9、岐路
「夜分失礼するが、ここに妙な男が入って来なかっただろうか?」 と、男の一人が入口の所に対応に出て来た女に訊いた。 「いえ」 と女は答えた。 「存知ませんが」 「そんなはずはない」 もう一人が、口を挟んだ。 「確かにここに人影が入るのを見た。間違いない」 「しかし」 と、女はちょっと慌てたふうに、 「ここは教会です。お調べになるなら許可が要ります」 「許可か」 男は、苦い顔をした。が、 「調べはすぐに済む。ご容赦願おう」 女をどけて、入り込んだ。もう一人が後に続く。 堂内は、暗い。後の男が女の持っていた蝋燭をひったくるようにして奪い、急いで辺りを照らした。 人影はない。 「訊くが、ここの奥には何が?」 「――中庭を挟んで、修道女の住まいが、奥に」 「案内してもらおう」 と、男は有無を言わせない。 女は、仕方なく案内した。小さな中庭一つを隔てた所がそうで、どの窓にも明かりがない。 「悪いが、部屋を一つずつ調べさせてもらう。その旨伝えておいて欲しい」 男にすれば今すぐにでも調べたいところだったが、不都合があってはまずい。ここが教会である以上あまり乱暴なことは出来ないのである。 (面倒な所に逃げ込んだものだ) やがて女が戻って来て、どの部屋にも明かりが灯った。 二人の男は手分けして一つ一つ部屋を探し始めたが、その一つで、 「失礼するが、ここに不審な男が入って来なかったか?」 と男が訊いた時、「いえ」と言って振り返った女の顔が、驚くほど清楚で可憐だった。 (このような人が嘘をつくはずもない) と、男は不覚にもそう思ってしまった。 「いや、この教会に賊が侵入したようだったので、お尋ねしたまでです。貴女も十分気をつけられるように」 「そうですか」 と女は軽やかに微笑した。 「それでは」 男は、去った。 その扉が音を立てて閉められた時、ほっと溜息をついたのは、ありようはリーディである。うまいものだ。リーディは元々女として育てられたことがあるだけに挙措動作、少しもおかしな所がない。 男は不審も覚えずに去った。 (とりあえずは、これで大丈夫だろう) と思って、リーディはベッドの下から天臨と自分の服を取り出した。 (しかしこれからは) ふと、動きを止めた。 (これからは、どうすればいいんだろう……)
二七五年、五月四日のこの日の事は「アルストーク通りの暗殺劇」として芝居になったほど有名な事件である。 レティング側は大半の者がこの事件で討ちとられ、逃げ延びた者は十四名中わずか四人にすぎない。その中にはリーディ、エディスの名前も入っている。 彼らは孤立した。 本国との連絡は絶たれ、彼ら自身の間の消息すら定かでなく、見つかればたちどころに捕えられるか殺されるかしてしまう。レティングはこの日、壊滅した。 リーディもそうした中で、息をひそめるように暮らしている。 場所は、修道院である。あの日、 「どなたです?」 と訊いた女性が、リーディをかくまってくれていた。サイサリスの男二人と対応したのも彼女である。 エレン・トリアといった。二十前後の、多少陰鬱な所のある女性で、あまり笑うことがなかった。ただ、妙に人に親切な所があり、聡明で、およそ間違いというものをしたことがない。 リーディに対しても、 (何か大変な人のようだ) とは思っていたが、決してそれを尋ねようとはしなかった。尋ねない方がいい事を、エレンは知っている。 とはいえ、どういう理由でリーディを助けたのかといえば、実のところエレンにもよく分からなかった。ただ、 (悪い人ではなさそうだ) と、あの瞬間、リーディを見た時に思ったのである。だから自分の部屋にかくまって服も着せてやった。 (それだけだろうか?) とエレンは自分でも時々、思ったりする。が、よく分からない。 修道院の他の者に対しては、 「私の知り合いの子で、住む所がないんです。しばらく泊めてやって下さい」 と、リーディの事を紹介していた。だからリーディは修道女の真似事をしながら、割合自由に暮らしている。 ただ、リーディは自分が女ということになっている事だけは閉口した。しかし、 「そのほうが都合がいいから」 とエレンは言った。当然なことで、リーディが女ということになっているからこそエレンと同室なのであり、ここに来た本当の理由も隠しておけるのである。 「それに」 と、エレンは珍しく笑って、 「似合ってるわよ」 と言った。 それから何週間かが過ぎ、リーディは段々と心に余裕が戻るにつれて、 (レティングはどうなったのか) ということが気になり始めた。 が、それを確かめるのは容易ではなかった。町にはまだサイサリスの連中がうろうろしており、エレンにしても、リーディが元暗殺者であるなどとは思っておらず、不用意にそのことを明かすわけにもいかないのである。 それでも、リーディはエレンに頼んで外出して、大使館の様子を探ってみた。