[ぼくが世界と一番仲がよかった頃]

 ――ぼくが世界と一番仲がよかったのは、いつのことだったろう?
 それは、両親に連れられて、初めて海を見にいったときだろうか。
 空も海も、同じくらいの青さで輝いて、それが世界の果てまで続いていた。波はこれ以上ないくらい無邪気にきらめいて、どこまでも自由な感じのする風が吹いていた。
 それともそれは、苦労してようやく自転車に乗れるようになったときだろうか。
 父親に後ろから支えてもらい、公園の広場で何度も何度も繰り返し練習した。不安にかられながらペダルをこいでいると、いつのまにか父親を置き去りにして一人で走っていた。太陽は傾きかけて、世界は静かに夕闇に沈んでいこうとしていた。
 あるいはそれは、クリスマスの朝に、ずっと欲しかったおもちゃが枕元に置いてあったときだろうか。
 新品の箱と、それと同じくらい真新しい一日。世界はいともたやすく祝福されて、床を踏む足音にさえ親切な響きがあった。奇跡はすぐそこにあって、手をのばせばいつだってつかむことができた。
 ぼくが世界と一番仲がよかった頃――
 世界がいつも優しく微笑んでいて、太陽の光を浴びるのと同じくらい簡単に幸福でいられたときのこと。
 それは一体、いつのことだったろう?
 ぼくはもう、その頃のことを覚えていない。世界がどれだけぼくを愛して、ぼくがどれだけ世界を愛していたかを。
 時間がたつごとに、ぼくが少しずつ成長するごとに、ぼくは世界と仲よくするのが難しくなっていった。
 できることが、増えれば増えるほど。
 わからなかったことを、知れば知るほど。
 ぼくは世界と仲よくするのが難しくなっていった。
 どうしてそんなふうになったのかは、わからない。ぼくが望んだわけでも、世界が望んだわけでもない。ただ気づいたら、そうなっていたのだ。
 ぼくは時々、その頃の記憶を手のひらに乗せて、眺めてみることがある。割れてひびの入った水晶玉みたいに、その中身ははっきりしなかったけれど。
 そうして、ぼくは思うのだ。
 もしかしたら――
 ぼくはもう二度と、世界とは仲よくなれないのかもしれない、と。

 教室の外では雪が降っていた。
 昨日からずっと降り続いている雪だった。窓ガラスの向こうでは、白く小さな塊が、大人しい行列みたいに静かに行進している。暖房の温もりの外側で、それはひどく現実味のない光景にも見えた。
 一時限目の授業中、世界はまだ半分眠っているようで、時間の流れはぎこちなかった。蛍光灯の光さえどこか弱々しくて、物陰には昨日の暗闇がそのままの形で残っている。
 先生が黒板にチョークで字を書く音が、妙に虚ろな感じで響いた。
 ぼくは教科書とノートを開いたまま、ほとんど窓の外を眺めていた。
 黒板を離れ、教壇の前に座ると、先生は教科書の何ページ目かを読むよう指示した。今日の日付と出席番号から指名された女子生徒が、立ちあがって、ゆっくりした声で朗読をはじめる。
「――それはこの島に来て、何日かした頃のことだった。抜けるような青空で、じっと見つめていると瞳が青く染まってしまいそうだった。
 その日、私は奇妙な光景を目にした。いつものように海辺へと出かけると(それは一日のはじまりに体を馴らす散歩であり、その日の漁の出来を占うための習慣でもあった)、沖あいで海豚(いるか)たちが盛んに跳びはねているのが見てとれた。
 彼らはただ遊んでいるだけのようにも見えたし、何か重要な言葉を伝えようとしているようにも見えた。私は波打ち際までそっと歩いていって――」
 朗読は淀みなく、淡々と進められた。その声は、窓の外で降る雪と同じくらいの重さと、静かさだった。
 やがて、先生は読了を指示した。彼女の声はかすかな気配だけを残して途切れ、着席するときの即物的な音が、それを完全に断ち切った。
 先生はその文章について、何かの説明をはじめた。作者の意図、文章の配置や語句の選びかた、全体としての印象――
 窓の外ではずっと同じ表情のまま、白い雪が降り続いていた。

