[ハード・ガール]

 ――吉野(よしの)ゆきなのことを、今でも時々思い出す。
 彼女のことは忘れようとしたって、なかなか忘れられるものじゃないからだ。いっしょにいた時間はそう長くはなかったけれど、それはかなり強烈なものだった。素人のへなちょこパンチと比べたときの、ヘビー級ボクサーのそれくらいに。
 中学校時代、あたしと吉野は出会った。それは特に運命的というのでも、ドラマチックというわけでもない。その辺に転がってる石ころと同じくらいに、ありふれたものでしか。
 けれど、それでも――
 あたしとしては、彼女との思い出を理屈っぽく省みたり、その後の影響を冷静に鑑みたりするつもりはない。よくある、つまらない精神分析みたいには。もちろん、それは間違いなく大きなものだったけれど――そうするのが、正しいことだとは思えないからだ。
 あたしたちは――あたしと吉野は、あの時間を共有した。それがどれだけ短く、人生の長さと比べると一瞬のようなことだったとしても。
 実のところ、あたしはあの頃からほとんど変わっていないような気がする。その変わらなさかげんについて考えてみると、自分でもあらためて驚くくらいだった。おいおい、これはちょっと成長しなさすぎというものじゃなかろうか、と。
 とはいえ、それはあたしの本質というものが、あの頃に確立したせいなのかもしれない。あたしの主義、思想、根幹――。かのチャールズ・ダーウィンも宣ったとおり、結局のところ生き物はそう簡単に変化したり進化したりはしない。
 クジラには使いもしない後肢(うしろあし)が残っているし、キリンの首は骨の数が七つだし、人間には役にも立たない尾骨がくっついている――要するに、そういうことだ。
 もしかしたら、それは彼女にとっても同じなのかもしれない。
 ふと、あたしはそんなことを考える。十年たった今でも、彼女はあの時とそれほど変わっていないんじゃないだろか、と。
 あなたはもし一番の友達から、いっしょに死んで欲しい≠ニ言われたら、どうするだろうか。とても真剣な顔で、とてもきれいな目で、そんなことを言われたら。
 説得する? 慰める? 罵倒する? 心配する? 説教する? それとも――いっしょに死んでしまう?
 あたしは今でも、あの時本当はどう答えるべきだったかわかっていない。十年たった今でも、わかっていないのだ。
 もちろん、あと十年たったところで答えがわかるとはかぎらない。そもそも、答えなんてものがあるのかどうかさえ。世の中にありふれた多くの問題が、そうであるのと同じで。
 それでもあたしは、吉野ゆきなのことを今でも時々思い出す。あの時間と、あの答えと、それからあのあと起こったすべての出来事について。
 夜明けの灰色になった世界の、風が強い日には特に――
 あたしたちは、あの場所を生きのびてきた。
 たぶん、事実としてはそれだけのことなのだと思う。

 吉野と最初に出会ったとき、あたしはかけねなしにびびった。
 何しろ彼女は、モデルみたいな美少女だったからだ。そういうのはテレビの画面ごしとか、雑誌のページとかに存在するものであって、実際に目の前にすると実在性が危ぶまれるくらい現実感がない。ちょっとリモコンを操作したら消えてしまうんじゃないか、というくらいに。
 四月の終わりの、さすがにもう冬もあがきをやめて、夏の訪れを感じる頃のことだった。吉野は転校生として、中学校の、あたしたちのクラスにやって来たのだ。
 いつも通りの朝のHRに、吉野は先生に連れられてやって来た。教室に入った瞬間、何か決定的な変化が起こったことに誰もが気づいた。人類が月に最初の一歩を刻んだときみたいに。
 吉野は先生にうながされて、教壇の横に立った。制服の準備が間にあわなかったらしく、あたしたちとは微妙に違う形のセーラー服を着ている。それがまた、彼女の美少女ぶりを際立たせていた。
 すらっとのびた手足に、神様がほどよく按配してやったみたいな体つき。さらさらした長い黒髪はひっかかりなんて一つもなさそうで、その肌膚(はだえ)は指をのせたらつるっと滑ってしまいそうだった。目鼻立ちはいくら眺めても欠点というものがなくて、コンマ何ミリのレベルで厳密に計算して配置されていた。彼女の背後には、少女マンガでよくあるみたいにバラの花が咲き乱れている。
 先生が合図すると、彼女は黒板に向かって自分の名前を書いた。
「吉野ゆきな」
 書は人を作る、とか言うけれど、彼女の書いた文字もそんな感じだった。楚々として、でしゃばらず、どこまで品がある。白いチョークで書かれたその五つの文字は、世界を軽く祝福しているみたいでもあった。
 教室中の誰もが――男子も女子も――彼女に見とれていた。かく言うあたしも、そうだった。何しろ、そうせずにはいられないのだ。磁石のS極とN極が、自然と引きあうみたいに。
 ところが、吉野のそんな美少女さかげんも長くは続かなかった。正確に言うと、砂山が風に吹かれるみたいに徐々に崩れていった。
 吉野は黒板に名前を書いたあと、当然ながら挨拶をした。みんな、期待した。そりゃそうだ。何しろ、これほどまでに節操なく、惜しげもなく、美少女っぷりをまきちらしているのだから。
 頭をぺこりと下げると、彼女は言った。
「吉野ゆきなです。どうか、よ、よ、よろしくお願いします」
 まず、それが第一の違和感だった。彼女はどもった。それも、ちょっとつっかえたというんじゃなくて、派手にずっこけたうえに机の上にあったのものを全部ひっくり返してしまった、というレベルで。颯爽と登場したシンデレラが、ぶざまにつまずいて、大切な花瓶を数個粉みじんにしてしまった、という感じだった。
 それでも、まだ多少の違和感ですんでいた。少なくとも、声は澄んできれいだったし、高音域でも音が割れない強さみたいなものも感じられた。彼女はやっぱり、美少女だった。
 席が決まってHRが終わると、吉野のまわりにはさっそく人が集まった。木に塗りたくられた蜂蜜に、カブトムシがよってくるみたいに。まあ、無理もない話ではあるけど。
 あたしの席は彼女の斜め後ろの位置にあったので、そんな様子を精度のいい天体望遠鏡なみに観察することができた。林立する人影に彼女の姿は埋没してしまっていたけど、声くらいは聞くことができる。
 やつぎばやに浴びせられる質問に対して、吉野の声はほとんど聞こえてこなかった。「えっと」とか「その」とか「あー」とか、断片にすらならない返答が発せられるにすぎない。返答というか、呻きが。
 周囲に群がっている連中は赤いマントを振られた闘牛よろしく、そんなことは気にもならないみたいだったけど、あたしは第二の違和感を覚えていた。何だかどうも、現実と想像が齟齬を来たしはじめている。不吉な軋み音を立てながら。
 HR後はすぐに一時限目がはじまるので、ほどなく担当の先生がドアを開けて入ってきた。パーティーはいったん中止だ。カブトムシたちは三々五々、それぞれの席に戻っていった。
 いつもの二割増しくらいで退屈な、数学の授業がはじまる。一定方向から見た場合の立体の平面図、というような内容だった。
 それが終わると、当然のこととしてさっきの状況が再現された。吉野のまわりには肉片に喰いつこうとするピラニアみたいに、人が集まった。今度はさっきと違って、それなりの時間がある。
 あたしは次の授業の準備をしながら、それとなく聞き耳を立てていた。カブトムシやピラニアには悪いけど、あの集団に加わるような浅ましい真似だけはしたくない。
 質問は相変わらず機関銃的で、その上一方的だった。「どこから来たの?」「住んでるところは?」「兄弟はいる?」「趣味は?」「両親は何してる人?」
 ――個人情報のオンパレードだった。きっとそのうち、身長体重やスリーサイズだって訊かれることだろう。
 転校生としては嘉すべき人気っぷりだったけど、吉野の場合はそうじゃないらしかった。彼女はさっきみたいな呻き声をあげるのさえやめて、終始黙りこくっていた。じっとうつむいたまま、身を固くしている。
 フリーズしている、という感じだった。まるで、いじめられているみたいに。
 ――それが、第三の違和感だった。決定的で、致命的な。
 吉野がまともな受け答えをしないことがわかると、クラスメートは一人去り、二人去りしていった。穴の開いたバケツから、不可逆的に水が流出していくみたいに。そうして最後には、吉野一人だけがぽつんと残されていた。こういう言いかたがフェアかどうかはわからないけど、無惨にも。
 そうやって座りつくしている吉野は、ほとんど美少女には見えなかった。その辺に転がっている、ただのぱっとしない女の子にしか見えない。その凋落っぷりは、たいしたものではあった。
 まあまあひどい言いかたをするなら、それは化けの皮が剥がれる≠ニいうのに近かったと思う。男の子で、黙ってさえいえればかっこいい、というタイプがいる。口を開いた途端、すべての幻想が粉みじんになってしまう、というタイプが。吉野ゆきなは、その女の子版だった。
 教室中の誰もが、もう存在そのものを忘れてしまったみたいに、吉野のことを相手にしなかった。彼女はその美少女っぷりにもかかわらず幽霊以下の、いてもいなくても同じ人間として認識されるようになった。実際のところ、吉野はいじめの対象にさえならなかった。
 かくいうあたしも、彼女に対する興味のほとんどを失ってしまっていた。世の中には、ほかに見たり聞いたりする必要のあることがいくらでもあるのだ。幽霊以下の人間になんて、かまっていられない。

 ――これは概ね吉野についての話なのだけど、この辺で便宜上、あたし自身のことについても多少は触れておこうと思う。
 あたしの名前は、藤江和佐(ふじえかずさ)。中学二年だ(もちろん、当時の話)。吉野も当然ながら同じ学年で、彼女のほうの歳は十四だった。このことは、あとあとで多少の意味を持ってくる。
 吉野みたいな美少女とは違って、あたしはごくありきたりの女子だ。背の高さは似たようなものだったけど、彼女と同じようなプロポーションなんて望むべくもない。吉野が野に咲く一輪の百合だとすると、あたしはさしずめタンブルウィードというところだ。
 知っているだろうか、タンブルウィード。西部劇なんかで荒野をころころ転がっている、草の塊のことだ。
 あたしの鼻は吉野みたいに彫刻的に優美な形はしていないし、肌だって滑らかでも艶やかでもない。髪は頑固な癖がかかっていて、くしゃくしゃに丸めたちり紙同然。それに何より、自覚できる程度に目つきが悪い。反射率の高い素材をのぞき込むたび、一体こいつは何をにらんでいるんだろう、と自分で思うくらいだ。眼鏡をかけてようやく、その無駄に鋭い眼光の、十分の一くらいは減じている気がする。
 吉野と比べること自体が無謀なんだけど、あたしはどこをとっても美少女なんて柄じゃない。美少女どころか、少女なんて呼称さえ怪しいくらいだ。そういう儚げで優しげなイメージを付随させるには、(自分で言うのもなんだけど)凶暴すぎるし、がさつすぎる。
 実家では洋服屋を営んでいる――「藤江洋品店」。古い商店街の一角にあって、ご多分にもれず寂れている。大体のところは想像できると思うけど、プレーリードッグの巣穴くらいぱっとしない。あるいは、褪色してしまった絵画みたいに。
 店の経営をしている父親の名前は、藤江慎介(しんすけ)。正直、名前なんてどうでもいいのだけど、ついているものは仕方がない。一応の礼儀というやつだ。
 ひょろりとした体格に、似あいもしない顎鬚を生やしている。好意的に解釈するとおおらかなんだけど、要するにいいかげん。四十を過ぎているとは思えないほど、メンタルも顔つきも幼い。実の娘にそう評されてしまうのだから、あとは推して知るべしというところだ。
 店にはいつも、閑古鳥が鳴いている。当たり前だ。ユ○クロやしま○らなんてところがあるのに、誰が好きこのんでこんな安くもおしゃれでもない店にやって来るだろうか。おまけに、店主はカウンターに座ってあくびするばかりで、やる気なんて欠片もない。
 それでも、この店が潰れることはない。品揃えが豊富なわけでも、品質が高いわけでも、特別な魅力があるわけでなくても、潰れることはない。
 ――何故なら、学生服の取り扱いをやっているからだ。
 毎年毎年、子供たちは学校に入学し、学生服が必要になる。学生服を自前で作るわけにはいかないから、店で買うことになる。そして学生服の取り扱いなんて、ユ○クロやしま○らではやっていない。
 そこで出番になるのが、「藤江洋品店」というわけだった。少子化が進んでいるとはいえ、子供が絶滅したわけじゃない。学生服も絶滅したわけじゃない。おかげで、寂れた商店街の冴えない洋服屋も、一定の収入を得ることができる、というわけだった。
 もちろん、そう簡単に学校から学生服の取り扱い指定を受けられるわけじゃない。気概も能力もない四十男なら、なおさらというものだ。
 そういう苦労をして、そもそもこの店を作ったのは、祖父だった。あたしは直接の面識はないのだけど(その頃には事故で亡くなってしまっていた)、貧窮の中で育ち、向学心に燃える人だったらしい。それでいて、せせこましいところのない、さっぱりした人だったという。
 祖父は自分が赤貧の身だっただけに、子供には甘かったらしい。それが唯一の一人息子となれば、なおさらだった。祖父は自分がした苦労の十分の一も、息子には負わせたくなかったらしい。贅沢もさせてやりたかったし、好きに遊ばせてやりたかった。これを、心理学では代償行為という。
 それでどうなったかという実例は、あたしの眼前にあるとおりだった。
 あたしはそういう話を、祖母から聞かされていた。祖母は祖父を愛していたが、さすがにその教育方針には批判的だった。彼女は子供を溺愛したりはしなかった。というより、祖父の様子を見て、これはまずい、と憂慮したという。それで何とかしようとはしたのだけど、いかんせん夫には逆らえない。
 その点では祖母は古い人だったけど、同時に強い人でもあった。あたしは彼女からいろんなことを教わった。生きていくのに必要な、ほとんどすべてのことを。彼女は一人息子への過ちを、孫娘であるあたしには繰り返したくなかったのだろう。
 あたしは今でもそのことに感謝していて、だから何もすることがなくて、ごろんと床に寝転がったときなんかには、よく彼女のことを思い出す。
 そんな祖母も、あたしが小学生の頃に病気(肺がん)で亡くなってしまった。
 今、家にいるのは父親の慎介とあたしだけだ。母親はいない。いないというか、正確にはどこにいるかわからない。
 母親の名前は、藤江理佐(りさ)という。これまた名前なんてどうでもいいし、和佐というあたしの名前がその一文字を共有していることには腹立ちを覚えるのだけど、どうしようもない。子供には自分の親も名前も選ぶ権利はない、ということだ。
 藤江理佐は、父親とは対照的な人物だった。アクティブで、パワフルで、情熱的。いつもばっちりメークを決めて、一分の隙もなく身を固めている。無責任という言葉を超越していて、社会的規範なんて腹の足しにもならない、というタイプの人だった。
 祖母が生きているあいだは、それでも何とか家にいついていたのだけど、そんな戒めもなくなるとあっさり家を出ていった。まるで、燃料をいっぱいに積んだロケットが、第一宇宙速度を軽々と突破するみたいに。
 あたしが最後に彼女と会ったのは、祖母の葬式の時だった。その頃には所在不明になるくらいあちこち飛びまわっていた母だけど、その時だけはさすがに家に帰ってきた。どんな人間にも、敵わないものというのはある。
 まだ現実というものに希望を抱いていた、もしくはそれを知らなかったあたしは、母に手紙を渡そうとしていた。お母さんのことが大好きです≠ニかずっと家にいてください≠ニか、そんなことを連綿とつづった内容のやつだ。何しろ小学四年生の時のことだ。誰にも、当時のあたしを責めることなんてできはしない。
 黒い喪服を着た大人たちばかりの席で、あたしは終始、母に手紙を渡す機会を探っていた。ほかの人には見られたくなかったし、できれば母と二人きりになれる時間を待ちたかった。それはとても大切な、母とあたしだけの秘密だったから。
 ところが、そんな機会は結局訪れなかった。母はいつまでも誰かと話したり笑ったりしていて、一人になるということがなかった。子供であるあたしは当然のようにつんぼ桟敷で、そんな会話に割ってはいる隙はない。
 それでも、夜になればきっと母と二人きりになれるだろう、とあたしはたかをくくっていた。何しろ、祖母は亡くなったばかりで、ここは母の家で、あたしは彼女を求めていたのだから。
 でも、気がつくと彼女はいなくなっていた。実にあっさりと、実に容赦なく。渡り鳥が季節の変化に従っていなくなるのより、あっけなく。
 あたしは大切な手紙を、渡しそびれてしまった。
 何日かした頃、あたしはその手紙をずたずたに引き裂いて、灰皿の上で燃やしてしまった。あたしは泣いたり、怒ったりはしていなかったと思う。ただじっと、手紙が燃え尽きて灰になるのを眺めていただけ。
 以来、あたしはほとんど母とは会っていない。
 あたしは今でも時々、その手紙がどこかで燃え続けているのを感じることがある。

