[四つめの事件]
1
彼女が死んだとき、彼には本当に言葉通り、何が起こったのかわからなかった。彼方の星がなくなってしまっても、その光だけはしばらく何の変化も示さないのと同じように。 もちろん、彼は死んでしまってもうぴくりとも動かない彼女を見もしたし、冷たく温もりを失ってしまった手に触れもした。 彼女は確かに死んでいた。 けれど―― それが、どうしたというのだろう。 彼はそのことの意味を、うまく受けいれることができなかった。彼女が失われたとき、彼女の死の意味も失われてしまっていたのである。彼は一粒の涙さえ、流さなかった。 かつて彼女が生きていた頃、こんなことを言ったことがある。 「時々、とても悲しくなることってないかな――?」 彼女は大切な何かをそっと守ろうとするような、そんな笑顔を浮かべていた。彼女はよく、そんな表情を浮かべた。 「たいしたことじゃないの。考えてみれば何てことのないような、ちょっとしたこと。例えば、冷たい水の中に手を入れてみたり、不意に吹いてくる風に身を任せたり、朝になってゆっくり白くなっていく世界を眺めたり……」 彼女はそう言って、自分でその言葉の感触を確かめるようにそっと手を動かした。 「そういう時、何故だか胸が締めつけられるくらい悲しくなることってないかな? 何かを祈りたくなるような――そんな感じ」 小さく、笑う。 「そういうことって……ないかな?」 彼女がそんな不思議な言葉を語るとき、彼はいつもじっと耳を澄ませていた。そこにはとても大切な何かがあるような気がした。誰も気づくことはない、けれど彼女は気づいている、大切な何かが。 ある日、プロポーズをしていっしょになったあとも、彼女のそんなところは変わらなかった。 洗濯物を干しているときや、アイロンをかけているときや、台所でぼんやりと座っているときなどに、彼女は不意に泣いていることがあった。 彼女は自分でも、そのことに気づいていないらしい。 偶然その場に居あわせたとき、彼はどうしたんだい、と不思議そうに尋ねてみたことがあった。 彼女はそう言われて、はじめて自分が泣いていることに気づいたように、 「変な感じだね」 と、いつもの笑顔を浮かべた。 「どうして私、泣いているんだろう……?」 彼女は自分でも不思議そうに、そうつぶやいている。 けれど本当は、わかっていた。 言葉にする必要もないくらい、それははっきりとわかっていた。 彼女は幸せだったのだ。 ふと悲しくなってしまうくらいに、幸せだった。 この世界を―― この不完全な世界を―― どうしようもなく、愛おしいと思っていた。 そんな彼女を、彼は本当に愛していた。そして彼女がこの世界から失われたとき、彼は一粒の涙さえ、流すことはできずにいる。 何を失ってしまったのかさえ、彼には正確に把握することはできなかった。 地球がその重力によって人々をこの世界にとどめていることを、多くの人が気づかないでいるのと同じように。それはすぐ近くにあるのに、どうしても気づくことができないでいるのと同じように。 だから彼はずっと、自分が何を失ったのかわからずにいた。 それが何なのかわかったのは、ずいぶん時間がたってからである。 彼はその時、世界の不完全さに再び思いを巡らすことになる。 そして―― 完全世界≠、彼は望んだのだ。
2
目が覚めると、ハルは自分が古い夢を見ていたことに気づいた。 ゆっくりと起きあがって、ぼんやりとする。夢と現実の境界がうまく体に馴じんでいなかった。まるで、眠った気がしない。 それともこれは、夢の続きなんだろうか――? ベッドの横にある、カーテンを引いてみた。冬の朝の、まだどこか鈍い陽の光が射しこんで、目の奥の暗闇を照らす。遠くにまで見える家々の屋根は、まだどれも浅い眠りの中にあるようだった。 「…………」 夢のことを、ハルは考えてみた。 それは夢というよりも、単なる事実の再現だった。ビデオテープを何度見てもその内容が変わらないのと同じように、その夢の内容はいつも変わることがなかった。 いつもと同じ時間―― いつもと同じ場所―― 何も変わらない。 (どうしてだろう――) ハルは目を閉じてみる。 (どうして、あの時――) けれどその答えも、いつも同じだった。 ハルは抱えた膝に顔をうずめ、そっとつぶやいてみる。 「わからないよ……」
天橋市立図書館は、ハルの家から自転車で三十分くらいのところにあった。 春の季節はもうすぐそことはいえ、空が灰色になって、冬が悪あがきでもするように雪が降ってくることもある。三月になっても空気はまだ冷たく、自転車で切る風は容赦なく肌を刺してきた。 図書館に着くと、ハルは公園近くの駐輪場に自転車をとめて、中に入った。 館内に入ると温かい空気が体を包み、かすかな本のにおいが鼻をつく。日曜日の図書館は静かで、まだ人影も少なかった。 ガラス張りの壁面からは、水槽の中を照らすように透明な光が射しこんでいる。沈黙が、ひやりとした液体のようにあたりを漂っていた。 ハルは閲覧コーナーの奥に歩いていって、目的のものを見つけた。イスに座って、持ってきたものをテーブルの上に広げる。 それは一年近く前の、古い新聞だった。縮刷版にまとめられたその本を、ハルはゆっくりとめくっていく。ページをめくるたびに、古い時間のかさぶたをはがすような、乾いた音が響いた。 目的の記事は、四月某日づけの新聞に載っていた。 「…………」 ハルはその記事の文字を、一つ一つ丁寧に拾っていく。 その日の午後、ある女の子が車に轢かれて死んだ。 信号もない、見通しの悪い十字路のことである。女の子は学校帰りで、帰宅途中だった。問題の十字路のところで、女の子は走ってきた車にぶつかる。たいしたスピードではなかったが、女の子は地面に転んで頭を打った。 結局、女の子は打ち所が悪かったせいで、病院につく頃には死んでまってしまっていた。別に、何が悪かったわけではない。ただ運が悪かったとしかいいようのない事故だった。 その女の子の名前は、結城可奈という。 (やっぱり、そうなんだ――) その名前に、ハルは聞き覚えがあった。新学期がはじまった頃、臨時に行われた全校集会で、ハルはその名前を聞いている。 あの時、全校集会が開かれたのは彼女の事故に関してのためだった。校長先生が壇上から弔意を述べ、冷たい床に生徒たちが座っていたのは、そのためだった。 そしてハルが思い出したのは、それだけではなかった。 (結城季早……) ハルはガラスの壁の向こうにある、透明な光に目をこらしてみる。 結城季早と結城可奈―― その二人を結びつけるものは、ハルの中にはなかった。この二人を結びつけて考えなくてはならない理由は、必ずしも存在しない。 けれど―― 一年のあいだの、いくつかの事件。 結城季早に出会ったときの、奇妙な印象。 新聞に書かれていた、古い事故の記事。 それらを考えると、ハルにはその二人のことが、その父親と娘のことが、何となくわかるような気がした。 ハルはそっと新聞を閉じ、元に戻す。 もし過去の時間もそんなふうに、どこかに閉じこめて元に戻すことができたとしたら―― (そうすれば、人は幸せになることができるんだろうか……?) けれど、答えが出ることはなかった。 その答えはハルの中からずっと昔に、すでに失われてしまっているのだ。 ハルはじっと、形のない光に目をこらしてみる。 けれどそこに何かが見えることは、やはりなかった。
3
宮藤未名(みな)は春の陽射しのような笑顔のできる、そんな性格の人だった。少し癖のかかった髪をしていて、その瞳はいつも朝の光を映したような、新鮮な輝きを宿していた。タンポポの綿毛のような、柔らかな屈託のなさを持っている。 彼女はハルの、母親だった。 そういうふうに見れば、ハルはどちらかといえば母親に似ていた。柔らかな目元や、鼻の形、そんなものがハルと彼女とではよく似ている。 父親と母親と、ハル―― それは三人の、ごく普通の家族だった。笑ったり、泣いたり、悲しんだり……家族であればどこでもそうであるような、他愛のない日常と繰り返される毎日。 平凡で、ごく当たり前で、何の変哲もない――けれど確かな、幸せ。 三人はそういうものの中で、暮らしていた。 宮藤未名は、いつもそのことに満足していた。 ――でもある時、彼女は死んでしまった。
