じように不完全世界をくぐり抜けてきた仲間が。 この世界で、志条芙夕は決して一人でいることはない。
9
目隠しを取られたのは、ようやく建物の中に入ってからだった。 奈義が無言であたりを見まわすと、そこはどうやら洋風建築の玄関部分らしかった。広いホールがあって、その両端に二階の廊下へ続く階段が設置されている。天窓から光が射しているらしく、室内空間には新鮮な光が充満していた。 「――こっちだ」 と、奈義の前にいた男が言った。 牧葉清織、結社の主な連絡係を務める男だった。 「ああ」 清織の案内にしたがって、奈義は歩きはじめる。かなりの年代を感じさせる立派な建物だが、人の気配はほとんどない。廊下や窓ガラスなどよく手入れされているらしいのが、逆に不気味だった。この館では、時間が停まっているのかもしれない―― そもそも、この洋館がどこにあるのかさえ、奈義にはわからなかった。車での移動中、ずっと目隠しをされていたからである。市内のどこかではあるようだったが、見当もつかない。 「この場所がどこかは考えても無駄だよ」 歩きながら、前を行く清織が奈義の思考を読んだように言った。 「いくつかの魔法で位置がわからないように細工されてる。それにあの人がいつもここにいるとはかぎらない。同じような場所はほかにもいくつかある」 「しゃべりすぎじゃないのか、それは?」 奈義は皮肉っぽく訊いてみた。 「君を信頼してるからだよ」 気にしたふうもなく、清織は慇懃に微笑んだ。 廊下から見える窓の外では、雪が降っていた。昨夜から降りはじめた雪だ。昨日と今日の境いめを、その雪だけがつないでいる。 やがて一つの部屋の前で、清織は足をとめた。そこにこの館の主人がいるらしい。清織は軽くノックをしてから、奈義に言った。 「ここからは君一人だ。うまくやることを祈ってるよ」 「…………」 清織がその場を去ると同時に、奈義は扉を開けた。軋み一つあげるわけでもなく、扉は開いていく。 執務室といった感じの、小さめの部屋だった。重厚そうな机のほかに、装飾らしいものの類は一切ない。室内は薄暗く、明かりもつけられていなかった。大きな窓の外に雪が降っているのが見えたが、そこからは何故か十分な光が入らないらしい。まるで部屋全体が光の侵入を拒んでいるかのようだった。 正面右手の壁近くに、少年が一人控えていた。せいぜい小学生くらいの背格好で、その存在が、この部屋唯一の装飾といってもよさそうだった。とはいえ、別にそういう趣味のためではなく、警護を目的にした魔法使いか何かなのだろう。 そして、机の向こうには一人の男が座っている。 ひどく禍々しい雰囲気をした男だった。別段、変わった人相や体格をしているわけではない。むしろよく整った、役者のような顔つきをしている。けれどそこには、底なしの夜の中にでも棲んでいるような、一種凄絶とした何かがあった。年齢は三十代半ばといったところだが、もう千年も闇を見続けてきたような目をしている。 (こいつが――) 初めて会ったときは仮面をしていたのでわからなかったが、その男が結社の主人である鴻城希槻(こうじょうきづき)その人であることは間違いなさそうだった。 「奈義真太郎です――」 と、奈義はできるだけ平静を装おうとした。けれど声に緊張がにじんでしまうのを、自分でもどうすることもできない。 「話は牧葉のやつから聞いてる。何か重要な用件があるらしいな」 鴻城はまるで人形でも相手にするような、無造作な口ぶりで言った。 「――はい」 「話してみろ」 奈義はその言葉に答える前に言った。 「一つ、お願いがあります」 鴻城は返事をせず、ただ机の上に肘をついて両手を組みさわせただけだった。 「人払いをしてもらいたいんですが」 「何のためにだ?」 「俺はあなた自身に関わる重大な秘密の話をするために来ました。他人に聞かせるわけにはいかないでしょう?」 鴻城は少し考えるふうだったが、やがてふっと笑った。どちらかというとその笑顔は、猫が鼠をいたぶるような凄惨なものだったが。 「まあいいだろう。ニニギ、聞いたとおりだ。しばらくここから離れてろ」 鴻城がそう声をかけると、少年は黙ったままこくりとうなずいて部屋を出ていった。少年がいなくなると、室内の暗闇がわずかに濃くなったようでもある。 「これでいらん気づかいはなかろう。好きに話していいぞ」 鴻城希槻の態度には、絶対の自信がうかがえた。それはそうだろう。