「時々、とても小さな箱に入ってしまいたいと思う。膝を抱えると、ちょうど収まってしまうような小さな箱。そのふたを閉じると、真っ暗で何の音も聞こえなくなる。そういう箱に、私は時々入りたいと思うの」 と、彼女、奈月羽弥(なづき・はや)は言った。 彼女と僕はそれほどつきあいがあったわけではない。大学でたまたま同じ講義を受けて、たまたま隣で、それが何度かあって少ししゃべるようになった。 僕は彼女が何を考えているのか、知らなかった。 そして彼女、奈月は一週間前に自殺した。
小さな川があった。 僕は奈月の自宅の前にいる。呼び鈴を鳴らして、誰かが出てくるのを待っているのだ。変に緊張してしまう時間だった。 川のほうを見ると、桜の木が川に沿って植えてある。今は秋だが、春になればたぶんきれいに花が咲くのだろう。 ガチャリ、と音がして扉が開いた。 「どなたでしょう?」 奈月に、よく似た娘だった。 「僕、新代未槻(にいしろ・みつき)といいます。妹さん、ですね?」 「姉の、知りあいですか?」 戸惑った表情を浮かべる。無防備そうなところは、奈月とは似ていない。 「でも姉は……」 「知っています。その……、何があったかは。光さんとは話したことがあって。それで……、何故だか分からないんです」 「私も」 哀しい、眼をした。 「私にも分かりません」
「この世界で一番つらいことってなんだと思う?」 それは、いつものように講義が始まるまでの短い休み時間のことだった。 「さあ、考えたことないな」 僕は答える。実際、考えたこともない。 「それは存在を信じられなくなる≠アとよ」 「? よく分からないな」 「つまり、こういうこと」 と、彼女は言った。 「私たちはまったく、主観≠ニいうものから逃れられない。自分≠ニいうもの以外の所からものを見ることが出来ないの。それはある意味で、自分以外の存在を信じられないということ。今こうして、目の前にいるあなたでさえ、私にはそれが存在していると証明する手段も、感覚もない。そしてそれは、必然的に自己に対しても向けられてしまう」 「それが存在が信じられなくなる≠ニいうこと?」 「そうよ」 「そうなったら、その人はどうなるんだろう?」 彼女は、しばらく黙っていた。 「ひどく生きにくくなるでしょうね、たぶん」
「両親とも働いているんです。今日は、家には私しかいません」 お茶を入れながら、妹さん、弥生さんが説明する。 僕と彼女は、台所のテーブルで向かいあっていた。 「私も大学があるんですけど、何だか行く気がしなくって」 僕はお茶をすすった。 「僕もです」 「姉のこと、好きだったんですか?」 僕はちょっとつまってしまった。 「ごめんなさい。だって、わざわざこんなところまで訪ねてくるなんて、よっぽどだなと思って」 「どうなんだろう」 と、僕は呟いた。 「彼女とは……、それ以前の何かだった気がします」
きっかけは、消しゴムだった。 小テストの時に、隣で彼女が、「ねえ、悪いんだけど消しゴム貸してくれない? 忘れちゃったの」と、言ってきたのだ。 僕はその時、別に消しゴムを二つ持っていたわけじゃなかったから、自分のをはさみで切って渡してやった。 それで、講義が終わってから彼女が、 「あなたって、変わってる人?」 と、訊いてきたのだ。 「なんで?」 実のところ、僕はその時はそんなことはどうでもよくて、次の必修の講義のためにさっさと移動したかった。 「消しゴムないなら、ないって言えばいいでしょ」 「面倒だったんだ」 「なら断るでしょ」 「断るのが面倒だった」 彼女はちょっと黙ってから、 「あなた、いい人みたいね」 と急に言ってきた。 僕は何故だか知らないけど、彼女のその時の眼にドキリとした。まるでそれだけがこの世界の真実みたいに彼女は断言するのだ。 そして僕は結局、次の講義に遅刻をした。
「右が私の部屋で、左が姉のです」 階段のところの窓から、家の前の小川が見える。 「きれいな川ですね」 「小瀬川っていいます。姉の部屋から、よく見えますよ」 言いながら、部屋に入る。僕も続いて入った。 部屋の中は、たぶん生前のままだ。女の子にしてはやや無機質な感じだが、彼女らしい気もする。机に、ベッド、本棚……。 「姉は昔から変わってました。ままごととか、人形遊びが嫌いで、いつも男の子のおもちゃで遊んでました」 彼女が、机にそっと触れる。 「そんな姉が好きでした。とても――」 僕はふと、窓の向こうを見る。
「あなたには何か望みはある?」 「相変わらず唐突なんだね」 そう言いながら、僕はそういう彼女にもう慣れてしまっていた。 「一応、今は院に進むことだよ」 と、僕は答えた。 「意外とちゃんとしてるのね」 「感心しなくてもいいけど、君は、何かそういうのあるわけ?」 「私は――」 一瞬、考え込んだ。 「たぶん、ないでしょうね」 「どうして?」 「そうね、私が私に意味を見出せないせいかもしれない。意味というのが目下の事象に与えられるものであっても、人間に想像力がある以上、より長いスパンでの目的は必要とされる。私には、その長さに耐えられるだけの能力が欠如している」 「よく分からない」 「そう、それが分かるというのは、たぶん不幸なことなの」
一冊のノートだった。 「姉は物語を作るのが好きでした。それでよく私も読ませてもらっていたんです。私は好きでした。どこか現実から遊離しているような、夢を見ているような話ばかりで……」 僕はパラパラとページをめくる。 最後のところに日付がある。死ぬ一日前のものだった。 「ノートは何冊かありますが、それが一番新しいものです。でも、死ぬ前まで書いてたものだって、別段、目を引くことが書いてあるわけでもないんです」 確かに、そのようだった。 「姉は、どうして死んだんでしょう?」
彼女が夏でも長袖なのを、僕は訝しんだことがある。 「暑くない?」 「クーラーは嫌いだけど、これは別の理由。聞きたい?」 「聞かせてくれるなら」 「傷があるから」 彼女は左腕を押さえた。「自傷行為ってやつ」 さすがにその時、僕はどう返事をすればいいか分からなかった。「本当に?」 「見たい」 「見せたくはないんでしょう?」 「まあね」 彼女は左腕から手を離した。 「自分を傷つけるなんて、不合理だとは思うけどね。でも、そうでもしなければ、自分が傷ついていることが実感できなければ、そうせざるをえないでしょう? 誰も気づいてくれないでいれば、自分だってそうだとは思えなくなる。その時、せめて認識できる程度の傷にするために、自分を現実に傷つけてみたりもするの」 「でも、それじゃあ解決はしないよ」 「そう解決しない」 彼女は僕を見た。 「解決なんて出来ない」
「彼女が言ってたことがあるんです」 帰り際、僕は玄関で彼女に言った。 「一度、彼女が小さな箱に閉じこもってふたをしたいと言った時、僕は、ふたがあるんなら、いつか誰かにそのふたを開けてもらいたいと思ってるのかい、って」 「……」 「そうしたら彼女、そうかもしれない≠チて」 弥生さんは口を押さえ、目をつむった。でも、それだけだった。気丈な人だ。 「たぶん、誰かが救ってやれたはずなんです。それは、今から後悔するとか、そういうことじゃなくて――何というか、せめて救われるところにいたというか、そういうことだと思います」 「……」 弥生さんは、返事をしない。 「じゃあ、僕は行きます」 そう言って、僕は奈月の家をあとにした。 彼女がいなくなっても、それでも季節は巡っていく。春になれば、この川のほとりにも桜が咲くのだろう。
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