屋上の風は冷たく、空気は必要以上に透きとおっている感じがした。時折、凍てついた音が遠くから虚ろに響いている。 放課後の時間、子供たちの声は聞こえず、世界は静かだった。誰もが温かい自分の家に向かって、足早に帰っていく。冬の孤独はいつまでも、空の上を漂っていた。 屋上のうえに、一つの人影がある。 その人影は、誰かを待っているようだった。薄着に見える格好をしているが、寒そうにしている様子はない。 人影がじっとしていると、入口のところから一人の少女が姿を現している。 首にマフラーを巻いて、黒いジャケットを羽織っていた。屋上の寒さに顔をしかめることもなく、彼女はすたすたとコンクリートの上を歩いてくる。 そして人影の前で、彼女は立ちどまった。 「いったい何の用かしら、宮藤晴くん?」 彼女は、いつもの無表情さで言った。 「君に話があったんだよ、志条芙夕さん」 ハルは、いつものような穏やかさで答えている。 二人は向かいあって、立っていた。色さえもが冷たい青空が、その上に広がっている。 「私には話なんて、別にないのだけれど」 フユはにべもなく言った。冬の冷たい風のほうが、まだしも人間味にあふれているような口調である。 「ぼくのほうにはあるんだよ」 「面白いわね。いったい何の話かしら。前にも言ったけど、告白でもするつもり? それとも、今度こそ私をしめようっていうのかしら」 「どっちも違うよ」 「でしょうね」 フユは面白くもなさそうに肩をすくめた。もっとも、この少女がいつ面白さを求めたりするのかはわからない。 「……でももし、ぼくが君のことを本当に好きだといったら、君はどうするつもりなんだい?」 「どうもしないわ」 フユは笑いもせずに答えた。 「残念だけど、どう考えても私があなたを好きになることなんてないでしょうね」 「でもぼくは、君のことが好きだよ」 「…………」 「アキも、そうだしね。一年間同じクラスにいて、ろくに話もしてないけど、でもそれだけはわかるんだ。君は悪い人じゃないし、人を傷つけたりする人でもない」 ハルは笑顔で言った。 「――君は十分、人に好かれてもいいひとだよ」 フユの表情は、特に変わらない。ハルの言葉を聞いているのかどうかさえ、そこからはわからなかった。 けれど―― それでも、伝えるべきことはあるのだ。 ……誰かが、それを伝えなくてはいけなかった。 フユはけれど、やはり無表情のまま、 「そんなことはどうでもいいわ」 と、どういう感情をこめることもなく言っている。 「いい加減に、話≠ニいうやつを聞かせてもらえないかしら。それとも、本当にそんなことを言うためだけに私を呼んだの?」 「いや」 ハルは仕方ない、というふうに首を振った。 「実は、君に頼みがあるんだ」 「頼み?」 「そう――」 「いったい、何を頼もうっていうのかしら?」 ハルは一瞬、息をとめた。風の冷たさがどこかへ消え、かすかな耳鳴りが聞こえた。 「結城季早に会わせて欲しいんだ」 「…………」 風が冷たさを取り戻し、世界には再び静寂が訪れていた。フユはマフラーに首をうずめるようにしながら、じっとハルのことをうかがっている。 「それ、どういう意味なのかしら?」 「言ったとおりだよ。彼に会わせて欲しいんだ」 フユの長い髪が、風を受けて小さく揺れる。 「わからないわね」 と、彼女は言った。 「まず、どうして私に頼むのかしら?」 「結城季早と君がどういう関係なのかは知らない。けど君が彼の手伝いをしていることは、わかるんだ」 フユはどういう表情もない目で、ハルのことを見ていた。ハルはじっと、それを見返している。 「理由はいくつもある。例えばだけど、君が転校してきた時なんかもそうなんだ。あの少し前に、ぼくに関わる事件が一つ起きていた。そして、君が転校してきた。少しタイミングがよすぎる」 「ただの偶然でしょうね。それで私とその人が関係あるだなんていうのは、強引すぎるようだけど」 「そうかもしれない。でもほかにも、理由はいくつかあるんだ。例えば、猫が捕まえられていたこととかね。あれをやってたのは、とりあえず君で間違いないと思う。問題なのはどうしてそんなことをしていたのか、なんだ。考えられることはいくつかあるけど、ぼくはそれが何かの実験に使われたんじゃないかと思ってる」 フユは、今度は何も言わなかった。 「それがどんな内容のものかは知らない。たぶんぼくの知らないような魔法を使おうとしてるんだと思う。成功する見込みの少ない、とても難しい魔法≠ね」 ハルはそう、いつか祖母に言われた言葉を口にした。 「どうかしらね。それだって、必ずしも私と関係があるとは言えないんじゃないかしら?」 「誰かが言ってたけど、偶然が一つで起こることはある。でも偶然が二つ重なったら、それは絶対に偶然じゃない。そこには必ず誰かの意志がある。そして偶然は、もう一つあるんだ」 「…………」 「学芸会のあの日、君はどうして魔術具を持っていたんだろう? 普通に考えれば、学校であんなものが必要になることはないはずだ。けど何の目的もなく魔術具を持ち歩くことも、可能性としては低い。ということは君には何か、目的があったんだ」 ハルは少し、息をとめた。 「そしてあの場所には――結城季早がいた」 フユはやはり、黙っている。 けれど―― 「ふふ……」 かすかに、彼女は笑っていた。 「はは、ははは……」 やがてフユは、身をよじるようにして、本当におかしそうに笑っている。何十年も壊れたままの機械が突然動きだしたような、それはぎこちない笑いかただった。 ひとしきり笑い終えたところで、フユは真顔に戻り、けれどかすかな微笑を残しつつ、言った。 「そこまでわかっていて、どうしてあなたは彼に会いたいなんて思うのかしら?」 それは彼女の、純粋な好奇心から出た言葉だった。笑ったことも、そんなふうに人に質問したことも、断絶領域で生きる彼女には絶えてなかったことである。 「聞きたいことがあるからだよ」 「……何をかしら?」 ハルは少しだけ、息をすった。 「あなたはそれで、本当に世界を取り戻すつもりなのかって」 そうだ―― ハルにはどうしても、それを尋ねずにはいられなかった。 尋ねずには、いられないのだ。 フユはそんなハルのことを、おかしそうに見つめている。風がやんで、彼女の髪は線を引いたようにまっすぐ地面に落ちていた。 「いいわ――」 フユはつぶやくように言う。 「彼に、結城季早に会わせてあげる。いつになるかはわからないけど、彼に話してみるから」 「そうしてもらえると助かるよ」 ハルがそう言うと、フユはくっくっと笑って、 「あなたは本当に人が好すぎるみたいね、宮藤晴くん」 「…………」 「これはクラスメートのよしみとして、もう一度言っておこうかしら?」 フユはかすかに笑いながら、 「宮藤晴くん、あなたは気をつけたほうがいいわよ。結城季早はそれを取り戻すためなら、何でもするでしょうからね。彼の失ったのは、そういうものよ。あなたにそれを、何とかすることができるのかしら?」 ハルは黙ったまま、身動きもしない。 「いずれにせよ、これはあなたの問題ね。私にはとりあえず関係がない」 そう、今のところは、とフユはつぶやきもせずに、心の中だけで口にした。 フユはそれだけ言ってしまうと、用事は済んだとばかりに校舎のほうに戻ろうとした。 「…………」 けれど不意に立ちどまって、くるりと振りむいている。 「彼女には言わなくていいのかしら?」 と、フユは言った。 「彼女……?」 「水奈瀬陽よ」 「……どうして彼女に言わなくちゃいけないんだい?」 「友達なんじゃないかしら?」 ハルは小さく首を振った。 「これは君の言ったとおり、ぼくの問題だよ。アキには関係ない」 「まあ、いいわ……ちょっとした気まぐれついでに聞いてみただけだから」 フユはそう言って、今度こそ本当に去っていった。 誰もいない屋上に、ハルはそれからしばらくのあいだ、一人でじっとしていた。
4
ハルは母親のことを覚えていない。 もちろん、本当に覚えていないわけではない。その顔や、声や、いくつかの思い出を、ハルははっきりと記憶していた。それを思い出すことも、もちろんできる。 けれどそれは、ハルにとっては何の意味もない記憶だった。 見も知らぬ家族のポートレートが、それを知らない人間にとって何の意味も持たないのと同じように、ハルはそこからどんな感情も思い起こすことはできなかった。 彼女が死んだのは、ハルがまだ小さかったときのことである。 それはある晴れた日で、宮藤未名は朝の透明な光の中で眠るように亡くなっていた。 結局、彼女がハルといた時間は十年にも満たないものだった。それは母親が子供と過ごすには、あまりに短い時間である。 母親の匂いがもたらすものや、柔らかな肌触りがくれた感情、その仕草が心にひき起こすもの、そんなものをハルは覚えていない。 どうしてだろう――? ハルは考えてみる。 それは決していっしょに過ごした時間の短さや、ハルの無関心や、母親の愛情の薄さによるものなどではなかった。そんなものであるはずが、ない。 もしかしたら、母親の死の衝撃がハルの記憶をすっかり壊してしまったのかもしれない。そんな可能性も、ないではなかった。 けれど―― そんなふうには、ハルには思えなかった。 あるいはそれは、そう―― 魔法≠フせいなのかもしれない。 「――でもね、ハル」 かつてハルが何かに泣いていたとき、彼女は優しく、囁きかけるように言ったことがある。 「その悲しみは、とっても大切なものなの。そんなものはなかったほうがいいと、思うかもしれない。何とかして、それを取り戻そうとするかもしれない。でもね……それでも、その悲しみは大切なものなの」 どうして、とその時ハルは聞き返した。 「それはね――」 未名がそっと、その言葉を伝える。 けれどハルにはもう、その言葉を思い出すことさえできなかった。 彼女の死といっしょに、いろいろなものが失われてしまっていた。そして自分が何を失ってしまったのかさえ、ハルにはわからずにいたのである。 それでも、一つだけわかっていることがあった。
