[愚者の夢]

1、オルリアス

 トリア暦二五六年といえば、クレネスがまだ一地方の国に過ぎず、十二王国が割拠していた時代である。
 セルフィドのトレスで、一人の男の子が生まれた。
 陽(ひ)の光のような淡い金髪で、瞳がやや青い。可愛すぎるほど可愛い赤ん坊だった。
「リーディ」
 と、名付けられた。ただし理由があって、名字はつけない。
 このリーディが三歳になった時、フィトンという、奇妙な村に連れて行かれた。ただしリーディ自身はまだ物心もついておらず、そういう奇妙さには気づいていない。
 リーディはこの村の小さな修道院で、
「オルリアス」
 という名字をつけられた。というより与えられたといったほうが正確で、リーディは子供心に妙な気分だったようである。
 説明が、要る。
「オルリアス」
 についてである。この名字については、セルフィドがヴェセクスというまだ一つの国だった頃、要するにこの時よりさらに百五十年ばかり前に遡らなければならない。
 ヴェセクス建国後二代目の王の時、この国では内乱が起きた。若年の王に目をつけ、魔術師が八人謀反を起こしたものだが、これを一剣をもってよく制したとされるのが、フォリア・オルリアスである。
 ほぼ伝説上の人物といってよく、詳しい話は避けるが、要するに、
「英雄」
 である。
 この英雄が死の間際に、自分の出身の村を女だけにしてほしいという妙な遺言をした。冗談のつもりだったのか、それとも自分がどれほどの権能を得たのかを試したかったのか、よく、分からない。
 ただしこれを国王が実行したため、フィトンという、この奇妙な、女だけの村が出来上がった。国王にすれば、この「英雄」に対し、神をあがめるがごとき崇拝心があったのだろう。
 ところが、この際にある伝説が作り出された。フィトンの女には男子が生まれない、もし生まれれば、それはフォリアの生まれ変わりである、と。
 この伝説のとおり、フィトンではしばらく男の子が生まれなかった(というよりフィトンから村を出た女の子供が、ということだが、むろんこのような機会は少なかった。この村では人口の維持が最重要課題であり、そのために捨て子をもらって来たりしていた)。
 ところが、ついに生まれた。すでにヴェセクスでは五代目の王のことで、村ではフォリアにあやかって、オルリアスという名字をつけた。が、これが殺された。
 原因は、当時の国王にある。レザ・フィオールといった。この五代目の国王はよほどの臆病者であった上に、極度の迷信家だった。例の伝説を信じ、信じた上、その「英雄」を我が地位をおびやかすものとし、暗殺を命じた。子供は、まだ乳飲み子だった。
 このレザ・フィオールの死後に、ヴェセクスはセルフィドとクレンフォルンの二国に分かれているが、無理もなかったといえる。
 村では、この間呆然としている。国王がまるで異界の住人のように思え、理解の範疇を越えていた。結局は、何も言わなかった。というより何を言っても無駄なのだと、強烈に思い込んだ。
 結果、この村はどんどん寂れていった。深い森の中で隠れ里のようになっていき、村人も、それを望んだ。
 が、奇妙なことに、この村では例の伝説がかえってひどく信じられるようになった。男子が生まれれば、「英雄」になるべく村で徹底的に教育した
「リーディ・オルリアス」
 という少年がこの村に連れてこられたのも、そういう理由である。

