[不完全世界と魔法使いたちC 〜フユと孤独の魔法使い〜]

[三つめの関係]

 その日の放課後、フユは一人で市民病院へと向かった。
 もちろんその目的は、弓村桐絵に会いにいくことである。本来なら真花といっしょに来るべきだったのだが、彼女は風邪で休んでいた。学校でそのことを知ったとき、フユは予定を変えてもよかったのだが、結局は一人で病院を訪ねることにした。この前のことで、勝手はわかっている。
 バスに乗って、病院前で降り、自動ドアを抜けて、ロビーを歩いていく。いくつかの目印をたどって階段を昇った。三階に着くと、桐絵のいる病室を目指す。
 ドアをノックすると、桐絵の返事があった。「――入るわよ」と声をかけながら、フユはドアを開ける。
 病室には桐絵が一人きりでいるだけだった。具合が悪いのか、この前のように体を起こして本を読んではいない。大人しく横になって、ベッドの脇にはこの前はなかった点滴が置かれていた。鼻には高濃度の酸素を送るためのカニューラが装着されている。
 そうしてベッドに横たわる桐絵の姿は、どことなく死んで地面に落ちてしまった蝶でも思わせるようなところがあった。それは痛々しいというよりは、何か見てはいけないものを目にしてしまったような感じである。
「ああ、フユか……」
 桐絵は寝たままで、首だけを動かしてフユのほうを見た。ゼンマイの切れかかったような、いかにも力のない動作だった。
「こんにちは。急で迷惑だったかもしれないけど、お見舞いに来たわ」
 フユはその場に立ったまま、とりあえず様子をうかがうように言った。
「……それは嬉しいな。退屈してたところだからな。そろそろ体が解(ほど)けてくんじゃないかと思ってたところなんだ」
 フユは以前、真花がしたのと同じようにイスを取りだすと、桐絵のそばに座った。
 チアノーゼが出ているのか、血の気の引いた彼女の顔色は悪い。布団の下にあるせいでわからないが、指先や爪の色も変色していることだろう。この前調子がよいといったのは、本当のことのようだった。点滴と酸素吸入がなければ、こうして話すこともままならないのだろう。
「ちょっと前から症状が悪化してさ」
 と、桐絵は力なく笑った。
「これでもましになったほうなんだ。一時は意識不明の重態になってたから」
「そう――」
 フユは軽くうなずく。ほかにどうしていいのかはわからない。
「真花は風邪を引いてるって?」
 と桐絵は訊く。気を使ったのかもしれなかった。
「そう聞いてるわ――」
「二人して具合が悪くなるなんて、やっぱり姉妹なのかね」桐絵はおかしそうに言った。「昔から、真花が見舞いに来たあとは、症状は軽くなってたんだけどな。今回はそうもいかなかったみたいだ」
「……一人で来たりして、邪魔じゃなかったかしら」
 少しして、フユは訊いてみた。
「いいや、さっきも言ったけど、退屈してたところだから。話し相手がいるのはいいことだよ。それに――」
 と、桐絵はつけくわえた。
「別に真花がいなくても、私とフユは友達でしょ? 似たもの同士なんだから」
 フユはじっと、桐絵のことを見つめる。けれど、彼女と自分のどこが似ているのかは、やはりわからなかった。少なくともフユに、ベッドの上でこんなにも明るく笑うことはできそうにない。
「……邪魔じゃないなら、よかったわ」
 何かをごまかすように、フユは言った。桐絵は気にした様子もなく話を続ける。
「でも、今日はどうかしたの。何か用事でもあったのか?」
「――実は、あなたに渡すものがあって」
 そう言って、フユはカバンの中からある物を取りだした。手の平に乗るくらいのその小さな箱を、フユは桐絵のほうに差しだす。
「これって?」
 言いながら、桐絵は身を起こそうとした。けれど衰弱した体には、布団の重みでさえずいぶんな障害であるらしい。フユは手を貸して、彼女の背中を起こしてやった。ようやく姿勢を維持すると、桐絵はあらためてフユに訊いた。
「開けてもいいの?」
 フユは無言のまま、ただうなずく。
 包装もリボンもしていないその無機質な箱を、桐絵は開ける。指先に力を入れることさえ、今の彼女には難事業らしかった。その手はかすかに震えている。
 箱の中に入っていたのは、小さなガラスの塊だった。
 一見したところ、それは人の姿のようにも見える。ただその背中には、羽のようなものがつけられていた。どこか、エル・グレコの絵でも思わせるような体のねじれかたをしている。表面を酸で腐食させたらしく、白濁した光に似た、柔らかな質感をしていた。
「ああ――」
 桐絵は泣き顔によく似た、そんな微笑みを浮かべた。
「これ、天使だ」
 フユは夕葵からは、何も聞いていない。実のところ、現物を見るのも今がはじめてだった。けれど桐絵の言うとおり、それは小さな天使の姿にも見える。
「もしかして、夕葵さんがこれを?」
 桐絵はその像を見つめたままで訊く。まるで目を離した隙に、どこかへ消えてしまうみたいに。
「本人からは、そう聞いてるわ」
 簡潔に、フユは事実関係だけを口にした。
「私のために?」
「ええ」
「――――」
 桐絵はそっと、天から落ちてきた光でも受けとめるようにその天使像を両手の上に乗せた。そして静かに、はじめての挨拶でもするみたいにじっとそれを見つめる。
 しばらくして、桐絵はようやくフユのほうに顔を向けた。
「ありがとう。すごく、嬉しい。本当に……」
 そう言う桐絵の顔には、心なしか血の色が戻ってきているようでもある。
「別に私は何もしていないわ。お礼なら、志条夕葵のほうに言って」
「夕葵さんにも感謝はしてるけど、でもこれを持ってきてくれたのはフユだから」
 桐絵は何かを抱きしめるように、体を少し丸くした。
「――フユが、これを私にくれたんだ。空から星の一欠片を取ってくるみたいに」
 そんなたいしたことはしていない、とフユは言おうとした。が、結局はやめておいた。その代わりにというわけではないが、気づいたときにはフユはこんなことを訊いている。
「もしも、あなたの病気を治すことができるとしたら、どうする? 完全世界の名残りを、魔法を使ってそれができるとしたら」
「……?」
 桐絵は戸惑った顔で、フユのことを見つめる。それは、そうだろう。彼女は魔法のことなど知らない。けれどフユは続けた。
「でも魔法でさえ、この世界ではもう完全ではいられない。それは代償を必要とする。吝嗇な神様が、憐れな人間に供物を求めるみたいに」
「…………」
「それでも、あなたは天使に祈る? 誰かを犠牲にしてでも、自分の病気を治して欲しい、と」
 桐絵は黙って、何かを考えるようだった。もちろん彼女には、フユの言うことのすべてがわかったわけではないだろう。魔法と、この不完全な世界のことについて。けれどそれでも、彼女にはフユの言葉の意味はわかっていた。
 その言葉でも聞こうとするように手の中の天使像を眺めてから、桐絵はフユに向かって言った。
「わからない、私には――」
「…………」
「もしもこの病気が治るなら、もちろんそれは治して欲しい。自分の体にうんざりしたり、夜中に怖い気持ちで目を覚ましたりはしたくない――でもそのために、ほかの誰かを傷つけたり、犠牲にしたいとは思わない。だってそれじゃあ、同じことだから。それじゃあ私の病気が治ったとは言えない。もう一人の私が増えるだけだ。そんなことに、意味があるとは思えない」
 答えて、桐絵は自分が転がしたボールの行方でも確かめるようにフユのことを見た。
「何で、そんなことを?」
 フユは少しのあいだ黙ってから、
「昔、そういうことをした人がいた、というだけの話」
 と、ただそれだけを短く答えた。

 話しかけられたのは、検査室の並ぶ細い廊下を歩いているときのことだった。
「――君、真花ちゃんといっしょに見舞いに来てた娘だな?」
 フユが振りむくと、そこには医者が立っている。無精髭に大雑把そうな身ぶりだが、動作そのものには機械時計みたいな正確さがあった。弓村桐絵の主治医、宮良坂統である。
「そうですけど」フユはいつもの無表情さで言った。「何か?」
「ちょっと話がしたくてね、君と。構わんかな?」
 宮良坂はなめし革のような鈍い表情で言った。笑顔を浮かべているのかもしれないが、それは奥のほうに埋もれてわからなくなっている。
「構いませんけど……」
「なら、食堂のほうに行こう。今ならほとんど人もいないのでな」
 そう言うと、宮良坂は先に立ってさっさと歩きはじめた。歩幅が大きいのか、動作そのものはゆったりとしているのに、進むスピードは速い。常に時間を無駄にしないよう習慣づけられた人間の歩きかただった。
 ロビーまで戻ると、エントランスの横を通ってさらに奥へ向かう。オープンスペースに簡単な仕切りを施しただけの空間があって、そこが宮良坂の言う食堂のようだった。入口脇にあるガラスケースには、いくつかの食品サンプルが置かれている。場所柄のせいか、それは食品というよりは、診察での説明に使われる臓器標本に近いものに見えた。
 宮良坂の言ったとおり、食堂に人の姿はほとんどない。ゆるやかにカーブしたガラスの壁面からは明るい光が注ぎ、それにそってテーブルが並んでいた。時間帯のせいかもしれないが、普段からこんなものなのかもしれない。
「ちょっと失礼するよ」
 壁際に席を確保してから、宮良坂はフユに断わってカウンターのほうへ歩いていった。戻ってくると、トレイの上にサンドイッチとジュースが二つ乗せられていた。宮良坂はジュースの一つをフユの前に置くと、
「ここで唯一、まともな代物だ」
 と、にこりともせずに説明した。インフォームドコンセントの一種なのかもしれない。
「そのサンドイッチはまともじゃないんですか?」
 よくわからないまま、フユは訊いてみた。
「客観的に見て、まともとは評価しがたい」
 さっそく頬ばりながら、宮良坂は言った。
「だが食い物であることと、栄養素であることに間違いはない。すまんね、昼からまだ何も食ってないんで、こんなものでも腹に入れておかなきゃならんのだよ」
 言葉通り、宮良坂の様子に食事をとっているという雰囲気はない。ただガソリンスタンドで燃料の補給をしている、という感じだった。
「――それで、私に何の話があったんですか?」
 フユが訊くと、宮良坂はもぐもぐと口を動かしながら、「弓村桐絵のことだよ」と言った。食べながらでも言葉が明瞭なのは、特殊な口蓋をしているのか、そういう訓練を受けているからかもしれない。
「彼女のことで、何か?」
「君は弓村桐絵がどのくらい悪いか、知っているかね?」
 もちろん、フユに専門的なことなどわからない。心臓に穴が空いていることも、肺の血管が目詰まりを起こしていることも。けれど今日の様子を見たかぎりでは、かなりひどい状態であることだけは明確だった。
「相当、悪いみたいですが」
「あと一週間の命だよ」
 ロビーから、患者の呼びだしを告げる放送が聞こえた。雲で遮られたのか、陽射しが少し翳る。宮良坂は、口の中で相変わらず咀嚼を続けていた。
「……というのは、俺の勘も含まれるがな」
 トレイの上にあった、宮良坂の言うまともでないサンドイッチは、すでにそのほとんどが片づけられていた。ろくに噛んでいないせいだろう。
「それは、どの程度の勘なんですか?」
 フユは言いながら、口の中が変に乾いていることに気づいた。目の前の、宮良坂が置いたジュースを口にする。まともだというその味のほうについては、フユにはよくわからなかった。
「データ的に言えば、どの数値も最悪だ。心臓の負荷を見るBNP、酸素飽和度、尿酸、血中ヘモグロビン、どれも待ったなし。いつ、急性の心不全を起こしてもおかしくない。コールドゲームの決まった野球で、さらに大量の追加点を取られるようなもんだ。人倫とルールに反している。俺の経験的には、今生きていることのほうが奇跡に近いな。神様の気まぐれみたいなものかもしれん」
 宮良坂はしゃべりながら、サンドイッチの最後の一欠片を口に放りこんだ。そんな話をしながら、この医者の瞳にほとんど動揺らしいものは映らない。何度も塗り重ねた色が、最後にはすべての色を通さなくなってしまうみたいに。
「その話、真花にはしたんですか?」
「ああ、もちろん。君たち二人が見舞に来た日のことだよ。あの時に、彼女には話しておいた」
「弓村桐絵は助からない?」
 フユは無表情に訊いた。
「彼女自身には生きる意志も、ガッツもあるが、もう心臓のほうが持たん。エンジンが壊れてしまえば、いくらバッテリーやガソリンが十分でも、車は動かんからな」
 そう言って、宮良坂はジュースの入ったコップを手にとって、一息で半分ほど飲みほしてしまう。
「――何故、私にそんな話を?」
「友達だろう。それに君は……」
 と、何かを言おうとして、宮良坂は急に口を閉ざした。トカゲの尻尾だけがうねうねと動いているような、妙な間があく。
「何ですか?」
「いや――」と宮良坂は言葉をにごした。「何でもない、忘れてくれ。歳をとると、余計な世話を焼きたくなるようになってな」
 そう言って、初老の医師はネジをゆるめるようにして笑顔を作った。そういう表情もできるらしい。
「自分のことを振りかえると、ふと若者にはできるだけ後悔して欲しくないと思ってしまうのさ。痴愚というべきだな。まるで若者が何も知らないかのような態度をとってしまう」
「…………」
「人が死ぬというのは、あくまで孤独なことだ。それは我々がまったくの他人であるという事実を、あらためて突きつける。死を分かちあうことはできん」
「例え姉妹だったとしても?」
「原則的には、そういうことだな」
 何か、引っかかるもの言いだった。
「あなたは、例外があると?」
 フユが訊くと、宮良坂は少し間をとってから答えた。
「ああ、ある。俺はそれを知っているんだよ。目の前で見たんだ、それを」
 宮良坂はそう言うと、コップに残った半分の液体を飲みほした。
「五年ほど前のことだ。あるデパートで、爆発事故が起きた。改装中の店舗から可燃性のガスが何らかの原因で漏れだした、ということだった。かなりの犠牲者が出た。覚えているか?」
 フユはうなずいた。当時、まだこの町には来ていなかったが、事故のことはニュースで報道されていた。一時はテロ行為かと騒然とした状況だったのだ。
「ひどい事故だった。子供が大勢やられてな。玩具売り場が爆発の中心だった。現場にいたほとんどの人間は助からなかった。肺が焼かれて、半日ほど苦しみぬいたすえに亡くなった子供もいた。うちの病院でも何人かを担当した」
 宮良坂は手を組んでテーブルに肘を乗せると、独り言のように話を続ける。
「その中に、男が一人いた。伊沢政志(いざわまさし)という名前でな。たまたま甥っ子のプレゼントを買いにきたそうだ。爆発に巻きこまれたとき、彼はとっさに近くにいた子供をかばった。見ず知らずの子供だ。最初の爆発の時に逃げていれば助かったかもしれん。しかし気がついたときには、彼はその子供を抱きかかえていた」
「…………」
「子供は助かったが、男は死んだ。男の治療にあたったのが、俺だった。手の施しようがなかった。比喩でなく、体の半分ほどが吹っ飛んでいてな。結局、俺にできたのはその男の話を最後まで聞いてやることくらいだった。男は死ぬ間際まで、子供が助かったかどうか気にしていた。立派な人だったよ。子供の無事がわかると、心から安心しきっていた――」
 宮良坂の話は、それでおしまいのようだった。
「……それが、孤独でない死だと?」
「誰かのために死ぬというのは、そういうことだ」
 宮良坂は姿勢を直すと、眠りから覚めたような声で言った。
「それだけがおそらく、死の孤独から逃れることができる。ただ死んでいくだけより、それは数倍まともなことなのかもしれん。少なくとも伊沢政志という男の死から、俺はそんなふうに思うことができるんだよ」

