[ぼくは魔法が使える]

 ――ぼくは魔法が使える。
 そのことを教えてくれたのは、お母さんだ。お母さんは今は家にいなくて、葦原(あしはら)病院に入院している。たいした病気じゃないとはいえ、病気は病気だから。
 ぼくはその気になれば、嵐を呼ぶことも、枯れ木にリンゴを実らすことも、蜥蜴に人の言葉をしゃべらすこともできる。ぼくにできないことはない。ちょっと集中して、呪文を唱えさえすればいいのだ。
 だから、大抵のことは問題じゃない。
 例えばある朝、普通に中学校に登校してみたら、自分の机いっぱいに「死ね」とか「自殺しろ」とか書かれていても、そんなのはたいしたことじゃない。雑巾で拭いてしまえば、それですむことだ。
 ほかにも、いきなり後ろから叩かれたり、何も言わずに物を投げつけられたり、知らないうちに筆箱の中身を盗られたり、引きだしにごみを入れられていたり、イスにのりをつけられたり、掃除用具のロッカーに閉じ込められたり、ノートに千枚通しで穴をあけられたりしても――
 そんなのは、ちょっと心が傷つくだけで、全然たいしたことじゃない。

 ぼくのまわりでそんなふうなことが起きはじめたのは、小学校四年生の頃からだった。
 当時、ぼくには同じクラスにサエちゃんという仲の良い友達がいた。家が近くで、よくお互いの家に遊びに行ったりもした。サエちゃんは髪をポニーテールにくくった、活発な女の子だった。
 そのサエちゃんが、ある日ぼくに向かって、「もう遊ばないから」と言いだした。理由を訊いても、何も教えてくれない。ぼくには訳がわからなかった。
 サエちゃんは別の女子グループに移って、そのグループは急にぼくのことをからかうようになった。「キチガイが感染る」と言われたりした。ぼくの触ったものは、汚い菌でもついてるみたいに扱われた。「ハカバ」と言われたりもした。ぼくの名前が「奥津城(おくつき)」というからだ。
 その女子グループの行動はクラス全体に広がって、そうするのがクラスの義務であるみたいに、みんながぼくのことを悪く言った。ぼくがただ歩いているだけで、足をかけたり、体当たりをしてきたり。その中には、サエちゃんの姿もあった。
 ぼくはやっぱり訳がわからなかったけど、平気だった。その気になりさえすれば、ぼくは魔法が使えるのだ。それで何もかも片づけてしまえばいい。
 学年が進んでもそんな状況は変わらずに、むしろ悪くなっていった。ガキ大将みたいな子は、勇気を示すためにぼくの持ち物を平気で壊した。何か隠して、ぼくがおろおろするのを笑って眺めてる子もいた。
 その頃には、ぼくの噂は全校に広まっていたらしく、廊下で転んだ下級生を助け起こそうとしたら、死神でも見るような目でにらまれたことがある。どうやらぼくは、歩く病原菌みたいに考えられていたらしい。みんな不幸が伝染しないように予防線をはっているみたいだった。
 そんな状況も、中学に行けば変わるだろうとぼくは思っていた。知らない人間が増えれば、ぼくに対する関心も減るはずだ。実際、それは正しかった。
 中学の新しいクラスは知りあいが比較的少なくて、ぼくはごく普通の人間として扱われていた。友達もできて、知らないうちにノートに落書きされるなんてこともなかった。小学校時代のことはすっかり息をひそめていた。
 ぼくは友達に誘われる格好で、バスケ部に入った。特にバスケットに興味があったわけじゃなくて、誘いを断わりきれなかった形だ。でも練習がきついとかいうことはなかったので、不満というわけでもなかった。
 バスケ部の三年生に、新良木(あらき)という先輩がいた。不良っぽい雰囲気で、いつもとりまきみたいな連中といっしょだった。「新良木先輩には逆らわないほうがいいよ」と、いっしょに入った友達が教えてくれた。「知りあいに怖い人がたくさんいるらしいから」
 部活のあと、みんなでコートの掃除をするのだけど、新良木先輩とその仲間たちはいつも遊んでいて、先生がいるときだけはまじめなふりをした。みんなそれを苦々しく思ってはいたけど、先輩とその怖い知りあいのことを考えて黙っていた。触らぬ神に祟りなし、というわけだ。
 でもぼくはそんなふうに黙っていることも、自分勝手にされることも納得できなくて、とうとう先生に報告することにした。特別に厳しい先生ではなかったけれど、そういうことにはうるさい先生だった。
 翌日、ぼくは着替えの途中で新良木先輩に話しかけられた。いつものとりまき二人もいっしょだった。
「奥津城、先生に掃除のことチクったんだってな」
 のしかかるように、新良木先輩がぼくに言った。その脇から向こうを見ると、みんなが凍りついたような目でぼくのことを見ている。
「お前、チョーシのってんじゃないの?」
 いつその手が摑みかかってくるかと思って、ぼくは身を固くした。新良木先輩はそんなぼくの様子をじっくり観察してから、
「これからどうなるか、覚悟しとけよ」
 と捨てセリフみたいに言い残して、去っていった。
 ぼくは全身から力が抜けたみたいに立っているのもやっとで、「大丈夫だった?」と声をかけてくる友達にも答えられなかった。
 そしてもちろん、ぼくの状況はあまり「大丈夫」とは言えないものになった。
 新良木先輩は言葉通りに、ぼくに「覚悟」をさせるようになった。練習中、どこからボールやキックが飛んでくるかわからなかった。服が汚れていたり、バッグがごみ箱に捨てられていたこともあった。次に何が起きるのかと思うと、ぼくは訳もなく怯えてしまった。
 おまけに、まず二年生のあいだで新良木先輩に同調する動きが起こった。ぼくが話しかけたり質問したりしても、適当に返事をするだけで誰も答えてくれない。ぼくが近づいていくと、あからさまに逃げていく人もいた。
 それが一年生のあいだに広まるのに、たいした時間はかからなかった。
 ぼくはのけ者にされ、練習にもまぜてもらえないようになった。パスももらえないし、走っていると、磁石が反発するみたいにみんな離れていった。一人で練習しようとすると、「なに勝手なことしてんの?」とコートから追いだされた。いっしょに入った友達は、ぼくと距離をとった。「こっちまでいじめられるから」と言って。ぼくは運動場で、たった一人で走っていることが多くなった。
 何故だかわからないけど、そうした動きはクラスでも広がりはじめた。昨日まで普通にしゃべっていたクラスメートが、急によそよそしくなった。何か班を作る必要があると、ぼくは余りものになった。そしてぼくといっしょになると、誰でも露骨に顔をしかめた。
 それが新良木先輩による働きかけなのか、小学校時代と同じことが起こっているのか、それとも両方なのかは、ぼくにはわからなかった。ただ、事態はどんどん悪くなっていて、それをとめることはできなかった。
 部活での居場所はすっかりなくなって、結局ぼくはバスケ部を辞めることにした。顧問の先生に理由を訊かれたけど、「ほかのことで忙しくなって」とだけ答えておいた。先生はそれ以上何も聞こうとはせず、小テストの採点を続けた。
 退部して新良木先輩との接点が切れたにもかかわらず、一度発生したクラスでの雰囲気は変わらなかった。小学校時代の噂が蒸しかえされ、「ハカバ」とか「バイ菌」とかいう言葉が復活した。
 そしてしばらくすると、ぼくは玄関で上履きの片方がなくなっているのを発見した。