 リーディ
 容姿端麗で、まったく少女のような顔立ちをしていたという。性格も明るく、性根のあくのようなものがなかった。
 フィトンでは男に対してすべて女の格好をさせ、それに慣れるまでは村の中から一歩も外へ出さなかった。親鳥がひなをかくまうようにして大切に扱うのだが、リーディの場合、母親がふと、
(この子は女の子じゃないかしら?)
 と思うほど、それがよく似合っていた。
 母親の名は、サティといった。が、彼女がこういう心情を持ったのは、むしろそれを望んでいたからかもしれない。リーディが女の子でさえあれば、トレスで父親と暮らせてもいたし、世に風雲が起きた時、命の危険を冒してまでそれを止めに行くこともない。
 ただ、こうした感情も、
(英雄の生まれ変わりだから)
 という一事によって、抑えられてしまう。この村では誰もが例外なくその事を信じていた。
 ちょっと、宗教上の儀式のようですらある。
 村人は敬虔にそれを守っていた。異常、としかいいようがない。
 リーディは、いわばその犠牲者だったが、この少年はむろんそんなことには気づかず、いつも明るく笑っている。
 午前中は、リーディは修道院で他の子供達と一緒に勉強し、午後になると皆で遊んだ。それも女の格好をしているから、少女の中に少年が一人混じっている、というふうには見えない。
 サティは、さすがに心配になった。子供のリーディに彼が男であることを教えようとした。が、
(男?)
 と、リーディには分からない。
 これは、当然だった。周りに、男がいない。いるのは女ばかりである。男というものがどんな姿形をしているのかさえ、リーディには分からなかった。
 人間の中で育てられた動物が、自分が人間であると思うのに、似ている。女の中で育てられただけに、リーディは自分のことを女という尺度で持ってしか計れなかった。
 ところが、幼い頃はこれでよかったかもしれないが、成長するにつれ、そうではすまなくなった。
(一体男とは何なのか?)
 とリーディは思い、勇を鼓して母親に訊いてみたりしたが、かえってそれが自分であるなどと言われたりして、もはや訳が分からなかった。
 結果、熱を出して寝込んだというから、リーディにとってよほど不可解だったに違いない。
 それだけに、十歳の頃から始まった剣術修行が不思議とおもしろかった。木刀を握る瞬間だけが、悩みを忘れさせてくれたのだろう(この剣術指導だけは、男がやった。ただしそれも去勢されている、という徹底ぶりである)。
 リーディはこの剣術修行の時だけは、普段からは信じられないような激しさを見せた。木に打ち込めといわれれば、ついには幹を削るまでやめなかった。
 そのくせ、この少年の好きなことは村の女の子達と花摘みに行くことなのである。
 性格破綻者のようでさえ、あった。しかしリーディ自身は、そういった自分の奇妙さに気づかないでいる。
 そうこうするうちに、十六歳になった。が、相変わらず少女のような性格で、いつも明るく笑っている。声や体型も、不思議と女のようだった。
 ところがリーディが十六歳になったこの年、驚くべき知らせが村に伝わってきた。
 セルフィドが侵攻された、という。

 十二王国時代というのは、二〇三年の疫病蔓延以降平和が続いており、そういう意味では「英雄」が必要とされる気配すらなかった。
 だからリーディがいくら国を救う決意を持っていたとしても、結局はフィトンで一生を過ごすはずだったのである。
 ところが、
 ――セルフィドが隣国クレンフォルンに攻められた。
 という報が、この村に伝わった。
 セルフィドとクレンフォルンは、元々ヴェセクスという一つの国であり、それが分派したものとはいえ兄弟国といってよいほど、その仲は親密だった。
 だけに、この知らせはセルフィドにとって寝耳に水といってよいほど、衝撃的だった。
 もっとも、国力差だけをとってみればセルフィドはクレンフォルンに対し、圧倒的劣勢をほこっている。
 ヴェセクス分裂後の五年間の争いの後に、この二国はセルフィドを本家とし、クレンフォルンが国土の三分の二以上を領土とする、ということで話をつけたからである。いわばセルフィドには名誉が与えられ、クレンフォルンは実利をとった。
 それが、
「我がクレンフォルン王家に対する侮辱をはらすため」
 という理由で、クレンフォルンが侵攻しているのである。セルフィドとクレンフォルンの王家では婚姻が結ばれることになっており、この前年、クレンフォルンから嫁いでいたエル・フィオールという人が亡くなっている。侮辱、とはそのことを言っている。
 ただし、病死だった。
 誰がどう見ても、単なる病死である。攻められるほどの理由ではなかった。
 が、時期が悪かった。クレンフォルンの当時の国王はラクスといい、実を言えばセルフィドを足がかりにした勢力拡大を考えていた。ラクスにすれば口実さえできればよかったのだろう。
 これに対し、セルフィドの方では慌てた。クレンフォルンとの国力差が大人と子供ほどもあるから、まともに立ち向かう訳にはいかない。
 そこで、謀略。
 ラクスを失脚させた。これが驚くほど簡単に進み、国王が交代した。ラクスは結局、独裁色が強すぎたのである。
 この事件が起きたのが、トリア暦二七一年。
 ところが、この一大事が村に伝わったのは、なんとリーディが十六歳になった二七三年のことだった。村が、辺境すぎたのである。
 旅の巡礼がたまたまこの村に寄ったため、右の事が伝えられた。狭い村のことだから、その話はすぐさま村人全員が知ることとなり、リーディも、村に来てから生まれた妹のテニアに、その事を教えられた。
(えっ)
 と、リーディは思ったであろう。そのような一大事があったにもかかわらず、自分は二年もの間村でぼんやりと過ごしていたのか、という驚きであった。
 運命というのは、妙なものである。
 この二年のずれのため、リーディは本来クレンフォルンの侵攻が失敗したことに安心するだけでよかったものが、逆に焦燥感を駆り立てられることになった。
 リーディの運命はこの時、妙な方向に転がり出すのだが、むろん、本人はその事に気づかないでいる。