 志条芙夕が食堂から去っていくのを、宮良坂はその場に座ったまま眺めていた。
 妙な娘だ、と宮良坂は思う。どんな検査をしても、彼女の内面を審らかにすることはできないだろう。透明だが、その向こう側が見えることはない。まるで永久に融けることのない氷にでも触れているような感じだった。
 食堂からはいつのまにか誰もいなくなって、何か巨大な生き物の胃袋みたいにがらんとしていた。いびきのような、柔らかなエコーのかかった院内放送が聞こえる。宮良坂は肩をほぐすために首をまわした。
「宮良坂先生――」
 呼びかけられ、見るとそこには結城季早が立っていた。昔、弓村桐絵の担当をしていたこともある。だけでなく、宮良坂と季早には個人的な関わりもあった。
「さっき、志条芙夕と話をしていましたね」
 季早は宮良坂の隣に座ると、そう訊いた。
「何だ、見てたのか」
「いっしょに座っているところだけ。もう話は終わって、彼女は帰るところでした」
「ちょっとした老婆心、というやつだな。余計なお世話ともいうが」
 宮良坂は軽く苦笑するように言った。
「――彼女には、いくつかのことを知る権利があるかと思ってな」
「何を話したんですか?」
「たいしたことではない。弓村桐絵の病状、五年前の事故、そんなところだ」
「伊沢政志のこと、ですか……」
 季早自身はその男と直接は関わっていない。ただ、宮良坂から詳しい話は聞いていた。
「まったく、妙な因縁だと思わんか?」
 宮良坂は片肘をついて、まるで空中の見えないダイヤルでもいじるように指を動かしている。
「彼の担当だった俺が弓村桐絵の主治医になり、その弓村の妹が志条芙夕を連れてきた。そしてかつての主治医だった君と、彼女は直接の知りあいでもある」
「ええ――」
 確かにそれは、奇妙な関係性だった。そもそも何の関わりも持っていなかったはずの志条芙夕が、その中で複雑にからみあっている。
「彼女のこと、君はよく知っているのか?」
 と、宮良坂は訊いた。
「……一通りのことは。しかし彼女の胸の奥に何があるのかは、僕にもわかりません。その壁の向こう側に、どんなものを抱えているのかは」
「開胸するまでは、心臓の様子はわからんからな」
 つぶやくように言って、宮良坂は続けた。
「魔法だとか結社だとか、俺にはよくわからん。そいつが存在するのは認めるが、何を目的としているのかは理解のしようがない。完全世界なんてものの存在もな」
「…………」
「しかし、それを求める気持ちはわからんでもない。人にはそういうこともあるだろう。大切なものを失くしたり、壊されたりしてしまえばな」
「奈義真太郎のように、ですか――?」
 その言葉に、宮良坂は無言のままうなずいた。
「妙なものだ。奈義と、あの少女が知りあいだというのはな。不可思議な関係性というしかない。偶然のいたずらか、神様の気まぐれか、魔法使いでない俺にはどうにもわかりようのない話だ」
 嘆息するように言って、宮良坂は大きく首を曲げて天井を仰いだ。もちろんそれは、魔法使いである結城季早にとっても、わからないことではあったのだけれど。

 時刻はもうすぐ、六時をまわろうとしていた。
 あたりはすでに暗くなって、すべてのものが黒い布にでも包まれたようになっている。空には月もなく、星さえ出ていなかった。街灯の光さえ、どこか鈍い。二、三日中には雪が降るだろう、という話だった。
 駅前の、広場とも呼べないちょっとしたスペースに、フユはいた。通路の脇にある飾りのような空白地で、そこには人の流れがない。向こうにある街路樹は、これからのシーズンのために電飾で彩られていた。時々、立ちどまって光る樹木を珍しそうに眺める通行人の姿もある。
 太陽の短い出演時間は終わって、屋外は凍えるような寒さだった。ただ息を吐くだけでも、それが白く濁る。靴音や人々のざわめきも、寒気に耐えかねたように鋭く、硬質だった。
「…………」
 フユの前では、沢谷ゆずきが機材のセットを行っている。マイクスタンドを用意し、台車から降ろしたアンプに接続する。ギターを取りだすと、適当に何度か弦を鳴らしてマイクの調子を確かめた。
「――ライブをやるから聞きにきてよ」
 と言われたのは、昼休みのことだった。
 その時間、ゆずきは当たり前のように教室に入ってきて、フユの前に立った。そうして場所や時間を一方的に伝えると、さっさと出ていってしまっている。断わられるとは思っていないのか、断わられても構わないと思っているのか、その様子からはうかがい知ることはできなかった。あるいは、どちらでもよかったのかもしれない。
 真花はその日も休んでいたので、話しかけられたのはフユ一人だった。ほかの音楽部員である、渚と陽奈子に声をかけたのかどうかは知らない。少なくともこうして実際に足を運んだのは、自分一人のようだった。
 ――ただし、そこには何故か奈義真太郎の姿もあった。
 帰宅後、ちょうど奈義からの連絡があって、フユはことのついでにそのことを話してみたのである。いつかのお礼ということもあったからだった。とはいえフユとしては、魔法使いの探索も、ゆずきのライブの見学も、どちらも同じ程度に興味はなかったが。
 けれどフユがそんなふうに思っていると、奈義のほうでは何故か、俺も行くぞ≠ニ言いだしている。
「あんたもライブを聞きにいくっていうこと?」
――ああ
 電話ごしのフユの感情を的確にくみとったのだろう。奈義はそれ以上、何も言わなかった。そうして現場で合流することだけを告げて、通話を切ってしまっている。
 その奈義は今、フユの隣に立ってゆずきの様子を眺めていた。露骨なほどに興味深げな顔で、どう見てもただの野次馬だった。
「――あんた、いったいどういうつもりなの?」
 と、フユは奈義の顔を見ようともせずに訊いた。簡易ライブステージでは、ゆずきがギターの調弦を行っている。
「つもり、って何のことだ?」
 まるで緊張感のない声で、奈義は言う。もっとも、この男は普段からそんなものは持ちあわせてはいなかったが。
「どうして、わざわざこんなことに首を突っこむのかということ」
「面白そうだからな」
「ずいぶん気の利いた答えだけど、できれば私にもわかるように説明してくれないかしら?」
「非常に興味をそそられたんでな」
 もちろん、何も変わっていない。フユは小さくため息をついた。
「……これが魔法使いの調査と何か関係があるの?」
「ないよ。強いて言うなら、ついでだな。どうせ駅の周辺を見まわってるだけなんだ。こうやって路上ライブを聞くのも悪くないだろう」
 確かに、それは事実だった。二人はいまだに、魔法使いに関する有力な情報を何も得てはいない。
「人が集まれば、そこで何かが起こる可能性は高くなる。まあ気長にやろうや」
「――どうかしらね。その前に何もかもがだめになってしまわなければいいけど」
 フユは軽く、肩をすくめるようにして言った。
 やがてゆずきのほうで準備が終わったらしく、指ならしみたいに軽くギターを弾きはじめている。コード進行や運指はなめらかで、そこに小さく口ずさむような歌声が加わった。フユにはよくわからないが、かなりの腕前のようである。
 十分に指先も温まったらしく、ゆずきはペットボトルの水を口に含んでから、マイクスタンドの前に立った。肩紐を調節し、ギターに向かって軽く合図でもするみたいに弦を鳴らす。
 それからマイクの電源を入れると、スイッチを切りかえるように深呼吸を一つした。世界をほんの少しだけ組みかえる準備を――
 彼女はそっと、糸を解(ほど)くみたいにして歌いはじめた。
 通行中の何人かがそれに気づき、何人かが足をとめる。
 その声は、音質が高めで、ガラスのような硬いものを鋭くこすりあわせるような音を響かせた。何かを包みこむというよりは、激しく切り裂く種類の声である。氷のつぶてが地面を叩くのと同じ強さで、その歌は夜の闇の中に広がっていく。
 時間がたつにつれて、人だかりは少しだけ大きくなっていった。誰もが静かに、彼女の歌に耳を傾けていた。現実からどこか、切りはなされてしまったような感じで。
 昔流行ったスターチャイルドというアニメの主題歌や、いくつかのカバー曲、それからオリジナルらしい曲を演奏すると、ライブは終了した。最後にゆずきが頭を下げると、何人かが拍手して、何人かがギターケースに小銭を入れる。音楽が消えると、人ごみは磁力を失った砂鉄みたいにその場から離れていった。
 人だかりがなくなると、フユはゆずきのところへ歩いていった。ペットボトルを大きく傾けて水を飲む彼女の顔は、さすがに軽く上気していた。興奮とほっとした気持ちのないまぜになった表情である。
「お疲れさまでした――」
 どう声をかけていいのかわからなかったので、フユはとりあえずそう言ってみた。
「うん、お疲れだった」
 アドレナリンとかドーパミンとかの作用だろう、ゆずきはテンションの高めな様子で笑顔を浮かべた。
「ずいぶん、うまいんですね。歌もギターも」
 自分でもあまり気が利いているとは思わなかったが、フユはそう言って誉めた。
「これでも長いことやってるからね。路上だってずいぶん経験してるし。まあ、どんなもんだってところよ」
 ペットボトルの水を、ゆずきはぐびりと飲んでいる。
「いつもこんな感じなんですか?」
 あたりはすでに、以前と同じく何事もなかったように人が流れていた。すばやく掃除されてしまったみたいに、音の欠片さえもうどこにも残っていない。
「まあ、そうかな」ペットボトルの蓋を閉めながら、ゆずきは言う。「近頃は寒いし、よく集まったほうだと思う。上出来のほうじゃないかな? お金を入れてくれる人もいたし、面倒も起きなかったし」
「――で、俺たちは役に立ったのかな、さくらとして」
 フユの横から、不意に奈義が顔をのぞかせた。
「ああ、やっぱりわかってた?」
 ゆずきは無邪気そうにいたずらっぽく笑う。
「そういうつもりなんだろうとは思ってたよ。誰もいないと、なかなか人は集まりにくいからな」
「なはは、二人のおかげで助かったよ。小嶋も芦川も、用事があるとか言うしさ。弓村のやつはまた風邪だとかいうし」
「役立ったついでに、こっちからも聞きたいことがあるんだけどな」
「例の民俗学的調査≠チてやつ?」
 ゆずきはギターを片づけながら言った。
「ああ、何か新しい噂話でも聞かないか?」
「さあねえ」
 と、ゆずきは曖昧な顔をした。質問自体が漠然としすぎているのだろう。
「一連の怪奇現象で、何か思うことはないか?」
「妙なことだとは思うけど」
「どんなやつが関わってるんだと思う?」
「見当もつかないな、そんなの」
 軽くお手上げのポーズをする。
「――そうか、何かわかったら」
「わかってる。志条にでも伝えておくよ。でもこう見えて、あたしも忙しいからね」
「手数をかけてすまない」
「いやいや」
 そうして片づけをすませてしまうと、「ともかく、今日は二人ともありがとう」と言って、ゆずきは帰っていった。台車を引っぱっていく彼女の姿は、あっというまに人ごみにまぎれて消えてしまう。
 あとには、どこを探しても路上ライブの痕跡のようなものはない。それは記憶の中の曖昧な反響として残るばかりで、まるで夢でも見ていたかのようだった。
「さて、どうするかな」
 と奈義は言った。質問というよりは、現実にスイッチを切りかえるみたいに。
 フユはまだぼんやりとあたりを見渡していたが、一瞬見覚えのある誰かがそこにいたような気がして、視線をとめた。ばらばらになった単語を組みかえ、文章にするように意識を集中して、それが誰なのかを思い出そうとする。
(あれは――)
 確かに、フユにはその人物に見覚えがあった。いつかの昼休み、学校の階段でフユとすれ違った少年である。フードつきのパーカーを着てわかりにくいが、間違いない。
 と思うまもなく、少年の姿は人ごみに消えていた。それはちょうど、沢谷ゆずきが去っていったのと同じ場所である。
(誰かを監視していた……?)
 何となく、そんな気がした。けれど誰を、何の目的でなのか、ということはわからない。
「どうかしたのか?」
 少年のことなど知るはずもない奈義が、フユの様子に気づいて声をかけた。
「――いいえ」
 フユは消えていった少年のほうをうかがいながら、首を振った。今となってはそれはすでに夢の中の出来事に似て、少年が本当にいたのかどうかさえ判然としない。
「とりあえず、あっちのほうに行ってみましょう」
 それでもフユは、少年のいなくなったほうを指さした。妙な引っかかりのようなものを感じながら。
「……じゃあ、そうしてみるか」
 奈義のほうに異論はない。二人はいつものように、あてもなく歩きはじめた。

