[不完全世界と魔法使いたちC 〜フユと孤独の魔法使い〜]

[二つめの関係]

 コンクリートのベランダには、一匹の猫がいた。
 白地に黒の斑紋の入った猫である。首輪はしていない。少しやせて、毛並みも全体に健康的とはいえなかった。野良猫なのだろう。
 そのせいか、その猫はひどく険のある目つきをしていて、お世辞にも可愛らしいとはいえなかった。月の裏側にでも放擲されて、凍えるような孤独を一人で生きてきた、という感じでもある。
「可愛いでしょ?」
 どこをどう引っくりかえしたのか、弓村真花はそんな野性味あふれる猫に向かって、にっこりと笑顔を浮かべて言う。
 音楽教室の外にあるベランダには、フユと真花の二人しかいなかった。時刻は放課後で、授業はもうとっくに終了している。校舎の向こうにある運動場から、遠い喚声の気配が伝わっていた。飛行機が低空を飛ぶ、空を壊すような音が聞こえる。
 真花はベランダの敷居のところに腰かけて、フユは隣に立ってそれを見おろしていた。開いたガラス戸からは、誰かが直接息を吹きかけているみたいな冷たい風が入りこんでいる。
「ここ、この子の散歩コースになってるみたいで、時々見かけるんだ」
 猫はよほど真花のことに馴れているらしく、手で触れられても逃げようとしない。彼女が首の下をさすってやると、気持ちよさそうにのどを鳴らした。甘えているわりに、何故かそこには愛嬌といえるほどのものは存在しない。
「……どんなふうに生きてきたか、目に見えるようね」
 そんな感想を、フユはもらした。試しに手をのばしてみると、猫は鋭い目つきで睨めつけてきている。そういえば昔、こんな猫を何匹も捕まえたことがあったっけ、とフユは思い出していた。
 峻厳な世界に生きてきただけあって、誰を信用すべきがわかるのだろう。猫は真花の膝の上にのぼると、そこで丸くなって目をつむった。真花は嫌な顔一つせず、その体を優しくなでてやる。ペットというよりは、母親が子供にするみたいに。
「この子の名前、プドレンカっていうんだ」
 と、彼女はフユのほうを見て言った。
「プドレンカ?」
 妙な名前だ。どちらかというと、シャチとか青ひげとかのほうがこの猫には似あいそうな気がする。
「この子はね、永遠に死なないんだ。この子がいなくなっても、次のプドレンカが必ず生き残る。そして世界に復讐でもするみたいに、その一族を増やしていくの」
「何だか変な話ね」
 フユは顔をしかめた。
「うん――チェコでは、猫がのどを鳴らすのを糸車を回してる≠チていうんだって」
「チェコ?」
 けれど真花はにっこり笑ってみせるだけで、その話はもうおしまいのようだった。
 猫は相変わらず、彼女の膝の上で幸福そうに丸くなっている。白と黒でできたその柔らかな塊は、孵ることもなく永遠の眠りにつく卵か何かみたいにも見えた。
「――私ね、昔猫に助けられたことがあるんだよ」
 真花は急に、そんなことを言った。
「いつのこと?」
「小学生くらいの時。山の中で道に迷って、どこを歩いてるのかわからなくって。すごく心細くて、怖かった」
 その時のことを思い出すように、真花は声を低く沈ませた。
「みんなとはぐれて、誰の声も聞こえない。まわりは耳が痛いくらいしんとして、空だけが時々梢の向こうに見えた。草むらの陰に何が潜んでるのかわからなくて、風で木が揺れるたびに体がびくって震えた。もうみんなのところに戻れないんじゃないかって、何度も思った」
 猫がその三角の耳をぴくぴくと動かす。けれどあたりに不審な気配はなかった。もうとっくに消えてしまった物音にでも耳を澄ましているのかもしれない。
「その時にね、猫が一匹現れて道案内してくれたんだ。嘘みたいだけど、本当にそうだったの。前を歩きながら、時々振りかえってついてきてるのを確かめたり。みんなのところに戻ったら、猫はもういなくなってた。まるで最初から、どこにもいなかったみたいに」
 真花はそっと猫を抱き起こして、膝の上から降ろしてやった。猫は挨拶でもするみたいに一声鳴くと、質量を持った白い影みたいな足どりで去っていく。
「だから今でも、猫を見るとあの時の猫かもしれないって思うんだ。私を助けてくれた、永遠の猫」
 にっこり笑うと、真花は言った。
「――寒いから、そろそろ中に入ろうか」

 弓村真花が出した条件というのは、フユが音楽部に入るというものだった。
 とはいえ、フユに音楽的な趣味や素養などありはしない。そもそも、この学校に音楽部なるものが存在すること自体、フユはその時まで知らなかった。
 真花に向かってそう言うと、けれど彼女は首を振って答えている。
「別にそれでいいんだ」
 詳しい説明を聞くと、音楽部といってもほとんど名ばかりで、実質的な活動はしていないのだという。部員は全部で四人しかおらず、そのうちの一人は三年生で卒業が近い。残る二人は他の部との掛け持ちだった。部そのものが幽霊みたいなものに近い。
「なら、私が入っても仕方ないんじゃないの?」
 フユは当然ながら、そう質問した。一抹の期待を抱きながら。もちろんそれが、花占いをする程度に儚い希望であることはわかっていたが。
「――フユが入ってくれれば、私が嬉しい。それはすごく仕方のあることだよ」
 予想通りに、真花はそんなことを言った。
 この少女がどうしてそれほど熱心に入部を推奨するのかはわからなかったが、いずれにせよフユに選択肢はなかった。妙な噂を立てられるくらいなら、こちらのほうがましなのは間違いない。
 そんなわけで、フユと真花は放課後の音楽室にいる。今は、他の二人が来るのを待っている状態だった。三年生のほうはうまくつかまえることができなかったらしい。
「本当はそもそも、その人が作った部活なんだけどね」
 と真花は言った。二人ともベランダから教室に戻って、勝手な場所でくつろいでいる。暖房がつけられているので、室内は地球の反対側みたいに暖かかった。
「沢谷(さわたに)ゆずき、っていう人なんだけど、その人が一年生の時に作ったんだって」
「どうしてまた、部を作ろうなんて思ったの?」
 フユの口調にはどこか、それを責めているかのような響きがあった。
「何でも、思いきり音を出せる場所が欲しかったからとかで」
「……すごく私的な理由に聞こえるんだけど」
「けっこう強引な人だから、勢いと口八丁で押しきっちゃったんじゃないかな? 私とほかの二人が入るまでは、部員もいなくて一人で活動してたみたいだし」
 それを活動といっていいのかどうか、疑問なところではある。
「弓村さんは、どうしてこの部活に?」
 フユが訊くと、「真花でいいよ」と軽く手を振りながら、
「実のところ、私も音楽に興味があったっていうわけじゃないんだ。ただ、先輩に誘われたとき、それもいいかなと思って。楽器はともかく、歌うのは好きだったし。だから演奏のほうは今でも全然――」
 その時、音楽室の扉が派手な音を立てながら勢いよく開かれ、生徒が二人姿を現していた。どちらも女子である。おそらくそれが、真花の言うほかの二年生部員なのだろう。
「ちぃっす、少し遅れたかな?」
 先に入ってきたほうが、蕪雑な言葉使いで言った。
「――途中で顔をあわせたからいっしょに来たけど、遅れたのは渚のせいだから」
 後ろから現れたもう一人が、丁寧に扉を閉めながら言う。叱責するような言葉のわりに、その口調には親しみのようなものがこもっていた。仲がよいのだろう。
 フユはちょっと姿勢を直して、二人のことを観察する。その二人が事前に聞いていた、小嶋渚(こじまなぎさ)と芦川陽奈子(あしかわひなこ)に間違いないのだろう。
 乱暴に音を立ててドアを開いたほう――小嶋渚は、花びらをくしゃくしゃにまとめたような癖のある髪で、それをさっぱりと短く切っていた。いかにもざっくばらんといった感じで、ここまでの言動を見るかぎりでも、それは裏打ちされている。
 そのあとから静かにドアを閉めた芦川陽奈子のほうは、渚とは対照的なたたずまいをしていた。額が広く、髪は長く、やや太めのフレームをした眼鏡をかけている。何かを思考するにしても、必ずどこか別の場所を慎重に一周してから、というタイプのようだった。
 二人のうち、芦川陽奈子のほうはフユと同じくらいの背丈だが、小嶋渚のほうはそれより指三本ぶんほど背が低い。真花の話によれば、渚はバスケ部、陽奈子のほうは英語部に所属しているということだった。
「急に大事な用があるって言うから、部活休んできたけど……何、その子が新入部員さん?」
 小嶋渚はまるで遠慮というもののない態度で訊いた。
「うん、そうだよ」
 と、真花はいつもの調子で答える。
「この時期に入部するなんて、何か事情でもあるんじゃないの?」
 特に意図してではなさそうだったが、芦川陽奈子はなかなか鋭いところを突いてきた。
「それは――」
 真花が言葉につまると、
「いいじゃん、そんなの」
 と渚がうるさそうに手を振っている。
