[愚者の夢]

3、明真館

 イリュの言う、
「物好き」
 ではないが、リーディはその後、ちょっと並外れた稽古をしていた。
 朝は夜の明けきらぬうちから道場に行き、暗がりの中で一人素振りをする。その後道場生の誰彼が来ると次の者が来るまでとにかく打ち合うのである。それを夕暮れまで続け、一度体を洗ってから家に帰る。
 それだけに、強くなった。
 最初さほどの差でもなかったアファスが、一ヶ月もすると三本に一本も取れなくなったし、他の年上の先輩達もリーディに及ぶ者がない。
 ただし、例外が四人いた。
 一人は、フィルディス・フォルト。もう一人は同じく師範代のティル・レアリスという人で、病弱なために道場に来ることは滅多になかったが、それでもリーディは一度勝負して三本中三本とも取られている。
 三人目はレアス・クレアードである。明真館師範であるこの男は、師範を務めるだけあって、十分な腕を持っていた。が、どこか大所で抜けているようでもある。
 最後の一人は、明真館の道場主であり、レアスの祖父に当たる、トアド・クレアード老人である。七十に届こうかという高齢だったが、レアス、フィルディスともこの老人にはかなわなかった。
 飄然としている。
 たとえば道場で誰かがこの老人に指導を頼んだとしても、大抵は笑ってとり合わず、
「後三年もしたらな」
 などといって、相手にしない。
 リーディがこの老人と立ち合ったのは、入門して二週間ほどのことである。
 昼間、リーディが防具を脱いで帰り仕度をしていると、この老人はそれを呼び止め、
「何故、帰る」
 と言った。リーディがいつもは夕暮れになって帰るのを、知っているらしい。
「用事があります」
 ということを、リーディは丁寧に言った。フィルディスとの一件以来、リーディは時として無用なほどの丁寧さで人と接することがある。
 この時も、そうだった。
 トアドはそれが気にくわなかったらしい。しかめっ面をつくって、
「リーディ、わしと立ち合え」
 と言った。
「え?」
 という表情を、リーディはした。これから帰るところではないか。
「でも……」
「でももくそもあるか。はよう仕度して道場に出ろ」
「はい……」
 リーディは仕方なく一度脱いだ防具を改めてつけ直し、道場の方に出た。
 が、当のトアドは防具もつけず、平服のまま試刀を一本持ったきりである。
「先生、準備を」
 とリーディは困ったように言った。
「準備か」
 トアドはリーディの方をじろりと見て、
「いらん」
 とだけ言った。
 ともかく立ち合ってみた。が、リーディはむろん、遠慮して打ち込むどころではない。
「何をしておる」
 と、トアドは大喝した。
「来い」
「行きます」
 リーディは覚悟を決め、一転して上段に構えをとった。一挙に打ち据えるつもりである。
(なかなか……)
 トアドは内心、この少年の意外な思い切りのよさに、舌を巻く思いだった。
 が、試合はまるで試合にならない。リーディは散々に打ち込まれた末、最後には軽い脳震盪を起こして道場の隅に下がっている。
(どうして勝てないのか)
 面を脱いだ時、悔しさで涙がにじんだ。自分が、ひどくみじめに思えた。
 フィルディスの時とは、違う感情である。あの時は、負けを認められた。が、今度はそうではない。第一、トアドは防具をつけていなかった。
(あれじゃ打ち込めない)
 卑怯ではないか、とリーディは悔しまぎれに思った。
「リーディ」
 と、この時まるでいつもと同じ調子で声をかけて来たのは、レアスである。
 リーディは慌てて涙をぬぐって、
「何です?」
 と、訊ね返した。
「先生が呼んでいる。ちょっと向こうの方に行ってくれないか」
「先生が?」
 どういうわけだろう。
「何、あれで滅多に怒らない人だから、心配しなくても大丈夫さ」
 とレアスはいかにも簡単そうに言うが、リーディにすれば内心恐怖に近いものがあった。
(一体何の用だろう)
 不気味である。

