[愚者の夢]

10、夢の終わりに

「遅かったな」
 と、エディスはいつものこの男らしく、ひどく静かに言った。
 二人が今いる場所は、「鷹の爪」亭という大聖堂から歩いて十分ほどの所の宿屋である。計画ではここから昼の内に大聖堂に入り込んで、夜を待って装置を破壊することになっていた。
 すでに、二時を過ぎている。予定では一時に集まるはずだったから、遅刻したのは事実だった。
 むろん、理由がある。
 衛心館に寄ったのである。
 このトルアストに来て、暗殺というひどく陰惨な仕事を繰り返していたリーディにとっては、唯一明るい記憶を持った場所と言ってよく、それだけにちゃんとした別れをしておきたかった。
 およそ一ヶ月以上も姿を見せていなかったが、道場ではその事を怪しんだりせず、ひどく歓迎してくれた。
「リーディがいないと道場が暗くて困る」
 とエレニスなどは笑った。
 そんな中で、オルフェは、
「オルフェさん、お久しぶりです」
 と、初めリーディに声をかけられた時、びっくりし、ついで嬉しそうな表情を浮かべたが、すぐに怒ったように向こうを向いてしまった。
「お久しぶりです」
 と、そっぽを向いたまま言った。
「道場では、変わりありませんか」
「ええ」
 と言ってから、オルフェはふとリーディの方を向いて、
「私強くなりましたよ、リーディさんより」
 怒っているような、すねているような声で言った。
 リーディは微笑して、
「じゃあ試合をしましょう」
 と、防具をつけ始めた。
(何だかそっけない態度)
 とオルフェは不満だったが、かえっていっそこらしめてやろうという気になった。
(人をさんざん心配させておいて)
 オルフェが道場中央に立つと、リーディはいつもと同じ様子で向かい合って構えた。
「勝負は一本で」
「はい」
 と、オルフェは正眼。
 リーディも同じく正眼に構えをとっている。
 打ち合いが始まってからリーディは、
(なるほど、強くなった)
 と思った。以前のオルフェは動きが鋭い代わりに柔軟性に欠け、攻めと守りの変化に難があったが、今は体全体が水のように滑らかで、ちょっと舞踏に似た美しさがあった。
 一方、オルフェの方は自分でもよく分からない気持ちを抱きながら試刀を振るっている。
(何なのかしら?)
 まったく、妙な気持ちだった。自分はリーディの事が好きらしいと思いつつも、それをどうしていいか分からずに押え込んでいるようだった。さらにそれが剣術を通してリーディの方を向いているのだから、オルフェが混乱するのも無理はなかった。
(私、本当にリーディの事が好きなのかな?)
 一瞬、ぼうっとしたのがいけなかった。
 リーディの面が決まり、オルフェは無防備だっただけに軽い脳震盪を起こして倒れてしまっている。
 三十分ばかり、立ったらしい。
 その間、リーディがずっと傍について看ていたが、オルフェは不意にゆっくりと目を開けて、
「私、負けましたね」
 と、気弱く微笑した。いつものこの娘なら、減らず口の一つでもたたくところであろう。
「やっぱり、リーディは強い」
 ふと、顔を横に向けた。
 リーディはちょっといたたまれないような表情で視線をそらせた。
「……泣いて、ますね」
「うん」
 頷いてから、オルフェは涙を拭いて上半身を起こした。しばらくして、
「お別れ、ですね」
 と言って、オルフェは自分でも不思議な微笑を浮かべた。
 リーディも黙ったまま、
「ええ、お別れです」
 と、微笑した。
 オルフェはどこか予感するところがあったのだろう。それが涙になり、微笑になった。
「もう会えないのかな?」
 とオルフェが訊いた。
「分かりません、けど……」
 と、リーディはちょっと考えてから、
「僕らはもう会ったんです。その事は、変わらないはずです」
 オルフェはちょっと不思議そうな顔をしてから、ふと微笑して、
「そう、ですね。きっとその方が、大切なんですよね」
 少し、寂しそうに言った。
 その後で、リーディは道場を去っている。オルフェは結局、言いたいことを言えなかった。
 リーディがいなくなってから、オルフェはその日身につけていた真っ白な防具をつけて、道場の隅に座った。
(泣いているのか)
 と思って、エレニスも遠慮して声をかけなかったが、オルフェはただぼんやりと座っている。
 座りながら、ふと、
(あの人は本当にここにいたんだろうか)
 という不思議な感覚を持ったりした。
 それからしばらくして、リーディの言ったのはああ、こういうことか、とオルフェはくすくす笑った。
 笑うと、不思議と気分が晴れた。

