[プロローグ]
灰色の空から、音もなく白く冷たいものが降っていた。 十二月もはじめで、まだ本格的に雪の積もる季節とはいえない。凍えるような風が吹いても、吐く息の白さに驚いても、街はどこか明るかった。空から落ちてくる雪はただ、これから来る何かをそっと伝えようとしているだけにも思えた。もうすぐ、暗く冷たい時間がやって来る―― 通学路を歩いていた志条芙夕(しじょうふゆ)は、ふと足をとめて空を見あげた。 朝の登校時間にもかかわらず、あたりにほかの生徒の姿はない。それはフユが、わざとそういう道を選んでいるからだった。車もほとんど通らない住宅地には、何の装飾性もない沈黙だけが横たわっている。 小さな白い塊が手の平に乗って、水滴だけを残して消えてしまった。いや、雪が消えたわけではない。それは元に戻っただけだ。 フユは雪が嫌いだった。 それを見ると、昔のことを思い出すからだ。ずっと昔、小学生の頃に親に捨てられた日のことを。どれだけ時間がたっても、その日のことは忘れられそうにない。 雪の降る日だった。ストーブの具合が悪くて、六畳もないような狭いアパートがなかなか暖まらなかった。赤い火が変に弱々しくて、まるで寒さに縮こまっているかのようだった。 その日は珍しく、両親がプレゼントを持って帰ってきた。大きいだけがとりえの、粗雑なクマのぬいぐるみだったが、フユは喜んだ。何しろそんなことは、絶えてなかったことだったのだから。ぬいぐるみを抱えて、フユは幸せだった。神様に感謝しようと思った。この恩は決して忘れません。いつかきっとお返しします、と。 二人はほかにも、たくさんのごちそうを用意してくれた。ただのファーストフードの類だったが、フユにとっては十分豪華な食事だった。それにいくら食べても、舌打ちされるようなこともない。父親も母親も、終始にこにこしていた。 そのあとで二人は、散歩に出かけようと言った。寒くて、雪も降っていて、食べたばかりで眠くもあったけれど、フユに嫌とは言えない。こんなにも機嫌の良さそうな両親を怒らせたくなかったから。 苦しくなるくらいの厚着をさせられると、フユは二人に手をつながれて表に出た。空で掃除でもしているみたいにたくさんの雪が降って、地面にはすでに薄っすらと積もりつつある。風が鉄みたいに冷たかった。 フユはぬいぐるみを抱えて、手を引かれるままに歩いていった。どこへ行くのかは、訊けなかった。訊けば、この幸せは壊れてしまいそう気がして。 ずいぶん歩いて、まわりには知らない景色ばかりが広がっていた。塗装の剥げた駐車場のフェンス、お化けがそこに居座っているような自動販売機、空に向かってのびる灰色のマンション―― やがて人気のない公園にやって来ると、三人はそこに入っていった。雪が一面に白く積もっている。母親はブランコの雪を払うと、そこにフユを座らせた。 フユは母親にされるまま、やはり何も訊かない。ぬいぐるみを抱えたまま、にこにこ笑っている。 二人はフユの服を直して、帽子を目深にかぶらせた。そして、その場を去っていく。フユはその光景を、ブランコに座ったまま見送った。そこにいなさい、と言われたから。何故だか父親と母親は最後に、ごめんねと謝っていた。 フユはじっと、ブランコに座ったままでいた。二人はそこにいるようにと言ったのだ。勝手にいなくなれば、見つけられなくなってしまう。それにいくらブランコをこいだって、寒いだけでその場からは少しも動けはしないのだ。 雪が、空から音もなく降っていた。フユの帽子や肩に、白い毛布のようにそれが積もっていく。 このまま雪に埋もれてしまうのも悪くないな、とフユは思った。そうすればきっと両親は心配して、いつもよりずっと優しくしてくれるだろう。もしかしたら、好きな歌をうたっても怒鳴られないかもしれない。部屋の隅でお気に入りの絵本を読んでいても、蹴とばしたりしないかも。それから温かいお風呂につかって、母親のすぐそばで眠らせてもらえるかも。 (それから、それから――) フユはぎゅっ、とぬいぐるみを抱きしめている。 けれど―― 本当は、もうわかっていた。二人が戻ってくることはない。 私は、捨てられてしまったのだ。ごみ捨て場にごみを捨てるみたいに。いらない子供は公園に一人で置いていかれてしまう。そうしてその子供は、雪に埋もれてそのまま死んでしまうのだ。 フユは涙を流さなかった。泣いてしまえば、それが本当だと自分で認めてしまうから。自分で認めないうちは、その事実が自分を傷つけることはない。 壁を作るのだ。自分のまわりに壁を。何も入ることのできない、何にも壊すことのできない壁を。そうすればずっと、自分は平和でいられる。 雪はいつのまにか、フユの体に積もるのをやめていた。その少し上、何もない宙空にフユの魔法が作った壁に、それは阻まれていたから。 どれくらいの時がたっただろう。 気がつくと、フユの前に誰かが立っていた。フユは驚きも期待もせず、顔をあげる。それがあの二人のどちらでもないことだけは、確かにわかっていた。 そこに立っていたのは、やはり知らない人物だった。透明のビニール傘を差して、白いコートを着ている。感情のうかがえない、ひどく冷たい目をしていた。まるで絵本に出てくる、雪の女王みたいに。 「……ずいぶん珍しいところに魔法使いの子供がいたものね」 それは温かみのない、冬の空気そのものみたいな声だった。 「あんた、自分でもわかってるんでしょ? 自分がもう捨てられてたんだって」 フユは答えずに、けれど目だけはまっすぐにその人を見つめていた。 「それとも、まだつながっているつもり? そのためなら、ここでこうして死んでも構わないとでも? それでつながりを元に戻せるとでも? あんたを捨てた人間は、決して戻ってきたりはしない。つながりはもう断たれた。それを戻すことは、魔法でもできない。少なくともこの不完全な世界の魔法ではね。あんたはとっくに、そのことをわかってるんでしょ?」 フユはやはり、何も答えない。 「黙っていれば、それを認めなくともすむというわけ? 壁を作ってしまえば、誰も傷つけず、誰にも傷つけられない。あんたはそう言いたいの?」 フユは何も言わず、けれど目だけはまっすぐにその人のことを見ている。例えどんなことを言われたとしても、自分の前にある壁を破ることはできない、というように。 その人はため息をつくような、嘲笑うような、そんな表情を浮かべた。そうしてフユに向かって手を差しだしながら、 「あんたは本当に、あたしによく似ている」 と、憎悪をこめて告げた。 「――――」 その言葉は、フユの作った壁をするりと越えてしまっていた。だからフユは、のばされたその手をつかんだ。雪よりも冷たいような、その手を。 フユが志条夕葵の子供になったのは、その時だった。 その翌日、フユはずっと抱えていたぬいぐるみにマッチで火をつけて燃やしてしまった。黒こげになったその残骸は、ほかのごみといっしょになってごみ捨て場に捨てられている。 ――志条芙夕が雪の日に思い出すのは、そんなことだった。
※
人は、孤独の中で生きていくことはできるのだろうか? 誰とも交わらず、誰にも触れられず、誰にも理解されず、ただ冷たい雪の下でじっと耐えているようなことが。そこでは一条の光も射さず、マッチ一本分の温もりさえ得ることはできない。荘厳な絵の前で天使が迎えに来ることもない。 それはきっと、月の裏側にでも生きているような状態だ。 クレーターで醜く爛れたその場所からは、旅立ったはずの場所を見ることもできない。焦熱の昼と、酷寒の夜を繰りかえすだけでは、夢を見ることさえ叶わない。永遠の煉獄に落とされたように、人はそこで苦しみ続けなくてはならない。 孤独の風景はきっと、そんなものだ。 大切なつながりを失ったとき、人はそんな場所で暮らさなければならない。空気も、水も、助けの宇宙船すらなく、地球は帰るどころかその姿を見ることもできない。足にはめられた鎖は、地面にがっしりと食いこんでいる。 だからもしも―― もしも、その孤独の風景を抜け出すことができれば。月の裏側から自由になれれば。 人はどんなことをするのだろう? すべてを投げうってでも、例え魔法の力を借りてでも、それをしようとするのだろうか。かつてのつながりを、完全世界を取りもどすために。 人はきっと、孤独に耐えられるようにはできていない。神様がデザインしたとき、そんなふうには設計していなかったのだ。 だからすべてのつながりを失ってしまったら―― 孤独の風景に出会ってしまったら―― 人は、それを求めずにはいられないだろう。 かつてあったはずの、完全世界を。 [一つめの関係]
1
