[ぼくのお父さんは人殺しだ]

 時々、ぼくは夢を見る――
 夢の中でぼくは、どこかの藪みたいなところにいる。でも、その光景は薄ぼんやりした霧みたいなもので、具体的な場所としてははっきりしない。たぶん、どこかの山奥か、そんなところだと思う。
 ぼくはその藪の中で、井戸のすぐそばに立っている。
 井戸といっても、本当はそれは井戸なんかじゃない。ぼくはそのことを知っている。底には水なんて一滴もないし、そもそも井戸として掘られたわけでもない。でも、外観は井戸によく似ている。円形になった石の枠があって、その内側だけ地面がすっかりなくなってしまっている。
 のぞき込むと、暗闇は丸く貼りつけられたみたいにしてそこにあった。それは変に平板な感じで、何だかその上に足を置いて立つことだってできそうな気がする。
 でもその暗闇は、ずっとずっと奥まで続いている。たぶん、世界の裏側まで。そこに落ちたら、もう戻ってくることはない。魂だけになるくらい軽くなったとしても、たぶん。
 そんな暗闇をのぞき込んで、けどぼくは怖くなったりはしなかった。石の枠は低くて、身を乗りだせば簡単に落ちてしまいそうだけど、別に恐怖を感じたりはしない。
 それがどうしてなのかは、よくわからなかった。ぼくは怖がりというほどじゃないけど、無鉄砲なやつというわけでもない。高いビルの屋上から地面を見下ろせばくらくらするし、横断歩道を渡るときには左右をきちんと確認する。
 井戸のことが怖くないのは、それがどういうものなのか、よくわかってないせいかもしれなかった。人はそれなりにはっきりした物影や物音には敏感になるけど、あまりに漠然としすぎたものには、どう反応していいのかわからなくなってしまう。何も描かれていないただの真っ白な紙を渡されても、何も想像できないのと同じで。
 いずれにしろ、ぼくはその不思議な井戸に恐怖感を持ったりはしなかった。むしろ何だか懐かしいような、ある種の安心感みたいなものを感じていた。自分でも変だとは思うけど、確かにそんな感じが。
 それが善いものなのか、悪いものなのかさえ、わからなかったけれど。
 ――ぼくは井戸のそばに座って、石枠のところに背をもたれてみる。
 そうやってしばらくすると、歌が聞こえはじめていた。
 どこかで聞いた気もするけど、うまく思い出すことができない。それはメロディーも歌詞もはっきりしないし、そもそも歌なのかどうかさえ怪しい何かだった。音とか言葉というより、むしろにおいとか、手触りとか、光の感じみたいな。
 その正体不明の歌が、どうして井戸の底から聞こえてくるのかはわからない。でもその歌は、ぼくをほっとした気持ちにさせてくれたし、気分を落ち着かせてくれた。何だか、幸せの一番単純で純粋な形みたいなものを思い出させてくれる気がして。
 井戸のそばに座って歌を聞きながら、ぼくは目覚めの時が来るのを待った。

 ――ぼくは時々、そんな夢を見た。

 ぼくのお父さんが言うには、人は誰でも深い穴を持っているそうだ。
 その穴は心のずっとずっと奥のほうまでつながっていて、どんな光も底まで届くことはない。だからそこに何があるかは自分でもわからないし、誰にもわからない。たぶん、神様にだって。
 でもその穴の底には、とても大切なものがある。それがどんなもので、どれくらい大切なのかもわからないけれど、確かに。
 どうして、そんな穴が人の中にあるのかはわからない。
 何のためにあるのかも、誰がそれを作ったのかも。その穴を作ったのは自分自身かもしれないし、もっと別の、自然な作用みたいなものかもしれない。時間とか、運命とか、星の巡りあわせとか、そんなものによって。
 でもとにかく、人はみんな、どんな人であれその穴を持っている。形や、深さや、大きさはそれぞれ違っているかもしれないけれど、必ず。
 ぼくは時々、その話を思い出しては自分の中にあるはずの深い穴について考えを巡らしてみる。それがどんな形で、どんな様子をしているのかを。
 どんなに強い光も、どんなに大きな声も、どんなに長い手も届かないその場所には、一体何があるんだろう。
 光も融かしてしまうその暗い穴の一番底には、一体どんなものが?


 ――目が覚めると、いつもの朝だった。
 空は壊れていないし、地球は回っているし、雀はいつも通りに騒々しく餌を探している。冬の名残りは少し前にもうすっかり消えてしまって、太陽は早起きを心がけていた。
 ベッドの上で少しぼんやりしていると、小鳥のさえずりみたいなアラームの音が聞こえた。ぼくの目覚まし時計は、いつもぼくより少し寝坊をする。でも万が一寝過ごしたりするのも嫌なので、寝る前には必ず目覚ましをセットする。ほとんど必要がなかったとしても、そのほうが都合がよいということはたくさんあった。
 ぼくはベッドから降りると、ちょっとストレッチをした。それは昔、お父さんに教えてもらったやり方だった。ほかの人がそういう体のほぐしかたをしているのを見たことはないけれど、やってみると体はずっと軽くなる。
 机の上には、もうランドセルが置いてあって、学校に行く準備は整っていた。でもぼくは、もう一度その中身を点検する。明日の準備は寝る前にすませてしまうのがぼくの習慣だったけど、朝にはもう一度必ず点検をする。そのほうが間違いが少なくなるからだ。
 教科書やノートには何も問題なかったので、ぼくは着替えをすませてしまう。そうして、脱いだパジャマとランドセルを持って、家の一階に降りる。
 ランドセルを玄関に置いて、パジャマを洗濯機に入れてしまうと、台所に向かった。台所のテーブルには、もうお父さんが座っている。
 居間と一続きになったその部屋は、静かだった。テレビはついていないし、お父さんはコーヒーを飲みながら新聞に目を通している。テーブルには二人分のトーストと目玉焼きが用意してあった。作ったのは、お父さんだ。
 お父さんは必要な時以外は口をきかない。だから、朝の挨拶もしなかった。ぼくはいつもの席に座って、朝の食事をはじめる。
 家の中は物音一つなくて、いつのまにか耳が聞こえなくなっているんじゃないかと思えるくらいだった。でももちろんそんなことはなくて、お父さんが新聞をめくる音だとか、食器の触れあう音、ぼくがパンにかじりつく音だってちゃんと聞こえる。
 それでも不意に、ノートからページを破りとってしまったみたいに、何の音もなくなってしまうことがある。
 いや――
 そんな時でも、よく耳を澄ますと時計の音だけは聞こえる。ぼくは半熟になった目玉焼きの黄身をつぶしながら、居間のほうにかかった時計を眺めてみた。時刻は七時十四分三十秒を指している。
 登校時間まではまだ余裕があるので、急ぐ必要はない。そしてその時計はほぼ正確な時刻を示していることを、ぼくは知っていた。
 何故なら、お父さんが一日のはじめに起きてまずすることは、家中の時計をあわせることだからだ。
 いくつもある時計を一つ一つまわって、お父さんは時報であわせておいた自分の腕時計にしたがって、針を動かしていく。早いものは戻されるし、遅いものは進められる。自分の部屋の時計、居間の時計、台所の時計、玄関の時計――。さすがに、ぼくの部屋の時計まではお父さんも手を出したりはしない。
 でもとにかく、まずそれを済ましてしまわないうちには、お父さんは何もしない。まるで、自分がそうしないと朝の時間がはじまらないみたいに。
 もしかしたらお父さんは、本当は世界中の時計をあわせてしまいたいのかもしれない。それも、現実の時計だけじゃなくて、みんなの頭の中にある時計まで。
 だとしたらお父さんは、ぼくの頭の中にある時計もあわせてしまいたいのかもしれなかった。けど、さすがにそんなことはしない。毎日毎日、ぼくの頭の中を切り開いて、つまみを回すわけにはいかないからだ。
 でも本当は、それだってどうかはわからない。何か方法さえあれば、お父さんはそれをするのかもしれなかった。

