[不完全世界と魔法使いたち@ 〜ハルと永遠の魔法使い〜]

[三つめの事件]

 駅に着くと、ちょうどバスがやってきたところだった。ハルは古めかしい感じのそのバスに乗って、中ほど後ろの席に座る。
 日曜の昼下がり、バスに乗っているのはハル一人きりだった。窓からの陽射しに、くすんだ色のシートは明るい温もりを含んでいる。ハルは上着を脱いで、少しだけ窓を開けた。
 季節は秋も半ばを迎えようとしていて、夏の暑気はどこにも残っていない。まるで何かがそっと零れ落ちていくように、空気は次第にその冷たさを増していた。
 時間が来て、ゆっくりとバスが動き出す。駅前のロータリーをぐるりとまわり、バスはのんびりと散歩に出るような調子で走りはじめた。
 天橋(あまばし)市から七葉(しちよう)線の電車に乗って十五分ほど、駅を三つすぎたところに、夕凪(ゆうなぎ)町はあった。小さな、田園風景が広がる田舎町である。
 ハルがここにやってきたのは、人に会うためだった。その人物のことを、ハルはよく知っている。ついこのあいだも、ハルはその人物に会ったばかりだった。
 静かに時間を揺らすようなバスの震動を感じながら、ハルは頬杖をついて窓の外を眺めている。
 駅前の商店街や住宅地を抜けると、道の横にはいつの間にか田んぼや畑が広がっていた。黄金色の稲穂のほとんどはもう刈りとられ、収穫の遅いものが少しだけ風に揺れている。
 しばらくすると目的の停留所の名前が告げられ、ハルはブザーを押した。
 バスを降りると、住宅地の中を歩きだし、目的の場所に向かう。そこかしこに緑が多く、落ちついた感じの家が並んでいた。
 しばらくして、向こうから人がやって来ている。
 三十代半ばといったところの、背の高い男だった。少し線の細い感じがしたが、かといって華奢というほどではない。服装は全体が黒で統一されていて、折り目正しい感じがした。不思議と、静かな感じのする人物である。
 ――どこか、白夜の世界の夜を思わせるように。
「…………」
 ハルはごく自然に、その人の傍らを通り過ぎようとした。相手が自分のことを知っているとは思っていない。
 けれどハルがその横を通りすぎようとすると、
「君が、宮藤晴くん?」
 と、声をかけられた。
「……?」
 ハルはわからないまま、男のほうを見た。
 男は軽く、微笑を浮かべている。
「やっぱり、そうだったのか。聞いていた印象と同じだったんでね。それに佐乃世(さのせ)≠ウんのところに向かっているようだったから」
「ぼくを、知ってるんですか?」
 ハルは落ちついて訊きかえした。
「まあそうだね」
 男はやはり、笑顔を浮かべている。子供が懐きそうな感じの笑顔だった。
「今日は佐乃世さんを訪ねてきたんだけどね、いろいろ参考になる話を聞かせてもらったよ。もし君が彼女の家に行くなら、よろしく伝えておいてくれないかな?」
「ええ――伝えておきます」
 男の表情は変わらない。
「今日は運がいいらしいね。佐乃世さんだけでなく、こうして君にも会えたんだから」
「…………」
「それじゃあ、僕はもう行くよ。おばあさんによろしく」
 もう一度、同じように笑ってみせると、男は向こうへ歩いていってしまった。
 ハルはしばらく立ちどまって、それを見送っている。
 秋の時間はゆっくりと、何でもないように落ちつきを取り戻しはじめていた。

「よく来たわね、ハル」
 そう言って、佐乃世来理(きり)はハルを迎えた。
 そこは彼女の家の一階で、二人は居間に向かいあって座っている。ベランダの向こうには小さな庭が広がっていて、澄んだ光が部屋の中に差しこんでいた。庭に通じるガラス戸は開かれていて、時々レースのカーテンが柔らかい鳥の羽根みたいに揺れた。
 佐乃世来理――
 彼女はハルの、母方の祖母にあたる人物だった。おばあさんといってもまだ若く、六十を少し越えたくらいの年齢である。連れあいとはだいぶ前に死に別れ、今は一人で自由に暮らしている。娘はハルの母親一人きりだった。
「どうかしら、さっき焼いたばかりだけど?」
 そう言って、来理はテーブルの上のお菓子をすすめた。
「いただきます」
 ハルは上品な食器の上に乗ったそれを一つつまんで、口に入れてみる。来理の作ったお菓子は相変わらずおいしくて、不思議な味がした。
 来理は満足そうにそれを眺めながら、
「学校のほうは、どうかしら?」
「問題ないよ。友達もいるし、クラスのみんなも仲がいいしね」
「そう」
 それから来理は、ごく落ちついた様子で訊いた。
「……体のほうは、変わりないかしら?」
「大丈夫だよ」
 ハルは鈴の音のするような、ティーカップに口をつけている。
「本当に大丈夫?」
「本当にだよ」
 ハルがそう答えると、来理は安心したような、けれどまだ心配そうな表情を浮かべた。
「わかっているとは思うけど、あなたの体は少し人とは違うのだから。いいかしら? あなたがあの魔法でどんな影響を受けたかは、誰にもわからないのよ。とても難しい魔法だし、前例もあまりないのだから」
「わかってるよ」
 ハルは笑って答えてみせる。それはハルの魂≠ノ関わる問題だった。わかっていないはずがない。
「――だから魔法に関わる一通りのことは習ったし、練習もした。もし何かおかしなことがあったら、ぼくが自分でどうにかできるように」
「ええ、そうね」
 来理も少しだけ笑う。
「あなたはとても優秀な魔法使いになれるわ。よい素質を持ってる。魔法と血筋はあまり関係ないけれど、母親に似たのかもしれないわね。それにあなたは、とても優しい子よ。それだけで十分なくらいに」
「…………」
 ハルは何となく赤くなって、ごまかすようにお菓子をつまんだ。クッキーにはその甘さの奥に、柔らかな苦味があった。
「そういえば、さっき男の人に会ったよ。キリばあちゃんに、よろしくって言ってた」
「ええ」
 来理はカップをとって、そっとお茶を口に含んだ。
「――あの人も、魔法使いなんでしょう?」
 ハルがそう訊くと、来理は困ったように苦笑してカップを置いた。
「あなたは本当に優秀な子ね、ハル」
「それ以外には考えられなかっただけだよ」
「そうね、普通の人がわざわざこんなところに魔法管理者≠フ一人を訪ねてくるわけはないわね」
 来理はそう、落ちついた笑顔を浮かべて言った。
 魔法管理者――
 一般に、魔法使いが魔法を使うためには魔術具≠ェ必要だった。それがなければ、揺らぎ≠作っても魔法の形にはできないのである。それは例えばハルが感知魔法≠フために使ったペンダントだったり、読心魔法≠ノ使った奇妙な形のオブジェだったりする。
 来理はそうした魔術具を保存、管理するために選ばれた管理者の一人で、家の倉庫にはいくつもの魔術具が保管されていた。
 ハルが時々使う魔術具は、彼女から借りだしたものである。そしてまた、管理の必要のうえから、彼女が魔法に関する知識を多く持っていることも、当然なことではあった。
「……結城季早(ゆうききはや)という人よ。あの人には少し、難しい魔法について質問されたの」
 と、来理は言った。
「いくつかの魔法を組みあわせて使うような、難しい魔法。成功する見込みはとても低いけど、彼はその魔法について、私に質問しにきたの」
「…………」
「何に使うつもりなのかは、聞かなかったわ。けれど彼の気持ちは……よくわかるわね。取りかえしのつかないものを失ってしまえば、人は魔法にでも頼らないと、生きてはいけないのかもしれないから」
 来理はそう言って、ただ静かに微笑している。
(そうなんだろうか……)
 ハルは黙ったまま、けれどよくわからなかった。ハルにとって魔法は、決して失ったものを取り戻せるようなものではなかった。ハルはそのことを、よく知っている。
 ハルが無言でいると、来理もそのことに気づいたようだった。彼女は少しだけ微笑みの色をずらして、
「そうね、あなたにはそんな話はわからないかもしれない。魔法で何もかもが救えるわけじゃないと、あなたは知っているから。でもそれでも、人はそんな小さな願いを抱かずにはいられないときがあるのよ」
「…………」
「この話は、これくらいにしておきましょう」
 と、来理は何かを察したように穏やかに言った。彼女にとっても、魔法は決して人を幸福にする力ではなかった。
「……それより、今度学校で学芸会があるそうね」
 来理は話題を変えた。
「うん」
「あなたのクラスは、何をするのかしら?」
「劇だよ。学年合同のだけど」
「どんな劇?」
「ギリシャ神話の、オルフェウスみたいな話かな……」
「ずいぶんロマンチックね。面白そうだわ」
「そうかな……」
 ハルは何故か、あまり気乗りしない様子で言った。そして実際、それは気乗りしないことではあった。