 明真館道場主であるトアド老人の部屋は、道場隣りの二階建ての建物にある。二階の一画にあるその部屋は、簡素でほとんど調度品の類といったものがなく、わずかに書き物のための机と、寝台があるきりだった。
 むろん貧乏道場ということもあるのだろうが、この事はむしろトアドの性格によるものらしい。
 リーディはその部屋で用意されたイスに座っている。
 それっきりだった。
 トアドは机の方に向かったまま、書き物でもしているのか、うんともすんとも言わない。
 リーディにとって、嫌な時間が流れ始めた。こういう場合、待っていると想像の方だけが勝手に膨らんで、落ち着かないのだ。叱るなり罵倒するなり、早くして欲しかった。
「あの」
 とついに耐えかねて、小さな声で訊いた。
「何の御用でしょう?」
 トアドはようやく振り向いたが、その顔が笑っている。
「そんなに怖がるもんじゃないよ」
 と、この老人は言った。
「わしはお前さんにちょっと忠告がしてやりたくてな」
「忠告、ですか……?」
 リーディは、意外そうな顔をした。
「そうだ」
 と、この老人はまず、
「お前さんは人を気にしすぎている」
 と言った。
「あの試合、お前さんは初め容易にわしに打ちかかってこれなんだ。わしが防具をつけていなかったからであろうが、それは間違いだ。お前さんは有利になったのだ、何故それを利用しない」
「でもそれは卑怯です」
「試合だから公平に立ち合わねばならんというのか? それこそ了見違いだよ。そう思うのなら、何故あの時自分の防具を脱がなんだのか。それもせず、ただわしのことを卑怯と言うのなら、お前はその何倍も卑怯ではないか」
「……」
「いいか、リーディよ」
 と、トアドはここに来て初めてリーディの名前を呼んだ。
「己を縛るな。そして己を縛るものとは自分自身でしかない。事の状況が己を縛るのではない。周囲の状況に流される今のお前さんは、卑怯でしかないよ」
 トアドはそう言うと、さっさとリーディを追い出してしまった。勢い、リーディは質問の機会を失い、この事について自分で考えざるをえない。
(僕が卑怯?)
 リーディの分からないのは、そのことである。

 夕暮れになって、ようやく道場を出た時にもリーディその事を考えていた。
(つまりは)
 と、リーディはおぼろげながら、トアドの言った事の意味が分かりかけている。
(僕はあの状況で何の対応もせず、何の対応もしないくせにその状況を不服だと思った。それが、卑怯と言うことかな)
 そうであろう、がそうするとまた別な疑問が涌いた。
(不服と思わないため、あるいは不服をはね返すためにはどうしたらいいんだろう)
 こちらの方が、よほど重大な問題を言える。
 リーディは考え込んだ。考え込んだが、どうにもまとまらない。
(わからないなぁ)
 途方に暮れる思いである。
 そうするうちに、家の前に戻っていた。
(どうしよう……)
 もう少し歩いて考えようかとも思ったが、その時ちょうど一階の扉が開いてイリュが顔を出した。
「あら?」
 という表情が、背後からの明かりで見てとることができる。察するところ、今からリーディを探しに行くところだったらしい。
(心配してくれたのかな)
 と、リーディは内心ちょっと嬉しかったが、まだ、ぼんやりしている。それが、
「昼間はどうしたの?」
 とイリュに訊かれ、リーディはようやく「あっ」と慌てた。そういえば、イリュに町を案内してもらう約束をしていたのである。
「その、忘れてたわけじゃないんです。けど、えと……」
 どうもしどろもどろになってうまくしゃべれない。
「そんなにびっくりしなくてもいいわよ」
 と、イリュはおかしそうに笑った。いちいち思った通りの反応をしてくれる少年なのである。
「でも、話は夕飯の後にしましょう。お昼から食べてないんでしょう?」
 とイリュは階段を登って二階に行き、リーディもちょっと慌てながら後に続いた。
 食事を終えると、リーディは例によって今日のことを包み隠さずに話した。
「ふーん」
 と、イリュはどこか疑いのある目でリーディを見ている。
(妙なことを教えているな)
 とイリュは思った。イリュにすれば安いというだけの理由で選んだ明真館に、多少の疑いを持っている。心配でもあった。
「イリュさんは、どう思いますか?」
 と突然訊かれ、イリュはつまった。
「何のこと?」
 と訊き返すと、
「卑怯にならないための方法です」
 と、リーディは言った。
 イリュは明真館のことを考えていて、それどころではなかったから、
「さあ、何でも一生懸命にやればいいんじゃないかしら?」
 と適当に答えてしまった。
 リーディはよく分からない顔をしながら、
(一生懸命か……)
 と考えてみた。
(何でも真剣にやれということかな)
 と結論づけて、一応それで納得した。
 が、イリュの方はそうはいかない。
(大丈夫かしら?)
 不安になって来たのである。