が、中はほとんど軟禁状態といってよく、もはやレティングは消滅したと思ってよさそうだった。 (他の皆はどうしたのか) ということも気になったが、こちらはさすがに調べようがない。 ところが、そうこうする内にリーディは驚くべきことを耳にした。 クレンフォルンが、セルフィドと戦争をするという。 (あり得る事かもしれない) レティングの襲撃にしろ、大使館の封鎖にしろ、後から考えればそういう気配は濃厚にあったと言っていい。 (何とかしないと) と、リーディは思ったが、かといって何が出来るのだろうか。噂によると、この事の黒幕であるというラクスを斬ることだろうか。 が、現実にはそれは不可能だった。斬ることに関しては問題はなかったが、それまでの段取りを、リーディはつけられないのである。ラクスの日常生活や、暗殺に適した時間が、リーディには分からなかった。それに、 (レノは悲しむだろうな) ということが、妙に頭から離れなかった。だから、決意というほどのものも、リーディには出来ていない。 「英雄」の生まれ変わりにしては、あまりに無力な存在だった。
それから一ヶ月が過ぎた。 リーディはなすこともなく修道院で日を暮らしていたが、この日、意外な人物に会った。 カイル・ケルフである。 この二年前に宿屋で会って以来、久しく会っていなかった少年は、修道院の宿泊所にやって来たため、そこで偶然働いていたリーディと再会することになったのである。 「一体どうしたんだい?」 この時、カイルはさすがに驚いたらしい。それもそうで、セルフィドにいるはずのリーディがこんな所で修道女の格好をしている。 食事中の事で周りに人がいたため、 「後で、話すから」 とリーディは慌てて言った。 二人が後で中庭の所に行くと、カイルはまず、 「とりあえず、久しぶり。一応元気そうだね」 と、挨拶した。 「カイルも」 リーディはちょっと気恥ずかしそうに答えた。修道女の格好をしたままなのである。恥ずかしくないわけがなかった。 「カイルは、どうしてここに?」 と、リーディは中庭の長イスに座りながら訊いた。カイルも座りながら、 「旅暮らしだからね。適当にぶらぶらと。それより、そっちの方をいろいろあったみたいだね」 「うん、実は……」 と、リーディは例によって洗いざらいしゃべってしまった。困った時の、リーディの癖のようなものである。 が、半ば予想していたとはいえカイルはひどく狼狽した。 (リーディが?) とほとんど信じられぬような思いで、目の前の少年を眺め直してみた。全く、信じられないのだ。この少年が暗殺者だったなどということは。 「……どうして、そんな事に?」 と、カイルはやりきれなさそうに訊いた。 「どうして?」 リーディは、不思議そうな顔をした。今更、そんなことを考える気力もない。 「僕にも、分かりません。いや、もういいんです。そんな事は」 珍しく、疲れたような表情をして見せた。 「そう、か」 カイルはちょっとうつむいてから、やがて、 「僕がここに来てから、クレンフォルンの国に雇われたことがある」 と浮かない顔で言った。世間話としてすむ話ではなさそうだと気づいたのである。 「クレンフォルンに?」 「魔術師を集めていたらしいんだ。それで、行ってみた。路銀が乏しかったしね。……そういえばあの時の宿代を払ってなかった。今、あるけど?」 「いいよ。それにあれはイリュさんが払ったんだ」 「そうかい?」 「話の続きを聞かせて」 「うん……」 カイルは真剣な顔をしてから、 「クレンフォルンが何で魔術師を集めていたかって言うのはね、どうやらある兵器≠フためらしいんだ」 「兵器……?」 「魔法を無限に増幅する°@械らしい。本当なら、すごいものさ。大陸を制覇することだってできる」 つまり、ラクスがサイサリスを作り、レティングを壊滅させ、セルフィドとの戦争を決意したのには、そういう理由があった。 「その機械には」 と、カイルは話を続けた。 「魔術師が何人も必要だったらしい。僕も、そういう理由で雇ってもらった。けど段々話が危なくなって来たから、途中で逃げたんだ」 「よく逃げられたね」 リーディは感心した。カイルは笑って、 「僕の十八番だよ」 と言った。 (そう言えば、宿の時もそうだった) と思って、リーディは笑った。そんなこともあった。 「ところで、この事で一つだけ妙なことがあってね」 と、カイルは何気なくつけ加えた。 「何です?」 「うん、この装置には核となる人物が要るらしいんだけど、それが、どういうわけかラクスの娘がなるらしいんだ」 「……」 リーディは、自分でも分かるほどうろたえた表情になった。 (レノが……?) 「核、って?」 と、リーディは訊いた。 「エルドという、この装置の開発者の話からすると、全体の精を統御する役らしい。