 夜が深くなるにつれ、街の明かりはちょうど溶液中の結晶が成長するみたいにその輝きを増しつつあった。地上にとどめられた星に似た光の中を、様々な関係性を抱えた人々が行き来している。星座ほど確かではないにせよ、どこか定められた場所に向かって。
 駅前を離れると、海の深い場所にでも入ったみたいに光と人影がなくなる。すでにシャッターを下ろした店や、夜の中に置き去りにされたような自転車が放置されていた。
 当たり前のこととはいえ、そこにさきほどの少年の姿は見つけられない。
「街の裏側にでも入りこんだみたいだな」
 歩きながら、奈義がぽつりと言う。そのつぶやきさえ、どこかうら寂しく響いた。特に繁華街が賑やかな時期だけに、その落差は歴然としている。
「――こっちが表だって言う人もいるでしょうね」フユはそっけなく言った。「裏表なんて、相対的なものでしかないんだから」
 まあな、と答えようとして、奈義は不意に動きをとめる。
 フユも同時に、そのことに気づいた。
 世界の裏側で鐘を鳴らすような揺らぎが、どこからか伝わっていた。見えない場所で、世界を組み変えてしまう揺らぎが――
「近いな……」
 と、奈義はつぶやく。
 フユは感知魔法≠フペンダントを取りだすと、意識を集中した。マイクで音が拡大されるように、揺らぎの形が明瞭化する。大体の方向をつかむと、フユは顔をあげて言った。
「こっちよ」
 夜の時間が何もかもすっかり片づけてしまった道を、二人は走っていく。
 路地をいくつか曲がったところで、フユは足をとめた。飲食店の裏口らしい細い通りの真ん中に、若い男が数人でたむろしていた。ただの酔っ払いや学生の集団というには、どうも様子がおかしい。
 中の一人が呆然としたように座りこんでいて、そのまわりを当惑した顔の仲間たちが取り囲んでいた。
「おい、しっかりしろ」「どうしたんだよ、いったい?」と、口々に声をかけるが、まともな反応は返ってこないらしい。
 さすがにフユが躊躇して立ちどまっていると、横から奈義がぽんと肩を叩いた。その手には、魔法用のペンダントが握られている。「――魔法だ」
 それから奈義は、まるで当然のことみたいに若者たちのあいだに混ざると、座りこんだままの男をのぞきこみながら訊ねた。
「いったいどうしたんだ、彼は?」
 状況に混乱しているのと、奈義の態度があまりに自然すぎたせいで、若者たちは不審を抱く余裕もなかったらしい。男の一人がわめきちらすようにして答える。
「わからねえよ、ついさっき急にこんなふうになっちまったんだ」
「病気か、何か事故でもあったのか?」
 一見して、男に外傷や不審な点はうかがえない。たださっきから、小声で何かぶつぶつとつぶやいているようだった。
「俺、俺って……? 何で、こんなところに……?」
 虚ろな目で、放心したようにへたりこんでいる。
「自分のことが誰だかわからないとかって言うんだ、そいつ。俺たちのことも覚えがないって」
「……記憶喪失か?」
「バカな。だって俺たち、ただ歩いてただけなんだぜ」
 若者たちは誰もが困惑したような顔をしている。
「何かあったんじゃないのか、その時? 例えば、誰かとすれ違ったとか――」
 奈義が訊くと、若者たちは急に黙りこんで互いに目配せした。どうやら、何かやましいことがあったらしい。
「あったんだな、何か」
「……俺たちは別に何もしてねえよ。ただちょっと、近くを歩いてたやつをからかっただけで」
「喧嘩でも吹っかけたのか?」
「そんなんじゃねえよ。ただ話しかけただけで、それなのに、気づいたらそいつがいきなり座りこんじまったんだ」
 奈義はもう一度、放心状態の男の顔をうかがう。まるでコードを引っこ抜かれたテレビ画面みたいに、その顔には何の反応も示されていない。「俺……何で……」と、ただ同じことをつぶやき続けている。
「――お前らが話しかけたっていうその誰かは、どこに行ったんだ?」
「あっちのほうだよ」と、一人が答える。「逃げるみたいに、慌てて行っちまった」
 奈義はフユのほうに目を向けた。フユがうなずくと、二人は若者たちをその場に残して走りだす。魔法使いが消えたという、その方向に向かって。
「手わけして探そう」
 と、奈義は言った。
「俺はこっち、お前はあっち。何か見つけたら携帯で連絡だ」
 フユはうなずいて、二人は別々に分かれて街路を進んだ。
 狭い路地を、フユは勘を頼りにして走りまわる。あの若者たちから逃げようとしたなら、問題の魔法使いも闇雲に道を選んでいるかもしれない。運がよければ、それらしい人物を発見できる可能性はあった。
「…………」
 夜目にもわかる白い息を吐きながら、フユはふと例の少年のことを思いうかべる。もしかしたらあの少年が、問題の魔法使いなのだろうか。だとしたら、何故自分に対してあんな警告まがいの脅迫をしてきたのだろう。
 少し大きな通りに出たところで、フユは足をとめた。左右を見渡してみるが、それらしい人影は見つけられない。すでに、この近辺からは離れてしまっているのだろうか。遠くのほうにはマンションの明かりが見える。
 その時、ポケットの中で携帯が鳴った。
「――もしもし?」
 相手も確認せずに、フユは通話ボタンを押す。
見つけたぞ
 奈義は短く報告してきた。
「魔法使い?」
いや、ストラップだ。やつが落としたんだろう。俺の〈境界連鎖〉を使って位置を特定する。通話はそのままにしておけ
 奈義の魔法は物や痕跡からその持ち主を探ることができる。フユは携帯に耳を当てたまま、結果が出るのを待った。
……よし、わかった。まだ近くにいるみたいだ
「どこにいるの?」
 フユは念のために、もう一度あたりを見まわしてみた。が、もちろん魔法使いどころか、周辺には人影そのものがない。
ちょっと待て……そうか、これなら
 何か思いついたらしく、電話の向こうで奈義の考えこむ気配があった。
……相手の魔法が不明だから、できればあまり近づきたくはない。記憶だか人格だかを消されるようなまねはごめんだ。何とかしてやつを遠くから捕らえる
「どうやって?」
俺の指示する場所に待機しててくれ。そこに俺がやつを追いこむ。お前は離れたところから〈断絶領域〉でやつを捕獲しろ
 作戦としては、問題なさそうだった。相手の居場所を特定できる奈義が追跡し、それをフユが待ち伏せする。相手に対して不用意に接近する必要はない。
「わかったわ」
 待機場所を確認して、フユはそこへ向かった。駅周辺はさんざん歩きまわっていたので、それなりの土地鑑がある。やはり人生というのは、意外なことが役に立つもののようだった。
 郵便局と貸しビルの裏側という所定の位置について、フユは人影が現れるのを待った。周辺に街灯はなく、かろうじて建物や障害物の輪郭がわかる程度の暗い場所である。相手も見えにくいが、相手からも見えにくい。
 フユは建物のあいだにある路地から少し離れ、意識を集中して時が来るのを待った。
 どれくらいたっただろう――
 不意に、激しい足音が聞こえた。同時に、携帯が音を立てる。合図だった。
 人影が姿を見せる。
 瞬間、フユは〈断絶領域〉を発動させた。人影の四方を取り囲むように、不可視の壁を巡らす。
 魔法の揺らぎを感じて危機を察知したのだろう、人影は壁に衝突することなく足をとめた。
 が、すでに時は遅い。フユの魔法によって作られた壁は、人影を完全に捕らえていた。もはやそこから逃れることはできない。例え自動車が正面からぶつかったところで、魔法の壁には傷一つつくことはない。
(うまくいった――)
 そう思って、フユが人影のそばに近づこうとしたときのことだった。
 魔法の揺らぎが、伝わっている。人影が魔法を使っているのだ。
 そして次の瞬間、〈断絶領域〉によって作られた壁は、薄い氷を砕くみたいに霧散していた。
「――!」
 意外な出来事に、もう一度魔法を使おうとしても間にあわない。人影はあっというまに夜の闇へと走りさっていた。
 慌ててあとを追ったフユに見えたのは、フードをかぶった相手の後ろ姿だけだった。その姿には見覚えがあるような気がしたが、もちろん確かなことはわからない。あたりにはただ、水槽の水でも掻きまわしたような暗闇の乱れと、フユの混乱が残るだけだった。
「どうしたんだ?」
 少しして、魔法使いが出てきたのと同じ路地から、奈義が姿を現す。
「逃がしたのか、やつを――?」
 その問いに、フユは答えなかった。フユはただ、呆然としたように自分の手を見つめている。
「……魔法が」
 と、フユは信じられないようにつぶやいていた。
「魔法?」
 しかしその続きを、フユはなかなか口にすることができなかった。
 あれは魔法を消す魔法なのだ、とは――