 ランニングとストレッチが終わったあと、ボールを使ったシュート練習がはじまった。
 放課後、体育館でのことだ。
 中学校では、ぼくはバスケ部に所属していた。特に強豪でもやる気があるというわけでもなく、顧問の先生は三日に一度くらいしか顔を見せない。
 その日も、部員たちだけでの練習だった。体育館は冷蔵庫みたいに冷えきっていて、何とかして温まろうと、みんな無理をしてでも体を動かしていた。
 経験者はほとんどいなくて、そういう部活にありがちなように、練習メニューはいいかげんだった。本当はダッシュや基礎練習を増やすべきなのだけど、その辺はおざなりで、ボールを使った遊びみたいな練習ばかりを繰り返している。
 練習の一つはスリーメンといって、三人一組でパスを回しつつ、最後にゴールを決める、というものだった。笛が吹かれると、コートの端から走りだし、真ん中の人間から順にパスをつないでいって、最後のタイミングでレイアップシュートにかかる。
 ぼくはまず、その三人目の位置についた。
 空気を短く裂くような、笛の音が聞こえた。ぼくはエンドラインから走りだす。真ん中の一人がパスを出し、それを受けとった一人がパスを戻す。それから、最後にぼくのところにパスが来る。
 ぼくは両手でボールを受けて、きっちり二歩目のあとに地面を蹴った。
 ジャンプの勢いで手元から離れたボールは、ボードに軽くはねかえってからネットを揺らす。最後にパスを出した一人が、「ナイスシュート」と声をかけてきた。
 ぼくはそのまま走り抜けて、コートの反対側に移る。落ちてきたボールをとった真ん中の一人が、ぼくにパスを出してくる。ぼくはそれをリターンして、パスが回され、今度は反対側の一人がシュートを打った。
 手元から離れたボールは、聞きわけのいい子供みたいにゴールリングに向かって、そのままネットを揺らす。
 そうやって落ちてきたボールを、今度は別の組がキャッチした。あとは、同じことの繰り返しになる。
 ぼくは全力で走ったあとの呼吸を整えながら、列の後ろについて次の順番が来るのを待った。

