[星空]

 旅の道の傍らに、その壁画はありました。森の中に、建物はもう朽ちてしまって、壁の一部だけが残されています。馬車一台が通るのがやっとの小さな道を歩いていくと、その壁画はまるで森に置き去りにされた子供のように、じっとしています。
 壁画に描かれているのは、夜の星空の光景です。深い藍色の下地の上に、点々と光を放つ星々が描かれていました。元々、それがどんな絵だったのかは分かりません。けれど、まるでそれは、本物の星空がそこに取り残されているかのようでした。
 森の木々がその上に枝葉を広げ、祠か何かのように覆っています。おかげで壁画は雨に濡れることもなく、元の色を保っていました。
 もう何年も、何百年も、画はそこにそうしてあります。
 その間、たくさんの旅人たちが前を通っていきました。巡礼や、品物を運ぶ商人、遍歴職人達。彼らはそこを通るたびに壁画を見つめ、誰かがその前を通るたびに、壁画は見つめられました。
 旅人達の誰もが、その画が一体どういうものなのか、知りません。分かるのはそれがずっと前からあって、そしてこれからもそこにあるだろう、というくらいでした。画はあたかも自然物の一部であるかのように、そこにありました。
 ある日のことです。
 一人の旅人が、その画の前にやって来ました。彼はまだ若い、放浪者的な旅人です。あちこちを気ままに旅行し、旅の中にその日を暮らしていました。背中にしょった皮のリュックには、寝袋や調理器具、地図や方位磁石などが入って、一杯にふくれています。
 彼はいかにも旅慣れた者のふうに杖をつき、森の道をやって来ました。そうして画の前にまでやって来て、立ち止まります。
 多くの旅人達と同じように、彼はまずはじめにその画をしげしげと眺め、ついで辺りを見回しました。どうしてこんなところに、こんなものがあるのか、不思議だったのです。
 大抵の旅人は、それからしばらくして、その場を立ち去ります。そこには画のほかには目につくようなものはありませんし、こんな場所でいつまでも油を売っているわけにはいかないからです。
 けれどその若い旅人は、いつまでもそこにいました。彼は道の真ん中に座り込んで、ゆっくりと画を眺めます。彼はその画がどうにも気になってしかたなかったのです。
 そして彼は、その日はそこに泊まることにしました。道は、彼の他には誰もやって来る気配はありません。彼は枯れ枝を集め、日が暮れると道の真ん中で焚き火をして、暖をとりました。
 夜中になって、暗い森の中、焚き火の明かりで見る壁画は、いっそう神秘的なものでした。まるで星空の欠片そのものが、そこにあるかのようです。
 揺れる火明かりの中でそんな画を見つめるうち、彼はいつしかうとうとと、まどろみはじめていました。画の中の星は、そんな彼をじっと見つめているようです。
 しばらくしてふと気づいた時、彼の前には一人の少年がいました。少年は壁画の上に腰かけ、足をぶらぶらとさせています。若者は不思議そうに辺りを見回しました。少年は一人のようです。けれど一体いつから、少年はそこにいるのでしょう。
「こんばんは」
 と、少年は言いました。
「こんばんは」
 不思議に思いながらも、若者は答えます。
「ずいぶんこの画が気にいったみたいだね」
 と、少年は言いました。
「君はこの画について何か知っているのかい?」
 と、若者は訊ねます。
「知っているよ」
「どうして?」
「だってこの画は、僕そのものなんだから」
 若者はその言葉に、うまく質問することが出来ませんでした。少年は言います。
「昔、一人の絵描きが宮殿の壁に、星空の画を描いたんだ。その頃、夜の空にはまだ月しかなかった。宮殿の壁に描かれた絵は、長い時間の間に魔法が解けて、空に向かいはじめた。宮殿は崩れて、夜の空には星があふれた。僕はその時、飛び立つのに失敗して、ここに残されちゃったんだ。だから今でも、僕はここに一人でいなくちゃならない。そうなってから人と話すのは、あなたが初めてだ」
「寂しいの、かな?」
「少しね。でもたくさんの人が僕の前を通って、僕を見ていくし、時にはあなたみたいな人がいるかもしれない。そんなにっていうほどじゃないよ」
 少年はそう言って、にっこり笑いました。
 空を見ると、星が消え、もうすぐ夜が明けようとしています。
「そろそろ行かなくちゃいけない。僕も、あなたも。あなたはきっと、僕のことを夢だと思う。でもそれでいいんだ。夢でも、会えて嬉しかったから」
 若者はその言葉を、薄れていく意識の中で聞いた気がしました。
 次に気づいた時、若者は道の真ん中で、座ったまま眠りについていました。焚き火はもうすっかり消えてしまって、黒い炭だけが残っています。いつ頃から眠ってしまっていたのか、若者には分かりませんでした。
 白みはじめた森の中で壁画を見ていると、それは昨日と同じ姿でそこにあります。少年の姿は、どこにもありませんでした。彼の言ったとおり、あれは夢だったのでしょうか。
 若者は立ち上がって、そっと画を見つめます。
 星になりそこねた、空の欠片を――
 しばらくして、若者は出発します。若者は星の壁画の前で見た不思議な夢のことを、旅先で話すでしょう。そうすれば、人々は少年のことを知り、彼に会いたいと思うかもしれません。
 孤独な星空の少年のもとに、人々が焚き火を囲んで集まります。

――Thanks for your reading.

戻る