8、ルフィス
リーディが妙だ、ということに最初に気がついたのはオルフェだった。 試刀を合わせているときなど、時々まるっきりの隙だらけになって、何かを考えているような時がある。 (どうしたのかしら) とオルフェは思うのだが、こちらから訊ねるのは何となく気が引けた。 (何か、悩んでいるみたいだけど) 思い切って、訊ねてみた。 「え?」 という表情を、リーディはした。自分では気づいていなかったらしい。ちょっとうろたえるようにして、 「そんなに変ですか?」 と、逆に訊ねた。 オルフェはくすくす笑って、 「時々、ぼうっとしています。さっきだってそこを私に打たれて驚いていたくせに」 「そうでしたか?」 「覚えてないんですか? 真面目にやってくれなければこちらも稽古になりません。しっかりして下さい」 「気をつけます」 リーディは、屈託がない。 「けど」 ここからがオルフェの聞きたいところだ。 「何か悩み事でもあるんですか。そういうふうに見えるんですけど」 リーディははっとしたが、表情には出さずに微笑して、 「悩みなんて、ありませんよ」 と言った。 「そうですか」 オルフェは不審、というよりも心配げにリーディをのぞき込んでいる。 リーディはむろん、嘘をついている。悩みとは、レノのことだ。というより、レノに対する自分の感情だった。私欲を捨て、修行僧のようにただ自分が殺した者の代わりに生きようとするリーディにとって、この感情は背徳といってよく、それだけにどうにもやりきれなかった。 要するに、この感情に流されてしまえば、リーディは我利によって生きていることになる。 それが、リーディにはつらい。 が、まさかそんなことが言えるはずもなかった。 「本当に、何でもありませんから」 微笑して、そう言うしかない。 それから一ヶ月ほど後の事である。リーディが道場の休みに衛心館の屋敷に呼ばれたのは。 (何だろう?) と思ったが、行かないわけにはいかないし、幸い他にたいした用事はない。 「昼過ぎに行きます」 と、使いの者に返事をして、準備した。 やがて午後になってからリーディが出かけようとすると、どういうわけかオルフェが迎えに来ているという。 「あの、お迎えに参りました」 と、この少女は言った。顔が、心持ち赤くなっている。 リーディはそのことに、丁寧に感謝した。他人の親切にはひどく喜ぶ質で、ありがたくても迷惑に思うところがない。 もっとも、オルフェは親切だけでここまで来たのではなかった。 (気づかないのかな) と思っている。服も、いつも道場で着るような稽古着ではなく、年齢にふさわしい明るいものを着ているし、髪形も変えている。 「髪形、似合ってますね」 リーディは、入口の所でにこにこしながら言ってやった。そういう事には、割合敏感な少年である。 オルフェは赤くなって、ちょっと恥ずかしそうにしている。 歩き出してから、 「ところで、話というのは何ですか?」 と、リーディは訊ねてみた。 が、心当たりがないわけではない。衛心館では今度、病死した師範の代わりの者を決める試合が行われるのである。それに出ろ、というのだろう。 「試合に出ろ、というのなら断ったはずですよ。師範なんて僕の柄じゃないんです」 オルフェはちょっと詰めよるような眼で振り向いて、 「どうしてです? 私だって、出ます」 と不服そうに言った。 リーディは苦笑して、 「オルフェさんは衛心館の人だしね。それに強い」 「ご自分の方が強いくせに」 「そうでもありませんよ」 リーディは、ちょっと哀しそうな顔をした。 「用い方を知らないんです。だから、迷ってばかりいてすっきりしない。弱いんです、僕は」