 ――何しろ、お父さんは人殺しだからだ。

 ぼくがそのことを知ったのは、偶然だった。
 ある日、ぼくが学校から帰ってくると電話がかかってきた。お父さんからだった。急な用事ができたから、帰宅が少し遅れる、という話だった。その声の表面には、ようやくわかるくらいのささくれがあった。お父さんは事前の予定が狂うのを何より嫌うからだ。
 ぼくはわかったと返事をして、電話を切った。さしあたって、お父さんの帰宅時間が変更されても、ぼくのほうに問題はない。とりあえず宿題でもすませてしまおうと、二階にあがった。
 そうして自分の部屋に行こうとして、ふとあることに気づく。
 いつもなら鍵のかかっているはずのお父さんの部屋の扉が、ほんの少しだけ開いていた。何だか、誰かがその隙間からこっちをのぞき込んでいるみたいに。
 普段なら、そんなことはたいして気にしたりしなかっただろう。几帳面なお父さんにしては珍しいことだったけど、家のすぐ隣で火山が噴火したわけじゃない。ちょっとした不注意とか何かの都合が重なれば、それくらいのことは起こってもおかしくなかった。
 でもその時、不意にぼくは電話のことを思い出していた。お父さんはまだしばらく、帰ってこないだろう。お父さんの予定が二度も狂うことはまずないから、それは確実だ。
 そして気づいたとき、ぼくはランドセルを廊下に置いて、開いたドアに手をかけていた。
 正直言ってその時、ぼくはやましさとか後ろめたさとか、いわゆる良心の呵責みたいなものは感じていなかった。誉められたことじゃないのはわかっていたけど、特に問題だとは思わなかった。問題なのは、お父さんにそのことを気づかれることだったし、その点に関しては、ぼくは十分に注意を払っていた。
 扉の元々開いていた角度を覚えてから、ぼくはドアの隙間をのぞき込む。とりあえず、開け閉めしても問題はなさそうだった。ひっかかるものも、痕跡を残してしまいそうなものもない。
 ぼくは扉を開けて部屋の中に入ると、まずはドアの位置を最初の状態に戻しておいた。そうすれば、出ていくときに間違える確率を減らすことができる。
 部屋の入口に立って、ぼくは慎重にあたりを見まわしてみた。
 カーテンが閉められているせいで、部屋の中は薄暗かった。ぼくは扉のすぐ横にあるスイッチを押した。電灯は無言のまま、何の非難もせずに明かりを灯す。
 とりあえず、入口付近にぼくの侵入を気づかれてしまうようなものはなさそうだった。何かを倒したり、何かを動かしてしまったり、何かの跡をつけてしまいそうなものもない。ぼくは慎重に、一歩奥へ進んだ。
 お父さんの部屋は、本でいっぱいだった。壁一面に、ぶ厚い専門書が並んでいる。本たちはぼくのことには何の関心もなさそうに、身動きさえしなかった。たぶん、眉一つ動かさない、というのはこういうのを言うんだろう。
 本棚のほかにはベッドと、ずっしりした机が一つ。机の上には、たぶん仕事で使うらしい模型が転がっている。ほかには何もない。お父さんは部屋に余計なものを置いたりはしない。部屋は、空白まで含めてきれいに整頓されていた。
 机には三段になった引きだしがついていていた。それ自体は、別に問題はない。でもその一番上の引きだしに、ぼくの注意は引きつけられた。そこにだけ、南京錠がかかっていたからだ。
 それは何だか、不自然な感じだった。鍵はあとからつけられたみたいで、妙にそぐわない外観をしている。そのやりかたは大雑把で無神経で、あまりお父さんらしくない。
 ぼくは近づいて、鍵を調べてみた。
 鍵は四桁の数字が暗証番号になっていて、今は「0000」にあわせられていた。念のために引っぱってみるけど、もちろん鍵が開いたりはしない。確かめるまでもないけど、引きだしのほうも。
 ちょっと考えて、ぼくはいくつかの数字を試してみた。
 1234とかの続きの番号、家の郵便番号、電話番号、お父さんの誕生日、ぼくの誕生日――どれも違う。
 当たり前だ。お父さんがそんな簡単な数字を使うはずはない。
 それからまた考えて、ぼくはある数字を入れてみた。「0718」
 カチン――音がして、留め具が外れる。
 ぼくは開いた鍵をそのままにして、しばらく眺めていた。そうしていたら、鍵が葉っぱとか木の根っことか、そんなものに変わりそうな気がして。
 その四桁の数字をぼくが入れたのは、ただの気まぐれみたいなものだった。けどもちろん、お父さんが偶然でそれを選んだということはありえないはずだ。
 少しのあいだ、ぼくはその理由を考えてみた。けど、それについては全然見当もつかなかった。もしかしたら、意味なんてないのかもしれない。ただその数字が覚えやすかっただけなのかもしれない――
 気になったけど、ぼくはともかく引きだしを開けてみることにした。その前に一度、時計を確認する。大丈夫、時間はまだ十分に余裕があった。
 ぼくは最大限に注意を払いながら、引きだしをゆっくり開けた。できれば、中の空気まで動かさないようにしながら。
 引きだしは何の問題もなく、すんなりと開いた。
 そこには、一冊のノートが置かれている。
 ノートのほかには、何もない。文房具も、貴重品も、秘密めかした小物も、怪しげな品も、いわくありげな古い手紙も。
 ぼくはそのノートを眺めてみる。
 何の変哲もない、ごく普通のノートだった。表紙には何も書かれていない。タイトルも、何かを示すための記号も。ノートの端々は少し傷んでいて、ずいぶん使い込まれているみたいだった。でも丁寧に扱われているらしく、目立った汚れや損傷みたいなものはない。
 そのノートを外から見ただけでは、どんなものなのかは全然わからなかった。
 ぼくは金魚でもすくうみたいにして、慎重にノートを手に取った。それから、机の上に乗せてページを開いてみる。
 ――しばらくは、そこに何が書かれているのかわからなかった。
 一見すると、それは日記みたいに思えた。日付があって、一日毎の記録が並んでいる。一つ一つに定規をあてたみたいな、馴じみのあるお父さんの文字が書かれていた。
 でも、もう少し詳しく読んでいくと、それが正確には日記とは呼べないことに気づく。どちらかというと、何かの報告書みたいな文章が並んでいた。〈観察の結果として……〉〈有利な習慣……〉〈好ましい機会は……〉〈失敗の可能性が……〉〈計画の実行について……〉
 ――それは、殺人記録だった。
 ノートには、今までにお父さんが行ってきた殺人の計画とその結果が、詳細に記されていた。それらはきちんとした文字で、淡々と書きつづられている。〈被害者の名前、住所、電話番号……〉〈容姿、習慣、癖、健康状態……〉〈生活スケジュール、交友関係、趣味、嗜好、生い立ち……〉
 そんな情報が事細かに、項目ごとに整理されている。そしてそれに基づいて、綿密な殺人計画が立てられていた。〈いつ、どこで、どうやって……〉〈考えられるリスク、不測の事態への対処法……〉〈目撃者や証拠を可能なかぎり残さないためには……〉
 それから、実際にそれをどうやって実行したか。
 ノートの文章に感情らしいものはなくて、朝顔の観察記録よりずっと無味乾燥だった。たまに感想らしいものがあっても、それは推測とか、いくつかの可能性についての考察だったりする。それはまるで、宇宙人が別の惑星の生物でも調べているような内容だった。
 さすがにそのノートを頭からきちんと読んでいく暇はなかったので、ぼくは一通りのことにだけざっと目を通すことにした。
 それによると、お父さんはこれまでに六人の人間を殺していた。
 ――そして今のところ、そのどれについても犯人としての疑いはかかっていない。