 基本的な練習が終わると、やがて試合形式の練習がはじめられた。
 人数の関係で、ぼくはコートの外でそれを眺めていた。さすがに体は温まっているので、そうやって動かなくても凍死の心配をするほどじゃない。
 ボールが床をこする音や、お互いの掛け声、小さな雷みたいな足音が、館内に響いている。
「――まったく、何が面白いのかわからないわね」
 と、不意に声をかけられていた。
 ぼくはけれど、振り返らなかった。そこに誰が立っているのかは、わかっていたから。
「こんなことして、何になるっていうの? 短い人生なんだから、時間はもっと有効に、有意義に使うべきじゃないかしら」
 彼女は言葉とは裏腹に、かすかに笑っているようだった。とはいえ、本気で笑っているわけじゃなかった。そんなもののために、彼女は笑ったりなんてしない。
 ぼくが何の返事もしないのを気にしたふうもなく、彼女は少し前に出てきた。長い髪に、背中をまっすぐにした姿勢。制服と、その上にコートを着ている。でもその制服は、この中学のものじゃなくて、彼女が通っていた高校のものだった。
 彼女は何故だかいつも、その格好をしている。たぶんそれは、ぼくの中のイメージがそれを一番自然なことだと思っているからだろう。
「……あなたも、そうは思わないかしら?」
 やがて彼女はこちらを向いて、軽くからかうような表情を浮かべた。
 そこにあるのは昔からの、どことなく浮世離れした風貌だった。何を考えているのかわからないわりに、豊かな表情。澄んでいるのに、見とおしのきかない瞳。現実よりは、絵の中のほうがしっくりきそうな、そんな。
 彼女はぼくが生まれた頃から、ずっとそうだった。
 そして今や、その頃よりずっとそれにふさわしい存在になっている。
「こんなところにいるくらいなら、魔女に心臓を捧げたほうがましね。そのほうが悲劇としては気が利いているし、物語性にもあふれてる。少なくとも、わたしならそうするわ。はしなくもこんな冴えない中学校の、寒々した体育館でボール遊びに興じるくらいなら、ね」
 コート上で、一人がシュートを打った。ボールは外れ、リングが迷惑そうにそれを跳ね返す。リバウンドはディフェンスが確保した。
「それとも、あなたにとってはこのほうが都合がいいのかしら。余計なことを考えずにすむし、どうにもならないことで頭を悩まさずにもすむ――」
 不意に、ぼくは頭痛に襲われた。痛みが音になって出てきそうなくらいの、ひどい頭痛だった。
「姉さんは死んだんだ」
 ぼくは耐えきれなくなって、小声でそう言った。
「覚えてないなら教えてあげるけど、姉さんは死んだんだ」
「あら、そうかしら?」
 ぼくの告発なんて気にもしないみたいに、姉は小さく笑って見せた。
 頭痛はますますひどくなって、鋭い針が突然頭の中で実体化したみたいだった。吐き気もして、うまく抑えておかないと体がばらばらになってしまいそうな気がした。
「――姉さんは死んだんだ!」
 ぼくは可能なかぎりに抑えた声で、そう怒鳴った。それでも姉の幻影が消えることはなかったし、彼女はまるで当然の権利があるみたいな顔をして、そこにいつづけている。
 まわりにいる誰も、そんなぼくの様子にも、もちろん姉の幻にも気づくことはなかった。コート上では試合が続けられていて、ボールだけが我が物顔にあちこち行きかっている。
 ぼくは近くの友達に断わってから、体育館をあとにした。頭痛にも、吐き気にも、バカみたいな現実にも、耐えられなくなって。

 ――姉が死んだのは、一年近く前のことだった。
 ぼくが中学に入ったばかりで、姉も高校に進学したばかりの頃だった。
 どうして姉が死んだのかは、はっきりしない。
 いや、何があったのかならはっきりしている。姉は車に轢かれたのだ。ほとんど即死だった。救急車で病院に運ばれる頃には心臓が停まっていて、それは二度と動きだすことはなかった。
 でもそれがただの不注意による事故だったのか、それとも何らかの意図によってなされたことだったのかは、今でもはっきりしていない。
 学校帰りの遅く、もう暗くなった時間に姉は道路を渡ろうとした。あまり見通しのよくない道ではあったけど、交通量は少なかった。そこにたまたま車がやって来た。車のスピードは制限速度をいくらか超過していた。
 姉は走ってくる車の音を聞いただろうか。そのヘッドライトの明かりを見ただろうか。
 本当のところはわからない。それはもう、金輪際わかることはないだろう。
 少なくとも、姉の様子に目に見える危険はなかった。足音の響きに暗い陰が混じっているとか、笑顔の隅に不吉なしみがついているとか。
 けど、姉が自殺を企図する可能性は完全には否定できなかった。実の姉とはいえ、そもそも何を考えているのかぼくには見当のつかないところがあったし、どっちにしろ人の心の奥底なんて、簡単に測れるものじゃない。
 人の心どころか、それはぼく自身にだって言えることだった。掃除のされないタンスや机の裏側みたいに、感情や意識の見えない場所で何が起こっているかなんて、本人にだってわかったものじゃない。
 その姉の亡霊だか幻影が現れるようになったのは、つい最近のことだった。
 おそらく、ぼくは幻覚を見ているのだろうけど、幻覚だというはっきりした印象はない。姉の存在に違和感はなかったし、不自然な感じもなかった。おかしなことだとはちゃんと自覚していたけど、異常なことだという感覚はなかった。
 正常な幻覚、というのがぼくの実感だった。バカみたいだとは思うけれど、本当にそうなのだ。
 少なくとも、姉が勝手に現れたり、話しかけてくる以外に、ぼくの感覚におかしなところはない。奇妙な夢を見るとか、時間が飛びとびに進んでいくとかいったことは。
 姉はいつも自分の都合に従ってぼくの前に現れたけど(生きていたときと同じだ)、どうして死んだのかという質問にきちんと答えたことはなかった。
「あら、いいじゃない、そんなことは」
 と、姉ははぐらかす。それはそうだろう。何しろ彼女はぼくの幻覚なのだ。ぼくの知らないことに答えられるはずがない。
 姉(の幻覚)は自分が死んだことを知っているし、そのことを指摘されても気にした様子を見せることはなかった。
 そんなところは、生きていた頃の姉とまるで変わっていないのだけど。