 電話がかかってきたのは、夕食に天ぷらの準備をしているときのことだった。
 ぼくはコンロの火をとめて、リビングにある電話の受話器をとった。相手は、同じクラスの柏木(かしわぎ)さんだった。
「ごめんね、今日はあんなことして」
 と、柏木さんはいきなりそんなことを言った。あんなこと、というのはたぶん、ぼくの筆箱でサッカーのまねごとみたいのをしたことだろう。
「明日からは、また仲よくしようね」
 そう言って、柏木さんからの電話は切れた。ぼくは今にも受話器がエビかキュウリにでも変わるんじゃないかと疑り深く眺めてから、そっと元に戻した。電話機は魔法が解ける様子もなく、澄ました顔でじっとしていた。
 ぼくは台所に戻って、もう一度火をつけて天ぷら油を温めはじめた。
「誰からだった?」
 風呂上りで、髪をバスタオルで拭きながらやって来た父親が訊いた。商社に勤めていつも忙しい父だけど、今日は珍しく帰りが早かった。
 冷蔵庫を開けてビールを探すお父さんに向かって、
「――学校の友達」
 と、ぼくは答えた。
「何か用事でもあったのか?」
「ううん、たいしたことじゃないよ」
 ぼくはそう答えて、衣をつけたナスを天ぷら鍋に入れた。背中で、お父さんがソファに座って缶を開く気配を感じた。ちょっと様子をうかがう間があってから、テレビがつけられる。
 油がはねるのをよけながら、ぼくは天ぷらを揚げていった。お母さんが入院してから、食事の用意をするのは基本的にぼくの役目になっている。洗濯や、掃除や、そのほかの細々したこともいっしょだ。お父さんは仕事で忙しいから。
 少し広すぎるくらいのテーブルで、ぼくとお父さん二人だけの食事がはじまる。元々、二階建てのこの家は三人家族には広すぎるくらいだったけど、今は二人になってそれがいっそう強く感じられた。迂闊に手をのばすと、どこか別の場所に触れてしまいそうで、何となく落ち着かなかった。
 仕事の関係でよく人と話をするお父さんは、会話の流れを絶やすことがない。テレビのことや仕事のことを、熟練した飴細工職人みたいに手早く話にまとめてしまう。
 ぼくは相槌を打ったり、笑ったりしながら、それにつられるみたいに自然と自分のことを話した。ただし、教室での嫌なことや、みんなのことは除いて。
「バスケ部、続けたほうがよかったんじゃないのか?」
 お父さんは野球の話から、不意にそんなことを訊いてきた。ぼくは何でもないみたいに首を振ってから、
「家のことも忙しいし、それに元々そんなに好きじゃなかったから」
 と、答えた。
「……そうか」
 お父さんは舞茸をてんつゆにつけながら、少し考えるように言う。
「もしもしんどいようなら、家のことも無理する必要はないんだぞ。家政婦さんを雇ってもいいんだしな」
「いいよ、それは。別に無理してるわけじゃないから」
 ぼくはできるだけ平気そうに答える。お父さんは、ぼくの答えの重さをはかるみたいに黙っていた。
「――それより、お母さんはどうだった?」
 話題を変えるためにも、ぼくはそう訊ねた。この前、お父さんは仕事のついでに面会に行ってきたはずなのだ。
「まあまあ、元気そうだったよ」
 と、お父さんは苦笑するように言う。いつも元気な父だけど、お母さんのことだけは滲んだような疲れが見える。
「いつもの人形を抱えてたよ。あれがあると安心できるらしいんだな。看護婦さんとも仲よくやってるみたいだった。薬もきちんと飲んでるそうだ」
「――うん」
 ぼくは前にお見舞いに行ったときのことを思い出しながら、うなずいた。
「ところで、学校のほうはどうなんだ?」
 ほとんど食事を終えたところで、お父さんは訊いた。
「うん……普通だよ」
 ぼくはごまかすように笑ってみせる。お父さんがその笑顔をどう受けとったのかはわからない。でもお父さんだって、心配事ならお母さんや仕事のことだけでたくさんだろう。
 食事がすむと、ぼくは食器を洗って片づけた。お父さんはテレビをつけながら、ノートパソコンで仕事をしている。ぼくは風呂に入って、宿題をしてからベッドで横になった。
 真っ暗闇の中で天井を見つめていると、頭の中のいろんなことがそこに溶けだしていくような気がした。暗闇はやがて理科で習った飽和状態になって、それ以上は何も溶けきれなくなる。
 いろんなものが溶けた暗闇は、変に濁って汚れた感じがした。

