6、レティング
ここで十二王国時代について、多少の説明を加えておきたい。 十二王国時代というのは、一五三年のセデューナ建国(この頃はまだ十一王国だが)から二七八年の大同盟締結までの間を言うが、その晩期にあっては、表面やや平穏な時代が続いている。 理由はいくつかあるが、二〇三年から始まった疫病の蔓延が、最も大きいであろう。 この疫病流行以来、各国とも戦争どころではなくなり、人口の減少やそれに伴う労働力の不足、農作物の不足といった事の対応に追われた。 結果として、長らく均衡状態が続き、各国とも他国侵略の名分とその情熱を失って漫然と自国内の統治にのみ気を配るようになった。 この事を固定せしめたのが、二七八年の「大同盟」であり、時のクレネス王フィルディスの奇跡とされる所である。 が、それはともかく、 「表面やや平穏な時代」 が続くにつれ、逆に水面下での争いは激化の一途をたどった。つまり、 暗殺 が横行した。 特にリーディの頃などはその風潮が甚だしく、「暗殺時代」などという物騒な呼ばれ方をしている。史上、王国がその機関として暗殺団を持った、という事も稀であろう。 王城の一室でこの日リーディが言われたレティングというのもそれで、おおよそすべての国が(クレネスとセデューナのものはやや異質ながら)、こうした暗殺団を持っていた。 各王国とも、その事を知っている。 知っているだけでなく、互いが互いの証拠を握っており、結局は黙認しあう形となっていた。もし他国の暗殺に対して非をならせば、かえって自国のそれを暴かれて不利にならないとも限らないからである。 それだけに、暗殺に対しては暗殺でもって防ぐといった暗殺者同士の争いが激化し、ほとんど闇夜の闘争といっていい状態を現出していた。 セルフィドではそういった人間を、リーディのように公式試合によって選ぶこともあったし、直接道場から引き抜くこともあったが、いずれにせよレティングに入れば湯水のように使えるほどの金が手に入るし、何といっても実地に自分の剣の腕を試すことができる。気の荒い者などは自ら進んで参加することが多かった。 レティングというのはそういう、暗殺時代の象徴ともいうべきものであり、リーディという少年は自らその中に入り込んでしまったのである。 といってリーディには、 (国のため) という考えがどこか濃厚にあって、この点どうにも珍しい型に属していると言えた。 ところが、ここで新しい事態が持ち上がったのである。 「君にはクレンフォルンに行ってもらいたい」 ということだった。セルフィドではクレンフォルンに対して常駐の暗殺団を持っている。暗殺団は一面、示威的存在であり小国のセルフィドとしてはそういう不安を紛らわすために、クレンフォルンに暗殺団を置いておくしかなかった。 それを聞いても、リーディは不思議と落ち着いている。 「分かりました」 「詳しいことはこの書類に書いてある。念を押すまでもなかろうが、この事は一切他言無用だ」 家に帰ってから、リーディは渡された封筒を開いてみた。 中に入っていたのは通行許可証に今後の行動を指示したもの、それに何かの紹介状のようなものがあり、別に渡された革袋の中には四十リオンほどの金額が入っていた。 が、リーディは金額などには興味がないから、旅に必要な分を残して全部イリュに上げてしまった。 イリュの方は、驚いた。リーディが現在どういう仕事についているかなどということは少しも分からなかったから、この突然の大金については、しまいには心配になってきてしまって、 「一体どうしたの?」 と何度も訊ねたが、 (答えられるわけがない) と、リーディは思っていた。まさかこの姉のような人物に、自分は暗殺者になりに行くなどとはとても言えないであろうし、言えばどんな事をしてでも引き止めるに違いない。 リーディは、ただ微笑している。が、 「三日後にここを立ちます」 と言ったから、イリュはますます驚いた。