――宮藤晴は大人にならなくてはならなかった。
5
フユが話しかけてきたのは、ハルが下駄箱で靴を履き替えているときのことだった。 朝の登校時間はまだ早く、玄関は薄暗い。半分眠っているような子供たちの声があたりから聞こえていた。 「明日、会えるそうよ」 「…………」 フユはハルの隣で、内履きを地面に下ろしている。彼女の表情は、いつもと変わらない。 下駄箱の前には、ちょうど二人しかいなかった。 フユはとんとん、と靴のつま先をそろえながら、 「時刻は昼前、場所は学校の体育館ということだから」 「そう」 ハルは下駄箱のほうを向いたまま、つぶやくように答えている。 「本当に行く気かしら、あなたは?」 「――もちんろんだよ」 フユはじっと、ハルのことを見つめた。彼女はいつもと同じような無表情を浮かべていたが、その瞳の奥にはいつもとは違う何かが小さく揺れているようでもある。 「あなたはきっと、頭がおかしいんでしょうね」 と、フユは真顔でそんな言葉を口にした。 けれど―― 「……ありがとう」 とハルは、答えている。 フユは見覚えのないものに手を触れてしまったように、首を傾げた。この少年は、何を言っているのだろう? 「ぼくのことを心配してくれるんだね、フユは」 「…………」 「普通の人とやりかたは違うけど、それは君の優しさから出てる言葉なんだ。君は人が傷ついたり、傷つけられたりするのが嫌なんだよ。だから君は、いつも一人でいようとする」 「…………」 フユはしばらく黙っていたが、いつもの無表情で、 「あなたは本当にバカね、宮藤晴――」 そう言って、フユはもう関心をなくしてしまったようにくるりと向きを変え、校舎のほうに行ってしまった。 しばらくのあいだ、ハルはその場にとどまっていた。玄関からはひっきりなしに子供たちが現れ、下駄箱のあいだを抜けていった。誰もが、いつもの場所の、いつもの時間へ向かっていく。 ただ、ハルだけをのぞいて。
その日の夜、ハルはベッドの中でぼんやりと考えていた。 白い天井が、蛍光灯の明りに照らされている。いつもの見慣れた天井だった。 ハルは目の焦点があわないように、思考の焦点をうまくあわせることができなかった。集中しようとすると、まるで水をつかんでいるように何の手応えも返ってこない。 言葉の一つ一つがばらばらに解きほぐされ、それを意味のあるものとして組み立てるのにひどく苦労しなくてはならなかった。思考と記憶が乱雑に混ざりあい、子供のおもちゃ箱のように混沌としていた。 不完全な世界と―― 完全な魔法―― ハルはそんなことを、頭の中でぐるぐると考え続けていた。海の中を深く、深くもぐっていくように、考えれば考えるほど、世界は暗く静かになっていった。 結城季早―― 失ったもの―― 魔法―― 完全な世界―― (いったい) 目の焦点をあわすことさえ忘れて、ハルは考えていた。 (いったい、何なんだろう) 自分は何を、望んでいるのだろう。 自分は何を、望んでいないのだろう。 自分は何を、知りたいのだろう。 自分は何を、知りたくないのだろう。 自分は何を、得たのだろう。 自分は何を、失ったのだろう。 ――わからない。 わからなかった。 ハルははかすかに自分の手が震えるのを感じた。 恐いんだろうか? 結城季早に会うことが。 彼が自分を殺そうとするかもしれないことが。 あるいは―― この世界の不完全さを知ってしまうことが―― いつの間にかすっかり日が暮れて、窓の外は徐々にインクをこぼしたような闇に染まりつつあった。 まるですべての時間をやりすごそうとするかのように、ハルはじっと動かないままでいる。 やがて世界は完全な暗闇に包まれ、空気の一粒一粒が黒く染まったような時間がやって来ていた。 そっと目をつむると、ハルはいつの間にか眠ってしまっていた。体の中に、ゆっくりと黒い闇がしみこんでくるような気がした。 窓の外では、音もなく雪が降りはじめている。
6
世界が白く、閉ざされていた。 三月には珍しい雪だった。 街には雪が積もって、すべてをモノクロにしている。空は鉛色の雲に覆われ、あたりはどこか薄暗かった。まるで冬に逆戻りしたような天気である。 ハルは白い息を吐きながら、歩いている。真新しい雪を踏むたびに、透明な無数の結晶が潰れる音が響いた。あたりに人影はなく、とても静かだった。きっと誰もが家の中で、息をひそめているのだろう。 道路には自動車の通った轍が残るばかりで、歩道には足跡一つつけられてはいない。ハルが振り返ると、自分のつけた足跡が、自分とは無関係なもののように並んでいた。 「…………」 白い息を吐いて、ハルは再び歩きだす。 一日眠ったおかげで、意識はだいぶはっきりしていた。そのくせ、眠ろうと思えばいくらでも眠れそうな奇妙な気分だったが、頭の中だけはすっきりとしている。 歩きながら、ハルは自分が何を思っているのか考えてみた。 そこには、かすかな不安があった。まるで、地の底まで続く暗い淵をのぞきこむように。 立ちどまって、ハルは軽く頭を振った。ゆっくりと息をすって、吐く。まるで呼吸の仕方を思い出そうとするすみたいに。 それからハルは、再び歩きはじめた。 ――学校の前の坂道をのぼると、白い校舎が姿を現した。見なれた、いつもの星ヶ丘小学校である。駐車場には一台の車がとまっている。 ハルは玄関まで行って、そっと扉を開けてみた。 ガラス戸は何の抵抗もなく開いている。 校舎に入って扉を閉めると、重さのない水のような沈黙が耳を浸した。世界の圧力が、がらりと変わってしまったようである。手をのばすと、空気が脆いガラスのように砕けてしまいそうだった。 ハルは下駄箱で靴を履き替え、校舎に足を入れる。 けれどそこで、立ちどまった。 廊下のところに、一人の少女が座っている。 「遅いよ、ハル君」 と彼女、水奈瀬陽は言った。 「――どうして、ここに?」 ハルは何だか夢でも見ているような気がして、訊いた。 「どうしてって、ハル君が教えてくれないからでしょ」 そう言って、アキはよっというふうに立ちあがった。 「いいかげん、来ないのかと思ってたよ。吐く息は白くて寒いし、耳が痛くなるくらい静かだし、時計の音がやたら大きく響いてるし、わたしって何してるんだろうって気分だった。休みの日に、こんな誰もいない学校で友達を待ってるなんて、ばかみたいだって。何度も何度も帰ろうかと思ったけど、いや、ハル君なら必ず来るはずだ、と思って待ってたの。わたしでなけりゃとっくに帰ってるところだよ、ハル君」 言われて、ハルはよくわからないままうなずいてしまっている。アキは本気で文句を言っているようだった。 「どうしてぼくがここに来るって、わかったの?」 ハルは首を傾げてみせる。 「……フユに聞いたんだよ」 アキは何故か、ひどく言いにくそうだった。 「フユに――?」 「えと、やっぱり聞きたいかな、そのこと」 「うん」 「あのね、この前、ハル君とフユ、屋上で話してたでしょ。あれね、聞いてたんだ。というか、本当は聞こうとして聞こえなかったんだけど」 「ああ――」 そうか、とハルは思った。 あの時、どうしてフユが立ちどまったのか。どうして急に、アキのことを言いだしたりしたのか―― フユは、気づいていたのだ。 「それでね、それとなく聞いてみたわけ。無理に聞くつもりはなかったんだよ。でも教えてくれて、今日ハル君が学校に来るって、理由は教えてくれなかったけど、何かとっても大事な用があるとかって……」 アキの声は段々と、小さくなっていた。この少女はこの少女なりに、後ろめたさのようなものを感じているらしい。 けれどハルは、何だかおかしかった。この少女は、どれくらいここで待っていたのだろう? 一人きりで、来るあてもない自分を。そのあいだ、何を考えていたのだろう? 不安に、所在なげに、あたりを見まわしたりしていたのだろうか。 そう思うと、ハルは自然に笑ってしまう。 笑うと、いろいろなことがいつもと同じに戻っていくような気がした。 