 次の日、教室に行ってみると、ぼくの机の上には牛乳瓶が置かれ、その辺で摘んできたらしい花が入れられていた。いわゆる、葬式ごっこというやつらしい。
 ぼくの机を遠まきにしたクラスメートの中には、くすくす笑う柏木さんの姿があった。ぼくは何だかよくわからずに、ひどく混乱してしまった。

 どういう都合によるのか不思議なのだけど、一つのグループがぼくのことをのけ者にすると、それとは関係のないクラスメートまでそれと同じようなことをするようになる。
 理科の実験で、共鳴現象というのがあった。物質には固有の振動数があって、二つの音叉の片方を鳴らすと、もう片方も鳴りはじめる、というやつだ。人間関係でも、それと同じようなことが起きるのかもしれない。
 けれどそんな科学的な理屈がわかったとしても、ぼくの置かれた状況が変わるわけじゃない。教室にいると、針のむしろにでも座っているみたいだった。休み時間になるたびに緊張して、授業中だけが何とか安心していられる。
 その日は、体育の授業が自習になった。グラウンドなり体育館なりを使って、好きなことをしていいという。
 当然だけど、ぼくは困ってしまった。好きなことなんて言われたって、誰もまぜてくれるはずはないのだ。体育館の隅に一人で所在なく座っているというのも、ひどく気の滅入る話だった。
 ぼくは少し考えてから、誰もいない校舎の裏に行って、そこで時間をやり過ごすことにした。みんながわいわい言いながらグループを作っているのを横目にしながら、できるだけ目立たないようにしてその場をあとにする。
 校舎の裏は日陰になって、じめじめしていた。角のところまで行くと焼却炉があって、そこだけ陽があたっている。ちなみに、最初に靴の片方がなくなったときは、この焼却炉の前に落ちていた。
 ぼくは校舎の壁に背中をつけて、座り込んだ。何だかそのまま、灰色の影の中に体が溶けていくんじゃないかという気がした。念のために手をのばして、自分の手がまだそこについていることを確認する。
 ――その時だった、声がしたのは。
「あれ、奥津城じゃん。何やってんの、こんなところで」
 慌てて振り向くと、そこには同じクラスの江波(えなみ)がいた。後ろには、そのグループの二人。
 何だか、とても嫌な予感がした。
「別に、何も……」
 言いながら、ぼくはそろそろと立ちあがった。いざというときは逃げられるようにしておいたほうがいいと思って。
「一人でここに来るの、見てたんだよ。――なに? もしかして自分一人だけ授業さぼるつもり?」
 ぼくの考えを読んでいたみたいに、江波たちとは反対からもう一人が現れた。逃がさないつもりなんだろう。
「そんなつもりじゃないけど……」
 四方を囲まれたせいで、ひどく息苦しさを覚えた。
「じゃあ、どういうつもりなわけ?」
「…………」
 それを自分で答えるのはごめんだったし、答えたところでこの四人がどこかに行ってしまうとは思えなかった。
「黙ってんじゃねえよ、口もきけないわけ?」
 一人がすごんできた。ほかの二人も同じような口調で言う。
「何とか言ったらどうなんだよ」
「どうせ本心じゃ、自分のこと特別だとか思ってるんだろ」
 そんなことは、ぼくは知らない。
 でも、何を言ったって無駄なのはわかっていた。台風とか、地震とかと同じだ。黙ってやり過ごしてしまうしかない。いずれは相手だって飽きて行ってしまう。
 ところが、四人はちょっとした遊びを思いついていたらしい。
「一人でさびしい思いをしてるかわいそうな奥津城のために、実はこんなものを持って来てやりました」
 江波はにこやかにそう言って、さっきから持っていたサッカーボールを掲げてみせた。ぼくはやっぱり、嫌な予感がした。
「それではこれから、奥津城にはゴールキーパーをやってもらいたいと思います。シュートを四本とも止めたら、終わりにしたいと思いまーす」
 にこにこしてボールを地面に置くと、江波は思いきりそれをキックした。
 校舎の角にはほとんどスペースなんてない。壁に張りついたとしても三メートルあるかないかだ。そんなところから思いきりボールを蹴られたって、止めることなんてできるはずがない。
 ぼくはものすごい勢いで飛んできたボールを、何とかしてかわすのが精一杯だった。「何だよ、キーパーがボールよけてどうすんの」不満そうな声が聞こえる。
 別の一人が、壁に跳ね返ったボールをまた蹴った。今度はよけきれずに、腰に当たった。「あは、いったそー」
 次々に飛んでくるボールを、顔に当たらないようにするので精一杯だった。そうやって四本、シュートが体に当たっても、ボールがやむ気配はなかった。笑い声が水面から聞こえるみたいに響く。転んで、手を擦りむいた。それでもボールがぶつかってきて、ぼくは体を丸めるしかなかった。
 そうやって亀みたいに手足をひっこめていると、いつのまにか衝撃がこなくなった。恐るおそる顔をあげると、もう誰もいない。時間が来たか、飽きたのか、どっちかだろう。
「痛っ!」
 よく見ると、擦りむいた手の平からひどく血が滲んでいた。赤い滴がたれて、コンクリートの地面に汚点を作る。このまま放っておくと、面倒なことになりそうだった。
 ぼくは左手で右手を支えながら、保健室に向かった。血がたれないように注意しながらドアを開けると、幸い保健の先生以外には誰もいない。事情を話すと、手の平を見ながら先生に訊かれた。
「一体、どうしたの?」
「――授業で転んだんです」
 ぼくは何でもないことみたいに答える。体操着には一部にくっきりボールの跡が残っていたけど、不審には思われなかったみたいだ。
「じゃあ、そこでよく手を洗って、終わったらこっちに来て」
 言われたとおりに、ぼくは洗面台でしみる傷口を洗って、イスに戻った。先生は大きめのバンドエイドのような物を用意して、そこに貼る。何だかゼリーみたいにふにょふにょしていた。
「できれば四、五日くらいそのままにしておいて。ちょっと表面がふくれると思うけど、気にしなくていいから」
「――はい」
 ぼくは試すように手を回しながら答えた。とりあえず、血がたれてくるようなことはなさそうだ。
「今度は無理しすぎて、怪我しないようにね」
 四十すぎくらいの女性の保健医は、注意するみたいにそう言った。ぼくはにこにこしながら、「はい、気をつけます」と答える。たぶんそれは無理ですよ、と思いながら。
 バンドエイドの貼られた右手をかばうように歩きながら、更衣室に向かった。チャイムはもうとっくに鳴っていて、中には誰もいない。着替えを置いた棚のところに行くと、床の上に制服が散らばっていた。
 もちろん、確認するまでもなく、ぼくの制服だった。
 ぼくは床から服を拾いあげて、手で叩いて埃を払った。次の授業のためにやって来た二年生たちがそれを見ていたけど、ぼくはできるだけ何でもないふりをして、そのまま着替えをすませた。