「…………」
 学校の体育館で、ハルは口数少なく動いている。今はちょうど、劇の予行演習の準備中だった。
 隣で、アキが不思議そうにそれを眺めている。
「どうかしたの、ハル君」
 机やイスといった小道具を舞台上に運びながら、アキは訊いてみた。
 ハルはちょっと憮然とした感じで、黙っている。
「調子でも悪いの? もしかしてお腹壊したとか。実りの秋だからって、何でも食べすぎてると……」
「違うよ」
 机を置いて、ハルは諦めて答えた。
「調子が悪いわけじゃないんだ」
「じゃあ、どうして?」
「配役だよ」
「配役?」
「この劇の配役のこと。この役は、ぼくには向かないよ」
「そうかな、わたしにはぴったりだと思うけど」
「だって……」
 ハルはうんざりした様子で言った。
「魔法使いの役なんだよ」
「ぴったりでしょ」
 アキはにこにこしている。
「ハル君にやらせるための役としか思えないよね。葉山先生だって、迷わずハル君を選んでたし」
 そう、担任の葉山美守は、劇の配役についてはほとんど勝手に決めてしまっていたのである。そしてハルは、はれて魔法使いの役を与えられたわけだった。
「でもハル君はまだいいよね」
 アキはイスに座って肘をつきながら、
「わたしなんて、ただの村娘だもん。出番も最初にちょっとだけだし。おまけに目立たないし――」
 口をとがらせて、ぶつぶつと文句を言っている。この少女はこの少女で、ハルとは違った不満の抱きかたをしているようだった。
「ぼくならいつでも変わってあげるけど」
「いえいえ、ハル君はやっぱり魔法使いでしょ。わたしはいいと思うけど。でもさ、どうしてそんなに嫌なの?」
「…………」
 嫌というよりも、困るのだ。それも役ではなく、内容でのことだった。それは誰かがわざとやったとしか思えないほど、皮肉すぎる話に思えた。
『こら、そこ!』
 二人がそんなことをしゃべっていると、突然怒鳴り声が聞こえた。
 見ると、担任の葉山美守がメガホンを片手に叫んでいる。
『終わったら次の準備に移りなさーい。そろそろはじめるわよー』
 普段はどちらかといえばのんきだが、劇の話が決まってからの彼女はかなりはりきっていた。ちょっとした監督のつもりらしい。
「…………」
 二人は一度顔を見あわせてから、舞台の袖に引っこんだ。
 本番と違ってカーテンも閉められていない体育館は明るく、がらんとしていた。当日は児童と保護者の席が並べられるその場所も、今は葉山美守が一人でいるだけである。
 やがて舞台の準備が整うと、美守の声と共にリハーサルがはじまった。

 劇が一通り終わると、その場で片づけと反省会が行われている。美守が、舞台で気になったことなどを生徒たちに指摘していた。
 アキは早めに終わったので、片づけにまわっていた。机を持って、体育館をあとにする。舞台のすぐ下では、残った生徒たちが美守の話を聞いていた。美守はやけに真剣な口調でしゃべっていた。
 体育館を出ると、アキは鼻唄を歌いながら歩いていく。演技を誉められたおかげで、気分がよかった。
 学芸会用の舞台道具の置き場所は、各学年ごとに分けられていて、五年は二年と合同で家庭科室。三、四年は音楽室。一、六年は図書室だった。
 アキが家庭科室の扉を開けると、中にはすでに数人の生徒が集まっていた。アキと同じように、早めに片づけにまわった生徒たちである。
「アキも終わったの?」
 そのうちの一人が、アキに気づいて声をかけてきた。
「まあね」
 アキは上機嫌のまま、机を教室の隅っこに置いている。
「ほかのやつはまだっぽい?」
 大机の上に座っている男子が訊いた。
「わかんないけど、そうじゃないかな。全員終わるまでは、けっこうかかりそうだったけど」
「んじゃ、もうちょっとここにいてもいいな」
 教室の中には六人ほどの生徒がいて、先生がいないのをいいことに寛いでいた。電気がつけられていないせいで教室は薄暗く、ひっそりとした空気を漂わせている。光と闇の境界が曖昧で、全体に薄いヴェールがかかっているようだった。
「でもさ、ミモリン何かやる気だよね」
 女子の一人が口を開いた。ミモリンというのは、もちろん葉山美守のことである。
「あ、やっぱりそう思う?」
「うん、普段はどっちかっていうと、のほほんとしてるのにね。この前なんて、曜日間違えて授業の準備してきたし」
「でも劇がはじまってから、やたら気合い入ってるよな」
「そうだよね、何かあったのかな?」
「男とか」
「いや、意味わかんない」
「……でもこの劇、けっこう面白くないかな?」
 大人しめの男子が、遠慮がちに発言した。
「えー、そうかな。何かわかりづらいし、ちょっと暗くない?」
「わたしもわりと好きだけどな、この話」
 アキはぼんやりと言った。
「えー、そうかな。アキってこういうのが好みなの?」
「よくわかんないけど、何となく」
「あ、でもあの二人はけっこうよくないかな」
「誰だよ。俺か?」
「馬鹿、誰があんたなんか。ユリシス≠ニアニエス≠諱v
「ああ、透哉と三香ね」
 藤間透哉(ふじまとうや)と咲羽三香(さきはみつか)――
 透哉はクラスの委員長をやっていて、三香は副委員長をやっている。頭もいいし、運動神経もある二人だった。この二人が主役をやることは誰も文句をつけていない。
「普通にいいよね、あの二人」
「でも俺、あいつら喧嘩してたの見たことあるぞ」
「へえ、どこで? あんたのことだから見間違いじゃないの?」
「学校の裏の坂道だよ。つーか間違いじゃないっての。遠くだったから何話してるのかまでは聞こえなかったけど、何かあれは――」
 言おうとしたところで、教室の扉ががらがらと開いている。その向こうから、書割を持った男子生徒が姿を現した。
「お前ら何やってんだよ。片づけまだ終わってねえんだから、さっさと戻ってこいよな。遅いから、先生が呼んでこいって言ってたぞ」
 さっきまでおしゃべりしていた生徒たちは顔を見あわせて、ぞろぞろと動きはじめている。
 アキもイスを片づけ、ほかの女子といっしょに体育館へと戻った。
 教室の中の光と闇の境界は曖昧で、世界はいつまでもそんな曖昧さの中を漂っているような感じがした。少なくとも、アキにはそんな気がしていた。