屋敷に着くとリーディはオルフェに案内されるまま、衛心館の道場主であるライアル・セラディスの部屋に入った。 部屋の中にもう一人、師範代格のエレニスがいた。この二人はオルフェの父と兄に当たっている。 「折り入って頼みたいころがある」 というのが、今日の用件だった。 「ルフィスを知っているか?」 「……」 リーディはむろん、知っている。ルフィス・アーバイトとは衛心館の門下生であり、腕は抜群にできた。が、性格に難があって追従する者の他は容易に近づけず、町中での乱暴が多い。 「知っていると思うが、ルフィスは評判がよくない」 「……そのようですが」 リーディはやや戸惑っている。その事と今回の頼みと、一体どんな関係があるのか。 「そのルフィスが」 と、横からエレニスが口を挟んだ。 「今度の試合に出る」 「……」 「リーディにも出てもらいたい」 微笑して、言った。謹直で、何事にも丁寧な男だったが、剣術はさほどうまくはなかった。だから、 「いくら腕が立つからといって、ルフィスを道場の師範にするわけにはいかない。が、私では腕が劣る。出来るならリーディが試合に出て、師範になってもらいたい」 と言った。むろん、エレニスにすればルフィスの件は自分の力で何とかしたいと思っている。 「……わかりました」 と、リーディは答えざるをえない。 「けど、師範になる件はお断りします。それでよければ、出場します」 「仕方なかろう」 とライアルが言った。 「試合は一月後の四月一日、正午から行う。参加人数は二十人ほどになるだろう」 「わかりました」 「……ルフィスは邪法使いのようなところがある。試合では何をしてくるか分からんから、気をつけることだ。腕はともかく試合ということになれば、わしでも危ういかもしれん」 「肝に命じておきます」 リーディはちょっと笑って言った。 それから一ヶ月が過ぎたが、この間リーディは道場でルフィスの姿を見ていない。おそらくルフィスにすれば、自分の太刀筋をできるだけ人に見せないようにとの配慮によるのだろう。 リーディは、別に気にもしない。 やがて四月一日になった。この日、リーディはようやくルフィスの姿を見ている。といってもたかが一ヶ月のことであり、懐かしいわけでもない。 ルフィス・アーバイトは二十を少し過ぎたくらいの若さで、髪は真紅といっていいほどに赤く、それを長く伸ばしている。腕は相当に立ったが、自分の才能を過信するようなところがあって、常に人を馬鹿にしたような態度をとった。 この日もリーディが近づいて、 「お久しぶりです」 と、にこにこしながら挨拶をしたが、 (ふん) というふうにこの男はそれを無視して行ってしまった。 (困った人だな) と、リーディは思っている。 やがて午後になって試合が始められることになった。 (ルフィスとは三回戦で当たるのか) ということは、リーディは昼食時に貼り出された組み合わせの表を見て知った。 ところが、 (エレニスさんは初戦でルフィスと戦うのか……) ということも、知った。 エレニスも、この一月というもの血を吐くような激しい稽古を受けはしたが、かといって一月でどれほど強くなったかは分からない。 「エレニスさん」 と、リーディは試合の準備で防具をつけ始めているエレニスに話しかけた。 「ああ、リーディか」 エレニスは、微笑して言った。 「俺も運がないな。くじで決まったこととはいえ、初戦でルフィスに当たるとは思ってなかった。俺が負けても、敵はとってくれよ」 「エレニスさんなら、きっと大丈夫ですよ」 「いや、無理だよ。こんなことを言うのは何だが、ルフィスは性格は悪いがとにかくできる。俺が負けてもリーディが勝ってくれればいいさ」 言ってから、エレニスは急に気弱そうな微笑を浮かべた。 「本当を言えば、俺も勝ちたいよ。道場のことでもあるが、それ以上に剣術に関してということでもな」 「……」 「試合が始まるようだ」 エレニスは最後に面をつけて立ち上がった。 「行ってくる」 歩いて、三つある試合場の一つに向かった。 中央では、すでにルフィスが待っている。 勝負は三本。 (隙はあるだろう) と、エレニスは考えている。勝てない、とは言ったものの、勝ちを諦めたわけではない。 (おそらくルフィスは得意の面打ちに来るだろう。それもあの男のことだから、一撃で決めようとするに違いない。その一撃をからくも外せば、何とか勝てるかもしれない) エレニスは中断に構えをとって、肩の力を抜き、試刀の握りも軽くしてできるだけ機敏に動けるようにした。 対して、ルフィスは上段のまま、すでに勝ちをおさめたかのように悠々とした足取りで間合を詰めて来ている。 (……) あと半歩、でルフィスは打ちかかってくるだろう。 (来る) と、リーディが思った瞬間、場内がわっと湧いた。 半歩踏み込みざまに放ったルフィスの一撃をエレニスが素早くかわし、空いたルフィスの面を激しく打ち込んだのである。 