[星と月と太陽と]

 冬の街は、徐々に暮れかけていました。
 西から夕日の赤い光が差しこみ、道行く人の姿を一様に染めあげます。誰もが寒くないように厚着をし、白い息を吐きながら歩いていました。人々はそれぞれの帰り道を急ぎ、馬車が道路の真ん中を音を立てて通り過ぎていきます。
 そんな街の通りを、一人の少年が歩いていました。
 彼はいかにもその場にそぐわない、薄汚れた格好をしていました。泥のついたニット帽に、丈のあわないコート、糸のほつれた手袋に、親指の先に穴の空いたブーツ。お世辞にも、それは上品な格好とはいえません。
 けれど、寒さのためにかすかに赤く染まったその頬は、あくまで滑らかで、帽子からわずかにのぞく髪は、雪の白さを思わせる金髪、その瞳は星空を映したような、深く透明な黒色をしています。
「ああ、お腹すいたな(イート、ヴァレル・ウィス・フリロ)……」
 少年はこの国の言語ではない、そんな言葉をつぶやきました。道行く人の誰も、そのつぶやきに気づく者はありません。
 石畳に響くカツカツという靴音、道路を走る馬車のガラガラという車輪の音、幸せそうに談笑する人々のザワザワという声の気配。
 それらはまるで、少年とは別の世界の出来事のように通り過ぎていきます。
 辺りは段々と暗くなりはじめ、建物や街頭には明かりが点りはじめていました。
「ああ、お腹すいたな(イート、ヴァレル・ウィス・フリロ)……」
 少年は疲れた足を引きずりながら、もう一度つぶやきます。
 その時、不意に食べ物の甘いにおいが少年の鼻先に漂ってきました。少年は足を止め、においのしたほうに顔を向けます。
 それはこの国によくあるオープンスタイル(クリルミーチェ)のレストランでした。さすがに外で食事をしている人はいないものの、中からは明るい光と香ばしい食べ物の匂いが漂ってきます。
 少年は雑踏を抜け、ふらふらと誘われるようにそちらへ歩いていきました。まるで夢でも見るような、それは不確かな足どりです。
 入口のところに立つと、中にはテーブル一杯に人が座り、おいしそうな食べ物を口にしていました。白い湯気の立つスープ、新鮮なサラダ、柔らかく香ばしいにおいのする肉類(レクス)。
 知らず知らずのうちに少年のお腹が鳴り、口の中一杯につばがたまります。空腹に耐えかねて、少年は一歩、店内に足を踏み入れました。
 すると途端に、激しい衝撃を受けて少年は後ろに転びます。地面に体を打ちつけられ、冷たい石畳の感触が頬にありました。
 少年が怯えるように見上げると、そこには逆光を受けて黒い影のようになったウェイターの姿がありました。彼は口早になにか罵るような言葉を少年に吐きかけ、威圧するように店の戸口に立ちふさがっています。店内では、入り口付近の客達が何事かと二人のほうをうかがっていました。
 男の言葉のほとんどは、少年には分からないものでした。けれど刺すような敵意と、汚物を見るような不快感を男が持っていることは分かります。少年は怒る力さえなく、すごすごとその場を後にしました。
 街には相変わらず、明るい光とにぎやかな人通りが続いていました。

<陽が沈み、藍色になった空の上から、一番星(キリル)が少年をのぞいています。今しも、少年は心ない男の罵倒にあって、力なく歩きはじめたところでした。
「ああ、なんて可哀そうな少年なんだろう!」
 と、一番星は思います。
「あの少年は言葉も通じないこの異国の地で、たった一人きりでいるしかないのだ。彼がこの街の人々から得られるのは、温かい飲み物や美味しい食べ物ではなく、慈悲なき罵りと乱雑な扱いだけ。彼には寒さを避ける場所もなく、身を温めるだけの衣服もない。彼には孤独を分けあう仲間もなければ、心和む団欒を交わす家族もない。彼はこの冷たい街の中で、あまりに一人だ。――ああ、なんて可哀そうな少年なんだろう!」
 一番星はそう思って、涙を一粒流しました。>

