[誰がアガメムノンを殺したの?]

 舞台上には、セーラー服姿に仮面をかぶった奇妙ないでたちの人物が立っている。仮面は赤い血に塗(まみ)れて、その姿は禍々しさと神々しさにあふれていた。

――このたびの勝負は、私が長い時をかけて考えぬいたもの。根は、古い諍いごと。だが、ついに決着の日は訪れた。いま私は、一撃を下したその場所に立っている。この足元に横たわるものこそ、その結果。

 復讐の勝利と歓喜を謳った声が、暗闇に覆われた体育館に朗々と響きわたる。

そして倒れざまに大きく息を吐くと、急所の一撃を告げる、血潮が噴きだし、血の色濃い、黒い雫が、私の体をしとどに濡らす。この身が覚えた喜びは、ゼウスが降らせる黄金の雨に、麦粒が穂の中ではじけて、あふれるさまに似ていた。

 殺人の告白によって混乱するその場の中で、一人の女だけが荘厳に、雄々しく佇立している。
 わたしはそれを、舞台横にある機械室からじっと見つめていた。思えば、この場面がすべての出発点だったのかもしれない。ささやかなもう一つの復讐劇が、終わりを迎えるための――
 そのあいだにも舞台は進行して、殺人への非難とそれへの反論が繰り広げられている。物語はまさに、クライマックスを迎えているところだった。
 館内には濃密な沈黙がいっぱいで、照明の光だけが音もなくその舞台を照らしている。

 ――演劇部の次回公演演目が『アガメムノン』だと告げられたのは、七月半ばのテスト期間明けでのことだった。
「アガメムノン?」
 と、一年男子の沢樹(さわき)くんが言った。どちらかというと、思わず口をついて出た、という感じで。それは、よくわからない化合物の名称を聞いたときの反応に似ている。
 とはいえ、気持ち的にはわたしも同じだった。意外な科学実験でも見せられたときみたいに、戸惑いに近い疑問が湧きあがっている。
 けど少しだけ違うのは、わたしの場合は「アガメムノンて、何?」じゃなくて、「何で、アガメムノン?」ということだった。
 ――それが何なのか、わたしは知っているから。
「ポケモンに、そんなのいませんでしたっけ?」
 と、沢樹くんは言った。なかなかに率直な子なのだ。
「それはたぶん、アンノーンね」
 部長は隙なく答える。
 うちの高校では、演劇部に専用の部室はなくて、活動は放課後の視聴覚室を間借りしている。特に歴史も伝統もなくて、人数が年度ごとにころころ変わるせいだ。こういうのは宿命なので、仕方がない。
 視聴覚室は床がカーペットになっていて、固定式の机とイスが並んでいる。前方にやや開けた空間があって、木の床が少しだけ迫りだしていた。想像力を働かせれば、ミニチュアの舞台に見えなくもない。練習にはなかなか都合のいい環境なのだ。
 その舞台には今、部長が一人で立っていた。八人いる部員は全員、近くの席に座っている。各自に台本が配られていて、そこには「古代ギリシア悲劇 アガメムノン」と題名が書かれていた。
 もちろん、原作者の名前も。
「アイスキュロスは、古代ギリシアにおける三大悲劇詩人の一人よ」
 と、部長は台本を片手にしながら説明した。
「アガメムノンは彼の書いた作品の一つ。ちなみに、三大悲劇詩人のほかの二人が誰だかわかる人はいる?」
 こういう場合、往々にしてそうであるみたいに、答える人間は誰もいなかった。これも一種の宿命かもしれない。
「――ほかの二人は、ソポクレスとエウリピデス」
 仕方ない、という感じで部長は言った。
「彼らが演劇の原型を作ったんだから、私たちの大先輩といってもいいかもしれないわね。演劇に携わるものとして、それくらいは知っていてもいいんじゃないかしら? それに一年の時、世界史の授業でちゃんと習ったはずよ」
「ためになる話でけっこうだな」
 久瀬(くぜ)という先輩が、笑いながら茶化すように言う。部長と同じ三年生なのは、唯一この人だけだった。ちょっと飄々としたところがあって、普段からこんなしゃべりかたをしている。
「けど、歴史の勉強はともかく、どんな話なんだ、このアガメムノンてのは」
 先輩はいかにも言いにくそうに「アガメムノン」と発音した。気持ちはよくわかる。
「――アガメムノンはアイスキュロスの最晩年の作品よ」
 と、部長は気をとりなおして説明を続けた。
「三部作の、第一作にあたっているわ。アガメムノンは神話に登場する王の名前。トロイア戦争は知ってる? 絶世の美女、ヘレネを巡ってギリシアとトロイアのあいだで起こった争いのことよ。映画にもなってるわね。ブラッド・ピットが主演で。といっても、役はアキレウスのほうだけど」
「その戦争とアガメムノンに何の関係があるんですか?」
 一年の乙島(いつしま)さんが手を挙げて質問する。わりと几帳面なのだ。
「――確か、ギリシア方の総大将ですよね」
 気づくと、わたしはふと口にしてしまっていた。でしゃばるつもりはなくて、ついうっかりしたのだ。
「何だ、知ってるんじゃない」
 と部長は意外そうな顔をした。もちろん、普段のわたしに古典の素養があるようには見えないだろうから、当然の話ではある。
「小森(こもり)さん(わたしの名前だ)の言ったとおり、アガメムノンは英雄ひしめくギリシア勢を束ねる総大将だった人物よ」
 部長は時計の針を戻すみたいにして、再び説明をはじめた。
「それは彼が、奪われたヘレネの夫だった、メネラオスの兄だったから……。けどこの戯曲は戦争の話じゃなくて、その後のお話よ。英雄アガメムノンは、故郷の地に帰ってから、その妻に殺される――」
「は? 何でですか」
 わたしの隣で、ちょっと抗議でもするみたいに椛(もみじ)ちゃんが言う。語調が強めなのは、怒っているわけじゃなく、彼女がいつも自然体でいるせいだ。
「理由を説明すると長くなるわね。祖先から続く呪われた血の因縁ということもあるし……。ただ直接的な動機は、娘を殺されたせいね。二人の娘、イピゲネイアはトロイア戦争の折に、船を出すために必要だった風呼びの儀式のため、人身御供にされてしまうの」
「子殺しに、夫殺しってことですか」
 椛ちゃんは軽く肩をすくめてみせる。肩をすくめるくらいで済む話でもないんだけど、彼女がそうすると変な説得力があった。
「そうね、その辺はギリシア悲劇の特徴ってとこかしら」
 部長は重々しくうなずいてから、部員みんなに向かって話しかけた。
「とにかく、今年の文化祭――凪城祭の演劇部舞台はこれで行きたいと思います。もちろん、異論や希望があればいつでも受けつけます。決定は一週間後。それまで、各自で台本をよく読んでおくように」

 家に帰ると、さっそくテストの点数について訊かれた。
「――まあまあだった」
 とわたしは曖昧に答えておく。自慢じゃないけれど、わたしの頭の出来はそんなによくない。壊滅的とは言わないけれど、進んで人に吹聴するほどじゃないのだ。
 どうせ、あとでしつこく訊かれるだろうけど、今はこれで済ませておくつもりだった。それに脳みそなんて親譲りなんだから、それほど文句はつけられないはずだ。ギリシア悲劇ほどじゃないにしろ、これも一種の呪われた血縁というやつかもしれない。
 部屋に戻る前に、冷蔵庫の中身を確認する。とっておいたアイスを食べるつもりだった。
 ところが、豈図らんや、アイスはどこにもなかった。お気に入りのチョコバナナ味で、数日前からこの日のために準備しておいたというのに。
「……ねえ、わたしのアイス知らない?」
 と、冷凍庫をのぞきながら、お母さんに向かって訊いてみる。
「あら、それだったら清秋(きよあき)が食べちゃったわよ」
 さも当然のことのように告げる母。
「いやいや、注意してよ。あれ、わたしのなのに。確かそう言ったよね?」
「言ったかしら?」
 実に慰められる言葉だった。
「あれがなくなっちゃったら、わたしはこれからどうすればいいわけ――?」
「大げさね、アイスくらいで。それくらい、人に譲る度量はあるでしょ」
「それは時と場合によるし、今はその時と場合じゃない」
 台所でそんなやりとりをしていると、ちょうど問題の人物が現れた。不本意ながら、血縁上はわたしの弟にあたる人物だ。ちなみに、生意気ざかりの中学三年生。
 わたしがアイスのことを詰問してみると、「名前でも書いとけ」の一言だった。別にマスコミ各社を呼んで謝罪会見を開けとは言わないけれど、これはあんまりだ。短気な王様なら戦争を起こしてもおかしくない。
 いたく機嫌を損ねたまま、わたしは自分の部屋に向かった。現実なんて、いつもこんなものだ。そこにはギリシア悲劇的な要素なんて、どこにもない。
 部屋のドアを開けると、ベッドにタンス、机が目に入る。ピンクのクッションや鏡台といった、申し訳程度に女の子らしい装飾。いつも通りのわたしの部屋だった。別に薔薇色の大理石や凝った形の壷が置いてあるわけじゃない。
 さっさと着替えて、わたしは机の前に座った。カバンから、例の台本を取りだす。

 ――アイスキュロスの『アガメムノン』。

 二千五百年以上も前の、古代ギリシア悲劇。
 白いコピー用紙に印刷されたその台本を、わたしは丁寧に一ページずつ目を通していく。
 ――舞台ははじめ、ある見張り番の独白で幕を開く。その見張り番は、王の帰還を告げる松明の火を待っている。長の年月に飽きあきした男のセリフ。そしてとうとう、はるか彼方に一つの光が見える。
 場面はちょっと変わって、今度はアルゴスの街の長老たちが姿を現す。王の不在を、遠い戦争の不安を嘆く長老たち。語られる戦火の発端と、そこでなされた不吉な予言、王の娘の儚い犠牲。
 やがて、王妃クリュタイメストラが登場する。彼女が、王殺しにして夫殺しの犯人だ。けれどこの時は、見張り番の報告を伝え、言葉優しく王の帰還を祝う。長老たちはなおも戦争の疲弊を語り、長年の苦しみからその報告を疑ってかかるが、ほどなく王の到着を告げる布告使が登場する。
 布告使は戦争の苦難や、その成果を語る。結局のところ、勝ったのは彼らなのだ。けれど長老たちの疑懼や悲嘆が完全に拭われることはない。
 それから、とうとうアガメムノンが登場する。戦果を言祝ぎ、無事の帰郷を喜ぶ王。王妃クリュタイメストラも現れ(ここまでで、けっこう人の出入りがあるのだ)、王を祝賀する。彼女は言葉を巧みに操って、神々のみに許された緋色の織物の上を歩くよう、王を説得し、それに成功する。
 二人が退場したあと、王が連れてきた女奴隷、カッサンドラと長老たちのやりとりが行われる。カッサンドラは予言者だけど、アポロンの呪いによってその言葉は誰にも信じられることはない。ともあれ、彼女は王の呪われた血筋と、その死、そして自らもまた殺されることを予言する。さらには、この復讐劇の続きをも。
 カッサンドラが館に消えると、すぐにアガメムノンの断末魔が聞こえる。慌てふためく長老たちとは対照的に、冷酷なまでに落ち着きはらった王妃クリュタイメストラが、二つの死体を伴って登場する。
 そして彼女は告げる。勝利の凱歌を、復讐の正当を。娘の犠牲、王の不義、一族の悪業。王の死に動揺する長老たちを嘲笑うような、クリュタイメストラのセリフの数々。
 それからもう一人の黒幕、アイギストスが登場する。血の因縁に彩られた、呪われた子供。彼は王妃と密通し、今日の企てに参加したのである。長老たちを罵り、ついには剣の柄に手をかけたところで、王妃がそれを諌める。二人がアルゴスの僭主となったところで、舞台は幕を閉じる――
 台本を読み終わったところで、わたしはずいぶん深々とため息をついた。荘厳なセリフ、血なまぐさいやりとり、逃れられない血の運命。
 つまり、古代ギリシア悲劇だった。二千年以上もの時間を生きながらえ、書きつがれ、読みつがれてきた物語。
 台本は実際のもののセリフを三分の一程度に圧縮しているそうだけど、ストーリーに手は加えられていない。その暗澹や凄惨、苛烈さについては。
 特にクリュタイメストラの迫力がすごかった。堂々と復讐を嘉する、神をも恐れぬ女。彼女の悲しみ、嘆き、憤り――
 古代のギリシア人というのは、ちょっと変わった人たちだったのかもしれない。でないと、こんな物語を好きこのんで演じたり、観たりなんてしないだろう。
 だから、というわけではないのだけど――
「…………」
 わたしは何の面白みもない天井を見上げて、さっきとは違う種類のため息をつく。わたしにはやっぱり、疑問だった。何でまた、『アガメムノン』なんだろう?