電話がかかってきたのは、まだ昼にはならない朝の時間だった。 自室にいたフユは、作りかけのジグソーパズルから顔をあげて机の上を見た。 休日で、部屋の中はすべての活動を停止したようにひっそりとしている。携帯端末の無機質な電子音は、空間の一部を引き裂きながら響いていた。 床に置かれたパズルを崩さないように立ちあがると、フユは勉強机に向かった。シンプルな、ただ物を置くだけの機能しかない机である。その右隅で、携帯端末は着信ランプを点滅させながら、人の注意を引くためだけの音を鳴らしていた。 どこかへ出かける予定もなかったので、フユは簡単な部屋着を身につけている。とはいえそれは、あの頃に比べれば格段の違いでもあった。どこもほつれていないし、穴が開いているわけでもない。 中学二年になった今では、フユの外見も子供の頃とはまるで違っていた。 細くて骨ばかりだった体にあまり肉はつかなかったが、背丈はのびて、すらりとした体つきをしている。額で分けられた髪は絹のように滑らかで、ほつれもなくまっすぐだった。顔立ちは整っていて、どこか彫像めいたところがある。 ただ、怜悧な眉と冷然としたその表情は、人を親しませるような性質には欠けていた。雪の結晶を作る、零下の温度に似て。 「…………」 フユは手をのばすと、机の上の携帯を手に取った。 ただし、その携帯はフユ個人のものではない。そもそも、そんなものを持っていたとしても、電話のかかってくるようなあてはなかった。だから本来なら、彼女はそんなものを必要とはしていない。 フユがそれを持っているのは、それが結社$齬pの通信用具だからだった。携帯にはある特殊な魔法がかけられていて、結社の人間以外には使えないようになっている。 通話ボタンを押して、フユは携帯を耳に当てた。作りそのものは、一般的な端末機と何も変わらない。 志条芙夕だね? と、通話機の向こうから声が聞こえた。何度か聞いたことのある声だ。確か、牧葉清織(まきはきおり)とかいう名前の男だった。通話は大抵、この男からかかって来る。 「ええ」 フユは特にどういう感情もなく答えた。組織の中では、相手は自分よりずっと上の立場だったが、そもそもフユはそんなことに興味はない。 君に頼みごとがあるんだ。受けてくれるかな? 「まるで、断れるみたいな言いかただけど」 別に皮肉のつもりでもなく、フユは言った。実際、この手の連絡に任意性はない。かつてある少年に対してしたのと同じように、すべては強制だった。 一応の確認だよ。儀式みたいなものさ 相手は気にした様子もなく、おかしそうに笑う。この男も少し変わっているらしい。 「それで、今度は何なの?」 フユはまったく同じ声の調子で訊いた。 ちょっとした任務についてもらうことになる。詳しいことは、君のパートナーから聞いて欲しい 「パートナー?」 フユは顔をしかめた。何にせよ、人と組むのはあまり好きではない。 愉快なやつだから、君もきっと気にいると思うよ 明らかにからかっている口調だった。 「……要するに、私はその相手の指示に従えばいいわけね?」 手短に言うと、そういうことだね フユは軽くため息をついた。どうせこちらに、選択権はない。 「了解、用件はわかったわ。それで、私はどうすればいいわけ?」 今日の十一時頃、今から指定する場所に向かって欲しい。そこで今回の「担当者」が待っている。同じ携帯を持っているから、間違うことはないはずだ そう言って、相手はその場所を告げる。フユが部屋の時計を見ると、すでに十時を少し過ぎようとしていた。指定された場所に行くとすれば、すぐに出発しなければならないだろう。 「わかった。最後に一つ、教えて欲しいんだけど――」 フユは文句も言わずにそれだけを訊いた。プラスにしろ、マイナスにしろ、人との関わりは最小限に抑えるのが彼女のやりかただった。 何だい? 「相手の名前を教えて欲しい」 ――奈義真太郎(なぎしんたろう)、そういう名前だよ 了解、と短く言って、フユは通話を切った。あとのことは、現場でその男に聞けばいい。 「…………」 作りかけのパズルを見おろして、けれどフユは何の感想も持たなかった。どうせこのパズルも、完成される以外には何の役割も持っていない。自分と同じだった。そこに選択肢という自由はない。 フユはさっさと着替えをすませてしまうと、部屋の外へと出ていった。
2
冬の公園に、人の姿はほとんどなかった。 それはそうだろう。もう十二月で、おまけに昨日には雪さえ降っている。いくら天気がよいからといって、誰も好きこのんで寒風に身をさらしたりはしない。 草むらの上にはまだうっすらと、昨日の雪が残っていた。真冬日というほどではないが、空気は晴天のぶん、上空と直接つながっているかのような冷たさである。口元からもれる息は白く、意外なほど長く痕跡を残してから消えていった。 「…………」 フユはコートにマフラーを巻いて、ポケットに手を突っこんだまま砂利道を歩いている。足元で鳴る石音は、氷塊でも踏んでいるような寒々しさだった。薦巻きされた松の影に入ると、世界の裏側にでも侵入してしまったように空気が冷やりとする。 指定されたその城址公園の一角にやって来たのは、まだ約束の時間までには間がある頃だった。 城址といっても、天守閣はかつての火災で焼け落ち、堀も水が抜かれて道路に使われている。その空掘りにそって作られた公園には、大小の池や散策路が設置されていた。フユが歩いているのも、そうした散歩道の一つである。 やがて松林に囲まれた広場があって、いくつか遊具が置かれていた。夏は気持ちのよい日陰を作って格好の遊び場になるのだろうが、今はただひたすらに底冷えのした、うら寂しい場所でしかない。当然、人は誰もいなかった。遊具だけが、その場から動けもせず、見捨てられたようにじっとしている。 フユはそのうちの、ブランコを見ていた。神様の慈悲にもあやかれそうにない、ただその場で反復運動を繰りかえすだけの器械―― 「もしかして」 と、声をかけられたのは、その時だった。フユが顔を向けると、そこには男が一人立っている。二十になるかならないかといったくらいの、知らない男だった。 「君が、志条芙夕か?」 一瞬、フユは相手のことを凝視する。 「あんたが、奈義真太郎?」 「――正解」 男はにやりと笑って、ポケットから携帯を取りだしてみせる。フユの所持しているのと、同型のものだった。特に奇抜なデザインではないが、見ればすぐにわかる。 男がポケットに携帯をしまいなおすのを、フユは黙って観察していた。 奈義真太郎というその男は、ぱっと見には誰もが好感を抱きそうな風貌をしていた。髪は中途半端にくしゃくしゃだったが、服装はきちんとしている。目鼻立ちには、その辺の木や草と同じ自然さがあった。喜劇役者を思わせるような、どこか人を油断させてしまう屈託のなさをしている。 そして―― どこか、不思議な瞳をしていた。部屋の片隅にある陽だまりが、そのまま滴になってしまったような。 「……約束の時間までは、まだ間があるみたいね。それに、指定されたのは中央広場の噴水だったはずだけれど?」 フユはポケットに手を入れたまま、詰問するように訊いた。彼女のそういう口調はただの癖のようなもので、別に相手のことを非難しているのでも、疑っているのでもない。 「ついそこで見かけたんでね、声をかけてみた」 奈義は何の拘泥もなさそうな顔で笑ってみせる。どうやら、相手の細かい態度は気にしない性格らしい。フユは何となく顔をしかめながら、言った。 「でも、どうして私だと思ったの? 目印の携帯を持っていたわけでもないのに」 「何、簡単な推理だよ」 と奈義は何故か得意そうな顔をする。 「君のブーツに付着した泥を見れば、それは一目瞭然だ。この辺の砂利道を歩いていて、そんな汚れが着くはずはない。ということは、君はこことは別の、泥跡の着くような場所から来たということだ。街からは少し遠くなるだろう。そんな場所からわざわざここに来るということは、ただの散歩じゃない。おそらく、何か用事があるんだろう――つまり、俺に会いに来るという用事が」 滔々としゃべり続ける奈義に向かって、フユは一言だけ口にした。 「嘘でしょ、それ」 「本当だって」 「いいえ、嘘よ」 断言されて、奈義は肩をすくめるように口を閉ざした。 「あんたの話で一番おかしいのは、私が遠くから来たことを前提にしているところよ。泥跡一つで遠くから来たなんてことにはならない。なのに、話をそこからはじめている。つまり、あんたは私がどこに住んでいるのか知ってた、ということよ。私に話しかけたのも、私のことを事前に聞いていたから。こんな人気のない公園じゃ、間違えるほうが難しいでしょうしね」 言われて、奈義は手品に失敗した道化師のような情けない顔をした。 「やっぱり、わかるかな?」 「ええ、あんたの頭があまり良くないことも」 「……手厳しいな」 軽く嘆息した。 「それより、仕事のことを教えてちょうだい。ここには、そのために来たんでしょう?」 「親睦を深めてからのほうがいいかと思ってね」 「必要ないのはもうわかったでしょ?」 