 ノートの記述だけでは、本当にお父さんが人を殺したのかはわからなかった。その可能性のほうが低い気はしたけど、そのノートは小説みたいな手の込んだ創作物だということだってありえるのだ。
 だからぼくは、実際にそのことについて調べてみることにした。
 調べるのは、図書館にあるインターネット用のパソコンを使った。家のパソコンでそんなことを調べるわけにはいかない。ぼくは個人的な所有物としては、それを持っていないからだ。
 被害者の名前で検索をかけると、行方不明者の捜索として、警察やいくつかのサイトに情報が載せられていた。少なくともそこにあった情報は、ノートに書かれていたそれと完全に一致している。日付にも問題はない。
 ――偶然としては、ありえない話だった。
 死体は発見されていないので、はっきりした事件としては扱われていない。お父さんがノートに記したとおりなら、目撃者や犯行の証拠になるもの、遺体が見つけられることはないはずだった。ということは、その人たちはいつまでたっても行方不明者として処理されることになる。
 でも、ノートによれば六人の人間がとっくの昔に殺害されているのだ。
 それ以上のことは確認のしようがなかったけど、もちろんそれは確実なことだった。お父さんがくだらない妄想や、ただの酔狂で、あんなノートを作るはずがないのだ。そうであるには、お父さんは実際的すぎるし、現実的すぎる。
 この世界では、少なくとも六人の人間がお父さんの手で殺されている。
 そしてお父さんは、今日も普通にごはんを食べていた――

