1
何だか幸せな夢を見たので、今日はとてもいいことがあるような気がした。 カーテンを引いて窓を開けてみると、六月には珍しいくらいの青空が広がってる。気持ちのいい青さが目に染みこんで、吸いこむと何グラムか体の軽くなりそうな空気が街を覆っていた。まだ目覚めたばかりの景色は、どこにも汚れがなくてきらきらと静かに輝いている。 ぼくは大きくのびをして、半分眠っているような太陽の光をいっぱいに吸いこんだ。体のどこかにあるネジが巻かれて、自分の中の時間が動きだすのがわかる。一日のスタートとしては、まずまずの出来だと思う。 それからぼくは、向かいの家にある凛香(りんか)の部屋の窓をのぞいてみた。 一階部分の短いスレート状の屋根の先に、彼女の部屋の窓がある。屋根を伝っていけば簡単に行き来できる距離だし、実際にぼくたちはそれをよく使ってる。「カイとゲルダの屋根裏」と凛香は呼んでいた。アンデルセン童話にある、雪の女王からとった名前だ。 今、凛香の部屋の窓は閉まっている。カーテンも引かれたままで、密度の濃い沈黙がそこにはあった。そこではまだ、夜の時間が続いているんだ、というふうに。 ぼくの隣の家に住む森凛香(もりりんか)は、ここしばらく中学校に通っていない。 しばらくというのは、一年の終わりから、進級して二ヶ月くらいのこと。授業の単位なんかはレポートの提出で認められているそうだけど、いわゆる不登校というやつに違いはない。凛香がいつまでそうしているつもりなのか、ぼくにはわからなかった。少し前だったら、窓の外をのぞくとそこには大抵、凛香の姿があったのだけど―― ぼくはしばらくのあいだ、彼女の部屋の窓をじっと見つめていた。そうすれば、何かの拍子に姿を見せたとき、いつもみたいに挨拶ができるだろうと思って。そして挨拶さえすれば、砂時計を引っくりかえすみたいな簡単さで、みんな元通りになるような気がして。 でも凛香の家の窓は開く様子はなかったし、それは百年くらい待っても同じように思えた。 ぼくは仕方なく窓を閉めて、いつもみたいに朝食をとるために一階に向かう。 そうしてカバンを持って学校に向かう頃には、今朝どんな夢を見たのかも、うまく思い出せなくなっていた。自分がどれくらい、幸せな気持ちだったのかも。
2
清志(きよし)くんが何かを言って、教室中がどっと笑った。ぼくはぼんやりしていて、どういうやりとりがあったのか聞いていなかったのだけど、みんなと同じように笑った。清志くんがその発端なのだから、何か面白いことを言ったのに間違いはない。 今、ぼくたちは理科室で実験中だった。各班に分かれて、実験のための準備をしている。その説明で先生が何か注意して、清志くんがすかさず言葉を挟んだらしい。そういうのがとてもうまいのだ、清志くんは。 「……何かあったのか、ノブキ?」 班の何人かが実験器材を取りにいっているあいだに、清志くんがぼくに話しかけてきた。 ノブキというのは、ぼくのあだなみたいなものだ。ぼくの名前が吉秀信貴(よしひでのぶたか)というので、後ろを「キ」と読んで「ノブキ」と呼ばれている。小学校時代からの名残りなのだけど、いつ頃からそう呼ばれているのかは自分でもうまく思い出せない。 「ううん、別に何もないよ」 ぼくは努めて平静に首を振った。でも、 「嘘だろ、それ」 と、清志くんはにやっと笑う。 「さっきオレが何て言ったか聞いてなかったろ。わかるんだぜ、ちゃんとそういうの」 まいったなあ、とぼくは思う。清志くんの言っているのは本当のことだった。表情とか声の調子だけで、清志くんはその人が何を考えているのかとか、どんな気分でいるのかとかを当ててしまう。 仕方なく、ぼくは本当のことを言った。 「考えごとしてたんだ」 「へえ、ノブキでもそんなことあるんだな」 清志くんは茶化すように言った。ぼくはすぐに抗議しておく。 「どういう意味?」 「怒るなよ、誉めてるんだぜ。普段のノブキなんて、人畜無害の見本で悩みなんてこれっぽっちもないって顔してるからさ」 「そんなことないよ」 清志くんのおどけかたがおかしくて、ぼくはつい吹きだしてしまう。清志くんは得たり賢しといった表情で続けた。 「でも、誉めてるのは本当だぜ。一種の悟りの境地みたいでさ」 清志くんはぼくと同じバスケットボール部で、ぼくとは違ってレギュラーになれるくらいにうまい。練習で1オン1をしても、ぼくが勝てることなんてほとんどない。背が高くて、格好がよくて、でもまわりのことにはよく気づくし、気配りもうまい。それからユーモアのセンスもある。もちろん、みんなの人気者だ。 対してぼくのほうはというと、背は平均以下だし、特に格好よくもないし、子供みたいなやつだとよく言われる。でも清志くんはどういうわけか、ぼくと仲良くしてくれる。 一度、清志くんの家に遊びに行ったことがある。洋風の、テレビに出てくるようなきれいな家で、お母さんが丹精したというガーデニングの庭があった。それから、見るからに賢そうなレトリーバーがいて、ぼくがなでているあいだもしっぽを振って大人しくしていた。 清志くんは向かいに座っている女子に冗談を言った。彼女はおかしそうに手を振って笑った。清志くんが何かを言うと、誰だって笑ってしまう。きっと怒っている人も、泣いている人も。 そうこうするうち、実験器具をもらいに行った生徒が帰ってきた。ぼくたちは顕微鏡を木箱から出して、プレパラートを用意するための作業にかかる。 今日の授業は「細胞」の観察だった。植物を薄切りにして、染色液につけ、細胞壁や核や、そんなものを実際に確かめてみるのだ。 ぼくは家から持ってきたピーマンにカミソリを当てた。皮のところをできるだけ丁寧に、薄く切っていく。形を崩さずケーキを切るときみたいに。 何とかその仕事を終わらせたとき、「いたっ!」という声が机の向かいから聞こえてきた。見ると、カバオくんが表情を歪めて指を押さえている。カミソリが机の上に転がっていた。どうやら、間違って自分の指を切ってしまったらしい。 「おい、大丈夫かよ?」 清志くんがすぐさま声をかける。 カバオくんは黙ったまま、大丈夫というふうにうなずいた。ちょっと病的な感じの色の白さで、体がぽっちゃりしている。そんなカバオくんが大丈夫と言っても、何だかあまり説得力はない。 