 イリュ・フラズという女性は、行動力がありすぎるくらいある女性だったが、かといって尋常でないのは、この次の日にリーディのいないことを幸いにして明真館を訪ねていることだった。
 もちろん、
(どんな所だろう)
 ということを確かめるためである。
 明真館につくと、イリュはすぐさま、
「見学させて下さい」
 と、レアスに申し込んだ。
 レアスは内心、不審ではあったが、ともかく許可した。
(別に困ることでもない)
 と思っていたのだが、次第にイリュの目が尋常でないことに気がついた。
(これは)
 どうしたことだろう、と思っていたところでイリュが突然立ち上がり、
「私に試刀、防具を貸して下さい」
 と言ったから、レアスはびっくりして声も出なかった。
「あなたが……?」
 とようやくそれだけを訊いた。
 イリュは当然ですというふうに頷いて、
「早くして下さい」
 と、たたみかけるようにして言った。
 レアスはその剣幕におされて、つい試刀、防具を用意してしまった。この男の抜けている部分というのは、こういうところといっていい。
 イリュは防具のつけ方などはまるで知らないはずだが、どういうわけか手順よく着込んでしまい、試刀を持って立ち上がった。
(どうするのか)
 とレアスが呆然としていると、イリュは道場の方に歩いて行って、打ち合っていた一人の肩をポンと叩いた。
「相手をして下さい」
「えっ」
 叩かれた方は、たまったものではない。怯えるようにしてレアスの方を見た。
 レアスも、どうしてよいか分からなかった。が、とにかく頷いて見せた。相手をしてさし上げろ、ということだ。
 肩を叩かれた男はそれを見ると、やや上ずった調子で、
「で、では、お願いします」
 とイリュに答えた。イリュという女性には、どこか男を緊張させるところがあるらしい。
 イリュはさらに、
「本気でお願いします」
 と言ったから、相手はますます困惑してしまった。もっともこれが他道場なら、
 ――女ふぜいが何を言う。怪我をしないうちに帰ることだ。
 と一笑されそうなものだが、この道場ではどこか抜けていて、そういう覇気に欠けている。師範であるレアスの人徳のほど、というべきだろう。
 この男も、すでに気を呑まれてしまったかのように、
「はい」
 と答えてしまった。勝負と言うのは気を呑まれた方の負けである。男は立ち合ってみたが、まるでどう動いてよいか分からず、全くの素人で試刀の握り方さえ逆になっているイリュの前に、こてんぱんにされてしまった。
(ひどいものだな)
 とレアスは冷や汗の出る思いで、それを見ている。今でこそ落ち着いているが、さっきのような状態でやっていれば、レアスとてどうなるか分かったものではない。
 が、今は落ち着いている。
「イリュさん、今度は私が相手をしましょう」
 と、こちらから声をかけた。自然、イリュはそれを受ける形にならざるをえない。
 立ち合うと、まるで嘘のようにイリュの動きが滑稽になった。どう打ち込んでみてもレアスの試刀に軽々と受け流されてしまい、その度にイリュの三つ編みがぴょん、と跳ね上がった。
(おかしいわね)
 とイリュは息を切らしながら思ったが、おかしいのは周りの者達である。必死に笑いをこらえていた。
 レアスはそういう空気にすぐ気づいて、
(これは、まずいな)
 と、イリュのためにできるだけ軽く籠手を叩いて試刀を落としてやった。
「あっ」
 とイリュは驚いて、どういう負けん気の強さか、その落ちた試刀を拾おうとした。
「イリュさん」
 レアスはやや呆れる思いながら、試刀をぴたっとイリュの面に当て、
「あなたの負けです」
 と宣言した。その一方で、
(この勝負のこだわりは見習うべきかな)
 と、日頃の自分の淡白さを振り返ったりしている。
「イリュさん」
 とレアスはもう一度呼びかけ、試刀を退け、自身の面をはずした。
「リーディのことなら心配はいりませんよ。彼は筋がいいから、きっと強くなります。こんな安道場でも」
 言ってから、にこっと笑った。
 イリュは真赤になりながら、それでも虚勢をはって、
「そうですね。こんな頼りない師範でもきっと大丈夫でしょうね」
 と言った。
 レアスはどうにも負けたな、と思った。