とはいえ、 (どうしようもない) とイリュは思い始めている。リーディが自分からそう言い出した以上、そうするであろうし、聞かずともそれなりの理由があるに違いない。 (好きにさせてやろう) と、やや放任主義的なところのあるイリュは思った。まさかこの優しげな少年が暗殺者をやりに行く、などとは想像もできないであろう。 道場の者や、近所の者などにそのことを伝えた時も、同じような反応を見せた。皆一様に寂しがってはくれたが、たいして深刻には受け取っておらず、すぐに帰ってくるものと思っているようだった。そういう、軽くて明るい想像しか、リーディには合わなかったのだろう。 七月七日、早朝。 リーディがウォルフォードを出発したのは夜明け頃のことながら、大勢の見送りがついてちょうどリーディが村を出た時と同じような風景になった。 「行ってきます」 と、リーディが言ったところまで同じである。 「体に気をつけてね」 イリュは、さすがに寂しそうな顔をした。前日までは気持ち良く送り出してやろうと思っていたのだが、いざとなるといろいろなことが思い出されて、どうにも涙が出そうだった。 が、イリュとしてはこの少年をできるだけ明るく送り出してやりたい。急に笑顔を作って、 「とにかく、かんばってね。やってできない事なんてないんだから」 と、行った。 泣き笑いのような顔になっている。 集まってくれた他の大勢も、泣きそうな顔になっている者が多い。レアスなどは人が好いから、それが甚だしかった。 ただトアド老人だけがいつもと同じ調子で、 「堅固にな」 と言って、見送った。 このリーディの出発に際して最もそれを惜しんだのは、意外にも細工職人のトルク老人だった。 この老人はいつもとは似ても似つかないような声で、 「寂しくなる」 と、しみじみと言った。その後、老人らしい細々とした注意を与えてから、最後に自ら作った細工物をリーディに手渡してやった。 「良い出来ではないが、お前に合わせたのでな」 とトルクは、最後だけはこの老人らしい言い方をした。 丸い金属板に、後脚で立ちあがる一角の馬を透かし彫りにしたもので、紐を通して首からかけられるようになっている。 リーディが意匠(デザイン)したものだが、トルクはそれを彫っておいてくれたものらしかった。リーディはぎゅっと握りしめて、 「大切にします。トルクさん、お元気で」 「ああ、リーディも殊勝にな」 そんな風にして、リーディのウォルフォードでの生活は終わりを告げた。 早朝六時ごろ、リーディは出発した。 ちょうど朝日で空が茜色に染まっており、見送りに来た者を何となく不安にさせた。 (血の色みたいだな) リーディはちょっと目を細め、それから歩き始めた。これから自分がどうなるのかということを、この少年は十分に承知している。 承知しながら、旅立った。 不幸とは、リーディは自分のことを思わない。そういう悲観的な思考が生まれつきできなかったし、このことは自分の意志だと思っている。 それが、この少年の不幸でもあった。
リーディがウォルフォードを出発して、クレンフォルンの王都であるトルアストに着いたのは、それから一ヶ月後のことである。 最初の二、三日こそ初めての一人旅ということで、緊張と疲労が大きかったが、その後は足取りも軽く、旅は順調に進んでいる。 その間、リーディは数日おきに町で道場を訪ねていた。これからのことを考えると、できるだけ剣の感覚を忘れたくない。 ところが、リーディが驚いたのはその訪ねた道場のいくつかで、フィルディスの名前を聞いたことである。 「どういうわけですか?」 とリーディが訊くと、二、三週間前にそういう名前の人が試合に来て、たちまちに相手を倒してしまうと、 「俺は明真館のフィルディスというものだ、が明真館には俺ほどの者ははいて捨てるほどにいる」 と言い残して、去って行ったという。 (ひどい話だな) と、リーディはこの話を聞いて内心苦笑せざるをえなかった。はいて捨てるほど、と言っても明真館には今レアス、トアドの二人くらいしか使える者がいないのである。 が、笑ってばかりもいられなかった。 「明真館とはそれほどのものですか」 などと訊かれると、リーディはこういう罪のない嘘の下手な質(たち)だけに、ひどく困ってしまって、結局曖昧な微笑を浮かべているしかなかった。 リーディの旅というのは、おおむねそんな事で終始している。 クレンフォルンへの国境をリーディが越えたのは、七月も半ばのことである。この時ばかりはリーディも、 (ついに――) と、全身が緊張するのを抑えられなかった。 といって、何が変わるわけでもない。空の色が濃いとか、風の感じがまるで違うということもない。 というより、同じなのだ。セルフィド、クレンフォルンというのは元は一つの国だっただけに、気候、風土が他地域ほどには違わず、言葉や風俗、街行く人の顔の造作さえほとんど違いがないと言ってよかった。 (ここは本当にクレンフォルンなのかな?) と、リーディは心配になってきてしまった。 念のために、その日の宿で亭主にその事を訊ねてみると、 「そりゃ、元は一つの国だからね」 と笑って答えてくれた。 (妙なものだな) と、リーディはちょっとおかしそうに思っている。それほど似ている国に暗殺者としてやって来たということが、リーディの想像からすればどうにも妙だった。 リーディにすれば、ここは敵国なのである。 にもかかわらず、この国はセルフィドと兄弟どころか双子のように似ている。 (妙だな) 思いつつ、リーディは旅を急いだ。 クレンフォルンの王都、トルアストに着いたのは、それから一週間後の七月三十一日のことである。 日中、日が射すとうだるような暑さになった。 その暑さの中で、リーディはこの町に着いてまず、セルフィドの大使館を訪ねている。今後の指示を、ここでもらうためだった。 大使館はトルアストの王城付近にあって、かなり宏壮な造りになっている。外壁は石造りで、ちょっとした砦の観があった。 リーディが門扉を叩くと、使用人らしい女性が現れて、用件を訊ねられた。リーディがウォルフォードで貰った書状の一枚を手渡すと、 「少し、お待ちを」 と言って女は引っ込んだ。確認を取るためだろう。 (それにしても、暑いな) 炎天下で外に待たされるリーディは、そう思わざるをえない。門前はちょうど影がなく、ひどく日当たりがよかった。 と、リーディが気づくと、建物の一階の窓からこちらを見ている人物がある。 くせのある金髪と、人懐っこそうな笑顔の印象的な男で、年は二十六七といったところ。 (誰だろう?) と思いつつも、リーディは引き込まれるようにして男の方に歩き始めている。 「君はここに用があるのかい?」 と、男は窓の向こうから訊ねた。相変わらず、笑顔は浮かべたままである。 「はい……」 「あれかい? 君も、例の口車に乗った口かい?」 「?」 男はどういうわけか、頬をいっそうゆるませてみせた。 「レティングだよ。俺も君の同類さ」 「……」 「いうなれば、ここはそういう蛆虫の集まるところだな。君も、俺も外見は人間だが、中身はすでに人間とは言いがたい」 「僕は……」 と、リーディは怒ったような、戸惑ったような声で言った。 「蛆虫ではありません」 「ほう」 男は感心して見せた。 「君は自分がいっぱしの人間であるとでも思っているのかい? それは傲慢というものさ。俺達はすでに人間であるという頼りない一線を越えてしまっている。それでもなお人間であるというのは、あまりに厚顔すぎる。――ではないか?」 「……分かりません」 「まあ、よかろう。俺も多少言い過ぎたようだ。悪かった」 悪かった、とこの男は最初に見せたような人懐っこい笑顔で言った。 リーディには、この男がどういう種類の人間なのか、よく分からない。 「いえ」 と不得要領に返事をしたが、男はそういうリーディを黙殺して、 「使用人が呼んでいる。行った方がよいだろう」 とあごをしゃくって見せた。なるほど、入口の所で先程取り次ぎに出た女性がこちらの方を見ている。 リーディは一度そちらを見てからもう一度男の方を振り返って、 「僕には分かりませよ」 と、言った。 「なに?」 「いえ、人間ではない、ということです」 そう言って、リーディはちょっと笑った。男の意外なほどの狼狽ぶりが、おかしかったのである。 「また後で、会うことになるかもしれませんね」 と、リーディは嬉しそうに言って、入口の方に向かった。 男は、狐につままれたような顔をしている。
使用人の女性に案内される途中、リーディはさっきの男について訊ねてみた。 テイン・セルス、という名前らしい。セルフィドの西地方であるスルフィスの出身で、前歴のほどについては要領をえなかった。 「ここの人は皆そうです」 と、女が言った。 やがて案内されて一階の奥まった部屋に通されると、中には男が一人、机の向こうに座っている。 「よく来たな」 と、男はまず言った。豪胆、沈毅そうな感じのする男で、多少人を圧するような所がある。つづいて、 「リーディ・オルリアス、か」 と、独り言でもいうようにして言った。そこに本人がいることなど、少しも気にしていない様子である。 「ここでは私の指示に従ってもらおう。君には大使館で暮らしてもらうが、指令のない時は自由にしてよい。ただし一日以上帰って来ない場合は、私の所まで届け出てもらう。それ以上の詳しいことは、順に話すことにしよう。