[不完全世界と魔法使いたち@ 〜ハルと永遠の魔法使い〜]

[二つめの事件]

 時刻は、七時をすぎようとしていた。
 夏になって陽が落ちるのが遅くなったとはいえ、さすがにもう暗くなりはじめている。家々には小さな明かりが灯り、子供たちは家路を急ぎはじめていた。
 丘にそって作られた住宅地、笹代台(ささしろだい)でもそれは変わらない。ハルも、そんな光の中の一つにいた。そこは二階建ての、ごく普通の住宅である。家の側面には小さな庭があって、反対にはガレージがついている。
 そこには、ハル一人しかいない。
 父親も母親も、その家の中にはいなかった。父親の宮藤恭介(きょうすけ)はまだ仕事から帰っていないし、母親は何年か前に亡くなっている。
 誰もいないその家でハルが何をしていたかというと――夕食を作っていた。
 背が足らないので、台所では小さな踏み台を使って材料を刻んでいるが、慣れた手つきだった。今は料理の下ごしらえをしているところである。
 ずいぶん前から、食事に関することはハルがやっていた。最初の頃はそうではなかったが、結局はそうなった。父親が奇妙なものばかり作るせいだ。父親の言い分を、ハルは全面的に却下した。
 そういうわけで、世界が静かに闇に包まれるその時間、ハルは夕食の準備をしていた。
 ――チャイムの音が鳴ったのは、そんな時のことである。
 来客の予定はなかったので、ハルは不思議に思いながら玄関に向かった。もしかしたら、近所のおじいさんが野菜でも持ってきてくれたのかもしれない。
 けれどドアを開けると、そこには見なれた顔が待っていた。
「こんばんは」
 と、アキはいつもの明るい表情で言う。
 その後ろに、見知らぬ少女を連れて。

「ハル君、何してたの?」
 とアキは訊いた。居間のソファに座って、テーブルには冷たいお茶が置かれている。
「夕飯の仕度」
「む……」
 アキは変な顔をした。そんな顔もすることができた。
「ハル君て料理作るの?」
「うん」
「ちなみに何作ってた?」
「鶏肉の煮込みに、焼きナス、あと味噌汁だね」
「ふむ、ふむ」
「もしかして、ぼくが夕食に何を作ってるか聞きたくてやって来たの?」
「ううん、違うよ」
 皮肉っぽいハルの口調に、けれどアキは何のためらいもなく首を振っている。あんまり人の皮肉とか、からかいとかに反応しない少女なのだ。
「実はね、ハル君にお願いがあるんだけど」
 そう言って、アキは隣に座る少女に目をやった。
 丁寧に整えられた髪をして、大人しそうな瞳をしている。年は小学校低学年くらいといったところだろう。知らない家に来て、緊張しているようだった。
 彼女の名前は、栩(くぬぎ)あかりというらしい。
「お願いって?」
 ハルはアキに訊いてみた。
「うん……」
 アキはごく落ちついてお茶を飲んでから、
「探して欲しいものがあるんだ」
 アキはあかりのほうを見た。栩あかりはとても決まり悪そうな顔で座っている。
「猫、なんだけどね」
「猫……?」
「の、ぬいぐるみなんだけど……」
「猫の――ぬいぐるみがなくなったの?」
「うん」
「どこかに落としちゃったってこと?」
「らしいんだけど……」
 アキは何だか、要領を得ない言いかたをした。その隣で、栩あかりは身を小さくするようにじっとしている。
「……ところで」
 と、ハルは一度お茶に口をつけてから、アキのほうに向かって訊いた。
「どうしてぼくに頼むの?」
「ん――」
 アキは何かごまかすように笑っている。
「だってハル君、そういうの得意でしょ」
「得意?」
「そうでしょ?」
 やれやれと思ったが、ハルはそれを表情に出したりはしない。いつからぼくは探偵になったんだろう。
 その時、不意に、
「……どこにも見つからないんです」
 と、身を固くしたままで栩あかりは言った。とても必死で、真剣な声だった。瞳が危うげに揺れている。その目からは今にも涙が零れ落ちそうだった。
 ハルは姿勢を正して、その小さな女の子と向きあった。
「君のぬいぐるみが、どこかにいっちゃったんだね?」
 こくん、とあかりはうなずいている。
「とても大切なものだったんだね?」
 こくん、とあかりはさっきよりも強くうなずいた。
「……わかった、ぼくもそのぬいぐるみを探してみるよ」
 途端に、あかりの目の揺らぎが消えて、まっすぐにハルを見つめている。
「本当に、クロのこと見つけてくれますか?」
「クロっていうのは、ぬいぐるみのことだね?」
「はい」
「見つかるかどうかはわからないけど、ぼくにできるかぎりのことはするよ」
 あかりはその言葉で、少し安心したようだった。ようやく表情をやわらげて、思い出したようにお茶に口をつけている。
「とにかく、明日の放課後からでも探してみよう。状況とか経緯とか、調べなきゃいけないし」
「そうだね。あかりちゃんも、それでいい?」
 あかりはこくん、とうなずいた。
「一応聞くけど、心当たりとかはないの?」
 ハルは最後にそう訊いてみた。
 しばらくしてから、あかりはぽつりと言った。
「……捕まっちゃったのかも」
「え――?」
 ハルもアキも、その言葉にきょとんとしてしまう。
 けれどあかりはうつむいて、それ以上何も言おうとはしなかった。それがどういう意味なのか、二人は知らない。子供っぽい、空想的な心配の仕方なのかもしれなかった。
 ハルがその言葉の本当の意味に気づくのは、だいぶあとのことである。

 次の日の放課後、ハルは約束通りあかりの教室へ向かった。アキは用事があるとかで、少し遅れるということである。
 階段を一つ下りて、三年生の教室に向かう。栩あかりは三年の生徒だった。
 三、四年のクラスがある二階は、小さな子供たちでごった返している。一つか二つ年が違うだけだというのに、子供たちは変に幼い感じがした。ついこのあいだまで、自分たちもそうだったというのに――
 そんなことをぼんやり考えながら、ハルはあかりの教室に向かう。子供たちは時折、上級生の姿に奇異の視線を投げかけつつ、友達同士でふざけあいながら下校していった。
 その途中でハルはふと、足をとめる。
 向こうから、栩あかりがこちらにやってきていた。一応、教室で待っているように言ったはずだが、不安になって探しに来たのかもしれない。
「あかりちゃん」
 と、ハルは軽く手をあげて、呼びかけてみた。
 けれど、彼女の反応はどこか奇妙である。
「?」
 怪訝な表情で、ハルのことを見ている。それはまるで、知らない人間を見るような視線だった。
「栩……あかりちゃん?」
 ハルはよくわからないまま、もう一度呼びかけてみた。少女は昨日よりいくぶん無造作にセットされた髪に、意志の強そうな瞳をしている。
「もしかして」
 と、栩あかりと同じ姿をした彼女は言った。
「あかりと間違えてるんじゃないの?」
「……?」
「私は栩ひかり。あかりの双子の姉よ」
 ひかりはそう言うと、まっすぐにハルのことを見つめた。どこか不機嫌そうな、ひどく気の強そうな顔をしている。妹とは対照的な少女だった。
「あかりに何か用なの? えっと……」
「ぼくはハル。宮藤晴っていうんだ」
 ハルは丁寧に名前を名乗った。
「そのハルさんが、あかりに何か用?」
「ちょっと頼まれごとをしたんだ」
「頼まれごと?」
「猫のぬいぐるみを探すことだよ」
 ああ、という顔をひかりはする。
「あれのことね」
「何か知ってるの?」
 ハルは少し、その言葉が気になった。
「知ってるっていうか、公園でなくしたあれのことでしょ。まだ探してたんだ。てっきり諦めたのかと思ってたけど」
「公園?」
「詳しいことなら、あかりに聞けばいいでしょ」
 ひかりはふん、という感じで顔をそらしている。
「でも、一つだけ忠告しておいてあげる」
「……?」
「あれは絶対見つけられないわよ。探すだけ、無駄。いらない苦労をしたくなかったら、早めに諦めちゃったほうがいいわよ」
 それだけ言うと、ひかりはさっさと行ってしまった。妹のぬいぐるみ探しを手伝う気はないらしい。二人は仲が悪いのだろうか?
(双子なのに……?)
 けれど双子どころか兄弟さえいないハルには、その辺のことはよくわからない。
 ただわかっているのは、一つ――
 栩ひかりは、何かを知っている。
 ハルは彼女の後ろ姿を、少しだけ見送った。

