[ドルチェの白い骨]

 深い深い海の底、光の一筋さえ射さない暗闇の底に、ひっそりと横たわるものがありました。
 それは、ちょっと見ただけでは、手に抱えられるくらいの白い石が、点々と並んでいるように見えます。砂の上のそれは、古代の人間が神聖な儀式のために配したように、ほぼ一直線に並んでいました。
 この白い石の正体は何なのでしょう?
 よく見れば、それは生き物が静かに眠っているようにも見えます。そうです。かってそれは光あふれる海を悠然と泳ぎ、生を謳歌する存在でした。それは一頭のザトウクジラの骨だったのです。
 白い骨は生前と同じく背骨に沿って規則正しく並んでいますが、けれどもはやその骨が動き出すことはありません。周りには深海に棲む白いカニやエビが群れ、ゆっくりとこの思いがけぬごちそうにあやかっています。
 光あふれる南海の海で生まれたこのクジラは、一体どんな理由で光射さぬ暗闇の世界へとやってきたのでしょう。
 もの言わぬ骨となった深海のクジラには、もうその事を語ることは出来ません。
 ですから、彼に代わって語ることとしましょう。彼がいかにして生まれ、いかにして生き、そしていかにして死んでいったかを――。

 そのザトウクジラは、私たちと同じようにお母さんのお腹の中で生まれました。それはほんの小さな生命で、まだ自分ひとりで生きていくことだって出来なかったのですが、それでも立派な一つの生命です。
 この小さな生命には、ドルチェ≠ニいう名前がつけられました。もちろん、ドルチェが生まれてからのことです。その名前をつけたのはドルチェのお母さんで、ミリエナといいました。ミリエナの名前だって、そのお母さんがつけれてくれたものです。
 彼――そう、ドルチェは男の子でした――は、一年もの間お母さんのお腹の中で、彼女の一部であるかのように栄養をもらい、温かな羊水の揺りかごの中で穏やかな夢を見ていました。それは真っ白な、清らかで柔らかい光に包まれた夢です。
 ドルチェのその小さな生命が誕生してからちょうど一年と少しが過ぎた頃、彼はそれまでとはまったく違った何かがこれから起こることがわかりました。先ほどから、声が聞こえるのです。それはこの世界の光を、幸福と美しさをうたっていました。
 ドルチェの体はすっかり大きくなっていて、ミリエナのお腹の中はいささか窮屈になっていました。ドルチェは小さく丸まった状態でその中にいるのです。
(だれ?)
 かすかに身じろぎしながら、ドルチェは声の主のことを考えました。その声は一体どこからやってくるのでしょう? けれどドルチェは声に導かれるようにして、誰から教えられたわけでもなくこの永遠の平和の場所から必死になって抜け出そうとしました。
 まだ見ぬお母さんの力をかりながら、ドルチェはまず尻尾のほうから部屋の外へと出しました。海の中に住むクジラは、こうしないと幼い赤ん坊が窒息して死んでしまうかもしれないのです。
 ドルチェは初めて触れる海水にびっくりしました。それはお母さんのお腹の中の羊水とは違って、少し冷やっとして、おまけに絶えず動いているようなのです。
 ドルチェは少し心配になりました。
 けれどあの声はまだ聞こえてきます。それに良く考えてみると、この水はそれまでいたあの場所とよく似ているようでした。ドルチェは意志を新たにして、再びこの最初の試練に立ち向かいます。
 尾びれから上が現われ、小さな背びれが現われ、そしてとうとう二つの胸びれも姿を現しました。もうすぐ小さな目や口だって見えてくることでしょう。
 そいて、ついに、ドルチェはミリエナのお腹の中からこの世界へと誕生したのです。生まれたばかりの赤ん坊は、まだ皮膚も柔らかで、色だって少し薄くなっています。そのお腹にはお母さんの中で丸くなっていたしわが、ついてもいました。
「おめでとう。そして、ようこそ」
 私たちはこの生まれたばかりの生命に、そう言って祝福してあげたいのですが、でも彼のことを世界で一番愛し、慈しんでいる存在はそのすぐ傍にいました。
 ミリエナは生まれたばかりのドルチェについていたへその緒を、やさしく噛みとってやりました。ドルチェはこの見知らぬ存在が、自分を一等愛してくれていることが、すぐさま分かりました。
 でも、どうしたことでしょう。ドルチェはわけの分からない苦しさを覚えました。それは今までと違って自分で呼吸をしなければならないからでしたが、生まれたばかりのドルチェにはまだ何も分かりませんでした。
 けれどミリエナはちゃんとその事を知っていましたから、まだ泳ぐことも出来ないドルチェを背中に乗せ、ゆっくりと海面近くにまであがってやります。
 ドルチェは背中を海面から上へと浮かべ、二つある噴気孔から息を吐き出しました。体の中で温められていた空気は、外の空気に触れて冷やされ、白い霧のように吹き上がります。
 それがドルチェの産声でした。
 初めて吸い込む空気は冷たく、今までとは違った奇妙なものでしたが、それはとても新鮮な感じがしました。そうです。私たちは風の精を胸一杯に吸い込んだ時、新しい生命の力が自分たちの中に湧き上がるのを感じるのです。
 ドルチェの隣にミリエナがやって来て、同じように背中にある鼻で息をしました。けれど何しろミリエナは立派な大人でしたから、ドルチェよりもずっと大きな白い霧が吹き上がります。
 ドルチェはそれから、初めてお母さんのお乳をもらいました。お腹の下のほうにある乳首に口を当て、夢中になって吸い込みます。その白く栄養にあふれた液体こそ、誰もが一番初めに口にする尊い食事です。ドルチェはお腹一杯になるまでお母さんのお乳をもらいました。
 ミリエナはまた、ドルチェに泳ぎを教えてやりました。そう、クジラだって最初から泳げるわけではありません。ドルチェはミリエナの後を追って、その流れに助けられながら、懸命に泳ぎを覚えます。
 まだ十分に大きくない子クジラは、盛んに水面上まで行って息継ぎをしなくてはなりません。ドルチェは泳ぎの練習をしながら、何度も鼻を海上に浮かばせました。はじめ、力の加減がうまくできず、ドルチェは体ごと水面の上に出ることが何度もありましたが、次第になれて、うまく背中だけを浮かばせられるようになってきました。
 最初の一日にそうやってお乳を飲んだり、泳ぎの練習をしたりするうち、ドルチェは奇妙なことに気がつきました。
 だんだんと、ミリエナの姿が見えなくなっていくのです。ドルチェは驚きました。さっきまですぐそこにいたミリエナが、どこにも見当たりません。
 その時、ドルチェは自然と自分の喉を震わせ、ミリエナの事を呼んでいました。その声はまだ決して上手とはいえない、ただの泣き声にすぎませんが、それは成長して豊かな音色を奏でる、そのはじめの音でした。
 ミリエナはすぐさま返事をかえしました。声を上げ、尾びれで水面を打ち鳴らします。それはドルチェのすぐそばでした。よく見れば、ミリエナは確かにそこにいるようでした。
 だとすれば、ミリエナの姿を見えにくくする、これは一体何なのでしょう。ドルチェは不安になって、ミリエナにぴたりと身をよせました。
 ドルチェを怖がらせるもの、その正体は『暗闇』でした。ドルチェは生まれてはじめての夜を体験しているのです。
 でももちろん、ドルチェにはそんな事は分かりません。この闇が永遠に続いて、いつしかお母さんと離れてしまわないかと、不安で一杯でした。
 けれどミリエナはすぐそこにいて、ドルチェにやさしくより添っています。ドルチェはその心地よさと安心の中で、いつしか柔らかな眠りの中へと落ちていました。