「細かいことなんて気にしなくったってさ。部員が増えたほうが活動は楽しいんだし、せっかく入ってくれたんだし、歓迎しなくちゃ」
「そういうあんたは、この前部活に来たのはいつだっけ?」
 陽奈子は詰問するようにしながら、どこかからかっている様子で訊いた。
「ええと……」渚は指折り数えている。「二週間くらい前?」
「十六日前だよ、正確には」
「だから陽奈子は細かいんだって。そのうち禿げるよ。それにそっちだって似たようなもんでしょ?」
「私は十日前にも来たわよ」
「そういうの、何て言うか知ってる?」
「五十歩百歩」
 どうやらこの二人の仲がいいのは確かなようだった。
「――えっと、二人ともいいかな? そろそろ紹介したいんだけど」
 真花は保育園児でもあやすような調子で声をかける。陽奈子の質問がうやむやにされたことには、もちろん言及しなかった。
 言われて、二人はあらためてフユのほうを見る。真花は一度咳払いをしてから、
「彼女が今度新しく音楽部に入ることになった、私と同じクラスの志条さんです」
 とフユのほうを手で示した。
「……志条芙夕です、よろしく」
 博物館に陳列された石ころほどの愛想もなく、フユは軽く頭を下げた。
「こっちの二人は小嶋渚と芦川陽奈子。みんなクラスは別だけど、小学校時代からの友達なんだ」
「よろしく――」
 と、渚と陽奈子の二人もそれぞれ頭を下げる。それから渚は教室を見渡すと、
「沢谷先輩は?」
 と訊いた。
「来てない。学校でも見つけられなくて……」
 真花は首を振る。
「あの人も、もうずいぶん部活に顔を出していない気がするけど?」
 陽奈子は曇り空でも気にするような顔で眉をひそめた。どうせそのうち雨が降るのだろうけど、というふうに。
「そうでもないよ。この前この教室で会って、ライブするから見に来いって言われたから」
「部活じゃないじゃん」
「一応、その時に歌う予定の新曲も歌ってくれた」
「めちゃくちゃ私用じゃん」
 渚がつっこむのを聞きながら、フユにはよくわからない。
「ライブって、どういうこと?」
「――ああ、そうだ。まだ言ってなかったけ」うっかりしていた、というふうに真花は言う。「ゆずき先輩は路上ライブをやってるんだ」
「路上ライブ……?」
 テレビか何かでしか聞いたことのない言葉だった。天橋市のような地方都市で、しかも中学生ミュージシャンということになれば、その数はあまり多いとは思えない。
「元々、そのための練習に使いたいからって音楽部を作ったらしいんだよね」
「歌手になるのが夢だって、常々主張してる人だから」
 渚と陽奈子がお互いにそんなことを言った。
(……歌、か)
 フユには理解しにくい話だった。彼女には、何かになりたいという願望はない。何かになるということは、何かにさせられるということと同義だった。自分ではない誰かによって、ある種の型に矯正され、変形させられる。そんなことを、フユは望んだりはしない。
 もしも志条芙夕に望みがあるとすれば、それは何にもならないことかもしれなかった。
 ただ、ずっと孤独であり続けること――
「それじゃあ、ここらでちょっと音楽部的な活動でもしてみようか」
 不意に渚が手を叩きながら言った。何かにつけて、音を出すのが好きな少女らしい。
「音楽部的な活動って」陽奈子は初めて聞く単語でも耳にするみたいに訊きかえした。「何それ?」
「――うん、いいんじゃないかな」
 真花は同じ言葉から、陽奈子とは違った連想を得たようだった。
「そうしよう」
「……どうしよう?」
「そりゃ演奏でしょ、音楽部なんだから」
 小嶋渚はそう言って、得意気に胸をはる。その様子を、おそらくは今までに何度もしたのであろう呆れ顔を浮かべて、芦川陽奈子が見ていた。真花はその横で、そんな二人をいたって平和そうに眺めている。
(――変な連中)
 フユはどこか釈然としないものを覚えつつも、そんな三人の前に座っていた。

 楽器の準備にはしばらく時間がかかっている。用具室からドラムセット、ベースにキーボードを引っぱりだして、アンプも用意する。それぞれ配線をつなげると、音を確かめた。
 フユは机をどかして作った空間に、一人だけ観客として座っている。その前に、渚がドラム、真花がベース、陽奈子がキーボードという配置だった。ギターがいないのは、例の先輩がそのポジションであるためらしい。
「――というか、私たちはゆずき先輩に言われて無理やりはじめさせられたみたいなものなんだけどね」
 指で試すように金属弦を弾きながら、真花は言う。
「この楽器も、先輩が相当がんばって予算をもらったらしくて」
「脅しでしょ、ありゃ」ドラムの位置を調整しながら、渚が言った。「二時間もねばられたんじゃ、誰でも嫌になるよ」
「それでも購入したのは全部、中古品というのがあの人らしいけど」
 キーを叩きながら、陽奈子はため息らしきものをついた。
 やがて準備が終わったらしく、三人が目をあわせる。陽奈子がまず和音を奏で、渚が静かにシンバルを鳴らした。真花のベースはそれにあわせて、音楽に厚みを加えていく。
 ボーカルはいなかったが、それが何の曲かはすぐにわかった。誰もが知っているような、有名な洋楽曲である。単純だが印象的なメロディーが、眠っているあいだにどこかから聞こえてくるみたいに、ゆっくりと何度も繰りかえされる。いくらかアレンジはされているが、もちろん原曲のイメージはそのままだった。
 丁寧に幕を下ろすみたいに最後の音が奏でられると、曲は終わりだった。室内はふと我に返ったみたいに静かになっている。三人とも、演奏にはそれなりに満足そうな様子だった。
「どうだった、今の?」
 と、真花は明らかな期待をこめて訊いた。
「……よかったんじゃないかしら」
 どうと訊かれても、フユには特に感想らしきものはない。少なくとも何の曲かはわかったし、演奏がたどたどしいわけでもなかった。けれど、それだけである。
「やっぱり、先輩がいないとダメなんじゃないの?」
 渚がスティックをゆらゆらさせながら言う。まだ叩きたりない、という感じだった。
「……まあ、私らがまともに演奏できるのはこれだけなんだけど」
 それから楽器を片づけてしまうと、四人は丸くイスを並べて座った。話によると、音楽部の活動は普段からこんなものらしい。気が向いたら楽器の演奏をして、あとは適当に雑談をしている。まじめに練習をしたのは、先輩に叱咤されて今の曲を覚えたときくらいだという。
「何せ、肝心の先輩がなかなかよりつかないんだからさ」
 と渚は磊落そうに笑った。
 空気をくすぐるような暖房機の音が響くなかで、四人は話をした。三人の会話での役割というのは大体決まっていて、陽奈子は間違いを指摘したり、辛辣に注意したりし、渚はまぜっかえしたり、からかったりする。真花がそんな二人をなだめたり、たしなめたりする、という感じだった。
 フユはとりあえず、訊かれたことには答えるが、それ以外は概ね黙って話を聞いている、という態度で過ごした。
 話ははじめ、つい最近の期末テストや、渚と陽奈子の部活でのことについてだったが、そのうち話題は不意に、フユの母親である志条夕葵のことに移っている。
「有名なガラス造形作家なんだよ」
 と真花が紹介すると、渚は首を傾げた。
「それって、コップとかお皿とか作ってるってこと?」
「あの人が作るのは、そういう日用品よりは芸術作品みたいなものが多いと思う」
 フユは母親のことを「あの人」と呼んだが、三人は特に疑問には思わないようだった。
「そういえばこの前、テレビで小さな虫をガラスで作ってる人とかがいたけど……」
 陽奈子がうろ覚えな様子で言うと、
「たぶんそれは、バーナーワークというやつだと思う」
 と、フユは指摘した。
「ガラス管をバーナーであぶって溶かすものだけど、あの人が主にやっているのはキルンキャストというやつね」
「きるんきゃすと?」
 渚は話しについていきかねるような顔をした。
「ガラスを成形するときの、いくつかの技法のうちの一つ。キルンというのは、電気炉のこと。この場合は、まず石膏やロウで型を作って、それを利用してガラスを電気炉で溶かし、型にはめる。ガラス工芸で一番よく知られているのは、宙吹きというやつでしょうね。例の、筒の先にガラスの塊をくっつけて息を吹きこむ方法のことよ」
「さすがに詳しいのね」
 陽奈子が素直に感心した。
「……別に。ただ時々仕事をしているのを見るから、それで覚えただけ」
 言いながら、フユはかすかな戸惑いを覚えていた。
 どうしてわざわざ、自分はこんなことをしゃべっているのか。ここにはただ、弓村真花の取り引きのためだけにいるはずだった。無理にこの三人と会話をする必要はない。いつものように、適当な無関心さで受け答えをしていればいいだけなのだ。
 けれど――
 それにもかかわらず、フユは何故だか話を続けている。訊かれた以上のことを、いつのまにか口にしていた。