 ぼくは登校途中、ぼんやりとそんなことを考えていた。ぼくがその事実を知ってから何週間かが過ぎようとしていたけど、その六人のことは相変わらず何のニュースにも記事にもなっていなかった。
 被害者の家族や友人は、今も六人の帰りを待っているんだろうか?
 けれど――
 実のところそれは、ぼくにとってはどうでもいいことだった。
 お父さんが連続殺人犯だろうと、殺された人が行方不明者として遺体も見つけられないでいようと、そんなことはどうでも。
 それはぼく自身とは何の関わりもないことだったし、何の興味も湧かないことだった。それは世界の裏側で起こった、いくつかの不幸な出来事と同じだった。それらはぼくに何の変化ももたらさないし、強制もしない。
 ぼくにはお父さんを告発するようなつもりもなかった。例のノートを提出すれば、それなりの証拠として扱われるはずだったけど、そんなつもりはない。
 だって、そんなことをすれば、すごく面倒なことになるのはわかっていたからだ。
 お父さんが逮捕されてしまえば、ぼくは親戚の誰かに預けられるか、施設に入れられるかしてしまうだろう。そして父親が殺人犯だというレッテルを貼られれば、同情されるにせよ軽蔑されるにせよ、ぼくとしてはあまり面白くない目にあわなくちゃならなくなってしまう。
 だからぼくとしては、たいして意味のない正義感や、あやふやな社会の道徳や、いるかどうかもわからない神様への義理立てとして、それを行う気にはなれなかった。
 今のところ、お父さんの犯行が露見する様子はないし、問題は何も起きていない。例え警察の捜査がお父さんにたどりついたとしても、別にぼくが証拠隠滅や何かの幇助を働いたというわけじゃない。
 もしも問題があるとすれば、それはお父さんがぼくの盗み見に気づいていないか、ということだった。
 ――これについては、ぼくにも確証はない。
 ノートも、机の引きだしも、南京錠も、部屋の扉も、全部きちんと元通りにしたつもりだったけど、思わぬ間違いがないとは言えなかった。そしてお父さんがちょっとでも違和感を覚えれば、疑われるのは必然的にぼくということになる。
 でも今のところ、特に問題は起こっていなかった。お父さんはまったく気づいていないか、あるいは――気づいても、気づかないふりをしているのかもしれない。
 前者に比べて後者の場合は、問題はいくらかややこしくなる。でも推測の話をいくらしたって仕方がない。それにどっちにせよ、ぼくにとってたいした違いはなかった。
 厄介事さえ起きなければ、人倫に悖ろうが、社会正義に反しようが、そんなことはどうだっていいのだ。これまで世界がずっと、そうだったみたいに。
 ぼくは習慣的、無意識的に学校までの道を歩いていた。まわりには同じ小学校の生徒がたくさんいた。もちろんその誰も、ぼくのお父さんが人殺しだなんてことは知らない。そんなこと、想像もしないだろう。
 ロボットみたいに機械的に、自動的に、ぼくは歩いていく。そのほうが、ずっと楽だからだ。
 しばらくして、ぼくは横断歩道の前で足をとめた。前にも言ったとおり、ぼくは二階からいきなり飛びおりるほど無鉄砲な人間じゃない。まずは、車が来ないか左右を確認した。
 ちょうど向こうから、左折して歩道の前を通る車を発見する。車内では、年配の運転手が携帯電話を耳にあてていた。急げば渡れるだろうし、本当ならこっちが優先なんだけど、ぼくは念のために立ちどまって様子をうかがう。
 それと同時に、低学年らしい子供が一人、ぼくの横を駆けぬけていった。どうやら、向こう側で友達が待っているらしい。
 車の運転手は、その子供を見ていなかった。
 走る子供は、その車を見ていなかった。
 ――ぼくは車も子供も見ていた。
 車は危ないところで、ブレーキをかけて止まった。子供は猫がびっくりしたみたいに立ちどまって、すくんでしまう。運転手は窓を開けて、自分の不注意を棚にあげて口汚い罵声を浴びせた。子供はさっきまでの勢いを失って、呆然自失でただその言葉に傷つくだけだった。
 やがて車は子供をよけて行ってしまう。子供はショックから立ち直ると、いくらか慎重になった足どりで友達のところへ向かった。
 悪かったのは、他所見をしていた運転手だろうか。それとも、一方向しか見ていなかった子供だろうか。
 ぼくは首をちょっと傾けて、右手の中指でこめかみのあたりを一定の間隔で、何度も、強めに叩いた。
 そうしてその動作を繰り返しながら、前と同じように通学路を歩きはじめる。ロボットみたいに、何も考えず、地球の裏側にでもいるみたいに。

 ぼくはその後も何度か、お父さんの部屋に侵入を繰り返した。それは主にお父さんが夜勤にあたって一日家にいないときで、だからゆっくりと例の殺人ノートを調べることができた。
 当然、お父さんの部屋には鍵がかかっていた。でもクリップを加工してつくったピッキングツールで、何とか開けることができた。インターネットで調べただけのいいかげんなものだったけど、鍵の作りが簡単なおかげでうまくいったみたいだ。
 ノートを調べるのは、もちろんいつも最大限の注意を払うことになる。元の位置から少しでもずれてしまったり、汚れや跡を残すのもまずい。髪の毛や糸くずなんかを落としてしまうのも、厳禁だった。
 とにかく、ぼくはお父さんが絶対に気づくことのないように、そのノートをチェックしていた。
 比較的最近にあった六人目の犠牲者以降、ノートに新しい記述は増えなかった。最後の書き込みのあとは白紙になって、それが最後まで続いている。
 ぼくは過去の記録をできるだけ丹念に読み返してみたけど、それらは医療用のカルテみたいに書かれていて、やっぱり意見や感想みたいなものはほとんどなかった。お父さんの行動や計画や被害者のことをどれだけ知ってみても、お父さんが何を考えて、何のためにこんなことをしているのかはわからなかった。
 まるで天体観測か、地質調査でもしているみたいで、ぼくはそのことで時々、妙な混乱を覚えないでもなかった。
 動機も目的もわからないので、お父さんが次の被害者をいつ選びだすのかは見当もつかなかった。あるいは、お父さんはもう何らかの目的をはたしてしまっていて、不幸な七人目が現れることはないのかもしれない。
 でもぼくとしては、それはどっちでもいいことだった。お父さんの行動は気になったけど、それは殺人をやめさせたいとか、被害者を守りたいとかいった理由からじゃない。ぼくはそんな人間愛も徳義心も持ちあわせていない。
 じゃあ、どうしてぼくはこんなにもお父さんの行動に執着しているんだろう?
 はっきりとはわからなかったけど、それは好奇心とか、疑問とか、危機意識とか、恐怖とか、そういったどんな感情とも結びついていなかった。
 あるいは、それは――
 引きだしにかけられていた鍵を解くための暗証番号、ただその数字によるのかもしれない。
 何にしろ、ぼくはお父さんのしていることにも、ノート自体にも、特別な関心を持っているわけじゃなかった。世界の裏側とまでは言わないにしても、その途中の出来事くらいには。
 ――ところが、事態はぼくの思わぬ方向に動きはじめた。
 ある日、ノートの新しいページに、ぼくのクラスメートの名前が書かれていたのだ。