 帰り道からは少し離れているのだけど、ぼくは時々、昔よく遊んでいた公園によってみることがある。
 それは丘の上にある、何かの工場だか倉庫だかのすぐ近くにあって、いつ行ってもほとんど人はいない。住宅地からは距離があるし、坂道をずっとのぼっていかなくてはならないからだろう。
 公園は小さくて、置いてあるのも鉄棒とブランコの二つきりだった。鉄棒はどちらかというと、何かの拷問器具みたいに見える。ブランコは、サーカスから見捨てられたピエロみたいにうらぶれていた。
 だから人が来ることはめったになかったけれど、子供の頃のぼくはお母さんといっしょに、よくそこにやって来た。お母さんがぼくを連れて外に遊びに行くときは、大抵そこに行くことになった。
 誰からも忘れられたような公園だったけど、丘の上にあるだけに眺めはよかった。遠くには緑の山なみが連なっていて、その下に家や道路、田んぼが広がっている。さえぎるもののない空を、雲が自由そうに悠々と流れていった。
 ぼくはお母さんといっしょに一つのブランコに座って、そんな景色をよく眺めていた。ブランコは時計の振り子みたいにゆっくりと揺れた。時間はそれに従って動いていた。
 お母さんがある秘密を教えてくれたのは、そんな時のことだ。
「実はね、君は魔法が使えるんだよ」
「まほう?」
 ぼくはびっくりした、のだと思う。自分では全然そんなことには気づかなかったから。
「そう、魔法――」
 お母さんはぼくを膝の上に乗せたまま、にこやかに言う。
「それって、えほんみたいに?」
 ぼくは乏しい知識を活用して訊ねた。
「うん、だからね、君はどんなことだって好きなようにできちゃうんだよ」
「すきなように、って?」
「例えばね、空をびゅうって飛んだり、夜空に星を輝かせたり、夕陽を使ってあたりを赤く染めたり――」
 お母さんはそう言って、ぐいっと勢いをつけてブランコをひとこぎした。幼いぼくはきゃっきゃと笑った。
「――そんなこと。魔法を使うと、世界はずっと素敵なところになるんだよ」
「うん、わかった」
 勢いよく揺れるブランコの上で、ぼくはそれ以上に心を揺らしながら言った。
「ぼくはまほうがつかえるんだ」
 その時、お母さんがどんな顔をしていたのかは知らない。ぼくはずっと、魔法をかけられたみたいに揺れる、遠くの景色を眺めていたから。

 ――公園の入口に自転車を置いて、ぼくはブランコに座った。子供の頃は地面に足もつかなかったけど、今は膝を曲げないと座ることもできやしない。
 足に力を入れると、ブランコがぎしぎし鳴った。くたびれて、放っておいてくれよ、と言ってるようにも聞こえる。ぼくは足をつけたまま、労わるようにそっとブランコを揺らした。
 しばらくすると、山際に赤い夕陽が沈んでいくのが見えた。あたりは魔法にでもかかったみたいに赤く染まった。田んぼも、用水路も、ガードレールも、家も、道行く人も、その笑顔も。
 でも、実はそうやって世界を赤くしているのは、ぼくの魔法なのだ。ぼくがそうやって、世界に魔法をかけた。
 誰も、そんなことは知らないけれど――
 ぼくがブランコを大きくひとこぎすると、世界は魔法にかかって大きく揺れた。