「……らしいな」 奈義はおどけた仕草で肩をすくめた。 それから奈義は、ちらりと広場のほうを見る。より正確には、その片隅にあるブランコの方角とおぼしきところを。 (もしかしたら、この男は私のことについて聞いているのかもしれない――) とフユは思ったが、可能性としては十分にありえる話だった。が、だからといってどうということでもない。それはもう、終わったことだった。そのことが、彼女を傷つけることはない。 「……どうせだから、噴水のところまで行くことにしよう。ここで話をするのも何だからな」 フユはとりあえず、黙ったままうなずいた。内心では、目の前の男のことを多少、疑いながら。 二人は砂利道を移動して、中央広場までやって来た。遠くまで視界の開けた広場には、ガラスを何枚か通したような、弱々しい冬の陽射しが注いでいる。噴水の近くには鳩が群れて、親子連れの子供が餌を撒いては嬉しそうな歓声をあげていた。 「そこのベンチに座ろう。と、その前に――」 奈義は指示してから、広場の隅にあった仮設式の屋台に一人で向かう。 噴水を見すえるベンチに腰かけて、フユはぼんやりと空を見あげた。どこかから、飛行機の音が聞こえてくる。その音は、透明な怪物の咆哮みたいにあたりに響いていた。 やがて奈義は、何か温かそうなものの入った袋を抱えて戻ってくる。 「甘栗、食うか?」 その表情を見るかぎりでは、会話を怪しまれないためのカモフラージュ、というわけではないらしい。たんに自分が食べたかっただけのことだろう。 「お腹は空いてない」 フユは簡単に首を振った。 「そうか? じゃあまあ、勝手に食わせてもらうぞ」 言葉通り、奈義は買ってきたばかりの甘栗の袋を開けた。 「フランスのどっかの村じゃ、栗を使って村おこしをしたらしいな。特産品として」 「甘栗で村おこしは無理でしょうね」 フユはにべもなく言った。 「お前は現実的なんだな」 「夢がない、と言いたいのかしら?」 「いや、しっかりしてるってことだよ」 そう言う奈義の口調に、からかっている様子はない。 「……それで、仕事っていうのは何なの?」 フユはほんの少しだけ不機嫌そうな声で言った。といって、自分でもその理由が今ひとつわからずにいる。どうも、調子の狂う相手だった。 「簡単に言うと」 と、奈義は皮を剥いた甘栗を口に放りこみながら言った。 「魔女狩りだな」 「魔女?」 フユは顔をしかめる。 「いや、女だというわけじゃないんだが、要するに魔法使いを捕まえろってことだな。性別は不明だ」 「どんな魔法使い?」 「まだよくわかっていない」 奈義は甘栗を飲みこんだ。 「ただ、街に魔法使いがいるらしいと思われる噂が流れている。その正体を突きとめて、捕獲するのが俺たちのミッションだな」 「本当に魔法使いがいるの?」 フユは疑わしそうに訊いた。 普通、魔法使いとしての素質がある者は、魔法委員会の人間が見つけだして教育を施すことになっている。ただ、実勢としては委員会が訓練する必要のあるほど強力な魔法使いはおらず、簡単なレクチャーのみですまされるか、放置されるか、同じ魔法使い同士での相互互助のような形をとることが一般的だった。委員会にそれほどの組織力がないせいでもあるが、それで問題にならないほど、魔法使いの数が少ないというのも事実である。素質はあっても結局は魔法を使えない、という人間も多い。 「――委員会も結社でも把握していない魔法使いが、街にいる?」 「話としては、そういうことになるな」 奈義はのん気そうに甘栗の皮を剥いている。 「そんな正体不明の魔法使い、どうやって捕まえるつもりなの? どこかの名探偵みたいに、足跡でも探るわけ?」 「まあ近いな」 皮肉のつもりだったが、奈義は至極まじめな様子でうなずいている。 「どういうこと?」 「俺の魔法〈境界連鎖(コレクト・レコード)〉は痕跡や物体から、その行為者や所有者を発見する*v@だ。その謎の魔法使いが出没するとおぼしき場所を探しだせれば、そこから魔法使い本人をたどることができるって寸法だ」 「そんなにうまくいくかしら?」 「相手は野良の、おそらくはろくな訓練も受けていない魔法使いだろう。今まで見つからなかったのは、魔法が使えるようになったのがごく最近だからだという可能性が高い。とすると、本人にもまだうまく魔法を使いこなせていないはずだ」 限りなく怪しい推理だが、間違っているとはいえない。 「だったら、怪しい噂や現象を追っていけば、魔法使いの痕跡か、うまくすれば本人に遭遇することもありえる。そうして見つけだしたら、お前の魔法で拘束してしまおう、というわけだ」 「…………」 フユの魔法〈断絶領域(アブソリュート・ライン)〉―― それは、任意の空間に透明な平面の壁を作る≠ニいう魔法だった。その魔法で作られた壁は、基本的にはいかなる力によっても破壊されることはない。つまり、その壁に捕らわれた者は脱出不可能というわけである。フユが自身で解除しないかぎり、その壁を越えることができるものはどこにも存在しない。 「――話を聞くだけだと、明日にでも見つかりそうだけど?」 「まだそれほどの情報は集まっていないし、その手の噂をどれだけ信用していいのかもわからない。実際には、地道に調べていくしかないのが現状だな」 そう言って、奈義は皮を剥いた甘栗を無造作にフユの手の平に乗せる。 「……食べない、と言ったはずだけど」 「受けとったからには食べてもらうしかないな」 釈然としない表情のまま、フユはその甘栗を口にした。雨滴で薄められたような自然な甘味が舌先に感じられる。 「うまいだろ?」 ひどく嫌味のない声で、奈義は訊く。 「――さあね」 フユは無表情に答えた。 「仕事のことは、これで概ね理解できただろう。魔法使いの発見と拘束。ただし、委員会の関係者、例の千ヶ崎朝美なんかには勘づかれないようにしろって話だ。まだこの街にいるらしいからな」 「彼女にその魔法使いを見つけられたら、どうするの?」 「……奪う、しかないんじゃないか」 あまり自信はなさそうな顔だった。今聞いた説明では、奈義の魔法はあまり戦闘向きとは言えない。 「その時は、誰が活躍してくれるのかしら?」 「少なくとも俺じゃないことは確かだな」 今度は自信たっぷりに、奈義は言った。 フユはほんの少しだけ眉をひそめて、蜘蛛の糸より軽そうなため息をついた。どうも、この男といると調子が狂ってしまうらしい。 向こうでは何かに驚いたのか、鳩の群れがいっせいに飛び立っている。子供はその小さな手を宙にのばして、残された羽音に触れようとしていた。
3
その日、奈義とは顔あわせと簡単な打ちあわせをしただけで、そのまま別れている。以降の指示は奈義から連絡されるので、フユはそれに従っていればよい、ということだった。 結社の中でのフユの立場というのは、基本的にはそんなものだった。体のいい使い走りのようなもので、その魔法だけが利用されている。とはいえ、言われたことをやっていればいいだけなので、フユのほうでは特に文句はない。 公園から自宅に戻ると、昼を少し過ぎたくらいの時間だった。玄関をあがってみるが、人の気配はない。部屋には電気もつけられていなかった。 (……工房か) と思って、フユはサンダルをはいて家の裏手にまわった。 そこには耐火性を考慮して作られた、コンクリート打ちっぱなしの建物が隣接している。現在、この家にはフユとその母親である志条夕葵の二人が暮らしていた。ガラス工芸作家である夕葵の個人工房が、家の裏手にあるその建築物である。無愛想で何の装飾性もない、ただの四角い箱のような代物だった。 ガラス戸から中をのぞくと、夕葵は中にいるらしい。フユは軽くノックしてから、扉を開ける。 「――何?」 型取り用の粘土を成形していた夕葵は、振りむきもせずに言った。 工房といっても個人のものであるため、それほどの広さはない。吹きガラスに使うような大型のガラス溶解炉はなく、置かれているのはグラインダーや、サンドブラスト用の工作機、酸素バーナー、電気炉といった小さなものだった。必要なものがあれば、別の大きな工房でスペースを借りることになっている。 ただ、壁際の棚に収められた色とりどりのガラス棒や、原料になる何種類ものガラス片を見ると、ここがガラス工房なのだということがわかった。それらを見ていると、何となく光の原質料が保管されているようでもある。 フユは一歩建物に入って、後ろ手に扉を閉めた。母親の志条夕葵は作業着というほどではないが、ひどく飾り気のない服を着ている。 志条夕葵は、さっぱりとしたシンプルなショートカットに、どこかガラスのように脆そうな肢体をしていた。そのくせ芯にあるものは鋼線のように強靭で、無骨そうな感じがしている。それが逆に、見ための繊細さを優美なものに見せているようだった。