 彼女のことを、ぼくは偶然よく知っていた。
 よく知っていた、というのは、ほかのクラスメートに比べると、という意味だ。
 ぼくは教室では、特別に親しい相手も、無闇に仲の悪い相手もいなかった。ほとんど誰とでも友達で、ほとんど誰とでも他人だった。
 それは八方美人というのとは、少し違っている。ぼくは必要もなく愛想をふりまいたり、無理な友達ごっこを演じているわけじゃなかった。ぼくはただ、その場その場の雰囲気にあわせて行動して、役柄を演じているだけなのだ。海藻みたいにゆらゆら漂ったり、石ころみたいにじっとしていたり。誰の敵にもならず、誰の味方にもならない。
 そういうのは算数の問題と同じで、決められた手順で計算をしていればいいだけの話だった。こっちを足して、あっちを引いて、掛け算を先にして、括弧の全体を割る。そんなのは全然難しいことじゃない。やりかたさえ知っていればいいだけのことだ。
 ぼくは協力者が欲しいわけでも、対立者を望んでいるわけでもなかった。
 ただ静かに、誰も傷つけず、誰とも関わりを持たずに生きていたいだけなのだ。ある種のサボテンとか、深海で特殊な生き方をする魚みたいに。ぼくが世界に望むことは、そんなに多くはなかった。
 もちろん、自分でもそんないろいろがバカらしく思えることはある。みんなも、自分も、何もかも同じくらい愚劣な気もするし、そんなふうにできている世界のシステムは、恐ろしくくだらないもののような気もした。
 でもそれは、別にたいしたことじゃない。本当に、たいしたことじゃないのだ。ただ、世界はそういうふうにできあがっている――それだけの話なのだ。
 月を親指で隠してしまったって、それはやっぱりそこにあり続けている。
 けど――
 それとは少し違う考えかたを、彼女はしているみたいだった。
 彼女はぼくと同じようには、世界に馴じんでいなかった。それは心の奥だけじゃなくて、表面的にも。彼女は友達を作らず、誰とも親しくせず、いつも一人ぼっちだった。
 一人ぼっちでいるときの彼女は、ひどく平和そうに見えた。
 彼女がまわりや、みんなや、自分自身のことをどう思っているかは、ぼくにはわからなかった。彼女は友達を求めていなかった。ぼくも、そうだった。そしてぼくが誰かと友達になるのは、相手に求められたときだけだった。だから、ぼくと彼女が友達になることはなかった。
 そんな彼女とぼくが知りあったのは、去年のことだ。本格的な冬になる少し前の、ある冷たい一日のこと――
 その日、クラスではちょっと落ち着かない空気が漂っていた。パズルのピースをはめそこねたみたいな、時計の歯車が噛みあっていないみたいな、そんな。といって、特別なことがあったわけじゃない。トナカイが空を飛ぶには、まだかなりの時間がある。
 みんながそわそわしていたのは、ある一人が伝えてきた話のせいだった。それはあっというまに教室中に広まって、公然の秘密みたいなものになった。話はうちのクラスだけで、ほかの組や学年には伝わっていないらしい。
 その話というのは、校舎の裏手に猫の死体が転がっている、というものだった。
 昼休みのかくれんぼの時に、その子はたまたま見つけたらしい。家庭科室に隠れているとき、窓の外に見かけたのだという。白猫で、あまり詳しくは見ていない。血の跡らしいものが近くにあって、ぴくりともしなかった――
 話を聞いた生徒はみんな、怖いものみたさの気分に感染したみたいだった。呪いとか、近づくと死の穢れがうつるとか、猫の怨念とか、そんなことをひそひそと話しあった。
 そして誰かがこっそり見にいってきたという話をすると、みんなは何組にもわかれて同じように見物に出かけはじめた。みんなが死を珍しがった。
 ぼくはほとんど興味がなかったので、見物に行くつもりなんてなかった。みんなが何を珍しがっているのか、ぼくにはわからなかった。人だって死ぬし、猫だって死ぬ。ぼくたちだって死ぬ。そんなのは当たり前の話だ。
 でも猫の死体参りはいつのまにか一種のクラス行事になっていて、自分だけ行っていない、というふうには言いにくくなっていた。もちろん、嘘をつくのは簡単だった。「うん、見たよ。気持ち悪かった」――そう言えばいいだけだ。みんなだって、それ以上のことなんて期待していない。
 けどぼくは何だか、そんなことで嘘をつくのはひどくつまらないことのような気がした。つまらないし、疲れることだ。どこかの鉄塔と同じで、目にしたくないものがあるなら、その中に入ってしまうしかない。
 放課後になって、ぼくは問題の校舎裏に行ってみた。あたりには何かの終わりみたいな気配があって、太陽の光は灰色っぽくなっている。空気は冷たくて、時間は凍りついていた。ぼくは玄関を出てぐるっと校舎の角をまわり、そこから緑のフェンスと建物のあいだの細い道を歩いていった。
 排水用の小さな溝の横を進んでいくと、砂利と雑草の生えた小さな空間が広がっていた。
 何の役にも立ちそうにないその場所の隅に、一人の生徒がかがんでいた。先客がいたのだ。
 そのことを、ぼくは特に意外だとは思わなかった。誰がいても、おかしくない。ただちょっと、面倒だなとうんざりしただけだった。どうでもいいような感想を、一言くらいは口にしなくてはならないだろうから。
 ――けど、何だか様子がおかしかった。
 足音で、その生徒はぼくが来たことに気づいているはずだった。なのに、少しもこっちのほうを見ようとしない。背中を向けてかがんだまま、身動き一つしなかった。冬の陽ざしごと、釘づけにされたみたいに。たぶん、その向こうに猫の死体があるのだろう。
 もう少し近づいてみて、ぼくはようやくそれが彼女≠セとわかった。
 そのことは、ぼくにはちょっと意外だった。彼女がこのくだらないイベントに参加するとは思わなかったし、猫の死体を鑑賞するような趣味があるとも思えなかった。
 すぐそばまで近づくと、彼女の足元には白い猫の死骸が転がっていた。
 一見したところ、それはあまり死体らしくは見えなかった。口から一筋だけ血が流れているけど、どうして死んでいるのかはわからない。車にでも轢かれて内臓をやられてしまい、何とかここまで逃げてきたのかもしれなかった。
 猫は野良らしくて、毛はぼさぼさで、汚れていて、お世辞にもきれいとは言えない。体は横倒しに投げだされ、目はつむっていた。その目が最期に見たはずの景色の中に、ぼくたちは今いるはずだった。
 ぼくがそれだけの観察をすませてしまうと、彼女はようやくぼくの存在に気づいたみたいに顔を上げた。
 彼女をきちんと見るのは、その時がはじめてだったような気がする。
 もちろん、教室では何度も彼女の姿を見たことはあった。特別に変わった顔立ちでも、特別に人目をひくような雰囲気でもない。ひとけのない街中ですれちがったって、気づくことはないだろう。
 でも――
 その時の彼女は、何だかいつもとは違っていた。その瞳には、何かが映っていた。その顔には、言葉にならない表情があった。特別なスイッチを押された機械みたいに、彼女の中で何かが動いていた。たぶん、魂とか、そんなふうに呼ばれるものが。
 彼女はしばらくぼくのことを眺めてから、また猫のほうを向いた。太陽の光は相変わらず弱々しくて、猫を起こすような力はなかった。
「静かだね――」
 不意に、彼女はそのままの格好で言った。
「――うん、静かだ」
 ぼくは答えた。
 そのまま、ぼくも彼女もじっとしていた。影は見えない速さで動いていた。風は少しも吹かずに、世界は静止していた。空気はもうほとんど、冬のそれだった。
 しばらくして、彼女は小さな音で鼻唄を歌いはじめた。よく聞くと、それは『ありがとう・さようなら』だった。卒業式なんかでよく聞く曲だ。
 彼女がどういうつもりでそんな曲を歌いだしたのかは、わからなかった。でもその曲は、不思議とその場所の雰囲気とあっている気がした。だからぼくは何も言わずに、ただ黙ってその歌に耳を傾けていた。
 やがて、彼女の歌はいつのまにか終わっていた。それは何の痕跡も残さなかったし、世界は何も変わったりはしなかった。猫は相変わらず、静かに眠っていた。
「……先生に相談して、この子を埋めさせてもらおうか?」
 彼女がそう言うと、ぼくは賛成した。確かに、そうするのが正しいような気がした。どうしてそうなのかは、よくわからなかったけれど。
 結局、ぼくたちは先生に相談してスコップを借りて、校庭の木のそばに猫を埋めた。掘った穴の底に横たえられた猫は、どこで死んでいてもあまり気にはしていないように見えた。土をかぶせてしまうと、猫はどこにもいなくなった。
 ぼくと彼女はそれから、何の話もせず別々になって家に帰った。
 ――ぼくと彼女が知りあったのは、そういう一日のことだった。

