[宝蔵]

 トロポニオスにとって、アガメデスは時にひどい苛立ちを覚えさせられる存在だった。彼が一体どんな感情を持ち、どんな価値観を抱きかかえているのか、分からなくなる時がある。
 二人は兄弟だった。兄のトロポニオスと、弟のアガメデス。
 それはまぎれもないことだった。ポイオティアのごく普通の建築家の家に生まれ、二人は成人した。二人は当然のように建築家を目指すことになる。
 その苛立ちがいつ頃からあるのか、トロポニオスには分からなかった。気づいたらそれはそこにあり、しかももうどうにもならない致命的なものとしてそれは存在していた。
 最初にそれを感じたのは、デルポイのアポロンのための神殿を作ったときである。
 神殿の建設中、トロポニオスはある箇所に構造的な弱点を発見した。そしてそれをアガメデスに相談してみたのである。
 アガメデスはすぐにその弱点を了解した。それは決して目立ったものではなく、気づきにくいものだったが、アガメデスとてやぶさかな建築家ではない。
「一旦、工事を中止して設計をしなおそう」
 とトロポニオスは言った。
「何故?」
 それがアガメデスの答えである。
 もちろん、それは無責任や、工事に対するいい加減さから来るものではなかった。トロポニオスの指摘したものが、そうした種類のものだったのである。それは今すぐ緊急を要するといったものでも、このままでは神殿が崩れるといったものでもなかった。
 だから無視してもまったく構わなかったのだ。
(しかし)
 と、トロポニオスは思っている。
(それでは建築家ではない)
 トロポニオスにすれば、建築家とは建物を手段として美を表現するものである。それがすべてであり、それ以外の目的などなかった。それをせずに、建築家といえるだろうか。
 そして二人は、建築家なのだ。
 神殿に見つかった弱点は、確かに致命的なものではなかった。むしろごく些細な、息を吹きかけると飛んでいってしまいそうな類のものである。でもそれを直すことで、神殿はもう百年はたち続けていることができるのだ。
「何故?」
 アガメデスは言った。彼はもちろん、その弱点の修正によって神殿があと百年は延命しうることを知っている。
 けれどアガメデスにすれば、それは馬鹿馬鹿しい限りのことだった。そんなことをする必要はまるでない。無駄な労力だ。
「第一」
 と、アガメデスは言った。
「それを直すには工事を中止するだけでなくて、いくらかやり直さなくちゃならない。俺達はそこまでするように頼まれてもいない」
 トロポニオスは何も言い返すことができなかった。
 言おうと思えば、いくらでも自己の意見を主張することはできたろう。その正当性も、必要性も。
 しかしトロポニオスは、あまりに頭にきていたので、何も言うことができなかったのだ。彼は弟のその言説と、態度に、決して自分とは相容れない、致命的な隔たりのあるのを感じた。それは木に誤って石を接木するのに似ている。世界が永遠に続いたとしても決して和解を見ることのない種類の問題だった。
 結局、神殿は元の通りに建てられた。
 二人には名工としての評判が立った。アガメデスはそれを無邪気に喜んだが、トロポニオスは沈黙していた。そうする以外、彼は自分の不満を処理する方法を思いつかなかったのだ。
 そしてアガメデスは、そんなトロポニオスの様子に気づきもしないようだった。

 そのうちに、二人の間に仕事がもたらされた。今度は神殿ではなく、蔵である。ヒリエオス王の宝蔵を立てることを依頼されたのだ。
 二人はそれを受けた。そこには断る理由も、手段も存在しない。王に作れといわれた以上、作るしかなかった。そして大多数の人間は、それを名誉と呼ぶ。
 トロポニオスにしても、それはそうだった。彼は王のために、どんな賊でも侵入できないような、精巧で完璧な蔵を設計した。形あるすべてのものはそこに侵入できないような、完全な設計である。
 アガメデスはそれについて何も言わない。彼はただ、その蔵に何の問題も落ち度もないことを確認しただけだった。
 やがて王の蔵は建設が開始され、問題なく完成した。王は十分に満足する。この蔵さえあれば、いかなるものでも盗まれる心配はなかった。
 トロポニオスは自分の仕事に満足し、二人は報酬を受け取った。それは働きに見合うだけの、多すぎも少なすぎもしない額である。

