[愚者の夢]

2、王都へ

 リーディがイリュについてトレスをたったのは、七月十七日のことである。
 トレスにいたのは、結局六日間に過ぎない。このことが、やはりリーディの運命を大きく変えるのだが、むろんこの少年は気づきもしなかった。
「ウォルフォードまでは、長旅になるわ」
 と、出発の前夜、イリュが言った。
「どのくらいですか?」
「三週間てとこね」
 リーディはあまり驚いた様子ではなく、そんなものなのかな、というくらいの表情をした。
(最初に村を出て慣れたのかも)
 とイリュは思った。
 その翌日の十七日、二人はトレスを出発した。快晴だが、空にはほどよく雲があって日差しが強すぎるということはない。
 リーディは街道を歩きながら、ふと、
「ウォルフォードは、どんなところですか?」
 と質問した。
「どちらかといえば、静かな町ね」
 と、イリュは言った。
 ウォルフォードはヴェセクス時代こそ王都としての繁栄を見たが、その後は大きく衰退している。イリュの言う「静かな」とはそういうことをさしていた。
「トレスからは、五十リール(二百キロ)くらいね」
 ただし直線距離での話で、途中エルクレイン山脈を大きく迂回しなくてはならないため、実際には百リール(四百キロ)ほどの距離になる。
「まっすぐ行かないんですか?」
 と、リーディが訊いた。
 無理である。
 途中にあるエルクレイン山脈は非常な難所とされているところで、頂上付近では年中雪が溶けず、道もろくにないため、遭難者や凍死者が絶えなかった。
 よほど先を急ぐ者でも、ここを通るようなまねはしない。まして、二人は急いでいるわけでもないのである。
 イリュにそう言われて、リーディはちょっと不服そうに黙った。わずかに口を開いて、
「でも」
 と言おうとしたが、やめた。どうもイリュに分がありそうである
 しかし生来無理だ、と言われることには強い不満を持った。「英雄」たるべく村で教育されたせいかもしれないが、「無理だ」と言われると返ってやってみたくなるのである。
 イリュはリーディのそういうところに気づいて、しばらくしてから、
「リーディは、なんだか変ね」
 と言った。
「変、ですか?」
 リーディはそう言って、くすくす笑った。そういえばイリュから「女の子みたい」だと言われていたことを思い出したのである。
「だって」
 と、イリュは言った。
「死に急いでるみたいよ」
「そう、ですか?」
 リーディは、不思議そうな顔をした。そのような実感はないのである。
「気をつけます」
 あいまいに、笑った。
 イリュも仕方ないと思ったのか、それ以上は何も言わなかった。

 それから一週間ほどが過ぎ、旅程も三分の一を終えた。雨の日が少なく、旅は順調に進んでいる。
 ところが、八日目は昼頃から大雨になって二人は仕方なく早めに宿をとった。
「熊の足」
 という、奇妙な屋号の宿で、エルクレイン山脈の麓に今でもある。
 リーディは部屋の窓から外の方を指差して、
「あの辺がエルクレイン山脈ですか?」
 と、子供がはしゃぐようにして訊いた。むろん夕闇と雨粒とで、山影などは少しも見えはしない。
「そうね」
 イリュは、気のなさそうな返事をした。
「明日になれば見えるでしょう」
 だからもう寝ましょう、と言いたげである。
 リーディはちょっと不満そうな顔をしたが、すぐにベッドにもぐり込んだ。早く寝ることだな、と思ったのだろう。
 イリュも蝋燭を吹き消してから、ベッドの上で横になった。
 雨の音が、やかましい。
 リーディは眠れずにぼんやりしていたが、ふと廊下を人が行く気配がした。
(誰だろう?)
 足音だけでなく、息まで押し殺している様子なのである。
「イリュさん」
 と、声をかけてみたが、眠ってしまったのか返事がなかった。
 リーディは仕方なく一人で起き上がって、天臨を持ってそっと廊下に出た。暗い。手探りで宿の入口まで行って、外に出た。
 雨が、降っている。
 その雨の向こうに、人影が一つ、立っていた。
 それがいきなり背を向けて、走り出した。
(えっ?)
 逃げたらしい、と気づいた時にはだいぶ距離をつけられている。
 リーディは訳が分からないまま、とにかく後を追った。幸い相手の足が遅く、すぐに追いついた。
「ちょっと待って」
 言おうとした瞬間、異様な感覚を覚えてリーディはパッと下がった。下がってから、
(熱い――)
 ということが分かった。左の袖が、焼け焦げている。
 相手は、すでに立ち止まっていた。
「熱っ!」
 もう一度、今度ははっきりと分かった。だけでなく、何もない所から炎が出現したことも、分かった。
 天臨を、抜いた。
 構えた。がどうしろというのだろう。相手は、わずかな間合いをとって待っているのだ。うかつに飛び込むわけにもいかない。
 リーディはちょっと考えてから、剣を、収めた。
「やめた」
 と、リーディは言った。雨が、止み始めている。