 あかりの言う公園までは、学校から歩いて十分ほどの距離だった。
 ハルとアキ、それからあかりの三人は、その場所に向かっている。夏の太陽の下で、住宅地の道はひどく静かだった。まるで、時間そのものが地面に焼きつけられているようでもある。
「それで、ぬいぐるみはその公園でなくしたんだね?」
 と、歩きながらハルはあかりに向かって訊いた。
 あかりはこくん、とうなずいている。やはり、姉のひかりとは正反対の大人しさだった。
「それまでは、ずっと持ってた?」
「……公園までは、ずっと持ってました」
「ぬいぐるみの大きさとかは?」
「小さいネコさんと同じくらいです。色は黒くて、ふわふわしてます」
「――あのさ、ハル君」
 三人はあかりを右手に、ハルとアキが並んで歩いていた。左手から、アキが呼びかけている。
「その、簡単に見つけられないの? あの時みたいに魔ほ――」
 ぱっ、とその口がふさがれている。
 アキが目をぱちくりさせていると、ハルが指を口にあて、しー、というふうに唇を動かした。しゃべるな、ということだろう。
 アキはとりあえず、目だけでうなずいておいた。
 ハルは手で口をふさぐのをやめて、アキを少し離れたところに連れていった。そのあいだ、あかりは何だかよくわからない顔のままじっと動こうとしていない。大人しい少女である。
 会話が聞こえない程度に離れたところで、ハルはつかんでいたアキの手を離した。
「だめだよ」
 と、ハルは言った。
「ん――」
「魔法のこと」
 そう言われてアキは、ああ、という顔をする。
「秘密だったっけ」
「だったっけ、じゃなくて、だめなんだ。魔法のことは、できるだけ人に知られちゃいけない。説明したよね?」
「でもあかりちゃんはまだ小さいし、まあ大丈夫かなって……」
 ハルは困ったように首を振った。
「魔法のことは、誰にも話しちゃいけない」
 真剣な口調だった。
 アキはその剣幕に、思わずうん、とうなずいてしまう。
「……でもさ、それはともかくとして、今回も前みたいに魔法で探せないの? ほら、前にカード見つけたみたいに」
「無理だよ」
 ハルは首を振った。
「どうして?」
「あの魔法じゃたぶん見つけられない。少なくとも、ぼくの力じゃできない。ぼくがあれで探せる範囲は、すごく狭いんだ。それに魔法の事件じゃないと、魔法は使えない。魔法をむやみに使っちゃいけない」
「うー」
 アキは納得したのか、していないのか、奇妙なうめき声のようなものをあげている。
「わかった?」
「――わかった」
 そこまで話が終わると、二人はあかりのところに戻っていった。あかりは二人に対して質問したりはしない。とはいえ、さすがに何があったのか気にしている様子だった。
「いや、えとね……」
 アキはしどろもどろになって何か言おうとする。
「……その、魔法みたいに簡単に見つけられないかなぁ、って話。でもそんなうまくはいかないよね」
 ごまかすように笑う。
 あかりはそれで納得したのかどうか、ちょっと不思議そうな顔で二人のことを見ていた。
 けれど――
「魔法なら、使えますよ」
 と、栩あかりは言った。
 二人は同時にあかりのことを見ている。
「魔法なら、使えます」
「…………」
「ナツのお兄ちゃんは魔法使いなんです」

 鈴川(すずかわ)公園はそれなりに大きな公園で、簡単な野球くらいならできそうな広さがあった。入口には石柱と車止めがあり、まわりは緑色のフェンスで囲まれている。大きなケヤキが一本はえていて、すべり台やブランコといったおなじみの遊具が並んでいた。
 公園の中にはすでに、何人かの子供たちの姿があった。あかりはきょろきょろと敷地を見まわして、それがちょうどぬいぐるみをなくした日と同じ顔ぶれであることを告げる。
(つまり、もしぬいぐるみを誰かが隠したり盗っていたりしてたとしたら、容疑者はこの中にいるってわけね)
 アキはそんなことを考えながら、
「どうしよう、とりあえず子供たちに集まってもらおうか?」
 と、訊いた。
 けれどハルは黙ったまま、公園を見つめている。何か考えている様子だった。
「ハル君?」
「……うん、そうだね」
 どこかぼんやりとしながら、ハルはうなずいた。
「ぬいぐるみをなくしたのは、いつ頃のことだっけ?」
 と、ハルはあかりに訊いた。
「三日くらい前の、夕方です」
「じゃあ、その時のことを聞いてみよう。誰かぬいぐるみのことを見てるかもしれないし、最後にどこにあったか知っておきたいしね」
「わたし、あの子たち呼んでくるね」
 そう言うと、アキは遊んでいる子供たちのほうに走っていった。
 ハルとあかりはそのあいだに、木陰になったベンチに向かう。ハルがそのイスに座ると、あかりもすぐ隣に座った。見あげると、水底から水面をのぞくように、葉のあいだから木漏れ日がきらきらと光っていた。蝉の声がやかましい。
 しばらくすると、アキが二人のところに戻ってきた。その後ろには、五人の子供たちが続いている。
 ハルはベンチから立ちあがった。
「話は聞いたかな? ぼくたちはあかりちゃんのぬいぐるみを探してるんだ」
 まず、ハルはそう言ってみた。
 子供たちは互いに顔を見あわせてから、中の一人が代表して口を開いている。髪を短く刈った、野球少年という感じの男の子だった。
「猫のやつのことでしょ、あかりの持ってた」
「そう……ところで君たち、全員知りあいなの?」
 あかりを含めて合計六人の子供たちを見まわしながら、ハルは言った。
「そうです」
 ハルの隣で、あかりが答えている。詳しく話を聞いてみると、この公園に集まっているのは大体近所の子供たちらしかった。一番上が四年生の男の子で、下は一年生の女の子。クラスもばらばらで、近所ということ以外には共通点らしいものはない。
 ちなみに、最初に答えた少年が四年で桐山修一(きりやましゅういち)。三年が名坂茂(なさかしげる)と和野英一(かずのえいいち)。二年と一年は女子で和野志帆(しほ)と上村七花(かみむらなのか)。和野英一と和野志帆は兄妹ということだった。
「ぬいぐるみがなくなったときのことは覚えてる?」
 と、ハルは質問を続けた。
「三日くらい前のことでしょ。俺らも探したもんな」
 桐山修一が確認するように仲間たちを見まわした。子供たちもみな、うなずいている。
「その時は見つからなかった?」
「ここの公園は大体探したけど……なあ?」
 修一がそう言うと、眼鏡をかけた和野英一という少年がうんうん、とうなずいた。
「僕らここの公園のことはよく知ってるけど、この辺にはなかったよ」
 ハルは少し考えてから、
「とりあえずその日のことを教えてもらっていいかな。あかりちゃんとは、みんないっしょに来たの?」
「確か、あとからだよな」
 前歯が一本欠けた、名坂茂が答える。何となく能天気そうな感じの少年だった。
「俺たちは今みたいに先に来て遊んでたんだよな。うん、そうだ。それで今みたいにあかりたちがあとから来たんだ。その時は、確かぬいぐるみ持ってたよな」
「そのあとは……?」
「七花ちゃんと、志帆ちゃんと遊んでました」
 あかりがそう言って、二人のほうを見た。和野志帆は英一の服の袖をつかんでじっとしている。上村七花は上級生の話に退屈しているらしく、その辺をぱたぱたと走りまわっていた。
「その時は、ぬいぐるみはあったんだね?」
「ありました」
「それから?」
「ナツの兄ちゃんが来たから、魔法遊び≠オてたんだよ。あかりも志帆も七花も、いっしょに混ざってたから、その時はぬいぐるみのことは知らないけど」
 魔法遊び?
「その魔法遊び≠チて何のこと?」
「んー、何って言われても俺たちもよく知らないよ。ナツの兄ちゃんだけができるんだ。だからナツの兄ちゃんは魔法使いなんだ。キゴウ≠描いてゲンジツ≠ノするとか何とか難しいこと言ってたけど、とにかく面白いんだよ」
「えと……例えばどんなことをするの、それは?」
「風船爆発させたり、スケボーを自動で動かしたり、靴にバネを仕込んだりとか、いろいろできるんだ」
「風船……?」
「そう、何か風船に絵を描くんだ。そしたら爆破すんの」
 さっぱりわからなかった。
「そのナツって人は、今日はいないの?」
「うん、ここには来たり来なかったりするから。でもその日はいたんだ。確か、五年生じゃなかったかな? クラノナツ≠ニかっていうんだ」
 ハルとアキは顔を見あわせてみた。少なくとも星ヶ丘小学校の五年に、クラノ≠ニいう名前の少年はいない。別の学校の生徒らしかった。
「その人と……ええと、魔法遊び≠してたんだね。あかりちゃんもいっしょに。その時、ぬいぐるみは?」
「俺は知らないけど、どうかな?」
 修一は全員を見まわす。
「このベンチのとこに置いてあったと思うけど」
 英一が、あまり自信なさそうに発言した。
「ぬいぐるみがなくなったのに気づいたのは、いつ頃のこと?」
 ハルが訊くと、再び修一が言った。
「あかりが帰るときだよ。何か用事があるとかで、あかりたちだけ先に帰ることになったんだ。その時に気づいて、みんなで慌てて探した」
「その時は見つからなかった……?」
「ああ」
 確認すると、ほかの三人も全員うなずいている。茂が、相変わらず走りまわっている七花に訊くと、七花もやっぱりそうだというふうにうなずいてみせた。
「うーん」
 ハルは手を口にあてて、しばらく考えている。
「その時公園にいた誰かが持ってったってことはないんだよね」
「まさか、そんなことはしないよ。俺たち以外には誰もいなかったし、そんなことは絶対にない」
「じゃあ、その日は風が強くてぬいぐるみがどこかに飛ばされちゃったとか、犬がくわえて持っていったとかは? 猫でもいいんだけど」
 いや、ないよ、と修一は否定する。いくらなんでもそんなことはない、という顔だった。
「ここ、けっこう広いけど、あの日も散々探したし、そんな隠し場所とかないしなあ。あかりのぬいぐるみがどっかいったとしても、ここにはないと思うけど。ごみ箱にも空き缶とか変な綿くずとかしかなかったし、だいぶ隅まで探したからなあ」
 ハルは少し考えるようにしている。この辺が、切りあげ時かもしれなかった。
「ごめんね、いろいろ聞いて。おかげで参考になったよ。ありがとう」
「いいよ、別に。それより、あかりのぬいぐるみ見つけてやってくれよ。俺たちもけっこう心配してるんだ」
「できるだけのことはするよ」
 ハルはそう言って、少しだけ笑った。