鮮やかな一本だった。 双方試合場の中央に戻ったが、ルフィスは意外にも落ち着いている。負けた男の様子ではない。 やがて、二本目。 今度はルフィスも不用意に踏み込んだりはせず、双方とも慎重な打ち合いが続いた。 それが十数合も重なった時のことである。ルフィスの試刀がピタリとエレニスの喉につきつけられた。 エレニスは、不思議と動けない。ほんの目の前にある試刀の先に奇妙なほど体の自由を奪われ、指先一本動かすことができないほどの圧迫を受けた。 ルフィスはそのまま一歩踏み込むなり、強烈な突きを入れた。エレニスは、受身もとれずに後方に転がった。 「一本」 である。 エレニスは倒れたまま念のために指先から少しずつ力を入れて動かしてみた。動く。当たり前のことだ。が、さっきは動かなかった。 (気で、殺されたらしい) 立ち上がりつつ、そんなことを思った。 三本目が始まる。 ルフィスは二本目同様、しばらく打ち合っていたがやがてエレニスの喉にピタリと試刀を合わせた。何の変哲もない正眼である。 が、エレニスは動けない。眼が、ルフィスの構える試刀の先に吸いついて離れなかった。 ルフィスは一歩、踏み込んだ。と同時に上段に振りかぶって面に打ち下ろしている。エレニスの眼は、試刀から離れた。同時にかわそうとした、が及ばず、面を打ち込まれた。 一本、決まった。が、ルフィスは面の奥で残忍な微笑を浮かべ、審判が手を上げる直前にエレニスの左肩を思いっきりぶっ叩いた。 肩には、防具がない。 エレニスはくぐもった呻きをもらしつつ、それでもなお立っていた。 「一本」 と判者が慌てて言った。 エレニスは一礼して道場隅に下がるとそのまま腰を下ろし、左肩を押さえた。 すぐにオルフェとリーディがやって来て、エレニスは、 「肩が抜けたらしい」 と弱々しく微笑した。 リーディは落ち着いて肩を治しにかかったが、オルフェの方は立ったまま下唇をかんで怒りを押し殺している。 (許せない) と思っていた。 「リーディさん、私ちょっと行ってきます」 「どこにです?」 リーディは、落ち着いている。 「決まっています。ルフィスのところに行って、謝らせてやるんです」 リーディはエレニスの肩をぐっと押し上げてから、 「やめておきましょう」 と言った。エレニスは、痛みで顔が青くなったが声だけは何とか飲み込んでいる。 「今は何を言っても聞きませんよ。勝った側というのはそういうものです」 「でも」 「いえ……」 リーディは、立ち上がった。 「僕が何とかします」 一、二回戦と順当に勝ち上がって、リーディは次の出番をぼんやりと待っていた。 そこに、 「リーディ君」 と声をかけて来た者がある。ルフィスだった。この男が丁寧な口調でしゃべると、不気味な感じがした。 「何です?」 「いや、なに」 と、ルフィスは冷笑めいたものを浮かべた。 「エレニスさんの具合はどうかと思ってね。何しろ俺も必死だったから、つい見誤まって肩なんぞを叩いてしまった。大事がなければよいのだが」 「心配はいりません」 とリーディはルフィスの方も見ずに言った。 「あの程度で大事になる人はいませんから」 「リーディ君」 ルフィスは無理に微笑した。 「その言葉、憶えておいてもらおう。もうすぐ我々の試合だが、その後でも同じ言葉を聞きたいものだ」 「……」 ルフィスが去り、やがてリーディは立ち上がった。試合が、始まるのである。 リーディが試合場の中央で待っていると、ルフィスがやや遅れてやって来た。 「逃げたのかと思いました」 と、リーディは珍しく相手をからかってみた。 「まさか、な。俺は君の逃げる時間をやったのさ」 「要らぬ心配です」 「そのようだな」 二人は試刀を軽く合わせてから、二ディル(約二メートル)の間合をとって、構えた。 ――勝負三本。 と、審判が宣する。 瞬間、リーディの試刀が躍り上がってつつと間合を詰めるや、目にも止まらぬ速さでルフィスの面を襲った。 かわす間もない。 ルフィスは深々と面を打たれ、一本を取られた。腕が違う、とはルフィスも気づいたであろうが、そうなるとこの男の性格で素直に認める気にならず、かえってむきになった。 (今のはまぐれだ) と思って、試刀を構え直した。 