彼の〈悪魔試験〉にかかった人間は、どうあがいても彼に直接の危害を加えることはできない。例えどれほど強力な武器を持っていたとしても、この男の前ではすべてが無力だった。 そしてこの館には、そうでない魔法使いは入れないことになっている。 「……その前に、あんたには聞いておきたいことがある」 部屋の中で二人きりになったところで、奈義はそれまでとはがらりと口調を変えて言った。 「やはり、本性はそれか」 だが鴻城は落ち着いている。最初から、予見はしていたのだろう。そして〈悪魔試験〉があるかぎりは、この場所で魔法使いが彼を傷つけることは不可能だった。 「伊沢政志という名前に聞き覚えは?」 奈義はポケットから無骨な鉄の塊を取りだしながら訊いた。ベレッタM84、本物の自動拳銃だった。 「いや、ないな」 スライドを引いて、薬室に弾丸を装填する。同時に撃鉄が起こされて、発射準備が調った。 「あんたが委員会の魔法使い相手に起こした、爆発事故の巻きぞいを食って死んだ男の名前だ。俺の伯父さんだった。偶然現場に居あわせて、子供をかばって致命傷を負った。柄にもないことをしたとは、俺も思うよ。だがあの人は、俺のたった一人の本当の家族だった……!」 「名前が違うようだが?」 「あの人は母方の親戚でね」 奈義は銃口を向け、左手でそれを支えた。ほとんど一メートルもないほどの距離である。外す心配はない。 「つまるところ、復讐か」 鴻城は目の前の状況にもかかわらず、平然としていた。 「気の毒なことだった、とだけは言っておこう」 「例え泣いて土下座したところで、あんたのことを許しはしない」 銃口はぴたりと、鴻城の頭部にあわせられている。 「俺を殺して、それでお前は何を得る?」 鴻城はその銃口よりなお暗い眼で奈義を見た。 「完全世界を取りもどす」 奈義は引き鉄にかすかな力を加える。あとほんの少し余計な力を入れるだけで、銃弾は発射される。 「奇遇だな、俺も同じことを望んでいる。だが〈悪魔試験〉があるかぎり、お前の望みがはたされることはない」 「試してみるか、再試験でもして」 「面白い」 にやりと笑ったとき―― 轟音が、響いた。 衝撃で大きくのけぞった鴻城の体は、イスごと後ろに倒れる。正確に頭蓋を砕いた直径九ミリの弾丸は、脳の中枢の大部分を破壊し、炸薬によって生じた運動エネルギーを使いはたして、そこで停止した。 床に横たわった鴻城の体は、もうぴくりとも動かない。 「――あんたは試験失格だ」 最後にそう言ったことを、奈義は覚えている。 そのあと、どこをどう歩いたのか、気づいたとき奈義は館の中庭にいた。一面が雪に覆われ、中央にある噴水も今は水が涸れている。歩くと、足元で雪の壊れる音がした。 空からは切れ目なく、白く小さな塊が降ってくる。 涙は出なかった。 それはもう、志条芙夕が流してくれていた。大切なものを取り戻した涙を。そう思うと、奈義は少し笑った。彼女のために何かしてやれたということが、ひどく嬉しかった。 (ああ、そうか――) と、奈義は心の中の何か温かいものに触れながら思った。 (俺もやっぱり、あいつのことが)
――そして、奈義は地面の上に倒れた。
すでに心臓が停止しているのが、自分でもわかる。体の中の時間が逆回転していくような、奇妙な感覚があった。全身がどこか一点に圧縮されて、すべての機能が失われようとしていた。激しい痺れを感じ、けれどそれもすぐに薄れていく。 急速に暗くなっていく視界の中で、奈義は先ほどの少年がすぐそばに立っていることに気づいた。おそらくこの少年が何らかの方法で、自分の心臓の鼓動を停止してしまったのだろう。 そして少年の傍らには、何事もなかったかの様子で鴻城希槻が立っていた。わずかに血の跡が残るのみで、額に空いたはずの穴もなく、どう見ても死んでいるようには見えない。 「惜しかったな」 やや本心らしい口ぶりで鴻城が言うのを、奈義は聞いたような気がした。 「だがお前はやはり、試験には不合格だ」 「――――」 消えていく意識の中で、奈義は最後にフユのことを思った。 (どうせなら、笑っている顔を見たかったな……) そして奈義真太郎の意識はこの世界から、永遠に失われてしまった。 ――永遠に孤独な場所へと、その魂は。
※