 その魔法使いは、暗がりの路地で激しく息をついた。もう追手が迫ってくる気配はない。ひとまずは逃げきったと思って安心していいだろう。
 さっきは危なかった、とその魔法使いは思った。何か違和感のようなものを感じたら、すでにまわりを見えない壁で囲まれていたのだ。けれどすぐに、何とかなるだろうと思った。そう、この〈孤独証明(ネガティブ・コネクション)〉を使いさえすれば――
 実際に、その予感は正しかった。見えない壁を消すことができたのだ。正確には壁そのものを消したわけではないのだが。しかしそのことは、あの二人にわかることではないだろう。
 この力は、必要だった。決して手放したり、他人に自由にされるわけにはいかない。この力があるかぎり、特別でいられる。魔法使いは呼吸を整えながら、そう思った。
 おそらく、あの二人にはまだ顔を見られてはいないだろう。一人が追跡のために利用していたらしいつながりの糸のようなものも、すでに断ち切っている。同じ方法で居場所を知られるようなことはない。
 魔法使いは何食わぬ足どりで、路地をあとにした。大きな通りへ出ると、街はいつもと変わらない様子で賑やかな音を振りまいている。
(――絶対に捕まったりはしない。どんな方法を使っても、逃げきってみせる)
 心の中で密かに、魔法使いはそう決意していた。

 音楽室には誰の気配もなかった。
 そこにあるのはただ、プレゼントの空き箱を思わせるような雰囲気だけである。大切なものはもう取り去られ、必要もなくなった抜け殻だけが用もなく横たわっている。
 教室には暖房が入れられていたが、電気はつけられていなかった。明かりがいるほどの暗がりでもない。来るべき凋落も知らぬげに、まだ明るい太陽が窓の外で輝いていた。
 机だけが並んだ教室を見ながら、フユはふとベランダのほうへと向かってみた。例の、プドレンカという猫がいるかと思ったのだ。時間的には、ちょうど散歩の途中にあたっている。
 ベランダに通じるガラス戸を開けると、冷たい風がひゅっと吹きこんできた。けれどフユはそれを意に介するふうもなく、外のベランダに足を踏みだす。
 ――猫はいなかった。
 狭いベランダの先まで見渡しても、猫が姿を現すことはない。空白だけがどこまでも続いて、先のほうではそれさえ途切れていた。散歩の時間がずれたのか、たまたまコースが違っていたのか、何か事故のようなものにでも遭ったのか。
 それとも――
 フユは色さえ薄くなったような青空を見つめる。冬のこの時期には珍しいほどの快晴だが、どこかすっきりとしないものがあった。明日には天候が崩れて、大雪になるという話である。束の間の晴天では、空も調子が出ないのかもしれない。
 息が白く濁って、行き先も告げずに消えていく。
 弓村真花が風邪で休んで、今日で三日目だった。担任の説明はそっけなく、それがどの程度の風邪なのかもわかっていない。心配はいらないという話だったが、ただの風邪だけで三日も学校を休むものだろうか。
 彼女がいないから特にどうだというわけではないのだが、フユは何故だか気になっている。当然あるべきものがそこにないような、ささやかな違和感だった。あるいはあの猫は、彼女がここにいないことを知っていて、散歩の道順を変えたのかもしれない。
 フユがそんなことをとりとめなく考えていると、背後で扉の開く音がした。
 振りかえると、そこには芦川陽奈子が立っている。本来は英語部に所属する、秀でた額をした才媛ふうの彼女は、忘れ物でも取りにきた様子できょろきょろとあたりを見渡していた。
「――真花は?」
 陽奈子は、短く訊いた。
「今日も休みだそうよ」
 ベランダの戸を閉めながら、フユは言った。
「まだ風邪を引いてるの?」
「担任の話では、そういうことみたいね」
 陽奈子はしばらく入口のところに立っていたが、教室の中に入って扉を閉めた。フユのすぐ隣に行ってスチームに手をあてながら、
「何で電気をつけてないの?」
 とりあえずといった感じで、彼女は訊いた。
「それほどの暗さでもないから」
「ふうん」
 言って、たいしたことでもなさそうに窓の外を見る。無理に明かりをつける必要もない、と彼女も判断したようだった。
「真花のこと、志条さんは何か聞いてる?」
 ごく普通に友達と話すようにして、陽奈子は訊いた。
「いいえ、何も……」
「お見舞いとか行ったほうがいいかな?」
「大げさじゃないかしら、それは」
 と、二人が話していると、再び音楽室のドアが開いた。
「――あれ?」
 と言って中をのぞいたのは、小嶋渚である。バスケ部の練習で怪我でもしたのか、膝のところに絆創膏を貼っていた。
「二人だけ? 真花はいないの?」
「まだ休みだそうよ」
 陽奈子がそっけなく言う。
「何だ、じゃあわざわざ来ることもなかったかな。今日あたり治って、顔を見せるかと思ったんだけど」
 言いながら、渚は二人のそばまで行って無造作にイスを引いて座った。
「そういえば、うちの部活でも何人か休んでるよ」
 渚はふと思い出したみたいにして言う。それを聞いて、陽奈子は澄ました顔で告げる。
「これからますます寒くなっていくしね。気をつけないと風邪くらい引くわよ。もっとも、誰かさんは心配しなくてもいいけど」
「……私がバカだと?」
「自覚があるならまだよいけど」
「そう言う陽奈子だって、風邪なんて引いてないじゃん」
「私は去年もう引いたから」
「そりゃもう時効だね。そんなので、バカは風邪を引かない呪いから逃れられると思うなよ」
 二人はそんなやりとりを、ひとしきり続けた。やはり仲がよいらしい。それから陽奈子はふと、フユに向かって訊いた。
「――そういえば、志条さんはさっき何してたの?」
 ラジオの番組でも聞くみたいに耳を傾けていたフユは、とっさに何のことかわからなかった。「……さっき?」
「私が入ってきたとき、ベランダにいたでしょ? あれ、何してたのかと思って」
 別に何も、と答えようとして、けれど気づいたときにはフユはしゃべっていた。
「猫を、探してたの」
「――猫?」
 横から、渚が怪訝な顔をする。
「そう……」とフユはうなずいた。「ここを散歩の通り道にしている猫がいて、真花に一度見せてもらったことがあるの。プドレンカとかいう猫。彼女によくなついていたようだったけど」
「へえ、学校のベランダにね」
 その様子からして、二人は猫のことについては知らないようだった。
「……猫といえば、あの時のことを思い出すわね」
 口元に指を当てながら、陽奈子はふとつぶやくように言った。手の中に転がりこんできたものの正体を、慎重に確かめるみたいに。
「もしかしてそれ、あの遠足の時か?」
 すぐに気づいたらしく、渚が言う。
「――そう、あの時、私たちは猫に助けられて、それで友達になった。今思い出しても、不思議な感じね。真花だけが、最初からあの猫のことを信じてた」
「何の話なの、それ?」
 フユは何だかよくわからないまま訊く。確か、真花も前にそんなことを言っていたはずだ。道に迷ったときに、猫に助けてもらったことがあると。
「私たちが小学校にいた頃の話なんだけどね」
 と、渚が古い記憶の底でも探るように言った。
「林間学校みたいのがあって、キャンプとかしたわけ。その二日目にクロスカントリーなんかがあって、私たち三人は偶然に同じ班を組まされた。で、三人して山の中をえっちらおっちら走ったり歩いたりしてさ」
「走る必要はなかったのよ、あれは。森を散策するのが主旨だったんだから」
「でも一応、順位数えてたじゃん?」
「大人の都合にいいように従ってるようじゃ、まだまだ子供ね」
「いや、子供だし」
「……それで、どうなったの?」
 フユは横から言って、話を無理に進めることにした。あまり漫才を続けられても、仕様がない。
「ああ、でまあ、とにかく三人で歩いてたんだ。そしたらいつのまにか道に迷ってたんだな」
「確かあんたがこう言ったんじゃなかったっけ。こっちに近道がある≠ニか」
「……否定できる記憶はない」
 渚がまわりくどい言いかたで肯定すると、陽奈子はやれやれと肩をすくめた。
「しばらくして、本格的に迷ってることに気づいてさ」と渚は続けた。「大声を出しても返事はないし、あたりはやたらに静かで不気味だし。そこは子供だから、もう帰れないんだって簡単に絶望しちゃったんだな。すごく心細くなってきて、もうえんえん泣きだしてたわけ」
「あんたと私が、ね。真花だけは、最後まで絶対に泣こうとしたりしなかった」
「そうなんだよね。真花はずっと、自分たちは助かるって信じてたみたい。そのことを疑おうとしなかった。まるで、天使のお告げでも聞こえてたみたいに」
「あの時、そういえばこんなこと言ってたっけ」
 陽奈子は薄れかかった壁の模様でも確かめるようにしながら言った。
「みんなで歌をうたおう、って。そうすれば、幸せの欠片が手に入るから。その欠片をたくさん集めたら、願いを一つ叶えられる――そう言われて、私も渚も知ってる歌を残らず歌いはじめた。そしたら何だか気持ちが軽くなって、すごく楽しいことをしてるみたいな気になった。たぶん真花は、私たちを元気づけようとしたんでしょうね」
「…………」
「それでしばらくしたら、猫が現れたんだっけ」渚が少しだけ懐かしそうに言った。「真っ白な猫で、何でこんなところにいるんだろうって感じだった。でもその猫を見て、真花が追いかけはじめたんだよな。あの猫についていけば大丈夫≠チて。私と陽奈子は訳もわかんないままそのあとを追っかけていった」
「でもそれで、私たちは本当にみんなのところに戻れたのよね。何だか不思議だけれど、でもそれで私たち三人は仲よくなった」陽奈子は少し真剣な目でフユのことを見た。「――この話、あんまりほかの人にしたことはないの。信じるとは思えないから。現に私たちだって、いまだに半信半疑なんだから」
 真花と渚と陽奈子、そして猫を巡る話は、それでおしまいのようだった。フユはその話を信じるとも、信じないとも言わなかった。
 最後に、渚がこうつけ加えている。
「――実は、私はあれを真花の魔法みたいなものなんじゃないかと思ってるんだ。だって、どう考えても変でしょ? でも、そういう不思議なところがあるんだよね、あの子には」