 お父さんは本当に、彼女を殺すつもりだろうか?
 いや――
 そんなことは、疑問に思うまでもなかった。お父さんは間違いなく、彼女を殺すだろう。ノートに彼女のことを書くというのは、そういうことだった。今までずっと、そうだったみたいに。
 ノートに書かれているのは今のところ、彼女についての基本的な情報だけだった。〈名前、年齢、住所、身長、体重……〉〈足に怪我をしたこと、血液型、今までにかかった病気……〉
 それは、いつものお父さんのノートの書き方と同じだった。情報は次第に緻密になっていく。一日の行動パターンや、個人的なスケジュール、よく行く場所や、習慣的な行為、本人も気づかないような癖の一つ一つ。観察はゆっくり、着実に増えていく。
 現在、ノートにはぼくの知っているのと大差のないことしか書かれていなかった。過去の通例からいって、情報収集は大体一ヶ月ほど続けられるのが普通だった。それから、具体的な計画が立てられはじめ、様々な可能性についての考察や、細部の問題検討が行われる。
 殺害が実行されるのは、二ヶ月から半年といったあいだのはずだった。
 もちろん、それが今回もあてはまるとはかぎらない。何かの理由で計画の前倒しや――断念が行われないとは。
 でもきっと、お父さんにかぎってそれはないだろう。お父さんは焦りもしなければ、諦めもしない。植物が暗闇の中で根をのばして、見えない速さで枝をのばすみたいに、決められた約束はきちんとはたされるのだ。
 ぼくは、どうすべきだろうか――?
 お父さんの次の目的が彼女であることは、間違いなかった。ノートに書かれた内容は、他人の空似ですますにはあまりに無理がある。そんなのは、タイプライターで適当に文字を打っていたらハムレットになった、というのと同じくらいバカげていた。
 ――彼女の殺害を防ぐ方法は、いくつかあった。
 一番簡単で確実なのは、お父さんを告発することだった。前にも考えたとおり、それがもっとも手っとり早い。証拠になるノートを持って、警察に保護を求める。あとは捜査関係者がうまくやってくれるだろう。死体や、いくつかの物証だって発見できるはずだ。
 でも、これも前に考えたとおり、ぼくはそんなことをするつもりはなかった。お父さんが捕まっても、それですべてが丸く収まるわけじゃない。ぼくはひどく面倒で厄介な立場にひきずりこまれることになるし、それは永遠に続いていく。そんなのは、絶対にごめんだった。
 だとすると、方法としてはお父さんを捕まえるのではなく、お父さんに殺害を諦めさせる、というのが現実的なようだった。
 これなら、実質的には何の問題も起こらない。秘密は守られ、彼女も守られる。ぼくは今までどおりに生活を続け、地球は明日もまわり続ける。
 そのためには、お父さんを脅迫する必要があった。
 ノートのことを曝露し、殺害を中止するよう勧告する。そうしない時は、警察に訴える。ぼくは本気だ。ノートはぼくの手元にあって隠している。お父さんが承知しなければ、それは自動的に警察の手に渡る――
 でもこれには、いくつかの問題点があった。
 まず、お父さんが脅しに乗るかどうかがわからない。下手をすると、お父さんはぼくのことまで殺してしまうかもしれない。その可能性は否定できない。そうなったら、ぼくはきっとぼくの身を守れないだろう。
 それに、都合よくノートを隠しておくのも難しかった。誰かに預かってもらうべきだろうか。でも、一体誰に? ぼくにそんな便利な知りあいはいないし、うまいアイデアも思いつかない。
 結局のところ、お父さんを諦めさせるのは、お父さんを捕まえるのと同じくらい厄介なことだった。細部の予想ができないし、不確定な要素が多すぎる。何だか、お父さんはぼくの思ってもいない行動をとりそうだった。
 ――彼女を守る方法としては、もう一つある。
 それは、彼女に自分の身を守ってもらうことだった。彼女にすべてを白状してしまう。お父さんが人殺しだということ、彼女が狙われているということ、このままだと確実に殺されてしまうということ。
 でもそれでどうなるかは、ほかの方法と同じくらい不確かだし、気が進まなかった。彼女は笑って本気にしないかもしれない。あるいは信じたとしても、お父さんのことを捕まえるべきだと言うかもしれない。
 それはどちらも、ぼくの望むような状況じゃなかった。
 現状では、ぼくはすべてを解決するようなうまい手を思いつけないでいる。
 けれど――
 そもそも、どうしてぼくは彼女を死なせたくないなんて思っているんだろうか?