「……その、いいかな? わたしがついていっても」 ハルの笑いの意味には気づかず、アキはおずおずといった感じで尋ねている。 「いいよ」 笑いを消すように、ハルは首をうなずかせてみせた。 「本当に?」 ハルはもう一度こくりとうなずいて、「でも」とつけ加えた。 「アキは、それでいいの? これは、魔法を巡る話なんだ。世界には必要のないこと。本当は、知らなくていいことなんだ。知れば、何かが変わってしまうかもしれない」 「……あの時、言ったよね」 アキは少しだけ笑った。 「わたしはハル君のことが知りたいって。今も、それにこれからも。わたしはハル君のことを知りたいと思ってるんだよ。例えそれが、どんなことだとしても」 ハルは少し、うつむいた。心のどこかで、奇妙な温もりを感じたような気がした。 それはかつて感じた何かと似ているような気がしたが、ハルには思い出せないでいる。 「――一つ、頼んでもいいかな?」 と、ハルは言った。 「何?」 「手をつないで欲しいんだ」 「もちろん」 アキは微笑った。 「友達だもんね」 二人は横に並んで、手をつないだ。ハルの手は少し冷たく、震えていた。 「大丈夫?」 アキが心配そうに、一度訊く。 「うん」 ハルはにっこりと笑った。 「ありがとう、アキ――」 つないだ手が、ゆっくりと温められていた。 それは季節が巡り、世界が柔らかさを取り戻すのに似ている。 「……行こう」 ハルはそう言って、一歩を踏みだした。
※
体育館は冷たく、がらんとしていた。それは魂を喰いつくすような、寒々しい光景である。すべてが凍てつき、失われてしまったようにさえ思える。 窓からは外の光が射しこんでいたが、館内は薄いヴェールのような暗闇に覆われていた。あと数日に迫った卒業式のために、そこには教室から持ってきたイスが並べられている。 それはどこか、神聖な儀式の場のようにも見えた。 一人の男が、イスの一つに座っている。 黒い色調に統一された服を着て、かすかにうつむいていた。あたりの沈黙がそのまま形になったような、ひどく静かな雰囲気をしている。その姿は何かを待つように、百年も昔からそこにいた、という感じだった。 「…………」 やがて鉄の扉がゆっくりと開き、二人の子供が姿を現している。 「――ようこそ」 結城季早は立ちあがり、言った。
7
ハルはアキと並んで、体育館に立っていた。手はもう離している。あたりはしんとして、自分たちの心臓の音が聞こえてきそうだった。 向こうのほう、体育館の中央付近に男が一人立っている。 結城季早はいつかのときと同じ格好をしていた。遠すぎてよくわからないが、季早は笑っているようだった。ごく自然に、新月のような柔らかな微笑を浮かべて。 ハルは一人で季早のほうに歩いていって、三メートルほどのところで足をとめた。それが、近づけるぎりぎりの距離だった。 「お久しぶりです、季早さん」 季早は例の、子供が懐きそうな感じの笑顔を浮かべた。 「そうだね、宮藤くん」 二人はイスの置かれていない中央の通路で、向かいあった。それは年齢も背格好もまるで違う二人だったが、不思議と同じ印象を与えている。 「もう僕の名前を知っているようだけど、確か自己紹介がまだだったね」 いくぶんのんびりした口調で、季早は言った。 「僕は結城季早。季早は季節の季≠ノ、早≠「、だ」 「宮藤晴です。天気が晴れるの晴=v 互いに名乗り終えると、季早はおかしそうに笑っている。ハルは不思議そうに季早のことを見た。 「いや……」 季早は笑いを戻して、 「どうも妙なものだと思ったんだ。まさかこうして、君のほうから僕に会いに来るなんて思ってもみなかったからね。少し意外だった」 「そうですか……」 「向こうにいるのは、友達かい?」 季早はアキのほうを見た。 「そうです」 「彼女は、どうしてここに? 君が連れてきたとも思えないけど」 「ええ、ぼくがここに連れてきたわけじゃありません。でも彼女はぼくを心配して、ここにいてくれています」 「じゃあ君がもしも危ない目にあったら、彼女は君を助けようとするだろうね?」 季早の言葉に、ハルは軽く首を振って、 「いえ――たぶん、そうはならないでしょう。彼女は魔法使いじゃありませんから」 「ふむ」 季早はもう一度アキのほうを見て、 「まあいいだろう。どっちにしろ、あの子が邪魔できるとは思えないからね」 そっと、笑った。それは前と同じ笑顔なのに、ぞっとするような冷たさを含んでいる。 「君はもう、僕が何をしようとしてるのかわかっているのかい?」 「……大体のところは、わかっていると思います」 「それなのに、ここまでやって来た?」 試すように、季早はハルのことを見た。 「彼女は、君は何も気づいていない、と言ってたよ。たぶん、人が好すぎるんだろう、とね。もっとも、僕は必ずしもそうは思えなかったけど」 「彼女というのは、フユのことですね?」 途中で、ハルは質問する。季早はうなずいて、 「そう、本当は今日も彼女が手伝ってくれる予定だったんだが、僕が断わった」 「どうしてです?」 「君と二人で話がしたかったんだよ、宮藤くん。どうして僕に会いたいなんて思ったのか、それにどのくらいこのことについて知っているのか、とかね」 「…………」 「もしかしたら、君は僕がこの学校にはじめて来たときのことから、知っているのかい?」 「ええ」 「それは面白いな」 季早は話をうながすように、口を閉じた。 ハルはゆっくりと、話しはじめている。 「そのことに気づいたのは、ごく最近のことです」 慎重に、足どりを確かめるように、ハルは言葉を継いでいく。 「春のあの時に体育館で感じた魔法と、学芸会の日にあなたとすれ違ったときの感じ。正直、それが同じものだとわかったのは、ただの偶然でした。もしかしたら、ずっとそのことには気づかなかったかもしれない。そしてそれに気づかなかったら、ぼくはあなたのことがわからずにいたかもしれない」 「…………」 「四月の全校集会のあの時、魔法を使ったのはあなただった。あの日、あなたは招かれてたか自分で頼んだかして、学校にやって来た。そして何かの都合で一人になったときに、あなたは五年生の教室に向かった。教室の座席表でぼくの机を確認し、引きだしの中を調べてみた。そしてそこにあった箱を見つけて、中身だけを取りだした」 一つめの事件の、それが真実だった。 「でも理由については、よくわからないんです。それにあの座席表は古いもので、本当の席とは違ってました」 「だろうね」 季早はそのことを聞かされても、たいして驚かないようだった。 「名前の書いてあるものがなかったからどうにも判断できなかったけど、君の机とは違う気はしてたよ。けどあまり時間もなかったから、結局君の言うとおりにした」 「どうして、そんなことを?」 「理由はいくつかあるんだけどね」 季早はちょっと考えるように、 「君のことが知りたかった、というのが一番の理由かもしれないな。君がいったいどんな少年なのか、僕には気になっていた。だから君の言うとおり、僕はあの日集会に呼ばれて、参加した。本当はそんなものどうでも良かったんだけど、都合がいいと思ってね。僕は集会のあいだに娘の教室を見たいからといって、一人にさせてもらった。そのあいだに、君たちの教室に向かった」 季早は苦笑して、 「けど箱の中身を見て、何だか腹が立ってきてね。どうしてこんな下らないものを、後生大事に抱えているんだろう。もっと大切なものがいくらでもあるだろうに、って。それに実のところ、中身を箱に戻すことはできなかった。そのまま持って帰ってしまってもよかったけど、万一見つかると厄介だしね。結局、隣のクラスのごみ箱に捨てさせてもらった」 「それは知っています」 ハルが言うと、季早はにやっと笑った。 「君はずいぶん頭がいいらしい」 ハルはその言葉にはとりあわず、 「それが、最初の事件です。それからあなたは、たくさんの猫を捕まえている。あなたの目的から考えると、たぶん実験してたんでしょうね」 「ご名答。これにはずいぶん彼女に協力してもらったよ。何しろ彼女は何かを閉じこめてしまうのが得意だからね。おかげで順調に実験を進めることができた」 実験の内容については触れず、ハルは、 「フユはあなたに、魔術具も渡しているはずです」 と言った。 「その通り、よくわかったね。ああ、学芸会のときのことか。やっぱり君は気づいてたんだね。彼女は口止めのほうを優先したらしいけど、結局は同じことだったらしい」 季早はおかしそうに言う。 「ぼくにわかっていたのは、その三つのことでした。それからぼくは、事故のことについても調べました。あなたの娘さん――結城可奈の亡くなった事故のことを」 季早はどういう表情もない顔でハルを見ていた。 それは―― 世界が壊れてしまったような表情に、似ている。 