 翌日の、朝のことである。
「母さん」
 と、リーディは食事の準備をする母親に向かって改まって言った。
 サティはその事をある程度予感していたらしく、ちょっとリーディの方を見ると、また台所の方を向いて、
「村を、出るのね」
 と、意外に驚かずに言った。
 リーディはしばらくして、
「はい」
 と答えようとしたが、涙があふれて声にならなかった。
(いけない)
 と、自分を叱咤してみるが、どうにもならない。
「リーディ」
 サティは声をかけて、リーディをそっと抱きしめてやった。
「あなたは男の子だから、いつかこんな日が来るんじゃないかと思ってたの。泣かなくても、私はいつもリーディのことを思ってるわ」
 リーディはぎゅっと抱きついて、声を殺して泣いた。が、しばらくすると、
「ちょっと待ってなさい」
 と言って、サティは家を出て行った。
(何だろう?)
 と思いながら、リーディは涙をぬぐって待っている。
 やがて戻ってきた時には、母親の手に一振りの剣が握られていた。
「これは天臨≠ニいう剣です。百五十年前、フォリアが八人の魔術師を倒した時、この剣を使ったといいます。これを持って行きなさい」
 リーディはそれを受け取ったとき、また涙が出そうになった。が、不意に英雄フォリアもこのような気持ちで村を出たのかもしれない思い、思うと急におかしくなった。
「母さん、行ってきます」
 そう言って、笑った。そうでなければ今にも泣いてしまいそうだった。

天臨≠ノついて、多少触れておかなければならない。
この長さ五フィス一シティング(七十二センチメートル)の刀身を持つ、鍔と刀身が一体化した形の剣は、実を言えばフォリアの使った剣などではなかった。
剣の製法の一種に、魔法剣というのがある。一六三年にセデューナで作られ始めたもので、剣に呪刻を施し、いわゆる気≠ニいうものを利用してその強度と切れ味を極端に高めたもののことだ。創始者のルセ・アーナストの名をとって、魔法剣を扱う者のことを「剣護者(ルセリスト)」と呼んだりする。
天臨は、魔法剣である。
となれば、百年程前から作られ始めたこの種の剣が、フォリアのいる百五十年も前にあるはずがなかった。
実のところ、この剣を作ったのはこの村の鍛冶屋なのである。むろん、サティもリーディも、自分達の家から数分も歩いたところにある鍛冶屋でこの剣が最近になって作られたなどとは夢にも知らない。
これには理由が残されていて、フォリアの用いた剣などは、元々この村にはなかったのである。消失したのかどうかは分からないが、ともかくその保管元とされている修道院では代々の院長が困じはてており、リーディが村に連れて来られた時に、村の鍛冶屋を騙すようにして作らせてしまった。
もっとも、この鍛冶屋のリシア・サンが後にクレネス王室の宝剣光麟≠作るのだから、天臨も相当の名剣といっていいかもしれない。
余談だが、リシアはセデューナの出身とされている。魔法剣の製作は、その中心が一八三年頃からクレネスに移ったとはいえ、セデューナではまだ伝統的技法が残されており、彼女の技術はそういうところから来ているのであろう。
ともかく、この村ではこの種の「伝説」がはびこっており、判然としない。もしかしたら英雄フォリアの出身地であるという「伝説」も、その類なのかもしれなかった。

