[星を探して]

 その夜、東の地へと星が流れた。金色の光跡は空の闇を切り裂き、世界の半面を治める巨大な王は一時目を覚まし、そして何事もなかったようにまた眠りについた。
 若きグルガであるエントは、それを見届けてから丘を下った。空には砂をまいたように星々が瞬き、時折耳を聾するような強い風が吹いた。それらは何かの予兆や物語を含んでいるようだったが、読み手としてはまだ未熟なエントには、それを理解することはできなかった。
 丘を下り、小川や畑のあいだを通って行くと、石造りの僧院があった。グルガの修行僧たちであるウィタキアの住む建物である。エントはこの院に属するウィタキアの一人であり、その中ではもっとも若かった。
 エントが自分の宿房へ戻ろうとすると、院の前にある低い石垣に誰かの影があった。その姿を見て、エントははっとした。それは院の僧長であるオノル師のものだった。
 グルガの中でも優秀な読み手として知られるオノル師は、年ふりてなお矍鑠とし、その瞳は濁りを生ずることがなかった。今もまた石垣に腰かけ、杖を両手に支えながら、澄んだ泉のような瞳に星々の光を映していた。
 エントは両の手を胸の前で組み、膝を地に着きながら言った。
「師よ、このような夜更けにいかがなされたのですか?」
 オノルはよほど長いあいだ――あるいは、エントにそう感じられただけで、ごく短い時間のあと――こう言った。
「星を見ていたのだ、シャカル・ハスタよ」
 シャカル・ハスタとは、エントのウィタキアとしての命号であり、風に倒れるもの≠意味した。そしてその名で呼ばれることは、何らかの拝命を受けることを示唆していた。
 エントは首筋を緊張させ、謹厳な顔つきで口を開いた。
「東の地へと、星が流れました、エンカノス・ウル(火を灼くもの=j。空に半ば近いところ、丘の上で、私はそれを見たのです」
「うむ、わかっている」
 オノルは眠るような静かな声で言った。「そなたは、そこに何を読んだ?」
「私はまだ未熟な愚か者です、グルガ・ノトゥシマ(グルガの偉大なもの)。残念ながら、私にはその文字は複雑で、その声はあまりに小さすぎました」
「だが、そなたはその目で、あの落ちる星を見たのだ」
「そうです、ノトゥシマ。私はこの幼い目で、夜に傷が入るのを見ました」
「あの星はそなたに対する予兆だった。あの遠くから旅してきたものは、そなたのフィージョでもあったのだ」
 フィージョという言葉に、エントははっとした。それはグルガにとって試練や運命といったものを意味する言葉であり、その者を変えるもの≠セった。
 若きグルガに、変化の時が来たのである。
「お尋ねします、師よ。そのフィージョとはいかなるものでしょうか?」
「それがどのようなフィージョであるかは、誰にもわからない。フィージョはただそれを受けるもののみによって内験される一つの目である。どのように優秀な読み手であったとしても、他人の考えで考えることはできない。例え靴を変えることはできても、足を取りかえることはできないように」
「私は若輩です。このフィージョにふさわしいとは思えません」
「フィージョとは我々が選ぶのではない。フィージョが我々を選ぶのだ。そしてそれは、そなたを選んだ。……行くがよい、シャカル・ハスタよ」
「しかし、私はまだエルジョを受けていません」
 エルジョとはウィタキアたちの踏むべき位階の一つだった。それがなくては、僧院を離れることは許されないのである。
 本来なら十日ほどもかかるエルジョの拝受を、けれどオノルはこともなげにこう言った。「ならば今、お前にそれを授けよう」
 エントはその言葉を聞くと、ゆっくりと膝をのばし、立ちあがった。エルジョを授けられたものは、何者に対しても膝を屈することはない。自由なる読み手として、常に大地に対して直立することを求められる。
「師よ、謹んで拝命いたします。ウィタキアとして恥ずべきことのないよう、私は努力します」
「それでよい、シャカル・ハスタよ。この夜の明けぬうちに、新しい一日の生まれぬあいだに、疾く旅立つがよい」
 エントは深々と一礼し、師の言葉に従ってさっそく旅立つためにその前を辞した。

 そのようにして、彼は星を探す旅に出たのである。

 フィージョには多くを持っていくことは許されない。エントはオノル師と別れると、そのまま旅路へと着いた。僧院の親しい仲間にも挨拶せず、荷物を調えることさえなかった。
 白い頭巾にいつも身につけている粗末なチュニック、ややくたびれた外套というのが、エントの格好だった。季節は初夏の頃とはいえ、朝晩にはまだ肌寒かった。ろくな旅支度もなく、路銀さえ持たず、朝食のあてさえなかった。向かうべき先を示す地図さえ持ってはいない。
 だがフィージョとは、それがはじまったときから、すべてをあるがままに委ねることでもあった。
 星の流れた場所、東の地へと向かうのが、今のエントにとれる唯一の行動だった。彼は何度か訪れたことのある村で、厚意にすがって食事をもらい、簡単な旅支度を詰めた旅嚢さえ用意してもらった。
 ウィタキアがそのように卒然として漂泊の旅に出ることを、人々は知っていたのである。
 エントは深謝して、自分からは何も与えられないことを詫びつつ、村から出発した。ただ東へ、東へと向かうため。
 そうするうち、街道は平野の道から外れ、エントは山道へと入っていった。夜はようやく明けはじめたばかりで、山あいにはまといつくような白い霧が漂っていた。エントは途中、杖の代わりになるような棒を拾い、川音と杖先の感覚を頼りとして道を進んでいった。
 少しして、エントは奇妙なことに気づいた。霧を透かして見える木々の緑や、岩場の灰色といったもののほかに、目を引きよせるような鮮紅色が現れたのである。その色はまるで、たった今誰かがそこで血を流しているかのようだった。
 エントは不審に思い、杖を突きながら谷川のほうへと降りていくことにした。岩場を慎重に這い進み、川の流れへと足を沈めた。水は切るように冷たく、一瞬頭が痺れるほどだった。
 色の本源を求めて行くと、谷川の淀みとなったところに一個の紫水晶が沈んでいた。血のような紅は、その鉱石から流れだしているのだった。
 エントは流れの岩場に腰かけ、その紫水晶をのぞきこんだ。それは実に見事な水晶だった。精緻な金細工で装飾され、その輝きには一筋の瑕疵さえも見あたらなかった。ちょうど、高貴な魂が決して汚れを知らないかのように。
 その紫水晶は、エントに向かって語りはじめた。