魔法を増幅するというのは、要は大勢の魔法使いを単なる精の容れ物にしてしまって、それを操るということらしいんだ。核となる人物も、最低限の意識を残して、後は眠っているのも同然になる」 「つまり?」 「死ぬのと、あまり変わらない」 リーディは急に押し黙ってから、いきなり立ち上がって、 「案内して、僕を、その装置のある所に。レノを助けないと」 「おいおい」 と、カイルは戸惑ってしまった。訳が分からない。 が、ともかくもリーディを落ち着かせて話を聞いてみると、今度は驚いたような、当惑したような顔つきになった。 「事情は、分かった」 と、ようやくそれだけを言った。 「カイル」 「分かったから」 と言いつつ、カイルはまだ頭の整理をつけかねている。その混乱は、リーディという少年の奇妙なほどの運命と、その運命を自分が握っているという重大さから来ていた。 要するに、ここでカイルが言えば、リーディは行く。行けば、間違いなく死ぬだろう。 (死ぬ、というこの重大すぎる判断を、他人の自分がしていいものかどうか……) という事を、カイルは迷っているのである。 (しかし) ともカイルは思う。 (もはやリーディは決意を固めてしまっている。この上、それを止めることなんて……) 「……」 カイルは、ゆっくりと震える口を開いて、 「わかった」 と小さく言った。 リーディの運命は、転回した。
もう一つ、リーディの運命を旋回させる原動力となったものがある。 エディス・リアラルだった。 この無愛想な若者もあの襲撃を生きのびていたのだが、この日、リーディはカイルと一緒に出かけた帰り道で偶然にもこの男と出会っている。 場所はハウレーン通りの肉屋の前で、すれ違いそうになった所をリーディが慌てて呼び止めている。 「リーディか」 というのが、振り返った時のこの男の言葉だった。驚きもしない。 「よく、生きていましたね」 と、リーディはエディスの横に並びながら、小声で訊いた。カイルも無言のまま、その横に並んで歩き始めている。 「死にそこねただけだ」 エディスは、そっけなかった。 「それより、こうして歩いていても仕方ない。俺の宿に行こう」 「宿?」 「ここから十分ほどの所にある地下室さ。ここは、まだばれていない」 行ってみると、採光の悪い薄暗い部屋で、すでに二人の姿が輪郭でしか分からなかった。元々は、倉庫なのである。居住環境が良いわけはなかった。 「エディスは」 と、リーディは訊いた。その声だけが、唯一この部屋の中で人間らしい色彩を帯びており、何となく牢獄を連想させる静けさだった。 「あの後どうしてました?」 「……」 エディスは、答えない。というより、答える必要もないことだと思っているようだった。 「じゃあ、これからは?」 リーディが質問を変えると、 「お前は。どうする?」 と、逆に訊き返してきた。 「レティングはなくなった。ここに残るのか、それともセルフィドへ帰るのか」 「セルフィドへは戻れません」 「……」 「まだ、ここに用がありますから」 と、リーディは微笑した。 「それが終わったら、帰ります。エディスも、一緒に帰りませんか?」 「俺は。知らないよ」 「帰りましょう」 「さあな」 つと目をそらしてから、 「しかしその用というのは俺も手伝うことにする。レティングとしては、最後の仕事になるかもしれない」 リーディはぱっと表情を明るくして、 「ええ」 と頷いた。心底嬉しかったのだろう。 エディスは、どこか眩しげにそれを見ている。 その後、帰り道でカイルは、 「あれは妙な人だね」 とリーディに言った。声に、わずかながら不愉快さが混じっている。 「エディスのこと?」 振り返って、リーディは不思議そうな顔をした。 「そう、エディス・リアラル。何者だい、あの人は」 「僕と同じレティングの人だよ」 と、リーディは説明したが、ふと気づくとリーディはエディスの生国すら知らないのである。レティングは暗殺者の集団だけに、いちいち自分の生い立ちを説明する者も稀だが、かといってエディスのように生国すら分からないというのは奇異に属すると言っていい。 (やっぱり、セルフィドの人だろうか?) と、リーディは今更思ったりした。 「けどね」 とカイルは歩きながら言った。 「あの人は、何だか怪しいよ。勘だけどね。妙な雰囲気なんだ」 「エディスはエディスだよ」 リーディは相変わらずだった。 「僕は、いい人だと思ってる」 「そうかな?」 カイルは首をかしげたが、リーディがにこにこと微笑しているのでそれ以上は言わなかった。 しばらくして、 「ところで、リーディは」 と、カイルは訊こうとした。が、言葉につまってその後が容易に出てこない。 ――リーディは死ぬ気なのか。 ということを、カイルは訊こうとしていた。が、言えばそれが現実になりそうで、思わず口をつぐんでしまった。 しかし、 「僕なら、大丈夫だよ」 と、リーディは澄んだ笑みを浮かべた。 「……」 カイルは泣きたいような、笑いたいような妙な感情が湧き上がってきて、困った。 カイルはもちろんのこと、リーディ本人ですら、 (自分は死ぬだろう) と思っている。思っていながら、この少年はそれを悲壮ととったり絶望ととったりするところがなく、それどころか春風がなびくように穏やかであり、明るかった。 リーディは、 ――大丈夫だよ。 と、言った。 カイルはそのことに安心させられるようでもあり、何か儚いようで泣きたくもある。
