[愚者の夢]

4、リーディの剣

 幸い、というか月明かりによって相手の姿はよく見てとることができた。身の丈が九十シティング(百八十センチ)ほど、頑強そうな男で、年は三十前後だろう。
 その影が、ものも言わずに動いた。
 剣先がリーディの元に迫った。リーディはその勢いに圧されたようにして、下がった。下がると、男はまた踏み込んでくる。
(まずい)
 とリーディは思うのだが、こうも斬り立てられてはちょっと打ち返す隙がない。
 そのうちかわしきれずに、身に数創を追った。
 その痛みが、リーディに決断させた。
(やるしかない)
 ほとんど目をつぶるような勢いで、リーディは一歩を踏み込み、天臨を振り下ろした。
 手応えが、あった。
 見ると、男は左肩を押さえて後に下がっている。頭部を狙ったつもりが、寸前外されたらしい。
(よかった)
リーディは、ほっとした。斬撃が成功したこともそうだが、何より殺さずにすんだ、ということに安堵したのである。それだけに、
「もうやめませんか」
 と、リーディはつい言ってしまった。
 懇願するような口調である。有利に立った者の出す声ではなかった。
 男は、それを利用した。
(勝てる)
 と自分を励ましつつ、猛然と斬りかかった。
 リーディは一瞬、はっとした。が、それだけである。ゆっくりと正眼に構えるや、剣を上段に舞い上げ、一気に振り下ろした。
 男の顔面から血しぶきが飛び、雪を、赤く染めた。
 リーディは、去った。
 男の死骸だけが、そこに残っている。

 リーディが血まみれになって帰って来ると、イリュはさすがに動転した。が、すぐに落ち着いて、隣の者に医者を呼んでもらい、その間彼女が手当てをした。
「辻斬りにあったんです」
 と、リーディは傷を拭われても顔一つしかめずに言った。どこか呆けたような表情でもある。
 イリュは、その事の方が気になった。
「それで、どうしたの?」
 包帯を巻きつつ、訊ねた。
「逃げて来た?」
「……」
 リーディは、黙ってしまった。
「……」
 イリュも、黙らざるをえない。この少年は自分からでなければ容易にものを言わないのである。が、
「僕が殺したんです」
 と、リーディは不意に、ぽつりと言った。
(えっ)
 イリュは全身に冷水を浴びせられたかのように、冷やっとした。殺した、といったのだろうか?
「今、何て……」
 とイリュが問いただそうとしたところで、扉を叩く音がした。
「医者じゃ、ないですか?」
 とリーディはいつものように言った。イリュは戸惑いつつも、扉を開けた。
 なるほど、イリュも診てもらったことのある近所の医者である。
「患者は、そこの人かね。それともイリュさん、あんたか?」
(え?)
 と思ってから、イリュは自分の顔が真っ青なことに気づいた。
「違います、私じゃなくて、そっちの……リーディの方です」
 慌てて言うと、イリュは部屋を出て、扉を閉めてしまった。内心、自分でも驚くほど動揺している。
(どうしたんだろう)
 と思ったが、もちろん分かっている。リーディのことだ。
(あの子が、人を殺した……?)
 むろん、やむをえずの事には違いないだろうが、問題はそれよりも、リーディ自身の方だった。
(リーディは変わってしまうかもしれない)
 そんな不安がある。それほど、リーディの様子は妙だった。
 しかし、これは杞憂だったのかもしれない。医者が帰った後、ほとんど全身に包帯を巻いたリーディも、やはりリーディだった。痛みに顔をしかめたような、そんな微笑を浮かべている。
 イリュはほっとして、もう遅いから寝ましょう、と言った。
 リーディはうなずいた。