 話を、元に戻そう。
 六月十九日、二人が「鷹の爪」亭に集まったのは、むろん今から大聖堂に乗り込んで、例の装置を破壊するためだった。
 無謀、という他ない。
 大聖堂には当然サイサリスの人数が護衛に詰めているはずであり、二人は装置の正確な位置すら分かっていないのである。
「いや、それについては分かっている」
 と、エディスは意外なことを言った。
「大聖堂の見取り図から、おおよその場所は見当がつく」
 と、机いっぱいに一枚の紙を広げ、一点を指差した。
「地下礼拝所ですか?」
 リアノの大聖堂の、元になった部分である。一七九年のヴェセクス分裂後、クレンフォルンではこの上に大聖堂を建設した。
 地下礼拝所は十五ディル(約十五メートル)四方ほどの広さがあり、人目につかないという点からしても、妥当な所と言ってよさそうである。
 エディスはこれからの行動について詳しく説明してから、最後に、
「俺達に有利なことが一つある」
 と言った。
「ラクスがこの装置のことを未だに秘密にしているということだ。政敵に知られて失脚させられることを恐れているんだろうが、そのおかげで大っぴらにはここの警備ができないでいる。案外、俺達にも勝算がある」
 そう言って、エディスは猫が鼠をもてあそんでいるような、そんな笑いを浮かべた。
 外では、雨がなお降り止んでいない。
 リーディとエディスは外套を着て、大聖堂への道を歩いた。途中、リーディが、
「よく降りますね」
 と声をかけたが、例によってエディスは返事もしない。ただ、
「イルトのことを憶えているか?」
 と、しばらくして訊ねてきた。
 イルト・シュルツはレティングでも珍しく剽軽な男で、いつも奇態な行動をとっては人を笑わせていた男だ。
「イルトさん、生きているんですか?」
「一ヶ月ほど前の事だ」
 とエディスは同じ歩調のまま、
「俺が殺した」
「……?」
 リーディは歩調をゆるめ、やがて止まった。
「殺した?」
 と、言ったのだろうか。
「エディス……」
「イルトは諜者だった」
 とエディスは歩調をゆるめずに、言った。リーディとしては、ついて行かざるをえない。
「ただし、クレンフォルンのでもその他の国のでもない。本国の、セルフィドの諜者さ」
「セルフィドの……?」
 どういうことか。
「当然なことさ。暗殺者なんてのは使い捨ての道具みたいなもので、信用なんてこれっぽっちもない。だから、俺達がいつ裏切ってもいいように一人だけ信用のおける奴を置いてそいつに裏切り者を斬らせていたのさ」
「……」
「今度のことでレティングは壊滅したから、俺達はもうただの厄介者になった。だから、諜者に斬らせようとした。俺がイルトを斬ったのは、そういう訳さ」
(……)
 リーディは一瞬目眩がして、自分の内側と外側の世界が音を立てて崩れていくような気がした。立ち止まって、呆然としてみたが、頭が変に浮ついて視界が定まらない。
(僕は……)
 と思うのだが、その後が続かなかった。
 この時のリーディの心境は、どういうものだろう。生まれて以来親と信じていたものが実は親でなく、さらにそのためにこそ働いていたものが、実は単なる思い違いであったと知るような、そんな衝撃であったろうか。
「そう、ですか……」
 と、リーディが言った時にはよほどの時間が立っている。
 がその後、この少年は微笑して、
「もういいんです。そんな事は」
 と、変に物悲しさのある、かわいた言い方をした。
「これからの事だけ、考えてた方がいいですから」
 リーディがそう言って向けた顔に、エディスは何故か目をそらした。