 当時のあたしはどの部活にも入っていなかった。
 部活なんてバカバカしいし、時間の無駄だからだ。誰かといっしょになって同じことをしたり、たいして意味があるとも思えない順位や賞状のために努力することに、本気になんてなれっこない。
 というわけで、あたしはいわゆる帰宅部だった。放課後になると、さっさと家に帰ってしまう。学校からの行き帰りは、主に自転車。
 たいして距離があるわけじゃないので、移動時間は短い。途中に有名な観光スポットがあるわけでも、おしゃれなお店があるわけでもない。だから大抵は、家まで直行してしまう。
 帰ってからの時間の過ごしかたは、いろいろだ。さっさと勉強や宿題にとりかかることもあるし、だらだらとマンガを読んでることもある。どこかに出かけることもあるし、稀には(小遣いが必要な時なんかは)店の手伝いをすることもある。
 帰宅時には、商店街を通ることになる。そこに住んでいるのだから、当たり前の話だ。
 前にも軽く言及したとおり、商店街は寂れている。大半の店はシャッターを閉じていて、路上に放置されたままの死体みたいにゆっくり朽ちかけている。誰もがそのことを嘆いたり、憤ったりしているけど、どうすることもできない。
 人間の生活も好みもニーズも変わったのだから、不必要なものは淘汰されていく運命にある。進化というのは、基本的に残酷なものなのだ。
 建物も寂れて、アーケードの屋根も寂れて、閉じたシャッターまで寂れているけど、それでもまだ営業している店はある。
 うちの店もそうだけど、例えば魚屋なんかもそうだ。別に、近所の主婦が新鮮な海の幸を求めてやって来る、というわけじゃない。地元の料理屋なんかに品物を卸す需要があって、それで続いているだけの話だった。
 あたしが自転車に乗って前を通りかかると、今頃になって届いたらしい魚を検分していたおじさんが、顔を上げて声をかけてきた。
「よお、カズちゃん!」
 生まれてこのかた商店街で暮らしているのだから、大方の店主とは顔見知りになっている。
「今、帰りかい?」
 むやみにでかくて威勢のいい声に、あたしは自転車をとめざるをえなかった。時々もらう魚のこともあるので、無碍にすることはできない。
「そうだけど――」
 あたしはクーラーボックスの中に、氷といっしょに横たわる魚を見ながら言った。
「何、これ? 鯛?」
「チダイだな。花鯛なんて呼ばれることもある」
 と、魚屋のおじさんが説明してくれる。ゴム長靴に合成皮革の前掛けをつけ、短い白髪頭にハチマキという、いつもの格好だった。
「ここんとこの鰓が赤いので区別できる。背びれの形も違う。知りあいがたまたま釣りあげたって持ってきてな、どうしようか考えてるところだ」
「ふうん」
 切り身にしてくれるんならありがたい話だけど、このままもらっておろすのは難しそうだな、とあたしが考えていると、
「今のところ、こいつをおすそわけする予定はないなぁ」
 と胸中を見透かされたような発言をされる。
「……考えてねえし、そんなこと」
 あたしは人としての最低限の尊厳を守るため、相手の言葉を否定した。おじさんはそんなあたしの乱暴な言葉づかいに対して、
「女の子がそんなアオザメかオオカミウオみてえに噛みつくもんじゃないぜ、カズちゃん」
 と、困ったもんだとでもいうふうに肩をすくめてみせる。その魚屋的な表現はどうかと思うけど、あたしもそのことに関しては否定しない。
 だからちょっと謝っておこうかな、と反省したあたしに向かって、おじさんはかなり余計な一言を口にした。
「リサちゃんだったら、もっと女らしい言葉づかいをするんだけどなぁ」
 母親の話は禁句だということを、おじさんは忘れてしまっているらしい。あたしは思わず、本当に不機嫌になって言ってしまった。
「あたしが母親に似なきゃならない理由でもあるってわけ、おじさん?」
 おじさんはようやく気づいたらしく、うっかりしたという表情を浮かべた。そうして、頭をかきながら言う。
「こいつは失言だったな、すまんすまん。しかしカズちゃんも、すっかり口はばったくなっちまったな。小さい頃はあんなに可愛かったのに」
 年よりの(というほどの歳でもないけれど)困るのは、こういうところだ。すぐに人を子供あつかいする。その上、実際にこっちの子供時代のことを知っているのだから、性質が悪い。
 あたしはフグのようなふくれっ面を浮かべてから、さよならも言わずにその場をあとにした。

「…………」
 何とも言えず気分がくさくさして、集中力が続かない。あたしは読んでいたマンガを放りだして、クッションに頭を埋め、畳の上に横になった。
 それから猫のしっぽみたいな、それなりに長さのあるため息をつく。
 確かに、自分が子供っぽいことをしているのはわかっていた。魚屋のおじさんは、何も悪意や皮肉を込めてあんなことを言ったわけじゃない。ただ世間一般のやりとりとして、ああいう言いかたをしただけのことだ。怒ったり不機嫌になったりする理由はない。
 とはいえ、母親のことを出されると冷静でいられなくなるのも事実ではあった。あの人のことは、あたしの中でいまだにどう処理していいのかわからない、厄介な残留物なのだ。指先に残った火傷の痕とか、治りきってない骨折箇所みたいに。
 あたしとしては、そんな面倒な一切はすぐにでもごみ箱に放り込んでしまいたかった。嫌な気持ちも、心を痛めつける記憶も、気分を乱す感情も、何もかも。
 けどそうするには、あたしにはまだ力がなさすぎた。現実的にも、精神的にも、あたしにできることは多くない。都合よく何もかも厄介払いしてしまうなんて、そんなことは不可能だった。
 あたしはまだ子供で――そして、それがすべてだ。
 明日は休みだっていうのに、このままだとろくな休日にはならなそうだった。せっかくの空白が、ずいぶん目減りしてしまっている。できるなら、何とかして取りもどしておきたい。
 もう一度ため息をついてから、あたしは起きあがった。頭を乱暴にかきむしりながら(確かに、母親だったらこんなことはしないだろう。髪型には人一倍気を使う人だったから)、簡単な準備をして部屋を出る。あたしには気晴らしが必要だ。
 途中、居間で野球中継を見ていた父親に声をかけられた。
「あれ、カズ。こんな時間にどこに行くんだ?」
「ちょっとコンビニ――」
 あたしはそれだけ告げると、さっさと廊下を通りすぎてしまった。
 一階に下りて、裏口から外に出る。通学用とは別の、クロスバイクを引っぱりだす。夜中の九時ともなると、商店街のアーケードなんて人っ子ひとりいない。やけに威嚇的な街灯があたりをまぶしく照らしていた。
 あたしはジャージのズボンにトレーナーという、ほぼ部屋着のままの格好で自転車を走らせる。夜中になると、この時期でもさすがに肌寒かった。誰かがわざわざ冷やしておいたみたいな、そんな雰囲気が空気の中にはある。
 アーケードを離れると、夜の闇があたりを覆った。まるで柔らかく千切った和紙みたいな暗闇だ。冬とは違ってずいぶん湿気を含んで、ぼんやりしている。
 たいして距離があるわけじゃないけど、あたしは自転車を疾走させた。自転車のよいところは、いろんな悩みを置きざりにできるくらいのスピードが出せるところだ。特に今日みたいな日には、その特性が重宝される。
 小さな橋を渡って、信号を曲がり、道をしばらく行くと、目当てのコンビニが見えてきた。暗闇の中で煌々と周囲を照らすその建物を見ると、あたしは何故か竹取物語を思い出してしまう。「その竹の中に、もと光る竹なむ一筋ありける。――」
 すみっこのほうに自転車を止めて鍵をかけ、入口に向かう。外から見るかぎり、コンビニの中に人影はない。店員が一人、所在なげに棚の整理をしていた。
 ふと、自動ドアに近づいたところであたしは気づいた。建物の向こう側、半分くらい暗がりに沈んだところに、誰かいる。段差のところに座って、何をするわけでもなくじっとしているみたいだった。
 それだけなら、あたしだってそこまで気をとめたりはしなかっただろう。この世にどれくらい、夜のコンビニで、駐車場近くに空しく座っている人間がいるのかは知らないけど、いてもおかしくはない。何しろ、世界は広いのだ。
 けど、その空しく座っている人間にどうも見覚えがある、となると話は別だった。本当に知っている人間なのか、そうだったらどうしてそんなところにいるのか、確かめたくなるのが人情というものだ。
 というか、あたしにとってはそれが人情なのだ。
 あたしはつかつかと、その人の近くまで歩いていった。見当違いだったら、それだけのことだ。お互いにちょっと気まずい思いをして、別れてしまえばいい。
 でも、もしも――
 その人が誰なのか確認して、あたしは声をかけた。
「何してんの、こんなところで?」
 相手はおもむろに顔を上げた。光源が不足してるぐらいでは、その容貌に影響を与えることはできないらしい。
「あんた、吉野ゆきなでしょ。あたしと同じクラスの」
 彼女は特に驚くでもなく、珍しがるでもなく、あたしの顔を見つめた。どこか、ぼんやりしている。歯車がいくつか欠けてしまった時計みたいに、心がうまく働いていないという感じだった。
 そんな生気を欠いた表情でも、吉野の美少女ぶりは健在だった。彼女に見つめられて、あたしは知らず知らずのうちに鼓動が早まるのを感じた。
 しばらくして、吉野は口を開いた。とても静かな口調で、あたしの最初の質問に答える。
「――朝を待ってるの」
 何とも詩的にして感動的な表現だった。あたしは携帯を取りだして、明日の天気を確認する。
「せっかくのお言葉だけど、明日の日の出まであと九時間くらいあるね。それまで、こんなところで座って待ってるつもり?」
 吉野は何とも言わなかった。冬への備えを怠った、どこかの道楽者のキリギリスみたいに、ただ力なく首を振っただけ。
「本気で、そんなこと考えてるの?」
 あたしが念を押すと、吉野はこくんとうなずいた。風に揺れる花みたいに弱々しいわりには、妙に頑固な感じで。
「…………」
 もちろん、あたしは吉野と親しいわけじゃない。彼女が転校してきてからだいぶたつけど、クラスの誰も彼女と親しい人間なんていない。実のところ、こうやって口をきくのもあたしには初めてのことだった。
 あたしは彼女に対して、何の義理も責任も負ってるわけじゃない。特別な興味関心や、何らかの権利があるわけでも。
 でも気づいたときには、あたしはこう言っていた。
「――あたしの家に来る?」