牧葉清織は洋館の中庭で、じっと奈義真太郎の死体を見おろしている。 その体はすでに、半ばは雪に埋もれていた。放っておけばそれは、やがて白い雪に覆われて見えなくなってしまうだろう。けれどそれはどこか、冬の季節がこの男を優しく寝かしつけてやっているようにも見えた。 「……やはり、〈悪魔試験〉だけではなかったか」 そう、清織は独言する。 銃声が聞こえたあと、奈義が中庭で倒れるまでの一部始終を、清織は直接目にしていた。少年の魔法によって奈義の心臓が停止され、死んだはずの鴻城希槻が何事もなかったように現れたことも。 奈義真太郎を、清織は利用した。その復讐心と計画に便乗し、鴻城への襲撃を間接的に手助けした。鴻城希槻の魔法を解くことと、その秘密を知るために。 清織は空を見あげる。 まるで悲しみの欠片みたいに、そこからは音もなく雪が降っていた。これ以上悲しみを増やしてしまえば、世界はもうその重みに耐えられなくなるだろう、とでもいうように。 「……だが、もはやその時は近い」 世界そのものに囁きかけるように、清織は言った。 「もうすぐ、すべての悲しみも、苦しみも、痛みも、絶望も、何もかもが癒される。福音を信じることも、神の国が近づくのを待つこともない。それをもうすぐ、僕たちは手に入れることができる」 牧葉清織は世界の片隅のようなその場所で、そっとつぶやく。 「――すべては、完全世界のために」 [エピローグ]
同じ終業式の日―― 中学校では、何事もなかったように最後の全校集会が行われた。弓村真花がいなくなっても、世界は何が変わるわけでもない。日常は続き、空からは同じ雪が降ってくる。 学校は午前中で終わり、フユは玄関に向かって廊下を歩いていた。もしも真花が生きていれば、フユは彼女と二人でそこを歩いていたかもしれない。 廊下の先に、二つの人影があった。小嶋渚と芦川陽奈子の二人である。 フユは二人の前で、立ちどまった。 「……謝っておこうと思って」 渚はどこか拗ねたような、困ったような顔つきで言った。さすがにばつが悪いのだろう。 「昨日は叩いたりして、悪かった」 そうして、勢いよく頭を下げる。 「気にしてないから、大丈夫よ」 フユはけれど、首を振った。本当に、気にはしていない。 「……急に真花が死んだなんて聞かされたから、この子も混乱しちゃってたんだと思う」 その横から、陽奈子が弁護した。 「あの時も言ったけど、悪気があったわけじゃないの」 「――てか、あんたも謝るのが筋でしょ?」 一人だけ妙に冷静な陽奈子に、渚は唇をとがらせた。 「殴ったのは渚であって、私じゃない」と、陽奈子は肩をすくめる。 「いや、あんたも同罪……というか、殴ったんじゃなくて叩いたんだし」 「どっちも同じでしょ」 「グーで殴るのとパーで叩くのは、五十歩と一万歩くらい違う」 フユはそんな二人に、くすりと笑った。 「いいわよ、本当に。私の言いかたも悪かったんだから」 二人はきょとんとしたように、そんなフユのことを見る。 「どうかした?」 フユは首を傾げた。 「いや、何かちょっと意外というか」 「少し変わった、志条さん?」 二人に言われて、フユは口を閉じて考えてみる。「そうね、そうかもしれない――」 用件はそれだけだったらしく、二人はそのまま行ってしまおうとした。けれどその時、ふと気づいたように渚が言っている。 「そうだ、また今度いっしょに部活やろうよ」 「…………」 「そのほうが、真花も喜ぶと思うしさ」 死んだ人間は何かを喜んだりはしない―― 「ええ、そうね。そうかもしれない」 それから渚は、置き土産でもするように最後に言った。 「その髪留め、よく似あってるよ」 ――玄関を出て、フユは帰りの道を歩いていく。 空からは、昨夜と同じ雪が降り続いていた。道路や建物、信号機の上、木の枝に雪が積もっていく。歩くたびに、靴の下で雪の壊れる音がした。 いつもと同じ道を、いつもと同じように一人で歩いていく。 けれど―― 不意に、フユは何かが悲しくなった。胸を押しつぶされるような痛みがあって、呼吸が苦しくなる。どうしてだか、涙があふれた。 それは、誰かの死を感じたから―― 大切な誰かの死を、感じたから―― その時、彼女の中にある魔法の、そのつながりが断たれた。永遠に暗い、孤独の場所へと。弓村真花が消えていった、その場所へと。 フユは子供みたいに泣きながら、歩き続ける。 けれどもう、フユが月の裏側に戻ることはない。これは失ったものじゃなくて、もらったものだから―― 家までの道のりを、フユはただ泣きながら歩いていく。
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