「ちょっと切っただけだから」 そんな周囲の想像に気づいたのか、カバオくんは笑顔で言った。「押さえてれば、すぐに血はとまるよ」 「なら、いいんだけどな」 清志くんはちょっと戸惑うように頬をかいた。 カバオくんというのは、もちろん本名じゃなくてあだなだ。名前が馴(あつし)というので、川と馬、つまり河馬でカバだ。でもそう呼ばれるのは、どちらかというと鈍重で、小太りの体型をあてこすられているところもある。 指を怪我したカバオくんの代わりに、清志くんが作業に当たった。カバオくんが用意したのは大根だった。よく見ると、白い表面の一部に赤い染みができている。 「でもいいよな、カバオは」 清志くんは木材の寸法を測る大工さんみたいな手つきで大根をためつすがめつしながら言った。 「え、何が?」 とカバオくんはびっくりしたように言う。指はまだ押さえたままだった。 「オレさ、この前バスケの顧問に何て言われたと思う?」 「わからないけど……」 「お前みたいにひょろっちいと、センターは任せられない。もっと体重を増やせ、体重をって、そう言われた」 「……うん」 「でもさ、いくら飯食ったって、増えないもんは増えないんだよな。パワーをつけようと思ったら、重いほうが有利なのはわかるよ。当たり負けしないからな。でも人間、もって生まれた性質ってものがあるだろ。だからさ、オレもカバオみたいにちょっと太めのほうがよかったなって思うんだ」 大根は薄く切られて、カバオくんに渡された。カバオくんは照れたように笑って、それを受けとる。こういう時のカバオくんの表情は水辺で気持ちよさそうに浮かぶその生き物に少し似ているな、と思ってしまう。 染色液に浸された植物は、核や細胞壁がきちんと見えた。顕微鏡を操作したり、互いの顕微鏡をのぞいたりして、ぼくたちは賑やかに実験を続けた。 先生がぼくたちのところに来て、一言二言いう。すると清志くんがうまく返して、近くにいた生徒たちは笑った。お手玉でもできそうなくらい和気藹々とした空気で、どこにも結び目のない時間が過ぎていく。 ――世界はこんなにも簡単に、幸福になることができた。
「あ、ノブキ、ちょっといいかな?」 声をかけられたのは、昼休みのことだった。ぼくは用事があって図書室に行こうとして、ちょうどイスから立ちあがったところだった。 後ろを振り向くと、そこには藤咲さんがいた。藤咲千和(ふじさきちかず)さん。髪の短い女の子で、いつもみたいに溌剌としている。水たまりを勢いよく跳ねとばして、そのまま走ってきたという感じだった。 教室にはあまり人は残っていなくて、賑やかな声だけが遠くから聞こえる。音はくぐもって、形がはっきりしない。まるで大きな金魚鉢でもかぶせられたみたいだった。 「どうかしたの、藤咲さん?」 藤咲さんの用事は何となく想像がついたけど、ぼくは訊いてみた。 「これ、この前借りたやつね」 そう言って、藤咲さんは一冊の文庫本をぼくの前に差しだす。 「面白かった?」 ぼくは本を受けとりながら訊いた。 「うん、面白かったよ。さすが森さんが選んだだけはあるね」 森さんというのは、もちろん凛香のことだ。藤咲さんとは直接の面識はないけど、お互いのことは知っている。前に一度、ぼくが凛香のことを話したことがあって、それでつながりができていた。凛香がよく本を読んでいると伝えると、じゃあ面白そうなのを貸してよ、と頼まれたのだ。 凛香が学校に来ることはないので、ぼくがその窓口というか、仲介役になるのだった。 「今度もまた、何かお薦めの本を貸してもらっていいかな?」 藤咲さんは努めて遠慮がちな声で言う。それは何だか少し、猫が甘えるときの感じに似ていた。 「だったら、凛香から預かってる本があるよ」 ぼくは机の中をかきまわして、その本を取りだした。 「――『蝿の王』?」 タイトルを見て、藤咲さんは顔をしかめる。 著者はゴールディング。イギリス人らしいけど、ぼくは詳しいことは知らない。 「面白いの?」 「ぼくは読んだことないから、わかんないよ」 凛香と違って、ぼくはあんまり本は読まないのだ。 「ふうん」 藤咲さんは本の表紙を見ながら言う。そうしたって、中が透けて見えるわけでもないだろうけど。 「とにかく、読んでみるよ。森さんセレクションだしね」 その時、ぼくの後ろから「ちーかず」と言って藤咲さんを呼ぶ声が聞こえた。見ると、女子が一人こっちに歩いてきている。 「千和、購買行こうよ、購買」 彼女は藤咲さんの腕を抱えこむと、子供みたいにそれを振りながら言った。 「わかった、わかったからくっつくなって」 藤咲さんは苦笑する。 でも彼女は腕を離したりしようとはせず、「だってー」と拗ねたような声を出した。向こうを見ると、他にも女子二人が藤咲さんを待っているみたいだった。彼女たちはクラスの仲良しグループなのだ。 「いっしょに購買行くって約束したじゃん。千和がいないと寂しくなっちゃうよ」 「ちょっと先に用事を済ませてただけだから。心配しなくてもあとで行くよ」 「だめー、今じゃなきゃだめなの」 「まったく、困ったお嬢さんだな」 藤咲さんは肩をすくめてみせる。 女の子は再び、「だってー」と繰り返した。藤咲さんが仕方ないな、というふうにその頭をなでると、彼女は「えへへ」という感じに笑った。 「――じゃあまあ、そういうわけだから。私はもう行くわ」 藤咲さんはぼくに向かって軽く手を振ると、女の子に連れられるようにして行ってしまった。 ぼくも一応、手を振ってみるけど、彼女がそれに気づいた様子はない。教室を出て行く途中、呼びに来た女の子は藤咲さんの持っている本を見て、「何それ?」と訊いた。「何か怖そう」と言ってるのも聞こえる。 やがて彼女たちが教室からいなくなってしまうと、ぼくも最初の予定通り図書室に向かった。凛香から本を借りてくるよう頼まれていたのだ。
3