今日は、これまでだ」 と言ってから、男はふと気づいたように、 「そうそう、私の名はヴォレスという」 後は、それっきりである。うんともすんとも言わず、リーディは質問することもできなかった。 「……失礼します」 と言って外に出ると、さっきの女性がいて部屋まで案内するという。 (どうも) とリーディは思った。 (ここでは自由意志というのがないらしい) やがて、 「ここです」 と言って招じられた部屋は、窓が一つ、ベッドが一つという殺風景な部屋で、調度品の類などはまるでなかった。 「夕食の時に、またお呼びに参りますので」 と言って、女は下がった。 リーディは一人にされてみると、急に孤独というものを意識せざるをえなかった。むろん、新しい環境への不馴れさということもあったが、皮肉にもセルフィドの大使館でようやく自分が異国にいるのだということを感じているようなのである。 (妙なものだな) と、そう思うとリーディはいちいち心細がるのがばかばかしくなって、ベッドの上に寝転んだ。 そのまま、眠ったらしい。目覚めた時には窓から夕陽が射し込んでいた。 (もうこんな時間か……) と、まだうすぼんやりした頭で考えながら、リーディは立ち上がって窓に手をかけた。 開けた。 途端に夏の涼しげな夕風が吹き込んできて、リーディはちょっと目を細めた。リーディはウォルフォードでもこんな風にして風を受けるのが好きで、飽きもせずに窓の近くに座って目を細めていることが多かった。 そのまま三十分ばかりぼんやりしていたが、急に扉を叩く音がして、 「夕食です」 と、女の声がした。 リーディが部屋を出ると、食事は一階に食堂があるという。 「普段はお客様のために使われますが、用がない時は今日みたいに使われます」 と説明してくれた。 一階の食堂に入ると、リーディは長机の一番端に座らされて全員がそろうのを待った。全員、というのはこの日たまたま大使館にいたレティングのメンバーのことを指す。ちなみにレティングは本国に十五人、クレンフォルンに十四人の人数を持っている。 (どんな人だろうか) と、リーディは好奇心といっていいほどの明るい感情で、その登場を待っている。あまりに無邪気すぎるようだが、リーディにすればこの連中に「仲間」というほどの意識を持っていた。そのため、考えが暗い方に向かない。 その「仲間」が現れたのはそれからしばらくしてのことで、どの男も皆一度や二度は人を斬ったことのある連中である。 全員、無言のまま席に着くと、そのまま食事が始まった。 (……) 何だか気味の悪い、とリーディはようやくそんなことを考え始めている。人殺しなどという、人生そのものに翳りをつけたような連中が集まったところで、仲良く談笑というわけにもいかないのであろう。 リーディが周りを見渡してみると、なるほど、どの男の顔にもどこか暗い影があって、どう見てもまっとうな人間の姿ではない。その中で、 (あれ?) と、リーディは目を止めた。この日集まった五人の中に、自分と同じ位の年格好の者がいたからである。 (誰だろう) と思うと黙ってはいられない性格である。立ち上がって、 「僕は今日ここに来たリーディ・オルリアスという者です。よろしければ皆さんの名前を知りたいんですが」 と、ひどく気さくな調子で訊ねた。 五人の反応は、鈍い。ほとんど無視したように飯を食っていたが、そのうちの一人が立ち上がった。 テイン・セルスである。リーディは昼間に会っているから、この男の名前だけは知っている。 「俺は、テイン・セルスという」 と、微笑して言った。 それに続くようにして、他の者も順に名前を言っていき、リーディと同じ年格好の男が最後になった。が、何も言わない。 「あの、名前を」 と、リーディが閉口しながら訊くと、男はおそろしく無愛想な顔で、 「エディス・リアラル」 とだけ言った。 が、リーディは別に気にもしない。 「よろしく」 にこにこと笑っている。 「……ああ」 エディスは、多少気味悪げにリーディのことを見ている。 その後、食堂は再び静まり返って、結局口をきく者がなかった。一体何のために集まったのか、分からない。 (妙なところだな) 思いつつ、リーディはこの日眠った。