二本目はルフィスはエレニスにしたように試刀をリーディの喉元につきつけ、気で相手の動きを封じようとした。 が、リーディはほとんど何の反応も見せず、静まり返っている。 (おかしい) と思うと、この男はますます頭に血がのぼってしまい、まともな判断がつかなくなった。 ――やあっ。 と強烈なかけ声をかけて、突きに出た。 が、リーディは落ち着いている。 半身をひねって試刀をかわし、さらにその試刀を押さえつつ自分の試刀をすべらすようにして間合を詰めるや、再びルフィスの面を襲った。 「一本」 と、審判の手が上がった。 ルフィスは打たれた姿勢のまま、呆然としている。 (これはどうしたことか) 思考が、混乱した。平素自分の才に頼って好きなままに行動していたこの男は、事が自分の思い通りに運ばないということがほとんど信じられなかった。 混乱したまま、三本目が始まった。 リーディはその状態を十分に見計りながら鍔せり合いに持ち込み、顔を近づけて、 「悪いけど、罰だと思って下さい」 と、小さく言った。 「?」 ぱっとリーディは跳び下がって、試刀を上げて面を打つと見せた。 ルフィスは、これに過剰に反応した。手が防御のために上がり、同時に胴から脇にかけてががら空きになった。 (ごめん) と思いつつ、リーディは防具外れの脇下を目一杯に叩いた。 ルフィスはあばらがへし曲がるほどの打撃を受けて顔からさっと血が引き、声も出ない。 後はできるだけ軽く籠手をとって、リーディは最後の一本もとり、一礼し、隅に下がった。ルフィスも脇を押さえながら、ゆるゆるとした足取りで下がった。痛むのだろう。 リーディは隅に下がってから、 「あそこまでやっておいて何ですけど、あまり気分のいいものじゃありませんね」 とエレニスに言った。ちょっと、困ったような微笑を浮かべている。 エレニスも苦笑して、 「しかしあれくらいで良かったのかもしれん。あの男には、いい薬になったろう」 「そうでしょうか」 多少、疑わしげに言った。とはいえリーディはむろん、今後この男に命をつけ狙われることになるとは、夢にも思わない。 「ところで」 と、エレニスは話題を変えた。 「オルフェの方は負けたよ。惜しかったが相手のノーファという男の方が一枚上だった。師範には、おそらくこの男がなるよ」 「そうですか」 リーディは、にこにこしている。 「しかし君も妙な男だな」 と、エレニスはリーディの顔を眺めつつ言った。 「衛心館の師範といえば、望んでもそう簡単に得られるものじゃない。それを断るとは、どういう理由だい?」 「さあ」 説明できるわけがない。 リーディは微笑して、 「性に合わないんです。それだけですよ」 と、言った。
二七五年、四月一日のこの試合に優勝して師範の役についたのは、エレニスの言った通りノーファ・レイセルクという男で、リーディは相変わらず平門人として道場に通い続けている。 それから、一ヶ月ほどが過ぎた。 五月三日、リーディはこの日、道場の帰りで遅くなっている。 その途中、事が起こった。 リーディが路地裏の小道に入ったときのことだ。 (あっ) と、跳び下がったのである。剣先が、左腕をかすめていた。 リーディはこの日、剣を帯びていた。実は試合の日以来ルフィスが道場に来なくなっており、 「仕返しするつもりなのかもしれん」 と、エレニスがリーディに用心するようすすめておいたからである。 「誰だ!」 と言いつつ、リーディはゆっくりと天臨を抜いた。 やがて暗がりの中から月の下に姿を現わし、 「俺だよ」 と言ったのは、果然ルフィス・アーバイトであった。月が、この男の例の赤髪を照らして普段よりいっそう恐ろしげに見せていた。 「何の用です?」 リーディは、落ち着いている。真剣のやりとりには慣れていた。 「恨みなら道場ではらして下さい」 「いや」 と言いながら、ルフィスはややうわずっている。リーディの意外なほどの落ち着きぶりに、多少圧(お)されているらしい。 「そうではない。言うなれば、これはクレンフォルンのためだ」 「クレンフォルンの……?」 どこかで聞いたような台詞だ。 ルフィスはリーディの戸惑いを見て落ち着きを取り戻したのか、 「リーディ・オルリアス、貴様は……」 と、わずかに微笑して言った。 