 フユはそのことに、自分でもよくわからない苛立ちを覚えている。ジグソーパズルのピースに一欠片だけ別のものが混じってしまったような、そんな。
 窓の外にはいつもよりずっと早い、冬の夕暮れが迫りつつあった。

 数日後、フユは真花といっしょに、同じように放課後の音楽室にいた。
 その日数のあいだ、魔法使い調査のために何度か奈義と街を探索していたが、めぼしい成果は得られていなかった。噂話はともかく、魔法の揺らぎを感知することも、特異な現象が発生することもない。もしかしたら、その魔法使いはもうどこかに消えてしまったのではないか、とフユは想像したりもするが、何の指示もない以上はこのまま捜査を続けるしかなかった。
「――まあ、気長にやることだな」
 と、奈義のほうではひどくのん気そうに言った。
「この街にいることだけは確かだよ」
「根拠は?」
「俺の勘」
 その答えに、フユはさすがにため息をつかざるをえなかった。犬が棒に当たる確率のほうが、ずっと高そうである。
「――どうかした?」
 そんなフユを見ながら、真花が訊いた。音楽室には二人だけで、ほかの部員はいない。
「いいえ、何でもない」
 フユは無表情に答える。
「……もしかして、恋をしてるとか?」
 言われて、フユは顔をしかめるよりもむしろ、まじまじと真花のことを観察してしまった。いったいどういう発想で、そんな推測をしているのだろう。
 音楽部へ所属してから、フユは大抵の時間を真花と音楽室で過ごしていた。過ごすといっても、ただ話をするだけである。楽器の練習をするわけでも、楽譜の読みかたを勉強するわけでもない。用事があると言えば、真花は理由も訊かずに簡単にフユを解放した。
 同じ音楽部である渚と陽奈子のほうは、最初の話のとおり音楽室に姿を見せることはない。本業のほうが忙しいのだろう。例の先輩にも、フユはまだ直接会ったことはなかった。
「一応、話はしてあるんだけどね」
 と、その件については真花は苦笑している。三年生なのだからそれどころではないのかもしれない、とフユは勝手に思っていた。もっとも、特に会いたいという気持ちはなかったが。
 そんなわけで結局、放課後の音楽室にはいつもフユと真花の二人しかいない。フユは自分が何のために入部したのか、見当もつかなかった。
「――そりゃ、意味はあるよ」
 と、以前にフユが二度目になる質問をすると、真花は自信を持って答えた。
「どんな意味?」
「私が嬉しい」
 いつかとまったく同じ答えに、フユはやはりため息をつかざるをえない。
「…………」
 今も、真花はフユの無言の否定など気にもしないように、にこにこと笑っている。いつも、そうだった。この少女はフユがどんなにそっけない態度をとっても、それを苦にする様子はない。寒空の下で冬の星座を観測する天文学者みたいに。
「でも、フユは恋をしたほうがいいんじゃないかな?」
 真花はまるで、今日は帰りが少し遅くなるから、というくらいの気軽さで言った。
「どうして?」
 あくまで無表情に、フユは訊きかえす。
「似あってると思うから」
「…………」
 フユにはよくわらからない。弓村真花は話をしていると、不意にそんな、よくわからないことを口にした。当人はいたって平気で、それが自然だと思っている様子だったが、フユにしてみれば内心で渋面を作らざるをえない。そのうち、知らないうちに表情に出ているかもしれなかった。
 表面には出さずにフユがそんなことを考えていると、真花はいつのまにか窓の外を眺めていた。朽ちかけた蔦についた葉っぱの数を数えているみたいな視線だったが、もちろん窓の外にそんなものはない。
 それから不意に、真花は囁くような声で歌を口ずさんでいた。冬になって初めて空から落ちてきたひとひらの雪みたいな声で。その雪は、白い色をした何かの種子みたいに、そっと地面の中へと消えていく。
 彼女のその歌は、とてもきれいだった。
 歌そのものはどこかで聞いたことがあるような、そんな程度のものにすぎない。だいぶ昔に流行った、ある犬種の名前がつけられた有名なバンドの曲だった。大抵の人間は、そんな歌のことはもう忘れてしまっているだろう。
 けれど――
 弓村真花は大切に、そっとしまっておいた箱の中身を確かめるみたいにしてその歌をうたっている。
 別にうまいというわけではない。特別な声や響きをしているわけでもない。
 けれどそれは、子供が色の着いたあめ玉を空にかざして、それから口の中に入れるのと似ていた。それはごく普通のあめ玉にしかすぎないのに、とても特別な味がする。
 窓の下では暖房用のスチームだけが、いつもと同じ音を立てていた。
「――――」
 ふと我に返ったみたいに、真花は口を閉ざした。歌はまだどこかで続いているかのように、静かに消えていった。そっと手をのばせば、空にでも飛んでいったその切れはしに触れられそうな気がする。
「……ごめん、つい癖で歌ってたみたい」
 と、真花は赤くなって弁解した。確かにそれは、あまり誉められた癖ではない。けれど珍しく、フユは首を振った。そして無表情に告げる。
「別にかまわないわ、真花には似あっていると思うから」
 真花はそんなフユににこっと笑ってみせてから、言った。
「私ね、歌をうたってると幸せが集められる気がするんだ。機械の中で棒をぐるぐる回して、綿あめを作るみたいに」
「だから歌が好きなの?」
 彼女がいつかそんなことを言っていたのを思い出して、フユは訊いた。
「うん――そうやって幸せを集めて、交換するんだ。天使へのお願いと」
 まるでポイントカードだった。
「だとしたら、歌うのも悪くないかもしれないわね」
 珍しく冗談めかして、フユは言う。
「そう、だからフユも歌うといいよ」
 言われて、フユは自分が歌っているところを想像してみたが、それはあまりぞっとしない光景だった。
「私は遠慮しとくわ。似あいそうにないから」
「そうかな? 私だけが歌うなんて、ちょっと不公平な気もするけど」首を傾げながら、真花はふと何か思いついたらしい。「だったら、代わりに私のお願いを聞いてくれるかな?」
 どう不公平で、何が代わりなのかはわからない。
「それは例の、取り引きの範疇に含まれているのかしら?」
 フユは冗談でもなさそうな口ぶりで、そう訊く。
「ううん、違うよ」真花は無邪気に首を振った。「友達として、かな」
「…………」
「断るつもりなら、取り引きってことでもいいんだけど」
 どちらにせよ、断らせるつもりはないようだった。
「わかったわ。それで、何をすればいいの?」
「私といっしょに、あるところに行って欲しいんだ」
「どこに?」
 フユが訊くと、真花は短く答えた。
「――病院」

 天橋市民病院は、街の東端に位置する大きな総合病院だった。地区的には市の境に近く、まわりには田んぼが多く広がっている。一昔前に移設されたもので、建物自体ははまだ新しい。
 フユと真花は学校の帰り、制服姿のままそこに向かった。路線バスに乗って、病院前で降りる。二人と同じような見舞客か、外来に通うらしい数人が同様にバスを降りた。
 街の外れだけあって、あたりにはほとんど何もない。広い道路がまっすぐ通っているだけで、あとは一面の平野だった。いくつかの店がぽつぽつと点在するほかは、空から直接突き刺したような高層マンションが遠くのほうに建っていた。
 空はこの季節らしく、のっぺりとした表情のない鉛色の雲によって覆われている。そのせいで、世界は陰々としてゆっくりと死に向かいつつあるかのようだった。
「降るかな?」
 と病院の玄関に向かいながら真花が言った。
「予報では降らない」
 フユが答えると同時に、二人は病院の自動ドアを抜けていた。
 天井の高いエントランスは明るく、清潔で、広々としていた。総合カウンターと自動受付け機が並び、たくさん並んだイスには抜きそこねた雑草みたいにまばらに人が座っていた。診察室前で待機する患者は、病院の通例として老人の割合が高いようでもある。
「こっち――」
 何度も来ているらしく、真花は慣れていた。小児科やMRI室の前を通って、小さな階段を昇る。三階まであがったところで、病棟のほうに移った。ナースステーションがすぐそこにある。
「一応、今日の予定とかを聞いてくるから、フユはそこで待ってて」
 言われて、フユはうなずく。階段のそばに小さな休憩室があって、フユはそこにある黒いソファに座った。
 入院病棟らしく、あたりは静かだった。廊下にほとんど人影はなく、ただ希釈されすぎた人の気配みたいなものだけがある。無個性で無機質な部屋の様子は、治療室というよりは病気の保管庫のように見えた。どこかから、空気をノックするのにも似た、機械的な電子音が聞こえている。
 フユはふと、廊下の先に視線を巡らせて表情を曇らせた。知っている顔が、そこにあったからである。
(何で、あの男が……?)