 母の入院している病院までは、家からバスで三十分というところだった。高台にある大学病院で、まわりには緑が多い。比較的静かなところだった。
 日曜日、ぼくは一人で家を出て、病院に向かった。お父さんは何か仕事で忙しいらしく、いっしょじゃない。元々、お母さんの見舞いに行くのは別々のことのほうが多かった。
 葦原台の停留所で降りて、少しだけ歩く。並木道には緑の影が落ちていた。ちょうどお昼すぎで、何もかも昼休みをしているみたいだった。夏にはまだ早い陽射しは、透明で、体をすり抜けてしまいそうだった。
 しばらくすると、病院に到着する。いつもの道を通って、お母さんのいる病棟に向かった。受付にはなじみの看護婦さんがいて、すぐに中へ通してくれる。
「お母さん、今日は調子がいいみたいよ」
 と案内しながら教えてくれた。
「昨日はよく眠れたみたいだから、それで気分がいいのかもしれないわね。いつもより元気そうよ。じゃあ、帰るときには声をかけてね」
 ぼくがうなずくと、看護婦さんはにっこりして行ってしまった。
 ラウンジのようなその場所には、丸いテーブルがいくつもあって、入院患者や見舞いに来た人たちが座っている。中庭からは明るい光がさしこんで、全体を白く照らしていた。テレビからのど自慢の音楽が聞こえる。向こうのほうには運動用のルームランナーがあった。
 テーブルの一つに座ってしばらくすると、お母さんがやって来た。薄桃色の病衣に、茶色いスリッパ。手には古ぼけた人形を抱えている。
「あら、久しぶりね。元気だった?」
 お母さんは笑いながらそう言って、同じテーブルの席に座った。
「うん、元気だったよ」
 ぼくは同じような笑顔で返事をする。
「……でもその手、怪我してるんじゃないの?」
 目ざとく右手のバンドエイドに気づかれて、ぼくは苦笑した。
「体育の時間に、ちょっと転んだんだ」
「気をつけないとね。……確か、前にもどこか怪我してなかったかしら?」
 たぶん、石を投げつけられて頬を切ったときのことだ。ぼくは早々に話題を変えてしまうことにする。
「そっちのほうは、元気なの?」
「ええ、もちろん」
 お母さんは嬉しそうに言って、人形の手を動かす。綿とフェルトで作られた、ごく普通の形をした男の子の人形だ。
「この子も元気だって。早く外で遊びたいって、言ってるわ。まったく、いつまでこんなところにいなきゃいけないのかしら?」
「お医者さんは、まだ退院はできないって言ってるよ」
「そのお医者さんこそ、入院の必要があるわね」
 言って、お母さんはくすくすと笑う。
 確かに、今日の母は調子がよさそうだった。
「薬とかは、ちゃんと飲んでるの?」
「ええ、もちろん。あれ飲むと、ちょっと頭がくらくらしちゃうから嫌なんだけどね。もっといいお薬はないのかしら」
「仕方ないよ、悪くならないためなんだから」
「そうね――ところで、あなたの学校のほうはどうなの?」
 ぼくはしれっとして答えた。
「楽しいよ、友達もたくさんいるし」
「それはいいことね。中学生の頃って、私どうしてたかしら? もうずいぶん、昔のことね。すっかり忘れちゃってる」
 お母さんはうつむいて、人形の手足を動かした。
「まあ何にせよ、楽しいのが一番ね。その調子でがんばって」
「……うん、がんばるよ」
 ぼくはにっこり笑ってみせた。

 休み時間、教室で次の授業の準備をしていると、遠くの机で話をしているのが聞こえた。女子三人のグループだった。
「――てかさ、何であの子いじめられてるわけ?」
 どうやら、ぼくのことらしい。
「いじめやすいからじゃないの? そういう、体質」
 一人がわりとどうでもよさそうに答える。
「奥津城要(かなめ)なんて、変な名前だからじゃない」
 女子三人は、まるでぼくなんてそこにいないみたいに話していた。少なくとも、いたとしても別にどうだっていい、という感じで。
「この前なんて、江波にこっぴどくやられたらしいよ」
「体育の自習の時ね。江波もあれで凶暴な奴だからなぁ」
「まあ、勝手にさぼるのもどうかとは思うけどさ」
 好きでさぼったわけじゃないけれど、とぼくは心の中だけで抗議しておく。
「てかこれ、聞いた話なんだけど、何でもあの子の母親って……」
「……え、それマジなの?」
「それは引くわ。ありえないわ」
 三人は自然とそうなったみたいに声をひそめている。
「小学校の時の同じクラスだったって子からの情報だから、確からしいよ」
「じゃあさ、あの子も……?」
 三人がそっとぼくのことをうかがうのがわかって、ぼくは気づかないふりをした。いかにも用事があるみたいに時計を確認して、外の天気具合を見る。明日あたり、雨が降りそうだって予報で言ってたっけ。
 そうやっていると、その三人は別の話に移ったらしく、もうぼくのほうを見てはいなかった。ぼくは壊れやすいものを動かすみたいに、そっとため息をつく。そんなことをしたって、たいした意味があるわけじゃないのはわかっていたけど。
 仕方なく教科書でも読んでいようかと思ったとき、目の前をクラスメートが一人、通りすぎていった。そのクラスメートはぼくの横を通りすぎる直前、一枚の紙を机の上に置いていく。そうして呼びとめるまもなく、どこかへ行ってしまった。
 ぼくは何だかよくわからないまま、その紙を見つめた。
 四角く折りたたまれた紙は、偶然空から落ちてきた花びらみたいにして、そこにあった。経験上、こういう手紙にはろくなことが書かれていないのだけど、ぼくは何故だかその紙に嫌な感じを受けなかった。その紙が積もったばかりの雪みたいに真っ白で、几帳面すぎるくらいにきちんと折られていたからかもしれない。
 ぼくは何気ない感じで、その紙を開いてみた。開く瞬間には、さすがに少しだけ覚悟を決めておいたけれど。
 そこには、こんな文章が書かれていた。