 子供たちが遊んでいるのを、ハルたちはベンチに座って眺めていた。世界は何かの実験中のように暑かった。元気な子供たちである。
「暑い……」
 アキはむなしくつぶやきながら、服をぱたぱたとやった。普段は、こんな日に外出したりはしない。
「ねえ、ハル君?」
 暑さにうんざりしながら、アキは助けを求めるように言った。ハルは風の音に耳を澄ますように、静かに子供たちを見つめていた。その隣では、あかりが大人しく座っている。二人とも、あまり暑そうには見えなかった。アキはとりあえず、今回のことについて質問してみた。
「ハル君は、さっきので何かわかった? ぬいぐるみがいつなくなったのかもはっきりしないし、どこに行ったかもわからない。どうも、公園には落ちてなさそうだけど……」
「うん――」
 聞いているのかいないのか、ハルは気のなさそうな返事をした。
「みんなが覚えてるから、この公園でなくなったことは間違いない。でも誰も持って行ってないし、その辺に転がってるわけでもない。ぬいぐるみはいつの間にかなくなっていた……本当はぬいぐるみなんてどこにもなかったみたい。みんな夢でも見てたのかな?」
「うん――」
 ハルはやはり、気のない返事しかしない。アキがむっとして何かしゃべり続けようとすると、
「話しておかなきゃいけないことがあるんじゃないかな?」
 と、ハルは不意に言った。
「?」
 ハルはけれど、アキに向かって話しかけているわけではなかった。ハルの隣で、あかりが顔をあげる。
「君はまだ、大切なことをいくつか話してないんじゃないのかい? 例えば、この場所にいたもう一人の人物のこととか」
 あかりは黙ったまま、顔だけをハルのほうに向けている。アキは不思議そうな顔で二人の様子をうかがった。
「最初に公園に来たとき、君はぬいぐるみをなくしたときにいた人間は、全員ここにいるって言ったよね」
「…………」
「でも少なくとも、一人は足りてなかったはずだよ。魔法使い=c…その、クラノナツ≠ニいう人はね。それにさっき話してたとき、茂くんて子が言ってたよね。『今みたいにあかりたちがあとから来たんだ』って。君は、一人でここに来たわけじゃないんだ」
 子供たちの声が、夏の暑さの向こうに遠い。
「どうして君は、そのことを言わなかったんだろう? 勝手な想像になるけど、君はその人物のことをよく知ってるんじゃないかな。だから、わざわざその人物の話を聞く必要はないと思った。じゃあ、君といっしょに来てた人物は誰なのか?」
「…………」
「君たちは性格はまるで違うけど、何といっても双子だしね。それに彼女はどうやら、ぬいぐるみのことについては何か知ってるみたいだし……つまり、君が誰かといっしょに来るとしたら、そしてその人物のことを君がよく知っているとしたら」
 ハルは少しだけ、言葉を切った。
「……それは栩ひかりしか、いないんじゃないかな?」
 あかりは顔をそらした。
 けれど――
 彼女は小さく、うなずいている。

「ひかりちゃんと私は、小さい時はよく似ていました。みんな私たちを同じように扱ったし、私たちもお互いを同じみたいに思ってました。どこに行くにもいっしょだし、何をするにもいっしょです」
 あかりはぼんやりと、一人でつぶやくようにしゃべっていた。ハルとアキは、黙ってそれを聞いている。
「……ずっとそうなんだと思ってました。私とひかりちゃんはいつもいっしょで、いつまでもいっしょなんだって。それだけは、きっと変わらないものなんだって……思ってました。でもひかりちゃんはいつの間にかひかりちゃんじゃなくなってました。相変わらずいっしょにいたけど、ひかりちゃんはどんどん変わっていきました。まるで、私を置いてどこかに行っちゃうみたいに」
 あかりは少しだけ、悲しそうな顔をした。
「あのぬいぐるみは、本当はひかりちゃんも欲しがったんです。でも一つしかなくて、結局私が買ってもらいました。ひかりちゃんは別の、それより少しだけ大きな犬のぬいぐるみを買ってもらいました。ひかりちゃんは最近、そのぬいぐるみを大切にしてます。でも本当は、ひかりちゃんはあのぬいぐるみが欲しかったんです。欲しかったけど、わざと別のを選びました。そんなことをするくらいなら、私はあのぬいぐるみを二人で持ってたほうがよかったのに――」
 ハルもアキも、しばらく黙っている。
(……どういうこと何だろう?)
 と、アキは思った。ぬいぐるみを取ったのは栩ひかり? 彼女は本当はあかりちゃんのぬいぐるみが欲しかったから?
 アキはそう考えてみるが、全然わけがわからなかった。これではまるで理屈が通っていないし、第一同じ家に住んでいて取ったぬいぐるみをどこにやるというのだろう。それに、どうやって公園でぬいぐるみを取ったのかもわからない。隠し場所なんてないのだから、そんなことをすればすぐにわかってしまうはずだった。
 ハルも、アキと同じように黙っていたが、
「――あかりちゃんは」
 と、不意に言っている。
「ひかりちゃんと、仲直りがしたいの?」
 あかりは不思議そうに、ハルのことを見ている。確かにそれは、全然関係のないセリフのように思えた。けれど、
「……はい」
 と、栩あかりははっきり答えた。
 ハルは柔らかな調子で言葉を続けた。
「だったらきっと、大丈夫だよ。ぬいぐるみが見つかれば、みんな元に戻るから。ううん、違うな……それは少し違うところから、またはじまるんだ」
 あかりもそれからアキも、ハルが何を言っているのかわからなかった。けれどこの少年がただの冗談や気休めでそんなことを言っているのでないことだけは、わかる。
 たぶんこの少年はいつだってそれにふさわしいときにしか、本当のことを言わないのだ。
「――それで」
 アキは気をとりなおすように、一呼吸置いた。
「これからどうするの? ぬいぐるみは結局、見つかってないわけだし」
「うん」
「わたしたちも公園を探してみようか?」
「それは別にいいと思う。あの子たちが散々探して、それでも見つからないなら、たぶんここにはないだろうし」
「じゃあどうするの?」
「うん……」
 ハルは考えるように唇に手をあてている。
「できればクラノナツ≠チていう人に直接会って、話を聞いてみたいんだけど」
 言って、あかりのほうを見た。けれど、
「ナツのお兄ちゃんはいつ来るかわからないんです。どこに住んでるかも、私たちは知らないし」
 じゃあ仕方ない、という感じでハルは首を振った。
「その人に会えそうだったら、ぼくに教えて欲しい。今は少し、考えなくちゃいけないことがあるんだ」
 そうして三人が話しあっているところに、子供たちのうちの一人――一番年下の上村七花という少女が、とことことやって来ている。
「あのね」
 と、ひどく舌足らずな声で、七花はしゃべりはじめた。
「ねこさんはね、きっとつかまってるの」
「?」
「おかあさんがいってたの。ねこさんをつかまえる、わるいひとがいるって。あかりちゃんのねこさんも、きっとそのひとにつかまってるの。だからねこさんを、たすけなくちゃいけないの」
 七花はそれだけ言うと、もう気はすんだとでもいうふうに元のところへ戻ってしまった。
 それが何のことなのかは、二人にはもちろんわからなかった。