 向こうはこちらに気づいていないらしく、少しうつむきかげんでまっすぐ廊下を歩いてくる。いつになくまじめそうな顔をしているのは、ただ場所の都合によってそう見えているだけなのかもしれない。
 階段を利用するつもりらしく、そいつはフユのすぐそばまで来た。そこでようやく気づいたように、ぎくっとした動作で足をとめる。
「こんなところで何をしてるの、奈義真太郎――?」
 フユは相手のことをフルネームで呼んだ。
「――奈義だって? 俺の名前は伊沢だけど」
「今、明らかに私を見て足をとめたでしょ」
 即座に指摘すると、奈義はめげた様子もなく肩をすくめた。面倒な男ではある。
「どうして、あんたが病院に?」
 座ったままフユが訊くと、奈義は逆に質問した。
「そっちこそどうしたんだ? 無愛想に効く薬でも開発されたのか」
「あんたこそ、減らず口の手術でもしてもらったほうがいいんじゃないかしら?」
「そうなんだよ、これがなかなか難儀でな。一度罹ると簡単には治らないし、治療費もばかにならん。こっちが必死で努力してるのに、まわりからの理解も得られない」
「…………」
「早く何とか言えよ」
 やはり、面倒な男のようだった。
「だから聞いてるでしょ? どうしてあんたがこんなところにいるの」
 フユが訊きなおすと、奈義はごまかすようにあらぬ方向へ顔を向けた。
「あー、見舞いだよ、もちろんな。友達が入院したんだ」
「何号室の、何て友達?」
「――四二〇号の、山田太郎だ」
(嘘だな)
 考えるまでもなく、フユは思った。いかにも怪しげな名前はともかく、四階の入院患者を見舞いに来たなら、こんなところを通る必要はない。おそらく奈義は、この階で何か用事があったのだろう。それを隠そうとして、そんな嘘をついている。
 とはいえ、それを指摘すると話がまたややこしくなりそうだったので、フユは何も言わなかった。どうせたいした問題ではない。
「――で、そっちは何をしてるんだ? 戦場で負傷したクラスメートでも運んできたのか?」
「口じゃなくて頭のほうを診てもらったほうがよさそうね」フユは冷たく言った。「友達のお姉さんを見舞いに来たのよ」
「友達?」
 奈義は急に不審そうな顔をする。そしてふと思いついたように訊いた。
「それってもしかして、あの時お前が学校でいっしょだった女の子のことか?」
「一応はね」
 取り引き関係を友達と呼んでいいかどうかは微妙なところではあったが。
「……何ていう名前なんだ、その子は」
 どういうわけか、奈義は興味を持ったらしい。
「弓村真花よ、それがどうかしたの?」
 奈義は軽く首を振って、「いや……」とつぶやいた。電卓を使って難しい計算でもしているような表情をしている。
「弓村か、妙なものだな」
「……え?」
 奈義のその言葉は小さすぎて、フユの耳にはよく聞こえていない。
「いや、何でもない――そろそろ、俺は行くよ。明日はまた街に出る予定だ。連絡するから、そのつもりでいろよ」
「……わかったわ」
 釈然としないものを覚えつつも、フユはうなずくしかない。いいかげんに、真花も戻ってくる頃あいだった。
「じゃあな、寒くなってるから、風邪には気をつけろよ」
 最後だけはまともなことを言って、奈義は去っていった。どうしてこの男が病院にいたのかは、結局のところわからずじまいである。
(まあ、いいわ――)
 どうせたいしたことではあるまい、とフユは気にしないことにした。訊いたところで無駄なことはわかっているし、そこまでして無理に関わりを持つ必要はなかった。

 それからほとんど間を置かずに、真花は戻ってきた。ちょうど担当の医師がいて、少し話をしていたのだという。病室を訪問するのには何の問題もないそうだった。
 真花は廊下を歩きはじめてから、
「さっき、誰かと話してたみたいだけど?」
 と、目ざといところを見せた。
「ええ――」
「例の、親戚か何かよくわからない人?」
 フユは黙ったままうなずく。
「どうして、病院に?」
「さあ……」それはフユにもわからないところだった。「何か用事があったのは間違いなさそうだけど」
 そんなことを話すうち、真花は足をとめた。目の前に病室のドアがある。個室らしく、すぐ横の壁には「弓村桐絵」と書かれたネームプレートが一つだけかけられていた。
 卵の殻を静かに割るみたいにして、真花はそのドアをノックした。
 中で人の動く気配があって、返事は待たずにドアを開ける。たぶん、いつもそんなふうなのだろう。真花は迷いのない様子で病室に足を入れる。
 その後ろから、フユも続いた。
 病室の中は、特に変わったところがあるわけでもない。左手に室内トイレがあって、作りつけの棚とロッカーが設置されていた。個室にしてはやや大きめの部屋で、広い窓からは美的とは呼べないあたりの景色と、灰色の空を眺めることができた。
 そして中央部分に、ベッドが一つ。
 手元で絵本を広げた少女が一人、その上に座っていた。
 病院暮らしで邪魔にならないようにしたのだろう。その髪は首筋にそうような形で、短く切られていた。年頃の女の子としては、やや手入れ不足の感がないでもない。自宅から持ってきたらしい空色のパジャマを着ていたが、体の線はその上からでもわかるくらいの繊弱さがあった。真花と比べると、姉というよりはむしろ妹みたいに見える。
 ――たぶんそれは、病気に奪われた時間によるのだろう。
「調子はどうかな、桐絵?」
 真花は二人ぶんのイスを用意しながら訊いた。
 一見したところ、ベッドの少女におかしなところはなかった。包帯やギプスの類もなければ、点滴さえしていない。部屋の隅に不似合いな大型のボンベがあるほかは、心電計のような機械もなかった。
「まあまあ、ってところだな」
 弓村桐絵は少年のような笑顔を浮かべる。その声には自然な明るさがあって、ほとんど病苦を想像させるものはなかった。その姿を見ずに声だけ聞けば、彼女のことを長期の入院患者だと思う人間はいないだろう。
(――似ている、か)
 真花はそう言っていたが、フユにはとてもそんなふうには思えなかった。たぶんこれでは、旅人を前にした北風と太陽くらいには違うだろう。
「カニューラもいらないし、調子がいいと逆に暇になっちゃってさ。昔の絵本を引っぱりだしてた」
 桐絵はどこまでもさっぱりとした声音で言う。
「それ、結城先生にもらった?」
 イスに腰かけながら、真花は訊いた。
「おう――やっぱりいいな。私も犬に生まれ変わったら、こんなふうに飼われてみたいよ」
 けたけたと他愛なく笑ってから、桐絵はまだ立ったままのフユに視線を向けた。
「で、そっちの人は?」
 ずいぶんあけすけな態度だが、不思議と無礼な感じはしない。
「――私の友達で、志条芙夕さん」
「ああ、昨日言ってた人か」
 そう言って、桐絵はまっすぐにフユのことを見つめる。病人らしくない、硬度の高そうな視線だった。
「私はそこにいるのの姉で、弓村桐絵。桐絵でいいよ、よろしく志条さん。一応、高校生ではあるんだけど、学校にはまだ数えるほどしか行ってない。ここのところ体調が悪化してきて、とうとう一月ほど前から病院のお世話になってる。なかなか不便な体なんだな、これが――」
 まるで他人事みたいに話してから、桐絵はちょっと不自然なくらい大きく息をついた。
「――少ししゃべりすぎたみたいだ。呼吸が苦しい」
「無理にしゃべるからでしょ。それにやけに早口だったし」
 真花は呆れたように注意した。
「お客さんにさっさと慣れてもらいたいっていう、私の気づかいだろ」
「それで酸欠になってるなら、世話ないでしょ。フユも気にせず、ここに座って。この人はしょっちゅうこんなだから」
「この人とは心外だな。あんたはもうちょっと姉の権威を擁護しようっていう気はないの?」
「そこにいるのの妹なんだから、仕方ないんじゃないかな。それにもうちょっと病人らしくしてくれないと、見舞いに来た人間としては甲斐がないよ」
「いや、立派な病人だって。今朝もひどい立ちくらみでぶっ倒れたし」
「……自分で言うことじゃないでしょ」
 二人のそんなやりとりを横目で眺めながら、フユは用意されたイスに座る。何だかそこには、草原の真ん中で花摘みでもしているような穏やかさがあった。子供の遊び部屋にも似た雰囲気があって、人の死を含んだ病気の気配は感じられない。
 たぶんそれは、この二人の姉妹が丁寧に積みあげてきた時間の一つ一つによるものなのだろう。
「――そうだ、志条さんて、あの志条夕葵の娘なんだって?」
 不意に、桐絵がフユのほうを見て言った。
「……ええ」
 フユは簡単に答える。
「てことはだ」
 言いながら、桐絵は興奮した様子でベッドの上をごそごそと身動きする。近くの棚から図録のようなものを取りだすと、それを広げてフユの前に示した。
「こういうの、見たことある?」
 大判のその本には、奇妙な形をしたガラス細工が載せられている。おそらく、志条夕葵の作品なのだろう。
「見覚えはないわね」
 フユは軽く首を振った。そもそも、フユはあまり夕葵の制作物には興味がない。
「まあ、そんなものか」
 ちょっとがっかりしたように、桐絵は言う。どこか、流れ星を見逃した子供みたいな様子で。
「――そんなにあの人の作るものが好きなの?」
 フユは逆に、そう訊いてみた。
「ああ、そりゃあね」
 何故か得意そうに、桐絵はにっこりと笑う。