 リアノの大聖堂は二本の鐘塔を持った白亜の聖堂で、クレンフォルンの重要式典は多くがここで行われる事になっている。また、建国当初、地下礼拝所の上にこの大聖堂が造られたのは、セルフィドとの訣別を示すためだったと言われていた。
 ラクスがこの地下に装置を設置したのは、神威という他に、セルフィドとの戦争を暗に意図するためだったのかもしれない。
 そういう話を道々エディスから聞かされても、リーディは、
(そんなことは、もうどうでもいい)
 と物憂げに考えていた。
 自分でも、よく分からなかった。
 セルフィドが自分たちを信用していなかったばかりか、いつでも殺せる用意をしていたと聞かされて、ひどく憂鬱になっている。といって、リーディはセルフィドの英雄たらねばならないと、体のどこかでしつこく思っているようでもあった。
(僕は……)
 と、リーディは考えるのである。
(セルフィドにとって、一体何なんだろう?)
 その事が、滑稽なほど気になって頭から離れなかった。
「着いた」
 と言われて、リーディはふと顔を上げた。見れば目の前にリアノの大聖堂の荘厳な門があり、その上を二本の塔が天を衝くようにして伸びている。
(今は、考えないことだ)
 と思って、リーディは何とか気を紛らわした。
「剣が見えないようにな」
 と、入る時エディスが注意した。二人は外套の下に魔法剣を隠し持っている。見つかれば、叩き出されるか、密かにこの聖堂を警護しているサイサリスの連中に斬られるか、どっちかだろう。
「気をつけます」
 リーディは、元の調子に戻っていた。
 二人は聖堂に入るとまばらに座っている人影の間にまぎれて、長イスの一つに腰を下ろした。
 ここで、日暮れまで待つのである。
(その後は)
 と、エディスは小声でリーディに話しかけた。
(夜間警備と称して聖堂は閉じられる。その前に、あそこに隠れておこう)
 柱の一つに、目配せした。
(説教台ですか?)
 聖堂には、そういうものがついている。柱の一本に天蓋つきの箱型の壇が設けられ、司教がそこに立って話をするのである。
(罰でもあたりそうですね)
 と、リーディがちょっとおどけて見せると、エディスは珍しく笑って、
(死ぬな、きっと)
 と言った。冗談の下手な男だった。

 日没近くになって、二人は予定通り人目につかないようにして説教台に隠れ、夜を待った。ほどなく門が閉じられる気配があり、辺りが真っ暗になって、聖堂内の明かりはすべて消されたようである。
 エディスは聖堂に人の気配のないことを確認すると、聖堂の奥へと向かった。
 リーディも慌てて続く。が、ほとんど一寸先も見えないような闇と言ってよく、エディスのようにするするとは進めない。
(目が慣れているせいかもしれない)
 後を何とか追いながら、リーディは思った。エディスは目をつぶって、闇に慣れさせていたのである。だけでなく、夜目がきくのかもしれない。
 祭壇の裏、聖堂の一番奥に、地下に降りる階段があった。
「ちょっと待っていろ」
 と言って、エディスは一人で階段を降りて行った。が、すぐ戻ってきて、
「もういい、来い」
 と、再び階下に消えた。
(何だろう?)
 念のために剣を腰に帯びてから、リーディは階段を降りた。
 階段の一番下に、男が一人倒れている。
 サイサリスの人間だろう。腰に剣をさしていた。胸を、一突きでやられたらしい。
(鮮やかだな)
 と思ったが、リーディは感心せずに何故かやりきれないものを覚えた。これから人を救おうというのに、人を殺しているのである。
 この地下礼拝所にいた見張りは全部で五人だったが、一人を残して四人とも、一言を発する間もなくエディスに斬られている。
 一人はリーディが当て身をくらわせて、
「もう殺すのはよしましょう」
 と言って、縄で縛ったものだった。
(今さら……)
 とは、リーディは自分でも思うのだが、もはやレティングとしての仕事だとは、リーディは思っていない。だから、なるだけ人を殺したくなかった。
 エディスは、この処置に対して黙っていた。が、本心を言えば殺しておきたい。この男が交替の見張りか何かに見つけられて、襲撃者がたったの二人であると言われては困るのである。
 が、ここで口論するのも面倒だと思い、黙っておいた。
 ところが、それとは別に困ったことが起こった。
 装置が見当たらないのである。
 礼拝所の隅々を調べまわってみたが、どこにもそれらしいものはない。
「どういうことでしょう?」
 と、リーディが訊いた。
「……今、思い出したがここに隣接するようにして別の建物の地下室がある。少々の物音なら聞こえないだろうが、元々が物音のしない所だから、それを気にしてこの下に更に地下室を作ったのかもしれない」
 と、エディスは言った。
「どこかに隠し階段があるかもしれない」
 これが、意外なほど簡単に見つかった。
 どういう勘の良さをしているのか、ものの五分とたたないうちにエディスが探し出してしまったのである。
「よく見つかりましたね」
 と、リーディはひどく喜んで言った。不審も覚えない。この時の状況では、それどころではなかったのかもしれない。
「行きましょう」
 長イスの下にあった階段を降りようとした。
「……ああ」
 エディスはどこか複雑な表情で、頷いた。