 講義が終わると、学生たちは三々五々部屋をあとにしていった。合同講義室に残ったのは、友達と昼の相談をする学生や、一人でノートの整理をする学生などである。すり鉢状になった講義室は、無用の長物めいた空虚さで建物の一角を占拠していた。昼休憩のため、次回の講義まではかなりの時間がある。
「…………」
 窓際の席、長机の端っこに座って、奈義はぼんやりと窓の外を眺めていた。周囲には誰もいない。人を待っていた。
 眼下に見える並木道を、大学の学生たちが行き来していた。寒さに身を震わせながら、急ぎ足に歩いている。冬に押さえつけられたような窮屈な格好だったが、どの人間も表情は明るい。平和そのもの、といった光景だった。
 奈義が飲み物でも買ってこようかと思ったその時、男は現れた。待ちあわせの相手である。
 東の空にかかる月を思わせるような、静謐で澄明そうな雰囲気をした男だった。多少華奢ではあったが、どこといって変わったところのないごく普通の容姿や格好をしている。けれどそこには、鏡の向こう側にでも存在しているような、変に世界から隔絶したところがあった。そのくせその瞳の奥には、厳重な金庫にでもしまってあるような強い光の気配がうかがわれる。
「ちょっと待たせたかな?」
 如才のなさそうな笑顔を浮かべて、男は言った。相手がどれだけ怒っていたとしてもそれを忘れてしまいそうな、ひどく柔らかな物腰である。
「いや、どうせ暇だったんでな」
 奈義が答えると、男は隣の席に着座した。そんな動作の一つ一つにも、どこか優雅で洗練されたところがある。
 男の名前は、牧葉清織といった。奈義と同じ年齢だが、結社の中では上部のほうに位置している。
「――講義のほうは順調かい?」
 場を和ませようとしてか、清織は話を急ごうとせずに訊いた。
「そういうあんたはどうなんだ?」
 対して奈義は、どちらかというとぶっきらぼうに訊きかえしている。いつものような、おどけたところはない。
「確か、さっきの一般教養は必須科目だったはずだが」
 二人は同じ大学に通う学生でもあった。専攻は違うが、学部は一致している。講義のうちのいくつかは重複していた。
「一般教養ならもう備わっているから、単位だけで十分だよ」
「……なるほどな」
 にこりとする清織に対して、奈義は軽く苦笑している。いつだったか、自分もフユに同じようなことを口にしたのを思い出しながら。
「お互いの学生生活に問題がないことを確認したところで、本題に入りたい。昨日、例の魔法使いと接触した」
「へえ――」
 と、清織は感心した。茶席の作法にでも倣ったような、ずいぶんと抑制されたものだったが。
「直接会って話がしたいというのは、そのことだったんだね。ずいぶんな成果だ」
「どういたしまして」
 奈義は答えながら、清織の表情をうかがう。けれどその言葉が本心からなのか、それともある種の偽装にすぎないのかはわからなかった。
「それで、魔法使いを確保することはできたのかな?」
「いや」一瞬、言葉に迷ってから、「……逃がした」
「どうして? 何か事故が起きたか、邪魔でも入ったとか」
 訊かれて、奈義は首を振って答える。
「追いつめそこねただけだ。作戦が甘かったらしくてな」
 嘘はついていない。あくまで、それは事実だった。
 清織は柔らかな仮面でもかぶったような顔で、奈義のことをうかがっている。風のない、鏡のように凪いだ水面を思わせるような態度で、その下で何を考えているのかはまったくわからなかった。
「仕方ないね。何しろ相手は正体不明の魔法使いなんだから」
 やがて、清織は言った。言葉だけなら、叱責を免除してやったととれなくもない。
「君たちのほうで何か被害を受けたりしたことはないのかい?」
「いや、特に問題はない」
「そう――」
 二人のあいだに、短い沈黙が流れた。遠くのテーブルでまだ残っていた女子学生たちが笑い声をあげる。ノートの整理が終わったらしい学生は、一人で静かに講義室を出ていった。
「一つ、頼みがある」
 と、奈義は言った。
「何だい?」
「例の、共鳴魔法(レゾネーター)=\―ヘイムダルの角笛≠使いたい」
「…………」
 清織はちょっと黙ってから、言った。
「それで問題の魔法使いを捕まえられる、ということだね?」
「勝算はある。今度はうまくやるつもりだ」
「大がかりな魔法を使えば、魔法委員会に目をつけられる可能性が高い。特に君のやろうとしていることでは、その公算が大きくなる」
「それは十分、理解している」
「危険を冒してでも魔法使いの捕獲を優先すべき、というんだね?」
 奈義は黙ったままうなずいた。少し考えてから、清織は顔をあげる。
「――いいだろう。魔術具の使用を許可する」
「それはあんたの一存で、ということか……?」
「僕にはそれだけの権限が与えられてるんだよ」
 笑顔を浮かべる清織に対して、まあいいけどな、という感じで奈義は肩をすくめた。牧葉清織というこの男には、確かにそれくらいのことは許されているのだろう。子供の頃から結社で働いてきたぶん、それだけの信頼が置かれている。
「話はこれでおしまいかな? なら、僕はそろそろ行かせてもらうよ。今度は吉報を待ってる」
「――もう一つ、聞きたい」
 立ちあがりかけた清織を、奈義はそう言って制した。半分ほど浮かせた腰を戻して、清織はもう一度イスに座る。
「……何故、あんたは俺に協力する?」
 奈義は鏡の向こう側まで突きぬけてしまいそうな視線で、清織のことを見た。
「協力?」
「とぼけるのはよせ。今回のことを、あの男は知らないんだろう? 知っていたとしても、それはあんたが都合よく取りつくろった事実でしかないはずだ」
「何のことだかわからないな」
 あくまで穏やかな態度を崩そうとしない清織に向かって、奈義は鋭い語調で言った。
「俺が気づかないとでも思ったのか? あんたが何かたくらんでいることはわかってるんだ」
「…………」
「どうして、志条芙夕を俺にあてがった?」
「――彼女は優秀な魔法使いだ。それに今回の件には適任だよ」
「ああ、確かにな。それは認める。だが本当の理由はそうじゃないはずだ。あいつが選ばれたのは、今回のことに疑問を抱かないと踏んだからだろう」
「何故、そう思う?」
 問いかえされて、奈義はふと表情をゆるめた。まるで、温かな雪にでも触れたみたいに。
「あいつには決して、完全世界は似あわない」
「…………」
「もう一度、訊く」
 と、奈義は言った。
「どうして俺に協力する?」
 訊かれて、清織は今度はまっすぐに奈義のことを見かえした。鏡の反射が、そこにあるかのように。
「僕は君のことを知っている」
 静かに、月の光のような穏やかな声で言った。その光は迂遠な反射作用にすぎないにせよ、わずかにでも牧葉清織の本心をのぞかせていた。
「君は僕とよく似ている。だから君がどんな気持ちでいるかは、よくわかるんだ。完全世界を取りもどす方法は一つじゃない。そのことも、僕は知っている――ただ、それだけのことだよ。協力なんて、大げさなものじゃない」
「……邪魔するつもりはない、ということか?」
「それ以上の発言は〈悪魔試験(グレイト・アビス)〉に抵触するから、僕には答えられない」
 二人はまた、しばらくのあいだ黙っていた。いつのまにか、講義室からは誰もいなくなっていた。世界の片隅からさえ切り離されたような沈黙が、あたりを覆っている。
「――あんたのこと、信用するよ。例え、何をたくらんでいるにせよ」
 辛辣さを含んだ奈義の言葉を、清織は優美な一笑で受けとめた。
「そうしてもらえると、僕も助かるよ」
 立ちあがった清織に向かって、奈義は最後に訊いた。
「もう一つ、あんたに質問がある」
「……?」
 立ったまま、清織は視線だけを奈義に向ける。
「あんたは、完全世界を望むのか?」
 奈義のその問いに、清織はしばらく沈黙を続けた。ずっと昔に書かれた、古い手紙でも読みかえすみたいに。そして、清織は答えた。
「もちろん、僕は完全世界を望んでいるよ」
 その言葉だけを残して、牧葉清織はその場から去っていった。
「…………」
 奈義は背板にもたれて、首を大きくそらせて天井を見あげる。もちろん、何の変哲もない講義室の天井には何も書かれてはいなかった。神様の言葉も、天使の伝言も。
 きっとそれを見つけるには、鏡の向こう側でも探さなければならないのだろう。

 予報通り、空からは雪が降っていた。
 フユはいつものように、通学路を一人で登校している。あたりに人影はなく、物音さえしない。
 鈍色の空からは、まるで離散者か何かのように大量の白い塊が落ちてきていた。その光景を眺めていると、ここが空の底なのだということがわかる。天上を追われたその小さな白い欠片は、もうそのままの姿で元の場所に戻ることはできない。
 歩いている途中で、フユの肩に完全な形をした雪の結晶が乗った。触れれば指先のぬくもりだけで壊れてしまうその塊が、どうして彼方の空から降ってきたりするのだろう。フユにはそれが不思議だった。あそこにいさえすれば、その形をずっと保っていられたはずなのに――
 やがて学校に到着すると、フユはいつものように教室へ向かう。人の声や物音が、普段よりはっきりとした輪郭で聞こえた。寒さのせいで、音の響きが小さく、固くなっているのかもしれない。
 教室に入って荷物を整理すると、フユはぼんやりと窓の外を眺めた。誰かがそっと手放したみたいに、雪は静かに降り続いている。空からその重みをすべて地上に降ろしてしまおうとするみたいに、いつまでも。
 フユの耳に、かすかな囁き声が聞こえた。例の三人か誰かが、自分のことをしゃべっているようだった。たぶん、ろくな内容ではないだろう。音声がはっきりしなくとも、そのことだけは確かだった。
 壁を作るように、フユは意識を自分の中に閉じてしまおうとする。
 と、その時、不意に声をかけられてフユは顔をあげた。
「――おはよう、フユ」
 そこには、真花がいた。彼女はこの暗い雪の日にも、いつもと同じ明るさをしている。
「ええ、おはよう」
 答えながら、フユはじっと真花のことを観察した。
 体調を崩していたというだけあって、彼女の顔には多少やつれたような感じが残っている。体の中の何か重要な部分がまだ欠けたままでいる、というふうでもあった。久しぶりの登校で、まだ現実に慣れていないだけなのかもしれないが。
「風邪はもういいのかしら?」
 と、フユは当然ながら訊いてみた。
「うん……まだちょっとふらふらするけど、大丈夫。熱もないし。それに、お姉ちゃんと比べると、ね」
 そう言う真花の唇は、心なしか姉の桐絵に似て青ざめているようだった。まるで彼女の病気の一部を、肩代わりでもしているみたいに。
「……相変わらずよくないの、桐絵は?」
 彼女とは四日前、ちょうど真花が風邪で休んだときに会ったきりだった。
「よいとはいえないけど、大丈夫――」
 そう言って笑う真花は、けれどどう大丈夫なのかは言わない。子供だけが三人、山の中で道に迷っても絶対に泣こうとはしなかった、という話をフユは思い出す。彼女はその頃から、変わっていないのかもしれない。
「――そう」
 フユもあえて、細かく追求したりはしなかった。主治医である宮良坂の話によれば、地球が誕生するほどではないにせよ、よほどの奇跡が起きないかぎり彼女の回復は難しいだろう。
「桐絵のことはともかくとして」
 と、真花は無理に明るく振るまうようにして言った。
「せっかくだから今日は、音楽部のみんなで集まれないかな? 久しぶりに学校に来たせいか、何だかみんなに会いたくって」
「真花がそれでいいなら、いいんじゃないかしら」
 フユは軽くうなずく。三人だけでなら、つい昨日に集まったばかりではあったけれど。
「――よかった、じゃあ放課後ね」
 無邪気に喜ぶ真花に向かって、フユはこんな言葉を口にした。自分でもそのセリフが、らしくないとは思いながら。
「真花がくれば、きっとあの二人も喜ぶと思うわ」