 放課後、残った劇の準備やセリフのチェックで、生徒たちは教室に残っている。別に強制ではないので無理に残る必要はないのだが、どの生徒もわりと進んで居残りをやっていた。
「何だかんだいっても、みんなやる気だよね」
 アキは小道具の花を作りながら、つぶやくように言っている。
「そうみたいだね」
 向かいの机で同じように作業をしながら、ハルは答えた。舞台一面に咲かせる花は、まだ半分もできていない。
 二クラスの教室をそれぞれ分けて、舞台道具の製作と演技指導が行われていた。ハルとアキは出番が終わったので、道具を作る作業に移っている。
「学芸会って、ハル君のところはお父さんが来るの?」
 花びらを何枚もくっつけながら、アキは質問する。わりと大雑把な手つきだった。
「ううん、父さんは来れない。仕事があるから」
 ハルは言いながら、丁寧に作業を続けていた。
「代わりじゃないけど、おばあちゃんが見に来るよ」
 ハルは机の上に、いくつめかの花を置いた。どちらかというと、それはアキの作ったものよりよくできている。
「む……」
 アキは自分の作った花と見比べて、しばらく考えていた。それから、ハルの作り方を観察する。学ぶべきことはちゃんと学ぶ少女なのだ。
 二人は雑談をしながら、作業を進めていった。まわりの生徒たちも似たりよったりで、隣の教室からは舞台のセリフや美守の指示が聞こえたりしている。
 それから不意に、二人のそばで声がした。
「――アキちゃんは、宮藤くんと仲がいいんだね」
 顔をあげると、そこには咲羽三香の姿がある。
 きれいな髪をした、おっとりした感じの少女だった。今は髪を束ねていて、邪魔にならないようにしている。咲羽三香は何となく、いいお嫁さんになる≠ニいうタイプの少女だった。険のない、けれど芯の強そうな雰囲気をしている。
「咲ちゃん、舞台のほうは?」
 と、アキは訊いた。三香はアニエス≠フ役があるはずである。出番は最後のはずだが、舞台稽古はまだ終わっていない。
「途中のところで引っかかってて。しばらくはかかりそうだから、こっちを見に来たの」
 彼女はちょっと困ったような笑顔を浮かべた。
「透哉くんも大変だね」
 と、アキはユリシス*の少年の名前を口にした。
「主役だからずっとあっちにいなきゃいけないし、覚えなきゃいけないセリフとかもすごく多いしさ」
「……藤間は何でも一生懸命にやるほうだから」
 三香はつぶやくように言いながら、音を立てずに座った。
「花、作るの私もやっていいかな?」
「どうぞ、どうぞ」
 断る理由なぞあるはずがない。
「ハル君うまいから、作り方教えてもらうといいよ」
「宮藤くん、いいかな?」
 言われて、ハルは花の作り方を一通り教えてやる。
 それから三人で花作りを再開すると、三香は最初のセリフをもう一度口にした。
「二人って、仲いいよね」
「えー、そうかな?」
 アキは何故か嬉しそうな顔をしている。
「咲ちゃんも、透哉くんとはけっこう仲良かったよね」
 少なくともアキの印象では、ユリシス役の藤間透哉と、アニエス役の咲羽三香は普段から仲がよかった。
「そう、かな」
 三香の返答は、けれど妙に歯切れが悪い。
「透哉も、そう思ってるかな……」
「……?」
「私ね、本当はこの役やりたくなかったんだ」
「この役って……アニエスのこと?」
「うん」
 意外だった。ということは、ハルと同じような人間が少なくとももう一人いたということになる。
「でも三香さんは、アニエス役にぴったりだと思うけど」
 自分のことは棚にあげつつ、ハルはそんなことを言った。
「そう言ってもらえるのは嬉しいんだけど」
 三香は珍しく、気弱そうな笑顔を浮かべた。
「私は藤間の恋人じゃないから……」
「……でも、それは劇のことでしょ? 別に本当の恋人でなくたっていいんじゃない?」
「そうなんだけど」
 三香の表情は変わらなかった。
「藤間がどう思ってるかわからなくって……こういうの、迷惑じゃないかな、って」
「そうかなあ、劇だからいいんじゃない? わたしだって、本当は村娘じゃないし。ハル君だって……魔法使いじゃないしね。みんなそうでしょ?」
「でも透哉だって、本当はこの役をやりたくなかったかもしれない」
「…………」
「私は、透哉の邪魔にはなりたくないんだ」
 それからしばらく、三香は黙って花びらをくっつけていた。
「三香、いるー?」
 やがて教室の扉のほうから、そんな声が聞こえた。どうやら隣の教室で呼んでいるらしい。三香が気づいて、手をあげる。
「じゃあ私、行かないと」
 三香は立ちあがると、二人に手を振って行ってしまった。
 それは確かに、いつもの咲羽三香の表情である。
「…………」
 アキは三香の置いていった花を、手にとってみた。
 それは他愛もなく、ぼろぼろと崩れていく――
「どうしたのかな、三香?」
「さあ……」
 ハルはそれに対して、特に答えようとはしなかった。

 ようやく劇の練習も一通り終わり、帰り道を二人は並んで歩いていた。時刻は五時をすぎようとしていて、空には電池の切れかけたような太陽が浮かんでいる。
 時折吹く風は冷たく、少しずつ冬の気配を含みはじめていた。
「劇の準備、何とか終わりそうだね」
 アキは歩きながら、震えるようにして言った。この少女は寒がりなのか、身を縮めるような感じでしゃべっている。
「そうだね、あの花も一応量は十分だし」
 隣で歩くハルは、けれどあまり寒そうにはしていない。どちらかといえばハルのほうが薄着だった。
「本番、楽しみだよね」
 とアキがからかうように言うと、
「だといいんだけどね」
 ハルは相変わらず憂鬱そうに答えた。
 二人は学校の前の坂道を下りて、通学路を帰宅していた。帰る時間が遅いせいで、ほかの生徒の姿はない。車もなくて、あたりは静かだった。
「でもさ、本当に何かあったのかな?」
 歩きながら、アキが言った。
「ん……」
「咲ちゃん、様子がおかしかったから」、
 アキは浮かない顔をしている。あの時のやりとりの意味が、アキにはわからなかった。
「心配事でもあるのかな」
「どうかな……」
「それに、アニエスやりたくないって言ってたし」
「うん」
「ハル君もやりたくなって言ってたから、理由とかわかんないかな?」
 真剣な顔をして、アキはそんな無茶を言った。
「それはわからないよ」
 ハルは苦笑するように言う。
「うーん、でも心配だよね」
「ぼくらがどうこうするような問題じゃないかもしれないよ」
「そういえば、聞くの忘れてた」
「何を?」
「透哉くんのこと」
 アキはそう言って、二人の様子がおかしかったという話をした。家庭科室で聞いた話である。
「どうかな、二人で喧嘩でもしてたのかな?」
「さあ……」
「ハル君て、透哉くんのこと知ってる?」
「前にクラスがいっしょだったことあるし、知ってるよ」
「わたし、あんまりしゃべったことないけど、どんな感じかな?」
「うーん」
 少し考えるように黙ってから、
「とても、強い意志をしてるんだ」
 しばらくして、ハルははっきりとそう言った。
「意志?」
「なんていうか、正しさ≠ノ対して確信を持ってるっていうか、ちょっと違うんだけど。正義感が強いっていえばいいのかな」
「ふうん」
「四年の時のことだけど、いじめっ子っていうか、けっこう乱暴な男子がいたんだ。先生とかに注意されても無駄で、大人しい子なんかはわりとひどいことされてた」
「うん」
「そんなことが続いてると、みんなその子を避けるようになって。で、その子もますます乱暴になっていっちゃったんだ。悪循環てやつだね」
「そこで、透哉くん?」
「うん」
 ハルはうなずいて、
「藤間は最初っからその子と対立してて、誰も相手にしなくなってからは、その子は藤間にばっかり突っかかるようになってたんだ。そんなのが一週間くらいした頃、藤間はその子と決闘することになった」
「決闘?」
 何だか大時代的な話だった。
「それで二人は、校舎裏の人の来ないところを選んで放課後に決闘した」
「なんでハル君、そんなこと知ってるの?」
「藤間に立会人をやってくれって頼まれたから」
「…………」
 本当に大時代的だった。
「それで二人で喧嘩したんだ?」
「うん、一応素手で、どっちかが降参するまでね」
「透哉くんが勝ったの?」
「ううん」
 ハルは首を振った。
「引き分け」
「何で?」
「途中で二人ともやめちゃったから。どっちも本当の喧嘩なんて慣れてないし、馬鹿馬鹿しくなったんだと思う」
「ふうん」
「結局、その子もどうしていいかわかんなかったんじゃないかな。みんなとどうつきあっていいかわからなくて、乱暴をしたりしたんだ。そういうつきあいかたしか知らなかった、のかな……」
 ハルはつぶやくように言った。
「だから藤間は何とかそれに答えてやって、それじゃだめだってことを教えた。藤間はたぶん、最初からそのつもりだったんだと思う。そのことに気づいてて、誰もやらないなら自分がやるしかないと思ったんだ。藤間透哉は、そういうやつなんだよ」
「ふむ……」
 腕組みをして、アキは考えている。
「じゃあどう考えても、透哉くんが咲ちゃんと喧嘩するわけないよね」
「そうだろうね」
「じゃあ、どうしたんだろう? 喧嘩じゃなくても、何かあったりしたのかな」
「さあ」
 ハルは不得要領な感じに答えた。
「でも咲ちゃん、けっこう悩んでたみたいだし、このままじゃ劇で困ったことになったりしないかな?」
「大丈夫だと思うよ。あの二人は確か、幼なじみだって聞いたこともあるし」
「そうなの?」
 アキは意外そうな顔をする。
「うん、だからたぶん大丈夫だよ。心配しなくても、自然に仲直りするんじゃないかな」
 ハルはのんびりとした口調で、そう言った。
 もちろん本当に困ったこと≠ノなるなんて、この時のハルにはわかるはずもなかったのである。