 お母さんのお乳をもらって、ドルチェは次第に大きくなっていきました。外見も小さいながら大人のクジラとそっくりで、黒くて平らな背中に、畝のある白いお腹をしています。ひれの先はとんがり、澄んだ二つの可愛らしい目がのぞいています。尾びれには白い切れ込みのような模様がありました。
 泳ぎだってずいぶんとうまくなりました。その間、ドルチェはたくさんの不思議なもの、美しいものを見ました。クジラの子供というのは、人間の子供と同じように好奇心で一杯なのです。
「お母さん、あれはなに?」
 と、その度にドルチェはミリエナに訊ねました。クジラの子供というのは夏になると否応なしに寒い地域へと何千キロも移動しなくてはいけませんから、人間の子供よりずっと成長が早いのでした。
 ドルチェは海を泳いでいる小さなものたちのことや、水の上に顔を出した時に見える高く青い覆いのことや、丸く白くゆっくりと動くもののことなどについて質問しました。
 ミリエナはそのつど、丁寧に答えてやります。
「あれは魚≠ニいうものよ。あれらは私たちと違って空気を吸うために水面に浮かぶこともないし、泳ぎ方だって私たちとは違うの。そしてまた私たちの大切な食事でもあるのよ。お前も大きくなったら、ああしたものたちを口一杯に吸い込んでうまく食べなくちゃいけないの。そうした小さなものたちによって、私たちは生かされているんだからね」
 また、言います。
「あれは空≠ニいうものよ。あそこには私たちのために空気が一杯につまっていて、あの青いところから流れて来るの。ずっと昔にはあそこまで水があってあの青いのはその名残なのだけれど、ある時一頭のクジラが誤って一杯に水を飲み込んだものだから、ぐんと減ってしまったの。だからお前も口に含んだ水は一度吐き出して、決して飲み込んだりしてはいけないよ」
「太陽≠ニあれはいうのよ。あれはいつも空に浮かんで、自分が世界を照らしているんだと偉そうにそっくり返っているのだけど、ずっとそうして疲れてくると、やっぱり私たちの海へと入ってきてしばらく休むの。その間は月≠ニいうものが幸いとばかりに水の中から飛び出すのだけど、自分は太陽なんかよりずっと上品な輝きを持っているんだとすましているんだよ。でもこの月だってやっぱりいつかは疲れて海の中へと戻って来るのよ」
「あの白くぼんやりしたものは雲≠ニいうのよ。あれは私たちの吹き上げた海がいつしか大きく固まったもので、時々私たちのことを思い出して雨≠ノなって帰ってくるの。雨≠ニいうのはこの海をもっと大きくしようと降ってくる水のことで、だから海はどんどん大きくなって、お前がどれくらい大きくなっても自由に力いっぱい泳ぐことが出来るのよ」
 まったく、ミリエナはもの知りでした。そんなふうにしてドルチェにすっかり分かるように教えてくれるのです。もちろんそのいくつかは彼女がその母親から教わったものもありましたが、ミリエナはしっかりとそれらのことを学んだからこそ、ドルチェに説明してやることが出来るわけです。
 ドルチェはまた、初めてお母さん以外のザトウクジラとも出会いました。それはエスコートといって若い雄が雌のそばを泳ぐものでしたが、ドルチェはもの珍しくそのオスを観察したものです。
 雄はミリエナよりもいくらか小さめで、体に無数の傷を負っていました。それは雌をめぐって他の雄クジラと争った結果ついたものです。そうした傷は、ドルチェもいずれは大なり小なり身に負うはずのものでした。
 若い雄がそうして二頭から少し離れてつき従っているのですが、ミリエナはまるで知らん顔をしています。雄のことを迷惑にさえ思っているような素振りでした。
 そうです、若い雄は親切から案内役をかって出ているわけではなく、ちゃんと下心を持っていたのです。ミリエナは子育てが大切で、そんな雄とつきあっている暇などありませんでした。
 ミリエナは雄のほうから離れて、水面に胸びれを出して何度か叩きました。それは、「せっかくですけれど、結構ですよ。さあ、どこか別の場所に行ってください」という意味です。
 若い雄はそれを聞くと、そそくさと退散してしまいました。
 他にまた、人間≠ノ出会ったこともあります。ミリエナと一緒に泳いでいると、真っ黒な姿の奇妙な生き物が何をするでもなく漂っているのです。
 ドルチェは気がつきませんでしたが、少し離れたところにはゴムボートもありました。それはクジラの研究をしている人たちのもので、クジラを驚かせないよう小さなゴムボートで近づいていたのです。
 黒い奇妙な生き物はじっと二頭を観察していて、それから何かを取り出してカシャリという音がしました。それはカメラのシャッターを切る音だったのですが、ドルチェはびっくりして逃げ出してしまいました。その後からミリエナがドルチェを守るようにしてついて行きます。
 それがドルチェと人間のはじめての出会いでしたが、ずいぶんびっくりさせられてしまったので、ドルチェはあまりこの生き物に対していい気持ちはしませんでした。
 そしてドルチェはまた、一瞬だけではあっても世界が一変してしまう、あの夕焼けも体験しました。それは太陽が海に沈む間近の時で、空も海もみんなが赤く染まってしまうのです。その光はいつもの太陽ほどうるさくもなく、月の光ほど上品ぶってもおらず、ちょうど眠りにつく直前の心地よさのような、奇妙な安らぎがありました。ドルチェはまるでその光に溶けて、すべてのものが一緒になってしまったような気がしました。
「あれは夕焼け≠ニいうのよ」
 と、ミリエナは言いました。
「あの赤いのは太陽が流す血の色なの。そうして一度死ぬと、次の日にはまた新しい光を持って元気よく上がっていくのよ。私たちもあの太陽と同じように、いつか赤い血を流して死んでね、そして別の新しい光を持って生まれ変わるの」
 ミリエナの説明を聞きながら、ドルチェはいつまでも赤い景色を眺めていました。

 ドルチェもだいぶ大きくなった頃、ミリエナは海を離れることにしました。
「どこに行くの?」
 と、ドルチェは訊ねます。
「もうずいぶんと暑くなってきたからね、私たちはこれから冷たい海へと向かうの。そこには小魚の群れや小さなエビがたくさんいて、私たちは満足するまでそれを食べることが出来るのよ」
 そう、二頭は南の生命あふれる豊かな海、南極へと向かうのでした。そこでクジラたちはお腹一杯になるまで餌を食べることが出来、一年分の食事をすませてしまうのです。
「ずっと遠いところ?」
「そう、とても遠いところよ」
 ドルチェはずいぶん泳ぎがうまくなってはいましたが、そんな遠いところへ行くのはやっぱり不安でした。途中でミリエナに置いて行かれはしないかと怖かったのです。
「大丈夫よ」
 ミリエナは優しく言いました。
「絶対にお前を置いていったりなんてしない。だから勇気を出して、私についておいで。何も怖いことなんてありはしないから」
 それでドルチェは安心して、ずいぶん力強くなった尾びれを一打ちして、さっそく泳ぎ出しました。ミリエナは前を泳ぎながら、元気な子供の姿を嬉しく思っています。
 南極までは、何千キロという旅になります。ミリエナは幼いドルチェに気づかいながら、無理にならないように泳ぎ続けました。
 そうして旅を続けるある日のことです。ミリエナは段々とこちらに近づいてくるものがあることに気がつきました。水の中というのは音が良く伝わりますから、まだそれらはずいぶん遠くにいるようでした。一体何なのでしょう? 物音から察するに、それは五、六頭の群れのようでした。
 群れはどんどん、こちらのほうに近づいてきます。
「いけない」
 ミリエナははっとしました。
「ドルチェ、すぐに逃げるのよ」
 ドルチェにはなにが何だかさっぱり分かりませんでしたが、ミリエナの慌てた様子から、それが決してよくないものであることだけは分かりました。すぐさま尾びれをけって急旋回をして、音の迫ってくるほうから逃げます。ミリエナはその後を、ドルチェを守るようについて行きました。
 けれど子供のドルチェはまだ泳ぐのが遅く、疲れやすくもあったので、じきに二頭はその群れに追いつかれてしまいます。
 それは六頭のユメゴンドウでした。ユメゴンドウはミリエナやドルチェと同じ、クジラに分類されているものでしたが、攻撃的で他のクジラを襲って食べることもあります。大きさは二、三メートルくらいで、それだけ見ればミリエナの半分もありませんでした。
 狙われているのは、ドルチェです。
 ユメゴンドウたちがドルチェに近づくと、ミリエナはすぐその間に飛び込みました。ユメゴンドウたちはミリエナを避けて散りましたが、もとより諦めるはずもありません。二頭の周りを取り囲むようにゆっくりと泳いでいます。
 ドルチェは自分が狙われていることが分かって、わけの分からないくらいに怖くなりました。こんなに怖いことがあるなら、あの海から離れなければ良かったと思うくらいです。
 けれど、ミリエナの必死な様子を見ると、ドルチェは泣いてうずくまっているわけにはいきませんでした。ミリエナは自分を守ろうとしているのです。
 ドルチェは周りを囲むユメゴンドウたちに向き直りました。そして一頭がミリエナの反対からやってくると、思い切って頭からぶつかっていきました。何しろ子供とはいえドルチェはユメゴンドウの二倍はあります。向かってきた一頭は避けようとしてよけきれずに、横から弾き飛ばされてしまいました。
 でも、いくらドルチェが勇敢に戦おうとも、相手は多すぎました。このままでは二頭ともじき疲れて、いつかは食べられてしまいます。
 その時でした。遠くから、何かの声がしたのです。どういうわけかその声に、ユメゴンドウたちは落ち着かない様子でした。
「仲間たちよ」
 ミリエナは叫びました。そう、その声の正体は別のザトウクジラたちだったのです。この時期、ザトウクジラたちは群れを作りながら南極を目指します。その群れが、すぐ近くにいるのでした。
 ミリエナは何度も声を上げます。それを聞いて、ドルチェも同じように声を上げました。「おおい、助けてくれ。ここにいるよ」と。
 間もなく、大勢のクジラたちがこちらに向かってくるのが分かりました。二頭のことに気づいたのです。ユメゴンドウたちは慌てたように逃げ去りました。たくさんの大人を相手に小さなユメゴンドウが敵うはずはありません。
 やがて十二頭ほどのザトウクジラたちがやって来ました。中にはドルチェのような子クジラもいます。みな、南極を目指しているのでした。
「災難でしたね」
 と、群れのリーダーが言いました。この群れはみな、雌のクジラで構成されています。それに今年生まれた子クジラが五頭ついていました。つまり二頭だけは子供のいないものだったわけです。
 この群れとミリエナは知りあいでした。去年もミリエナはこの群れと一緒に南極へ向かったのです。その前もそうでした。この群れはいわば、ミリエナの親戚たちだったのです。
「シルテもナメルも、立派な子供を産んだのね。こちらはとても賢そうな坊やね、きっとクジラ一の学者になるわ。こっちは大きくて元気そうな男の子ね。腰の落ち着いた、強い子になりそうだわ。お嬢ちゃんたちは去年も会ったわね、元気にしてたかしら? 餌取りはうまくなった? もうすぐ子供も持つ頃じゃないの?」
 そう言いながら、ミリエナは一頭一頭と再会を懐かしむ挨拶を交わします。ザトウクジラは出産と子育てのために暖かい海へとやってきて、その時にはばらばらになって暮らしますが、夏になって南極へ向かう途中で合流していくのです。運良く合流できればいいのですが、もちろんうまく行かないこともありました。
「レミィがいないのね。今年はどうしたの?」
 と、ミリエナが訊ねました。
「分からないわ。まだ誰も会っていないから。みんなより少し先に出発したのかもしれないし、もしかしたらあの悪漢のシャチにでもやられたんじゃないかと心配で……」
「そう、心配ね」
「ところで、そっちの子はあなたが今年産んだ子供でしょう?」
 と、リーダークジラが言いました。
 ミリエナは恥ずかしそうに、でも誇らしげにドルチェのことを紹介します。
「そう、今年私が産んだ子よ。とても元気な子でね、それにとても勇敢なのよ。さっきもユメゴンドウたちに襲われている時に、一頭に向かって立ち向かっていったの」
 それを聞くと、ドルチェは面はゆいような、少し自慢したいような気持ちになりました。自分がとても偉いクジラのような気がしてきます。群れの雌クジラたちもドルチェのことを盛んに誉めてくれました。
 一通りの挨拶が終わると、一向は再び南へと向かいました。もちろん、ミリエナとドルチェも一緒です。ドルチェは自分と同じような子クジラたちを、おっかなびっくり眺めていました。向こうも、同じです。けれど三頭はすぐに仲良しになりました。なんといってもまだ互いに争うものも、奪いあうものもなかったのですから。
「君は悪漢たちと戦ったことがあるんだって?」
 と訊いたのは、ミリエナに学者≠ニ呼ばれたほうです。この子クジラは、テルミトという名前でした。
「怖くはなかったのかい?」
「うん、怖かったよ」
 ドルチェはとても素直な子でしたから、正直に答えました。すると太っちょの強そうなほうが、
「俺だったらきっと怖くなかったな」
 と強がって言いました。でも本当にそうなったら、やはり怖がっていたことでしょう。なんといってもまだ三頭とも子供なのですから。
「君は勇気があるんだね」
 と、ドルチェは感心しました。この子は本当に素直で、まだ物事を疑うということなんて知らないのです。
「でもいくら勇気があるからって、怖いものはやっぱり怖いと思うな」
 テルミトが言います。この子はとても思慮深くて、決して物事を鵜呑みにしたりはしないのです。いつも慎重に、十分考えた上でそれが正しいかどうかを判断します。
「いいや、きっと怖くないさ」
 と、太っちょの子は言い返しました。シャナ、とこの子は呼ばれています。シャナは少し強情で頑固なところもありましたが、けれどそれだけの勇気と責任感を確かに持っていました。
 三頭が言いあいをはじめて喧嘩をしそうになると、すぐさま大人が入ってやめさせました。そうすると三頭ともそのことは忘れて、すぐさま別の話をします。もとより、三頭は大の仲良しだったのです。
 そうして十四頭のクジラたちが南極を目指す途中、ドルチェは生涯忘れることの出来ない光景を目にしました。
 それは海が少しずつ冷たくなり始めたときのことです。ドルチェがミリエナによりそって泳いでいると、向こうに白く大きなクジラの姿が見えたのでした。
 それは、マッコウクジラでした。それも白い、アルビノと呼ばれるマッコウクジラです。メルビルという人は、彼を畏るべき海の巨獣として描きました。『白鯨』と呼ばれるのがそれです。
 もちろん、ドルチェはそんなことは知りませんでした。ただドルチェたちヒゲクジラ類とは違う、ハクジラ類のそのマッコウクジラは、今深い海へと潜ろうとしていました。マッコウクジラたちは深さ千メートル、時には三千メートルもの深海に潜って、餌となる巨大なイカを探してくるのです。
 ドルチェが見たのは、今まさに深い闇の底へと潜っていこうとする、白いマッコウクジラの姿でした。それはあたかも、白い魂だけの存在が、たった独りで暗く寂しい闇の底へと向かっている、悲しい光景のようにも見えました。
「お母さん、あのクジラはどこに向かっているの?」
 と、ドルチェは何か不安そうにミリエナに問いかけました。
「深い闇の底よ。私たちには行って戻ってくることのできない。深い深い海の底。そこに行けば、死んだものたちと出会うことができるといわれている場所よ」
「お母さんも、いつかそこへ行くの?」
「ええ」
 ミリエナは、優しい目で答えてやりました。
「誰もがそこに行くわ。そして永い眠りにつくの。長い苦労も、辛い過去も忘れて、静かな、穏やかな眠りにね」
 ドルチェにはまだ、ミリエナの言葉のすべての意味は分からずにいました。