「――別におかしくないんじゃないかな」
 というのが、椛ちゃんの意見だった。
 学校の、昼休み。太陽は夏の本番に向けて試運転中といったところで、今日はわりあいに涼しいほうだ。
 わたしたちは同じ机を共同スペースにして、お弁当を食べていた。教室の人数は半分くらいといったところで、世界の状態は空気の抜けたタイヤみたいにゆるんでいた。
 椛ちゃんは、フルネームは阿久津椛(あくつもみじ)。わたしと同じクラスの二年生だった。性格は直言実行で、華美な装飾は好まない。たたずまいは清楚で凛として、パリコレのモデルみたいなスタイルをしている。長い髪を二組の三つ編みにして、顔立ちは人形みたいに整っている。けど人形にしては眼光が鋭すぎるし、生命力にもあふれすぎている。
 はっきり言って椛ちゃんは「美少女」で、本人もそれを公言してはばからない。公言してはばからないのが当然なほどの、美少女でもある。
 ……それに対して、わたしのほうはというと、比較するのも烏滸がましいほどだった。垢抜けのしない、冴えないボブカットに、もっさりした大きめの眼鏡。背の高さだって人並み以下だ。自分で言ってて嫌になってくる。
 そんなわたしと椛ちゃんが友達というのも、妙といえば妙な話ではあった。
「あたしとしてはいいと思うけどね、この劇」
 椛ちゃんは、ちょっとそぐわないほどの乙女チックなお弁当を食べながら言う。お母さんの趣味かもしれない。ちなみに、お母さんも美人だ。遺伝子が羨ましい。
「いや、わたしとしても別に劇そのものに文句はないんだよ」
 とわたしは念のために否定しておく。そもそもこれは、世界遺産的な演劇の一つなのだ。その辺の高校生が、勉強のあいまに片手間で書いた脚本というわけじゃない。
「わたしが気になってるのは、何でわざわざアガメムノンなのかってこと」
 そう訂正すると、椛ちゃんは軽く肩をすくめてみせた。実に表現力豊かな動作だった。
「……だから、別におかしくないでしょ。アガメムノン≠ナもテンペスト≠ナもゴドーを待ちながら≠ナも、やっていけないってことはないんだからさ」
 確かに、それはそうだ。
 わたしは反論の余地を失って、ちょっと黙ってしまう。実際、別におかしなことなんてないのだ。演劇部が、有名な古典演劇に挑戦する。話としてはそれだけ。三人の魔女に唆されて王の謀殺を図るみたいな、疚しいところや後ろ暗いところはない。
 けど――
 何故だか、わたしはそれが気になって仕方ないのだ。
 わたしがそうして黙っていると、
「……ただ、咲槻じゃないけど、あたしとしても気になるところはあるかな」
 と、椛ちゃんは言った。咲槻というのはわたしの名前。名字も入れると、小森咲槻になる。
「この台本、ちょっと変なところがあるんだよね」
「変なところ?」
 わたしがうながすと、椛ちゃんはたいしたことでもなさそうに言った。
「セリフのつながりが、所々でおかしいんだよね」
「そうかな?」
 読んでいて、わたしは気にならなかったけど。そもそも、相手はかの三大悲劇詩人の一人なのだ。
「まあ変てほどじゃないんだけど、古いゲームのポリゴンみたいに角々してる感じかな」
 比喩のディテールについては言及すまい。
「――それでストーリーが壊れるわけでも、流れが損なわれるわけでもない。けど、よくよく見ると熔接部分があるように感じられる、ってとこ」
「それは、女優として気になるくらいに?」
 演劇部では、椛ちゃんはもっぱら役者のほうにあたっている。
「照明係が読んだって、まともな視力さえあれば気になるよ」
 椛ちゃんは軽く憫笑してみせた。照明係というのは、もちろんわたしのことだ。
「ああ、神様、わたしにまともな目を――いやさ、まともな眼鏡を」
「まあ舞台用に短く編集してるわけだから、滑らかじゃないのも仕方ないかもね」
 そう言って、椛ちゃんはわたしの小芝居をあっさり無視してみせた。
 とはいえ、椛ちゃんのこういう発言にはけっこう確かなところがある。野生の勘みたいなもの、と本人も言ってた。そして椛ちゃんのそれは、けっこう鋭い。
「咲槻が何を気にしてるかは知らないけどさ、まだやると決まったわけじゃないんだし、そこまでこだわることはないんじゃないかな?」
 と、椛ちゃんはとりなすように、いなすように、わたしのことを慰め(?)た。
 わたしはタコの形になっていないウインナーを食べながら、それでも何となく納得のいかないものを覚えていた。箱の中に隠されているものの正体を手探りで当てようとしたとき、こんな気持ちになるのかもしれない。

 ――文化祭での演目予定発表から一週間後、もちろん誰の異論も反論なく、舞台『アガメムノン』の上演は決定した。そのことにしつこく疑問を抱いていたのは、たぶんわたしくらいのものだったろう。

 ある日、学校からの帰り道のこと。わたしはたまたま、駅のホームで部長と顔をあわせた。
 午後のホームには、学生がちらほらいるほかに人の姿はない。世界はまだまだ昼の暑さと明るさで、蝉の鳴き声だけが盛大に響いている。毎年飽きもせずに夏を歓迎するのは、蝉くらいのものだった。
 部長はホームのベンチに座って、涼しい顔で本を読んでいた。心頭滅却すれば、というやつだろうか。もしかしたら、あの辺にだけクーラーが効いているのかもしれない。
「鹿賀(かが)部長、帰りですか?」
 と、わたしは声をかけてみた。
 部長は慌てることもなく、本を開いたままゆっくりした動作で顔を上げた。楚々とした、というのだろうか、鹿賀部長の動きにはいつもながらに古風な趣きがあった。
「ええ、そうよ」
 と部長は如才なさの見本みたいな笑顔を浮かべる。
「小森さんも帰るところ?」
「そうですよ。珍しいですね、ここで部長と顔をあわすのって。部長の家ってこっちのほうなんですか?」
「沿線の、美早(みはや)ってとこ」
「じゃあ、わたしより少し遠くですね。わたしが降りるのは、一つ前の駅ですから」
 言ってから、わたしはちらっと駅の時計を確認した。次の電車が来るまでは、もう少し時間がかかる。
「――隣、座ってもいいですか?」
 わたしは訊いてみた。
「もちろん、このベンチが私のってわけじゃないんだし」
「では、失礼します」
 よっこらしょ、という感じでわたしはカバンを抱えて部長の隣に腰を下ろす。さすがに掛け声までは出さなかったけど、似たようなものだった。残念ながら、乙女チックなのはわたしの本分ではないのだ。
 そんなわたしの隣では、古典絵画の肖像みたいな落ち着きで鹿賀部長が座っていた。
 鹿賀部長は、いかにも仕事のできる才媛、という感じの人だった。というか、感じだけじゃなくて、実際に仕事ができる。それも、無駄なく無理なく有能、というタイプの人だった。
 ポニーテールの髪は、くくっているというよりも、結っているというほうが近い雰囲気。フレームの細い眼鏡をかけて、ちょうど紅葉でも散らしたみたいな雀斑をしている。すごい美人というわけじゃないけれど、理知的でどこかミステリアスなたたずまいをしていた。ちなみに、下の名前は真穂(まほ)という。
「小森さん、試験の結果はどうだったの?」
 本に栞を挟んで閉じてから、部長は訊いてきた。そういう何気ない動作でも、鹿賀部長がすると、礼儀にかなっているみたいに見える。
「まあまあでしたよ」
 わたしはいつぞや母親に向かって答えたのと同じ言葉を口にする。
「少なくとも、数学と生物と英語と日本史と化学以外に関しては」
「あと、何があったかしら?」
「国語だけは、何故か得意なんです」
 と、わたしは胸をはって答えておいた。
「何となくわかるわね」
 鹿賀部長はくすっと笑った。綿百パーセントの布を丸めたみたいな、柔らかな笑顔だった。
「部長のほうは、どうだったんですか?」
 当然の礼儀として、わたしは質問を返した。
「うーん、私のほうもまあまあってところね」
 部長は自然な笑顔を浮かべて言う。たぶん、その通りなのだろう。ここは聞き返すだけ野暮というものだった。
「ところで、何の本を読んでるんですか?」
 わたしは部長の膝元に置かれた文庫本を見ながら訊く。
「呉茂一(くれしげいち)の『ギリシア神話』」
 と部長はその表紙を見せながら言った。
「舞台をよく知るために、読んでおこうと思って」
「ふうん」
 わたしは好奇心からその表紙を眺めてみる。たぶん、当時の彫刻画なのだろう。不自然に顔をこっちに向けた、ちょっとアルカイックで不気味なレリーフの写真が載せられている。ちなみに、下巻のほうだった。
「部長に一つ、訊いてもいいですか?」
 せっかくの機会なので、わたしは例の疑問について訊いてみることにした。
「ええ、何かしら」
「どうして今度の舞台、『アガメムノン』なんです?」
 わたしが訊くと、部長は何となく困ったような顔をして文庫本を膝に戻した。その表情の変化は、紙の厚さが数ミクロン単位で違うくらいのものでしかなかったけれど。
「小森さんは、この劇に不満があるのかしら?」
「そうじゃないですけど、ただ気になったんです。何というか――チョイスとして」
「チョイスとして、ね」
 部長は珍しい石でも拾ったみたいに、その言葉を復唱した。
「そもそも、この舞台が決まった経緯ってどうなってるんですか? 部長が決めたんですか?」
「決めたのは私だけど、提案したのはある部員よ」
「ある部員って、うちの――演劇部のってことですよね」
 当たり前の話ではあったけど、部長はうなずいた。
「それって誰なんですか?」
「本人から口止めされてるから、それは教えられないわね」
 ずいぶんな話だったけど、鹿賀部長が教えられないというからには、いくら質問しても無駄だろう。そんなのは、新聞紙を畳んで月に届かそうとするのと同じくらい、無益な行為でしかない。わたしは質問を変えてみた。
「脚本を書いたのも、その人なんですか?」
「――おそらく、そうでしょうね」
 あまり詳しく聞いてはいないのか、部長の言葉は曖昧だった。
「誰なのか、ヒントだけでももらえませんか?」
 わたしは乙女チックに哀願してみた。けど、
「約束があるから、それはできないわね」
 と、部長はにべもない。
「そんな、わたしと部長の仲じゃないですか」
「どんな仲かしら?」
「演劇部の優秀な一員としてがんばってるんですよ」
「この前の劇でセリフを丸々飛ばしちゃったこと、忘れてないわよ」
「それは忘れてください」
 通信教育で催眠術でも習っておくべきだったな、とわたしは後悔した。
「じゃあ、同じ眼鏡のよしみで……」
「そんなよしみはないわね」
 当然だけど、部長はそんなよしみで懐柔されたりはしなかった。
 わたしは部長攻略の手立てを失って、口を閉ざしてしまった。夏の暑さと蝉の声が、急にあたりに戻ってくる。そろそろ電車の来る時刻だった。
「部長は、今度の劇に賛成なんですか?」
 と、わたしは最後に訊いてみた。
「もちろん、そうよ」
 鹿賀部長はカバンの中に、文庫本を丁寧にしまいながら言った。まるで、古代の貴重な遺物か何かみたいに。
「でなきゃ、やろうなんて言ったりはしないでしょうね」
 線路の消失点の向こうから、かすかな音を立てて電車が姿を現していた。部長は優雅な動作でベンチから立ちあがりながら、スカートの裾を直している。
「……そりゃ、そうですよね」
 部長と比べると未開人みたいに無造作に立ちあがって、わたしはそうつぶやいていた。