 …………

「ああ、悲劇だ、悲劇だ。
 何という悲劇だろう、これは。
 私に染みついた血はいくら洗っても落ちることはない。それはあまりに深く、私の内側まで入りこんでしまった。その血を洗い流すためには、新たな傷口と、新たな血が必要とされる。
 はるか北の地、一年の半分が雪に閉ざされる地で私は見つかった。鉱山の奥深く、一度も光を見たことのない、重さのある暗闇の中で私は眠っていた。それは長い眠りだった。そして平和な眠りだった。激しい熱と圧力が私のはじまりにあり、それらが静かに収まっていくにつれ私の肉と骨は作られた。
 ああ、今思えばそれは何という寂静であり、完全な世界だったろう。私を傷つけるものはなく、私が傷つけるものもいない。静けさだけが友であり、暗闇だけが語り相手だった。
 だが、ああ、だが何ということだろう。私の久遠の眠りは破られた。繊細な暗闇たちは粗暴なランタンの明かりによって皆殺しにされてしまった。鉱夫のつるはしが岩を砕き、私の寝床を粉々に破壊してしまったのだ。
 私の姿を見たその鉱夫は、一瞬にして私の魅力の虜となってしまった。私ほど見事で、美しい水晶を見たことがなかったからだ。彼はとっさに私をぼろ切れの中に包み、何食わぬ顔でそれを自分のものとした。
 彼は一人でいるときにはよく、私を取りだしては飽きもせずに眺めた。そして私がいかに貴く、また優美であるかを語った。彼は次第に私を眺めることに溺れ、仲間とのつきあいも遠くなっていった。
 ある日のことだった。柔らかな雪の代わりに、重く冷たい雨の降る一日だった。その日は朝から不吉な空気が漂っていた。勘の鋭い者は仲間たちに警戒を呼びかけた。だが、彼はそれを聞かなかった。彼が考えているのは、私のことばかりだった。
 そして運命が彼を襲った。鉱山で大規模な落盤が発生したのだ。ほとんどのものは前もってその事故を逃れた。だが彼は――彼は最後まで気づかなかった。自分が最初から死に憑かれていたのだということを。
 何ヶ月もたってから、彼の遺体は掘りだされ、私もまた逃れられぬ運命の渦中へと連れ戻された。運命は彼を見逃さなかったが、私のことも放っておくつもりはなかった。それはまだ多くの血を欲していた。
 私は鉱山にほど近い町の、ある職人の元へと預けられた。それは年老いた、盲といってもいいような白髪の老人だった。
 彼はその霞んだ目のかわりに、それよりはるかに優れた手を持っていた。彼は私に三度ほど触れただけで、私の価値と、何よりその呪われた運命について覚知した。あるいはそこで、私は微塵となって砕かれるのがよかったのかもしれない。少なくとも彼は、一瞬とはいえ自分がそうすべきだと思ったのだ。
 けれど結局のところ、彼は私をハンマーで打ちつけるようなことはなかった。彼が何を思ったのか、私にはわからない。それは職人としての性だったのか、己の運命を受容する諦念だったのか。
 彼の手によって、私はより美しく生まれ変わった。自然が作りだした荒削りの私の姿態は、より精密で合理的な形象へと昇華された。私をひきたてるための金細工が施され、私は一つの星の輝きを凌駕するほどになった。
 だがもちろん、神にも似た術技を振るおうと、その老職人が運命から逃れられるわけでもなかった。
 噂を聞きつけた盗賊どもが、ある夜、彼の家へと押しいったのだ。空がその惨劇を嘆くような、ひどい嵐の日だった。物音は一切が風の音によってかき消された。憐れな老人は最初からそうなることを知悉していたかのように、従容として凶刃に倒れた。
 目的をはたした荒くれどもは、嵐のおさまらぬうちに町を遠く離れていった。彼らは森の奥深くにある隠れ家へとやって来ると、さっそくその夜の上首尾を祝いあった。
 だが、ああ、だがその夜に運命が欲したのは、罪のない老人の血ばかりではなかった。それはもっと多くの、罪ある血をも流れることを欲したのだ。
 宴はいつまでも続き、盗賊どもは酒と肉をたらふく飲み食いした。そして今夜の成果を確かめあった。色とりどりの金銀宝石、その一つでもあれば、一生を安閑として暮すには十分な逸品ばかりだった。
 どの男も、その真の価値など知りもせず、ただその輝きがもたらすはずの金貨にだけ思いをはせていた。彼らにとって、宝飾品とはあくまでそうした価値しか持たなかった。その瞳は盲の老人よりもなお、暗きものだった。
 だがその中にあって一人、じっと私を見つめる者があった。まだ若い、瞳の奥にかすかな光を残した若者だった。彼はほかの宝石には目もくれず、ただ恋する者のように私を見つめていた。
 やがて、はてもなかった騒ぎも収まり、盗賊どもは眠りにつきはじめた。私はとても分相応とは言えぬずた袋の中に放りこまれ、小屋の壁へとかけられた。これからやって来る運命を、私は密かに恐懼していた。
 そのことは、実に静かに、密やかに行われていった。寝入った盗賊どもは、鋼の刃で声もなく喉を切り裂かれていったのだ。一人、二人――誰にも気づかれることなく、着実に――三人、四人。
 だがしばらくして、ある男が異変に気づいた。その頃には木の床が、流れた血でべとつくほどだった。男はすぐさま叫び声を上げ、仲間たちに警戒を呼びかけた。
 犯人はすぐさま露顕した。もちろんそれは、例の若者だった。彼は私を自分一人のものとすべく、仲間たちを皆殺しにするつもりだったのだ。
 同士討ちはしばらく続いた。若者によって盗賊たちは半ば以上を殺害され、嵐にあってさえ血の臭いが鼻をつくほどだった。夜の闇は禍事を祝福していっそう濃くなり、どこからか不吉な笑い声が聞こえてくるようだった。
 狂った若者は捕えられ、木の枝に吊り下げられた。それから世にも恐ろしく残虐な方法で、彼は解体され、ほとんど原型をとどめぬまでにその体はばらばらにされた。そうして殺戮の罪を贖うために、新たな殺人が重ねられたのだ。
 残った盗賊どもは、この苛烈な運命を招いた元凶として、すぐさま奪ってきた宝石を処分することにした。彼らはほとんど商人の言い値によって私たちを売却した。商人は不思議がったが、彼らにしてみれば一刻も早く厄介払いをしたかったのだろう。
 こうして私は三度、持ち主を転変させ、とある商人のものとなった。彼は表向きはまったく誠実そのものといった商売人だったが、盗賊からそれと知りつつ物を買いとるなど、裏ではまったく油断のならない行いをしていた。
 彼はさすがに十分な目を持っていたので、数多の宝石の中にあっても、すぐさま私の価値に気づいた。彼はしげしげと私を見つめ、そして断崖絶壁でものぞきこんでいたかのように目を離した。老練な商人としての勘が、目前に広がる酷薄な運命をかいま見せたのだろう。
 濡れ手に粟というべき取り引きではあったが、彼は不吉な予感をひしひしと感じとっていた。すぐ後ろから、影のようにひっそりとして危険な何かが迫っていることに、彼は否応なしに勘づいていた。訳もなく湧きあがる汗や、夜明けに見る黒い夢がそれを告げていた。
 手に入れた宝石たち、中でも特に私とは、できるだけ早く縁を切るべきだと彼は考えた。とはいえ彼は商人であって、何よりも損というものを嫌った。内心ではすぐにも道端へと私を投棄してしまいたかったのだが、彼の性と、そして何より運命がそれを許さなかった。
 ほどなくして、彼は私を処分するための格好の機会を見つけだした。彼が旅した先、ジッグラハッタという王国で、その国の王が新しく妃を迎えることとなったのだ。抜け目のない彼は、これこそ私を手放す絶好の機会と見た。彼は王に対する引き出物の一つとして、何食わぬ顔で私を捧げたのである。
 国王は――それは実に若々しく、雄偉な王だった――異邦人の捧げ物を、ことのほか奇瑞として受けとられた。商人はその損失を上まわる多くのものを返礼として受けとった。もっとも、彼にしてみれば私をうまく手放せただけでも十分に算盤にはあったのだろうが。
 結婚式にはそのほかにも、国中から祝賀の品と、大勢の貴賓たちが集まることとなった。祝いは一ヶ月も前からはじめられ、これ以上はないというほどの豪華さと絢爛さで夜に昼をついで行われた。
 やがて式のもっとも華やかな舞台として、百頭の象と千頭の馬、その背に乗せられた絨毯、宝玉、楽器、細工物、絵巻物、刀剣、玻璃、香辛料、果実といったものが運ばれてきた。そしてそれらとともに、数万の奴隷を引きつれて、王妃となるべき女性が。
 その贅沢な嫁資も、目を見張るような珍奇な品々も、彼女に比べればまるで取るに足らぬものに思われた。
 極北の雪さえくすんで見える艶やかな肌、一粒の宝石かと見まごうような両の瞳、その頬はもっとも美しい夜明けを思わすようにほのかに染まり、口元には天使でさえ我が身を恥じるほどの罪のない微笑が浮かんでいた。
 どれほど多くの財宝も、どれほどたくさんの奴隷たちも、彼女一人にさえ及ばないほどだった。
 婚姻は圧倒的な歓喜と、かつてないほどの喜悦を持って結ばれることとなった。二人の姿を見た誰もが、限りない幸福と、王国の繁栄、永遠に続くはずの安寧を予感した。沖天に輝く太陽を見て、誰がその凋落を思致するだろうか。
 だが運命は、そのような二人を前にしても決してその暴虐をゆるがせにすることはなかった。
 結婚当初、二人はこの世の何よりも光にあふれ、王国はいっそうの絢華を極めんものと思われた。天は二人を嘉し、寿いだ。
 ところがほんの気まぐれ、ささいな思いつきから、王妃は贈り物の中からこともあろうに私を見つけだしてしまった。王宮の倉深くに納められていたものを、一人の女官が発見し、王妃へと注進してしまったのだ。
 王妃は一目見て、私を気に入ってしまった。ああ、私はその時のことを実に悲しむ。私はその時、いっそ粉々に砕けてしまえばよかったのだ。私には彼女の幸福を、この地上の光とも呼ぶべきものを、決して破滅させるような権利はなかったというのに。
 けれども死神の哄笑を、冥府の地響きを、彼女が聞きとることはなかった。彼女は少女のような純真で私を身に飾ると、喜々として己の姿に見入った。
 それは呪わしいことではあったけれど、しかしそれにしても、何と美しい光景ではあっただろう。私はおそらく、この世で私が飾るにもっともふさわしい人の胸で輝いていた。神々でさえ目をくらますような姿で。
 だがすべては、悲劇によって終わらなければならぬ。
 彼女の美しい姿、そのあまりに美しい姿は、王の心にかすかな疑念を呼んだ。最初は一匹の蝿ほどだったその暗い想念は、またたく間に草原を覆う雲霞ほどにも成長してしまった。それは人々が、嫉妬と呼ぶ感情だった。
 ああ、そのような必要はなかったのに。彼ほどに勇ましく、何より強く、荘厳なる王は、ほかにはなかったというのに。どのような人物も、彼の小指の先ほどにも値せぬものでしかなかったというのに。
 だが彼は、己の暗い情念の虜となってしまった。
 彼の振舞いは、次第に軌を逸するようになりはじめた。王妃を常に監視させ、どんな男も近づかないようにした。彼女の姿を見たというだけで、庭師の首を斬り落とすほどだった。王宮の人々は不吉の翳りにただ息を潜めるばかりだった。
 やがて王妃はいわれなき罪によって幽閉の身となり、それとともに王の勘気は嵩じはてるばかりとなった。彼は人を信用することをやめ、世のすべては裏切りと詐略によって成り立っていると確信し、些細な罪を見つけだしては人々を処刑しはじめた。
 当初、何かの間違いだと思った人々も、王の豹変をどうすることもできなかった。数年という歳月のあいだに、多くの汚れない血が流れ、怨嗟の声が国中にあふれた。王妃は閉ざされた一室で、尽きせぬ涙を流し続けた。その涙の多くが、私を濡らした。
 暴戻と蛮行の日々が続いた。豊かだった国土は荒れはて、人々の多くが家を失い、子供は常に飢えていた。神に見捨てられたかのように、災いだけが飽きもせずにこの国を襲った。
 そしてとうとう、その日はやって来た。悪逆に耐えかねた民衆が、王宮を襲ったのだ。
 宮殿の兵士たちは、もはや一人として王を守ろうとはしなかった。彼らは剣を捨て、あるいは人々と共に剣を持って玉座へと迫った。ジッグラハッタにはもう、王の味方となる者は一人もなかった。
 最初の声、最初の叫びが生まれるはるか前から、王はその身の運命を知っていた。いや、むしろそうなることをこそ、彼は望んでいたのだ。自分自身にはどうにもならぬ、この暗く魂を腐食する精神に、ふさわしいだけの結末がもたらされることを。
 彼は民衆の怒号、その靴音を聞きながら、最後の時を迎えるべく運命の場所へと向かった。最愛の者、この世界のすべて、己の魂を狂わせてしまった彼女の元へと。
 鳥籠にも似たその部屋で、彼女もまた運命の時を待っていた。何年かぶりかで扉が開いたその時、彼女はすべてを覚悟し、そして許した。彼女もまた最愛の者、ただ一人の王、己の魂を捧げた相手が現れるのを待った。
 もはや誰のものでもなくなった王宮の片隅で、二人は運命の結末に従うべく再会した。
 王妃は婚礼の際に用意した衣服を身にまとっていた。その胸元には、ああ、何と言うことか、この私が飾られていた。彼女はもちろん、すべての禍事の源が私であることに、とっくに気づいていた。にもかかわらず、いや、だからこそ、私こそその最後を飾るにふさわしいと思ったのだ。
 かつての賢王はすでに正気を取り戻し、その心は何の妨げもなく澄みわたっていた。来るべき結末が、二人をこの上なく美しく、また悲しく引きたてた。どのような時、どのような場所、どのような人物であっても、もはやこの時の二人ほど美しく、高貴であることはできないだろう。
 二人はその短い幸福のあいだ、一時の別れと、そして永遠の再会を誓いあった。もし神がおられるなら、その望みがはたされることを、私は強く願う。彼らにはそれだけの権利と、資格がある。
 だがその時現実に起こったのは、結局はたんなる悲劇にすぎなかった。
 王は剣を抜いた。それは金剛石を柄頭に嵌めこまれた、白銀に輝く希代の一振りだった。数多の敵を打ち倒し、数多の名誉を担ってきた王の剣は、いまやもっとも不名誉な、もっとも醜い行いに供されようとしていた。
 王は剣を構えた。王妃はかすかに笑った。それを見て、王もまた寂しげに、地平の向こうへと沈む太陽の最後の光のように笑った。部屋の外の叫び声は、ますます強くなっていた。空は不自然なほど青く晴れわたっていた。寸時の後、ため息のような、何かが小さく漏れでる音が聞こえた。
 今、この世でもっとも価値を持つ、美しい花が枯れた。そこにあった確かな光は、もはや永久の闇へと去っていった。どれほどの犠牲を払っても、いかなる奇跡が繰り返されても、もうそれが元に戻ることはない。
 それだけのことを見届けると、王はすぐさま次の行動へと移った。もはやそれは、たんなる作業にすぎなかった。彼はまだ赤く濡れたままの剣を逆しまに構え、我が身の喉笛へと突きたてた。
 ああ、悲劇だ、悲劇だ。
 この世でもっとも尊い二つの血が、私を濡らした。その血は私の奥深くへと入りこみ、運命を輝かせた。私はますます美しく、そして残酷になった。誰にもそれをとめることはできなかった。運命がそれを欲していた。
 迫り来る喚声と足音、終結を迎えた静寂の中で、私は長年王妃の慰めともなっていた鳥へと頼み、その部屋をあとにすることにした。私を見つけたその人間から、新たな悲劇の生まれることを恐れて。
 善良な鷹は私の願いを聞きいれて、その強い爪で私を摑みあげると、誰の手にも届かぬ大空へと飛びたった。私はどこか人のいないところ、その不幸な運命を見ずにすむところへと行きたかった。
 ところが、ああ、ところが何としたことだろう。
 ちょうど山あいの谷へと差しかかった頃、一本の矢が、一筋の光線のごとく飛来した。矢は狙いたがわず、私を運んでくれた親切な鷹の肺腑を一突きにした。その強い爪から零れ落ちた私は、深い谷底へと墜下した。
 落ちた先で、私は谷川へと沈み、渓流は私を飲みこんで下流へと運んだ。今、私がここにこうしているのは、それだけのことがあったからなのだ。
 ――旅人よ、なろうことなら私をこのまま海まで行かせてくれ。その深い海神の底、光を知らない暗闇たちの元で、また私を静かな眠りにつかせてくれ。この世は私にとってあまりに光にあふれ、騒々しすぎる。永遠の孤独こそが私にふさわしい。
 ああ、何という悲劇だろう、これは」