六月十九日。 つまり、エディスと会ってから一週間が過ぎたわけだが、この間エディスは例の装置のある「リアノの大聖堂」への侵入方法を必死に考えていた。 それをリーディに告げたのが、この日の午後。 リーディは知らせを受け取ると、すぐに出発の準備を始めた。 同室のエレンが、それを見ている。 「行くのね」 と、ぽつりと言った。 「ええ」 リーディは服に袖を通しながら、 「エレンさんには、お世話になりました」 ちょっと、寂しそうに言った。 「セルフィドに、帰るの?」 違うんです、と言ってから、 「僕は……」 とリーディは何もかもしゃべってしまった。自分の生い立ちやレティングのこと、リアノの大聖堂に魔法を無限に増幅する°@械があること、そしてその中心にレノという少女がなっていることなどである。 エレンはその話を聞いても、不思議と驚きを覚えなかった。が、たった一つ、気になることがある。 「リーディは」 と、その事を訊こうとすると、どういう訳か声が震えた。 「そのレノっていう女の子のために行くの? それとも、セルフィドのため?」 「……」 「答えないと、行かせない」 エレンは、リーディの右腕をぎゅっとつかんで言った。 リーディは困ったように黙っている。 実のところ、分からなかった。レノのためか、セルフィドのためか。 「僕は……」 と、リーディは何か言おうとして、つまった。 エレンはそれをじっと見ながら、必死にすがりついていた何かを諦めるようにして手を離した。 「リーディはレノのために行くの」 と、小さく言った。 「……僕」 「いいの、リーディはレノの事が何より大切で、そのために行く。私が認めてあげる」 「……」 「行って、レノのところに」 後は、後ろを向いている。 「――」 扉の閉まる音がして、リーディは行ったようだった。 エレンは自分でも妙だと思うほど、涙を止めることができないでいる。 リーディは迷っていた。セルフィドか、レノか、ということである。リーディの場合、この事が至極重要な問題として存在していた。 リーディにとってこの二つは相反する価値を有しているのである。つまり、セルフィドのため、というのなら旧来の自分の通りの生き方であり、レノのことは半ば否定されるに等しい。 レノのため、というのならセルフィドの方が否定され、同時にそのために生きてきたリーディの半生すら否定されることになる。 つまり、リーディにとってこれは生まれ変わるほどの決意がいることであり、それで、迷ったのだ。 エレンはそれを機敏すぎるほどに察し、察した上でリーディに最後の一押しをしてやった。つまり、 「レノを選べ」 ということなのである。 と同時に、エレンはこれ以上ないというくらいの方法でレノのことを認めたことになる。どうしても涙が止まらないのは、そのせいもあった。 (世話を、やかせて) エレンは子供のような怒り方をしながら、妙に哀しくて、顔をくしゃくしゃにして泣いた。 「……」 ふと顔を上げると、リーディが立っていた。 いつものこの少年らしく、明るく微笑している。 「どうした、の?」 エレンはどういう訳か驚きもせず、涙を拭いて訊ねた。 「渡したいものがあったんです」 とリーディは手をポケットに入れて、何かを取り出した。 ペンダントである。 ウォルフォードを立つ時にトルクに渡された、あのペンダントだった。丸いメダルの部分にリーディのデザインした馬の姿が彫り込まれている。 「これ、上げます」 リーディはそれを、エレンに手渡した。 エレンは受け取ってからそれを見つめていると、不意におかしくなって子供のように笑い出した。 そうなのだ、リーディという少年は。 「リーディらしいね」 と言って、エレンは発作でも起こしたようにして笑っている。エレンにすればこの期に及んでもリーディが少しも変わっていないということが、リーディらしくて無性におかしかったのである。 「リーディ、元気で」 「はい、エレンさんも。それと、ありがとうございます。エレンさんのおかげで、何だか勇気が出ました」 リーディは泣きたくなるのをこらえて、ふわりと微笑した。 エレンも、同じように微笑した。 やがてリーディが修道院を出た頃には、軽く雨が降り出している。
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