 誰かが音を持ち去ってしまったみたいに、廊下はしんとしていた。窓の外には空気を白く染めてしまおうとするみたいに、雪が降り続いている。床や壁は、その白い雪を踏み固めたかのように冷やりとしていた。
 放課後、フユと真花は誰もいない廊下を音楽室へ向かっていた。校庭のほうからは、賑やかな叫び声が聞こえている。生徒たちが雪合戦でもしているのかもしれない。
「二人とも、来るって言ってたから」
 と真花は途中、フユに言った。
「快気祝いだって。音楽部の四人がそろうのって、久しぶりだね」
「……確か、快気祝いっていうのは元気になったほうがするお礼だったはずだけど」
「そうなの?」
 真花が訊きかえしたところで、二人は音楽室の前に着いていた。
 その扉の前で、フユはふと足をとめる。部屋の中から音楽が聞こえた。ドアに遮られてはっきりとはわからないが、ギターのような音と人の歌声が響いている。この時期らしい、クリスマスソングだった。薪の燃える炉辺で団欒でもしているような雰囲気である。
 二人は顔を見あわせてから、真花のほうがドアを開けた。
 部屋の中には、沢谷ゆずきの姿がある。
 それから、渚と陽奈子の二人もいた。どうやらゆずきがギターを弾いて、二人がそれにあわせて歌っていたらしい。三人は真花に気づくと、歌をやめた。それでも、あたりには陽気な歌の残響のようなものが残っている。
「先輩、来てたんですか?」
 真花は意外そうな声で言った。
「そう、来てたんだな、これが――」
 いたずらっぽく笑って、ゆずきは学校の備品らしいギターを鳴らす。
「ちょっと用事があって、たまたま音楽室に来てたんだ。そしたら小嶋と芦川が来たもんで」
「でもいいんですか? 受験勉強とかで忙しいんじゃ……」
 真花は続けて訊いた。
「そりゃ忙しいよ」
「こんなところにいて大丈夫なんですか?」
「なはは、大丈夫なわけないじゃん」
 ゆずきは陽気に笑う。つられるように、真花も笑った。それから音楽室に入って、フユもあとに続く。ドアが閉まって密閉されると、部屋の中は急に静かになったようだった。
「――さっきは何を歌ってたんですか?」
 三人の輪の中に入って、真花はその辺のイスを引っぱりだして座った。
「アヴェ・マリアを少々……」
「絶対、違いますよね?」
「赤鼻のトナカイ≠セよ。もうすぐそんな時期だし」
 渚が教えてくれた。
「いいですね。小学校以来です、その曲聞くの」
 歌の好きな真花はにこにこした。
「それより弓村、風邪はもういいの?」
 ゆずきは、あまりよいとはいえない真花の顔色をのぞきこみながら言った。
「一応は大丈夫です。ご心配をおかけしました」
 真花はそう言って、ぺこりと頭を下げる。
「いや、実は特に心配はしてないんだけどね」
「……先輩、そこは黙ってあわせてあげてください」
 ため息まじりに陽奈子が注意すると、三人ともいっせいに笑った。
「じゃあまあ、そんな病みあがりの後輩のために、一曲歌ってやるかな。あたしの新曲を」
「この前の、犬が蹴とばされるやつじゃないですよね?」
 渚が思い出すのさえ忌まわしそうな顔で言う。
「違う。それにあれはサザエさん的な歌のパロディーを狙ったものであって……」
「パロディーでも何でもいいですけど、シュールすぎます」
 陽奈子がげんなりした顔で反論した。
「――そういえば先輩、この前受けたっていうオーディションはどうなったんですか?」
 不意に思い出したように、真花は言った。
「……そんなのあったっけ?」
「落ちたんですね、先輩」と、渚。
「いや、結果が来てないだけだよ、うん。発表は終わってるんだけど、あたしのところには何の連絡もないんだけど、落ちたとかそんなことはないよ、もちろん。きっと郵便がどっかで滞ってるか、手違いがあったんだな」
「いつだったんですか、発表は?」と、陽奈子が冷徹に追及する。
「……一週間前」
 もちろん、落ちたのだろう。
「ふん、まあぼんくら審査員では、あたしの曲の価値を理解するなんて無理なんだよ」
「泣きながら言わないでください、先輩――」
「これは涙じゃなくて目薬だよ、小嶋」
「そんな手のこんだ仕込みはいりませんて」
 四人は他愛のないやりとりをしながら、賑やかに笑っている。
「もう認める、確かに認めますよ。あたしの送ってデモテープは落選したし、どうせあたしの作った曲なんてたいしたことないよ。鼻にも引っかけられなければ、犬も食わない。だからせめてこの新曲は、あんたたちに聞かせてやる。というか、聞いてもらう」
 やけくそ気味に言うと、ゆずきは反論は許さないとばかりにギターを鳴らした。三人ともやれやれといった感じで顔を見あわせ、けれどきちんと聴く姿勢だけはとっている。
 それから、ゆずきは例の、世界を柔らかく切り裂くような声で歌いはじめた。ギターが哀感のあるメロディーを奏でる。それは、昔大切にしていたぬいぐるみが夢に出てくるという、ほのぼのとしながらもどこか悲しい歌だった。
 真花も渚も陽奈子も、何だかんだ言いつつも真剣にその歌に耳を傾けている。確かにそれだけのものが、沢谷ゆずきの演奏にはあった。あらゆる壁を越えて、心の中にある弦を共振させるような何かが――
「…………」
 フユは横から、そんな光景をただ黙って見ていた。
 別に、何かを期待していたわけではない。音楽部に入ったこと自体、不本意な、なしくずしの出来事にしかすぎなかった。厄介事を避けるための、仕方のない措置だったにすぎない。何かを願ったわけでも、何かを望んだわけでも。
 弓村真花とつながって、渚や陽奈子と知りあって、弓村桐絵に会ったりもした。
 けれど、それだけのことだ。
 それがどうだった、という話ではない。ただ何となく、そこにいられるかもしれないと、そんな気がしただけ。雪の下に一人でブランコに座っているようなあの場所とは違う、そんなところに――
 ただ、そんな気がしただけなのだ。
 フユはまるで、透明な壁の向こう側でも見ているような気持ちで、四人のことを見ていた。彼女には決して手の届かない、その場所のことを。

「落ちこんでるな」
 と、奈義は古代の化石生物でも掘りだしたような口調で言った。
「……かもしれないわね」
 珍しく、フユはその言葉を素直に受けいれる。
「否定しないんだな」
「――ええ」
「相当みたいだな、どうやら」
 奈義はむしろ、感心してしまった。
 休日、駅の近くにある喫茶店でのことだった。以前にも来たことのある、細い路地に面した古い木造建築である。これも以前と同じく、奈義はコーヒー、フユはココアを頼んでいた。相変わらず、ほかに客の来る気配はない。
「何かあったのか?」
 コーヒーをすすりながら、奈義は訊いてみた。
「別に、話すようなことじゃないわ」
 奈義はじっとフユのことを見て、月がほんの少しだけ欠けるようなささやかさで笑った。
「まあ、お前ならそう言うだろうな」
 フユは黙って、ココアを口にしている。
 店内には風が木立を揺らすような、ごく小さな音でクラシック音楽がかけられていた。どこかで聞いたことのあるような気はするのだが、フユには題名を思い出せなかった。
「しゃべりたくないなら別に構わないが、話したほうが案外楽になることもあるぞ」
「それは、あんたの経験則?」
「ただの願望」
 フユは軽く鼻を鳴らした。
「……特にしゃべりたくはないわ」
「ふむ」
 と、奈義は新しい星でも探す天文学者みたにフユのことを見た。それから、いきなり手をのばすとフユの頬をつかんで引っぱっている。
「もうちょっと笑ったほうがいいよ、お前は」
 奈義は言って、頬を引きあげて無理やり笑った顔を作らせようとした。瞬間、鈍い打撲音が響いている。
「――いてえ」
「当然の報いでしょ」
 フユは頬をさすりながら、いつもの仏頂面で言った。
「何も顎を殴ることはないだろう、顎を。しかも拳で。脳震盪でも起こしたらどうするんだ」
「だったらよかったのに、と思ってたところよ」
「笑ったほうが似あってるぞっていう、善意による行為だろうが」
「私の前に、あんたのその性格を何とかするべきね」
「そんなに変か、俺って?」
 奈義は深く考えこむように、急に真剣な顔をしている。
「変じゃないけど、変だわ」
 会話を続けながら、フユは何だかばかばかしくなってきた。
「それより、今日は何の用なの? こんな不毛で、無駄で、些末で、意味のない話をするために呼んだわけじゃないんでしょ」
「コンビを組むうえでコミュニケーションを図るのは重要なことだ」
「じゃあ、そのコミュニケーションとやらはもう十分ね」
「みたいだな」
 奈義は吹きだすように笑った。そして、まじめな顔を作って言う。
「――例の魔法使いのことだが、やはり俺の〈境界連鎖〉でも、もう行方は探せない」
 ポケットから何かを取りだして、奈義はそれをテーブルの上に置いた。携帯か何かのストラップだろう。つぎはぎだらけの犬をデザインしたもので、どちらかというと女性向けのように見える。もちろん、ごく小さなものだ。
「魔法使いは女なのかしら?」
 ストラップを手に取りながら、フユは言った。
「何とも言えないところだ……まさか、棒じゃなくて犬のほうに当たるとはな」
「居場所を探れないのは?」
「もうそれは魔法使いの持ち物じゃない、ということだ。つながりの糸が切られている。どうやら、そういう魔法らしい」
「私の魔法を消したのも?」
 あの日の夜のことを思い出しながら、フユは言った。
「大雑把に考えると何かを消去する*v@、というところだろう。恋人の感情を消し、信号機の連係を消し、記憶を消し、魔法を消す」
「そんな魔法使い、捕まえることができるの?」
 理屈からいえば、どんな拘束手段でも無効化できる、ということではないだろうか。それが魔法的にしろ、物理的にしろ。
「そのことなら心配ない。もう一度本人を見つけさえすれば、あとは俺がうまくやる」
 奈義の口調はリンゴの皮を剥くくらい、ごく簡単なことを言うかのようだった。
「――ならいいけど」
 とフユは疑わしげな顔をしながら、
「でも、どうやって魔法使いを見つけるつもりなの? 追跡は不可能だし、私たちはまだ相手の顔さえ見ていない」
「共鳴魔法≠使う」
 奈義が言うと、フユは顔をしかめた。
「それは確か、魔法の揺らぎを拡大して伝えるものでしょう。魔術具でも希少系(レア・クラス)のヘイムダルの角笛≠ニかいう」
 魔法に一般型と特殊型の二種類があるように、魔術具にも二つの種類があった。一つは汎用系(コモン・クラス)で、感知魔法≠フペンダントなどがこれにあたる。もう一つが希少系で、いわば一品ものの魔術具だった。当然ながら、数は少ない。
「そうだ、もう街のあちこちにしかけてある。俺かお前が魔法を使っても、すぐにわかるだろうな。もちろん、例の魔法使いが使ったとしても」
「魔法委員会のほうはいいのかしら?」
「ああ」
 と言う奈義の表情は、真剣だった。
「もうそんなことも言っていられないからな。魔法使いの確保が最優先だ。多少の目立った行動は仕方がない」
「…………」
 フユはココアを一口含んだ。もちろん、奈義がそういう決定をしたのなら、彼女はそれに従うまでだった。特に異論を持つ必要はない。
「それで、どうするの? 結局のところ、魔法を感知するまでは待機するしかないみたいだけど」
 共鳴魔法≠フおかげで感知できる範囲が広がったとはいえ、基本的には今までと状況は変わっていない。
「そうだな、せっかくだから――」
 奈義は間をとるようにカップを手に持った。
「何?」
「――デートでもするか」
 フユはどちらかというと、火星に住んでいるタコ型宇宙人でも見るような目をした。
「本気で言ってるの?」
「もちろん、俺はいつだってまじめな男さ」
 地球在住の陽気なヒト型宇宙人は、にこりとすると、そのままの笑顔で静かにコーヒーをすすった。窓の外には、昨日までの雪が融けもせずにそのまま積もっている。