 エントは昼の平原を歩いていた。その平原は、はるか彼方に浮かぶ雲の平面にまで続いていた。風を遮るものはなく、広大な海原がそのまま固くなって地面となってしまったかのようだった。
 絵の具を乱雑に塗りたくったような緑の中を、一本の土色の道がずっと向こうまで続いている。天まで続くようなその道は、地平の果てで誰かが断ち切ったように途切れていた。じっと見ていると、その向こうから巨人でも顔をのぞかせそうに見える。
 一寸も進んでいないように見えるその景色の中を、エントはただひたすらに歩き続けていた。ひどく喉が渇いたが、水はもうとっくに尽きていた。この先に何があるのかさえ、エントは知らない。彼はただ東へ、東へと進んでいるだけだった。
 もしかしたら、この先には渺茫とした海があるだけで、もうその先へは進めないのかもしれない。あるいは熱に焼かれた砂漠が、人の手の入らない密林が、剣のように鋭い山嶺が待っているのかもしれない。
 うつむきながら、ただ機械のように足を動かすエントの心に、様々な疑惑が去来した。彼は努めてものを考えないことにした。迷いは足を鈍らせ、何より心を弱めた。
 そうして歩き続けるうち、エントの心にはふと、僧院での日々のことが浮かんでは消えた。毎日の勤行や、日課、様々な作法、兄弟子たちとの団欒や、尊い教えのこと。
 その中でエントは、ある老師のことに思いを馳せた。それは僧院の副院長である、オノル師についで年ふりた老人だった。
 ウィタキアたちは、フィージョを心待ちにしている。それは彼らにとって、恐れであり、名誉であり、何より一人前となるために必要な試練でもあった。フィージョを迎えないうちは、ウィタキアたちはいつまでもその場に留まり続けなければならない。そこには変化もなく、成長もなかった。
 副院長であるその老人は、いまだにフィージョを迎えていない身だった。
 僧院の若者たちのあいだには、そのことで老人を軽んじる者もあった。同輩との談話で、わざと老人に聞かすように声高にフィージョについて話をする者もいた。
 だがそんな時も、老人はただ穏やかに、まるで何も聞いていなかったかのようなふりをするだけだった。
 エントは余のこととは知りつつ、老人に尋ねてみたことがあった。あなたがまだフィージョを受けていないというのは、本当のことなのですか?
「その通りです」
 老人はいとも易く答えた。例えどれほどの若輩に対しても、丁寧に話すのが彼の特徴だった。
「しかし――」
 と、エントはかすかに言いよどんでから、言葉を続けた。
「ウィタキアとして、フィージョを受けられないのは、辛いことではありませんか?」
 老人はすぐには答えなかった。彼はまるで、時間が雪のように地面に積み重なるのを見ているかのようだった。
「決して、そのようなことはありません」
 彼は微笑をさえ含んだ穏やかさで言った。
「しかしそれでは、この時の中でいつまでも同じ場所に停滞していることになるのではないですか?」
 と、エントは食い下がった。
 老人はまた、すぐには答えなかった。籠から放した鳥の行方を追うような、そんな間があった。
「私はこう思うのですよ」
 老人は葉が風に揺れるよりも静かに言った。
「確かに、私にはフィージョが訪れていない。私には私を変えるべき機会が、それを望みながら与えられていない。しかし、私は思うのです。もしかしたらこれこそ、私に与えられたフィージョではないのか、と」
 エントはその言葉を聞いて、決して虚勢や欺瞞、弁明ではない老人の言葉を聞いて、ひどく感情を打たれたのを覚えている。フィージョとは決して、胸を飾る勲章や、頭に載せるべき冠ではない。それは心の内にあって、その人物を変えるものなのだ。
 老人の無私なる態度、悠揚たる落ち着きは、それを何よりも雄弁に教えている気がした。
 ――次第に重さを増す足や、痛みを強める渇きの中で、エントはその老人のことを思っていた。決して終わることのない、はじまりでさえないフィージョの中にいる老人のことを。彼の誠実と、不屈を。
 いつのまにか、風は強さを増し、かすかな湿り気を含んでいた。見ると、平原の向こうに濃い緑色の雲が迫りつつあった。空気には先ほどまでとは違った匂いが混じっていた。雨が来るのだ。
 やがて雷鳴と、古の皇帝の到来を告げるファンファーレのような強い風が吹き荒れると、地を穿つ大粒の雨が降りはじめた。
 エントは外套を強く羽織り、フードを深くかぶった。
 雨たちはただの草のように、ただの石のようにエントを打った。長い旅の終わりを、雨粒たちは迎えようとしていた。
「はるか遠い地のことを」「遠い西の国」「南の砂漠」「北の巷間」「私たちが旅したところ」「その旅したところを語ろう」
 雨粒たちはエントに向かって語りはじめた。