 翌朝、目覚めてみると窓の外は大雪である。
(雪……)
 とリーディはややうつろに思った。やがてベッドを抜け出して、朝食にパンをとろうとした。
 のどを通らなかった。
(……)
 リーディは諦めて手を置き、そっと家を出た。
 外は、まだ薄暗い。リーディは雪の降る町を、ただ無言で歩いて行く。
 いつの間にか、昨日のあの場所へとやって来ていた。
 死体はすでに片づけられたのか、どこにも見当らず、なに事もなかったかのように雪だけが降り積もっている。
(やりきれない)
 とリーディは思った。あの男は完全なまでにこの世から姿を消してしまった。
 消したのは、リーディである。
 そのままとぼとぼと歩いているうちに、道場にやって来ていた。習慣で、足が勝手に動いていたらしい。
 リーディはなんとなく道場に足を入れた。
 誰もいない。それに空気が、骨が凍りつくかというほどに冷たく沈んでいる。
 リーディは試刀をとって、無心にそれを振るった。が、やがて空しくなった。
(何のための剣術か)
 と思ったのである。
(人の命を奪うなんて事は、誰がやっていいことでもない。なら、それを目的とする剣術とは、一体何なんだろう……)
 リーディは、思わず試刀を落としていた。得体の知れぬ絶望が、リーディの中を駆け巡っている。
 が、その時、
「リーディよ」
 と言って、試刀を拾い上げた人物がいる。
 明真館道場主の、トアド老人である。
「ちょっと打ち合わないかい」
 とこの老人は言った。

 立ち合ってみると、リーディは苦もなく打たれた。当然である。やる気が、まるでなかった。
(ふむ)
 と、トアドはリーディの意外なまでの脆さを知った。
「リーディ」
 と声をかけた。
「お前さん、人を殺したかね」
「……どうしてです?」
 リーディは、ようやくしぼり出すように訊いた。
「勘さ」
 と、トアドはかわいた笑い声を立てた。
「もう少し言おう。わしが五十年も前に初めて人を殺した時も、お前さんと同じ顔をしていたのさ」
「どんな顔です?」
「人を殺した顔さ。他に、言いようはあるまい」
「……どうしましたか、その後」
「捨てたさ、剣を。今は道楽だよ。しかしな、リーディよ」
「はい?」
「捨てたって同じさ。どうなるものでもない。捨てるというのは、結局は言い訳さ。償いになぞはならん。それにな、相手を殺す時、逆に自分が殺されてもいいという覚悟があれば、それは人殺しではない」
「でない?」
「そうだ」
 と言ってから、トアドはリーディの目の前に試刀を突きつけた。
「わしは今、お前さんを容易に打ちのめせる位置にある。が、これが逆だったかもしれん。それは偶然のなすところだ。しかしな」
 トアドは言葉を切って、試刀を下ろした。
「偶然とは、人の及ぶところではない。運命のようなものだ。お前さんは殺されず、お前さんの相手は殺された。これは、偶然だ。死ぬべきなら死に、生きるべきなら生きる」
 だから気にすることはない、とトアドは言った。
「剣とは、最も激しく己を試すものさ」
 と、この老人は最後に弱々しく笑って見せた。
 自分はそれに負けたのだ、と言いたいらしい。

