[不完全世界と魔法使いたち@ 〜ハルと永遠の魔法使い〜]

「おれは小麦畑の色の分だけ得をしたよ」とキツネは言った。

サンテグジュペリ『星の王子さま』(池澤 夏樹・訳)

[プロローグ]

 春の季節は苦手だった。
 山際の傾斜は桜色に包まれ、冬の季節がやっと終わったような綻んだ風が吹いていた。遠くで鳥の声がする。
 そこは、小さな山を整地して造られた墓地だった。
 造営されたばかりの霊園はひどく閑散として、物寂しい。けれど墓がいくら増えたところで、そのことは変わらないだろう。死んだ人間は、もう何も語らない。
 宮藤晴(みやふじはる)は、一つの墓の前に佇んでいた。
 それは小学校高学年くらいの、もの静かな表情をした少年だった。全体に落ちついた、大人びた雰囲気をしている。それでも顔にはまだあどけなさが残り、上品な人形を思わせるところがあった。その瞳はどこか不思議な色あいをしている。
 あたりに人影はなく、まるで世界そのものが眠りこんでいるような静かさだった。風が時々、思い出したように吹いていった。少年は墓の前でじっとしている。
 少年の前にある墓は、母親のものだった。
 おなじみの石材で作られた、よくある形の墓である。その四角い石の塊をほかのと取りかえたところで、たいした違いはないだろう。そこに魂と呼べるものが宿っているのかどうかは、わからなかった。
 けれど――
 その墓と同じくらいに、少年の表情もとりたてて特徴のないものだった。少年の表情はあまりに――平然としている。
 それは戸惑いや、諦めのためだろうか。
 この少年には、死をどういうふうに受け入れていいのか、わからないのかもしれない。それが世界に何をもたらし、何を奪い去るかということをまだ知らないのかも。
 この不完全な世界で、それが何を意味するのかということを。
 けれど本当のところ、それは――
 少年は何か、つぶやいたようだった。その言葉は小さな風の音にかき消されて、自身の耳にさえ届くことはない。
 その時、少年はこうつぶやいていたのだった。

「わからないよ……」

 ――と。

 かつて、世界は完全だった。
 そこには悲しみもなければ苦しみもなく、一切の不幸はほんの小さな一欠片さえ見いだせなかった。争いも、諍いも、間違いも、そこにはない。
 それは生まれる前の卵が夢見るような、完全な世界だった。
 けれどいつしか、人はその世界を捨ててしまった。どうしてそんなことをしようと思ったのかはわからない。何しろそこは、完全な世界なのだ。そこを出る理由なんて、どこにあっただろう――?
 完全な世界を捨てて、人はいつしかこの不完全な世界に住むようになった。
 人は言葉を覚えた。そしていつかの夢を、見ていたことさえ忘れてしまうみたいに、完全な世界のことを忘れてしまった。
 完全な喜びも――
 完全な幸せも――
 完全な真実も――
 人は、忘れてしまった。
 言葉を手にしたことで、人はたくさんのものを失った。そして同じくらい、たくさんの余計なものを身につけた。
 人は嘘をつくことを覚え――
 人は傷つけることを覚え――
 人は不幸になることを覚えた――
 そうやって人は、たくさんのものを失った。

 ――魔法も、その一つだ。

[一つめの事件]

 星ヶ丘(ほしがおか)小学校ではその日、臨時の全校集会が開かれることになっていた。
 朝礼後、体育館への移動がはじまるまでのその時間、クラスではめいめいが勝手に友達と話したり、ふざけあったりしている。
 いつもの休み時間と、同じだった。それはもちろん、宮藤晴のいる五年二組でも変わらない。教室では、生徒たちがわいわいと騒いでいた。
 壁には一週間の時間割りや、生徒の座席表、保健室からのお知らせなんかが貼られている。いくつかの紙は破れて、セロテープで補強されていた。座席表は席替えをしたのに、まだ古いままになっている。
 もっとも、子供たちのほとんどは自分の席についていなかったので、それはどっちにしろ役に立たなかった。数人で一人の席に集まって、何かを見せあっている生徒もいる。
 小野俊樹(おのとしき)が何か≠ナ自慢していたのは、その時のことだった。
「すげえだろ、これ」
 その時、小野俊樹が自慢していたのは、何かのカードについてだった。何とかという、その頃はやっていたアニメのトレーディングカードである。
 近くの席だったが、ハルは特にそういうものに興味はないので座ったままぼんやりしていた。窓の外はうららかな陽気で、ちょっと眠くなっている。ハルはあくびをかみころした。
 やがて担任の葉山美守(はやまみもり)がやって来て、クラスの全員が教室の外に並びはじめた。ほかのクラスでも同じように、廊下に列を作っている。
 ハルも、小野俊樹も、もちろんそれに従って外に出ていった。その時、ハルは俊樹が例のカードだか何だかを大切そうに箱の中にしまい、それに鍵をかけているのを見ている。
 ハルはそれを、別にどうとも思っていなかった。ずいぶん大げさだな、くらいに思って気にもしていない。
 それはそうだ――
 その時のハルは、自分がそのことである事件に巻き込まれるなんて、考えもしていなかったのだから。