「セルフィドの、レティングの人間だろう」 「……」 「だな」 ルフィスは、断定した。 「クレンフォルンの要人を暗殺するのがレティングの仕事だという、がまさか貴様がそうだったとはな、リーディ。貴様はクレンフォルンの敵、といったところか」 「それを」 リーディは表情を厳しくした。 「どうして知っている」 「どうして、か」 ルフィスは笑った。 「俺も不思議だが、あの試合の後で妙な男に会った。その男が俺にサイサリスに入るようすすめたのさ」 「サイサリス? クレンフォルンの暗殺組織はルナストと言うはずだ」 「増築された、とでも言うかな……。が、そんなことはどうでもいい」 ルフィスは手の中の剣を握り直した。刀身が、わずかに赤く輝いている。 「俺はおまえを殺したいのさ」 「迷惑なことです」 言いきった時、ルフィスが放胆にも打ち込んできた。 リーディはそれを避けて下がってから、素早く辺りを見渡し、 (他に人はいない) ということを確認した。 瞬間、リーディは天臨を上段に構え直して一挙に踏み込んだ。真剣は、勢いのついた方の勝ちである。それには攻めの一手しかない。 ルフィスは二、三合ほどまでは受け止めていたが、支えきれなくなって大きく下がった。 それでも構えを崩さずにいたが、やがて、ぱっと逃げた。 リーディは追わない。 (サイサリスか……) と天臨を収めつつ、リーディは妙に暗い予感がしている。
その翌日、二七五年五月四日は朝からの曇天で、いつ雨が降り出してもおかしくない。 この日、 「アルストーク通りの鹿の角£烽ノ集まること」 という通達をレティングの全員が受け取ったのは、午後五時頃のことである。 リーディは出かけた。 目的の店に着いたのは夕刻も少し過ぎた頃のことで、雲のために辺りはやや陰鬱としている。 入ってみると、狭い店内はすでにレティングの人間で一杯だった。皆、思い思いの場所に座って、しきりとしゃべりあっている。が、その内容からして誰もが今日の集合の理由を知らないらしかった。 リーディは奥の方にエディスの姿を見つけて、その隣に座った。 「今日は珍しいですね。こんな風に集まるなんて」 と、エディスの方を向いた。 エディスは返事もせず、黙ったままである。いつもながら無愛想な男だった。が、しばらくして、 「昨日、妙なことがなかったか?」 と訊いてきた。 「?」 「サイサリスの事だよ」 「あっ」 リーディは驚いた。 「どうしてその事を……?」 「俺も襲われた。レティングの大半は、襲われたらしい。二人ほどやられている」 「一体、どういう……」 ことなんです、と訊こうとしたところで、ヴォレス・ディクアスが中央で立ち上がって、 「諸君」 と呼びかけた。 「今夜は我々にとって、重大な決定をしなくてはならない。今後、レティングとしてどうすべきかということである。これについて、二つの道がある。一つはこのトルアスに残ること、もう一つはセルフィドに帰ること」 ヴォレスは何かを確かめるように周りを見渡してから、 「詳細は不明だが、クレンフォルンにはルナストとは別にサイサリスというものが作られたらしい。これが、我々を狙っている。レティングのことはすでに一切露見していると見ていい。この上これと争いつつ我々の役目を果たすのは困難だろう。残るという者があれば、今まで通り仕事と金を与えよう。帰る者も、その世話くらいはするつもりだ。自由に決めて欲しい」 後は、酒になった。 皆、不安を紛らわせるためか、必要以上に口数が多くなり、酒を飲みあった。誰一人として今後のことについて明白な意思を持つ者はなかった。帰れば、一体誰が食わせてくれるのか。この暗殺者達は今更日常的な生活の世界に戻るということについて、ほとんど想像もできないほどに精神を病んでいた。 リーディも、不安である。がこの少年の場合、多少出所が違っていて、今後どうやってセルフィドのために働くのか、ということだった。 「エディス」 と珍しく深刻な表情で、 「これから、どうしますか?」 と、リーディは訊いた。 エディスは相変わらずの無愛想な顔で、 「逃げる、のが利口だろうな。ここに留まれば十中八九死ぬ」 「エディスも」 逃げるのか、とリーディは訊いた。 エディスはずっと前を向いたままだったが、ここで初めて微笑した。 「俺は、死ぬさ。