 リーディの剣に一種の凄味が生まれたのは、この頃のことである。
「リーディとやると、何だか魂を吸われるような、妙な感覚になる」
 とややおかしそうに言ったのは、レアスである。立ち合ってみると、半分は打ち込まれた。
フィルディスも、同じである。
「変わったな」
 とただ笑っている。
 が、別にリーディは変わったわけではない。この少年は相変わらず、明るい笑顔を見せたりしている。
 リーディ自身、
(変わった)
 などとは思っていない。ただ、勝負に対する考え方は、変わった。今まで、
(いかに相手を倒すか)
 ということに重点を置いていたものが、
(相手が倒れるか、それとも自分が倒れるか)
 と、そんな事を考えるようになった。
 勝負の行方はもはや自分の預り知らぬ所であり、自分はただ精一杯やるだけだ、後のことは知らない。
 と、そんな風に思っているから、自然、勝負かからっとして、しかも真剣の時と変わらないような、底冷えのした雰囲気をかもし出すのである。
「魂が吸われる」
 というのは、要するにリーディが命を賭けるほどの覚悟でやって来るものだから、対戦者も、同じように自分の命をさらさなければならない、とそういうことである。
 ティル・レアリスが何週間ぶりかで道場にやって来たのは、この頃のことである。
 この日、リーディが道場にやって来たのは三時過ぎ頃で、珍しく門人のほとんどが集まっており、なかなかの盛況を呈していた。
(……?)
 と思ったのは道場の中央辺りで、その場の空気だけが凍りついたかと思われるほど、静かに構えている人物を見たからである。
(ティルだな)
 とはすぐに分かった。リーディより二つ年上のこの青年は、どんな時にあってもひっそりとした正眼に構えている。
 ティルの対戦者はたちまち面と胴を打たれ、引き下がった。
 それと入れ替わるように出て来たのは、リーディである。
「一手、お願いします」
 と言って、ティルと同じ正眼に構えをとった。
 ティルはこの青年には似つかわしい、優しげな声で、
「いいよ」
 と答えた。
 双方、共に正眼に構えると、道場の全員が注目した。何しろ道場では抜群の腕を持つ二人である。皆、興味をそそられた。
 試刀を軽くあわせて一礼すると、リーディがまず攻めに出た。が、ティルはそれに応じもせず、一定の間合いを保ちながら、するすると下がっていく。
 それが、ティルの手だった。とにかく相手の試刀をかわし続け、隙を見ると一撃で決めてしまう。
 果然、リーディの体に隙ができた。と見るや、ティルは素早く踏み込んで試刀を振り下ろしている。
 が、面を打ったはずの試刀は虚しく空を切り、それと同時にティルの胴は、高々と打たれていた。
 リーディの勝ちである。
 ティルは面を脱ぐと、微笑を浮かべ、
「強くなった。まさかこんなに早く負けることになるとは思わなかったよ」
 と誉めた。
 リーディは、実のところ返事を返すどころでないほどに、息が荒い。
 面を打たれそうになった瞬間、リーディ本人ですら、
(これは打たれる)
 と思ったものが、どういう訳か体だけが恐ろしい勢いで動いて試刀をかわし、しかもかわしてから寸刻も置かずにティルの胴を打った。その間リーディの思考というのは、(打たれる)と思った瞬間から少しも動いてはいない。
 勝てたのが、自分でも不思議だった。
「すみませんが、もう一本お願いします」
 と、ようやく息を整え終わってから言った。
 ティルは体調が良いらしく、血色の良い顔をほころばして、
「何本でも、受けるよ」
 と言って、面を被り直した。
 双方再び相正眼に構えたが、今度はリーディが苦もなく二本とられた。端から見れば、別人のように弱い、がティルは笑って、
「考えすぎてるよ、リーディ。さっきの一撃はごく自然に体が動いたものだ。もっと力を抜いて、楽に構えた方がいい」
 ティルには、リーディが何をしたいのか、ということが分かっている。
「忘我の状態になるんだ。眠っているような感じで、体が自然に動くようにしてやればいい」
「難しそうですね」
 リーディは苦笑しながらも、言われた通りにやってみようとした。
 まず全身の力を抜き、次に思考を断った。
(完璧だな)
 とティルが思ったのは、リーディが完全に隙だらけになったことである。
「それでいいよ。後は体に任せればいい」
 言うなり、目に止まらぬ速さで試刀を振るった。
(……)
 次の瞬間、リーディは自分がどう動いたのか、覚えていない。が、ふと気づくとティルが左後で片膝をついている。
「ティル?」
 言うと、ティルは少しふらふらとした調子で立ち上がり、
「ああ、君が面をとった」
 と、微笑した。
(勝ったのか)
 が、リーディにはまるで実感がない。