部活が終わって家まで帰ってくると、部屋の扉が少し開いていた。といっても、ぼくがドアを閉め忘れたわけでも、誰かが勝手にドアを開けて入ってきたわけでもない。 それは凛香が部屋にいるときの、一種の合図みたいなものだった。例の、屋根の道を通って凛香はやって来る。だからドアそのものは開閉されていない。窓にはいつも鍵をかけていないから、出入りは自由だ。ティンカーベルだって、施錠された窓からは入ってきにくいだろうから。 ノックをしてから中に入ると(自分の部屋ではあるんだけど)、思ったとおりそこには凛香がいた。ベッドに机、本棚。いくつかの玩具が床に転がっていて、天井には昔お父さんにもらった星座のポスターが貼ってある。 凛香はベッドのそばにある彼女専用の座イスに座って、足をのばしていた。手元には当然のように本があって、重力とか水の表面張力とか、そういう自然の力が働いているみたいに、凛香はページの上にじっと目を落としている。 元々、そういうことは多かったのだけど、凛香は不登校になってからはずっとぼくの部屋で本を読むようになっている。そのための本棚も、読書用のイスも用意してあって、いつでもやって来れるように窓の鍵だって開いてる。 どうして凛香がわざわざそんなことをしているのか、実際のところはよくわかっていない。手間だってかかるし、特に必要なわけでもない。でも気づいたら、いつのまにかそうなっていた。どっちの家の親も、そのことはあまり気にしていない。 「――おかえり、ノキ」 と、凛香は本に目を落としたままで言った。彼女だけが、ぼくのことを「ノキ」と呼ぶ。そこには何となく、「呑気」と言いたそうな調子がいつもあった。 「うん、ただいま」 机の上にカバンを置きながら、ぼくも返事をする。 凛香は赤色をした細いフレームの眼鏡をかけていて、髪は長くのばしている。華奢な体つきで、運動はあまり得意じゃなかった。でも身長はぼくより少しだけ高い。子供の頃はそうじゃなかったけど、最近はほとんど家の中に閉じこもっている。 部屋の本棚にはいっぱい本がつまっていて、それは全部凛香が読んだものだった。凛香はずっと本を読んでいる。それは冬眠前のリスと同じで、できるだけ知識を貯めこもうとしているみたいだった。やがて来る、飢えと寒さと暗闇に備えて。 ぼくの部屋にあるとはいえ、その本棚の中にぼくが読んだ本は一冊もない。たまにページをめくってみることはあったけど、きちんと読んでみたことはなかった。凛香が説明するのや誉めているのを聞いて、きっと良い本なんだろうな、と思うくらいだ。前にも言ったとおり、ぼく自身はあんまり本は読まない。 そんなわけで、凛香の推奨する本は大抵、藤咲さんのところへ流れていくことになる。ぼくはそのための、卸し問屋みたいなものだった。 ぼくはカバンから勉強道具を引っぱりだして、予習復習にとりかかった。大体、それがいつもの光景だった。ぼくが宿題を片づけているあいだ、凛香は本を読んでいる。 「――そういえば、頼まれてた本借りてきたよ」 宿題が一段落したところで、ぼくは言った。 「ん、ちゃんと学校の図書室にあった?」 凛香は本を読んだままで言う。 「あったよ。『停電の夜に』でしょ」 「そう」 ぼくは本を取りだして、凛香の横のベッドに置いた。凛香はちょっとうなずいてみせただけで、やっぱり本から目を離そうとはしない。 「あと、藤咲さんにあの本を渡したよ。ゴールディングの」 「うん」 「前に貸した本も、面白かったって。凛香には、本を選ぶ才能みたいのがあるのかな?」 それからぼくは、学校であったことや、友達の話なんかをした。凛香は気のない返事をしたり、うなずいたりするだけだったけど、それでも二、三度は笑った。凛香が笑顔になると、きれいなガラス球がころころ転がるみたいな感じがする。 ぼくは時々、どうして凛香は学校に行かないんだろうか、と思うことがある。そういう場所が嫌いだからだろうか? 居心地が悪くて、何をしていいのかわからないのかもしれない―― でもそれは簡単な話で、ただみんなにあわせていればいいだけの話だった。先生の話を聞いて、友達といっしょに笑って、適当なことをしゃべっていればいい。 それで、みんなが仲良くやっていけるように、世界はできているからだ。そういうシステムになってる。 この世界はきっと単純で、みんながそのことに気づいて、それを守りさえすればうまくいく。問題は何もかも解決するし、悪いことなんて何も起こらない。みんなが笑っていられるし、傷つかずにすむ。凛香だって学校に行ける。 ――ぼくには、そんなふうに思えた。
4 雨が降っていた。 誰かが指でぼんやりと机を叩くような、そんな雨だった。静かで、ずっと同じ調子で、ふと気づくと音が聞こえなくなっている。空気はひんやりとして、夏が少しだけ遠ざかったみたいだった。 今日は部活が少し早めに終わったので、そのまま家に帰るところだった。練習試合中に、ちょっとした事故があったのだ。そんなにひどい怪我ではなかったけど、一人が足首をひねってプレーが続けられなくなった。 ぼくは傘を差して、とぼとぼと帰り道を歩いていった。普段は自転車なのだけど、雨の日なんかには歩いていくことにしている。 ちょうど家の近所にある、公園の前まで来たときのことだった。向こうのほうから、何となく見覚えのある人影が歩いてきた。誰かと思ったら、近所に住んでいるおばさんだった。犬を連れている。 おばさんはすぐそばまでやって来ると、さも奇遇だというふうにぼくのことを見た。犬のほうはぼくのことを見て、きゃんきゃんと吠えた。白いポメラニアンだった。窮屈そうなレインコートを着ている。 「あらダメよ、カミュ。そんな恐い声で吠えたりしちゃ」 おばさんはリードを短く持って、小さな犬をたしなめた。でも犬がそれを理解した様子はないし、理解できそうな様子もない。 「ごめんなさいね、家では虫も殺さないようなお姫様なんだけど、散歩となるとはしゃいじゃって」 おばさんは、まったく仕方のない子ね、というふうに笑う。 ――ポメラニアンて元々そういうものです、とぼくは言おうかと思ったけど、やっぱり黙っていた。そんなことをしたって、何の意味もない。だから、ただ礼儀正しく笑顔を浮かべていた。 「あなた、吉秀さんとこの信貴くんよね?」 と、おばさんは言った。でも、同意を求めたわけじゃない。すぐに続けて言う。 「この前はお母さんにお世話になっちゃって。本当、申し訳ないわ。あなたからも是非よろしく言っておいてね」 何のことかはさっぱりわからなかったけど、必ず伝えておきます、とぼくは笑顔で承諾した。 「ところで、学校のほうはどう? 楽しくやれてるかしら?」 友達とは仲良くやっているし、勉強もしっかりしています、とぼくは答えた。そういう答えが求められていたから。 「信貴くんは本当にいい子ね。