 数日後、ハルとアキは屋上に二人で座っている。放課後で、校内にはほとんど人は残っていなかった。太陽は、空を焦げつかせてしまいそうなほど強く輝いている。
 二人はいつもと同じように、柵にもたれかかり、足を投げだして座っていた。日陰にいるおかげで、暑いというほどではない。時折、思い出したように風が吹いていった。
「……平和だよね」
 ぽつりという感じで、アキが言った。
「ここでこうしてたら、世界の終わりまでこのまんまじゃないのかな、っていう気がしてくるよね。静かで、穏やかで、何も起こらなくて……何で世界からは貧困や戦争がなくならないんだろう? 世界はこんなにも静かなのに、ねえ――」
「それはいいんだけど」
 ハルは呆れている。
「そんな話をするためにぼくを呼んだの? 世界の終わりについて考えるために」
「いやだな、ハル君」
 アキはのんびりしていた。
「これはいわゆる、世間話ってやつだよ。ただの世間話」
「世間話で世界の終わりについて考えたりするのかな……」
「世間話だから、そんなことを考えるんでしょ」
 ハルはやれやれ、とため息をついた。けれどアキはそんなことは気にせず、
「まあそれはともかく、猫≠フことでちょっと気になる話を聞いたんだよね。ぬいぐるみじゃないけど」
 と、一転して話題を変えた。
「それって、この前あの子が言ってたあれのこと? わるいひと≠ノつかまってる≠ニか」
「うん」
 アキはうなずいて、
「いろいろ話聞いたんだけど、最近街中とかで猫がいなくなってるらしいんだって。飼い猫じゃなくて野良だから、本当のとこはよくわかんないんだけど。もしかしたら、どこかに散歩に行ってるだけかもしれないし」
「…………」
「でも一ヶ所だけじゃなくて、市内のいろんなとこで猫がいなくなってるんだって。聞いただけの話だから、本当かどうかはわかんないんだけど。変質者がやってるんだとか、研究所みたいなとこで集めてるんだとか、いろいろ噂になってる」
「あの子が言ってたのって、そういうことなのかな?」
「うん、たぶん」
 母親からでもその話を聞いて、それがぬいぐるみのことと結びついたのだろう。
「でもね、そのことでちょっと気になることもあったんだ」
「気になること?」
 アキはどこか、煮えきらない様子だった。この少女にしては、ひどく珍しい態度である。いつもなら嫌だといっても話すくせに。
「あのね、志条芙夕さんいるじゃない」
「志条さん?」
 言われて、ハルは人形よりも無表情なその少女のことを思い出している。
「うん、あの子がね、何か猫を捕まえてるらしいんだって」
 言いながら、アキもさすがに自信なさげだった。確かに、アキは同じクラスとはいえ、志条芙夕という女の子について何も知らない。だからといって、彼女が猫を捕まえている光景なんて想像できるはずもなかった。
「逃げた自分の猫を探してた、ってことはないのかな?」
「さあ……」
「友達の猫でもいいけど」
「どうなのかな……」
 アキにもハルにも、よくわからなかった。話自体を信用していいのかもわからないし、志条芙夕という少女がその辺の猫を捕まえていたなんてことを信じていいのかどうかもわからない。
 けれど――
 ハルには何となく、それが何かの事実≠フ一部であるような気がした。ハルは彼女のことを知らない。けれどハルには、あの少女のことを多少なりとも知っておく必要があった。何しろ彼女は、ハルのことを知っているのだ。そしてそれがいったいどれくらいなのか、ということが問題だった。
「…………」
 ハルがそんなことを考えていると、
「それでさ、ハル君」
 と、アキは不意に言っている。ハルが、「うん?」という感じでアキのほうを見ると、
「ぬいぐるみのこと、何かわかった?」
「ううん、まだ。とりあえず、クラノナツ≠チていう人に会わないと何とも言えないかな……その人が本当に魔法使い≠ネのかどうか確かめないと」
 アキはハルの顔を見つめた。
「それって、この事件も魔法≠ェ使われたってこと?」
 確かにそれなら、ぬいぐるみが突然消えたことの説明もつくのだろう。そしてクラノナツ≠ェ魔法使いである可能性は、とても高かった。
 けれど――
 いったい、どんな魔法を使ったというのだろうか。絵を描いて風船を爆発させるような魔法? スケボーを自動で動かすような? それとも、アキの知らないような方法が、魔法にはあるのだろうか。
 ハルは黙ったまま、特に何も答えようとはしなかった。
 この少年は、いったい何を知っているのだろう――?

 志条芙夕がそれ≠ノ気づいたのは、下校時間になってからのことだった。フユはランドセルを担いだまま、それを手に持っている。机の奥にあったせいで、今まで気づかなかったらしい。
「…………」
 それは、円筒形のフレームに卵を収めたような、奇妙な形をしたオブジェだった。大きさは手の平に収まるくらいで、デザインのわりには古めかしい感じがした。その形状からは、何に使うのか見当もつかない。
 けれど実のところフユは、それが何なのかを知っていた。そして誰が、それを自分の机の中に入れたのか、ということも。
 フユは目を閉じ、意識を集中させた。それはまるで、何かに耳を澄ませているようにも見える。
 はるか昔の、かすかな風の音に――
 柔らかな草の上に落ちた、小さな雨粒の重みに――
 クラスメートの一人が、「志条さん、さよなら」と声をかけるが、フユは反応もしなかった。声をかけた生徒はちょっと困ったようにしながらも、慣れたように行ってしまう。フユという少女は強制されないかぎり、自分からはほとんど挨拶をしなかった。
 フユは水面に手を入れ、自ら波紋を起こすようにしながら、次第にそれを一定の形に作り変えていく。フユは世界に生じさせる揺らぎ≠、自ら作っていた。
 その揺らぎが一定の型に整うと、人がずっと昔に忘れてしまった力が、世界には生じていた。
 フユはゆっくりと、目を開いた――

 ハルは目の前にかざした感知魔法@pのペンダントから顔をそらし、それをポケットの中にしまった。体育館裏のその場所には、学級菜園が作られていて、トマトやジャガイモといった野菜が植えられている。ハルは体育館の影になった、段差のところに腰かけていた。
 あたりに人影はなく、地面には夏の陽射しが刻みこまれている。
 やがて待つほどもなく、校舎のほうから一人の人物が姿を現していた。
 その人物は日陰の中ぎりぎりの、ハルとは微妙に距離をとったところで立ちどまった。たぶん、警戒しているのだろう。
「どういうわけかしら、こんなところに呼びだして」
 と彼女、志条芙夕は言った。
 フユは暑さとは無関係なような、シックな服装をしている。この少女がそういう格好をすると、今が夏だということを忘れてしまいそうだった。
「もしかして告白でもするつもり? それとも、私をしめようっていうのかしら? どちらにせよ、ずいぶん手の込んだやりかたね」
 言いながら、フユはあくまでも無表情だった。
「本当にそう思うの?」
「まさかね」
 そう言って、ハルのほうに向かって何かを放り投げている。ハルは片手で、それを受けとめた。
「それは返しておくわね。けっこう貴重なものじゃないのかしら、それ? よく貸してもらえたわね」
「君のことを話したら、喜んで貸してくれたよ」
「それは光栄ね、わざわざ重要人物みたいに扱ってもらえるなんて。あの人は今も元気なの? 魔法管理者(コンダクター)≠フ一人とはいえ、あなたのおばあさんなんだから、それなりの歳にはなっているはずだけれど」
「とても元気だよ。それにそれほどの歳でもないしね」
「でも、どうなのかしらね。一人娘を亡くした心境というのは、それなりにつらいものなんじゃないかしら?」
 彼女は皮肉や同情で、それを言っているのではなかった。たぶん彼女は、本当にそう思っているだけなのだろう。
「――君はやっぱり、魔法のことを知ってるんだね」
 ハルは意識的に話の流れを変えた。
「さあ、どうかしら」
 フユは動揺もしていない。けれどハルは続けた。
「それに、魔法も使える」
「…………」
 今度は、黙った。
 ハルはその手の中の、奇妙なオブジェのようなものをいじりながら続けた。
「これは読心魔法(リーディング)≠フ魔術具(オブジェクト)だ。相手のすぐ近くに、気づかれないように印をつけると、その相手の心が聞きとれる。もちろん、君はそれを使ってここに来た。ぼくがつけておいた印は、消しておいてくれた?」
「ええ――でも、イスの裏にチョークで印をつけておくなんて、ちょっと卑怯じゃないかしら?」
「悪いけど、そこしか思いつかなかったんだ。ちょうど掃除当番だったしね」
「それで?」
 フユはまっすぐにハルのほうを見た。
「何か私の秘密でも探りあてたわけ? それで私を脅そうと?」
「違うよ」
 ハルは首を振った。
「ぼくは君の心を読んでなんかいないし、第一魔法使い相手にそれは難しい。魔法の揺らぎですぐにわかっちゃうからね。ぼくは少し確認したかっただけだよ、君のことについて」
「…………」
「君はこの魔術具を見て、それがどういうものであるかを知っていた。もちろん可能性は低いけど、心を読まれてしまった可能性もそこにはあった。そして念のために魔法を使ってみて、ぼくの心を読んだ……それを仕組んだのはぼくだけどね。そうしてぼくがイスの裏に印をつけておいたこと、体育館裏で待っていることを読んだ。そして君はやって来た。ここからわかることはいくつかある。君が魔法使いということもそうだけど、それより、君はぼくに知られてはいけない秘密を持っている、ということだよ。だから可能性は低いとはいえ、君はこうして確認しに来ざるをえなかった」
 二人はしばらく黙っていた。
 夏の陽射しはわずかに、遠くなったようである。まるで二人のいる場所だけが世界から離れていってしまうみたいに。
「――それで、私をどうしようっていうのかしら?」
 フユはまったくいつも通りの口調で訊いた。不安も怯えも、そこにはない。
「その秘密をしゃべるまで殴りつけるとか?」
「そんなことはしないよ」
「ずいぶん紳士的なのね。それとも、のん気なだけかしら?」
「今のところぼくには何が起きてるのかさっぱりわからないし、ほかに考えなくちゃいけないこともあるしね」
「ふうん」
 フユはまあどうでもいいけれど、という感じに視線を外した。
「じゃあ、話はこれでお終いかしら?」
「もう一つ聞きたいことがあるよ」と、ハルは言った。「猫のことについて――」
 フユは不審そうな顔でハルのことを見つめた。
「どこで聞いたのかしら、そんなこと」
「おせっかいで優秀な情報源を、ぼくは持ってるんだよ」
「ふうん」
 フユはもう一度言って、けれど相変わらず無表情に、
「これはクラスメートのよしみとして、言っておこうかしら」
 と、ハルのことを見つめた。
「?」
「宮藤晴くん、あなたは気をつけたほうがいいわよ」
「…………」
「あなたの生命、本当は少し違うけれど、あなたの生命が狙われているから。それなのに、ほかに考えることなんてあるのかしら? まだ時間がかかりそうとはいえ、あなたは確かに狙われているのよ」
 フユはそう言って、ほんの少しだけ笑った。
 そうしてフユは、夢そのもののように不確かなその笑顔だけを残して行ってしまう。
 ハルはそのあいだ、ぼんやりとその場所にとどまっていた。胸の奥のどこかで、遠い昔に忘れてしまった傷がかすかに疼いたような、そんな気がした。