 長い旅が終わって、十四頭のクジラたちはようやく南極へとたどり着きました。この海にはたくさんのオキアミやニシンの群れがいます。それらを食べて、クジラたちは一年分の食事をすませてしまうのでした。
 ドルチェたち子クジラはまだお母さんのお乳を飲んでいましたが、もう小魚やプランクトンだって口にすることができます。三頭は大人たちの真似をして、餌とりの練習をしました。
 ザトウクジラの口には、歯の代わりにそれが変化したクジラひげがびっしりとついています。クジラたちは餌を海水ごと丸呑みにして、それから海水を吐き出すと、その細かなひげに餌だけがこしとられて食べることが出来るのです。
 ドルチェたち三頭ははじめ、うまく餌をとることが出来ませんでした。大きく口を開けて海水を口に入れても、そこにはほとんど餌になるようなものはありませんでした、ドルチェは何度かミリエナに注意された、あのお話のクジラのように海水を飲み込んでしまいました。
 それに比べるとお母さんやお姉さん達の餌取りは大変に上手なものでした。彼女たちはオキアミや小魚が群れているところをすばやく飲み込んでしまって、海水だけを吐き出すのです。また、時にはみんなで協力して、水中で息を吐いて泡を作り、声で魚を驚かして一ヶ所に集め、それを一挙に飲み込んでしまうこともしました。これは学者がバブルネット・フィーディングと名づけたもので、大変に高度な狩りの方法でした。
 狩りの経験は子供たちにとって非常に楽しいものでした。逃げ回る小魚たちを追いかけることは、なんといっても愉快なことでしたし、誰が一番うまく餌をとれるか競争してみたりもしました。そうして遊びながら、子供たちは狩りを学んでいくのです。
 それにしても南極の海というのは冷たいところでした。クジラたちには厚い脂肪の層があって、それがいわば私たちの着る服のように寒さを防いでくれるのですが、にしても子供たちにとってはこのはじめての海は、あの暖かく活発な海とは違って、何と冷たく静かなことでしょう。時には大きな氷の塊が浮かんでいることもあります。
「あの冷たいものは、なに?」
 と、ドルチェはミリエナに訊いてみました。
「あれは流氷≠ニいうものよ」
 ミリエナは説明します。
「生まれる前に死んでしまった子どもの魂や、不幸を抱えて死んでいったクジラの魂がああして海を漂っているの。あれらは永遠にそうしてどこにも着かず、どこにもいけないままさまよい続けているの……」
 南極には他にも、北の暖かい海とは違う様々なことがありました。水面に顔を出して見える陸地には、北の陽気な緑も、動き回る動物たちも見えませんでした。見えるのは、どこまでも白い絨毯のようにきれいな大地と、長い列を作って歩くコウテイペンギンの群れくらいです。
 南極では餌をとることに夢中になって、ドルチェはそれほど珍しいものは見ませんでした。けれど一度だけ、美しいとも恐ろしいともいいがたい、不思議な光景を目にしたことがあります。
 それはオーロラでした。太陽からやってくる電波によって引き起こされるこの現象は、青や紫の光がカーテンのように揺れ動くような姿をして、ドルチェの前に現われました。
 ドルチェはゆらめくオーロラをじっと見ながら、口をきくことさえ忘れていました。その光はドルチェにはなんだか、海の中に射し込む陽の光のようにも見えます。だとすれば、かって海だったという大空に射し込む、天上の光の正体とは、一体何なのでしょう。
 ドルチェは不思議な気持ちで一杯でした。ミリエナなら、何か教えてくれたでしょうか? でもドルチェは結局、ミリエナには何も訊きませんでした。ドルチェはこの時はじめて、自分の力で考えてみようとしたのです。けれどそれは、そうしなければならないと考えたわけではありませんでした。ただオーロラの神秘的な光景に、その不思議さをまざまざと感じずにはいられなかったのです。
 一行が南極にいたのは、四ヶ月ほどでした。その間にお腹一杯に食事をすませてしまい、再び北の、暖かい海へと向かうのです。
「また夏がやってくるわ」
 と、リーダークジラは言いました。
「北の海へ戻りましょう」
 そうして来た時と同じように、十四頭は一緒に北を目指して泳ぎだしました。ドルチェたち子クジラ三頭もずいぶん大きくなって、ミリエナの半分以上程度にはなっていました。でもまだお乳も飲んでいます。ザトウクジラの子どもは一年ほどはお母さんに助けられて生きていくのです。
 一行は北へ北へと目指しましたが、途中で何をいうでもなく群れは小さくなっていきました。皆、ばらばらに泳いでいくのです。北の海で待っているのは雄たちとの恋のダンスか、または子育てでした。ザトウクジラの妊娠期間というのはおよそ一年ほどですから、今年は子供を連れていなかったあの二頭の雌だって、そこで子供を産むかもしれません。
 ドルチェとミリエナの二頭も、いつしかまた元のように二頭だけになって泳いでいました。賢いテルミトと、勇敢なシャナとも、ドルチェは別れを告げました。最も、この二頭とはまたすぐに出会うことになりますが。
 久しぶりにお母さんと二頭きりになって、ドルチェは嬉しくってはしゃぎまわるようにそばを泳ぎました。ミリエナはそんなドルチェの様子を微笑みながら見ていましたが、その瞳の置くにはかすかな悲しみが隠れていました。
 何ヶ月かの移動ののち、二頭は北の海へと帰ってきました。ドルチェは懐かしさで胸が一杯です。なんといってもドルチェはこの海で生まれ、この海を揺り籠に育ったのですから。
 そこには見慣れた懐かしいものたちがいました。大空で強く輝く偉そうな太陽も、緑あふれるにぎやかな陸地も、陽気に泳ぐイルカや魚たちもいました。ドルチェは初めての旅からようやく帰ってきたことが嬉しくて仕方ありませんでしたが、ミリエナはどこか元気がなさそうでした。
「お母さん、どうしたの?」
 と、ドルチェは訊きました。するとミリエナはじっと自分の可愛い子クジラを眺めていましたが、意を決したように言いました。
「坊や、お別れしなくちゃいけないのよ」
「お別れって?」
 ドルチェはわけが分かりません。ドルチェはミリエナの方を見ました。
「また、ここを離れて旅に出るの?」
「そうね、長い旅よ」
 ミリエナはそっと微笑みました。それは今にも泣いてしまいそうで、それを我慢しているような笑顔でした。
「お前はこれから、一人で旅に出なくちゃいけないの」
「え……?」
 ドルチェは、ミリエナの言っていることが分かりました。でもそれは、あまりに唐突で、そして信じられないことでもあります。
「どうして? 僕、まだお母さんと一緒にいたい。一人になんてなりたくないよ。お母さん、どうして? お母さん、どうしてそんなこと言うの?」
「ごめんなさい」
 ミリエナは今にも、「ちょっと冗談を言ってみたのよ。お母さんもドルチェと一緒にいたいわ」と言いそうなのを飲み込んで、必死に言いました。ドルチェにもつらい別れでしたが、ミリエナにとってもそれ以上につらい別れでした。
 本当に愛するものと別れるには、強い決断と決心が必要です。
「けれどあなたはもう一人で餌を捕ることだって出来るし、上手に泳ぐことだって出来る。あなたは私の世界を抜け出して、もっと広い世界へと出なくちゃいけないの。それはあなたが、あなたとして生きる上で必要なことなの」
「分からない。僕、お母さんがなにを言ってるのか分からないよ」
 ドルチェは首を振って叫びました。けれどミリエナは優しく微笑むばかりです。
「あなたは強いわ」
「それはお母さんが近くにいるからだよ。僕はお母さんのために強くなるんだ」
「――」
 ミリエナは何も言わずに泳ぎだしました。これ以上、口をきいていると、耐えられそうもなかったからです。
 ドルチェは追いかけました。強く、強く尾をけって追いかけました。でもミリエナはドルチェよりもずっとずっと早くて、どんどん離されていきます。ドルチェはそれでも、強く、強く尾をけり続けました。
 けれど、やがてミリエナを見失ってしまうと、ドルチェは立ち止まって悲しみの声を一つ、上げました。