「――やっぱり、気になる」
「まだ言ってるわけ?」
 終業式後、わたしと椛ちゃんは駅前の甘味処「玉梓(たまずさ)」にいた。これからの夏休みを記念して、ちょっとした贅沢をしておこう、というつもりだったのだ。
 甘味処の店内は、モダンかつ和風の雰囲気で、黒と紅殻の色を基調にしている。瀟洒な柱に、玉砂利を固めて造った床。風流で、涼やかで、何よりクーラーが効いていた。
 わたしたちは仕切りのあるボックス席で、それぞれデザートを口にしていた。椛ちゃんは抹茶パフェ、わたしは白玉ぜんざいだ。もちもちした白玉と甘いぜんざいをいっしょに食べると、幸せというのがどういう形をしているのかがよくわかる。
「とにかく、部員の誰かが発案したってことは間違いないんだよね」
 わたしは朱色の匙を使って白玉をすくいあげながら言った。このぷるぷるしたところが、一番の魅力ではなかろうか。
「部長がそう言うんだったら、そうなんでしょうよ」
 肉食動物的な潔さでパフェを食しながら、椛ちゃんは言った。そんじょそこらの美少女とは違って、凄みのあるタイプなのだ、椛ちゃんは。
「けど、それだったら何で秘密になんてしておくんだろう?」
「さあね――」
 椛ちゃんはたいして関心はなさそうに言う。
「でも鹿賀部長がそれで納得するくらいなんだから、よっぽどの事情なんでしょうよ」
「そりゃ、確かにそうなんだけど……」
 わたしは白玉を口にしたあと、無意味にぜんざいの中をかきまわした。もちろん、そんなところに答えはないし、食べた白玉が増えたりなんかもしない。叩いたらビスケットの増えるポケットとは違うのだ。
「……もしかして、椛ちゃんがあの脚本を書いたってことはない?」
 手っとり早く謎を解決するため、わたしは一番身近な人間を疑ってみた。
「なわけないでしょ、頭どうかしてんじゃないの?」
 椛ちゃんは蝿でも払うみたいに言う。わたしは失敗した皮算用にため息をついた。
「まあそうだよね、椛ちゃんにそんな学識があるわけないし」
「おい、人を愚弄するときはもう少し婉曲表現を使うようにしろ」
 自分のことは棚に上げつつ、椛ちゃんは警告する。
 とはいえ、椛ちゃんがこんなことでわざわざ嘘をつくわけもないので、少なくとも容疑者は一人減ったわけだった。あとは、「部員の誰か」ということしか手がかりは与えられていない。
「こりゃ、難事件ですぜ――」
 わたしは軽くうめいてみせた。でも、
「難事件以前に、事件かどうかも怪しいところだけどね」
 と、椛ちゃんはせっかくの芝居に水を差してくる。
 それはともかくとして、わたしは唯一の証拠品である台本について考えてみた。あまりはっきりとはしないけど、舞台の発案者があの台本を書いたと見て間違いないだろう。そうでなかったとしても、発案者と脚本が無関係なはずはない。
 つまるところ、問題は『アガメムノン』そのものにあるわけだ。
「ギリシア神話ってさ、けっこうややこしいところがあるんだよね」
 と、わたしは考えを整理するために独り言みたいにして言った。
「誰が誰の子供とか、誰の先祖にはいわくがあってとか――けっこうな家系図ができちゃんだよね。それも神様やら精霊(ニンフ)やらがからんできて」
「ふうん」
 聞いているのかいないのかはともかく、椛ちゃんはうなずいた。パフェの減りかたに遅滞はない。
「このアガメムノンだって、父親の代からの因縁があるの。彼の父、アトレウスはその弟に、我が子の肉を食べさせる。わからないように料理して、ね。その弟の息子が、アイギストス。彼は王妃クリュタイメストラと共謀してアガメムノン暗殺を企てる」
「従弟と妻に殺されたってわけだ……ちょっとややこしいけど。ところで、そのアトレウスってのは何でまた子供の肉を食べさせるなんて酷いことをしたわけ?」
「弟であるテュエステスが王位簒奪を図ったから。それも、彼の妻と姦通して」
「おやおや」
「で、怒った彼は内心では腸を煮えくり返しながら、許したふりをして弟を呼よせるの。逃亡して疲れはててた弟は、子供たちを連れて王宮に戻ってくる」
「そこで、悲劇が起こるわけだ。そりゃ呪われもするわ」
 椛ちゃんは満足そうにパフェを完食した。阿久津椛の前では悲劇も形なしである。
「まあそれだけの話も含めて、『アガメムノン』てわけ。だから、これを選んだ人は、ギリシア神話にそれなりに詳しかったはずなんだよね」
「そう言う咲槻だって、ずいぶん詳しいみたいじゃない?」
「わたしが知ってるのはたまたまで、それもごく狭い範囲のことだけなんだ……椛ちゃん、イタカ≠チて知ってる?」
「何それ」
 わたしは乏しくなってきたぜんざいを侘びしくつつきながら言った。
「オデュセウスの故郷、ギリシアに数ある島の一つ」
 わたしがそう言うと、椛ちゃんは細くて形のよい眉を歪めた。そうして言うことには、次のよう。
「あたしはいつかスターになりたいんであって、辛気くさい学者になりたいわけじゃないんだよね」
 威風堂々して省みることのないその言いかたに、わたしは思わずくすっと笑ってしまった。
「椛ちゃんのそういうとこ、好きやで――」

 とはいえ、今回のことの鍵が『アガメムノン』にあるのは間違いなかった。犯人(?)は何か理由があってこの劇を選んだのだ。その理由はたぶん、脚本の中そのものに隠されている。例えば、編集の仕方に特徴があるとか。
 わたしは常に倍するほどの時間をかけて台本を読み返した。一部のセリフはそれで自然と覚えてしまったほどだ。街の長老たちの嘆き――「哀れ、哀れと言えば言え/だが良きほうが勝ちますように。」
 読み込みが深まるのはいいのだけど、肝心の謎のほうはいっこうに解けることはなかった。時間はただいたずらに過ぎていくだけである。焦る必要なんてないとはいえ、個人的な精神衛生上にはやや悪影響がある。
 演劇部の活動のほうも、夏休みに入って本格化しつつあった。部長による古代ギリシア演劇についての初頭講座(コロスの役割、当時の舞台装置、物語の背景、etc.)があって、配役や裏方も決定した。
 それによると、わたしは照明係――いわゆるスタッフ≠フほうだった。基本的には、それが通常営業なのだ。前回みたいに役を振られることのほうが例外なのである。ついでに、テンパってセリフを飛ばしたことも例外なのである。
 舞台の準備が着々と進んでいくある日、わたしはふと思いたって人を探してみることにした。探すといっても、深山幽谷を訪ねていくわけじゃなくて、同じ学校のどこかにいるはずだった。
 キャストとスタッフはそれぞれの仕事があるので、いつもいっしょにいるわけじゃない。わたしはまず、部の主な練習場所である視聴覚室に足を運んでみた。
 窓にカーテンをして締め切った部屋には、当然のことながら空調がかけられていた。夏の暑気がゆるんで、多少の人間らしさが戻ってくる。省エネのためか、あまりうらやましくなるほどじゃなかったけれど。
 視聴覚室に入って扉を閉めると、外の物音は電源ごとコンセントを抜いたみたいにぱたりとやんでしまう。代わりにエアコンの単調な送風音が耳をついた。息をすると、多少の埃っぽさを感じる。
 後ろの扉から入ったので、練習舞台の光景がよく見えた。舞台のイメージ作り中らしく、役者はみんな台本を持ったまま演技をしていた。それを見ながら、部長が細かく指示を出している。建物の段階でいうと、まだ骨組みもできあがっていない状態だった。
 わたしはきょろきょろあたりを見渡しながら、目的の人物を探す――どこにもいない。おかしい、空気の精にでもなったのじゃなければ、ここにいるはずなのだけど。
 近くの席に座っていた同じ二年の宮坂(みやさか)くんに、わたしは訊ねてみた。ミニ舞台上では、椛ちゃんが部長の指導を受けている。彼女がこの劇の実質的な主役である、王妃クリュタイメストラ役だった。
「……ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「わっ!」
 やけに熱い視線で舞台を見つめていた宮坂くんは、やけに派手に驚いてみせた。
 自分の声にびっくりしたみたいに、宮坂くんは舞台の様子をうかがう。幸い、注意を引くほどじゃなかったらしく、練習は滞りなく続けられていた。わたしとしても、そんなつもりはなかったのだ――本当に。
「ごめん、驚かすつもりはなかったんだけど」
 とわたしはまず謝罪した。
「うん、いや、僕のほうこそごめん。何か急に声をかけられたから……」
 宮坂くんは自分が悪いみたいに慌てて言う。そういう奴なのだ、宮坂孝太(みやさかこうた)というのは。あまり得な性格とは言えなかったけれど。
 見ため通りの大人しさで、消極的。親切で優しくて気が利くのだけど、基本的には引っ込み思案。けっこう整った顔立ちをしているわりに、それが目立つことはない。いつも運悪く、月の前に雲がかかっているみたいに。薄幸の美少女の少年版というところだ。
「……それで、何か用なの小森さん?」
 まだ気になるのか、宮坂くんはちらちらと舞台のほうに目をやっている。その様子を見るかぎりでは、必ずしもそれだけが理由ではなさそうだったけど。
「久瀬先輩はどこにいるのかな、と思って」
 わたしは邪魔してごめんね、という調子を言外に込めつつ、小声で訊ねた。
「先輩だったら確か、一人で練習するからって出ていったよ」
 と、宮坂くんはそんなわたしの気遣いなどどこ吹く風で、上の空に答えた。
「屋上のほうに行くって言ってたかな? あそこなら声を出してもうるさがられないし、邪魔も入らないだろうからって」
 教えてくれてありがとう、と言ってわたしは部屋をあとにした。その言葉が宮坂くんに届いたかどうかは不明だったけれど。

 演劇部に専用の部室はなくて、したがって専用の倉庫もない。とはいえ、大道具やら小道具やら、いろいろなガラクタが舞台ごとに出るのが、この部活の宿命である。大部分は廃棄するにしても、再利用できそうなものは取っておきたくなるのが人情というものだった。
 そこで余分なスペースのない学校側と、公演ごとの労力を可能なかぎり減らしたい演劇部とで、甲論乙駁の議論があった(……とかなかったとか)。
 それで、どうなったかというと――
 結論はわたしの目の前にあった。四階から続く階段には、右側半分に大小のダンボールや衣装の入ったケース、正体不明の器具や木材の破片が置かれている。何に使ったのかよくわからない書き割りや、一見して不要そうな小物類なんかも。
 話しあいの結果、普段使われるのことのない屋上に続く階段を、当面の仮置き場として利用することになったのだ。仮置き場といいつつ、もう何年もそのままなのだから、実質的には物理的な占有権が発生してしまっている。
 ガラクタ――失敬――荷物は、踊り場まで続いていて、そこからさらに先へと進もうとしていた。まるで、草木が自然とはびこるみたいに。誰も手を加えないかぎり、エントロピーは増大する、という熱力学の第二法則は、こんなところでもきちんと証明されていた。
 わたしは演劇部の輝ける蓄積を尻目にしながら、階段を屋上へと向かった。この辺は蛍光灯さえつけられていなくて、網目のゆるい暗闇がたゆたっている。
 蹴飛ばせば壊れてしまいそうなアルミの引き戸を開けると、小さな青空が出現した。光の中に落っこちるみたいに、わたしはその向こう側に足を踏みいれる。
 平坦なコンクリートだけの無愛想な屋上には、夏の光が何に邪魔されることもなくいっぱいにあふれていた。やけに濃くて白い雲が、まるで自慢でもするみたいな大きさで、ずっと遠くに浮かんでいる。サウナっぽい熱波が体の中を通り抜けていった。
 何というか、つまりは夏なのだ。
 わたしは体が溶けてしまわないうちに、久瀬先輩の姿を探した。見渡すかぎりの屋上には誰もいなくて、蝉の声だけが岩にもしみいらずに響いている。まさか、本当に空気の精にでもなってしまったわけではあるまいに。
 ふと思いついて、わたしは入口横のほうにまわってみた。もしかしたら、と思ったのだ。
 そこは日陰になっていて、日光浴をするには殺人的すぎる太陽光を避けられるようになっている。暑さに変わりはないけれど、台風の日に傘を差してるかどうかくらいには違っていた。
 そうして思ったとおり、そこには先輩の姿があった。
「こんなところでさぼりですか、久瀬先輩――?」
 わたしがそう声をかけると、久瀬先輩は特に慌てる様子もなく手元の台本を掲げてみせた。
「立派に練習中のところだよ、俺は」
 建物の段差に腰かけたまま、久瀬先輩はそう答える。
 久瀬丞一郎(くぜじょういちろう)、三年生。見ためはかなりいいかげんで、言動のほうもそれを裏切らない。垂れ目で、口元の動きが少なくて、ちょっと何を考えているのかわからないところがある。ただし根はまじめないい人で、その点では外見で損をしているといってもよかった。
 そして、演劇部で主として脚本を担当している人でもある。
「どうしてみんなといっしょに練習しないんですか?」
 一応、わたしは訊いてみた。答えは大体わかっていたけど。
「そのほうが効率がいいからだよ。何でもかんでも、一塊になってやればいいってもんじゃないしな」
「相変わらずやさぐれてますね、先輩」
 と、わたしは感心してみせた。
「お前の口の悪さには負ける」
 たいしたダメージも感じさせずに、先輩は軽く返事をする。
「――そういうお前こそ、どうなんだ。さぼりじゃないのか?」
「照明器具のチェックをしとこうと思ったんですけど、何か体育館が使用中みたいで」
「それが手の込んだ言い訳じゃないことを祈るよ」
 先輩は投げやりな調子で笑った。
 夏の暑さに違いはなかったけれど、その場所は意外と風通しが良かった。効果絶大とはいえないにしろ、それなりに役立ちそうな風が吹いていく。先輩には猫みたいに、涼しい場所を見つける才能があるのかもしれなかった。少なくとも、視聴覚室とは違って埃っぽくないのは事実だ。
「実は、先輩にちょっと聞いておきたいことがあったんですけど」
 無駄話もなんなので、わたしは用件を切りだすことにした。
「何だ? 今の俺につきあってる彼女はいないぞ。愛の告白ならいつでも歓迎だ。もちろん、誰かほかの女子からの伝言でもOKだけどな」
「いたことあるんですか、彼女?」
「そういうリアルな返答はするな」
 あまり、聞きたくないことを聞いてしまった気がする。
「先輩の恋愛事情なんかは置いとくとして」
「――なんか、ね」
「今回の劇の脚本、書いたのは先輩じゃないですよね?」
 訊くと、先輩はちょっと正体不明の視線でわたしのことを見た。表情が読めないと、こういう時に困ってしまう。
「……いや、俺じゃないな」
 ややあってから、先輩は言った。何だか不自然な間を残して。
 もっとも、その答えは(舞台についての発表があった)最初の時の様子から予想はできていたことだった。もしも自分で書いた脚本だったら、内容について質問したりはしないだろう――それが手の込んだ言い訳でないかぎり。
「先輩は、今度の脚本について何か聞かされてないんですか?」
 わたしは予定通りに次の質問へと移った。
「いや――」
 と言ってから、先輩はしばらく口の中で言葉をためていた。
「ただ、鹿賀のやつが準備室でコピーをとってるのを見たから、何か特別なんだろうとは思ったよ。普通、台本はデータから印刷するのに、今回は原本からコピーするって言ってたからな」
「その時、部長から何か聞きました?」
「特にはないな。元台本をちょっと見せてもらったけど、題名を確認したくらいだ。誰が書いたのかも聞かなかった」
「気にならなかったんですか?」
 久瀬先輩は肩をすくめてみせた。わかりやすいジェスチャーのわりに、表情のほうはあまり変わっていない。
「わざわざ聞くほどのことだとも思わなかったんでな。別に俺だけが脚本を書く約束があるわけでもあるまいし、怪しむようなことじゃない」
「まあ、そうですけど……」
 わたしは腕を組んで難しい顔をした。新しい情報は入手できなかったわけだ。
 そんなわたしを見て疑問に思ったのか、久瀬先輩が訊いてくる。
「一体何を調べてるんだ、お前は?」
「実は、部長が言うには、今回の舞台を提案したのは部員の誰かなんだそうです。けど、それが誰なのかは事情があって教えられないって」
 わたしがそう言うと、先輩は何かを考えるような顔つきをした。した、と思う。その表情は魚類と同じくらいわかりにくかったけれど。
「……先輩、何か知ってるんですか?」
 訊くと、久瀬先輩は神妙な面持ちで、
「もしかしたら――」
 と、つぶやいている。けれど、その先を続けようとはしない。
「一体、何なんですか?」
 中途半端な返事をされて、わたしは不機嫌な顔をしてみせた。
「いや、たいしたことじゃないし、言うほどのことでもないんだ」
 先輩はあくまで言葉をにごす。それから、こんなことを付言した。
「……ただし劇とは違って、この世界には本人の自由意志ってものがあるからな。たんなる興味本位で首をつっこんでいいことかどうか、よく考えたほうがいいのかもしれん」