 四月も終わり頃とはいえ、体育館は薄暗く、冷えびえとしていた。窓の外がぽかぽかと暖かな陽射しに包まれているだけに、冷蔵庫に入れられた野菜のような気分になる。
 生徒たちは冷たい床に座って、ひそひそとしゃべりあっていた。どこかで山羊がひっそりと紙を食んでいるような、不思議な雰囲気だった。
 水奈瀬陽(みなせあき)はこの時、ハルのすぐ横に並んでいた。同じマ行だから、偶然そうなったのである。けれど、もしそれが何かの都合で少しでもずれていたら、このあとの話はずいぶん変わっていたのかもしれない。
 少しして、壇上に丸い眼鏡をかけ、髭を生やした男がのぼった。校長である。体育館のざわめきがゆっくりと静まっていった――
 マイクのスイッチが入れられ、キーンというハウリング音が響く。咳払い。
 全校生徒、沈黙。
 校長は挨拶すると、今日の全校集会の説明に入った。それは生徒の一人である女の子が交通事故にあって、亡くなったことに関するものだった。三年一組の結城可奈(ゆうきかな)さん。
「大切な命が失われたのです。なくなったものは、もう二度と戻ってきてはくれません。みなさんはお父さん、お母さん、まわりのいろいろな人、そのすべてに深く愛されて育てられてきました――」
 かすかな泣き声が聞こえた。たぶん、友達が泣いているのだろう。
 校長の話はいつまでも続いた。
 そのあいだ、アキは口を閉じて、あくびをかみころしていた。どうもこういう話は苦手である。どれだけ厳粛でショックな話でも、結局は知らない人間の話だった。どうしても途中で眠くなってしまう。
(……あれ?)
 けれどふと、アキは何だかおかしなことに気づいた。何か、音のようなものが聞こえた気がしたのである。振動、とでもいうか。
 あらためて校長の話に注意してみるが、そうではない。校長は相変わらずの調子で話を続けていた。
 でも何かが、おかしいのだ。それが何なのか、アキにはわからなかった。頭をまわして、あたりの様子をうかがってみる。
(えと、宮藤、何だっけ……?)
 アキはすぐ隣の、その少年の様子がおかしいことに気づいた。けれどすぐには、何がおかしいのかわからない。ほかの誰も、そのことに気づいていなかった。
 はた目には、少年はうつむいて、まるで眠っているだけのようにも見える。けれどよく見ると、その手が小さく震えていた。目も、下を向いたまま虚ろに開いている。
 アキはその肩をつっついて、ねえ、と小さく声をかけてみた。
 返事がない。
「…………」
 三秒ほど考えてから、アキは目立たないように立ちあがり、担任のところまで相談に行ってみた。宮藤くんの具合が悪いみたいなんです、と言うと、葉山美守はいっしょにハルのところに行き、具合を尋ねた。けれどやはり、この少年は返事をすることもできないようだった。
 少し考えて、葉山はアキにハルを保健室まで連れていってもらうことにした。たぶん、軽い貧血か何かだろう。少し休めばよくなるに違いない。
 アキはうなずくと、ハルをゆっくり立たせて、保健室に向かった。少年は本当に具合が悪そうで、表情が青ざめている。肩を貸すと何とか自力で歩けるようだったが、その足どりはひどくおぼつかない。
 アキは黙ったまま、とにかく足を運んだ。あまりスピードは出せないし、慎重に歩かなければならない。
 体育館を出ると、途端に校長の声は小さくなって、しんとした空気が体を圧迫している。誰もいない校舎は、必要以上に静かな感じがした。
 アキは歩きながら、
「大丈夫?」
 と、一言だけ訊いてみた。
 答えないかと思ったが、ハルは無理やり顔をあげる感じで、
「ちょっと、まずいな……」
 と短く口にしている。弱々しさのわりには、それは冷静で、分析的な口調だった。少なくともこの少年は、自分の状態を正確に把握しているらしい。
「こんなにひどくなるなんて、はじめてだ……」
 顔をしかめながら、珍しい現象でも目にするようにして言った。
「――もうすぐ保健室だから、しっかりね」
 そのセリフの不自然さには気づかず、アキはハルを励ましている。保健室はすぐそこだった。
「失礼します」
 がらがらと保健室の扉を開けて、アキは言った。けれどそこには誰もいない。運悪く、保健医の先生は席をはずしているらしかった。
「む……」
 アキは立ちどまったが、とりあえずハルをベッドにまで運ぶのが先だった。二つ並んだベッドの、手前のほうに寝かせる。
「たぶん、先生がそのうち来るから……具合は、大丈夫?」
「大丈夫、だと思う。ありがとう、運んでもらって」
「体は大事にしなくちゃね」
 アキはさっきの校長を真似て、神妙そうに言ってみた。
「君はお父さん、お母さん、いろんな人に愛されているんだからね。決して軽々しく考えて、お父さんやお母さんを悲しませては」
「――母親はいないんだ」
「…………」
 アキは黙ってしまった。「えと……」とつぶやいたきり、あとが続かない。
 空気が重かった。
 こういうのは予想外で、アキは何と言っていいかわからなかった。両親の片方がいないというのは、ひどく不都合な感じがした。まるで、世界が故障してしまったように……
 そのままアキが固まったように黙っていると、いきなり音がして扉が開いた。アキはびくっとしたが、たんに保健の先生が帰って来ただけのことである。
 アキはほっとしたように先生のところに行って、手短に事情を説明した。もういいからあなたは戻りなさい、と言って養護教諭はベッドのほうに移動する。
「……失礼しました」
 言って、アキは保健室をあとにする。
 最後に扉を閉める前に、アキはハルの様子をうかがってみた。
 けれど白いカーテンの向こうに隠れていたせいで、その少年がどんな顔をしていたのかは、わからないままだった。

 ハルが教室に戻ってきたのは、結局一時間目の休み時間が終わった頃である。全校集会はとっくに終わってしまっていて、十五分ある休憩時間ももうほとんど残っていない。
 保健室のベッドに横になっていたおかげで、体調はすっかり元に戻っていた。顔色も普通である。少し眠ったので、朝からの薄い眠気もなくなっていた。
 ハルはごく普通に歩いてきて、教室の扉を開けた。休み時間も残り少ないせいで、廊下の外にクラスメートの姿はない。
 そのことに、ハルは特に何の予感も感じてはいなかった。
 けれど――
 その扉を開けた瞬間、確かにハルはこの事件に巻きこまれてしまっていたのである。

「……お前だろう」
 小野俊樹が詰めよってくるのを、ハルは不思議そうに眺めていた。ハルは次の時間の、国語の準備をはじめている。
「何のこと?」
 ハルは尋ねかえした。どういうわけか教室中がしんとして、こちらを注目していた。何のことだろう?
「俺のカード盗んだろ」
 俊樹の表情は剣呑だ。
「カード……?」
 言ってから、ハルは集会前に俊樹が自慢していた何か≠ノついて思い出していた。確か、あれが何かのカードだったろう。
 そのカードが、盗まれた?
「何のことかわかんないけど……」
 戸惑うように言った。あのカードが盗まれたとしても、どうして自分が疑われているのかわからない。
「だって、お前しかいないじゃんかよ」
「どうして?」
「ほかにいないんだよ」
「だって、ぼくはずっと保健室で寝てたんだよ」
「だからだろ。カードがなくなったのは、そのあいだのことなんだからな。盗めるとしたら、お前しかいないじゃないかよ」
 ここに来て、ハルはどうして自分が疑われているのかを理解した。いわゆるアリバイ≠ェないという状態らしい。
「ぼくじゃないよ」
 と、言ってみるが、ハルにはそれで俊樹が納得するとは思えなかった。案の定、俊樹は完全にハルのことを疑っている。おまけにクラスの全員が固唾をのんで行方を見守っていた。
(困ったな……)
 思ったが、身に覚えのない以上どうすることもできない。俊樹はそれでも、一歩もあとには引かないといった表情でハルのことをにらんでいた。
 けれどその時、チャイムが鳴って担任の葉山美守がやって来ている。生徒たちは全員、急に時間が動き出したみたいにして自分の席に戻っていった。
「ん、どうかしたの?」
 葉山は不審がるが、誰も口をつぐんで答えようとはしない。
 授業のあいだ、俊樹が前の席から時々、にらむようにして視線を送ってきた。
 やれやれ、とハルは少しだけため息をついた。

 次の休み時間になると、予想通り俊樹はハルのほうにやって来た。
「おい返せよ、ドロボウ」
 この少年の中ではすでに、極悪人のような犯人像ができあがっているらしい。
「あれ手に入れるの、すっげえ苦労したんだぞ」
 そんなことを言われても、ハルにはどうしようもない。ハルは曖昧に、微苦笑のようなものを浮かべるしかなかった。第一、ハルはそのカードがどんなものかすら覚えてはいないのだ。
「悪いけど、本当にぼくじゃないよ」
「嘘つけ。お前以外、誰がいるんだよ」
「違うものは違うよ」
 ハルはそう言うしかなかった。まわりではすでにこの件に関しての話題性は失ってしまったようで、誰も関心を持とうとはしない。
「弁償しろよな、ベンショー」
 困ったな、ともう一度ハルが思いはじめたとき、突然横から別の声が割ってはいった。
「どうして宮藤くんが盗ったってわかるのよ」
 ハルの机に手をついて、彼女は俊樹にくってかかるように言う。
 水奈瀬陽だった。
「なんか証拠でもあるわけ?」
「いや、そうじゃねえけど……」
 俊樹はいきなりすごい剣幕でやってきたアキに対して、怯んだようにもごもごと口を動かしている。
「じゃあそんなふうに宮藤くんを疑うなんて、卑怯じゃない」
「でもほかにいねえんだから、こいつがやったに決まってんだろ」
 俊樹はようやくといった感じで言いかえした。
「宮藤くんはあの時貧血で倒れてたんだから、そんなことできるわけないでしょ」
 本当は貧血じゃないけど、と思ったが、もちろんハルはそのことを口にはしない。
「わかんねえじゃねえか。すぐに治って教室に戻ってきたかも知れねえし、最初からわざと病気のふりをしてただけかもしれないだろ」
「んなことあるわけないでしょ」
 馬鹿馬鹿しい、というふうにアキは一笑した。
「そんなの、お前にわかんのかよ」
「わかるわよ」
 二人は何だか、口喧嘩をはじめているみたいだった。ハルは座ったまま、目の前で罵りあう二人をどうすることもできずに眺めている。何となく、この先どうなるかが読めた気がしていた。
「じゃあわかった、こうしましょう」
 アキは急に、もう仕方がない、というふうに言った。
「わたしたちが真犯人を見つけてきてあげるわよ」
「真犯人?」
「そうよ」
 アキはうんうん、と自分でうなずいている。
「宮藤くんが犯人なわけないんだから、本物の犯人がいるはずでしょ。そいつにあんたのカードを返させれば、それで文句ないでしょ」
 俊樹は考えたが、もちろんそれならそれで問題はない。
「言ったからな、お前ら絶対カード見つけてくるんだからな」
「当たり前でしょ」
「それで見つからなかったら、お前らベンショーしろよ」
「お安い御用よ」
 アキは自信満々といった感じでうなずいた。俊樹は憤然とした表情で立ち去ってく。それからアキは、くるりとハルのほうに振り返った。
「というわけで、よろしくね宮藤くん」
 彼女はにこりとして言った。
 やれやれ、とハルはもう一度だけため息をついた。予想通りだった。