 相手は、驚いたらしい。
「やめた?」
 と、言った。声は、意外に幼い感じがした。
「君は僕を追ってきたんじゃないのか?」
 不思議そうに訊ねた。
 リーディはそういう訳じゃない、ということを説明すると、前方に明かりが灯って辺りを照らした。
 少年、といってよいだろう。その男の手の平に、炎が乗っていた。
「ああ」
 と、その少年が微笑した。
「リーディ君だろう」
「えっ」
「憶えてないかもしれないが。部屋の隅っこに一人で飯を食ってるのがいたろう。あれが、僕さ」
(そういえば)
 と、リーディは思った。確か旅なれた風体の少年が一人、端の方に一人で座っていたような記憶がある。一人で旅をしているのか、と感心していた。
「それが、どうして雨の中を?」
「いや」
 どこかばつの悪そうに口ごもったが、やがていたずらを見つけられた子供のように、
「実は、宿賃がなくて。逃げてきたんだ」
 と言った。
 リーディはその様子がおかしくて、つい笑った。つられるように相手も笑い出し、二人はひとしきり笑いあった上で、
「その宿代は僕が払うよ」
 とリーディが言った。笑いというのは奇妙なもので、一緒に笑いあっただけですっかり相手を信用している。
「いつか、払うから」
 と、相手の少年も後腐れするところがない。
 ところが、リーディは一つ重大なことを忘れていた。
 代金を払うのは、リーディではないのである。