 夏休みも日数が下るにつれ、舞台の準備は本格化していった。全員での読みあわせを行い、細部のイメージを詰めていく。舞台上の動き、音響、それにもちろん照明についても。
 どこで明かりをつけるのか、どんな光線にするのか、ライトの位置、細かなタイミング、舞台の意味にあわせた照明効果、役者との息のあわせかた――
 当然だけど、これはなかなかきりがないし、完全な正解を見つけるのも難しい。明かりを一瞬でぱっと消したほうがいいのか、徐々にフェードアウトしたほうがいいのか。光量の多少、強弱。照明に音響をあわせるのか、音響を照明にあわせるのか。考えようと思えばいくらでも考えることができる。
 でも人間の能力は有限だし、時間だって同じく有限なのだ。いま少し時間と予算をいただければなんて、言ってられない。弁解は罪悪なのだ。どこかで目処をつけなければならないし、いつまでも不可能なことに挑戦し続けるわけにもいかない。妥協や諦めやごまかしだって、必要なのだ。
 もちろん、それにも増して努力と工夫が――
 何度も試行錯誤や話しあいを重ねるうち、舞台の完成図についての青写真が出来上がりつつあった。骨組みは一応の形になったから、あとは外観や内装を仕上げていかくちゃならない。わたしはキューシートを作ったり、照明の具体的な操作、進行を計画するのに忙しかった。
 その一方で、わたしは謎の脚本家のことも忘れてなかった。久瀬先輩には釘をさされてしまったけど、それでもこのことを放ってはおけなかったのだ。その正体を、わたしはどうしても突きとめておきたかった。
 そのためには――
 部員、一人一人に訊いていくのが確実、かつ一番手っとり早かった。最善な方法というのは、いつだって地味で面倒なものなのだ。

 というわけで、わたしはまず一年の教室に向かってみた。四階にある、1―Cの教室。
 夏休み中だけあって、普通教室の周辺は時間ごと削りとられたみたいな静かさだった。中には文化祭に向けて何か作業をしているクラスもあるけど、みんながみんなやる気と熱意を持っているわけじゃない。まだ休業期間の半分も過ぎていないのだから、こんなものだろう。
 それで、1―C。
 わたしが訪ねてみると、そこには窓際の机にぽつんと一人だけ、女子生徒が座っていた。まるでみんなに忘れられて、遊園地に置き去りにでもされたような格好だったけど、当人がそれを気にしている様子はない。
 彼女の名前は、榛(はしばみ)つくし。演劇部の一年生で、主に小道具を担当している。見かけによらず、手先が器用なのだ。
 問題のその見かけは、ぬいぐるみ系女子といったところ。尖ったところがどこにもなくて、温和で、小動物みたいに大人しい。というより、つくしちゃんの場合は小動物みたいに臆病なところがある。ケーキのスポンジを連想させる、もこっとした短めの髪。タンスや柱時計に隠れるのには便利そうな、小柄な体型。身長は、わたしよりも少しだけ低い程度。
 つくしちゃんは――たぶん自分の――席に座って、机の上で作業をしていた。劇に使う小道具を作っているのだ。何かの塊の上に、刷毛で糊を塗っては紙を貼りつける、という工程を延々と繰り返していた。
「つくしちゃん、何作ってるの?」
 と声をかけながら、わたしは近づいてみる。
 つくしちゃんは気づいて、顔を上げた。狼がいたらすぐさま襲われてしまいそうな、弱々しくて無防備な表情をしている。この子は、どこかの王子様が守ってやらなくちゃいけないんじゃなかろうか?
「――ああ、咲槻先輩」
 つくしちゃんはほっとしたような笑顔を浮かべる。何に怯えていたのかは、不明だけど。
「私、仮面を作ってたところなんです。劇でみんながかぶる」
 机の上をのぞきこむと、そこには紙粘土で作ったらしい人面を模した像が置かれ、習字の半紙と新聞紙が何層にも貼りつけられていた。
 いわゆる、張り子面というやつだ。
 基本形になる土台に糊を使って何枚も紙を重ね、それが乾いて固まると、土台から取りはずしても元の形がそのまま残っている。出来上がったものは外皮だけの宙空で、重量はほとんどない。
 ――と、言葉にするとえらく簡単そうなのだけど、実際にはそううまくはいかない。まず土台をきちんと成型しなくちゃいけないし、紙も何十層だかを塗っては乾かし、というのを繰り返さなくちゃいけない。とても根気のいる作業なのだ、これは。
 舞台で必要な仮面の数は、全部で十個。つくしちゃんは文句も言わず、一人でそれを作り続けていた。仮面同士の出来ばえを統一しておくために、そうする必要があったのだ。
 そして古代ギリシア劇をやるからには、仮面は必需品である。
「…………」
 わたしは、そばの机に置いてあった仮面の一つを手に取ってみた。
 つくしちゃんが丁寧に作っているのか、紙製にしてはずいぶん頑丈な気がする。アルカイックというか、プリミティブというか、ちょっと表現しにくい造型の仮面だった。比較的のっぺりした顔で、目と口の部分に丸々とした穴が大きく開けられている。あえてよく言うならば、埴輪に似ている。
 当然だけど、仮面のデザインは役柄によって一つ一つ違っていた。もともと、観客に登場人物をわかりやすく示すためのものなのだ。そのぶん、つくしちゃんの苦労は増えることになるのだけど。
「先輩、ちょうどよかったので手伝ってもらえますか?」
 作業が一段落したらしく、つくしちゃんがそう頼んできた。もちろん、わたしに否やはない。
「いいよ、何をするの?」
「黒板が汚れないよう、新聞紙で覆って欲しいんです」
 変てこな要求ではあったけど、わたしはその通りにした。セロテープを使って新聞紙を吊りさげるようにして、それで板面全体を覆ってしまう。
 そのあいだに、つくしちゃんは何やらごそごそと準備をしていた。机の中から、ペンキの入っているらしい缶と刷毛を取りだす。この子は学校の机に、一体何をしまっているんだろう?
「できたよ、つくしちゃん」
 わたしが声をかけると、つくしちゃんはペンキと刷毛、それから仮面の一つを近くまで持ってきた。
「何するつもりなわけ、一体?」
「クリュメ、クリュタメ、クリュタメスタ――」
「……クリュタイメストラ?」
 わたしが助け舟を出すと、つくしちゃんは恥ずかしそうにうつむいてしまった。気持ちとしては、よくわかる。
 けどすぐに気をとりなおして、つくしちゃんは説明した。
「そのクリュタ……の仮面を作るんです。王様殺害後の」
 それで、わたしにもわかった。仮面に血飛沫をつけようというのだ。ということは、王妃の仮面が二種類に増えることになる。
 つくしちゃんはペンキの蓋を開けて、刷毛を用意する。それから、新聞紙に向かって何度かペンキを飛ばした。どんな風になるか確かめているのだろう。わざわざ垂直状態にしたのは、自然な血の滴り具合を再現するためみたいだった。
「凝ってるなぁ」
 と、わたしは感心してしまう。
 ある程度納得したところで、つくしちゃんは黒板の真ん中あたりに糸を使って仮面を吊るした。そうして、あらためて仮面に向きなおる。
 ――緊張の一瞬。
 というほどもなく、つくしちゃんは「ぱっ」「ぱっ」と刷毛を二振りした。仮面の右上あたりに、二筋の返り血が刻まれる。それから今度は、左下辺に丸い点になるようペンキが飛ばされる。とろんと色が垂れて、何だか十三日の金曜日風になる。都合三度、血の跡をつけたのは、劇中でアガメムノンは三回斬りつけられるからだ。なかなかに血なまぐさいお芝居なのだ、これは。
「――うん、こりゃ相当の出来だね」
 とわたしは正直な感想を口にした。
 すると、つくしちゃんは恥ずかしそうに顔を真っ赤にする。実にわかりやすい女の子なのだ。わたしも、彼女の爪の垢を煎じて飲むべきだろうか?
 何にせよ、つくしちゃんが今回の脚本を用意したとは思えなかった。そんな器用なことのできる子じゃないし、あの名前の間違えかたがわざとだとは考えにくい。