 何かがそっと積み重なっていくように、時間が過ぎていった。一日一日が奇妙な重みを増していき、やがてその重み自体が積み重なって出来上がったような一日が、やって来ている。
 ――学芸会、当日。
 その日、空はきれいに晴れあがっていた。
 体育館には全校生徒のイスが並べられ、窓には厚手のカーテンがひかれている。白熱電球は不透明な粒子のような光をあたりに散らし、館内はざわざわとした空気に包まれていた。
 プログラムによれば、五年生の劇がはじまるのは三番目、三年生の出し物の次だった。奇数の学年が先に発表するようになっている。一番最初は一年生による合唱で、生きることと成長することを歌った女性デュオの曲を練習したものだった。
 プログラムの合間の休憩時間に入ると、美守が声をかけて準備にとりかかっている。この休憩時間のあいだに、衣装変えや舞台道具の搬入などを行わなければならなかった。
 五年生全員が立ちあがって、それぞれ移動をはじめる。体育館を出るとき、何人かは保護者の席に親の姿を見つけて、手を振ったりした。
 ハルも少しだけ祖母の姿を探してみたが、うまく見つからない。時間は伝えてあったが、遅れているのかもしれなかった。ハルはあまり気にせず、準備にとりかかった。
 衣装変えに何人かは教室で着替えなくてはならないが、ハルには特にその必要はなかった。魔法使いのローブと帽子をかぶるだけなのだ。
(どうなんだろう……)
 その衣装を手にとって、ハルはため息をついた。ディズニー映画のファンタジアみたいな格好だった。通りすぎる人が、時々珍しそうに眺めたりしている。
「ハルのお兄ちゃん」
 とその時、不意に声が聞こえた。
 ハルが振りむくと、そこには栩あかり――口調からして、そうだろう――の姿があった。彼女は明るいワンピースを着て、背中には蝶の羽根らしきものがつけられている。三年生は次が出番だから、その衣装なのだろう。
「あかりちゃん、久しぶりだね。それ、蝶の格好なの?」
「そうです。『親指姫』で葉っぱに乗った親指姫を運んであげる役です」
 双子の姉のほうの、ひかりも姿を現した。
「――変な格好」
 彼女はハルの格好をしげしげと眺めて、鉈で割るような批評をした。
「それって魔法使いなわけ。全然、似あってないけど」
「ぼくも同感だけどね」
 ハルは苦笑するように言う。
「二人のほうはよく似あってるね。同じ役なの?」
「そうです、おそろいです」
 あかりは嬉しそうに言う。
「どこがよ、こんなの」
 その隣で、ひかりは不機嫌そうだった。
「センスがないし、羽根は邪魔だし、それに親指姫の乗った葉っぱ、というか台車を引っぱるだけの役なのよ。本当は一人の役なのに、双子だからって二人にされちゃうし」
 言いつつ、ひかりはまんざらでもなさそうな様子だった。
 仲直りは、それなりにうまくいっているのだろう。
 ハルはそんな二人を眺めつつ、少しだけ微笑している。確かに、魔法使いも悪くはないのかもしれなかった。
(少しくらい、やる気になったほうがいいかな)
 ふと、そんなことを思ったりもした。
「…………」
 その時――
 ハルの横を、誰かが通りぬけている。その瞬間、ハルは何故か奇妙な感覚を覚えた。何か、重い塊を飲みこんだような――
 その誰かに、ハルは見覚えがあるような気がした。けれどその奇妙な感覚に気をとられたせいで、そのことをとっさに思い出せないでいる。
 記憶の奇妙なぶれの中でハルがようやく振りむくと、その相手はすでに体育館の人ごみにまぎれようとしていた。背中がわずかにのぞくばかりである。
(何だろう……?)
 その人物に、ハルはどこかで会っているような気がした。けれどいったいどこで会ったのかが、ハルには思い出せないでいる。つい最近のような気もしたし、だいぶ前のような気もした――
「ハル、そろそろ行こうぜ」
 そんなことを考えていると、急に後ろから声がかけられた。
 見ると、友達の一人が舞台道具の運びだしにかかっている。ほかのみんなも準備を終えて、道具運びにかかっていた。
「うん、今行く」
 いい加減に、二人としゃべっている場合でもないらしい。
「それじゃあ、私たちも行きます」
 と、あかりが言った。二人のほうが出番は先である。
「二人ともがんばってね」
 ハルは明るく、言葉をかけてやった。
「てか、魔法使いだったらもうちょっと気の利いた励ましとかはないわけ?」
 ひかりが無理に怒ったような口調で、そんなことを言った。何故だか、彼女の頬は少し赤い。
「……そうだね」
 ハルは少し考えて、
「汝に授けたるは魔法の力。この不完全な世界に、完全を求めるために残されたもの。幾百もの星の中から、汝に選ばれた力。この力は汝の願いを叶え、汝の失ったものを取り戻すであろう。ただし願いを叶えられるのはただ一度。それでは汝、今はすみやかに行くべし=v
「何ですか、それ?」
 あかりが不思議そうに訊いた。
「劇のセリフだよ」
 ハルはそう、笑って答えている。

 三年生の劇『親指姫』が終わると、拍手とともに幕が下りていった。
 その間、五年のクラスは衣装を着たまま準備室の前で待機していたが、「さあ、行こうか」という美守の声で全員が立ちあがっている。休憩時間のざわめきがはじまる中、舞台準備のために道具の移動にかかった。
 準備室では三年生の片づけがもたついているようだった。低学年らしく、なかなか要領よく行かないらしい。
 見かねた五年生の何人かが、準備室に入って手伝いをはじめた。とりあえず道具を外に出してしまわなければ、こちらの準備ができないのである。
 ハルがふと見ると、咲羽三香も準備室の中に入っていくところだった。三香は白いドレスに腕輪を身につけている。ヒロインらしく、控えめながらも存在感のある姿だった。
 彼女の顔色が悪いように見えて、ハルは何となく気になったが、その姿はすぐに見えなくなってしまう。あまり人数が入っても仕方ないので、ハルは入口のところで様子をうかがうだけにしていた。
 ――そっちの端持って。違うよ、そっちの端。
 ――これ壊しちゃっていいかな? そのほうが運びやすそうだし。
 ――この台車重くないかな。車輪のとこおかしくなってない?
 ――着替えるのなんてあとでいいから、さっさと運びださないと。
 どうやら準備の練習はしていても、撤収の練習はしていなかったらしい。ひどい混雑ぶりで、あまり効率がよさそうには見えなかった。これだと、多少おかしなことがあっても気づきはしないだろう。
 それでもようやく舞台道具を運び終えると、今度は五年のクラスの搬入作業がはじまった。さすがに高学年だけあって、こちらはきびきびしている。
 休憩時間が終わるぎりぎりには、準備はすべて終わっていた。
 全員が所定の配置についている。
 時計の針が、奇妙な粘性を持って動いていた。
 心臓が、いつになく強く鼓動しているのがわかる。
 やがて体育館の電気が、音を立てて消された。
 幕がゆっくりと、あがっていく。

 ――劇の、はじまりだった。

〈第一幕〉

ナ(ナレーション) ここは古い時代の、ある小さな村です。谷あいのその美しい村には、澄んだ小川が流れ、水車がゆっくりと回っています。空はどこまでも広がり、明るい光がさんさんと注いでいました。

 ヨーロッパ中世風の建物と衣装。家の中には青年の男と女。男は沈鬱な表情でイスに座り、女が心配そうにそれをのぞきこんでいる。

(机に手をついて、勢いこむような調子で言う。)
村娘 A ユリシス、いつまでそうしているつもりなの?
ユリシス …………。
村娘 A あなたたちがどれくらい愛しあっていたかは、知っているわ。けどだからこそ、アニエスはあなたがこんなふうに悲しんでいるのを喜ばないと思う。
ユリシス …………。
村娘 A ねえユリシス、元気を出して。死んだ者はどうしたって生き返りはしないのよ。私たちにできるのは、彼らの死を生き続けるだけなの……。
ユリシス …………。
村娘 A 私、そろそろ行かないといけないわ。ユリシス、本当に元気を出してね。みんな、あなたのことを心配してるわ。
(悲しそうな諦めの表情を浮かべ、ユリシスの家をあとにする。舞台全体が暗くなり、家の外がスポットライトで照らされる。舞台袖から同じような四人の村娘が現れる。)
村娘 B どうだった、ユリシスの様子は?
(村娘A、首を振る。)
村娘 C アニエスが亡くなって、もう一年にもなろうとしているのに。ユリシスはいつまでああしているつもりなんだろう? あのままじゃ、ユリシスだっていつかどうにかなってしまう。
村娘 D でも、無理もないわ。あの二人は子供の頃からいっしょで、村でも一番の恋人同士だったんだから。それにあの事故のこと、ユリシスは悔やんでも悔やみきれないだろうし……。
村娘 E いいえ、あれは仕方なかったのよ。誰がいても、結果は変わらなかった。ユリシスがいつまで考えたって、どうにもならないことよ。アニエスだって、そんなこと望んじゃいないわ。
村娘 B どっちにしろ、私たちにはどうすることもできないわ。これはユリシス自身の問題なんだから。私たちには、どうすることもできない……。
(スポットライト、ユリシスの家に移る。)
ユリシス わかっている、わかっているんだ。アニエスはもう帰っては来ないし、彼女は僕がこんなふうに悲しむことを望んではいない。けれど彼女を失って、僕はどうして生きていけるんだろう? 川の水に手を入れたときの冷たさも、ふと吹く風に身を任す心地よさも、朝の光が世界を照らす美しさも、君がいなければ何の意味もありはしないのだ。君を失うくらいなら、僕は世界をこそ失いたかった……!
(舞台暗転。)