 結局、この日リーディがティルから奪えたのは、偶然と言ってよいほどのあの二本だけである。
(やっぱり、強いな)
 と、リーディは今も門下生を相手にしているティルを見て思った。明真館では人に教えられる者というのはティルくらいなもので、自然ティルが門下生に教えざるをえない。特に今日のような門下生の多いに日には、ティルは大変だった。
 ティルは、自身が病弱なくせに人の世話を焼きたがるところがあって、いちいち門下生の全員と立ち合っては手直ししてやるのである。
 レアスはそれを、半ば恐縮しつつも心配して、
「ティルも、それだけ相手にしていると疲れるだろう。俺が代わるよ」
 と言うのだが、ティルはまるで聞かず、
「好きなんです」
 と微笑してしまう。
 ティルがようやく門下生全員と立ち合い終わった頃には、すでに日が暮れて道場は薄暗くなっていた。
「ご苦労さま」
 と言って、レアスは手拭を渡した。
 ティルは礼を言ってそれを受け取ったが、かといって面を脱いで顔を拭おうともしない。
 汗が出ていなかった。
「ティル、お前……」
 レアスがそれに気づいて何か言おうとしたが、やめた。言うべきことではなかった。
「リーディがまだ残っているみたいですね」
 と、ティルはわざと別なことを訊いた。
「ああ、普段はあいつが一番熱心だからな。……いつもはお前の方が先に帰っちまうから、知らなかったろう」
「ええ」
 微笑すると、ティルは面を脱いで、防具を片づけ始めているリーディの所に行った。
「ちょっと付き合わないかい?」
 と言って試刀をかかげたから、リーディは多少驚いている。
「いいですけど、体は、いいんですか?」
「大丈夫だよ。今日は何だか調子がいいんだ」
 その時の微笑が、恐ろしくなるくらい澄んでいた。
(この人は……)
 と、リーディはレアスと同じことを思ったが、レアスと違うのはそのことを口にしたことである。
「あと、どのくらいです?」
 ティルは、どういう類のものかよく分からないような微笑を浮かべ、
「半年だそうだ」
 と言った。
「だから、さ。調子がいいというのは本当だが、少し無理はしているな。でも、これからも出来るだけ道場に来るつもりだよ」
 ティルは、自分の残り少ない余生を剣に費やすつもりなのである。この物静かな若者には、自分の中の血を最も熱く燃焼させることのできる剣術でもって、この世の最期の思い出とするのが、望みらしかった。
 まだ、十九である。恐ろしいほどに欲というものが薄い。
「ティルは、もっと生きていたいと思いますか?」
 と、リーディは一時間ほど打ち合いをして一緒に道場を出ようとしたところで、訊いてみた。多少残酷だとは自分でも思ったが、リーディはどうしても訊いておきたい。
 ティルはちょっと考えてから、
「生きたい。が、別に悔やんではいない。俺は自分の生きれる限りを生きた。満足しているよ。人間、生き死になどは天に任せてしまった方がいい」
「けど、ティルなら剣で名を轟かすことだって出来たはずです」
「そうかもしれない」
 と、ティルは笑った。
「俺も、そのことには少し恨みがある。だから、リーディに一つ、頼みがあるんだ」
「はい?」
「俺の剣を継いで欲しい」
 とティルは言った。
「俺が十年間磨き続けて来た剣技を、君に受け取って欲しい。それで、俺の悔いは全部なくなる」
「でも」
「いや、君でないと駄目なんだ。君なら俺の剣を十二分に活かしてくれる……、そう思った」
 ティルは立ち止まって、空を見上げた。つられるように、リーディも顔を上げた。
 星がなく、月だけが輝いている。
「僕は……」
 と、リーディは顔をうつむけてから言った。
「どこまでいっても僕です。ティルにはなれないんです。それでも僕に剣を継いでもらいたいんですか? 僕が剣を継いだって、それでティルが生きることにはならないんですよ」
 リーディは、ティルの方を見た。
「僕はティルの剣を継いでティルになるのはごめんです。ティルも、そんなことをする必要はありません」
 だから断わります、とリーディは静かに言った。
 ティルは空を見上げたまま、ついに一言も口をきかない。