 地上では、雨が降り止んでいる。
 が、むろん二人は知らない。ところが地上にある聖堂の詰め所にいた交替の見張りが一人、地下に降りたということも、二人は知らなかった。
 ちょうど地下礼拝所の隠し階段を降りて、地下の二階にいる時のことである。
 ここにも、見張りの男が一人いた。
 男は二人に気づいて「あっ」と叫び声を上げようとしたが、その前にエディスに一突きにされている。
 この地下二階はたいした広さはなかったが、壁の松明に照らされて、鉄製の無愛想な扉があるのが分かった。
 近づいてみると、閂でも掛けられているのか、押しても引いてもびくともしない。
「どうします?」
「斬ればいい」
 と、エディスはごく簡単に言った。
「魔法剣なら、そう難しいことではない」
 腰から自身の晟円(せいえん)≠抜き、両開きの扉の真ん中辺りを狙って、一気に斬り下げた。
 一瞬、甲高い音が響き渡って、閂は斬れたようだった。
「開けてみろ」
 と言うのでリーディが押してみると、扉は苦もなく開いた。鉄製の閂は、見事に切断されている。
「エディス……」
 リーディは小さく頷いてから、慎重に一歩踏み出した。中から閂が掛けられていた以上、室内には人がいると見てよい。
 部屋は、相当の広さを持っているらしい。入口の所以外、三方の壁面は薄緑に発光する何かにぐるりと囲まれ、長方形の部屋の真ん中に、長机が一つ。
 人がいるのか、その机の上にたった一つだけ明かりがある。
「誰だ」
 という声が、その辺りからした。
 リーディはエディスに目配せしてから、そっと、光源の範囲の中に入った。
 ランプに照らし出されているのは、三十代半ばといった眼光の鋭い男で、顔が角張っていかにも剛直そうな感じのする人物である。リーディの姿を見ても別段驚いた様子はなく、
「誰かね、あんたは」
 と落ち着いて訊いた。
「見張りの者は?」
「殺した、と言えば俺達がここに来た理由も分かるだろう」
 と言ったのは、エディスである。すでに抜き身の剣を右手に構えていた。
「ふむ?」
 男は、少し下がって身構えた。
「断っておくが、私は元セルフィド王立大学学長のエルドという者だ。人違いということはあるまいな」
(えっ)
 とリーディは思った。ということは、この男はセルフィド人ということになるではないか。
「エルド・シャウルか。聞いたことがある」
 と、エディスは言った。
「確か、危険な研究をしていたというので国から禁止され、その後セルフィドから亡命したとかいう話だった。消息不明と聞いていたが、この装置を造ったのがあんただったとはな」
 エディスは間合を詰めるようにして、一歩踏み出した。
「無限の富(フレキノート)≠ニいう名前がある」
 とエルドは笑ってから、
「お前達はレティングとかいうのの残党だろう。ご苦労なことだ。自分の命を無駄にして国のために働こうという」
「元セルフィド人のお前に言えた事か」
 エディスはもう一歩、間合を詰めた。
「あの国が何をしてくれたというのだ。命まで狙われた。もはや義理もなくなっている」
「それも国のためさ」
「私はセルフィドのために生きてきたわけではない」
「俺はそのセルフィドのために、あんたを殺さなくちゃならないのさ」
「愚か者め」
「かもな」
 答えた途端、エディスはだっと間合を詰めて斬りかかっている。
 が、剣を振り下ろそうとした瞬間、突風に煽られて体勢を崩し、最初の一撃は外した。
(魔法使いめ)
 毒づきながら振り返ってみると、エルドはすでにリーディとエディスの真ん中辺りまで逃げてしまっている。
「逃がすなよ」
 とエディスは声をかけたが、リーディは剣も抜いていない。
「エディス」
 と、リーディは言った。
「もう、やめよう」
「……」
「この人はセルフィド人だ。僕達はそのセルフィドの人達を守るためにいる。殺すなんて、おかしいよ」
 もはや、理屈というほどのものではない。
「馬鹿か」
 エディスは、うんざりした顔をした。
「この男は自分の研究欲を満足させるために亡命して、それで戦争になってもかまわないと思っているような奴だ。セルフィドを救いたいのなら、殺すしかない」
「でも……」
 リーディはちょっとうつむいてから、
「セルフィドなんて……、もう、どうでもいいんだ」
 と、ついに重大な一言を口にした。
「もうセルフィドのために人を殺すなんて嫌だ。これ以上、殺したって何にもならないよ。もう、英雄にならなくても……」
 そこまで言ってから、リーディは咽がつまって言葉が続かなくなった。
「……もう、いいんだ」
 やっと、それだけを言った。
 リーディはこの瞬間、セルフィドのためにあるという自分を否定した。と同時に、そのために生きてきた半生をも、否定した。
 言わば、自分を捨てたのである。
 リーディには今の自分が悲しいのか、恐ろしいのか、死にたいと思っているのかさえ、よく分からなかった。
「……」
 エディスは無言のまま剣を鞘に収め、エルドに対して、行け、というふうに手を振った。
 エルドは逃げた。
 リーディはエディスと二人、この薄暗い空間にとり残されて、
(僕は、僕は……)
 と、まとまらない頭で何かを必死に考えようとしていた。が、ついに何も分からないまま、涙だけが流れた。