 三時間目の休み時間、ハルとアキは隣りあって座った。ハルの隣の子供はどこかに遊びにいってしまっていて、そこにアキが座っている。
 教室の中にいるのは、全体の五分の一という程度の人数だった。休み時間になると、どこか教室まで休憩しているような感じがする。
「プロファイリングするのよ」
 アキはいきなり難しいことを言った。
 水奈瀬陽は髪を短く切った、どちらかというと男の子っぽい女の子だった。くりっとした、ちょっと好奇心をのぞかせる丸い瞳をしていて、小動物っぽいところがある。星ヶ丘小学校は自由服なので、彼女はフリースの服にパンツスタイルという、ごく動きやすそうな格好をしていた。
「プロファイリング……?」
「そう、それで犯人の年齢だとか、性格だとかを推理するの。昨日のドラマでやってた」
「……それはいいかもしれないけど」
 ハルは控えめに意見した。
「そんなことできるの?」
「え……」
「ぼくはできないよ。やったこともないし、どうやってやるのかも知らない」
「……わたしも」
「でしょ」
 少し笑った。
「でも、犯人を捜すことはできるよ。普通に考えると、怪しい人ってそんなにいないんだ。まず条件としては、盗んだ人は俊樹がカードを持っているのを知っていた。それと、そのカードが欲しくてたまらなかった」
「なるほど」
「もしくは、何か恨みがあって、別に何でもよかった、っていうのもある。どっちにしろ、この二つの動機は目立ちそうだね。もちろん、全然別の可能性もあるけど」
「てことは、小野くんのまわりに誰か怪しい人物がいないかどうか調べればいいわけね……カードのことを知ってたのって、やっぱりうちのクラスかな」
「さあね。その辺は本人に聞くしかないよ」
「宮藤くんって、もしかして賢かったりする?」
「どうかな」
 ハルは曖昧に首を振った。
「それより、カードが盗まれたときの話っていうのを聞かせて欲しいんだけど。とりあえず、それくらいは知っておきたいから」
「そういえば、宮藤くんいなかったんだっけ」
「だから疑われてるんだよ」
 アキは苦労して思い出すようにしながら、その時の状況を説明した。
 その説明によると、全校集会が終了したあと、クラスの全員はいっしょに教室に戻ってきたらしい。その時いなかったのは、保健室で休んでいたハルだけ。時間は一時間目の休み時間に入る頃のことだった。
 俊樹は自分の机に座って、すぐにカードがないことに気づいたらしい。まだ教室に全員が残っている状態で、大声で騒ぎはじめた。教室中がちょっと気まずい空気に包まれて、誰が盗んだのかという話になった。
 そこに、ハルが帰ってきたのである。
 集会のあいだにいなかったのは、ハル一人だった。
「なるほどね」
 ハルはため息をついた。確かにそれなら、自分が疑われるしかない。何しろ、犯人がカードを盗めたのは集会のあいだだけなのだ。ほかの全員が、アリバイを持っている。
「誰かほかの人が集会のあいだか、みんながクラスに戻ってくる前に忍びこんだっていう可能性はないかな?」
「たぶん、ないんじゃないかな」
 アキは首をかしげてみせた。
「ちょっと考えにくいし、そんな変な行動してる人がいればすぐに気づくと思うよ。集会のときに出てった人もいないし……わたしたちより先に戻ってくるなんてあるかな?」
「だろうね」
 ハルはもう一度ため息をついた。
「……そういえば、箱には鍵がかかってたはずだけど」
「箱?」
「俊樹がカードを入れてた箱のことだよ。確か、鍵をかけてた」
「知らないけど、そうなの? でもそれだとどうやって盗んだのかな、かけ忘れたとか?」
「…………」
 けれどハルは確かに、俊樹がカードを箱に入れて、鍵をかけるところを見ていたのである。集会のあいだ、鍵はかかったままのはずだった。犯人はどうやって集会のあいだに教室に戻り、鍵を外してカードを盗んだのだろう?
 ハルが考えこんでいると、
「とにかく、犯人を捕まえないとね。そうしないことには疑いも晴れないし」
 とアキは明るく、前向きに言った。けれど、ハルは軽く首を振っている。
「正直に言うと、ぼくが犯人じゃないのを証明するのは簡単なんだ」
「どうやって?」
 アキは意外そうな顔をした。
「保健の先生に証言してもらえばいいんだ」
 それはそうだった。
「集会のあいだ、ぼくは保健室で寝てたし、それは先生も知ってるんだよ。だからぼくにもアリバイ≠ヘきちんとあるんだ」
「そっか……」
「でも、あまり意味はないかもしれないけどね」
「は――?」
 言ったそばから、この少年はそんなことを言っている。
「そんな証言をしてもらっても、俊樹はたぶん納得しないよ。それで納得するくらいなら、最初からぼくを疑ったりなんてしない。俊樹は、盗んだのが誰かなんて本当はどうでもいいんだ。ただ自分が、はっきり被害者だってわかればいいんだよ。そうすれば、とにかく安心できるんだ。何が起こったのか理解できるから」
 ハルはひどく冷静にしゃべっていて、自分が犯人扱いされていることに対して何も感じていないようだった。アキはうまく口を動かすことができず、黙ってしまう。
 それからハルは、こんなことを言った。
「それに犯人なんて見つけなくても、たぶん勝手に解決するしね」
「え――?」
 どういうことだろう、とアキは思ったが、ハルは半分くらいどうでもよさそうな感じで、それ以上しゃべろうとはしない。
 アキは何だか、自分がすっかり余計なことをしたような気がしてきた。この少年はアキがかばったりしなくても、もっと簡単に事態をどうにかできたのかもしれない。アキはまるで、事をややこしくしているだけのようだった。不思議の国のアリスの、お茶会みたいに。
 そう思うと、アキはちょっと落ちこんでしまう。犯人探しなんて、テレビのドラマみたいで面白そうだと思っていたのに。どうやらそれは、自分だけのようだった。
「でも、でもさ、俊樹にはもうカードを取りかえしてくるって言っちゃったし、それにあんなふうに疑われっぱなしなのは嫌でしょ?」
 焦るようにして、アキは言った。このまま話が終わってしまうのは、アキには何故か嫌な気がした。それがどうしてなのか、自分では気づいていなかったけれど。
「……うん、まあそうだね」
 ハルも気は進まないようにして、うなずく。
 何のかんの言ったところで、確かに今の状況が変わることはなかった。それに、本当に盗まれたとしたら、誰がやったのかは気になるところではある。
「とにかく、いろいろ話を聞いてみるのがいいかもしれない。それで何かわかるかもしれないし」
「そう、そうだよね」
 アキはそう言って、ほっとしたように胸をなでおろした。
 けれどこの時――
 ハルはもうこの事件から、後戻りできないような位置に足を踏みいれてしまったのである。宮藤晴はこの事件をきっかけに、あることを知ることになる。それはもっと大きな事件の、始まりでもあるのだった。