 休日明けの最初の日、ハルとアキは再び鈴川公園に向かった。クラノナツ≠ェやって来るというのである。休みのあいだに、クラノナツ≠ェやって来て、子供たちの一人がハルたちのことを伝えたらしい。
 三人が公園に着いてみると、そこには前と同じように子供たちが集まっていた。五人は前と同じように遊んでいる。ただ一つ違うのは、そこに一人の少年の姿があったことである。
(あれが、クラノナツ=H)
 アキは入口のところからちょっとのびをするようにのぞいてみた。遠くてよくはわからなかったが、すらっとした感じの背の高い少年のようである。眼鏡をかけている。
 子供たちは少年のまわりに集まって、何かをやっているようだった。
「風船やってよ、風船」
 と、子供たちの一人、名坂茂が言っていた。茂は少年に向かって、何かを差しだしている。
 クラノナツ≠轤オい少年は、仕方ないな、という感じでそれを受けとり、口元につけて息を吹きこんだ。どうやら、黄色いゴム風船らしい。
 風船が十分な大きさになると、少年は口の部分を結んだ。それから身に着けていたウエストバッグからマジックをとりだして、ふたを外す。どこにでもあるような油性の、黒色のマジックだった。
「――――」
 意識を集中して、少年はそのマジックを動かしはじめた。
(……?)
 アキは何かを感じたような気がして一瞬、ぼうっとしてしまう。その何か≠ヘ感じたと思ったときには、もう消えてしまっている何かだった。鏡のような水面に小さな波紋が起こって、次の瞬間にはそれがどこで起こったのかさえ忘れてしまうのに、似ている。最初から、何も起こらなかったかのように。
 ちらっとハルのほうを見ると、この少年も何か気にするような表情でじっとそれを見ていた。
 少年はそのあいだも、集中した様子でマジックを動かし続けている。何度も描いているのか、その手にはほとんど迷いがない。
「できた」
 と言って、少年は風船を子供たちの一人に渡した。途端に、子供たちは駆けだして、少し離れた場所で遊びはじめている。
 アキは不思議そうにそれを眺めていた。子供たちは風船をはじきあっては、それを避けたり、はじき返したりしている。
 一分ほどたった頃だろうか。
 小さな女の子、上村七花のところに風船が来たとき、
 バンッ
 といって、その風船が爆発した。――爆発、である。かすかな煙まであがっていた。まったくの突然で、きっかけのようなものは何もなかった。
「どうなってるの、これ?」
 アキは呆然とつぶやいた。子供たちはその奇妙な現象を、ただおかしそうに笑っている。
「――魔法だよ」
 誰かが、アキのほうに向かって言った。
 振りむくと、そこにはクラノナツ≠フ姿があった。ハルも、アキの隣でこの少年と向きあっている。
 その少年は無造作な髪型をして、気さくそうな表情をしていた。背丈はハルよりも少し高い程度。黒縁の眼鏡をかけている。どことなく、飄々としてつかみどころのない感じのする少年だった。眼鏡の奥の瞳は、教会のステンドグラスを思わせるような、複雑な色あいをしている。
「あんたらが宮藤晴と水奈瀬陽だろう? 僕は久良野奈津(くらのなつ)。星ヶ丘じゃなくて、彦坂(ひこさか)のほうの生徒だけどな」
 久良野奈津は、気軽にそう言った。
「今のは……」
 ハルは子供たちのほうを見ながら、
「魔法なの?」
「そうだな」
 ナツはまるで意に介さないように、無造作に答えている。ハルは黙ってしまった。この少年は、どうしてこんなに気軽に魔法を使っているのだろう――
「ねえねえ、どうやったか教えてよ」
 アキは黙ったままのハルの隣で質問した。アキは単純に、好奇心からその質問をしている。もちろん、彼女がナツの行為をいちいち不審がる必要はなかった。
「爆弾だよ」
「は?」
 アキはきょとんとする。
「あの風船には爆弾≠フ絵を描いたんだよ。丸くて、導火線と火花のついたやつ。どこかのゲームにあるようなやつだな。それで時間がたって、風船が爆発した」
「えーと……」
 アキにはいまいちわからなかった。
「つまり君は」
 と、横からハルが言った。
「描いた絵の効果を具現化できるってこと? 形而上的な記号≠、形而下の現実≠ノ置き換える……」
「まあ、そんな感じか。スケボーにエンジン≠描きこんだり、靴にバネ≠フ絵を描いたりとかだな」
 言いながら、ナツはくるりとマジックを回転させた。
「もっとも、何でもかんでも描けばいいってもんじゃないけどな。イメージがうまく結びつかないやつはだめらしい。その辺は直感てやつだな。ぴんと来たやつは案外成功するけど」
「何でそんなことができるの?」
 アキが訊くと、ナツはどうでもよさそうに答えた。
「さあね、僕は知らない。気づいたらできるようになってた」
「…………」
 向こうのほうから、子供たちがナツを呼ぶ声がした。どうやら、次の遊びをはじめたいらしい。
「ぬいぐるみのことを聞きたいんだっけ」
 ナツはそっちのほうに手を振りながら、二人に向かって言った。
「特に何も知らないけど、何か聞きたいこととかは?」
「今のところはないよ」
「じゃあ、僕は向こうに行くから。見つかるといいけどな、ぬいぐるみ」
 ナツはちょっと笑ってみせて、子供たちのほうへと行ってしまった。
「……あかりちゃん」
 と、ハルはそのあとであかりに向かって言っている。
「はい?」
「悪いけど、ひかりちゃんを呼んできてくれるかな」
「……?」
 あかりは不思議そうにハルのことを見た。けれどハルはごく穏やかな、落ちついた顔であかりのことを見返している。
「……わかりました」
 うなずいて、あかりは公園を駆けていった。小さな足音が残りそうな走りかただった。
「ねえハル君、何かわかったの?」
 あかりを見送ったあとで、アキは訊いた。
「やっぱりひかりちゃんが犯人なの? あの人――久良野奈津って子の魔法を使って?」
「これから話すよ」
 そう言ったきり、ハルはそれ以上答えようとはしない。アキは仕方なく質問するのを諦めた。
「……でもさ、すごいよね」
 アキは子供たちのあいだにいるナツのほうを見ながら言った。
「魔法ってあんなこともできるんだ。絵を描いただけで、爆発させちゃったり」
「…………」
 ――いや、あれは少し違う。
 ハルはつぶやいたが、その声は小さすぎてアキには聞こえていなかった。