 あたしと吉野はコンビニで買い物をすませると、いっしょに歩いて家まで帰った。ついでだから何かおごるよ、と言うと、吉野は何度も遠慮したすえに、ジャムとマーガリンのコッペパンを選んだ。パンの中でも、比較的大きくて安いやつだ。
 よほど空腹だったらしく、吉野は道々そのコッペパンをたいらげてしまった。変に慣れた、無駄のない食べかただった。なかなかの年季を感じさせられる。
 やがて、あたしたちは家に到着した。自転車はともかく、歩きだとそれなりに時間がかかる距離である。でもそのあいだ、あたしたちは一言も口をきかなかった。まるで、誰かに聞かれでもしたら困ってしまうみたいに。
 説明が面倒くさいので、あたしは吉野に口をきかないよう注意した。そうしてあまり音を立てないように、自分の部屋まで戻る。途中で父親の様子をうかがうと、テレビの前でうとうとしていた。ビールが一缶、机に置いてあるのを確認する。酒に弱い父親のことだから、もう今夜はろくに起きていられる状態じゃないだろう。
 あたしは吉野にも、抜き足差し足で移動するよう指示した。吉野は律儀にも、忠実にあたしの動作を再現する。彼女がそうすると、妙な滑稽味があった。あたしは危うく吹きだしそうになってしまう。
 部屋に入ると、念入りにドアを閉じておいた。そこまでする必要なんて、どこにもなかったけれど。
 そうしてようやく、あたしはあらためて吉野と向きあった。とりあえずクッションをすすめて、お互い畳の上に座る。
 ずっと気づかなかったのだけど、吉野は飾り気のないワンピースという、かなり寒そうな格好をしていた。南極探検に行くわけじゃないにしろ、かなりの無防備ではある。あたしはタンスから適当なジャンパーを取りだすと、それを着せてやった。
「ありがとう――」
 そう言って羽織ったジャンパーの前をあわす吉野の姿は、同性のあたしが見ても変にどぎまぎしてしまうところがあった。
「藤江さんは親切なんだね」
 品のよい笑顔を浮かべて、吉野は言った。名前を覚えられていたという事実は、あたしにとって少なくない驚きではある。
 ジャンパーの代わり、というわけではないのだろうけど、吉野は一つあたしに質問した。
「藤江さんて、眼鏡してなかったっけ?」
 そう訊かれて、あたしは机の上に放り投げてあったそれを手に取る。野暮ったい形の、黒いフレームをした眼鏡だった。本来レンズのあるところに指をのばすと、手品みたいに貫通してしまう。
「これ、伊達眼鏡だから」
「……何でまた?」
 あたしは眼鏡を装着しながら言った。
「目は悪くないんだけど、目つきが悪いから」
 そう、それは一種の苦肉の策だった。あたしとしても、鏡やら何やらをのぞき込むたびにうんざりするのはごめんだった。それで、身体的欠陥を緩和するために必要もない眼鏡をかけている、というわけである。
 吉野は首を傾げて、そんなあたしのほうを見た。何だか、小鳥みたいな仕草だった。慰められるにしろ、正直に答えられるにしろごめんだったので、あたしはさっさと次の会話に移ってしまうことにする。
「ところで、あたしも訊いておきたいんだけど、何であんなところにいたわけ?」
 時間も、場所も、寒そうな格好も、すべてが場違いだった。美少女のやることじゃない。美少女じゃなくても、やることじゃない。
「あの、うん、ちょっと――」
 と、吉野は煮えきらない返事をした。まったくのところ、これじゃあ大根だって生煮えになってしまう。
「ちょっと、どうしたって?」
 あたしは先をうながした。
「お父さんが、その――」
「父親?」
「――うん」
 吉野の話はいっこうに要領を得なかった。
「…………」
 それでも、目隠しでパズルを解くみたいなまどろっこしい会話を続けていくと、ようやく話の筋が見えてきた。要するに、夫婦喧嘩みたいなものらしい。吉野はそれを避けるために家を出て、あんなところにいたのだという。
 あたしはその話を、特に疑ったりはしなかった。
「まあ、わかるよ。あたしもしょっちゅう、どこかに行っちゃいたいと思ってるから」
 うんうんとうなずきながらしみじみ言うと、吉野はけれど、かんばしい反応は見せなかった。ちょっと重みのある口の閉ざしかたをしている。何となく、「そう、そうなの――」という感じで同意してくると思っていたのだけれど。
 その代わりに吉野が示したのは、月の向こう側にでもありそうな、意外なほど暗くて冷たくて重たい返事だった。
「――それで、どうなるの?」
 あたしは身動きをとめて、かすかにうつむきかげんの吉野を見た。彼女はとても真剣で、とても投げやりな顔をしていた。
「どこに行ったって同じ、何も変わったりなんてしない。横から見て三角形だろうと、縦から見て四角形だろうと、見えているものは結局同じ――でしょ? そんなのは、何かが変わったなんて言ったりはしない。そんなことで、何も変わったりなんてしない」
「…………」
「それに、ここから出ていくことなんてできない。できっこない!」
 最後に、吉野は思いのほか強くてまっすぐな目であたしのことを見た。あたしが彼女の顔を正面からまともに見すえるのは、それが初めてだった。
 彼女はやっぱりどこをどう見ても美少女だったけど、ただの美少女というわけじゃなかった。
 今ならよくわかるのだけど、その瞳の奥にはたぶん、絶望≠ニ呼ばれるものが巣くっていた。本人の力ではどうしようもない、形而上的にも形而下的にも対処不可能な現実を抱えこんで。
 つまるところ、吉野ゆきなは助けを求めていたのだ。
 ――けど、ただの中学生で、愚かで、自分のことばかり考えていたあたしは、そのことには気づけずにいるのだった。

 結局、吉野はあたしの家に泊まった。ほかに、どうしようもない。同じ部屋に布団をもう一枚敷いて、さっさと電気を消してしまう。
 あたしたちはすぐ隣で寝ていたのだけど、特に女子トーク的なものは発生しなかった。あたしはそもそもそんな性格をしていないし、吉野はよほど疲れていたのか、すぐに眠ってしまったからだ。
 暗闇の中で様子をうかがってみると、吉野の呼吸は水中を漂うクラゲみたいにひっそりしていた。何というか、寝息まで美少女的ではある。
 夜が明けると、あたしは吉野に起こされた。いつのまに眠ったのかは自分でも覚えていない。枕もとの時計を見ると、昨日調べた日の出時間の三十分ほど前だった。障子の向こうには薄ぼんやりした光があって、部屋の中を灰色に照らしている。とりあえず、実際に太陽が顔を出すまで、あと三十分くらいはあるということだった。
 あたしと吉野は父親に勘づかれないよう、こっそりと一階まで下りて家を出た。吉野は昨日と同じ格好だった。同じ服を着て眠ったからだ。パジャマくらい貸そうかと言ったのだけど、吉野は頑として譲らなかった。慣れているからいい、と言うのだ。慣れている?
 吉野の家がどこにあるのかは知らないけど、あたしは自転車で送ろうかと提案してみた。昨日のコンビニまでだって、歩けばけっこうな距離がある。健康にはよさそうとはいえ、休日の早朝から長距離遠征みたいに散歩をするというのもどうかと思ったのだ。
「――ううん、大丈夫」
 けれど吉野は、首を振った。この美少女は、意外に頑固なところがある。
 仕方ないので、あたしはジャンパーだけ無理に貸しておくことにした。さすがにこの時間の冷たい空気の中を、昨日と同じ格好で帰す気にはなれない。あたしたちはこの世界で、我慢大会をやってるわけじゃないのだ。
 吉野はそれでも逡巡していたけど、「学校で返してくれればいいから」というあたしの言葉に、ようやくうなずいた。なかなか面倒な美少女ではある。
 それからあたしたちは早朝の、まだ誰もいないアーケードで別れた。すべてが眠りこんだみたいに静かで、夜のしっぽを踏んづけてしまえそうな時間のことである。それは、変に秘密めいた感じのする行為だった。
 あたしは歩いていく吉野のことを、けっこう長いあいだ眺めていた。叙事詩の一場面になりそうなくらい、長く。
 どうしてそんなことをしているのか、自分でもわからないまま。

 あたしたちはそれから、何となく親しくなった。
 といっても、休み時間になったらすぐいっしょになっておしゃべりするとか、昼食を同じ席に座って食べあうとか、そんなふうじゃない。あたしたちは相変わらずで、特に目立った行動はとらなかった。
 何というかそれは、同じ森に棲む二羽の鳥みたいな感じだった。広くて深い森の中で、同じ羽と同じ模様を持った鳥は、あたしたちしかいない。例え鳴き声を交わしたりしなくても、あたしたちだけはそのことを知っている。
 とはいえあたし自身としては、吉野に対して友情とか親愛とか、そういうものを覚えていたわけじゃない。むしろそこには逆に、はっきりした苛立ちみたいなものが含まれていた。
 素直に認めるわけじゃないけど、あたしは吉野に嫉妬していた――のだと思う。何しろ、彼女は美少女だ。それも、かなりの。それだけで、やっかみを覚えたり、不公平を感じたりするには十分というものだった。
 と同時に、あたしは彼女の弱さに対してもはっきりした反感を持っていた。吉野は大抵、いつもびくびくしていた。それこそ昔の中国で、天地が崩れてしまうんじゃないかと怯えていた誰かみたいに。でもあたしとしては、それだけ美少女で、人生にアドバンテージがあって、「何が不満なんだ?」と思わずにいられないのだ。
 そうしてあたしは、そんな自分に眉をひそめざるをえなかった。自分のせせこましさや、卑屈さや、身勝手さや、それがわかっていながらどうしようもないことについて。
 あたしが吉野に抱く感情は、だからそれなりに複雑なものだった。不思議な仲間意識や、共感、同情。それと同時に、もどかしさや、不満、劣等感――
 とはいえ、基本的には彼女の薄幸ぶりを無視することは難しかった。傷ついて弱った小動物を前にして、すぐそばを素通りするのが難しいのと同じで。吉野には、どこかそういう種類の弱さがあった。
 そしてそれは、彼女の家庭事情の一端を知るにつれて、強まっていく。
 ――ある日のことだ。
 あとで人伝に聞いたのだけど、あたしはその騒動についてリアルタイムでは知らなかった。だから吉野がその時にどんな顔をしていたのか、直接には見ていない。
 あたしはその時、体育の時間が終わって、そのあと片づけを手伝わされているところだった。体育委員でもないのにそんなことをさせられるのは、体育教師が陸上部の顧問で、あたしのことに目をつけているからだ。あたしは何故だか、足だけは速いのだった。
 体育会系らしい筋肉質な体つきで、誰に対しても底抜けの笑顔を浮かべて、「元気よく」と発破をかけるのが癖みたいな男性教師だった。元気よく、元気よく、ゲンキヨク――って、お前は元気病かよ、とあたしはしょっちゅう心の中でだけ毒づいていた。
 無駄な時間をくわされたあたしが、着替えを終えて教室に戻ってみると、どうも雰囲気がおかしい。しん、と静まりかえっている。まるで、世界の滅亡をかなりの確率で予言された五秒後くらいに。
 ふと吉野の姿を探してみると、彼女は自分の席にじっと座っていた。後ろ姿しか見えなかったけれど、その姿は赤道直下で太陽の光を浴びた吸血鬼みたいに、ちょっと触れただけで壊れてしまいかねなそうに見える。
 あたしは友達の一人に、何があったのか尋ねてみた。比較的に陽気で人の好いその子は、簡単に事情を説明してくれる。
 それによると、休み時間のあいだに吉野の父親が学校にやって来たらしい。話によると、派手な金髪で、ちょっと粗暴な身なりをしていたという。
 父親は職員室にまっすぐ向かうと、あたしたちの担任教師にいきなり罵声を浴びせかけた。廊下にまで響くくらい乱暴で、空気が割れそうな威圧的な声だったという。
 どうやら、吉野の父親は家庭訪問のことで不満があったらしい。転校生である吉野も、当然のこととして家庭訪問を受けていた。どういう状況なのかはさっぱりだけど、そのことで何やら文句をつけに来たらしい。
 たかが家庭訪問で、と言うしかないのだけど、ともかく吉野の父親にとっては腹にすえかねる事態だったらしい。およそ一方的で、偏執的で、自分にとって都合のいい意見だけを、相手の言葉を無視してまくしたて続けた。
 それは、暴力沙汰とか乱暴行為を常態にしている人間の特徴だった。聞く耳を持たなければ、相手を黙らせられれば、それでこっちの勝ちだ、と決めてしまうタイプの人間というのがいるのだ。
 結局、その騒ぎは校長先生まで引っぱりだされてとりなすところまで発展した。吉野の父親がそれで納得したのかどうかはわからないけれど、ともかく相当やばい人間だと周知させたことだけは事実だった。
 その時のあまりはっきりしない噂によれば、吉野の父親の息はアルコール臭かったという。
 吉野自身が今回のことをどう思っているのかは、よくわからなかった。あたしも、それからほかの誰も、彼女に直接訊いてみたりはしなかったからだ。騒ぎの種類が種類だけに、迂闊には触れられない。
 ただ、教室にぽつんと一人で座っている吉野は、ほとんど身動きというものをしなかった。授業中も、休み時間も、地面にはりついた影みたいにじっとしている。
 放課後になってもそれは変わらなかった。帰り支度をして部活なり何なりにさっさと教室をあとにするクラスメートの中で、吉野の時間だけが停止状態だった。このままだと、永遠にそうしていそうにも見える。
「――――」
 あたしはちょっとだけため息をついてから、彼女の席に向かった。そうして、言う。
「よかったら、これからあたしといっしょに来ない?」
 おもむろに上げられた吉野の顔は、機械人形みたいな無表情だった。