 その後、どういうわけかイリュが道場に通うようになった。初めの内こそリーディのいない日に通っていたが、すぐにばれて、結局イリュは暇さえあれば道場に出かけるようになった。
(どうしたんだろう)
 とリーディはしきりに首をかしげていたが、すぐ本人から説明された。
「くやしい」
 と言うのである。
「あのレアスという師範にこてんぱんにされたのがくやしい」
 当のレアスこそ、いい面の皮である。
 ところが、いい面の皮がレアスだけでなくリーディにも振りかかって来た。イリュが道場に通うようになったため、その分の費用も払わねばならず、結果としてリーディも働かねばならなくなったのである。
 これには、リーディも閉口した。
 が、イリュはこういうことになると頓着がなくなるのか、勝手に働く先まで決めてしまっている。
「明日からコルツ地区の細工職人のトルクという人のところで働いて。話はもうつけてあるから、後は向こうで説明を聞いて……」
「イリュさん」
 とリーディは気弱な声を出した。
「何?」
「その、僕も働くんですか? 道場の方は」
「大丈夫よ。働くっていってもちょっとした用事を言いつけられる程度だし、働きながらでも道場には通えるでしょう?」
「それは、そうですけど……」
 どうも言い返す言葉がない。第一リーディは居候のようなもので、とても反目のしようがなかった。
「いい? 明日からよ」
 というので、リーディはその翌日、イリュの言う細工職人の元を訪ねている。
 イリュの借家から十分も歩けばつく程度の距離で、ちょうど明真館に行く途中くらいに位置している。
 着いてみると、どういう訳か店先に一人の姿もなかった。
(変だな)
 と思いつつ、声をかけてみた。が、何の反応もない。
(留守かな?)
 と思ったが、先方は今日リーディが訪ねて来ることを知っているはずなのである。
「こんにちは」
 と、もう一度声をかけた。
 これには、反応があった。というより、店の奥から突然人影が現れ、
「お前がリーディか?」
 とカウンターの向こうからじろじろと眺め始めたのである。
 リーディは内心、閉口した。相手の様子からすると、初めから気づいていたようなのである。
「お前がリーディ・オルリアスかと訊いてるんだ」
 と、相手はリーディの様子などお構いなしで、癇癪持ちらしい怒ったような声を出した。
「そうです」
 と言ったリーディは、実のところ少し笑っている。妙な少年でこういう際立った性格の人間が大好きなのである。
「何を笑ってやがる、気色悪い」
 とトルクはさんざん毒づいたすえ、
「早く入らんか」
 とまるでリーディが悪いかのような言い方をした。
 店の中に入ると、奥に仕事机らしいものが一台あり、その周りを金槌やのみといった道具が取り囲んでいる。
「仕事はな」
 と、トルクは簡単な説明をした。
 内容はおそろしく単純である。ただカウンターの前に座って接客をしろ、と言う。どんな風に売れとも、いくらで売れとも言わない。
 リーディが売り物の一つを指差して、
「これはいくらで売ればいいんですか?」
 と訊いても、
「職人が自分で自分の作品(もの)に値段をつけられるか」
 と言うのみで、どうしようもなかった。
 一体商売をする気があるのか、ないのか。
(大変なところに来たものだな)
 思いつつ、リーディは楽しそうにくすくすと笑った。

 トルクという人は、コルツの町でも名物老人というべき人で、ひどい雷親父だと言うので通っている。
「悪魔も逃げ出す」
 というのが、この老人の定評だった。
 癖なのか、この老人は仕事中絶えず臓腑をえぐるような言葉を投げかけてくるのである。そのくせ下を向いたまま、仕事の手も休めない。
 この日も、そうで、
(器用なものだな)
 とリーディはむしろ感心してしまった。リーディにすれば、いくらこの老人が怒鳴ったところで、どこか滑稽に見えて怖くないらしい。
(照れ隠しなんだ)
 とリーディは思うのである。
 リーディの見た所では、トルクという人物は気難しい性格なだけに満足の行く仕事をしても喜べず、またそういう喜びを感じる自分がたまらなく嫌らしいのである。だから仕事をしている最中は怒鳴って、そういう自分を紛らわしているのだろう。
 が、どう言ったところでこの老人が血を吐くような恐ろしい怒鳴り声を上げていることには変わりなく、その点リーディという少年はものの本質をつかみ、かつそれを信じることのできる、ある種の無邪気さを持っていたと言えるかもしれない。
 結局、この日リーディのした仕事と言えばトルクに怒鳴られることであり、仕事に来たのか怒鳴られに来たのか、分からなかった。
 ところがリーディが辞儀をして、帰ろうとすると、
「また、明日来ることだ」
 とトルクはさっきまでとは打って変わった、ひどく優しげな声をかけた。
「ええ」
 リーディは嬉しくなって、「また明日来ます」とにこにこしながら言い、道場の方に向かった。
 道場に着くとすぐに防具をつけて、打ち合いに出た。ほどなくイリュがやって来たため、リーディはまだ平服のイリュの所に行き、
「イリュさん」
 とにこにこしながら声をかけた。
「どうしたの?」
 イリュは、不思議そうにリーディの顔を見た。てっきり面倒が増えてがっかりしているのかと思っていたのである。
「トルクさんはいい人ですね」
 と、リーディは言った。
「えっ」
 とイリュは驚いた。イリュも何度かトルクに会ったことがあり、仕事は確かで根は誠実だが、多少偏屈で怒りっぽいところのある人だと思っている。
 要するに、
(悪い人ではないけれど)
 というのがイリュの感想であり、それでもよほどましに見ていると言うべきだった。が、
「いい人ですね」
 と、リーディは嬉しそうに言うのである。
(やっぱりどこか変わっているのかしら)
 とイリュは思ったが、案外トルクという人はそうなのかもしれないと、多少思い直してみたりもした。
 ともかく、この時のイリュにすればリーディに不満がないらしいというので、とりあえず安心している。