うちにも子供がいたら、あなたみたいだといいんだけど」 ――そんなことないです、と言ってぼくは首を振った。 「でもねえ、みんながみんなうまくやれるってわけじゃないでしょ。ほら、森さんとこの凛香ちゃん」 ぼくは黙っていた。 「知ってる? 不登校≠ネんですってね。いったいどうしたのかしら? ほら、やっぱり難しい年頃でしょ。他人にはよくわからない悩みとかを抱えて。おばさんもね、その頃は本当にいろんなことに悩んだものよ。今から思うとどうしてだろう、ってことでもね。足が大きいとか、爪の形が少し変だとか、そんなの全然たいしたことじゃなかったのにね。でも当時はそう思えなかったのよね。黒子の位置で人生を損してるとか、世の中は何て不公平なんだろうって、そりゃあ苦しい思いをしたものよ。だからね、おばさんにもわからないわけじゃないのよ、彼女のこと」 犬は雨が降っていることに気づいているのか、いないのか、やっぱり元気よく吠え続けていた。 「でもね、いつまでもそこから逃げるってわけにもいかないでしょ? そんなことしてたら、いつまでたっても前になんて進めやしないわ。私の知っている人にもね、息子さんで不登校になった人がいるのよ。親御さんはその子にあまりがみがみ言わないんで、今でもやっぱりひきこもってるんですって。まあどうなのかしらね、そういうのって。時には厳しく対応することも必要じゃないのかしら? 人生って、そんなにいいことばっかりじゃないんだから」 ――そうですね、とぼくは礼儀正しく相槌を打っておく。 「凛香ちゃんのことね、私も心配してるの。ほら、やっぱり難しい年頃だから。信貴くん、確か家はお隣同士よね? 同じ中学に通ってるんだし、何かと気にかけてあげるといいんじゃないかしら」 ――そうですね、気にかけてみます、とぼくは言った。 おばさんはすっかり満足したような顔をした。 「本当に信貴くんはいい子ね。これからもその調子でね。それから、お母さんにくれぐれもよろしく」 ――はい、必ず伝えておきます、とぼくは返事をした。 おばさんは軽く傘を揺らすと、そのまま歩いていった。白いポメラニアンはまだ吠えたりないといった感じできゃんきゃん鳴き続けている。雨音が急にうるさく聞こえはじめた。 ぼくは軽くため息をついてから、歩きだした。世界は今日も平和みたいだった。
次の日の学校は、何だかおかしかった。 でも長いこと、何がおかしいのかわからなかった。まるで、遠くの景色が精巧な書き割りに変わっているみたいに。近づいて手で確かめてみるまで、そのことには絶対に気づかない。 違和感の正体を発見したのは、何度も休み時間を重ねてからだった。ぼくは藤咲さんが大抵の時間を一人でいることに気づいた。それだけなら別にどうってことはないのだけど、いつもの仲良しグループと不自然な距離をとっている。 昼休みになって、ぼくは藤咲さんのところに行ってみた。藤咲さんは窓枠のところによりかかって、ぼんやり外を眺めていた。校舎の外には昨日とはうってかわった青空が広がっていて、どこか遠くのほうからやって来た風が吹いている。 藤咲さんはぼくのことに気づくと、「やあ」といつもの調子で少し笑った。短い髪が、ちょうど吹いてきた風に揺れる。彼女は心地よさそうに目を細めた。 教室にはこの前本を渡したときと同じように、ほとんど人はいない。 「どうしたの、今日は?」 ぼくは訊ねてみた。 「――何が?」 藤咲さんは風のにおいをかごうとするみたいに、また窓の外を見た。 「ずっと一人だよ。いつもは他の三人といっしょなのに」 藤咲さんは黙っていた。そのままずいぶん長い時間がたった気がする。がしゃん、と時計の分針が動く音が聞こえた。 「もう友達じゃないから」 「――え」 ぼくはきょとんとした、と思う。そういう顔をした、と。 でも藤咲さんは何も言わなかった。誰かの笑い声が聞こえる。時間は今も動いていた。 「友達じゃないって、どういうこと?」 ぼくはあらためて質問した。 「その通りの意味よ」 藤咲さんはあっさりと言う。ぼくは納得できなかった。 「あんなに仲がよかったのに?」 「うーん、そうねえ」 藤咲さんはちょっと困ったようにぼくのほうを見た。その顔は何だか、教科書の問題を理解できない生徒を見る先生のそれに似ていた。 「カバオくん、知ってるよね」 「え、うん」 「じゃあ、あの子が腎臓病だっていうのは?」 ぼくはすぐには言葉が出てこなかった。 それを見て、藤咲さんは窓枠に手をついたまま、ぼくのほうに体を向ける。 「あの子、ちょっと丸々した感じしてるでしょ? あれって、体のむくみなんだって。腎臓が悪いと、血液の処理がうまくいかなくてああなっちゃうのよね。だから別に、太ってるわけじゃないんだ」 「それ、本当のこと?」 ぼくは馬鹿みたいなことを訊いた。 「もちろん」 藤咲さんは皮肉っぽいような、いたずらっぽいような、ちょっと不思議な笑いかたをした。 「私はたまたま知ったんだけど、でも本人はそのことをみんなに知られたくないみたい。考えて見るとちょっと変だけど、わかるでしょ、そういうの。自分が病気だと、人から変な目で見られちゃうんじゃないかって」 「……何となく、わかる」 「でもみんなはそのことを知らないまま、ただ漠然とカバオくんのことを異物扱いしてる。はっきりわからないけど、自分たちと違うぞって。だから私がカバオくんと少し話をしてたっていうだけで、あの三人にはもう許せないのよ」 「口をきいただけで?」 「そう――。みんなはね、悪口≠煖、有できないと許せないのよ。それが善意だろうと悪意だろうと、自分たちと同じ嗜好、同じ考えをしないと、ね。そうじゃないと、その人はもう仲間じゃないってわけ。敵対者、裏切り者、異質物。でも私は、そんなのはごめんだな。窮屈すぎる」 「だから、友達はやめる?」 「ええ」 それから藤咲さんは、ふと気づいたように自分の机のところに行って、何かを持って戻ってきた。 「この本、どんな話だか知ってる?」 それはこの前ぼくが渡したゴールディングの『蝿の王』だった。 「ううん、知らない」 ぼくは首を振った。 「アンチ十五少年漂流記、って言えばいいかな」 本を見つめながら、藤咲さんは少し考えるように言う。 「舞台は第三次世界大戦中らしいイギリス。疎開するために飛行機に乗った子供たちが、無人島に流れつくの。子供たちは最初、みんなで楽しくやってるんだけど、やがて凄惨な殺しあいをはじめてしまう……」 「それで――?」 「二人の子供が死んで、島は炎に包まれ、子供たちは救出される」 藤咲さんは笑顔でその本をぼくに渡すと、こう言った。 「また何かお薦めの本があったら、貸してちょうだいね」