「事故の内容については、あまり重要ではありません。問題なのは、それがこの世界の不完全さを表わしている、ということです。どんなに大切なものでも、この世界からは簡単に失われてしまう。そしてそれが失われたとき、人がどうするのか」 そうだ―― 人はその時、誰もが同じことを願うだろう。 「ぼくはそのことを知っています。あなたはちょうど、ぼくとは逆の立場に立っているんです。だからぼくには、あなたが何をしようとしているのかよくわかる。でもそれが本当に正しいことなのかどうか、ぼくにはわかりません。それで人が幸せになれるのかどうか」 「そうかい?」 季早はかすかに、笑った。 「ええ、あなたはそれで、本当に幸せになれると思っているんですか?」 「――幸せになるのは悲しいこと」 ぽつりと、つぶやくように季早は言った。 「……?」 「君は、そうは思わないかな? 何かを得るということは、何かを失うことだ。人は大切なものを作ったかもしれないが、同時にそれを失ってしまう可能性も、作ったんだ。それは、どういうことなんだろう? 人は結局、悲しみを増やしただけなんじゃないかな?」 「…………」 「僕はかつて、とても大切な人がいたんだ。その人のことを、僕は確かに愛していた。たぶん、そのために僕は生まれたんだと思えるくらい。この世界で、そんなふうに何かを信じられることはとても少ない」 季早はそう言うと、壊れやすい古い時間にそっと手を触れるように黙っていた。 いや―― あるいはその時間はもう、壊れてしまっているのかもしれない。 「彼女は結局、子供を産むときになくなってしまったよ。はじめから、それは少し難しいことだったんだ。出産して、数日後には息を引きとった。彼女は――自分の子供の顔さえ、見ることができなかった」 「…………」 「その時僕は、何が悲しいのかもわからなかった。涙なんて出なかったよ。何のために泣いていいのかもわからなかった。彼女がもうこの世界にはいないんだということが、どういうことなのか理解できなかった。僕と娘を残して、彼女という存在がこの世界から欠けてしまったんだということが」 まるで世界との圧力をあわせるように、季早は一度息をついた。 「僕は娘といっしょに暮らしはじめた。不思議な気分だったが、それは悪くなかったよ。それは不完全ではあるけど、幸せな時間だった。僕はそうして、たぶん時間をかけて彼女の死を受け入れてたんだ」 けれど―― 「けれど娘は死んだ」 季早は笑いもしなかった。 「僕にはやはり、何が何だかわからなかったよ。どうして彼女までが失われなくてはならないんだろう? この世界は、いったいどういう場所なんだろう? 僕にわかったのはただ、人が生きるにはこの世界はあまりにも不完全だ、ということだけだ」 「それで……」 「そう、それでだ」 季早は少しだけ、目をつむる。 「普通の魂では、だめだった。それは一度死んだ魂でなくてはだめだったんだ」 そう言って、季早はじっとハルのことを見つめた。そこに、季早のいう魂≠ェ見えてでもいるかのように。 「魂――?」 「生命の材料≠ニでもいうべきものだ。それは再生産されることのない、この世界でただ一つきりの存在だ。それが失われてしまったとき、僕たちにはもうそれを取り戻すことはできない」 「…………」 「解決編はこの辺で終わりにしよう。ここからが、本当の魔法の話だ」
「――ところで君は、魔法には二つの種類があることを知っているかい?」 ハルは黙っていたが、季早は構わずに続ける。 「一つは魔術具を使った、一般型(アンティーク・タイプ)と呼ばれるものだ。これは魔法使いなら訓練しだいで誰でも使えるようになる。透視魔法(サイティング)≠竍操作魔法(マニュピレーション)=Aそういったものだよ」 「…………」 「もう一つは、特殊型(ユニーク・タイプ)。各魔法使いに固有の、いわばその人間を魔術具として使った魔法だ。それがどんな魔法になるかは、本人にもわからない。訓練して身につくものでもないしね」 それは例えば、あの公園で久良野奈津の使ったような魔法である。 ハルは訊いてみた。 「教室であなたが使ったのは、それですか?」 「そうだね。僕の魔法〈永遠密室(アンリミテッド・ボックス)〉――それは閉じた空間から、その空間を壊さずに中身だけをとりだす*v@だ。だから透過魔法(パーミエーション)≠ニは違って、中身を戻したりすることはできない」 言いながら、季早はしゃがんで、からっぽの空間から何か拾いあげる動作をしている。 「……?」 立ちあがったとき、季早の手には一枚の鏡が握られていた。直径三十センチといったところの、ひどく古めかしい鏡である。その鏡はあらかじめ、隠形魔法≠ナそこに用意されていたらしい。 ハルはその鏡に映った自分を、すでに見てしまっていた。 「わかるかい? 閉じた空間∞中身=Aそれが何を意味するのか。たぶん、君ならもうわかっているだろうね。僕が何をしようとしているのか、何ができるのか、君にはわかったんだから。そして君は――魔法使いなんだから」 季早は鏡を構えたまま、ゆっくりとハルに近づいた。鏡には、ハルの姿が写しとられている。 「何度も何度も実験したよ。けどさすがにそれをつかむのは難しかった。何度も失敗したし、そもそもうまくいくかどうかもわからなかった。ただ――僕には、諦めるための理由が欠けていたんだ」 ハルのすぐ前で、季早は立ちどまった。手をのばせば相手に触れられる距離だった。 束縛魔法(リストリクション)≠ェハルの動きを封じている。 季早はそっと、手をのばした―― 「もちろん、これを人間に試すのははじめてだ。うまくいくかどうか、実際のところはわからない。けどきっと、成功するよ。少なくとも僕は、そう信じている」 その手がそのままのびて――
ずぶりと、ハルの体にすいこまれた。
やがて季早はその手を、ゆっくりと引き抜いている。 その手には、何もつかまれてはいない。 けれどそこには―― ハルの魂が存在していた。 「僕は完全世界≠取り戻す……!」 季早は宣言するように、言った。 (ああ、そうなんだ) ハルは急速に失われていく意識の中で思っていた。 (結局、人は……) そうしてその意識は―― どこまでも暗い闇の中へ、堕ちていった。
8
いつもの朝だった。 太陽が昇り、世界がゆっくりと目覚めはじめる。空は昨日と同じように晴れ、陽の光がコップの中身を満たすように大地に注がれていた。 宮藤未名はいつものように起きて、朝食の準備をした。 そのあと父親は早くから出かけ、時刻は八時を過ぎようとしている。休日の朝で、一日のはじまりはいつもよりずっと遅かった。 未名は心持ちゆっくりとコーヒーをいれ、ぼんやりと朝を眺めながらそれを口にした。 もちろん―― そんなことになるなんて、未名は思っていない。 誰が、そんなことを思うだろう。
二階にあがり、部屋に入ったとき、未名は何も気づかなかった。カーテンが閉じられて薄暗い空間には、どこか海の底を思わせる静けさに満たされている。 ハルはまだ、眠っているようだった。 昨日熱を出して、体調がまだよくないのだろう。けれどそろそろ、目を覚まさなくてはならなかった。着替えもしなくてはならないだろうし、少しは食事をとったほうがいい。 未名はカーテンをそっと開き、朝の光を導いた。 暗い地下から抜けだしたように、部屋の中が白い光に包まれる。 未名は窓の前で少しだけのびをした。 「ハル、朝だよ」 そっと、声をかけてみた。 返事はない。 「ハル、いつまで寝てるの?」 けれどハルは深く眠っているように、ぴくりともしなかった。 「ハル……?」 未名はハルのそばに、近づいた。 「…………」 手を、のばした―― 頬に、触れた―― 冷たい。 呼吸を、していない。 ハルは日曜の朝の中で、死んでいた。 そのことを理解するのに、未名は長い時間がかかった。そのたった一つの事実を理解するために、未名はただじっとハルを見つめていた。 「……ハル?」 つぶやきが、ガラスが割れるようにして、もれた。 けれど―― その呼びかけに答える者は、もういない。 その名前の半分の意味は、もう失われてしまったのである。 「――――」 未名はひどく、頭が痛んだ。それが痛みであることを思い出しては、すぐに忘れてしまう。暗闇が否応なく世界を満たすように、白い空白が頭の中をどんどん埋めつくしていった。 どれくらい、時間がたったろう。 悲しみも、苦しみも、辛さも、苛立ちも、後悔も、焦燥も、自責も、憐憫も、無力感も、空虚も、絶望も――まだ、形になってはいない。 その白い空白が魂を覆う少し手前で、未名はあることを考えていた。 二つの可能性―― 二つの、未来―― その二つの仮定の前で、未名は考えていた。いったい、どちらを選ぶべきなのか、と。 彼女はそして、選択した。 ハルを失って自分がこの世界に生きるくらいなら―― 自分が失われてでもハルがこの世界に生きていたほうがいい―― 宮藤未名はそう、選択したのだ。
