気がついた時、彼は自分の全然知らないところに立っていた。 それまでどこにいたのかも分からなければ、何をしていたのかも分からない。気づいたらそこにいて、立ちつくしていたのだ。 ここはどこだろう、と彼はまず思った。 それから、自分は一体誰なんだろう、と思った。 床も壁も天井も大理石で出来た、広い部屋に彼はいた。まるで何かの都合でそうなってしまったんだ、と言い訳しているような不自然な部屋だった。 「誰かいませんか?」 と彼は声を出してみた。 部屋はシンとして、塵一つ動く気配はなかった。 「誰かいませんか?」 と彼はもう一度、出来るだけ大きな声で言ってみた。壁が迷惑そうにかすかなこだまを返してきたが、それだけだった。 彼は顔をしかめながら、「誰か……」ともう一度もっと大きな声で言おうとしたが、その時、カチャリと扉の開く音がした。 きょろきょろと見回してみると、床の一部が開いていて、そこからペンギンが頭をのぞかせていた。 「あ、いや失礼」 とそのペンギンは言った。 「ちょっとお茶を飲んでいたものですから。来るまで時間がかかってしまって」 「それはいいんですけど、あなたは一体誰なんですか?」 と彼は訊いた。でもペンギンに誰なんですか、なんて訊くのはなにかしら奇妙なことだった。だってそれはペンギンなのだから。 「いや、失礼」 とペンギンは言った。失礼、というのが彼の口癖なのだろう。 「私はここの責任者で、アシカペンギンのオットセイというものです」 「アシカペンギンのオットセイ?」 と彼は訊き返した。つまりそれは何なのだ? 「ええ、それはある高貴な種族の没落から始まって、運命の出会いがもたらした奇跡なんです。そして、ある日、泥の女神が……」 「その、責任者と言いましたけど、ここはどこなんです。それと僕は誰で、どうしてここにいるんですか?」 話が長くなりそうだったので、彼は強引にやめさせることにした。 「おっほん、あ、いや失礼。まずそれを話すべきでしたな。あの話はまた今度にでも」 その今度が二度と来ないことを彼は祈った。 「それで、ここは?」 「あ、いやその前にあなたに行っていただかなければならないところがあるんです」 とアシカペンギンは言った。 「ほんのすぐ近くです。何も問題ありません。きっとあなたなら簡単に……」 「それで、どこなんですか?」 と彼は口を挟んだ。このアシカペンギンは放っておくといつまでもしゃべり続けるのだ。 「あ、いや失礼」 とアシカペンギンはグワッという咳払いをした。 「その扉を降りてまっすぐ一本道を進んでほしいのです。一本道だから迷うことはありません。何の心配もいりません」 「それはどこに通じているんです?」 「私は知りません。私が知っているのはこの部屋と、この一つ下の部屋だけです」 ひどい責任者もあったものだな、と彼は思った。 「それじゃあ、行ってきます」 と彼は言って、アシカペンギンの出て来た穴に入って、縦ばしごを降りた。一体あのアシカペンギンは短い足でどうやってこのはしごをのぼったんだろう、と彼は思った。 下に降りてみると、小さな丸いテーブルがそこにあって、上には紅茶のカップが置かれていた。 その部屋には扉が一つあって、彼はそこを開けて外に出てみた。 「スタート」と書かれたアーチがあって、そこから迷路が始まっている。 「一本道なんて嘘じゃないか」 と彼は腹を立てて言った。 「本当の道を教えてもらわなくちゃ」 でも、いま出て来た扉は閉まっていて、鍵までかかっているみたいだった。一発けりを入れてみたが、びくともしないし足が痛くなっただけだった。 「さて、困ったな」 と彼は呟いて、迷路の方を見た。すごく長そうで、すごく複雑そうな迷路だった。おまけにしっかりと天井まで壁がくっついているので、ずるして上を通ることも出来なかった。 「でも行くしかないか」 このままだと骨になるまで、ここにいなければならなそうなので、彼はとにかく行ってみることにした。 入ってみると、思った以上に迷路は複雑で、しかも壁が鏡で出来ているので厄介きわまりなかった。 「こんなことなら、あのアシカペンギンに助けてもらって方がよかったかな」 と、もう完全に迷ってしまってから彼は思った。 迷い始めて何時間も立つと、彼は何だか過去も未来も現在もごちゃごちゃに混ざってきたような気がした。今ここにいる自分がついさっきの自分なのか、少しあとの自分なのか分からなくなってくるのだ。 「ああ、もういいや」 と彼は疲れはててしまって、その場に座り込んだ。 しばらくすると、彼は正面に映っている自分の顔が笑っていることに気づいた。 「困っているみたいだね」 と、鏡の中の彼は言った。 「ああ、困ってる。君はこの迷路の出口を知っているかい?」 と彼はいささか気持ち悪く思いながらも言った。 「知ってることは知っているけど、タダじゃ教えられないな」 と鏡の中の彼は言った。 「でも僕はお金も持ってないし、あげられるようなものはないんだ」 「俺の欲しいのは、そんなものじゃないんだ」 と鏡の中の彼は言った。 「俺は見ての通り姿はあるんだけど心はない。そのせいでいつも相手と同じ動きしか出来ないんだ」 「なるほど」 「それで俺はあんたの心が欲しいんだ。なに、あんたにはまだ体があるんだから大丈夫だよ。それにこのままここで迷い続けてれば、どっちにしても死んじまうんだ。心がなくなったって困りはしないよ」 彼はその申し出を少しうさんくさく思ったが、このままだと確かに死んでしまうだけなので、その取り引きを受けることにした。 