 姉が自殺したかもしれないという推定には、それなりの根拠があった。
 ――それは、ぼくたち家族が問題を抱えていたから。
 ずっと昔、ぼくがまだ小学校低学年だった頃、母親が亡くなった。
 癌だった。胃癌で、気づいたときにはもう手遅れになっていた。精密検査が行われたときには、全身に転移していたのだ。症状が現れるより先に、母親の体は腐らされていた。
 闘病生活は長くはかからなかった。もうほとんど、できることはなかったから。ぼくたちにできるのは、砂時計がどんどん少なくなっていくのを、ただじっと見ていることだけだった。
 母親の死は、当初それほど影響があるようには思えなかった。
 ぼくと姉は学校に通い、父親は仕事に出かけた。いろんなことで大幅な変更や微調整が必要だったけど、それは何とかして解決していった。ある意味では、世界は何の支障もなく、つつがなく続いていた。
 でももちろん、物事はそう簡単にはいかなかった。
 時間がたつほど、母親の死はより現実らしく、より重みを増していった。世界がどれだけ傷つけられたのかを、ぼくたちはようやく理解しはじめていた。何光年も先の星が消えて、その光がようやく届かなくなったみたいに。
 世界はいたるところで軋みをあげて、ぎこちなく動いていた。まるで、噛みあわない歯車を無理に動かしているみたいで、いつばらばらになってもおかしくないような気がした。
 時々、ぼくは自分が今も生きていることを不思議に思った。
 母親が亡くなったとき父は、「これからは家族三人で助けあっていこう」と言った。
 その言葉は真剣だったし、少しも嘘は含まれていなかった。ぼくたちは母の欠如を、何とかして埋めあわせる必要があった。船底に空いた穴をふさいで、何とか浸水を防ぐ必要が。
 でも――
 それが無理なんだということを、ぼくはその時でさえどこかで感じていたような気がする。
 何年もたつうち、ぼくたちはますますダメになっていた。世界につけられた傷は修復されることもなく、暗い穴だけが不吉なほつれみたいに徐々に広がりつつあった。
 父はよく夜中の暗いリビングで、一人でじっとテレビ画面を見つめていることがあった。表情のない父の顔を、様々な色の光が次々に照らしていた。
 そんな時、ぼくには何となく父の気持ちがわかる気がした。そうやっていると、現実が体の外側にあって、中まで入ってこないからだ。
 ぼくたちは壊れる寸前だった。
 いや――
 本当はもう、すっかり壊れていたのかもしれない。