 街にはゆっくりと、雪が降りはじめていました。
 空はすっかり暗くなり、それにともなって寒さはいっそう厳しさを増していきます。家路を急ぐ人々の足は速まり、短い喧騒が町にあふれていました。
 そんな中で、少年は飢えと寒さ、それに考えるのさえ面倒になるようなひどい疲労感から、もう一歩も動けなくなっていました。
 彼は暗い路地の一つに入り、建物の陰に身をひそめ、座りこんでしまいます。
 そこでは街のざわめきと光はわずかに遠ざかり、雪の降る気配だけが静かに伝わってきました。
 少年はそのまま眠ってしまいそうな、ひどい疲れの中にあります。
(みんなどうしたんだろう……)
 と、少年はおぼつかない頭で考えてみました
 少年の故郷は、この国のはるか北の地にありました。痩せた土地と雪に支配された、貧しい、けれど美しい大地です。タイガの森は何ものにも増して力強く、広大な野辺に沈む夕日はどこまでも雄大で、厳しい地に根づく生き物たちは、どれも凛として気高くありました。人々は互いを思い、慈しみ、母は子を、男達は仲間を、女達は家族を、何よりも愛していました。
 狩りで獲れるトナカイ(リクル)はみなで分けあい、子供らは釣りで得た魚を暮らしの助けとし、女達は毛皮や魚から暖かい衣服や靴を作りました。炉辺を囲んではみなで話に興じ、他愛のない日常やお伽噺に耳を傾けあいます。
 少年が暮らしていたのは、そんな平和な北の大地でした。
 けれどいつ頃からか、南の都から商人達がやって来るようになりました。彼らはこの地で取れる黒貂の毛皮や鮭に目をつけたのです。商人達は甘言をもって北方人(ウェルグスト)にとりいることから始めました。
 彼ら北方の人々は、商人達のやり方に対してあまりに無知でした。商人達が無償で持ってくる珍しい品々――彼らにとっては、ということですが――に心を許し、警戒することをしませんでした。
 そうしてすっかり油断させておいてから、商人達はあっという間に彼らから土地と、財産を奪ってしまったのです。
 彼らは何も知らされぬまま、土地を追われ、親子離ればなれになって南に送られることになりました。そうしていくつもの村が、南からの植民者にとって変わられたのです。
 少年が住んでいた村がそんな目にあったのも、つい最近のことでした。
 村人達は男・女・子供に分けられ、狭い馬車に押し込められて、南へと連れて行かれました。少年も同じ年頃の子供たちと一緒に、暗い荷馬車の中へと押し込まれます。
 馬車の中からでは、外の様子はまったく分かりませんでした。
 子供達は誰もが不安と、恐怖に怯えていました。家族から引き離され、行く先も知らされず、こんな狭い場所に閉じこめられているのです。小さな子供達はしくしく泣き続け、それより大きな子供たちも、一様に口を閉ざしていました。
 一週間ほど、粗末な食事を与えられて旅を続けると、彼らはある朝、大きな町にたどり着いていました。
 どうやら子供達は、そこで別の馬車へと移されるようでした。けれど男たちがちょっと目をはなした瞬間、子供達はいっせいにその場から逃げ出したのです。
 少年ももちろん、その中にいました。
 彼らはめいめいが思い思いの方向に、見知らぬ街の中へと散っていきました。何人かがその場で捕まりましたが、大部分の子供達はすばやく路地や通りの向こうへと姿を消します。
 少年はとっさに、すぐ近くにあった木箱の中に姿を隠しました。男達は逃げ散った子供達を追って、その前を通り過ぎてしまいます。
 ずいぶん、長い時間がたちました。
 逃げ出した子供達のほとんどは、結局警官や男達によって捕まってしまったようでした。やがて馬車は出発し、街の騒がしさも元に戻っていきます。
 少年はそれからなおしばらくたってから、慎重に箱の外へと姿を現しました。男達の姿はなく、馬車はもう遠くへ行ってしまったようです。
 明るい光に怯えるように、少年は路地を出て、街をのぞきました。
 そこには石造りの建物が冷たくそびえ、見たこともない服装の人々がひしめきあうように行きかっています。道路の真ん中をきらびやかな馬車が通り過ぎ、どこからか天をおどすような鐘の音が聞こえてきます。
 少年はまったく、呆然と立ち尽くしていました。
 見知らぬ街、見知らぬ人々――
 そこは、少年のまるで知らない世界でした。