 ドルチェはそれから何日も、ミリエナを探し続けました。けれど、ミリエナは見つかりません。力の限り声を上げ、尾びれで水面を叩いて大きな音を立てても、ミリエナの姿はどこにもありませんでした。
 それでも時間はすぎていきます。ドルチェは独りで海を泳ぎまわり、独りで眠りにつき、独りで餌を捕りました。悲しみややるせなさは次第に薄まり、今では、これからどうすべきなのかについて考え始めています。
 そうしたある日、ドルチェは聞き覚えのある声を耳にしました。それはミリエナの声でしょうか? いいえ、違います。ミリエナがドルチェの前に現われることは、もう二度とないはずでした。
 それは、テルミトとシャナの声だったのです。ドルチェは懐かしさに声を上げながら二頭のほうへと向かいました。たった数ヶ月の間ですが、ドルチェはなんだかもうずいぶん二頭に会っていないような気分でした。しかし、それも仕方ありません。何しろドルチェは以前とはまるで違って、独りぼっちになってしまったのですから。
 やがてドルチェは二頭が一緒に泳いでいるのに出会いました。二頭のほうでもそれに気づいて、
「やあ」
 と、声をかけます。
「二人とも久しぶり」
 ドルチェは懐かしさに胸が一杯でした。それはお母さんと一緒にいた時の懐かしさでもあります。
「君もこれから一人で生きていかなくちゃいけない口かい?」
 テルミトが訊ねました。とすると、やはり二頭もドルチェと同じように、お母さんと別れてきたのです。
「うん、そうだよ」
 ドルチェは二頭の平気そうな様子に、なんだか自分の取り乱していたのが恥ずかしいような気がしました。それでも、「二人は悲しくなかったかい?」と、訊かずにはいられませんでした。
「僕の場合はね」
 と、テルミトが言います。
「母親にとっくりと言いふくめられて、僕自身もそれに納得して別れてきたんだ。だから悲しいといったって、仕方のないこととして諦めなくてはならなかったし、考えることは他にもたくさんあるからね」
 子は親に似るというものか、いかにも理知的なテルミトのお母さんらしい話でした。では、シャナのほうはどうでしょう。
「俺は自分から旅に出ると言ってきたんだ」
 と、シャナは言いました。
「お袋からは、普段からお前は一人で生きていかなくちゃならないと言われてきたからな。こちらから言い出して、別れてきたんだ。だから悲しいなんてことはなかったよ」
 これも肝のすわったシャナらしい話です。それにシャナのお母さんも、シャナと同じように厳格な人のようです。
 二頭の話を聞いていると、ドルチェはなんだか自分がひどく子供っぽいような気がしました。自分にはテルミトのように冷静にも、シャナのように決然とも、お母さんと別れることは出来なかった、と。けれど、もとよりドルチェはミリエナのことが大好きでしたし、それは今でも変わりません。だから、自分がいかに悲しかったかということも正直に話してしまいました。
 こうして三頭がこれまでのことを話すと、話はこれからのことに移りました。
「どうだろう、しばらく三人でいたほうが良くないかな?」
 と、テルミトが提案します。
「僕もその方がいいな」
 ドルチェが賛成しました。一頭では何かと心細いし、危険もあります。三頭はまだ大人になりきっていない、子供なのですから。
「それでいい」
 とシャナもつっけんどんに言います。でもシャナは、心の中ではもっと広い海を一頭で旅して回って、自分を試したいとも思っていました。
 ともかく、こうして三頭での生活が始まったのです。
 はじめの頃、なんといってもやはり、自分一人で生きていくということへの不安や期待があって、三頭は互いにはしゃいだり、じゃれあったりして過ごしました。それはなんだか、夢にいるようなおぼつかない感じであります。
 でも時がたって、段々と今の暮らしにも慣れてくると、何しろまるで性格の違う三頭のことですから、いろいろと不満も生じて来ました。
 例えばシャナは放胆で果断に富んだ反面、やや粗暴なところがありました。テルミトは慎重で深く物事を考える一方、神経質なところがありました。そうした二頭の間に立って、ドルチェは二頭が仲良くできるよう気を使いましたが、それだってテルミトに言わせると、
「君は曖昧なんだね」
 ということでした。ドルチェはこれにはショックを受けて、三頭の中はなんだかぎこちないものになりました。
 けれどある日、ごくつまらないことで他の子クジラのグループといざこざが起きました。それは餌場を巡った些細な争いでしたが(というのは、前にも言ったようにクジラというのは低緯度の海ではほとんど餌を食べないのです)、例によってシャナが考えなしに手を出してしまったのです。
 相手は五頭ほどのグループでした。中には体の大きな、年長の子クジラもいます。でも勇敢なシャナはそんな事は気にもとめず、打ちかかっていきました。
「生意気な奴!」
 相手のグループはたちまちにシャナを取り囲んで、めちゃくちゃにしはじめました。シャナもずいぶん体の大きなほうですが、五頭も相手に、おまけにそのうちの何頭かは年上を相手にして、かなうはずもありません。
「相変わらず、彼は勇敢きわまりないんだね」
 と、テルミトは端からそれを見て皮肉を言いました。
 ところが、相手のグループはテルミトにも目をつけると、否応もなく争いの中に引きずり込んでしまいました。テルミトはびっくりして、こんな割に合わないことはないと文句を言っていましたが、もちろん相手はそんなことお構いなしです。テルミトはいい加減頭にきて、シャナと一緒になって喧嘩をはじめました。
 ドルチェはそんな様子をおろおろしながら眺めていました。そうして何とかこの争いを止める方法がないものかと考えていたのですが、二頭が危なくなると、もう思い切って喧嘩の中に飛び込むしかありませんでした。ドルチェは決して争いは好みませんでしたが、仲間が危ないとなれば例えどんな相手にだって立ち向かっていく勇気を持っています。
 三頭はずいぶん勇敢に戦いましたが、やはり敵いそうもありませんでした。それでテルミトがシャナを無理やりに押し出して逃げ出すと、ドルチェが殿をつとめて退却をしました。
 ようやく追っ手のかからないところまでやってくると、三頭は息をついて泳ぐのをやめました。そうして落ち着いてくると、テルミトはすぐさま、
「どうして君は、こういつも無分別な行動に出るんだ」
 と怒りました。シャナもさすがに今回のことは悪いと思っているらしく、言い返すことも出来ないようです。ドルチェがはらはらしながら見守っていると、テルミトはシャナに向かって、
「でもね」
 と、急に笑い出しています。
「今日のはなかなか愉快だったよ。見たかい、あの年上の奴の面食らった顔。あれは傑作だった。喧嘩も、たまにするといいもんだね」
 そう言っていつまでも笑っていると、ドルチェとシャナも顔を見あわせて、それから一緒になって笑い出しました。まったく、こんな愉快なことはありませんでした。
 三頭ははしゃぎまわったり、海面に身を躍らせたりしながら今日のことを楽しく話しあいました。
 そうして三頭はいっそう、前よりも仲が良くなったのです。