 それから何日かして、わたしが次に向かったのは放送室だった。
 音響担当の乙島祈子(いつしまきこ)さんに会うためだ。彼女はつくしちゃんと同じ一年生だけど、祈子ちゃんとは呼ばない。本人の要望があったからだ。「私のことは乙島と、名字で呼んでください」――と。
 それでもわかるとおり、かなりきつめの性格で、辛口のコメントでもためらうことなく発言する。ぽっちゃりめの体型に、ちょっとトイプードルに似た形の髪。座りのよい目つきをしていて、彼女が何か口にすると、なかなかの辛辣さと迫力があった。
 目的の放送室があるのは職員棟のほうで、普段はあまりよりつかない場所に位置している。こっちのほうは夏休みになってもあまり様子は変わらず、先生たちは仕事に追われていた。
 防音用の特徴的な扉と「放送中」の表示ランプがつけられた部屋の前までやって来る。ドア窓からのぞきこむと、乙島さんが中で作業をしていた。
 放送室には各種CDがあって、彼女はその中から使えそうな音源をサンプリングしているのだ。舞台の雰囲気にあった効果音やBGM、それを場面ごとに選びださなくてはならない。
 軽くノックをしてから、わたしはドアを開けた。乙島さんはすぐに気づいて、こっちのほうを見る。が、画像解析プログラムなみの愛想のなさを示しただけで、特に挨拶したりもしない。何というか、ふてぶてしいというか、実に威風堂々としていた。
「今、ちょっといいかな?」
 と、わたしは訊ねてみる。
 乙島さんは、「別にいいですよ」とも「やっぴー、うれぴー、私、感激」とも言わなかった。ただ、路傍の石でも見るような温度のない目つきをしただけだ。その代わりに、
「何の用ですか?」
 という、心温まるセリフを口にしてくれる。わたしはあまり気にせず、笑顔を浮かべて言った。
「ううん、別に。ただ、何か手伝えることでもないかなぁと思って」
「先輩のほうは、仕事終わったんですか?」
 わたしのとっておきの笑顔にあまり魅力はなかったらしく、乙島さんの口調は特に変わらなかった。
「いや、まだだけど」
「なら自分の仕事をしたほうがいいですよ」
 うん、実に正論だった。
 乙島さんはそのあいだも、ノートパソコンをにらみながら何やら操作していた。慣れた手つきでマウスを動かし、時々苛立たしげにキーボードを叩いたりする。
 どうやらそれは、最初に長老たちが登場する場面の効果音らしかった。彼らは、ギリシア演劇では「コロス」と呼ばれる、なかなか特殊な役柄だ。コロスは登場人物であると同時に、傍観者でもある。ストーリーやキャラクター、状況について適当な解説を行うとともに、観客の代弁者になって劇中人物の運命や心情を嘆いたり憐れんだりもする。ついでに言うとオーケストラ的な装置も受けもっていて、場面転換時には歌をうたったりもする――けど、今回の舞台ではそこまではしない。ほかの登場人物による歌唱も省略する。
 ともかく、演劇というのはそもそもコロスだけから編成された朗読劇に近いものだったらしく、舞台役者が登場するまでには、それなりの歴史と変革が必要だったのである。だからコロスである長老たちの登場シーンとういうのは、けっこう重要なのだ。
 ――以上は、大体が部長からの受け売りである。
 乙島さんもその辺のことは理解しているらしく、冒頭のその部分について苦労しているみたいだった。笛やら太鼓やら、奇妙な音を組みあわせて何とかそれらしい雰囲気を作りだそうとしている。
「先輩は、こっちとこっちのどちらがいいと思いますか?」
 乙島さんは言って、二種類の効果音をそれぞれ再生させた。どうやら、アドバイスを求められているらしい。
「最初のほうがいいかな」
 と、わたしは答える。
「じゃあ、それにこれを加えたら?」
 カチカチとマウスを操作して、三種類目の効果音を再生する。笛、太鼓、管楽器的な何か――
「そこは、鈴みたいな音でいいんじゃないかな? しゃらん、しゃらん、て錫杖っぽく」
「……確かに、そうかもしれませんね」
 再び、マウスをカチカチさせる乙島さん。
 雰囲気が南極から北極くらいに軟化した気がしたので、わたしはこの機を逃さず訊ねてみることにした。
「乙島さんは、今度の舞台についてどう思ってるの?」
 八割くらいの意識をノートパソコンに集中したまま、乙島さんは答える。
「何かのテストですか?」
「まさか――」
 わたしは肩をすくめてみせる、というわかりやすいジェスチャーをしてみた。
「ただの興味だよ。何しろ演劇の結晶核みたいなものだからさ、感想を聞いてみたくて」
「……話としては少しずれるんですが、この劇って地区大会でやるつもりはないそうですね」
 乙島さんの言う地区大会というのは、全国高等演劇大会の、予選のことだ。地区大会、県大会、ブロック大会とあって、最後に全国大会がある。
 最初のほうの段階で、この舞台は文化祭でしかやらない、ということが明示されていた。文化祭が夏休み明けの九月で、地区大会は十月だから、大会用に別の劇を仕上げるのはかなり忙しくなってしまう。
 その辺のことも、どうやらよっぽどの事情≠ノからんでいるみたいだった。
「確かに、このまま大会に向けて練度を上げていくほうが、理にはかなってると思うけど……」
 と、わたしは同意した。すると乙島さんは、環境破壊に眉をひそめる良心的な科学者みたいな顔をして言う。
「その点に、私は少し疑問があるんです。だからといって、別に手を抜いたりするわけじゃないんですが……」
 ふむ、とうなずいてから、わたしは海の底にすむ魔女みたいに、悩める人魚姫にアドバイスしてみた。
「理由のほうはともかく、この劇は大会向きじゃない、と部長は考えてるのかもね。それか、わたしたちじゃ力不足だと判断したのかも。でももしかしたら、文化祭での出来がよければそのままやってみようと思ってるのかもしれない。そうじゃなかったとしても、たぶん部長なりの予定なりスケジュールはあるんだと思う。つきあいは乙島さんより一年長いだけだけど、鹿賀部長はちゃんと信頼できる人だから」
 わたしがそう言うと、乙島さんはまたノートパソコンの画面に視線を戻して、ポチポチとマウスのボタンを押した。わたしの言葉が彼女のどの辺に収まったのかは、見当もつかない。
 ややあってから、乙島さんは口を開いた。
「――私としても、劇そのものは面白そうだなって思ってるんです」
 それが、わたしの最初の質問に対する乙島さんの答えだった。ピタゴラスイッチなみに素直じゃない女の子なのだ、彼女は。
「うん、わたしもそう思うよ」
 と、わたしは至極単純に答えた。
「セリフがいかにもごちゃごちゃしてるのがいいよね。見張りももう一年、眠ったり起きたり。御殿の屋根を抱いて――まるで犬だ。=v
 乙島さんは特に何も言わなかった。もちろん、「やっぴー、うれぴー、私、感激」なんてことは。それでも、横顔にはほんの少しの変化があった。それは月が一日分に見せる程度の違いでしかなかったけれど。
 やがて、乙島さんはそよ風に風鈴が鳴るみたいにして言った。
「――すみません、こんな生意気なしゃべりかたしかできなくて」
 それを聞いて、わたしは笑って答える。
「大丈夫、椛ちゃんはもっとひどいから。喜望峰の暴風雨なみに」
 その言葉に、乙島さんも笑った。困ったような、こそばゆいような、とても小さな笑顔ではあったけど。
 わたしは椛ちゃんに向かって、心の中でそっと感謝した。粗暴な友人もたまには役に立つのだ。たぶん今頃、本人はくしゃみでもしていると思うけど。

10

 最後にわたしが向かったのは、学校の体育館裏だった。
 そこは運動場のすみっこにもあたる何もない空き地で、剥きだしの土に雑草が生えているだけの空間だった。要するに、ちょっとした大工作業をするのにはもってこいの場所なのだ。
 とはいえ、この炎天下で、青空だけが雲ひとつなく涼しい顔をしているとなると、そうも言ってられない。じっとしているだけで汗が出るし、太陽光が肌に浸透する、あまりありがたくない感覚を体験することだってできる。
 そんな体育館裏に、両手に軍手をして首にタオルを巻いた、あまりおしゃれとはいえない格好の男子生徒がいた。
 ――清橋誠司(きよはしせいじ)と宮坂孝太の二人だ。
 二人がこんな世界の果てみたいにうらぶれた空き地で何をしているかというと、大道具を制作しているのだった。
「それ以上は、わたしに近づかないでね」
 と、わたしは一定の距離をたもちつつ、にこりとして言った。
 清橋のほうは「――ふん」と一笑に付す感じで、宮坂くんのほうは何故か恐縮している。これはこれで、対照的な二人だった。
 二人ともわたしと同じ二年生で、宮坂くんは前に説明したとおりの薄幸の美少年。元々は道具係をやることが多かったけど、今回は役をもらっている。ここにいるのは大道具のための手伝いに回されたからだろう。どこに隠しているのかはわからないけれど、意外な度胸があって、舞台では普段よりもよっぽど立派に演技をこなす。
 もう一人の清橋は、無口で冷笑的で、もっと簡単に表現すると嫌味なやつだった。長めでおしゃれな七三分けで、動きのいちいちにきざなところがある。指がやけにきれいで、ファッションデザイナー志望だと本人は語っていた。
 当然、演劇部では衣装担当なのだけど、今回の舞台では出番がない。劇中では、仮面に学校の制服という格好に決まったからだ。残念ながら、自慢の腕を振るう機会はない。その代わりではないけれど、役を与えられている。
 ちなみに、うちの高校の制服はけっこうクラシックなデザインのセーラー服と詰め襟になっている。あまりにクラシックなので、脳天気系女子ともいうべきわたしなんかには、全然似あわない仕様になっているほどだ。
 ――これは、余談。
 ノコギリやら釘やらトンカチを使って作業する二人を見ながら、わたしは指示を出してやった。
「そこ、ちょっと傾いてるよ。ノコギリで切るのはまっすぐにね。あー、だめだめ、それじゃバランスが崩れちゃう。最初からやり直して」
「貴様はどこぞの小姑か」
 寸鉄人を刺す清橋だった。
 二人が今作っているのは、舞台の中央にすえられるお屋敷の門だった。基本的にはここを通って人が出入りするので、かなり重要な装置である。デザイン案では有名なミケーネの獅子門をモチーフにして、ほかにははるばる法隆寺までやって来た、教科書でも有名なエンタシスの柱を四本立てることになっていた。
 二人のそばには、設計図とは別に、完成時のイメージとしてその獅子門の写真が印刷されている。画像自体はネットで簡単に見つけたものだ。ずいぶん便利な世の中になったものである。
 わたしは二人の働きぶりを監督しながら、単刀直入に訊いてみた。
「つかぬことを訊くけど、今回の舞台の脚本を書いたのって二人のうちのどっちか?」
 わたしの独創的かつ鋭利な質問に対して、清橋は「答えるのもバカバカしい」という感じに鼻で笑い、宮坂くんのほうは質問の意図が理解できないとでもいうふうに、戸惑った表情を浮かべた。
 ここまでは、まあ予想通りだ。けどわたしには、とっておきの秘策があった。
「……あの脚本、すっごくよく出来てると思うんだよねー」
 と、わたしはさりげなさを装いながら言った。
「きっと書いたのは、天才だよ、天才。一体どんな人なんだろうね。一度でいいから会ってみたいと思わない?」
 わたしの迫真の演技に対する二人の批評は、
「変なものでも食ったのか?」
「どうかしたの、小森さん」
 だった。見事にステレオで否定されてしまっている。
 ――まあ、トンチなんて所詮はこんなものだ。
 二人はこんなやつ相手にしても無駄だと判断したらしく、門の制作に戻った。どこかからもらったか、拾ってきたらしいベニヤ板を加工して、それらしい形を作っていく。低予算の宿命というものだった。
 かよわい女子であるわたしに危険な大工仕事なんて無理だったし、何よりここは熱すぎるし、うるさすぎる。トンカチやノコギリが軽度の拷問なみの音量で響き、太陽は新しい思いつきでも試すみたいにじりじりと地上を灼きつけていた。まさか、太陽神の息子のほうが馬車に乗っているわけでもあるまいに。
 とりあえず、わたしは諦めてその場を立ち去ることにした。消去法でいくと、脚本を書いたのは二人のうちのどちらかである可能性が高かったのだけど――
「じゃあ、またあとでね」
 と、わたしが行こうとすると、何故か後ろから呼びとめられている。
 見ると、宮坂くんだった。
 いつものごく煮えきらない態度で、自分から声をかけたわりにはどうすべきか迷っているみたいだった。温泉卵にも等しい少年なのである。
「どうかした?」
 わたしは助け舟を出して、先をうながしてみた。
 すると宮坂くんは、蝋で固めた翼で飛び立つ決意でもしたみたいに言った。
「――それ、書いたのが誰かわかったらどうするつもりなの?」

11

 演劇部の人間であと話を聞いてないのは、一年の沢樹くんがいるだけだった。けど、この子のことは最初から除外しているので、特に質問はしていない。
 何しろ、野球でもやっていたほうが似あいそうな健康優良児なのだ、彼は。ギリシア悲劇と化合物の違いもわからないほどの。脚本を書くなんて感性は持ちあわせていないし、企画発表の時にまっさきに疑問を口にしたのもこの子だった。
 というわけで、わたしはいまだに犯人(?)の発見にはいたっていなかった。そのあいだも舞台準備は着々と進んでいて、それから夏休みの終わりも着々と迫りつつある。
 ちなみに、発表当日のキャスト・スタッフをあらためて示すとこんな感じ。

・クリュタイメストラ(阿久津椛)
・アガメムノン・見張り番・布告使・アイギストス(久瀬丞一郎)
・カッサンドラ(鹿賀真穂)
・コロス長(宮坂孝太)
・コロス(清橋誠司、沢樹靖(さわきやすし))
・侍女(榛つくし)
※音響(乙島祈子)
※照明(小森咲槻)

 久瀬先輩が四役なのは、人数の関係もあるにしろ、一つの舞台には三人の役者という当時の形式を踏襲したものでもある。同じ場面で登場することはないので、仮面をつけかえれば簡単に別人ということになるのだ。
 コロスの人数は本来、合計で十二人なのだけど、そんな人数をうちで用意できるはずもなく、白菜みたいに四分の一にカットされてしまった。ちなみに、つくしちゃんの侍女にセリフはついていない。
 舞台が完成と発表に近づく一方、わたしの捜査は停滞と迷妄に沈んでいた。
 この『アガメムノン』を望んだのは、一体誰なんだろう――?