数日、リーディの日常は何事もなく終わっている。リーディはトルアストの町を散歩したり、大使館の中庭を借りて素振りをしたりしていたが、ある夜、部屋の前に紙切れが置かれているのを見つけた。 「明夜、ヴォレスの部屋まで来るように」 と、書かれている。 (いよいよか) と思うと、リーディは多少腹の震えを覚えないでもない。明日か明後日にはわが意志でもって人を斬ることになるのである。 翌晩、リーディがヴォレスの部屋を訪ねてみると、すでに三人ほどの人数が集まっていた。 「揃ったな」 と言ったのは机に座っていた男で、薄暗いためによくは分からないが、声からしてそれがヴォレスらしい。 「明日の夜、エルトの十三番通りをトイックという男が通る」 ――それを殺せ。 とは、この男は言わない。ただ、 「討ち方はエディスとリーディ。見張りはシルエとフリク」 とのみ言った。ついで、 「リーディ」 「は?」 リーディは慌てた。 「お前は初めてだ。今度のことはエディスに任せればいい」 「……はい」 ちらっ、とエディスの方を見た。 相変わらず、無愛想な顔だ。もっともこの場合愛想がいいというのは、多少気味悪くもある。 「エディスは」 と、リーディは無用の事を訊いた。 「人を斬ったことがあるんですか?」 「お前の他は皆そうだ」 ヴォレスは、苦々しそうに答えた。全く、そうであろう。 が、リーディは不満だった。 (人を斬ったことがあるかないかというのは、そんなにつまらないことではないし、それを確認するのがいけないことなんだろうか) と思っている。とにかくリーディにすれば何も知らないのだから、こういう当たり前のことでも訊いておかなければならない。 ヴォレスは最後に、 「明日の宵の頃にはエルトの青い雫亭に集まっていてもらおう。指揮は、エディスにやってもらう」 と言って、解散となった。 「おい、君は」 とリーディが部屋に帰る途中声をかけて来たのはエディスである。リーディは、暗い廊下で立ち止まった。 「馬鹿じゃあるまいな」 「馬鹿じゃありませんよ」 リーディはちょっと嫌な顔をした。 「それほど変なことはしてないつもりです」 「していたさ」 と、エディスは笑った。笑うと、意外なほどあどけない顔になる。 「君は一体どういう理由でここに来たんだ」 とエディスは訊いた。瞬間、この男の顔はわずかに真剣になったようだったが、どうだろう。 「理由……?」 リーディは考え込んだ。 元をたどれば、むろんフィトンで国を救うように言われ続けて来たことに起因するであろう。が、それと今とはどこか食い違っているような気がしないでもない。 「どうしてでしょうね」 と、リーディは呟くようにして言った。 「分からないのか」 「そうじゃ、ありませんけど……」 リーディはちょっと考えてから、 「なるように、なったんです」 「君には目的とかはないのか?」 「それはありますけど」 「何だ?」 ――セルフィドを救うこと。 というのを、エディスはどういう表情で受け止めるべきか迷った。 (こいつ、馬鹿か) とも思えるし、かといってこの真剣さは尋常ではない。 「本気か?」 と、つい訊ねてみた。 「何がです?」 リーディは、不思議そうな顔をした。この少年にあっては、そのことは義務といってもいいし、生きる目的といってもよく、本気かそうでないかという以前の問題だった。 「そうか」 さすがにこの無愛想な男も気味が悪くなったらしく、それ以上は訊かずにこの日は別れた。
翌日の、宵の口である。 リーディ、エディス達は青い雫£烽ノ集まって、隅の一角に座っていた。リーディはそこで、他の三人が酒を飲むのを眺めている。 「君は飲まないのか?」 と訊いたのはエディスで、この無愛想な男にすれば珍しいことだった。 「いえ」 リーディはちょっと笑って、 「飲めないんです」 「もったいないことだ」 と、シルエ・トルアという男が隣で笑った。 「こんなにうまいものはないぞ」 「いえ、眺めているだけで十分ですから」 そうこうするうちに日が暮れ、辺りが暗くなり始めた。 「行くぞ」 と言ったのはエディスである。この男は誰に対しても遠慮のない言葉を使った。 外は、暗い。が、月があるため明かりは持たずに歩き、途中シルクとフリクはごく自然な様子で別れていった。この二人は路地の端をふさいで人が来ないよう見張る役である。 残ったリーディとエディスが、直接手を下すことになる。 「エディス」 とリーディは歩きつつ、話しかけてみた。 「トイックというのは、どういう人です」 「悪人さ」 「悪人?」 「君は……」 と、エディスは歩きながら言った。 