「とにかく、装置だけは破壊していく。サイサリスの連中がすぐに来るだろうから、今すぐにな」
 と、エディスはリーディの方をまともに見れずに言った。
 すでに、泣き止んでいる。
 が、まるで別人のような感じがした。
(抜け殻のようだ)
 という印象を、エディスは持った。
 リーディは自分の生きる目的・理由を、自分の手で叩き割ってしまった。といってその代替となるような目的もないのである。何かのために生きるというのは、よほどの用心がいることなのかもしれない。
「俺は書類の方を焼くから、装置の方を頼む。剣で叩き斬っちまえばいいだろう」
「うん」
 小さく、頷く。
 歩き出したのがひどく頼りなかった。
 それでも天臨を抜き、装置に斬りかかろうとした。が、直前、
(あっ)
 と気づいた。
 ガラスの容器の向こうの緑色に発光する液体の中で、人が眠るようにして目を閉じ、裸のまま膝を抱えて浮かんでいる。
「エ、エディス」
 と言って、リーディは口に手を当てた。気持ちが悪い。こういう所でも、リーディはどこか脆くなっている。以前なら、こうまで心を動揺させることもなかったであろう。
「……例の集められた魔法使いだろう。生きている、ようだな」
 とエディスが言ったところで、リーディははっと気づいた。
(レノ……)
 どこかに、レノがいるはずだった。リーディは、必死に探した。
 すぐに見つかった。
 入口のちょうど反対の所で、一際大きな容器の中に、レノはいた。やはり眠っているかのように、目をつむっている。
「レノ!」
 呼びかけてみたが、返事はない。
(とにかくこの中から)
 と思って、リーディは天臨を構えた。叩き斬って、レノを助け出すつもりである。
 剣を、一閃させた。筒状になったガラス容器の上の辺りを切断し、その部分のガラスが地面に落ちて砕けた。
「レノ……」
 すぐに脇のところから手を回してすくい上げ、床に寝かせた。相変わらず、目はつむっている。
(大丈夫、息はしている)
 上から外套を被せてやって、とりあえずは安心した。
 そのうち始末が済んだらしく、エディスがやって来て、
「リーディ、行くぞ」
 と、促した。
「ええ」
 リーディは苦労してレノに外套を着せてやってから、ゆっくりと背に担ぎ上げた。
 歩き始めてから、
「しかし、妙だ」
 とエディスが言った。
「? 何がです」
「俺達が侵入してからだいぶたつのに、誰もやって来ない。いい加減、発見されてもいいはずだが」
 エディスは何か、嫌な予感がするらしい。