 ぼくが手をこまねいているあいだにも、時間はどんどん過ぎていった。
 ノートの記述は徐々に増えはじめている。やがて計画の立案段階に入れば、それがいつ実行されてもおかしくはなかった。
 ――もう、一刻の猶予も残っていない。
 ぼくは最後の手段を実行することにした。彼女にすべてを話すのだ。そうしてできれば、引っ越すとか、厳重な防犯対策をとるとかして、身を守ってもらう。考えられる中では今のところ、それが一番現実的な方法だった。
 梅雨に入って、昨日と同じように雨が降っている日のこと。
 ぼくは適当にタイミングを見計らって、彼女に話しかけた。いつも一人ぼっちでいる彼女と二人きりで話すのは、それほど難しいことじゃない。手紙みたいな方法を使わなかったのは、何らかの証拠として残ってしまう恐れがあったからだ。
 昼休み、誰もいない廊下のすみっこで、ぼくは彼女に大事な用事がある、と伝えた。だから今日、誰にも見られないようにしてある場所まで来て欲しい。君の命に関わることなんだ、と――さすがにこんなところで、お父さんのことをすべて話してしまうわけにはいかない。
 彼女ははじめ、何のことだかさっぱりわからないみたいだった。無理もないだろう。いきなり命がどうとか言われて、まともに対応なんてできるはずがない。そんなのは、家のクローゼットに地球外生命体がいるから故郷に帰してやろう、というのと同じくらいに無茶だった。
 でも、ぼくはあくまで真剣だった。真剣になるだけの必要があった。ぼくは諦めずに説得にあたった。脅したりすかしたり、宥めたり怒ったり、焦ったり苛立ったり、哀願したり強弁したり――
 そんなふうにしていると、彼女のほうでも納得したか、根負けしたようだった。
「よくわからないけど、わかった」
 と、彼女は承諾する。
「学校が終わってから、誰にも見られないようにしてその場所まで行けばいいんだよね?」
「――うん」
 ぼくはほっとため息をついて、精一杯真剣な顔でうなずく。
 約束が成立してから、ぼくはかなりの上の空だった。彼女を説得するために、できるだけのことを考えておく必要があった。どんなふうに、どこまでしゃべればいいだろう。いっそ、例のノートを持ちだして見せてしまおうか。でも、それで信じたりするだろうか――
 時間はあっというまに過ぎていった。
 放課後になっていったん家に帰ると、ぼくは傘だけ持って約束の場所に向かった。今頃は彼女も、同じようにその場所に向かっているはずだった。距離の関係から、ぼくのほうが先に着くはずだ。
 空からは梅雨らしい、長くて重いため息みたいな雨が降っていた。道路の上にはミニチュアの川が流れていて、ぼくは長靴でその川に足をつっこむ。流れはぼくの足を押して、どこかへ運ぼうとしていた。
 やがて、山の斜面のそばまでやって来る。神社の裏をちょっとまわったそこには、上のほうに続く山道がつけられていた。土の斜面は濡れてぬかるんでいたけど、滑ったり転んだりしてしまうほどじゃない。普段から人なんてほとんど来ないところだけど、雨の降っている今はなおさらだった。
 細い山道を、ぼくは登っていく。木立のあいだから見えていた街の風景は、少しすると完全に消えてしまった。雑然と生いしげる木々だけが、あたりには広がっている。雨の音が少しだけ遠かった。
 しばらくすると、少し開けた場所に出る。休憩地点みたいなところで、木のベンチが二つ置かれていた。見上げると、空にはぽっかりと穴があいていて、そこからまっすぐに雨が落ちてきている。
 ――それから、どれくらい時間がたったかはわからない。
 気がつくと、そこには彼女が立っていた。赤い傘と、赤い長靴をはいている。ぼくと同じように、家に戻ってから荷物だけ置いてきたのだろう。学校の時と同じ格好をしていた。
 彼女が来ることは、ぼくにはわかっていた。考えると少し変だけど、そのことを疑っていなかった。来なければ、一日でも二日でも待つつもりだった。
「話って、何?」――と、彼女が訊く。
 でも、ぼくは頭を振った。ここではまだ、その話をするつもりはなかった。そのためには、もう少しだけ移動しなくてはならない。ぼくがそう言うと、彼女は軽く肩をすくめてみせた。でもここまで来た以上、仕方ないと思っているみたいでもあった。
 空き地から道をそれて森の中へ歩きはじめると、彼女は何も言わずにあとをついてきた。森の中は傘を差したままだと歩きにくかったけど、無理というほどじゃない。葉っぱから水が跳ねて多少濡れてしまったって、それで死んでしまうというわけじゃない。
 その場所までは行ったこともあったし、それほど距離があるわけでもないので、特に問題はなかった。ぼくは藪を余計にかきわけて、彼女が通りやすいようにした。彼女はわりと無関心そうな様子で、大人しくついてきている。
 やがてぼくたちは、その場所にたどりついた。