 ――とはいえ、特に変わったことをするわけでもない。
 いつ魔法の揺らぎが起こるかわからないので、二人はいつものように駅周辺を散策していた。つまりは、これまでと同じである。表面的には、普段と何の変わりもない。
 ただ、どうせだからということで、奈義はフユをデパートに誘った。北銀百貨店という、駅前にある老舗の総合小売店である。クリスマスシーズンが近いので、店内はどこも華やかな赤と白で飾りつけられていた。パステルカラーのような明るい曲が流れ、あちこちに置かれた小さなツリーには金モールやカラーボールが吊りさげられている。その辺をトナカイが歩いていても、たいした違和感はないだろう。さすがに大勢の人で賑わっていた。
「どこに行くの?」
 と、エスカレーターに乗ったところでフユが訊くと、
「――六階、雑貨屋」
 奈義は上のほうを指さして言った。
 クリスマス用に品を揃えた雑貨屋は、けれどあまり賑わっているようにも見えなかった。子供たちは大抵おもちゃ屋に直行し、大人たちもそれについていくのだろう。親しい人間にプレゼントを用意する習慣を持った人間は、思いのほか少ないらしい。
 店の棚にはサンタやトナカイの置き物から、クリスマスをテーマにしたスノードーム、あめ玉のようなアロマキャンドルが並んでいた。外国製のものも多いらしく、人型の洗濯バサミや文字盤のほうが動く時計、目玉の形をしたスピーカーといった奇妙な品物も売られている。
「ちょっと、こっち来い」
 フユがトンボ玉を見ていると、奈義が手を振って呼んだ。何事かと行ってみると、奈義はフユの髪にヘアピンのようなものをあててそれを見ている。
「大丈夫みたいだな」
 と言って、奈義はそのヘアピンを元の場所に戻した。
「何のこと?」
「そりゃ、秘密だ」
 訊いてもごまかすだけで、奈義はまともに答えなかった。
 それからゲームセンターにあったクレーンゲームで何回か遊び(狙った景品は取れなかった)、レストランの前をひやかしながら歩き、途中にあった店でたい焼きを買う。フユが、それを食べたいと言ったからだった。
「珍しいな。そんなにたい焼きが好きなのか?」
 休憩所のイスに座りながら、奈義は意外そうな顔をした。
「誰かが、たい焼きは人類の宝だと言ったわ」
「誰だよそれ」
「どこかに一人くらい、そんな人間もいるでしょうね」
 奈義は苦笑しながら、たい焼きをかじった。世界遺産とはいかないにしろ、なかなかの味である。フユはカスタードクリームのほうを頬ばっていた。
 屋上まで昇ってみると、そこには小さな遊園地のようなスペースがあった。雪こそ降っていないとはいえ、寒風が吹きすさぶ中に人の姿はない。小型の電車や動物の形をしたカートも、見捨てられたようにその場にとり残されていた。時間ごと、何もかもに蓋をしてしまったような光景である。
 縁にある柵のそばまで行くと、街を大きく俯瞰することができた。道路を走るラジコンのような車や、解体工事中のビル。放送用の巨大なアンテナや、高層ホテル、さらにその上に広がる鉛色の空。指先を乗せただけの重さで、そこからは雪が降ってきそうだった。
「ところで、お前のところに沢谷ゆずきとかいう先輩がいただろう」
 と、奈義は不意に、空のすぐ隣でそんなことを言った。
「それがどうかした?」
「彼女はいつ頃ライブをしてるんだ? 夜になってからか、今日も演奏はするのか」
「……私は彼女のマネージャーじゃないわ」
 どちらかといえばため息をつくように、フユは言った。
 けれど奈義は、独り言でもつぶやくみたいに、
「いつも通りのスケジュールなら、そうだったかもしれないな」
 と、淡々と続けている。
「だが何かの都合でそれができなくなったとしたら? 彼女はそれをストレスに感じるだろうか? おそらく、そうだろうな。その結果、どうなるか。それはこれからわかることだろう」
「……何を言っているの?」
 フユの問いかけに、奈義は答えようとはしなかった。
 二人はデパートをあとにすると、暗くなって明かりのつきはじめた街を歩いていく。脇によせられたり踏みかためられた雪が、束の間の装飾を街に施していた。街灯が地上の星みたいに頭上を照らしている。歩きながらフユは心の片隅で、どこか見覚えのある懐かしい気持ちを感じていることに気づいていた。
 かつてそれを感じたのがいつだったかは、もう思い出せもしなかったけれど。

 ――魔法の揺らぎを感知したのは、それからまもなくのことだった。

 共鳴魔法≠ノよって拡大された魔法の揺らぎは、二人にしっかりと捉えられていた。感知魔法≠使うまでもなく、その揺らぎのおおよその発生源を特定することができる。
「……意外と近くだな」
 目を閉じて揺らぎに意識を集中していた奈義は、つぶやくように言った。
「ええ、急げば魔法使いを見つけられるかもしれない」
 フユもその言葉にうなずく。
 二人は魔法の使われたとおぼしき場所へ向かった。急に走りだした二人組に、通行人の何人かが不審そうな視線を送るが、今はそれを気にしているような余裕はない。
 五分ほどで、二人は現場に到着した。通りからは外れた裏道で、駐車場と雑居ビルのある区画だった。場所的には、このあいだの追跡地点にほど近い。あたりに人の気配はなかった。
「やつはどこに行った?」
 奈義は周囲を見渡す。が、それらしい人影はどこにも見つけられなかった。どんな魔法が使われたのかもわからない。
 その時、駐車場にとめられた一台の車から人が降りてきた。しきりに首をひねる様子で、エンジンのボンネットを開ける。何か不具合が発生したらしい。
「あれって――」
 言いながら、フユはペンダントを出して意識を集中する。どうやら間違いなさそうだった。そのあたりの車すべてに、魔法がかけられている。
「エンジンか電気系統の一部を故障させた、ということか」
 奈義がそう分析した。
 いずれにせよ、この場所に魔法使いがいたのは確かなようである。それも、例の魔法使いである可能性が高い。
「手わけして探すしかないな」
 と、奈義は言った。
「それらしい人間がいたら、魔法で足どめしろ。解除して逃げたら、そいつが本人だ。ただし無理はするな。見つけたら携帯で連絡しろ」
「了解」
 短い打ちあわせをすますと、二人は別々になって走りはじめた。時間的に考えれば、魔法使いはまだそう遠くへは行っていないだろう。顔は無理だが、背格好については見当がついている。
 フユはビルの合間をぬうようにして走った。
 例の魔法使いは、何を思っているだろう。共鳴魔法≠ナ揺らぎが増幅されたことに、気づいているだろうか。おそらく、気づいただろう。そしてそれが、自分にかけられた罠だということも。だとすれば、できるだけ現場からは遠ざかろうとするはずだった。
(けど……)
 と、フユは走りながら考えている。もしも魔法使いを発見したとして、奈義はどうするつもりなのだろうか。相手は拘束そのものを無効化できる。しかし奈義は、自分なら問題なく捕獲が可能だと言外に匂わせていた。
 フユは想念を振りはらって、今は目前のことだけに集中することにした。まだ、魔法使いを見つけたわけでもない。
 その時、フユは不意に魔法の揺らぎを感じた。かすかなものだが――近い。
 道の角を曲がって、少し大きめの通りに出た。車の通行はなく、道はまっすぐどこまでも続いている。まるで黄泉路を照らす光のような不気味さで、街灯が点々と一定間隔で連なっていた。
 けれど、どこかおかしい。よく見ると街灯の間隔は不自然に一定していなかった。
 と思うと、フユはもう一度魔法の揺らぎを感じた。同時に、街灯の一つが消える。ロウソクの炎をふっと吹き消すみたいに。同じことが繰り返され、また一つ街灯が暗転する。
 フユは消えた光を追うように走りながら、携帯の通話ボタンを押した。
どうした?
 すぐに奈義の声が聞こえる。
「見つけたわ」
本当か? 今どこにいる
「さっきの場所からだいぶ西のほう。相手は魔法を使ってるから、それを追えばいい」
やつは魔法を使ってるのか?
 フユは立ちどまって、首を傾げた。また一つ、怪談めいた印象で街灯が消える。
「何故、そんなことを聞くの?」
仕かけておいた魔法が切られた。遠すぎて、俺には魔法の揺らぎが伝わってこない
「…………」
もし何か怪しいことがあれば、それはやつの罠かもしれない。見つけても、俺が行くまでは――
「もしもし?」
 通話が不自然に途切れた。
 フユが携帯を確認すると、電波状況が圏外になっている。これも、魔法の効果なのだろう。付近一帯が、一時的にしろ通信不可能領域に変更されている。
 そうしているあいだにも、街灯は消え続けていた。まるで、手招きでもするみたいに。奈義の言うとおり、おそらくこれは罠なのだろう。
 けれどフユは、携帯をしまうと暗がりに導かれるようにして道を進んだ。どこか、ずっと昔の古い記憶の中にでも戻るような気持ちになりながら。
 やがて、何の変哲もない道路の真ん中で、フユは足をとめた。そこに、問題の魔法使いは立っていた。世界にたった一つだけ残ったような街灯が、その魔法使いを照らしている。
 フユはゆっくりと、白い息を吐きながら言った。
「魔法使いはあなただったんですね、先輩――」
 その場所には、沢谷ゆずきの姿があった。

 フユとゆずきは、道路の真ん中で向かいあっている。
 まだ踏み荒らされていない雪があたりには積もっていた。もの言わぬ月を思わせる眼で、街灯がそれを見ている。その光のほかには何も存在しないみたいに、あたりは暗い。まるでそこが、世界のすべてから見捨てられてしまった孤島であるかのように。
 沢谷ゆずきはしばらくのあいだ様子を探ってから、
「追ってきたのはあんた一人なの、志条?」
 と、訊いた。
「――ええ、そうです」
 フユは正直に答えた。ここまできて、つまらない嘘はつきたくない。
「あんたたちは何なの?」ゆずきはわずかに顔をしかめるようにした。「何かのエージェントとか、政府の秘密調査員?」
「ある私的な組織に関わるものです」
「ふうん」
 言って、ゆずきは懐疑的な目をフユに向ける。もちろん、彼女にはその真実をはかる方法はない。
「もう一人のほうも?」
「ええ……」
「組織って、何の組織なわけ?」
「この世界に、完全世界を実現しようとする人間たちの集まりです」
「完全世界――? 何それ?」
 ゆずきはきょとんとした。その表情に偽りはありそうにない。
「かつてあったはずの、本当は誰もがそこにいた場所のことです。そこではすべてのものが壊れることも、欠けることもなかった。すべては完全だった」
「何かのお伽話、それ?」
 からかわれているとでも思ったのか、ゆずきはかすかに不快そうな顔をする。
 フユは一瞬考えてから、こう訊いた。
「先輩が魔法の力に目覚めたのはいつ頃のことですか?」
「魔法……?」
「私の〈断絶領域〉も、先輩のその力も、かつての完全世界にあったものです。その世界が失われたとき、魔法も同時に失われてしまった。人が言葉を得て、忘れてしまった力――」
 ゆずきは何かを確認するように、自分の両手を見た。そこに、カインにつけられたという刻印でも見つけたみたいに。
「……この力を手に入れたのは、あんたと会う少し前のことよ」
 と、ゆずきは話しはじめた。
「最初はあたしも気づかなかった。ただむしゃくしゃしたときに、何か妙な感じがしただけ。いろんな噂話を聞いたときも、自分に関わりのあることだとは思わなかった。そうだと気づきはじめたのは……そうね、あんたの相棒にいろいろ質問された頃ね。例の自販機のことも、考えてみればあたしがやったことだったんだ。あたしが、つながりを断った=v
「…………」
「そう、あんたの言いかたに従えば、私の魔法〈孤独証明〉はすべての関係を自由に切断する*v@よ。恋人というつながり、通信というつながり、記憶という自分とのつながり、魔法と世界のつながり、それを好きに切ってしまうことができる。もっとも、切ったあとのことは知らないけど」
 確かに、それならすべての現象を説明することができた。そして世界は結局、関係性で成りたっている。どこかの哲学者に言わせれば、自分ですら、自分に対する自分との関係なのだ。それを自由にできることは、何よりも強い力を手にしたということでもあった。
「――で、あんたたちはあたしをどうするつもりなの?」
 ゆずきは訊いた。
「秘密組織だか黒服の怪しい連中だか知らないけど、あたしを追ってたんでしょ? 不当に力を使ったから逮捕する? それとも、仲間になれとか? もしくは実験動物みたいに、どこかに監禁して自由を奪うとか?」
「私に出された指示は、あなたを捕まえることだけです」フユは軽く首を振りながら言った。「そのあとのことについては、認知していません。あるいは、先輩の言ったとおりになる可能性もあります」
「どの道、あたしの自由はなくなるわけだ」
「…………」
 結社が沢谷ゆずきをどう処理するかは、フユは本当に知らなかった。知っているのは、彼らが何かを求めようとすれば必ずそれをする、ということだけである。そして完全世界を理解しないというこの少女を結社がどう扱うのかは、フユの想像の埒外にあることだった。
 あるいは、ゆずきの言うようにモルモットと同様の扱いを受ける可能性もあった。
「今後、二度と魔法を使いさえしなければ、先輩が捕まることはないと思います。そう約束するなら、この場は見逃します」
 フユはむしろ、そうあって欲しいという口調で忠告した。それは彼女に下された任務に、違反することではあったけれど。
 その提言に、ゆずきは冷笑を浮かべている。
「やっぱりあんた、何もわかってないみたいね」
「……?」
「何にせよ、あたしはこの力を手放すつもりはない。この力を二度と使わないなんていうことはありえないね」
「どうしてです?」
「何故なら、あたしはこの世界が大嫌いだから」
 ゆずきはそう言って、にこりとした。まるで、そのことに無自覚な人間すべてを馬鹿にし、憐れむように。
「本当に、ここはろくでもない世界よ。何もかも思いどおりにはいかないし、思いどおりにいったところで何の救いにもなりはしない。仕方ないと諦めれば努力が足りないと罵られ、がむしゃらになってがんばろうとすれば、それじゃダメだって冷や水を浴びせてくる。誰も理解しようとしない、誰も気にしようとしない。道の上に転がるゴミくらいにさえ、注意を払おうとしない」
 沢谷ゆずきは今にも世界を壊しかねない勢いで、そう言った。
「――でも、あなたには友達がいた。歌を聴いてくれる人たちだっていた」
「だから?」
 ゆずきの顔に浮かんだのは、蔑笑だった。
「それで、あたしが喜ぶとでも?」
「……私は、あなたのことを少しうらやましいと思った。まわりを人に囲まれているあなたを」
「あんたもそんなこと言うんだ! あたしのこと、何も知りもしないくせに!」
 ゆずきは激昂したように叫んだ。そしてすべての暗い夜がつまった眼で、フユのことを見る。
「誰も、あたしに本当に必要なものをくれたりはしなかった。どれだけ歌っても、どれだけ呼びかけても、誰も応えたりなんてしなかった。せいぜいが、がんばれよって言うくらい――あたしは何かになりたかった。特別な何かに。そうでなければ、この世界に押しつぶされてしまうから。この世界の重みに耐えられなくなってしまうから。なのに、誰もあたしを特別にしてくれない。あたしの存在なんて問題ないみたいに、みんなが目の前を通りすぎていく」
「…………」
「でもね、この力があればあたしは特別でいられるの」
 そう言って、ゆずきは手をかざして笑った。そこには確かに、その印があるというふうに。誰も彼女を傷つけられない、その印が。
「あたしが特別になることを世界が否定するというなら、あたしはそんな世界を否定する。そうすれば、あたしは特別になれる。一人でいれば、あたしは王様にだってなれる。あたしがあたしでいるためには、すべてのつながりを断たなくちゃならない」
 そう――
 フユにも、沢谷ゆずきの言うことがわかった。
 世界に否定されてしまったとき、世界から捨てられてしまったとき。
 人は、そうするしかなくなる。自分を守るために、ほかのものとの関係を断つことしか。誰にも壊せない、誰にも触れられない、そんな壁を築くことしか。でなければ、自分はいつか世界を傷つけ、そしてそのことで自分を傷つけてしまうだろう。
 この不完全世界で許された、それが唯一の方法だった。
「……魔法を捨てる気はない、ということですか?」
 フユは静かに、月の光がそっと音でも立てるように訊いた。
「もちろん、あたしは絶対に逃げきってみせる」
「――なら私は、あなたを捕まえなくちゃならない」
 言ったのと、ほぼ同時だった。
 ゆずきはふっと笑ったかと思うと、脱兎のごとく駆けだしている。魔法を使う暇もない。フユは急いであとを追った。
 数分ほど走ったところで、ゆずきの姿は建設工事中らしいビルの中へと消えた。まだ外壁もなく、鉄骨しか建っていない。地面は土がむき出しの状態だった。
 わずかな明かりだけを頼りにフユが中に入ると、どこからかゆずきの声が聞こえている。
志条、あんたに一つだけ忠告しといてあげるわ
 声は微妙に反響して、出所を探ることはできない。
あの男には気をつけなさい
「――?」
もっとも、それは生きてここを出られたら、だけど――
 その言葉が終わると同時に、怪獣のうめき声のような正体不明の物音が聞こえている。
「…………」
 フユが頭上を見あげると、そこからは子供が積み木でも崩すみたいに、大量の鉄骨が降りかかってこようとしていた。