 看板には、スナック「櫂」と書かれている。
「――やーん、何この子、かわいい〜」
 と言いながら、ノリコさんは吉野に抱きついて頬ずりした。
 普段の吉野だったら、そんな露骨なボディタッチをされて平気だったかどうかはわからない。あたしだって、さすがにこれは耐えられなかったと思う。でも今の吉野はまだ死んでいるような状態で、死体は何も感じたりはしない。
 心神喪失状態の吉野は、ノリコさんの頬ずりを甘んじて受けいれていた。無我の境地もたまには役立つらしい。
 あたしたちは今、街中にあるとあるバーに座っている。バーといっても、ぱりっとした黒いベストに白いシャツを着込んだバーテンが、銀色のシェイカーを振るってカクテルを勧める、というような渋い店のことじゃない。アルコールのほかに軽食とかつまみを提供して、客がカラオケを歌うような、そういう低俗的かつ実用的な店のことだ。
 小さな飲食店だの、クリーニング店だのが並んだ一角にあるその店には、カウンターがあって、テーブル席が二つほどあって、あとはおしゃれなんて馬に蹴られて死んでしまえとばかりに、カラオケ装置の設置されたコーナーが隅のほうにある。
 あたしと吉野はそんな店内の、カウンター席に腰かけていた。当然のように薄暗い照明の中で、天井付近には何の効果があるのかよくわからないカラーボールが点灯していた。三原色の光の斑点が、洗濯機的な作業感を漂わせながらぐるぐる回っている。
 店にはあたしたちのほかに、テーブル席に二人のおっさんが座っていた。見事に、おっさんとしか言いようのない二人だった。平日のまだ昼間といっていいこの時間に、ずいぶん有意義な過ごしかたをしているものだ、とは言える。
「ほんと、絵に描いた餅ならぬ、絵に描いた美少女よね〜」
 ノリコさんは頬ずりを堪能したらしく、体を離してあらためて吉野のことを眺めながら言った。ノリコさんの発言にはいつも多少の天然が混じっているので、深く考えようとすると実に多元的な解釈が可能になる。
 この店のオーナー兼経営者であるノリコさんは、三十代半ばという妙齢の女性。伝統にしたがって「ママ」と呼ばれているけど、子供はいないし結婚もしていない。ただし離婚はしている。ふわふわした長い金髪に、猫みたいな細い目。今はクリーム色の緩めのチュニックにモスグリーンのスカートをはいていた。ノリコさんの制服というところだ。
 ノリコさんは独特の間のびした口調で続ける。
「この子、お店に飾ってもいいかしら? きっと似あうわよ。ピカソやゴッホやホッパーなんて目じゃないと思うな〜」
 後半はともかく、前半の発言は問題だった。確かに、吉野ならインテリアに最適かもしれない。そうなったら、店の売り上げにもけっこう貢献できるかもしれない。
 でも中学生が店で働くことは、そもそも禁止されている。世の中には労働基準法というものがあるのだ。そんなことをしたら、営業停止になりかねない。ホッパー――?
「たぶん本気だと思うから一応言っておくけど、ダメだからね」
 あたしは釘をさしておいた。
「何よ、けちんぼ。ところでこの子、カズちゃんのお友達?」
「まあそんなとこ」
「いいわね〜、カズちゃん。こんな美少女が友達にいて。私だったらあと四十六人くらい同じ美少女の友達がいたって、困らないわよ」
「赤穂浪士じゃないんだから、そこはもう一人足しておけば?」
 あたしはこれも一応、つっこんでおいた。ノリコさんを相手にすると、なかなか一筋縄ではいかない。
 その時、テーブル席のほうからお呼びがかかった。ノリコさんは、「はいはい、ただいま〜」と軽く手を振っている。
「それじゃ、二人ともゆっくりしていってね〜」
 ノリコさんはそう言うと、おっさん二人組みのほうに向かった。雲を踏むような頼りない足どりだったけど、たぶんそのほうが受けるのだろう。もしかしたら、ただの癖かもしれないけど。
「……すごいとこだね」
 と、ようやく吉野は言った。頬ずりが心肺蘇生の電気ショックみたいに効いたのかもしれない。ここに来るまでより、ずっと生気にあふれていた。少なくとも、二次元から三次元になるくらいには。
「ここ、あたしの馴じみの場所」
 あたしはカウンターのぶ厚い天板に頬杖をつきながら言った。
「何で、こんなところに?」
 吉野はきょろきょろとあたりを見まわしながら言った。何だか、魔女の城に囚われたいたいけなお姫様、という感じだ。
「母親の関係」
 と、あたしは説明した。ノリコさんとあたしの母親は同じ学校に通った友達で、その縁であたしは小学校の頃からこのバーを利用していた。子供にしてみればちょっと変わった遊び場みたいなもので、やましさやいかがわしさみたいなものは少しも感じなかった。
 それにノリコさんはああ見えて意外としっかりした人で、あたしが変な目にあわないよう、当時からずっと気を配ってくれている。
「ふうん」
 と吉野はわかったような、わからないような、不得要領な顔でうなずいた。気持ちとしては、わからないでもない。
 その時、カウンターの向こうであたしの前に人影が立った。見ると、ユウちゃんである。
 ユウちゃんは、この店で働く唯一の従業員だった。といっても、接客ではなく、料理や皿洗い、掃除、お酒の補充といった雑務一般を主に担当している。
 ややラフな感じのショートカットに、フェミニンというよりは凛々しいといったほうがふさわしい顔立ち。まじめで、どっちかというと理知的で、ノリコさんを毛糸とすると、木綿糸くらいの雰囲気をしている。エプロンスカートにスクエアタイ、ぱりっとしたシャツという格好。これも、ユウちゃんの制服というところだ。
「――――」
 たぶん、注文をとりに来たのだろう。ユウちゃんの様子から、あたしはそれを察した。
「ジンジャエール一つ、と……」
 あたしは吉野のほうをうかがう。
「……あの、わたしはその、ウーロン茶で」
 中学生にしては渋いリクエストだった。
「――――」
 ユウちゃんは無言でうなずくと、冷蔵庫のほうに向かった。それを見ながら、吉野はあたしに向かって小声で質問する。
「あの人、もしかしてしゃべれないのかな?」
 実のところ、そのことについてはあたしもよくわかっていなかった。寡黙とか、無口とかいうレベルじゃなく、ユウちゃんは口を開かなかった。実質的に、あたしはユウちゃんがしゃべっている場面に遭遇したことがない。
 それがどうしてなのかは、不明だった。そもそもあたしは、ノリコさんやユウちゃんの本名さえ知らないのだった。
「わからないけど、耳が聞こえてるのは確かだよ」
 とりあえず、あたしはそう答えておく。実際、そのせいで困ったことになったという記憶はない。人は案外、いろんなものがなくてもやっていけるものだった。
 やがてユウちゃんは、あたしたちの前に飲み物の入ったグラスを置いてくれる。ユウちゃんは口で言うよりはよほど雄弁に、にこりと一礼した。ごゆっくりどうぞ、ということだ。
 あたしはさっそく、ジンジャエールを口にした。ウイスキー用だか何だかわからないけど、こじゃれたグラスに入っているせいか、妙においしく感じられてしまう。中身はただの、市販のジュースなのだけど。
 ふと吉野のほうを見ると、彼女は何か思案するようにグラスを両手で抱えたまま、ウーロン茶の表面を見つめていた。まさか、昔に別れた男のことでも考えてるわけでもあるまい。
「何してんの?」
 と、あたしは訊いてみた。すると吉野は、困惑気味の顔で告げる。
「だって、わたしお金持ってないから」
「…………」
 あたしは無言のまま、もう一口ジュースを飲んだ。なるほど、そういう考えかたもあるわけだ。カウンターに頬杖をついて、あたしは言う。
「これはノリコさんの奢りだから、問題ないよ。友達の家で出されるのと、いっしょ。どうしても気になるんなら、出世払いのつもりでいればいいんじゃないかな。少なくとも、あたしはそう思ってる――時々は、だけど」
 あたしがそう言うと、吉野はなおもウーロン茶の表面を見つめていた。そうしていれば、過去や未来について有益なアドバイスでもしてもらえるみたいに。けどしばらくすると、覚悟を決めたらしくグラスに口をつけて傾けた。両手でグラスを抱えもったその姿は、白無垢の花嫁が盃をほしているように見えなくもない。
 まったく――
 あたしはその横で、比較的やさぐれた格好でジュースを口にしていた。もちろん、吉野の真似なんて逆立ちしたって無理な話だ。
 それから不意に、店内に音楽がかかった。どうやら、おっさん二人のうちのどっちかが、歌をうたうつもりらしい。実に荘重で、単純で、一本調子な曲が流れはじめる。演歌なんて、どれもいっしょにしか聞こえない。
 カラオケ装置の前に立ったおっさんは、小指を立ててマイクを握りながら熱唱した。ノリコさんが、曲にあわせて手拍子をとりながら体を揺する。実に無意味で、無意義で、無駄で、無害で、底の底まで平和な光景だった。
 あたしはそれを見ながら、吉野に訊いてみた。
「……あのさ、あんたの父親って、やばい人なわけ?」
 吉野はけっこう長いこと黙っていた。でもそれは、地球の裏側に沈みこんでしまいそうな沈黙じゃなかった。学校の時みたいにフリーズしてるわけじゃない。
 そのあいだも、呑気なおっさんの歌は続いていた。わりとうまい歌だ。「悲しや蜉蝣いのちを抱いて――」というあたりで、吉野は口を開いた。
「お父さんは、普段は別にどうっていうことないんだ」
 歩きはじめたばかりの子供みたいなたどたどしさで、吉野は言った。
「……でも、お酒を飲むと、何ていうか乱暴になるの。すごく、乱暴に。お皿とかテーブルとか、いくつも壊すし、それに、その……」
「殴る?」
 あたしが嫌な単語を肩代わりすると、吉野は精一杯の気丈さでうなずいた。
「飲まないときは、普通なの。ちゃんとしてるし、ちゃんと働きにもいける。でも飲んじゃうと、もうダメ。誰の言うことも聞かないし、すごくひどいことだってする。お母さんは、そんなお父さんのことを弱い人だから≠チて言うの。弱い人だから、支えてあげなくちゃいけない、優しくしてあげなくちゃいけない、って」
「…………」
「わたしには、よくわからない。もう何度も、同じ理由で転校もしてる。お父さんがケンカとか騒ぎを起こして、そこにはいられなくなって。ここでもまた、そうなるかもしれない。そしたら、やっぱりまたどこかに行かなくちゃならない。ここと同じどこかに」
 おっさんの歌は感動的なフィナーレを迎えていた。ノリコさんが盛大に拍手する。おっさんが照れたようにマイクをおくと、気温が何度か変化する感じで残響が消えいてった。あたしはジンジャエールをもう一口飲む。
「本当は、わたしはそんなの嫌。転校するのも、お父さんがお酒を飲むのも、何かあるたびにお母さんが知らない人に頭をさげるのも。わたしはどこかになんて行きたくない。わたしはどこかにいたい。――ねえ、間違ってるのは、わたしなのかな? わたしが間違ってるから、こんなふうなのかな?」
 もちろん、あたしには答えられなかった。あたしは預言者でも、救世主でも、神様でもない。だから、こう答えた。
「――さあね」
 あたしにわかるのは、それはあたしにはわからない、ということだけだった。
 その時、もう一人のおっさんがカラオケ装置の前に立って、マイクを手にとった。さっきのとほとんど同じの、題名だけが少し違う曲が流れはじめる。今度は、さっきより少しだけアップテンポな曲だった。
 そんな光景を眺めていると、世界は案外平和なところなんだという気がした。適当な量だけ酒を飲んで、下手な歌をうたって、みんなで手拍子をしていれば、誰もが幸せなままでいることができる。
 ――少なくともその時は、そんなふうに勘違いすることは可能だった。

 それからしばらくのあいだ、世界は確かに平和だった。変わったことは何も起こらず、物事は概ね満足すべき状態で、空は青く、白い雲が悠揚と流れていった。猫があくびでもしていそうな毎日だった。
 藤江洋品店は相変わらずの閑古鳥で、店番をする父親にこそはたきをかけたほうがよさそうなくらい暇だった。もしもハンガーにかけられた服たちが口をきけたら、悟りの境地に達するくらいの諦観を語ってくれたかもしれない。
 あたしと吉野は、何度かノリコさんのスナックを訪ねた。行くたびに、何か飲み物を奢ってもらえ、おっさんたちのどうでもいい会話や歌を聞くことができた。客が誰もいないときには、一曲歌ってみれば、と勧められたけど、二人とも断った。吉野は言うにおよばず、あたしも人前で歌をうたうなんてタイプの人間じゃない。
 そんなふうにして、ゴールデンウィークも過ぎていった。特にどこにも行かず、何もせず、ただ時間の流れにお椀を浮かべてのっかっているみたいな、優雅な毎日だった。およそ考えられるかぎりで、最大限に有意義な時間の使いかたではある。
 ゆるみきったゴムみたいな連休が終わったあとも、それは続いていた。あたしたちは空疎でとりとめがないとはいえ、凶事も災厄も不幸もない日々を生きていた。それはつまり、この世界でもっとも望ましい状態ということだ。
 でももちろん、本当はそうじゃなかった。世界はそれほど親切にはできていない。
「悪いことは、いつもとても静かに起こる」
 祖母はよく、そう言っていた。とても暗い声で、とてもしみじみとした声で。
 小学生の頃のあたしは、その言葉の意味や実感についてはほとんどわかっていなかった。祖母の口調や表情、それが語られる状況から、ただ何となく底気味悪さを感じとっていただけ。怖い話や、お化けの出てくる話と同じで。
 でも、祖母の言うことは正しい。
 あの時に起こったのは、つまりはそういうことだった。それはとても静かだったし、とても悪いことだった。
 ――あたしは今でも、そう思っている。