「子供の頃に初めて見たときから、ずっとファンなんだ。たまたま美術館の展覧会に作品が出されてて、それを見て動けなくなった。世界のスイッチが入ったんだ、その時。部屋の明かりがつけられるみたいにさ。自分でも、はっきりそれがわかった」
 桐絵は陶然とした様子で、本に載った写真を指でなぞる。
「それ以来、ずっとこの人の作るものが好きなんだ。木の葉のざわめき、手の平に落ちた雨粒、鳥の瞳に映った光……そんなものが、一瞬の永遠に閉じこめられてしまっている。その一瞬には、自由に手を触れることさえできる、つながっている。そのことが、世界をほんの少しだけ変えてしまうんだ。ほんの少しだけど、確かに。だから私は、この人の作品がすごく好きなんだよ――」
 しゃべり終わってから、桐絵はまた大きく息をついた。「――ごめん、ちょっと疲れたみたい」と言って、乱れた呼吸を繰りかえす。酸素の供給が、うまく機能していないのだ。
(そんなものだろうか……)
 フユはそんな桐絵を見ながら、特にどう思ったわけでもない。不可解な気分になるわけでも、嫉妬めいた劣情を抱くことも。
 ただ――
 弓村桐絵が自分とは逆の感想を抱いたのだ、ということだけは理解していた。自分がそのことをから目を背けたのと同じように、彼女はそのことを正面から見つめた。
 それがどうしてなのかは、フユにはわからなかったけれど。
 桐絵の呼吸が整うのを待ってフユが何か言おうとすると、ちょうどドアをノックする音が響いている。
「――どうぞ」
 二人と一瞬目をあわせてから、桐絵は相手に向かって言った。ドアが開くと、白衣を着た男がそこに立っていた。
 五十代後半、といったところだろうか。胸元には病院関係者であることを示すプレートがつけられていた。身なりに気を使わない風貌で、顎にはうっすらと髭を生やしている。岩塊を砕いたような顔の線をしていて、小柄だが、動作の一つ一つにきつくネジが締められているようなきびきびしたところがあった。
 名札には、心臓血管外科医師『宮良坂統(くらさかとう)』と書かれている。
「――やあ、友達が来てるところ悪いね。ちょっと話があってお邪魔したよ」
 鉄を何度も鍛えて硬くしたような声だった。相手を無条件で信頼させてしまうような、そんな。
「でも宮良坂先生、今日は検査とかはないんじゃ?」
 真花が不思議そうに言う。どうやらさっき彼女が話していた担当医師というのは、この宮良坂という人物らしかった。
「いや、話があるのは真花ちゃんのほうでね」
 宮良坂は他意のなさそうな笑顔を浮かべる。
「手数だけど、外で話せるかな?」
「――わかりました」
 一瞬、何かを読みとったように真花はうなずく。宮良坂のほうはあくまで同じ態度を続けていた。
「それじゃあ、私は少し先生と話をしてくるから。しばらく、二人でよろしくね」
 真花はそう言って立ちあがると、宮良坂医師といっしょに病室を出ていった。
 あとには、フユと桐絵の二人だけが残されている。
「……たぶん、私のことなんだろうね」
 桐絵はふと、ため息をつくように言った。蝶の羽が宙を打つような軽さで。
「どういうこと?」
 フユはただ、そう訊きかえす。
「気を使われるのも、時々疲れるなって話。まあ、それだけのことなんだけどね」
「…………」
 弓村桐絵の心臓には穴が空いている。
 心室中隔欠損症、という。元々、心臓というのは成長とともに四つの部分に分かれるのだが、場合によっては心壁がうまく形成されず、穴になって残ってしまう。小さいものなら自然にふさがり、問題にならないことも多い。
 桐絵の心臓には文字通り、心室部分に欠損がある。それだけなら手術での根治も可能なのだが、彼女の場合は運悪く、肺高血圧症を併発した。心臓の欠陥によって肺に高い圧力がかかり、細胞が肥大化するのだ。肥大化した肺は、もう元に戻ることはない。治療には心肺同時移植を行うしかなかった。その手術には、かなりの幸運と費用が必要とされる。
 アイゼンメンゲル症候群と呼ばれるこの状態自体には、喫緊の処置は要求されない。気をつけていれば、ごく普通の生活を送ることもできる。
 ただしそれは、高濃度の酸素ボンベや感染症への十二分の対応があってのことだった。心臓と肺の両方に欠陥を抱えているのだから、生命維持の根幹が常に脅かされているようなものだった。いつどうなっても、おかしくはない。
 そのため、弓村桐絵は何かあるたびに入院生活を送ることになる。治療はすべて対症療法で、全面的な回復の見こみはない。一種の延命治療だった。そしてもちろん、彼女はそのことを知っている。
「――自分の体のことだから、少しはわかるんだよね」
 桐絵はフユに向かって、つぶやくように言った。そこには悲壮感も、勇壮感もない。ただ事実を確認するだけの、そんな口調だった。
「肺はオンボロ工場で作った欠陥品だし、心臓は中古自動車のエンジンみたいに頼りない。しょっちゅう不整脈やら変な頭痛やら起こすし、そのたびに自分でもうんざりする。こんな故障だらけの体をくれた神様に文句をつけてやりたいけど、どうも神様っていうのはアフターサービスが悪いみたいだからな」
 言ってから、桐絵は自分でおかしそうに笑った。
「別にさ、恨んでるってわけじゃないんだ。さすがにちょっと不公平だとは思うけど、恨んでるわけじゃない。両親に真花がいて、私は幸せだ。いじわるな神様にだって感謝したくなるくらい――ただ、時々、夜中に不意に目が覚めたときとかに思うんだ。もしかしたら私は、このまま暗闇に飲まれちゃうんじゃないかって。このまま朝を迎えられずに、今よりずっと悪い場所、それは手をのばせばすぐ届くくらいのところにあるんだけど、そこに落っこちて、戻ってこれないんじゃないかって」
「…………」
「そこに落ちたら、たぶんもう誰にも私を助けられない。長くは生きられないとか、そういうことを言ってるわけじゃないんだ。これでもずいぶん長いこと、そのそばで生きてきたんだから。つまり私が言いたいのは、何というか死さえも救いにならないような場所のこと。この世界にはそういう場所が、きちんと存在してる。すべての意味が失われて、光さえ死んでしまうような場所が――」
 砂時計の砂粒がすべて落ちきってしまったような沈黙が、病室を覆った。フユはいつもの表情のない声で、桐絵に訊いた。
「どうして、そんなことを私に話すの?」
 桐絵はまるで、ふと風が吹くような自然さで笑って、
「どうしてだろう――」
 と、自分でもよくわからないように言った。
「志条さんが、私に少し似ている気がしたから、かな」

 真花が戻ってくると、フユは別れの挨拶を口にして病室をあとにした。桐絵と会わせるのが目的だったらしく、真花は何も言わない。その後、二人がどんな話をしたのかは、フユにはわからなかった。
 一階に降りると、フユは来たときの道順を逆にたどる。ただし病院の外に向かうわけではなく、その途中にある小児科診察室の前で足をとめた。
 待合室に、人の姿はない。
 担当医の名前を確認して、受付けに誰もいないのを見てとると、フユは勝手に診察室の中へと足を入れた。衝立の端から盗み見ると、目あての人物は確かにそこにいた。
 その男は白衣を着て、カルテに何かを書きこんでいた。近くに看護婦の姿もない。
「こんにちは、結城先生」
 と、衝立のそばからフユは声をかけた。
「……?」
 呼びかけられて、結城季早は顔をあげた。そうして声の主に気づくと、軽い微苦笑のようなものを浮かべる。
「ああ、君か――志条芙夕」
 もちろん、季早がフユのことを忘れるはずはない。
 三年ほど前、季早とフユの二人はある少年に関する計画を共同で行っていた。結果として計画そのものは失敗したが、季早にはもうそのことに固執する意味は失われている。以来、季早がフユと顔をあわせることはなかった。
「その節はお世話になったね。あらためてお礼を言っておくよ」
 季早は律儀な態度で頭を下げた。実際、その時には協力者としてフユはよく働いている。
「昔の話はどうでもいいわ。それにあなたのほうは、もう結社とは関わりがないんじゃないの?」
 目的を失った以上、季早が結社との関係を保つ必要はない。
「いや、そういうわけにはいかないさ」
 言いながら、季早はポケットから携帯端末を取りだしている。例のものだった。
「あの人の魔法を解かないかぎり、結社に逆らうことはできない。協力を要請されれば、今でも僕は断ることはできないのさ」
「…………」
「君も知っているだろう? 例の試験に君が合格したとは思えない。そして結社に属する人間が、あの問いかけを回避することは不可能だ」
「――でしょうね。そしてあなたは今でも、試験には合格できていない」
「そんなことをわざわざ確認しに来たのかい、君は?」
 訊かれて、フユは当然のように首を振った。
「弓村桐絵のことを知っているわよね?」
 その名前を聞いて、季早は訝しげな顔をする。
「もちろん知ってるよ。重い心臓病の子だ。小さい頃は小児科のほうで診ていたが、今は宮良坂先生が担当してる」
「そう――」
 妙なつながりだった。
 同級生である弓村真花の姉が入院していて、その病気の治療にはかつて結城季早が関わっていた。そして、その季早とフユのあいだにも、過去のつながりがある。
 これはただの、偶然なのだろうか――?