『今日の放課後、屋上のところで話ができませんか? 内密に。
                       ――広沢(ひろさわ)ゆずき』

 ぼくは文章を繰り返し読んで、何度か手紙をひっくり返してみた。書かれているのは、やはりそれだけだった。丁寧で、読みやすい文字だった。
 今までにも何度か、告白の手紙というやつを受けとったことはあった。「実はあなたのことが好きでした。○○で待ってます」というやつだ。手紙に釣られて行ってみると、そこには誰もいない代わりに、みんなに笑われることになる。
 でもその手紙は、そういう感じのものじゃなかった。からかうような雰囲気はなくて、むしろ事務的といっていいくらいだった。差出人の名前だって、ちゃんとついている。ぼくと広沢さんには、直接の面識はない。クラスの輪の中心からは、少し外れたところにいる女の子だった。
 とはいえ、これが例によって何かのからかいの手紙である可能性は否定できなかった。広沢さんの名前を出せば、ぼくの警戒がゆるむだろうという計算をしたのかもしれない。何とも言えなかった。
 ――でも迷ったすえ、ぼくは手紙の通りに放課後、屋上まで行ってみることにした。屋上に出る扉には鍵がかかっているので、実際にはその手前までだったけれど。
 階段をのぼっていくと、そこには女の子が一人で待っていた。広沢さんだった。ほかには誰もいない。誰かが隠れて待ち伏せしているような気配もない。ぼくは忍者じゃないので、断言はできなかったけど。
「来ないかと思ってた」
 と、広沢さんはまず言った。手紙と同じような、事務的で角のくっきりした口調だった。
「どうして?」
 ぼくが訊くと、広沢さんはためらいもなく答える。
「だって、もう懲りてるかもって思うでしょ」
 別にからかっているという感じじゃなかった。
 広沢さんはぼくを階段の一番上までのぼらせると、奥のほうと位置を交換した。狭いけれど、そうやって奥にいると死角になって見えにくい。広沢さんは階段の下に誰もいないのを確認してから、あらためてぼくに話しかけてきた。
「……あんた、自分がどうしていじめられてるかわかってる?」
 と、広沢さんはいきなり言った。ぼくは首を振る。
「何で、そんなこともわかんないかな……」
 彼女は独り言でもつぶやくみたいにして、もどかしそうにつま先で地面を蹴った。ぼくの普段の印象からすると、彼女は大人しくて目立たず、そんなふうに苛立ちを表にする人ではなかったけれど。
「あんたを見てるとさ、イライラするんだよね」
 たたみ込むように言われて、ぼくはどう返事をしていいかわからずに困った顔をした。
「本当に、イライラする。どうしてそれくらいのこともわからないの、って」
「そんなこと言われても……」
「いいえ、わかってしかるべきなのよ」
 彼女はぴしゃりと言った。
「ちょっと我慢すれば、それですむことじゃない。まわりにあわせて笑って、まわりにあわせてバカなことをすればいいのよ。自分が普通のふりをする。それでおしまい。誰もあんたにかまわなくなる。たったそれだけのことが、どうしてできないっていうの?」
「別にそんな……」
「いいえ、そうあってしかるべきなのよ」
 彼女はやっぱり、ぼくの言葉をさえぎって言った。
「それくらいのこと、もうわかってるでしょ? 何を言ったってしかたがない。正論、真理、真実――何それ? 食べられるの? そんなもの、どこにもない。誰も必要としてない。だったら、要領よくやっていくしかないでしょ。それくらいのこと、わかってしかるべきよ」
 ぼくはどう返事をしていいのかもわからずに、黙っていた。
 ふう、と風船の空気を抜くみたいにため息をついてから、広沢さんは元の姿勢に戻った。いつもの、あまり感情のなさそうな、無機質な広沢さんに。
「――ごめん、どうしても言っておきたくて。余計なお世話なのはわかってる。でもね、私からすれば、いじめられてる原因はあなたのほうにあるのよ」
「…………」
「あなただって、いじめられるのなんてごめんでしょ? だったら、我慢するしかないのよ。我慢して、目立たないようにまわりにあわせていればいいの」
 ぼくはやっぱり、どう返事をしていいかわからなかった。
「こんなのいつまでも続いてたら、あなただって耐えられないわよ?」
 そう言われて、ぼくはようやく答える。
「――魔法が使えるから、大丈夫だよ」
 広沢さんは馬鹿にするでもなく、ぴしゃりと言った。
「だから、どうしたっていうのよ」
 彼女はごくつまらなそうな顔をしている。
「たかが魔法が使えるくらいで、この世界がどうにかなるとでも思ってるの?」