透明でありながら硬質な輪郭をもって存在するガラスという材質に、それはどこか似ているようでもある。 「結社から依頼が来た」 と、フユは短く報告した。 「そう――」 夕葵はほとんど興味もなさそうに、つぶやくように答える。 「街に魔法使いがいるらしいから、それを探せとかいう話。私と、もう一人の奈義っていう人で」 夕葵は黙ったまま、ヘラを使って粘土に微細な彫刻を施している。 ガラス工房というわりに、室内には火の気はなかった。コンクリートの床や壁が剥きだしになったその場所には、凍えるような寒さしかない。 「……しばらく、家にいないことが多くなるかもしれない」 「好きにすればいいわ」と夕葵は少し離れて、試すように粘土の塊を眺めながら言った。「あたしには関係のないことよ」 ――志条夕葵は、魔法使いではない。 彼女自身には魔法についての素養は一切なかった。世界に生じた揺らぎを知ることも、それを作りだすこともできない。 それでも彼女が結社の一員であり、彼女の娘であるフユが構成員の一人になったのは、志条夕葵がかつてある魔法に関わったためだった。その時、彼女はあるものを失い、あるものを得た。それは彼女の完全世界を半分ほど壊す出来事だったのである。 結社に誘われたのは、そのあとのことだった。完全世界を取りもどすというその目的を自分で果たす気にはなれなかったが、協力するくらいは問題なかった。魔法使いではない彼女にとっては、むしろそのほうが都合がいい。 そのため、志条夕葵は実働的な計画には参加せず、もっぱら協力者としての立場であり続けた。一般人であり芸術家というその特性から、魔術具の管理を任されたりもしている。 「――魔法に関することは、あんたが勝手にやればいいわ。倉庫にある魔術具も好きにすればいい。造形的にはともかく、あたしにはただのガラクタよ」 夕葵はそう言って、再び作業に取りかかる。 おそらくそれは、彼女の専門でもあるキルン(電気炉)キャストに使うための型なのだろう。抽象化された人物と、何かの場面を表現したものらしかった。志条夕葵は物語性の濃い作品で名の知れた新進気鋭の作家でもある。すでに個展も何度か開いていて、その業界では著名人だった。 工房には仕上げを待つばかりの作品がいくつか並べられている。ガラスらしい透明感にあふれたものから、金属や大理石のような肌あいのものまで、様々だった。ただ、その造形や色調には鑑賞者に訴えかける何かがあった。順応限界を超えた高高度の山嶺を仰ぎ見るのに似た、何かが。 そしてその何かは同時に、志条夕葵本人にも感じられるものだった。 工房をあとにする前に、フユは必要なことを一つだけ訊いた。 「……昼食はどうするの?」 「いらないわ」と夕葵は言った。「あんたは冷蔵庫にあるものを適当に食べなさい」 そう言われると、フユも食事をとるのが面倒になってきた。 少なくとも体型的にこの二人がよく似ているのは、当然のことのようだった。
4
フユの通う彦坂中学校までは、徒歩で三十分というところだった。 最短距離を行けばもう少し短くなるのだろうが、フユは人のいない迂回路をとるのでどうしてもそうなってしまう。時刻も遅めで、他の生徒には極力遭遇しないようにしていた。人ごみの嫌いなフユがその経路に落ち着くのに、それほどの時間はかかっていない。 奈義と会った翌日、天気は昨日と同じように快晴だった。予報では、十二月のこの時期には珍しく晴天が続くらしい。そのぶん朝の冷えこみは厳しく、太陽の陽射しは冷気に磨きあげられたように鋭利になっていた。 「…………」 フユは狭い住宅路をただ一人で、白い息の跡だけ残して歩いていく。 校門を抜けて玄関に向かうと、それでも何人かの生徒たちが靴を履きかえていた。フユも下駄箱から靴を出すと、自分のクラスに向かう。窓が閉めきられているせいか、音の響き具合はどこか妙で、分厚い水槽の中にでも閉じこめられているかのようだった。 クラスに入っても、フユは誰とも挨拶はしない。HRまではまだ間があるため、教室にいるのは半分ほどの人数だった。森の蜥蜴みたいにひっそりと、フユは自分の席に着く。 そうしてカバンの中身を机に移していると、ひそひそと囁くような声が聞こえた。その声はどうやら、窓際の席にたむろしている三人組の女子生徒たちのものらしい。 「――志条さんてさ、結局球技大会に出てないんだよね」 と、そのうちの一人が言う。 「うん、来ただけで」 「足りないところの人数、別のとこでカバーしたんだよね」 どうやらその三人は、先月に校内であった球技大会のことについて話しているらしい。 その日、フユは確かに学校に来ただけで、着替えもせずに大会を終えている。もちろん、どの球技にも参加していない。そもそも、参加しないと明言していたのだ。登校したのは、別に体調を崩したわけではないからだった。 「あれって全員参加でしょ?」 最初の一人がわざとらしく確認した。 「そうそう、運動できないとか、言い訳にもなんないよね」 声の大きさからして、その三人にはフユの耳に入らないようにという配慮はないようだった。 「何で、あの子だけ参加しなかったわけ?」 「わがままだからじゃないの」 「きっと自分のこと、お嬢様か何かだと思ってるんでしょ」 フユはイスから無造作に立ちあがると、澄んだ声で言った。 「――言いたいことがあるなら、本人に向かってはっきり言ったらどうかしら?」 時間が静止した。 その一瞬で、教室中が水を打ったように静まりかえる。 三人はフユの態度にちょっと怯んだようだったが、中のリーダー格らしい一人が意を決したようにフユと向かいあった。 「だって本当のことでしょ? あなただけずるしてるって」 彼女は精一杯の皮肉らしきものをこめて言った。 「ずる?」 フユは顔をしかめた。 「球技大会も、その前の音楽大会も、一人だけさぼったでしょ? 普通はそういうのをずるって言うの」 「どうして、したくもないことをやらされなきゃならないの?」 興奮気味の相手とは対蹠的に、フユは酷薄なほど冷静だった。 「そこまで学校に奉仕するいわれは、私にはないわね」 「……そんなの、自分勝手のわがままなだけでしょ」 女子生徒はフユに圧されたように、やや上擦った声を出した。ここで言い負かされてしまうと、クラスでの地位や彼女自身の沽券に関わるため必死である。 「私は、お嬢様なんかじゃない」 一方で、フユはあくまで沈着だった。おそらく、世界そのものに対して―― 女子生徒がなおも言い募ろうとすると、すぐ横から不意に声がかけられている。 「――もうすぐ、先生が来るよ」 見ると、そこには女子生徒が一人、穏やかな様子でたたずんでいた。 「そのくらいにしといたほうがいいんじゃないかな?」 彼女は子供の喧嘩でも仲裁するように、簡単に告げる。そのくせ、その声には妙に逆らいがたいところがあった。柔らかなクッションに包まれて身動きが取れなくなるみたいに。 その諫止方法があまりに無造作で和やかだったせいか、さっきまでの緊張した空気は嘘のように跡形もなく霧散してしまっていた。どうしようもないほど固くなった結び目が、魔法にかかって解けてしまったかのようでもある。 フユにつっかかってきた女子生徒は、仕方がないから下がってやる、という態度でその場を離れていった。教室中の時間がまた元のように動きはじめて、砂が零れ落ちるようなざわめきが戻っている。 「…………」 自分のイスに座る前に、フユはちょっとだけその女子生徒のほうを見た。 彼女はフユに向かって重さのない羊毛みたいな笑顔を浮かべると、友達のほうへと戻っていった。まるで、何事もなかったかのように。その態度は雨が降ったから傘を差しただけ、というくらいの自然さがあった。たぶん、そういう性格なのだろう。 フユはそれっきり、彼女のことも、さっきの女子生徒に言われたことも忘れてしまった。大抵のことは、彼女の作った壁を越えることはできない。一切の物事は、そこで断絶してしまうのだから。