 やがて夏が巡ってくると、再びクジラたちの回遊する季節になりました。三頭は一緒になって南の海へと向かい、オキアミや小魚をお腹一杯になるまで平らげました。
 三頭だけでの旅ははじめてでしたが、ちゃんと道筋を覚えていたのでたいして迷うこともなく、南の海へとたどり着くことが出来ます。そうして冬がやって来ると、また北の海へと戻り、それを繰り返しました。
 そうした暮らしが何年も続く中で、三頭は時に別々になったり、時に他のクジラと一緒に行動したりということもありました。
 その中で、ドルチェはたった一頭で南の海へと向かう途中、一頭の年老いたクジラと出会ったことがあります。老クジラは堂々とした恰幅の良い様子で、落ち着いた眼を持ち、口の辺りにはフジツボの跡がたくさんありました。全身にいくつもの細かい傷が、まるで別の生き物のようについていて、特に口の畝の部分に、まるで火傷でもしたような大きな傷跡がありました。
「はじめまして」
 先に声をかけたのはドルチェでした。ドルチェも今ではずいぶん立派な若者となっています。
「やあ、こんにちは」
 老クジラはドルチェを迷惑がるでもなく、穏やかに返事をしてくれました。老クジラは、名前をロゼルといいます。
 礼儀正しいいくつかの挨拶ののち、ドルチェは、
「その口にある大きな傷について、尋ねてもいいですか?」
 と、訊きました。
 ロゼルは少し考えるようにしてから、ドルチェのほうを見ました。それはじっとこの若クジラを値踏みするような遠慮のない視線でしたが、決してぶしつけな感じはしません。むしろそれは、深く澄んだ泉をのぞき込むような、不思議な、吸い込まれるような感覚でした。そうして、やがてロゼルは言いました。
「私はこの傷を負って以来、三十年というもの、誰にもそのことについて話したことはないのだよ。それはこの話が私にとって非常に悲しく、また思い出すたびに私の罪深さを思い知らずにはいられないからなのだ。傷の痛みは忘れることが出来ても、心の痛みは忘れることは出来ない。そう、これはまったく確かなことだよ。私たちが生きているのと同じくらいにね」
 それからまた、ロゼルは続けました。
「お前は若者にありがちな、乱暴な好奇心も、粗暴な名誉欲も持ってはいないようだそれは大変に立派なことだよ。だから私はこの話をお前にしても良いと思っている。けれどお前は、おまえ自身と私のことを考えた上で、この傷に聞きたいというのだね? そしてまた、十分にその覚悟を持っているといえるのだね?」
 老クジラの目ますます険しく、ますます深く澄んでいきました。まるで自分の姿を余すところなく映し出すという、あの真実の鏡≠フようです。けれど、ドルチェはロゼルをまっすぐに見返しながら言いました。
「僕はあなたの傷について、やはり聞いておきたいと思います。何故なら、あなたが死んでも、僕は生きているからです。そしておそらく、僕よりもあなたのほうが先に亡くなるでしょう。そうするとあなたの話、そこにしかないいくつもの真理を含んだあなたの話は、永遠に失われてしまうことになります。それはきっと、良くないことだと思うんです」
 ロゼルはドルチェの言葉について、長く考えていました。まるで眠っているようにです。でも本当に眠っているわけではなく、これがこのクジラの深く考える時の癖なのでした。
「よろしい、お前にはどうやらこの話を聞かせてやるだけの値打ちがあるようだね。それだけの資格も。老人というのはいつでも、若者に話をしてやるためにあるのだよ。そう、この話は私が一人の友人と出会うところからはじまる――」
 それは、ロゼルがまだ十を少し過ぎた頃のことでした。その頃のロゼルは若く、自信にあふれ、それだけの力も持っていました。北の海で他の雄と雌について争ってもけして負けることはありませんでしたし、上手な狩りの仕方も知っていました。
「クジラの中で俺ほどすばらしいものはいまい」
 とロゼルはよく言い、心底そう信じていました。周りのものだって、確かにそうかもしれないと思っていたのです。
 けれどある夕暮れのことでした。今日≠ニいう偉大な生き物の終わりを告げるその雄大な景色は、活気あふれるロゼルといえど、どこかしんみりとしないでいられないものがありました。そうしてただぼんやりと紅の海を眺めていたときのことです。
 一頭のクジラが夕暮れの中でブリーチをしました。黒い塊が水面の上にまで飛び上がって、再び水中へと飛び込みます。それはあたかも、胸の奥の魂が尽きせぬ何かを求めてはるかな高みを目指そうとするようでもありました。
 ロゼルは一瞬で、そのブリーチに心を奪われてしまっていました。なんと優美で、激しく、美しいブリーチでしょう。夕暮れの中で、それはまるで天使か何かのように見えました。その美しさを言葉にすることは、ロゼルにはできません。ただ胸の底で、一本の弦のような何かが打ち震わされて、今まで感じたこともない澄んだ音色を奏でているようでした。
 尾を打ち、ロゼルはそちらに向かいました。ゆっくりと、です。ロゼルはその奇跡が夢のように消えてしまわないように、そっと泳ぎよっていきました。
 やがてそのクジラが近くに見えるところまで来ると、そのクジラはロゼルに気づいて声をかけてきました。
「こんにちは」
 それはかすかな微笑を含んだ、上品な声音でした。ロゼルにはそれが、美しい天上の音のようにも聞こえますし、確かにそう思えないこともありませんでした。
「俺は、ロゼルというんだよ」
 自分でも知らないうちに、ロゼルは自分の事を名のっていました。相手は微笑んで、まるで知っていたとでもいうような自然さで返事を返します。
「僕はリーチェ、みんなからはそう呼ばれている」
 リーチェはそう言って、本当に親密な笑顔を浮かべました。
 それが二頭の出会いです。二頭はまるでお互いに魂の半分を見つけたとでもいうように一緒になって暮らしました。ロゼルはそれまでのとげとげしいところが嘘のようになくなっていき、自分でも信じられないくらい穏やかな気分でいるようになりました。
「君はどうして、いつも静かに微笑っていられるんだい?」
 と、ロゼルは訊ねたことがあります。
 リーチェはそれに対して、やっぱりいつものように笑って、
「それは君が近くにいてくれるからだよ」
 と冗談とも本気ともつかないことを言いました。実際、それはリーチェにとって十分に正確でないにしろ、真実でした。
「けれど俺には君の真似は出来そうにないよ」
 とロゼルは言います。
「君が僕の真似をする必要はないんだ」
 リーチェは穏やかに言いました。
「君は君であり、そんな君を僕は好きでいられる。世界は世界であり、そんな世界を僕は好きでいられる。大切なのはバランスなんだ。バランスが取れていれば、僕は僕であり続けることが出来るんだよ」
 そうした言葉はロゼルには十分によくは分かりませんでしたが、それでもきっと正しく美しいものであるような気がしました。そして、それでロゼルには十分に満足だったのです。そう、決して十分な理解がなくとも、十分な満足がないよりはずっと大切なことでした。
 ロゼルとリーチェは長いこと一緒に暮らし、南と北の海を何度も往復しました。そうして何年かたったある日、南の海で二頭は奇妙な音を聞きました。それは薄気味の悪い、怪物が低くうなるような音です。
「あれは何だろう?」
 と、ロゼルは言いました。そんな音は今までに一度だって聞いたことはなかったのです。
「分からない」
 リーチェも、不思議そうに言いました。
 けれど二頭とも、早く逃げるべきだったのです。それはクジラの唯一の天敵、捕鯨船でした。ノルウェイ式捕鯨船と呼ばれる、エンジンモーターと、銛を打ち出す大砲を備えた、恐るべきクジラの敵です。
 二頭がようやくこの不吉な音に悪い予感を覚えた時には、もう手遅れでした。捕鯨船(これは、おそらくオランダのものです)はすぐそばまで近づき、船首につけられた大砲は二頭に狙いを定めていました。
 ロゼルもリーチェも、とっさに考えたことは、相手をかばうことでした。二頭は自分が死ぬことよりむしろ、相手が死ぬことのほうが耐えられないと思ったのです。そうした行動は、この場合砲手の狙いを迷わせる、良い効果へとつながりました。
 けれど恐るべき手練の銛打ちは、冷静に狙いを定め、ついに魔弾の引き金に指をかけました。風の精の悲鳴のような音が響き渡ると、平頭の銛は恐るべき死を与えるべく、まっすぐに二頭のもとへと向かいます。
 銛はどうなったのでしょう? 突き刺さった途端、先につけられた火薬が爆発して巨大なクジラに一撃の致命傷を与えるその銛は、ロゼルとリーチェ、どちらかの生命を奪ったのでしょうか? いいえ、そうではありません。けれどその銛はロゼルの口の畝の部分へと突き刺さっていました。
 ロゼルは激しい痛みに叫び声を上げ、暴れ回りました。けれど、それでも頭の片隅ではちゃんと、リーチェの無事にほっとし、早く逃げてくれるよう考えていたのです。
 銛には返しがついていますから、ちょっとやそっとでは抜けません。後ろにつけられたロープは巻き上げ機に巻かれ、ロゼルを舷側に寄せて二撃目を加えようとしています。
 その時、リーチェはどうしたでしょう。ロゼルの望み通りに逃げたでしょうか。いいえ、彼はけして逃げようとしませんでした。そして必死になって、ロゼルを助けようとしたのです。
 リーチェは水面に飛び上がりました。ブリーチです。それは優美で、しなやかな、あの美しいブリーチでした。けれど、それは同時に死のブリーチでもあります。リーチェは捕鯨船へと飛びかかったのです。
 恐るべき衝撃が船を襲いました。まったく、壊れなかったのは幸いというものです。けれどその時の衝撃で巻き上げ機が吹き飛び、ロゼルを捕らえていたロープは途端に力を失いました。
 その頃にはリーチェは自身も船との衝突で大きな傷を負い、動けなくなっていました。混乱する船上の中で、一人が舷側の大砲にとりつき、この船を滅茶苦茶にした死神に対して、絶対の死を与えるために引き金を引きました。
 ロゼルは、その時どうしたのでしょう。魂の半身の危機に対して、しかし彼は動けずにいました。傷や痛みのせいもあります。リーチェが自分を助けた行為を無駄にはできないということもあったでしょう。
 けれど、ロゼルを最も強く縛っていたのは、恐怖でした。どうにもならないくらいの生への執着と、死への恐れが、体の底から泡のように突然、湧き上がって来たのです。誰も、それに抗うことはできませんでした。
 ロゼルは気づいたときには必死に尾を打ち、胸びれを操ってその場から逃げ出していました。リーチェがどうなったかすら、見届ける余裕はなかったのです。
 その後、ロゼルは岩に引っかけて銛を無理矢理に引き抜き、そうしてようやく、あの時の自分の行動について深い後悔に教われました。銛を抜く痛みさえ、気にならないほどの深い後悔です。ロゼルはまるで抜け殻のように海を漂い、時に思い出すように泣き叫びました。
 傷口はいつしかふさがりましたが、心に開いた穴はいっこうにふさがる気配はありませんでした。その穴は底なしの胃袋でも持っているかのようにロゼルの感情の一切を食いつくしてしまうようでした。ロゼルは何も感じられなくなってしまったのです。
 そして三十年という月日が流れ、ロゼルはこの日、ドルチェと出会いました。