 それは、体育の時間のことだった。
 授業内容は面白くもおかしくもない「マラソン」。四百メートルほどの校庭を十周して、タイムを計る。スタート地点にはでかいデジタル時計も設置されていた。こんな備品を購入する予算があるなら、もっと別のところにまわして欲しい。
 二クラス合同授業で、人数だけはなかなか多い。先生たちの指示に従って準備体操をすませ、各自スタートラインに立った。午前中だったけど、陽ざしも気温もなかなかだった。太陽は小犬が駆けまわるくらいには元気である。
 かんだかい笛の音が響くと、みんながいっせいに走りだした。こういうのは、スタート直後だけはみんな元気なのだ。未来の苦労やしんどさを想像するのは、例え三十分後でも難しい。
 それでも一周回る頃には、走者の集団はいくつかに別れていた。足の速い少人数が先行し、大部分が中ほどでばらけている。最後尾はやる気がないか、鈍足のグループだった。
 前にもちょっと言ったけど、あたしは足だけは速い。たいして運動神経がいいわけでもないけど、かけっこは得意なのだ。あたしはトップ集団の何人かに混じって足を動かしていた。
 実際のところ、走るのなんて特にコツがいるわけじゃない。本当はいるのかもしれないけど、意識したことはない。できるだけ速く、強く、疲れないように足を動かすだけのことだった。あたしは走っているとき、不思議と集中力が増すのだ。いつも、ここじゃないどこかへ行きたい、と思っているせいかもしれない。
 規則正しく息を吐きながら、一定のピッチを保って足を動かす。そうすると、体が勝手に前へ運ばれていく。空気をかきわけて、景色が後ろに流れていく。
 一周目のタイムは、二分弱ほど。悪くないペースだった。
 異変に気づいたのは、二周目に入ってしばらくした時のことだ。
 吉野の姿を見かけた。彼女は中ほどの後方で、ぽつんと一人で走り続けていた。彼女の体力や運動神経がどれくらいなのかは知らない。深窓の令嬢みたいな古典的美少女よろしく、そういうのは不得意なのかもしれなかった。
 ただ、横を通りすぎるときにちらりとうかがってみると、彼女の様子はどこかおかしかった。顔色も冴えないし、わずかだが足をひきずっているようにも見える。
「――――」
 あたしは気になりつつも、そのまま走り去っていった。あたしは余計なお節介を焼くようなタイプじゃないのだ。
 それでも、三周目に同じ姿を見かけたときには、さすがに不安感を覚えた。同じ姿というか、吉野の状態は悪化しているように見えた。もう誰もいない最後尾を走っているし、走っているというより歩いている。露骨に足をひきずっているし、脂汗みたいなのもかいていた。顔面は蒼白に変わっている。
 あたしは通りすぎてしばらくしてから、立ちどまった。同じペースで走っていた何人かが、二段ロケットから切り離されるみたいにどんどん小さくなっていくのが見える。
 ちょっとため息をついてから、あたしは吉野のほうに引き返した。彼女はさっきの場所から、ほとんど動けていない。
「何があったか知らないけど、その足で完走は無理なんじゃない?」
 吉野は無言で、あたしのほうを見た。見る人間が見れば、不埒な劣情を抱いてしまいそうな、官能的かつ苦しげな表情をしている。
「保健室に行ったほうがいいんじゃないかな」
 あたしが提案すると、よほど状態が悪いらしく、吉野は反論も抵抗もせずにうなずいた。引っ込み思案と頑固も、緊急事態には勝てないらしい。
 右の肩を貸して、あたしは保健室に向かった。吉野は左足をひきずっている。そっちに何か問題があるらしい。この暑いのにわざわざジャージのズボンをはいているせいで、はっきりした原因はわからなかったけれど。
 体育教師に断ってから校舎に戻ってみると、授業中だけあって「しん」としていた。学校の一部だけが引っ越しでもしたみたいな静かさである。玄関で靴をはきかえようとすると吉野が痛がったので、スリッパを持ってくる。
 保健室には女の先生が一人でいるきりだった。ひっつめ髪にした、やけに陽気な四十代のおばさんである。金縁をした眼鏡をかけていた。たぶん、それは伊達ではないだろう。
「ありゃりゃ、一体どうしたんかい」
 その人――谷川(たにかわ)、とネームプレートには書いてあった――は、えらく大げさな仕草で吉野のことをのぞき込んだ。
 診察用のイスに座った吉野は、怯えたように少し身を引く。けど、ここまで来て逃げることなんてできるわけがない。それに、痛みも相当だったのだろう。
「その……足を、痛めて」
 錆びついたゼンマイを軋ませるみたいにして、吉野は言う。
「足のどの辺?」
「……ここです」
 言って、吉野は左足のジャージを裾のほうからめくった。
 谷川さんは立ちあがってから、見やすいように吉野の足を自分が座っていたイスの上に乗せる。それを見ると、吉野の左足には、足首に近い脛のあたりに青黒い痣があった。そうしてそれが、傍目にもわかるくらい腫れている。どうりで、走れないわけだ。
「こりゃ、ずいぶん派手にやったもんだわね」
 と、谷川さんは足をさすったり捻ったりしながら言った。吉野は軽く痛みにうめく。
「――骨折はしてないと思うけど、打撲と軽い捻挫ってところね。打撲のほうは、特にひどいみたいだわ。時間もたってるし」
 それが、谷川さんの診断だった。それから当然のこととして、谷川さんは訊いた。
「一体、どうしてこんなケガしちゃったわけ?」
「――――」
 一瞬、吉野は言葉に詰まったみたいに黙った。アクセルとブレーキを同時に踏んだ、という感じで。
 けどあたしには、その理由が何となくわかった。そして思ったのは、ここで本当のことを告げてしまうべきだろうか、ということだった。吉野が日常的にどんな目に遭っているか話せば、きっと大きな問題になるだろう。そうすれば、事態が少しは好転するかもしれない。
 もし、あたしがそうしていれば――
 とはいえ、それは今となってはわからないことなのだけど。
 あたしがもう少しで口を開きかけた、というところで吉野は言った。蝶の羽ばたきに似た、かすかな震えを帯びた声で。
「あの、よそ見をしていたときにぶつけちゃって――」
「うん?」
「友達と歩いてたときに、建物のでっぱりに気づかなくて」
 谷川さんは吉野の顔を見て、傷ついた左足を見て、それから考えぶかげに腕組みをしてから言った。
「ぼうっとしてたらいかんで」
 と、谷川さんはおかしそうに笑った。
「それにケガしたときに、早めに処置すべきだったわね。ずいぶん痛かったでしょ、その時」
「……はい」
「せっかくのきれいな足が台なしよ、これじゃ。まあ痣にはならないと思うから、安静にしてれば大丈夫」
 谷川さんは吉野の足をアルコールで拭ってから、湿布とテーピングを施した。それから、症状が悪化するようなら病院に行って詳しく診てもらいなさい、と助言する。
「ところで、何の授業だったの?」
「体育で、マラソンです」
 と、これはあたしが答えておく。
「ありゃりゃ、そりゃ無茶でしょ。走れるような足じゃないから、これは。円谷選手も真っ青だわね」
 円谷?
「まあ先生のほうには私から報告しておくから、あんたたちはここで休んでなさい……と、あんたのほうはどこも悪くないの?」
「あたしは薄幸の美少女って柄じゃないんで」
 谷川さんはあたしの言葉におかしそうに笑った。見ため通りの陽気な人ではある。
「あんたは授業に戻るなり、ここにいるなり、好きにしていいわよ。お友達も一人じゃ寂しいだろうしね」
 谷川さんはそう言うと、あたしたちの名前を聞いてから保健室を出ていった。部屋にはあたしたちだけが残され、急に自分たちの存在を思い出したみたいに静寂が戻ってくる。
 とりあえず、あたしは吉野をベッドのほうに移した。そこに座らせて、あたしも近くにあったイスに座る。それから、言った。
「あんたに友達がいたなんて知らなかったよ。少なくともそれ、あたしのことじゃないよね? あたしはあんたが足をぶつけたところなんて、見てないわけだし」
 吉野は顔をうつむかせて黙っていた。あたしは自分でもよくわからない種類のため息をついてから、言う。
「……それ、親父さんにやられたわけ?」
 しばらくして、吉野はこくんとうなずいた。人が動作として認識できる、ぎりぎり最低限のところで。
「何でまた――?」
 無駄かと思いつつ、あたしは訊いてみた。吉野はこの件に関しては、あまり話したがってはいないみたいだったから。
 けど、吉野は口を開いた。うつむいたままで。
「コップを片づけちゃったから」
「……?」
 意味がわからない。
「テーブルの上にコップが置いてあったから、洗って戸棚にしまったの。そしたら、お父さんがものすごく怒りだして。まだ使うつもりだったのに、人のものを勝手に片づけるやつがあるかって」
「……それで、殴ったわけ? あんたのことを」
 吉野はまた、小さくうなずく。
「でも普通、こんなにひどくはならないんじゃない?」
「バットがあったから」
 さすがに、言葉が出なかった。
 それからあたしは、不意に気づいて吉野の上着をめくりあげた。下着も肌もあらわになって、ついでにいくつもの痣や正体不明の傷痕も露出する。
 どうりで、着替えの時間にいつもみんなといっしょにいたがらないわけだ、とあたしは納得する。
 吉野の体の傷痕には、明らかに治りかけのものや、もうほとんど跡も見えなくなっているものもあった。つまりそれは、吉野の耐えてきた時間の長さを物語っている、というわけだった。積み重なった地層が、地球の歴史を表しているみたいに。
「…………」
 黙ったまま、あたしはそっと上着を元に戻した。吉野はそのあいだ、じっと動かなかった。何だか、死体を棺桶に戻して、地面に土をかぶせているみたいな気分だった。
 あたしたちはずいぶん長いあいだしゃべらなかった。電気が消されて薄暗くなった保健室には、窓からの光が透明な砂粒みたいに注ぎこまれている。時々、正体不明の物音がどこかから聞こえてきた。
 よほど時間がたってから、あたしは訊いてみた。
「どこか、行きたいところは?」
 吉野は珍しく、ほとんど即答した。
「――海へ」

 というわけで、あたしは計画を立てた。もちろん、海へ行くための。
 はじめは、バスにしようと思った。何しろ、けっこうな距離がある。でも調べてみると、バスだと四回も乗り継ぎをしなくちゃならないうえ、運賃もバカにならない。あたしはそれほどの金満生活を送っているわけじゃないのだ。たぶん、吉野のほうも。
 父親に車で送ってもらう、というのは論外だった。あのひげ親父に頼みごとなんてしたくはなかったし、吉野のことを紹介するなんてもってのほかだ。あの男のゆるい脳みそでは、きっと吉野の境遇なんて理解できないだろう。
 そこで考えたのは、自転車だった。距離的には十分可能だったし、何といってもこれなら無料(ただ)だ。
 もちろん、足をケガしている吉野には無理だった。あの腫れはそう簡単には治らないし、捻挫を悪化させるおそれだってある。けど幸い、自転車には二人乗りという裏技がある。交通法には違反するけど、背に腹は変えられない。
 そんなわけで、休日の昼すぎ、あたしは吉野の家の前までやって来た。待ちあわせの場所は別で、住所も教えられていなかったけど、連絡簿で調べたのだ。
 見つからないようそっとうかがってみると、それはいわゆる低所得者層′けの市営住宅だった。コンクリートで造られた細長い箱みたいな建物が、二棟並んでいる。一棟につき、五軒が入居可能。どっちも平屋で、玄関前には洗濯物が干されていたり、植木鉢が置かれていたり、三輪車が転がっていたりした。建物の壁面には、区画番号らしきものが印字されている。
 だからどうだというわけでもないのだけど、あたしはそれだけのことを確認すると正規の待ちあわせ場所に戻った。何の変哲もない、近くにある小さな公園の前である。
 吉野はしばらくすると、約束の時間の五分前に現れた。早すぎも、遅すぎもしない時間だった。まあ、予想通りというところではある。
 軽く挨拶してから、あたしは吉野の格好を眺めた。
 何というか、わりと個性的な服装だった。スウェットパンツというか、ボンタンパンツというか、わりとだぼだぼしたズボンに、やけに光沢のあるジャケットを着ている。さすがの美少女ぶりも、一割減というところだった。何でも、母親のお下がりらしい。
 一方のあたしはというと、パーカーにショートパンツというごく普通の格好だった。できれば服を交換してやりたい気もしたけど、たぶん気の迷いだ。
 その代わり、というわけではないのだけど、あたしはかぶっていた帽子を吉野の頭にのせてやった。陽ざしはけっこう強かったし、移動時間もけっこう長くなる。人類の損失という観点に立てば、こうするのが正解というものだった。
 吉野は帽子のつばを押さえながら、いつもの遠慮がちな笑顔を浮かべた。
「ありがとう、和佐ちゃん――」
 吉野から「和佐ちゃん」と呼ばれることには、不思議と抵抗がなかった。ほかの人間だったら、たぶん軽い拒否反応を示していただろうけど、吉野の場合はむしろ、変な面映ゆさを感じた。美少女の特権というものかもしれない。
 ともかくも、あたしたちは出発することにした。この日のために、あたしのクロスバイクには多少の手が加えられている。キャリアーを装着し、ハブステップを取りつけたのだ。
 もちろん、どっちも二人乗り用の装備なんかじゃない。キャリアーの乗り心地や積載加重は人間用には出来ていないし、ハブステップはそもそも足を乗せるための部品じゃなくて、転倒したときにギアを傷つけないようにするためのものだ。
 けどまあ、水は低きに流れるのが物事の道理だった。便利な道具があれば、多少本来の目的とは違っていても利用される宿命にある。
 あたしはクロスバイクにまたがると、吉野を後ろに乗せた。楽な位置になるよう何度か試運転してから、さっそく出発する。
 足のことでもわかるとおり、自慢じゃないけどあたしは体力には自信がある。距離はそれなりとはいえ、海までの道はほぼフラットだった。人を乗せて走るのがきつくないといえば嘘になるけど、無理というほどじゃない。それに吉野は美少女効果なのか、ほかの理由によるのか、小鳥みたいに軽かった……というのは言いすぎだけど。
 あたしは前もって設計しておいた経路を、えっちらおっちら走っていった。直線でスピードが出ると、吉野の長い髪が風の形といっしょに乱れた。それは不思議と愉快な感じがして、たぶんそれは吉野も同じだった。
 途中、少しだけ道に迷ったり、上り坂を歩いたり、休憩したりしながら、あたしたちは徐々に海へと近づいていった。平野には田んぼが広がって、その向こうには息を胸いっぱい吸い込んだみたいな青空が浮かんでいる。
 ――自転車のスピードに、悩みごとはついてこなかった。
 予定よりは少し遅れたけど、やがてあたしたちは海岸に到着した。幸い、警官に二人乗りを見とがめられるようなことはなかった。世界はけっこう広いところではあるし、税金も警官の数も有限なのだ。たった二人の中学生が交通法規に違反しているところまでは取り締まれない。
「――――」
 海岸線に沿った防潮堤の向こうを眺めると、砂浜が一キロくらいにわたって続いていた。さらにその向こうには、白い波濤を立てて、黒々とした海が広がっている。
 あたしも吉野も自転車を降りて、砂浜に続く道を探した。波と風の音が強くて、何のためかよくわからない幟がばたばた揺れている。体が引きちぎれそうなところを必死に耐えているような、雄々しい幟だった。
 やがて道がそのまま砂浜に続いているところがあって、あたしたちはそこを進んでいく。自転車には鍵をかけて、その辺に転がしておいた。こんな砂の上を走れたもんじゃない。
 海岸には、ほとんど人の姿はなかった。まだまだ海水浴のシーズンじゃないし、そもそも人はこんな場所になんて来たりはしない。何故なら、ほかにもっときれいな場所、もっと面白い場所があるからだ。ディズニーランドに行ける人間は、それを避けてまであえて地方の寂れた遊園地になんて行ったりはしない。
 砂に足をとられながら、あたしたちは浜辺を歩いていった。砂の上には貝殻の欠片や、半分以上骨になった魚の死骸や、馬の蹄の跡があったりした。馬の蹄? 近くに乗馬クラブがあったから、蹄はそのせいだろう。まさか例の八代目将軍様がこっそりご来訪なさったわけでもあるまい。
 波打ち際までやって来ると、風が猛って、白波が唸っていた。波が引いたりよせたりするたびに、海の噛み跡みたいな黒い線が残されていく。縹渺たる景色というやつだった。
 あたしたちは特に何をするでもなく、その場所で思いおもいに時間を過ごした。意味もなく手のひらから砂をこぼしてみたり、白く泡立った波の先端に触れてみたり、水平線の丸みを実際に確認してみたり――
 どうして吉野が海になんて来たがったのか、理由はよくわからない。何か特別な思い出でもあるのか、たんに海が見たかっただけなのか、それとももっと複雑な事情でもあるのか。
 でも、とにかく吉野は海に来たがった。どこに行ったって同じだと、本心からそう言っていた彼女が、ともかくも海に来たがった。だからここに来た理由としては、それで十分なんだと思う。
「――――」
 あたしは海の始まりと陸の終わりに立つ、彼女の姿を眺める。
 強い風に吹かれ、じっと海面を見つめる吉野の横顔は、それが化けの皮みたいなものにすぎないと知っているあたしが見ても、思わず呼吸をとめてしまいそうなくらい、きれいだった。そこには心臓を小さな針でつかれるくらいの、物理的な痛みさえ存在していた。
 ――吉野ゆきなは、確かに美少女だった。
 あたしは足を投げだして、砂浜に腰をおろした。夏場とは違って、砂はかすかにひんやりとしている。
「ねえ、吉野――」
 と、あたしは呼びかけた。吉野はこっちを向く。
「満足した?」
 そう訊くと、吉野はにこりと笑ってみせた。たぶん、今までで一番自然な笑顔だった。
「うん、満足した」
 あたしは重ねて訊く。
「どこかに行くのも、悪くないでしょ?」
 すると吉野は、一度自分に質問するように間をとってから、言った。
「……うん、悪くない」
 あたしはけたけたと笑った。吉野のそんな答えが聞けて、あたしも満足だった。
「…………」
 少し強く波がよせてきて、吉野の足元を洗った。彼女は澄明な瞳で、寂寥とした海の彼方を見つめている。
 それから、吉野は言った。