「――志条さん」 と声をかけられたのは、帰り際のことだった。 部活に急ぐ生徒のほかには、まだ教室に大半の人数が残っている。フユは教科書をカバンに移す手をとめて、顔をあげた。 そこには、女子生徒が一人立っていた。フユと同じくらいの背丈をした、落ち着いた雰囲気の少女である。 ぱっと見には、模範的な中学生児童という感じだった。どこにも尖ったところのない、ごく普通の格好をしている。丁寧に観察すると、その少女には柔らかく色づいた秋の木の葉のような、そんな印象があった。誰かが彼女の絵を描くとしたら、そんな温かみのある色を使うだろう。しっかりした、面倒見のいいお姉さんといったふうでもある。 その少女が朝方に調停役を買ってでてくれた女子生徒だということに、フユは一瞬だけ間を置いて気づいていた。あの時は友達といっしょだったはずだが、今は一人でフユの前に立っている。 「――何?」 フユはカバンの詰めこみ作業を再開して訊いた。その様子は、志条夕葵のそれとよく似ている。 「ちょっと話したいことがあって。帰りながらでもいいんだけど」 「どんなこと?」 フユは短節に訊いた。 「たいしたことじゃないんだけど……」 「もっとクラスに溶けこんだほうがいいとか、そんな話?」 帰る準備を終えたフユは、彼女のほうを向いて露骨に不機嫌そうな声で訊いた。 「ううん、全然」 その女子生徒はあっけないくらい簡単に首を振った。そんなことは思いつきもしなかった、という態度である。そうして、「……ああ、もしかして朝のことを?」とようやく気づいたように訊いた。 「違うのかしら」 フユはいつもの、皮肉っぽい口調でそんな言いかたをした。 「まさか、違うよ」 と彼女は何のけれん味もないような笑いかたをする。 「私はそんなにいい人じゃないもん」 「それしては、ずいぶん落ち着いてたみたいだけど」 「そりゃ本当は怖かったよ、あの時は」 慌てたように、彼女は言う。そんな態度を隠そうともしない。 「――でもね、あのまま黙ってるのも何だか嫌だったんだ。誰かが口論してるのって、好きじゃないから。何だか世界の幸せが擦り減っていくみたいで。天使が見てたら、きっと悲しそうな顔をしてるんじゃないかなって、そんな気がしてくるんだ」 「天使?」 ずいぶんな言葉だ、とフユは思った。けれど少女のほうでは、まるで気にすることなく続けている。 「うん、天使がね『――また人間たちがやってるな』って、そんなふうに見てる気がするんだ。こいつらはいつまでたっても仕方のないやつらだなって。それで手帳か何かを出して、ため息をつきながらメモを取ってるの。何月何日、減点一、とか」 彼女の想像する天使というのは、いささかぱっとしない仕事を割りあてられているらしい。 「神様もずいぶん暇みたいね、そんな仕事をやらせるなんて」 フユが皮肉っぽく言ってみると、 「うん、私もそう思うんだ。きっと神様は暇だったから人間を作ったんだって」 「…………」 何故か笑顔で返されて、フユは心の中でため息をついた。昨日といい今日といい、どうも最近は妙な人間にばかり縁があるようである。 フユは立ちあがりながら言った。 「それで、話したいことって何なの? 帰りながらでも構わないんだったわよね」 「あ、いいの? 忙しかったりしないかな」 当然というべきか、フユはどこの部活にも所属していない。 「あなたのほうさえよければね」 フユが言うと、彼女は屈託のない笑顔を浮かべた。やはり、妙な少女らしい。 二人がカバンを持って廊下に出たところで、 「そうだ、私の名前は――」 と、彼女は告げようとした。けれど、 「弓村真花(ゆみむらまなか)、でしょ」 とフユは無造作に言う。彼女のほうでは、きょとんとした顔をした。 「何で知ってるの?」 「クラスメートの名前くらい、覚えてるわ」 「ちょっと意外、かな」 真花はそう言うと、まじまじとフユのことを見た。人徳か何かの効果なのか、そんな行為が不思議と野蛮に感じられない少女だった。 「志条さんは、まわりのことになんて興味がないんだと思ってた」 「興味なんかないわ」フユはにべもなく言った。「名前くらい覚えておいたほうが、便利なだけ」 「――便利、か。なるほど」 と真花はうなずいている。この少女が何に納得したのかはわからなかった。 それから階段を降りはじめたあたりで、真花は言った。 「あのね、つい最近まで知らなかったんだけど、志条さんのお母さんて、あの志条夕葵≠ネんだって?」 質問の種類が種類なので、彼女の口調はやや遠慮がちである。 「どの志条かは知らないけど、たぶんその志条よ」 けれどフユは、そっけなく答えた。別に隠しているわけでもないので、親のことを言われるのに不快感はなかった。志条夕葵の名前はそれなりに有名だから、気づく人間がいたとしてもおかしくはない。 「ああ、やっぱりそうなんだ――」 自分の推測が事実だとわかって、彼女は少し興奮しているようだった。 「はじめて名前を聞いたときに、気づかなかったのが不思議なくらい。わあ、本当にあの志条夕葵≠フ娘さんなんだ」 「残念ながら、ね」 小さくつぶやくように、フユは言った。が、真花はいっこうに頓着する気配はない。 「私――というか、私の姉がね、夕葵さんの大ファンなんだよ。一度個展を見に行ってから、すっかり好きになっちゃって。作品集も持ってるんだ。『光の化石』とか『夜の一番静かなところ』とか」 もちろんそんなものは、フユは知らない。 「夕葵さんの作るガラス作品て、今にも壊れそうなのに強いっていうか、鋭いのに優しいっていうか、すごく不思議な感じがするんだ。まるで雪の上に根をはった樹木みたいに――って、これは姉が言ってたことなんだけど」 玄関までやって来ると、フユは靴を履きかえながら訊いた。 「そのお姉さんて、どんな人――?」 「桐絵(きりえ)のこと?」 そう言って、真花は首を傾げてみせる。もちろん、名前を言われてもフユにわかるはずもない。 「そうだね、何ていうか――志条さんに、少し似てるかな」 「私に?」 フユはどういう表情をすればいいか困ったすえに、やや顔をしかめている。 二人は並んで、外に出た。あたりにはもう部活のない三年生がいるばかりで、下校する生徒の数は少なかった。 「そう、どこがっていうわけじゃないんだけど、雰囲気が。桐絵も、会ったらきっとそう思うんじゃないかな。自分に似てるって」 「…………」 似ていると言われても、フユには疑わしかった。この少女の姉が、自分と同じような人間だとは思えない。それにこの世界に、自分と似たような人間などいるだろうか。すべてから断絶した、小さな箱の中にその魂のすべてを収めたような人間が―― 「――あれ?」 と真花が妙な声を出したのは、その時だった。 フユが顔をあげてみると、校門の横に誰か人影が立っている。彼女はそれに気づいたらしい。近くにいる生徒たちの反応からして、その人影が学校関係者でないことだけは確かのようだった。 (……まさか) その人影には、どこかで見覚えがあるような気がした。フユは嫌な予感がしている。 「あの人、うちの学校の人じゃないよね?」 「……みたいね」 「父兄の人かな。誰かに用事があって、待ってるとか?」 「どうかしら」 「でも何だか私、あの人に見覚えがあるような気がするんだけど――」 「見覚え?」 不意にそんなことを言われて、フユは真花のほうを見た。真花は暗闇で何かを手探りするような、そんな顔をしている。記憶の隅にある何かを引っかきだそうとするのだけど、うまくいかないといったふうに。 そうこうするうち、二人とも校門付近までやって来ていた。そしてそれが予想通りの人物だとわかると、フユはいささか呆然としている。 フユはわざとその男を無視して通りこしてから、真花に向かって言った。 「……ところで、申し訳ないけど急な用事を思い出したから、今日は先に帰ってもらえるかしら」 今話しかけると、男がどんなぼろを出すかわかったものではなかった。ここは知らないふりをして、先に真花と別れてしまったほうがいい。 「――用事って、あの人のこと?」 けれど真花は、当然のことのように訊いている。 「あの人って、誰のことかしら」 フユはとぼけたふりをした。 「でもあの人、こっちに向かって手を振ってるみたいだよ?」 ため息をつくように、フユは振りかえった。 見ると、確かにそこでは奈義が、にこにこと愛想のよい顔で手を振っている。長く音信不通だった友人に、久しぶりの再会でもはたすみたいに。 「……どうやら、そうみたいね」 とフユは珍しく憮然とした表情を浮かべた。 「私はあの人に用事があるみたい」
5