「分かるかね?」
 と、老いたクジラは言いました。
「私はあれほどに必要とし、魂の半身とさえ思えたものの死にさいして、頭にあったのはただ己一人の安全のことだけだった。それは私にとって、死よりもなお悪い結果だったのだよ。分かるかね? 私はこの話を思い出すたび、自分の罪の深さと、そしてその罰としてあけられた心の穴について、思い知らずにはいられないのだよ」
 そうして老クジラの話は終わりました。ドルチェはじっとしたまま、ただ黙ってロゼルの話を聞いています。そこには何と悲しい真理がたくさん含まれていたことでしょう。
「ロゼルさんは、今でもそのことを後悔しているんですね」
「そう、私は今でも、あの時にリーチェと一緒に死ぬべきだったと思っているよ」
 ドルチェは、それから確然として言いました。
「それは違うと思います」
「ほほう」
 この反論に、ロゼルは気を悪くした様子もなく訊きました。
「何が違うというのかね?」
「あなたは生きてなくてはならないんです。もし本当に後悔しているというのなら、罪は償われなくてはなりません。罪は、償うことの出来るものです」
「私の罪を償うことができる、と? 一体、どうやってだね。リーチェはもう死んでしまったのだよ」
「彼はちゃんと、あなたの中に生きているじゃないですか」
 と、ドルチェは言いました。
「リーチェさんの声や、姿や、想い。あなたはそれを覚えているはずです。それは、リーチェさんが生きているということです。あなたは生きれるだけを生き、その間リーチェさんを生かし続けなくちゃいけない。それが、罪を償うということのはずです」
「リーチェが生きている、と」
 ドルチェは少しうつむいて、けれどはっきりと言いました。
「僕はそうだと思います。もちろん、リーチェさんのすべてが生きているとはいいません。けど、そこに生きているのは、確かにリーチェさんでもあるんです」
 言いながら、ドルチェはミリエナのことを思い出していました。そう、あの悲しみとその後の時間の中で、ドルチェはそんなふうに考えるようになっていたのです。
 ドルチェはけして、一人ではありませんでした。
「ふむ、それがお前の思想なわけだね」
 と、ロゼルは言いました。それから静かに、笑顔を浮かべます。
「お前に会え、お前にこの話をして、私は良かったと思うよ。お前の言うことには確かな真理が含まれていた。それは幸福の真理だ。私はそれに従い、自分と、そしてリーチェのために、これからも生きていくこととしよう。それが、正しい生き方というものだ」
 そう言って、ロゼルは微笑みました。ドルチェも、少し恥ずかしそうに微笑み返します。そうして二頭は長いこと黙っていましたが、やがて別々になって泳いで行きました。
 ドルチェは二度と、ロゼルに会うことはありませんでした。

 長い年月のうちには、戦わなくてはならない時もあります。ドルチェにもそれはありました。それは北の海へと帰る途中のことで、もうテルミトやシャナとも別れてしまって一頭になった時のことです。
 次第に暖かくなっていく海を泳いでいると、遠くから何かの声がしました。それはあまり聞き覚えのない、何かのうなり声のような感じです。
(なんだろう?)
 ドルチェは不思議に思いながらも、警戒を強めました。声にはどこか、恐ろしい感じがするのです。
 声は、ぐんぐん近づいてきました。明らかにドルチェのほうに向かってきます。その数は三つほどでした。ドルチェは急いで逃げ出します。何か、良くないものがやってくるのです。
 それは、ものすごい速さでドルチェに迫ってきました。ザトウクジラだって泳ぐのが遅いわけではありませんでしたが、とてもかないそうもありません。ドルチェはまたたく間に追いつかれてしまいます。
 その姿が見えた時、ドルチェはぞっとしました。それは、あの海の悪漢、恐るべき狩人のシャチだったのです。そして彼らは、明らかにドルチェを狙っていました。
 シャチに狙われては、ザトウクジラだって無事にはすみません。ドルチェは必死になって逃げ出しました。
 けれど、シャチたちはすぐにドルチェの横にまでやって来ました。そして口に並んだ鋭い歯で、ドルチェの体を引き裂こうと隙をうかがっています。
 ドルチェは長い胸びれを操って、急旋回を繰り返しました。ザトウクジラは胸びれが特に長く、そうした動きに適しているのです。
 シャチたちはもちろん、その程度では諦めませんでした。ドルチェの周りをしつこくつきまとって、必殺の傷を負わせる機会をうかがっています。
 そのうちに、ドルチェは疲れて動きが鈍ってきました。多勢に無勢です。シャチたちはそんなドルチェの様子をじっとうかがっています。彼らは決して無理はしませんでした。数倍も体の大きな相手に対しては、慎重になってもなりすぎるということはありませんでした。
 ドルチェの動きが一瞬止まったときに、一頭がすばやく咬みつきました。ドルチェは急いで身をよじりますが、牙が厚い皮膚を裂き、血が流れました。もっとも、クジラは一般に厚い脂肪を持っていますから、これくらいはどうということはありません。
 けれどシャチたちだって、そんな事は先刻承知です。彼らは手を休めることなくドルチェに襲いかかりました。血が流れ、ドルチェの体からは次第に力が失われていきます。このままではいつか、手痛い一撃を受けてしまうことでしょう。
 ドルチェはどうにもならないような気持ちで、けれどなんとか諦めることなくシャチたちの攻撃を避け続けていました。
 その時にドルチェが思い出していたのは、子供の頃のユメゴンドウの群れに襲われた時のことでした。あの時はミリエナがそばにいて、そして仲間たちが運良く助けに来てくれました。
 今、ドルチェはたった一頭で、それとは比べ物にならないほどの強敵と戦っています。それはまぎれもない、死≠ニいう恐ろしい敵でした。
 けれどドルチェは、子供のドルチェは幼いあの日、一体どうしたでしょう?
 そうです、彼は勇敢に立ち向かっていったのです。その勇気が相手をひるませ、そして自分たちの命を救ったのでした。
 ドルチェはそのことを思い出しました。あの時に比べて、ドルチェはずっと大きく、力も強くなっています。それでどうして、あの時と同じことが出来ないでしょう。ドルチェは逃げるのをやめました。
 そしてとうとう、この恐ろしい敵に立ち向かうことにしたのです。まっすぐに向きなおり、勇気の声を出しながらシャチに向かっていきます。
 シャチたちはドルチェの突然の変化に面食らったようでした。ばらばらになって、連携がうまく取れません。彼らは思わぬ反撃に戸惑っているのです。
 ドルチェはそのことに勇気づけられながら、今度は逆にシャチを追い回し始めました。シャチたちはどうすることも出来ず、ただそれを避けるばかりです。
 やがてシャチたちは追い払われるように逃げ出しました。ドルチェは興奮したままなお動き回っていましたが、やがてネジが切れたように動きをやめました。
 ドルチェはしばらく呆然としていましたが、生き残った喜びと勝利の昂揚が次第に湧き上がって来ました。
 そうです。ドルチェはあの恐ろしい敵たちに勝利したのでした。それは生命と、勇気の勝利でした。
 ドルチェは水面に背中を出すと、大きく息を吐きました。水煙が、高く高く上がりました。

 ミリエナと別れて、もう九年の歳月が過ぎようとしていました。ドルチェはもうすっかり大きくなっていましたが、母親と一緒だった時間は、今でも優しい記憶として心の中に残っています。
(今も、元気でいるのかな)
 と、ドルチェは思いますが、広い海を当てもなくさまよっているうちは、ミリエナとも二度とは会えないはずでした。
 ところが、運命というのは時に意外な出会いをもたらすものです。それはドルチェがいつものようにテルミトとシャナの二頭と一緒に南の海を目指している時のことでしたが、テルミトがごく些細なことで傷を負って、いつものような速さでは泳げませんでした。それでほんの少しゆっくり泳いでいたのですが、その時にドルチェは懐かしい声を耳にしたのです。
 ドルチェははっとしました。それはミリエナの声とそっくりだったからです。けれど、聞き間違いかもしれません。あるいは、ただ声が似ているだけかもしれないのです。
「知っている人が近くにいるかもしれないんだ」
 と、ドルチェは何故かそんなふうに言葉をにごしました。
「二人は先に行っててくれるかい。すぐに追いつくから」
 ドルチェの言い分に怪しいところはありませんでしたから、二頭ともうなずいて先に行ってしまいます。そのことに、ドルチェはかすかな後ろめたさのようなものを感じました。
 ミリエナの声は、まだ何度も聞こえてきました。それはまぎれもなく、ミリエナのようです。ドルチェの胸に懐かしさと、温かさが吸い込まれるように広がりました。あのつらい別れから、こうしてまた会えるなんて、夢のようでもあります。
 けれど、ドルチェはなかなか近くに行こうとはしませんでした。一つには、あれからずいぶんとたっているので、ミリエナが自分の事を覚えているか不安だったこと、また今になってミリエナに会うのが、どうにも気恥ずかしかったこともあります。
 それでもやはり、ドルチェはどうしてもミリエナのそばに行かずにはいられませんでした。近づくにつれ、声もはっきりとし、胸の中に温かいものがあふれてきました。まるで自分が子供に戻っていくような気が、ドルチェはします。
 とうとう、ミリエナの姿が見えるくらい近くにまでやって来ました。ドルチェは立ち止まります。ミリエナは一頭ではありませでした。そのそばには、幼い子クジラが一頭、不器用な様子で泳いでいます。
 二頭は、ドルチェには気づいていないようでした。ドルチェは二頭に気づかれないように、その後を静かに泳いでいきます。
「お母さん、僕もう疲れたよ」
 と、子クジラが言いました。
「あらあら、もう疲れちゃったの? そうね、もうずいぶん泳いできたものね。でも、もう少しだけがんばれるでしょう? 少し遅れているから、急がなくちゃいけないの」
 ミリエナが優しく言いきかせます。それは懐かしい、変わらないミリエナの声でした。ミリエナは年をとって、少し小さくなったようでしたが、目の辺りの様子や、白い色が斑点のようになった尾びれは少しも変わってはいませんでした。
「僕、もう泳げないよ」
 子クジラはミリエナに甘えたいようです。
「もうちょっとだけがんばって。あなただって、早く一人前のクジラになりたいでしょう。だったらがんばらないと」
 ドルチェは何も言わず、段々ミリエナと離れていきました。そうです、ミリエナはもうドルチェのお母さんではありませんでした。ドルチェはもう立派に成長したのです。いつまでもお母さんに甘えているわけにはいけませんでした。
 次第に離れていくにつれ、ミリエナと子クジラの姿は見えなくなっていきました。ドルチェは少しだけ切ないような、悲しいような気持ちになりましたが、決して泣いたりはしませんでした。成長するというのは、そういうことなのです。
(さようなら、お母さん)
 と、ドルチェは胸の中でそっと呟きました。それから、テルミトとシャナの二頭を追って泳ぎだします。そこが、今のドルチェの居場所でした。
「知ってる人には会えたのかい?」
 と、ドルチェが戻ってくると、テルミトが訊きました。
「うん、会えたよ」
 ドルチェは少し微笑って、言います。
「俺たちも知ってる人なのか?」
 シャナが訊きました。ドルチェは少し考えて、
「そうだね、誰でも、どんなものでも最初に出会って、そして最後に別れていく人だよ」
「なんだ、それ? 謎かけか」
 シャナはちんぷんかんぷんなようでした。ドルチェは苦笑します。
「なんでもない。なんでもないことなんだ……」
 その言葉の意味は、二頭にはもちろん分かりませんでした。