「――ねえ、和佐ちゃん。わたしといっしょに死んでくれる?」

 あたしはしばらくのあいだ、黙っていた。吉野の瞳はとても真剣で、とてもきれいだった。あたしはどう答えていいかわからなかった。
 けど、言葉は自分でもよくわからないところから形になって浮かんできた。あたしはほとんど間を置かずに答えていた。
「それは、あたしの主義じゃないから」
 言ってから、あたしは自分の発言の意味を吟味する。まるで、他人の口がしゃべった言葉を考察するみたいに。でもそれは、あたしにとっては間違いなく正しい答えだった。
「…………」
 吉野はもう一度やって来た波の先端を、今度は自分からそっと踏みつけた。波はその場所にとどまることもなく、さっさと海のほうに戻ってしまう。
「……そっか、残念」
 小さくつぶやくように、吉野は言った。ほんのかすかな、笑顔の名残りみたいなものを浮かべながら。
 あたしはぼんやりとそんな吉野を見ながら、さっきよりも強く胸の痛みを感じていた。そこに手を触れると、血の跡さえつきそうだった。でもそれを吉野に見せることはできなかった。
 世界はそんなあたしたちに、無関心でいる。海も空も雲も太陽も、みんな大きすぎてあたしたちになんて気づいたりしない。風は何も教えてくれることなく通りすぎていった。
 すべてのものが移っていく世界の中で、あたしたちだけがどこにも行けず、その場に留まっていた。

 それからしばらくして、あたしたちは来た道を戻っていった。
 つまりは、差し引きゼロだ。結局は、最初の場所に戻ってくる。もちろんそこには、かすかな違いがある。プラスかマイナスかはわからないにしろ、ほとんどゼロに近いくらいのかすかな違いが。
 家路をたどるうち、いつもの見慣れた風景が広がりはじめていた。その頃にはだいぶ時間も遅くなって、日没が迫りつつある。あたしたちの背後には、やけにまっすぐな光を投げてくる夕陽があった。それはまるで、世界にでかい穴でもあいているみたいだった。
 あたしは肩に置かれた吉野の手の温もりを感じながら、自転車をひた走らせた。時々、彼女の小さな鼻歌が聞こえてくる。世界を軽く聖別してしまいそうな、きれいな鼻歌だった。
 たぶんその日は、あたしが一番きれいだったとき≠セった。あたしたちが一番きれいだった、一日。
 やがてあたしたちは、それぞれの場所に戻っていった。それぞれの家、それぞれの家庭、それぞれの家族。
 別れ際、あたしたちはそっと手を振った。何かを壊してしまわないように、そっと。お互いに、「さよなら」は言わなかった。きっとまたすぐに、会えると思っていたから。

 ――そしてもちろん、あの日がやって来た。

 夜中、シャッターを叩く音に気づいた。十時頃のことだ。
「……?」
 あたしは読んでいたマンガを放りだして、耳を澄ませた。もう一度、聞こえる。風のせいではなさそうだ。それは切迫していると同時に、ひどく遠慮がちな音だった。
 部屋を出て、階段を下りる。父親は商店街の寄りあい(という名前の飲み会)に出かけて留守だった。一階で店の電気をつけるあいだに、もう一度音が聞こえる。一体誰がこんな時間にやって来たのか、見当もつかなかった。誰かが訪ねてくる予定もない。
 あたしは店のドアを開け、シャッターの鍵を外した。物音に気づいたのか、誰かはシャッターを叩くのをやめたようだった。あたしは訝しみつつ、がらがらと音を立ててシャッターを上げる。
 夜の暗闇、店の明かりの中には、吉野が一人で立っていた。
「――どうしよう?」
 彼女はがたがた震えていた。
 血のついた包丁を、その手に握って。

 ともかく、あたしは吉野を自分の部屋まであがらせた。まさか、あのまま店の前になんて立っていられない。
 吉野から包丁を手放させるのには苦労した。体ががちがちに緊張しているし、小刻みに震えてもいる。あたしのほうまで危ない。手を押さえて、指を一本一本ひきはがすようにして、ようやく包丁を取りあげた。
 あらためて眺めてみると、包丁にはかなりの血がついていた。先端から、三センチくらいだろうか。ほとんどの血は乾いて、黒っぽく固まっている。遠くから見れば、錆びに見えないこともない。
 ただし、何の血液かはわからなかった。それを言うなら、本当に血かどうかも。
 ――いや、やっぱり間違いないだろう。
 あたしはちょっと迷ってから、その包丁をビニール袋に入れて、店にあった空き箱の一つに収めておいた。証拠品、ということになるのだろう、たぶん。どうなるのかはわからないけど、勝手に処理してしまうわけにもいかない。
 そのあいだも、吉野はあたしの部屋でぶるぶる震えていた。多少は落ち着いてきたのか、振動レベルは下がってきている。それでも視線は釘で打ちつけられたみたいに一点に定まって動かなかったし、硬直した体は握り拳を作ったままだった。
 吉野はいつかのコンビニの時と同じ、飾りけのないワンピースという格好だった。彼女の普段着なのかもしれない。そのワンピースには明らかな乱れがあって、よく見ると返り血らしいのが点々と付着している。
 とりあえず、あたしはその背中にシャンパーをかけてやった。わりと冷える夜だったからだ。震えているのは、そのせいもあるのかもしれなかった。
 それから、苦労して事情を聞きだす。実際、スエズ運河を開鑿するほどじゃないにしろ、それはずいぶんな難事業だった。吉野自身が混乱していることに加えて、この期に及んでもその時のことを話したがらなかったせいだ。
 それでも何とかかんとか話を整理すると、どうやらこういうことらしい。
 今日は父親の機嫌がことさらに悪かった。すぐ怒鳴りつけるし、物も壊すし、どうやら仕事で何かあったらしい(どうせろくなことじゃないのだろう)。帰ってくるなり酒を飲みはじめて、すぐに酩酊状態になった。そのうち酒が切れて、騒ぎはじめた。仕方なく母親が酒を買いにいって、家には吉野と父親の二人だけが残された。
 その時の父親がどこまで本気だったかは、わからない。酒に酔って自制心をなくしていたのか、何かの記憶を混同していたのか、正しい認識を欠いていたのか。
 母親がいなくなってしばらくしてから、父親の息が次第に荒くなりはじめた。ちらちらと吉野のことを眺めては、残った酒をくらっている。
 やがて、父親の目がすわって、奥行きを失い、黒く塗りつぶされた。彼は立ちあがって吉野のほうに近づいてくると、その手をつかんで押し倒した。
 吉野は抵抗した。父親はやめなかった。父親は脅したり、すかしたり、懇願したりした。手つきはいっそう生々しくなった。そのごつごつした手は、吉野の胸をまさぐりながら、下腹部に向かった。
 その時、吉野は必死の力で身をふりほどいた。台所まで逃げると、父親は追ってきた。本能的に、その場にあった包丁をつかんだ。父親は悠々と迫ってきた。刺されることなんてない、とたかをくくっていたのだろう。
 そこからの数瞬は、はっきりしない。
 吉野と父親はもみあいになった。体が上になったり下になったりした。包丁は手放さなかった。ある時点で、その包丁に手応えがあった。気がつくと、父親の脇腹にそれが刺さっていた。
 父親はきょとんとした。酒のせいで痛みはなかったかもしれない。それでもひっくり返って、あおむけに横になった。吉野はパニックになって、包丁を引き抜いた――一番、まずい処置だ。
 出血が激しくなって、父親の服がみるみる赤く染まった。父親は何かうめきながら、憎悪と哀願と苦痛の混じった目で吉野のことを見た。血のついた手をのばしてきて、吉野の頭は真っ白になった。
 気づくと、吉野は家を飛びだしていた。血のついた包丁は持ったままだった。怖くて、戻る気にはなれなかった。誰かに助けて欲しかった。誰でもいいから、この場所から救って欲しかった。
 ――それが、吉野の話のおおまかなところだった。
 実際にはもっとごちゃごちゃしていたし、細かかったのだけど、話の筋に違いはない。これでもずいぶん、簡潔にはしょったほうなのだ。
 いずれにせよ、このままで済む話じゃなかった。身を守るためとはいえ、吉野は人を刺した。それも、実の父親を。彼女は血に染まった包丁を握っていたし、その服には同じ血が滲みこんでいる。
 あたしの前で、吉野はまだ身を固くしていた。小さく、小さく、まるでそのまま消えてしまえればいいと思っているみたいに。そうして時々、歯がかちかち鳴るのが聞こえる。
 しばらして、彼女は震えの隙間をぬうみたいにして言った。
「――どうしよう?」
 とはいえあたしとしても、どうしていいかはわからなかった。