フユと奈義は二人で並んで、いつもの通学路を下校している。やはり人通りはほとんどなくて、時折自動車がのろのろと通りすぎたり、額縁の外から不意に現れたような小学生が、数人で走り去っていくだけだった。 「……いったい、何の嫌がらせかしら?」 と、フユは開口一番でまずそれを訊いた。もちろん、真花とはすでに別れている。奈義のことは、遠い親戚とちょっとした知人の中間、といったくらいの曖昧な表現でごまかしておいた。何をどうごまかしたのかは、フユにもわからなかったが。 「わざわざ迎えに来てやったのに、それはないだろう?」 奈義は不服そうな顔をした。本気なのかどうかは、よくわからない。 「誰も頼んでないわよ」 フユはこういう場合に大抵の人間が口にするのと同じ常套句を使った。けれど奈義にはあまり効果はないらしい。 「はじめに見かけたとき何の反応もないから、忘れられたのかと思ったよ」 と、けろりとした顔で嘆いてみせている。 「私としては、忘れられてたらよかったと思うけど」 フユはあくまで無表情に言った。 「傷つくなあ、その言いかた」 「いったい、何のつもりで学校に来たの?」 フユがあらためて訊くと、奈義は何でもなさそうな顔で答えた。 「お前の家に行ったら誰もいなくてな。ついでだと思って学校まで行ってみた」 「そこで待ってればいいでしょ」 「この寒空の下でか?」奈義は大げさな身ぶりで空を仰いだ。「家の中にでもいないと、凍え死ぬぞ」 「キリギリスは死ぬべきだったのよ」 フユは無慈悲に告げた。 「どこかの浪漫派詩人みたいにか。でもあれは、元々はセミのことだったらしいな」 「どうでもいいわよ、そんなこと」 口調こそいつも通りだったが、フユは多少苛立っているようだった。 「わざわざ学校に来られると、迷惑よ」 「何でだ?」 「説明が面倒だから。まさか、私たちは魔法使いなんです、って学校中に言いふらすわけにもいかないでしょう」 「それで信じるやつがいると面白いけどな」 「私は面白くない、少なくとも」 フユの剣幕に、奈義は肩をすくめてみせた。 「……わかった、今後は用もなく学校を訪ねたりはしない」 「用があっても訪ねないで。第一、どうして連絡もせずに来たりしたの」 必要なことがあれば、携帯電話をかければすむはずのことだ。 「古い人間なんでね。あまりそういうのを信用していない」 奈義は気どったふうにうそぶいた。 「なら、今度は伝書鳩でも使うことね」 それから少しして、フユはふと弓村真花の言葉を思い出していた。 「――そういえば、クラスメートがあんたのことを知ってるみたいな口ぶりをしていたけど?」 あの時は問いただす暇はなかったが、どうして真花が奈義のことを知っていたのか。 「クラスメートって、お前がいっしょに歩いてた女の子のことか」 「ええ、そうよ」 「お前に友達がいるなんて、少し意外だな」 「……たまたま話してただけよ。友達なんてものじゃない」 「照れてるのか?」 「そう見える?」 奈義は何となく諦めたようなそぶりをして、最初の質問に答えた。 「少し前、あの近くの本屋でバイトしてたことがある。もしかしたそれで、記憶に残ってるのかもしれないな……そういえばレジにかっこいい人がいたな、とか」 「あんた、普段は何してる人なの?」 フユは奈義の発言をほとんど頭から無視して言った。 「何に見える?」 奈義はめげずに訊きかえした。フユは目を細めて奈義を見る。 「何にも見えないわね」 「……大学生だよ、これでも」 さすがに疲労感のある応答だった。フユはそんなことは一顧もせずに訊く。 「じゃあ何でこんなとこにいるの? 大人しく講義でも受けていればいいでしょ」 「出席もとらない一般教養なんて、まじめに受講する必要はないんだよ。何しろ、俺にはもうその手の教養は身についてるんだからな」 「そうだったらよかったのに、と思ってたところよ、私は」 フユはごく無造作に、客観的事実だけを述べた。
その後、自宅に戻って着替えをすませたフユは、奈義と二人でバスに乗った。「どこに行くの?」と訊くと、「駅まで」と答えられている。そこから移動するというわけではなく、どうやら駅前に用事があるらしい。 暖房の効いたバスの中は、毛布をかぶせられたみたいに温かかった。乗っているのは学生と買い物客くらいで、席の大半は空いている。ただしフユは一人用の席に座って、奈義はその隣で吊り革を手に揺られていた。 「駅に何の用事があるわけ?」 と、フユは途中で訊いてみた。 「いや、特に駅に用事があるってわけじゃない」 とぼけているわけではないのだろうが、奈義は迂遠な言いかたをした。 「じゃあ、何でわざわざ」 「そのあたりで怪しい噂話や目撃談が多くてな」 例の、正体不明の魔法使いのことだろう。 「現場で説明したほうが手っとり早いと思ってな。報告書があるんだ。今日はそいつをお前に見せてやるよ」 その話では必ずしも駅まで移動する必要はなさそうだったが、どうせすべての経費は結社で処理されるのだ。バスの運賃がいくらになったところで、気にすることでもない。 やがてバスが駅前に到着すると、二人はターミナルに足を降ろした。天橋市の中心部だけあって、さすがに人ごみであふれている。電車やバスの利用者、他県からの観光客、デパートや地下街に向かう買い物客、ついさっき到着したばかりのようなビジネスマンたち。 「…………」 フユはそんな光景に、ややうんざりした。どうしてこうも大勢の人間が、一ヶ所に集まる必要があるのだろう。そんなことをしても、不愉快なだけだというのに―― 「さて、どこか静かに話のできる場所でも探すか」 そんなフユの内心を読みとったわけではないのだろうが、奈義は先に立って歩きはじめた。行く先にあてはないらしく、その足どりは適当である。 駅のシンボルでもある和風の大時計を横目に見ながら、奈義は細い路地のほうへと入っていった。少し行くと人の姿はほとんどなくなり、駅前の喧騒もすっかり遠くなっている。見あげると、建物のあいだに凍てついた青空がはりついていた。 「ここら辺でいいか」 と奈義が足をとめたのは、一軒の古びた喫茶店の前だった。黒ずんだ木造の建物で、すぐ隣には営業しているのかどうかも怪しい金物屋が連なっている。大通りからはかなり外れたところにあって、木星にある冴えない衛星の一つみたいに、賑やかさとは無縁の場所だった。 「少なくとも、人がいなくて静かなのは確かそうね」 フユは率直な意見を口にした。 「案外、こういうのが隠れた名店だったりするからな」 奈義は根拠のない自信を見せた。フユは首を傾げる。 「それは、経験則?」 「ただの願望」 「……隠れてるのはともかく、この様子だと店主がいるかどうかも怪しいんじゃないかしら?」 「営業中の看板が出てるんだから、幽霊でないかぎりはいるだろう」 言いながら、奈義は扉を開ける。軋みもなく開いたドアからは、からんころんという古いカウベルの音がした。どこか遠くの時間からすくいとってきたような音色である。 こぢんまりとした店内には、カウンターといくつかのテーブル席があって、客はいないが、もちろん店主はいた。おそらくは、主として近所の客や知人たちを相手にする店なのだろう。 奥のテーブルに着くと、奈義はコーヒーを、フユはココアを注文した。 あらためて店内を見渡すと、外観通りのクラシックな内装で、柱や床の古び具合が歴史を感じさせた。控えめな照明の下に、主人が集めたらしい外国の小物や調度品が飾られている。空調は抑え気味で、この手の店によくあるようなねっとりとした暖気はなかった。 二人の座ったテーブル席からは、格子風になったガラス窓から外の様子をうかがうことができたが、狭くて薄暗いだけの路地を見ていても、心が和むわけでもない。 「――さてと、とりあえずこれを見てもらおうか」 と奈義が机の上に取りだしたのは、それなりの厚さのある紙束を、クリップで留めたものだった。 「何なの、これ?」 「街の噂に関する報告書だ」 フユはその、『天橋市における特異現象についての報告書』と題されたレポートをめくってみた。冒頭に目次がつけられ、全体の概要から個々の項目まで、手際よく整理して書かれている。 「これ、あんたがまとめたの?」 フユは疑わしそうに訊いた。 「まさか――」と奈義は悪びれもせずに頭を振っている。「雨賀さんだよ、それを書いたのは」 なるほど、とフユは思った。直接会ったことはなかったが、雨賀秀平という探偵家業の人間が結社にいることは聞いていた。 そうこうするうち、注文したコーヒーとココアが運ばれている。奈義はミルクと砂糖を多めに入れてから、フユに報告書の地図を見るよう指示した。 「天橋市の地図ね」 あまり細かいものではないが、そこにはほぼ市の中心地域をカバーした地図が載せられていた。地図上には何かを示す点が、何色かに分けて番号とともに記されている。 「この点は?」 「噂話の現場になった場所だ。色は噂の信頼度を示している。赤のほうが確実性が高くて、黄色は真偽不明、青はおそらく与太話だ」 説明されて、フユはあらためて地図上の点を確認してみる。 ざっと概観したところでは、点は駅周辺地域に集中しているようだった。駅前で多くの怪事件が発生している、ということだろう。けれど情報の信頼度を表す三色については、あまり偏向は見られなかった。色の分布は全体に平均しているように感じられる。 「魔法使いは駅の近くに住んでいるか、駅をよく利用する人間ということ?」 ごく一般的な見解として、フユは訊いてみた。 「その辺はまだ何とも言えない。噂話が確かで、それが魔法使いによるものだというなら、少なくともその魔法使いは駅周辺によく出没している、ということになるな」 「ずいぶん曖昧ね」 フユが呆れたように言うと、奈義は仕方ないさ、と言ってコーヒーをすすった。 「具体的な噂話のほうも見てみるといい。地図の点に照合する形で、信頼度の高いものから順に載せられている」 フユはもう一度、報告書のページをめくった。 真実性の高そうなものとして最初に記載されていたのは、次のような話だった。