 リーディが村を出発したのは、それから一週間後の二七三年七月八日のことである。この日、空は見事に晴れ渡っていた。
 出立は、村人全員が見送ってくれている。リーディはさすがに気恥ずかしい思いだったが、一面悪い気もしない。
(きっとやってみせる)
 そんな思いがふつふつと湧いてきた。
 とはいえ友達と別れるときは、さすがに心の沈む思いがした。住み慣れた環境を捨てるというのは、やはり哀愁に似た寂しさがある。
 それでもリーディは、
「しばらくの間だけだから」
 と言って、逆になぐさめたりした。
 家族にも、別れを告げた。
 サティは最後に二言三言注意を与えてから、額をリーディと合わせて、
「あなたの上に光がありますように」
 と、村に伝わるまじないをかけてやった。
 妹のテニアも同じことを真似てから、
「行ってらっしゃい」
 と小さく手を振った。目に、涙が浮かんでいた。
 リーディは仲のよい家族だっただけに憂鬱とも哀しみともつかぬものが胸一杯に広がったが、それでも精一杯の微笑を浮かべ、
「行ってきます」
 と、手を振った。
 後でリーディが見えなくなってから、サティは不意に泣き出して、
「あの子、もう帰ってこないんじゃないかしら?」
 と言った。
 村人は同情するようにして彼女をなぐさめたが、かといって誰一人としてこの事が本当になるとは思っていない。

 リーディは、
「トレスに行くように」
 と言われている。トレスはリーディの生まれ故郷であり、現在でも父親がいるはずだった。
 その間、同行者がいる。
 イリュ・フラズといった。黒髪で、三つ編みを一本背に流しており、スラッとした女性である。勝気な性格をしていて、今年で二十二になるが、まだ結婚もしていない。
 リーディは、いわば保護者役のこの同伴者が苦手だった。時々リーディの顔をのぞきこんでは、
「女の子みたいねぇ」
 と言うのである。
 リーディにすれば何か馬鹿にされているような気がするのだが、男という自覚が薄すぎて何も言い返せないのである。言い返せないだけに、なお腹が立った。
 イリュという女性には、諸事こんなところがあった。物事に明晰な方で、言いたいことは大抵口にしてしまう。
 リーディは歩きながら、イリュについていろいろと訊ねてみた。
 イリュは簡潔に答えてくれた。イリュ自身はセルフィドの王都であるウォルフォードに暮らしていて、そこで織工をしている。徒弟期間はすでに終わっているが、今は職工として雇われている、という。村に戻っていたのは養母の葬儀のためだった。
 リーディは何気なく、
「どうして村を出たんですか?」
 と訊いてみた。
 イリュはちょっと考えるふうだったが、やがて、
「恋をするため」
 と、ぽつりと言った。言ってから、はっとしたように口をつぐんでいる。癖で、ついしゃべってしまったが、イリュにすればこれはあまり人に知られたいことではなかった。
 とはいえ、
(恋?)
 とリーディは思っている。分からないのだ。この少年の育った環境を考えれば、確かに恋などという概念は育ちにくかったに違いない。
 双方しばらく黙っていたが、すぐに忘れた。ものにこだわるということが、この二人にはどこか欠けているようでもある。
 やがてイリュの方が、
「ラクス・フィオールがどうなったか、知ってる?」
 と、訊ねてきた。むろんイリュはリーディが二年前の出来事が原因で村を出ることになったのを知っている。
 リーディにしても気になることだった。
「どうなったんです?」
 訊いてみた。
 イリュは王都に住んでいるだけに、さすがにこの事を詳しく知っていた。イリュの話によればラクスはその後、自領の城に戻って軟禁状態にあるという。
「ラクスといえば、セルフィドだけじゃなくて、クレンフォルンでも恨まれてるみたい」
 と、イリュは言った。
(ラクス・フィオール)
 リーディは何か、その名前に運命的なものを感じた。リーディはすでに、この男のために村を出ることになっているのである。あるいは、この予感はあたっているかもしれない。
 その後、三四時間ほどかけて二人は街道に下りたが、村は鬱蒼とした森の向こうにあってどこにあるとも知れなかった。
 リーディはしばらくの間じっとそこに佇んでいたが、この時イリュが珍しく、
「お別れは、もうすんだの?」
 と、ひどく感傷的なことを訊いた。
 リーディはちょっと微笑してから、
「いえ」
 と答え、
「死ぬ覚悟は出来てますから」
 と、微笑したまま言った。
 イリュは、ドキリとした。何か、神にでもあったような気が、にわかにした。
(この子、本当に英雄になるかも)
 そんなことを、思った。