 その日の夜、アガメデスはトロポニオスを揺り起こす。深夜だった。トロポニオスは不愉快さよりも、不審のほうが先に立った。
「俺についてきてくれないか」
 とアガメデスは言う。それは夕涼みにでも行こうとでも言うような、何気ない口調だった。が、もちろんそんな簡単なことでないことは今の時刻が容易に教えてくれている。
「一体、何の用なんだ」
 トロポニオスは奇妙な気分だった。仕事の完成を祝い、何も考えずに眠っていた最中のことなのだ。まるで自分の頭をどこかに置き忘れてきたような気がした。
「くれば分かるよ」
 アガメデスはにやりと笑って、それしか言わない。そうするとトロポニオスが来ることを、ちゃんと知っているのだ。
 トロポニオスは起き上がり、むなしく文句を呟きながらアガメデスに従った。トロポニオスにすれば、事態がどうにもならなくなってしまうようなことは避けたい。そのためには、自分がその前に何とかするしかなかった。アガメデスを一人で行かすわけにはいかない。
 二人は死んだ猛獣のように静かな街を歩き、ある場所までやって来た。それはヒリエオス王の宝蔵である。トロポニオスはしばらくそれがなんであるのかをうまく認識できなかったが、やがてそれが間違いなく自分の設計した蔵で、今日完成したばかりのものだということを理解した。
「?」
 トロポニオスはあまりに不可解で、質問することさえできない。アガメデスは一体、ここに何をしに来たのか。
 だが、質問の必要はなかった。アガメデスは無言のまま、蔵の壁の一部を取り外してみせたのである。
 トロポニオスはそれが冗談か何かのように思えて、かすかな笑いさえ浮かんできている。けれど心の奥底でははっきりとその事実を認識して、ある種の絶望や無力感に似たものさえうごめいているようだった。
「つまり、これはお前がやったのか?」
 確認するまでもない。アガメデスは王の宝を盗み出すために、蔵の壁の一部を取り外せるようにしておいたのだ。誰もが、そのことに気づかなかった。この男は密かに、綿密に、その用意をしていたのだろう。トロポニオスはその苦労を考えると、奇妙な同情さえ覚えるような気がした。
 アガメデスはそんなトロポニオスの様子など知らないように、さっさと蔵の中に入ってしまっている。
 トロポニオスはまるで見えない糸でつながっているように、その後に続いた。彼はその時、いかなることも考えることができなくなっていた。
 蔵の中は、暗い。そこにはどんな種類の隙間さえ存在していないのだ。今取り外した壁から入ってくる光が唯一の光源であり、それは蔵の中の圧倒的な闇に対しては、あまりに無力だった。
 アガメデスはすでに用意していたらしい松明に火をつけ、辺りを照らした。
 そこには早くも運び込まれた王の宝が、無垢なる子供が無心に眠るように転がっている。まるで母親の胎内の赤ん坊のように。安心して、無力に。
 アガメデスはいそいそとそれらを開けにかかった。箱には鍵さえかけられていない。王はこの蔵に何ものかが侵入することなど考えもしなかったのだろう。トロポニオスでさえ、それは同じだった。
 ところが今、そこには他ならぬトロポニオス自身がいる。
 侵入者として。
(これはどういうことだろう?)
 トロポニオスは考えてみる。だが、それはできなかった。彼が考えようとすればするほど、事態はますます混乱していくようだった。すべては白い夢の中に飲み込まれてしまう。
 その混乱の中で、トロポニオスの中には不意と、奇妙な快感が湧き上ってきていた。
 口元に、微笑さえ浮かぶ。
 トロポニオスはそれに気づき、普段の彼の習慣と節度によってそれを消そうとするが、できない。こびりついた汚点のように、それはトロポニオスからははがれ落ちそうもなかった。
 彼は、完璧なものを作った。
 それこそ蟻の子一匹通さない、比喩ではなくその通りのものを、トロポニオスは作り上げたのだ。それは誰にも破られず、誰をも侵入させない、誰からも守られたもののはずだった。
 ところが今、それは破られている。
 他ならぬ自分によって。
 すなわち、それは何を意味するのか。
 トロポニオスは越えたのだ。自分を。絶対に越えられぬべく作った自己を、自己によって破壊したのだ。己の絶対限界を、己が突破したのだ。
 その実感は、トロポニオスを奇妙に、あるいはかなり不可解に興奮させた。それがまるで意味のない論理にもかかわらず、トロポニオスはその実感を捨て去ることが出来ない。
 トロポニオスは気がついたときにはアガメデスと同じように王の宝を盗み、蔵をあとにしていた。言うまでもなく、壁は元に戻されている。その跡には継ぎ目のあとさえ見えず、侵入そのものがはじめからなかったような感覚さえ覚えた。
 でもそれは間違いなく行われた。トロポニオスの手の中にある王の宝の重さが、それを証明している。