情報提供者:市内の県立高校に通う学生A(男) 経緯:駅前での聞きこみ中、同校の生徒から話を聞き、さらに詳しい内容を知っている関係者としてAを紹介してもらう。 場所:某ハンバーガーショップ二階 概要:聴取対象の学生Aには、同じ部活に所属する友人Bがいた。Bは友達の紹介で同じ高校に通うCとつきあいはじめた。BとCの交際は順調で、周囲との関係も良好だった。ところが最近になって、二人は突然別れることになった。不審に思ったAはBに事情を問いただしてみたが、Bの話は要領を得ず、ただ次のような発言を繰りかえすだけだった。「デートしている途中、急に相手に対して何の感情も湧かなくなった。嫌いになったとか、別の相手を好きになったとか、そういうことはない。ただ何故だか、もういっしょにはいられなくなっていた」BとCの二人が最後にデートをしたのは、駅前だった。類似した話が、他にもA−3やB−15で報告されている。
「――何なの、これ?」 フユは顔をしかめた。 「よくある別れ話の類じゃないかしら。これが魔法によるものだっていうの?」 恋人を別れさせる魔法なんて、あまりぞっとしない話だ。 「かもしれないが」と奈義はあくまで真剣な様子だった。「雨賀さんの話によると、ここ最近その手の噂話が急に増えたらしい。高校生のあいだでは、駅前でデートすると縁が切れるとかっていうもっぱらの評判だ」 「ご愁傷さまね」 「しかし数や話の中身自体は無視できないものだ。同じ種類のものが何件も報告されている」 「噂の元になるような、何か別の原因があるんじゃないの?」 「それらしいものは確認できなかったらしい」 「仮にこれが魔法によるものだとして」 フユは言いながら、ココアを一口飲んだ。小犬を抱きしめたような柔らかな甘味と温かさが口の中に広がる。 「――それはいったい、どんな魔法だっていうの?」 「さあな、見当もつかん。あるいは人の心を操るような魔法かもな」 「…………」 報告書に書かれていた様子では、どちらかといえばそれは感情を変化させられたというより、ロボトミー的にごっそり切除された、という感じではあったが。 そのほかにも、報告書にはいくつかの事象が記載されていた。街灯の明かりが何の前触れもなく消えたとか、電子機器の不調、羊の皮をかぶって徘徊する男、自動販売機の故障など。もっとも、羊の皮の話には青色評価がつけられていた。 「例え不可解な現象が起こったからって、それがすべて魔法によるものと決まったわけじゃないわ」 「そりゃそうだ。けどこの中に、本当の魔法によるものが混ざっている可能性は否定できない」 「玉石混交ね」 「難しい言葉を知ってるな」 「そもそも、この件を調査してた雨賀秀平はどこに行ったわけ?」 この状態なら、本職の人間に任せるのが一番というものだろう。 「雨賀さんは別のもっと重要な案件のほうにまわっている。優先順位が下がったぶん、俺たちのほうにまわってきた、ということだな」 「なるほどね」 フユは肩をすくめるようにして言った。要するに、重要度の低い仕事だから割りあてられたということだ。 「……話はどれもはっきりしないし、魔法使いが何人いるかもわからない。もしかしたら、一人でなく複数いる可能性だってあるわ」 「野良の魔法使いがそうごろごろいるとも思えないが、否定はできないな」 「可能性としては、ね」 フユはうんざりしたように言った。早い話がこれは、お手上げということではないだろうか。 「いや、昔の人の格言にこんなのがある」 と奈義は何故だかひどく自信あり気な様子で言った。 「どんな?」 「犬も歩けば棒に当たる」 聞いた私が馬鹿だったのだと、フユは冷静にそんなことを思った。
6
棒に当たるかどうかはともかく、喫茶店をあとにした二人は、地図を頼りに駅周辺を歩いてみることにした。現場に行けば、何かわかることがあるかもしれない。 「操作の基本は現場百回って言うからな」 と歩いている途中で奈義が言った。 「この場合、必要なのはむしろ情報分析能力じゃないかしら?」 周囲を見渡しながら、フユは熱のない返事をする。 報告書にあった、明かりの消えた街灯や通話不能になった公衆電話のところに足を運んでみたが、めぼしい収穫は得られなかった。時間が空きすぎているのか、感知魔法≠使っても何の痕跡も発見できない。公衆電話はすでに修理でもされているのか、普通に利用可能だった。 そのほか、二人は地図上の点を手近なところから踏査してみたが、変わったところは見つけられない。やはり、探偵小説のようにはうまくいかないようだった。 「本人の残したものでもあれば、そこから見つけられるんだがな」 奈義は自分でもたいして期待はしていないような口ぶりでつぶやいた。その隣でフユは、これでは本当に犬みたいだと思ったが、面倒なので口にはしない。 周回して駅前まで戻ってくると、フユは人の多さにやはりうんざりした。例えこの中の誰かが魔法使いだったとしても、わかるはずはない。時刻は砂山が崩れるように夕方に向かいはじめていて、人の出入りはますます活発になりつつあった。 二人は駅の構内を抜けて、東口から西口へと移動した。どちらかというと西口は駅の裏側にあたるような場所で、人通りはずっと少なくなる。空気の密度が急に低下したような感じで、風景は閑散としていた。 タクシー乗り場の近くにある彫像の下で、フユは感知魔法≠フペンダントを垂らす。カップルの一組が別れたというその場所だった。 「反応は?」 と言う奈義に対して、フユは首を振った。魔法の痕跡らしきものは感じられない。色の着いた水滴が、薄められて透明になっていくように、それはもう世界に溶けてしまっているようだった。あるいはそれは、はじめから魔法ではなかったのかもしれない。 (何とも言えないところね) そう思ってフユがペンダントを引っこめようとしたその時、ふとかすかな気配のようなものを感じた。 遠くの鐘の、もう音にも鳴らないその響きを耳にするような、そんな感じの。 「どうかしたのか?」 フユの様子に気づいたのか、奈義が訊く。感知魔法≠使ってこの程度では、普通の状態では何も感じないのも無理はなかった。 「……もしかしたら、魔法かもしれない」 意識はまだ魔術具に集中させながら、フユは言った。 「ここじゃなくて、ずっと遠くの場所。ただの気のせいかもしれないけど」 それは、魔法というにはあまりに小さな揺らぎのようにも思えた。髪をわずかに逆立てるくらいの、微弱な静電気にも似ている。気づいたのは結局その一瞬だけで、ただの勘違いの可能性も高かった。 「とにかく行ってみるか」と奈義は特に気にせずに言った。「棒が当たらないなら、棒に当たりに行かないとな」 フユはペンダントをしまうと、揺らぎを感じた方向へと歩いていく。 駅から少し離れると、高いビルは姿を消して住宅地に入っている。フユは念のために一度ペンダントを垂らしてみたが、やはり何も感知できなかった。それでも勘を頼りにして、探索を続けてみる。 しばらくすると、高台へとのぼる坂道の下に出た。並木が上のほうまで続いて、かなり急な道がつながっている。十字路になっていて、信号のついた横断歩道があった。通行人はどこにもいなかったが、信号は忠実にその光を点灯させている。 ――奇妙なのは、その信号だった。 故障でもしているのか、自動車用、歩行者用ともに青信号になっている。どうやらおかしくなっているのは、一部の歩行者用信号機のようだった。いつまでたっても青から変わる気配がない。 フユの隣で奈義がペンダントを取りだした。少ししてから、そっと告げる。 「間違いない。ただ、揺らぎそのものはひどく小さいな。魔法の力が弱い、ということか。あるいはわざとそうしているのかもしれないが」 「けど、これで魔法使いがいるのは間違いないみたいね」 「ああ――」 うなずきながら、奈義はあたりを見まわす。人影はどこにもなかった。魔法使い本人らしき人物はどこにも見あたらない。 「このまま近くを探してみよう。何か見つかるかもしれない」 「ええ」 二人はそう言って、元の道を進みはじめた。 その時、運送用トラックらしき車が一台、道を走ってきている。 「――――」 フユは何気なく、その行き先を目で追った。例の信号は、両方とも青になっている。 急な坂道のほうから、自転車が一台駆けおりていた。乗っているのは、小学校四年生くらいの少年である。スポーツタイプの自転車で、オレンジのヘルメットをかぶっていた。坂道が怖くないのか、傍目にもわかるくらいスピードを出している。 トラックと自転車は、そのまま交差点に進入した。もちろん、どちらも衝突するタイミングである。
――〈断絶領域〉