5
あれは、いつのことだったろう? ――そうだ、確か幼稚園に通っていた頃のことだ。ぼくがまだ、隣の家に住んでいる女の子のことを何も知らなかった頃のこと。 当時、ぼくはどういうわけかリンゴが嫌いで、ある日の給食にそれが出てきた。最後にそれを残したのだけど、どうしても食べる勇気は出てこない。じっと処刑の時間でも待つみたいに、ぼくは泣きだしそうなまま身動きもできずにいた。 「こんなんはぶんかつせよ、ってるろいしゅうどうしもいってるわよ」 不意に、そんな声をかけられた。見ると、女の子が一人ぼくのことをのぞいていた。正確には、ぼくのお皿に残ったリンゴの切れ端を。 ぼくはやっぱり泣きだしそうなままで、女の子のことを気にする余裕もなかった。どうしようもない失敗をしてしまったみたいに。取り返しのつかない過ちを犯してしまったみたいに。 すると、女の子はそんなぼくのことを見かねたみたいだった。ひょい、とリンゴを手に取って、それを二つに割ってしまう。それから一方を自分で食べてしまって、もう一方をぼくのほうへと手渡した。 「ほら、これでへいきでしょ?」 不思議なことに、ぼくはそのリンゴを食べたかどうか覚えていない。食べたとしたら、それはいったいどんな味がしたんだろう。それとも、やっぱり食べられなかったんだろうか。 ぼくが覚えているのはただ、その日からぼくと凛香が友達になった、ということだけだ。半分になったリンゴの最後は記憶になくても、凛香と最初に会ったときのことは覚えている。 それからもう一つ、「困難は分割せよ」という言葉。それは、井上ひさしの短編『握手』に出てくる言葉だ(元は別の人の言葉らしいけど)。たぶん凛香は、親か誰かにその小説を読んでもらって、その言葉を覚えたのだろう。 彼女はそれをぼくに、大事な宝物を渡すみたいに教えてくれた――
※
――未来の世界はこんなふうになる、と誰かが言った。 小学校の、休み時間の話だ。低学年の、まだ小さな子供たちが集まっている。もちろんぼくもそんな子供たちの一人で、かたわらには凛香の姿もあった。 誰かは雑誌か何かで仕入れたその未来予想図を、得意になって話していた。病気がなくなる、今よりずっと長く生きられるようになる、宇宙旅行、人間そっくりのロボット、空飛ぶ自動車、科学技術の発達―― みんな、ただ感心して聞いていた。話の半分もわからなかったし、しゃべっている当人だってそれは怪しいものだったけど、空の一番星みたいに輝く未来のイメージは、ぼくたちをわくわくさせた。ぼくたちがこれから向かっていくのは、そんな世界なのだ。 その帰り道か、学校でだったかは覚えていない。でも凛香は不意に、ぼくに向かってこんなことを言った。 「わたしだったら、泉までぶらぶら歩いていくけどな――」 それが『星の王子さま』の一節だと気づいたのは、ずいぶんあとになってからだった。咽の渇きを抑えて時間を節約できる薬を売っているセールスマンの話に、王子さまは自分ならそうするのに、と考える。 凛香はその頃からずいぶんたくさん本を読んでいて、ぼくの知らないことをいっぱい知っていた。 本当に、本当にいっぱいのことを。
※
――みんなが反省するまで、決してこの教室を出てはいけません。 先生はそう言って、扉から出ていってしまった。クラスメートがけんかをして、机の一つを壊した。まわりの人間はそれを見ていたけど、誰もとめようとしなかった。学校でけんかをした二人も、それを見ていただけの君たちも同罪です。 あとに残されたぼくたちは、けれどどちらかというと白けた気分だった。同じことは、もう何度か繰り返されていた。重苦しい空気こそ変わらなかったけど、その重さは段々小さくなっていた。プールに入ってしばらくすると、水の冷たさに慣れてしまうみたいに。 誰かが――大抵はけんかをした二人が――先生のところまで謝りに行って、それで話はおしまいだった。いつもの時間が、またぼくたちのところに戻ってくる。 「絶望することより、絶望に慣れてしまうことのほうが問題だ」 凛香はつぶやくように、そう言った。 その声が聞こえたのは、ぼくだけだった。「今、何て言ったの?」とぼくは訊き返した。もちろん、とても小さな声で。 「ノキはそう思わない? 絶望することより、それに慣れてしまうほうがひどいことだって。ちょうど、今のわたしたちがそうみたいに」 ぼくはその言葉を聞いて、あらためて教室を見渡してみた。みんな神妙に口を閉ざしていたけど、そこには半分眠っているような退屈があった。誰も、何かに対して戦ったり、抵抗しようとしたりなんて考えていない。 実際には、それこそが必要だったというのに――
※
――テレビか何かで、リポーターが子供たちに向かって将来の夢を訊いていた。 ぼくたちは居間でそれを見ていた。母親がケーキを買ってきたので、凛香とぼくはいっしょにそれを食べていたのだ。 カメラに向かって、子供たちは実にたくさんの夢を語った。警察官になりたい、お花屋さんになりたい、野球選手、絵描き、医者、先生、宇宙飛行士、ヒーロー、通訳、歌手、研究者、などなど。 そんなたくさんの夢を聞いていると、世界は希望に満ちあふれているような気がした。郵便箱をのぞけば、明日にでもその夢が本当に届いているみたいな気が。 「凛香は何かなりたいものってある?」 ぼくは最後に残したショートケーキのイチゴをつつきながら訊いた。 その時、凛香はすぐには答えなかった。まるで質問自体がなかったか、聞こえなかったみたいに。ぼくは不思議に思って彼女のことを見た。 でも凛香は、質問が聞こえていないわけじゃなかった。質問に怒っているとか、呆れているというわけでもない。 彼女はただちょっと、戸惑うような、困ったような、そんな顔をしていた。 「――ライ麦畑のつかまえ役=v やがて、彼女はぽつりと言った。 「え?」 「そういうもの、そういうものにだけ、わたしはなりたい」 ぼくはその時の凛香の言葉の意味がわからなかった。中学生になったばかりで、ぼくははじまったばかりの新しい日常に、ただ単純な不安や期待を抱いているだけだった。 『ライ麦畑でつかまえて』の、その言葉の意味がわかったのは、ずいぶんあとになってからだった。 ずいぶんずいぶん、あとになってからだった。