〈第二幕〉

 薄暗い野原、空からは流星が降り注いでいる。この世のどことも知れない場所。一人、その場所を歩いているユリシス。

ユリシス ここはいったい、どこなんだろう?
(地面に落ちた星の欠片を一つ拾う。手の中でそれは、ぼんやりと輝いている。)
ユリシス 小さく鼓動している。まるで、生きているみたいだ……。
(星を地面に置きなおし、あたりを見まわしながらゆっくりと歩いていく。舞台反対で、一人の人影に光があたる。ローブを身にまとい、杖を手にしている。)
ユリシス あなたは誰……?
魔法使い 我は魔法使い。すべての閉じたる可能性を統べるもの。
ユリシス ここはいったい、どこなんです?
魔法使い この不完全な世界の、その不完全さ故に生じた狭間の世界。すべての可能性が夢を見る場所。世界のどこからも閉ざされ、それゆえにすべての可能性が開かれた約束の地。
ユリシス 僕はどうしてここに……?
魔法使い 汝がそれを望んだからだ。閉じた世界の中でしか、汝の願いは叶わない。汝の想いが、この世界を作り出した。ここは、そういう場所だ。
ユリシス …………。
魔法使い さあ、これをやろう。
(杖を掲げ、星の一つを呼びよせる。魔法使いはそれをユリシスに渡す。不思議そうにそれを見つめるユリシス。星は力強く鼓動している。)
魔法使い 汝に授けたるは魔法の力。この不完全な世界に、完全を求めるために残されたもの。幾百もの星の中から、汝に選ばれた力。この力は汝の願いを叶え、汝の失ったものを取り戻すであろう。ただし願いを叶えられるのはただ一度。それでは汝、今はすみやかに行くべし。
(光が消え、姿を消す魔法使い。呆然と立ち尽くしたままのユリシス。その手の中では、小さな星が音を立てて鼓動を刻んでいる。舞台暗転。)
(自分の家で目を覚ますユリシス。ゆっくりと起きあがり、ぼんやりとしている。)
ユリシス 今のは夢だったのか……。
(立ちあがろうとして、ふと自分の手の中に何かがあることに気づく。見ると、それは夢の中で魔法使いに与えられた、星の欠片だった。)
ユリシス …………。
(何かを決意するような表情。星の欠片をポケットにしまい、ユリシスは急いで旅の仕度をはじめる。ゆっくりと舞台が暗くなっていく。)

 ハルが舞台脇の準備室に戻ると、アキがいきなり言った。
「大変だよ、ハル君」
 意外と大きな声だったので、ハルはまずその声が外に聞こえていないかどうかを心配した。が、どうやら大丈夫なようである。
「大きな声を出しちゃまずいよ」
 ハルは注意するように小声で言った。けれどアキはまるで頓着せず、
「大変、大変」
 と言い続けている。見ると、アキだけでなくほかの生徒や担任の葉山美守まで、同じように緊張した表情を浮かべていた。
「何かあったの?」
 ハルは落ちついて訊ねた。
「咲ちゃんがね」
 と、アキは言った。
「――咲ちゃんがいなくなったの」

〈第三幕〉

ナ    魔法の力で恋人を甦らせる決意をしたユリシス。彼はすべてがまだ眠りにまどろむ夜明け前に、誰に告げることもなく村をあとにしました。彼は死んだ恋人を見つけだすために、行くあてもない旅に出たのです。

 どこかの戦場の風景。瓦礫や折れた剣、槍などが転がっている。左右の袖から、叫び声をあげた幾人もの兵士たちが現れる。激しい戦闘が行われ、何人かが倒れる。やがて喇叭の音が鳴り響き、負傷者を抱えて両軍とも退却していく。ユリシス登場。

(厳しい表情であたりを見まわすユリシス。)
ユリシス この国では戦争が行われているのか。風には鉄の臭いが混じり、大地は血で赤く汚れている。人々は逃げ惑い、街は崩れたままだ。
(大地の荒廃に心を痛めるように歩いていく。しばらくして、石塀に座る人物に気づく。)
ユリシス あれは誰だろう?
将  軍 …………。
ユリシス こんにちは。あなたはどなたでしょう? 何か悲しいことでもあったのですか?
将  軍 旅の者か。
ユリシス はい、私は遠く西の地より旅してきたもので、ユリシスといいます。
将  軍 私はこの国の将軍だ。兵士たちを指揮し、敵軍を討つのが私の使命。
ユリシス どうしてそんなに悲しそうな顔をしているのですか?
将  軍 ここでは今日も、激しい戦闘が行われた。多くのものが勇敢に戦い、多くのものが二度と目覚めぬ眠りについた。
ユリシス …………。
将  軍 私は戦争で九九九人の敵を倒したが、戦争で九九九人の仲間を失った。勝つにしろ負けるにしろ、こんな戦争は虚しいものだ。彼らはもう二度と、言葉を口にすることもできない。
ユリシス …………。
将  軍 旅人よ、今はもう行くがよい。ここには誰のためでもない悲しみがあるばかりだ。
(再びうなだれ、黙りこむ将軍。ユリシスは言う言葉もなく、去っていく。遠くの戦場で戦いの音が聞こえる。舞台暗転。)

 準備室の中には、確かに三香の姿がなかった。
「向こうの部屋はどうなの? ちょっと外に出てるだけとか」
 ハルがアキに訊こうとすると、
「ううん、どこにもいないの。反対の準備室にもいないし、みんなであたりを探したりもしたけど、どこにもいない」
 美守が、抑えた声で説明している。さすがに担任らしくみなを落ちつかせようとしているが、実のところ彼女の動揺がもっとも激しかった。このままでは劇が続けられない。
「でもね、おかしいのよ」
「何がですか?」
「だって、咲羽さんがこっちに入ったのはみんなが見てるけど、出ていくのは誰も見ていないのよ。こっちにいなきゃ、おかしいはずなのに」
 ハル自身、確かに咲羽三香が準備室に入っているのを見ていた。
「今、みんなで手分けして探してもらってるから、宮藤くんも手伝ってくれる? 出番までには見つけないと」
 美守はそう言って、あたりの捜索に戻っていった。
「ハル君、どうなってるのかなこれって?」
 アキが不安そうに言った。
「…………」
「ハル君?」
「ちょっと待って」
 そう言ってハルはポケットの中から何かを取りだした。それはハルがいつも持ち歩いている、感知魔法≠フペンダントである。ハルはそれを手に巻いて、意識を集中させた。
「……もしかして、ハル君?」
 しばらくしてアキが訊くと、ハルは目を開けてうなずいている。
「うん、間違いない。魔法が使われたんだ」
「でもどうやって? まさか咲ちゃんも魔法使いだったの?」
「たぶん、そうじゃないよ」
「じゃあ……?」
「志条さん、どこにいるかわかる?」
「え、フユ?」
 アキはきょとんとしたように聞き返している。
「そう、志条芙夕さん……」
 ハルは小さく、つぶやくように言った。

〈第四幕〉

 草原に天幕が張られ、何人もの人間がその下で寝ている。一様に苦しそうな表情。中央では医者らしい人物がイスに座って患者を診ている。しばらくして患者は離れ、床の上に横になる。ユリシス登場。