蘇生魔法(リヴァイバル)
それは、そういう魔法だった。 一方の生命を得るために、他方の生命が失われなくてはならない。 未名はいつも首から下げていた指輪を取りだして、右手の人さし指にはめた。 世界に揺らぎを作り、それをゆっくりと形にしていく。 まるですべての川が海に到るように、それは自然と形を作っていた。 未名は目を開け―― そっと、ハルの額に口づけした。 魔法が世界の仕組みをほんの少しだけ変え、組み直している。失われたものが、ゆっくりと取り戻されようとしていた。ハルの身体にゆっくりと温もりが戻り、生命が鼓動しはじめている。 同時に―― 宮藤未名の生命は、失われようとしていた。 完全世界を取り戻す代償を、彼女は払おうとしていた。ハルだけを一人残して、彼女は失われようとしている。そのことの意味も、十分に知りながら。 自分が失われてしまうことが、ハルにとってどういう意味を持つのかを、知りながら。 「…………」 けれど未名は、じっとハルのことを見つめていた。 ただ、優しく―― 最後の時を―― そっと、見守るように。 未名はハルには聞こえない声で、語りかけていた。 「私は、本当は、ハルともっといたい。ハルともっと、生きていたい。ハルが笑ったところを、見たい。ハルが泣いているとき、そばにいたい。ハルが苦しんでいるとき、助けてあげたい。ハルが喜んでいるとき、いっしょに喜びたい」 失われていく生命の中で―― 伝わらない言葉の中で―― 宮藤未名はそれでも、確かに何かを残そうとしていた。 「でもそれは、もうできないの。私はもう、あなたといられない。あなたに、何もしてあげられない」 ――ごめんね。 音もなく、未名は泣いている。 「ごめんね、こんなものしかあげられなくて。もっといろんなものを、あげたかった。いっしょに、過ごしたかった。誉めたり、叱ったり、抱きしめたり、喧嘩したり、悩んだり、驚いたり、笑ったり――」 未名の瞳が、ゆっくりと閉じられていく。 「でも、それはもう、無理みたい。私は二度と、ハルには会えないんだなあ――それだけが、少し、残念……」 そう言って、未名は眠るように倒れた。 躊躇も―― 後悔も―― 彼女はしていない。 そんなものは、必要なかったのだ。 宮藤未名はそれを、正しいことだと信じていたから。
これはその時、宮藤未名がハルに残した想いである。 それがハルに伝わることはなかった。真空中を言葉が伝わらないのと同じくらいに、それは無理なことだった。 けれど今―― その言葉は、ハルに届いていた。 宮藤晴の完全な魔法〈絶対調律(グランド・ゼロ)〉―― それが誕生した、今だけは。
※
「ハル君に何をしたんですか……!?」 と、アキは季早に向かって叫んでいた。 いくら揺り動かしてみても、ハルはぴくりともしない。目を軽く閉じ、横になっていた。さっき季早が近づいて何かをしたら、ハルはいきなり倒れたのである。アキには何が起こったのか、さっぱりわからなかった。 わかっているのはただ―― ハルの体からは徐々に温度が失われている、ということだけ。 季早は右手を自分の前に掲げたまま、じっとしていた。それは形も、色も、重さもないものだったが、そこには確かに――宮藤晴の魂が、握られていた。 「ハル君、ハル君――!」 アキが必死になってハルの体を揺さぶる。何故だか、アキは泣きそうになっていた。 「無駄だよ」 冷たい声がして、アキの手はぴたりと止まる。 季早は昏い瞳をしたまま、かすかに微笑さえ浮かべている。 「彼には生きる理由がもうないんだからね」 「生きる、理由……?」 「魂をなくすというのは、そういうことなんだ」 アキは何と言っていいかわからなかった。魂、生きる理由、魔法――? 「どうして――」 「ん……?」 「どうして、あなたはこんなことをするんですか――」 季早はその問いかけに、少しのためらいもなく、 「娘を生き返らせるためさ」 と、答えていた。 「生き返、らせる……?」 「そうさ」 季早は卒業式の準備がされた体育館を見渡して、 「あの子はこの世界から失われてしまった。あの子はもう、年をとることもできない。可能性とつながりの一切を失うこと。死ぬというのは、結局はそういうことなんだ」 「わからない……」 アキは首を振った。 「そんなの、正しいことじゃありません。死んだ人間を生き返らせるだなんて」 「だったら聞くがね」 季早は軽く笑いを浮かべている。 「正しいことって、何だい?」 「え――」 「もしこの世界が正しい場所だというなら、どうして僕の娘は死ななくてはならなかったんだろう? この世界のどこに、正しさがあるっていうんだろう?」 「だ、だからって、ハル君にこんなことをして……魔法を使ってでもそんなことをしようだなんて、間違ってます」 アキがそう言うと、季早は、「ああ」という顔をした。 「君は知らないんだね」 「……?」 「彼は一度、死んでるんだよ」 「え――」 「宮藤晴は一度死んで、魔法を使って生命を取り戻しているんだ。母親の生命を犠牲にして、ね」 アキは一瞬、何を言われているのかわからなかった。 「蘇生魔法≠フ効果を受けた魂。僕が必要としたのは、それだった。ただの魂では、だめなんだ。それでは、死の事実に冒されて結局、魂は失われてしまう」 季早はその感触を確かめるかのように、右手を少しだけ動かしている。 「けれど一度死んで蘇った魂なら、どうだろう? それは死の事実を前にしても、魂の安定を揺るがせにはしない。それは死んだ人間に、死んだという事実を崩さないまま魂を取り戻すことができるんだ」 アキはわからないまま、首を振った。何も、聞きたくなかった。どうしてこの人は、そんなことを望んでしまったのだろう? そんなことを、願ってしまったのだろう? 結局、魔法を使ってできるのは、そんなことだけなのだろうか――? 「それは、幸せになることとは違います」 何故だか、アキは泣きながら言った。けれどアキは、自分が泣いていることには気づいていない。傍らで、ハルの体はどんどん冷たくなっていた。 「違わないさ」 「魔法はそんなことのためにあるんじゃありません」 「いいや、そのためにあるんだよ。人がかつて捨てた完全な世界。魔法は、それを取り戻すためにこそあるんだ」 「そんなの、嘘です」 「嘘じゃないさ」 「だったら、どうして――」 アキはうつむいて、ハルを見た。横になったハルの顔は、何故だかかすれてよく見えなかった。 「どうして、ハル君は――」 そうだ―― それで幸せになれるというのなら―― 失ったものをあまさず取り戻せるというのなら―― どうして、宮藤晴は―― 「大人にならなくちゃ、いけなかったんですか?」 「――――」 「魔法で何もかも取り戻せるだなんて、嘘です。魔法でできることなんて、たかが知れてる。それより、そんなものより、わたしたちにできることのほうがもっと、もっとたくさんあるんです。それを失ってしまうことのほうが、もっとずっとひどいことなんです」 アキはこの一年間、ハルと友達になってからのことを思い出していた。 この少年は決して、魔法をそんなふうには考えていなかった。宮藤晴は、誰よりも魔法についてよく知っていた。いつだって、ハルはその人のことを一番に考えていた。大切なのは幸せになることじゃない。幸せに気づくことだ。 涙があふれて、アキは目を開けていられなかった。ハルの体は、すっかり冷たくなってしまっている。その鼓動は、すっかり停まってしまっている。 「ハル君は絶対に、そんなことしたりしない。魔法をそんなふうに使ったりしない。もっと、ずっといい方法を考える。もっと、ずっと幸せになれる方法を――」 「言いたいことは、それだけかな?」 季早は変わらない口調で言った。 「何を言っても無駄だよ。これはなくしていないものにはわからないものだからね。君はただ、知らないだけなんだ。この世界と、たった一つで等価なものが存在するということを。そして、それを失ってしまうということを」 その言葉のほとんどを、アキは聞いていない。涙がぽたぽた零れて、何も考えられなかった。 ハルと過ごしてきた今までの時間は、結局ここに到るしかなかったのだろうか。 もう鼓動の停まってしまったこの少年は、こうなるしかなかったのだろうか。 「…………」 けれど―― 「……?」 ふと顔をあげると――
そこには、ハルが立っていた。