今更逃げる気なんかない」 酒を、ぐっとあおった。 その後一時間ばかり、この連中は騒々しくわめき散らしていた。その間、酒に酔う者や、さらに酒を飲んで机に突っ伏す者もある。 リーディは酒が飲めないから、ただぼんやりと考えごとをしていたが、何か、嫌な予感がした。 目の前で、エディスがさしてうまくもなさそうにして酒をちびりちびりと飲んでいる。 その手が、止まった。 と、同時に店の表口の扉が勢いよく開かれた。開かれて、それっきりである。誰かが入ってくるような気配もない。 「?」 不審に思った一人が、入口の所に近づいた。 「あっ」 と男は叫ぼうとしたが、その背が仰け反り、仰け反ったまま硬直した。淡い光を帯びた剣先が、その背から突き出ている。 男は死体になって店内に転がった。扉は、開いたままである。相変わらずそこには何の変化もない。 が、室内には明らかな変化があった。皆、恐怖に駆られて裏口へ殺到した。 不思議なものだ。この連中は普段、暗殺などという仕事をするだけあって、腕も、度胸も十分に備わっていた。それが、サイサリスという謎の集団への恐怖と、普段とは逆に襲われる立場にあると思った時、彼らはただの臆病者になった。なりふり構わずに逃げることだけを考えた。 裏口の外はぽっかりと空いた広場のようになっている。格好の包囲場所だった。 サイサリスではすでに一帯に包囲陣をめぐらしていて、当然この裏口に対しても人数を配置している。 それらが一斉に襲いかかった。 レティングの連中は応戦した。が、酔って足許のおぼつかない者さえいる。いや、それ以上に怯えというものがこの連中を支配していた。 相手の数も多い。 リーディはさすがに天臨を巧みに操って襲撃者を斬り伏せていたが、次第に疲れが回って手足がねばっこくなって来た。 レティングの不幸はその戦闘の初期に、領袖であるヴォレスが死んだことだった。このため個々ばらばらに闘って、まとまった力が出せない。 突破も、ままならなくなった。このままでは全滅である。が、 「こちらの方が人数が薄い。皆、こっちに集まれ」 というふうな指示を、誰かが出した。 これでようやくこの場は脱したが、このトルアストにおいて逃げ場などはないのである。結局、全員散り散りになって逃げた。 リーディも行く当てのないまま町の大路小路を走っていたが、疲れで今にも倒れそうだった。 (もう駄目かもしれない) と思ったとき、危うく頭上からの剣を避けていた。が、疲れてなかなか次の動作に移れない。 「リーディ」 と、斬りかかって来た男が言った。ルフィスである。 「これは天罰だ。己の業の深さを悔むといい」 頭上に、剣を構えた。魔法剣の赤い光が先程から降り出した雨に煙っている。 ルフィスは、剣を振り下ろした。 火花が散った。 いつの間に現れたのか、エディスが自身の魔法剣でルフィスの剣を防いでいたのである。 「リーディ」 とこの男はルフィスの剣を押さえつつ、言った。 「逃げろ、出来れば町の外へ。レティングはもう終わりだ。大使館も、周りを囲まれている」 ぐっと、ルフィスの剣を押し返して、 「とにかく、自分の才覚で何とかしろ」 と怒鳴った。 「わ、わかった」 リーディははじけるように立ち上がって、再び走り始めた。 とにかくも駆けた。が、しばらくして足がもつれて転んだ。立ち上がれない。疲労の限界なのである。傷ついてもいる。雨に濡れた道に両手をついて、激しく息をついた。 そこに、 「こっちに逃げたぞ」 という声が聞こえた。後ろである。 (まずい) と思った。が、 「こっちか」 という声が、前からも聞こえた。道は一本である。逃げられない。 リーディはとっさに近くの扉を開いて、その中に転がり込んだ。暗くてよくわからないが、祭壇のようなものがあり、教会のようだった。 (隠れないと) と思って長イスの間を這いまわったが、適当なところが見つからない。そのうち、 ――ここに逃げたのではないか。 という声が扉の向こうで聞こえた。 (見つかる) とリーディは覚悟して、柄に手をかけた。 その時のことである。 「どなたです?」 と、蝋燭の明かりがリーディを照らした。
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