 …………

 「私たちはずっと旅をしてきた」「旅をしてきた」「長い時間」「遠い距離」「ずいぶんいろいろなところを旅した」「蟻の群れのような動物たちの大群」「何ものも止めることのできない氷の河」「地に光届かぬ昼なお暗い森」「そして今」「こうしてようやく地面へと帰ろうとしている」「朝露の欠片から」「滔々と流れる大河から」「水汲み女の手にある壷の中から」「私たちは生まれ」「形を成し」「そして一群れの雲となった」「空を旅してきた」「そのあいだには多くの出会いがあり」「そして別れがあった」「私たちは何度も生まれ」「何度も死ぬ」「だが決して」「尽きることはない」「私たちは終わりのない旅を続ける」
 「西の地では」「太陽の沈む先では」「美しい湖に出会った」「そこでは鳥たちが歌い」「喧しく歌い」「多くの獣が水と平和を」「生命の糧を求めた」「湖面は常に」「水面は常に」「鏡のように鎮まり」「まっすぐに凪ぎ」「水は深い底まで」「青く澄んでいた」
 「湖には」「いくつもの渡り鳥たちの」「様々な姿形の」「群れがあった」「彼らは遠い南の地」「はるかな地」「その生まれ故郷を目指して」「旅する途中だった」「湖で羽を休め」「一時の安息を求め」「これからの旅路のために」「英気を養っているところだった」
 「そんな鳥たちの中に」「翼持つものたちのうちに」「一羽の雁がいた」「彼は仲間たちとともに」「同郷のものたちとともに」「南へと帰るところだったが」「その羽を痛めてしまい」「うまく飛ぶことのできない状態にあった」「その傷は」「翼の痛々しい破れは」「ある獰猛な山猫によって」「凶暴な山猫によって」「無残に引き裂かれた」「ものだった」
 「彼は不倶となった」「飛ぶことができなかった」「その羽を使って」「破れた翼を使って」「何とかまた空を飛ぼうと」「報いのない努力を重ねた」「だが」「しかしながら」「いまだ傷さえ癒えぬその羽は」「決して元のように」「彼を空高く」「空遠く」「自由に舞わせてくれることは」「なかった」
 「時がたつにつれて」「季節が移ろうにつれて」「出発の刻限は迫った」「彼の痛んだ羽は」「無残な翼は」「いっこうに彼の意に従うことはなかった」「仲間たちは」「長の友たちは」「そんな彼をただ見守ることしか」「できなかった」
 「やがて」「ついに」「決断の時は来た」「古参であるその群れのリーダーは」「賢い長は」「彼をその湖に」「一時の避難所に」「置いていくことに決めた」「一人傷ついた彼のために」「飛ぶことのできない彼のために」「群れの全体を危険に」「危うい賭けに」「さらすわけにはいかないと」「苦渋の決断を」「必然の選択を」「したのである」
 「これ以上待つことは」「時を漫然することは」「できないという時になって」「群れは彼一人を」「湖に残して」「美しい湖に残して」「再び南へと頭を向け」「故郷の地へ向け」「飛びたった」「ただ一羽」「湖に残された彼は」「孤独に蝕まれた彼は」「しばし虚しく」「意思なく」「羽を上下させ」「力ない声で」「悲しく泣き叫んだ」
 「孤独は」「寂寥は」「彼を弱くし」「生きる力を萎縮させた」「その体を養うことさえ」「空腹に身を焦がすことさえ」「忘れ」「ただ悲痛な泣き声だけが」「悲愴な泣き声だけが」「喉の奥から湧きあがった」「彼は終日」「誰もいない美しい湖の中で」「鏡のような湖の中で」「ただひたすらに」「ただじっと」「打ちよせる寂寞に」「耐え続けた」
 「時がたち」「日が巡り」「彼の傷も形ばかりは癒着し」「治癒し」「少しならまた」「飛べるようにもなった」「彼は悲愴な決意を」「望みのない決意を」「胸にして」「そのままならぬ翼を」「ぎこちない翼を」「打ち振るった」「風は彼を優しく」「悲しく」「持ちあげ」「再び彼を空の上へと」「誘った」
 「久しぶりの空の上の」「そのなじみの場所の」「何と心地よかったことか」「彼は嬉しさに甲高く」「大きく」「一声鳴き」「強く羽を搏った」「速度はうんと上がり」「体は前へと進み」「景色は融けて流れた」
 「だが」「だが」「彼の肉体は次第に」「徐々に」「確実に」「力を失った」「弱った体は」「細く痩せた体は」「必要なだけのエネルギーを」「もう所持しては」「蓄積しては」「いなかった」「傷ついた羽は」「癒えきらぬ翼は」「旅の終わりへと向かって」「ただ力なく」「空しく」「上下するだけだった」
 「彼の体は」「やがて」「避けられぬ結末として」「大地へと向かって」「すべてのものが還るその場所へと向かって」「落ちていった」「彼の体は」「定命のその体は」「静かに」「重さのないもののように」「地へと打ちつけられた」
 「だが」「彼の魂はなお」「不死なる魂はなお」「空を飛び続けていた」「それは」「はるかな距離を」「遠い時間を」「すぐに飛びこえ」「仲間たちの元へと」「親しい友人たちの元へと」「たどり着いた」「仲間たちは」「長年の知己は」「彼の到着を知って」「その魂の来着を知って」「喜びに鳴き」「また悲しみに鳴いた」「――」
 「西の地にある」「太陽の沈む先にある」「美しい湖の」「鏡のような湖の」「それが私たちの見た」「聞いた」「物語である」
 「それから私たちは」「私たちは」「南の地で」「雲の生まれる場所で」「砂に埋もれた」「没した」「古い都を見た」「かつてそれは」「昔日にはそれは」「世にまたとない」「二つとない」「美しい都だった」
 「その都では」「夜毎に」「王宮での」「宮城での」「華やかな舞踏会が」「雅やかな宴が」「開かれ」「美しく着飾った」「貴族たち」「宦官」「淑女たち」「楽士」「踊り子」「道化師が」「いつまでも咲き誇る」「花のように」「舞い続ける」「蝶のように」「その贅を」「競いあった」
 「若者たちは」「命と熱にあふれた者たちは」「意中の相手を射とめようと」「その瞳を太陽のように」「燃える石炭のように」「輝かせた」「その心の火を」「血の中の炎を」「相手にも」「燃え移らせようとした」
 「娘たちは」「恋と夢にあくがれる者たちは」「そんな若者たちを見て」「内心を」「その美しい小箱を」「胸の奥深くに秘めたまま」「あるいは拍手喝采し」「あるいはすげなく冷笑し」「彼らの情熱に」「血潮に」「新たな火種を」「投じるのだった」
 「舞踏会は」「いつ果てるともなく続き」「虹のような幻燈は」「宝石のような光線は」「夜の時間さえ支配せんと」「煌々と」「輝きを放った」「楽士たちの奏でる」「音楽は」「軽快な音階を響かせ」「天国まで届く」「天上まで達する」「階段をさえ」「作りださんばかりだった」「薄衣をまとった」「ヴェールをかぶった」「踊り子たちは」「まるで重さを持たない」「空気のように」「風のように」「舞った」「その手は優美な」「強力な」「軌跡を描き」「その足は」「たおやかな下肢は」「地面と接することさえ」「触れることさえ」「ないかのようだった」
 「テーブルに並べられた」「器に盛られた」「果物はどれも瑞々しく」「色鮮やかで」「遠い異国から」「彼方の土地から」「運ばれた果実さえ」「つい先ほど」「数瞬前に」「庭から捥いできたかのように」「新鮮だった」「香料をふんだんに」「贅沢に」「使った」「料理の数々は」「皿の空になるそばから」「次々に新しいものが」「代わりのものが」「運びこまれた」「背の低い宦官は」「美酒の数々に酔い」「子供のように甲高い」「女のように甲高い」「その声で」「戯歌をうたっては」「人々の笑いを買った」
 「けれど」「しかし」「そんな永遠の宴にも」「尽きせぬ饗宴にも」「終わりはやって来た」
 「辺境から起こった」「彼方の地で生じた」「騎馬民の群れが」「勇猛な戦士たちが」「各地を」「王国の隅々を」「蹂躙しはじめたのだ」「王国の軍隊は」「守備兵たちは」「なすすべもなく」「連敗を重ねた」
 「沈みかけた船から」「人がいなくなるのは」「逃げだすのは」「あっという間のことだった」「人々は我先に」「必死に」「蛮族たちの群れから」「少しでも離れようと」「都を捨て」「歴代の家屋を捨て」「別の土地へと」「名前しか知らぬ土地へと」「移っていった」「繁栄と」「壮麗を誇った都は」「住む者もなく」「寂れはて」「荒れはて」「わずかばかりのネズミが」「小さな支配者が」「人々の残していった」「家を毀ち」「王宮の玉座へと」「座った」
 「見捨てられた都は」「栄華の街は」「長い年月のうちに」「仮借なき時の流れのうちに」「朽ちはて」「崩れ落ち」「かつては月さえその姿を恥じるほどだった」「舞踏会の間も」「絨毯は食い破られ」「カーテンは色もわからぬほど」「汚れてしまった」「耳を澄ませば」「声を潜めれば」「今でも宦官の」「甲高い」「子供のような」「歌が聞こえそうだと」「いうのに」
 「時の流れはやがて」「やがて」「都を押しよせる砂の下へと」「貪欲な砂漠の中へと」「埋没させてしまった」「かつて常世の春を謳った」「栄華を誇った」「美しい都は」「今はもう」「その夢を見ることさえなく」「眠りを覚ますことなく」「虚ろな風音だけを」「響かせている」「――」
 「南の地にある」「雲の生まれる場所にある」「美しい都の」「朽ちた都の」「それが私たちの見た」「聞いた」「物語である」
 「ほかにも私たちは」「北の地で」「長き夜の地で」「多くの人々が暮らす」「数えきれぬ家の建つ」「一つの町を」「旅してきた」
 「それは実に」「幸福な」「明るい」「夜明けのバラのような」「町だった」「人々は誰もが」「日々の暮らしに」「感謝し」「満足し」「神の恵み深さに」「祈りを捧げた」
 「一日のはじめ」「夜の終わり」「ようやく東雲が」「茜の空が」「山の端に差しかかる頃」「朝の早い」「勤勉な」「パン焼きたちが」「夜のあいだに」「暗闇の秘密によって」「ふくらかされた」「パン種を」「さっそく熱い竈へと」「使い慣れた竈へと」「次々に」「運びいれる」「馥郁とした」「芳醇な」「香ばしいかおりが」「町のはじまりを」「包みこむ」
 「それと共に」「時を同じく」「長夜を明かした」「眠りを忘れた」「酒飲みや」「後ろ暗い泥棒たちは」「寝床へと」「帰り」「替わって働き者の主婦たちや」「洗濯婦」「物売り」「近くの村から野菜を持ってきた」「農家の馬車が」「町の道路を」「賑わせはじめる」
 「子供たちの一団は」「見えない髭を生やした」「桶をかぶった」「将軍に率いられ」「元気な喚声をあげながら」「威勢のよい叫声をあげながら」「町を走りまわる」「時々」「気まぐれに」「その辺で見つけた」「目についた」「のろまな野良犬を」「獲物に見立てながら」
 「やがて掃除夫が」「バケツと箒の主が」「陽気な歌を口ずさみ」「大工たちの」「金槌」「のこぎり」「鉋」「その音が」「軽やかなリズムを」「心地よいリズムを」「刻む」「娘たちは恋の噂話を」「罪のない風聞を」「まるで小鳥の囀りのように」「甘く密やかに」「楽しげに大仰に」「囁きあう」「広場では」「軽業師たちが」「旅のからすたちが」「自慢の技を」「踊るようなフィドルの音にのせ」「心弾む音楽にのせ」「見物たちに」「披露する」「荘厳な教会の鐘の響きが」「金属の震えが」「町に」「人々に」「時の移ろいを告げる」
 「日が暮れ」「太陽が衰え」「長かった一日も」「無尽の太陽の恵みも」「ようやく終わる頃」「子供たちは」「幼きものたちは」「また来る明日の約束をし」「温かい夕食と」「家族の待つ」「優しい家路を」「帰り急ぐ」「一日の仕事を終えた」「働きの対価を得た」「労働者たちは」「あるいは愛する者の待つ」「我が家へと向かい」「あるいは気のあう仲間たちと」「連れ立って」「今日という日の」「終わりを遅らせるべく」「賑やかな酒保へと」「明るい酒場へと」「足を運ぶ」
 「家庭では」「家族では」「賑やかな団欒が」「柔らかく夜を包み」「子供たちは」「その日あった出来事を」「いくつもの冒険の成果を」「得意気に」「嬉しげに」「報告する」「その一方で」「男たちのくりだした」「押しかけた」「酒場では」「玉突きの音が」「九柱戯の音が」「空気を」「震わせ」「弾かせ」「その日の稼ぎを賭けた」「カードゲームに」「何度も歓声が上がる」
 「やがて」「いつしか」「教会の最後の鐘も」「鳴り終わり」「夜はゆっくりと」「すべてを癒すように」「更けて行く」「子供たちは」「いまだ疲れを知らないものたちは」「夢の中でも遊びを」「続け」「大人たちは今日の無事と」「明日の幸福を願いながら」「一日の疲れを養分として」「月のようなまどろみを育て」「やがて深い眠りへと」「濃い暗闇へと」「落ちて行く」「――」
 「北の地にある」「長い夜の支配する」「幸福な町の」「安閑な巷の」「それが私たちの見た」「聞いた」「物語である」