※
――街頭の一角には、人だかりができていて、その中心に演説者がいた。街の未来のためにとか、政治の腐敗を正すとか、県民の幸せな生活をとか、そんなことをしゃべっていた。選挙の時期だった。 スピーカーからは、ひび割れたガラスに映ったみたいな、変に誇張された声が響いていた。候補者が何か言うたびに、盛んな拍手が起こった。冬のさなかのこんな寒いところで、ずいぶんなことだった。 しばらくしてから、ぼくたちは自然にその場を離れていた。今のところぼくたちには選挙権も被選挙権もなくて、演説は直接には関係のない話だった。それに、聞いていてもよくわからない。 歩きながら、ぼくはたいして興味もなかったけれど言ってみた。 「そのうち、ぼくたちも投票するようになるんだよね」 凛香はしばらく黙って歩いていた。この頃には、凛香はもう学校には行っていなくて、その日は駅前の本屋に出かけた帰りだった。 「――切符はお返しする」 ふと、凛香はいたずらっぽい、くすっと笑うような感じで言った。 それが何かの本に書かれたことなのだろうというのはわかったけれど、もちろんぼくにはその題名さえ見当がつかなかった。 「切符って、何のこと?」 「『カラマーゾフの兄弟』に出てくる、イワンの言葉」 自分の思いつきがおかしいのか、凛香はくすくす笑っている。 「例えすべての人間が天国に行って、そこですべての罪が赦され、贖われたとしても、それが約束されたことだとしても、俺はそんな切符はお返しする。正直な人間であるからには、できるだけ早く、そんなものは謹んで神様にお返しする――そんな話」 「よくわからないよ」 ぼくは力なく首を振った。 そんなぼくを、凛香ははっとするような強さでのぞきこんだ。彼女の瞳は、一番きれいな夜空を切りとったみたいだった。 「ノキは、そのほうがいいんだと思う」 彼女はそれまでとはまるで違う微笑を浮かべて、そう言った。
※
それから、そう――あれはいつのことだったろう。 確か、ぼくの部屋で凛香が本を読んでいたときのことだ。ぼくが何か言ったのだろう。それに対して、凛香はこう答えた。 「いい、ノキ? 世界は悲劇よ。それは間違いない。ろくでもないことはいつまでも起こり続けるし、間違いは直らない、ちょっとした行き違いで人は傷つくし、争う。でも悲劇っていうのは、この日常を言うの。少なくとも、その多くは日常に含まれる。それはただの、何でもない、ごくありふれただけの真実なの。誰もそこからは逃れられない。この日常からは、誰も、どんな人間だって」 ぼくはその時、どう返事をしたんだろう。反駁したのか、同意したのか、それとも黙っていたのか。 そもそもぼくは、凛香の言葉を理解していたのだろうか? ――でもぼくは今、少なくとも今は、こう思うのだ。 ぼくには凛香の言うことがわからない。そんなふうに思うことはできない。だってそれじゃあ、あんまりだと思うから。 きっと、すべてのことに意味はある。どんな問題だって解決する。希望のない未来なんてあるはずがない。光はいつだって明るいし、それは世界を満たしている。ぼくたちはきっと、どこにだって行ける。 でないと―― それは、あんまりにも悲しい話だ。
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ぼくは想像する。時には、夢にだって見る。 ――一人ぼっちのまま、ぼくの部屋で本を読む凛香の姿を。 彼女は静かに、本当に静かな手つきで本のページをめくる。その目はとても真剣に、とても幸福そうに文字の上を見つめている。 まるで、そちらのほうが本当の世界みたいに。本を読んでいるときだけ、彼女は生きているみたいに。 その姿は何だか、月から降りてきた人を連想させた。ぼくは大声で彼女の名前を呼ぶ。でもその声は、真空の中みたいに何の響きも生みださない。ぼくの声は、彼女に届くことはない。 そして彼女はただ一人で、静かに本を読み続ける。
※
目が覚めたとき、ぼくは嫌な汗をかいていた。 体の中身がちょっとだけいつもの位置からずれているみたいな、そんな感じだった。現実が現実らしく見えなくて、時間がクラゲみたいに頼りなく漂ってる。世界は支えを失って、ゆっくりと揺れていた。ぼくは何度か頭を振った。 目が覚めたのは、母親の声が聞こえたからだった。その声は、ずっと上のほうにある水面から響いてくるみたいにぼやけたままだった。ぼくは何とかベッドの上から皮膚をはがして、部屋のドアを開けた。 「どうかしたの?」 ちょうど階段を上がってきたらしい母親に向かって、ぼくは訊ねる。 「大変なのよ、信貴」 母親の声には、普段にはない切迫した調子があった。 「凛香ちゃんがね、凛香ちゃんがどこにもいないんだって」 「――どこにも?」 ぼくの頭はようやく復旧しはじめていた。 「そうなの、いつのまにか部屋からいなくなってたんだって。伝言も書置きもなくて、今どこにいるかもわからないのよ。それでお二人とも心配になって、うちに訪ねてきたの」 「凛香に変わった様子は?」 「別に、何もなかったって。でも、まさか……ねえ?」 母親の言う「まさか」が何なのか、ぼくは考えていなかった。部屋に引っこむと、ぼくは必要なものを持って家を飛びだしていたからだ。 「どこに行くの?」 と、後ろの玄関から母親の声が聞こえる。 「決まってるだろ」 ぼくは自転車を引っぱりだしながら、振り向きもせずに言った。 もちろん、ぼくは凛香を見つけるつもりだった。
6