 梅雨の準備運動を思わせるような、朝からの雨だった。
 体に見えない何かがくっついているみたいで、すっきりしない。そうすると、ぼくをからかいにくるグループもやる気をなくすのか、比較的平和な一日だった。廊下ですれ違うときに、ちょっと鼻をつままれて手であおがれたくらいだった。
 放課後になると、ぼくはさっさと荷物をまとめて玄関に向かった。学校にいてもろくなことにならないのはわかっている。
 幸い、下駄箱には何の異常もなくて、ぼくはほっとして外履きにはきかえた。それから傘立ての傘を取ろうとして、あることに気づく。
 ぼくの傘が、どこにもなかった。
 赤い、よく目立つ傘だった。今朝、登校したときには間違いなくそこに置いたはずなのだ。名前だって、よく見えるところにきちんと書いてある。なくなるはずはなかった。
 散々あたりを探しまわったすえ、ぼくはようやくそれを見つけた。でも、もうどうしようもなかった。
 傘はごみ箱の中で、今はもう傘とは呼べない代物に変わっていた。金属の骨が乱暴に折られ、布地の部分はずたずたに引き裂かれている。柄のところにきちんと名前が書かれているから、それはぼくのものに間違いない。
 ぼくはその傘を見なかったことにして、玄関の外に出た。相変わらず、雨は降り続いていた。どれだけ待ったところで、やみそうもない。世界が終わるときまでは――
 仕方なく、ぼくは雨の中を歩きはじめた。服が濡れて、体に張りついてくる。水気を含んで、髪が重くたれた。靴下まで水びたしで、足を踏むたびにかぽかぽ音を立てる。
 まわりを、色とりどりの傘をさした帰宅生が歩いていた。ぼくはできるだけ顔を上げずに、いつものペースで歩いていった。バス停の近くまで来ると、雨を避けるために店の軒先の隅に立っている。
 ぽたぽたと、髪から滴が落ちた。
 やがてバスが来ると、ぼくは降りるまでずっと通路に立っていた。席はずいぶん空いていたけど、こんな格好で座るわけにはいかない。
 近くに座っていた同じ学校の生徒らしい二人組が、時々ぼくのことをうかがいながらひそひそと話をしていた。
「何であの人、濡れてるのかな?」
「さあ、傘でも忘れたんじゃないの」
 バスを降りるとき、運転手さんが少しだけ嫌な顔をした。たぶん、床をかなり濡らしてしまったからだろう。
 そうして家に帰ろうとして、ぼくはふと思いついて別の道に向かった。本当はまっすぐ行くところを左に曲がって、坂道をのぼっていく。住宅地はすぐに途切れて、まわりには空き地や工場ばかりが目立った。
 丘の上までやって来ると、見捨てられたような公園がある。鉄棒もブランコも、どこにも行き場がないから、今日もやっぱりそこにいた。
 ぼくはすっかりずぶ濡れになったまま、ブランコに座った。ブランコは迷惑そうに軋んだ音を立てる。足元には、茶色く濁った水たまりがあった。
 顔を上げても、雨と灰色の雲以外には何も見えなかった。何もかもが、重く冷たい雨の下で小さく縮んでいる。

 ――そこに、魔法はなかった。

 学校の帰り、バスに乗って母の病院へ向かった。
 バスに乗っているのはぼくのほかに、親子連れが一組だけだった。若いお母さんと、三歳くらいの小さな女の子だった。女の子はしきりに窓の外を指さして、そのたびにお母さんが何か言って笑っている。二人とも、何だかとても幸せそうだった。
 ぼくはそんな光景から目をそらして、ぼんやりと窓の外を眺めた。初夏の陽ざしに包まれた町は輝いて見えて、新品同然という感じがした。
 ――いつだったか、ぼくはお父さんにこんなことを訊いてみたことがある。

「お父さんは、どうしてお母さんと結婚したの?」
 その頃はまだ、お母さんは入院していなくて、症状が悪くなるたびに外来で診察を受けている状態だった。
 たぶん、待合室かどこかだったと思う。しんとした廊下がどこまでも続いていて、死人みたいに行儀よくイスが並んでいた。お母さんは診察中だった。
「ずいぶん、やぶからぼうだな」
 と、お父さんは苦笑した。
「だって、気になったから」
「……そうだな」
 お父さんは少し考えてから言った。
「お母さんは昔から、何というか、ちょっと傷つきやすいところがあったよ。普通の人なら気にしないことでも、想像以上に応えるようなところが。たぶんそれは、お母さんが人より優しすぎたせいなんだろうな」
「ふうん」
 ぼくはよくわからないまま、うなずいた。
「ずっと、男の子を欲しがってたな。男の子さえ生まれれば、それで何もかもうまくいくと思ってたみたいだ。古い家で育って、そういう価値観を持ったんだろう。それはちょっとした思い込みのようなものだったのかもしれないが、本人も知らないうちに大きくなりすぎてたみたいだ」
「だから、こうなったの?」
 ぼくはちょっとうつむくようにして、そう言った。ぼくはそのことを、自分の責任みたいに感じていたから。
「……いや、違う。それは違うよ」
 お父さんは首を振って、それを否定する。でも、その表情は磨りガラスを通したみたいに曖昧なものだった。ぼくは同じようにうつむいたまま、訊いてみた。
「お父さんは、いつかこうなるだろうって思ってた?」
「……たぶん、な」
「じゃあ、どうして結婚したの?」
 その質問に、お父さんは特にためらいもなく答えていた。
「こうなるとわかっていたから、かな」