 ――昼休み。
 給食を食べ終えてしまうと、二人はそれぞれで聞きこみにあたった。とにかく、まずは情報を集めなくてはいけない。
 ハルは食器トレイを給食のワゴンに戻すと、同じように食事を終えた小野俊樹の机に向かった。教室にはまだ何人か、給食を食べ終えていない生徒が残っている。
「ちょっといいかな?」
 俊樹は気味悪そうな、不審げな表情でハルのことを見た。それはそうだろう。こっちが犯人だと言った相手から話しかけられているのだ。
「何だよ」
 ぶっきらぼうな返事だった。小野俊樹はどちらかといえば背の低い、痩せた少年だった。髪が短くて、落ちつきのない目をしている。
「いくつか聞きたいことがあるんだけど」
 ハルは近くの机のイスを引っぱりだして、そこに座った。
「カードは見つかったのかよ?」
 俊樹は不機嫌そうな顔をした。ハルのほうをまともに見ようとしないが、答える気がないわけではないらしい。
「まだだよ。その前にいろいろ聞いておきたくて。まず、盗られたカードっていうのは、どういうものだったの?」
「スタチャイの4(よん)カーだよ」
「すた……よん……?」
 どこから聞いていいのかわからなかった。
「とりあえず、すたちゃい≠チて何?」
 どこかの国のお菓子だろうか?
「スターチャイルド≠フことだよ。知らねえのか?」
「……そういえば、ちょっとだけ見たことある」
 答えたが、内容は全然覚えていない。最近人気のアニメ番組だった。
「それにカードがあるの?」
「ああ」
「それで、えと、よんかー≠チていうのは?」
 俊樹がめんどくさそうに説明した。
「四つ印のことだよ。四つ印カードで4カー=B俺が持ってたのは主人公のカードのうち、四つ印のやつで、No.25には変異種が四枚あるけど、そのうち一つはめったに出ねえんだ。今、カードは第三セッションのツーエンドに入ってるから、初期カードはなかなか手に入んねえし」
 さっぱりわからなかった。
「とりあえず、すごく珍しいってことだね?」
「カードショップ行ったら、五千円くらいするだろうな」
「そんなに?」
 ちょっと驚いた。それなら、単純に金額が目当てだったということもありえるのだろうか?
「それくらい普通だよ。スタチャイのすげえカードとかはもっと高いんだぜ」
 俊樹はそう言って、もの欲しそうな顔をした。変に熱っぽい表情だった。
「カードの大きさは、どのくらいあるの?」
「普通だよ、ってわかんねえか。ええと、まあトランプのカードくらいだな」
 それならポケットにも入るし、どこにでも簡単に隠せそうだった。もっとも、高価なものらしいのであまり粗雑には扱えないだろうが。
「カードがなくなったのに気づいたのは、いつ頃?」
「教室に戻ってすぐだよ。集会が終わって、戻って調べてみたらなかった」
「一応聞くけど、なくした可能性は?」
「あるわけねえだろ」
 うっとうしそうに言う。
「あれは絶対盗られたんだっつうの。俺は箱に鍵かけてたんだぞ」
「その鍵っていうのは、どういうのなの?」
 これはちょっと重要なことだった。
 俊樹は面倒くさそうにしながら、引きだしの中からごそごそと箱を取りだしている。
「それ?」
 意外と物々しい外観の箱だった。直接鍵をかけられるようになっているらしく、横面に鍵穴がとりつけてある。金属製で、大きさは手の平に乗るくらいだった。
「鍵を持っているのは?」
「何だよ、俺だけに決まってるだろ」
「これ、鋏とか使って開かないかな?」
 自転車の鍵くらいだったら、普通の鋏で開けられる。
「無理だね」
 何故か自信ありげに俊樹は答えた。
「これ、元々小さい金庫だからな。鍵は見た目よりしっかりしてんだよ。ちょっとやそっとじゃ開かないようになってる。親父からもらったんだからな」
「へえ」
 ハルはその箱を手にとって、しげしげと眺めてみた。意外と重みがあって、学校に持ってくるにはちょっとした荷物になりそうだった。こんこん、と叩いてみると硬く、簡単には壊れそうにない。確かに頑丈そうだった。
「教室に戻ってきたら、鍵が開いてて、中身が盗られてたんだね? 盗られたのは、カードだけ?」
「…………」
 何故か俊樹は黙った。
「どうかした?」
「鍵は開いてなかった」
「?」
「戻ってきたとき、鍵は開いてなかったんだよ。俺が開けてみたら、中身がなくなってたんだだ。カードのほかには何も入れてなかった。盗られたのもそれだけだ」
「鍵はかかったままだった……?」
 犯人は鍵をかけなおしたということだろうか。わざわざどうしてそんなことをしたのだろう? 発見を少しでも遅らせるために? でも結果的にはそれはまったくの無駄に終わっている。
「念のために聞くけど、カードを盗られる心当たりとかはない?」
「あったらそいつを疑ってるっつーの」
「それもそうだね」
 これ以上、聞くことはなさそうだった。