 この日、二人は日の沈む少し前に宿をとった。出発したのは、翌日の早朝である。
 途中、事件があった。
 二人が昨夜、宿で旅人に教えられた近道を通っている時のことだ。森の中から四人ばかりの男が現れ、そのうちの一人が短剣を突きつけてきた。
(物盗り……)
 とは思うまでもない。イリュはさすがに血の気が引き、蒼白な顔になった。昨夜の旅人は、案外ぐるだったのかもしれない。
 ところがリーディの方は、意外にも落ち着いている。
(何だろう?)
 と、リーディは思っていた。物盗りというものが、この明るすぎる少年には想像外の存在だったのである。
「大人しく金と荷物を置いて行くんだ。ただし最低必要な分くらいは持って行っていい」
 と男の一人が言った。
(え?)
 リーディは今更ながら、驚いている。
「大人しくしていれば、ケガをしないですむ」
 と言いながら最初に短剣を突きつけてきた男が、ゆっくりと近づいて来た。それが、リーディから後三歩というところで、突如、
「ぎゃっ」
 と声を上げた。うずくまって、鼻を押さえている。
 一同、唖然とした。
 が、一つだけ動いた影がある。リーディだった。リーディは天臨を抜き、その平で男の鼻を殴ったのである。思い切りやれば、鼻の骨ぐらい砕けるだろう。
「――この野郎」
 と、残る三人がようやく動いた。一斉に、リーディに向かって襲いかかった。
 リーディは、落ち着いている。
 先頭の一人の横っ面を目にもと止まらぬ速さで叩きつけると、転じて残る二人の正面に立った。
 気圧された、といっていい。残る二人は仲間のことも見捨てて、後も見ずに逃げ去った。
 リーディはほっと溜息をついて、剣を鞘に戻そうとした。が、今更恐怖が甦ってきたのか、手が震えて容易に収まらない。
「イリュさん、ちょっと……」
 と仕方なくイリュの手を借りて、剣を鞘に戻した。
 その後、二人とも急いでこの森を抜けたが、トレスまでの間、こういうこともあってイリュのリーディに対する評価はずいぶん変わっていった。

 トレスに着いたのは、その二日後のことである。フィトンからは歩いて三日かかったことになる。
 トレスは人口一万人程度の中規模都市で、都市の通例として市壁に囲まれている。リーディとイリュはその町中を歩きながら、一軒の家を探していた。
 父親の家である。
 むろん、リーディがそこに住むためだった。が、それを端から眺めているイリュにすれば、これは気が進まなかった。
 第一に、十三年間も会わなかった父子が、その原因を作ったのと似たような理由で今一度会わねばならないという、この奇妙さはどうなのだろう。
(それに……)
 と、思うのだ。女の事しか知らない少年が、いきなりその父親と会えば、もはや互いに理解不能の人間としてすさまじい軋轢を生じるのではないか。
 それだけに、イリュは気が重かった。しかもリーディは無邪気そのものといった顔で、物珍しそうに町並みを眺めているのである。気の毒ですらあった。
 やがて、その家が見つかった。通りに面した二階建ての建物で、一階は金物屋を営んでいるらしい。その店先で確認すると、間違いなくここであるという。
 イリュはそこからちょっと離れた所で、
「私は、しばらくこの町にいるから、もし何かあったらここまで来て」
 と、小さな地図を手渡した。
 リーディはそれを受け取りながら、
「はい。必ず行きます」
 と嬉しそうに言った。単純に、イリュにまた会えることを喜んでいるのである。
「……」
 イリュは、悲しくさえなった。