 前にも言ったとおり、演劇部に専用の部室はなくて、活動には視聴覚室を使わせてもらっている。さらにその準備室の一部を間借りして、一種の事務室として利用していた。
 ――わたしは今、その準備室に一人で立っている。
 部屋のすみっこに古いキャビネットが置かれていて、そこに演劇部の活動記録だとか、昔の台本だとかいった資料が収められていた。死んで皮だけ残していった虎みたいなものかもしれない。ほかには共用で使っているパソコンや、複合プリンターといったものが置かれている。
 わたしはそこに収められた台本のいくつかを、手にとってみた。大体のものはパソコンにも保存されているのだけど、古いものは紙媒体でしか存在しない。それに、今回の『アガメムノン』も。
 原本には当然、書き込みはなくて、白紙のままの舞台がそこにあるみたいだった。ここから、すべての劇はできあがっていったのだ。そう考えると、音のない不思議なざわめきが聞こえたり、関わった人たちの形にならない想いが両手に伝わってくるような気もした。
 最近の台本を見ると、久瀬先輩のものが多い。あの人の趣味なのだそうだ。中には上演されることもなく、そのままお蔵入りしたものもある。大体、『走れメロン』なんて題名の劇、誰が見たいと思うのだろう――いや、そうでもないかな?
 まあともかく、ここには演劇部の魂みたいなものが安置されているのだった。そのうちの一番新しいものが、『アガメムノン』である。
 原作者であるアイスキュロス以外に、作者名はない。
「…………」
 わたしはぱらぱらと、そのページをめくってみた。
 当然だけど、それは部員みんなに配られたのと同じものだった。ただ何の書き込みもないだけで、作者を示すヒントになりそうなものもない。わたしが何度も繰り返し読んだのと、まったく同じものだ。
 けれど――
 不意に、わたしは違和感を覚えた。それはほんのかすかな、知らないうちに隕石が地球をかすめていった程度のものでしかなかったけれど、それでも違和感には違いない。
 はて、と思いながら、わたしはその違和感について考えてみた。どこからか空中を飛んできた、風船の紐をつかもうするみたいに。
「――!」
 そうして突然、あることに気づく。
 わたしは慌てて、ほかの台本を選んで確認してみた。そしてそこには、思ったとおりの結果が現れている。
「……でも、じゃあ?」
 その事実を、けどわたしはどう考えていいのかわからなかった。もし、あの人が事の首謀者だとすれば、一体何故、何のためにこんなことをしたんだろう――
 それに第一、こんなのはせいぜい証拠にもならない言いがかりにすぎなかった。ただの偶然で片づけてしまうことだって、十分に可能なのだ。
 わたしはまとまらない考えを抱いたまま、長いことそのままでいた。
 ――窓の外では蝉の声と夏の陽ざしだけが、変わることなく世界を満たしていた。

12

 夏期休業中も、図書室の開いている日が何日かある。
 その日、わたしはちょっとした気分転換にその場所を訪れていた。調べものがあったのだ。決してさぼりとか、暑すぎるからとかいう理由じゃない。よろずの神様のうちの、どれかに誓って。
 図書室にはもちろん冷房が効いていて、いささか飽きあきしてきた夏の季節が一時棚上げ状態になった。室内にあまり人はいなくて、数えるのに片手で十分間にあいそうなその人たちは、机に向かって静かに勉強をしている。
 わたしは静けさにいったん体を馴らしてから、本棚のほうに向かった。壁には注意書きや、おすすめの本、新着図書の案内なんかが貼られている。
 いくつかある棚のうち、奥のほう、埃みたいに秘密のたまっていそうな場所に、その本はあった。古典コーナーのギリシア悲劇――『アガメムノン』。
 わたしはその場で、ぱらぱらとページをめくってみた。
 当然だけど、これが原作なのだ。アイスキュロスが二千五百年以上も前に書いて、当時実際に上演もされた戯曲。もちろん、誤伝や遺失、翻訳の問題なんかもあるけど、これが「そのもの」であることに変わりはない。
 アイスキュロスは紀元前五二四年、ギリシアのエレウシスで誕生した、とされている。没年は紀元前四五六年。伝説では、「人でないものに殺される」と予言されていて、実際にそうなった。何故なら、その禿頭(はげあたま)を岩と勘違いした鷲に、亀を落っことされて亡くなった、と言われているからだ。自分のことでなければ、なかなか愉快な死にかただ。
 二十代から作家として活動しはじめ、コンクール(ディオニュソス祭)に初優勝したのは四十代の頃。当時としてもまあまあ遅咲きの人だったのだろう。以後の優勝は、十二回を数える。生涯に書いた作品は九十篇以上だけど、伝存しているのは七編のみ。ちなみに、三大詩人のもの全部をあわせても三十三篇でしかない。これが、ギリシア悲劇と呼ばれるもののすべてだった。小さめの本棚にみんな収まってしまうサイズだ。
 悲劇『アガメムノン』は紀元前四五八年に、優勝作品として上演されたことがわかっている。アイスキュロスの死ぬ二年前のことだ。で、この劇は三部作の第一作にあたっていて、続編は『コエーポロイ』と『エウメニデス』。三つをあわせて「オレステイア三部作」と呼ばれている。全体がオレステス(アガメムノンとクリュタイメストラの息子)の復讐劇として描かれているからだ。
 アイスキュロスの墓碑には、悲劇作家であったことについては何も書かれていなくて、ペルシア戦争に参加したことだけが誇らしげに言及されている。そのペルシア戦争の時、ほかの三大詩人であるソポクレスはまだ子供で、エウリピデスは生まれたばかりだったそうだ。
 ――以上が、アイスキュロスと『アガメムノン』についての豆知識である。
 わたしは本を閉じて、それを持ってカウンターに向かった。もちろん、夏休み中でも本の貸し出しは行っている。
 図書室のカウンターには、見覚えのある先生の姿があった。
「あらぁ、小森さんじゃない」
 と、その先生は声をかけてきた。一応は、小声で。
 静谷美樹子(しずたにみきこ)先生。国語教師で、演劇部顧問、それから見てのとおりの司書教諭でもある。ただし演劇部顧問というのは名ばかりで、実際は完全放任主義をとっていた。
 ウェーブのかかったふわっとしたロングヘアで、いつも気だるげで眠たそうな様子をしている。猫の尻尾みたいに語尾をのばす、特徴的なしゃべりかたをして、かなりフェミニンでもあった。確か、まだ結婚はしていない。
「静谷先生、おはようございます。お仕事、お疲れさまです」
 と一般的な礼儀にしたがって、わたしは挨拶する。
「そんな堅苦しく、かしこまらなくたっていいのよ」
 静谷先生はふわふわした笑顔を浮かべて、あっさりと言った。
「部活のほうはどうかしら? みんな、がんばってる?」
「そりゃもう、ハンプティ・ダンプティみたいに」
「お馬や兵隊を集めてがんばったのは、王様のほうじゃなかったかしら?」
 小首を傾げて、先生は言う。もちろん、そんなのはどっちだっていい話だった。それから、
「もしかして、本を借りたいの?」
 と、先生はようやくそのことに気づく。
「はい、お願いします」
 わたしは持ってきた本を先生に手渡した。放っておくと、この先生との会話はどんどん脱線していってしまうのだ。風の吹かない台風にでも巻き込まれたみたいに。
「『アガメムノン』ねぇ、ずいぶんクラシックな本を借りるのね」
 それが今度の演劇部の舞台だと覚えているのかどうかは、怖くて訊けなかった。
 ところが、ここで静谷先生はちょっと意外なことを言った。
「そういえば、演劇部の生徒で同じ本を借りていった子がいたわね」
 わたしは一瞬、きょとんとしてしまった。瓢箪から将棋の道具が一式出てきたみたいに。……本当は馬の駒なのだけど。
「――誰ですか?」
「ほら、あの子、何ていったかしら?」
「部員の名前くらい覚えておいてください」
 わたしは口頭で注意した。
「そうねぇ、ちょっと可愛い顔をしてて、ペットにしちゃうのにちょうどよさそうな――」
 教師にあるまじき発言ではある。
「二年の男子で、いつもちんまりしてて、僕は消極的ですって顔に書いてあって」
「――もしかして、宮坂くんですか?」
 わたしが訊くと、先生は湿気った花火みたいな、ひどく景気の悪い音で手を叩いた。
「そうそう、宮坂くん。宮坂孝太くんね。本を借りていったのは確かにその子だったわよ。どう、ちゃんと覚えてたでしょ?」
 どう、と言われても困ってしまう。
 けれど、そうか。宮坂くんが『アガメムノン』を借りていったことがあるのか。
「――ふむ」
 とうなずいて、でもわたしは自分でも何にうなずいたのかわからなかった。この事実を、どう考えればいいのだろう。宮坂くんはたんなる興味でそれを借りていったんだろうか。ただ、舞台についてもっと詳しく知るために。
 それとも――
 何か重要な関わりでも、あるんだろうか?

 ――それから、わたしはあることを調べるため県立図書館に向かった。さすがにこれは、学校の図書室で間にあう仕事じゃない。
 電車に乗って二十分、バスにかわって十分、そこから徒歩で三分。地中海を旅してまわるほどじゃないにしろ、なかなか骨の折れる道のりだ。
 標識にしたがって歩いていくと、広めの公園に隣接した図書館にたどり着く。平面的で、すっきりしていて、箱的な建物。特にロマンにあふれるわけでも、近未来を演出しているわけでもないけど、文句をつけるような筋合じゃないのは確かだった。
 入口の自動ドアを抜けて、エントランスを横切り、館内に足を入れる。午前中のせいか、まだ人の気配はそれほどでもない。
 建物内部は広々していて、普通の世界とは質量と密度の違う静けさでいっぱいだった。物音はどれも遠慮がちに響いて、照明の光は透明な水底を照らすみたいに控えめだった。たぶん、世界中のどの図書館から抽出しても、その空気の種類は変わらないんだろう。
 わたしは事前に用意しておいたリストを持って、カウンターに向かった。そうして、そこに書かれた本を全部持って来てもらう。書庫にあるものもいくつかあったので、少し時間がかかった。わたしは司書の人にお礼を言って、閲覧席のほうに向かう。
 あまり人のいない、すみっこのほうの席を選んで、机の上に本を置く。何かが壊れてしまわないように、そっと。イスに腰かけて、気持ちのスイッチを切り替えるために一呼吸する。それから、さっそく本を開いてみた。
 わたしが頼んだのは、『アガメムノン』に関するすべての日本語訳だった。二千五百年も歴史があれば、当然だけどいくつもの訳がある。新事実や新解釈が、地層みたいに積み重なってくるからだ。単純なところだと、「ノーン」と長音のものや、そうでないものもある。
 それから、それらの本といっしょに凪城高校演劇部による『アガメムノン』も並べる。作者不明の、謎多き『アガメムノン』を。
 わたしはその二種類の『アガメムノン』を、一つ一つ対照していく。海岸で貝殻を拾い集めては、微妙に異なったその模様を比較していくみたいに。
 ――そうしながら、わたしは自分でも自分のしていることが疑問だった。
 どうしてわたしは、こんなにもこの劇にこだわっているんだろう。どうしてわざわざ、こんなことをしているんだろう。
 確かに、中学時代での多少の経緯はあった。そのせいで、ギリシア神話への関心も。けど何も、こんなにも固執する必要なんてない。文化祭で『アガメムノン』をやる、それだけの話なのだ。それがわたしの運命に大きく関わっているわけでも、わたしの未来を大きく変えてしまうわけでもない。
 それともこれは、わたしの知らない場所で誰かに予言されていたことなんだろうか――?
「…………」
 本に書かれた文字を追いながら、運命というにはあまりに退屈で、凡庸ともいえる作業を、それでもわたしは続けていく。

 夏休みも後半に入ったある日、体育館を使っての通し稽古が行われた。本番と同じ場所で行うことのできる、貴重な練習時間である。
 照明機材のセット、音響装置の接続、舞台上への大道具の設置――そんな雑然とした時間のあと、実際の舞台練習がはじまった。
 わたしは裏方らしく、舞台横にある機械室に引っこんだ。照明の操作は、ここにある調光卓によって行うのである。隣では、同じく裏方である音響担当の乙島さんが、ノートパソコンを立ちあげて準備していた。
 都合よくスケジュールが取れたので、演劇部で体育館全体を使うことができる。せっかくなのでカーテンも全部閉めて、本番さながらの環境を整えた。さすがに観客までは用意できないけれど、今日は静谷先生が一人で客席に座っている。あまりやる気のない顧問でも、それなりに役には立つのだ。
 人工の暗闇の中で、今は舞台上だけが明るく照らしだされていた。役者たちが(つまり、わたしと乙島さんをのぞく七人が)そこで最終確認を行っている。立ち位置とか、舞台の出入りとか、客席からの見えかたとか。
 その中の一人を、わたしはじっと見つめていた。おそらく、今回のことを発案した張本人であろう、その人のことを。
 やがて、本番通りの進行にしたがって劇が開始される。日常とは切り離された、異質な空間。架空の約束事に守られた、別の世界を出現させるための装置。
 ――古代ギリシア悲劇『アガメムノン』。
 もちろんわたしたちの生活は、舞台上のお芝居みたいにドラマチックでもなければ、荘厳でもない。コロスの合唱も、気の利いたセリフも、予言された運命も存在しない。すべての問題への、機械神的解決も。
 わたしたちが生きているのは、あくまで皮相で、形而下的で、混沌とした現実なのだ。そこに劇的な要素はない。家計簿や、草むしりや、電車通勤に、舞台との関わりは存在しない。
 じゃあ、演劇になんて何の意味もないのだろうか?
 ――いや、それでも意味はある。
 意味は、確かにあるのだ。

13

 中学時代。卒業式が間近に迫った、ある冬の日のことだった。
 もう授業も形だけで、登校してもやることは多くなかった。たくさんあった本もすべて読み終わって、みんな本棚に収められてしまったみたいに。太陽の光は、手のひらでその重さを確かめられるくらい徐々に強くなり、季節は新しい時間をきちんと準備しはじめていた。
 誰もが、物語の結末について何かを感じとっていた。ずっと歩いてきた道はもう行き止まりで、どこにも続いてなんていないことを。
 そんなある日、教室の後ろにある黒板に、白いチョークで文字が書かれていた。誰が書いたのか、いつ書いたのかもわからない。それは、こんな文章ではじまる詩だった。
 
イタカに向けて船に乗るなら
 頼め、「旅が長いように」と、
 「冒険がうんとあるように」
 「身になることもうんとあるように」と。

 あとで調べてみると、それは「イタカ」という題名の詩だった。決意と、祝福と、少しの寂しさの混じった詩。書いたのは、コンスタンディノス・カヴァフィス。十九世紀に生まれ、エジプトのアレクサンドリアで下級官吏をしていたギリシアの詩人。
 イタカというのは、オデュッセウスの故郷のことだ。彼はトロイア戦争後、『オデュセイア』に書かれているような長い旅をへて故郷に帰還する。詩はその物語をモチーフにしたものだ。
 その詩は結局、卒業式当日まで残っていた。さすがにその後は消されてしまっただろうけど、わたしは今でも時々、その詩について思い出すことがある。
 ――誰が、何のために書いたのかは、今でもわかっていない。
 たぶん、クラスメートの誰かが書いたのだろうけど、結局誰も名のり出たりはしなかったし、犯人探しも行われなかった。ちょっとしたミステリーではある。
 それでも――
 わたしはとても、知りたかったのだ。
 誰が、これを書いたのか。何のために、書いたのか。その誰かは、どんな気持ちだったのか。
 とても切実に、とても真剣に。
 そこにあった、運命みたいなものの正体を知りたくて。