 あかりがひかりを連れて戻ってきたのは、十分ほどしてからのことである。ひかりはあかりの後ろを、仏頂面を浮かべて歩いていた。こうしてみると、双子なだけに二人はそっくりだったが、身にまとっている雰囲気のようなものはまるで違っていた。ひかりは腕に、ぬいぐるみらしい白い塊を抱えている。
 ハルとアキは例の木陰のベンチに座って、ナツと子供たちが遊んでいるのを眺めていた。ナツはその奇妙な魔法を使って、ちょっとした遊びを披露していた。エンピツをロケットのように飛ばしたり、カサを使ってパラシュートのように舞い降りたりといったことである。
 やがてひかりとあかりが、二人の前にやってきた。
「何か用なの?」
 ひかりはやってきて早々、不機嫌そうに言った。彼女はそれなりの大きさの、白い犬のぬいぐるみを抱えている。
「前にも言ったけど、ぼくたちはあかりちゃんのぬいぐるみを探してるんだ」
 ハルはベンチに座ったまま、いつも通りの落ちついた声で言った。
「じゃあ勝手に探せば」
 ふん、とひかりは顔をそらしている。
「私には関係ないでしょ。言っとくけど私は何も知らないから」
「いや、君がいてくれないと困るんだ」
「…………」
「そうだよね、栩ひかりちゃん」
 ハルの隣で、アキがちょっと話についていけないような顔をしていた。
「どういうこと、それって?」
「つまりさ、栩ひかりは栩あかりのぬいぐるみの行方を知っている、そういうことだよ――」
 ひかりは相変わらず不機嫌そうな様子で、
「面白いじゃない。私があかりのぬいぐるみについて、何を知ってるっていうの?」
「君の持っているそのぬいぐるみを調べれば、それはわかるんじゃないかな。君はあの時も、そのぬいぐるみを持っていたんだろう?」
 言われて、ひかりは視線をまっすぐ向けたまま、腕の中のぬいぐるみを強く抱きしめている。
「これは私のだから、誰にも触らせない」
「ひかりちゃん……?」
 あかりが不安そうにひかりのほうを見た。
 それを聞きながら、アキが困ったように言う。
「えと、ハル君……? 何がどうなってるのかよくわからないんだけど。ひかりちゃんが知ってるってどういうこと?」
 けれどハルは、
「でも彼女は盗んだ≠けじゃない。正確には隠した≠ニいうべきなんだ」
 と、ますますよくわからないことを言った。
「?」
 アキは無言のまま、さっぱりついていけないといった顔でハルのことを見ている。
「――じゃあ仕方ない。一応、説明みたいなものをしておこうか」
 ハルはそう言って、あかりとひかりをベンチに座らせた。ひかりはちょっと警戒するような様子で、ぬいぐるみを抱えたまま座っている。
 ハルの話がはじまった。
「まず、状況を整理しておこうか。数日前、あかりちゃんのぬいぐるみがこの公園でなくなった。その時、公園にいたのはあかりちゃんも含めて全部で八人。なくなる前、あかりちゃんはちょうどこのベンチのところにぬいぐるみを置いていた」
 うんうん、という感じでアキはうなずく。
「でも公園をくまなく探しても、ぬいぐるみは見つからなかった。ポケットに入るような大きさじゃないし、誰かが隠したとも思えない。風で飛ばされたわけでも、第三者が持っていってしまったわけでもない。ぬいぐるみは一瞬のうちに消えてしまった……」
 ハルはいったん言葉を切って、様子をうかがうように三人のほうを見た。
 あかりは不安そうに話を聞いて、ひかりは不機嫌そうに視線をそらし、アキは不可解そうにハルのことを見ている。
 ハルは何だか、自分がひどく滑稽な立場に立っているような気がした。
「……常識的に考えて、ぬいぐるみが突然なくなったりするなんてことはないから、結論として、ぬいぐるみはその時公園にいた誰かが持ち去るなり、隠したかしたことになるしかない。要するに、犯人はこの中にいるわけだ。向こうの六人と、それから栩ひかりちゃん……」
 ハルはそして、こう言った。
「そして結論を言うなら、あかりちゃんのぬいぐるみを隠したのは、ひかりちゃんなんだ」
 アキがよくわからない、というふうに言った。
「でもどうやって? 隠し場所なんてどこにもないわけでしょ。ひかりちゃんが隠したとしたって、どこにも隠せない。それとも、あの子たちが何か見落としてたのかな?」
「ううん、公園のどこかに隠されていたなら、あの子たちがきっと見つけてたよ。そのことはひかりちゃん自身よく知っていた。だから彼女は、いろいろと工夫しなくちゃいけなかったんだ。もしかしたらとっさに思いついたのかもしれないし、そのぬいぐるみを買ってもらったときから、そのことは考えていたのかもしれない」
 ひかりはやはり、無言のままだった。あかりがそれを、心配そうな顔で見ている。
「あの時、子供たちが言っていたごみ箱の綿=Aそれから久良野奈津の魔法=Aひかりちゃんの持っていたぬいぐるみ=Bこの三つをつなげると、あかりちゃんのぬいぐるみがどこに隠されているのか、考えることができるんだ」
「?」
「つまりさ、あかりちゃんのぬいぐるみは、ひかりちゃんのぬいぐるみの中にあるってこと」
「は……?」
 アキが、よくわからないという顔をした。
「それって、えと……ごみ箱の綿≠ヘひかりちゃんのぬいぐるみの綿≠チてこと? 中身を抜いて、その中にあかりちゃんのぬいぐるみを隠した?」
「そうだよ」
「でも、えと……そりゃ大きさ的には大丈夫かもしれないけど、ぬいぐるみを分解したってこと? 分解して綿を抜きとった? でもそんなことしたら、元に戻せないでしょ?」
「だから、魔法≠ネんだ」
「魔法で元に戻した?」
「違うよ」
 ハルは首を振った。
「分解なんてしていない。ある方法を使えば、そんなことしなくても中身を抜きとることができるんだ。でもその方法ではまずいことに、そのあとが残ってしまう。彼女が急にぬいぐるみを大事にして、自分のそばから離そうとしなくなったのは、そのせいなんだ」
「えと、つまり……?」
「久良野奈津の魔法、その描いたものを現実化する魔法を使って、ひかりちゃんは自分のぬいぐるみにあるものを描いた。油性のマジックだったから、残念ながら簡単には消せなかったけどね」
「……?」
「見ればわかると思うけど、たぶんひかりちゃんはジッパーを描いてもらったんだよ」
「ジッパー――?」
 アキはおうむ返しにつぶやいてしまった。
「それが、一番うまくいく可能性があったんだ。魔法でジッパーを描いて、そこから中の綿を取りのぞく。空いたスペースにあかりちゃんのぬいぐるみを詰めこんで、ジッパーを閉じる。見られる危険性はあったけど、タイミングよくやればできないことはない。子供たちは魔法遊び≠ノ夢中になってるし、久良野奈津の協力もあった。綿は適当に気づかれないようにして、ごみ箱に捨ててしまえばいい。割れた風船を捨てるついで、とかでね――」
「…………」
 ひかりは、何も言わなかった。
 けれど――
 その手のぬいぐるみを、いきなりあかりのほうに投げつけている。あかりはびっくりしながら、そのぬいぐるみをぶつけられた格好で受けとめていた。
 白い犬の腹には、ハルの言ったとおりマジックで描かれたジッパーのあとが残っている。
 ひかりはきっ、とハルのことをにらんだ。
「何なのよ、あんたいったい……!」
 ハルは少しだけ笑って、答えた。
「ただの魔法使い≠ウ――」