 歌い手≠ニ、ザトウクジラたちは時に呼ばれます。それは恋の季節、北の海で雄が雌に捧げるための歌です。彼らは一頭一頭違った歌を、見知らぬ恋人のために歌うのでした。
 ドルチェにも、恋の歌を歌うときがやって来ました。彼はもう一人前になったので、自分の歌を歌ってみたくなったのです。
(どんな歌を歌えばいいんだろう)
 と、ドルチェは悩みました。今、ドルチェは一頭で北の海に漂っていて、近くには誰もいません。波音だって聞こえませんでした。もっとも、それはドルチェが緊張していたためでもありますが。
 他のクジラが歌っているのを、ドルチェは何度か聞いたことがありました。もちろん、そうした時には不必要には近づかず、ずっと遠くの場所で聞いていたのです。それは人によってまるで違う歌でした。あるものは自分の力を示すような、猛々しく力強い歌を、またあるものを優しい、ゆっくりと落ち着いた歌を歌いました。
 ドルチェはそのいくつかに感動し、自分もこんな歌を歌えれば、と思ったこともあります。
 けれど、いざ自分が歌う番になってみると、一体どんな歌を歌っていいのかが分かりませんでした。どんな歌を歌っても、それはどこか人のものと似ていて、自分が本当に歌いたいものとは違うような気がするのです。
(僕は、僕の歌を歌わなくちゃいけない)
 とドルチェは思いました。けれど、それをどう歌っていいのか、まるで分からないのです。出だしの音さえ、思い浮かびませんでした。
 そうしてそのまま、一日が過ぎてしまいました。ドルチェは明日こそ精一杯に歌ってやるんだと思って、その日は眠りにつきました。
 次の日になると、ドルチェはまた一頭で海中を漂ってどんな歌を歌えばよいか、考えていました。
(たった一つの僕の歌でなくちゃいけないんだ)
 けれど、昨日と同じで、相変わらず歌どころか最初の一音だって出てきませんでした。まるでドルチェの歌は固い扉の向こうに、頑丈な鍵をかけてしまわれているのではないかとさえ思えるほどです。
 そうして歌い悩んでいるうちに、他のクジラの歌うのが聞こえてきました。それは堂々と立派で、自信にあふれていました。歌い手はきっと、すばらしい雄クジラであることでしょう。
 ドルチェはそれを聞いていると、自分にはまるで歌の才能がないような気がしてきました。そしてそれは、とても恥ずかしいような気がします。何しろ自分というものを歌えないのですから、それは自分というものがちゃんと存在していないような気がしたからです。
 この日もドルチェは歌うことが出来ませんでした。明日こそは、と思うのですが、心配でうまく眠ることも出来ません。テルミトやシャナはどうしていることでしょう? 二頭はうまく歌えているのでしょうか? いえ、そんな事は関係ありませんでした。他のものがうまく歌っていようが、いまいが、ドルチェには関係のないことなのです。大切なことは、ドルチェ自身がドルチェ自身によって歌うことでした。
 夢うつつで、自分がちゃんと眠ったかどうかも分からないうちに、次の日がやって来ました。新鮮な太陽の光が青い海を照らしすべてのものにおはようのキスをしていきます。ドルチェにも、もちろんそれはしていきました。ドルチェはほんの少しだけ、新しい力をもらったような気がします。
(今日こそは)
 とドルチェは思いましたが、それでもやはり歌いだすことは出来ませんでした。海の中で漂いながら、ドルチェには無力感さえ湧き上がってきます。
 頭の中はまるで、こんがらがった糸のようになって、ぼんやりとしてきました。もう何かを考えるのさえ面倒です。このまま歌うことを諦めてしまえれば、どんなに楽なことでしょう。
 その時、ドルチェの心にはふとあの南極で見た神秘的なオーロラのことが浮かびました。そしてあの時に感じた不思議さと感動がまざまざとよみがえり、ドルチェを自然に衝き動かしていました。
 ドルチェは頭をたれ、うなだれたまま最初の音を、歌いだしました。
 すると、まるで重たい扉が一瞬で開いたかのように次から次へと音がわきあがってきました。ユニットと呼ばれるそうした音たちは、フレーズと呼ばれる一つかたまりを作り、そのフレーズがいくつも合わさって一つの歌となって響きます。
 ドルチェは夢中になって歌いました。それはドルチェが今までに感じてきた楽しいことや嬉しいこと、悲しいことや寂しいことが歌になったものでした。そうした感情が自然な音となって、美しい音楽を奏でているのです。その歌は静かで、優しく、思いやりを持った歌でした。その歌は時に、この世の切なさを、時にこの世の幸せを歌いました。
 それはドルチェ自身でした。
 そうして歌っている間、ドルチェはその歌が上手いのか下手なのか、堂々としているかどうか、といったことは何も考えていませんでした。ドルチェはただ自分の思ったとおり、自分がそう歌わなければならないとおりに歌っただけです。
 自分の歌を歌う、とはそういうことでした。それは上手いかもしれませんし、そうではないかもしれません。けれど、それはどうでもいいことでした。それは自分以外のものが判断することなのです。そしてそれは、ある意味で大変孤独で、勇気のいる行いでした。それは一切の価値観を、この世の正義と呼ばれるものさえも忘れてしまう行為なのです。
 それはいわば、世界で一人ぼっちになるということでした。少なくとも、そうなってもいいと覚悟をすることです。
 ドルチェは、けれどそんなことは考えもせずにただ歌っていました。彼は、今はじめて彼自身となったのです。
 そうして歌っていると、一頭のクジラが近づいてきました。それはドルチェの歌を聞いた一頭の雌クジラでした。彼女はドルチェの歌にひかれるように、段々とこちらにやってきます。
 ドルチェは彼女がすぐそばまでやって来てようやくその存在に気づき、恥ずかしそうに歌うのをやめました。
「どうしてやめてしまうの?」
 と、彼女は不思議そうに言いました。
「誰かが聞いていると思うと、恥ずかしくなるんだ。上手じゃないから」
 とドルチェは正直に答えます。彼女はくすりと笑って、
「そんなことない。私はあなたの歌にすごく感動した。とても素敵で、いい曲よ。まるでお母さんに優しくキスされた時みたいに」
「本当?」
「もちろん、本当よ。私、嘘はつかないから」
 そう言われて、ドルチェは嬉しいような、恥ずかしいような気持ちになりました。その時、自分自身である孤独から救われるのです。それは本当に大きな、とても大きな救いでした。
「僕はドルチェっていうんだ」
 と、ドルチェは自己紹介をしました。
「私はティエナ」
 それが彼女の名前です。ドルチェはもちろん、彼女のことが一目で気に入りました。よく光る瞳と美しい背中、整った胸びれに柔らかな尾びれを、彼女は持っていました。それに彼女は、ドルチェの歌を気に入ってくれたのです。
 二頭ははじめ、少しおずおずとした様子で互いのそばを泳ぎました。そうして段々と調子があわさってくると、少し大胆に、からみあうように泳ぎました。それは愛のダンスであり、二頭の心を重ねるために必要なものでした。
「私、あなたのこと好きよ」
 とティエナは言います。
「僕も、君のことが好きだ」
 ドルチェは答えます。
 それから二頭は南の海へ旅立つまでを共に過ごしました。けれど南へと旅立つ頃には、また別々に分かれています。ザトウクジラはけして夫婦を作りません。例えティエナに子供が生まれたとしても、ドルチェがその事を知ることはないでしょう。けれど彼らには、彼らの愛の形があるのです。
 もう一度季節が巡る頃、北の海に再びザトウクジラたちの歌が響きます。