 集会のアリバイ、鍵のかかった箱、不可解な状況――
 簡単そうで、よくわからない事件だった。
「犯人はきっと魔法を使ったのね」
 アキはいきなりわけのわからないことを言った。
 同じ昼休みの時間、二人は屋上の片隅にいる。空からは春先の澄んだ陽射しが降ってきて、向こうでは何人かの子供たちが声をあげて遊んでいた。
「魔法?」
 ハルは柵にもたれかかって、怪訝そうに訊きかえした。風は少し肌寒かったが、冬はもうすっかりその影をひそめている。
「だって、鍵のかかった箱を開けちゃったんでしょ?」
「必ずしも方法がないわけじゃないと思うけど……どうなのかな。俊樹は絶対無理だって言ってたけど」
「だから犯人は魔法を使ったのよ。それで鍵を開けちゃったの」
「仮にそうだとしても」
 ハルは考えこむように言った。
「どうして鍵をかけなおしたりしたのかな? どう考えても手間だし、あまり意味があるとも思えないよ」
「――え、うーん」
「犯人の性格が几帳面だったとか、できるだけ長く気づかれないようにとか、いくつか考えられるけど……必ずしも必要とは思えないし」
「うーん」
 アキは考えているのかいないのか、唇のあたりに指をあてている。
「そっちのほうはどう? 何かわかったこととかは?」
「一応、友達に聞いてみたんだけどね……」
 表情からして、特に収穫はなさそうだった。
「みんな、何も知らないみたい。集会が終わってから、おかしなことはなかったし。集会のあいだも別に変わったことはなかったって」
「うん」
「念のために、朝、俊樹のまわりにいたのにも聞いてみたけど、やっぱり何も知らないみたい。鍵をかけてたのを見たのは何人かいたけど、カードを盗りそうな人には心あたりないって」
「まわりの人間にカードを盗った人がいると思う?」
「わかんない……」
 アキは首を振った。
「とりあえず、いくつか問題を検討してみようか――」
 ハルは一度間をとって、考えるように言った。向こうでは、子供たちがさかんに駆けまわっている。
「まずは、アリバイだね。集会のあいだは誰も教室に戻ってないし、終わってからもカードを盗るような時間はなかった。カードの所在が確認されてるのは、集会の前まで。だからカードが盗られたのは集会のあいだしかない」
「……もしかして、先生がやったとかはないかな?」
「うーん、それはどうかなあ。先生だって集会のあいだは体育館にいたわけだし。第一、そんなことするとは思えないけど」
「でもほかにいないんなら、一応疑ってみるしかないでしょ?」
「珍しいカードみたいだから可能性がないわけじゃないけど、でも無理があるかな」
「どうして?」
「俊樹がカードを持ってきたのは、今日がはじめてみたいだから、先生でそのことを知っていた人はいないと思うんだ」
「うーん……」
「まあそのことはまた考えるとして、次は鍵だね」
「やっぱり何かの方法で開けられるんじゃないかな? 絶対開かないてことはないんじゃないの。ピッキングとか何とかとか……」
「かもしれないけど、さっきも言ったようにどうして鍵をかけなおしたりしたんだろう。鍵をまた閉めなきゃいけない理由でもあったのかな」
「箱を壊して中身を取りだしたとかは?」
「実物を見たけど、そんな跡はなさそうだった。壊して、直したんだとしたら、鍵よりもっと不可解だしね」
「あ、中身を盗んだんじゃなくて、箱そのものを取りかえたとかは? これならうまくいくんじゃないかな」
 アキは自分の思いつきに手を叩いた。
「でもそれだとかなり計画的だね。俊樹の話だと見ためよりずいぶんちゃんとしたものだったみたいだし、手が込みすぎてるかもしれない。下手をすると、その手間のほうが高くつくよ」
「うーん」
 そう言われると、アキにはもう何も思いつかなかった。
「よくわかんないけど、手がかりが足りないって感じかな」
「そういうわけでもないけど、でもどうしてそんなことをしたのかわからないんだ」
 アキは不思議そうにハルのことをのぞいた。この少年にはもう、何かわかっているのだろうか?
「ねえ、もしかして何かわかってるの?」
「体育館でぼくが倒れたのが、そういう理由ならね」
「?」
「とにかく、もう少し考えてみるしかないよ」
 屋上のうえを小さな風が吹いた。それは春の陽射しを透明にろ過するような、重さのない風だった。

 二人が教室に戻ってみると、担任の葉山美守が少し早めにやって来ていた。彼女はクラスの日直を呼んで、古い座席表を書きなおさせている。
 ハルは何気なく席について、そしてはっとした。
 あることを思いついて、次の瞬間には自分でそれを否定する。そんなことがあるはずはない。もしそうだとしたら、この事件は。
 ハルは心臓の鼓動を落ちつけ、ゆっくりと考えてみた。
 けれど――
 そうである可能性が、もっとも高いのだ。
(確かにこれは、ぼくが起こした事件なのかもしれない……)
 そう思った。そして自分にはどうしてもこの事件を解決する必要があるのだということを、宮藤晴は思い知らずにはいられなかった。

 ――翌日。
 教室にハルがやって来ると、すでに俊樹は自分の机に座っていた。けれど小野俊樹はハルが姿を見せても、特に気にせず隣の友達としゃべり続けている。
 ハルは黙ったまま、自分の席に座った。
 しばらくするといつも通りの朝礼がはじまり、いつも通りに一時間目がはじまる。
 何も、変わったことは起きない。
「……?」
 アキはハルの様子を眺めながら、どうしたものかと迷っている。ハルは何だか、もう事件のことなんてどうでもよさそうな様子をしていた。
 それとも、この少年はもうすべてを解決してしまったのだろうか?
 アキは気になって、二時間目あとの長休みにハルに話しかけてみた。
「宮藤くん、もう事件のことは諦めちゃったの?」
 ハルは次の授業の準備をしていた。真面目な少年なのだ。
「ううん、違うよ」
「じゃあどうして、そんな普通にしてるの? 調べなきゃいけないこととか、あるでしょ」
「それは大丈夫だよ」
「?」
 アキは不思議そうな顔をした。大丈夫?
「もう大体のことはわかってるんだよ。あとはやってみるだけだ」
「やってみるって、何を?」
 ハルはちょっとだけ、いたずらっぽく笑った。
「――魔法を」
「……?」
 アキにはもちろん、その言葉の意味はわからなかった。
 わかるはずがない。
 それが、言葉が生まれる前にこの世界にあった、とても古い力なのだということが。人が、言葉を覚えて忘れてしまった力なのだというが。
 そんなことが、わかるはずもなかった――

 アキはハルの言葉が気になって、授業中もうわのそらだった。
(魔法みたいに解決するってことかな……)
 アキにはやっぱり、その言葉の意味はわからなかった。
 時々、ハルの様子をうかがってみるが、この少年はいつもと変わらない様子をしていた。休み時間も同じで、アキにはどこも変わったところは見つけられない。
 そのまま、昼休みの時間がやって来ていた。
 生徒の大半は体育館かグラウンドに移動していて、教室の中にはほとんど誰も残っていない。
 そんな中、ハルは俊樹の机に向かっていた。
(あ……)
 アキは思わず立ちあがっている。何だかよくわからないが、ハルは何かしようとしているようだった。
 目立たないように、けれどそれにしては妙にせかせかと、アキはハルのところに歩いていく。教室に残った生徒は、二人に対しては何の注意もしていない。
「何してるの?」
 と、アキは声をかけてみた。ハルはごそごそと、俊樹の机から何かを探している。
「ちょっとね」
 アキはちょっと怪しげにその様子を眺めていた。まさか俊樹に仕返しでもするつもりで、そんなことをしているのだろうか?
 思っていると、ハルは引きだしから箱のようなものを取りだしている。それは例の、盗まれたカードが入っていた箱だった。
 アキにはハルが何をしようとしているのか、さっぱりわからない。
 ――それは、そうだ。
 まさか宮藤晴が本当に魔法を使おうとしているだなんて、誰にもわかるはずがない。
 ハルは箱を取りだして机の上に置くと、今度は自分のポケットから何かの輪っかを取りだした。それは手錠を一回り大きくしたくらいの大きさで、二重になった縁どりがからみあい、奇妙な模様が彫りこまれている。見ているだけで落ちつかなくなるような、不思議なデザインだった。
 ハルはその輪っかを、俊樹の箱を中心にするようにして置いた。
「少し集中するから、悪いけど声はかけないでね……」
 そう言うと、ハルは姿勢を正してイスに座った。
 そのまま目を閉じ、わずかに顔をうつむかせる。
「…………」
 何だろう?
 まわりの音がほんの少し小さくなって、そのかわりに別の何かがあたりを満たしていくような、そんな気配があった。それは世界のどこか裏側のような場所で、小さな揺らぎが生じはじめているような感覚だった。
 ハルの精神はどこか深いところで結ばれ、世界をほんの少しだけ変えようとしている。
 少年はごくわずかとはいえ、この世界の成り立ちそのものを変えようとしていた。それはすでに書かれてしまった物語を書きかえるような、そんな行為だった。世界を、改編してしまう。
 アキはぐるぐる目のまわるような気分になりながら、そこから目を離せなかった。今、確かに世界はほんの少しだけ、その姿を変えていた。目に見えず、手に触れられず、言葉にすることもできないけれど、確かに――世界は変化していた。
 何だかアキは、その感覚をどこかで感じたことがあるような気がした。確かつい最近、どこかで……
 けれどそのことを思い出す前に、その奇妙な感覚は消えてしまう。見ると、ハルは目を開けてさっきまでの集中を解いてしまっていた。
 アキはもう自分が何を思い出そうとしていたのかさえ、思い出せなくなっていた。
「わかったよ、カードがどこにあるか」
 不意に、ハルは言った。
「え、何?」
 まだぼんやりしていて、アキは思わず聞きかえしてしまう。わかった? 何が?
「…………」
 ハルはそれに答えず、笑顔を浮かべてみせた。