数日前に降った雨の痕跡はもうどこにもなくて、街はいつも通りの姿を見せていた。 公園、コンビニ、大通りの信号、騒音を立てる車の群れ、住宅地を抜けた先にある小さな水路と桜の木、そんなもの。 ぼくは自転車を走らせながら、そんないつもの光景に凛香の姿を探していた。でもそれは、久しく見たことのない状況だった。いつもの光景から、凛香はもうずいぶん長いこと失われたままでいる。 短い坂道、電柱の陰、雑草の生い茂った空き地、薄暗い工場の倉庫、月極の駐車場、個人経営の病院、かすかなうなりをあげる自動販売機、モデル募集中の貼り紙を出した美容院、何匹かで集まっている猫、看板さえ目立たないような料理店、古い写真館、コンクリートの一部がひび割れた道路。 いない―― もちろん、そんな場所に凛香がいるはずはなかった。彼女はこの世界の住民票を返して、本来いるべきところに帰ってしまったのだ。もうどこを探したって、見つかりっこないのだ。 ぼくはいったん自転車をとめて、深呼吸をした。 ――落ち着かなくちゃいけない。 それからあらためて、凛香のいそうな場所を探す。昔、通っていた小学校、よく遊んだ公園、秘密基地のあった藪の中、探検に使った小道、少し離れたところにある本屋、市立の図書館。 昔の思い出を、ぼくは次から次へと引っぱりだす。その記憶は水底で泥をかぶっていた魚みたいに鈍く、ゆっくり身じろぎした。でもそうやって起きた水の流れは、確かにぼくを揺り動かしていた。 ぼくはふと、あの日のことを思い出す。たぶん、凛香が学校に来なくなるきっかけになった日のことだ。 それは国語の授業中のことで、ぼくたちはちょうど太宰治の小説を読んでいるところだった。授業が半分くらい終わったところで、凛香は急に立ちあがった。そして何を言うまでもなく胃の中の物を全部吐きだした。 どうしていきなり吐いたりしたのか、原因は不明だった。ぼくが凛香に訊いてみても、まともな答えは返ってこなかった。おかしなものを食べたわけでも、体調が思わしくなかったわけでもない。時間になったら目覚まし時計が鳴るみたいに、凛香は突然嘔吐したのだ。 それ以来、凛香はあまり学校に来なくなった。来ても、保健室で過ごすことが多くなった。やがて保健室にしか来なくなり、ほどなく学校そのものに行くこともやめてしまった。 あの時、凛香に何があったんだろう? 今日の失踪と、それは何か関係があるんだろうか―― いつのまにか空は茜色に染まり、夕陽が沈もうとしていた。ぼくはとにかく、自転車を走らせた。もうすぐ、夜が来る。そうしたら凛香は星に帰ってしまうんだろうか。祈るようにきれいな、あの夜の光点に。 ぼくの前には洪水も盗賊も午後の灼熱もなかったけど、同時に、向かうべき場所も、守るべき約束もなかった。自転車だけが、惰性に従って走り続けている。王はそれでも処刑を敢行するだろうか。ただ、それが残酷だからというだけの理由で。 ――そういえばあの時、凛香は何と言っていたっけ? 学校に来なくなった、ちょうどあの頃。彼女はぼくに向かって何かを言ったはずだ。とても大切な、重要な何か。心の大切な部分をそっと解きあかすような、そんな何か。 ぼくはぼくの頭に向かって、必死になってそれを思い出すよう命令する。
「重力は距離の二乗に反比例するの」
と、凛香は言った。 それはやっぱり、彼女がぼくの部屋で本を読んでいるときのことだった。凛香は座ったまま、塔の中の囚人みたいに小さな窓を見あげていた。 「つまり、ちょっとでも距離が離れると、重力はそれ以上に弱くなる。だから今より少しでも空に近づけば、体はずっと軽くなるかもしれない」 凛香の言葉にどう答えたのか、ぼくは覚えていない。その時のぼくには、彼女が本当はどこを見ているのかさえわかっていなかったから。 今、ぼくはあらためてその言葉を思い出す。 いくつかの思い出もいっしょに。 ハンドルを握りなおし、ペダルを踏む足の位置を変え、ぼくは急いで自転車を走らせた。目指すべき場所は、きっとあそこだ。今はそれがわかる。北極星が空の決まったところにあるみたいに、はっきりと。あとはそこに向かうだけだった。 世界はすっかり夜へと変わり、街灯の明かりが無関心そうにあたりを照らしている。ぼくは住宅地を抜け、山のほうへと自転車を走らせた。道の傾斜がペダルの重みになって伝わる。重力はいつだって律儀に働き続けているのだ。 しばらく坂道をのぼったところで、ぼくは歩道の脇に自転車をとめた。もう少し行くと高速道路の上を渡る橋があるのだけど、もちろん用事があるのはそっちのほうじゃない。 ぼくは脇道というか、狭くて細くて急な道を登りはじめた。手にはちゃんと、懐中電灯を持って来ている。小さな光の輪が前方を照らした。時々、草を揺らす音がして、涼しい風が通りすぎていく。 少しばかり親切心に欠けた急坂を登りながら、ぼくはある懐かしさを感じていた。ここには昔、子供の頃に来たことがある。ピーターパンとか宝島とか、そんなものを信じていた頃の話だった。よくある探検ごっこだ。こんな坂を、子供の頃によく登れたものだな、とは思ったけれど。 頂上までやって来ると、ひらけた空き地が広がっている。月に照らされて、その場所は意外なほどの白さと明るさだった。何だか、そのまま月にまで昇っていけそうな気がする。 空き地には、通信会社の基地局があった。基地局といっても、てっぺんにアンテナがついただけの鉄塔だった。施設というほどのものじゃないし、もちろん無人だ。高めのフェンスに囲まれているほかは、特別なことは何もない。 ぼくは鉄塔のそばまで行って、上空を見あげてみた。かなりの高さがあって、半分以上はただのシルエットになって夜の闇に沈んでいる。でもそこが目的地であることは、間違いない。 懐中電灯の光を空に向けて、ぼくはそれを回してみた。すぐに返事はあった。暗闇の中に、同じような光が回転する。 やっぱり、凛香はそこにいるのだ。 ――月にも、星にも、夜の暗闇の中にも還ることなく。