 しばらくは、誰も口をきかない。奇妙な沈黙があたりを満たしていた。まるで世界がそっと聞き耳を立てているような沈黙である。誰かが小さく息を吐けば、それだけで何かが壊れてしまいそうな。
 夏の太陽と木陰の下で、蝉の声だけがやかましく鳴り続けている。
「どうして……?」
 栩あかりがそっと、ためらうようにその言葉を言った。
「どうして私のぬいぐるみを取ったりしたの、ひかりちゃん?」
 ひかりは、その言葉に答えない。
「ぬいぐるみが欲しかったんだったら、そう言ってくれれば私はいつだって――」
「違うわよ!」
 ひかりは胸のどこかから押しあがってくる言葉を、飲み下すべきかどうか迷うように口元を震わせていた。けれど、
「――私は、私にならなくちゃいけなかった」
 と、何かを押しつぶすように言った。
 あるいは――
 押しつぶされたのは、彼女のほうだったのかもしれない。
「あの時、私は決断しなくちゃいけなかった。それは何でもないようなことだったけど、たまたま座るテーブルが別々になったみたいなことだったけど、でも私は知ってしまったから。世界にはそういうこともあるんだって、世界はそういう場所なんだって……」
 ひかりはぐっと、歯をかみしめるようにして口を閉ざした。
「私は……私にならなくちゃいけなかった。私たちはいつもいっしょにいられるわけじゃない。いつか、離ればなれになってしまうかもしれない。いつか、永遠の別れを経験することになるかもしれない。そうなった時、私はそれでも世界で生きていけるように――」
「………」
「私はだから、あかりと同じ存在であることを、やめなくてはならなかった」
 何かが脆くも崩れてしまうように――
 何かが静かに壊れてしまうように――
 栩ひかりは、言った。
 それは小さな少女の、とても大きな決断だった。自分を作り変えてしまうこと。自分の魂の半分を捨てて、そこに無理矢理別のものを詰めこんでしまうこと。彼女はそれを誰にも言わず、誰の力も借りず、自分ひとりでやり遂げることを選んだ。
「じゃあ、どうしてぬいぐるみを――?」
 あかりは水の中で無理に息をするような様子で言った。
「…………」
 ひかりは何かを押し殺そうとするように、かすかにうつむいている。
「許せなかったから」
 そしてひかりもまた、水の中で必死に息をするような様子で答えた。そうでもしなければ、息の仕方を忘れてしまう、というように。
「私は、許せなかった。あかりだけがそのことを知らずにいられることが。あかりだけが、それを失わずにすんでいることが。この世界がどういう場所かも知らず、平気な顔でその場所にいられることが。私は、私だけがそうなってしまったことを、許せなかった」
 吐き出すようにして、ひかりは言った。
「…………」
 あかりはそれに対して、何も答えられない。
 何が、答えられただろう――?
 世界が水底に沈んでいくような、不思議な感覚があった。透明な水はいつしか光をさえぎって、暗い闇だけが世界を静かに押しつぶそうとしている。
 栩あかりと栩ひかりは、呼吸を失おうとしていた。
「…………」
 その時、ハルは何かを言った。
 あかりとひかりは、少しだけ顔をあげる。
「――君たちはやっぱり、二人で生きているみたいだね」
「……?」
 二人はよくわからない、という顔でハルのことを見た。ハルは、この少年はいつものような落ちついた表情を浮かべ、言葉を継いでいる。
「この事件は、結局君たち二人が起こしたようなものなんだ。君たちは、仲直り≠ェしたかっただけなんだよ――」
「馬鹿じゃないの、あんた」
 ひかりが、かちんときたように言った。
「私はあかりが許せないって言ったのよ。私だけがこんなふうになって、それを知りもしないあかりが。だからぬいぐるみを取ってやったんだから」
「でもね」
 ハルはそれでも、落ちついたまま言った。
「あかりちゃんは、君がぬいぐるみを隠したことを知っていたんだよ」
 言われて、ひかりは戸惑うように動きをとめる。
 栩あかりが最初にハルの家を訪れたとき、彼女はこう言ったのだった。「捕まっちゃったのかも」と。あれは、ぬいぐるみのことをわかったうえでの発言だったのだろう。
「本当をいえば、あかりちゃんは犯人を知りたかったわけでも、ぬいぐるみを取りかえしたかったわけでもないんだ。彼女の本当に大切なもの≠ヘ、君のことだった。彼女が本当に知りたかったこと≠ヘ、君がどうしてそんなことをしたのか、だった」
「そんなの……」
「君たちは子供の頃、ほとんど同じ存在だといってもよかった――あかりちゃんはたぶん、かなり正確に君の考えをトレースすることができたんじゃないかな。魔法を使って、ぬいぐるみを隠してしまう方法を、君が考えるのと同じように。だからはじめから、あかりちゃんにはわかっていたんだ」
「……だからどうしたっていうのよ」
 ふん、というふうに彼女は言う。
「そんなのあんたの憶測だし、だからどうだっていうわけでもないじゃない」
「それに、もう一つあるんだ」
 とハルはじっと彼女の目をのぞきこみながら、言った。
 ひかりはぎくりとしたように、目を震わせている。
「それは君もやっぱり、知ってもらいたかった≠ニいうことだよ」
「…………」
「たんにあかりちゃんを苦しめたかっただけなら、ほかにいくらでも方法はあったはずだよ。わざわざこんなまわりくどいことをしなくても、魔法の――他人の力を借りるなんて厄介な真似をしなくても、君にはそれができたはずなんだ。でも、そうしなかった。わざとややこしい方法をとり、簡単には本当のことがわからないようにした。君はある種のメッセージとして、この事件を起こしたんだ。そうでなければ、こんな事件を起こさなかったはずだよ。君はあかりちゃんに知ってもらいたくて、こんなことをしたんだ――」
 ハルの言葉はゆっくりと、見えない時間の中に消えていった。
 なくなったぬいぐるみ。それが象徴≠オていたもの。
 栩あかりが、知らなくてはいけなかったこと――
 栩ひかりが、知られなくてはいけなかったこと――
 二人が起こした事件。
 けれど魔法の関わったこの事件は――
 結局のところ、解決されたのである。
 栩ひかりはゆっくりと、時計の針を巻き戻すように言った。
「――ごめんなさい」

 木の下では、小さな二人の少女が、存在をわかちあったもう一人の自分と向きあっていた。おそらくは、これからも二人でこの世界を生きていけるように。
 手助けは、もういらない。少なくとも、しばらくのあいだは――
「すごいね、ハル君」
 その場を離れてから、アキは感心したように言った。
「どうして二人のことがわかったの? あかりちゃんにしても、ひかりちゃんにしても……」
「知らないよ」
「?」
「あれは、適当なことを言っただけなんだ。だから解決したのは、二人自身なんだよ。ぼくはいうなら、二人の長いところと短いところをあわせて、バランスをとっただけなんだ」
 アキはしばらく、言葉が出てこなかった。
 そんな嘘八百を並べながら、この少年はごく落ちついた口調でしゃべっていたのだ。アキは驚いていいのか、呆れていいのか、よくわからなかった。
「別の意味ですごいね、君は……」
「――それより、ちょっと話をしておかなくちゃいけないんだ」
「誰と?」
「魔法使い≠セよ」
「久良野奈津?」
 二人は公園の、芝生の生えた広場のほうに歩いていく。そこではナツと子供たちが、相変わらずの様子で遊んでいた。
 ハルとアキがちょっと立ちどまって見ていると、子供たちは芝生の上を奇妙なものに乗って遊んでいた。ぱっと見るかぎり、それはビニールプールをひっくり返しただけのもののように見える。
 久良野奈津は東屋のような場所で、日陰の下に座っていた。
「ホバークラフトだよ」
 二人がやって来ると、ナツはあごで示すようにして言った。
「下にプロペラ≠描いて、浮くようにしてある。ああいう大きいものはちょっと疲れるな。なんていうか、頭の芯が揺れるみたいで」
 ナツはベンチの背もたれにぐったりと体を預けて、手足をだらしなくのばしていた。
「君は本当に魔法を使えるんだね」
 ハルは単刀直入に訊いた。
「そう、魔法使いさ」
 ナツはやはり、何のためらいもなく答える。ハルはそんな相手に向かって言った。
「――実は、ぼくもそうなんだ」
「へえ……」
 感心したように、ナツは姿勢を正した。
「そうか、あんたも魔法使いなのか」
「君の使ってる魔法とは、少し違うけどね」
「まあ想像はつくな。あれ≠ヘいろんなことができるだろうし」
 ナツはまるであけっぴろげな、警戒のない様子である。ハルは質問した。
「君はあれが、人が言葉を得て忘れてしまった力≠セと、知っているの?」
「いや、詳しくは知らない。気づいたらできるようになってた。でもそう言われると、確かにそういうもの≠セとはわかるな」
「なら、あまりおおっぴらに使うべきものじゃないとは思わなかったの?」
「何でだ?」
 ナツはけれど、逆に問い返している。
「魔法を使って、何かいけないことでもあるのか? あんたも魔法使いなんだろう。魔法は使わないのか?」
「……こういうことでは、使わないよ」
「ふうん、僕はそんなこと、気にしないけどな。どうせ誰も信じやしないし、あれはそうだと知っている人間≠ナなければ、魔法だとはわからないものだろう。あいつらだって――」
 と、ナツは楽しそうに遊んでいる子供たちのほうに顔を振って、
「――もう少しすれば、これが魔法だっていうことも忘れてしまうんだ。たぶん、そのほうが都合がいいんだろうな。これは、もう世界には必要のない力だから」
「…………」
「まあ、あんたがどう考えようが、僕がどう考えようが、関係ないけどな。魔法は確かに存在しているし、魔法使いも確かに存在している、それだけだろ?」
 ナツはそう言って、再び背もたれに体を預けている。ナツはハルの考えに反対しているわけでも、自分の考えを正しいと主張しているわけでもなかった。おそらくナツは、魔法が何だろうと、本当にどうだっていいのだろう。
 二人のやりとりを聞きながら、アキは同じ魔法使いでもずいぶん違うものだな、と思っていた。ハルと比べると、この少年は魔法に対する拘泥がずっと小さい。
 それとも、久良野奈津のような魔法の使いかたのほうが、本当は正しいのだろうか?
(ハル君は、どう思ってるんだろう……)
 そんなことを考えて、アキがハルのことを見ようとすると、
「そういえば、ぬいぐるみは見つかったのか?」
 と、ナツがふと思い出したようにして訊いた。
「……見つかったよ」
 ハルは落ちついて、答えている。
「そりゃよかった」
 ナツはにっこり笑って、何でもなさそうに言った。もちろん、それが見つかったということは、この少年が何をしたのかわかっている、ということでもある。そのくせ、ナツはどういうわけか悪びれもしていなかった。
「たぶん、あんたなら見つけるだろうと思ってたよ。何となく、そんな感じがした。同じ魔法使いとしての勘、てやつかな?」
「ジッパーは君のアイデアなの?」
 ハルは訊いてみた。
「ん、いや、違うね。あれを提案してきたのは栩ひかりだよ。まあ、聞いたときはうまくいくだろうとは思ったけどな」
「君はどうして……」
 ハルは少しだけ、声に緊張をにじませた。
「どうして、ひかりちゃんに協力したんだい?」
 ナツは少しだけ、黙っていた。まるでどこか遠くにある、時間のずれにでも目を凝らすみたいに。
「……双子だからさ」
「?」
 ハルがその言葉の意味を確かめる前に、ナツはもうしゃべってしまっている。
「たいした理由ってわけじゃない。けどそれ以上は、うまく言えないな。言いたくないんじゃなくて、言ってもよくわからない。僕自身にも、な。まあ、ごく個人的な理由、というやつか」
「…………」
「簡単に言うなら、頼まれたから≠セな。二人の事情なんて、僕は知らないし。ちょっとしたいたずらにつきあってやるくらい、特に問題はないだろう?」
 ナツはそう、気軽そうな笑顔を浮かべて言っている。
(この人は――)
 と、ハルはじっとナツの目をのぞきこんでみた。
 それはある部分まではとても澄んでいるのに、それ以上いくと急に不透明になって何も見えなくなってしまうような、不思議な瞳だった。
 ハルはふと、久良野奈津というこの少年も、何か奇妙な秘密を抱えているのかもしれないと、そんなことを思った。