「そうして私たちは」「東の地で」「太陽の昇る先で」「一つの流れる」「生きた」「黄金色の星が」「光をまとった星が」「地に墜ちるのを」「見た」
 エントは雨たちの言葉に足をとめ、篠つく雨に向かって問いかけた。
「お前たちはあの星を見たのか? 世界を巡る大いなる旅人よ」
「私たちは」「私たちは」「確かに」「それを見た」「聞いた」「眩い光が」「空を赤熱させ」「光輝を放ち」「夜を切り裂いて」「闇に傷痕をつけて」「この地上へと」「降りてくるのを」
「それなら是非、教えて欲しい」
 と、エントは大声で叫んだ。
「その星とはどのようなものだったのか。また、どのような理由でこの地へとやって来たのか」
 雨たちはしばらくのあいだ何も答えなかった。無数の滴が地を打つ音だけが、淡彩の音楽を奏でていた。
「それは」「私たちには」「与り知らぬこと」「関わらぬこと」「私たちはただ」「ただ」「見る」「聞く」「だけのもの」「物事に」「意味を綾なすのは」「物語を読みとるのは」「お前たち」「人の仕事」
 エントはなお、フードの下から顔を上げ、雨たちの真意を読みとろうとした。だが雨たちはもう、それ以上の言葉を語ろうとはしなかった。黒雲はいつのまにか薄墨色へと変わり、雨足は急速に衰えつつあった。
 雨たちはその長い旅を終えたのだ。あるいは、次の旅をはじめたのか……
 乾いた南風が吹きはじめ、陽光と蒼穹が再び空へと戻ってきた。風は塵でも払うようにして、わずかに残った雲たちを西へと追い散らそうとしている。
 エントがフードをとり、ふと道を振りかえってみると、そこにはたった今生まれたばかりの虹が、燦然と輝いていた。