 北の海にクジラたちが戻ってくる頃、それを見ようとして大勢の人間たちが集まってきます。ホエール・ウォッチング、と呼ばれるものです。大きな遊覧船を出して、人々はそれに乗ってクジラたちの様子をうかがいます。
 ドルチェも何度かそうした遊覧船に出会ったことがあります。けれどその普段聞く音とはまるで違った異質なスクリューの音を聞くと、けして近づこうという気にはなりませんでした。
 それにたくさんの人間が乗っていることを知ったときも、ただ子供の頃に出会った記憶がよみがえるばかりで、けして好意を持つことはありませんでした。
 けれどクジラの中には、平気でそうした船へと近づいていくものもあります。長い経験から、彼らがけして危害を加えるものではないことが分かっているのです。彼らはただ、クジラたちの様子を見たいだけでした。人間とクジラが敵対した捕鯨の時代は終わったのです。今ではクジラが殺されることはほとんどなくなっていました。
 そうして船に近づくクジラたちの中には、好んで交流を図ろうとするものもいます。船のすぐ近くまで近づいたり、尾びれで水面を叩くフルーク・スラップや、胸びれを見せるペック・イクステンションと呼ばれる行為をして見せたりするものもいます。船のすぐ近くでブリーチして見せるものや、人間に背中をなでてもらうものだっているのです。
 ドルチェはそうしたクジラたちを、また人間たちを見ていると、彼らが自分たちに悪意を持ったもの、あるいは有害なものであるわけではないことだけは分かりました。それでもやはり、完全に警戒しなくなるというわけではありません。
 そうした人間との関係の中で、ドルチェは一度だけ人間と深く関わったことがありました。一隻の遊覧船の近くを泳いでいる時のことです。
 その時、遊覧船には一組の親子連れが乗っていました。母親と、その子供の男の子と女の子です。遊覧船には他にもたくさんの人が乗っています。そうしてクジラが見えるといっては見やすいところへと移動するのですから、船の中はなかなか混雑していました。
 二人の子供のうち、男の子は弟で、女の子はお姉さんでした。弟のほうは大人しい性格で、お母さんのそばから離れようとはしませんでした。けれど、お姉さんのほうはそれとは違って行動的で、船内を歩き回るうちにいつしかお母さんともはぐれてしまいました。
 といってそれで慌てるというのでもなく、女の子は平気な顔をしていました。その気になれば船員に探してもらえることが、ちゃんと分かっていたのです。ですから、女の子は別に不安そうな様子もなく船の上を歩き回っていました。
 女の子が後甲板にやって来た頃、船の前方ではたくさんのスプレー(クジラの汐吹きのこと)があって、乗客たちはみんなそちらのほうに集まっていました。
 後甲板には人っ子一人おらず、女の子がただ一人いるだけです。監視役の船員もちょうど何か用事でもあったのか、どこにも見当たりませんでした。
 女の子はそれを知って、少し大胆なことをしてみる気になりました。船べりの鉄柵を越えてみようと思ったのです。それは船員から決してやってはいけないといわれたことでした。でも女の子は高い鉄柵を前にして、如才なく近くのテーブルを持ってくると、その上にさらにイスを置いて、上手に鉄柵の向こうに飛び降りてしまいました。けれどそこはやはり子供で、戻る時の方法までは考えていなかったようです。
 女の子は鉄柵と船べりの狭い空間から少しだけ身を乗り出して、海の様子を眺めました。船がけたてた水が、白い波となっていくつも現われ、一本の線になっていきます。それは不思議と見あきない光景で、女の子はいつまでも下をのぞいていました。
 その時、いたずらな風の精が一陣の風を起こしました。普通なら、それはなんということのない、普段より少し強いだけの風です。けれど女の子にとってそれは、死を呼び込む風でした。女の子はあっという間にバランスを崩し、海へと落ちていったのです。
 船にいた人間は、誰もそのことに気づきませんでした。女の子は何の助けを得られる見込みもないまま、船から放り出され、置いていってしまわれました。さらに悪いことには、女の子は泳げなかったのです。もっとも、泳げたとしても服を着たまま突然、船から放り出されたとなれば、とてもそんな余裕はなかったでしょうが。
 そうして女の子がおぼれそうになっているとき、ただ一頭それに気づいたのはドルチェでした。最初、ドルチェはただそれが少しおかしいな、と思っただけで、まさか人間が泳げもしないものだとは思ってもいませんでした。
 けれど、女の子はただ不恰好に暴れるばかりで、どうやら様子が違いました。そしてドルチェは女の子が確かに、
「助けて!」
 と叫ぶのを聞いたのです。もちろん、ドルチェにはその正確な意味や言葉が分かったわけではありません。しかし、確かにそれが救いを求める声であることは、分かったのです。
 その後、ドルチェは決して深く考えて行動したわけではありませんでした。ただ、彼はその小さな生命を、救いを求めるか弱い命を守ってやらなくては、と思ったのです。
 ドルチェは激しい波を立てないように注意しながら女の子のすぐ下まで泳いで、それからゆっくりと浮上しました。それは生まれたばかりで呼吸の出来ないドルチェが、ミリエナの力を借りて水面にまで背中を出したそれと、まるで同じ行為でした。
 すでにおぼれかけていた女の子は、ドルチェの背中の上でまるで死んだようにぐったりと横たわっていましたが、やがて自ら咳き込んで水を吐き出し、小さな息を吹き返しました。
 女の子はしばらくそうして周りを見るどころではありませんでしたが、次第に落ち着いてくるにつれて、一体どうやって自分が助かったのか不思議に思いました。そして辺りを見てみると、周囲は青い海原で、自分はなんとクジラの背中の上に乗っているのです。
「きゃあ!」
 女の子は思わず叫んでいました。そうして慌てて誰かに助けを求めようとしましたが、周りには誰もいません。それで女の子はしばらくがたがた震えていましたが、そのうちに実はこのクジラは自分を助けてくれたんじゃなかろうかしら、と思うようになりました。
 そうして落ち着いて周りを見回してみると、クジラはちゃんと女の子のことを知っているかのように、潜ろうとする様子もなく、あまつさえ女の子が落っこちた遊覧船へと近づいているではありませんか。
 女の子はそこまで気づくと、この巨大で不思議な生き物に対して、
「あなたが私を助けてくれたの?」
 と訊ねて、そのすべすべした肌をなでてみました。
 ドルチェはそれがくすぐったくって、思わず息を吐きましたが、女の子はそれを正解の合図だととりました。そしてこの命の恩人に心を込めた感謝をして、その背中にキスを送りました。
 もちろんドルチェはそのことの意味も分からず、また背中の上の人間が自分の事を命の恩人だと思っていることも知らずに、この小さな生命を元いた場所へと送り返そうとしていました。まるで女の子は、イルカに助けられたギリシャの詩人、アリオスのようです。
 遊覧船ではその頃、ちょうど女の子を捜してちょっとした騒ぎが起こっており、女の子のお母さんが心配のあまり涙を流していました。女の子の使ったテーブルとイスが発見されて、これは海に落ちた可能性が高いということになっていたのです。
 ところがそこに、女の子を背中に乗せたドルチェがやって来ました。船の上では大騒ぎです。見れば女の子は手を振って、まったく無事なようでした。すぐさま船からはしごが下ろされ、女の子をドルチェの背中から連れて戻ります。
 女の子が元の場所に戻ると、ドルチェはゆっくりと船から離れていきました。元より、ドルチェは人間が好きだから助けたわけではありません。ただそこに、自分が救える生命があったから助けたというだけに過ぎないのです。
 でももちろん、人間たちはそんな事は知りませんでした。船の上の人々はいつまでもドルチェに歓声を送り、「救助クジラ」のことはたくさんの新聞にも載りました。
 けれどドルチェがこれほど人間と関わりあうことは、もう二度とありませんでした。

 ドルチェが生まれてから、たくさんの時間が過ぎました。ドルチェはもう立派な大人のクジラで、十分な賢さだって持っています。歌だって上手で、何人もの子供も持っていて(もちろん、本人には分かりませんが)、暮らしぶりだって十分なものです。
 けれどそうして暮らすうち、ドルチェは前のように速く泳いだり、深く潜ったりすることが出来ないようになって来ました。老い≠ェやってきたのです。
 ドルチェには、もちろんそうだとは分かりませんでした。ただ、ゆっくりと自分が衰えていくこと、そしていつかは餌をとったり、遠い南の海まで移動することだって出来なくなるだろうとは分かっていました。
 そして、どうなるのでしょう?
 ドルチェはそう考えても、見当もつきませんでした。餌がとれなくなれば、ドルチェはもはや死んでしまうほかありません。けれども死ぬ≠ニいうことは、ドルチェにはよく分かりませんでした。
 他のクジラが死んで横たわっているのを、ドルチェは何度か見たことがあります。それはもはやぴくりとさえ動かず、小魚たちが争ってその肉をついばんでいました。ドルチェにとって死ぬ≠ニいうことは、単に動かなくなるということでした。
 けれど動けなくなったクジラは、小魚についばまれて骨だけになったクジラは、一体どうなるのでしょう? ドルチェには、自分という意識がこの世界から消えてしまうなどということは、想像もつかないことでした。
 解けない疑問を抱えたまま、それでも時は過ぎていきます。ドルチェが生まれ落ちてから、六十年という時が過ぎました。
 その時、ドルチェはとうとう泳ぐ力を失い、餌をとることも出来ず、生命の力さえ失っていきました。
 死≠ェ、そこまで近づいているのです。
 ドルチェは自分が動けなくなって、けれど意識だけがそのままあり続けるのだとすれば、そんなに恐ろしいことはないだろうと感じていました。ドルチェは、死≠恐ろしいものと感じていました。
 けれど、すべての力を失って、ただ海の底へと向かう途中で、ドルチェはいつしかお母さんに教えてもらったことを思い出していました。それはあの白い魂のようなマッコウクジラを見た時のことです。
(あの時、なんと言われたのだったかなぁ……)
 ドルチェはゆっくりと、思い出していました。お母さんは、こう言ったはずです。深い深い海の底、私たちが行って帰ってはこれないその深い底で、私たちは穏やかな眠りにつく。そしてそこでは、いなくなってしまった懐かしい人たちに会えるのだ、と。
 海の底へと向かうにつれ、ドルチェの視界は段々と昏くなってきました。それはドルチェ自身の生命がつきかけているためと、深く沈むにつれて段々と地上の光が届かなくなっているためです。
 ドルチェはその深い闇の中で、ふとミリエナの声を聞いたような気がしました。もちろん、ミリエナがこんなところにいるはずはありません。けれどふと横を見ると、ミリエナが白く輝きながらすぐ隣を泳いでいました。
 目を開けて、よく見てみるとそこにはテルミトや、シャナ、ロゼルやリーチェ、ティエナ、そのほか今までに出会った者たちの姿があります。
「さあ、疲れたでしょう」
 と、ミリエナは言いました。その声はまるですべての重さから解放されたように美しく、軽やかでした。
「お前はもう十分に生命の勤めを果たしました。お前は自分の魂で多くのことに触れ、学び、感動しました。もう狭い体を捨てて、私たちと行きましょう。私たちはこれから、静かで、穏やかな眠りにつくのです」
 そう言ううちに、ドルチェは急に自分の体が軽くなって、どんどん上に昇っていくのを感じました。上の方には温かな光が満ちていて、ドルチェはみんなと一緒にそちらへと向かって行きます。見ると、魂のない脱け殻となった自分の体が小さく海の底へと沈んでいきました。
(ようこそ)
 光の中に包まれると、誰かが言いました。それは本当に優しく、温かな、あのお母さんのお腹のなかで聞いた声のようです。
(ここは……?)
 ドルチェは呟きました。すると、声は答えます。
(魂の還る場所だよ)
 と。

 これで、この話はおしまいです。光ささぬ暗い海にひっそりと横たわる白い骨の、これがお話です。
 骸になったドルチェの白い骨に会うことが出来ても、私たちはドルチェに会うことは出来ないのでしょうか?
 いいえ、ちゃんとできます。
 ドルチェは今もすべての人が行くのと同じように、「魂の還る場所」でゆっくりと泳いでいることでしょう。そこではドルチェの他にも、もう一度会いたい人たちがいるはずです。
 だから、あなたが生命の勤めをはたして、いつしか、魂が体から離れる時がくれば、そこにいけるはずです。
 温かく、光あふれる場所へ。
 いつか、きっと――。

――Thanks for your reading.

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