 二人は階段を登って、地下礼拝所の方に戻ろうとした。
 エディスが先頭、リーディが、レノを担いでその後に続く。
 ちょうどエディスが階段を登りきり、リーディが床に半ば足をつけた時のことだ。剣光が、走った。と同時に、
「リーディ!」
 という声が上がった。
 それがルフィス・アーバイトである、とリーディが気づいたのは、右足で階段を蹴るようにしてほとんど上体を水平にのけぞらせて剣をかわし、左足で何とか体を支えた後のことだった。
(しつこい人だ……!)
 と、リーディは思わざるをえない。
 ルフィスは二撃目を加えようとしたがエディスに阻まれている。その間にリーディはレノを背中から降ろし、階段のところに寝かせた。
「エディスは下がって!」
 とリーディは鋭く声をかけた。
 エディスは絡め合わせていた剣を一度ぐっと押してルフィスを離してから、後ろに下がった。
「久しぶり、と言っていいかな。何だかそんな気がする」
 リーディは、いつになく低い声で言った。といってまだ剣も抜いていない。
 ルフィスは油断なく構えながら、
「俺も、そうさ」
 と答えた。うっすらと笑っている。
「僕がここにいると分かったから、一人で来たんでしょう」
 訊くと、ルフィスは小さく頷いた。
「俺は運がいい。交替を呼びに来るのを待っていたが、遅いので俺一人が様子を見に降りた」
「……」
「降りると、見張りの連中が斬られている。隅の方に縄で縛られているのを見つけて問いただすと、襲撃者は二人だけだという。俺は直感したよ、お前だって」
 ルフィスは一歩、間合を詰めた。
「生きていて嬉しいよ、リーディ。貴様とは何かと縁があるようだ」
「あまり嬉しくはありませんけど」
 答えた瞬間、ルフィスが動いた。リーディに向かって一直線に駆けた。
 リーディは、剣を抜こうとした。
 が、途中体勢を崩した。ルフィスが短剣を投じたためである。リーディの動作は、一呼吸遅れた。
 そこを、ルフィスが斬りかかる。
 リーディは下がった。さらにルフィスが追いすがって来たため、また下がった。
 そうするうちに、壁際まで追いつめられた。逃げるには、右か左のどちらかしかない。
(そこを、斬ってやる)
 と、ルフィスは考えていた。リーディが動いた瞬間を狙って、斬り下げればよい。リーディは、じっとして動かなかった。剣も、抜けない。抜けばその瞬間を斬られるだけである。
 が、リーディは、
「もうやめにしませんか」
 とひどく自然な口ぶりで言った。これから斬られようとする人間の言うことではない。
「ふん」
 と、ルフィスは鼻で笑って、
「命乞いか、俺を見損なわすなよ、リーディ」
「僕はあなたのために言ってるんですよ。僕はもう、人を殺すのはやめにしたいんです」
「……言うことは、それだけか」
 ルフィスがほんの半歩、進んだ。
 と見る間に剣先が落下した。これで、リーディが動く、動いたところを斬ればよい。
 リーディは動いた。
 前へ。
(あっ)
 とルフィスは驚き、慌てて剣を翻して斬りつけようとしたが、その腕を、つかまれた。
 瞬間、リーディは天臨を抜いて、ルフィスの腹をずぶりと突き通している。
 ルフィスの魔法剣が地に落ちて、カランと乾いた音を立てた。その剣がしばらく赤い光を帯びていたが、やがて、それも消えた。
(終わったな)
 と、リーディは思った。レティングも、セルフィドも、この瞬間リーディの中で消えた。もはや英雄になるために生きるという理由も、なくなった。
(みんな、終わった)
 そう思いながら、自分が一筋の涙を流していることに、リーディは気づいていない。