 ――そこには、穴がある。

 一見すると、それは井戸に似ていた。円形になった石の枠で囲まれて、その下には深い空白が続いている。穴には暗闇がいっぱいになって、縁のぎりぎりのところまで詰め込まれていた。その暗闇は変に平板で、厚みのない蓋がかぶせられているように見える。
 それは、ぼくが夢で見たのと同じものだった。
 いや――
 それと同じものを、ぼくは夢で見たのだ。
「話があるっていうのは、この井戸みたいなのと関係があるの?」
 彼女はぼくの隣で、その穴のほうを見ながら言った。ぼくはうなずいて、まずは単刀直入に告げる。
「……ぼくのお父さんは、人殺しなんだ」
 それに対して、彼女はどう反応していいのかわからないような顔でぼくのことを見た。まるで、ぼくが急に知らない国の人間か何かにでもなったみたいに。
 予想していたとおりなのだけど、ぼくは順を追って説明した。偶然、ノートを見つけたこと。ノートの中では六人の人間が殺されていたこと。その六人は現在も行方不明なこと。ノートには新しく、彼女の名前が書かれていたこと――
 そして、穴のこと――
「この穴の底には、殺された人たちがいるんだ」
 ぼくがそう言うと、彼女はあらためて穴のほうを見た。それからぼくのほうを見て、また穴のほうを見る。
「信じられないよ、そんなの」
 と、彼女はちょっと困ったように言った。
 彼女の話によれば、彼女はぼくのお父さんに会ったことがあった。その時の様子からしても、とてもそんなふうには思えない、と彼女は言う。それはぼくにもわかる気がした。あの人くらい、殺人者のイメージから遠い人はいない。
 でも、すべては事実だった。
 ぼくはそれ以上、どう説明していいかわからなかった。お父さんが殺人者であることを証明する方法はない。彼女のお父さんに対する印象は正しかった。お父さんには異常なところも、それらしい動機もなかった。少なくとも、人がその話を聞いて納得できるほどには。
 言葉もなくぼくが口を噤んでいると、彼女は一人で穴のほうに歩いていった。そして傘を傾けて、底の見えない暗闇の中をのぞき込む。
 そこに死体があるのは、間違いないはずだった。少なくともお父さんのノートにはそう書かれていたし、それは確実だろう。
 とはいえ、それを確認することはできていない。穴はあまりに深かったし、光は底まで届かなかった。ロープを使って潜るのも危険だし、石を投げ込んだって何の反応も返ってこない。死体が存在する兆候は一切、発見できていなかった。
 そもそも、この穴が一体何なのかがわからないのだ。井戸にしては深すぎるし、こんな山の中にあるのも変だ。鉱脈か何かを探るための、一種の試掘抗かとも思ったけど、やっぱり妙なことに変わりはない。いつ頃からその穴があるのかもわからなかった。自然にできたというなら、こんな石の枠があるのもおかしい。
 何もかも、わからないことだらけだった。
 どうして、お父さんは人殺しなんてするのだろう。どうして、殺した相手をこんな穴の中に捨てるのだろう。この穴は一体、何のために、いつからあるのだろう。お父さんはいつから、この穴のことを知っていたのだろう。この穴の底には、一体何があるのだろう――
 ぼくはいろんなことがわからないまま、ただその場に立ちつくしていた。
 正体不明のその深い穴を、彼女はさっきからのぞき込んでいる。
 このままだと、彼女は死ぬだろう。お父さんに殺されてしまうだろう。彼女が信じていようと、いまいと、それは変わらない。すべての人間がいつか死ぬのと同じくらい、それは確かなことだった。
 森の中は静かで、空からは雨が降っていた。ぼくの頭の中で、何かがゆっくり理解されはじめていた。解けなかった算数の問題の、答えを出すみたいに。それは気づきさえすれば、ごく当然で、ほかの答えなんて考えられない種類の問題だった。
 そして――
 そして――
 ぼくは不意に、理解してしまっていた。お父さんがどうして、引きだしの暗証番号にあんな数字を使ったのか。どうしてわざわざ、お母さんのいなくなった日をそれに使ったのか。
 すべてを、ぼくは理解していた――理解できてしまっていた。
 ――それはとりもなおさず、ぼく自身のことを理解することでもあった。
 だからぼくは、それをした。
 そこに、ためらいはなかった。焦りも、恐怖も、戸惑いも、疑念も、興奮も、諦めも、退屈も――何も、ない。
 あるのはただ、凡庸といっていいくらいの理解だけだった。

 彼女の失踪が事件として伝えられたのは、それから数日後のことだった。
 学校の先生からの、「何か知っている者はいないか?」という質問に答える生徒はいなかった。ぼくを含めて、誰も。彼女はいつも一人ぼっちだったのだ。彼女の行動や行き先に注意を払う人間はいなかった。
 ――とはいえ、本当のところ、ぼくは彼女が今どこにいるかを知っていた。
 そして、お父さんの言う深い穴、ぼくの中にもあるその深い穴の底に、何があるのかも。光も、声も、どんなに長い手も届かないその場所に、何があるのかも。
 深い穴の底には、大切なものがあった。その大切なものがどんなものなのか、今のぼくにはわかっていた。それがどんな形をして、どんな色をして、どんな大きさで、どんな重さなのか――ぼくはそれを、ちゃんと知っていた。
 そして彼女は今、とても静かなところにいた。彼女はあの死んだ猫と同じくらい静かだった。そこからは時々、小さな歌が聞こえてきた。音とか言葉というより、むしろにおいとか、手触りとか、光の感じみたいな。
 ぼくは時々、夢の中で井戸のそばに座ってその歌を聞く。
 お父さんのノートには、それ以来彼女のことについては書かれていない。たぶん、それが書かれることはもうないだろう。お父さんがそれについてどう考えているのかはわからなかった。あるいは、ぼくのことを疑っているのかもしれない。お父さんは今日も時計をあわせ、朝ごはんを食べる。
 しばらくのあいだは、お父さんのノートに新しいことが書かれることはないだろう。それは、そう頻繁に起こることじゃないし、出会うものでもない。今では、ぼくにもそのことがわかっている。
 いずれにしろ、すべてのことは今までと変わりがなかった。物事は算数的に処理され、ロボットみたいに動作して、みんなはそのバカさ加減を受け入れている――
 少なくとも、表面的にはそうだ。深い穴の底にあるものを除いては、すべてが今までと同じように機能している。
 でも――
 問題が一つあった。
 それは、お父さんはいつかぼくのことを殺すだろうか、ということだ。
 はたしてその時、ノートにはぼくのことが書かれるんだろうか。名前、特徴、病歴、行動スケジュール、殺害計画、いくつかの考察……。それとも、そんな必要もなく、ぼくのことを殺してしまうだろうか。たぶん、最初にそうしたのと同じように。
 あるいは、お父さんはぼくを殺したりしないんだろうか。
 ――だとしたら、それはどっちがより悲劇的なんだろう?
 宇宙そのものがすっかり変わってしまうわけではないにしろ、これはなかなかの謎だった。深い穴の秘密と、同じくらいに。
 そこには、どんなに強い光も、どんなに大きな声も、どんなに長い手も、届くことはない。

――Thanks for your reading.

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