 ぼくは校舎を離れて、グラウンドのそばまでやって来た。
 雪はもうすっかりやんで、地面にはその痕跡だけが白く積もっていた。それらは重すぎて、空に戻ることができないのだ。地上に降りてきた雪は、天の場所へ帰るためには長い旅を経なくてはならなかった。
 放課後も遅い時間とはいえ、空はまだ明るかった。誰かが対価を払ってくれるわけでもないのに、太陽は律儀に世界を照らしている。
 雪のせいで、外には誰の姿もなかった。もちろん寒くて、吐く息は体から離れた途端に白くなった。ぼくは着替えをすませて、マフラーとコートも着用していたけど、空気はこの上ないほどはっきりとその冷たさを主張していた。
 グラウンドは一面が白く覆われていて、サッカーのゴールポストだけが、何かの骨の一部みたいに突きでている。
「…………」
 ぼくはまだ誰も踏んでいない雪の上に、一歩を踏みだした。
 何かを記念するみたいに、雪はぼくの足形を残す。次の一歩を踏むと、同じように足形を残す。ぼくの一部が置いてきぼりを食ったみたいに、足形はいつまでもそこに残っていた。
 やがてぼくは、グラウンドのちょうど中心近くまでやって来た。海の真ん中にでもいるみたいに、あたりにはまっすぐな白さだけが広がっている。
 そうしてぼくは、地面を覆っている白い雪の上に寝ころがった。背中から、倒れこむようにして。雪は迷惑そうに潰れた音を立てたけど、ぼくを邪険に扱ったりはしなかった。
 寝ころんだぼくの先には、冷たい空が広がっている。
 雪を全部降らせてしまった空に、雲はあまり残っていなかった。小さな無人島みたいな灰色の塊のほかには、ずっと青空が続いている。その青さは冷気で結晶化されたみたいに、変に密度が高くて、濃い色をしていた。
 ぼくの呼吸が、小さな雲みたいに白く残る。
 雪の冷たさが、徐々に体温を奪っていくのがわかった。でもそれにはすぐ慣れてしまって、何の変化も感じなくなる。
「寒くないの?」
 と、声がした。
 姉さんだった。姉の、幻影。彼女はぼくのすぐそばに立って、コートのポケットに手をつっこんでぼくを見下ろしていた。
「今はね」
 ぼくは空を見上げたまま、簡単に答える。
「そのうち風邪を引くわよ、今はよくてもね」
 姉はそう言って、肩をすくめた。ぼくはそんな姉のほうを見て、
「――姉さんは寒くないの?」
 と訊いてみた。
「当たり前でしょ、寒いなんてことあるわけないじゃない」
 姉はいかにもバカにしたように言った。
「何しろ、わたしはもう死んでるんだから」
「――うん」
 ぼくはうなずいて、そのままじっとしていた。姉の言ったとおり、ぼくは段々と体が冷たくなっていくのを感じた。死んでしまった人間と違って、まだ生きている人間には体温があるのだ。
 あたりはまだ明るかったけれど、すぐそこに日暮れの気配が感じられた。暗闇は確かな圧力を持って、空の向こうに控えている。それは布を水で濡らすみたいに、あっという間に世界を閉ざしてしまうだろう。
「――あなたに一つ、言っておかなくちゃならないことがあるわね」
 姉は日没の気配に促されたみたいにして、不意に言った。
「何?」
「わたしがどうして、死んだのか」
 ぼくは顔を上げて、姉のほうを見た。彼女は特に喜ばしそうでもなく、特に恨みがましそうでもなく、どこか遠くを眺めている。
「……姉さんは自殺したの?」
 と、ぼくは訊いてみた。
 ううん――と、姉は首を振った。
「わたしは間違っても、自殺なんてしないわよ」
 それから姉はぼくのほうに顔を向けて、にっこり笑ってみせた。
「あなたもそれは、知ってのとおりにね」
 そうだ――
 ずっと、それはわかっていたことだった。姉は自分から死を望んだりなんてしない。例え世界がどれだけ傷ついていても、どれだけ壊れかけていても。
 彼女はけっして、そんな人間じゃなかった。
 ぼくは黙ったまま、また雪の中に頭を埋めた。
 頭痛も、吐き気も、体がばらばらになりそうだった感覚も、すっかりどこかへ消えていた。あんなに苦しかったのに、今はそれを思い出すこともできない。それは冷たい空みたいな場所に、帰ってしまったんだろうか?
 ――気がつくと、姉の姿はもうどこにもなくなっていた。
 当然だけど、雪の上にはぼくのもの以外、誰の足跡も残ってなんかいない。そこにはただ、何もない白さだけが広がっていた。
 しばらくすると、ぼくはもう死んでしまった人間の忠告に従って、風邪を引かないうちにそこを立ち去ることにした。