 あたしは吉野を連れて、スナック「櫂」に向かった。
 頼れるような場所を、ほかに思いつかなかったのだ。このまま中学生二人で警察に出頭する勇気はなかったし、うちの親じゃ話にならない。学校なんて論外だ。
 結果、思いついたのがノリコさんのところだった。何の根拠もなかったけれど、職業柄こういうことに少しは詳しいんじゃないか、と思ったのだ。
 あたしはスナックの裏口にまわって、ドアを叩いた。かなり乱暴に。あたしは吉野ほど上品な人間じゃないのだ。
 一度ノックしてから、もう一度ノックしようとしたところで、ドアが開いた。入口にはユウちゃんが立っていた。店の明かりは薄暗くて、その場所は汽水域みたいに夜の暗闇と混ざりあっていた。
 ユウちゃんは無言で首を傾げた。まあ、当然だろう。けどあたしが何か言う前に、後ろの吉野に気づいたらしい。吉野はまだ小さく震えて、目は見開き、歯の根があわずにいる。それで異状を察したらしく、すぐにあたしたちを中に入れてくれた。
 幸いなことに、と言うとあれだけど、店内に客の姿はなかった。もちろん、このほうが話がしやすい。店の経営状態には悪いけど、あたしたちにとっては好都合だった。
 ノリコさんの姿を探すと、カウンター席に座って煙草をくゆらせながら無聊をなぐさめていた。あたしたちのことに気づくと、「あらあら、こんな時間に来ると補導されちゃうわよ〜」と妙にリアルなことを言う。
 あたしは吉野に目配せしてから、ノリコさんの前に座った。とりあえず、吉野のほうは話せる状態じゃなさそうなので、あたしが簡単に事情を説明する。吉野の家庭状況、酒飲みの父親、その父親を刺したこと――
「ふうん」
 と、ノリコさんはわかったのかわからないのか、煙草を灰皿でもみ消しながら言った。何だか水を入れすぎたカルピスみたいに薄い反応である。やっぱり、相談相手の選択を間違えたんだろうか。
 そう思っていると、ノリコさんは言った。
「だったら〜、ユウちゃんに聞いてみれば?」
「……何でまた?」
 鏡はなかったけれど、あたしは自分が相当すっとんきょうな顔をしているのがわかった。鳩が豆鉄砲をくらったみたいに。
 けど、ノリコさんは意に介したふうもなく、相変わらずのマイペースで続ける。
「だって、ユウちゃんてば元警察官だから」
 あたしは目をぱちくりさせた――と、思う。今度は鏡がないとわからなかった。鏡があってもわからなかったかもしれない。
 そんなあたしを尻目にして、ノリコさんはさっさと話を進めていた。
「とりあえずここじゃなんだから、上で話したほうがいいんじゃないかな〜。いつお客さんが来るかわからないし、そうなったら困るでしょ」
 確かに、その通りだった。けど何だか話についていけなくて、まごついてしまう。そんなあたし――と、吉野――に対して、ユウちゃんは首だけ振って行き先を誘導する。ほかにはどうしようもない。野になるか山になるかわからなかったけど、あたしたちはそのあとについていった。
 あたしが店をあとにするとき、ノリコさんはいつもの調子で笑顔を浮かべて言ってきた。
「――ゆきなちゃんみたいなこと私も覚えがあるから、できるだけ力になってあげてね、カズちゃん」
 裏口から出て店の横にまわると、外階段がくっついていた。街灯のおぼつかない明かりで、かんかん音を立てながら上っていく。蹴破るのに都合のよさそうな薄い木の扉を開けると、ユウちゃんは中に入っていった。
 入口の横にあるスイッチを押すと、明かりがつく。何だか荒い紙やすりで削ったみたいな、ざらざらした質感の光だった。そこは店の物置のような場所なのだけど、今はユウちゃんが寝泊りするのに使っている、ということだった。
 一階の半分くらいの広さで、壁の棚にダンボールやお酒の備蓄、床の上によくわからないガラクタなんかが転がっている。入口近くの一角に小さなスペースを作って、たたみ三畳の上に卓袱台、ほかにベッドや小ぶりのタンス、化粧台なんかが置かれていた。
 元々、生活空間として設計されていないだけに、ひどくうらぶれた雰囲気ではあった。何だか、核戦争後の避難シェルターという感じでもある。
 あたしたちとユウちゃんは、卓袱台を囲んで畳の上に座った。一つだけあった座布団には、吉野を座らせる。まだショックが抜けきらないらしく、吉野は大人しくされるがままだった。
 そうして話をする準備が整ったところで、あたしたちはユウちゃんについての新しい秘密を知ることになった。
「――じゃあ、順を追って話してもらおうかな」
 そう言ったユウちゃんの声を聞いて、あたしは口をぽかんと開けてしまった。吉野でさえ、驚いて顔を正面から見つめている。
 ユウちゃんの声は、低く、野太く、割れていた。ごろごろした山の岩肌みたいに。それは、まるっきり――男性のものだった。
 想像していたとおりの反応だったのだろう。ユウちゃんは意外な顔もせず、嫌な顔もせず、訓練された冷静さで言った。
「まず、はっきりさせておかなくちゃいけないけど、私の本名は大岡裕二(おおおかゆうじ)といいます。もうわかってると思うけど、生物学的な性別は男なの」
 それはいわゆる、性同一性障害というやつだった。脳は女性で、体は男性。もしくは、その逆。それは間違った容器に魂をつっ込まれたみたいなものだった。サイズも形もあわないその容器を使おうとすれば、容器そのものを壊してしまうか、魂のほうを切り刻んでしまうしかない。
 ユウちゃんは――大岡裕二さんは、それなのだという。どうりで、しゃべらないはずだった。
 とはいえ、今はそれどころじゃない。悪いけど、当面のさしせまった問題のほうが重要だった。
「お父さんを刺した詳しい経緯について、話して欲しい」
 ユウちゃんにうながされて、吉野はとつとつと語りはじめた。吉野はある程度落ち着いていた。ユウちゃんのカミングアウトで、ショックがいくらか相殺されてしまったらしい。それに説明そのものは二回目になるので、あたしに話した最初の時よりずっとすっきりしている。
 話を全部聞いてしまうと、ユウちゃんはまず吉野の母親の携帯番号を聞いた。状況的に、今頃はもう母親が、刺されて血を流す父親を発見しているはずだった。どうなったか、確認しなくてはならない。
 知らない人間からの電話だったはずだけど、吉野の母親はすぐに通話をつないだ。たぶん、思うところがあったのだろう。何せ父親が刺されて娘が行方不明という、危機的状況だったのだから。
「私は、大岡という者です」
 と、ユウちゃんは完全に男のほうの声で、まずは名のった。当たり前だけど、ここで込みいった事情を説明している余裕はない。
 ユウちゃんはそのまま、電話でしばらくやりとりを続けた。吉野が声を聞かせたこともあって、吉野の母親(静(しずか)さんという)はとりあえずユウちゃんのことを信用することに決めたらしい。「――はい」とか、「――それはまだ難しいですね」とか、「――ええ、私もそう思います」といった会話が続く。
 火星と通信するようなまどろっこしいやりとりの中で、刺された父親の命に別状のないことがわかった。今は病院にいて、治療を受けているらしい。意識もはっきりしていたという。
「警察には、もう?」
 というユウちゃんの質問に対しては静さんはまだ、と答えたみたいだった。
「今、どこに? あとでそちらに向かいます」
 と、搬送先の病院の名前を聞いたあとで、ユウちゃんは電話を切った。とりあえず、目下のところ必要な情報は手に入った、ということだろう。
 ガラスの上の水滴と水滴がくっつくようなわずかな間があってから、吉野は訊いた。
「わたし、これからどうなるんですか?」
 父親の生存は一種の朗報だったけど、もちろんそれで問題のすべてが解決したわけじゃない。やむをえない事情があったとはいえ、吉野が父親を刺したのは事実だった。それにだとしても、もっと厄介な問題が残っている。
「とりあえず、法律的な話をしようか」
 と言って、ユウちゃんはこれからの一般的な流れについて説明してくれた。
 十四歳以上にあたる吉野は、法律的には少年法によって裁かれることになる。これは通常の刑法と違って、「少年」(法典にちゃんとそう書いてある)の保護や更生を主目的として裁判を行うものだ。
 全件送致主義といって、非行によって逮捕された「少年」は必ず家庭裁判所に送られて、そこで少年審判を受けることになる(非行そのものが認められない場合などは例外)。審判では、裁判官、調査官、本人や保護者、場合によっては弁護士(付添人と呼ばれる)によって話しあいが行われる。ドラマなんかで見る裁判とは違って、非公開。
 そこでの処分は、大きく三つ。
 非行の態度が悪質なために事案が検察に戻される、逆送。とりあえずは問題なしと判断される、不処分。それから「少年」の環境などに問題ありと認められた場合の、保護処分。
 吉野の場合、三番目の保護処分に該当する可能性が高い、ということだった。いわゆる少年院に送られるのも、この中に含まれている。
「君の場合、おそらく児童相談所に行くことになると思う」
 と、ユウちゃんは言った。
 しばらくのあいだ、誰も何も口をきかなかった。知らないうちに世界の終わりが通りすぎてしまったみたいな静かさだった。一階に客がやって来たのか、からんからんとカウベルの音がする。
 やがて、吉野は言った。
「それが一番良い方法なんですか?」
 粛然とした様子で、ユウちゃんは答えた。
「――それが一番良い方法だね」

 それが、一番良い方法だった。
 吉野とあたしたちはいったん病院へと向かい、そこで静さんと合流した。今後のことについて相談し、ユウちゃんのプランを了承してもらうためだ。
 病院の待合室で初めて会う吉野の母親は、多少やつれてはいるけど、美人の面影がはっきり認められる人だった。細身で、長い髪を少しだけ染めていた。若い頃は吉野にそっくりの美少女だったのだろう。
 ユウちゃんからの説明を受けた静さんは、長いこと黙っていた。あまり現実的とは言えないけど、このまま家庭内で問題を秘匿してしまう、という手もあった。裁判沙汰になれば、今までどおりの生活を続けていくのは不可能だろう。
 例え自分たちがどれほど間違っているとしても、それを自分で否定してしまうのは難しい。
 でも吉野の母親にしても、今がどういう状況かはわかっていた。自分たちを壊してしまうのは難しいけど、たぶん本当はずっと前から壊れてしまっていたのだ。割れた皿をいくら形だけくっつけてみても、手を離せばそんなものはすぐ元に戻ってしまう。
 静さんは吉野のことを見た。服の返り血や、見えない体の痣、その幼さなんかを。その視線にはたぶん、遠くの過去をかすかにのぞく目と、確かに愛情と呼ばれるものが含まれていた。
 結局、彼女はユウちゃんのプランに従うことにした。警察に出頭し、裁判を受け、しかるべき処置を受ける。
 吉野と静さんがもよりの交番に向かう前に、あたしは吉野と少しだけ話す機会があった。二人だけで、階段近くにあるちょっとしたスペースの、自動販売機の前にたたずむ。非常灯だけの薄暗い病院で、自動販売機の光が無関心に存在を主張していた。
「――大丈夫?」
 あたしはあまり、気が利いているとはいえない質問をした。とはいえ、ほかに言葉は思いつかない。
「うん――」
 と吉野はうなずいた。もちろん、今回のことで吉野はどこにも傷は受けていない。傷は、本来それを受けるべきだった人間が受けた……はずだ。
「これで、親父もちょっとは懲りるといいんだけどね」
 あたしはわざとふざけた調子で、明るく言った。そうでもしないと、やりきれない。
「……かもしれない」
 少しだけ笑いながら、吉野も同意した。「もっと早く、こうすべきだったのかも」
「どうせなら、バットで殴ってやればよかったのにな」
 あたしは同じ調子で続ける。
「頭のあたりを、思いっきり。そうすりゃ、かえってまともになったかも」
「今度やるときは、考えとく」
 吉野が澄ました顔でそう言ったので、あたしは笑った。よかった、少しは元気になってきたみたいだ。
 それからしばらく、あたしたちは黙っていた。自動販売機の低いうなり声が聞こえる。今すぐ世界が滅びたとしても、少なくとも飲み物の心配だけはしなくていいわけだ。ほかのすべての心配事が、それでどうなるわけではないにしろ――
「ねえ、和佐ちゃん」
 吉野は不意に、星の数でもかぞえるみたいにして言った。
「これからも、わたしと友達でいてくれる?」
 その問いに、あたしは即答しなかった。もちろんそれは、すぐに答えられる簡単な質問だった。訊かれるまでもないことなのだから。でもあたしとしては、彼女のその言葉の意味や、重さや、形を、しっかり受けとめておきたかったのかもしれない。それで、すぐには答えなかったのかも。
 本当のところは、自分でもよくわからない。
「――もちろん」
 と、あたしはできるだけにやっとして言った。
「あんたのほうが嫌だって言っても、あたしは勝手にそう思ってるから」
 そう言うと、吉野はあくまで上品な感じに笑った。控えめで、淑やかで、柔らかく。吉野ゆきなはやっぱり、美少女だった。
 あたしは何かを伝えておきたくて、彼女の助けになるようなものを手渡しておきたくて、けど何も思いつきはしなかった。人間はコンビニみたいに都合よく、何でもかんでも用意しておくわけにはいかない。結局、あたしの口から出てきたのは、こんな陳腐な言葉でしかなかった。
「あんたなら、きっと大丈夫だよ」
 吉野はこくりとうなずいて、言う。
「うん――」
 そうして、あたしたちは別れた。吉野と静さんは交番に向かって歩いていき、あたしとユウちゃんもそれぞれの家へと戻っていく。
 実質的に、それがあたしと吉野の会った、最後の時だった。その時は想像もできなかったけど、あたしと吉野はもう直接顔をあわせることはなかったのだ。

 ――だから、これから語る吉野ゆきなのその後は、主として彼女からの手紙によって成りたっている。
 まず、出頭した吉野は一般的な手続きにしたがって拘置所での勾留を受けた。犯人をただ閉じ込めておくためだけの、愛想のない場所だ。通常は捜査終了まで十日ほどをここで過ごすのだけど、事件そのものの内容や年齢を考慮されて、吉野はすぐに少年鑑別所のほうに移されている。
 少年鑑別所というのは、裁判(少年審判)を行うまでのあいだに、「少年」の家庭環境やら精神状態やらを調査するための場所だ。軟禁状態だったり、服が支給されたジャージだったりするけど、基本的にはそう悪くないところである。
 最長十週間(通常は四週間程度)のこの期間に、裁判官が処分を決定するための情報が集められる。検察の調査官と呼ばれる人が、「少年」の周辺情報を精査するのだ。精査というのは、要するに関係者(身内、学校の先生、友人など)への聞き込みのこと。
 あたしも、学校で話を聞かれることになった。
 調査官は若い女性で、岸田(きしだ)さんという人だった。ショートカットで、ぴしっとしたスーツ姿。いかついところはなくて優しげな人だったけど、さすがその道の人らしく、芯の部分の強さみたいなものが感じられた。
 生徒相談室の狭い部屋に、あたしたちは向かいあって座っていた。個人的な話ということで、部外者はどこにもいない。
 岸田さんの質問はほぼ通り一辺倒のもので、答えるのは難しくなかった。「彼女はどんな子だった?」「クラスではどんなふうだった?」「ほかに友達はたくさんいた?」「暴力的な傾向は?」「心に問題は抱えていた?」
 ただ、最後の質問で、「あなたはどうして彼女と友達になったのかしら?」と訊かれたときは、答えにつまった。
 その答えはとても簡単なような気もしたし、とても難しい気もした。花がどうしてあんな形をしているのか、というみたいに。あたしはちょっと考えてから言った。
「彼女はきれいだったから」
「そうね、吉野さんはとてもきれいで――」
「きれいで、弱かった」
 そう言うと、岸田さんは口を閉ざした。そして珍しいものでも見るような目で、あたしのことを見る。
「……吉野はあれだけきれいで、でも自分勝手な強さを身につけようとはしなかった。彼女は度がすぎるくらい弱かった。それは親とか、環境のせいもあったと思う。けどたぶん、吉野は元からあんなふうだった。誰かを傷つけたり、誰かに嫌な思いをさせることを、極端に怖がってた」
「…………」
「彼女はとてもきれいで、とても弱かった」
 あたしは岸田さんにというよりは、ほかの誰かに向かって言いきかせるみたいにして言った。ほかの誰かというのは、たぶんあたし自身のことだ。
 調査官である岸田さんが、あたしの話をどう判断したのかはわからない。審判は非公開で行われるし、あたしが彼女の報告書に目を通すことなんて不可能だ。それが吉野に有利に働いたか、それとも逆だったかは、あたしにはわからない。
 ただ、それが岸田さんをとおして間接的に吉野に伝わった可能性はある。伝書鳩みたいに遠回しだったけれど。
 審判開始までの四週間のあいだは、学校では中間試験が行われた。あたしは何故かいつもより勉強に集中していて、成績も今までで一番良かった。事情をある程度知っていた先生が驚いたくらいだ。
 吉野のことは、事件も調査も秘密にされていたとはいえ、いろんな噂が出まわるのはどうすることもできなかった。何しろ学校には来ていないし、彼女の父親のことは前々からいろいろ取り沙汰されている。これで黙っていろなんていうのは、倒れたコップの水が地面に零れないようにするみたいなものだった。要するに、自然の摂理に反している。
 噂の中にはずいぶん無責任なものから、当たらずとも遠からずというところまで、様々なものがあった。変質者に誘拐されたとか、売春行為で逮捕されたとか、たんに不登校になっただけとか。
 何にせよ、それらの多くが好意的なものじゃないことだけは確かだった。友達もいなかったうえに、潜在的なやっかみや異物感が強かったせいもあるだろう。あたしはそんな群雀たちを、ほとんど横目で無視していた。
 四週間のあいだ、あたしと吉野は手紙でやりとりをしていた。直接面会に行くことはできないけど、文通は自由だ。慣れない便箋に向かって、あたしはできるだけ丁寧に文字を書いた。少しでも、言葉の正確な形が吉野に伝わるように。
 手紙の内容は、お互いの近況報告みたいなものが大半だった。吉野は鑑別所での生活や、そこで読んだ本のこと、今の心情について簡単に綴ってきたりした。あたしはテストのことや、相変わらず暇な洋品店、多少の愚痴っぽい文章をいくつか書いて送ったりした。
 吉野からの手紙はきれいな便箋に、折り目正しく記されていた。彼女の字は相変わらず丁寧で、品がよく、控えめだった。例の黒板に書かれた、彼女の名前と同じで。
 そして父親を刺してからちょうど四週間後、裁判官によって吉野のその後――運命といったほうがいいんだろうか――が決定される日がやって来た。