(医者がユリシスに気づき、声をかける。)
医  者 あなたは旅の方ですか?
ユリシス ええ、そうです。私は遠く西の地より旅してきたもので、ユリシスといいます。
(あたりを見回しながら、ゆっくりと医者に近づいていく。)
ユリシス この人たちは?
医  者 彼らは病にかかった者たちです。私は医者です。彼らを診ている。
ユリシス みな、ひどく苦しそうです。いったい、どんな病気なのですか?
医  者 激しい高熱と全身の痛みがあります。体中に奇妙な赤黒い痣が現れ、血の色は黒く変色します。病者はみなひどい渇きを覚え、痛みのために眠ることさえできない。
ユリシス 治るのでしょうか?
医  者 わかりません。一ヶ月ほど前より悪い病気が流行りはじめました。病はあっというまに広まり、今ではこの有様です。
ユリシス …………。
医  者 私はこの病にかかった九九九人の患者を治しましたが、同じ病にかかった九九九人の患者は苦しみの中で息を引きとりました。私はあまりに無力であり、病はあまりに強大です。
ユリシス …………。
医  者 さあ、あなたはもう行ったほうがよい。ここには癒すことのできない苦しみがあるばかりです。
(患者の一人が立ちあがり、医者に診てもらう。ユリシスは言う言葉もなく、去っていく。医者が患者の具合を診ている。舞台暗転。)

「何か用かしら?」
 さっきとは反対の準備室で、ハルとアキはフユの前に立っていた。フユはシンプルな黒いドレスのようなものを着ている。彼女は死者の国の案内人の役だった。
「もしかしてこれから舞台にあがろうって人間に、プレッシャーでもかけに来たの?」
 フユはそう、二人のほう――特にアキのほう――を見ながら言った。かといってこの少女は皮肉を言っているわけではないし、プレッシャーを感じているようにも見えなかった。
「ううん、違うよ」
 アキは無邪気に首を振っている。この少女も、これでわざとやっているわけではない。
「フユに聞きたいことがあって」
「聞きたいこと?」
「三香さんのことは聞いてるよね?」
 ハルが代わって発言した。
「どこにいるか知らないかと思って」
「どうして、私が知ってると思うの?」
 フユは無表情だった。けれど、ハルは目をそらさずに言った。
「でも、君が魔法を使ったんじゃないのかな?」
 一瞬、アキは何か言いたそうな顔をしたが、黙っていた。
「どうして私が魔法を使ったなんて思うのかしら?」
 フユは平然と訊き返している。
「ここで魔法が使われたことはわかってる。そして魔術具は、魔法使いにしか使えない。それもごく近くにいなければ、使えないんだ。つまりそれは、魔法使いでない咲羽三香が魔法を使うためには、誰か魔法使いがそばにいなくちゃいけない、ということだよ」
「…………」
「その条件に当てはまる人間が、君以外にいるとは思えないんだ、志条さん――」
 フユは黙っていた。舞台のほうからはセリフが聞こえている。『さあ、あなたはもう行ったほうがよい。ここには癒すことのできない苦しみがあるばかりです。』
 ふう、とフユはため息をついて、
「彼女に使ったのは隠形魔法(コンシール)≠諱v
 と、言った。
「紐の形をした魔術具で、円を作るとその中にいる人間はまわりからは見えなくなる。私が魔力をこめて、彼女に渡したわ」
「…………」
「ただし、彼女がそれをどう使ったのかは知らない。知ってるとは思うけど、これは姿を隠すだけの魔法で、紐の円が崩れれば魔法も解けてしまう。つまり紐を動かせない以上、歩いて移動することもできない」
「…………」
「私が教えてあげられるのはここまでよ、宮藤晴くん」
 フユは相変わらずの無表情だった。
「あとは自分で何とかするのね」

〈第五幕〉

 古い石造りの町並みが広がっている。あたりを粗末な格好の人々が歩いたり、うずくまったりしている。みな顔色が悪く、暗い表情。重苦しい鐘の音が聞こえてくる。ユリシス登場。

(あたりを見まわすユリシス。)
ユリシス この街はどうしたというのだろう? 人々はやせ細り、身にまとうのは襤褸ばかり。倦み疲れた顔の人々が道を行き、立ちあがる力もない人が路傍にうずくまっている。
(人々の様子に、眉をひそめて歩いていく。しばらくして、噴水に腰かけている人物に気づく。)
ユリシス あの人なら、何か知っているかもしれない。
司  祭 …………。
ユリシス 失礼ですが、この街はどうなっているのですか?
司  祭 あなたは?
ユリシス 私はユリシスというもので、遠く西の地より旅してきました。
司  祭 そうですか。私はこの街の司祭。人々を教え諭し、導くのが私の役目。
ユリシス この街はどうしたのですか? それにあなたは、どうしてそんなにも疲れた顔をしているのです?
司  祭 この街はもっとも恐ろしい敵と戦っているのです。
ユリシス 敵?
司  祭 そうです、それは貧困です。この街の人々は今日食べるものにも事欠き、着るものさえ満足にはありません。夜の闇を照らすための光もなく、寒さを防ぐための十分な備えもないのです。
ユリシス …………。
司  祭 私は人々に食べ物を施し、教会で眠る場所を提供しています。私はそうして九九九人の貧しい人々を救いましたが、九九九人の人々は飢えと寒さのために亡くなりました。私は結局、誰も救えてはいないのです。水瓶の中からは、汲んだ水と同じだけの水が失われています。
ユリシス …………。
司  祭 旅のおかた、今はもう行くがよいでしょう。ここには救うこともできない大きな虚しさがあるばかりです。
(力なく道を歩く人を見つけ、司祭は立ちあがって彼に肩を貸す。ユリシスは言う言葉もなく、去っていく。重い鐘の音が聞こえてくる。舞台暗転。)

 ハルとアキは学校の中を走っていた。全校生徒が体育館に集まっているために、人影はない。
「どこに向かってるの――?」
 アキはハルのあとについて走っている。アキも足の遅いほうではないが、ハルのほうが少し速かった。アキは疲れて息があがっている。
「音楽室」
 短く、ハルは答える。
「どうして――?」
「そこに三香がいるからだよ」
「……?」
 わからない。けれどこれ以上しゃべると息切れがひどいので、質問できそうもなかった。
 音楽室は同じ階の校舎端にあった。その前の廊下に来たところで、ハルはようやく足をとめる。アキはその隣で、体を屈ませながら息をついた。
「ねえ、ハル君、どうして、咲ちゃんが、音楽室に、いるわけ?」
 苦しそうに息を途切れさせながら、アキは訊く。
「ぼくらの前の劇のこと、覚えてる?」
 ハルは音楽室に向かって歩きながら言った。
「え、『親指姫』のこと?」
「そう。それから、舞台を交代するときの、準備室のこと」
 アキはハルの隣に並んで、歩きはじめる。
「隠形魔法≠ヘフユの言ったように、自分で移動することはできない。円が崩れちゃうからね。でも準備室に三香が残っていたとも考えにくい。あそこは狭いから、不自然なスペースが残されているような余裕はない」
「咲ちゃんはどうにかして、姿を隠したまま準備室を出たってこと?」
 うん、とハルはうなずいて、
「自分では移動できない。その場にとどまることもできない。とすれば、方法はたった一つしかないんだ」
「誰かに移動させてもらった?」
「そう、それで前の劇のことなんだ」
 アキは三年生のその劇を思い出してみたが、何も思いつかなかった。大体、『親指姫』と三香が消えたことに、どんな関係があるのだろう?
「よく思い出してみて」
 ハルはからかうように笑顔を浮かべてみせて、
「あの時、準備室でこんなことを言ってたはずだよ。『この台車重くないかな』って。親指姫が葉っぱに乗って流れていく場面で使われた、あの台車だよ」
「まさか」
 アキは驚いたように、口もきけない。
「そう、三香はその上に紐で輪を作って、身を隠したんだ。準備室はとてもごたごたしていたし、それを誰かに見とがめられるようなことはなかったと思う。そこからは、ただじっとしていれば三年生の舞台道具置き場にまで連れて行ってもらえるんだ。重いのは当然だよ。人が一人乗ってたんだからね」
 二人は音楽室の前に立った。
 アキが緊張して見つめる中で、ハルは無造作に扉を開けている。がらがらと音がして、扉は何の抵抗もなく開いた。
 そこに――
 咲羽三香の姿はなかった。

〈第六幕〉

ナ    東の地の果てに、ユリシスはたどり着きます。そこから先に広がるのは、空との境界すら失った荒寥とした海だけです。一艘の舟を使い、海へと漕ぎだすユリシス。いつしか霧が、あたりを覆いはじめていました。