「僕としては、君が弓村桐絵のことを知っているほうが不思議なんだが」
「――確かに、そうでしょうね」
 フユにもどう説明していいのかはわからなかった。友達の姉が偶然彼女だった、と言ってしまえばそれだけの話しではあるのだけれど。
「彼女に絵本をあげたのは、あなたよね?」
 代わりにというわけではないが、フユは訊いた。
「彼女が子供の頃にプレゼントしたもののことかい? チェコの作家で、自分が飼っていた小犬について書いたものだよ。彼女、まだあの本を持ってたのか」
「大事にしているみたいだったわ」
「なら、贈り物をした人間としては喜ばしいかぎりだな」
 季早は言いながら、力なく笑った。本当は別のものを与えられればよかった、と思っているのかもしれない。
「……彼女、ひどく悪いのかしら?」
 フユはそっと、訊いてみた。
「ああ、悪いね」
 季早は医者らしく、厳しい顔つきで断定した。
「宮良坂先生に聞いたところでは、心臓がだいぶ弱っているそうだ。たださえ酸素や栄養が不足してるのに、それを送るポンプまで十分な役割を果たせていない。投薬で何とか補助している状態だが、いつほかの病気が併発するかわからない。もしも厄介な病気にかかれば、たぶん彼女は……」
 もちろん、フユには専門的なことなどわかりはしない。けれど季早の表情を見るかぎりでは、事態は深刻だった。それはさっき病室で見た、元気そうな弓村桐絵の姿からは想像のできないことである。
 彼女は自分の胸の鼓動を、限られたものとして数えているのだろうか。
「……ところで、君のほうは今どうしてるんだい?」
 気になっていたらしく、季早はそんなことを訊いた。
「ちょうど結社の仕事についているところよ」
 嘘をつく必要もなかったので、フユは正直に答えた。
「街にいるらしいっていう、謎の魔法使いを探せという話――」
「それはまた大変そうだな」
「あなたも何か知らないかしら? 妙な噂話とか、おかしな現象とか」
「さあね――」
 季早は首を振った。最初から期待はしていなかったので、フユは特に失望もしていない。
 いつまでも長話をしているわけにもいかないので、フユはそろそろ診察室から出て行こうとした。するとそこに、季早が声をかけている。
「僕がこんなことを言うのも何だが、君はいつまでこんなことを続けるつもりなんだい……?」
 フユはゆっくりと、季早のほうを振りむく。まるではじめて見る風景でも目にするみたいに。
「例え魔法を使っても、この不完全な世界をどうにかすることはできない。そんなことに、もう魔法を使うべきじゃない」
「…………」
「君はもっと、普通の女の子になるべきだ」
 フユはその言葉には答えずに、そのまま診察室をあとにした。
(普通、ね……)
 フユは歩きながら、考えている。もちろん、そんなものはもうとっくに失われているのだと言ったところで、どうなるものでもなかった。結城季早自身にも、そんなことはわかっているのだ。人はその失われたものを、永遠に求め続けずにはいられない。
 そして病院の白い廊下を歩きながら、フユはふと思う。
 もしも弓村桐絵を失ったとき、その妹である真花はどう思うのだろう。二人が丁寧に積みあげてきたはずの時間が壊れ、失われたとき、彼女はいったいどうするのだろう。
 やはり、完全世界を求めずにはいられないのだろうか――?

 夕食を終えてフユが後片づけをすませてしまうと、リビングで夕葵が何かしているのに気づいた。
 時刻は六時を少し過ぎたところで、窓の外にはすでに驚くほど濃い暗闇がある。それは手を浸せばべっとりくっついてしまいそうなほど、粘性の高い色あいをしていた。
 フユは手を拭いて、リビングへと向かう。夕葵はそこで、絵を描いているようだった。体の一部が分解したような、奇妙な格好でソファに座っている。正面にあるテレビの電源は入れられていない。テーブルの上には貝殻でも撒きちらしたように、色とりどりのクレヨンが散乱していた。
 夕葵はフユのことを特に気にした様子もなく、手元での作業を続けている。
「……何をしてるの?」
 訊くと、夕葵はようやく顔をあげた。突然しゃべりだした、人間の形をした石でも眺めるみたいに。
「珍しいわね、あんたのほうからそんなこと聞いてくるなんて」
 確かに、普段ならフユはこんなことを質問したりはしない。
「どういう風の吹きまわし?」
「別に、ただ気になっただけよ」
「――――」
 一瞬手をとめてから、夕葵はそのスケッチブックをフユのほうに向かって放り投げた。
 フユがソファの上から拾いあげると、その白い画面の上にはクレヨンとは思えない精緻なマチエールで絵が描かれていた。ガラス細工のイメージ画として描かれたらしいその絵には、踊り子のような人物が両手に何かを抱えている場面が表現されている。
「――サロメよ」
 と、夕葵は言った。
「それはちょうど、彼女が褒賞に洗礼者ヨハネの首をもらっているところ」
 志条夕葵らしいといえば、らしいといえる絵ではあった。
「……今日、志条夕葵のファンだっていう子に会ってきたわ」
 自分でも気づかないうちに、何故だかフユはそんなことを口にしていた。
「その子には妹がいて、その妹が私を彼女のところに連れていったの」
「あんたに友達がいるなんて驚きね」
 半ば嘲笑するように、夕葵は言った。それはこの世界に対する志条夕葵の基本的な態度だったので、フユは気にせず話を続けた。
「その子は重い心臓病を患っていて、子供の頃からずっと苦しんでる。本人は明るく振るまっているけど、自分の体がいつ壊れてもおかしくないことは知ってる。でも、その子は言うの。世界がどんなに不公平だとしても、私は神様に感謝してるって。そして妹のほうも、そのことを知っている――」
 夕葵はスケッチブックに手をのばすと、受けとったそれを抱えこむようにして座りなおした。そうしてクレヨンをいくつか掴みとると、画面に向かいながら口を開いている。
「あんたに一つ、昔話をしてあげるわ」
「……?」
「たいした話じゃない。王子もお姫様も怪物も登場しない……もっとも、魔法使いは出てくるけどね。登場人物は、二人の女の子。一人は暗くて醜い、いじけた森のシダ植物のような妹。もう一人は明るく朗らかで、太陽と朝露が優しく世話した花のような姉――」
 夕葵はまるで独り言でもつぶやくような、淡々とした口調で続けた。
「――もうずっと昔のことです。王子は姫を訪れず、姫はまだ眠りにつかず、語り部がその言葉を失うほど昔のこと。あるところに一人の女の子がいました。泥水から生まれるのがふさわしかったような、そんな女の子です。彼女はいつも一人ぼっちで、温かい血をもった人間と交わるのは苦手でした。冷たい石や粘土を相手にしているときだけ、彼女の世界は平和だったのです。
 そんな彼女には、一人の姉がいました。世界で一番きれいな光の中で生まれたような女の子です。彼女は妹とは違って快活で社交的で、おまけに真心からの優しさというものを持っていました。彼女のまわりには、いつも人の姿がありました。冷たく口もきかない石材とは違った、温もりのある笑顔を浮かべる人間の姿が。応えもしない死んだ彫像とは違った、冗談を言いあう仲間が。彼女は妹の望むものをすべて持っていました。
 そうして醜い妹のほうは、ますます一人の世界に閉じこもるようになりました。まるで誰もいない、冷たく暗い海の底を目指すように。そして彼女は、それでいいのだと思っていました。私にはこの場所がふさわしいのだ、と。
 孤独の場所で息をひそめながらも、醜い妹にもそれなりの未来は訪れました。彼女は美術学校に進み、そこで本格的に彫刻を学ぶうち、何人かの教授が作品を誉めてくれるようになったのです。相変わらず一人ぼっちではあったけれど、彼女はそのことを喜びました。わずかに、救われる気がしたのです。例えそこが誰もいない海の底だとしても、私はそこにいることができる。
 ところが、物事というのはそう都合よくは運びませんでした。
 ある時、彼女は事故に遭ったのです。ちょっとした不注意で、建築資材の崩落に巻きこまれたのでした。彼女は頭を強く打って意識を失い、気づいたときには病院のベッドで横になっていました。最初、彼女は何が起きたのかわかりませんでした。母親が泣きながら何か叫んでいるのですが、さっぱり要領を得ません。それからふと、両手がひどく重いことに気づきました。何とか目だけを動かして見ると、そこには白いギプスをはめられて、巨人のようになった自分の手がありました。
 医者は彼女にもわかるように、親切に、丁寧に説明してくれました。彼女の両手は事故の際、ぼろぼろに破砕して、もう原形をとどめてはいないのだ、と。その機能が回復する見こみはない。その手には、どうにか日常生活を送れる程度の能力が残るだけだろう。その手では、鉛筆一本を握ることさえ難しい――
 彼女にはやはり、わかりませんでした。神様はどうして、わざわざそんなことをしたのだろう。たった一つ、彼女が唯一持っていたはずのささやかな喜びを、どうして奪ったりしたのだろう。どうして……どうして……どうして……?