アキのかすむ視界の中で、けれどハルは確かに立っている。呆然と、季早がそれを見つめていた。 「何故、君は魂を抜きとられて生きているんだ……?」 ハルはまだどこかぼんやりと、目覚めたばかりのような、夢見はじめたばかりのような、そんな表情をしていた。 「これは、ちょっとした間違いみたいなものなんだ」 「……?」 「完全な魔法=Aそれが誕生するときに生じた世界の大きな揺らぎのようなものが、これを可能にしたんだ。本来なら、こんなことは絶対に起こらなかっただろうけど、それは今だからこそ、完全魔法が生まれた不安定な今だからこそ、可能だったんだ」 「何を、言っている?」 「〈絶対調律〉……でもこの魔法だけでは、こんなふうにすることはできなかった。そこまでする力は、ぼくにはなかった」 「…………」 「ここでは今、時間さえもが混乱している。完全魔法が誕生したことで、いろんなものが揺らいでいる。だからぼくは、『未来』と『今』を調律することが可能だった。僕はこのあと魂を取り戻したぼくと、今魂を失っているぼくを調律したんだ」 ――それは、パラドックスだった。 未来の自分が過去の自分を殺してしまうのと同じように、未来の自分が今の自分を助けてしまうことなど、本来なら起こりえないことだった。時間の絶対性が揺るがない限り、それはどうしようもない矛盾をはらんでしまう。 けれど完全な魔法が誕生した今だけは、それが可能だったのである。 「何が、いったい……魂は、確かにここに……」 季早はわけがわからないといった顔をしていた。この少年、宮藤晴はいったい何を言っているのだ。魂は確かにここにあるというのに……完全な魔法が誕生した揺らぎ? 未来と今を調律する? それはいったい、どういうことなのだ――? 「…………」 ハルは一歩、季早のほうに近よった。 季早は自分でも気づかないうちに、一歩下がっている。 「〈絶対調律〉はすべての均衡を取り戻すことができる」 「…………」 「だからぼくは今、あなたを調律する」 ハルはそう言って、ゆっくりと右手をのばしている。 世界のどこか深くで、小さな鐘の音のようなものが響いた。 その瞬間、季早の意識は霧散する。世界からすべての光が、消えてしまったかのように――
※
〈絶対調律〉の魔法を簡単に説明するなら、それはすべてのバランスを零に戻す*v@だった。 卑近な例を使って説明するなら、例えば、沸騰した薬缶のお湯と、冷めきったスープにこの魔法をかければ、それは適当な温度のものに変わるのである。二つのものの平衡をとる。 ――こう聞くとまるで何でもないような魔法に思えるが、そうではない。 地球の熱収支を考える場合でも、収入である太陽光線は、赤外放射などの地球からの支出によって、そのバランスをゼロに保たれている。気候が安定状態にあるためには、それが必要なのだ。ゼロというのはつまり、もっとも安定した状態、ということだった。 太陽の引力と地球の周回速度がつりあっているから地球は公転しているし、地球の引力と月の周回速度がつりあっているから、月は落ちてこない。 すべては結局、ゼロで安定している。 それはハルらしい、すべてのものの釣りあいをとるための魔法だった。二つのもののプラス、マイナスをあわせてゼロにしてしまう。 そう、今までの事件でハルがそうしてきたのと同じように―― 今、ハルは結城季早を調律しようとしていた。 けれどいったい、何と何をあわせるというのだろう――? ハルは言った。 「あなたはちょうど、ぼくとは逆の立場に立っているんです」 そう、つまりハルは――
※
「…………」 ハルが気づいたとき、あたりはとても静かだった。 横になったまま首だけを動かすと、隣ではアキが正座をしている。彼女はハルが目を覚ましたことに気づいているのか、いないのか、どこかぼんやりとしていた。 まだ意識のはっきりしないまま、ハルは天井を見あげた。体育館の天井はひどく遠くて、薄ぼんやりとした暗闇に包まれている。どれくらい横になっていたのか、背中がひどく冷たい。体育館の床は氷のように冷えきっていた。 あたりは相変わらず、静かである。 ハルは呼吸を整えてから、ゆっくりと起きあがった。頭が立ちくらみのときのようにくらくらして、背中を無理に引きはがすような、不快な感覚があった。 蛇口をいくらひねっても水が出てこないような感じで、体にうまく力が入らない。目のピントをあわすのにさえ、苦労した。呼吸をするのさえ、疲れてしまう。 ――無理もない、ことだった。 何しろハルは、魂の半分だけを使って動いていたのである。未来の自分の魂を間借りして、かなりの時間をその状態で過ごしていた。簡単にすべてが元通りになるはずがない。 ハルは何度か息をすったり吐いたりしてから、苦労してあぐらを組んだ。油断するとひどい頭痛がやってきそうな感じである。 それから、ようやくあたりの様子をうかがった。 隣では、さっきと同じようにアキが正座をしている。窓の外は相変わらず灰色に覆われていて、館内は薄暗い。空気は冷たく、しんとしていた。 そして―― そして、向こうには結城季早の姿がある。 季早は床に座って、かすかにうつむいていた。 「…………」 ハルはちょっと、アキのほうを見る。 気づいて、アキもハルのほうを見た。二人は無言で、短い視線を交わしている。 けれど結局、二人は何も言わなかった。たぶん、そのほうがいいのだろう。そうしたほうがいいときは、ある。 そう、季早は―― 結城季早は座ったまま、静かに泣いていた。 それは悲しみだけが音もなく流れていくような、とても穏やかな涙だった。何かがゆっくりと、零れ落ちていく―― まるで白夜の夜に、優しい闇がやって来たように。 ハルとアキはただ黙って、そんな季早を見るともなく見つめていた。何かが、季早の中で終わったのだ。 母親をなくした宮藤晴と―― 娘をなくした結城季早―― その二つの釣りあいが、今とられようとしていた。季早はかつて、宮藤未名が流したのと同じ涙を流していた。それは結城可奈のための涙であり、ハルのための涙でもある。 季早はハルのために――かつてハルが知るべきだった悲しみのために、泣いていた。 〈絶対調律〉 今、すべては調律されようとしていた。 けれどそれは、何かを元に戻すのではない。終わってしまった時間を、やり直すことはできない。失ったものを元に戻すことは、誰にもできなかった。 それはすべてをまた、ゼロからはじめるための魔法である。 結城季早は、いつまでも泣き続けた。ずっと昔に忘れてしまった涙を、季早は同じだけの時間をかけて、思い出そうとしていた。 アキはぼんやりとそんな光景を眺めながら、尋ねている。 「これから、どうしようか?」 「うん――」 うなずいてから、ハルは言った。 「……帰ろう、ぼくたちの世界に」
9
こうして、事件は終わる。 それは完全世界を取り戻そうとした、一人の男が起こしたものだった。この不完全な世界で、あまりに多くのものを失ってしまった男―― けれど結局、魔法を使っても人は幸せになることはできないのである。一度失ってしまったものを、人は再び得ることはできないのだから。 何かを失ったとき人にできるのは、それをはじめからやり直すことだけだった。けれどそれは、何かを諦めたわけでも、投げ捨てたわけでもない。 それは―― 失ったものを大切にする、ということだ。 巡る季節がまたはじまるように、人は何かをやり直すことができる。失ったものは、静止した時間の中にしか存在しない。人はそれでは、この世界で生きていくことはできない。 かつて世界は完全だった。 けれど人はそこをあとにした。そして様々なものを魔法とともに失った。 ――同時に、そのかわりになるものを、同じくらいたくさん手にして。 いずれにせよ、魔法を巡るこの話は終わる。 宮藤晴を巡る、四つの事件の話は――
※