「――!」
 すさまじい轟音が響くのを聞いて、奈義は現場へと急いだ。
 建設工事中とおぼしきその場所では、建物の一部が崩れ、鉄骨や鉛管といった資材が乱雑に折りかさなっている。巨人が宙から無造作にそれを落としたような、ひどいありさまだった。
「フユ、無事か!?」
 奈義が駆けつけようとすると、鉄骨の一部が音を立てて崩れている。例えフユがその中にいたとしても、簡単には救出できない状態だった。
 その時――
 鉄骨の狭い隙間から、這い出るようにしてフユが姿を現した。衣服の乱れも、体に怪我を負った様子もない。フユが完全に鉄骨の山から抜けだすと同時に、中心近くにあった積み重なりが派手な音を立てながら崩れていった。〈断絶領域〉で支えていた力が消滅したためである。
「どこも怪我はないのか?」
 さすがに心配そうに、奈義は訊いた。
「ええ、鉄骨のあいだを抜けるとき、でっぱりに少し引っかけた程度ね」
 右手の擦り傷を確認しながら、フユは言った。
「……例の魔法使いには逃げられたわ」
 奈義はそれを聞くと、首を振ってため息をついた。
「いや、それはいい。どうやら俺の見立てが甘かったみたいだ。ここまでのことをやってくるとは思っていなかった。お前を危険な目にあわせちまったな」
「知ってるでしょ?」
 そんな奈義に向かって、フユはほんの少しだけ微笑んでみせる。
「誰にも、私を傷つけることはできないのよ」
「そうだな」
 奈義も、少しだけ笑う。そして独り言のようにこうつぶやいていた。
「これでもう、猶予はなくなったわけだ――」

10

 深夜のコンビニエンスストアだった。
 沢谷ゆずきは飲料コーナーの前にたたずんでいた。ほかに客はいない。店の外には黒々とした闇が横たわり、まるで壁面のような質感さえ持っていた。そのせいで店内は光が押しこめられたように不自然に明るく、妙に息苦しくさえある。
 ガラス戸を開けて炭酸飲料を手に取ると、ゆずきはそれをカバンにしまいこんだ。ついで、パンと菓子のいくつかも同じようにしてカバンに入れる。店員がレジでそれを見ているが、咎めたりはしない。ゆずきが〈孤独証明〉を使って、すでに店と商品の関係を断っていたからだ。それらはすでに、誰のものでもなくなっていた。
 レジの横を素通りして、ゆずきは店の外に出る。コンビニの光が誘蛾灯のようにあたりを照らしていた。息を吐くと白く濁り、ゆずきは肩をすぼめて寒さをやりすごそうとする。
 彼女は現在、友達の家を転々としながら厄介になっていた。三日前から自分の家には戻っていない。最初の追跡にあってしばらくしたあと、自分のことが露見していると判断したほうがよさそうだったからである。そのため、家との関係は魔法を使って切っていた。失踪届けなど出されて家族に騒がれては困るからだ。もちろんそれは、彼女が自分の家族を失い、一人ぼっちになることも意味していた。
(――別に、あんな家族)
 ゆずきはけれど、そう思っている。口うるさい母親に、無神経な弟、黙ったまま何を考えているのかもわからない父親。それだけの人間が何の因果もなくいっしょに暮らしている。あれはただ、それだけの集団にすぎない。
 この魔法があるかぎり、食っていくことには困らないだろう。追跡者がいるため使用には注意が必要だったが、たいした心配はしていなかった。いつでも逃げきれる自信があったからである。場合によっては志条芙夕にしたように、多少乱暴な手を使っても構わない。
 そんなことを考えていたゆずきは、歩道の途中でふと足をとめた。
 一人の男が、自分を待っていたかのようにそこに立っている。もう切れかけた街灯が、くたびれた光で男を照らしていた。光量が不足しているせいで、この距離からは男の顔を確認することはできない。
 近づいて、ゆずきは顔をしかめた。
「あんたは――」
「君のことを、これ以上放置しておくわけにはいかなくなった」
 その男は静かに、死神のような冷たい声で告げた。ゆずきは軽く身構えながら訊ねる。
「どうやってあたしの居場所を?」
 あの時、男に見つけられたはずのものとはもう関係を断っているはずだった。あれを使って自分を追うことはできない。
「――確かに、君は自分の家族とのつながりさえ非情にも消してしまうことができる。いとも簡単に。でもこのギターとのつながりだけは、消去してしまうことはできなかったらしいな」
 そう言って、男は肩に担いでいたものを示してみせた。それはケースに収められた、沢谷ゆずきの相棒であるギターだった。
「……なるほど、そういうことね」
 ゆずきは複雑な感じの笑みを浮かべる。例え世界のすべてと関係を断ったとしても、自分には確かにそれを捨てることだけはできないだろう。
 つまりそれは、この男から行方をくらますことは絶対に不可能、ということだ。
「いったいあたしを捕まえて、どうするつもりなわけ?」
 と、ゆずきは質問した。
「手荒なことをするつもりはない。君が大人しくしてさえいれば、危害は加えない」
「……よく言うわね」
 ゆずきは嘲笑めいた表情を浮かべた。
「あんたは志条に私のことを教えてなかったんでしょ? それに、本当はあたしの居場所を簡単に見つけることができたくせに、それをしなかった。自分の仲間にさえそんな人間を、信用できると思う?」
「彼女のことはできるだけ巻きこみたくなかった。俺が君を追う本当の理由を知られるようなことは。それにこのギターは最後の手段だった。もしも君がこのギターとのつながりも断っていたとしたら、もう打つ手が残っていないことになる」
「ずいぶん殊勝に聞こえるけど」
 ゆずきはふんと、鼻を鳴らした。
「でもあんただって、どうせこの魔法の力とかいうのをろくなことに使ってないんでしょ。そんな人間に捕まるのなんてごめんよ。それにこの力はあたしに必要なの。この世界であたしが特別でいられるために」
「どうしても抵抗するのか?」
 男はあくまで、できるなら闘争は避けたいという口調で言った。
「当然でしょ」
 言って、ゆずきは続ける。「思えば、あんたと会ったあたりからおかしなことがはじまってたのよ」
「…………」
 男は黙って、あらためてゆずきと向きあう。交渉は決裂したのだ。
 対峙する二人のあいだに、緊張が走った。ゆずきは男のことを知らない。だが志条芙夕と同じように、それがどんな魔法であれ消去する自信はあった。優位は自分のほうにある。そして、ゆずきは考えていた。
(――一瞬、手を触れるだけでいい。それだけのことができれば、こいつを無力化することは可能だ。あの時、酔っ払いの男にからまれたときと同じに)
 沢谷ゆずきはチャンスをうかがい、そしてそれはやって来た。
 自動車が彼女の後方から現れ、ヘッドライトの光が男の視界を奪った。その瞬間に、ゆずきはすばやく走りよって、男の頭に手をかざす。
「ばいばい」
 つぶやくと同時に、魔法を発動した。世界の揺らぎが収束し、男とその記憶との関係を抹殺する。
 ――する、はずだった。
「……?」
 妙な手ごたえに、ゆずきはうろたえた。確かに魔法は発動している。はじめはストレスに従って自分でも気づかないうちに使用していたが、今では完全にコントロールすることができた。だから、間違えるはずはない。魔法は有効に作用し、記憶との関係を断たれた男は廃人同然に変わってしまうはずだった。
 けれど――
 男にはまったく何の変化もない。まるっきり平気な様子で、そこに立っている。
「何で……?」
「悪いな」
 呆然とするゆずきに向かって、男は言った。本心から、そう思っているかのように。
「それは元々、俺のものだ。だから俺には効かない」
 男はそして、ゆずきの額に軽く手を当てた。途端に、彼女は自分の中から〈孤独証明〉の魔法が消えていくことに気づく。
「そんな、どうして……」
「君には代わりにこれを渡しておくよ」
 言って、男はギターを地面に置いた。それが本来、沢谷ゆずきの持っているべきものだったのだから。
「――そして君は、これまでのこと、魔法のことについて忘れる。今まで通りの生活に戻り、自分のしたことも覚えていない。ずっと夢でも見ていたみたいに」
 魔法の揺らぎが起こり、ゆずきは記憶の一部とその関係を断たれていた。
「……あれ?」
 もう魔法のことも、男のことも、ゆずきの記憶にはない。彼女は急に我に返ったような顔で、目の前の見知らぬ男をぼんやりと眺めていた。
「大丈夫――」
 訳のわからないような顔のゆずきにむかって、奈義真太郎は言った。
「君が完全世界の夢を見ることはないんだから」
 街灯の明かりは何かを感じたように二、三度明滅し、それからまた元のようにくたびれた光であたりを照らし続けていた。

――Thanks for your reading.

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