 翌朝の、ことだ。イリュはやや呆然とする思いでリーディの連れてきた少年を見ている。
「ちょ、ちょっと待って」
 事の成り行きに、慌てた。
 リーディを側に寄せて、
「どういうことなの?」
 と訊こうとした。が、この少年はその前に、
「すみません」
 と言ってしまっている。それがひどく恐縮しきった様子で、見ている方としてはどうにも可哀そうになってしまうのである。
(しかたないか)
 とイリュは思った。実のところリーディの父親からもらった路銀に多少の余裕があったから、それを使えばよい。
 しかし一面では、
(いいことをしたな)
 という気がしないでもない。それもリーディが連れてきた見ず知らずの少年ではなく、この少女然とした少年に対して感じているのである。
(リーディの得なところね)
 と、イリュはリーディのそういう不思議さを思って、おかしくなった。
 宿の勘定を済ませると、三人は再び街道を歩き始めた。
「そういえば、まだ名前も聞いてなかったわね」
 と、イリュがふと言った。
 カイル・ケルフ
 というのが、少年の名前らしい。セルフィドの生まれではなく、ヴォルムからやって来たという。髪が黒く、目が灰色がかっていて、そばかすのついた顔が子供っぽい印象の少年だった。
 存外おしゃべりで、話がうまく、道々この少年の話を聞いていると二人とも笑ったり驚いたりとまったく忙しかった。
 その途中、リーディは、
「カイルはどうして旅に出たの?」
 と、訊いてみた。
 カイルは複雑な微笑を浮かべて、
「僕は、魔法使い(アルナリスト)なんだ」
 と言った。
 魔法使いというのは、いわゆる精(エーテル)≠見ることができ、それを自在に操る能力を持つ者のことをいう。精≠ニはものの最も純粋な本質とでもいうべきものであり、その他のものをその精≠フ属するところのものへ変えてしまうという特徴がある。要するに火の精に触れたものはすべて火に変わる、ということだ。
 人間の場合、この精による変化の過程を抑えることができるらしく、人間でありつづけながら他の精を持つことができる。
 しかしながら魔法使いになるというのは、多大な苦痛を伴うものだ。精を持つということは、もはやその干渉を常に抑えなければならないということなのである。ちょっと、ぼんやりする暇がない。
 魔法使いになったもののうち、精神力の弱い者はこういう苦痛に耐えられず、狂人か廃人、もしくは精の干渉を受けて人ですらなくなってしまうという。
 カイルというこの少年は、そういう存在だった。
(あんまりだな)
 とリーディは思わざるをえない。
 そのあんまりな存在が目の前にいるのだが、この少年は不思議なほど明るかった。
「初めの頃は、ひどくて夜も眠れなかったよ。今じゃ日に四時間は眠ってられる」
 と、カイルは笑った。別に自嘲しているとかいうのではなく、ごく自然な風に笑っているのである。いや、こういう底抜けの陽気さがなければ魔法使いなどというのは務まらないのかもしれない。
「いつ頃から、魔法使いに?」
 と、イリュが訊いた。
「八歳、だったかな? 母親の火の精≠見たんだ。あの時は、自分も魔法使いになれたんだって、ただ嬉しかった」
 精≠見るにはいくつか方法があって、その一つとして他人の精を見るというのがある。見た、つまり理解できた時点で、精を持つことになる。
 もう一つは魔法文字(アルナグラフ)≠ナある。
 前トリア暦時代にアルナーフという人物が精理論を考え、この文字を作ったとされる。魔法使い(アルナリスト)の名称もこの人物から来たものだが、魔法文字とは精を記述するための文字である。
 ただ、精の場合、その特徴が本質的であるため、その特徴を記す文字は、精そのものであるといってよい。要するに魔法文字を見る≠アとができれば、精を持つことができるというわけだ。
 ちなみにアルナーフ以前は最初の方法がとられていたはずであり、現在でも儀式ばった時や、あるいは親密な場などではこの方法がとられている。
「僕が見れた≠フは、火の精だけだった」
 と、カイルが言った。精には人によっては見えるものと見えないものがある。アルナーフの実非在を論議する場合必ず持ち出されるのが、このことだった。
「けど」
 と、リーディが言った。
「どうして。魔法使いに?」
 実のところ、リーディは魔法使いというものに泣き出したいほどの感情を覚えている。
 カイルは、
「風習、さ」
 と短く答えた。
 傍らで、イリュはあっと思うほどに驚いた。リーディの場合と酷似している。
「ヴォルムでは、魔法使いの素質があると八歳で旅に出なくてはならないんだ。僕は、両親が嫌がって八歳まで魔法使いとしての訓練は受けなかったんだけどね……」
 そう言ってからカイルは不意に笑って、
「変な国さ、ヴォルムってのは。今でもそんな風習があるんだ」
 と、言った。
 むろんカイルは、リーディがもっと滑稽な「風習」からこんな旅をしているとは、夢にも思わないでいる。