 半年。
 この間、リーディはつかれたようにして剣術に没頭した。
 眠る間もない。
 というのは、別に言い過ぎではない。リーディの方に、そうするだけの理由があった。
 ティル・レアリスである。この青年はあれ以来道場に来ることがなく、家で床に伏している。別にリーディが彼の頼みを断ったのを恨んだわけではなく、病状が思わしくない。むろん、自分の死に対する暗い考えのせいもあった。
 リーディにはどうすることもできない。
 が、考えた末、
(僕がティルの剣を越えれば、どうだろう)
 と思った。ティルの存念というのは、せっかくの自分の剣が消えてしまうことにあったが、むしろこの若者の固執する所は、自分の剣が完成しているのならば、虚しくそれを消すことが耐えられない、という所にあった。
 つまるところ、ティルは自分の剣を残さずとも、それに勝る剣があれば満足なのである。
 しかし、容易ではない。
 なにしろティルは病身の身になってからは道場にあまり来なくなったとはいえ、尋常に立ち合えば、フィルディス、レアスどころか、トアドでも敵わなかった。
 リーディはレアス、フィルディスとは互角に立ちまわったが、トアドには相変わらず一段劣っている。
(死ぬ気でやらないと)
 と、リーディが決意したのも、無理はなかった。
 それから、半年が経ったのである。
 月日でいえば、二七四年の六月四日。この日、小雨が降っていた。
 リーディは昼の少し前にティルの家を訪ねている。
「ああ、リーディさん」
 と、ティルの妹のシルフィが応対に出て来 て案内してくれた。
「ティルは、どんな具合です?」
 とリーディは訊いてみた。
 シルフィは首を振って、
「あまり良くありません。お医者さんの話だと、後一週間だって。でも、うそですよね、そんなの。あの兄さんがそんなに簡単に死んだりするなんて」
 わざと、明るく言った。がこの少女はすでに兄がどのような運命にあるのかを、知っている。
(……)
 ティルの部屋の前に来た。
「シルフィです。入ります」
 と言って二人が入ると、ティルはベッドの上で座っていた。
「ああ、リーディか」
 ふっと、微笑を浮かべた。
「久しぶりだけど、道場の方はどうだい?」
「皆、心配しています」
「そうかい」
 かすかに微笑した。が、その顔色がほとんど土気色といってよいほどに悪い。
 リーディはその顔色を見ていると、さすがに用件を切り出すことができなかった。
「あの……」
 どうにも黙りこくっていると、ティルの方は微笑して、
「何でも言ってくれ。俺が死んでからだと、後悔もできないよ」
 と言った。
 リーディは意を決したようにじっとティルを見つめ、やがて、
「僕と試合をして欲しいんです」
 と言った。
 ガチャンと音がして、思わず花瓶をとり落としていたのはシルフィである。
「リーディさん、そんなの、あんまりにも……」
 と、ほとんど蒼白に近い顔でシルフィは言った。
「無理です。兄さんは病気なんですよ」
 事実、無理に違いなかった。ティルの病状はすでに死の一歩手前と言ってよく、激しい運動などすればそのまま死んでしまいかねないのである。
「無理です」
 シルフィは断固として言った。
「いくらリーディさんが頼んだって、それだけは承知しかねます」
(そうかもしれない)
 と、リーディですら思っている。ティルの状態は、外見からしてすでに試合に耐えられるものではなかった。
(やはり、無理だろうか)
 そう思い、ほとんどそれを言いかけたところで、ティルが口を開いた。
「やろう」
「兄さん」
 シルフィが、悲鳴のような声を上げた。
「無理よ死んじゃうかもしれないのよ」
「悪いが、シルフィは少し黙っていてくれ」
 と、ティルは静かに押しとどめた。
「これは俺の問題だ。それに……」
 ふっと微笑して、
「もしかしたら、これで楽になれるかもしれない」

 六月五日は、昨日から降り続いた雨が大雨になっている。
 リーディが道場に向かう途中、しきりに雷が鳴った。
(嫌な天気だな)
 とリーディは思った。時刻は昼過ぎに近かったが、雲に隠れていて太陽が見えなかった。
 やがて道場に着くと、入口のところで門下生の一人が、
「ティルはもう来てるよ」
 と教えてくれた。それから声をひそめ、
「顔が、死人のようだった」
 と、寂しげに言った。おそらく、道場の全員が同じ思いでいるに違いない。
「みんなは、集まりましたか?」
 とリーディは訊ねた。昨日、試合をすることになってから、リーディは門下生全員に集まってもらうよう頼んだのである。ティルの最後の試合だろうから、全員に集まって欲しかった。
「まだ、二、三人来ておらんが、おっつけやって来るだろう」
 リーディは頷いて、道場の方に向かった。
 なるほど、道場の隅に三十人ばかりの人数がずらっと並んでいて、門下生のほとんどは集まったようである。その一番端っこには、シルフィの姿もある。
(ティルは……)
 探すまでもなく、道場中央で一人面だけを脱いで座っている。相変わらず澄みきった湖のような様子だが、今日は耳に痛いほどの静寂すら感じられた。
 リーディは防具をつけ、ティルと同じように面だけはつけずに、その前に座った。
「あの……」
 とリーディが何か言おうとすると、ティルは微笑して、それを押しとどめた。
(すべて、分かっている)
 そんな微笑である。
 その後門下生全員が集まるまで、二人はじっと向き合っていたが、やがて、同時に立ち上がった。
 審判役のトアド老人が進み出て、
「勝負三本」
 と、宣した。
 試合が、始まる。