 リーディはイリュと別れた後で、その父親の家を訪ねた。階下の店先で、
「ヴァルトさんはいますか?」
 と、父親の名を出して訊ねてみた。
 ついでながらリーディの父親はヴァルト・フィルという名前で、金物屋の親方をつとめている。親方というのは時に職人や徒弟をこき使ったりするものだが、この男にはそういうところがなかったらしい。
「親方? 上の方にいますが、何か?」
 と、店先で働いていた一人が答えてくれた。
「その――」
 リーディは、つまった。
「――直接会って、話したいんですが」
 相手は、不審に思ったらしい。が、それでも案内してくれた。リーディには頼むと切な感じがして、相手としてはついそれをきいてしまうところがある。
 やがて二階の一室の前に案内されると、リーディは礼を言い、それから小さく扉をノックした。
「リーディです――」
 この時ばかりは、自分でも不思議な気分になった。
 扉が、開いた。
 出て来たのは、中肉中背のややいかめしい感じの男である。ただ、目元の辺りがリーディに似て微妙に柔らかかった。
「?」
 初め、不審だったらしい。が、次第に驚きが顔一杯に広がって、やがて、
「リーディか?」
 と、訊き返した。
「はい。母さんの、サティ・フォールのことは憶えてますよね……」
「それは、そうだが」
 この男の心理状態は、複雑である。十三年間、妻子と別れさせられる原因を作ったあの村を恨んでいたし、さらには町で無用の中傷を受けることもしばしばだった。
 それが、今ここで息子と再会しているのである。喜んでいいのか、それとも、
(今更なんだというのだ)
 と、憤激してよいものか。
 しばらく、何ともいいがたい表情をしていたが、やがてこの男の中で何かが崩れたのだろう、不意に表情を和ませて、
「リーディ、大きくなった。十三年だ、十三年ぶりだ……」
 と言って、そっとリーディを抱きよせてやった
 リーディは、戸惑った。が、妙な懐かしさがあって、
「父さん……」
 という言葉が自然と口を突いて出た。
 何故か、涙があふれていた。

 それから、五日後のことである。
 この間イリュは町の織工ギルドに厄介になっていた。ギルドには旅の同職者を世話する義務があったからである。
 七月十六日にリーディが訪ねて来た時、イリュは、
(お別れを言いにきたのかしら?)
 と思った。
 当然である。問題が起こるならもっと早くに起こっているであろうし、そういうことを連想させるにはリーディの表情はいつものように明るかった。
 ところが、
「僕、ウォルフォードに行きます」
 と、この少年は妙なことを言い出したのである。
「?」
 イリュには、訳が分からない。
「何か、あったの?」
 と、ようやくしぼり出すように訊いてみた。
「お父さんと喧嘩でもしたんじゃ?」
「そうじゃ、ないんです」
 リーディはなんと言ってよいか、困ったような表情を浮かべた。
「父さんは、いい人でした。初めは戸惑いましたけど、僕も今まで分からなかったことがすっきりしたみたいで」
 この五日の間にリーディは、
(人間には男≠ニいうものもいるらしい)
 ということが、おぼろげながら分かってきたのである。といって、この少年の場合何が変わるというのでもなかった。
(自分は、自分だ)
 と思っている。男らしくとか女らしくとかいった考えは、この少年にはなかった。
「それに、父さんは今でも母さんや僕のことを大切に思っているって言ってました」
「今でも?」
「ええ」
 イリュは、つと目をそらした。「大切に」されるために村を出たのが、彼女なのである。
「それで、どうしてウォルフォードに? ここで暮らしたくないの?」
 話を、そらした。
「それは、父さんが。僕にはどうしてだか」
「……」
 イリュには、分かる気がした。リーディの父親にすれば、息子といることは昔を思い出してつらいのだろう。そういうつらさがいつリーディへの憎しみに変わるとも分からない。だから、リーディからイリュの話を聞いた時、とにかく預けてみようと思ったに違いない。
 だとすれば、イリュはつらいと感じるほどリーディのことをうらやましく思った。イリュは、両親の不仲がもとで捨てられているのである。
(……)
「あの、イリュさんについて行っても大丈夫でしょうか?」
 と、リーディが訊ねた。
 イリュには、異論はない。元々イリュが考えていたことなのである。
「ええ、いいわよ」
 と答えてやった。
 リーディはぱっと顔を輝かせて、
「ありがとうございます」
 と、嬉しそうに言った。心底喜んでいる様子だから、イリュも悪い気はしない。
(これがこの子のいい所かも)
 少し眩しくさえ、思った。

――Thanks for your reading.

戻る