 それから一時間後、地下に降りたサイサリスの連中が見つけたものは、仲間の死体が六つと、縄で縛られたのが一人、それに使い物にならなくなった魔法装置が一つである。
 行動が妙に遅いのは、エルドが何事か吹き込んでいったらしい。借りを返したつもりなのか、同じセルフィド人としての慈悲なのかは分からないが、この男はわずかな荷物を取りに宿所に戻るやその足で逐電してしまっている。
 リーディとエディスの二人は、無事に逃げおおせた。
 例のエディスの宿に着いた時にはすでに夜が白み、日が昇り始めている。リーディはたった一つしかないベッドにレノを寝かせながら、
「よく、無事でしたね」
 と、言った。言いながら、そういう奇跡のような事実に感心しているというふうではない。
 ――これから、どうするのか。
 ということが、二人の頭から離れなかった。レティングとしてはもはや最後の仕事を果たしたといってよいため、これからは何をするというわけでもないのである。
「しばらくは、動けまい。ほとぼりが冷めるのを待つ必要がある。それにラクスがどう動くのかも気になるところだ」
 エディスは、そう言ってイスに座り、目を閉じた。眠い。昨日の緊張のせいもあってひどく体が疲れていた。
「ともかく今は眠ることさ」
「そうですね……」
 と言ったくせに、リーディはレノのところから離れようともせず、眠る気配もない。
(勝手にすることさ)
 と思って、エディスは眠った。
 それから一週間、リーディは看病を続けた。二日目からは口移しで水をやったり、食べ物を噛み砕いて食べさせてやったりしている。
 レノは、目覚めなかった。
 さらに一週間が立って、目を開けた。昼頃のことで、意識がはっきりしないらしくぼんやりとリーディの顔を見つめている。
「ここは?」
 と、しばらくしてレノが訊いた。
 リーディは、迷った。本当のことを言っていいものかどうか。
「ここは……」
 と言ってから、リーディは精一杯微笑して、
「病院だよ。僕はレノを見舞いに来たんだ」
「……そう、だっけ」
 レノは、軽く微笑した。真実そう思っているようでもあるし、もうどうでもよいと思っているようでもあった。
「私、どうしたのかな?」
「悪い風邪を……」
 と言いながら、リーディはさりげなく目線をそらして、
「こじらせたんだ。もうしばらくすれば、治るよ」
「そうだったね……」
 と、レノはもう一度微笑した。
 エディスは気をきかせたのか部屋にはおらず、二人はポツリ、ポツリと他愛のない会話を交わした。が、なにぶんレノの体力がもたず、長くは続かない。結局一時間もしたところで、
「疲れたから、私眠るね」
 とレノが言った。
「うん」
 リーディはレノに毛布をかけてやり、寝かせてやった。
 レノはじっとリーディを見つめながら、
「リーディ」
 と、急に何かに怯えた子供のような声を出した。
「私、リーディのことが好きだったよ。初めて会った時から、ずっと」
「僕も……」
 と答えながら、リーディはどうしたわけか目の底から湧き上がってくる涙を抑えられないでいる。
「好きだったよ。今も、これからだって、そうさ」
 リーディはレノの右手を自分の両手で包み込んでやって、
「だからさ、心配しなくていいよ。ゆっくりお休み」
「……うん」
 と、レノは微笑して、目をつぶった。
 レノが死んだのは、その翌日のことである。

 明け方のことだった。レノは最期にうっすらと目を開けて、
「リーディ」
 と言った。リーディがレノの右手を握ってやると、安心したように微笑し、目を閉じた。
 それっきり、動かない。
 リーディが気づいた時には、すでに手が冷たくなって、息をしていなかった。
「レノ?」
 リーディは、その死んだにしては美しすぎる顔を見つめながら、不思議と涙が湧いてこないでいる。
 翌日になって、リーディは出かけた。
 レノを、背負っている。
 二、三時間ほど歩きつづけて町を出、近くの丘陵でようやく足を止めた。緑の草原の向こうにトルアストの町が遠望でき、その上をニーエスト川が流れている。
 リーディは墓を作るつもりだった。
レノの、墓である。
 やがてリーディは素手で土を掘り始めた。土は硬くはないが、それでも途中、爪が割れ指先の皮膚が破れて血が流れた。
 人一人が横になれるだけの穴が出来上がったのは、日没近くになった頃である。いつの間にか雨が降り始め、リーディはずぶ濡れになったまま作業を続けている。
(……)
 リーディは、レノをそっと穴の中に横たえた。
 それから、ふと気づいて自分の天臨を鞘ぐるみ外し、レノの胸の上に置いた。
 リーディは、自分の人生の象徴をレノと共に埋めた、のかもしれないし、あるいはせめてもの手向けのつもりだったのかもしれない。
 土を被せ終えた時には、夜になっていた。
 その後で、リーディは初めて泣いた。