 カイルと別れたのは、それから三日後のことである。結局、宿の代金は払っておらず、イリュなどは別れ際にわざと意地悪な顔をし、
「いつ払ってくれるのかしら?」
 と、言った。
「まあ、そのうちにでも」
 カイルは、さすがに苦笑するしかない。
「暇があれば、ウォルフォードに来るといいわ。お金を持ってなくてもいいけど」
「ちゃんと返しますよ、いずれ」
 もう一度、苦笑した。
 その隣でリーディはにこにこしながら、
「僕も待ってるから」
 と言った。もっともこの二人は後に別の場所で会うことになるのだが。
「とにかく、道中楽しかったよ」
 と言って、この少年は二人と別れていった。
「本当に返してくれるのかしらね?」
 とその後でイリュが言った。
「さあ」
 リーディはくすくす笑って、
「踏み倒されるってこともありますね」
 と、言った。
 二人がウォルフォードに着いたのは、その二日後のことである。人口二十五万、いわずと知れたセルフィドの王都であり、現在は八代目国王シャルツ・フィオールの座す王城がここにあって、温和な治世の下にある。
 リーディは、ここで時を待つ。
 つまりセルフィドの危機を、である。それだけにこの町に入る瞬間、
(ここが……)
 と、妙に緊張した気分になって心臓の音が高まった。
 二人が正午になってようやくイリュの借家に着くと、疲れきっていたせいもあって倒れるように眠りについた。
 が、リーディは床の上で少しまどろんだだけで、どうにも眠れなかった。
(……どうしよう)
 と思っている。セルフィドに危機が訪れたとき、一体自分はどうするのか、ということだった。
 今まで考えなかった方が、不思議である。が、リーディにすれば使命感と危機感という二つだけでここまで来てしまった。いわば勢いであり、それだけに後のことを考えるほどの余裕がなかった。
(どうしよう)
 と、リーディは恐怖に近いほどの感情でその事を考えている。セルフィドを救えなければ、リーディの存在価値などはないのと同じである、不安にならざるをえない。
 そのくせ、この少年はその事でイリュに相談することもなく、
(自分でどうにかすべきだから)
 と思っていた。リーディはリーディなりに自分を奮い立たせようとしていたのだろう。
 ところがその後二、三日何事もなく過ごしているうちに、リーディはノイローゼ気味になってしまったのである。元々、そういうところがなかっただけに、事態は深刻だった。
 食事もとらないし、ろくに眠りもしない。いつもすることがないから、部屋の中を行ったり来たりしている
「もっと落ち着いたら?」
 とイリュが言っても、しばらくの間イスに座っているだけで、またすぐ立ち上がってはうろうろとしている。
 イリュはかわいそうになりながらも、
(こればっかりはどうにもならないわね)
 と思わざるをえない。セルフィドの危機をどう救うのか、というのも問題だが、セルフィドのどこが危ういのか、というのはもっと深刻な――というよりは決定的な――問題だった。
 かといってリーディには、国を救うなどという責任もなければ権限もないのである。英雄になりたいというのならともかく、英雄にならなければならないと思って食事ものどを通らないというのは、滑稽ですらあった。
 が、イリュにすれば放っておくわけにもいかない。
(なんとかしないと)
 と考えているうちに、妙案を思いついて、ある日リーディを外に連れ出した。
「どこに行くんですか?」
 と、リーディが訊ねたが、イリュは、
「来れば分かるわ」
 と言って、詳しくは語らない。
 リーディはあまり気乗りしない様子だったが、断わるのも悪いな、と思って結局はついて行くことにした。性格である。
 やがて三十分も歩いたところで、
「ここよ」
 と、イリュが立ち止まった。
 石塀に囲まれた二棟続きの建物があって、一方は平屋の一階建てであり、もう一方は二階建てになっている。
「何です、ここは?」
 とリーディが訊ねた。
「まだ、分からない?」
「ええ」
「ここは明真館(めいしんかん)≠トいう剣術道場よ」
「はあ……?」
 今度は、違う意味で分からなかった。
「まさかイリュさんが」
 剣術をやるんじゃ、とリーディはまるで見当違いな事を訊いてしまった。
 イリュは、さすがにむっとして、
(あなたがやるんじゃない)
 と思って、黙ってしまった。
 リーディはようやく気づいて、
「僕、ですか?」
 と訊いた。剣術をやるのが、である。
 イリュは、ぷいっとして行ってしまった。リーディとしては、ともかくついて行くしかない。
(困ったな)
 と思いながら石塀の間を通って建物に近づくと、建物は存外ぼろい。所々に修理した跡が目立って、石塀自体も一部崩れている。
(ひどいなあ)
 と思ってから、リーディはくすくすと笑った。ここで自分が剣術をやるらしいのである。
 左手にある一階建ての建物が、道場らしい。イリュがそちらに入って行くと、リーディも後について足を入れた。
 中は、広さ十ディル(約十メートル)四方ほどで、床が板張りになっており、その床の上で二十人前後の人数が妙なものをつけて打ち合っていた。
(何だろう?)
 と思ってリーディは足を止めた。が、イリュはさっさと道場の隅を通って、責任者らしい男のところに行ってしまっている。
 リーディは初めて見る打ち合い稽古というものを、好奇心に満ちた目で眺めていた。木刀を使った型稽古とは違って、魔法剣という、どちらかといえば軽捷さを要求する剣が作られるようになってからというもの、防具をつけての打ち合い稽古が主流になっている。が、むろんリーディはそんなことは知らない。
 やがて、リーディはイリュに呼ばれて先程の男の所に行った。
「君が、リーディ君?」
 と、男は人の良さそうな微笑を浮かべた。
「俺は、明真館の師範をやっているレアスというものだ。よろしくな」
 と言った。どうも、気軽過ぎる態度である。
 気軽、と言えば、この男はどうも師範などという威厳のある人物には見えなかった。歳は二十六、七といったところで、目が猫のように細く、髪が茶色がかっている。
「君は剣術をやっていたそうだね」
 と、レアスは慇懃に訊ねた。
「来て早速だが、ちょっと立ち合ってくれないか。君の腕が見たい」
「分かりました」
「相手は、うちの師範代で、アファスという男だ。なに、負けても恥じることはないよ」
 と言って、レアスは笑った。リーディの容貌を見れば、無理もない反応と言える。
「……」
 リーディは何も言わず、ただにっこりと微笑み返した。心中、
(負けてたまるか)
 と思っている。