 かつてエントは、オノル師から話を聞かされたことがある。
 それは僧院の長として、グルガ・ノトゥシマと称されることもあるオノルが、どのようにして僧門の道に入ったか、ということだった。
 若い頃のオノルは、今からは想像もつかないような放蕩無頼の徒だったという。幼少の砌、両親に捨てられた彼は、自然とその道の人間と親しくなった。それは無理からぬことでもあったのである。
 盗み、詐弁、強請り、誘拐、さらには人殺しまでも。彼はそうしたことを、別段罪だとは思わなかった。それは生きるのに必要なことだった。オノルにとってそれは、呼吸や、食事や、睡眠と同じことで、誤りなどとは思いもよらないことだったし、またそうしたことを論議するような人間もまわりにはいなかった。
 およそ考えうるかぎりの悪逆非道を尽くした彼だったが、ある時しくじりを犯した。ある町で強盗を働き、兵士から逃げる途中、崖から滑り落ちたのだ。仲間たちには誰一人として彼を助ける者はなく、追手から少しでも逃れるべく駆け去っていった。
 オノルは転々する視界と滑落する体をどうすることもできないまま、深い谷底へと落ちていった。途中、何度も岩角へとぶつかり、意識はすぐに闇へと消えた。
 次に気づいたとき、オノルはベッドの上にいる自分を発見した。全身がばらばらになりそうなほど痛んだが、傷口には包帯が巻かれ、各所に治療の跡があった。しかしオノルが次に考えたのは、ここから逃げなければ、ということだった。
 オノルはベッドから降りようとして、無様に床へと落下した。衝撃で骨が砕けるような痛みが走った。彼はそれでも呻き声一つたてはしなかったが、その音を聞きつけたらしく、家の人間がドアを開けて現れた。
 それは、グルガ僧の男だった。僧服をまとい、髪も髭も霜の降りたように白くはあったが、その鋭い目や力の強そうな手は、老人というほどの年齢には見えなかった。青虫のように腹ばいながら、なお獣のような目で自分のことを見つめるオノルを見て、彼はただわずかに眉をひそめただけだった。
 彼がオノルに近づこうとすると、オノルは瀕死の人間とは思えないほどの強さで叫んだ。「俺に触るな!」
「――お前は怪我をしているのだ」
 と、彼は穏やかな声で言った。
「体を痛め、ひどく弱っている」
 それから彼は、オノルを抱きあげてベッドへと戻した。どれだけ威勢のいい声を出したところで、オノルには指一本動かす力さえなかった。彼は無抵抗で男のなすままに任すしかなかった。
「お前は俺が誰だか知っているのか?」
 オノルは相手に噛みつかんばかりの勢いで訊ねた。
「いや、知らんな」
 と、男の態度はそれでもまったく変わることがなかった。
「つい数日前、ある町で商家に押し行っては金を盗んでいた無法者たちがいる。その連中の一人が俺だ。屋敷から逃げだすとき、邪魔な使用人を一人、殺してもいる」
「お前は崖の下に、ひどい傷を負って倒れていた。私はそれを助けたにすぎん」
「ここはどこだ? きっと役人どもがすぐにでもここにやって来る。そうすれば、お前は俺を奴らに引き渡すだろう」
 ちょうどその時、家の扉を叩く音がした。オノルはぎょっとして、寸時傷の痛みを忘れて身を固くした。司直の手に捕まれば、縛り首は免れない……
 男は立ちあがり、部屋をあとにした。玄関らしい場所で、何か話しているのが聞こえた。だが遠すぎて、オノルにはよく聞こえない。まるで体を少しずつねじ曲げられていくような、そんな時間が流れた。どちらにせよ、この体で逃げることなどできはしない。オノルはただじっと、その感覚に耐えた。
 やがて男が部屋へと戻ってきた。だが予想とは違って、男は一人だった。男はイスを動かして、オノルの前に座った。
「今のは誰だったんだ、いったい?」
 オノルは青い息で言った。
「近くの村に住む役人だ」
「何を話した……?」
「このあたりで盗人が一人、崖から転落した。もしかしたら、何か知っていないか、と」
「それでお前は何と答えたんだ?」
 オノルの問いに、男は少しだけ間をあけてから答えた。
「何も見ていないし、何も知らない、と」
「何故だ」
 オノルの声は、まるで男を責めるかのようだった。
「俺は悪人だ。普通の連中は俺を見て顔をしかめる。こそこそ嫌な話をする。今すぐにでも死んでくれという目つきで俺を見る。なのに、何故あんたはそうしなかった」
「お前は傷つき、弱っている」
 と、男は最初の言葉を繰り返した。
「ただ、それだけのものにすぎない」
 オノルは言葉に困るように口を噤んだ。それから、迷ったすえにようやくといった感じで次のことを訊ねた。
「お前はグルガ僧なのか?」
「――いや、違う」
 男の応答はそれだけだったが、何故かそれ以上の質問をためらわせるような、圧力の高い緊張を含んでいた。
 それから、オノルは男の家で暮らすようになった。最初は傷さえふさがれば出ていくつもりだったが、体が動くようになるにつれ、彼は家の仕事や、細々としたことの手伝いをするようになった。男はそんなオノルに対して何も言わなかった。感謝も不満も、出ていけと言うことも。
 男は一人暮らしだった。家は――というよりそれは、小屋といったほうがいいような慎ましやかなものだったが――人里から離れた谷にあって、必要な物はたまに訪れる商人と交換した。食料は主に斜面の畑で作られ、罠をしかけて兎を捕まえたり、川で魚を釣ったりした。
「何故、こんなところに一人で住んでいるんだ?」
 オノルはある時、訊ねてみた。それに対して、男は短くこう答えるだけだった。
「私がそう望んだからだ」
 二人での生活に、オノルは次第に慣れていった。はっきりとはわからなかったが、男のほうでもそうであるようだった。たまに冗談を言うと、男は愉快そうに笑った。もう何年も、そんな面白いことなど耳にしなかったというように。オノルは笑ったときの男の顔が、ひどく柔和なことに驚いた。
 男の一日は、主にグルガ僧のそれとして過ごされた。すなわち、朝昼晩の礼拝、経典の読誦、告解、折々の祈り、教えに従った所作、作務。
 そんな男を見て、オノルは何度か同じ質問を繰り返した。やはり、あんたはグルガ僧なのか、と。
 だがそれに対する男の答えは、いつも同じだった。「違う」と。
 それでも、敬虔な男の態度に感化されたのか、オノルはグルガに対して興味を持ちはじめた。以前の彼にとって、僧侶といえばただ空言を論じるだけの、中身のない人形にすぎなかった。彼らの言うことは現実にそっておらず、虚しい妄言だった。だがこうして男と一日暮らしてみると、グルガの教えんとするところが、オノルにもかすかにわかりはじめていた。
 教えを乞いたいと言うと、簡単に許可された。一日の日課の中に、授業の時間が加えられた。男は丁寧に、何より根気よく教授した。オノルが不真面目に、集中を欠いていたとしても、それは理解の道筋がまだ整っていないのだと、決して腹を立てなかった。
 やがて季節は巡り、数年の時がたった。オノルの理解は進み、教えることも少なくなっていった。彼は以前のように短気を起こすことも、世を憎み謗ることもなくなっていた。自分の罪を知るとともに、人々を憐れむことも覚えた。
 そんなオノルに対して、男は満足そうだった。相変わらず男が自分のことについて語るのは少なかったが、オノルにしても、それはもう気になることではなかった。日々はあくまで静かに、穏やかに流れていった。
 だがそんな日々にも終わりは来た。ある日、男は病に倒れたのである。高熱を発し、四肢の先は黒く変わった。オノルの必死の看護も空しく、容態が回復する兆候は見られなかった。
 オノルはグルガの教えに従って、強く祈りを捧げた。行を重ね、教を誦した。できることは何でも行った。
 しかし、男は死んだ。
 死の直前、男の意識は意外なほど明瞭し、オノルに向かって語りはじめた。それは、彼の秘密についてだった。
「私はお前に、私はグルガではないと言い続けてきたな」
 男は臥所の上から、息をするのさえ辛そうに言った。
「そのことはもういいのです。私にとって、あなたは真正のグルガだった」
 オノルは男の言葉をそっと押さえるように言った。
「いや、私は確かにグルガではないのだ」
 男はなお、頑是ない子供のように口を閉じようとはしなかった。そして、次の言葉を続けた。
「私は、破戒僧なのだ」
 オノルは静寂を労わるように沈黙した。そのことは、薄々感づいていたことでもあった。グルガの教えを知るにつれて、男が破戒者としての印を常に身につけていることを、オノルは嫌でも気づかずにいられなかったのだ。
 だがいかなる事実があったとしても、彼に対するオノルの敬心が揺らぐことはなかった。
「そのことについては前々から気づいていました。ですが、やはり私にとって、あなたが最高のグルガであることに変わりはありません」
 オノルは真実そう思いながら、励ますように言った。
「……私が破戒僧になったのには、理由があるのだ」
 男はオノルの言葉が聞こえなかったかのように続けた。
「どのような理由ですか?」
 と、オノルは問うた。男はどこか遠くを見るように言った。
「それが、私に下されたフィージョだったからだ」
 オノルはその言葉に驚いた。フィージョを守ることは、グルガにとってもっともその教えに従うことを意味する。だが、教えに従うために、それを捨てるとは――
「それはあまりに馬鹿げたことです。矛盾しています」
 と、オノルは相手の病身も忘れ、思わず叫びだしてしまった。
「私はそうは思わんよ」
 男はあくまで穏やかだった。そう、初めて会ったときからそうだったように。
「フィージョの本当の意味を、我々が推しはかることはできない。天空や、星や、水や、風の意味を知ることができないように。それはただ、そうであるというだけのものにすぎないのだ」
 そう言われ、オノルはいかなる言葉も返すことはできなかった。いや、どんな応えをすることができただろうか。もっとも敬虔な、破戒僧。例え何者であったとしても、この男に意見することなどできはしなかった。彼の存在は、そのようなところから遠く離れた場所にある。
 やがて、男は死んだ。最期の時には、その苦しみは少なかった。死顔は穏やかだった。彼の死を聞いて、大勢の村人たちが悼み、墓を作ってくれた。オノルは彼のことをあらためて理解できたような気がした。
 そしてオノルは、そのとき忽然として己のフィージョに目覚めた。それは、彼を生かすことだった。その男を、教えを守るために教えを捨てた男のことを、記憶し続けることだった。彼のことを思い、彼の思いを感じ、彼があたかも在るようにし続けることだった。彼を糧とし、人々に善き影響を与えられるようにすることだった。
 オノルはグルガとして旅立ち、やがて僧院を作った。
 それが、エントがオノルから聞かされた話だった。