 リーディがウォルフォードに来てから四ヶ月ほどが過ぎ、セルフィドもそろそろ冬になろうか、という季節になった。この頃になるとリーディも今の生活にだいぶ慣れてきている。
 十二月十四日、この日は昨夜から降り出した雪が降り止まず、町が真っ白になっている。
 寒い。
 リーディはこの日も朝早くから道場に向かったが、途中手足がかじかんでうまく動かず、道場に着くまで手をこすったり息を吐きかけたりしながら走った。
 時々吹いてくる風が骨にしみるほどつらい。
 道場に着いても、様子はさほど変わらない。安普請(やすぶしん)の建物だからすき間風が吹いて、簡単に熱を逃がしてしまうのである。
 リーディが道場に上がってみると、この日はどういう訳かフィルディスが先にきて素振りをしていた。
「どうしたんです、こんな朝早くに?」
 とリーディは外套を脱ぎつつ、訊ねた。珍しいことである。ただでさえ三日に一度くらいしか道場にこないのに、この冬の日に、しかもこんな朝早くに来ている。
 フィルディスはリーディの方を向いて、
「雪が、珍しかったのさ」
 と、笑いもせずに答えた。
「クレネスでは降らないんですか?」
「そうだ、あそこでは雨もろくに降らない。冬はそれでもいいが、夏はそうはいかない。旱魃が起こり易くなる」
 フィルディスは、どこかやりきれなさそうである。
(大変なんだ……)
 と思いつつ、リーディは準備をして道場に進み出た。
「お相手願います」
 リーディも、近頃ではようやくフィルディスから三本に一本は取れるようになっている。
「ああ」
 フィルディスはそれだけ言って、後は正眼に構えをとった。言葉よりも行動で生きる男である。
双方の間合は二ディル(約二メートル)足らず。
 リーディは、無心で打ち込んだ。フィルディスの強さの一面は、その気魄(きはく)の強さにあり、これに対する場合それを受け流すか、もしくははね返すだけの気を持たねばならない。でなければ、フィルディスの持つ気によって動きを制され、ついには打ち込まれかねないのである。
 リーディの場合、己を空にし、そうすることによって、相手の気を流してしまおうとしている。
 が、それでもフィルディスは強い。まだリーディよりも一段か二段は腕が上である。
「ありがとうございました」
 と言ってリーディが下がった時には、二十本中十五本は取られている。
 この時、フィルディスは珍しく微笑して、
「俺の気をはずそう、というのはいいが、そのせいで打ちが甘くなっている。それじゃ勝てないな」
 と、言った。
(もっともだな)
 リーディにも、その事は分かっている。かといって、どうすればよいのか。
 そう、訊いてみると、フィルディスは微笑したまま、そんなことは自分で考えろ、と途方もない答えを返した。明真館がフィルディスやレアスといった一流の剣士を擁しているにもかかわらず三流道場なのは、どうにも教え方の下手さというのがあるらしい。
「そうですね」
 と、リーディも苦笑するほかない。
 その後フィルディスと少し雑談をして、トルクの店に向かった。今日は、仕事の日なのである。
 雪の道を行くと、いつもは二十分ほどで着く道が、三十分近くもかかってしまった。
 やがて店に着くと、さすがに中に暖房が入っており、あたたかい。リーディはようやく人心地をつく思いだった。
「遅かったな」
 と、例によってトルクはなじるように言ったが、この老人も近頃はリーディに対して甘いところを見せるようになっていた。
 この時も、それ以上何も言わず仕事に戻っている。リーディはちょっと微笑してからカウンターの前に座った。
 ところが、雪のためか客がまるで来ず、こうなるとさすがにトルクもやる気がなくなるのか、怒鳴りもせずパイプをくゆらせてはぼんやり外を眺めている。
 それが、突然、
「お前、この前人が斬られたのを知っているかい?」
 と訊いた。
 リーディは、むろん知っている。剣術道場というのは国王の夜警隊の下で警備隊につく義務を負っており、その見返りとして警備地区の住人から多少の集金を得られるようになっている。リーディもそういう巡察についたことがあり、辻斬りの一件についても聞かされてはいた。
「この近所だったそうですね」
 とリーディは訊いた。
「おうよ。俺も見に行ったがね、こう、右袈裟に斬られていて、すごいもんだったよ」
 とトルクは手で斬る真似をして見せた。この老人は昔剣術をやっていただけあって、目は確かといっていい。
「あれは相当な腕だろう」
 トルクはそう言ったきり、再び窓の方に目を向けた。
 それからしばらくしても客が来なかったので、トルクはリーディを帰してやった。今日はもう店仕舞いだと言う。
「風邪に、気をつけることだ」
 と、トルクはわざわざ扉の所まで見送りに来て、言った。この老人は怒鳴ること以外は全くの善人と言ってよいようである。
 リーディはトルクに見送られて、道場に向かった。
 昼過ぎだというのに日も見えず、途中見つけた水溜まりが氷を張っている。雪も、止む気配がなかった。
 リーディは手に息を吐きかけつつ、急いだ。
(道場に着けば、少しはましになるだろう)
 と思っていたが、着いてみると意外にも四人ほどしか人数が見えず、閑散としているだけに返って外よりも寒い気がした。
 その中にイリュ、レアスの姿は見えたが、フィルディスは帰ったのか、いない。
「レアスさん、フィルディスは?」
 念のために訊くと、やはり帰ったという。が、レアスが、
「ティルの見舞いだろう」
 と言ったので、リーディは驚いた。
「フィルディスが? ティルの具合でも悪くなったんですか?」
「いや」
 と言ってから、レアスはくすくす笑い出して、
「分からないかもしれないが、あの二人は中がいいのさ。相認め合うというのかな。性格は逆だがね」
「そうなんですか?」
 リーディには、よく分からなかった。
「あの二人が打ち合っているところを見るといい。実に息が合っている」