「分かった。僕の心をあげるから、出口を教えて欲しい」 「OK、了解だ」 と鏡の中の彼が言うと、すっと手を伸ばして彼の胸から心を抜いてしまい、それを卵でも飲み込むみたいにして飲み込んでしまった。 「う、うん? これが心か。なるほど、ああ、なんて素敵なんだろう」 と鏡の中の彼はひどく喜んでいるみたいだった。 一方、彼は心を抜かれてずいぶん体が軽くなってしまったような気がした。風が吹いたら、はるか遠くまで吹き飛ばされてしまいそうな気がした。 「約束だよ」 と彼はいささか後悔しながら言った。 「出口まで案内してくれ」 「もちろんさ」 と言って、鏡の中の彼は、彼を離れて勝手に歩き出してしまった。彼はそれについて行ったが、いつのまにか自分の姿が鏡に映っていないことに気づいた。 「着いたよ」 「ゴール」と書かれたアーチの前で、鏡の中の彼は言った。 「君はこの先に何があるか知ってる?」 「まさか。だって俺は鏡の中から出たこともないんだ。知るわけがないよ」 それもそうだな、と彼は思ってとにかく先に進むことにした。 だだっ広い草原の真ん中に道は続いていた。地平線が見えるほど広くて、何もない草原で、夜になりかけているらしく、空が藍色に染まっていた。 「一体、どこに続いてるんだろう?」 と彼は思いながら、まっすぐ続いている土の道をとぼとぼと歩いた。 何時間歩いても、景色も、空の色もずっと同じだった。何もなさ過ぎて、まるで時間までなくしたみたいだった。 でも彼は心をなくしてしまっていたので不安も感じなかったし、焦りも覚えなかった。別にこのままずっと歩き続けてたっていいな、と彼は思った。心がないのもなかなか便利なものだ。 彼がずっとずっと歩き続けていると、目の前に山のようなものが現れて、それが道をふさいでしまっていた。 「困ったな、どうしよう」 と彼は呟いた。 その時、山が少し動いたように見えた。 「そこに誰かいるのかえ?」 という声が雷のようにどこからともなく響いた。彼は思わず耳をふさいで、辺りを見回してみた。 「ここだよ、ここ。あんたの目の前だ」 彼が前を見てみると山がくるりと向きを変えていた。 それはとても大きなクモだった。 「すいませんが、そこをどいてもらえませんか」 と彼は大声で怒鳴った。 「そんなに怒鳴らなくても聞こえるよ」 とクモはうるさそうに文句を言った。 「わたしゃ耳がいいんだ」 「すいません。ところでそこをどいてもらえませんか?」 と彼は普通にしゃべるくらいの声で言った。 「わたしゃ面倒くさがりだから、用もないのに退くなんてごめんだよ」 「でもそれじゃあ困るんです。僕は先に行かなくちゃならないんだもの」 クモはしばらく考えるみたいに眼をつむっていた。 「それじゃこうしよう」 とクモは言った。 「あんたの体を私に食べさせておくれ」 「そんなことされたら僕は死んじゃいますよ」 「大丈夫だよ。私はあんたの体だけ食べるから死にゃしないよ。それに、このまま自分が誰かも分からずにここで死にたくはないだろう?」 彼は前と同じようにずいぶんと迷ったが、結局その申し出を受けることにした。 「いいですよ。その代わりそこを退いて下さいね」 「念を押さなくたって大丈夫だよ」 とクモは言って、彼から体を取ってしまうとバリバリと噛み砕いて飲み込んでしまった。 「久しぶりの食事はうまいねえ」 彼は約束だから退いて下さい、と言おうとしたが、もう体がなくなってしまっていたので声にすることは出来なかった。 「分かってるよ。ちゃんと退くから安心をし」 と言って、クモは折りたたんでいた足を出して道の上から退いた。 彼は心も体も失ったまま先を進んでいった。 やがて大きな湖の前で道は途切れていた。とても澄んだ青色をした湖で、世界中のすてきなものがすべて溶かされたような透明な水をしていた。 彼は水に触れようとしても手がなく、美しいと感じたくても心がなかった。 空虚だった。 「そこに誰かいるんですか?」 という声が湖の方からした。 見ると、美しい髪の少女が湖の上に立っていた。彼は心や体を失ってしまったことや、その上ここがどこで、自分が誰なのかも分からないことを説明しようとしたが、それを声にすることは出来なかった。 でも少女は声にして聞かなくても、それが分かるみたいだった。 「あなたはここがどこか、自分が誰かも分からず、そして心も体も失くしてしまったんですね」 少女は言葉を切って、そして言った。 「では湖の中に潜ってみて下さい。そこであなたは自分が誰なのかを知ることが出来ます」 彼はもうどうにでもなってしまえ、という気分で湖の中に飛び込んでみた。体がないせいで冷たいとも思わないし、苦しいとも感じなかった。ただそれは、ゆっくりと深いところへ向かう、不思議な感覚だった。 そして彼は唐突に悟った。 自分が、自分であることに。自分が、自分以外の何者でもなく、また自分以外の何者にもなれないことに。 彼は純粋で、混沌として、固くて、柔らかくて、冷たくて、熱くて、およそすべてを含みながら、どれとも混じりあってはいない、小さな、美しいものを感じた。 それは魂だった。 彼の中には魂が息づいていた。彼は魂だった。 湖の奥底で、彼は己が何者であるかを知り、泡になって、そして消えた。
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