 やがて彼女に理解できたのはただ、彼女がすべてを失ってしまったという事実だけでした。彼女は今こそ、本当に何も持ってはいません。美しい絵の前で死んだ、あの憐れな少年と犬ほどにも。
 そんな妹に向かって、姉は言いました。『――その両手を治してあげようか?』そう言われたとき、醜い妹には何を言われているのかがわかりませんでした。彼女は怒りさえしました。あんたに何がわかる。何もかも持っているくせに、たった一つのものを失った私の何が。
 けれど姉の話は本当でした。彼女には妹の両手を、その壊れた玩具のような両手を元に戻すことができたのです。そのための方法も、彼女は妹に説明してくれました。
 そして、妹はどうしたのでしょう――?
 もちろん、彼女はそれを受けたのです。それがどういう意味を持つのかを十分に理解しながら。醜い妹は自分だけが助かりたくて、清い姉の申し出に飛びついたのです。
 彼女の両手は、確かに元に戻りました。傷一つない、何の不自由もない手。以前のように、自在に動かすことのできる手。彼女はまだ、彫刻を続けることができる。自分をかろうじて許すことができる。何とか世界に存在することができる。
 ――そのために、姉の両手を犠牲にして」
 話し終えると同時に、夕葵はクレヨンをテーブルの上に置いた。そして言葉の残りかすを吐きだすようにして、長いため息をついている。
「あたしの姉、志条朝香(ともか)は魔法使いだった。彼女の〈祝祭服従(ウィッチ・ギミック)〉は、相手と自分の傷を交換することができる*v@だった――相手の承諾さえあれば。彼女の手はあたしの代わりにぼろぼろになり、あたしはしばらくして逃げるように家を離れた。そしてこの魔法をきっかけに、結社と関わりを持つようになった」
「…………」
「朝香は結局、あたしに呪いをかけたのよ。あたしはこの手を見るたびに、鏡を見る必要もなく自分の醜さを思い出す。そしてそれにも関わらず、あたしがあたしであり続けていることも。今では自分が、深海よりもずっとひどい場所にいることも」
 夕葵はスケッチブックを投げ捨てるようにテーブルの上に置くと、立ちあがった。
「……昔話は、これでおしまい。その二人は、死んでなければ今も生きてるわ」
 そう言ってリビングをあとにすると、夕葵は二度と戻っては来なかった。そこにはただ、何かの反響のような沈黙と、放置されたスケッチブックしか残ってはいない。
 フユはそっと、そのスケッチブックをめくってみた。
 つさっきまで夕葵が描いていたサロメには、周囲に不吉な暗い影のようなものが加えられていた。望みのものを得て、けれど彼女自身もやがては処刑されることを暗示するかのように。

 電話で連絡されたとおり、フユは駅のモール街にある休憩スペースで奈義のことを待っていた。
 時刻は学校が終わって少しした頃で、駅にはこれから徐々に人が増えていく時間帯だった。広場というには手狭なそのスペースは、まばらな人影で埋まっている。そこには近くにある売店のコーヒーを飲んだり、携帯を熱心にいじったりする人の姿があった。
 フユの座るテーブルの前では、控えめな音量で洋楽を流すCDショップが営業していた。今週のヒットチャートを示す看板や、販売促進用のポップなどで店頭が飾られている。時間帯が悪いのか、それとももう誰もCDなんて買わないのか、店内に客の姿は見られなかった。
 そのCDショップではつい先日、魔法の騒ぎが起こっている。
 もちろん、それが魔法だと誰かが気づいたわけではない。騒ぎというのは、店に貼られているポスターの文字列がでたらめになっていたことだった。
 そのこと自体は、誰かのいたずらでポスターが差しかえられたのだろう、ということで収まっている。落書きではなく、印刷位置そのものがずらされていたのだから、そう考えるしかない。とはいえ、すぐそばにいたはずの店員に見とがめられもせずに、何のためにそんなことをしたのかは不明ではあったけれど。
 たまたまその場に居あわせた奈義が、そのことをこっそりと調べていた。感知魔法≠ノは、確かに反応があったそうである。「棒に当たったな」と、奈義は得意そうだった。
 これで、少なくともこの街に魔法使いの存在する確証は高まったが、かといって事態そのものは何も変わっていない。魔法の正体も、魔法使いの身元も、何一つ解明されていないままだった。魔法の痕跡から本人を探しだすことはできていない。
(本当にこんなことで、その相手を捕まえられるのかしら――)
 と、フユには疑問だったが、奈義のほうにはあまり問題視する気配は見られなかった。性格の相違というべきかもしれない。
 休憩所の中央にある時計の針が、何かの壊れるような音を立てて先に進んだ。約束の時間からはすでに五分ほど遅れていたが、フユは気にしない。その五分のあいだに世界のどこかで何人かの人間が死んだことについても。
 それからさらにもう三分ほどしたところで、ようやく奈義は姿を現していた。
「いや、悪いな。待たせちまって」
 言いながら、この男にはあまり悪びれた様子はない。
「ちょっと所用が長びいてな。できるだけ急いでは来たんだが……」
「別に気にしてないわよ」
「そうか?」
「面倒な病気の治療にでも忙しかったんでしょ」
「――違う。その話はもういいよ」
 さすがに少し反省したように、げんなりした声で言う。そうして同じテーブルに座りながら、
「しかし、こうしてみるとまるでデートの待ちあわせみたいだな」
 と、奈義は何気ない口調で言った。懲りないのか、ただ鈍いだけなのかは判断のつかないところである。
「誰が?」
 フユは短く問いかえした。
「俺とお前だよ。ほかに誰がいる? ……いや、わかったからまわりを見なくていいよ。何だか、俺が恐ろしく気の利かないことを言ったみたいじゃないか」
「みたいじゃなくて、実際にそうなのよ」
 フユは力なくため息をついた。この男といると、そのうちため息のストックが全部なくなってしまいそうである。
「……それで、今日は何の用なの? またいつもと同じで、四葉のクローバーでも探すみたいにあてもなくさ迷い続けるわけ?」
 どうでもよさそうに、フユは言った。
「何だかその言いかただと、俺が無能な人間みたいに聞こえるな」
「耳のほうは正常そうね」
「まあ確かに、どこかの探偵ほど頭が良くないのは認めるがな」
 奈義は大げさに慨嘆してみせた。
「けど実際のところ、それ以外にまともな方法なんてないのも事実だ。こっちには相手が誰なのか、さっぱりわかってないんだからな。駅周辺に出没するらしい、というだけじゃ何のヒントにもならん」
「それを何とかするのが、あんたの役目じゃないの?」
「あいにく、神様からの啓示がなくてな。素行が悪いせいで愛想をつかされてるのかもしれん」
「雷にでも撃たれれば何か思いつくんじゃないの」
「同時に死んでるよ」
「なら、やってみる価値はあるかしら?」
「……まだ命は惜しいんで、遠慮しとくよ。たいして価値があるとは言わないが、何しろ一つしか持ってないんでな」奈義は言って、憎々しげな顔をした。「まったく、魔法使いの関係者にでも会えればいいんだが」
「――やっほう」
 不意に声をかけられて、二人は同時にそちらのほうを見た。
 そこには少女が一人、立っている。見覚えのない顔だった。マフラーをして、頭にニット帽をかぶり、犬のストラップがついたギターケースを担いでいる。すぐそばに、キャリーバッグに似た簡易式の台車を引っぱっていた。
「よっこらせ、っと」
 二人の返事も待たずに、少女は荷物を置いてテーブル席に座った。敵意がないことを示すみたいに、その顔はにこにこと笑っている。
 年齢は、中学生か高校生のどちらかというところ。毬みたいな、ころころとよく動く表情をしていた。どこかのモデルを真似したような髪型と服装をしていて、それがちゃんと似あっている。流行に敏感な、センスのある女の子、という感じだった。おまけに物怖じしない、果敢そうな目をしている。
「あなた、志条さんだよね?」
 座って、少女はフユのほうを向いて訊いている。