ハシゴは延々と空に向かって続いている。ぼくは落っこちたときのことをできるだけ想像しないようにして、重力に逆らってのぼり続けた。無骨な鉄の骨組みの中でそうしていると、何だか大昔に化石になった怪獣の背中でものぼっていくような気分だった。 まっすぐにのびたハシゴをのぼっていくのは案外の重労働で、軽く腕をつってしまいそうだった。しがみついていないと不安で、余計な力を入れすぎているのかもしれない。 上のほうに近づくにつれ、風の音は勢いを増し、夜の闇は濃くなっていった。ぼくは肩を軽くまわして、もうひとがんばりすることにする。高さが増して、重力が少しでも弱くなったのかどうかはわからない。 凛香の持つライトの光で、頂上がもうすぐそこだということはわかった。ぼくは慎重に、足を踏みはずさないように注意して最後の何段かをのぼった。 頂上付近には格子状の小さな床があって、人が二人くらいなら楽に座れるスペースがあった。怪獣の背中から降りて、ぼくはその場所に足を着ける。 凛香は手すりに背中をもたれて、床の上に座っていた。あまりアクティブとはいえない格好で、スカートをはいている。家からそのままで出てきた、という感じだった。その様子は何だか、ぼくの部屋で本を読んでいるときに少し似ている。 「――ようこそ、天まで近きところへ」 小さなライトの光の中でも、凛香がにっこりと笑うのが見えた。 「天まで近きところ?」 ぼくは適当な場所に移動しながら、あたりを見渡してみた。 そこは暗闇の宙空に漂う、頼りない救命ボートみたいな場所だった。立っていると、今にも足元でバランスが崩れて、何もかも横倒しになってしまいそうな気がする。心なしか鉄骨は揺れていて、ぎしぎし音を立てているようでもあった。 でも、ふと視線を遠くに向けると、そこには街の明かりがあり、ずっと向こうには工場の照明らしいものが輝いていた。それは地上に落ちてきた、星の光だった。少なくとも、そんなふうに思うことはできる。 「みんな心配しているよ」 ぼくは恐る恐る腰を落ち着けながら言った。 「…………」 凛香はライトの明かりを消した。眠りを妨げられたみたいに、暗闇はまた元の場所に戻ってくる。でも目が慣れるに従って、あたりの様子も、凛香も、前よりははっきり見えるようになってきていた。 「どうして、この場所に?」 ぼくは訊いてみた。 「さあ、どうしてかな――」 凛香はまるで、独り言でもつぶやくみたいにして言う。 風が吹いて、凛香の髪を揺らした。彼女の瞳は暗闇に溶けてしまったように、どこか遠くを見ている。 「メモくらい残しておけばよかったのに」 「まあ、そうなんだけど……自分でも、どこに行きたいのかわからなかったし」 凛香は軽くため息をついた。風のせいでよくはわからなかったけど、たぶんそんな何かを。 しばらくのあいだ、ぼくたちは黙っていた。夜の空気は無関心に、公平にぼくたちの存在を許している。人工の星明りが、地上を飾っていた。人間てたいしたものだな、とぼくは思う。 それから、不意に凛香が言った。 「でもね、ノキなら見つけてくれるような気がしてた」 「うん――」 「ありがとね」 ぼくは赤くなっていた、と思う。あたりが暗いのは幸いだった。そんな顔をしていたら、絶対にからわかれていたに違いないから。 照れ隠しもあって、ぼくは返事の代わりに訊いた。 「少しは、体が軽くなった?」 凛香はちょっと考えるようにして言う。 「うーん、少しは軽くなったかな」 もう一度、沈黙。家では今頃、家族がぼくたちのことを心配しているはずだった。けっこうな騒ぎにもなっているかもしれない。警察に連絡するか迷っているかもしれない。 ――でもここは、世界から遠く離れた場所だった。悲劇の多くが含まれた、日常からは。 「聞いてもいいかな?」 と、ぼくは訊いてみた。それは自然な質問だった。 「何?」 「どうして、学校に行かないの?」 凛香はすぐに答える。「どうして、学校に行くの?」 ――うまく答えられなかった。 「わたしだって、学校には行ったほうがいいと思う」 凛香は慎重に、言葉をよりわけるみたいにして言った。 「……つまり、システムとしては、ね。みんなが作った、そのほうがいいっていうシステム。みんなができるだけ幸福になれるためのシステム。でもどうしてだか、ダメなの。そこに行こうとすると、気持ち悪くなって、水の入った袋に穴が空いちゃうみたいに体中から力が抜けていく。足がふにゃっとして、立っていられなくなる。手が震える。息ができなくて、苦しい。――どうしてなんだろう、って思う。どうしてわたしは、こんなにも苦しいんだろうって」 凛香は指を空中でそっと動かした。世界に見えない線を引くみたいに。 「それでわかったのは、わたしには無理なんだってこと。この日常は、わたしを許していない。わたしを存在させられない。でないと、こんなに苦しくなるはずがない」 「……本当に、そうなの?」 ぼくはどんなふうに訊いていいのかわからなかった。 「絶対に無理ってわけじゃない」 と、凛香は力なく首を振った。 「でもそれには、すごくすごく努力がいる。また最初からわたし≠作りなおさなくちゃいけないくらいに」 ぼくは口を噤んで押し黙った。ぼくに言葉はなかった。ぼくは凛香みたいにたくさんの本を読んでいるわけじゃない。頭だっていいわけじゃない。誰かみたいにユーモアのセンスもない。鋼の意志も、鉄の勇気も、あふれる優しさなんかも―― この日常に、ぼくのできることは少ない。ぼくの力はあんまりにも弱くて、誰かを救うことも、誰かを守ることもできはしない。夜の闇は深く大きくて、街の光はあくまで遠く小さかった。それらはまるで、ぼくたちの存在を消し去ろうとしているみたいにも見える。この暗がりの向こうで、どれくらいの人たちが同じ思いを抱えているんだろう。
「聞け、君らよ――!」
その時、不意に凛香は立ちあがった。吹きさらしの風にも負けず、深い暗闇にも怯まず、両足でしっかりと体を支えて。
「私はこの夜の王。 馬手に月を従え、弓手の王錫で星々を支配する。 運命の道行きは私の手の中で踊る。 私の箱にはすべてが詰まっている。 ――すべての善きものが。 ――すべての悪しきものが。 喜びが涸れ、悲しみが尽きるとも、すべてに終わりが訪れることはない。 だから君よ、懼れずに行くがいい。 幸いは君らと共にある。 救いはいつか訪れる。 足音を高らかにし、音声をあげよ。
我らの悲劇はここにある――」
凛香の声は朗々と、夜の闇と風の中に響きわたった。その叫びはあっというまに、何の痕跡も残すことなく消えてしまったけれど。 しばらくして、ぼくは訊いてみた。 「それ、誰の言葉?」 凛香はいたずらっぽく、笑みを含むように答える。 「もちろん、『わたしの言葉』よ」 あらためて、ぼくは夜の闇と街の光を眺める。それらはやっぱり、その巨大さと遠さでぼくたちを圧倒した。 ――でもそこには、凛香の言葉がある。 彼女の声とその響きは、いつだってそこに含まれていた。何の変化も、痕跡も、証拠なんてなくても、そこに。ぼくはそれを知っている。凛香の言葉は、だからいつもぼくのそばにある。
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