 彼女の名前は香月弥生(かづきやよい)といった。
 隣の一組の女子で、小さくウェーブした髪にぱっちりした黒い目をしている。柔らかな口元をしていて、優しいお姉さんという感じの少女だった。
 彼女はハルの質問に対して、
「うん、そうだよ」
 と、あっさり答えている。
「もう一度聞くけど」
 ハルは何でもなさそうな調子で訊いた。
「君がカードを見つけたんだね?」
 香月弥生はそれに対して、はっきりとうなずいている。
 ハルとアキは一組の教室にいて、彼女の前に立っていた。窓際の席で、運動場からはくぐもった歓声のようなものが聞こえている。
「それって本当にそのカードだったの?」
 アキが疑わしげに訊くと、弥生は迷惑そうなそぶりも見せずにうなずいた。
「二十五のエルフィリア。四つ番でしょ。うん、間違いないよ」
 ハルにもアキにもよくわからなかったが、どうやらそれで間違いないらしい。
「カードはどこで見つけたの?」
 と、ハルは訊いてみた。
「ごみ箱の中」
 ハルの隣で、アキはよくわからないという顔をした。けれど香月弥生の様子は、特にやましいところがあるようにも、嘘をついているようにも見えない。
「見つけたのはいつ頃?」
 アキにはわけがわからなかったが、ハルは別に意外そうなそぶりもなく質問を続けている。
「昨日の掃除当番の時」
 弥生はうーん、とその時のことを思い出しながら言った。
「ごみ捨てに行ったとき、ごみ捨て場で気づいたんだ。何か見たことあるようなのが袋の中にあるなって。それで誰もいなかったから、袋を開けて調べてみたの。そしたらやっぱりスタッチのカードだったってわけ」
「それは一組のごみ袋だよね」
「うん、うちの。四つ番は珍しいから、誰か間違えて捨てたのかなって思ったけど、あとでクラスのみんなに聞いても知らなかったし。まあ捨ててあるんなら、もらっても構わないかなって」
「そのカードは、今どこに?」
「弟にあげちゃった」
 弥生はにこにこしている。
「今、ていうか、けっこう長いこと入院してて、学校にも来てないんだけどね。何かようやくコンプリートできたらしくって、とっても喜んでたの。あんなに嬉しそうにしてるの見たの久しぶりだったから、私も嬉しくって」
 彼女は本当に嬉しそうで、その笑顔にもやはり、どういう屈託もない。
「香月さんがカードを盗ったとかそういうことはないんだよね……」
 アキは訝しげに、そんなことを訊いてしまう。
「え?」
 けれど弥生は、その言葉の意味自体がわからないという表情をした。どう考えても、彼女がカードを盗んだようには見えない。
「ううん、大体のことはわかったよ」
 ハルが横から、話を切りあげるように言った。
「カードのことは気にしなくても大丈夫。弟さんが喜んだのなら、何よりだよ。大事に持っててくれればいいから」
「えと……そう?」
 香月はよくわからない顔のままうなずく。
「弟さん、早くよくなるといいね」
 最後に笑顔でそう言うと、ハルはそのまま行ってしまった。アキが慌てて、そのあとに続く。
 一組の教室を出たあたりで、
「何がどうなってるわけ?」
 とアキは質問した。
「終わったんだ」
「え?」
「だから、解決したんだ。もうこの事件はおしまいだよ」
「いや、でも、えっと……」
 カードを盗んだのは香月弥生ではなくて、カードはその弟が持っていて……それで解決?
「意味がわかんないんだけど……」
 するとハルは立ちどまって振り返り、
「犯人は魔法使いだったんだ」
 と、いたずらっぽく言った。
「え――」
 アキは驚いて、思わず固まってしまう。だってそれは、あの時に自分が冗談で言ったセリフではないか――
 アキがその言葉の意味を聞きかえす前に、ハルはそのまま何事もなかったように行ってしまう。
 わけもわからずに、アキはその場に佇んでいた。
 けれどハルが言ったように、確かにこれは――
 魔法の事件だったのである。

 下校時間になったとき、アキはさっさと帰る準備を終えてしまい、ランドセルを持って立ちあがった。友達が声をかけてくるが、アキはその誘いを断ってしまう。
 事件のことも、魔法のことも、魔法使いのことも、それから宮藤晴という少年のことも――アキにはわからなかった。解決したって、どういうことだろう? 魔法って、何のことだろう? 
 そしてどうして、こんなにもあの少年のことが気になるのだろう?
(……何なんだろう)
 アキは不機嫌そうな表情で、考えていた。わかっているのはただ、このままですますわけにはいかない、ということだけだ。まるで落ちつかない気分だった。
 だからアキは立ちあがると、まっすぐにハルの座席に向かっている。
 ハルは机の中から教科書を出して、帰る準備をしているところだった。
「ちょっといい?」
 アキが言うと、ハルはアキのことを確認して、特に気にせずに教科書やノートをカバンの中に片づけはじめている。
「いろいろ聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
 もう一度言うと、ハルは立ちあがってランドセルを手に持った。
「本当に、聞きたい?」
 おもむろに、ハルはそんなことを言う。
 まるでその話を聞いてしまえば、もうこの世界には戻って来れなくなってしまうみたいに。どこかの少女が落ちた兎の穴のような、厄介で不可思議な世界がそこには待っている、とでもいうみたいに。
 けれどアキは――
 迷うことなく、うなずいていた。