「ちゃんと斬れるのか? そんな事は気にしても始まらない」 「……」 「ここだな」 着いたらしい。 「奴は向こうから来る。俺が奴に声をかけるから、それを合図に君は斬れ」 と、エディスは入って来た方の道を指差して、いいな、と念を押した。 リーディは、頷いている。 時間が、過ぎていった。リーディは落ち着かず、意味もなくきょろきょろとした。こういう間の時間というのは人に思考する余裕を与えてしまうもので、つい要(い)らぬ事を考えるものである。 五分、十分、二十分とたっていくと、リーディはさすがに耐えかね、 「いつになったら来るんでしょうね」 と、つい甘えるようにして訊ねた。 (こいつ、臆したか) とエディスが見たのも無理はない。 「嫌になったか」 ずけりと言った。 「そうじゃありませんけど」 「なら大人しく待つことだ」 エディスはそう言って、後は目をつぶってじっとしている。が、その態度がありありとリーディのことを軽侮していた。 リーディはふてくされるようにして、黙った。 やがて、来た。トイックである。 (来た) と、エディスは小声で知らせてやった。緊張して歯の根も合わなくなるかと思ったが、リーディは意外にも落ち着いている。 (妙な奴だ) と再び思ったが、後は目をつぶっている。 トイックは酔って上気した顔を機嫌良さそうに崩しながら、鼻歌を歌って歩いていく。この男はクレンフォルンの小役人であり、実のところセルフィドに対して多少、侮辱の声が強いというにすぎない。 「トイック・アルバーンさん」 とエディスが呼びかけたのは、この男が二人の前を通り過ぎてすぐである。 「?」 不審そうな顔で、振り向いた。 振り向いたその顔が、そのままの表情で宙を飛んだ。 エディスですらはっとするほど、その首はごく自然に胴から離れ、一個の生物のようにして宙を舞い、やがて道の隅に転がった。 リーディは、すでに剣を収めている。 「エディス、早く行った方がいいよ」 と、ひどく落ち着いた声で言った。 「ああ」 この人殺しには慣れているはずの男でさえ、やや青ざめていた。 二人は駆け足でその場を去ると、町を流れるニーエスト川の前で見張り役の二人と落ち合った。 「首尾は?」 「上々だ」 とエディスが答えた時、どういうわけかリーディはかがみこんで、川の方に向かって激しく胃の中のものを吐いた。思い出したらしい。 「俺とシルエが先に報告に行くから、お前はそいつを送ってやれ」 とフリクが言ったのは、親切心からではなくリーディが発狂でもして余計なことを口走った場合、それを殺せということである。 「分かった」 エディスは返事をして、とりあえずリーディに肩を貸してやった。 ひどく、軽い。 やがてシルエとフリクは大使館に向かい、エディス、リーディはその後を追うようにしてゆっくりと歩き出した。遠目に見れば、酔っ払いの一団に見えないこともない。 (こいつ) と、エディスは黙然と歩きながら考えている。 (一体何を考えているのか) ということだが、エディスのような男には一向に理解できそうもない人間だった。 リーディはよほどショックが大きかったのか、時々立ち止まっては胃の中のものを吐いている。 (こいつ。本当にトイックを斬ったのか?) エディスは半ば本気で、そのことを疑い始めている。これほどまでに苦しんでいる人間が、直接首を刎ねたとは思えない。 が、リーディにすればあの時の落ち着きにしろ、首を刎ねた手際にしろ、すべて必死の努力によってそれを行っている。 (死ぬような思いだった) というのは別に大げさではなく、リーディにすれば今すぐにでも死んでしまいたいとさえ思っている。 それほど、つらい。 もちろん、国のためだと思ってこの苦しみを打ち消すこともできるであろうし、仕方のないことだったと思えないこともない。 が、リーディはひたすら苦しみに耐えている。むろん耐えることが贖罪になるとは、この少年は考えていない。 ただ、思うのだ。 (あの人の分まで生きてやろう) と。奇妙と言えば奇妙すぎる論理だが、要するにリーディにすれば、自分が命を奪ったあの男の生の義務≠ニでも言うべきものを自分が抱えて生きていこう、と言うことなのである。リーディは文字通り、あの男の命を奪った。 リーディは己以外の命を抱えつつ、月の影を踏んで歩いて行く。時々立ち止まっては、胃液まで吐き出した。
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