 エントは森の中を歩いていた。夕暮れ時の迫った森は、ゆっくりと暗闇の中へ沈もうとしていた。道のそばを離れて木立のほうへと近づくと、そこからはすでに夜の世界が続いていた。
 湿った土の道を歩きながら、エントは自分のフィージョについて考えていた。それには、どんな意味があるのだろうか。それはどんなふうに、自分を変えてしまうのだろうか。
 いや、もしかしたらそこには、何の意味も変化もありはしないのかもしれない――
 地面は染料でも流しこまれたように、薄い茜色に変わりつつあった。影がエントをからかいでもするようにずっと先までのび、夕闇が空から降りはじめている。
 ふと、エントの耳に何かが聞こえた。
 それは最初、何かの間違いのように思えた。ただ森の寂しさや、ゆっくりとやって来る死のような暗闇がそう思わせただけの、聞き間違いかと。
 だが足をとめ、耳を澄ますと、それははっきりと聞こえてきた。
 はじめは囁くような、小さな音。それは兎が駆けまわるような、小鳥が羽ばたくような、ささやかな前ぶれを告げる音。軽快なリズムと、明るい音色が連なる前奏。
 それは、音楽だった。
 音はすぐに大きくなり、もはや聞き間違いとは言えなかった。何もない森の中で、奏者もなく、ただ音楽だけが響いていた。エントは目を閉じ、耳でその音を聞きとることに集中した。
 軽やかなはじまりの旋律は、次第に賑やかさを増しつつあった。いくつもの楽器の音が加わり、それらは混じりあい、時に弾けあった。音の糸はからみあい、思いもよらない模様を織りなした。風が木々を揺らすように、水滴が草の上に落ちるように。
 やがて音は、いくつもの川の流れが合流するように高らかに鳴り響きはじめた。それは世界を祝福し、慶賀した。和音は限りない美しさで連なり、響きの隅々までに清澄な輝きが満ちていた。
 エントは自分でも知らないうちに、目を閉じたまま足を進めていた。その音楽が導く先へと向かうように。
 弦楽器は力強い哀切を奏で、打楽器は調子よくテンポを刻んだ。管楽器は朗々と世界を揺さぶり、それらのシンフォニーが木漏れ日のように複雑な、けれど調和した音曲を作りだしていた。
 やがて音楽は高まり、クライマックスを迎えた。すべての楽器はただ一点を目指して力をあわせ、いまや耳を聾するばかりの歓喜を歌った。すべては光に変わり、まばゆく輝きだした。それは黄金の魔法だった。
 最後の音の響きがゆっくりと空中に解けていくと、森は元の静けさを取り戻した。けれどその静けさには、以前とは違った様子があった。透明な水の中に、何かを溶かしこみでもしたかのように。
 しばらくしてエントが目を開けてみると、すでに紫色の闇があたりを覆っていた。空気はいつのまにか冷やりとした感触を漂わせ、夜はその気配を濃くしつつある。
 音楽はもう、どこかへ去ってしまっていた。

 夜の荒野には、見渡すかぎり誰もいなかった。赤茶けた砂の大地には石ころが転がるばかりで、小さな草木一本生えてはいない。所々に巨人の置き忘れたような高い岩の塊があって、それがはるか彼方まで続いていた。空にかかった月は、骨に似た白さでそうした景色を照らしていた。
 エントはただ一人、その荒涼とした景色の中を歩いていた。土は乾き、生命の温もりはどこにもなかった。神が創造の手を中途で放棄したような、寒々とした世界だった。
 薄いサンダルはすでに破れ、ほとんど物の用には立たなくなっている。砂礫の地面は素足で歩くのに適当とはいえず、エントの足は皮が破れ、肉は裂け、血を流していた。とはいえ、その痛みの感覚さえいまや鈍り、エントはただひたすらに歩き続けている。
 空には星々が輝き、その輝きは地上のことなど知らぬげに笑っているかのようだった。
 どれくらい、そうして歩いていただろうか。
 エントがふと気づくと、そこには竜がいた。竜は大地に横たわり、ひどく疲れた様子でその小高い丘ほどもある体を丸くし、地面に首を垂らしていた。彼の体は素焼きの器のような、艶のない白い鱗で覆われ、所々に緑の苔が生えていた。その鱗はいたるところで鋭い傷を追い、その下にある灰色の肉がのぞいていた。
 竜はひどく弱っているようだった。
 そっと、エントが近づくと、竜はその瞳を開いた。横を向いた竜の瞳は金色で、縦に裂けた瞳孔は地の穴を思わす深い闇を湛えていた。
「竜よ、この世の偉大な獣よ。何故あなたはこのような荒野の中で、そのように身を横たえているのですか」
 エントは朗々とした声で訊ねた。
 竜は眠りにつくような緩慢さで数度、瞬きした。その瞳の表面は確かにエントの存在を認めていたが、その奥で何を考えているのかはわからなかった。
 ややあって、竜は言った。
「私はもうすぐここで朽ちはてようとしているのだ、小さき者よ」
 エントは重ねて訊ねた。
「何故ですか? 竜とは不死のものだと聞いていました。それは永遠に地上を治める王だと」
「この世に永遠であるものなどない。すべてのものはその常理に従って滅ぶべきものなのだ」
 竜が言葉を発するたびに、その鼻からは硫黄臭い蒸気が上がった。
「確かにあなたの言うとおりです」
 エントは深く同意を示したのち、言った。
「ですが、竜もそうだとは知りませんでした」
「所詮、竜といえどもこの世界の存在にすぎない。私も世界に含まれた一部でしかないのだ」
「しかしあなたには強い腕があり、自由な翼があります。何があなたをこれほどまで傷つけるというのですか?」
 竜はしばしのあいだ、沈黙した。星たちは定められたぶんだけ、その位置を変えた。
「――よかろう、小さき者よ。私がどうしてこのような場所で朽ちはてようとしているのか、その理由を教えてやろう」
 そうして竜は、エントに向かって語りはじめた。