 学校の屋上には誰の姿もなかった。生徒の大半は下校してしまっているので、校内にもほとんど人は残っていない。学校の中で一番何もなくて寂しいその場所は、世界に間違ってとり残されたような、今にもどこかへ消えてなくなってしまいそうな、ひどく頼りなげな雰囲気を漂わせていた。
 ハルとアキはランドセルを置いて、柵によりかかった状態で座っている。二人とも足を投げだして、遠くの空を眺めていた。陽はまだ暮れる気配はない。
「それで、何から聞きたいの?」
 空の向こうは透明で、青くて、雲がやけに白かった。
 ハルと同じように空を見ながら、アキは何だかぼんやりとしている。時間の流れがどこかゆっくりとしていた。
「とりあえず、魔法のことかな」
「うん」
「どうして、香月さんがカードを持ってるってわかったの?」
 昼休みの時、この少年は何をしていたのだろう。
「あれは、糸をたぐってたんだ」
「糸?」
「何ていうか、そんなようなものだよ。魔法は言葉じゃうまく説明できないんだ。あれはつながりを探知する≠ニいうか、存在の波みたいなものを感じる≠スめの魔法なんだ」
「えっと……」
 よくわからない。
「簡単に言うと、もの探し≠フ魔法だよ。追跡魔法(ディテクティング)≠チていうんだ。あの箱とカードは、存在の糸みたいなものでつながってた。もちろんほかにもいろいろつながってるから、その中から正しいものを選ばなくちゃいけないけど。ちょっと例えは変だけど、犬がにおいを嗅いで持ち主を探すようなものだね」
 アキは首だけ動かして、ハルのほうを見た。
「本当に魔法≠ネわけ?」
 ハルはまっすぐ、空のほうを向いている。
「そうだよ」
「魔法って何?」
「昔々、ぼくたちが誰でも持っていた力。でも言葉を覚えて、みんなが忘れてしまった力」
「……?」
「世界を自由に造り変えるもの、それが魔法――」
「本当に、本物の……?」
「うん」
 アキは再び、まっすぐ空のほうを向いた。
「……じゃあ、信じる」
 ハルは不思議そうに、アキのことを見た。
「宮藤くんがそういうなら、信じる。それが本物の魔法だって」
「…………」
 それで、とアキは尋ねる。
「結局、何がどうなったの? えと、カードが盗られて、それは香月さんが拾って、でも香月さんは犯人じゃなくて……」
「問題は、全校集会のあいだにカードが盗られたってことなんだ」
 ハルはゆっくり、しゃべりはじめた。
「そのあいだは、ぼく以外は全員、アリバイがあるというか、誰も教室まで行ってカードを盗んでくることはできない。保健の先生が例外といえば例外だけど、どう考えてもこれは違うと思う。だから一番自然な解答は、こうなんだ。カードを盗んだ人は外からやってきたって」
「……は?」
「犯人は最初から、学校の中にはいなかったんだ。たぶん、外から入ってきたんだよ」
 アキは何故だか、もごもごと口を動かしたまましゃべれなかった。
「そして犯人は、魔法使いだったんだ。たぶん、壁をすり抜ける魔法みたいなのを使ったんだと思う。それで箱の中身だけを取りだしたんだ。だから、鍵は閉まっていた。最初から、開いてなんかいないんだ」
「でも、だって、それは魔法でなくったって……」
「違うんだ」
 ハルは少しだけ首を振る。
「間違いなく、魔法は使われたんだ。そのことは、本当は最初からわかってたんだよ。ただ、カードを盗むのに使われたとは思ってなかっただけで」
「最初から?」
「ぼく、全校集会で具合が悪くなったでしょ」
「ん――」
 アキは何かに気づいたような顔をする。
「魔法を使うと、世界に揺らぎ≠ンたいなのが生じるんだ。たぶん、世界の存在そのものと反発してるんだと思う。そういう揺らぎみたいなのを感じると、時々気持ち悪くなるんだ。必ずそうなるってわけじゃないけど」
 そうだ――
 それは、アキにもわかる。あの時、アキ自身もかすかに感じていたのだ。だからハルの様子がおかしなことにも気づいたし、昼休みにハルが魔法を使ったときにも、何だか覚えがあるような気がしたのである。
「犯人はそうやって、カードを盗みだした。全校集会の、誰もいないあいだに、魔法を使って」
「でもさ、どうして盗んだはずのカードがごみ箱で見つかるの?」
「よくはわからないけど、こうとしか考えられないんだ。犯人は盗んだカードを、一組のごみ箱に捨てたって」
「でも、それって……」
「うん。これじゃあ何のために学校までやって来て、カードを盗んだりしたのかわからないんだ。でも事実としては、それ以外には考えられない。わざわざ一組のごみ箱に捨てたのは、たぶん持ち主に見つけられないようにするためだと思う」
「…………」
 何なんだろう、とアキは思う。だってこれでは、何も解決していないのと同じではないか。
「じゃあさ、じゃあどうするの? 犯人は見つけられないし、カードも取り戻せない」
「大丈夫だよ」
 ハルは何故だか、少し笑って言った。それは何だか、本当に何もかもが大丈夫になってしまいそうな、不思議な笑顔だった。
「でも、本当にどうするの?」
「放っておけばいいよ」
「俊樹が『ベンショーしろ』って言ってきたら?」
「大丈夫」
 そう言われて、アキにはもうそれ以上何も言えなくなってしまう。この少年には、そういうところがあった。すべてをうまく調律してしまうようなところが。
 二人はしばらく、黙っていた。
 それから不意に、ハルが訊いている。
「……ぼくも聞きたいことがあるんだけど」
 それは空からふと風が吹いてくるような、ささやかな口調だった。
「何?」
「どうして君は、最初にぼくが疑われたとき、そうじゃないと思ったの?」
「え……」
 そう言われて、アキはハルの顔をのぞきこんでしまう。ハルは落ちついた、いつもと同じ表情をしていた。けれどその言葉には、何だかそれ以上のものが含まれている気がした。暗い森の奥で、何かがひっそりと息づいているように。
 アキはこの少年の顔をのぞきこんで、その瞳がかすかに灰色がかっていることに気づく。それはじっと見つめているとそうだとわかる、不思議な色あいの瞳だった。
 アキはそっと、ハルの表情を見つめる。
 透明で、硬質で、でもひどく脆そうな顔。
(ああ、そうか――)
 とアキは思う。
 この少年は、急いで大人にならなくてはならなかったんだ。
 母親がいないということ――
 故障した世界――
 この少年はそうしなければ、きっとこの世界の重みに耐えられなかった。
 そう思うとアキは心のどこか見覚えのない部分が、ぴりぴりと痛むような気がした。それはとても不思議な痛みで、今までに一度も感じたことがないような種類のものだった。そんなものがこの世界にあるのだなんて、少しも知らなかった痛み――
「だって――」
 と、アキは自分でも知らないうちに笑っていた。そうしてあげなくてはいけないような気が、アキにはしていた。
「君と友達になりたいと、思ったから。君は絶対にそんなことしないって、わかってたから。君はそんなやつじゃないって、知ってたから。君のこと、助けたかったから」
 早口で、アキは自分でも何を言っているのかわからない。
「君のことを知りたいと、思ったから。君と仲良くなりたいと、思ったから。どうして君とわたしが出会ったのか、知りたかったから――」
 言いながら、アキは何だかようやく恥ずかしくなりはじめている。頬が赤くなるのが、自分でもわかった。
「えと、だから、絶対にそうじゃないって、思ったから」
「――ありがとう」
「え……」
 アキはきょとんとした。
「たぶん、そう言うべきなんだと思う。よくわからないけど、ぼくは君に感謝すべきなんだって。君がそう言ってくれたことを、君がぼくをかばってくれたことを」
 いつもと同じ笑顔を、ハルは浮かべる。
 ――けれどいつもより、少しだけ柔らかい笑顔を。
 アキは顔を赤くして、うつむいてしまった。何なんだろう、この少年は。やっぱりどこか、変わっている。
 腹立たしいような、恥ずかしいような気持ちで、アキは言った。
「名前!」
「……?」
「名前、言ってなかったでしょ。わたしは水奈瀬陽!」
 ハルは首をかしげて、でも落ちついて言った。
「ぼくは、宮藤晴」
 アキは何だか変な顔をした。
「……ハルとアキ?」
「らしいよ」
「…………」
 二人は急におかしくなって、何故だか笑ってしまう。空っぽの屋上は、ただそこにあることによって、二人を存在させていた。
 空の上にはただ、透明な青さばかりが広がっている。