 帰り道を、ハルとアキは並んで歩いていた。時刻はだいぶ遅くなったとはいえ、あたりはまだ明るい光に満たされている。手をのばすと、ほんのわずかに濃度が薄れていることに気づく、そんな光だった。
 あのあと、あかりとひかりの二人は、ぎこちなく手を結びあって仲直りをした。二人がこれからどうなるかは、わからなかった。けれどおそらく、もう一度ぬいぐみが隠されるようなことはないだろう。
 二人の歩く通学路の脇を、時折車が走りぬけていく。世界には思い出したように音がよみがえり、それはいつの間にかまた静かなところへと消えてしまっていた。
「ねえ、ハル君」
 不意にアキが、その消えていった音の続きみたいにして口を開いている。
「魔法って、何なのかな?」
 ハルが横を見てみると、アキは少し考えるようにうつむきながら歩いていた。
「……人が言葉を得て忘れてしまった力。世界に揺らぎを与え、その揺らぎに形を与える力だよ」
「えと、そうじゃなくてさ」
 アキは自分でも、自分が何を言いたいのかうまく言葉にできないようだった。
「つまりね、魔法っていろんなことができるわけでしょ」
「うん、まあね」
「普通じゃできないこととか、普通じゃ諦めなきゃいけないこととか」
「うん……」
 その言葉に、ハルは小さくうなずく。
「でもさ、魔法には何ができるのかな? 魔法を使って、人は幸せになれるのかな?」
 ハルはアキの言葉を聞きながら、黙って歩いていく。
「ハル君は、魔法はあんまり使うべきじゃないって言う。でもあの子、ナツ君は魔法を使うのは全然平気みたいだった……どっちが正しいのか、わたしにはわからない。わたしは魔法使いじゃないから。でもね、あかりちゃんやひかりちゃんを、魔法で幸せにすることはできたのかな? 魔法で、助けてあげることはできたのかな?」
 二人の横を、車がまた一台通りすぎていった。その音がゆっくりと消えてから、アキは続ける。
「それとも、そういう魔法もやっぱりあるのかな? でもそれは、幸せになったことになるのかな? 魔法を使うことは、幸せなことなのかな?」
 アキはそう言って、じっとハルのことを見つめる。
「――ハル君は、そういうのってどう思う?」
 ハルはしばらく黙っていたが、
「ぼくには、わからないよ」
 小さく、何かを諦めるように言った。
「魔法を使えばある種の物事を変えることはできる。普通ならどうにもならないことも。でも、魔法を使わなくちゃいけない時点で、その人は幸せにはなれないのかもしれない。それは魔法を使ったって、結局は取り戻せないものなのかもしれない」
 アキは隣で、そんなハルの様子を不思議そうに眺めていた。
 やがて小さな橋にさしかかったところで、二人の足がとまった。そこで、帰り道が別れるのである。ハルは坂道をのぼって、アキはまっすぐに進む。陽が暮れはじめて、世界は永遠の茜色に染まっていた。子供たちは今頃、家路についていることだろう。
 橋の半ばあたりまで行ったところで、アキが振り返って言った。
「あのさハル君、もう一つ聞いてもいい?」
「何?」
「志条さんと、何かあった?」
「……?」
 ハルはちょっと、その言葉の意味がわからない。
「体育館の裏のところで、ハル君と志条さんのことを見たっていう子がいたんだ」
 確かに、優秀な情報収集家らしかった。
「何か普通の雰囲気じゃなかったって言ってたし、気になって」
「大丈夫だよ」
 ハルはごまかすように言った。
「別に何かやってたってわけじゃないんだ。ちょっと話をしてただけだよ」
「ふうん」
 と、アキはハルのことを見ている。それから、
「――わたしさ、志条さんのことほとんど知らないんだよね。何ていうか、ちょっと変わってるから、あの子。あんまりしゃべらないし、ほかの子と遊ばないし……どうなのかな? ハル君は、あの子のことどう思う?」
「悪い子じゃないと、思うよ」
「本当に?」
「たぶん、ね」
 実際のところどうなのかは、ハルにはまるでわからなかった。彼女がどんな秘密を抱えているのか、ハルは知らない。
 けれどアキは、
「それで安心した」
 と、笑っている。
「ハル君が言うなら、きっと悪い子じゃないよね、フユは」
「…………」
 それから、「じゃあまた明日、学校で」と言うと、アキはそのまま走っていってしまった。
 ハルはとっさに、返事を返すこともできないでいる。
 世界と同じように赤く染まった風が、ふわりとどこかから吹きすぎていった。

 翌日の放課後――
 教室は下校準備をする生徒たちで賑やかだった。いつもと同じ、何の変哲もない光景である。
 フユはいつも通りに、自分の席で帰り支度をしていた。アキがその前に立ったのは、そんな時のことである。
「わたし、水奈瀬陽っていうの。みんなからはアキって呼ばれてる」
 にこにこと笑顔を浮かべて、アキは言った。
 フユはどういう表情もない顔で、それを見ている。
「あのね、お願いがあるんだけど」
「何……?」
「志条さんのこと、フユって呼んでもいい?」
「…………」
「だめかな、フユって呼んじゃ?」
 フユは珍しい風景でも眺めるような目つきで、アキのことを見ていた。
 その前で、アキはごく明るい表情で笑顔を浮かべている。
「……別に、好きに呼べばいいわ」
 どうでもよさそうに、フユは言った。
「うん、ありがと」
 けれどアキは、本当に嬉しそうにしながら言っている。そういう表情ができる少女だった。
「じゃあ、また明日ね、フユ」
 アキは笑顔で言うと、手を振って行ってしまった。
「…………」
 フユは長いこと、そのままの姿勢でじっとしていた。何かの都合で、機械の一部がうまく動かなくなってしまった、というように。
 そして教室の中に誰もいなくなってしまった頃、フユはそっとつぶやいている。
「ばーか」
 その声が自分に届く前に、フユは立ちあがっていた。

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