 夏の夕暮れはまだ遠くて、時間のネジが緩む気配はいっこうになかった。光は大雨が降ったあとみたいにそこら中であふれ、暗闇の訪れを遅くしている。永遠に続きそうな蝉の合唱が、それをあと押ししていた。
 部活が終わってみんなが帰ったあと、わたしは一人で体育館に向かってみた。別に、用事があったわけじゃない。忘れ物をしたわけでも、誰かに恋の告白をしに行くわけでも。
 ただ――
 何となく、予感めいたものはあった。神様のお告げほど確かなものではないにしろ、ちょっとした雰囲気や、仕草を見ることによって。
 体育館の扉を開けてみると、夏の脱け殻でも残されているみたいに、中はがらんとしていた。光と影がくっきりした線になって別れていて、それは何だか世界の一面を象徴しているようにも思える。
 けっこう遠く、バスケットコート二つ分ほど向こうに舞台がある。道具類はすべて撤去され、何もない舞台に、その人は一人で立っていた。何かの点検をしているのかもしれないし、新しく思いついた構想について考えているのかもしれない。
 あるいは――
 その人も、何かを待っていたのかもしれない。大昔の偉い哲学者も言ってるとおり、悲劇にはカタルシスが必要なのだから。
 わたしはゆっくり、急ぎもせずにそちらのほうに歩いていった。人間が運命から逃げだすことはあっても、運命のほうが人間から逃げだすことはない。それに、大事な登場シーンを台なしにはしたくなかった。
 舞台上のその人は、わたしのことに気づいているのか、いないのか、そのままじっとしている。
 やがてわたしは、舞台のすぐ下に立った。ここが観客席なら、かぶりつきというところだ。
「――こんなに遅くまで仕事ですか、鹿賀部長?」
 と、わたしは声をかけた。
 するとその人は、慌てた様子もなくわたしのほうを見た。いつもと同じようにミステリアスで、簡単には思考を読みとることができない顔をしている。きっと、強度の高いパスワードに守られているのだろう。
「ええ、そんなところね。小森さんこそ、どうかしたの。何か用事があったとか?」
「――まあ、わたしもそんなところです」
 とわたしは似たような返事をしておく。そのわりには、優雅さに雲泥の差があったような気もするけど。
 しばらくのあいだ、わたしたちは黙っていた。体育館は静かだった。世界も静かだった。音のないことが耳にうるさかった。
「……部長に一つ、訊いてもいいですか?」
 と、わたしは言った。
「何かしら?」
「今回の脚本を書いたの――正確には編集したのは、先輩なんですよね?」
 わたしの質問に、部長はすぐには答えなかった。ややあってから、こんなふうに口を開く。
「どうして、そう思うのかしら?」
 さすが鹿賀部長だけあって、一筋や二筋縄ではいかないみたいだった。それでこそ、部長らしいとは言えたけれど。
「その前に、わたしも舞台に上がってかまいませんか?」
 すべてのことを説明する前に、わたしは訊いてみた。別に演出を狙ったわけじゃなくて、斜め上を向いたままでいるのが意外なほど疲れることに気づいたからだった。けど、話をするには対等に、同じ地面の高さに立っているほうがいいとも思ったかもしれない。
「もちろん」
 と、部長はいつものような如才のない笑顔を浮かべた。
「この舞台が私のってわけじゃないんだし」
 許可を得たので、わたしは脇の階段から舞台に上がってみた。
 舞台上に立ってみると、海の一段深いところにでも来たみたいに奇妙な感じがした。舞台というのは、誰かに見られる場所なのだ。例えそれが、無人の客席からの、空白の視線だったとしても。
「……ちょっと変な感じですね、ここに立つのは。先輩はこっちのほうがしっくり来ますか?」
 役者としての経験に乏しいわたしとしては、部長にそんなことも訊いてみるのだった。
「舞台に立つのはいつも緊張するものよ。慣れることなんてないわね」
 部長はとても落ち着いた様子で、そんな言葉を口にしている。
 ともかくも、わたしはあらためて部長と向きあった。わたしたちに共通していることといえば、眼鏡をかけているくらいのものだったけれど。
「それで――」
 と、部長はあまり緊張している様子もなく言った。
「一体どうして、私があの台本を書いただなんて思ったのかしら?」
 わたしは事前に考えていたとおり、順を追って話をした。
「最初に部長のことを疑ったのは、準備室にある脚本の原本を見たときのことでした」
「原本? みんなに渡した台本と、何の違いもなかったはずだけど。特別なところはどこにもなかったはずよ」
「そうです、もちろん内容には違いありません。けど、印刷には違いがありました」
「印刷――」
 部長は空中に浮いた風船にでも触れるみたいに言った。
「調べたところ、プリンターには主に染料インクと顔料インクというのがあるそうです」
 と、わたしは学習成果を披露した。
「同じインクでも、その二つには原理的に違いがあります。染料インクは、文字通り紙に染みこんで色をつけます。一方の顔料インクは、浸透はせず紙の表面に塗られる形で色をつけます。両者の特性はいろいろあるんですが、その一つは――線の太さに違いが出ることです」
「太さ?」
「染料インクはその特性上、どうしても滲みが出ます。つまり、線が太くなるんです。並べて比べてみればよくわかるんですが、文字でも図形でも線の太さがそれぞれ違います。染料は太く、顔料は細い」
 今度は、部長は何も言わなかった。もしかしたら、気づいたのかもしれない。だとしても、打ち上げ花火みたいにそれを示す部長ではなかったけれど。
「さて、ここで台本のことに戻ります。わたしたちの台本と違って、原本のほうは線が細かった――つまり、顔料インクで印刷されたということです。準備室にある複合プリンターは染料インクのほうだったので、コピーされた台本は線が太くなりました」
「…………」
「もちろん、すべてを秘密にしておくためには、疑われるようなことは避けなければなりません。日時の残る元データをパソコンに残したり、学校のプリンターを使って印刷したり――誰に見られるかわかりませんからね」
 現に、コピーしているところは久瀬先輩に目撃されてしまったわけである。
「つまるところ、あの原本は学校以外の場所で、例えば自宅なんかで印刷されたと考えるのが自然です。それでわたしは、昔の脚本を調べてみました。同じような種類のものがないか、確認してみたんです」
「それが、私の書いたものだった?」
 訊かれて、わたしはうなずく。たぶんそれは、あの時久瀬先輩が口にしかけたことでもあった。よく脚本を担当するだけに、久瀬先輩はもしかしたらと思ったのだろう。準備室で、部長に台本のオリジナルを渡されたときに。
 けれど、それから部長は首を振った。鑑定人が、宝石の瑕疵を指摘するみたいに。
「もしもそれだけで私のことを疑っているなら、ちょっと無理があるんじゃないかしら?」
「確かに、それだけじゃ証拠としては弱いかもしれません」
 と、わたしは逆らわなかった。
「その辺に審判役のコロスがいたら、いろいろと文句をつけるかも。けど、傍証や出発点の一つとしては、これで十分です」
「つまり、ほかにも何かあるということ?」
「――もちろん、あります」
 言ってから、わたしはあらためて頭の中を整理した。わたしの脳みそは、それほど高性能じゃないのだ。麓から山頂まで、一気呵成に駆けあがるなんてまねはできない。
「ヒントは、脚本そのものの特徴にありました」
 と、わたしはやがて言った。
「この脚本には、かすかな違和感がありました。ストーリーはともかく、セリフのつながりに所々、不自然な箇所があるんです」
 もっとも、これは椛ちゃんに教えられたことではあるのだけど。
「なかなか鋭い洞察だけど、それがどうしたっていうの? 何しろ相手は古代ギリシアの精華みたいな、それも六十代の詩人作家が書いたものなのよ。一介の高校生には、荷の勝ちすぎる問題だわ」
「そうかもしれません。でも、違和感の正体は少し違うものだったんです」
「どんなふうに違うというの?」
「わたしが一番最初に言ったとおりです。書いたんじゃなく、編集した」
 部長は言葉を挟まなかった。わたしはそのまま続けた。
「それが、セリフのつながりに対する違和感――熔接部分や、古いゲームのポリゴンに対する、一つの答えでした」
「ゲームのポリゴン?」
「その比喩表現については忘れてください」
 話が横道にそれそうだったので、わたしは軌道修正した。
「ともかく、わたしはこう考えたんです。この普通じゃない違和感の正体は、訳文をそのまま切り貼りしたせいなんじゃないか、って」
 あくまで椛ちゃんの勘を信じるなら、の話ではあったけど。
「それでわたしは、すべての訳文に関して調べてみました。出版されていて、参照可能なものについてはすべて、です――けど、まったく同じ翻訳というものは見つかりませんでした。どれも微妙に細部が異なっている」
「だとすると、小森さんの仮説は間違っていたことになるわね」
「――かもしません。でもわたしは、仮説をもう一歩先に進めることにしました」
「一体、どこに進もうっていうの? 袋小路の先には、道なんてどこにもないのよ」
「現実は理屈より混沌としたものです。だから場合によっては、塀の上だって歩くことができます」
「…………」
「わたしはこう考えました。世界のどこかには、本になってない『アガメムノン』の翻訳だってあるはずだ、って――」
 部長はやっぱり、無言だった。でも、その表情は変わっていない。舞台役者が仮面によってキャラクターを演じわけるみたいに。
「一種の私家版≠ニしての『アガメムノン』。さすがに、一介の高校生にそんなものを作るのは不可能です。なら、それはどこにあったのか? それが手に入るとしたら、どんな経緯でか? もっとも自然なのは、身近な人間――両親や身内の人間が書いたもの、ということじゃないだろうか?」
 わたしはいったん言葉を切ってから、こうつけ加えた。
「そこからは、簡単でした。いわゆるアナグノリシスってやつです」
 認知とか発見を意味する言葉だ。本人の飼い犬が死んだり、足の傷に気づいたり、弓を引いたり、寝台の秘密を知っていたりして、その人の素性が明らかになる。劇中ではけっこう重要な場面として使われることになる要素だ。
 もちろん、部長にはそんなことを説明するまでもない。
「今の時代は便利ですよね。ネットで何でも簡単に調べることができます。鹿賀という名字の西洋古典者がいるかどうかだって――」
 そう――
 もしも以前から興味があったのなら、そのことにもっと早くから気づいていたとしてもおかしくない。ちょっとストーカー的ではあるけれど、好きな人の家族がどんな人なのか、といったことについては。
 あの時、宮坂くんが見ていたのは、椛ちゃんじゃなくて、鹿賀部長のほうだったのだ。視聴覚室での立ち稽古の時に。当然、彼は『アガメムノン』と部長のつながりについては気づいていたはずだ。いつもより熱心に、原典について調べることだってしただろう。
 とはいえそれは、宮坂くん個人の問題だった。わたしはどこかの金と鉛の矢を持った神様じゃないし、恋の手引きをするほどお節介な人間でもない。
 そして今のところ、それはまったくの別問題だ。
「たぶんお母さん、なんですよね? 講演の写真もありました。先輩によく似ています。――鹿賀麦(かがむぎ)さん。人物紹介の年齢的な関係も一致しました」
 部長は長いこと黙っていた。あるいは、短かったかもしれない。わたしは舞台上にいることが気にならなくなっていた。もしかしたら、何かの役になりきっていたのかもしれない。
 やがて、鹿賀部長は言った。
「ええ、『アガメムノン』の脚本を書いたのは、確かに私よ――」