 ――こうして、宮藤晴と水奈瀬陽は、友達になったのだった。

 その後、事件そのものはあっさりと解決してしまう。
 数日たったある日、アキが登校してくると、小野俊樹の机のまわりには何人かのクラスメートが集まっていた。
「すげえだろ、これ」
 俊樹は何かを見せては、しきりに自慢していた。アキがそっとのぞきこむと、それは何かの限定品らしいキャラクターグッズだった。アキはやれやれ、と思ってその場を離れてしまう。
 窓際のところで、ハルが外を眺めていた。
「どうなっちゃってるの、これ?」
 アキはその隣に立って、あの日と同じように騒いでいる俊樹たちに目をやった。
「だから、解決する必要なんてなかったんだよ。そもそものはじめから、問題なんてなかったんだから」
「箱が最初から、開けられてなかったみたいに……?」
 アキは顔をしかめた。
「うん、何ていうか、俊樹は自慢がしたいんであって、ものそのものにはあまり興味がなかったんだよ。少し前までは珍しい石か何かの自慢をしてたし、その前はおもちゃの自慢をしてた。だからカードのことも最初は怒ったけど、結局はどうでもいいことなんだ。それに、ぼくは本当に盗んでないし」
「ベンショーしろって言われないかな?」
「たぶんね」
「うーん」
 アキは呆れるような、馬鹿馬鹿しくなるような、けれどこれで良かったのかな、というような、妙な気分だった。あのカードが病気がちな少年の心を励ますのなら、もちろんそのほうが良かったのだろう。
 ハルとアキはそれから、昨日のテレビだとか、ちょっとした出来事だとかを、他愛もなくしゃべりあった。
 すべてが終わってしまっても、世界は何も変わっていないように見える。空の色が変わったわけでも、大地がみんな裏返ってしまったわけでもない。
 この事件で変わったことといえば、わたしとハル君が友達になったことくらいだ、とアキは思っていた。

 ――けれどもちろん、そんなことはなかった。
 放課後、誰もいなくなった教室で、ハルは一人佇んでいる。がらんとして電気もつけられていない教室は、死者の眠りを思わせるような穏やかさに満ちていた。
 ハルは俊樹の机の上に、小さな紐をたらしていた。それは先端に小さな錘のついた、ダウジングに使うような形のペンダントである。
 手の平にまきついた細い紐の下で、錘はぴくりとも動いてはいなかった。ハルの手はまっすぐにのばされ、その瞳は軽く閉じられている。
 ハルはそこに残った、かすかな魔法の名残を感じていた。感知魔法(パーセプション)=\―それは世界に生じた揺らぎに感覚を澄ますための魔法だった。誰かはわからない。けれどあの日、この教室にやって来て、そして鍵のかかった箱からカードを盗み出した人物。その誰かが使った、魔法――
(あれは、今まで感じたことがないような魔法だった……)
 ハルはあのリングと同じ、魔法の道具であるペンダントをたらしながら、そっと考えていた。
(今までだって、誰かが魔法を使うのを感じたことはある。でもそれで、あんなふうに気持ちが悪くなるなんてことはなかった)
 ハルの手の下で、錘が振れることはない。けれどそれは確かに、世界の揺らぎ≠感じとっていた。もうほとんど薄れかかってはいるが、あの時体育館で感じたのと、同じ揺れを。
「…………」
 ハルは目を開け、ペンダントをポケットの中にしまう。そして、本当なら自分に向けられるはずだった魔法について、考えてみる。
 そう――
 あの日教室にやってきた誰かは、本当は小野俊樹の机からカードを盗みだしたかったわけではなかった。それならわざわざ。ごみ箱に捨てたりはしない。
 その誰かは、本当はハルの机から何かを盗みだしたかったのだ。
 古い座席表。
 教室の壁に貼られたその座席表には、本来は俊樹の机であるはずの場所に、宮藤晴の名前が書かれていた。今はもう書きなおされているが、あの日、教室にやってきた誰かは、それを見て俊樹の机をハルのものだと勘違いしたのだ。
 だからこれは、ハルの起こした事件だった。教室にやってきた誰かは、本当はハルのことを狙っていたのだ。
 おそらくはこの少年にまつわる、ある秘密のことで――
 ハルの心臓の鼓動は、いつもと変わらない平静さで音を響かせていた。
 どこか遠い場所で、小さな悲しみを感じたような気がしたが、それもすぐに消えてしまう。音もなく、言葉にすらならない悲しみを――
「…………」
 ハルはカバンを持って、帰ろうとした。
 ――その時、不意に音がして、教室の扉が開いている。
 一人の少女が、そこから姿を現していた。ハルには見覚えのない少女だった。
 少女は長い、まっすぐな黒い髪をしている。目が涼やかで、手足が細く、少し力を入れて触れると折れてしまいそうな、華奢な体つきをしていた。ふわりとしたフレアスカートを身にまとっていて、清楚な月を思わせるような雰囲気をしている。
「――――」
 少女は戸惑ったような、それにしては怯えも警戒もない様子で、ハルのことを見つめていた。その顔はほとんど無表情だといってもいいくらいである。
「教室に何か用があるの?」
 彼女が黙ったままなので、ハルはこちらから尋ねてみた。そういう親切なところが、この少年にはある。
 彼女は入口付近で、不自然なくらい落ちついた態度で教室の中を見まわした。
「今度、ここに転校することになったから」
 と、彼女はまるで独り言でもつぶやくみたいに、ハルのほうを見ようともせずに言った。無機質で、冷たい、でもそれがひどく自然な感じのする少女だった。
「教室の下見をさせてもらってるの。先生はちょっと用事があるから、遅れて来るそうだけど」
「そう……」
 なら、ハルにはこれ以上言うことはなかった。明日になれば、葉山先生が彼女を紹介してくれるだろう。
 じゃあぼくは帰るから、とハルが行こうとしたとき、彼女はまるで同じ口調で、
「名前くらいは聞いておけばどうかしら、宮藤晴くん」
 と、言った。
 ハルは立ちどまった。少女は相変わらず、ハルのほうを見ようともしていない。
「それが一応の礼儀ってやつじゃないかしら。これからクラスメートになる人間の名前くらい、知っておくべきでしょう?」
 少女の口調はあくまで落ちついていて、何かのついでにちょっと聞いているだけ、という感じだった。
「君は……?」
「どうして名前を知ってるのか、わからない?」
 彼女はそう言ってからようやく、ハルのほうを向いた。
 少女の瞳は、深く、静かな暗闇をたたえたような、不透明な色あいをしていた。
 遠くの廊下から、足音が聞こえる。
「……でも、別に不思議じゃないでしょ。転校先のクラスメートの顔と名前くらい、調べておくものだと思うけど」
 嘘だろう、と思ったが、ハルは何も言わない。でも、これはどういうことなのだろう。この少女は、どうして自分の名前を知っているのだろう?
 けれどハルが何かを聞こうとする前に、葉山美守が教室に現れていた。
「あれ、宮藤くんまだ帰ってなかったの?」
 彼女は何も知らない、明るい口調で言った。ハルが見ると、少女はもう興味をなくしてしまったように別の方向を向いている。
「いえ……これから帰るところです」
「まあいいや、ついでに紹介しとくわね。彼女は今度うちのクラスに転校してくることになった、志条芙夕(しじょうふゆ)さん。志条さん、彼はうちのクラスの宮藤晴くんよ」
 葉山美守は、明らかに何も知らない様子だった。少女に向かって、ハルのことを紹介する。
 フユはそう言われて、よろしく宮藤くん、と挨拶した。相変わらず、その顔は無表情で何の思考も読みとることはできない。ハルは軽く頭を下げて、よろしく、と返事をした。
 けれど――
 彼女が偶然にハルのことを知っていたようには見えなかった。この少女は明らかに、宮藤晴だから、知っていたのである。
(何を知っているんだろう、この子は……)
 ハルはそっと、フユの瞳の奥をうかがった。
 けれどそこには、水底の深い深い場所で、ずっと光を知らない闇のようなものがあるばかりたった。それは普通では絶対に見ることのできないような、何かだった。
 それはまるで――
 世界から断絶してしまったかのような。

 ……世界は目に見えない場所で、静かに変わろうとしていた。

――Thanks for your reading.

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