 空には月と太陽が昇り、昼と夜が大地を包んでいる。白い静寂に満たされた世界。季節に関係なく、あらゆる花が咲き乱れている。白い服を着た人々が、座ったり寝そべったりして、穏やかに時を過ごしている。ある者は友人と語りあい、ある者はぼんやりと花を見つめ、ある者は静かに眠りについている。舞台端の部分に一艘の舟が漂着している。

(目が覚めたばかりのような様子で、舟から顔をあげ、あたりを見るユリシス。)
ユリシス ここは……?
(舟を下り、島に足を着ける。)
ユリシス 僕はいつの間に、こんな場所にたどり着いていたんだろう? それにここは、何て不思議な場所なんだろう。温かくも、冷たくもない。一日の時間は混ざりあい、すべての季節は同時に訪れている。いったい、ここはどこなんだろう……?
(舞台反対から、黒い服の少女が現れる。少女はユリシスに気づいて一瞬立ちどまり、それからゆっくりと歩いてくる。)
少  女 あなたは誰……?
ユリシス 僕はユリシス。西の地から旅をして、東の海を渡ってこの島にやって来たんだ。
少  女 あなたは生きているのね……。
ユリシス …………。
少  女 ここはすべてが眠りにつく島。すべての悲しみと、すべての苦しみと、すべての虚しさが終わりを迎える場所。
ユリシス ここは、死んだ人間の行き着く場所なのか?
少  女 あなたがそう呼びたいのなら、そう言ってもかまわない。
ユリシス 君もやはり、そうなのかい?
少  女 私は一番最初に失われてしまった存在。
ユリシス …………。
少  女 私ははじまりに、生まれることもなく死んでしまった存在。私は水に触れたことも、風を感じたことも、光を見たこともない。私を呼ぶための名前さえ、ありはしない。
ユリシス 君はここで、何をしているんだ?
少  女 私の役目は案内人。はじめてここにやってきた人たちを、正しい場所へ導くのが私の使命。
(詰めよるように少女に近づくユリシス。)
ユリシス だったらここに、アニエスという娘は来なかっただろうか? 僕は彼女を探して、ここまで旅をしてきたんだ。
(じっとユリシスを見つめる少女。)
少  女 あなたは私と少し似ている。生まれてもいないのにここに来た私と、死んでもいないのにここにたどり着いたあなた……いいでしょう。あなたを彼女のところまで案内してあげます。私について来て。
(歩きはじめる少女。彼女のあとを追うユリシス。舞台暗転。)

「どうしよう。どこにもいないよ、ハル君」
 アキはさすがに困惑していた。出番まで、もう時間がない。
「…………」
「もうここにはいないんじゃないかな? どこかほかの場所を探したほうがいいんじゃないの?」
「ううん、ここにいるはずだよ」
 何故か、ハルはそれを確信しているようだった。
「でも……」
「聞こえてるよね、三香さん」
 ハルはごく穏やかに、言った。
「もうすぐ舞台で出番がまわってくるよ。みんなのところに戻ろう」
 返事はない。
「ハル君、やっぱり違うんじゃ……」
 アキが不安そうに言うが、ハルはかまわず、
「まだ間にあうよ。君が戻ってこないと、みんなが困るんだ。特に、藤間のやつがね」
「…………」
「君は藤間のことで、こんなことをしたんだろう? 細かいことはよくわからないけど、君は藤間のことが好きなんだと思う。でも今、君と藤間は少し気まずい関係にある」
 どこかで、何かが動く気配がした。
「アニエスの役をやりたくなかったのは、そういうことなんじゃないかな。君は藤間の恋人の役をやることで本当の恋人にはなれないような気がした。君にはそれが耐えられなかった――」
 返事は、やはりない。
 けれど――
 気づいたとき、そこには咲羽三香の姿があった。まるで見えないカーテンを引いて現れたような、奇妙な出現の仕方だった。
 三香は台車の上に立って、ハルから目をそらすようにしている。
「どうして、そんなふうに思うの?」
 咲羽三香は嵐に飲まれかけた小舟のような、頼りない口調で言った。
「君と藤間のことはいろいろ聞いてたし、それに役をやりたくないっていうのはぼくと同じだったんだ。だからいろいろ、考えやすかった。役があまりに自分にぴったりすぎることとか、ね」
 自分で言って、ハルは少し苦笑する。
「でも、だったら」
 三香はうつむいた顔のまま、今にも泣きだしてしまいそうな声で言った。
「どうして私を探しに来たりしたの……?」
 ハルはしばらく黙っている。
「――君は、どうしたいんだい?」
「え……?」
「君は逃げ出したかったわけでも、劇をやるのが嫌だったわけでもない。君はどうしていいかわからなかったんだ。だから君はずっとこの場所にいた。ううん、動けなかったんだ。行こうと思えばどこにだって行けたはずなのに」
「…………」
「ここには閉じた可能性しか存在しない。魔法は誰も救えない……君はいったい、何を望んでいるの?」
「私は――」
 咲羽三香は、震えるように顔をあげた。
「――私は、透哉のことが好き」
 三香は音もなく、大粒の涙をぽろぽろと落とした。
「ずっと昔から、透哉のことが好きだった。私はいつもそのことを、透哉に伝えたいと思っていた。この想いが透哉に伝えられないのなら、私が生きてることなんて何の意味もないんだ、そう思ってた。でも透哉は、そのことに気づいていない。私は恐かった。透哉の返事を聞くことも、このままずっと同じでいることも」
 三香はぐっと、唇をかみしめた。
「――私には、どっちでいることも選べはしない」
 ハルは黙っている。けれど、
「一つ、いい方法があるんだ」
 と、この少年は言った。
「え?」
「大丈夫」
 と、ハル笑顔で言った。
「それできっと、うまく行くから」

〈第七幕〉

 前幕と同じ情景。ただし人影はなくなっている。相変わらず音が眠っているような静けさ。舞台中央に一人座っているアニエス。彼女は花を摘んでいる。走ってくるように登場するユリシス。アニエスの前で立ちどまる。

(アニエス、夢でも見るかのような表情で立ちあがる。)
アニエス ユリシス……?
ユリシス アニエス、会いたかった。
(信じられないような顔のアニエス。夢から覚めないように、というふうな慎重な足取りで一歩近づくユリシス。しばらく見つめあう二人。)
アニエス ユリシス、あなたは本当にユリシスなの?
ユリシス そうだよ、アニエス。僕はユリシスだ。
アニエス いったい、どうしてあなたがここに? まさか、あなたも命を落としてしまったというの?
ユリシス 違うんだ、アニエス。僕はまだ、確かに生きている。
アニエス でも、そんなはずはない。あの時、私は確かに死んでしまったのよ。あなたの目の前で、私は足を踏み外した。
ユリシス そうだよ。僕はそのことをずいぶん悔やんだんだ。あの時、僕がもっとしっかりしていれば。あの時、僕の手がもう少しのびていたら。
アニエス …………。
ユリシス 僕は自分を恨み、世界を恨んだ。その時、すべての意味は失われ、すべての可能性は閉ざされたんだ。
アニエス …………。
ユリシス 僕は夢を見た。すべての可能性が眠りにつく世界の夢を。そして僕は、魔法使いに会った。魔法使いは僕に、一つの魔法を与えた。すべての意味と、すべての可能性を取り戻すための魔法を。
アニエス …………。
ユリシス そして僕は、長い旅に出た。三つの国を通り抜け、東の海を渡り、この島にやってきた。君に、会うために。
(一歩、アニエスのほうに近づく。)
ユリシス さあ、いっしょに戻ろう、アニエス。完全世界を取り戻すため。この魔法なら、それができるんだ。
アニエス ……でも私は、魔法でなんて救われたくはない。