 ――ブザーが鳴って、次の停留所で親子連れがバスを降りていった。車内には、ぼく以外の乗客はいない。ドアが閉まって、バスは何事もなかったみたいに再び走りはじめた。
 病院前で降りるまで、バスに乗っているのはぼく一人だった。そうしているとバスを独り占めにして贅沢というよりは、何だか息苦しい感じがした。いろんなものを無駄にしてしまっているみたいで、申し訳なくなるからだろう。
 目的地に着いてぼくが降りると、バスはそのまま何事もなく、誰も乗せずに走っていった。
 並木道を歩いて、いつものように母のいる病棟へ向かう。受付に行くと、そこには見知らぬ看護婦さんがいた。まだ若くて、新しく替わった人なのかもしれない。
「――あの、母に面会したいんですが」
 と、ぼくはその看護婦さんに言ってみた。
「どちら様で?」
 看護婦さんは訊き返した。はじめてのせいか、少しだけ冷たい感じがした。いつもなら、挨拶するだけで通してくれるのだけど。
「ここに入院している、奥津城の家族の者です」
「何か身分証のようなものはありますか?」
 言われて、ぼくは学生証をカバンから取りだす。
「それでは、ここに名前と、来棟時間を記入してください」
 学生証を確認した看護婦さんは、記入用の小さな紙とボールペンを渡してきた。
 ぼくが戸惑うようにそれを書いて渡すと、看護婦さんは記入内容の確認をしながら言った。
「面会者の記録はきちんと残しておかなくちゃならないんです。一応、ここは閉鎖病棟ですから」
「…………」
 看護婦さんはそれからようやく鍵を開けて、ぼくを中に通してくれた。明るいラウンジには、ほかに見舞い客の姿はながった。遠くのほうを見ると、廊下の同じ場所を何度も行ったり来たりしている人がいた。
 しばらくすると、病室からお母さんがやって来た。閉鎖病棟では、面会者は病室まで行けないことになっているからだ。
「嬉しいわ、また会いに来てくれたのね」
 なかなか上機嫌らしく、お母さんはイスに座るとにこやかに言った。胸にはいつもの男の子の人形を抱えている。
「元気だった?」
 と、ぼくは訊いてみた。
「ええ、もちろんよ。あなたは?」
「まあまあだよ」
 雨の日のあと、危うく風邪をひくところだったけれど。
「でもあなた、学校はいいの? 制服を着てるけど」
「もう授業は全部終わってるから」
「なら、早く帰ったほうがいいんじゃないかしら。会いに来てくれるのは嬉しいけど、親御さんが心配するんじゃないの?」
「――大丈夫。ここに来ることは知ってるから」
「そう? だったら、まあいいんだけど……」
 お母さんは本気で心配するように表情を曇らせた。ぼくは何でもないように笑顔を浮かべておく。ほかにどうしようもなかったから。
「困ったことがあったら、おばさんに言ってね。こうしてお見舞いに来てくれるだけで、私にはずいぶんありがたいんだから」
「うん、ありがとう。ぼくは本当に大丈夫だから」
 そう言うと、記憶のスイッチを刺激されたみたいに、お母さんは急にしゃべりはじめた。
「――実はね、この子は魔法が使えるのよ」
 そう言って、お母さんは胸に抱えていた人形を示した。それは何度となく聞かされた話だった。でも話すたびに、お母さんはそのことを忘れてしまう。
「世界を、自分の好きなように変えてしまえる魔法。だから大抵のことは、大丈夫なの。困ったことがあっても、すぐにこの子が何とかしてくれる。――でもね、そのことには秘密があるの。それはね、もしもこの子が男の子じゃなかったら、魔法は使えないってこと。男の子じゃないとダメなのね。それじゃ、魔法は使えない」
「……そうなんだ」
 ぼくはできるだけ、平然とうなずいてみせる。
 お母さんはそれから、その人形のことについて滔々と語りはじめた。その人形は、月の裏側にいた一人ぼっちの女の子に作られた。ある日、女の子が不注意で崖から落ちて死んでしまうと、人形は女の子と同じように一人ぼっちになった。だから人形は新しい持ち主を探して、旅に出た。でも月には人間は誰もいなかったから、人形は地球にやって来た。砂漠に降りてきた人形は……
 話が一段落したところで、ぼくは立ちあがった。
「ぼく、そろそろ帰らないと」
「――あら、もうそんな時間?」
 お母さんは残念そうに言った。きっと、まだしゃべり足りないのだろう。
「またしばらくしたら、来るから」
 ぼくはなぐさめるように言う。
「そう、楽しみにしてるわ」
 お母さんは笑顔を浮かべて、人形の手を振ってみせた。ぼくはちょっとだけ苦笑した。
 それから、お母さんは最後に言った。
「でもあなた、女の子なのにぼく≠ネんて言っちゃダメでしょ」
 ――でもね、ぼくが子供の頃、お母さんはそれを喜んでくれたんだよ。
 そんな言葉を飲み込んで、ぼくは病棟をあとにした。

 帰るとき、並木道の向こうには夕陽が沈んでいた。何もかもが、魔法にかかったみたいに赤く染まる。魔法を使えば、世界はこんなにも簡単に変わってしまう。人も、車も、街も、時間も。

 ――わたしは魔法が使える。

 だから、大抵のことは大丈夫だ。世界がどれだけ酷くて、無関心で、自分勝手でも。魔法さえ使えれば、そんなことはたいした問題じゃないのだから。

――Thanks for your reading.

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