<暗闇が覆い、雪の降りはじめた空の上から、月(アムト)が少年をのぞいています。少年は路地裏で、すっかり疲れはててしまった体を休めていました。
「ああ、なんて哀れな少年なんでしょう!」
 と、月は思います。
「これならばいっそ、あの悪辣な商人達の手にあったほうがいくらかよかったものを。そうすれば少なくとも、わずかな食料と雨風をしのぐ場所だけはあったのだから。今、風はあの子の身を容赦なくさいなみ、雪さえもがその身に積もろうとしている。けれどあの少年は、今と同じことになれば、やはり今と同じことをするのでしょう。あの子の心を占めるものは北の故郷の大地であり、あの子を動かすものは、他の何ものにも代えられない自由な心なのだから。――ああ、なんて哀れな少年なんでしょう!」
 月はそう思って、涙を一粒流しました。>

 街はすっかり暗くなって、人通りも絶えていました。
 街頭の明かりだけが虚しくその光を誇り、白い雪が静かに世界を染めあげようとしています。時折、街が思い出したように身動きして吹く風のほかには、辺りには物音一つありませんでした。
 路地裏の暗がり、街頭の明かりからわずかに外れたところに、少年はいます。
 彼はうつむき、膝を抱え、出来るだけ丸くなって寒さを避けようとしていました。もう動くことも出来ず、その体にはうっすらと雪が積もってさえいます。
 ここはなんて冷たい街――
 なんて冷たい世界でしょう――
 少年はすっかり疲れきっていました。もはや空腹や寒さの感覚さえおぼろで、自分の小さな呼吸しか感じられません。世界がゆっくりと、固く閉じられていくようでした。
 静寂が、少年の体の中にまで広がろうとしています。
 その時、少年は小さく歌を唄いはじめました。それは言葉にする力もないような、つぶやくような歌声です。

朝起きると、わたしは感謝する
 目覚めた空気に、美しい大地に、太陽の光に
 わたしは嬉しさのあまり『朝の歌(トムル)』唄い、自然の力に満ちた世界はそれに返事を返す
 世界は新しい力にあふれ、すべてを祝福する
 そしてまた、わたしは嬉しくなるのだ

 言葉にするならば、それはそんな歌でした。
 少年はかすれて、不明瞭な、力ない声で唄います。その歌に耳を貸すものはなく、雪の降る静寂がすぐにその音をすいこんでしまいます。
 けれど少年は、唄いつづけました。
 それは故郷で、母親がよく唄っていた歌です。炉端で、糸を紡ぐ母親の傍らに座って、少年はよくその歌に耳を傾けました。それは少年にとって、心地よく、最も大切な時間の一つです。
 今、ここには笑いあう家族も、温かい我が家も、仲の良い友達もいません。
 あるのはただ、誰も照らすことのない明かりと、海底に降りつもるような冷たい雪だけ。
 それでも少年は、囁くように歌を唄いつづけました。
 やがて――
 ゆっくりと世界の時間が動きはじめ、東の端からは太陽が昇ってきました。雪はすでに止み、白に覆われた世界を、新しい光がきらきらと照らし出します。
 長い夜の間に固まっていた時間は徐々にほころび、世界は新しい力に満たされようとしていました。
 そんな中で、少年は太陽の光を感じて立ち上がり、よろよろと通りに出ます。
 目覚めたばかりの朝の中に、まだ誰も姿を見せず、そこにはただ人の気配の予感のようなものがあるだけでした。
 少年はかぶさった雪を払おうともせず、まっすぐに光の中に身を曝します。
 それはどうしようもなく――

<闇が晴れ、新鮮な風の吹きはじめた空の上から、太陽(リフィス)が少年をのぞいています。少年は白い雪の中にうつぶせになって、倒れていました。
「ああ、なんと幸福な少年だろう!」
 と、太陽は思います。
「彼は新しい光の中、故郷にあるのと同じ思いで眠りについた。彼を満たすのは故郷の景色、家族の笑顔、友人達との思い出、懐かしい我が家だった。すべての忌まわしきものは去り、彼はすべての失われたものを取りもどした。彼は最も美しい世界の中にあり、世界はすべてを祝福した。新しい光と力にあふれた世界。彼はすべてに満たされて、眠りについた。――ああ、なんと幸福な少年だろう!」
 太陽はそう思って、優しく少年を照らしました。>

――Thanks for your reading.

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