 それは、台本にはないセリフだった。
 舞台上で、三香はじっと透哉のことを見つめている。
 体育館はしんとして、誰も舞台上の異変に気づくものはなかった。劇が中断されることはない。まるで、誰一人知らないうちに、時間の流れそのものががらりと変わってしまったかのようだった。
 透哉は三香の様子に戸惑いつつも、劇の流れを壊さないようにアドリブをはじめている。
「――どうしてそんなことを言うんだい、アニエス?」
「…………」
 と、三香は首を振って、
「だって、それでは私は救われたことにならないのだから」
 彼女のセリフに、ほとんど迷いはない。
「僕にはわからないよ、アニエス。君はもう一度この世界に戻ってくることができるんだ。僕たちはもう一度、いっしょになって幸せに暮らすことができる」
「それでは、だめなの……」
「どうして?」
「それでは手遅れにしかならないから」
 三香は声を震わせながら言った。
「それじゃあまるで私は、あなたを苦しめるために存在していたみたい。今さら助けに来るくらいなら、どうして私が生きているあいだに、いつそうなってもいいように時を過ごしてこなかったの? どうして、私が死んだことだけを後悔するの?」
「でも、僕にはどうすることも――」
 透哉はあくまで劇を続けようとしながら、ふと気づいていた。
 それはアニエスの言葉ではなく、咲羽三香の言葉だった。
 彼女は震えるように、こぶしを強く握っていた。
 だから――
 藤間透哉は訊いた。
「……確かに僕は君といっしょにいたけれど、それは本当にいっしょにいたわけじゃなかったのかもしれない」
 三香は顔をあげて、透哉のことを見た。藤間透哉が自分の言葉に答えようとしていることに、三香は気づいた。
 そう、藤間透哉というのはそういうやつなのだ。ハルの言ったとおりに。
「少なくとも君にとっては、そうだったんだね?」
 こくりと、三香はうなずいている。
「どうすればいい? 君は僕に、どうして欲しい?」
 三香は震える小鳥のように声を振り絞った。
「私は――」
 三香はまっすぐに透哉を見つめた。
「私は、聞いてほしかった」
「…………」
「だって、私は」
 三香はその一言がまるで世界を変えてしまうような気がして、ずっと恐かった。藤間透哉の笑顔を見るたびに、それを失いたくないと思っていた。
「私はあなたが――」
 けれど彼女が本当に望んでいたのは、そんなことではなかった。
 彼女が望んでいたのは、透哉と恋人になることでも、透哉が彼女のことを好きだといってくれることでもなかった。
「――私は、あなたが好きだから」
 彼女はただ、その言葉を伝えたかっただけなのだ。その想いをきちんとこの世界で言葉にして、生みだしたかった。
 だから彼女はまじろぎもせず、透哉のことを見つめている。
 舞台の上では虚構が現実を半ば包みこんで、今だけは様々な物語を可能にしていた。
 スポットライトが二人を明るく照らす。
「……僕は一つ、謝らなくちゃいけないことがあるんだ」
 藤間透哉はゆっくりと、口を開いた。
「本当は何となく、気づいていたんだ。君がどう思っていたのか。もしかしたらそうなんじゃないかって」
 透哉はごまかすように視線をそらして、けれどやはり三香のほうに向きなおった。
「でも、僕にはどうしていいかわからなかった。僕自身がどう望んでいるのか、わからなかったから。君に答えたくても、どう答えていいかわからなかった」
 三香と透哉は、互いに瞳の奥をのぞきこんだ。ずっと昔にそうしたのと、同じように。
「だから君がそうして欲しいなら、僕は魔法は使わない」
 それは、ユリシスのセリフだった。
「けどそのかわり、待っていてい欲しい。僕がちゃんと、僕の気持ちに気づくまで」
 それは、藤間透哉のセリフだった。

ユリシス 時がたって、僕がいつか自然にこの場所にたどり着くまで、待っていて欲しい。それがいつになるかはわからない。何十年も先なのか、それとも明日のことなのか。
アニエス 私、待ってるわ。例えどれだけの時間がたっても、私は待ってる。だから今度ここにやって来たら、その時はずっとあなたといっしょにいたいと思う。
(舞台がゆっくりと暗くなっていく。)

ナ    この物語は、ここでいったん終わります。ユリシスとアニエスは再び別れ、それぞれの世界へと帰っていきました。この場所で、もう一度会うことを約束して。二人のその後のことは、まだわかっていません。けれどその物語はいずれ、また別の場所で語られるべきでしょう……。
(舞台が明るくなる。)

「あわわ、二人とも台本と違っちゃてるわよ」
 美守は舞台袖で見ながら慌てた。それはそうだ。何しろ話は、いまや完全に別なエンディングを迎えようとしている。
「大丈夫です、これで」
 その隣で、ハルが落ちついて言った。
「そ、そうなのかな……?」
 美守は慌てすぎて、いつもの調子に戻ってしまっているようだった。あれだけ劇を成功させようとしていたのに、今はただおろおろするばかりである。
 やがて舞台が暗くなって、ナレーションが入る。それは、アキの声だった。
 もちろん、こんなナレーションなど最初からありはしない。話を締めくくるために、二人が急いで継ぎ足したものだった。原稿を作るような暇はなかったので、ほとんどアドリブでしゃべっている。おまけにそれはハルがやるはずだったのに、アキが無理にかわっていた。
 けれど、アキは十分にその役をこなしていた。
 ナレーションが終わると舞台が明るくなり、生徒たちがその上に並んでいく。同時に、拍手が体育館いっぱいに響いていた。
 舞台は変に明るくて、まぶしい感じがした。緊張が解けたせいかもしれないし、いつの間にか世界が元に戻ろうとしているせいかもしれない。
 ハルとアキも手をつないで、列の中に並んだ。舞台中央では、三香と透哉が手を結んでいる。二人は心持ち強く、手を握っていた。それは互いをつなぎとめるための、小さな約束だった。
 それから全員で手をつないだまま、お辞儀をする。拍手はいっそう強まり、ゆっくりと幕は下りていった。
 こうして、五年生の劇は終わったのである。

「なかなか面白い劇だったよ」
 結城季早は志条芙夕に向かって、そう言った。
 二人が立っているのは、学校の屋上である。空にはひどく澄んだ青さが広がって、薄い雲がひきのばされた絵の具のように浮かんでいた。風が時折、強く吹きすぎていく。
 生徒や保護者たちは今頃、体育館で次の劇を見ているはずだった。そのため、屋上には季早とフユの二人しかいない。フユは劇が終わってすぐにやってきたので、黒いドレス姿のままだった。
「君もその格好は似あっているし、何といっても役がぴったりだからね」
 季早はにこにこしている。子供が懐きそうな、そんな笑顔だった。
「いい迷惑だわ、こんなの」
 フユはいつもの無表情を浮かべた。とはいえ、彼女は確かに迷惑だと思っている。つまりはこの劇の配役に不満を持っている人間が、もう一人いたということだった。
「本当に人の悪い劇だったわ」
「しかし、なかなか良い劇だったよ」
 季早は相変わらずの笑顔を浮かべている。
「宮藤くんが魔法使いの役というのは、少し可哀そうな気もしたけれどね」
「…………」
「彼は、どのくらい気づいているんだい?」
 その言葉に、フユは小さく首を振った。風が吹いて、彼女の髪を揺らしている。何故かフユは少しだけ、笑ったような気配があった。
「何も気づいてなんていないわ。わかるわけがないでしょうね、自分の何が¢_われているのか、その理由も。彼はたぶん――人が好すぎるのよ」
「そうかい?」
 季早は笑顔を浮かべたまま、その少年のことを思い出した。佐乃世来理の家を訪ねたときと、ついさっき体育館ですれ違ったときのことを。不思議な少年だった。どことなく、自分に似ているような気がする――
「今日渡した魔術具で、最後だったかしら?」
 と、フユは訊いた。
「そうだね、これで大体の準備は整った。結社(メンバー)≠フ協力には感謝するよ。あとは最後の仕上げにかかるばかりだ」
「そう――」
「魔術具といえば」
 季早はついでというふうに訊いた。
「咲羽三香という女の子のことは、どうなったんだい?」
「……問題ないわ。ちゃんと口止めしておいたから」
 フユは無表情に答えている。
「もっとも、結局は宮藤くんに見つけられたようだったけど。けどそれは私の責任じゃないわね。私は彼女に魔術具を渡して、使いかたを教えただけ。いずれにせよ、彼女が約束を破るとは思えないけど」
「しかしあの子に僕たち二人がいるところを見られたからといって、たいした問題になるとは思えなかったけどね」
「用心に越したことはないでしょ」
 フユの口調は変わらない。
 そう――
 自分と結城季早がいっしょにいるところを見られたからといって、事情を知らない三香がそれを人に言う可能性は低かった。けれどこのことに関しては、何しろ前例というものがある。
(おせっかいで優秀な情報源というものがあるのだからね)
 フユの心の独白は、もちろん季早には伝わらない。
(――いずれにせよ、もうすぐその時を迎える。そうしたら宮藤くん、あなたはいったい、どうするのかしら)
 フユは誰にも伝わらない、頭の中の断絶した領域でそんなことを考えてみる。
 秋の空は晴れ渡り、体育館からは遠い拍手の音が伝わってきていた。
 ――季節は、最後の時を迎えようとしている。

――Thanks for your reading.

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