 アガメデスとトロポニオスはその後も何度かヒリエオス王の蔵に侵入した。トロポニオスはそのたびに奇妙な快感を覚えたが、彼はその都度それを形而上的な思考によって理由づけている。
 当然ながら、王は蔵の異変に気づいた。決して目立つわけではないが、中の宝物のうち、いくつかがなくなっている。
 それは奇妙なことだった。蔵の入り口は一つで、その鍵は王しか持っていない。蔵には幽霊でも侵入できる隙間はなく、誰も入ることはできないはずだ。鍵を複製するというのも、無理な話だった。
 ヒリエオス王は結局、蔵の中に罠を仕掛けておくことにした。そうするより他にない。収められた宝物がひとりでに闇に溶けていくというのでない限り、誰かがそれを盗み出しているはずなのだ。
 アガメデスとトロポニオスは、もちろんそんなことは知らない。二人はほとんど習慣的になったとさえいえる自然さで、王の蔵を訪れていた。
 そうして、ある晩のことである。
 その日も二人は王の蔵を訪れていた。いつものように壁を外し、中へ入る。その壁は、まるで壁というものが本来はこうあるべきなのだと無言で主張しているようにすら感じられた。
 二人はもはや慣れきった動作で辺りを物色しはじめている。
 箱には相変わらず鍵もかけられず、中には絹や黄金、精緻な装飾品といったものが収められていた。トロポニオスはそれらの品を調べていく。
 と、かすかな音がした。
 何の音かは分からない。まるで空気が急に固まって、石になったような音だった。トロポニオスは顔を上げる。音が聞こえたのは、彼の場所からすぐ近くのところだった。
 見ると、アガメデスが奇妙な、いくぶん間の抜けた様子でじっとしいた。それは未熟な狩人が獲物を待ち構えているようにも見える。
 トロポニオスはアガメデスのそばによってみた。そしてその手に鉄の輪がはめられ、鉄の輪はひどく頑丈そうな鎖で床につながっているのを発見する。
 要するに、アガメデスは捕らえられていた。
 それはちょっと見ただけでも絶望的に外せそうにないことが分かった。大地にしみこんだ呪詛のように、それはアガメデスをがっちりと捕まえている。
「外せそうもない」
 とアガメデスは弱々しく言った。
 トロポニオスはそれを確認することもしなかった。確認するまでもない。問題は、これからどうするのか、だった。どんな物事にも、何らかの決着はつくなくてはならない。
 アガメデスを助けることはできない。彼を鉄の鎖から解き放つのは不可能だった。明日になれば、アガメデスは王に発見されてしまうだろう。
 そうすれば、事は露見する。トロポニオス一人が逃げたところで、結果は同じだろう。王は侵入者を許しておかない。アガメデスがしゃべってしまえば、トロポニオスとて無事ではすまない。
(自分が捕まる?)
 トロポニオスはそのことがうまく想像できない。そんな事は、あってはならないことだった。自分が求めたのは、富ではない。ただ自分の作った蔵を自分で破り、自分を越えたいと思っただけなのだ。しかし誰がそんなことを信じるだろうか。誰も信じはしない。そもそも、理解だってしないだろう。
(俺はただの罪人として処刑される)
 そう思うと、不意に激しい憎悪がトロポニオスの中に湧き上った。
 すべては、この弟の、アガメデスのせいなのだ。
 この男はやはり、間違っていた。そもそもこの世界に存在などしてはいけなかったのだ。この男がいたから、こんなことになった。この男がいつまでも間違った考えを抱いているから、こうなった。俺は正しい、俺は間違ってなどいない……。
 すべては、この男のせいだ。
 トロポニオスの手には、いつの間にか宝の一つである短剣が握られていた。アガメデスは何とか鎖を外そうとして、それには気づかない。トロポニオスがすぐそばまで近づく。
 泥に手を突っこむような、奇妙な手ごたえだった。
 アガメデスはトロポニオスのほうを見る。信じられないように。そして腹に刺さった短剣と、そこから流れ出る血を確認する。まるで壷から流れ出すぶどう酒のように、赤い液体はとめどなく流れ続けた。
 トロポニオスは自分の行いに呆然とするように立ち尽くしていた。手が、かすかに震えさえしている。
 アガメデスはそれを見て、それからにやりと笑った。
 いや、トロポニオスには、笑ったように見えた。実際に、できることではない。腹を刺され、血を流しながら、なおかつそんなふうに笑うことなどは。
 そしてアガメデスは、言うのだ。
「これはあまりにずいぶんなことじゃないのかな、兄さん。いくら俺のことが理解できないからといって、殺してしまうことはないじゃないか。あなたは一体、それほど自分を正しいと思っているんですか? 他人を、実の弟を殺してもよいほど。けどね、自分が正しいからそれ以外のものは正しくない、だから殺してもいい、なんて考えた時点で、それは正しくないんですよ。それ以前にあなたは、俺のことを正しくないなんて言えるんですか? ならどうして、王の蔵に忍び込むなんてことをしたんです。あなたはそのことをずいぶん言い訳していたようですが、何のことはない俺と同じですよ。あなたは単に、他人のものを奪いたかっただけだ。それも安全で、確実に、何の苦労もなく。さらにはそれが正しいことだと信じてさえいたくて。あなたは俺となにも違っちゃいない。あなたが殺してのは、あなた自身なんですよ」
 トロポニオスは自分が一体どうしたのか、覚えていない。
 ただ気づくと彼は、町の中を歩いていた。どうしようもなく混乱して、自分がどうやって歩いているのかさえ分からないほどだった。
 そして次の一歩を踏み出した時、そこには大地がなかった。トロポニオスは地の闇の中に吸い込まれるように姿を消し、二度と現れなかった。
 彼は今でも、自分が正しいと信じるしかないのだろうか。

――Thanks for your reading.

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