 …………

「私が生まれたのは、この世界のもっとも深い場所、すべてが熱と光になって混淆するところだった。ある時、私は私の存在を知覚し、その意識がより集まって結成した。
 最初、私はごく小さなものにすぎなかった。その大きさは砂粒ほどしかなく、どれほど鋭い目をもってしても私を認知することはできなかっただろう。だがその粒は非常に硬く、稠密で、決して破砕するようなことはなかった。
 長い時間をかけ、私はゆっくりと育っていった。砂粒ほどから、小石ほどへ。小石ほどから、岩塊ほどへ。私の意識は最初から今と同じようにあり、五体はすでに整っていた。私はただ夢を見るようにして、私の体が成長するのを待った。
 私にとって、私のまわりにある火は温かく、光は心地よかった。それは滋養ある母乳であり、快適な揺り籠だった。私のまどろみはあくまで深く、平和だった。
 やがて私の体は、地のどの獣より大きいものとなった。鱗は硬く、銀色に輝いた。手には強い爪を持ち、自在に動く翼があった。眠りは浅くなり、突き動かされるような衝動が内心に起こった。私は揺籃の地を離れるべきなのを知った。
 私は火の海を手で掻き、足で打った。魚類のように尾をしなわせ、上方を目指した。進むにつれて、私は火と熱が弱まるのを感じた。その先に何が待っているのかは、私の意識にぼんやりとした抽象があった。だが現にこの目で見るまで、実際はわからなかった。
 火の海のごく浅い場所、それが激しく噴きだすところまで私はやって来た。火と熱は薄まり、代わりに別のものの気配が濃くなった。私は流れに従い、地上へと飛びだした。
 その瞬間、私は今までとはまったく違うところにいた。そこには火と熱の代わりに、風と空気があった。光はずっと弱まり、散逸し、透明だった。私は碧空のただ中にあって、今まで想像だにしなかったような色彩の氾濫に巻きこまれた。空のさらに上方には、私の生まれたところよりももっと強い火と光にあふれた球体が浮かんでいた。私は軽い眩惑を覚えた。
 私の翼は火の海を泳いだのと同じに、風の海を泳いだ。どうすべきはすでに知っていた。粘性の低いその風の中で、私はもっと速く泳ぐことができた。私は自在に飛んだ。
 はるかな空の高みから、私は地上を見下ろした。そこには緑があり、水と呼ばれるものがあった。隆起した大地は山塊となり、それが途切れたところからは醒めるような青が広がっていた。いたるところに小さな生き物たちが蠢動し、中でも人間と呼ばれるものたちは大勢が群居し、町や村、畑、橋、そのほか面白いものをいくつも作っていた。私はその千変万化を見て、体中から興奮が渦のように集まるのを感じた。私は叫び声を上げた。それは火となって噴きあがり、この地上における私の誕生を祝った。
 しばらくのあいだ、私は気の向くままに空を飛びまわった。私はさらに珍しいものをたくさん見た。それぞれが七色に染まったいくつもの湖、尖った針のようになった奇岩の群れ、尽きせぬ嵐に襲われる砂漠の地、極北に舞う虹色の揺らめき、私が飛びだしたのと同じように火の水を湧出する山々。
 だがそのような放浪にも、私は飽きはじめていた。私の中で、何かが不満の声をあげていた。それは何かを求め、絶えず私を刺激した。正体のわからぬ渇仰が、私を突き動かした。
 私は一つの山に降り、そこで暮らすことにした。求めるべきものはいまだに不明だったが、私は何故かそうすべきだと思った。私の使命、この世に生まれた理由とでも言うべきものが、ここにあるのだと。
 峰を飛び、あるいは斜面を匍匐し、私はそれを求めまわった。まだ何と呼ぶべきかも知れぬ、だが確かに私が見つけるべきものを。
 そうしてとうとう、私はそれを発見した。
 遭遇の瞬時に、私はそれを何と呼ぶべきなのかを理解した。
 ――敵
 それは、そう呼ばれるべきものだった。私はずっとそれを求め、待望していたのだ。私を激しく衝動していたのは、自分の力を振るうべき相手を希求する心だった。
 私の敵は、私と同じ格好をしていた。すなわち、相手もまた竜だった。その竜は私より体が大きく、歳をとっていた。鱗の輝きは幾分鈍り、爪の一つは半ばから折断されていた。よく見ると、全身に細かな傷を負っていた。
 私たちのあいだに、言葉はなかった。咆哮だけが戦いのはじまりを告げた。私たちは相手を純然たる敵として認識した。そこに慈悲や容赦の入る余地はなく、また必要もなかった。そこには単純があった。この世の何よりも至誠で、混濁のない動機が。
 私たちは炎熱を吐き散らし、鋼鉄より鋭い爪を閃かした。翼を打って空をかき乱し、大地に数多の痕を穿った。崖を崩し、森を薙ぎ、草を焦がし、池を干上がらせた。生き物たちは逃げ惑い、あるいは炎にまかれて焼け死んだ。
 争闘は三日三晩に及んだ。その竜は年長け、知恵において分があったが、若さと力においては私が勝っていた。そして結局は、それが互いの勝敗を分けた。戦いが長びくにつれ、情勢は次第に私の有利となった。
 そしてとうとう、決着の時がやって来た。
 雲がバラ色に輝く、美しい朝だった。私は相手の首を押さえつけ、その喉を切り裂いた。血があふれ、地上を濡らした。その瞬間、すべてが荘厳な静寂に包まれ、太陽が勝者である私を照明した。
『お前の勝ちだ、若き竜よ』
 その竜は平穏の声で言った。そこにはどんな恨みも、苦しみもなかった。彼は微笑みさえしていた。
『これからはお前がこの地の王だ』
 そして、竜は死んだ。
 私は勝利したものとして、高らかに咆哮した。その声の轟によって、地上のものたちはみな理解した。今、新しい王が樹ったのだと。彼はまた殺害者でもあった。古き王はついに、殺められたのだ。
 咆哮を終えるとともに、私は空へと飛びたって私の君臨する地上を見下ろした。その地に根づくものすべてに対して、新しい王たるものの姿を披瀝するために。生き物たちはみな頭を垂れ、草木や石の一欠片さえ私に従属した。
 王たる私は、時に無慈悲の暴君となり、時に寛恕の慈父となった。気ままに灼熱を吐き散らし、木々を踏みしだき、生き物を食らうこともあれば、雲を呼んで恵みの雨を降らし、山を荒らす小賢しい人間どもを追い払い、川の氾濫を抑えることもあった。王たる私に許されぬことはなく、また常にそうあらねばならなかった。
 数年の時が経過した頃、私は眠りの中である気配を感じた。その感情は、とてもなじみのあるものだった。それは私を刺激し、昂ぶらせた。血が湧きかえり、肌の隅々までが波立った。
 私の敵が、すぐそこまで迫っているのだ。
 ねぐらとしていた洞を抜けだし、私は空を見上げた。上空は雷雲に覆われ、とめどない雨が地上へと降り注いでいた。突風が雨滴を巻き上げ、生き物のようにうねりを作った。昼だというのに、世界は全体が灰色の薄闇の中にあった。
 一瞬の電光が、敵の姿を浮かびあがらせた。それは竜だった。私と同じくらいの、若い竜だ。その体はまだ傷一つなく、鱗は銀色に輝いていた。
 私がその竜を敵として直覚したように、その竜もまた私のことを敵だと覚知していた。
 今度もまた、私たちのあいだに言葉はなかった。ただ自然が暴威を振るうがごとく、私たちは組みしきあい、互いに炎を浴びせかけた。雨は宙空で蒸散し、雷鳴が呼応するかのように激しく音を立てた。
 私たちの力はほとんど互角ではあったが、戦闘の経験において私には一日の長があった。戦いは一週間ほどにも及んだが、結局は私が勝利した。私の爪がその竜の左眼を裂くと、長い闘争も終わりを告げた。
 その竜は全身に傷を負いながら、いずこともなく去っていった。運がよければ、どこかで傷を癒すこともできるだろう。そうでなければ、血を流し、どこかで野垂れ死に、その体は土に、その魂は再び生まれた場所へ、あの熱と光の深部へと還っていくだろう。私はそう思っていた。
 そうして同じように、私は王として何匹もの竜と戦いを繰り返した。あるいは僥倖によって、あるいは辛苦の末、私は勝利を重ねていった。殺害者たる新しい王はいまだ現れず、私は次第に古い王となりつつあった。
 だがある日、それも終わりを告げた。
 その竜が現れたのは、最初に出会ったのと同じような雨曇りの日だった。私はすぐさま、それがあの時の竜だと認識した。その左眼には、私がつけた爪痕が灰色の跡になってくっきりと残っていた。
 私たちのあいだにはやはり言葉はなかったが、この邂逅に対して様々な想いは巡った。私たちは互いにそれを感じ、そのことを理解しあった。
 戦いは、しかしそのようなこととは関係なく行われた。
 放浪の末、その竜は様々な経験を身につけ、力と技を蓄積していた。一方で私は、長きにわたる争闘によって傷つき、故障を抱えていた。炎は力を失い、以前のような闘志が身内から湧くこともなかった。
 だがそれでも、私は王だった。王として最後まで振るまう責務が、私にはあった。
 その戦いは、それまででもっとも長きにわたった。はじまりは、雪の降る朝のように静かに行われた。それは徐々に激しさを増し、私たちは互いを引き裂き、啖らいあい、焼きあった。肉が削がれ、血が飛んだ。私たちはそれまででもっとも獰猛で、仮借なく、残酷だった。私たちは微笑みさえした。
 永遠とも思われた戦いにも終わりはやって来た。私にはもうどんな力も残っておらず、地に倒れ伏した。私の口からは弱々しく煙火が上がるばかりだった。もはや指先一つ動かすこともできなかった。
『これからはお前がこの地の王だ』
 私はかつて言われたのと同じ言葉を口にした。それが常理というものだった。殺した王はまた、殺される王でもある。
 だが結局のところ、その竜が私を殺すことはなかった。
 彼は私に最後の一撃を加えることなく、私を放置した。それはあたかも敗者への無用の憐憫や、勝者のいわれなき驕慢のようにも思えた。だが本当のところ、それは違った。彼は私に最後の自由を許したのだ。自分で自分の死に場所を決めるという自由を。
 わずかな力を取り戻した私は、死地を求めて飛びたった。空はあくまで青く、風はあくまで優しかった。失地の王として何の権威もなく彷徨う私に対しても、世界はなんら変わるところを見せなかった。
 やがて私は住むものとてない荒野を見つけ、そこに降り立った。ただ最後の時を、静寂と安穏のうちに迎えるために。
 だから小さき者よ、お前もまた私をここで静かに死なせるがいい」

 エントの前には今、茫漠とした海が広がっていた。薄まりかけた夜の下で、その海は白い波濤を翻し、強い風が耳を裂くような音を立てて吹いていた。砂浜には絶えず波が噛みつき、得るものもないまま空しくそれを繰り返していた。
 東へと向かうことは、もうできなかった。
 エントは海岸線に沿って、しばらく歩いてみた。砂浜はどこまでも続き、はるか彼方で崖によって遮られていた。けれど、それが東へと向かう様子は見られなかった。
 ただ疲れた人のように、エントは波打ち際に座りこんだ。足は傷だらけになり、痩せ細った体は思うように動かなかった。これまでの道筋がまったくの無駄だったことを思い、エントは大きな脱力を覚えていた。
 波音が、飽きもせずに繰り返している。手の下で、砂は柔らかく崩れた。雲は急な速さでどこかへと流れていく。
 エントはただ、自分の中の空疎を感じていた。それは埋めることのできない空洞であり、不可触の質量だった。
 それからしばらくして、エントはふと何かに気づいて立ちあがった。自分でもよくわからない衝動に従って、彼はなお病みつかれたもののように足を踏みだした。覚束ない足どりで、彼は数歩の距離を進んだ。
 そこには、星が埋まっていた。
 エントはその星を拾いあげ、手の平に乗せた。砂を払い、じっと見つめた。それは黒茶けた、何の変哲もない岩石にすぎなかった。夜空を流れたときのように光輝いてもいなければ、貴石のように美しくもなかった。それはただの――石ころだった。しかし、それがあの時に東の地へと流れた星に間違いなかった。
 海岸の向こうから、太陽が昇りはじめていた。それは生まれたばかりの光であたりを照らした。石を両手に抱えたまま、エントはただ静かにその石を見つめた。
 だが、石は何も語らなかった。
 星の海で誕生したときのことも、漆黒の闇の中をはるかに旅してきたことも、最後の瞬間に美しい光輝を放ったことも、いかなる運命によってこの地にやって来たかも、何も。石は何一つ語らなかった。
 エントはじっと立ちつくしたまま、ただ静かに石を見つめた。石はただそこにあるだけだった。何の変化も、予兆もなく。
 夜明けがゆっくりと広がりつつあった。海と空は青さを取り戻し、雲と砂浜は白く変わろうとしている。
 それから、エントはこれ以上ない明確さで悟った。
 フィージョはまだ、終わってはいないのだ。星を探しあてることは、決してその終わりを意味するものではなかった。自分はまだ何も変わってなどいない。ここまでの旅は、ほんのきっかけにすぎない。むしろこれから、フィージョははじまるのだ。
 エントは顔を上げ、昇り続ける太陽を見つめた。それは白い光でエントの眼を貫き、新しい力をその体に与えた。

 ――エントは再び、旅を続けることにした。

――Thanks for your reading.

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