 リーディはこの半年間というもの、
(どうすればティルを倒せるか)
 ということだけを考えてきた。
 なにしろティルは面や籠手を狙っても巧みにかわし、すぐさまその隙をついて打ちかかってきて、その点無類の強さがある。
(何とかできないかな)
 と考えるうちに、今日になってしまった。
 策は、ある。
 が、自信はない。
 リーディは正眼に構えつつ、慎重に足を運んでいる。
 対してティルはやや上向きの中段で、やはりいつものごとくひっそりと静まり返った構えである。
(やってみるだけだ)
 とリーディは自分を励まして、突如パッと跳びかかった。
(無謀な)
 と、その瞬間道場の誰もが思った。
 案の定、ティルの面を襲ったリーディの試刀はスッとかわされて、それとほとんど同時にティルの試刀リーディの面にのびている。
(今だ)
 とリーディは思った。ほとんどしゃがみこむような調子で前に進み、振り向きざまティルの胴を払った。
(やった)
 と、一瞬リーディは思ったが、どういう訳か頭に衝撃が走って、視界が飛んだ。
「一本」
 トアドの声が、道場に響いた。
(打たれた……?)
 と、リーディには訳が分からない。目を転じてみると、ティルはすでに元の位置に戻って何事もなかったかのように構えている。
(ティルの面打ちの変化の方が、速かったんだ)
 と思って、リーディは立ち上がり、再びティルの前に立った。
 トアドの声がかかると、双方パッと跳び下がった。
(意外な)
 と道場にいた者は思った。あれだけ見事な勝ちを取った以上、てっきりティルが攻めるものと思ったのである。
 が、ティルはリーディの変化に気づいている。
(無心だな)

 リーディは、無心である。とはいえ、
(もうこれしかない)
 と思った上での、言わば一か八かの賭けといってよかった。
(無心で剣が振るえれば、確かに相手は倒せる。けど、逆に据え物のように打ち込まれかねない)
 そういう賭博的な手しか、もはやリーディには残されていなかった。
 リーディは覚悟を決め、跳び下がった瞬間無心を作った。
(体が自然に動くように)
 ということのみを頭の奥で意識しつつ、ほとんど思考を断ったのである。
 自然、隙だらけになった。
 が、ティルは攻めあぐんでいる。何しろ相手が何も考えていないのだから、どう動いてくるのかが分からず、こちらとしては手の出しようがなかった。
 とはいえ、ティルには一つの疑念がある。
 なるほどリーディは無心になって、今隙だらけの体をさらしているが、かといってリーディが無心のまま剣を振るえるのか、という事は分からないのである。
 ティルは軽く試刀を握り直すや、雷光のような素早さでそれを振るった。
 瞬間、リーディの体は跳ね上がるような勢いで床を蹴って、ほとんど同時にティルの胴を襲っている。
 ところが、ティルの試刀は急速に変化して、リーディの横面を襲った。
(あっ)
 と思ったのはリーディである。横面を叩かれた衝撃と一緒に意識が醒めてしまい、一瞬、
(負けたのか)
 と冷汗が出た。が、トアドはすぐに、
「相撃ち」
 と判じた。リーディの胴打ちとティルの面打ちは、ほぼ同時に決まったらしい。
(相撃ち……)
 リーディは、ほっとした。残る一本で勝負が決まるわけである。
(次は)
 と思いつつ、リーディは道場の中央へ戻った。
 ティルも、無言のまま戻っている。が、息も乱れず、汗もかいておらず、どう見てもおかしい。
「三本目」
 とトアドが宣した。と同時にティルは試刀を上段にとり、今までにない構えを見せた。
 リーディは無心のまま、微動だにしない。
 立場が、逆転していた。動がティル、静がリーディである。
(奇妙な)
 とすぐ側で見ているトアド老人は思った。ティルの上段など見たこともないし、この男がこれほど激しい攻めの構えを見せることも、未だかってなかったことである。
(やけになるような男ではない。おそらく、これしかないと思ったのだろう)
 ティルは守りを捨て、攻めに専念することで、リーディの反射的な剣よりも速く打ち込むことを考えたのだろう。
(それしか、ないのかもしれん)
 双方しばらくじっとしていたが、突如、ティルが一歩足を踏み込んで猛烈な攻めに出た。
 リーディは防戦一方のまま、とんとんと後に下がって行く。
 それが道場の端まで来て、リーディが足を踏み止めた瞬間、ティルの試刀がほとんどうなるようにして振り下ろされた。
 リーディは一瞬、闇の中に沈んだような気がした。
 その次の瞬間。
 リーディの影が動いてティルの面を打ち、そのまま二ディル(約二メートル)ほど前に行って、振り向いた。
 ティルは、構えを解いて立っていた。
「一本」

――Thanks for your reading.

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