 家に帰る頃には、あたりはすっかり暗くなっていた。
 住宅地の家々にはそれぞれ明かりが灯って、暗闇を追い払っている。その追い払われた暗闇の分だけ、夜はますます濃くなっている気がした。
 自宅に着いて、玄関のドアを開ける。父親が帰っているらしく、リビングのほうから光がもれていた。
 ぼくは靴を脱いで、玄関に上がる。
 思ったとおり、父親はリビングでテレビを見ていた。電気がついているので、顔がカラフルに彩色されていることはない。テレビは大人しく、画面の向こうにだけ存在していた。
「幸貴(ゆきたか)、帰ったのか」
 ぼくに気づいて、父が声をかけてきた。
「うん――」
 一度挨拶してから、ぼくは自分の部屋に行って着替えをすませてしまう。それからまた、一階のリビングに戻った。
 台所のテーブルにはすでに食器が用意されて、あとは料理を温めるだけになっていた。出来あいのものを買ってくることも多いけど、父はなるべく自分の手で料理を作るようにしている。
「腹、減っただろう。飯にするか」
 父はそう言って、テレビを消して台所のほうにやって来た。
 そこにあるのは、二人だけで囲むには少しだけ大きなテーブルだった。母が死に、姉もいなくなってから、ぼくと父はずっとそのテーブルで食事をしている。料理の内容がいくら変わっても、欠けた空白はそのままの形で残り続けていた。
 ごはんを茶碗についで、ぼくたちは席に着く。父の料理の腕は段々上達してきていて、それは母の作るものに似てきているようだった。
「幸貴、実は話があるんだ」
 食事がはじまってからしばらくして、父は言った。
「――何の話?」
 ぼくは何気なく訊き返す。
 けれど父は言いだしておきながら、その言葉をほんの一瞬、口の中でためらわせた。もう一度だけ、その形や質感を確かめるみたいに。そうして決心すると、思い切ってそれを口にした。
「父さんな、再婚しようかと思ってるんだ」
 ぼくは箸をとめ、手を動かすのもとめ、じっと父の顔を見つめた。
 父は――ぼくと同じように、いやきっとそれ以上に母と姉を失った父は――少し照れるような、困ったような、それでいてまっすぐで確かな目で、ぼくのことを見ていた。その目の中には、何故か母と姉の姿も見える。
「うん――」
 と、ぼくはやがて言った。
「うん?」
「いいと思う。お父さんが、そうしたいと思うんなら」
「反対しないのか?」
 ぼくは軽く首を振った。
「わからない。相手の人にもよると思う。でも基本的には、賛成していいような気がする」
「……そうか」
 父はほっとしたような、少し意外だったような、けれど本当は喜んでいるような、そんな表情を浮かべた。
「いや、実はまだ具体的にどうこうって話じゃないんだけどな」
「うん」
「職場に気になる人がいてな。何度か二人で会って、そういう話も悪くないんじゃないかってことなんだ」
「じゃあ、今後の進展しだいじゃ、お父さんが振られることもあるわけだ」
 と、ぼくはからかうように言ってみせた。
 父はちょっとびっくりするような、ためらうような顔をしたけれど、結局はおかしそうに笑った。
「……ああ、そうだな。そういうこともあるかもしれないな」
 それからぼくたちは、その予定再婚相手の人について、ひとしきり話しあった。
 台所の光はいつもより明るくて、夜の暗闇はずっと遠くのほうにあるような気がした。

 ぼくが世界と一番仲がよかったのは、いつのことだったろう?
 ――それがいつだったのかを、ぼくはよく覚えていない。世界は何度も傷ついたし、壊されもした。ぼくはもう、昔と同じではいられなかった。
 どうしてそんなふうになってしまったのかは、やっぱりわからない。そんなことが必要だとも、何か意味があるのだとも、ぼくには思えないから。
 けれど――
 ぼくはそれでも、ここに存在している。驚くほどの単純さで、驚くほどの複雑さで。
 そうして、思うのだ。
 もしかしたら、ぼくはもう一度世界と仲よくなることができるかもしれない、と。それが一番ではなかったとしても、もう一度。
 そしてそうなった時には――
 ぼくはもう少しだけ、生きることが簡単になっているのかもしれない。

――Thanks for your reading.

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