14

 わたしたちは舞台の端に座って、足をぶらぶらさせていた。もうそこは、舞台上とは言えなかった。不在の観客もどこかに行ってしまっている。体育館は、もうからっぽの場所だった。
「――鹿賀麦は、小森さんの言うとおり私の母よ」
 と、部長は言った。とても静かな、音のない世界みたいな静かな声で。
「私の名前は、母にちなんだものよ。麦と穂というわけ」
 わたしはふと、そのことに気づいた。
「もしかして、真穂というのは……?」
「そう、ホーマーね。これだと英語読みになっちゃうけど。本当はホメロスからどうにかしたかったのかもしれないわね」
 西洋古典学者らしいといえばらしい名前のつけかたではある。そうして、部長は話を続けた。
「……もう知ってるかもしれないけど、私の母は五年ほど前に亡くなってるわ」
 確かに、わたしはそれを知っていた。当時は気づきもしなかったけど、ネット上には訃報も残されていたからだ。
「お母さんの死と『アガメムノン』に、何か関係が?」
「あると言えば、あるとしか言えないわね」
 部長は星でも見るような顔を、遠くのほうに向けていた。雪を戴いた山嶺みたいな、凛として澄んだ横顔である。わたしには逆立ちしたって、こんな表情を浮かべることはできない。自分が役者に向いてないことを、わたしは再認識していた。
「母は、母は不幸な人だった――いいえ、違うわね。幸福とはいえない人だった、と言うべきかしら」
 まるで夜空に囁く独り言みたいにして、部長は言う。
「少なくとも、結婚生活に関しては不幸だった。親の決めた結婚で、相手は中央官庁に勤める、地位も身分も申し分ない人だった。娘の私が言うのもなんだけど、ハンサムでもあったわ」
「なのに、不幸だったんですか?」
 わたしが訊くと、部長はこくりとうなずいた。
「父は、悪人とは呼べないにしろ、善良な人ではなかった。仕事第一で、男尊女卑的なところがあった。少なくとも、女は家庭を守るべきだ、というところがね」
「なかなか古い人なんですね」
「……考えてみると、皮肉な話よ」
 と部長はかすれた笑顔を浮かべた。
「古典を愛した母だったけど、古風な父のことは愛せなかったんだから。束縛、犠牲、忍従、抑圧――母はそういったものを強いられた。学者としてのキャリアを諦めなければならなかった」
 確かに、不幸な話ではある。
「どれも、母には耐えられないことだった。けれど、いろいろなしがらみにがんじがらめにされて、母は身動きがとれなかった。離婚なんて、考えられなかった。母にできたのは、ただじっと、無理にでも耐え続けることだけだった」
「たぶん、お母さんは強い人だったんでしょうね」
「そう――でもその強さが、不幸の因(もと)だったのかもしれない。母は辛抱強く、我慢強かった。古代のギリシア語やラテン語を学ぶときと同じように」
「世界の平穏の裏には、誰かの犠牲や忍耐が隠されているのかもしれませんね……」
 ある種の感慨というか、深くて長いため息を込めて、わたしは言った。
「そんな母だけに、娘の私のことはとても愛していたわ。断ち切られた学問への愛、望まない夫への愛、そういったものを向けられる場所が必要だったんでしょうね」
「良いお母さんだったんですか?」
「世界で一番くらいにはね」
 自分の母親に聞かせてあげたい話だった。あるいは、聞くべきなのはわたしのほうなんだろうか?
「母はいろんなことを教えてくれたわ。古くて魅力的な歴史、様々な文字の秘密、世界を命あるものにする物語――。その一方で、自分や父のことを私に悟らせようとはしなかった。その暗くて冷たい場所のことは、ひたかくしに隠していた。私は何も知らず、世界をただきれいな場所だと思っていた」
「……でも、お母さんは亡くなってしまった?」
「ええ――」
「どうしてなんですか?」
 わたしが訊くと、部長はしばらく黙っていた。天文学的な観測に使えそうな、スケールの大きな沈黙だった。
「……すみません、こんなこと訊いて」
「いいのよ」
 と、部長は頭を振った。
「それも、悪くないことだと思うの。誰か一人くらい、私以外にこのことを知ってくれていてもね」
 そんな資格が本当にわたしにあるかどうかは、今は不問にしておこう。
「話を大きく端折ることになるけど、母は子宮頸癌にかかったの。結果的には、それが命とりになった」
「手術とかは、しなかったんですか?」
「もちろん、したわ。子宮を全摘出することになった。母は最後まで躊躇していた。でも父は、それをまったく顧みなかったし、理解もしなかった。ある意味では、父が母からそれを奪ったとさえ言えるほどにね」
「…………」
「手術自体はうまくいった。でも、一年後に転移が見つかった。今度は化学療法を行うことになった――でも母には、もうそんな苦痛に満ちた治療を受けつけるような気力は残っていなかった。もう十分、母は苦しんできたから」
「それで、お母さんは……?」
「多臓器不全、ということらしいわ。詳しい診断については、今でもはっきりしていない。たぶん母は――母は自ら終わりを望んだんだと思う」
 部長は声を震わせもしなければ、泣きもしなかった。でも、そうなるまでにどれくらいの時間が必要だったのかは、わたしなんかには想像もできないことだった。
「父は子育てなんてできる人じゃなかったから、私は母方の叔父さんのところに預けられた。夫婦なんだけど、子供がなくて、私を本当の娘みたいに可愛がってくれてる。とてもいい人たちよ。天国にいるとしたら、母も安心してるでしょうね。父は出世して、どこかの政庁の事務次官にまでなってるらしいわ」
 先輩の長い話に、わたしはため息をついた。ため息なんてついてどうなるものでもないのだけど、それ以外にうまい生理的反応なんて思いつかない。
 世界には、あくまで皮相で、形而下的で、混沌として現実的な――悲劇があふれていた。
「――だから、『アガメムノン』なんですか?」
 わたしは静かに訊いた。今、ここにあるのはカタルシスなんだろうか。それとも、畏れや、反転した歓喜や、正体のわからない震えなんだろうか――そんなことを思いながら。
「これは、虐げられた女の復讐劇なのよ」
 と、部長は言った。とても客観的に、とても冷静に。
「彼女が一番の理由にあげる娘の死は、結局のところは彼女自身の死でもあるの。彼女は夫に殺されてしまった。無残にも。大義名分や、傲慢の犠牲になって――」
 部長はすっと、立ちあがった。再び舞台上に戻るみたいに。
「この劇は、弔い。私から母への。世界から母への。母は復讐すべきだった。血の報復をなすべきだった。例えそれが、どんなに間違ったことだったとしても」
 わたしはそんな部長を、ただ見ていることしかできなかった。とても遠くに、手の届かないくらい遠くに隔たってしまった彼女のことを。
 それから、わたしはふとあることに気づいて慄然とする。
「もしかして、部長は一年の時から……演劇部に入ったときから、この劇をやるつもりだったんですか? そのために演劇部に入ったり、部長になったりした?」
 その問いに、部長はかすかに笑った。ミステリアスで、捉えどころのない、新月の光みたいな、いつもの笑顔である。
「復讐には長い計画がつきものよ。どこかの王妃みたいに、十年というわけじゃないけれど――」
 それから最後に、部長はこんな言葉をつけ加えた。何かを祈るみたいに、何かを守るみたいに。
「例えそれが劇でしかなかったとしても、虚しい絵空事でしかなかったとしても、願いは叶えられるべきなのよ」

15

 夏休みも終わって、九月上旬のある日。
 ――凪城祭の当日。
 晴天の空には、溶けたアイスクリームみたいに形のはっきりしない雲が浮かんでいた。朝晩はずいぶん涼しくなって、季節の歯車がまわっていることを実感する。とはいえ、昼の最中となると太陽はまだまだ元気だ。
 学校は当然のように、文化祭特有の雰囲気に包まれていた。海水と淡水が混じっているみたいな、何だか変てこな空気である。それはどっちでもあり、どっちでもない状態だった。
 演劇部の公演は、体育館で午後の部の頭から行われる予定だった。当たり前だけど、わたしたちは緊張していた。クラスの用事が片づいた部員から視聴覚室に集まっていたけど、手枷足枷に猿轡まではめられたみたいに体の自由が利かない。いつものことだけど、逃げ出したくなる。
 それでも逃げ出す部員は一人もいなくて、全員が視聴覚室に集まった。毎度のことながら、少しほっとしてしまう。
 緊張でかちこちのわたしたちの前に部長が立って、励ましと注意と最終確認を行った。
「さて、今日はいよいよ公演日です。不安はあるだろうけど、練習通りにやれば大丈夫。深呼吸して、胸を押さえて、慌てずゆっくりそのことを思い出して。とにかく、舞台を無事に終わらせること――」
 鹿賀部長は、もちろんわたしに言ったようなことは片鱗も見せなかった。そんなことはおくびに出したりもしない。そこにいるのは、あくまで有能で理知的で頼りになる、いつも通りの演劇部の部長だった。
 みんながみんな、どこかの王妃みたいに復讐を声高に宣言するわけじゃないのだ。
 やがて時間が来ると、わたしたちは体育館に向かった。大道具の設置や、照明、音響機材のチェック、舞台の確認を行う。広い客席には休憩中らしい訪問者の姿がちらほら見かけられ、わたしたちのことをもの珍しそうに眺めていた。
 すべての準備も終わり、あとは開演時間を待つばかりになる。いつものことながら、その時間は永遠に訪れないような、あっという間にやって来そうな、ひどく特殊な歪みかたをしていた。わたしは部長の言葉を思い出しながら、何度か深呼吸した。思ったより、けっこう効果がある。
 体育館には徐々に人の流れが出来て、客席のイスは順番に埋まっていった。もちろん、ほとんどは生徒の父兄とか学校関係者になるのだけど、そんなのは何の慰めになったりもしない。
「――おお、けっこう入ってるね」
 と、舞台袖で客席をうかがっているわたしに向かって、椛ちゃんが言う。当然だけど、彼女の心臓は強い。きっと眼鏡をかけていないせいだ。
 締め切られたカーテンの向こうで、太陽の光はぶ厚い斧で切断されたみたいに遮られていた。粒子の粗い照明が、館内を照らしている。人々のざわめきが、意味の崩れた言葉になってあたりを満たしていた。
 やがて、時計が開演時間を告げる。
 ――照明が落とされ、場内は暗闇に包まれた。その暗闇に吸収されるみたいにして、ざわめきもいつしか消えてしまう。
 わたしは機械室で、乙島さんに用意してもらったマイクに向けて口を開いた。

……これから上演される舞台『アガメムノン』は、古代ギリシアの時代に書かれた悲劇作品です。作者は三大詩人と謳われる、アイスキュロス。紀元前四五八年、実際に上演もされました。
 当時の劇では、観客はみなその内容を知悉していました。ストーリーも、テーマも、結末も、そこで語られるはずのことについては、すでに知っていたのです。なので、ここで事前にそのことをお話しするのは、時宜に適ったことであると思います。
 ――悲劇は、十年におよぶ長いトロイア戦争から、王が帰還したことによって起こります。勝利したギリシア方の総大将であった彼は、故郷の屋敷で、その妻によって殺害されます。それは戦争の際、娘を人身御供とされた恨みからのものでした。また、それは王家の血の因縁が成したことでもあります。
 劇は、王妃とその共謀者による凱歌によって幕を閉じます。復讐は成されたのです。物語はさらなる復讐とその救済へと続くのですが、それはまた別のお話です。この劇の主題は、あくまで王妃クリュタイメストラにあります。
 いずれにせよ、これは古いお話です。私たちとは、ほとんど何の関わりもない、登場人物もストーリーも場所も時代もはるか遠く隔たった、一つの舞台でしか。けれど、これは確かに、私たちのお話でもあるのです。……

 そう言うと、わたしはマイクのスイッチを切った。そして舞台の一部を照らすように、調光卓を操作する。サスペンションライトのつまみに指を置いて、ゲージをゆっくりと上げていく。暗闇の世界に、舞台上の見張り番だけが浮かびあがってくる。

神様、どうかお願いです、この苦役からの解放を。見張りももう一年、眠ったり起きたり。御殿の屋根を抱いて――まるで犬だ。

 久瀬先輩演じる見張り番が、舞台の開始を告げる。ギリシア劇らしく仮面をかぶった役者が、観客の目に映った。とても静かに、とても密やかに、舞台の空間が形成されていく。
 ――前口上の件に関しては、それは本来わたしじゃなくて、鹿賀部長が担当するはずのものだった。これは文化祭用に特別編成されたもので、元の脚本にも載せられていない。だから、文章を考えたのもわたしだった。
 どうしてわざわざそんな役を買ってでたのか、本当のところわたしは自分でもよくわかっていない。格別の思い入れがあるわけでも、のっぴきならない理由があるわけでもないのだ。それにこの口上書きは、部長こそ考えるべきことだったような気もする。
 それでも――
 わたしはその役目を、引き受けたかった。何らかの形で、運命と関わっておきたかったのかもしれない。わたしにとっての、これは一種のカタルシスだったのかも。
 舞台は進んでいって、鹿賀部長の演じるカッサンドラの出番がまわってきた。突如沈黙を破って、過去の因縁と未来の運命を語る、呪われた女予言者。

けれど神々は、私たちが名もなく果てるのをお許しにはならない。私たちの名を高めるお人が、いつかここに現れる。母を殺し、父の血の代償を求める若木が。

 そのあいだ、わたしは舞台を見つめながら照明の操作を行っている。調光卓のゲージを上下させ、スイッチを切り替える。それに伴って、舞台は明るくなり、暗くなる。
 舞台を照らす、というのはいつも不思議な仕事だった。もちろん、そんなのは「暗いと何も見えないじゃないか」という、ごくごく単純で物理的な問題でしかない。人間の目は、暗闇でものを見るようには出来ていないのだ。
 にもかかわらず、それはどこか深遠で象徴的な行為でもある。
 セーラー服姿のクリュタイメストラが、血塗れの仮面をかぶり、血に染まった赤い手袋をして舞台上へと現れた。
 照明が、無言でそれを照らしている。
 わたしはいつも、不思議な気持ちになるのだ。舞台を照らすという、ただそれだけのことが。
 ――本当に、本当に、不思議な気持ちに。


 当初、一度だけの予定だった演劇部の公演は、好評につき文化祭の二日目にも行われることになった。
 急な変更ではあったけど、部長をはじめ部員一同、まんざらでもなさそうな顔をしている。苦労のかいがあったとういうものだ。
 もちろん、それはわたしだって。
 それからたぶん、鷲のことを恨みながら天国にいる、禿頭のアイスキュロスも。

――Thanks for your reading.

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