 ――何か期待されると悪いんだけど、少年審判の結果は予想通りだった。つまり、保護処分。三つある処分のうち、吉野が受けたのは児童相談所送り(ほかの二つは、少年院と保護観察)だった。
 そのあいだ、父親には接近禁止命令が出され、母子ともに一時的な保護施設に移った。当然だけど、今回のことは吉野だけじゃなくて、静さんにも大きな転機になったのである。父親との離婚も成立して、二人の籍も変わった(だから、もう吉野じゃなくなったわけだけど、ここでは一応そのままで通すことにする)。
 二人がどんなふうにその後の混乱や、葛藤や、ごたごたを処理していったのか、あたしは知らない。何故なら、あたしたちは直接会うことなく、二人は別の町に引っ越していったからだ。正直、父親のことを考えればこの町に残るのは無理があったし、今の状況で吉野が中学校に戻ってくるのも難しかっただろう。
 そんなあれやこれやを、あたしはすべて吉野からの手紙で知った。封筒に書かれた住所は、あたしが全然知らない場所のものだった。手紙の中の吉野は、相変わらずの感じではあったけど。
 あたしたちは吉野が鑑別所にいたときと同様に手紙のやりとりを続け、近況や、ちょっとした悩みや相談事、いっしょにいたときの思い出話なんかを書きあった。あたらしい町で、吉野の母親は自立支援プログラムのお世話になり、吉野自身は児童相談施設に預けられることになった。経済的な問題やら何やらで、二人でいっしょに暮らすのは現実的ではなかったのだろう。
 吉野は新生活に、比較的順調に適応しているみたいだった。父親とのことが良くも悪くも影響を与えたのだろう。このままだと、自分が死ぬか、相手が死ぬかしかない。吉野は誰かを殺すようなタイプでは全然なかったし、積極的に死を望むほどアクティブでもない。
 となると、やっぱり変わるしかなかったのだろう。クジラが海に向かい、キリンが首を長くし、人が知恵を身につけたみたいに。
 しばらくすると、吉野は転校先の新しい中学で友達を作った。その子は読書好きで大人しめの、かわいらしい娘だという。あたしとは、眼鏡をかけていることくらいしか共通点がない(その眼鏡にしても、あたしのはただの伊達眼鏡だ)。
 吉野がそんなふうに人間関係の輪を広げていることを、あたしは手紙に書いて祝福したり、茶化したりした。実際、それは喜ばしいことだった。あの吉野ゆきなが、前向きに人生を送っているのだ。
 そうしてあたしたちはずいぶん頻繁に手紙のやりとりをしていたけど、いつからかその数は漸減していった。まるで、砂時計の砂が残り少なくなっていくみたいに。
 あたしたちはお互いの存在しない生活を送りはじめていた。中学を卒業し、高校生になり、人生で抱える荷物は増えはじめていた。生き物のリソースには、常に限りがある。だからこそ、コストの管理が重要になる。生存上、無駄な消費は避けなければならない。そういったものは自然に消滅するか、退化していくことになる。
 たぶん、結局はそういうことなのだと思う。
 あたしたちの通信記録は、数日に一回から、一週間に一回、一ヶ月に一回、一年に一回へと、確実に減っていき、最終的には完全に途絶えてしまった。あたしが出した最後の手紙は、「転居先不明」の判子を押され、ポストに戻ってきている。
 手紙以外の通信手段を、あたしたちはとらなかった。メールとか、ラインとか、電話でさえも。
 古風とか奥ゆかしいとも言えるけど、それはもしかしたら、いつかこうなることをあたしたちは知っていたからかもしれない。お互いのつながりが、褪色した絵みたいに判別できなくなることを。どこかのとんまなヤギが、中身も読まずに手紙を食べてしまう日が来ることを。
 吉野からの最後の手紙には、こんなことが書かれていた。
「――今でも時々、和佐ちゃんのことを思い出します。和佐ちゃんは言いましたね。ここじゃないどこかに行きたい≠チて。その気持ちが、今なら、わたしにもよくわかります。できれば、わたしも和佐ちゃんみたいに強くなりたいです」
 あたしはその手紙を、今でも机の引き出しの奥にしまっている。

10

 ――そして、十年がたった。

 あたしはキーボードを打つ手をとめて、大きくのびをした。背もたれに思い切りよりかかると、安物のオフィスチェアが抗議でもするみたいにぎしぎし音を立てる。
 傍らに置いたあったコッペパンの包装紙を破いて、あたしはそれをかじった。ジャムとマーガリンとパンを咀嚼しながら、ノートパソコンの画面を確認する。誤字や脱字はもちろん、情報の間違いや文章の流れについても一通りチェックしていった。
 とりあえず、問題はなさそうだった。注文が来れば、またあとで対応すればいい。あたしはメールソフトを開いて、ファイルを添付して送信した。
 再び、大きく息をしながら、可能なかぎり背中をのばす。
 現在、あたしはある出版社のライターとして活動している。といってもほとんど駆け出し同然で、たいしたことはしていない。名前なんて誰にも知られていない。仕事そのものも手探りな部分が半分以上で、効率的な時間の使い方も、適確な記事の書き方もできていないのが現状だ。日々、トライ&エラーの毎日である。
 この仕事をしているのは、大学の先輩の伝手によるものだった。在学中に親しくしていたその先輩が、会社の仕事を紹介してくれたのだ。今は試用期間中として、アルバイトのような形で記事を書かせてもらっている状態だった。
 ちなみに、今送ったのはある和菓子作家についての記事である。最近有名な賞をもらった女性で、元銀行員という変わった経歴を持っていた。あたしがインタビュアーとして選ばれたのは、比較的歳が近かったせいだろう。
 あたしはパンを食べ終わると、ノートパソコンの電源を落として蓋を閉じた。適当に上着をはおると、習慣にしたがってマンションの部屋をあとにする。時刻は朝の七時。普通の人ならとっくに目覚めて、学校や会社に向かう時間のことだった。
 もう秋も深まりつつあって、冬の足音さえ聞こえてきそうな毎日だった。夜明けのこの時間となれば、それはなおさらのことだ。あたしはマンションの外に出ると、道路の上で顔をしかめ、肩を軽くすぼめてから歩きだした。
 まだ世界が半分眠っているみたいな中で、東の空には霞がかった太陽が弱々しく浮かんでいた。太陽も、この時間にはまだ調子が出ないらしい。ちょっと息を吹きかければ、簡単に消えてしまいそうでもある。
 あたしは歩きながら、肺の空気を入れ替えるために何度か大きく息をした。
 ――この十年で、いくつか変わったことがある。
 スナック「櫂」は閉店になった。めでたくもノリコさんが結婚したからだ。相手はIT関連会社の社長で、収入はもちろん、人柄もよさそうだった。ハンサムというほどじゃないけれど、愛嬌のある顔をしている。何故か、あたしも結婚式に呼ばれて実地にそれを見たから、間違いない。
 ユウちゃんは、スナックの閉店とともに性適合手術を受けた。元々、そのための資金を稼ぐために働いていたのだ。ただし、その費用の大部分は退職金という名目でノリコさんが受けもっている。晴れて女性になったユウちゃんは、かなり難しい条件をクリアして婦警になった。「彼女」は今、とても幸せそうにしている。
 吉野の父親は、アルコールが原因の暴行事件で逮捕されて、実刑判決を受けた。小さなニュースとしてテレビでも流れ、そこで「吉野誠治(せいじ)」の名前を見たとき、あたしはさすがに驚いた。知っている人間がそんなふうにテレビに出てくると、実在性が疑われてしまう。ちょうど誰かさんが現実にいるときに、そうだったみたいに。何にせよ、酒はやめられなかったらしい。
 藤江洋品店は、相変わらずだった。店の空き具合も、父親ののほほんさかげんも。これは宇宙の法則に反しているような気がする。変化こそが、すべての物事の基本的なスタンスだからだ。この店とその店主は、平気でそれを破っている。どこかの学会に報告すべきなんじゃないかと、あたしは常々思っている。
 あたし自身にも、もちろんいろいろな変化があった。十年のあいだに中学から大学まで卒業したのだから、何もないはずはない。
 まず、あたしは吉野と別れたすぐあとに、陸上部に入った。顧問の執拗な誘いに屈した形だけど、あたし自身にもその理由はよくわからない。どこかに行くためには、できるだけ足の速いほうがいいと思ったのかもしれない。
 とはいえ足が速いといっても、所詮は素人の話だ。それにあたしより才能があって努力もしている人間なんて、ごまんといる。中学の八百メートルで県大会二位というのが、あたしの最高成績だった。それでもまあ、ずいぶんがんばったほうだ。
 高校では、人なみに彼氏を作ったりもした。恋のときめきというのを否定するつもりはないけれど、最初からうまくいかないことはわかっていた気がする。半年くらいたったところで、あたしたちは別れた。その時は、お互いにほっとしたと思う。なかなか、うまくいかないものだ。
 それから、あたしの眼鏡はもう伊達じゃなくなった。視力が落ちて、本物のレンズを入れるはめになったからだ。見ためが変わっていないことに関しては、幸いだったというべきかもしれない。ただ、視力とはうらはらに、目つきの悪さに変化はない。
 ほかにもいろいろなことがあったけど、特筆すべきことはない。宝くじが当たったり、どこかの王子様に見初められたりなんてことは、人生でそう起こることじゃない。
「――――」
 あたしは大通りに出ると、たくさんの人の群れに混じって歩いていった。地元では、まずお目にかかることのない量の人間たちである。そうして歩いていると、いつも工場で大量に処理される部品か何かになったような気がして、あたしは少しだけおかしくなってしまう。
 もう足音や人声を個別のものとして認識できない雑踏の中を、あたしはいつも通りにコーヒーショップに向かっていた。それが、徹夜明けの朝の習慣なのだ。これから眠ろうというときにコーヒーを飲むのも、どうかとは思うけれど。
 スクランブル交差点の赤信号で、あたしは足をとめた。何百人だかいる人々も、やっぱり立ちどまる。まるで、何かの製品試験でも受けているみたいな気分だった。誰も、あえてルールを破って行きかう車に突入しようとしたりはしない。
 やがて、信号が青になった。やる気のないスタート合図が鳴ったみたいに、人々が動きだす。もちろんあたしも、それについて行く。
 道路を斜めに横切っていくその途中、たくさんの人とすれ違う。憂鬱そうな会社員や、スマホの操作に余念のない学生風、キャリーバックを運ぶ旅行者や、仲間と元気に談笑する若者たち。当然だけど、他人からすればあたしも何がしかの人間に見えることだろう。自分でそれを確認するすべはないけれど。
 あたしは顔も名前もない人々と、ぶつからないようにすれ違っていく。いつもと変わりなく、いつもと同じように。
 でも――
 そのうちの一人とすれ違ったとき、あたしの足は思わずとまっていた。ぴたりと、瞬間接着剤でもくっつけられたみたいに。後ろからきた人とぶつかりそうになって、お互いに頭を下げる。それでもあたしは立ちどまったままで、元の道を振り返っていた。
 人違いだろうか?
 いや、違う。あれは確かに――
 その時、信号が点滅して赤に変わろうとしていた。あたしはそのまま渡りきって、あらためて振り返ってみる。放流されたばかりの魚みたいに走りだす車の向こうに、その人影を認めることはできなかった。そうでなくとも、もう立ち去ってしまったあとだろう。
 あたしは乱暴に景色をかき乱す車の向こうを、しばらく眺めていた。
 ――あれは確かに、吉野ゆきなだった(結婚でもして、名字はまた変わっているかもしれない)。
 彼女はOL風の格好をして、相変わらずかすかに顔をうつむかせて歩いていた。長い髪も、基本的な顔の形も、控えめそうな態度も、何も変わっていない。彼女はやっぱり、美少女だった。
 あたしはけっこう長いこと、そのままじっとしていた。過去の時間が現在まで追いつくのを、そうして待っていたのかもしれない。もちろん、それには十年もかからなかった。思い出というのは、なかなか便利なものなのだ。
 横断歩道に人がたまってくる前に、あたしは歩きだした。いつものコーヒーショップに向かって。風が強く吹く、まだ灰色の世界の中を。

――ねえ、和佐ちゃん。わたしといっしょに死んでくれる?

 あの時なんと答えるべきだったか、あたしにはやっぱりまだわかっていない。これからだって、たぶんわかりはしないだろう。
 でもとにかく、あたしたちはあの場所を生きのびてきた。憂鬱で、退屈で、大嫌いで、救いなんてなくて、どうしようもないくらい残酷だった、あの場所を。
 ――そしてきっと、これからも生きていくだろう。
 あたしは弱々しくくすんだ太陽に向かって、まっすぐ歩いていった。

――Thanks for your reading.

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