 リーディは道場隅に下がって、防具のつけ方を教えてもらった。
 防具は面、胴、籠手、脛当ての四つで、薄い金属の下に綿がつめられている。リーディはそれを一つずつ確かめるようにつけてから、ゆっくりと立ち上がった。
 少々、窮屈な感じがする。が、意外に軽く、運動には支障なさそうだった。
(これなら大丈夫かな)
 などと思いつつ、試刀(しない)と呼ばれる長さ八フィス三シティング(百十八センチ)の木刀で二、三度素振りをしてみてから、道場中央に進み出た。
 中央では審判役のレアスと、相手役であるアファスがすでに待っている。
「勝負三本」
 と、レアスが宣した。
 リーディとアファスは互いの試刀を軽く触れ合わせて礼を交わし、二ディル(約二メートル)の間合をとった。
 他の門下生は、すでに道場隅に下がって静かにその様子をうかがっている。
 やがて、レアスが、
「初め」
 と声をかけた。
 アファスは相手がたいしたことはあるまいと思ったのか、やや隙の多い上段に構えをとった。
 リーディは、常法の正眼。
 その影が、さっと動いた。
(あっ)
 とアファスが思った時には、鮮やかに胴を打たれている。
(油断ならぬ)
 と、アファスは思ったらしい。今度は構えを変え、中段に試刀をとった。
 二本目はアファスがリーディの面をとって一本。
 最後の三本目になると、双方慎重になってどちらもなかなか手を出さない。が、アファスの方が耐えかねたように攻撃に出た。この男はまがりなりにも師範代なのである。防具のつけ方も知らない少年に負けたとあっては、立つ瀬がなかった。
 リーディは、その攻撃をかわした。ほとんど夢中である。が、その次の瞬間体が無意識に動き、アファスの胴を下から打ち上げるようにして痛打した。
 アファスの体が一瞬浮き上がるほどの衝撃があってから、この男はそのままつんのめるようにして倒れ込んだ。
 ─―一本。
 と、レアスが声もなく言った。
 道場の誰もが、息をのむ思いである。
 しかもリーディが面をとって改めてその顔を見た時、さらに驚いた。
(なんと、女のような奴ではないか)
 口を開けたまま見とれるのまでいる始末である。