「……そうだけど、どうして私のことを知っているの?」
 フユは名前のことよりも、この少女の傍若無人さのほうにやや辟易しつつ言った。
「ん、聞いてないかな――?」
 少女は特に態度をあらためようとはしない。
「ほら、音楽部に先輩がいるって聞いてるでしょ。それが、あたし」
 そこまで言われて、フユはようやく相手の正体に気づいた。
「沢谷ゆずき――先輩」
「ぴんぽーん、大正解」
 彼女はいかにも嬉しそうに言った。
「お初にお目にかかります。以後、どうぞお見知りおきを――」
「でも、どうして私のことを?」
 フユにはまだよくわからなかった。この先輩とは初対面のはずだ。名前はともかく、互いの顔を知っているはずがない。
「いや、弓村のやつからいろいろ聞いててさ」とゆずきは少しも湿ったところのない笑顔で言う。「何か、ぴんと来たわけ。うちの制服着てるし、雰囲気も似てるし。もしかしたら、近頃新しく入ったっていう、志条芙夕じゃないかな。ちょっと確かめてみるか……まあ、ここを歩いてたのは偶然なんだけど」
 それだけのことで、わざわざ声をかけたのだろうか。
「間違ってれば、謝ればいいだけのことだしね」
 と、ゆずきはけたけたと笑った。これも性格の相違というべきかもしれない。
「――何だ、知りあいか?」
 話が一段楽したところで、それまでなりゆきを見守っていた奈義が声を挟んだ。
「そう、同じ音楽部なんだな、これが」
 いたってフレンドリーな口調で、ゆずきは言う。初対面とは思えない口ぶりだった。たぶん相手が火星人でも、彼女の態度は同じなのだろう。
「――そっちは、志条の親戚か何かみたいな人でしょ」
「奈義真太郎」いささか自尊心を傷つけられたように、奈義は言った。「これでも一応、名前があるんでね」
「へえ、奈義さんか。確か、学校の近くにある本屋で働いてなかったっけ?」
 ゆずきの記憶は、真花のそれよりいくらか正確なようだった。
「しばらくバイトをしてた」
「なるほど。で、二人はこんなとこで何してんの? デートとか?」
 いささか返事が追いつかないほど、早いテンポでしゃべる少女だった。
「――まず、残念ながらデートではない」
 いくらか話のペースダウンを図りながら、奈義は答える。
「まだ雷に撃たれて死にたくないから、これは本当のことだ」
「ふうん、じゃあまた、何を?」
「……その前にこっちも訊くが、君は何をしにここに来たんだ?」
 質問攻めを避けるため、奈義はこちらから逆に訊いてみた。
「あたしはね、ライブ――」
 ごく当たり前のことのように言って、ゆずきは傍らのギターケースを叩く。
「こっちが相棒のギター。なかなかお高いやつだったけど、それだけの仕事はしてくれる。こつこつ貯めてたお年玉はきれいになくなったけど」
「ライブ?」
「路上の、ね。これでも、この辺じゃちょっとは有名なんだよ」
 そのセリフを聞いて、奈義は何かを思いついたようだった。
「じゃあ……ええと、沢谷さんは、この辺のことには詳しかったりするのか?」
「詳しいかどうかは、どうだろう。まあ最近、変な噂はよく耳にするけど」
 聞くと、奈義は一瞬フユのほうに目配せした。この男が何を考えているのかは大体わかったので、フユは黙っている。沢谷ゆずきから有力な情報を引きだそう、というのだろう。うまくやってくれれば、もちろんフユに文句はない。
「沢谷さん、実は俺たち……」と、奈義は話を切りだした。「ちょっとした仕事を頼まれててね。この辺の噂話を集めてるんだ」
 とりあえず、フユは口を挟まなかった。今のところ、問題はなさそうである。
「大学の民俗学的な調査でね、街の都市伝説について調べてるんだ。学部の教授から報酬も出てる。歩合制だから、その手の噂を多く集めるほどもらえる金額も増えていく。で、俺はこいつと協力して話の聞きとり調査にあたってるわけだ」
「ふうん」
 疑わしげではあるが、まんざら信じていないわけでもなさそうに、ゆずきはうなずく。
「そんなわけだから、沢谷さんも何かおかしな話とか知ってたら教えてくれないか? 特にお礼はできないんだが」
 言われて、ゆずきは少々考えこむようにしている。
「……そういえばさっき、おかしなことがあったかな」
「へえ、どんな?」
 ずいぶんタイムリーな話だった。
「自販機がさ」ゆずきは腹立たしげに眉をよせた。「お釣りを出しやがらなかった」
 それは、ただの故障ではないだろうか。
「二百円入れたのにさ、返ってこないんだよ。たださえ嫌なことがあってむかついてたから、思いきり蹴とばしてやったけどね」
「――ちなみに、その自販機はどこに?」
「あっちのほう」
 と、ゆずきは体の向きを変えて指さした。
「ちょっとへこんでるから、すぐわかると思うよ」
「……それはどうも」
 コメントに困ったように、奈義は言った。不運な自動販売機にこそ、いい迷惑だったろうけれど。
 時計はいつのまにか、フユがここに来てから一周の半分ほどを回ろうとしていた。ゆずきはそれに気づくと、立ちあがってギターケースを担ぎなおしている。
「じゃあ、あたしはこの辺でそろそろお暇するわ。場所とりとか、いろいろしなくちゃならないんで――ああ、そうだ。暇だったら歌、聞きに来てね。今日のお礼ってことで」
 一方的にそれだけのことをしゃべってしまうと、ゆずきは手を振って行ってしまった。漂着した無人島から一人、元気よく出発するみたいに。
「それで、どうするの?」
 しばらくして、フユは訊いた。今の、ゆずきの発言にあった自動販売機のことだ。
「……まあいいだろう、たぶん。犯人はわかってるわけだからな」
 奈義はわざと肩をすくめるように言った。物事はやはり、そう都合よくは運ばないらしい。

 ――次の日、昼休みでのことだった。
 フユは一人で階段を昇っていた。あたりに人影はない。体育館のほうからは、雪崩のような足音や、ボールが床を打つ音が聞こえた。いつも通りの昼休みである。
 階段を昇っている途中、上からやって来た男子生徒とすれ違った。同学年だが、もちろん知らない生徒である。フユは手すりによって、その少年をやりすごした。
「――あんたが、志条芙夕か?」
 声をかけられたのは、その時だった。振りむくと、下の踊り場のところにその少年の姿がある。
 平均よりやや背の高い、すらりとした少年だった。大抵のことは器用にこなしてしまいそうな風貌をしている。そのくせ、カメラのピントをあわせ損ねたような、どこかとらえどころのない様子をしていた。
「そうだけど、あなたは?」
 見知らぬ人間がこんなふうに声をかけてくるのは昨日に続いて二度目だな、と思いながらフユは訊いた。
「俺のことはどうでもいい」
 と、少年は言う。どうやら、自分のほうでは名前を名のるつもりはないようだった。
「あんたに忠告しに来た」
「……忠告?」
 フユは無表情に少年のことを見つめる。けれどからかっているのか、脅しているのか、その様子からはうかがい知ることはできなかった。
「今回のことに深入りするようなことはするな」
「…………」
 どういう意味だろうか。
「あんたは下手に手を出して関わらないほうがいい。これはあんたの問題じゃない。あんたはただ見てればいいんだ。余計な真似はせずに」
「いったい何を言っているのかしら、あなたは?」
「そう聞かれて、教えるとは思わないよな?」
 少年はあくまで、とぼけた態度を崩さなかった。もちろん、フユに対して何も教える気がないのは確かである。けれどこの少年のほうでは、フユのことを知っている――
 これではまるで、いつか自分がある少年にしたのとそっくり同じ状況だった。
「忠告はした、この件には関わるな。これはあんたの出る幕じゃないんだ」
 言いたいことだけを言ってしまうと、少年はそのまま階段を降りていった。あとにはただ、海の真ん中にでも取り残された格好のフユだけが、階段の途中でたたずんでいる。
 もうすぐ昼休みが終わるらしく、体育館からの物音はいつのまにか消えてなくなっていた。

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