 トリア暦二七五年、七月五日。
 リーディが闇の中をとぼとぼと帰っていると、途中、物陰からにわかに一人の男が現れて、リーディの背後に迫った。
 剣を、持っている。それがうっすらと光を帯びていた。
「?」
 とリーディは振り返ろうとしたらしい。
 が、その途中背中に激痛があり、ついでそれが胸の方にまで通った。剣が、リーディの背中を刺し貫いている。
 やがてその剣が抜かれ、リーディは路上にうつぶせになって転がった。血が流れ、意識が朦朧とし始めている。が、不思議と痛みはなく、何か夢でも見ているような気分だった。
 ――そうだ。
 と、リーディは不意に思った。
 ――僕は、夢を見ていたのかもしれない。

 エディス・リアラルは剣を一振りして血を払い、鞘に収めた。
 目の前に、リーディがうつぶせになって倒れている。その下に、血が広がっていた。死んでいる。折からの雨が、その血をしきりに洗い流していた。
「セルフィドの諜者」
 とは、エディスのことだった。この男はアレグノール王国のレジールで養育された純粋な職業暗殺者で、そういう職業としてレティングに雇われていた。レティング内部の非違を調べたり、暗殺計画を立てていたのもこの男であり、レティング壊滅後にその生き残りを殺すよう指示を受けていたのも、この男である。
(……)
 悪かった、とはエディスは必死に思わないようにした。それではリーディが何のために殺されたか分からず、憐れになる。
(リーディという奴は)
 と、エディスはその場を去りながら、思った。
(夢を見すぎていたんだ。自分でも知らないうちに……)
 エディスがトルアストからを行方をくらましたこの日、レノの墓に野の花が一輪、手向けられていた。

 リーディの人生がどういう意味を持っていたのかは、よく分からない。
 この少年は生まれた時から「英雄になる」という目的を与えられ、その事に疑問を持つことすらなく成長していった。それは自分の人生に疑問を持たなかったということで、ある種の気安さを伴っていたといえる。
 が、後半、自らの手でそれを砕いた。
 砕いた後、この少年がどういう人生を送ったかについては、それ以前に死んでしまったために分かりようもない。
 が、案外ごく平凡で幸せな人生であったろうことは、想像に難くなさそうである。

 あとがき

 リーディ・オルリアスという少年については『レティング覚書』、『セルフィド王国百話』『ウォルフォード市史』、イリュ・フラズの日記(無題)、などを利用した。むろん、これでリーディという少年の一生がつづれたと思えるわけでもなく、事実は多少違ったものだったのかもしれない。
 クレンフォルンのその後を多少記しておくとすれば、ラクスは魔法装置が謎の事故によって破壊された後、自殺を遂げている。後任のオリス・レアナーは性格的にも穏健な男で、セルフィドとの関係も元のように修復されている。
 ラクスの自殺については諸説あって紛々としているが、ただその養女レノ・フィオールをこの男が愛していたことや、レノが精を生まれながらにして複数持っていたことなども、加味しておかなければならないことであろう。
 また、エディス・リアラルについても、記録上はっきりとはしない。アレグノールにあるレジールは伝統的な暗殺者養育機関であり、各国に信頼されて雇われている。ここにおいては雇い人に対する命令違反は犯してはならない不文律であり、エディスにすれば結局はそれに従ったのであろう。
 リーディ
この少年はフィトンという女だけの異常な村で育ち、英雄として教育され、ついにはレティングに入り、暗殺者となった。が、当の本人はごく純粋で透明さにあふれた少年であり、違う境涯に生まれていれば、間違いなく違う境涯を送ったであろうという人物である。
 そういう普通の少年が、どういう奇妙な生涯を送ったかを、書いてみたかった。

            九七四年 十月

――Thanks for your reading.

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