 リーディの鬱病のような状態は、この日以来ずいぶん軽くなっている。
(よかった……)
 とイリュは思った。ところが数日して、リーディがひどく気落ちした様子で帰ってきたのである。
 この少年には珍しく、まったくの無言だった。
「どうかしたの?」
 とは、イリュは訊かない。こういう時のリーディは自分からでないと容易にものを言わないことを知っている。
案の定、というか、
「あの、ね」
 とリーディはやがて自分からしゃべり始めた。
 イリュは、黙って静かに聞いている。この場合それがひどくしゃべり易くて、リーディは洗いざらいしゃべってしまった。
 話は、昼過ぎのことである。
 リーディが道場で他の門下生と同じく素振りや打ち込みをやっていると、道場の入口に無言で一人の男が現れた。
 服装が折目正しく、目がいかにも涼やかで、見ていると思わず見とれてしまいそうな、凛とした青年である。
「誰です、あれは?」
 とリーディは近くの者に訊ねてみた。
「フィルディス・フォルトだよ」
 と、その男は答え、道場にきてまだ日の浅いリーディのために詳しく説明してやった。フィルディスはセルフィドの東にあるクレネスの出身で、明真館にいる三人の師範代のうちの一人なのである。ただしこの男はどういうわけか、滅多に道場にやって来ないという。
「しかし、剣術は滅法強い」
 と男は言った。
 リーディは、フィルディスを見た。フィルディスもリーディに気づいたのか、そちらを向いた。
 自然、目が合う。
「……」
 とフィルディスは無言のままリーディに近づいて来た。
「見ない顔だな」
 それが、この男の第一声である。遠慮会釈もないような一言だった。さらに、
「名前は?」
 とまるで詰問するような調子で訊いた。
 リーディは、むっとして。
「それはあなたの方が先に名乗ってくれなければ言えません」
 と、道場の全員が驚くような態度をとった。新参門人が師範代に対してとっていいような口のきき方ではない。
 フィルディスはどういうことも言わずに黙っていたが、しばらくして、
「道場に出てもらおうか」
 と別なことを言った。
 リーディは、動かない。
 フィルディスは妙な笑いを浮かべた。
「これでも俺は師範代だよ。出てもらう」

 リーディは道場中央でフィルディスが防具をつけ終わるのを待っている。
(あんな人)
 とリーディは思っていた。何といってもあの言い方が気にくわない。
 フィルディスは防具をつけ終えると、道場中央に進み出た。動作が颯爽として、その様子はいかにもさわやかである。
「勝負は一本でよかろう」
 とフィルディスは言った。それ以上やっても無駄である、とでも言いたげであった。
「いいですよ」
 リーディはむっとしたまま、正眼に構えをとった。
 フィルディスは、上段。
 その上段が、リーディの前でみるみる大きくなって、やがて山を圧するような影となって現れた。
 リーディは構えながら、試刀の先を少しも動かすことができないでいる。訳が、分からない。こんな事は初めてだった。
 フィルディスは冷静にそれを見ている。
 やがて、
「リーディ」
 と小さく名前を呼んだ。
「え?」
 はっとした瞬間、激しく打ち込まれていた。心臓が跳ね上がり、足が崩れた。ほとんど、不意打ちといってよかった。リーディは思考が乱れ、打たれたということもしばらくは分からなかった。
「剣が」
 と、フィルディスは言った。
「分かったか」
 リーディは両膝をついたまま、ともかく頷かざるをえない。と同時に、
(いい気になっていた)
 と今までの自分を思った。なるほど、リーディはここの師範代であるアファスに勝った。が、それだけである。誇るほどのことではなかった。
 そこまで考えて、リーディは今度は赤面した。自分の態度に、である。
 フィルディスはそういうリーディの様子に気づいたのか、急に笑顔をつくり、
「俺は三日に一遍ほどは道場に来ることにしている。暇があれば、来るといい」
 と言って、去って行った。
 リーディは道場に残されたまま、
(いつかは勝ってみせる)
 と、思った。怨みでも、怒りでもなく、ただ純粋にそう思った。そういう少年だった。

「そういうわけなんです」
 とリーディがしゃべり終わった時には、この少年はいつもの明るい様子に戻っていた。
(大変なものね)
 とイリュは無責任に思っている。もっとも、イリュにすればリーディを明真館に入れるまでがやっとであり、その後の面倒などは見れないし、見る必要もない。
「そのフィルディスっていう人は、そんなに強いの?」
 と、イリュは訊いてみた。
 リーディは小首を傾げてみせてから、
「後二、三年修行しないと」
 と言った。
(二、三年?)
 イリュはその長さを思いやって、ちょっと溜息が出た。
(物好きね)
 としかイリュには思えない。

――Thanks for your reading.

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