だからこれは、後日談のようなものになる。 それは春にはまだ少し早い、風の冷たい日のことだった。空は晴れていて、手をのばせば触れられそうな陽射しが、地上には注いでいる。 宮藤恭介は小さな水桶を持って、一人で霊園を歩いていた。あたりに人影はなく、世界はどこまでも静かである。 恭介は黒いスーツ姿で、ネクタイはしていない。普段通りに無造作な髪に、少し無精ひげを生やしていた。それは精悍、というには物足りないが、どこか安心できる風貌だった。茫洋として、空に浮かんだ綿雲に似ている。 玉砂利の道をゆっくりと踏みしめながら、恭介は目的の墓に向かっていた。高台の斜面に作られたその墓地からは、市内を一望にすることができる。 風が少しだけ吹いて、葉を落とした木の枝を揺らした。 「……?」 恭介は目的の墓の前で、つと足をとめた。誰かが、墓の前に立っている。 見覚えのない、男だった。年は、二つか三つ、違うくらいだろう。すらりとした、静かな佇まいをしている。 砂利を踏む音を立てながら近づくと、男のほうでも気づいたように振り返った。 「――こんにちは」 男は、笑顔を浮かべて軽く頭を下げている。 「こんにちは」 と恭介も同じように挨拶を返してから、 「失礼ですけど、未名の知りあいのかたですか?」 と、訊いてみた。 「ええ――そんなものですね」 男は妙な言いかたをして、けれどそのことについては何も言わず、 「あなたは、お父さんですか?」 と、質問した。 恭介はその言いかたを不思議に思ったが、「ええ、そうです」と答えている。男はそれには構わず、 「少し、話をしてもいいですか? せっかく、こうして会えたものですから」 「…………」 恭介は特にどういうこともなく考えていたが、無造作にうなずいている。別に急ぐわけでもなかった。 男はそれに対して軽く笑顔を浮かべて、体をどけている。恭介は水桶を墓の前に置いて、少しだけ手をあわせた。それから近くの石段に腰を下ろし、煙草に火をつける。 「いりますか?」 ゆっくりと一息ついてから、恭介は訊いた。 男は立ったまま、首を振っている。 恭介はしばらく煙草を吸ってから、 「もしかして、ハルの知りあいですか?」 と、訊いた。 「ええ――」 「これは、外れたら聞き流してもらいたいんですが」 言いながら、恭介は携帯用の灰皿に煙草の灰を落としている。 「あなたも、魔法使いなんでしょ?」 男はちょっと、黙っている。恭介は相変わらず煙草を吸いながら、 「まあ未名かハルの知りあいといえば、その可能性はあります。それに何ていうか、魔法使いっていうのはちょっと独特な雰囲気をしていますよ」 「あなたも、そうなんですか――?」 「俺……? 俺ですか」 恭介は笑った。 「俺は違いますよ。俺には魔法なんて少しも使えない。ただの普通の、一般人です」 男――結城季早は、様子をうかがうように恭介のことを見ていた。この父親は、その子供とよく似ている。 「これは不躾ですけど」 と、季早は言った。 「彼女が……宮藤未名さんが亡くなったときのことを、聞かせてもらっても構わないでしょうか?」 恭介は季早のことを見て、それからおもむろに煙草の煙を吐きだしている。 「どうしてですか?」 「同じことを願ったものとして、です……」 「…………」 恭介はしばらく、何も言わなかった。それからゆっくりと一度、息をついてから、 「あの日、俺は家にはいなかったんです」 と、話しはじめた。 「朝から出かけていました。だから実際に何があったかは、知りません。未名の魔法のことは知っていましたが、その時はそんなことについては考えられなかった」 指の先で、煙草がゆっくりと燃えていた。 「はじめにハルから電話があったときは、何だかよくわかりませんでしたね。未名が死んでいるっていうんですけど、その内容はともかく、ハルの様子が妙でした。何というか、落ちつきすぎてるんですね。もっとも、俺としてはそれは気が動顚しすぎてかえって落ちついてるんだろう、とは思っていましたけど」 恭介は一度、煙草を吸った。季早は黙って聞いている。宮藤恭介はどちらかといえば独り言のように、続けた。 「結局、家についてみると、未名は確かに死んでました。よく覚えてますけど、ハルは電話の横で床に座りこんでました。未名は、ハルの部屋で横になって倒れてました。手に、見覚えのある指輪をしてて、それで何があったかわかったんです――ああ、こいつはハルの代わりに死んでしまったんだなって」 「…………」 「でもその時、そのことには気づいてませんでしたね。俺自身、混乱してましたから。それに気づいたのは、葬式やら何もかもが終わってからです」 恭介は灰皿で煙草を消して、そのままポケットにしまった。 「ハルにかかった魔法≠ノついて、気づいたのはね」 「…………」 「佐乃世さんにも聞いてみたから、間違いなかったですね。ハルは生き返ったとき、違う魔法にもかかっていた……いや、副作用というべきかな。ハルは母親のことを、忘れてしまった。それを治すことはできません。そうすれば、魔法の効果そのものが消えてしまうことになる。そうしたら、ハルは死んでしまうしかない」 恭介はため息をついた。 「忘れたといっても、正確には忘れたわけじゃなかった。というか、忘れたならそれはそれでよかったのかもしれない――ハルは母親という存在の意味を、なくしてしまったんです。子供にとって、母親というのは大きい存在です。絶対、といっていいかもしれない。ハルはそれをなくしてしまった――ハルは、大人にならなくては生きのびられなかったんです」 季早は、恭介のことを見つめる。そう、宮藤晴が、あの少年が抱えていたものは、それだった。彼はあまりに大きなものを、失ってしまっていた。 そしてそれは、決して――取り戻すことはできない。 けれど―― 「あなた自身は、どうなんですか?」 と、季早は訊いた。 「……?」 「あなたも、大切なものを失ってしまったはずです。その時、あなたはどうしたんです。世界を、憎んだりはしなかったんですか? それを取り戻したい、とは?」 恭介はその言葉を、しばらく考えていた。まるで空から降ってきた雪の一片を、手の平の上で眺めるみたいに。 「――悲しみのぶんだけ、この世界で生きていくことができる」 と、恭介は言った。 「?」 「未名はよく、そう言ってました。何かが悲しいのは、それだけそのものが大切だったからだ。だからその大切さのぶんだけ、人は生きていくことができる。それは失われたものじゃなくて、手に入れたものなんです……彼女がいなくなったとき、確かに世界のほとんどは意味をなくしました。でもその悲しみは、彼女が残してくれたものなんです」 「…………」 「そうは、思いませんか?」 「……ええ」 季早は少し、笑った。確かに、そうだ。 幸せになるのは、悲しいこと―― それから恭介は立ちあがって、服の埃を払っている。そろそろ、長話も終わるときだった。 「すみません。こんなふうに立ちいったことを聞かせてもらって」 「いや、別に――俺も、誰かにこんなふうに話したことはなかったですからね。悪くない。少し、肩の重みがとれたような感じです」 「そうですか」 そして二人が別れていこうとしたとき、季早は道の途中でふと振り返って、言った。 「宮藤さん」 「はい……?」 「ハル君の、力になってあげてください。たぶん彼は、これからもそういう力を必要とするでしょう」 恭介はその言葉にちょっと首をかしげて、けれど軽くうなずいてみせた。季早は少し笑って、今度こそ本当に行ってしまう。 「…………」 恭介は新しい煙草に火をつけて、ぼんやりとそれを吸った。まだ少し冷たい風が吹いて、煙草の煙をたなびかせている。 それは事件が終わってから、しばらくした日のことだった。 春はまだ、少しだけ遠い――
[エピローグ]
春の季節は苦手だった。 山の斜面には桜がいっぱいに咲いて、小さな花びらを散らせつつある。陽の光が、雨粒のように輝いていた。風はもうだいぶ、柔らかさを含んでいる。 霊園は相変わらずの静けさに包まれていた。死者はもう、何も語らないのだ。そこにあるのは、ただ清澄な穏やかさばかりだった。 ハルは母親の墓の前にかがんで、ぼんやりとしている。 いつもなら、ハルはここに一人でやって来ていた。誰にも何も言わず、一人で。何故かそうすべきなような気が、いつもしていた。 けれど今日、ハルは一人ではない。 その辺を、アキが散歩しているはずだった。といって、彼女が無理矢理ついてきたというのではない。ハルが彼女に、ついてきてもらったのである。 どうしてだろう――? ハルは自分でも、よくわからない。けれど誰かにいて欲しかったのだ。そしてこの一年を巡る時間のあいだ、水奈瀬陽はずっとハルのそばについてくれていた。 「…………」 アキはあれから、ほとんど何の質問もしていない。 母親のことも、結城季早のことも、魔法のことも―― 「君のことを知りたい」 そう、アキは言った。 けれど、聞かなくてもいいことは、たぶんあるのだ。 「……くしゅん」 近くで、くしゃみをする音が聞こえた。 見ると、アキが向こうに立って鼻をこすっている。季節の変わりめで調子が悪いのか、彼女はしきりにくしゃみをしていた。 ハルはしばらくして、おもむろに立ちあがっている。 「そろそろ、行こうか――」 「うん」 二人は墓をあとにして、歩きだしている。砂利を踏む音だけが、奇妙に虚ろな感じに響いていた。それはたぶん、死者のための音なのだろう。 歩きながら、ハルはふと考えている。 自分はこれからも、折にふれてはここに来ることになるだろう。 それは、何故だろう―― 失われたもののために、だろうか。 いや、たぶんそれは―― 「……くしゅん」 その時、アキが隣でくしゃみをした。 ハルは彼女の様子に、少しだけ子供っぽく笑っている。
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