 その後二時間ほど打ち合っていると、さすがに体が熱くなって来た。
 リーディは道場隅に下がってほてった体を覚ましながら、隣で同じように休んでいるイリュに話しかけてみた。
「辻斬りの話は、聞いてますか?」
「ああ、あれね」
 イリュは、急に不満そうな顔つきをして、
「大体、道場がこんなだから、うちの警備区内でそんなことが起きるのよ」
 と、言った。
 もっともなことで、多少雪が降ったというだけで門人が来なくなるような道場は、ここだけであろう。
「きっと師範が悪いのね」
 とイリュはわざと声を大きくした。むろんレアスに聞かせるためである。
 レアスも苦笑して、
「もっともです」
 と言うしかない。
 やがて辺りが暗くなり始めたため、リーディもイリュも帰り仕度を始めた。
「辻斬りには、十分気をつけてな」
 とレアスが言ったが、あながち冗談のつもりでもない。
 二人は道場を後にしたが、途中リーディだけが戻っている。
 上着を忘れていた。
 道場に着くと、幸いまだ開いていた。リーディはすでに真っ暗になった道場の中で、何とか上着を探し出し、足早に道場を去った。
 雪がいつ頃からか降り止んで、頭上に月が出ている。
(……)
 リーディはふと剣の柄に手をかけ、立ち止まった。ちなみに道場の門下生には、町中での帯剣が認められている。
(来ている)
 ――殺気。
 と思う間もなく、リーディは後に跳び下がっている。剣先が、その眼前(がんぜん)をかすめて通り過ぎた。
 リーディは天臨を抜き、
「誰だ!」
 と叫んだ。叫ばなければ、この突然の驚きから立ち直れそうにない。
 相手は、闇の中からぬっと現れた。

――Thanks for your reading.

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