瞬間、フユの魔法が発動した。世界に揺らぎを作り、それを自分の形にあわせて変化させる。 フユはすばやく視線の先、トラックの突っこんでくるすぐ手前に意識を集中した。揺らぎが世界の仕組みを変え、そこに不可視の壁を出現させる。すでに急ハンドルを切っていたトラックは、見えざる壁に衝突して軌道修正を行った。そして現実には不可能な角度で、自転車の鼻先をかすめてカーブする。 ほとんど直角に走行したトラックは、派手な衝突音とともに、歩道に大きく乗りあげてから停車した。自転車の子供はその時になってようやくブレーキをかけるのが精一杯で、目の前の事態に放心している。 フユは両者がともに無事であることを確認すると、何事もなかったように歩きだした。 「――見事なもんだな」 横に並んだ奈義が、賞賛しながらも半ば茶化すように言った。 「たいしたことじゃないわ」 言葉通りの口調で、フユは答える。 「正確で適確な魔法だった。決断も早い。下手をすると子供のほうは無事でも、車のほうが大破していた」 「できるからやっただけよ、私は」 フユはあくまで落ち着き払っている。奈義はさすがに、 「どこまでもクールだな、お前は」 と、苦笑した。 二人ともすでに、事故現場からは遠く離れつつある。背後では、トラックから降りた運転手が子供の安否を確認したり、電話でどこかに連絡を取ったりしていた。もちろんその男が直前の出来事を不審がっている様子はない。ましてや、それが魔法だなどとは―― 「しかしこうなると、いくら野良の魔法使いとはいえ放ってはおけなくなったな。このままだと、いつか大きな被害が出る可能性がある」 奈義は苦慮するように言った。間接的にとはいえ、こうして魔法での事故が起きているのである。今回は幸いにも、被害を最小限に抑えることはできたが。 「……別れたカップルは、大きな被害≠ニは言わないのかしら?」 冗談なのかどうか、フユは無表情に言った。 「実害とは言えないだろ、それは」 奈義はむっとしたように答える。 「ひがんでるんじゃないのかしら、その様子は?」 「……からかってるだろ、お前」 奈義の抗議を無視して、フユは話を変えた。 「でも、いったいどういう魔法なのかしら。ほかの噂話も同じ魔法使いによるものだとして、だけれど」 「さあな、わからん」 と言ってから、奈義は「――ただ」とつけ加えた。 「そいつが一般型ではなく特殊型の魔法を使っていることだけは確かだろうな。一般人が魔術具を手に入れる機会があるとも思えない。それにもしかしたら、本人には魔法を使っている自覚はないのかもしれない。でなけりゃ、こんな無意味なことをするとも思えないからな。半分は自動的、反射的に魔法を使っているのかもしれない」 「厄介ね――」 本人に魔法使いの自覚がなければ、それだけ魔法の使われかたは曖昧になる。つまりは、使用方法や場所を特定するのが難しくなる、ということだった。 「ああ、かなりな」 奈義は何故か、何かの蹉跌を見つめるような、そんな口調で言った。 「…………」 二人はそんなことを話していたせいで、すぐ近くからその様子を眺めていた人物のことについては、気づきもしていなかった。
7
翌日、放課後になってからの帰り際のことだった。 フユは玄関で靴を変えようとしているところを、弓村真花に呼びとめられている。その時ようやく、フユは昨日、彼女の話が途中だったことを思い出していた。 「……志条さん、ちょっといいかな?」 真花の態度は、あくまで遠慮がちだった。昨日はフユのほうが一方的に話を断ち切っていったのだから、彼女のほうには不服を言う権利があるはずだったが、そんな気配は微塵もうかがえない。たぶん、性格なのだろう。 「昨日のこと?」 フユはそう思いながらも、普段と同じそっけない口調で言った。こちらも、性格なのだろう。 「それもちょっとあるんだけど、でも今日は別の話」 「……帰りながらでいいのかしら?」 「うん、私はバスだから途中までだけど」 フユがうなずくと、二人は並んで玄関の外に出た。あたりには昨日と同じように、三年生の姿が多かった。フユは嫌な予感がしたが、さすがに今日は校門のところには誰の姿もない。 「昨日の人、いないみたいだね」 隣で、真花はそんなフユの心を読んだかのような発言をする。といってその表情はごくまじめで、からかっているそぶりはない。 「――昨日、途中になった話をするんじゃないの?」 その点については質問されたくないので、フユは自分から話題を振ってみた。けれど、 「ううん、それはまた今度で。今日は、実は志条さんに聞きたいことがあるんだ」 フユはさっきとはまた別の、嫌な予感がした。 「昨日の人、志条さんの知りあいだよね?」 と、真花は訊く。 「不本意ながら、ね」 ああまでしたあとに、知らないとは言えない。 「親戚の人か何か?」 「私にもよくわからないわね、その辺のことは」 真花はそんな答えにも、特に不満は持っていないようだった。人としての度量が広いのだろう。 「……実はね、昨日駅の近くで志条さんがあの人といっしょにいるところを見たんだ」 フユは何も言わなかった。嫌な予感が、風船に空気でも入れるみたいに大きくなっただけである。 「それでね、悪いとは思ったんだけど気になってあとをつけさせてもらったんだ。けど最初からそのつもりだったんじゃなくて、駅に行ったのは先輩に呼ばれたからだったんだけど、でも何だかどうしても気になっちゃって、つい――」 言い訳っぽく、真花は早口でまくしたてている。 「……それで?」 半分諦めたように、フユは訊く。こうなった以上、話はすべて聞くしかなかった。ただごみ箱の蓋を閉じるだけ、というわけにはいかない。 「うん、見つけたのは駅の裏口で、あとをつけたのはそこからだったんだけど。坂道にさしかかったところで、見つからないように先まわりしようとしたの。えと、そこで」真花は言いよどんだように言葉を切った。「――変なものを見たんだけど」 「…………」 フユは無言で歩き続けた。真花は叱られた子供みたいにその横をついていく。実際には、その立場は逆ではあったけれど。 「あのね、交差点にトラックが走ってきてね、その右の坂道から自転車が駆けおりてくるの。で、お互いに気づかないままもうすぐぶつかる――っていうところで、トラックのほうが急に見えない壁にでもぶつかったみたいに方向を変えて、自転車とは衝突せずにすんだの」 交差点で二人は立ちどまった。信号は赤だった。 「それでね、そんなつもりはなかったんだけど、二人の話してるのを聞いちゃったんだ。ちょうど私のいる近くに来たもんだから。悪いことだとは思ったんだけど」 「…………」 「話してることはよくわからなかったんだけど、一つだけ気になることがあったんだ」 弓村真花はそして、フユが感じた嫌な予感を正確に、適確に実現した。 「――魔法がどうとかって、二人とも言ってた」 信号が青に変わる。けれど二人とも、その場から動こうとはしない。やがて光が点滅して、また赤に変わった。 「あの時、自動車をどうにかしたのって、やっぱり志条さんなの?」 フユは観念したよな、居なおったような態度で口を開いた。 「だとしたら、どうなの?」 真花はちょっと、珍しい星でも見るような目をしている。 「このことを言いふらされたら、志条さんは困るかな?」 「……脅すつもり?」 「ううん、これは取り引きだよ」 弓村真花はそこでいつも通りの、けれどどこか底の知れない笑顔を浮かべた。いじわるな天使か何かが、人間の儚い願いを聞くときのように。 「私はこのことを誰にも言わない。その代わり、志条さんには――部活に入ってもらう」 「部活?」 まるで聞きなれない単語か何かみたいに、フユは復唱した。 「そう、部活。私と同じね」 真花はあくまで、無邪気に笑っている。 「……それで、昨日のことは黙っているの?」 「もちろん」 そしてもちろん、フユに選択肢はない。 「わかった――」フユはそっと嘆息した。「あなたのほうが、それでいいのならね」 「よかった。志条さんが入部してくれて嬉しいな、私」 どういう少女なのか、彼女は本気でそう思っているみたいだった。たった今、脅迫まがいの行為をしたばかりとはとても思えない態度である。 信号が青に変わって、真花は歩いていこうとした。フユのほうは別に、横断歩道を渡る必要はない。二人が別れようとしたとき、真花はふと気づいたように振りかえって声をかけた。 「――あのね、志条さん」人目をはばかることもない大声だった。「私、志条さんのこと、フユって呼んでもいいかな?」 「……好きにすればいいわ」 フユはもう、ため息をつく気にもなれなかった。ずっと昔に、ある少女から同じようなことを提案されたことを思い出しながら。 弓村真花は大きく手を振ると、雲一つない空に輝く太陽みたいな笑顔を浮かべて、そのまま行ってしまった。フユは賭けに負けてしまった北風のような表情で、それを見送っている。
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